智勇情兼備の武将島津義弘(その3)
~島津忠良・貴久・義弘、中興三代の大業と士風
その2迄では、個々の戦いを考察し、忠平(義弘)の本領発揮や島津士風の確立とそこにいたる過程を見た。これからは島津藩の勢力の拡大や取り巻く環境も変化し、それに伴い忠平(義弘)の地位・役割も変化してゆく。従って副題の節目となる戦いに焦点を当て、そこにいたる戦いの流れを追いながら、忠平(義弘)の活躍の広がりや島津の士風の継承・発展の特長的なものを見て行くこととしたい。
本篇の構成
第3章 日向領有の戦い&九州統一の戦い
第1節 高城の戦い
第2節 沖田畷の戦い
第3節 岩屋城の戦い
第4節 戸次川の戦い
第5節 島津の降伏
以上
第3章 日向領有の戦い&九州統一の戦い
第1節 高城の戦い
高城の戦いは日向領有、3州制覇を決定づけた戦いであり、九州統一の始まりである。ここに至る流れは木崎原の戦いに始まるが、ここではそれを受け、高城に続く戦いの流れを述べる。
高原城攻め
高原城は三山(小林)~都城へ通じる路上で、三山から10km東南にあり、城将は伊東勘解由である。天正4年(1578)8月、忠平(義弘)は高原城攻めを進言し、これを受け、義久は忠平(義弘)を先峰とし、歳久・家久・征久・忠長を左右後陣とし、水路を絶って19日攻撃開始、23日勘解由降り城を去る。上原尚近に守らせ、地頭を兼務させた。これを機に伊東軍は八城(高原・高崎・三山(小林)・内木場・岩牟礼・須木・須師原・奈崎)を棄て、遁れ去り、島津の手中に入る。義久は三山に入り戦勝祝賀を行って、川上忠兄(16才、川上忠智の次男、吉松の天台宗内小野寺住持である愛甲相模坊光久の養子となっていたが、忠平(義弘)の命により還俗)を地頭に任じた。
野尻城攻め
島津との境界にある野尻城は三山~宮崎へ通じる路上で、三山から9km東にあり、城将は福永丹波守、監将は伊東大炊介。尚近は福永が義祐に不平と恨みを持つことを知り、内応させ、忠平は天正5年(1579)12月7日、尚近を先鋒として、攻め、その手引きで城を落とした。内山城主の野村刑部少輔文綱(野村松綱の子)、紙屋城主・米良主税助も島津方に寝返った。義久は後陣6000人を率い、8日、紙屋に進出、義祐が紙屋奪還のため動員した兵も背後の謀反のため引き返し、佐土原西方は完全に島津方に属することとなった。義久は細作(工作員)も入れて、佐土原を偵察。これを妨害しつつさがる伊東軍に追尾して、佐土原を放火、翌日富田城(城主湯地出雲守)を落とす。この頃、南では島津忠長が櫛間を落とし、飫肥を攻め佐土原へ向かい北上せんとし、北部では土持氏が門川領の攻撃を始めた。12月9日、佐土原城で事態打開の評定を行うが島津軍を迎撃する声はなく、進退窮まった伊東義祐は同日日向を棄て、次男・義益正室の阿喜多の叔父・豊後の大友義鎮宗麟を頼り身を寄せる決断をする。遁れて来た飫肥城主祐兵も含む僅かの供を連れ、豊後を目指したが、義祐に恨みを持つ新納院財部城主・落合兼朝裏切りの報が入り、西に迂回し米良山中を経て、高千穂を通り豊後に抜けて、12月21日宗麟のもとへ到着し、寓客(衣食住のお世話を受ける客)となった。「人のいふことを聞かさる入道かなれる果ては三位(さみ)(註)つくるかな」という標札が城門前に立ったという。義祐は大友宗麟と会見し、日向攻めの助力を請うた。宗麟はその願いを受け、また自身も日向をキリスト教国にする野望を抱いていた。
註:三位とは朝廷から従三位を授与され、従三位入道と称したことによる。
石城攻め
高原城を遁れた長倉勘解由は残兵数百を集め、石城(高城川の源の石の村,現石河内町小丸川の川原ダム西岸台上新しき村内)により、主君義祐一行の豊後入りを援け、将来の復兵・反攻の足掛かりとならんことを企図した。天正6年(1578)7月6日、忠長・忠棟攻めるも大河で水勢急で渡るに困難、かつ高山で高台からの矢石で難航、忠長負傷し、失敗。9月征久を将とし、再攻。水流増え困難いや増す。忠棟は大木を切り川底に沈め、大竹で浮橋を作り、堡塁3ケ所設け、昼夜を問わず矢砲を発し、圧迫し続け、糧水を絶って、援軍の無い孤軍を損害すくなく、落城させた。薩・隅・日3州が完全に太守麾下に入った。佐土原を家久、新納院高城を山田有信、財部(現高鍋)を川上忠智、福島を伊集院久治、曾井を比志島義基に給うた。
大友氏、日向に攻め入る
同年10月、大友義鎮入道宗麟とその子義續は伊東義祐の日向復帰のため、豊前・豊後、肥前・肥後、筑前・筑後の麾下の諸侯8万(或いは6万)を動員し、土持氏を攻め門川城を復し、日州縣(延岡)に屯した。宗麟は縣に止まりキリスト教の布教、王土の建設にいそしんだ。田原紹忍を総大将として高城に進出させた。
島津は高城城(註、城主山田有信)・財部(現高鍋、城主川上忠智)城を拠点として、高城周辺で大友を迎え撃つ、ことに決め、日向在の城将、佐土原城主島津家久を筆頭に塩見城主吉利忠澄・都於郡城主鎌田政近等総数3000名を、高城城に入れ、山田有信と心を合わせ侵攻に備えた。川上忠智は財部より佐土原の間に蜂起した大友残党ら(後述)に対し財部(現高鍋)城を固く守り、忠平(義弘)進出の拠点とした。
註:日向平野中央部の要衝、小丸川(南)と切原川(北)にはさまれた標高60mの東西に細長く延びた舌状の台地上にあり、北・西・南は崖で攻めるに難しく、台上から薩摩往還・両河川・平野などが一望出来る。
高城城から高城川(小丸川)方面
大友の侵攻と時を同じくして、残党が三納村民1000余を率い諸処に放火する等の乱を起こしたが高城城から出動して鎮圧。田原紹忍を総大将とする大軍が高城城を囲み、攻める。取水場を抑え、ために城内大いに苦しむ。11月10日義弘は忠智が守る財部城に入り、大友の軍を誘いだし、松山営(とあるが敵の陣の内のひとつか)に逃げ込む敵を追って500余を殺し、放火。義久は佐土原からその火煙を見て川原に屯し、前衛伊集院久治に松山営の敵陣を接触・解明させ(前哨戦)、11日根白坂に総本陣を置き高城河原に前進本陣(伊集院忠棟?)を置いた。
高城の戦い
以下戦いの経過を西藩野史によりつつ要図(【平成一八年度開館二〇周年記念特別展図録】 戦国武将島津義弘 姶良町歴史民俗資料館編より、下図)で補足して、推測したい。
下図:
12日、大友軍田北鎮周・佐伯宗天は前哨戦の雪辱に燃え、切原川南岸に展開し陣前で鬨の声を挙げ挑発した前衛北郷久盛(11代忠虎の祖父9代忠親の弟の子、父久廈ともに元高城地頭で高城故縁)・本田親治(義久近習)を攻撃した。総大将田原紹忍の自重方針に添わない独断専行であった。前衛は戦いつつ下がったが撃破され、久盛・親治は戦死し、残隊は良く任務を果たし、小丸川の瀬を渡り南岸へ退いた。小丸川北岸の前衛の後陣諸隊もこの戦闘に加わり、これを掩護収容した。鎮周・宋天は撃破の余勢を駆って、後退につけ入りかつ島津を分断せんと、小丸川を越えて、突進した。これに対し、島津は第1陣は前記前衛、第2陣は島津忠平(義弘)(小丸川南岸、柳瀬西)、第3陣は島津征久(小丸川南岸、第2陣の東)、第4陣島津忠長(小丸川南岸、第2陣の西?)、本陣、島津義久(総本陣根白坂、前本陣伊集院忠棟(小丸川南岸で根白坂前面)と布陣していたが、第2陣忠平(義弘)が猛然と反撃開始、大友本隊も田北・宗天を救わんと、続々攻め寄せ、一大決戦が生起した。頃合いを見て第2陣征久、第3陣忠長が左右を撃ち、高城城から進出し詰めていた島津家久・山田有信・鎌田政近・吉利忠澄等が側背を撃った(註)。大友軍は崩れ、逃げ場を失った多くの者が切原川と小丸川の合流点の竹鳩ヶ淵に飛び込み、溺死した。
註:要図では戦いの早い段階で高城城から家久や有信が進出する様が描かれているが、打撃の発動は大友が小丸川を渡る時点以降と考えられ、距離を詰め、戦機に投ぜんとはやる気持ちを表していると解した。実際後の追撃の主役と記述されていることから、打撃発動は2・3・4陣の発動後で余力を残していた、であろう、と解した。
島津軍は逃げる敵を追い、耳川までの28kmを追撃、家久の功傑出。山田有信は田原紹忍が殿となって巧みに戦い且つ退く一隊を追撃。
この結果宗麟は府内に撤退。佐伯宗天・田北鎮周や、筑後国国人の蒲池鑑盛をはじめとする有力な家臣や多くの兵を失った。大友支配地内の有力国人たち、秋月種実(筑前国)の反抗や龍造寺隆信(肥前国)の謀反などをはじめとする国人たち、の離反を招き、その勢力・領国を削がれることとなった。
島津氏は本戦いで念願の3州統一を事実上成し遂げた。しかし、これで終わりではなく、島津は目前の戦いを積み重ねつつ、いつの間にか九州制覇へと向かい始めた。大友氏からの後ろ盾が弱くなった肥後国では島津氏に靡き投降する雪崩現象が生起し、北肥後・肥前で竜造寺との衝突が必至となる。大友離れは九州全土で進み、豊後侵攻も視野に入る。
本流れの中の特筆事項
忠平(義弘)の役割意識
高原城攻めを義久に進言し、自ら先鋒となって攻めた。西藩野史はこのことをクローズアップしている。そこには調略しつつ、伊東家内部の乱れを見抜き、三山ではなく高原から攻めるべきで、今攻め時だ、という判断とオール島津が最大の効果を産むという洞察があった。三山城主上原尚近と役割意識を共有し、野尻を自ら攻め、佐土原への第一歩、紙屋以降はオール島津・義久で、の段取りをした。高城の戦いでは鎮周・宗天を攻め、敵主力を引き出して、決戦を生起させるという一度により多くを斃す(殲滅)策略を島津全軍に広める中心的役割を果たした(後述)。
