福島泰蔵大尉に学ぶ武人の心―「顧みずの心」(下書き原稿)
    
始めに
私は退官後福島大尉研究にのめり込み、その集大成として二年前に「拓く 福島泰蔵正伝」を上梓した。福島大尉は自分のことをもののふと呼び「世の中の事をそ ゆめと思うふこそ 吾がもののふの 道を迷わじ」という歌を詠んでいる。彼の生き様を深く知るにつれ、上梓後に、この歌が私にのしかかってきた。彼がものすごく無理をして頑張って、単に軍人としてよりも、もののふ、武人、として生きようとしたのは、何故?が頭を離れなかった。日本精神に基づく武の心の連綿性というか永遠性を求める本気を感じ、武人の心を掘り下げ始めた。連綿と続く武人特有の心について福島大尉を起点に考えてみたい。起点とは八甲田山や黒溝台会戦における生き様に武人特有の心を感じたことをいう。そのキーワードは「顧みずの心」である。福島大尉が体現を誓った野外要務令綱領の「死生を顧みず本分を尽くす」、大伴家持が歌った「海行かば」、硫黄島を戦った栗林中将の「死生を顧みず本分を尽くす」、東日本大震災における原発災害における冷却放水隊や雲仙普賢岳噴火時の災害派遣隊等陸上自衛官の「危険を顧みず身を以て責務の完遂に務め以て国民の負託に応える」の「顧みずの心」の繋がりを考え、武人とはを考え、令和の今だから考えねばならないことに思いを巡らしたい。
 
第一章 福島大尉の「顧みずの心」
第一節 福島大尉の人生 
 福島泰蔵は慶応二年(一八六六)、群馬県新田郡世良田村の、回船業福甚の長男として生まれた。幼い頃から神官二人に国学や漢学・漢詩を習ったが相当な悪童で先生を困らせた。家業が傾き、弟妹五人を抱え、学問で身を立てるか家業(蚕の種を売買する業へ転換中)を助けるかで悩む日を送り、度重なる挫折を経て、明治一九年一一月、陸軍士官学校狙いで陸軍教導団(下士官養成機関)へ入団し、翌年同校の受験を許され、合格した。明治二五年三月、陸軍少尉に任官、高崎歩兵第一五連隊小隊長となる。任官に当たり、野外要務令綱領体現第一人者になるという誓いを立てる。野外要務令というのは陸軍の野戦における行動、戦いを律する基本となる規範である。その中の最も基本となる将士の心得が綱領で、冒頭には「常に戦いを基準とすべし」、締めは「死生を顧みず本分を尽くすべし」とある。少尉任官時に年齢オーバーで陸大を目指し、大軍を統率する道は厳しいと考えた福島大尉は実務面で頑張ることにした。明治二七年~二八年の日清戦争に従軍し、そこで貧弱な装備で多くの兵が負傷し、収容が追い付かず、そのまま半日以上雪の上に放置されて凍傷になるという悲惨な体験をし、兵を護るのは上長の義務という地に足のついた使命感、兵の痛みを自分の痛みと感じる持ち主になり、事後の原点とする。明治三一年十月弘前歩兵第三一連隊三大隊二中隊長になり、己の志の働き場を得て、兵を護り兵に役立つための冬季戦・行動の研究調査を始め、一連の演習・実験行軍を経て明治三五年一月八甲田山雪中行軍を行い成功させる。この研究成果をベースに二つの論文を書き、明治三七年二月日露戦戦争開始に伴い、九月山形歩兵第三二連隊中隊長として出征するが、明治三八年一月黒溝台会戦で戦死する。四〇歳。
人生で為したこととその為し様
 福島大尉は人生で四つのことを成した。①八甲田山雪中行軍。②明治三六年、第四歩兵旅団副官時に論文「降雪積雪の戦術上に及ぼす影響」。③山形歩兵第三二連隊中隊長時に、論文「冬期露国に対する作戦上の一慮」。④明治三八年一月、日露戦争の黒溝台会戦決戦で戦死。
以上のうち①及び④について簡単に話す。
第二節 八甲田山雪中行軍
 中隊長着任時に話を戻し、まず取り掛かった一連の演習・実験行軍について述べる。
最初は雪中露営演習
 明治三三年二月六日一五時~七日五時半、弘前市西南方原野で大吹雪、最低気温零下一二℃という悪条件下に行った。成果で強調すべきは三つ。一つは行軍に行き詰まって、風雪激しい場合の、最悪の露営を可能とする方策を明らかにした。具体的には横殴りの風雪には防壁が有効、現地の雪だけで作る壕もまた有効であると検証した。当時の行軍は風雪の厳しい場合は打つ手なしだったのです。二つ。零下一〇度で隊員は行動できることも検証した。当時の野外要務令は暖地のことばかりで寒地のことは何も定めてなく、尚且つみだらに細かいことを規定するな、という主旨が明示されていたので改正の気運は低調であった、基準とすべきことがないことを福島大尉は疑問に思っていた。三つ、この時の一二度は施設内で、採暖を許可したものであった。これらがない場合の零下一二度での露営を事後の目指すべき標準尺度とした。

 岩木山雪中強行軍
明治三四年二月弘前歩兵第三一連隊で教育中の下士候補生、一八名を選抜、福島大尉監督で、岩木山を横断し約五〇?の積雪山地を跋渉できるか否かを試した。大吹雪、視界ゼロ、道路全く埋設した積雪山地という悪条件下の踏破であった。岩木山南面は緩傾斜、大雪のため一面の荒野となり目標識別困難。北面は急傾斜、澤・河谷沿いの積雪は底に深く肩部はまぶとして張り出し、谷底・川への転落・埋没の危険に終始晒された。この経験を八甲田山の難所見積や危険見積もりに活かした。その他にも八甲田山に生かされた教訓がある。二つ、道案内人なしで臨み、道に迷い地元の人に道案内を何度も頼み込み、助けられた。三つ、雪に強い、且つ精鋭の下士候を使って、実験を無事成功させた。彼らのもともとの知恵に加え、今回の経験で得た知見を吸収すれば他の隊員であってももっと厳しい行軍に耐えられるという目処を得た。

 八甲田山雪中行軍の概要
 明治三五年一月二〇日、福島大尉率いる弘前歩兵三一連隊三八名は弘前を出発、中央山脈(弘前市側平地と三本木村側平地を分ける山地をいう)を越え、太平洋側の三本木にでて、それから田代高原台地を通り八甲田山(一六〇〇㍍級の十の山の総称)東麓を越えて青森へ、青森から日本海に沿って国道を弘前へ帰る。青森県を反時計回りに一周する全長二三〇?余、一〇泊一一日(九日は村落利用、一泊は予定外の露営)、という前人未到の行軍に挑み、無事成功した。
 
 この行軍の大変さはスキーもない時代に今と比べ遥かに粗末な服装・装備で中央山脈と八甲田山という二つの山岳を厳冬期に越えるという点にあった。山岳部では晴天は長続きせず、気象が激変し、荒れたが最後、吹雪常態、寒気厳しく常に氷点下以下、五~一〇㍍の深雪で雪に埋まり泳ぎ漕ぐという行軍であった。難所は五つあり、十和田湖手前の岩嶽森、十和田湖岸断崖道、犬吠峠、八甲田へのとりつきの田代台高原台地、そして最後に最大の難所八甲田山であった。なかでも田代での露営とそれ以降の八甲田山越が最大の難所であった。

田代台高原の難渋行軍と露営(行軍七日目、一月二七日)【挿図:資料第二区域概要図】。
 増澤から田茂木野間は三四?あり、中間の田代に民家一軒があるだけで、五㍍以上の積雪で覆われた台地は、間断なく続く降雪や激しい地吹雪のため視界も利かず一面の荒野と化していた。しかし福島大尉は岩木山南面の経験でこのことあるを予期していた。案の情、八甲田山から吹き降ろす西北の寒風をまともに受け、どこがどこやらさっぱりわからない状況に陥り、その日の宿に行き着けず延々一三時間?も歩き続けた末、最悪の露営となった。当初から最悪事態と考え本気で準備していたので対応できた。
 対応できたポイントは既に述べた三つである。一つ、露営演習で行軍に行き詰まっての露営の方策を明らかにしていたこと。二つ、岩木山雪中強行軍の教訓を活かし、ここがやばいと見積もっていた。前日は宿に(増澤)早めに入り確り準備し給養、不測に備え増加食の準備、雪濠構築等の露営用器材の分担携行、道案内人を七人確保等の手を打った。この道案内人は風の一番強い所を進み,体で風を受け、進路の方向である西北の方向を掴んだ。これは私の二回目の青森旅行で道東旌表碑を訪れた際近くで農作業をしておられた道案内人の子孫の方の言い伝えとしてうかがった印象深い話である。三つ、ベテランの知恵を吸収した。冒頭粗末な服装と言ったが、これについて精鋭な下士を使って岩木山越を行い、彼らの知恵・知見を活用して有効な防寒策を講じた。

そして露営間に三つの注目すべきことがある。一つ、露営間一人たりとも眠らせず、座らせず目を光らせた。疲れた体で座って暖を取れば眠くなり眠れば即凍死が分かっていた。二つ、露営間に隊員を給養させるため行き着けなかった宿を七名の嚮導に捜索させた。しかし、見つけられず、代わりに見つけた空き小屋で二時間の休養をして、体を温め、空腹を満たす。この効果は後の八甲田山越にとって計り知れない程大きいものであった。三つ、この時の気温は零下一一度に低下する。福島大尉は温度測定をしながら一二度になるか否かを冷静に判断した。雪中露営演習で得た標準尺度零下一二度には大きな意味があった。露軍は零下一二度になると露営を切り上げ、行軍を開始する、露営でとどまり続ける危険の方が大きい、ということを軍の実行規定として定めていた。その規定も、概念も日本陸軍には全くなかった。これを承知していた福島大尉は実際に露軍に並び越えるため、それを試していた。そんなことを突き詰めていたのは陸軍ひろしといえど福島一人であった。以上、福島大尉は隊員と全く同じ行動をしてなお冷静に指導や状況を判断していた。
 
