私は福島泰蔵大尉に学ぶ武人の心の本原稿を書くに当たって、武人福島大尉として八甲田山に向かった。何度も通った道であったが別の景色が見えた。田代台での露営、八甲田山越という極限の厳しさの中で武人福島大尉の心を思った時、これが顧みずの心(後述)だと閃いた。その心を掘り下げる内、その顧みずは大伴家持の「海行かば」の顧みずと同じ文言、と気づいた。自衛官の服務の宣誓にも「ことに臨んでは危険を顧みず責務を全うし」と顧みずの文言がある。また福島大尉は明治三二年の軍旗祭祭文(挿画、連隊長式辞であり、原稿を福島大尉が作成)では軍旗の起源を文武天皇の御代から説き起こしている。ここを掘り下げると、福島大尉は律令制の中央集権国家が誕生し、国家に武人が直接仕え始めた時代の武人や祭具を軍人・軍旗の起源と考えていた。しかし、大君は建国以来存しているので、武の心の源流を辿る必要が生じ、ここでも「海行かば」に行き着き、本気でその背景を含め掘り下げ、国史観や国史精神に浸り、「海行かば」の理解の急所(後述)を発見した。硫黄島の栗林中将の「日本精神錬成五誓」辞世の歌「国のため重き務めを果たしえで矢玉尽き果て散るぞ悲しき」に福島大尉・大伴家持に共鳴するものを感じた。
〇大伴家持との繫がりの気づき
〇大伴家持・栗林中将の下調べ
1-2 武人の心―連綿と続く顧みずの心
結論(エキス)
福島泰蔵大尉を起点として大伴家持・栗林忠道には連綿と続く武人特有の「顧みずの心」がある。「顧みずの心」は国を貴び国を護る精神と一つの皇統を保ち続けた国史精神を基盤として、役割・使命・任務・責務等を果たすことに、命を懸けて、専心(専ら心を砕く)する心である。さらに部下を死地に投じる指揮官として、その責めの重さを深く自覚し、兵の命を護るために最善を尽くす心も顕著である。以上を両立できる武人達を「伴緒由縁の武人」(の系譜)と呼びたい。そして今の自衛官もこの系譜に属する伴緒由縁の武人と呼ぶに相応しい。何故か、と問われたら、自衛官は実戦経験こそないが、厳しい災害派遣等の現場で、ことに臨んでは危険を顧みず、任官に当たり必ず行う服務の宣誓通りに上記責務に専心し国民の負託に応え続け、自分の命令で部下を死地に投じる責めの重さを深く自覚し、隊員を護るために最善を尽くしてきた実績があり、その姿と力を多くの国民が目の当たりにし、90%以上の国民が自衛官と自衛隊という組織並びにその組織風土に絶大な信頼を寄せているから、と答えたい。
ここで最善について敷衍したい。顧みずの心を自ら究め、兵たちにも求める統べる者には専心と最善の両立が求められる。最善を尽くすとは部下を死地に投じる責めの重さ、投じられる兵の命の重さを深く自覚し所命必成と兵の命を護ること(無駄に死なさないこと)に全力を尽くすことである。兵の命を護ることが最優先であるが、それが厳しい局面もある。寧ろそれが国民の負託に応えるみちというべきであろうか。そういう局面こそ、顧みずの心を持つつわもののの出番である。だから統べる者は人事を尽くして天命を待つ心境に到る迄最善を尽くさなければならない。その一環として危急に備えるための戦技の向上や身を護るための平素からの厳しい訓練が必至である。平素、兵の命を護ること(訓練の目的化)に最善を尽くすのは肝心かなめの役割を果たす。その場に立たせるためである。
〇何故福島大尉の武の心が起点か
〇大伴家持・栗林中将理解の最も重要な急所
□□ 今後のテーマ
□ 伴の緒由縁の武人のあり方を更に深く考えたい。(次期テーマ、掲載予定))としていたが新規掲載(R2.6.1、本コーナーの第2項参照)
□ 共動
