福島大尉から武人の心探求記念館

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18年余の探求の区切りである二つの作品から気づいた三つの代表的心を発信します。

資料・施設紹介

1 福島泰蔵碑

福島泰蔵碑は群馬県伊勢崎市境(生まれ故郷)の天人寺境内にあります。福島大尉が陣中から建碑の思いを友人に伝えたことから、その意思を受け、昭和7年4月に建立されました。撰文は福島大尉が八甲田山雪中行軍を行った31連隊中隊長時の師団長であった立見師団長です。立見師団長は福島大尉がその後第4旅団副官・第32連隊中隊長となり日露戦争黒溝台会戦で戦死するまで、人生で成す4つのすべてに関わり、手元に置き続けました。この両者の関係は特別なものでした。立見師団長は国難日露戦争必至の状況下、絶対勝つため若くて行動力のある若手将校に思いきり活躍させ、それを全軍に波及させようとしました。福島大尉はその魁、立見師団長は後ろ盾でした。立見師団長は福島大尉の31連隊の八甲田山雪中行軍の成功と一方で第5連隊、210名全員遭難という対照的な両部隊を隷下とする複雑な立場にありました。立見師団長は日露戦争凱旋後に亡くなりますが、撰文は生前、多分日露戦争終了後戦場にあって書き上げたものと思います。撰文には最も福島大尉とその心を知る者の思いが籠っています。拓くの下敷きはこの撰文にあると言っても過言ではありません。ブログ福島泰蔵大尉の実行力を訪ねて福島泰蔵碑を思うその二ここをクリック。また齋藤進一氏の拓本をベースに作業を進めましたが、私の解釈にあやふやな点がありました。漢文の読解の自己研鑽を積まれてきたKS氏はそれを見逃さず指摘され、私のたっての希望により、「訓読文」を送付して頂きました。来館者に正しい情報を提供するものと確信します。KS氏のご厚意に心からの謝意を表し、この場を借りて紹介します。以下はKS氏が送付された全文です。

《碑拓本原文》

 歩兵第卅二聯隊第一中隊長 福島泰蔵君碑

軍事参議官陸軍大將正三位勲一等功三級鈴木孝雄閣下題額

 破堅陣挫勁敵、爲國家棄命、非忠勇義烈不能也。察天時、辨地理、寒暑克防、険阻克渉、非將才不能也。如我福島君、其兼之者乎。君、諱泰蔵、上野新田郡世良田人、父泰七、君其長子也。以慶應二年五月廿三日生、自幼頴悟有雄志、壯歳入陸軍教導團、學工兵科。尋修士官學校歩兵科。明治廿五年、初仕〔*おそらく任〕陸軍歩兵少尉、敍正八位。廿七八年役入清国盛京省、大小十餘戰、進中尉從七位、敍勲六等、賜單光旭日章。廿九年、討臺灣蕃匪、守備半歳而還。三十一年、進大尉正七位、自陸地測量部班員轉属第八師團、爲中隊長、爲旅團副官。三十五年、叙勲五等、賜端〔おそらく瑞〕寳章、越二年進從六位。三十七八年役属我麾下、戰于満州黒溝臺。其將闘也、論〔*おそらく諭〕部下曰、進榮退辱、公等不可期生還、辭氣壯烈士氣大振、乃乘勢突敵々色亂。君益進、曾〔*おそらく會=会〕砲丸中其面而死。實三十八年一月二十八日也。年四十、是日任少佐、敍正六位功五級勲四等、賜金鵄勲章旭日小授章。先是君案一策、題日〔*おそらく曰〕、對露国冬季作戰上一慮、其言頗可用矣、乃領之諸軍。盖君在弘前雪中行軍者、兩次冒風雪隃山谷、未曾傷一人。又嘗拠偕行社課題、論戰術亦與雪相關。總裁閑院宮賞之、賜軍刀一口。君究之於平生者熟矣。故臨時能榮功也。惜哉、未見其全功而死。雖然、馬革裏屍、固將士之所期、爲君者可無憾矣。君、初從鷗舟渡邉真楫翁受和漢學、善詩文號義山、陣中豫暇諷詠自娯。其襟度可想也。配成田氏擧一女。云銘曰、