続く八甲田山東麓越は超過酷
ここも最後に大山場が控えていると認識していたので、岩木山雪中強行軍の教訓を活かし、山間に散在する村落内の旅館や民家に泊まり、身軽にし、休養を取って疲労を持ち越さないようにしていた。しかし、二三日に襲来した史上最高の寒波が居続けた影響を受け、青森到着まで、露営に引き続く四八時間五〇分の不眠・疲労行軍となった。その本質は深雪下の道筋を探し続けたことであった。【挿図;資料第二地域区分図】八甲田山の東麓越では馬立場を最高点として道路の形状が大きく異なる。馬立場より南は上りで、駒込川へ八甲田山から無数の沢が流れ込み、雪解け水にえぐられて河岸及び澤は急峻な崖や谷となっており、道路はその沢を避けてうねうねと続く。雪は底部では一〇米以上、崖肩部では五㍍以上で、谷や崖上に張り出し到るところはまぶとなっている。道路は悉く埋雪し周辺の形状も全く変化して、道筋や危険の境界は不明で、迷いこんだが最後彷徨を続けるしかない魔の地域であった。遭難した歩兵第五連隊二一〇名の内、鳴沢・平沢という僅か一キロメートル四方の地域内で、七五名の遺体が見つかっている。馬立場より北は下りで、駒込川と横内川にはさまれた狭い山麓上に道路がある。両岸は急峻な崖。道路は全く埋雪し周辺の形状も全く変化して崖肩部はまぶとなっており、道筋から外れた場合まぶから転落の危険性は常にある。そのような状況で道筋を慎重に探すので時間も疲労も倍加すると同時に知らず知らずまぶから断崖や川に転落する恐れも強くなる。それをも恐れて慎重になるので更に時間がかかる。そうなると気象の激変に遭う危険性が増え、疲労や凍傷にかかり落伍者が出る恐れが増す、落伍者が出ればアウト、というきびしさで全員ふらふらになり、行き着くのが先か斃れるのが先か、という極限の行軍であった。最後の最後にやっと道筋をみつけ助かる。福島大尉はただ行くしかない状況の中で全くぶれずに、ものすごく冷静沈着に率先陣頭で乗り切った。ただ、この成果は青森第五連隊二一〇名全員遭難の陰に隠されてしまう。

次はもう一つの成した事である。
第三節 黒溝台会戦
 明治三七年二月日本はロシアに宣戦を布告し開戦する。遼陽会戦(八月)に勝つが息切れし、補給が続かず、決定的な勝利につなぐことが出来ない。沙河でにらみ合いを続けた。日本軍の第三軍が旅順攻略に手間取ってるのを見た、露軍は一〇月に俄然攻勢に出る、日本軍はこれにも勝つが、追撃できず、一〇〇?にわたり対峙のまま年を越す。国力が底をついて、翌年春まで待たないと奉天での決戦を準備できなかった。一月二五日露軍一〇万五千人は突如、日本軍の左翼、秋山支隊の種田支隊が拠点としていた黒溝台を襲った。不意を突かれた総軍は一〇月に戦場に到着し予備であった第八師団に黒溝台付近の敵攻撃を命じる。零下二五度の中、急進した第八師団は、黒溝台を放棄し誘致導入しての撃滅を決意し、二六日朝には展開を終り、早速第一線二ケ旅団で攻撃を開始する。ところが黒溝台に居座った敵は陣地を強化し、わが策に乗ってくるどころか、第一線の両翼側に回り込み、いたるところ戦線崩壊の危機となった。予備は一ケ旅団で、その中に福島中隊はいた。慌てた総軍は二ケ師団を抽出し、臨時立見軍を編成した。翌二七日、第八師団は予備の第四旅団を投入、三ケ旅団を並列して総がかりで攻撃再興した。予備は二ケ大隊しかない。その内の三二連隊三大隊の二ケ中隊の内の一つが福島中隊である。二七日、第五師団を右翼に投入し固め、翌二八日午前一一時頃第二師団が到着し、それを左翼に投入し、漸く両翼を固めて第八師団は前面の敵攻撃に専念できる体制が出来た。この日の午後第八師団は最後の攻撃にでる。この時、虎の子として最後まで温存された三二連隊三大隊の九中隊と一〇中隊(福島中隊)は戦場の焦点であった老橋西側の小さな丘に直ちに投入された。ここは開豁しており敵の機関銃や砲弾が集中するところで先頭に立ち我に続けと進んだ福島大尉は胸を撃ち抜かれ戦死した。最後の最後まで虎の子として拘置され、戦いの緒戦で開始四〇分後には戦死した。戦場に出発前の訓示では以下のように述べている。
 「わが中隊は後詰の中でも最後の後詰で精力を蓄えて来た。師団長閣下から全軍全滅を期して黒溝台に突入せよとの訓示があった。最後の新手は我が第一〇中隊である。決して他中隊に後れを取ってはならん。後詰中隊の名誉に責任が掛かっている。黒溝台一番乗りは万難を排し、第一〇中隊が決行する。今日は全員護国の鬼となって頑張ってくれ。自分が先頭に立つ、自分が斃れたら、指揮官にはこれまで訓練してきたとおり、つぎつぎにかわりののものがなる。小隊長も分隊長も同じことだ。黒溝台に突入したら誰でもよい、山形歩兵第三二連隊第一〇中隊の万歳を唱えてくれ。この大使命をはたすためには、互いの屍を乗り越えねばならない。負傷者が出ても見捨てて先に進め。負傷して落伍した場合は、命ある限り、進め、進めと声を上げてくれ。わかったな」
 
残された中隊は、夜に入り、夜襲に参加し、奇跡的に間隙をぬって黒溝台東北の高地にかじり付き、翌朝、これが呼び水となり、敵は全面的に後退した。中隊は黒溝台一番乗りを果たした。もし黒溝台が奪還できなかったら、最後の決戦である奉天会戦はなりたたず、勝って有利な講和を勝ち取るという日本の戦略も成り立たなかったのではないかと思う。

第四節 福島大尉の「顧みずの心」の真
 ここで福島大尉の任務の果たし様を整理すると。 
 八甲田山では命がけというよりはいつ死んでもおかしくない極限の状況で、生き死にを考えず、無事全員で行き着くという任務達成しか胸中には無かった。黒溝台ではほぼ死ぬであろうという状況で生き死にを超越し、ひたすら黒溝台一番乗りを果たす。この大使命を果たすため誰かが黒溝台に旗を立てよ、だけしか胸中には無かった。
 この与えられた使命や任務を果たすことに専ら心を砕く"専心"。言い換えれば使命を何よりも、例えば命よりも大事に思い万難を排しその実現に邁進する心こそ「死生を顧みず本分を尽くす」の「顧みずの心」である。
 朝日に匂う山桜花
 使命達成に専心する姿から朝日に匂う武人の香りの漂いを感じる。「敷島の大和心を人問わば朝日に匂う山桜花」という本居宣長の歌にある、それである。
  この歌の私なりの解釈をすると。日本人の心とは朝日に照り映える山桜花そのものである。そのものとは?桜は古来から大和人が最も好んで来た花で、日本人の心情そのものということである。従って、元々好きな桜の中でも夜の暗闇という試練を経て朝日に照り映える、このような咲きぶりの桜に最も美しさや雄々しさやもののあわれ等を感じるのが日本人の心である。
 
 福島大尉が弘前中隊長着任後五年をかけて、岩木山雪中強行軍や八甲田山雪中行軍という非常の困難に挑み、国難日露戦争の勝利の方略を、一人で全陸軍を担う気概で、追求し論文として提言する。黒溝台では予備中隊として最後まで温存され、決戦では乾坤一滴最後の虎の子として投入され、四〇分後には戦死する。残された中隊は遺志を受け継ぎ、黒溝台一番乗りを果たす。八甲田山雪中行軍にいたる五年間の風雪は勿論その以前の軍人修行時代更に前の青年期の人生修行時代からの試練に耐え、黒溝台決戦でパッツと咲いてパッツと散る、桜のような生き様・死に様に日本武人の心を感じる。
 
 兵を死地に投じる重さの深い自覚
 福島大尉は顧みずの心の一方で平素から人の上に立つ者として兵の痛みをわが痛みと感じ、無駄に死なせてはならないという兵を護る上長としての義務感に駆られそれを実践した。冬季戦の研究の全経過において兵を護り兵に役立つ実際的な成果を得ることを目的とした。また未知の困難に挑む厳しい場は冒険的意味合いを含んでいたが危害防止を徹底し、無事故で任務を達成した。これらの間、兵の命を護ることは夫々の訓練の目的であり、任務達成の一部であった。次の、来るべき、日露戦争に勝つために一人たりとも欠けてはならない、かけがえのない命、と認識し、部下を自分の命令で死地に投じる指揮官として、その責任の重さや兵の命の重さを深く自覚し、兵の命を守ることに最善を尽くさなければならない、と考えていた。
 
 福島大尉が考える兵を護る(兵の命を護る)とは真に戦える強い兵とすることであった。真に強い者こそが過酷な戦場で生き抜き、己を護れるのだ。寒中の行動・装具・武器等の最適化を不断に図りそれに習熟したり、兵站や休養を充実して強い気力・精神力を持つことなどが彼の本旨であった。
 
第二章 大伴家持の「顧みずの心」
 第一節 武人の心の始まりは
 福島大尉は明治三二年の軍旗祭祭文(連隊長式辞であり、原稿を福島大尉が作成)では文武天皇の御代から説き起こしている。その御代とは七〇一年の大宝律令制定、七〇二年の遣唐使派遣がある。「続日本紀」によれば律令制の中央集権国家誕生、三三年年ぶりに再開した遣唐使に倭国ではなく「日本」と称させ、「天皇」と元号を正式化した頃である。法治国家の原型である新国家誕生の背景は白村江で大敗し,唐の侵攻にどう対処するか、国家存亡の危機に外交・政治・国防の刷新【改革】を最大課題とした。その課題は改革後退派の大友皇太子と推進派の大海人皇子が争った壬申の乱を勝ち抜き即位した天武天皇、その後を継いだ持統を経て文武天皇に到るという天武皇統でやり遂げた。
 
 軍旗の起源
 この御代は外交使節等を招いての国家儀礼を誇り高く行った。その場を飾る祭具である日像幢、月像幢が後に錦旗の御旗になり、幕末に渡米した咸臨丸の艦尾に日章旗が掲げられ、明治になりその日章旗が国旗、旭日旗が海軍旗・陸軍旗に制定される。
 将兵は軍旗を天皇陛下そのものとして崇め、軍旗の前を天皇の御前として忠誠を誓った。
 