八甲田山越や田代台露営において、誰か一人ぐらい斃れてもおかしくない状況に於いて落伍者を出さず無事任務を果たした。これは指揮官福島大尉の周到な準備と実行の指導に良く従っただけではなく、一人一人がやるべきこととやってはならないことを自ら深く考え実行したからである。要するにことを為す志と行動を共にする仲間として己の為すべきと為すべきでないを果たした。これを共動と称し、専心と最善の両立を期す統べる者(伴の緒由縁の武人)の統率の極地では無いかと思っている。ここを考えたい。(次々期テーマ)としていたが新規掲載(R3.1.1、本コーナーの第3項参照)
御代替わりに本稿を書き上げたという奇縁から、福島大尉・大伴家持・栗林中将が生きていたら、その純な心に今がどう映るかという視点で令和の今に思いを馳せて、①大伴の心に今こそ立ち返る。②福島大尉の心残り。③日本精神に立ち返るの3点を述べた。①では大伴の祖の役割を果たすことが尽くすことという基本の精神に立ち返れ、即ち今のたがが外れた、特に国に尽くす立場、例えば事務次官でありながら面従腹背を広言したりセクハラで職を辞める等見苦しい。声を大にしたいのは武人大伴の祖の言い伝えである水漬く屍・草生す屍を前にして、死地に投じられる兵の命の重さを深く自覚して、兵の無念に向き合い、(次戦は)最善を尽くすと誓った心に立ち返れ、である。先の大戦の後、兵の無念に向き合った、といえるであろうか、それをなさないままに今まで来た。専心と最善の両立を誓うことと憲法九条改正が兵の無念に向き合うことだ、と述べた。②では福島大尉が兵を護るのは上長の義務であると一貫して地に足のついた取り組みをしたことを踏まえ、それがなされず大東亜戦争まで突っ走りそれを止められなかったこと、途中での反省としての兵の無念に向き合うことを含めて、は心残りであるとした。③では栗林中将が愈々本土外郭要地防衛に臨み、孤立無援で本土の人々が一日でも長く今の生活を続けられるように、とその一点に使命感を燃やして、決勝訓練・築城の段階で、補充兵主体の軍を一つにするために「日本精神錬成五誓」を掲げたこと即ち日本精神に立ち返ったことを踏まえ、自衛隊が我が国防衛の核たる立場を確たるものにするには国家としての確たる国史観や国史の精神が絶体に必要、という切迫感を述べた。
私の心底にある問題意識を述べておきたい。①②は私が戦史研鑽を通じて抱いてきた指導・指揮する立場の者が兵の無念に向き合わなかったのではないかという疑念を抱く場面に何度も出くわした、からであり、③は中学・高校は国史を教えず、自衛隊勤務の間にも、国史(について考える)教育が、政治問題化を避けて、憚られる傾向をかっては感じた。根無し草という感じがしてこれで良いのか、という思いを引きづってきた、からである。またそれら繰り返さない、というか解決する方策として顧みずの心の専心と最善を両立させる幹部の養成が一番の近道でありその連綿性を考えることが国史精神を考えること、と認識している。最後に読み重ねるにつれ大伴家持に武の心、武人を感じた。私の受け止めは専門の先生の解釈には見受けられないもの、のように思えた。これは自衛官としての人生経験が齎した武を感じる感性によるのではないか、と思う。1-4 武人の奥深さ
武人の心の本質であり連綿性を形作るものとして①永遠性・②覚悟・③不条理に輝くの3点を挙げた。①は福島大尉は何故武人として生きようとしたか、の答えを求め続けて行き着いた。この考察を続けているうちに②・③への思いが拡がり、奥深さという括りにした。②は私が今まで頻繁に使用してきた専心・最善・危難挺進・使命・役割・志などの用語は心が強く定まっている意味で覚悟である。これらの心の定まり方が伴緒由縁の武人には顕著であるので再整理した。③は武は力を持ち、その怖さを良く知られているがゆえに武人は不条理に囲まれる。しかし、自衛官はちょっと意味合いが違う。嫌武・嫌戦争観やシャットアウトして知らないことから来る恐さへの無制限な恐れ等という観念的・非実際的不条理に囲まれている。この解消は国民意識の普通化がカギ、との思いを込めた。これに関し、心底の思いを述べたい。かって沖縄転入に際し、役所で受付拒否にあったり、先方の親戚の中に結婚するなら自衛隊を辞めて貰え、という暴論を受けたり、子息が学級で憲法違反と言われ、孤立無援で立ち向かった。そのような家族が見舞われる不条理を真近に見聞きした。これをただすのは年月をかけて普通の国にする、そのために真の武や武人を知らしめる、しかない、と固く思った。福島大尉と遺族も知らないことに起因する不条理に囲まれている、気がしてならない。