島津の戦いの士風の4つの特長
《早い段階で策略(釣り野伏)による撃破構想を立てた》西藩野史では大友の侵攻に対応して日向内諸将を高城に入れる動きをクローズアップしている。ここに作者の深意があると感じた。即ち大友の日向侵攻に対応して、当初から、中央部の要衝高城城を拠点として、策略(釣り野伏)により撃破する構想をたて在日向の諸将以下3000を高城城にいれた、という意である。3000もの大勢を何故、城中に入れたのか?準備間では侵攻を遅らせる手を打たず大友の関心を高城城に向けさせ引き付ける、大軍が攻めてきてもその保持を確実にし、決戦では打撃力のある決勝戦力として出撃させるためであったろう。策略(釣り野伏)による殲滅構想成立の肝の一つであった、と考えられ、早い段階から構想とその肝をしっかり把握している点に士風の一つ目の特長がある。《一度の戦いでより多くを斃す(殲滅)主義を共有》忠平(義弘)が木崎原で、釣り野伏史上始めて(註)敵軍全部に網を被せ一度の戦いでより多くを斃す(殲滅)主義で勝利を得てから6年、オール島津も殲滅主義で決定的な勝ちを得た。殲滅主義による釣野伏が島津全軍に共有された、と言えよう。特に忠平(義弘)が敵主力つり出しを受け持ち、決戦へと至った戦いは殲滅構想成立の2番目の肝であった。島津は木崎原の忠平(義弘)に学び、今回忠平(義弘)から吸収(意見具申を受ける等)することで殲滅主義をものにした。殲滅主義による策略の共有が士風の2番目の特長である。
註:旧来は自分の力に見合う目の前の一部の敵を釣り野伏の対象としてきた。
《薩摩一心》前衛北郷久盛・本田親治による小丸川を越え切原川を越えての挑発で鎮周・宗天は猛然と攻撃を始め、戦いつつ下がる間に、久盛・親治両名は戦死、それが鎮周・宗天の突進を呼び、小丸川を渡った。久盛・親治の犠牲で誘い出しは功を奏した。忠平(義弘)の第2陣は鎮周・宗天への攻撃を始め、これに敵主力がつり出され、決戦が生起した。頃合いを見て、征久の第3陣・忠長の第4陣が第2陣の左右を撃ち、家久・有信が側背を撃った。崩れ敗走する敵を全軍で耳川まで追撃特に余力の残る家久・有信の活躍が光った。在日向の諸将が高城城に入り城主山田有信と心を一つにして防御戦を戦い、久盛・親治のわが身を犠牲とする貢献(誘致)があり、各陣が一途の方針のもとにその役割を果たし密に連携して、オール島津として初めての殲滅を成功させた。これが士風の3番目の特長である。
《主体性の保持》私はこの殲滅策略は大友の錯誤や失敗に乗じたから成った、と言える面もある、と思う。例えば、大友宗麟は奢り自ら本気で日向攻めを行う気がなく、縣に止まりキリスト教布教に注力し、田原紹忍に任せきりにした。このため統一された本気の構想が無く、諸将間には纏まりがなかった。大友が高城城を落としてから島津と戦う策を取った場合。あるいは支配下の熊本方向からも同時に侵攻し戦場を自ら決めて、宗麟が直接指揮する場合どうなったか。また鎮周・宗天は紹忍に従わず独断で攻撃を始めた。大友全軍で統制ある戦いを挑んだ場合はどうなったかなど。
しかし私は島津が早い段階から高城城を核とする殲滅構想をたて、主動的に動いたから、大友は追随し、抱えていた問題のため、錯誤や失敗を犯し、高城城に引っ張られる等島津の策に乗ってしまった、と考える。従って島津の殲滅策略は大友の錯誤や失敗によってその価値を減ずるものではない。主動の立場にたつことで、思いもよらぬ利を得る(大友にとっては受動が思わぬ錯誤や失敗を招く)ということを教えてくれる事例である。これが島津士風の4番目の特長である。
島津士風の継承・発展者とその才
伊集院忠棟
石城の戦いで副将伊集院忠棟は大木を切って川底に沈め、その上に大竹で浮橋をかけ、河川障害を克服し、勝利に貢献した。戦いを創意工夫し断行する才は父忠朗が日當山(国分)の戦いで山上に砦を築、そこに本田薫親が気を取られている間に、樺山善久が生別府を奪い取り、海上路を確保して勝ちを収めた才及び新納忠元が市山の戦いで釣り野伏の選択肢を拡げ、牛根城攻めで坑道戦で勝ちを得た創意工夫の才に通じるものである。
川上忠兄
落城直後の三山城主に16歳で任命された。三山(小林)盆地の中心であり、伊東の反攻が予想される大事な城であり、それを任せられる人物と見込まれたからであろう。実際任命直後に軽卒を使い民家の板戸を集め城上の垣とし、城壁の修理を即終えた。忠平(義弘)はその迅速な手際に感嘆した、という。加久藤城の城主父忠智が木崎原の戦いで見せたと同じ機転を受け継いでいる。忠兄は後に朝鮮の役・関ケ原の役に進んで従軍し、臨機におうじる機転の才を発揮する。忠平(義弘)から還俗を命ぜられ、郷中教育を受けながら、お城務めもする二才(にせ)として、学び教え務めを果たし、武道鍛錬や山川遊びをみんなで行う中で機転の才が開花し、周りが一目置いていた。俸禄25石で一人の家来、多くても構わない、という島津では(家臣は)禄は、藩の一大事の備え、例えば良い家来を持つこと、に使い、節約・質素に励む風潮が強い。忠兄もその実践者の一人である。禄の格式を越えて、有能な家来を周りに置いた。幼い有能な若者を、膝おやし(親代わりとなって自分の膝に乗せて愛しむ)となって、育てた。そのこころがけが関ケ原の退口で急追してきた敵将井伊直左政を狙撃した膝おやしの子柏木源蔵の働きとなって花開いた。
山田有信
祖父有親は島津実久に与し反した後、全領土を差し出し降伏し、山田領有のみを許されたが、後に諫言により切腹を命ぜられた。忠良はこれを悔い、多聞天としてまつると共にその子(有信の父)有徳を召しだし貴久に仕えさせたが、有信も幼少時から貴久に仕えさせた。有信は二才(にせ)として郷中教育・務めの間の学び・教え特に貴久は勿論忠良の薫陶を受け成長した。逆臣の子という冷たい視線があるからこそ、同じ轍を踏まないと誓い、忠良・貴久の心を支えとして揺るぎない顧みず尽くす心を磨き、伝えた。その滅私当千(万)・滅私奉公・薩摩一心が応援3000の心を一つにして、高城城を大友の大軍から守り、9年後にまた、応援無しの300という弱小勢で豊臣秀長の大軍を防ぎ、義久が和約をしてし後、その説得に従い、我が子有栄を人質に出して漸く降った。
第2節 沖田畷の戦い
本戦いは天正12年(1584)島原で島津家久・有馬久堅連合軍が竜造寺隆信を戦死させ、破った戦いである。ここに何故島原?竜造寺?という疑問が残る。それを解明するためここに至った戦いの流れを明らかにしたい。この勝利で島津は主な対抗勢力を潰し、全九州制覇が見えて来る。ここまでくれば大友府内を潰すと共に、最大の交易港博多を有する、大友の息のかかった、かっては大内今毛利も狙う宿縁の係争地である筑前を押さえねばならない、織田信長亡き後(天正10年(1582)本能寺の変)、中央の情勢は混とんとしており、島津の行く手を邪魔する者はないと考えたであろう。
肥後平地に大きな足掛かりを作る
高城の敗戦後、6ケ国守護職を兼帯した大友宗麟に服従していた豊肥筑の前後六州の諸侯は悉く離れ背いた。天正6年(1578)12月(或いは天正8年の春)、肥後国の飽田(現熊本市の西・南・北区の大部分、中央区の一部、現宇土市の一部)・詫摩(現熊本市の東区の大部分、南区・中央区の一部)・川尻(現熊本市南部、緑川河口の外港)を領し熊本城主城越中守親政もその一人。流石に宗麟はその影響の大きさに、今だ背いていない諸侯に命じ親政を討たせた。親政が救いを求めて来たので、鎌田政年を先行させ、佐多久政以下副将に川上忠智・上原尚近・宮原景種の精鋭を派遣した。大友の軍戦わずして遁れ去り、久政等を頼って、宇土城主名和顕孝が太守公の麾下に入らんと入城し、肥後国郷郡の主天草左衛門・大矢野彌太郎・志岐鎮孫・栖本上津良が出水に出頭した。島津は肥沃の肥後平地に大きな足がかりを作った。
肥後平地への進出路の確保
天正8年(1580)5月、太守義久は、相良義陽・阿蘇惟前が大口を襲わんとしたので、義陽の領国球磨はそのままにしてもう一方の水俣を攻めとるため、宝河内城(水俣城の東約5㎞)を討たせた。足掛かりのできた肥後平地を収める狙いがあり、このため義陽を排除して、水俣・八代を打通する狙いがあったのであろう。
義陽・惟前に連係して宝河内奪回に寄与すると同時に在熊本の久政等と薩摩との連絡も絶つため、矢崎城(宇土半島の八代側)主中村一太夫、田平(宇土半島の島原側、別名網田城)城主中村二太夫が要路を絶つ動きにでた。忠元・政年は陸路から在熊本の久政・忠智・尚近は海上から矢崎城を、翌日田平(網田)城を攻め落した(10月29日)。11月23日には在熊本の久政以下忠元・忠智・(忠智の子)忠堯・肝付兼寛・尚近・比志島国貞等竜造寺隆信に与する合志城(別名竹迫城、城主合志蔵人)を攻め落した。吉利忠張・伊集院久宣比良城、安楽城を落とす。
さて大友を離反した竜造寺隆信にも触れなければならない。