 日像憧は元日や即位式のときの威儀の道具であった。黒塗りの高さ三丈(約九米)の柱に、金漆塗りの九輪を貫き、その上に日にかたどった金漆塗りの円板に朱で三本足の烏を描いたものをつけたもので儀場の庭上に立てた。日をかたどった金塗の円板がデザイン的に錦旗や国旗や軍旗の大元であった。
 尚月像撞は 即位などの大儀の式場の庭上に立てた、唐様(からよう)の威儀の具。九輪をつけた黒塗りの柱の頂辺に、光彩をめぐらした銀地の円板をつけ、中に月桂樹とウサギとカエルをかき入れて月を表示したものである。これが錦旗の大元であった。

 陸軍の起源
 律令制以前、大和朝廷は朝廷に仕える連・伴造などの姓(かばね)を持ち、部民を許された大伴・物部に武を職嘗させていた。律令制移行後は職能の姓氏(かばねうじ)は廃止され、二官八省の中の兵部省や六衛府・防人等の兵制で国家が直接武を握る形となった。国家に直接仕えるという意味の武(人)の起源である。従って武人が奉公を尽くすべき相手は大君(後に「天皇」)と(概念として大君から分離し始めた)国家であり、武人の心の始まりはこの御代にある、といえる。

 しかし大君は律令制の中央集権国家以前から存するわけで、武人の心の源流(大元)を辿る必要がある。律令制は現代法治国家の原型であり、兵制も同じである。従って古代と現代(の原型)が同居しているこの時代に立ってみる必要がある。そのヒントは万葉集・大伴家持にある。

では万葉集、大伴家持の歌「海行かばに」に入りたい。
万葉集と大伴家持

 万葉集は日本最古の和歌を集めたもので四五〇〇首ぐらいある。「令和」の出典とされたので一躍注目された。奈良時代に天武天皇の命で集め始められ、後代で成立したと言われている。上は天皇から下は農民や兵士給仕女など様々で、上からの指導の目線ではない草莽の精神が歌われている。大伴家持が編纂者ともいわれているが、諸説あり、大きく関わっているのは間違いないであろう。実際最も多くの歌が載せられており、長歌四六首、短歌四二五首、旋頭歌一首、連歌一首の計四七三首である。全部で二〇巻あるが一七巻目以降は家持の歌日誌的色彩であるし、万葉集を閉じる最後の歌、天平宝字三年(七五九)年正月の賀歌「新しき年の始めの初春の今日降る雪のいや重(し)け吉(よ)ごと」も家持の歌である。家持は、これ以降、延暦二年(七八三年)に亡くなるまでの二四年間作歌がない。私が注目する作歌は「海行かば」、「諭族歌」、「防人歌」、「正月の賀歌」などである。
 第二節 「海行かば」
 そもそも「海行かば」とはどういう歌
  仏教での国作りを指向した聖武天皇は東大寺・大仏【瑠紗那佛】を寄付で作ろうとするが財政がひっ迫して困っている時に陸奥の国で採れた金が献上され「これで成る、皆と共に分かち合おう」と大いに喜び、『陸奥の国の金出を賀す詔』を落成前の大仏殿に面し、宣する。その中で大伴・佐伯両氏には「お前たちの祖(おや)は「海行かば水漬く屍、山行かば草生す屍、大君の辺にこそしなめ、のどに死なじ」と尽くしてくれた。これからもその心を持って尽くしてくれよ」と詔する。任地富山にいた家持は大感激をして『これに応えるための歌』(応詔歌)をはじめとする幾つかの歌を集中的に歌う。応詔歌の中で「海行かば...」の最後の「のどには死なじ」を「顧みはせじ」と言い換え、最後を大君の命の幸の聞けば貴み」と結び、感激の極みを歌った。

 家持が大感激した訳
 最古の武門大伴氏、部門を率いる伴の緒大伴氏が言い伝えて来た大君に真心を尽くしてお仕えするという志を歴代の天皇が良く承知しておられたことと歴代天皇は大伴氏を内兵(うちのいくさ)とお思いになっておられている、ことにあった。内という言葉は特別な意味がある。藤原鎌足が亡くなった時に天智天皇は親しく内臣と呼び弔意を表しているが藤原氏以外には耳にしない。ミウチという特別に近く親しい関係を表す言葉である。大伴氏が今の御代に到る間に赤心をもって尽くしたことを単なる言葉としてではなく、大伴の祖が官や職という役割を果たすことが大君に尽くすことという志を持って大君に仕えて来た。これは後述の歌の中で家持が「仕えし官(つかさ)」のあとすぐに「海行かば」と続け大君に尽くす言立て(志)を歌っていること或いは諭族歌で君の御代御代 隠さはぬ 赤き心を 皇辺(すめらへ)に 極め尽くして 仕え来る 祖(おや)の職(つかさ) と 言立てて と歌っていることから明らかである。その様を歴代天皇は目で見、耳で聞き、心に響かせて、言い伝え内兵という認識を持ったと考える。
 ここで役割というのは単に役目を果たすというだけではなく大君の期待を慮って動くという意味で役割と表現している。 
 
武門大伴氏はどのような役割を果たしてきたか
 天孫降臨から神武東征時
 大伴氏の祖は天孫降臨に従い、神武東征にも従い天皇守護と先導役を献身的に果たした。神武東征では言向け(話し合いの意)により各地の豪族を臣従させた。大伴の兵の力がバックである。熊野からの大和迂回は、策応者のいない厳しい状況で、久米氏が先頭し、真価を発揮した。
 最盛期は五世紀末から六世紀後半、室屋~金村の二代
 室屋(五~六世紀)は二三代雄略・清寧・仁賢天皇と三代の天皇に大連として仕えた。特に大和の豪族葛城氏を大泊瀬幼(おほはつせ)武(わかたけるの)皇子(みこ)自ら誅して二三代雄略天皇に即位、功を立てた。雄略天皇は豪族連合体の祭祀長的立場を脱し武力・政治力で統治する大君としての権威を確立した。雄略天皇は獲加多支鹵大王と倭王武に比定される。獲加多支鹵大王としては「天下を治めた」大王として地方豪族に刀剣を与え、倭王武としては自らの力で征服したとして倭国王に任命してもらう冊封外交を停止した。死後後事を託され、星川皇子の反乱を鎮圧し吉備氏を没落させ、清寧天皇即位に功を立てた。
 その孫金村(六世紀半ば~後半)は平群氏を誅し二五代武烈天皇即位に功を立て、その後皇統が途絶えたが、応神天皇の玄孫を探し出し二六代継体天皇即位に大功をたてた。事後二七代安閑・二八代宣化・二九代欽明天皇に大連として仕えた。
 金村は外交を任され朝鮮半島経営にあたった。金村の三男狭出彦、唐津・小夜姫伝説で有名な、が同盟国百済や植民地任那防衛のため新羅や高句麗と戦う等活躍した。大伴の(兵力)を外交の背景とし、大伴の(兵力)によって行き詰まった外交を決着するという役割を果たした。しかし継体天皇六年(五一二年)に高句麗によって国土の北半分を奪われた百済からの任那四県割譲要請を承認するが、これは失政で、欽明天皇時に退いた。
 
 壬申の乱での活躍、
 次に大伴に光が当たるのは壬申の乱である。壬申の乱は天智天皇が薨去されその後を継ぐ皇太子大友皇子と天智の弟大海人皇子の戦いである。この時日本中の豪族は二派に分かれて戦った。大伴は大海人皇子側につく。特に大伴馬来田・吹負兄弟は活躍した。主作戦は不破の関から琵琶湖正面で、支作戦は奈良(大和国)正面であった。吹負はこの支作戦正面を一人で担当し防ぎきった。他に安麻呂(家持の祖父、太宰の帥)や安麻呂の兄御幸の名も見える。この乱は皇位継承の争いの面ばかりが強調されるが私は以下の二点に戦いの意義を見出す。一つ、白村江の敗北後、唐の侵攻にどう対処するかという国家存亡の危機に外交・政治・防衛の刷新(改革)(新しい国作り)が問われた後退派と推進派の戦いであり、二つ、雄略天皇のときに確立された大君(天皇)の権威が史上最大規模の内乱に拠って揺らいだ、のでその立て直し、も問われた。推進派大海人皇子は勝利後天武天皇となり、天皇親政で刷新(改革)を進め、持統、文武天皇(草壁皇子の皇子)と天武皇統で成し遂げる。成し遂げることで揺らいだ権威を新しく制定した「天皇」の権威として確立した。大伴は武で戦いに勝ち「新しい国作り」と「天皇」の新しい権威確立の大元作りに貢献した。ここには万葉集・柿本人麻呂・大伴家持も歌で一役買った。柿本人麻呂は「近江の荒都を過ぐる時柿本朝臣人麻呂が作れる歌」や「高市皇子尊の城上の殯宮の時に、柿本朝臣人麻呂の作れる歌」で壬申の乱を鎮め、持統天皇を神と讃える歌「大君は神にしあれば雷の上に庵せられるかも」を歌った。大伴家持も 「 壬申の年の乱の平定しぬる以後の歌」と題し、巻一九-四二六〇「大王は神にしませば  赤駒の はらばふ田居を 都となしつ 」(大伴 御幸)、巻一九-四二六一「大王は神にしませば 水鳥のすだく 水沼を都となしつ」(作者不詳)の二首を載せている(天平勝宝四年二月二日)。歌意は田居や水沼を都にした天武天皇は神のごとき存在と讃えている。人麻呂の精神を家持は引き継ぎ確立した。万葉集で神(のようなという意味)と歌われる天皇は天武皇統のみである。何故かは他の皇統との顕著な違いを考えればわかりやすい。私は律令制の中央集権国家という新しい国作り(への草莽の大きな期待)だと考える。
 そうすると大伴は神武天皇、雄略天皇、天武天皇と皇統、国史の節目で大きな役割を果たしてきたことになり、家持はそれを強く意識していたことになる。
 
私の観察
 全盛時に室屋・金村は、誅する役、次期天皇の擁立役そして天皇から任されて大連となり政務を執る役更には皇統の維持と天皇の権威向上に直接貢献する。役割を果たすことで信任を得てその力と地位を得た。以上が先程の「内の兵(いくさ)」という聖武天皇の認識に繋がったと思う。
 