◎福島泰蔵大尉に学ぶ武人の心―連綿と続く顧みずの心(下書き原稿)
3-4 日新斎イズムの体現による人づくりの士風(補注:第2章第3段特筆事項3-2)
3-4-1 日新斎イズムの体現、(補注:第2章第2段特筆事項1日新斎の手紙、第2章第2段特筆事項3士風といろは歌、5士風の継承・発展者)《国作り・太守・家臣のあり様》永禄4年(1561)暮、日新斎は[義久は貴久を引き継いで、力任せではなく、仁と義を基本とする国作りに身をかえりみず邁進せよ。]という趣旨の書を作り、義久を教諭した。これは3州統一国家の基本理念を掲げ、太守は戦いの中にもあるべき国に向かって顧みず邁進し、家臣また太守・国に顧みず尽くせという日新斎イズムであった。あるべき国のために顧みず尽くす日新斎・貴久から薫陶を受けた者たちが長じて、顧みずの心といろは歌をわが心として活躍し、島津の士風を体現・継承する。顧みずの心といろは歌の主な体現継承者は日新斉が主動した戦いの時代では種を自ら蒔き、貴久が主導した戦い(第一段:大隅国錦江湾沿い(国分・加治木・帖佐・蒲生)の戦い)の時代では弟忠将・尚久、伊集院忠朗、樺山善久等であり、貴久が主動した戦い(第二段:薩摩・大隅北境(横川・真幸院・牛屎院・太良院)の戦い)では義久・義弘・歳久・家久の4兄弟、家臣新納忠元①・川上左近将監監久朗②・鎌田尾張守政年③・肝付弾正忠兼寛④・伊集院久治等であり、なかでも忠平(義弘)は同世代のトップランナーであった。義久が太守の戦い(第三段:)では戦いの主導者が忠平(義久)・家久・新納忠元等に移る。木崎原を戦った加久藤城主川上忠智、遠矢下総、新納忠元が加わる。
3-4-2 日新斎イズム体現による人作りの方策(補注:第2章第1段特筆事項5-1いろは歌と郷中教育)
前項で名前の挙がった忠平(義弘)は幼少時に他の兄弟と共に、新納忠元は一族の離散で日新斎を頼り、日新斎の薫陶・対面教育・訓練を受けた。これが元となって模索しながら?郷中教育を始めた。この郷中教育とは郷中(同一地域内)内の武家の若者が勇気と根性を養い、躾を身に着け、武芸の鍛錬をする、自立・自治・相互啓発の教育システムで、小稚児・長稚児・二才(にせ)・長老などに区分した。稚児は二才の講義を受け、二才は講義のほか、役あるものは仕事、ないものは藩の学校等に通った。教育の根幹はいろは歌であった。木崎原の戦いでの新納忠元始め地頭が指揮する援隊は進んで戦ったがこれは外城・地頭制の教育・訓練が機能している表れと考えられる(補注:第二章第三段本段の特筆事項4近郷軍(援隊)の意味するもの)。その教育訓練も麓郷毎に、島津藩の軍制の最小単位である五人組・十人組を編成し、使命感や規律心、連帯・自立心を養い、特に二才や長老の役つきの者について郷中教育と連接・整合を図ったであろう。矢張り根幹はいろは歌であったろう。
◎次々期テーマ稿 智勇情兼備の武将島津義弘(その1)
内容:第一章:島津忠良が生れてから伊作・相州家を継ぎ、薩摩半島をほぼ領有し、長子貴久を太守にたてるまでの戦いを述べ、じごの薩摩士風の展開及び忠平(義弘)が生れ、育った背景を明らかにする。
◎次々期テー
内容:第2章:貴久が太守として実質的に活動を始め、薩摩・大隅北境の領有の完成を見ずに、没して義久が3州統一を引き継いで、薩摩・大隅をほぼ領有するまでの戦いを述べる。薩摩士風の確立・継承・発展の見地から貴久と忠平(義弘)を中心に据える。
