江戸の湯屋・ページ2 |
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■湯屋の中 |
下の図は豊原国周作の『肌競花の勝婦湯』です。
番台には「おひねり」が盛られた三方が見えるので「紋日」の情景でしょう。
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(川柳)大声も無(ない)女湯のやかましさ
それぞれはとくに大声を出しているわけではないが、皆がよく喋るので女湯全体がなんとも騒がしいという意味。
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■紋日について |
「紋日」は元旦や五節句などの特別な日のことで、
「物日」とも書き「ものひ」、通人は「もんぴ」と言ったそうです。この日、湯屋は浴客に茶をふるまい、客はその返礼に十二文のおひねりを渡しました。
一月
元日、二日、三日、七日、十四日、十五日、二十日。 元日、二日の湯を初湯、または若湯と言った。松の内は七ッ(午後四時)で終業。 二月 初午(はつうま)の日、この日は稲荷の祭日。
三月 三日、上巳(じょうし)の節句。いわゆる桃の節句。 五月 五日、端午の節句。菖蒲湯を焚く。 六月 祭紀日。
土用の桃湯 暑気ばらいに桃の葉を入れる。 七月 七日、七夕の節句 十五日、中元 十六日、貰い湯 八月 十五日。 九月 九日、重陽の節句、別名菊の節句 十三日、後の月見 十月 二十日、恵比寿講。
十ニ月 十三日、三十日。
『守貞謾稿』には以下のように書かれています。
「また、正月十六日、七月十六日は、もらひ湯と称して、今日の湯銭は主人これを収めず、浴戸下男の有とす。故に男どももらひ湯と云ふの略なり。今日の湯銭を下男どもこれをもらひ、正月、七月とも、江戸中必ずかくのごとくなり。同十七日休日にて、右の銭をもって下男ども随意の方に遊ぶ。」 |
■初風呂 |
初風呂について『絵本風俗往来』にはこう書かれています。
「例年十二月大晦日は終夜風呂を焚き、浴客絶えず出入りす。ただ夜明け前に至り少し客の途絶えし頃、風呂の湯を落とし、水を汲み替えすぐに焚くより、元旦未朝鳥の鳴き渡る頃より客また来たる。」 |
■衣棚 |
衣棚は板の間の壁の方に作られていました。全体の幅は二間、
高さは六尺が一般的。京坂では図2のような鍵付きの片扉のタイプが多かったようです。一方、江戸は京坂と同じ片扉、それに引き違い戸付きのタイプ(図3)
扉なしのものもありました。 下図『守貞謾稿』より |
■小桶と留桶 |
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湯屋には備え付けの小桶がありました。大きさは高さ、直径とも六寸8(約18センチ)の丸形。これに対し自分専用の留桶というものもありました。
こちらは高さは同じく六寸ですが渡しは八寸(約24センチ)×一尺(約30センチ)の小判型でした。
年に一度(10月20日)に申し出て、新しい桶に交換してもらいました。新しい桶には家紋なら漆で書き、屋号なら焼き印が押されました。
留桶の料金は二百文以上とされていましたが一定ではなかったそうです。
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(川柳)留桶を遣い長屋で憎まれる
逼迫した暮らしの長屋の住人、そんな中、一人留桶なんか使おうものなら、みんなから妬まれる。
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■留湯というものもあった |
月決めで入湯料を払うのを「留湯」といいました。天保年代で一人一ヶ月百四十八文位。一軒ぐるみの場合は一人百文から四十八文位。留湯の客は番台の羽目板にかかった帳面に登録されていて、その客が来ると湯番が拍子木を鳴らして知らせました。
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(川柳)桶の出にちょんと知らせる湯の高場
留湯の客が来たことを、拍子木を打って知らせる様子を読んだものです。
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■湯屋の広告 |
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現代の銭湯でもカランや湯舟付近の壁などに広告が貼っていますが、江戸時代も同様でした。
もっとも当時の湯舟は石榴口の中で薄暗かったはずですから、もっぱら脱衣場や、洗い場の壁に貼っていたようです。(上図、『肌競花の勝婦湯』を参照)
左図は『賢愚湊銭湯新話』にあるものですが、これは当時の薬の広告のパロディです。
左図、『賢愚湊銭湯新話』より |
■定め書き |
定 一、 御公儀様御法度の趣は申すに及ばず、時々の趣堅く相守り申すべき事 一、 火の元要心大切に仕るべく候事 一、 男女入込御停止候事 一、 喧嘩口論堅く無用 一、 風烈の節は何時に限らず相仕舞申すべき事 一、 金銀そのほか大切の品持参の節、御入湯御無用事 一、 御老人御病後の御方様御一人にて入湯かたく御無用の事 一、 悪敷御病躰の御方様御入湯堅く御無用の事 一、 ほうかむり裸身にて衣るい御持出し堅く御無用の事 一、 失もの存ぜず 一、 預り物一切仕らず 右(上)の通御承知の上御入湯下さるべく候、以上 |
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