天正6年(1578年)、大友宗麟が高城の戦いで大敗すると、隆信は大友氏の混乱に乗じて大友氏からの完全な自立を果たし、それまで大友の下で対等な関係であった国衆を服属させ戦国大名となり、天正8年(1580年)までに筑前国や筑後国、肥後国、豊前などを勢力下に置くことに成功し、九州の三強の一角を占めるに至った。
前述の島津の動きに対し、天正9年(1581)、龍造寺隆信は肥後侵略を本格化させ、城・甲斐・志岐・赤星・隈部・合志らの肥後北部国人領主は動揺し、服属の誓書を差し出すに至った。肥後において島津と龍造寺は直接対峙するようになった。
一方島津は天正9年(1581)8月19日、義久は大軍を率い、葦北郡水俣城を攻め、義陽は佐敷に退き、八代は保持して、水俣・佐敷・津奈木・湯の浦・一瀬を献じて降る。この時、義陽は阿蘇惟近を討つことを申し出る。
同年12月2日、義陽は前言実行のため、甲佐・堅土田に出陣したが、御船城主甲斐宗運の襲撃により乱戦の中に命を落とす。この影響であろうか天正10年(1582)正月、相良の臣八代城主東意伯が内紛で殺され、協議の末、義久に八代を献じることに決まった。義久は忠平(義弘)に同地を与え、忠平(義弘)は飯野を去って移った。薩摩から肥後平地へと続く熊本南部の要地水俣から八代までが島津の手に入った。しかし、これらは線を押さたに過ぎず、また熊本城の城氏は隆造寺の配下に入ってしまっている。このためか、忠平(義弘)の進出は時期尚早として平田光宗を残し、その後は伊集院忠棟が継ぎ、翌11年3月、飯野へ戻っている。
過去に2度も隆信の窮地を救った柳川城主蒲地鑑種は隆造寺隆信に背き、義久の麾下に入るも、隆信が怒って、城を囲み兵糧を絶つこと3年、天正10年、城は落ち戦死した。島津は助けを求められ、図るも叶わず、ついに見殺しにした。
天正11年(1583)6月、日野江城主有馬久堅(晴信)は麾下に入ったが領地を掠め取る隆信に背いた。これを諫め隆信のもとに留まった深江城(城主安富純治、重臣、晴信の母の実家筋、深江川沿い島原鉄道深江駅東方0.7km)を川上忠堅(忠智の子)・新納忠堯(忠元の子)の加勢を得て、6月13日攻めた。しかし守りが固く、忠堯戦死し、忠堅はやむなく、兵を退いた。安徳城(城主安徳純俊、水無川原沿い島原鉄道安徳駅北西0.2km)は龍造寺側にとどまっていたが、深江城攻めに際し久堅に与した。
天正12年(1584年)3月、裏切りを極度に嫌う隆信は深江城・浜の城を救援し有馬を討つべく息子政家に命じた。しかし、政家の妻が有馬の娘のためか有馬攻めは遅々として進まず、これに業を煮やした隆信は、政家を残し、自ら大軍(6万)を率いて深江(城主安富氏、島原城南8.5km)・浜の城(城主島原純・・、島原城から0.8km)の救援と有馬城(日野江城、島原鉄道北有馬駅北方0.5km)攻めを決意する。
沖田畷の戦い
情勢の切迫を感じた島津は家久を総大将に、八代近郊の肥後勢を加えた1500で渡海し南島原の有江に上陸、有馬勢1500名も合流し、深江・安徳と過ぎて島原(現島原城(森岳城))付近に陣した(3月24日黎明)。島原城の北側から島原市北門町の沖田畷古戦場跡表示板があるあたり(沖田)までの1.5km~2kmにわたって、浜から山すそ迄人馬通行困難な湿地帯で、通路は中央に5,6人が通れるあぜ道(畷という)が一本。湿地帯を外れた山の手と浜の手に各一本ある、隘路であった。
ここから先は野史での記述が簡明すぎるので、他の資料で補いつつ私の推測を交えながら進めたい。家久は隆信が対有馬の二つしかない拠点深江・浜の城両城特に浜の城救援を急いで、速やかに隘路(沖田)を通過して島原城付近(浜の城から0.8km)を必ず確保せんとするであろう、と読んで、島原城と同城西側に阻止陣地を構え、阻止陣地前面に大木戸、後方に予備と打撃部隊を置き、前方には誘い込む囮部隊を置き、山の手(丸尾城)と浜の手(松林)には伏せ兵を置き、海上には鉄砲装備の船を配置した。敵が大木戸に迫り、号令されるまでは囮部隊以外の射撃、暴露行動を厳禁した。予備は深江城・浜の城からの突出に備えた。
一方竜造寺軍6万は神代に上陸、神代城で休み、じご山の手、中、浜の手と3隊に別れ南下して、山の手の大坪城・浅井城勢を加え、浜の手の多比良城は攻め落とし、寺中城で休んで、自陣の圧倒的な優勢と目にする敵の弱勢を確信し、3月24日未明、沖田付近で、湿地帯に遭遇したが構わず3隊に別れたまま攻撃を開始した。隆信は畦道を進む中央隊を直接指揮した。
隘路の戦いの原則は抜けられるところから抜け、出口を確保して、他の進出部隊を掩護することにある。となるとこの場合山の手または浜の手から進出を試みるのが正解だったであろう。しかし隘路という認識はなかったのであろうか。隆造寺軍の山の手・浜の手の隊は中央隊を置いて前へは出なかった。中央隊は、囮部隊が銃を撃ちつつ退る、それにつけ入り、弱敵と侮り、畦道を進むが縦長に延びてしまう。漸く先頭は大木戸にとりつくが、下がった囮部隊の射撃で混乱、そこへ後続部隊が詰めかけ、大混乱・大渋滞となる。これを見て家久の号令一下、島津の銃が火を噴き、伏せ兵は両サイドから横さまに隆信の後ろを打撃し、竜造寺3隊を串刺し・分断し、阻止陣地兵は分断された敵前方部隊を攻撃、阻止陣地後方に拘置した打撃部隊及び敵の横・隆信の後ろをうった伏せ兵は分断された敵後方部隊、特に竜造寺隆信と隆信を守ろうと詰め掛ける敵部隊を攻撃した。尚、鉄砲装備の船は島原城前面の敵側背を射撃した。深江城及び浜の城からの突出に備えた予備はその要がなかった。川上忠堅は最初から隆信を目指し、有言実行、その首を取り、前回失敗の汚名をそそぎ、亡くなった忠堯らの無念を晴らした。隆造寺軍は総崩れとなり佐賀を目指し逃げる途中で3000余が命をおとした。
義久は佐敷で隆信の首実検を行い、隆信に掠め取れた地の半ばを有馬久堅に、半ばは軍士を賞した。反撃に備え、日上城は薩軍交代で守り、三重島原は島津忠長に給い、神代は川上忠智と比志島義基に守らせた。
この結果、争った竜造寺は衰え、8月には、城・甲斐・志岐・赤星・隈部・合志等肥後の城主並びに肥後郷・郡の主である諸氏はなだれをうって島津氏に(再度)降った。草野・星野・蒲地等筑後の郷・郡の主、秋月種實・原田等筑前の城主、郷・郡の主及び竜造寺隆信の子政家も降った。
肥後に九州制覇特に筑前・筑後・豊前・豊後侵攻の一大中継拠点の完成と安全な進出路の繋がり、がもうすぐとなった。九州で残る主な敵は衰えたとはいえ依然大きな力をもつ豊後の大友氏譜内と筑前・筑後の数えるほどの大友系の大名だけである。
忠平(義弘)守護代となる
天正13年(1585)年4月忠平(義弘)は守護代を命ぜられ、肥後八代城に移った。
守護代とは島津の過去の例に倣うもので、肥後より以北を治める意、と解釈している。即ち肥後以北を制覇し治める責任者、ということであろう。
沖田畷の戦いにおける特筆事項―薩摩士風の継承
以下の家久流の策略・つり野伏の5つの特長に士風の継承が表れている。
家久の釣り野伏の特長①《より多くを一度で倒す(殲滅)主義の家久流の深化と島津全軍の共有》家久は羽月の戦い・高城の戦い等での経験とは全く違う、忠平(義弘)に倣い・刺激されて、策略の主宰者として新しい殲滅のスタイルを作りだした。以下の②③④⑤にその特長がある。島津全軍の共有は沖田畷を経験することで一段と深まった。②《圧倒的な寡勢で戦った》有馬・島津3000対竜造寺6万という圧倒的兵力差であった。②-1これを補ったのは不退転の覚悟であり、滅私当千・滅私奉公・薩摩一心の士風であった。我が子忠豊(後の豊久)を沖田畷の戦いで初陣させたが、主要指揮官を前にして、生きて功なく帰ると思うな。死して不朽の名を残すことこそ丈夫の途である、と衆寡敵せずの風潮を断固戒める不退転の覚悟を説き、全員が固く誓った、という。そして次には②-2我に有利な戦場の選択である(④参照)。木崎原の戦いから学んだであろう。③《深江城・浜の城を隆信つり出し策の肝とした》隆信は深江城・浜の城両城の速やかな救援を出兵の目的としたであろう。有馬撃破のため、そしてその後島原の統治のために、南部の安富(深江城)、中部の島原(浜の城)は北部の神代と共に竜造寺にとって欠かせない柱石である。そのような読みをして家久は両城を隆信つり出し策の肝として、資料が少ないので何とも言えないが囲んで攻めたか、あるいは何らかの手をうって潰してしまわずに残した。恐らく後者であろう。戦いの間に突出して、我が背後を衝かれるリスクはあったが家久は大胆に隆信つり出し策としての活用に決した。この特徴は戦い前に仕掛けた心理戦の策略であり、木崎原にその例がある。④《戦場を我に有利で、敵が必ず通るところに選んだ》隆信は陸路を南下するであろう。その場合、救援する順番は先ず浜の城になる、であろう。浜の城の0.8km手前に島原城がある。となると隆信にとって島原城(森岳城)確保が絶対条件となる。ところが島原城の北側は湿地帯である。ここは隆造寺にとって救援のため速やかに且つ必ず通過しなければならないが、優勢な戦力発揮が制約され、我にとって有利な戦場である。以上の考察の結果、家久は沖田を戦場に選び、策略を練った。この特長もかってないぐらい鮮明である。⑤《隆信を討つことに全努力を集中》家久は山の手、浜の手の伏せ兵、西藩野史では鎌田政近・二階堂重行となっている、には敵の横さまに隆信の後ろをうたせて(下線は西藩野史のまま)分断し、隆信とそれを守る部隊をあぶりだして、それに陣地後方の打撃部隊と伏せ兵部隊の攻撃努力を集中し、それを援けるため阻止陣地部隊は前面の敵を拘束打撃した。さらに川上忠堅を遊撃とし、隆信を戦場に探し、見つけて斃した。混戦の中で家久の掲げる目標に沿いそれぞれが役割を果たし、心を一つにした《薩摩一心》。敵将をはじめから直接目標としたのは画期的であった。
