1危難に進んで立ち向かう心
武人福島大尉の専心と最善を両立する心は隊員の共動となって現れた。隊員一人一人は命令・指導されたから、に止まらず自ら考え行動する域にあった。これは関わった部外の道案内人にも見ることが出来る。八甲田山雪中行軍に於いて増沢から青森(当初は田代新湯迄の約束?)まで道案内した熊ノ沢部落の7勇士にも、大吹雪の岩木山雪中強行軍に於いて、道案内を懇諭され、終には応じた松代村の村民にも見ることが出来る。この点を強く感じたこと。武人の心を思うシリーズで令和の今だから思うこと・大伴の心に今こそ立ち返るの項の中で、今のタガが外れた日本人で本当に国の大事に大丈夫か、と思ったこと。
これらを切っ掛けとして、日本人の武の心を思い始めた。これも武人の心同様に新境地であるが、下地は出来ていた。実をいうとブログの福島旅の中で、部分的ではあるが日本人の武の心を取り上げている。国民の国を護る気概・国民の自衛隊への協力が不可欠な今の日本における重要なテーマであると思う。いずれ書きたい、と思うが先ず日本人として忘れてならない、危難に進んで立ち向かう心について4例ほど紹介しておきたい。
八甲田山雪中行軍において、熊ノ沢部落の7勇士は最も厳しい48時間50分の不眠行軍の道案内を終始先頭に立って行い、役割を果たすことに全力投入した。特に印象的なことがある。平成21年月2度目の青森旅行で、柏小学校を訪れたが、廃校になっており、途方に暮れて近くで農作業中の方に尋ねたところ、たまたま7勇士の子孫に当たる方で、吹雪の田代台行軍では目標がさっぱりわからず、道案内人は風の最も強く吹く高い所を歩き、体で風を受け方向を感じて先導した、何故なら台地上は西北の恒風が吹き抜けているから、と言い伝えられている、とお聞きした。この話に7勇士の真骨頂を感じた。増澤出発の際に初めて顔を合わせて、田代新湯迄案内のはずが、いきなり極限状況に陥り、逃げたくもなったかもしれない、行き着けず露営となった。その田代露営地から道案内を喜んで延長し、先頭に立ち、献身的に役目を果たし切った。ブログ「塾者《ことを為すリーダー》福島大尉への歩みその十三八甲田山雪中行軍の総括(続き)」ここをクリック。岩木山雪中強行軍において、鍋河岸で進退窮まった軍を案内人が機転を利かせ村民全体で救援した。八甲田山への道のりーその三山場の岩木山雪中強行軍(二)厳しい場だからこそ得られたものは?ここをクリック
註:挿画は道東旌表碑、文中の7勇士を讃え熊ノ沢青年団が昭和年に建立。
以上の点の根底にはたとえどんなに気が進まないことであっても引き受けた以上はその役割を果たして相手(目の前の人とその背後の軍・国)に尽くすという精神がある。
ブログ「【よろく】八甲田山雪中行軍におけるリーダー福島大尉の実行力ーその十五山場を越えて、意を強くしたこと(続き)-極地におけるもののふを思う」ここをクリック、から。文武天皇以降でわが日本が他国に侵攻された3つの場を捉える。
寛平6年(894)新羅侵攻事件では突然対馬が襲われた。対馬の国主文室善友すぐさま立ち向かい、自ら先頭に立って撃退。寛仁3年(1019)刀伊の入寇では対馬・壱岐が蹂躙され壱岐守備隊は全滅・壱岐住民は10分に1に激減、筑前諸国も荒らされた。筑前の初戦で現地住人(註)が召集され、大宰府の兵と共に戦う。権帥(ごんのさち;大宰府の次官)大納言藤原隆家、現地防衛の要として臆せず活躍。
註:当時、地域の有力者・有勢者などの地方名士に与えられる名称