新田之郷  古出忠臣  流風尚在  又見斯人  韜略驚鬼
叱咤捲雲  義比山岳  命付風塵  遺芳千歳  名勒貞泯〔*おそらく

 昭和七年四月 故第八師團〔*おそらく「長」が欠落〕陸軍大將正三位勲一等功二級 
       男爵 立見尚文閣下 撰文

       從六位勲五等 渡邉克太郎 書

 *「」を「」に改めた。「貞珉」は固い玉類の意。

 《訓読分

歩兵第三十二連隊第一中隊長 福島泰蔵君碑
軍事参議官・陸軍大将・正三位・勲一等・功三級 鈴木孝雄閣下題額

 堅陣を破り勁敵(けいてき)を挫(くじ)き、国家の為に命を棄つ、忠勇・義烈に非(あら)ざれば能(あた)わざるなり。天の時を察し、地の理を弁じ、寒暑を克(よ)く防ぎ、険阻をる、将才に非ざれば能わざるなり。我が福島君の如きは、それ、これを兼ぬる者か。君、(いみな)は泰蔵、上野(こうづけ)の新田郡世良田の人、父は泰七、君は其の長子なり。慶応二年五月二十三日を以て生る。幼きより頴悟(えいご)にして雄志有り。壮歳にして陸軍教導団に入り、工兵科を学ぶ。士官学校歩兵科を尋修し、明治二十五年、初めて陸軍歩兵少尉に任じ、正八位に敍せらる。二十七八年の役には清国盛京省に入り大小十余戦、中尉・従七位に進み、勲六等に敍せられ、単光旭日章を賜わる。二十九年、臺灣の蕃匪(ばんぴ)ち、守備すること半歳にしてる。三十一年、大尉・正七位に進み、陸地測量部班員より第八師団に転属し、中隊長とり、旅団副官と爲る。三十五年、勲五等に敍せられ、瑞宝章を賜わる。二年を越(へ)従六位に進む。三十七八年の役には我が麾下に属し、満州の黒溝臺に戦う。其の將(まさ)に闘わんとするや、部下をして曰く「進むは榮、退くは辱なり、公等、生還を期すべからず」と。壯烈、士氣は大いに振い、すなわち勢に乘じて敵を突き、色は乱る。君は益々進むも会(たまたま)砲丸其面(おもて)に中(あた)り、而(すなわち)死せり。実に三十八年一月二十八日なり。年は四十、是(こ)の日、少佐に任じ、正六位・功五級・勲四等に敍せられ、勲章・旭日小授章を賜る。是に先んじて君は一策を案じ、題して曰(いわ)く「對露国冬季作戦上の一慮」と。其の言うところ頗(すこ)ぶる用うべければ、乃(すなわ)ち之を諸軍に領せり。盖し君、弘前に在りての雪中行軍は、両次とも風雪を冒し山谷をえ、て一人をも傷わず。又、嘗て偕行社の課題にり、戦術も亦雪と相い関わるを論ず。總裁閑院宮は之を賞し、軍刀一口を賜る。君は之を平生に於て究め、熟せり。故に時に臨んで栄功を能くしたるなり。惜しい哉、未だ其の全(まったき)功(いさお)を見(あらわさ)ずして死す。然り雖とも、馬革の裏に屍たるは、固(もと)より将士の期する所、君為れば憾(うら)み無かるべし。君は初め鷗舟渡邉真楫翁に従い和漢の学を受け、詩文をくし義山と号す、陣中の予暇に諷詠し自からしむ。其の襟度、想うべきなり。成田氏を配し一女をぐ。銘にいて

新田の郷は      古く忠臣を出す

流風、尚在り   又この人を見る(*)

略は鬼を驚ろかし 叱咤は雲を捲く

義を山岳にくらべ   命を風塵に付す

遺芳は千歳     名を貞珉に(きざ)

 

昭和七年四月

(もと)の第八師団長・陸軍大将・正三位・勲一等・功二級

       男爵立見尚文閣下撰文

       従六位・勲五等 渡邉克太郎書

註:  *はKS氏の修正意見箇所、《‥》は筆者書き込み、KS氏の訓読文には読み仮名が振ってあったがデータ変換の際、消滅したので(・・)内に読み仮名を筆者が振った。  
  
2   陸上自衛隊幹部候補生学校資料館福島大尉コーナー                              

福島大尉の遺族が寄贈した同大尉の遺品が展示されています。候補生・職員用ですが、一般の方も申し込めば閲覧可能だそうです(広報班長窓口)。その生資料は鍵がかかった展示棚中に保管され、手を触れることは、文化財保護の観点から、出来ません。また同校は【福島大尉遺品寄贈品便覧①‣②】を作成し、関係機関・部隊等に配布しています。また同校は生資料一枚一枚を丁寧にスキャナーした全4000ページにも上る膨大なものです。私の18年余の歩みの熱源はこの福島大尉資料に出会ったことにあります。一度訪ねられて、息遣い溢れる資料を目の当りにされては如何でしょうか。同資料館には福島大尉の外にも尚武の地、軍都久留米ならではの先人にまつわる生資料が沢山展示してあります。写真掲示予定