 大伴の表舞台からの去り方に尽くす考え方が良く出ていると感じる。金村は百済復興会議で物部尾輿に失政をとがめられて、退き住吉に住んだ。その姿は天皇に対し、責めを一身に負う以外の何物でもありません。権謀を使って他に責めを転嫁するとかライバルを倒すというような行動には出ていない。ただ崇敬の余り、自己の失政を恐れ入っているだけに見えます。
 また壬申の乱では自分の土地や部民が取り上げられるという方向性にも関わず、大海皇子に大伴挙げてつき、勝ちに貢献し、天武即位に功を立てる。大伴は私を捨て、役割を果たすことが尽くすこと、果たせなければ退くことが尽くすことと信じていたと思う。
 
 詔の中の「海行かば」
 今まで、詔の中にある大伴の祖の言い伝えは「海行かば水漬く屍、山行かば草生す屍となっても大君のお傍にいて、真心を以て尽くしたい、長閑な死など考えてもいない」という大君に尽くす志と理解していた。武人の心旅を始めて、大伴家持の関連する歌を何十回となく読み返した。すると、祖の言い伝えにはもっと深い意味があるような気がしてきた。
 例えば、仕えし官(つかさ)から始まる「海行かば‥山行かば草生す屍」という大変寒々とした光景は大伴の祖の体験に基づく実感ではないか、という疑問が湧いてきた。大伴氏は武の民を有しており、それを伴の緒として束ね、大君に仕えていた。金村の息子の狭出彦の朝鮮での戦いや筑紫の国磐井の君の乱鎮圧及び壬申の乱での吹負軍は多くの兵を失ったに違いない。であれば「海行かば‥山行かば草生す屍」には二つの意味がある、と考える。一つは、兵を水漬く屍・草生す屍とするような厳しい戦いを勝ち抜いてきた、という戦に代表される役割を果たしてきた実感であること。もう一つは、兵の水漬く屍・草生す屍を前にして、伴の緒(統べる者)として、兵を死地に投じる決断や死地に投じられた兵の命の重さの深い自覚が蘇り、その度ごとに、最善を尽くす決意を新たにするもの、であったに違いないというものである。この二つの水漬く屍・草生す屍にこめた意味こそ、大伴が何百年にわたって武の名門を維持してきた源泉であった、と思える。
 
応詔歌の中の「海行かば」
 これぐらいにして、応詔歌の中の「海行かば」に入りたい。
 家持は詔のなかの海行かばの「のどには死なじ」を応詔歌では「顧みはせじ」と言い換える。この応詔歌の中の「海行かば‥」の歌意は、「水漬く屍・草生す屍となっても大君のおそばで尽くしたい。そのお傍で尽くすという心を顧みない」覚悟の歌と捉えてきた。
 
 ところが先ほど述べたように祖の体験に基づく実感を表す志の言い伝えとして二つの意味のもとに見直し、家持が言い換えた「顧みはせじ」は大君に尽くすことと役割を果たすことの両方にかかり、その意を強める、と解する。従って役割を果たすことを顧みないとは役割を果たすことに専心することとなり、大王のお傍で尽くすことを顧みないとは大君に赤心を極め尽くして尽くすこととなる。また大君の辺にこそ死なめは強調ではなく、大君のお傍で死ぬこともあるかもしれないという意と解すると。【岩波国語辞典第四版、用例解より】
 
 「水漬く屍・草生す屍となるような厳しい戦いを勝つ、即ち役割を果たすことに専心して、大君のお傍で赤心を極め尽くしたい。それらのことで死ぬことも覚悟している。水漬く屍・草生す屍に向き合い最善を尽くす決意を新たにする」という祖の志と家持の覚悟の意が伝わってくる。
 第三節 家持の「顧みずの心」の真
 大伴は以下の三つを言い伝えの基本的考えとしていたと思う。一つは前述したように戦いが大伴が果たすべき役割の核心である。二つは役割を果たすことが尽くすこと(の実態)、である。従って役割を果たすことに専心することが大君に真心を尽くすことになる。三つ、戦いのたびごとに屍を前にして現実に向き合い、役割を果たすことや伴の緒の責めの重さを深く自覚して、死地に投じられる兵の命を守ることに最善を尽くすと決意することが兵の心を離さず、大事な兵を失わず、次なる戦いや役割に備える、ことになる。
  
 従って、家持は厳しい戦いに勝つことに専心する心、戦いを代表とする役割を果たすことに専ら心を砕く心を以て「顧みずの心」としている。
 
 そして二つの感想
 一つ、大伴の祖の武の役割を果たすことが尽くすこと、という考えや役割を果たすことに専心する心即ち【顧みずの心】は、儒教・仏教等何も混ざらない敬神宗祖の純朴性の下にただただ大君を尊崇して、生まれた。これは応詔歌で家持が聖武天皇の仏教による国作りについて、全然触れずに、良きことを始めたまひて、としか触れていないことに大伴の祖以来の精神の純朴性を見出したからである。
 それゆえに、じ後の武人及び日本人の奉公する(尽くす)心の原型(源流)である。
 
 前者(武人)については、大東亜戦争における硫黄島の栗林中将が部下将兵と誓った「日本精神錬成五誓」に求めることが出来る。同誓の第一項「日本精神の根源は敬神崇祖の念にある。純粋無雑の境地に立ち、この念をますます深め、我等の責務に全身全霊を捧げることを誓う」とある。敗色濃厚で、今となっては本土の人々の、それぞれの家族を含めた、生活がB29の戦略爆撃から逃れて、一日でも長く続けられるように、とだけに戦いの意義を求め、しかも再補充兵主体の兵団の戦意を高めるために、栗林中将が純粋無雑に行き着いた答えである。武人の心の継承であると同時に大伴還りの精神であったような気がする。栗林中将はその誓いを自らの行動を以て貫徹したが、そのことは別途触れたい。
 後者(日本人)については、志賀島の火焔塚を挙げることが出来る。火焔塚は蒙古襲来の時、敵の艦船や上陸兵とその戦いを眼下に見下ろす高台で、自分達への危害を顧みることなく、僧侶達が怨敵退散・降伏を願って護摩炊きの祈祷をした、その今に残る記念の塚である。ある年の第四師団記念日の帰りに元寇の戦いの跡を偲ぶため、博多湾が見下ろせる高台を探して上る途中でこの塚を発見した。今思うとこの祈祷は大伴の役割を果たすことが尽くすこと、を原型とした日本人の尽くす心である。
 
 二つ、武人が奉公を尽くす相手は古代の大君を原初として、奈良時代の大君(天皇)と(大君と分離し始めた)国家、近現代の天皇・国家・(硫黄島では国民が明確)へ、そして今の国家・国民へと表面上は移り変わっているように見える。しかし役割・任務・責務を果たすことに専心する心(心の型といった方が適切かも)は不変である。そこに武人の真がある。
 応詔歌の中の「海行かば」の意義
 この応詔歌は大伴の祖の大君に忠を尽くす言立て(志)の言い伝えと継承者家持の覚悟の歌であり、その基盤には、家持の歌全部に通じる基本精神として国を貴び国を護る精神と建国以来大君の忠臣として連綿と続く一つの皇統を支えた国史観がある。他の歌人には無い精神である。国を貴び国を護る精神とは大君を尊崇し、その大君を戴いて君臣相和す国柄(くにがら)や自然豊かで四季の移ろいが美しい国土で民がその実りを享受して人情豊かに暮らす国柄(くにから)を愛でる心のことである。
 くにがら:国の成り立ち、国体
 くにから:国の本性、まほロな国であるわけ(以上広辞林第五版)
 
従って海行かばは鎮魂の歌でも戦意高揚の歌でもない。後世の人の解釈が生み出した産物であり、大元はここにあるということを先ずは押さえておく必要がある。

第三章 栗林忠道中将の「顧みずの心」
第一節 作戦準備
 先程ふれた硫黄島の司令官栗林中将に入って行きたい。栗林中将は昭和一九年六月八日硫黄島進出後、兵団司令部を父島から硫黄島に移し、水際撃滅から沿岸撃破(縦深防御・後退配備)方針へとの変更を決断した。最後まで同島から一歩も出ることなく、一貫してこの構想に基づく作戦準備を進めた。海軍は空海の作戦能力を全く失い、孤立無援で本土の外郭要地持久という厳しい覚悟をしつつ、一〇月に概成し、これを更に拡充して、一二月八日に決勝訓練・築城へ移行した。地下一〇米の地下坑道構築を三ケ月をめどに着手し、二月米軍の進攻を迎えた。防御構想の特長は全島の要塞化にあり、人装備等を地下洞窟陣地で完全に掩護、主陣地帯は水際~主陣地~陣内の複郭陣地、その他は拠点陣地に拠って靭強に戦い、最後は師団後方地域における独立的拠点陣地の戦闘という全縦深で戦い、組織的戦闘が不可能となっても、最後の一兵になるまでゲリラとなって戦う戦闘意志を明確にした。また敵火力発揮制約下における対戦車肉薄攻撃・夜間挺進斬り込みを賞揚した。毎日島内を見て周り、強い信念と決断で、合理的・実際的・先見指導により複雑な作戦準備を一二月までに決勝訓練の域に達せしめた。水際撃滅に拘り反対する声も大きかったが、重圧を一身に背負った。上級幹部でどうしても支障になるものは一二月に異動させた。作業・生活環境共に劣弱であった。地中を掘ると硫黄臭が鼻をつき、地熱が高く一米以上も掘ると褌一つで汗だくとなり、華氏九〇度(摂氏三二.二度)から一二〇度(摂氏四八.八度)で交代作業(三分間)を行わざるを得ず(以上栗林中将談)、飲み水や風呂も極端に制約され、野菜はすべて乾燥野菜で酒や甘味も乏しく、風土病にも悩まされた。加えて激しさを増す空襲の心理的・物理的ダメージも大きかった。敵の空爆や艦砲射撃により、陣地施設は壊され、その補修所用も膨大であった。この困難な状況下、将校の特別扱いを厳禁し、自らも兵と同じ生活をして不便を共にした。誰よりも現地を知っていると評判であり、兵団長の顔を知らない兵はいないと言われていた。この姿が兵の不満を解消し、士気を高めた。
 栗林中将は心技体も含めた決勝訓練の完成域として、①日本精神錬成五誓(誓訓)、②敢闘の誓い、③擔兵の心得を定め、唱和した。

