江戸の湯屋・ページ1

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湯屋のはじまり

家康が江戸入りした翌年、天正十九年(1591)に 江戸の銭瓶橋(ぜにかめばし)に湯屋の第一号が開業しました。 しかし、この頃の湯屋は蒸し風呂でした。 その後、戸棚風呂(9ページ参照)というものが一時的に流行します。これは引き戸を開けて中に入り、また閉めるもので、湯の深さも一尺ほどしかなく 、腰から下だけつかるものでした。その後登場するのが石榴口(ざくろぐち)の風呂です。


■関西では風呂、江戸では湯屋

関西では銭湯を風呂といい、江戸では湯屋(ゆうや)といいました。 上方では「大和湯」、「扇湯」、「桜湯」などと店に名がつけられていましたが、江戸では「檜町の湯」、「堀江町の湯」などと町名をつけて呼んでいました。町人や商人の家に風呂はなく、みんな銭湯に行きました。江戸一番の呉服屋「越後屋」でさえ風呂はなかったそうです。

※左図は『江戸の賑わい/河出書房新社刊』を参考にしました。

■湯屋の看板

湯屋の看板
湯屋の外には「ゆ」とか「男女ゆ」と書いた布を竹の先に吊り下げたり、矢をつがえた弓を目印にしものがありました。 『守貞謾稿』には、 『ユイイル、ト云謎也。「射入ル」ト「湯ニ入ル」ト、言近キヲ以テ也。』とあります。「湯入る」と「弓射る」をかけた 江戸っ子の洒落なのです。

右図『守貞謾稿』より


(川柳) かはらずにどこも矢を出す湯屋の軒
式亭三馬の「浮世風呂」の時代(文化年間 1804~)には、この矢の目印は、すでに江戸ではあまり見られなくなっていたようで、「遠境には用る所あり」とあります。


■江戸に湯屋は何件くらいあったのか?

青木美智男著『深読み 浮世風呂』によると享和三年(1803)には江戸市中に499軒、文化五年(1808)には523軒、さらに文化十一年(1814)には600軒あったそうです。

■湯屋株について

湯屋を営業するには高額な「湯屋株」が必要でした。『守貞謾稿』にはこう書かれています。
今世、江戸の湯屋、おほむね一町一戸なるべし。天保府命前は定額あり。湯屋中間と云ひ戸数の定めありて、これを湯屋株と云ふ。この株の価ひ、金三、五百両より、貴きは千余金のものあり。株数、天保前五百七十戸。右の湯屋株、自株にて自ら業するあり、または株主と称して一、二株あるひは数株を買ひ得て、月収をもってこれを貸すあり。月収、俗に揚げ銭(あげせん)と云ふ。他の株を借り業とする者を仕手方(してかた)と云ふ。

■湯屋の営業時間は?

現代の銭湯は午後三時半頃に開業して、十二時頃に閉業するのが一般的ですが、 江戸時代の湯屋の営業時間についてははっきりと記されたものが少ないらしい。 花咲一男氏は『江戸入浴百姿』の中で銭湯の営業時間を示す資料として安永の小咄の中の「アイサ朝の五つから夜の五つまで(美しい女の裸を)飽きるほど拝みます」という湯汲みの言葉を取り上げています。 五つから五つ迄。つまり午前八時から午後八時迄が営業時間だったということになります。

■湯屋の休み

湯屋の看板
江戸の湯屋に定休日があったかどうかは定かではありません。しかし、臨時休業は多かったようです。 強風の火は火災になることを懸念して、将軍のお成りのときなども沿道の湯屋は休みでした。 休業の日の前日には「明日休」、当日は裏返して「今日休」の札を店頭に掲げました。

右図『守貞謾稿』より

★こんな休業もあった....。
老人などが湯屋の中で頓死したときは不浄を払う意味で、また故意か事故か湯舟の中で脱糞された場合は清掃のため翌日休みました。

(川柳) 今日休み小便をしてかえり
せっかく湯屋に来たというのに、あいにくの「休み」。がっかりしてか、しゃくにさわってか、湯屋の前で小便をして帰ったのだろう。

■湯銭


花咲一男著「江戸入浴百姿」より引用

『洗湯手引草』の「湯屋萬年暦」の中から入浴料金についての記事を記すと次のようになる。

一、寛永〜正保の頃は一人前十五、六文。
一、明和の末までは大人六文、子供四文。
一、安永、天明の頃、銭相場の高下に応じて八文、五文。又は六文四文となる。
一、寛政六年より大人十文、子供八文。
一、文政三年、諸国豊作のため大人九文とする。
一、天保十年、湯屋一方的に十文にするが、天保十二年に中止の命を受く。
一、天保十二年十二月、湯屋株解体の上、翌十三年五月、大人・子供共に六文と命を受く。
一、弘化二年より諸式高價となり、営業難渋の理由を以て、大人八文、子供四文を願って許可さる。
ちなみに文化文政期、そば一杯が12〜16文、髪結いが28文だったそうです。

(川柳)ま木高直(こうじき)につき三日よごれ
燃料の薪が値上がったので、入湯料も上がり、節約のため三日湯に行かないという意味。

湯屋の図面

■湯屋の見取り図

左の図は『守貞謾稿』中の江戸末期の湯屋の平面図です。この図では高座(当時は番台と言わなかった。)は女湯の板の間側にあります。 これでは男湯の方が見えません。そこで衣類の盗難防止のために、男湯側に見張りを置いていました。 同書には大阪の湯屋の平面図も載っていますが、寛政の改革後は男女別湯になったにもかかわらず、浴槽だけが男女別で、 脱衣所、洗い場は男女の境がなく、ほとんど混浴同然だったそうです。

★守貞謾稿について
『守貞謾稿』は喜多川守貞によって書かれた、いわば江戸風俗ヴィジュアル百科事典。 書き始めは天保八年(1837)。



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