第3節 岩屋城の戦い
沖田畷の勝利で島津の九州制覇の野望は極めて現実味を帯びて来た。先ずは肥後から筑前へ向かい、筑前岩屋城を落とす。岩屋城が九州制覇における筑前正面の勝ちをおさめた北限である。
肥後に残る不安を一掃
肥後で唯一残る反島津は阿蘇惟前である。惟前は甲斐相模守(宗運次子)に命じ、天正13年(1585)花山城を落とし、守将の木脇祐昌・鎌田政虎(政近)を戦死させた。義久は潤8月、隈庄城を落とし、さらに甲佐・堅志田を落とした。阿蘇惟前は御船・津森(城主光永宗甫)を棄てて遁れ、14日、阿蘇惟前・甲斐宗運は降り、義久は伊集院久治に津森城を守らせた。ところが12月これに不満の光永宗甫が津森城を謀略で奪い取った。天正14年正月、新納忠元は直ちに出陣、御船に出て、板無・矢邉・高森と攻め、敵を破り、忠元は高森を守った。これをもって筑前侵攻への足元・肥後を固めた。又大友・竜造寺の衰退と共に降った秋月城主秋月種實は嘉麻(筑前)を治め、境を接した大友一族の筑紫の岩屋城主高橋紹運・立花城主立花道雪と争いを続けてきたが、天正13年(1585)9月、道雪が筑後北野の陣中で没し、筑前平定の好機到来と考え、種實は義久に豊後より先に筑前攻めを促した(註)。
註:上井覚兼日記天正13年10月11日の項
関白秀吉の関わり(#1)
天正14年1月、秀吉は停戦を命ずるが義久はこれに応じ難いことを応え、秀吉が家康との和議を控え動きが取れない足元をみて、6月筑前侵攻を強攻した。4月、宗麟は関白秀吉のもとに赴き、島津征討を上訴した。
義久は鎌田政近・僧文之を使者として関白秀吉に九州の主として封ぜられんことを乞うた(主張した)。
勝尾城攻め
同年7月、島津は島津忠長・伊集院忠棟を将とし2万余で、筑前に向かい侵攻開始、まず上井覚兼等で鷹取城(筑後耳納山系)を攻め、その掩護下に進出し、大友に与する、勝尾城(筑紫・基山、城主筑紫広門)牛原口を6日に攻め、10日に落とし、後詰の兵が逃げ去り、広門窮して降った。尚沖田畷の戦いで竜造寺隆信の首を取った川上忠堅はこの戦いで、筑紫晴門(広門弟)を一騎打ちの末倒したが自らも傷を負い数日後死亡した。
岩屋城攻め
つづいて7月12日、岩屋城(筑前御笠郡四王寺山、城主高橋紹運)を囲んだ。岩屋城は宝満城(宝満山、城主高橋直次紹運次子、妻は広門の娘、広門家臣も共に守る)、立花城(立花山、城主立花宗茂、紹運の子、立花道雪の養子(娘の婿))と連携する筑前における島津に対する大友一族の最後の砦、秀吉軍の筑後―肥後侵攻の最重要前進拠点である。岩屋城は四王寺山(標高401m)の南の中腹の頂き(標高291m)にある。四王寺山は筑後、肥前からは筑前博多へ通じる大宰府・筑紫隘路の北の門柱、南の門柱は基山、であり、岩屋城はその要である。太宰府市街地に面し接しているので直越瞰制が利く要地である。この頃になると秀吉の九州征伐は動かせない情勢(後述)となり、それを承知している島津にとって九州制覇の早期完了、この3城の攻略が何より喫緊であった。また紹運は大友宗麟が4月に大阪城へ出向き関白秀吉へ助けを求め、秀吉が快諾して、今や関白の配下にあり、救援が近いであろうことを承知した上で、臨戦態勢に入った。9日付けで秀吉に救援を乞う書簡を送っている。
島津には肥後の宇土・城・詫間・赤星等筑後の蒲地・三池・草野・星野等肥前の神代・高木等が家来を率いて加わり、竜造寺・相良・有馬・原田・秋月、豊前の高橋・長野・城井等が加勢を寄越し総勢4~5万、岩屋城の周りを埋め尽くすばかりであった。これに対し岩屋城は600~750余人。
宗茂は父紹運に3ケ所に分かれて戦う不利を指摘し、岩屋に合流した方が要害であり、防げる理がある、と諫言するも、紹運は大軍だからと言って戦わず去れば武門の名折れ、また大将3人が一ケ所に籠って討ち死にすれば血脈が絶えてしまう。一つは落ちてももう一方は残るだろう。敵は先ず岩屋にくるだろう。ここで14,5日稼ぎ、城が落ち自分は自害、立花でも数日稼げば秀吉公御進発が近づく、そうなれば島津は草々退き、家運が開けるだろう。だから父のことよりも家運を信じて固く守り通せ(要旨)。と諭し返した。島津は戦いを始める前、戦いの間、と降伏勧告を行うが紹運はその都度、明晰に拒絶した。
以下野史に私の推測を交えつつ様相を披露したい(根拠:九州戦国合戦記・島津軍攻撃要図)。(註)
註:九州戦国合戦記p278(吉永正春)
7月14日島津の総攻撃開始、細い山道沿いに蝟集しつつ、崖や斜面をよじ登る。上から城兵は矢や鉄砲を撃ち、機を見て数度出撃を繰り替かえし島津を数回破った。島津の損害多く、伏屍に枕、骸に足を納める地なしという激戦が続いた。当初は正面からの攻撃を繰り替えしたが、間道を発見し水の手を絶って、これ沿いの攻撃も併用した。間者(註)を捉え救援が近いことを知った島津は攻め落しを焦り力攻めを繰り替えした。ある時忠長は城門を破り自ら先登したところ、城兵が忠長めがけて殺到、家臣が奮闘、身代わりとなって死に、事なきを得た。27日ついに島津は城中に攻め入り、紹運は力窮まり櫓にあがり、自刃す。城兵悉く玉砕す。宝満城主高橋直次は質を出して降る。尚天文8年3月、谷山城を調略せんと日新斎は家臣河野通吉を通じて兄通能に工作させたが、露見し通能は自刃した。その幼子(9才)が、忠良を頼り仕え薫陶を受けて育ち、筑後通泰と称したが、この戦いで戦死した。
是より島津は立花城を攻めんとして、忠長・忠棟肯議し、義久の命を受け、一旦薩摩へ退くに決した。岩屋宝満を秋月種實にまもらせ、軍を退いた。西藩野史の記述は以上であるが、重要な事実が抜けている。島津は立花城を囲み、総攻撃を8月18日と定めたが、宗茂の時間稼ぎの謀略によりこれを先伸ばしにしている間に、毛利の先発神田忠元以下3000が関門を押さえ、本隊小早川・吉川・黒田7000が16日に門司へ到着していた。(22日に立花へ到着)、島津は23日夜撤退を始めた。
註:「夜間諜をとらふ 中国人神田宗四郎(忠元か、秀吉から先遣を命ぜられた毛利藩家臣)紹運に書を遣るを得る、いふ善く城を守れと、京都中国の救兵まさに到る」(島津国記)
島津は撤退に際し、高鳥井城を星野吉實に、岩屋宝満を秋月種實にまもらせ、他日を期した。領界を接していた種實は嘉麻(筑豊)・大宰府域(筑紫)を合わせ領することとなった。宗茂は直ちに退く島津を追い、収容掩護のため派遣された家久と筑後川で戦い、そこを潮時として兵を退き、高鳥井城を攻め、次いで岩屋・宝満を取り返した。この間、義久は義弘居城の八代にいて指揮をとった。
特筆事項
岩屋城の戦いには島津らしい士風が欠けている
岩屋城の戦いを紐どきながらこの戦いでは島津らしい策略がない、と感じた。正面からの力攻めのくりかし、で終盤になってやっと間道を見つけ水の手を絶った。秋月種實に頼り、情報不足で戦を始め、調略も不発、援軍?に焦りと紹運の全員玉砕して城を守るという士魂に翻弄されて、犠牲者を多くだして、結局時間稼ぎをされてしまった。蒲生松坂城・三山城攻め等力攻めで屯挫した例の再現に近く、滅私当千(万)・滅私奉公という士風だけではらしくない。策略(知恵)があって初めて島津の士風といえる。その原因は紹運の士魂の上を行く主動性が取れなかったことに尽きる。主動性をもって策を巡らし、戦闘では決死剽悍で勝つという島津の士風の根本のゆらぎが九州制覇の筑前(最後)にでた、というのも象徴的である。
義弘の医術と家臣への情
山田有信は敵兵の落した巨石に当たり胸が圧迫され呼吸困難になった。これを聞いた義弘は関屋清左衛門に命じ、薬草を封印した手巾で有信の胴を締めさせたところ呼吸が楽になった(註)。思いつくだけで弘治3年の蒲生北村城攻め(22才)・永禄9年の三山(小林)城攻め(31才)で重傷を負った。そこにいたらない軽傷は数え切れないが先ずは自分から実践しつつ、自分や周りの家臣が一刻も早く治して戦場へ出るため、医書に親しみ、医師にも習って身に着けたという。その域は高度・専門的で、慶長8年6月5日・6日付けで、義弘は種子島久時へ薬方伝授状2通を送っている。それによれば北条太郎左衛門の相伝をうけ、産前・産後の諸症状に必要な薬草の処方と摂ってはいけない食べ物類及び加薬を必要とする諸症状と薬草の処方について規定している。
単に戦場傷だけでなく、妊婦にも対象を広げている。これから家臣の妻や子への関心が伺え、義弘は家臣をその家庭を含め情をかけていたと言える。
註:九州軍記p146、渡辺誠
高橋紹運の統率及び城兵の敢闘に合掌