一 日本精神錬成五誓(硫黄島部隊誓訓)
 日本精神の根源は敬神宗祖の念より生ず 我等は純一無雑の心境に立ち益々此の念を深くし我等の責務に全身全霊を捧げんことを誓う
二 日本精神の基幹は悠久三千年の尊厳なる国体より生ず 我等は此の精神を蹂躙する敵撃滅の為凡有苦難を克服すうことを誓う
三 日本精神の涵養は御勅諭の精神を貫徹することに在り 我等は愈々至厳なる軍紀風紀を確立し猛訓練に耐え必勝の信念を益々強固ならしめんことを誓う
四 我等は国防の第一線に在り 作戦第一主義を以て日本精神を高揚し上聖明に応え奉ると共に下殉国勇士の忠誠と銃後国民の期待に背かさらんことを誓う
五 我等は国民の儀表なり 此の矜持と責務を自覚し身を持すること厳に人を俟つこと寛かに日本精神を宣化せんことを誓う

敢闘の誓い
一 我等は全力を奮って本島を守り抜かん
二 我等は爆薬を抱きて敵の戦車にぶつかり之を粉砕せん
三 我等は挺進敵中に斬り込み敵をろく殺せん
四 我等は一発必中の射撃に依って敵を撃ち斃さん
五 我等は各自敵十人をさされば死すとも死せず
六 我等は最後の一人となるも「ゲリラ」に依って敵を悩まさん
第二節 戦闘指導
 栗林中将が描いた通りの作戦様相と推移であった。二月一五日圧倒的な敵航空機・艦船の砲爆撃に続き、一八日、地上部隊は二ケ師団で上陸し、その後は三ケ師団で攻撃した。その強圧下に苦しい苦しい戦いを強いられたが屈することなく、焦点に立ち、的確に戦闘指導した。旺盛な戦闘意欲と強い指導心は変わることなく、幕僚に前線へ進出させ、要求した通りの戦いぶりには機を失せず、自ら筆を加え、感状を授与し、上聞に達せしめた。例えば擂鉢山から主力に合流した長田大隊の残存者が亡き長田隊長の復仇の念に燃え、血書を持って志願した長田挺身隊(長水野軍曹以下一〇名)に対しては、三月二日~五日の間に西海岸汀線沿いに襲撃を行いつつ、硫黄山山脚深く潜入し、斬り込みを実施し、五日朝生還したことを「部隊長への絶体恭順の至情と本職提示敢闘の誓いを如実に具現した」と五日に賞し、その武功は七日上聞に達した。

 栗林中将は三月八日玉名山地区守備中の第二混成団長大須賀少将の最早これまで、との旅団総攻撃意向を思いとどまらせるため反対した。将兵に万歳突撃や演習の様にむやみに突っこむな、一人が十人殺せ、と最後まで戦い抜くことを混成団長個人にも求めたのだ。しかし、大須賀少将は従わず万歳突撃を遂げた。三月一六日決別電報打電後、敵の隙・油断を待ち、三月二五日夜、敵後方宿営地に奇襲攻撃をかけ、自ら先頭に立ち、敵兵一七六名殺傷して、栗林中将以下戦死した。有言実行の責務の果たし方であった。二六日を以て組織的戦闘が終わった。総兵力は米軍六一〇〇〇名、日本軍二〇九三三名(陸軍一三五八六、海軍七三四七)。損耗は米軍二八六八六名(戦傷二一八六五、戦死六八二一)、日本軍二〇九三三名(戦傷一〇三三、一九九〇〇)。米軍に日本軍を上回る出血を強要した。五日で落としてみせると豪語していた米軍に対し、二月一九日の上陸以来三月二六日まで、実に死ぬより苦しい地獄の生を戦い三六日間持久をした。

米軍の評価
 最も良く我を知るものは敵なり、これを地で行くのが最も激しく戦った米軍であった。栗林中将の思いや行動や事績をストレートに映している米軍戦史を見ることで理解を深めたい。
「米海兵隊戦史」によれば
「三月二六日早朝における日本軍の攻撃は万歳突撃ではなく、最大の混乱と破壊を狙った優秀な計画であった。五時一五分頃、二〇〇~三〇〇名の日本兵は島の北部に沿って北方から来攻し、平岩湾南方の海兵隊及び陸軍露営地を襲撃、三時間に亘る混戦が続き、第七戦闘機部隊は戦死四四、負傷八九、第五工兵大隊は戦死九、負傷三一n損耗を受けたが、日本軍一九六名を斃した。日本軍は日米両方の火器で良く武装されていた。」とある。栗林中将の機眼と飽く迄戦い抜く有言実行力を見るべし

「米国海兵隊と太平洋進軍戦」(遠征部隊指揮官スミス中将著)及び「太平洋海戦史」(米太平洋艦隊司令官ニミッツ著)によれば
「硫黄島作戦は海兵隊戦史上にかってない極めて熾烈な損害の多い戦闘であった。初めの五日間に毎日平均一二〇〇名以上の被害者を出し、上陸した海兵三名に一名の割で戦死又は負傷した。最初の五〇時間に米軍の損害は三〇〇〇名を超えた。硫黄島の占領は予定では五日間ということであったが激戦死闘の反復が殆ど月余にわたって続いた。
 三月一五日やっと全島の確保が宣言されたが、日本軍は三月二五日最後の壮絶な攻撃をおこない、殆ど全員が戦死し、負傷者は一万九千人という多数に達した。戦闘終結時各師団の戦闘能力は五〇%以下であった。硫黄島作戦に消費した砲爆弾は先例を見ないものであったが防御施設に対しては見るべき効果はなかった。」と激戦を総括している。
第三節 栗林中将の「顧みずの心」の真
栗林中将は兵団長として、孤立無援の本土外郭要地での持久戦で本土の国民がB29の爆撃を受けない生活が一日でも長く続くように、という身につまされる厳しい使命意識に基づいて、すべての構想の骨幹を自分の目でみ、自分の頭で考え、先見洞察して、参謀任せにせず、決断し、指導した。準備間及び戦闘間は自己企図の徹底に努め、特になりふり構わずあくまで戦い抜け、一〇人殺して死ぬのが勲と強調した。上下一貫した戦いを展開した。戦況は惨めであったが、全員士気高く、最後の一兵迄戦った。着任以来一〇ケ月、責務を果たすことに専心した。これが栗林中将の「顧みずの心」である。
責務に専心する心
 栗林中将は昭和一九年一二月決戦築城・訓練への移行に際し、守備隊全員で敢闘の誓いと日本精神錬成五誓を唱えた。その背景には戦いに勝つことが絶望的となり、せめて勝てないまでもB29による戦略爆撃を遅らせて本土の家族も含めた今の暮らしが一日でも長く続くことを強く願い、補充兵主体の兵団の戦意を一死十殺にまで高める必要を強く感じ、その拠り所を日本精神に求めた。その五誓の第一番目には「日本精神の根源は敬神・崇祖の念にあり、純粋無雑の境地に到り、この念をますます深め、我らの責務に全身全霊を捧げんことを誓う。」とある。我らの責務に全身全霊を捧ぐとは先ほど述べた「顧みずの心」である。

最後の決別電報(三月一七日)で、一戦局は最後の関頭に直面せり
二兵団は本一七日夜総攻撃を決行し敵を撃?せんとす
三各部隊は本夜正午を期し各当面の敵を攻撃最後の一兵となるも飽く迄決死敢闘すべし大君(三語不明)て顧みるを許さず
四予は常に諸子の先頭に在り
と述べる。突撃に最高指揮官たる司令官が参加すること及びその先頭に立つことは異例である。しかし、これは栗林中将ならではの出処であった。最後の最後まで従ってくれた全将兵の真心に対し、最後となるであろう総攻撃も、統べる者として先頭に立つ、という真心で応えた。
兵の命の重さを自覚し、最善を尽くす心
 決別電報には辞世の歌「国のため重き務めを果たし得で矢玉尽き果て散るぞ悲しき」がある。部下将兵を死地に投じた責任の重さ・投じられた兵の命の重さの深い自覚と責任を果たし命を守るために最善を尽くして尚尽くし切れなかった深い悲しみを「悲しき」に込めている。大伴が「海行かば・・草生す屍」を前にし感じたと同じ思いであろう。
 
第四章 自衛官の「顧みずの心」
 第一節 東日本大震災災害派遣
 二〇一一年三月の東日本大地震において三月一一日当日に運転中の福島第一原子力発電所一~三号機は自動停止し、津波のトドメもあり、全電源喪失・冷却停止状態となった。一二日一号機水素爆発、一四日第三号機、二号機も。そして休止中の四号機も爆発し、多量の放射線が放出される緊急事態となった。三月一七日 第三号機の使用済み核燃料プールの水位が低下し陸自ヘリ二機が空中から冷却用水を投下、その後放水冷却隊(陸海空自衛隊の消防車一二台)は一七日~二一日、活動し、延べ五回二三六tを放水し、隊員は使命感に燃え淡々と"出撃"し一名の犠牲もなく任務を果たした。現地調整所長として指揮した田浦将補(当時)は「任務完遂・無事帰還できたのは今までに築き上げた自衛隊の躾・文化の素晴らしさ並びに陸・海・空の隊員達の自らの危険を顧みることのない献身的な活動の賜物でした」と述べていた。

 原子炉への冷却水注入はあらゆる手段を尽くしてやらねばならない国家の非常事態であった。想定外の事態でしかも爆発するかもしれないという恐ろしい状況下では、直ちに即応できる手段は自衛隊のヘリか消防車による放水しかなかった。放水冷却隊の放水車の放水距離は短く、原子炉に近づかねばならない。放射線量も多く、原子炉の爆発などあれば一番危ない。原発が大爆発を起こし甚大な被害を起こすかもしれない場面で、それを防ぐため、自らの命を失いかねない場面で、自衛官は進んで身を挺した。前記田浦将補は「急造の寄せ集め部隊であり、このための訓練を行う時間もなかったが、大震災派遣隊員としての「見えない使命感を共有していた」と述べている。
 
 また上記の裏に最善を尽くした安全対策があった。
 放水冷却隊は増強中央即応集団の化学防護車に先導され、荒れた道路を一時間かけて前進、化学防護車二両が放水現場へ先行し安全点検。そののち、後方の待機場所にいる放水車が一台ずつ交代しながら前進し放水。一二台がすべて終わるまで化学防護車は二時間ほど現場張り付き。安全確認後先導で帰還。瓦礫除去等あらゆる事態に備えてドーザー付き戦車二両も待機。原子力災害仕様の服装・装具、タングステンシートを操縦席に張り巡らした消防車、モニタリングシステム、線量計測、放射能除染、メンタルヘルス、医者の問診、緊急警報システム等を短い期間に整え、放水冷却隊が無事に任務を完遂出来る環境を整えた。