『陸奥の国に出金を賀す詔』と『左記詔に応えるための歌』(応詔歌)

福島大尉の心を起点とする旅が更なる高見に到ったのは、大伴家持に武の心を感じた、特に『海行かば』を何十回と読むうちに、統べる者としての(大伴の祖の)志や深い心、を感じたからです。その背景を含め、味わって頂きたいと思います。

3-1 『陸奥の国に出金を賀す詔』

天平21年(749年)41日聖武天皇は群臣を従え、皇后・皇太后はこれに侍し、造営中の東大寺盧舎那仏に北面し2つの詔を賜った。始めに橘諸兄をして仏に対し、次に石上乙麻呂をして諸王・諸臣に対し賜った。(大伴氏関係分のみ)

「大伴佐伯の宿祢は 常も云ふ如く 天皇朝守仕奉事(天皇が治める世を守るつかさを奉ること) 顧なき人等にあれば 汝たちの祖どもの云ふ来らく 海行かば水漬く屍 山行かば草生す屍 王(おおきみ)の邊にこそ 死なめ 和(のど)には死なじと云ひくる人どもとなも聞し召す 是を以て 遠天皇(とおすめろぎ)の御世を始めて今朕(いまわが)御代に當りても 内兵(うちのいくさ)とおもほしめしてことはなも遣(つかは)す かれこヽを以て 子は祖の心なすいし子にはあるべし 此の心失はずして 明き浄き心を持ちて仕え奉れとしてなも 男女合わせて一二治賜(ひとりふたりおさめたま)ふ」

 註:21年(749年)2月 陸奥の国から黄金を献上

2-2『左記詔に応えるための歌』(応詔歌)

「陸奥の国に金(くがね)を出す詔書を賀(ほ)く 歌一首幷びに短歌」(512日)

18-4094「葦原の 瑞穂の国を 天下り 知らしめしける 天皇(すめらぎ)の 神の命の 御代重ね 天の日嗣(ひつぎ)と 知らし来る 君の御代御代 敷きませる 四方の国には 山川を 広み厚みと 奉る 御調(みつぎ)宝は 数へ得ず 尽くしもかねつ 然れども わご大君の 諸人を 誘ひたまひ 良き事を 始めたまひて 金(くがね)かも たしけくあらむと 思ほして 下悩ますに とりがなく 東の国の 陸奥の 小田なる山に 金ありと 申したまへれ み心を 明らめたまひ 天地の 神相珍(あいうづな)ひ 皇祖(すめらぎ)の 御霊助けて 遠き世に かかりしことを 朕(わ)が御代に 顕はしてあれば 食(は)す国は栄えむものと 神ながら 思ほしめして もののふの 八十伴の緒を まつろへの 向けのまにまに 老人も 女童(おみなわらは)も 其(し)が願ふ 心足らひに 撫でたまひ 治めたまへば ここをしも あやに貴(たふと)み 嬉しけく いよよ思ひて 大伴の 遠つ神祖(かむおや)の その名をば 大来目主と負ひ持ちて 仕へし官(つかさ) 海行かば 水漬(みず)く屍 山行かば 草生(む)す屍 大君の 辺にこそ死なめ かヘリ見は せじと言立て ますらおの 清きその名を 古よ 今の現(をつつ)に 流さへる 親の子どもをそ 大伴と佐伯の氏は 人の祖の 立つる言立て 人の子は 親の名絶たず 大君に まつろうふものと 言ひ継げる 言の官(つかさ)そ 梓弓 手に取り持ちて 剣太刀 腰に取り佩(は)き 朝守り 夕の守りに 大君の 御門の守り 我をおきて 人はあらじと いや立て 思ひし増さる 大君の 命(みこと)の幸(さち)の聞けば貴み 」 反歌三首40954097「略」 天平感宝元年(749年)五月一二日に越中国守の館にして 大伴宿祢家持作る

4 参考歌集(万葉集)
 大伴家持の国意識形成稿考察に使用した万葉歌集を読者の参考に資するため集録した。ここをクリック

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福島大尉から武人の心探求記念館

18年余の探求の区切りである二つの作品から気づいた三つの代表的心を発信します。

展示内容:福島大尉の心・武人の心・日本人の武の心/区切りの二つの作品
収蔵作品(上記二つの作品を除く、非公開):18年余の歩み
資料‣施設紹介:福島泰蔵碑(挿画)他

尚武は菖蒲
来館者数:

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