◎次々期テーマ稿 智勇情兼備の武将島津義弘(その3)
内容:第3章:島津藩の九州統一目前で秀吉の西征始まる。島津は降り、秀吉政権下の大名として出発する。それに伴い忠平(義弘)の地位・役割も変化してゆく。従ってそこに至る戦いとその流れに焦点を当て、忠平(義弘)の活躍の広がりや島津の士風の継承・発展の特長的なものを見て行く。
3-5 (木崎原や堂崎の戦いで)先鞭をつけ、(泗川の戦いや関ケ原の退き口で)戦いを究め、士風を結実させ、指揮・統率を究めた義弘には武徳が備わっていた。その武徳が家康の破格の好意を引き出し、祖父日新斎以来の大業を成す大元となった。
義弘の大業は家康の破格の好意の賜物である。家康の破格の好意は一貫している。何故か?慶長の役凱旋後の大業①(後述)では泗川の戦いや露梁津の戦いにおける、義弘の20万を泗川新城に詰めかけさせ、これを一挙にせん滅した義弘の武略、自立した家臣の活躍、士風「主従一心」の結実及び関ケ原役後の大業②(後述)における、義弘の指揮統率、わが身を犠牲にすることをいとわず義弘を援けた家臣たち、士風「主従一心」結実に優れた武将家康(関係家臣たち含む)は畏敬と共感を抱き、敵にすれば手ごわすぎ、頼りになる味方に迎えたいという強い思いを抱いた、からという答えに至った。この家康が感作を受けたものこそ、義弘の武徳である。武徳とは武将としての部下に対する優れた感化力や影響力(優れた統率力)が、敵を含む周りの関係者並びに世人に及ぼす好作用のこと、と定義しています。
◎次次々期テーマ稿 智勇情兼備の武将島津義弘(その4)
文禄の役で義弘が日本一の遅陣をして、改易の恐怖を味わい、このまままでは御家滅亡、という危機感を抱き、この恥辱を晴らすのは戦いしかないと必死で貢献する途を模索し、同時に体制改革のため太閤検地を働きかけ、実現させた。検地による改正の朱印で、義久・義弘の蔵入地は格段に増えたが、家臣の知行は半減し、総所替えとなった。そしてこれは島津に打ち込まれた豊臣の楔の意味もあった。
◎次次々期テーマ稿 智勇情兼備の武将島津義弘(その5完)
和議が壊れ、慶長の役に従軍した義弘は泗川城に明軍20万を引き付け、大勝した。これを機に明軍は戦意を喪失し、和議へ動き始める。猶も明鮮軍は小西ら5家軍を順天港に足止めした。これを救わんと義弘は自発的に寺澤・立花らに図り救援に赴き、露梁津で敵と戦い、これを破り、小西らを逃がした。この戦いで釜山から日本への制海権を確保し、無事日本軍の撤退に貢献した。大老家康はこれを大功として破格の好意を示し、秀吉直轄領その他5万石を加増した。これは祖父日新斎以来の建国の悲願である薩・隅・日3州統一の回復という大業であった(慶長役凱旋後の大業①)。家康が権力を掌握し、これに対抗する石田三成等と関ケ原の役となった。敵対した義弘は破れ、敵に向かって生路を開く「退き口」で生還した。謝罪交渉により、家康(関係家臣たち含む)はすべてお構いなしとした。破格の好意を示した。これも薩隅日3州統一の維持という大業であった(関ケ原役後の大業②)。家康の好意はその後も続き、島津の琉球国制圧を許し、薩隅日3州を基盤として島津の領国と日本を広げた(琉球国制圧大業)。
4 総まとめ
義弘の武徳は部下に対する統率を究めて後、内から外へ及んだこと、家康の破格の好意による信及び他力を得て戦いに勝つだけでは届かない大業を成したこと等武人の修養上極めて示唆に富む。義弘旅の最後そして武人旅の最後を飾るに相応しい幕引きである。
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大伴家持・栗林中将の下調べnewpage12.htmlへのリンク
何故福島大尉の武の心が起点かnewpage14.htmlへのリンク
大伴家持・栗林中将理解の最も重要な急所newpage11.htmlへのリンク