第二節 雲仙普賢岳災害派遣
 また平成三年六月の雲仙普賢岳の噴火災害では一六普通科連隊を中心とする第四師団が災害派遣を行った。いつ襲ってくるかわからない火砕流の危険下に自らの身の危険を顧みず生存者の救出と亡くなった四三名の方の捜索収容に身を挺した。
 地球よりも重い命よりももっと重い『使命感』があった
 災害派遣終了に伴う感謝の集いの挨拶で当時の高田長崎県知事は以下のように述べている。
「・・・忘れも致しません。第一回目の予想もしなかった巨大な火砕流があった平成三年六月三日、尊い四十三名の方々の命が一瞬にしてヤマに奪われました。一縷の望みを抱く遺族の願いをかなえるべく、自衛隊はその翌日から連続して三日間、たった今火砕流が来ても不思議ではないあおの真っ最中に、火砕流のあった現場の真っただ中に入られたのです。不安でおののいていた市民にとって、あれくらい力強い思いをしたことはなかったでしょう。生命は地球より重いと言われるこの時代の風潮の中で、その地球よりも重い命よりももっと重い『使命感』というものがあったということをまざまざと見て、熱いものが込み上げてまいりました。自衛隊は、いざという時に、死を賭してやってくれるものだということを、市民はしっかりと見届けたのであります。自衛隊の真骨頂を見る思いでした。...」
 
 地球よりも重い命よりも重い『使命感』というものがあった、と言って頂き、自衛官を誇らしく思い、本当に自衛官を理解してくれている方がいる、と大変心強かった思いを覚えている。
 第三節 自衛官の「顧みずの心」の真
 自衛官は任官に際し「ことに臨んでは危険を顧みず身をもって責務の完遂につとめ、以て国民の負託に応える」という服務の宣誓を行う。これらことある場合の行動は宣誓通りであった。服務の宣誓が(出動した)自衛官の使命感となっていた。自衛官は責務を完遂することに専心し、責務を果たすことを何よりも大事にする心をもって「顧みずの心」としている。隊員は名も知らぬ他人のために、事に臨んでは危険を顧みず任務を果たすという使命の崇高さを深く認識して、実践陶冶を通じて自然と使命感を養い、陸上自衛隊の組織風土がそれを継承してきた。そして指揮官としては部下を死地に投じる責任や投じられる隊員の命の重さを深く自覚し最善を尽くす心、普段は安全管理を徹底する心を持っている。

第五章 令和の今だから思うこと
第一節 伴の緒由来の武人
大伴家持・福島泰蔵・栗林忠道には連綿と続く武人特有の「顧みずの心」がある。「顧みずの心」は国を貴び国を護る精神と一つの皇統を保ち続けた国史精神を基盤として、役割・使命・任務・責務等を果たすことに、命を懸けて、専心する心である。さらに部下を死地に投じる指揮官として、その責めの重さを深く自覚し、兵の命を護るために最善を尽くす心も顕著である。以上を両立できる武人達を「伴の緒由来の武人」(の系譜)と呼びたい。

 そして今の自衛官もこの系譜に属する伴の緒由来の武人と呼ぶに相応しい。何故か、と問われたら、自衛官は実戦経験こそないが、厳しい災害派遣等の現場で、上記責務に専心し国民の負託に応え続け、隊員を護るために最善を尽くしてきた実績があり、その姿と力を多くの国民が目の当たりにし、九〇%以上の国民が自衛官とこれを与える自衛隊という組織と組織風土に絶大な信頼を寄せているから、と答えたい。

 
第二節 大伴の心に今こそ立ち返る
 役割を果たすことが尽くすこと、役割を果たすことに専心することが顧みずの心という大伴の純な心、日本人及び武人の原型(源流)に、令和を機に、立ち返ってみることが必要ではないか、と思う。当事者意識が欠如し、公の心もなく、タガが外れてしまった日本人。特に国に尽くすことを職とする人たちに顕著である。国会議員以前の人として品位を問われる問題議員の続出、元文科省次官の面従腹背、元財務省次官のセクハラ、厚労省の戦没者遺骨収集事業での日本人ではない遺骨混入放置、防衛省東北防衛局のイージスアショアの地元説明不誠実等枚挙にいとまがない。
英霊の無念に向き合う
 水漬く屍・草生す屍を前にして伴の緒(統べる者)として武民を死地に投じる責めの重さを深く自覚し最善を尽くすと決意した大伴。この心こそ、兵の心を離さず、兵を失わず、次の役割へと向わせ、皇統を支え大伴を何百年と続けさせた源泉であった。令和の今こそ、謙虚に先の大戦で後に続く者を信じ、日本の弥栄を無心に願って戦陣に倒れた貴い英霊に感謝の真を捧げることは勿論。心ならずも戦陣で倒れた軍人や戦火の犠牲となられた国民の多くが抱いたであろう無念の思いに真摯に向き合わねばならない、と思う。兵を真に思うとは物言わぬ英霊の無念に耳を傾けることであり、これが出来ない軍は大使命である国を守れずいずれ滅びる。
 私は学問としての戦史研究、特に因果関係などの解明に主なる関心を払ってきた。福島大尉旅を始め、心ならずも国のために散った英霊の無念に向き合いはじめ、武人の心旅で、本気になった。特に小郡駐屯地修親会の講話(平成三〇年三月二日)の当日に、該駐屯地に後程述べるビルマ戦線で龍陵守備隊長であり、自決された小室工兵連隊長のご遺族たる娘様が私と入れ違いでお見えになっていた、ということを広報室長から伺い、奇縁を感じるところがあり、「魂は甦る」(後述)を借用し、該駐屯地広報館を見学させて頂いた。福岡県の郷土部隊である菊(一八)師団と龍(五六)師団の工兵部隊の戦績や従軍の手記などが展示してあった。沢山の手記を拝見し、生きて還ってこられた方々の亡くなった戦友に対する思いの篤さ、特にその奉公の真姿と無念の思いを伝えることが日本を良くする自分の務め、という思いに胸をうたれた。今まで漠としていた無念に向き合うことも私の残された使命の一つという思いが著作の進展と共にどんどん膨らんだ。
 
 先の敗戦は一瞬にして軍隊組織が崩壊し、統べる立場の者も雲散霧消した。天皇の大御心を大義名分に兵を死地に投じ、国民を死地に晒した事の重さを自ら顧みる機会を失い、戦勝国の戦犯裁判をもってこれに代えざるを得なかったが、二度と米国に刃向わない国にするというGHQの狙いもあり、その占領政策の後遺症としての自国防衛の国論分裂、自虐感と嫌武・嫌戦争の風潮は根強く残っている。
 日本国憲法改正すべし
 GHQの有・無の圧力のもと戦争放棄の新憲法を制定したが東西冷戦の激化とともに日本に再軍備の必要が生じ警察予備隊そして自衛隊の創設となった。しかし大国の思惑と国論の分裂により、正当な自衛の概念は混迷し、激変し厳しさを増す極東・国際情勢特にその公正と正義を信ずるに値しないむき出しの悪意といつ噴出するかわからない敵意を持つ近国やテロの顕在にわが国存立の不安と焦燥の思いは尽きない。その思いはいつも、自衛隊が国軍ではないこと及び自衛権の制約に行き着く。一つ、国軍ではないことについて、防大入校訓練で、気を付け休め敬礼などの基本動作から始まって、教官から形から入って心を作り磨くことを教わった。しかし、自衛隊という形から入って列国並みのプロの軍人としての心を磨くことになるとはなかなか理解できなかった。陸曹長?三等陸尉という階級や普通科などという部隊呼称等自衛官を越えて国軍の一員と自覚することは難しかった。プロとしての自覚が本ものになるには時間がかかった。形から入ることで個人のプロ意識醸成に直結する必要を痛感している。
 二つ、国を護るための自衛力発揮を不必要に制約する諸々の事項からの解放は是非為すべきことと考える。"必要最小限度"という縛りの側面ばかりに注目が行き、何度も不毛というか滑稽な論争が繰り広げられてきた。そのことで急激な安全保障環境の変化に常に数歩おくれの後追いである。一般行政事務は何かことが起こっての法制化等対応でも良かろうが、こと国家の緊急事態はそれでは手遅れである。トランプ大統領は米国は日本を助けるが日本は米国を助けない。日本はホルムズ海峡航行時の船舶を自ら守れなどの発言を繰り返している。日本人が"最小限度"とはどこまでか、を考え、改正に反映する良い機会ではないか。
 国の在り方に関する基本的事項が合憲か・違憲かと揺れる状態は国民にとって不幸であり、実際に国を守る自衛官にとってはやりきれない状態である。自衛官の誇りや士気に陰りを齎すところが大きい。従って、早急に憲法の改正を急ぐべしと思う。それが「ことに臨んでは危険を顧みず身を以て責務の完遂に努め、もっと国民の負託に応える」と服務を宣誓し、いつ起きるかもしれない不測の事態に真摯に備え続けている自衛官と今や自衛隊を九〇%以上が支持する負託者である国民に対する政治の責務である。
 我が国の平和と独立をまもるという崇高な使命に対する自衛官の誇りには、命を懸けているという重みがある。そこに一点の陰りがあってはならない。誇りは使命遂行の源泉であり、その誇りが困難な状況に立ち向かい、過酷な戦況を乗り越えさせる。
 以下の伴緒由来の武人の例に倣い真に誇り高い自衛官とするために国家・政治は最大限の配意をすべきである。大伴が建国以来大君に仕え続け、家持が藤原の権謀に立ち向かったのは最古の武門としての矜持であり、福島大尉が一貫して冬季戦研究調査を推進し、参謀本部の求めに応じ論文「一慮」を著し、黒溝台の決戦で虎の子の予備として先頭で突っ込んだのは皇軍将校の中でも特に冬季戦研究第一人者として全軍を双肩に担っているという誇りであり、栗林中将の全身全霊を捧げる責務意識の根幹は最高責任者としての全く初めての本土外郭島嶼防衛を実効あるものにする、それを国家から託されたという誇りであった。
 憲法改正のハードルが高いことは承知しているので、どうしたものか私なりに思案していたら、偶々ある記事を目にした。
 偕行平成三〇年一〇月号大澤嘉昭氏の「私の日本国憲法改正案」という記事である。同誌平成三〇年七月号の広瀬誠氏の「憲法改正案について考える」で会員の意見を求められたことに対し信書として送付されたものを同氏がご本人に断って掲載したとのことである。
 紙面の関係で大意のみを紹介したい。空想的・消極的な平和主義憲法を現実的・積極的な平和憲法へ転換することを目指し、現行憲法第九条はそのまま据え置き、暫定的・経過的かつ例外的に現行憲法の補則に新たに一条を加える。その条文で全世界恒久平和達成までの間、その実現に貢献するため、その基となる自らの独立と安全を確保して、平和を愛する諸国民に協力するために必要な機関(軍令機関の意)として自衛隊(平和軍でも可)を設置する、としている。大澤氏はこれを国民に提案し、受け入れられば、自衛隊が現行九条の制約から外れ、世界各国の軍同様の活動が可能になる。実績を積み国民の大多数が中国・北朝鮮などの脅威に目覚めた時には本則に移し修正を加えて現行九条に換える。と述べている。
 私は本当に国の行く末に心を砕き、現実に目を向け、自衛隊の軍隊への規定という国家レベルの課題から現場の悩みにも向き合う日本人らしい和の知恵を感じた。このような和の知恵が更なる知恵を呼び改正の大波となることを願っている。
ふたたび英霊の無念を思うー軍部暴走とシビリアンコントロール