この半月間の籠城戦で、島津に死傷4千5百(筑前国続風土記)という甚大な損傷を与え、城兵は紹運以下763名、一名も降ったり逃亡することなく戦い、紹運を先頭に玉砕した。島津の必死の猛攻を防ぎ、城兵悉く倒れて愈々敵が本丸に攻め入ろうとする時紹運は、自らは重傷を負って、もはやこれまでと高楼に上がり、自刃した。残る50名余も全員自刃した。以上について筑前国続風土記は「紹運平生情深かりし故且つは其の忠義に感化せし故一人も節義を失わざるなるべし」と述べている。本丸跡に立って見下ろすと、各陣が展開した眼下の平野、特に観世音寺や都府楼跡は手に取るように見え、登って来るであろう谷沿い・稜線につい目が行く。観世音寺の僧房跡から四王寺山を見上げると本丸跡は正面で人の動きも見えるし、どこから取りつくか谷や稜線を確認でき、壮絶な戦いの様子が目に浮かんだ。全員玉砕の戦いなんてこの時代にありえようはずがない、去ろうと思えばいつでもどこでも出来るではないか、と思っていた。しかし去る者はいなかったのだと改めて気づいた。これは重い。紹運の統率の偉大さと、紹運と城兵が一心となって、一身を顧みず守り抜こうとした大義・大志の迸りと永遠性を感ぜずにはいられなった。(r3.2.10)
岩屋城本丸(跡)から観世音寺方面
観世音寺僧房跡から岩屋城本丸(跡)
辞世の歌「流れての末の世遠く埋もれぬ名をや岩屋の苔の下水」。「屍を岩屋の苔に埋めてぞ雲井の空に名をとどむべき」。合掌。
一貫した遠征戦略の欠如と戦力限界の露呈―愚慮
立花城を囲み、総攻撃を決めるも、宗茂に翻弄されて先延ばしし、(西藩野史では岩屋城から)他日を期して一挙に鹿児島まで撤退した。
そこには西回りで筑前を落とすという当初の意図の貫徹が放棄されている。西まわりを諦め、今度は東周り(豊後攻め)から、となった場当たり的というべきであろう。宮崎から従軍した日向地頭上井覚兼はほぼ全滅の損害を受け、無念の思いで、上井覚兼日記・・日の項に義久の決断を愚慮と記している(註1)。そこを掘り下げてみたい。秀吉を九州にいれない、入れても有利に戦う態勢を作るため、①秋月種實と連係し、筑前・豊前(小倉)を押さえてから豊後を押さえるか、或いは②豊後を押さえ、日田から嘉麻・香春或いは豊前(小倉)へ出て秋月と連携し筑前を押さえるか。が考えられるが、義久はどちらにするか決めかね、1月22日神籤に委ねて、両方向同時が吉とでて義久は日向口から義弘は肥後口からと決めたが、2月19日になって、義久は秋までの延期を示した。5月22日、秀吉の國分け案が示され、衆議は拒否に一決、義弘は豊後攻めを待っているので延引は不可、と出兵を促した。6月9日義久は豊後攻めを令するが、それもつかの間一転して筑前攻めに決した。霧島神宮の神籤に筑紫攻めを吉と出、日向正面も肥後へ回せと出たからであった(註3)。要するに腹を決めきれないまま秋月種實の要請(上井覚兼日記天正13年10月11日項、種實が攻めている立花城がまだ落ちないので、麻生・宗像は様子をみており、これを落としてから豊後攻めに掛かって欲しい)に応じてしまい(註2)、筑前攻めに手間取り、岩屋を落としたものの多くの損害を受け、毛利が到着し、撤退となった。徒に時間を伸ばして戦機を失い、結果的に毛利到着の時間稼ぎに協力した。
それから9月衆議は日向攻めに決したが義久は10月にはいり神籤で肥後攻めを漸く決心した(註4)。秀吉の先遣隊である四国軍と大友軍を戸次川に破り府内城を落とし、逃げた義統を負いつつ、玖珠・野上への進出を図ったが、時すでに遅く秀長軍の到着により撤退に転じた。
豊後攻めの決定でも時間の空費がみられ、筑前攻めとあわせ、戦機を失い、結果的に秀長軍到着の時間稼ぎに協力した。
註1・2:筑前戦国争乱p242(吉永正春)
註3・4:九州軍記p144(渡辺誠)
また①②案とも中途半端で終わってしまった。これはたら、ればかもしれないが①②どちらの案でも早期に実行に移し、その戦略を一貫して追求すれば違った展開になったであろう。後で触れるが義弘は②の一貫性を当初から、そして今回も追求していた可能性が高い、戦略眼は確かと考える。
また冒頭で上井覚兼の無念の思い「愚慮」には更なる深い思いがあったかもしれない。それは義久が神籤に頼った、ということである。この時を去る35年前、天文24年(1552)3月帖佐を攻める際、加治木城主肝付以安は神に告げて良き日を選ばんとしたが、加治木城に会して居た島津忠将は憤激して、君命を奉じ賊を討つのに日を選ぶ暇はないと席を立って帖佐城に向かい、策をもって城兵をおびき出して破り、逃げるをおって忠平(義弘、このとき19歳)等が城門を破り、奮戦して城を落とし、渋谷一族を祁答院に敗走させた。これを念頭に、覚兼は太守ともあろうものが島津の士風に外れて、科学的・合理的判断、一貫した戦略を、欠いている、と警鐘をならす深意があった、のかもしれない。
また一挙に撤退してしまったことについては戦力も限界であった。個人・部隊が必要分を携行し不足は現地略奪というところに基本(島津家御旧制軍法巻鈔では3日分)があり、必要分を後方から追送することを基本としていなかった。先述の愚慮の結果、これらの準備が十分に行われなかった。従って将士は疲れが厳しい攻城戦で極限に達し、補充や交代や十分な給養もなく、糧秣・武器・弾弓等の物資も不足し、それらの調達・補給・輸送等もまた極めて不十分であった。だから、敵援軍の到着というものすごいインパクトになすすべがなかった。
関白秀吉の関わり(#2)
秀吉は島津の勝手な振る舞いを見過ごせず、宗麟には明年3月自ら大軍を率いて島津を征伐することを伝え、それまで国元で戦備を整え、無駄な交戦を控えて、西下を待つよう伝えた。天正14年8月5日、毛利・吉川・小早川に関門及び関門と豊後の連絡の確保、速やか先発隊の門司派遣等を命じた。その一部が岩屋城救援に駆け付けたわけである。これと前後して豊後救援のため、土佐の長曾我部元親・信親親子の兵3000と讃岐の仙谷秀久・十河存保らの兵3000に出陣を命じた。九州派遣軍の検使(軍監)には仙谷秀久・黒田孝高・宮木豊盛らをつけた。9月13日、四国勢は豊後沖の濱に上陸し上野原(大分市上の台)に集結、仙石秀久が総指揮官となり、府内城にはいった。秀吉は仙石以下の将に戦わず援軍を待つよう戒めると共に8月25日義統に島津が合戦を仕掛けてきてもこれに構わず援軍をまて、と書状で戒めている。
天正14年(1586)9月、関白秀吉は小寺官兵衛孝高を遣わし義久に以下の令を伝えた。薩摩・大隅2ケ国、肥後・筑後・日向・藩国を島津領とし、豊後一国に豊前・筑後・肥後共に半国を大友に、肥前国を毛利元就に、筑後国を秀吉公領とし、日向半国を伊東義祐に、封ずべし。これを以て大友と和せと。使者からこれを聞き、筑前侵攻の成果が反映されていないことも含め義久は到底納得できず。衆と議し豊後攻めを決める。
第4節 戸次川の戦い
豊後侵攻の開始
天正14年10月、2ケ軍を以て肥後口・日向口から豊後侵攻を開始した。第2軍に攻略目標である府内城を攻略させ、第1軍は豊後南部に進出し、1軍の進出・攻略を掩護させるという基本構想を以て侵攻し、その通りの展開になった、と思われる。
第1軍は義珍(忠平改め、義弘)将の3万余。八代から肥後を経て豊後南郡へ、途中で薩摩の諸軍を合流しつつ進む。大友氏重臣の入田義実と志賀親度が内応し、先導役を務めた。忠元の調略によるところが大きかったようである。10月21日肥後野尻に入り高城を落とし、入田城に入ると、松尾城・鳥嶽城は遁れ去った。津箇牟礼に本陣を置き、岡城(竹田)を攻め、ここだけは抵抗したので、城主志賀親次(親度の子))、難航したが24日降し、11月22日志賀城に入り、続いて数城をおとし、12月14日朽網(不明)に陣した。朽網は九重山の東麓、竹田から豊後大野一帯に位置(推測)し、玖珠・九重、府内城(大分)・臼杵城・佐伯いずれへも通じる交通の要衝であった。
戸次川の戦い
第2軍は家久を将とし、1万余。日州梓山を越え、三重近江郷を焼き払い緒方城(豊後大野)を落とし、利光城(鶴賀城、府内城南約10km)を囲んだ。この頃宗麟は家督を義統に譲り、実権は握って、府内城には義統が臼杵城には宗麟がいた。(四国の)仙石・尾藤・長曾我部・十河が豊後朽網に来て秀吉の命を伝えたが、義珍(義弘)は拒絶した。然らばと城を出て、利光城救援に駆け付けた大友義統軍に加わった。以下西藩野史は「家久軍を分けて、これを討つ大友敗走す。十河・長宗我部は陣中に死し、尾藤・仙石は遁れ去る。義統も単騎府内城に遁る。家久軍を進めて府内城を襲う。義統敗れて高崎に走り、また遁れて豊前龍王(安心院)に遁れる。家久府内より朽網にいたり、義珍に勝利を報告し、豊後は悉く定まった。」と記述している。島津の豊後正面の勝ちの北限を刻した戸次川の戦いについては簡単に結果だけを記している。士風確認のためにも私なりに妥当な戦いの様相を推測したい(根拠:参謀本部編九州役資料(下図))。(註)
註:九州戦国合戦記p298(吉永正春)
鶴賀城は大分と臼杵の連絡要地にあり、府内城・臼杵城を守る重要支城である。眼下に戸次川(大野川)とその流域の村落が一望できる。戦場は戸次川(大野川)と戸次川が抱える川床・楠生、中津留、脇津留、利光(北から)等の村落で、村落は大野川に迫る山脚によって区分された小開豁地であり、周囲は複雑に入り組む稜線と植生で錯雑している。
