江戸の湯屋・ページ9

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戸棚風呂

■戸棚風呂

江戸の初期、一時的に流行したのが戸棚風呂です。 引戸を開いて中に入り、また引戸を閉めます。中の湯は一尺(30センチ)ほどしかなく腰から下だけしかつかることが出来ませんでした。中で温まって垢が浮いたところで洗い場へ出て体を洗いました。
『守貞謾稿』には 「戸棚風呂と云ふ物、三都には稀なれども、他国の銭湯には往々これあり。予、兵庫にて入りしことあり。また江戸にて薬湯にて往々これを見る。浴槽はなはだ浅く、湯やうやく尺ばかり。膝をひたすのみなれば、引き違ひ戸を用ひて湯気を洩らさざらしむ。」とあります。

左図、『泉湯新話』より

据え風呂

■据え風呂

居風呂、または水風呂とも書き、蒸風呂に対する名称です。 江戸では燃料の薪代が高く、それに加え、水を確保するための井戸を掘るのには一基二百両もの費用がかかりました。吉原の遊郭でさえ掘抜井戸が出来たのは享保11年(1726年)、一般の高級町家に掘抜井戸が出来はじめたのは文化年間(1810年頃)になってからだそうです。京坂の据風呂は五右衛門風呂と呼ばれる釜風呂でしたが、江戸では鉄砲風呂が一般的でした。左の図は歌麿の筆による据風呂の図です。図の右端にわずかに見えている黒い部分が「鉄砲」と呼ばれる部分です。鉄、銅製の筒を桶のなかに入れて火を焚くもので、うっかり鉄砲にさわって火傷することもありました。

左図、原画は喜多川歌麿の肉筆画(寛政頃 1790年代)

(川柳) 居風呂は娘が色気づいて出来
娘がすっかり女らしくなったので、悪い虫がついては困る、そこで自宅に風呂を作ったということ。

行水

■行水

夏は汗疹(あせも)を防ぐためと湯銭を節約する意味もあって、裏庭に盥(たらい)をおき朝から水を溜め陽気の熱で温まった夕方に湯浴みをしました。浮世絵にも行水をする女性の姿がよく描かれています。( 左の図は正確には行水ではなく、「襟洗い」です。適当な図を見つけしだい差し替えますので、ご勘弁を!)

左図、原画は渓斎英泉

(川柳) 行水をぽちゃりぽちゃりと嫁遣い
大きな湯音をたてては、人に気付かれて覗かれかねない。そこで、出来るだけ静かに湯浴みをする嫁。

五右衛門風呂

■五右衛門風呂

文禄四年(1595)、に捕らえられ、釜ゆでの刑に処された大盗石川五右衛門の説話にちなんで名付けられた据え風呂です。底に板を沈めその上に乗って入ります。入浴者のいない時は、その板が蓋の代用となって湯がさめるのを防ぎます。

左図、英泉画
★十返舎一九の東海道中膝栗毛には...。
小田原の宿で弥治朗が五右衛門風呂に入るが、板を釜の底に沈めて入るというのを知らず熱くてどうにもならない。そこで雪隠(せっちん、便所のこと)の下駄を履いて湯に入る。つづいて喜多八も同様に下駄を履き入り釜の底をぬいてしまい、弁償するはめにという場面がある。

辻風呂

■辻風呂

水上生活者などのために浴室を設けた舟が巡回して営業しました。これを「湯舟」と呼びました。人目を避けるため、男女の密会にも使われたようです。

左図、『和漢船用集』(明和三年 1766)より
湯舟

■湯舟

水上生活者などのために浴室を設けた舟が巡回して営業しました。これを「湯舟」と呼びました。人目を避けるため、男女の密会にも使われたようです。

左図、『和漢船用集』(明和三年 1766)より

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