 止むを得ざる経緯で無謀な戦争にいたり、止めることが出来なかった因に軍部の暴走と高級軍人の資質上の不備及び政治家の不明があった、と考える。その中でも統帥権が天皇にあって陸海軍大臣は軍政、陸軍参謀本部総長・海軍軍令部長は軍令を輔弼し、軍令の帷幄奏上権は、次第にこの範囲が軍政事項にも拡がったが、誰も関与できなかっこと。内閣の陸海軍大臣が現役武官制で、軍部の意向に左右され、協力を得られず首相が組閣に窮するなど軍部暴走に繋がったという制度的欠陥が主な因であろう。この幣を除くために今はシビリアンコントロール(政治優先・文民統制)が取り入れられているが運用上に見直すべき点がある。優先すべき原則は有事に自衛力を一〇〇%以上発揮させることである。そのための文民統制でなければならない。が羹に懲りて膾を吹くという幣が強い。武に見識のある政治家が少なく、ために制度的に文官統制の重しを置くことから始まった。最近まで部隊の運用も文官(防衛省の)を通さなければ出来ないという変な形であったが、国際情勢の激変・流動に直面し、運用事項をいちいち制服に聞かなければ動けないという間遠さに、これでは有事役に立たない、と漸く是正された、と聞く。現在では統幕が運用事項、文官は行政事項と両輪で大臣を支える態勢になったが残滓は残っている。日報問題で、統幕長の下にいた統括官(文官)が統幕長を見ずに事務次官を見てことを処理した、新聞やテレビヲ見ての感想に過ぎないが、これを誰も問題にしていなかった。自衛隊指揮統率の根幹に関わることが平然と見逃されているという文民統制のはき違えがある。"戦闘"という用語も政治上の都合で概念を規定し、この意味での戦闘ではない、だから戦闘は存在しないと国会答弁した。ところが部隊は戦闘を肌で感じ、そう報告し続けた。戦闘のにおいは肌で感じるべきことであり貴重な教訓や運用・情報・兵站・人事等の見積の基礎資料であるので、すべての部署がそれぞれに保管した。破棄しろという指示に対し、性格上から報告の文書そのものではないので従う必要を認めなかった。そもそも文書の性格上も情報公開にはなじまないとの考えも現場では根強かったであろう。再々の調べで存在を報告した。これが隠ぺいと大騒ぎになった。このシビリアンコントール違反はちょっとおかしい、大事にすべきは隊員の現場に即した判断が適正で状況に即しており、見えない危機に備えているか、である。答弁に合わせろという方がおかしい。改めるべきである。何故隊員が手元に置き続けたか、ということに問題の本質があると思う。
シビリアンコントロールを運用すべき立場の政治家の不明も問題である。古くは昭和五一年九月六日ソ連のミグ25戦闘機の領空侵犯函館空港着、パイロットベレンコ中尉の亡命事件があったとき、自衛隊はソ連が取り返しに来る事態を危惧し手探りで対処した。ところが当時の国会は三木降ろしの最中で文官統制に任せきりであった。諸種の問題が噴出したが、政府は対応記録の破棄を指示し、当時の陸幕長は抗議の辞意表明をした。私は政治家よ確りしてくれと思った。防衛大臣に就任した一川氏が直後(平成二三年九月)、自分は素人だからシビリアンコントロールには都合が良い、と述べた。シビリアンコントロールの何たるかも知ろうとせず、自分の命令で隊員を死地に投じるのだという自覚の欠片も全くない無知丸出しに幻滅した。

高級軍人の不明
 一言でいえば、地に足の着いた使命感の欠如が私の心に刺さっている。閥を形成し、統帥権という天皇大権・大臣の現役武官制を梃子に政治介入して、陸海軍対立し、下剋上を繰り返して、暴走し、自存自衛のため止むを得ざる戦いであった、と重々思うが、それでも、勝つ見込みのない戦争を始め、終わる見込みのないまま戦面を拡大し、悲惨な戦いとなった。悲惨な戦いという戦い方については無念に向き合う観点から指揮官の地に足の着いた使命感と兵の痛みをわが痛みとする感覚の無さが最も私の心に刺さっている。そこは次節で述べたい。

第三節 福島大尉の心残りー大東亜戦争の英霊・戦没者の無念に向き合おう
 福島大尉の地に足のついた使命感
 福島泰蔵大尉は八甲田山雪中行軍及びこれに到る一連の演習・実験行軍は兵を護るのは上長の義務という地に足の着いた使命感で、行い、極めて実際的な成果をえた。しかし、その成果は第五連隊遭難の陰に隠されてしまった。その後、偕行社の懸賞課題論文「降雪積雪の戦術上に及ぼす影響」に応募し優等賞を受賞。冬季は休戦ではない、倍加する困難克捷方略特に冬季演習への慣熟、作戦よりは後方特に休養方略を重視すべき、などと啓発。この論文が布石となり、日露開戦後、参謀本部は偕行記事に論文寄稿を要請。それに応じた福島大尉は「冬期露国に対する作戦上の一慮」を著し、今冬露軍は必ず攻めて来る、兵を護り役立つ実際的方略、露軍に勝つ方略等を啓発した。八甲田山に到るまでの間、兵の命を護ることは夫々の訓練の目的であり、任務達成の一部であった。次の、来るべき、日露戦争においてこそ一人たりとも欠けてはならない、かけがえのない命、と認識していたからであった。
 福島大尉の心残り
 彼の認識からは五連隊遭難は指揮官が尽くすべき義務を全力で果たさない怠慢であった。しかし、下士のなり手がない、という対露戦を前にした陸軍の抱える深刻な大問題を前にし犠牲になった兵士追悼を思えば沈黙せざるを得なかった。そして黒溝台では、自分が冬期は休戦ではない、今冬露軍は必ず攻めて来る油断するな、と論文で啓発していたにもかかわらず、満州軍総司令部特に作戦参謀松川大佐は油断して、兆候にも対応せず、しかも由比師団幕僚長は敵を軽視し、黒溝台を放棄し、誘致導入して撃滅という策を師団出動下命直後の状況錯綜間に具申し、結局大苦戦に陥る。強い思い入れを持つ福島大尉は後世への次のような意見を持ったとしても不思議ではない。
 日露戦争後に凍死者及び黒溝台会戦等の戦没者の無念に向き合い、大伴の様に統べる者としての深い真摯な反省を行うべきであった。あろうことか陸軍は帝国議会の秘密会での凱旋報告(明治三八年)を作戦主任参謀松川敏胤大佐(陸大三期主席、後大将・参議官)にさせた。黒溝台大苦戦の責めを負うべきものが・・と英霊はその無念の心をかき乱したに違いない。勝利の喜び?安堵の前に真摯な反省がなかった。これがなかったため、ノモンハンや大東亜戦争末期のインパール、ガダルカナル戦、イラワジ会戦などで非科学的で兵站・情報・敵・兵の命を軽視する作戦を繰り返し、無念の英霊を数多くだした。

龍陵守備隊長小室中佐の無断撤退と自決
 
 そしてこの無念に、私が頂いた従軍記の中で出会い、激しく心が痛んだ。それを紹介したい。
 龍陵守備隊長小室中佐(工兵第五六連隊長)は昭和一九年九月一六日、独断で龍陵西方への撤退(転進)命令を下した件で非を辻参謀から叱責され自決した。その介添えをした連隊副官土生中尉は復員後「魂は甦る」(昭和五四年九月三〇日、発行)、小室連隊長追悼の従軍記、を著し、真意は分からないとしながらも、連隊長の名誉を思い、兵にもっと良い死に場所を与えるために自分が犠牲になって決断し、また勇兵団(二師団)は守備隊に一言の状況調査もせず敵の包囲に任せたまま只管後方陣地にありて我々を生殺しにするかに思わせ、とその無念を語っている。
 
 インパール作戦中止(七月一日)に伴い、優勢な米支軍の反攻に対し、ビルマ方面軍は援将ルート遮断を目的とした断作戦により?孟・騰越・平戞を保持しつつ龍陵付近での会戦(二・五六師団)を準備した。九月三日、両師団は龍陵を攻撃(龍陵会戦)したが、九月七日拉孟、九月一四日、騰越ガ失陥し、九月一四日夕刻、龍陵攻撃中止となり、九月一五日、三三軍は第五六師団をもって残る平戞救出作戦を、第二師団に龍陵守備を命じた。小室守備隊は五六師団の指揮を離れ第二師団長の指揮下で龍陵守備を続行することとなった。第二師団は、龍陵南方要地で持久との任務を受け、小室守備隊に対し依然現陣地(龍陵よりも東方に突出)確保を、主力は左右両翼を龍陵市街地よりも遥か後方に下げた陣地占領を命じた。
 
 龍陵守備隊は断作戦間の要として七月六日、工兵連隊を主力に歩兵大隊(中)隊、所在部隊、病院(入院患者)をもって応急編成した。優勢な米支軍の重囲に陥ったが、攻勢発動まで持ち堪えると頑張り、八月は五六師団長独断の解囲作戦により、増援部隊も加わり一息ついたが五六師団主力が龍陵会戦準備のために去ると再び重囲に陥り、攻勢発動間持ち堪えたが、その中止後も、引き続き、龍陵において三度重囲に陥ることが確実となった。守備隊長はこのような無様な戦いで若い部下を死なせたくない、もっと良い死に場所を、という思いは深かった、ようである。
 