後方の稜線から中津留をみる。左看板塔の向こう10号線、その奥大野川と大南大橋。
後方の脇津留から中津留方向、中央稜線は中津留後方の稜線、左は10号線さらに左は大野川
戸次川は中判田付近で南流から東北流へと変わり、中津留・利光付近は水深深く、渡渉できる浅瀬は数か所に過ぎない。
対岸の下竹中部落から大野川・中津留をみる
島津軍は鶴賀城南1kmの大塔(大分郡)の梨尾山(179m)に布陣し、城を囲み12月7日、8日と攻めた。一方仙石秀政は鶴賀城救援に慎重な義統に直ちに出陣を説き、反対する長宗我部・十河をおいて、自軍だけでの出陣を強行せんとした、これに全員がつられ、12月11日府内を出発し、竹中山鏡城に布陣した(#1戦場への釣りだし)。この状況をみて家久は鶴賀城の囲みを解き、梨尾山の南約4kmの坂原山(248m)に退いた。島津の退却に仙石秀政は渡河しての攻撃を命じ、自ら渡り始めた。これに引きづられ、全軍が渡河し、東岸に布陣した(#2戦場への釣りだし)。家久は先峰伊集院久を長宗我部軍に向かわせ(#1戦いへのつり出し)、本庄主税助を仙石・十河に対峙させた。たちまち激戦となり、伊集院隊は突き崩されて後退、元親らは利光村まで追撃してきた(#2戦いへのつり出し)。これまで伊集院隊の後ろで伏せていた新納隊(伏せ兵)が変わって攻めかかり、伊集院隊を収容しつつ長曾我部軍をおし戻した(伏せ撃ち)。これに呼応して本庄隊は仙石・十河隊を、家久の予備隊及び勢いを取り戻した伊集院隊は新納隊と協同して長曾我部隊を猛撃し(伏せ撃ちへの呼応)、中津留川原へ追い込み、壊乱させた。長宗我部忠親・十河存保戦死、四国勢は2000余を失い、長宗我部元親本国へ逃げ帰る。秀久は秀吉子飼いの武将で一番早く大名に採りたてられたが、持久を旨とすべき任を破り敗戦したことに怒った秀吉から改易された。
義久はこの間日州塩見にあり、第2軍の後詰も兼ねた。
何故釣り野伏が成功したか
現地は開発され当時と様相が随分違うことは想定しながら、現地を見て回った。やがて、私は村落が開豁地にありそれらが山脚によって区分され、開豁地の周囲は錯雑地であった、であろう、とイメージがはっきりしてきた。そうなると、意図を隠し、兵を伏せて時を待つには好適の地域特性である。しかも、伏せ撃ちの局面迄到れば、後方から前面まで同時発起も出来る。また鶴賀城と中判田を結ぶ戦いの軸は現10号線沿いと佐柳~峠の二つが考えられるが(この二つを併用する場合は)、途中では隔絶している。となると家久は敵を合一させず敵に分離を強制することも謀ったであろう。即ち家久が主敵を長宗我部に置き、伏せ撃ち発動の際は本庄にも呼応させ(敵に転用を企図する暇も与えず)攻め続けさせた。そこまで突き詰める主動性の発揮があったに違いない。勝ち負けの要因は色々あげられるが、私は現地にたって、地形要因に強く惹かれた。四国勢も島津も土地勘は無かったであろうから、際立つのは、沖田畷といい今回といい、家久の兵を隠す錯雑地に注目した戦略眼、地形眼である。そして開豁地のみしか目に入らなかった連合軍の不手際?を思った。中でもわが庭で戦う当事者でありながら影の薄い当主大友義統ではある。(r3.3.8)
義珍(義弘)はこの天正15年玖珠に進出。家久は2月小国に進出、豊前龍王に遁れた義統を討たんとす。
義珍(義弘)豊後撤退へ
天正15年(1587)正月、義珍(義弘)は玖珠郡にあり、野上城(現九重町野上字三群)を落とし(1月26日)、阿蘇惟前を使った忠元の功による。家久は下城(肥後小国、九重に接して西隣、日田の南約30km)を攻め、諸郡(恵良・功蕪・小国・北里等)悉く降り、豊前龍王を襲い義統を討たんとす。
関白秀吉の関わり(#3)
天正14年10月4日毛利・吉川・小早川軍が支城小倉城を、12月本城香春城を落とし、高橋元種(秋月城主秋月種實の子)が降って、秀吉の安全な九州入りの足場を固めた。
10月27日家康が大阪城に参上して秀吉に謁した。後顧の憂いが無くなった秀吉は12月1日、明春3月を期して、37ケ国の当主に自ら出陣して島津親征の軍を発する旨を宣した。
天正15年(1587)3月1日、秀吉は大阪城を発し、九州へ向かう。羽柴秀長に日向口より、自らは小倉から嘉麻に入りそこから筑前より肥後を経て、薩摩に入らんとした。
義珍(義弘)撤退へ
秀吉が3月1日に大阪を発すると、ここ豊後では島津に従っていたが、忽ちに心を翻し、大友へ属す者が続発した。これを踏まえ義珍(義弘)は秀吉の大軍の前を撃てば、かえって賊が我が後ろを撃って進退に窮する、であろう。速やかに国に帰り嶮により固く守るべし、と決断。3月11日野上を去り、湯の城に迫った敵先鋒を破り、府内城に入った。
戸次川の戦いで島津は釣り野伏策略によって敵を殲滅し、府内城から野上(玖珠郡九重)・小国(肥後)に進出したが、秀吉軍の九州侵攻により、撤退に転じた。筑後岩屋城から府内城、野上・小国を連ねる戦が島津の九州制覇の頂界線であった。
本流れの中での特筆事項
士風の継承・釣り野伏せ策略による敵殲滅。
家久は釣り野伏の重点を長宗我部に志向すると共に我を3軍に分けて、敵の各個分断をはかり、その成果を拡充して、中津留川原に敵を押し込め衝力を持続・集中し殲滅した。忠平(義弘)によって進化した釣野伏による敵殲滅策略を家久は沖田畷に続き今回も時宜にかなうやり方の工夫で出来ることを実証した。いかなる時も釣り野伏策略による殲滅を追求すべし、が島津の士風として定着した。
釣野伏による殲滅の要件
?《戦場への敵のつり出しはきめ細かく》敵の出方に応じきめ細い策を巡らし、2次の釣り出しを行った。②《戦いへのつり出しはみやぶられないよう本気で》伊集院隊は必死で挑みかかり、撃破されても必死で戦いつつ下がるという2次のつり出しで長宗我部隊は本当に成果を確信し突出して追撃に移った。伊集院隊はつりだしという意識を持つ余裕はなかったであろう。それぐらい必死の戦いであった。③《伏せ兵は隠す》新納隊は打撃前、姿を隠し企図を秘匿。④《伏せ撃ちは時機をみて、狙った敵を分断》新納隊は伊集院隊壊滅寸前(長宗我部隊が伸びきった態勢を討つ)で打撃開始、⑤《伏せ撃ちへの呼応は一斉に》これにあわせ、家久の予備隊と息を吹き返した伊集院隊は長宗我部の側面を撃ち、本庄隊は仙石・十河を撃って長宗我部隊との連携を遮断した。?《衝力の持続と集中》長宗我部と仙石・十河を分離し、長宗我部に主攻を指向して、崩し、両軍を中津留(戸次川の障害で行きどまり)に押し込めるよう3軍が衝力を持続し、そこに衝力を集中して殲滅した。
要件が成り立った背景事項
《主体性》常に先手をとって敵の出方に応じた。《主敵撃破を追求》3軍に分け、長宗我部と仙石を分離し、長宗我部に主攻を指向し、これを崩し、じご新手を繰り出し、中津留に圧倒殲滅した。《命がけの策略》全軍が己の役割を果たし敵に立ち向かい、心を合わせて必死に戦う《滅私奉公》・《滅私当千(万)》・《薩摩一心》という命がけと一体となった策略であった。
義珍(義弘)の役割意識
義珍(義弘)は天正15年1月、玖珠にあった。豊後侵攻間私は義珍(義弘)の影が薄いと感じていた。具体的には何をやろうとしたか、どんな役割だったかが良く分からなかったからである。義珍(義弘)は豊後南部郡を押さえ家久軍の府内への進出・攻撃を掩護する役割のようだと思ったが、義珍(義弘)軍3万、家久郡1万余で出発しているのでそうともいいきれない。府内城を攻め落した後に義珍(義弘)は玖珠にあり、家久は小国を攻め豊前龍王の義統を討たんとしていた。豊前へ突進していない。これは何を意味するのであろうか。そこを切り口に考えたい。龍王に逃げた義統を家久とともに討つためだけであろうか。玖珠は宇佐や中津への交通上の要衝である、という点ではそうであろう。さらに玖珠は日田への交通上の要衝である、という点がある。日田は嘉麻へ通じ、英彦山を経て香春から小倉へ通じる要路であり、嘉麻・香春・小倉を押さえる秋月との連携要地である。玖珠・日田を押さえれば①家久軍の大友府内を征し豊前小倉への日向~豊後~豊前街道沿いの突進を容易に出来、②嘉麻・香春・小倉を押さえる秋月勢と連携出来る。以上から早期にこれらの体制を作れば秀吉の九州入りを阻止でき、或いは事後の戦いを有利に進めることが出来て、島津有利な国割が期待できる。状況不利な場合でも鹿児島で迎え撃つ或いは条件闘争に移る等の時間の余裕が得られる。義珍(義弘)は前記①②の両にらみができる豊後周りで玖珠・日田への進出を北上の当初から主張したに違いない。従って、義久の愚慮によって大幅に遅れた豊後攻めに当たっても、その利、即ち玖珠そして日田それから嘉麻或いは小倉掌握、を追求した、であろう。玖珠はその途中の景色だった。そうすると家久の小国への進出は義珍(義弘)の日田への進出掩護の意味合いもつよくなる。そして玖珠にあって、形勢を見つつ日田へ進もうとしていたのではないか。思いのほか早く毛利が支城小倉城ついで本城香春城を落とし、3月秀吉は大軍を率いて九州入りし、2軍に分かれて、自らは大軍を率い、小倉から香春を経て嘉麻を攻め、弟秀長は豊前から豊後へと動く気配を見せ始めた。両正面とも大軍過ぎて、有利な態勢が築けないまま、筑前や豊前での阻止・遅滞は出来ない、しかも足元は反島津・親秀吉に染まっている。遠征軍に遺された道は鹿児島に立て籠ることと条件闘争を組合わすしかないと撤退を決断した。義珍(義弘)は真に島津、国を思い、太守義久を弟として、臣として誰よりも近くで支える覚悟があった。だから今回の北上の出鼻の筑前責め優先という"愚慮"を全力を尽くしてカバーしたい、最初から玖珠・日田を目指すべきだったがまだ手遅れではない、という思いを強く持っていた。府内城を攻め落した後に義珍(義弘)玖珠にあり、にそういう思いを感じる。
