江戸の湯屋・ページ11 |
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湯女風呂 |
徳川家康が江戸入りし、開発の進む中、建設に従事する労働者にとって砂塵や汗を洗い流す大衆浴場は必要不可欠なものとなりました。
労働者の大半は男ですから、男が集まるところに「女」は付きもので、やがて銭湯にもあやしげな気配が漂ってきます。
それが「湯女風呂」です。
『慶長見聞集』には湯女風呂について次のような記載があります。
「今は町ごとに風呂あり。びた拾五文廿銭ずつにて入る也。湯女といいて、なまめける女ども、廿人、三十人と並びいて、垢をかき、髪をそそぐ。 さてまた、その他に容色よく類なく、心ざま優にやさしき女房ども、湯よ茶よと云いて持来りたわむれ、浮世がたりをなす。こうべをめぐらし一度笑めば、百のこびをなして男の心をまよわす。」 |
■丹前風呂 |
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江戸で有名な湯女風呂に『丹前風呂』というものがありました。
西神田雉子通り、堀丹後守(ほりたんごのかみ)の屋敷前にあったので丹前風呂と呼ばれたのです。
この丹前風呂紀伊国屋市兵衛方の抱え妓だったのが「勝山」です。(勝山ついては13ページにて説明)
下図、作者不明 |
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(川柳)一風呂召せと丹前の窓
丹前風呂の前を通る男たちに「ひと風呂浴びて、遊んでいきなさいよ」と、窓から湯女が声をかける、そんな情景です。
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■吉原も揺るがした湯女風呂 |
湯女をおく風呂屋は朝から始業して、夕は七ッ時(午後4時頃)に一旦仕舞いました。そのあと再び身支度をして、風呂場の洗い場の格子の間を座敷にこしらえ金屏風を立て、灯をともして衣服を着替えた湯女たちが三味線を弾き、小唄を歌って、客を集めました。 『洞房語園抄語』には
「寛永十三年(1636)のころより、町中に風呂屋というもの発興して遊女を抱えおき、昼夜の商売をしたり。これよりして吉原衰微しける也」とあります。
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