元寇において、最初の侵攻(文永の役)では元軍は対馬・壱岐を蹂躙し、筑前怡土郡今津、一部は百道原に上陸、主力は博多・箱崎方面に上陸し、3方向から大宰府を目指した。赤坂正面に急派された肥後の御家人菊池武房・竹崎季長は、敗色濃厚で甚大な損害を出しながらも、勇猛果敢、一歩も引かずに戦い、舌を巻いた元軍は孤立して夜を過ごす恐怖に耐えられず、船に引き上げた。赤坂山を死守し元軍の早い時点での戦力合一を許さなかった奮戦がその夜の神風による元軍壊滅の大きな伏線となった。弘安の役では、東路軍は単独で侵攻し、壱岐・対馬を蹂躙し、博多正面に向かったが、築いた防塁のため上陸できず、博多湾口の志賀島付近に出現、大船団が西戸崎付近に蝟集停泊一部は上陸した。日本兵は数次にわたる、夜襲を伴う、海ノ中道伝い及び能古島からの海上攻撃により、13日頃まで大激戦が続いたが元軍は耐え切れず敗走した(緒戦ー志賀島合戦)。元軍は態勢を立て直すため、壱岐ついで鷹島に退いた。この元軍に対し、日本軍は海上決戦を挑み、大損害を受けた元軍は、鷹島で艦船修理中に神風により壊滅した。
1-3 軍の側面支援の例【危難に立ち向かい/自分の分を果たす心】
志賀の島には火焔塚(挿画)・波切不動尊がある。火焔塚のいわれによると元軍来襲に際し、高野山の僧侶が天皇の敵国降伏の院宣をたいし、眼下に夥しい元軍の艦船を見つつ、弘法大師作の波切不動を据え、灯明を掲げ、一心不乱に祈願した、という。国難にわがみを顧みることなく当たった僧侶の篤い心を何時までも伝えんとする心を今でも綺麗に整備された波切不動のお堂への道が物語っている。元の心史に拠れば日本兵は頑強で死を恐れず、十人百人に遭ってもまた戦う。敵に勝てない場合、敵と刺し違えて共に死ぬ。戦い敗れておめおめ帰ってくるようなことがあれば、倭主がこれを成敗してしまう」。「倭婦は性質はなはだ烈しくて犯すことが出来ない」とあり、一般の婦女子まで敵愾心が強かった。
大伴家持は兵部少輔として防人検校に難波の津に出張し、進上された歌186首を精査して84首を万葉集巻20に載せている。それには3つの特長がある。1つ、代表例4322「我が妻は いたく恋ひらし 飲む水に 影さえ見えて よに忘られず」のように別れの辛さ・切なさをうたっているものが75首、家持は人間の自然の情であるが防人としては弱い心となる悲別であり最も大事なものを思う心に共感した。2つ、代表例4373「今日よりは かヘリ見なくて 大君の 醜(しこ)の御盾と 出で立つわれは 」のように大王を意識し、任務を果たす覚悟について歌っているものが16首あり、家持は防人の弱い心に打ち克とうとする強い心、大元を思う心に共感した。3つ、代表例4330「難波津に 装ひ装ひて 今日の日や 出でて罷らむ 見る母なしに」のように難波津について触れ歌っているものが10首あり、家持は大伴が大王に尽くした歴史、特に全盛期を回想した。ブログ武人その心・大伴家持の武の心(その4 防人歌(前段))ここをクリック
以上から3つの感想を持つ。1つ、防人に応じる一般民衆の識字・和歌詠みというレベルの高さと歌進上の呼びかけに応じる前向きさから大君の御蔭の御代への信頼・感謝が込められている。2つ、作歌全体に、ありのままの心情が現れ、人間としての自然の情の表出とそれをありのままに出来る大君の御蔭の御代への信頼及び大王を戴いて相和す国柄(くにがら)(註2)や豊穣な美しい国土で四季の移ろいとともに豊かに暮らせる匡柄(くにから)(註2)への愛着が根底にある。3つ、大君を意識する前向きな歌16首が、2割を占めるという意味が深くはわからないが、当時の民度、素朴な敬神崇祖の感情面の意識の高さに加えて教育の意識の高い層の存在を表しているのではないかと思う。
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