第5節 島津の降伏
撤退
天正15年(1587)3月15日、高野山木食上人・一色宮内少輔府内を訪れ、和を進めるが義珍(義弘)は拒絶し、二軍に分け、1つは歳久・征久を将として肥後を経て、もう一つは義珍(義弘)・家久を将として日向を経て国に帰った。島津に見切りをつけた賊徒が途次に蜂起し、両隊を襲った。義珍(義弘)軍はこれらを撃破して通ったが14日田北で佐多久政、15日高田で伊集院久宣ほか諸所に多数の死者をだした。16日三重の嶮に籠る敵を撃ち破り、17日栂の嶮で追いすがる敵を破り、18日永谷・河内で追いすがる敵を破り、梓山を越えて(日州に入る)、友軍の収容掩護を受け、縣城に入る。ついで先に帰還した高城城主山田有信の案内で高城に入り、19日都於郡で義久に会した。歳久軍は降った岡城主志賀道輝が叛き、これを肥後の坂無・陣内で、新納忠元・伊集院久春の働きで破り(15日~16日)、合志を経て御船に至った。龍造寺政家叛き、尾牟田に陣して船で海上から八代にせまり、日奈子の漁村を焼いた。忠元・久春進んで尾牟田を撃ち、政家を敗走させ、諸軍八代に入り、18日国に向かう。球磨・人吉を過ぎて大岩瀬川を渡り、一人も損ぜずに国へ帰った。八代・人吉でも不穏な情勢を先読みした忠元等の機転で事なきを得た。
根白坂の戦い
4月大和郡山城主羽柴秀長(秀吉の弟)20万を率い、豊後の国を経て、日州に入り、高城城を、堅固であったので、無理に攻めず、何重にも囲み、兵糧攻めにした。高城から財部(現高鍋)に到る間51ケ所に屯し、前鋒黒田官兵衛孝高以下1万5千が、島津は必ず救援に来る、と読んで、根白坂に陣した(2日)。
高城城主山田有信は手勢は300余であったが、大軍迫る、に少しも動揺せず喜入久通、平田新四郎等の加勢を得て、自若としてやるべき準備を尽くし、戦った。
根白坂は高城にあり、高城城の南約2.5km(直線)、高城川(小丸川)南岸から約2km(直線)離れた(平地上の)北西から東南に流れる標高50~70mの細長い折れ曲がった尾根上の台地の鞍部を通る薩摩往還上にある。高城城との連絡上の要地である。
根白坂を守る鳥取城主宮部継潤(善祥坊)は深さ1杖2尺(3.6m)、幅1丈8尺(5.4m)の壕を堀り、土手を盛り上げ、その上に竹木で柵を作り、1万余で昼夜気を抜くことなく待ち構えた。
義久は細作(敵情を探り諸工作を行う)を派遣し、1万余で17日夜襲した。島津軍は猛烈に攻め、宮部の陣を破り、北上を始め、宮部軍は敗走寸前となった。これを高城川にあって救わんとした秀長は尾藤甚右衛門の諫めで思いとどまる(後に激怒した秀吉から所領没収の上追放)。藤堂高虎・黒田長政が怒って川を渡り攻め入り、秀長の臣羽根田長門、小早川隆景が続き、宮部息を吹き返し戦う。その後も増援相次ぎ、島津軍逆らえ戦うも衆寡敵せず、島津忠隣(註)以下300余人戦死し負傷者は1000余、義久兵を退き、諸所に火を放って、都於郡に集め、その後列伍整々として乱れず。故に秀長軍追わず。
註:薩州家当主義虎の第2子で歳久の養子19才。母は義久の長女、歳久の娘を娶る。
特筆事項
衆皆島津に叛く中での撤退を成功させた、自立と献身と機転
歳久・征久軍は2組に分け交互に相援けて府内から肥後へ下がった。その間叛島津ゆえに苦しい状況が生じたが、新納忠元・伊集院久春は進んで戦い、機転を働かせて、無事の撤退・帰国に貢献した。窮地で(混沌とした状況下にどう行動すべきかを自分で考えだすという意味で)自立して尚且つ機転を働かせそしてそれが献身であるという島津士風の新たなページを加えた。
まず、降った岡城主志賀道輝が叛き、歳久・征久軍を追って、坂無に至った時、大軍で攻めかかった。この時前後に離れていたため、味方は苦戦に陥った。これを聞いて、新納忠元・伊集院久春は既に遠く退っていたが家来を返して窮地の兵を援け、自分たち道輝がいる陣内を攻め、敗走させた。
隆造寺政家は尾牟田にあって、船をもって八代の海から日奈子の漁村を放火し薩軍を脅かした。忠元・久春進んで尾牟田を討って、主力を八代入城に入れた。球磨を過ぎる時、20代当主相楽長毎(頼房)は義久を援け紙屋にあって不在であったが、人吉城主深水宗芳は関わらないが得、と考えたか何か思うところがあったのか、病と称し顔を出さず。忠元はにわかに城にはいり、病を忍て境界まで送れと厳命、宗芳は止むを得ず送り、大岩瀬川を無事越え、一人も損せずに、国に入った。
忠元については度々取り上げてきた特に日新斎・貴久の人作りの代表例として扱ってきた。今回は自立して献身と機転を発揮し、軍が苦しい時に真に役立つという面を強調した。後程降り様でも触れる。
伊集院久春は久信の別名である。義弘の下で、横川の戦い、馬越城の戦い、木崎原の高い、高城川の戦いなどに従軍し、義弘の戦い振り・統率をまじかに見て、薫陶・感化を受け、島津の士風、戦いと人作り、を最も濃厚に受け継いだ。義弘が義久にあてた降伏直前の書簡の中で、祁答院を守るため歳久に久春をつけるよう具申している。それほど義弘の信任が厚かった。横川地頭を経て最も義弘に関わりが深く思い入れが強い飯野地頭を拝命し、義弘の国老にもなっている。今回は自立して献身と機転を発揮し、軍が苦しい時に真に役立つという面を強調した。
なぜ根白坂の夜襲かー戦いの目的考
目的として①戦いで高城を救出、②(義久・義弘の中だけであろうが)和平を念頭に、一矢報いて有利な条件で戦いを止め、高城を救出、③釣り野伏で決戦に持ち込むの3案が考えられる。当時島津は長期の遠征で兵を損耗し兵は疲れ失意に陥っており、多くを国に帰し給養させる等撤退に伴う態勢立て直し、に躍起となっていたはずであり、根白坂を攻めた1万余という軍勢は後詰の義久の手持ち、ありったけ、ではなかったか、と思われる。これに比し秀長軍は数~10倍の勢力で、差は歴然としている。①の場合、夜襲部隊が高城まで進出し、囲みを破って、城内の勢力と合一して自力で下がらねばならないが、いたるところで決戦に陥り、全滅の恐れが強く、これは難しい。③の場合、根白坂或いはその西に敵後続を釣りだし、その間敵の圧力に耐える正面兵と強力な伏せ兵が必要であるがそこまでの力は残っていない。となると②となる。果敢に攻め、敵の心胆を震えさせ、進軍を躊躇させ、停戦に持ち込めればそれでよし。ただし、戦いの止め時、退き方が難しく、主動的である必要がある。引き際に放火し、兵の進退を統制し列伍整々猛然と進み、(逃げ足を見せずに)厳正に退いた。隆景・孝高は使いを秀長に使わして、鉄砲を装備した大軍が左右の峰に構え、追撃は大いに利無しと報告し、追撃しなかったという。はたして義久・義弘は停戦に応じ、祖父日新斎・父貴久の例を念頭に他日を期した。停戦がなった後、城主山田有信に城を出させた。この停戦後も、義久・義弘は秀吉に対し、よりよい条件での和平、降伏ではない、を追求しようとする。
《その後の展開》は後述(降伏特筆事項へ)
《島津のDNA》他日を期すための偽りに近い和を結んだ例は天文11年夏日新斎は加治木城を攻めた際、生別府を本田薫親に掠め取られ、偽りの和を結び他日を期した。天文17年貴久は本田を討ち生別府を回復した。
《島津の士風に新たな風》逃げない、乱れない、追う者・行く手を阻むものは容赦しないという戦いの止め方・退き方の迫力が加わる。
島津の降伏
《日向正面》、根白坂の戦い後、義久・義珍(義弘)は秀長と和を結び、伊衆院忠棟を質として、停戦す。高城城主山田有信は未だ降らず。義久の説得で、城を去り、都於郡に至る。
義久・義弘からすれば時間稼ぎの停戦の意味合いも持たせたであろう。
《肥後・薩摩正面》
秀吉泰平寺へ
3月27日豊前小倉に着いた秀吉は、秀長を豊前・豊後周りで、自らは筑前・肥後周りで島津征伐に向かう。秀吉は16万を引き連れ先ず島津に同盟し、筑前で36万石、24城を持つ秋月城主秋月種實攻略にむかった。4月1日、種實の出城岩石城(田川郡添田町)を一日で落とし、益富城にいた種實は古処山城へ逃げ込んだ。この益富城を一夜で修復し、古処山城(城主秋月種長、種實の子)を攻めんとした。種實・親子は降伏を願い出て許され、島津征伐の先陣に立たされた。秋月に5日~9日まで滞在し、立花・秋月・高橋・筑紫・原田・城井などが参陣した。征伐の最大のガンを取り除き、勢いのついた秀吉軍は意表をついて、船で佐敷の津(肥後)に上陸し、薩摩出水に入った。薩州家7代・出水城主島津忠辰戦わずして降り。船で川内川を遡り、4月25日水引(現薩摩川内市)泰平寺を本陣とした。忠辰配下の高城・水引、高江・隈ノ城降った。平佐城(現薩摩川内市)地頭神祇忠〇(あき、日偏にとじぶたの下に力のつくり)は28日以降大軍に囲まれ攻められるも良く戦って退ける。
義久降伏次いで義珍(義弘)も降伏
5月1日、義久は都於郡を出て鹿児島に帰り、義珍(義弘)は飯野へ帰る。家久は佐土原で秀長を応接した。秀長は野尻に移り、群を抜く家久の将略英気を忌み、6月5日宴を開き鶴を食させ殺す(と西藩野史にある)。家久41才。義久は5月6日髪をそり龍伯と号し、泰平寺に至り、秀吉に謁し、降伏の儀を行い。翌日薩摩国に封ぜられた。伊集院忠棟等これに従い、秀吉に謁す。第3女亀寿(後義珍(義弘)の嗣子家久の妻)を質とす。義久は桂神祇忠〇に城を降るよう命じ、忠〇は泰平寺に至り、秀吉に謁す。秀吉は陸路宮之城に入った。この時、歳久は顔を出さず、(こうふくの儀を行わず)、家来を案内につけ、(わざと)嶮路に導き、一行大いに苦しんだ。途中秀吉の籠に矢を射かけさせたが、難を予期した秀吉は後軍に移り空籠であった。秀吉は行軍中に調べさせたが分からず疲労困憊して鶴田に到着。
義弘は鶴田で秀吉に謁し、大隅国に封ぜられ、嗣子久保には日向国諸県郡が封ぜられた。秀吉は天堂が尾(曾木)に移った。
大口城主兼地頭の新納忠元は降らず、徹底抗戦の構えであった。義久の二度目の説得で忠元は天堂が尾(曾木)に到り秀吉に謁す。
秀吉の仕置き
《国割》これ以降秀吉は大口から平泉・上場を通り肥後を経て筑前博多に到り逗留して国割を行う。薩摩・大隅・日向諸縣郡以外の国割の仕置きを行った。義久・義弘・久保以外に島津以外の他の大名と並んで家久の子忠豊が加えられている。
筑前国を小早川隆景(後に養子秀秋が備前・備中・美作72万石に転封され、筑前は黒田長政に給う)、豊前6郡を黒田官兵衛孝高に、豊前2郡を森壱岐守に、肥後12郡を佐々成政に、肥後2郡(球磨・葦北)を相良長毎に、筑後久留米を毛利元就に、山下を筑紫広門に、三池を蒲地某に、柳川を立花宗茂に、日向国佐土原・三納・穂北・富田を島津忠豊(家久の子)に、高城・財部・福島を秋月種實に、宮崎・縣を高橋九郎に、飫肥を伊東義祐に給う等である。秀長も野尻を発し博多へ向かった。
特筆事項
よりよい条件での和平(停戦)の模索と挫折
(何故根白坂の夜襲かに続く)秀長に対しては根白坂の夜襲を行い、よりよい和(停戦)を結んだ。秀吉に対しても、より良い和平(停戦)を期したであろう。天正15年5月7日付で義弘は義久側近の本田親貞に義久へ披露すべき書簡を送っている。それには「秀吉軍にたいして入来院は歳久に伊集院久信に加勢させ、堅固にまもること。真幸院は、自分が飯野で懸命に支える覚悟であるが飯野が落ちないうちに早めに講和をすべきこと。日向の安堵が叶えば宮崎を霧島神宮に寄進すべきであること」(要旨)。と書かれている。義弘は秀長との和約(停戦)には腹うちで拘泥せず、少しでも長く秀吉の侵攻を持ち堪え、或いは野上の秀長が約を違えた場合には対処して有利な講和を引き出すよう考えていた。また日向の安堵が和平の条件と考えていた。しかし、翌日の5月8日、義久は降伏する。意表をついて秀吉が大軍を船で佐敷の津(肥後)に上陸し、出水・水引と無人の野を行くように席捲し、野尻では秀長が大軍を率い、ことあらばの態勢を取り圧力を加えている。義久は条件闘争などやっている状況ではない、降伏以外の選択肢はないと考え、ひたすら恭順し、許しを得ようとした。薩摩一国(のみ)が安堵されたのは翌日である。薩摩だけ、か?と義久のなかで領国の形にたいする不安は増したであろう。義弘が鶴田で秀吉に謁し、大隅国に封ぜられ、嗣子久保には日向国諸県郡が封ぜられたことで、義久は義弘や久保に与えられたものは自分に与えられたと解して、許された領国の全体像を掴み、秀吉流統治のやりかたを理解したが弟義弘が自分と同格と扱われることに島津内部への嘴入とそれによる内部亀裂、の危険を感じた。島津の新しいスタートはここから始まると承知した。義弘は義弘の決断に従い、問題意識を共有した。
秀吉流統治のやり方と危機の芽
自分のもとに出頭して降り、早期征伐に功があったものを許し、意に反して打ち解けて丁重に扱う寛容さを示した。しかしその裏では秀吉配下として相応しくない者には容赦なく改易をする苛烈さを持ち併せていた。出頭し降伏した島津を義久には太守の座は認めるが所領は薩摩国一国しか与えず、義弘には大隅国を与えて義久と同格の大名とし、島津を2分化し、義久の力を低下し、一方で義弘を引き上げて、遠国薩摩をコントロールし易くした。後に島津に危機が生じる芽(日本一の遅陣等)が生じた。一方で主君の命がないかぎり飽く迄戦う意思を示した有信や忠元や桂神祇等は褒め、秀吉配下でも不変の価値を示した。
島津のなかで忠棟や家久は降伏を進言し真っ先に自分(秀吉)に従った、秀吉は島津忠棟(荒侃)には肝付を与え、家久には佐土原を安堵して、重用した。両者は義久の許しなく降り、忠棟は質となり交渉を受け持って秀吉内部に食い入った。秀吉は義久に上洛を命じ、途中逗留中の博多に寄らせ宴を設けたが、忠棟も同席させた。それを義久はその場で知って違和感を持った。後に島津に危機が生じる芽(後忠恒の荒侃手打ち~庄内の乱)が生じた。家久は秀長に全国どこでも自分に見合った禄を得たいと申し出、和約後の秀長の接遇に当たっている間に急死した。野史では秀長に殺されたとあるが、不自然である。弟家久の言動は島津の崩壊を招く由々しきことであり、きつい叱責・軋轢等があったと思う。その板場挟みにあってか、家久は急死した。深くはわからない。しかし秀吉は家久は殊勝であるとして佐土原を家久に返付し、国割仕置きで、その子豊久に佐土原その他を与え、島津のなかというよりは他の大名並びの扱いを示した。
歳久は出頭して赦しも乞わず、どころか嶮路に導き、矢を射かけた。秀吉は見過ごせないことであったが、義久の降伏と征伐の終了及びその後の国割を最優先にして目をつぶった。従って、歳久は大名として認知されず、許してはならない人物としてマークされた。ここにも後に島津に危機が生じる芽(後秀吉の歳久責め)が生じた。
家臣3人の降り様
高城城主兼地頭山田有信、大口城主兼地頭新納忠元、平山城主兼地頭桂神祇忠詮は義久が降っても(有信は秀長との和約がなっても)戦い続け、義久の命で、漸く降った。主君の命で戦い、命なければ戦いを止めない、という最高に純な信義則を体現し、敗戦し乱れ始めた島津士風並びに戦国乱世の武士道の気付け薬となった。傍らで薩州家7代・出水城主島津忠辰は私情を挟み、戦わずに降り、配下の城主も右へ倣った、ことと好対照であった。忠辰はその私情で朝鮮の役では秀吉の激怒をかって改易となる。
有信は大友・秀長と2度も大軍に攻められたが守り通して任を全うし、命があり、我が子有延を人質として降って城をでた。後に除髪して理安と称し、義久の国老となる。義久が病重くなり調理甲斐なしと思われた時、身を以て変わらんことを祈って死ぬ。義久は病が癒えて、その死を悲しみ詞と和歌を送った。詞(要旨)「猛き心を専らとして傷を蒙り名の誉れあること度々なり。然るに忠節のものなれば内外をいわず召使いしに、予五三年の間、理安心地例ならず怠りなきことを嘆き身の代わりになれと言いける(略)」。歌「はちすはの おきこぼしたる露の玉の終りや君がために捨てけん」。これらに義久に映った有信の真が輝いている。
何度も言ってきたが、有信の尽くすまことは忠良が有信の祖父有親を切腹させたことに始まる。有親は天文年間の初め頃に薩州島津家の島津実久に与して島津忠良・貴久父子に反目、天文2年(1533年)に降伏したものの二心を疑われて切腹に処された。忠良はそれを悔い、その子有徳に山田氏の本貫地である日置郡山田を継がせ、貴久の家臣とした。その子有信も幼少のころから貴久に仕えさせ、自らも薫陶・感化を与えて、武人として大成の基礎を作った。有信は背いた家系という冷たい視線も意識して、懸命に尽くす心を磨き続けた。
人質となった有信の子、有栄もまた尽くす心を発揮する。それは改めて。
高城城跡には木城町が有信を讃え、言い伝えようと告知板を立てている。
忠元は秀吉が薩・隅・日3州に入り無人の野を行くが如く振る舞いを許さない、と公言し、降伏した義久の2度にわたる説得で、忠元やむなく出頭し、秀吉に謁した。その時のやり取りが如何にも忠元の面目と島津の士風を著して面白い。秀吉から長刀と酒を賜った。忠元鬚を震わせ、酒を盃を飲む。それを見て細川忠興が即興で「口のあたりに鈴虫そなく」と詠みかけた。忠元は首を上げ鬚を撫でて「うわひげを ちんちろりんと捻り上げ」と返して酒を飲み終わった。秀吉感嘆してやまず、「汝まだ戦うか」と問うた。忠元「龍伯兵を挙げは我鋒を把って前騎たらん」と答え、席上駭然(驚く様)とさせ忠元退出。何度も登場するが今回はこれだけにとどめる。
桂神祇忠詮は島津忠国の4男勝久が祖。父忠俊が姓を桂に改めて以来。豊後攻めから帰城2日後に小西行長らの大軍の攻撃をうけたがその泰然とした様に家臣は勇を揮って撃退、義久は泰平寺に出頭し、降伏、義久の命で降って、秀吉に謁し、秀吉から宝寿の短刀を下賜された。文禄・慶長の役に6年間、関ケ原の役に義弘に従い、退口で貢献。揺るぎなく尽くす心がその一生を貫いている。(その3終り)