 第二師団はインパール作戦中止に伴う断作戦のため、ビルマ南西部沿岸防備から転用されて、七月一六日三三軍の指揮下に入り、八月下旬芒市に集結した。歩兵四連隊は独立混成第二旅団のモール陣地攻撃、第一八師団のフーコン作戦に従事して戦力は大幅に低下し、歩兵第二九連隊は第一大隊は第二次アキャブ作戦、第二大隊はモール陣地攻撃の後五六師団の指揮下で龍陵守備隊に合流という状況で手持ち一ケ大隊。歩兵一七連隊と併せ実働四ケ大隊での龍陵会戦参加であり、思うような攻撃が出来ず、その中止と共に今度は龍陵守備に任ずることとなった。師団長は三〇倍の敵を無期限に阻止しなければならない、という任務必成への焦慮は深った、と思う。
 
 陣地編成の理由を二師団長は「天国から地獄へ」(自伝、岡崎清三郎、共栄書房)で次のように書いている。「龍陵は陣地の前の方に長く突出し、しかも三方は高地上の敵から見ろされている。普通の戦術なら大変な弱点をなしていて落第である。しかし、この餌で敵を釣るしか持久の方法はない。またこれには相当の陣地も作ってあるし、持てる、と考えたからである。続いて「独断撤退の報に接し、直ぐに参謀を派遣し、退却を命じたが、すでにレントゲン器械まで破壊されてしまっていた。玉砕を期して数ケ月も敵の重囲にあったものが、漸く助かって、自分以外の友軍が後退するのであるから、自分も退きたくなるのは人情であろう。しかし、いやしくも軍隊指揮官が、命令に反し、勝手に退却するが如きは許されるべきではない。軍では大部問題になっていたが、この隊長は翌日戦死してしまった。」
 
 以上から三つの感想を持つ。
 一つ、悲惨・深刻な状況の中で無理を命ぜられ、各々が追い詰められて余裕をなくしていたことが良くわかる。このような戦いをしなければならないという事態を招いた最高統帥者の無責任を土生氏は指摘しているが全く同感である。
 
 二つ、守備隊長の独断転進(撤退)はあってはならない。命令を受けた以上それを果たすことは武人の当然の務めである。武人である以上、その専心に陰りがあり、覚悟が揺らいだのなら、その陰りは自ら振り払わなければならない。この機に一端間合いを切って態勢を立て直したい、ということなら早い段階で新指揮官(二師団長)の意図を確認し、意見具申すべきだった。そのアプローチは色々あったに違いない。命令を受ける前に最善を尽くしたであろうか。しかし命令だから死守は当然と命令に到る過程に誠を尽くさない不誠実、隷下以外の他部隊を踏み台にして顧みない冷たさ等に対する抗議の意もあった、としたら、許されないことではあるがこの無念に向き合う必要がある。
 三つ、二師団長は新しく指揮下に入った守備隊に対し、餌として死地に投じる責めの重さや守備隊員の命の重さを深く自覚し、心から従わせるために最善を尽くしたと言い切れるであろうか。本気でこの餌しかない、餌になってくれ、と思い、それを本気で伝えたであろうか。その目で現状を掴み、本当に持てる、と思ったのだろうか。そうであれば本気で指導したであろうか。
 
 詳しいいきさつは推察するしかないが、師団長直々或いは幕僚派遣或いは守備隊長を招致しての事前偵察や構想案調整などという事前の顔合わせや意思疎通を十分に行った、とはうかがい難い。そんな状況ではなかった、かも知れない。しかし錯綜している状況ならではの配慮があって初めて伴の緒たるの尊敬に値する。
 
 ここで、二師団長には死地に投じる責めの重さや守備隊員の命の重さを深く自覚し、心から従わせるために最善を尽くす、という地に足の着いた感覚、兵の痛みをわが痛みと感じる心そのものが薄かったのかもしれない。別の言い方をすれば謙虚さが足りなかった。そしてこれこそが大東亜戦争末期における惨めな戦いにおいて部下を死地に投じる指揮官に多く表れた欠陥であった、ような気がする。その中で伴緒由来の武人達には明瞭に備わっている、ことが今後を照らす灯光である。
 
 英霊に無念の思いを抱かせたであろう部下を死地に投じることの深い自覚がなく、最善を尽くしたとは言い難かった旧軍指揮官に比べ伴緒由来の武人達は明らかに違う。そして自衛官もその列に入ると信じる。自衛官は指揮する権限が国家から個人に与えられたものでそれに相応しい自分になれるように努力することを一生続けるという謙虚さを忘れない。与えられた使命や責務に取り組む愚直さを失なわない組織風土が間違いなくある。
 ここは武人を知って貰いたい核心であり、武に関心が無い人、嫌武の人にも特に知って貰いたいことである。何故ならこれらの武人達はどんなときでも戦わねばならない時は自分の足を地につけて戦う、ことを知っているからである。
 
 令和を機に、大東亜戦争における英霊の無念に向き合い、これからの武人(自衛官)は伴緒由来の武人として、
 福島大尉の心残りを思って、使命を果たすことに専心することと使命の重さを深く自覚し最善を尽くすことを両立するのだという覚悟を誓って欲しい。武人を引き継ぐ自衛官が英霊の無念に向き合い反省を語るべき時は今、である。旧軍とは違う、という声に引きずられ、或いは先輩への遠慮から、行動を起こさないことは英霊の無念を鎮めることにはならない。

第四節 日本精神に立ち返る

 硫黄島の戦いにおいて、一九年一二月、敵の上陸を迎え撃つ態勢が出来、栗林中将は必勝訓練の心技体の到達域を敢闘の誓いと日本精神錬成五誓に求めた。特に日本精神に求めたその背景には敗色濃厚で、今となっては本土の人々の、それぞれの家族を含めた、生活がB29の戦略爆撃から逃れて、一日でも長く続けられるように、とだけに戦いの意義を求め、しかも再補充兵主体の兵団の戦い抜く戦意を一つにするために、があったと思うが、もっと奥深いところではいくら厳しい訓練を積み重ね練度を高めても、実戦は違う。特にサイパン・ペリリュウ等で示された島嶼の防衛戦の様相は過酷・悲惨の極みであり、ここ硫黄島でもペリリュウと同じように、全縦深にわたり地下洞窟陣地で徹底的に戦い、最後の一兵となってもゲリラ戦を戦う、というある意味、パッツと玉砕した方が楽と思えるような死よりも苦しい地獄の生を戦わなければならない。その厳しさ・悲惨さは想像に余りある。これに打ち克つ気力・精神力を持たねばならない。
そしてただ打ち克つだけでなく、五誓第一項で「日本精神の根源は敬神宗祖の念より生ず 我等は純一無雑の心境に立ち益々此の念を深くし我等の責務に全身全霊を捧げんことを誓う」と述べているが、これは、仏教も儒教も日本に入ってこない日本人の大元の情念の境地、素朴に純に大君に尽くす心であったり大昔から受け継がれてきた美しい故郷の自然風土とそこでの人々の営みへの崇敬・感謝の気持ちを持って、責務に全身全霊、これは専心と同意で顧みずの心である、との意である。第二項で「日本精神の基幹は悠久三千年の尊厳なる国体より生ず 我等は此の精神を蹂躙する敵撃滅の為凡有苦難を克服すうことを誓う」と日本精神の基幹は国体、であると述べている。第一項は大伴の祖が敬神宗祖の念でただただ大君を尊崇して仕えた。その"敬神宗祖"である。第二項は大伴の祖が仕えた志の歌「海行かば」の基盤としての国を貴び国を護る精神に言う、くにがら(国体)である。
 国土が蹂躙される瀬戸際の戦いで、純粋無雑な心で、日本精神特に第一項で敬神宗祖、第二項でくにがら(国体)という日本精神の根源・基幹という大元、に立ち返ったことの意義を令和を機に考えなければならないと思う。
自衛官には堂々と日本精神を語って欲しい
 自衛隊は創設以来、実戦を経験していない。災害派遣でいくら厳しい場を経験し、厳しい訓練を積み重ねても、我が国が攻められる場合の戦いの様相は全く違う。その時の覚悟の一助とするために、令和を機に、栗林中将が最も苦しい時に日本精神に立ち戻ったこと、が参考になると思う。それが国史を遡り、連綿と続く武人の心を受け継ぐことだと思う。また創立記念日等では警察予備隊創設時から話を始めているが、これで良いのかなー、と思う。連綿と続く武人を意識し、日本精神を呼び覚ますために、国史を遡る機会を積極的に求めるべきではないかと思う。

第六章 伴緒由縁の武人達の奥深さ
第一節 永遠性
 福島大尉は何故武人として生きようとしたか
 この疑問は伴緒由縁の武人とはという大命題を考え続ける傍らで常に私の頭の中にあった。ふと後世を意識し、人となりやその遺績が結果として人々の心に生き続けるという永遠性があることに気づいた。そしてそれは伴緒由縁の武人達に共通していることも。さらにその他の奥深い、らしさがあることも。これらに武人をよりよく知る鍵があると思う。
 福島大尉の永遠性
 福島大尉は日露戦の戦陣から建碑の願いを友人に託し、昭和七年に遺族により故郷平塚村の天心寺境内に建立された。彼は士官学校入学試験の作文で「弔古墳記」を書いた。先人の墓や碑を訪ね、その主と語らい、酒を酌み交わし、高山彦九郎のようになりたい、という意を書いた。実際彼は生涯で多くの墓や碑を訪ねている。彼がそうしたように後世の人が訪れ、その人と酒を酌み交わし、語り合いたい思いであった、と思う。

 福島大尉は故郷群馬県新田村の新田義貞、高山彦九郎を地霊として崇敬した。地霊とは高山彦九郎記念館(太田市)で目にした言葉である。その土地特有の気質や精神を受け継ぐ偉人のことを指すと理解した。新田義貞が鎌倉幕府倒幕のため、僅かわずか一五〇騎で挙兵した生品神社に遊んだ。高山彦九郎の細谷にある生家に出かけ、明治維新の七五年前、徳川幕藩体制万全と思われたその頃に、勤王倒幕の草莽の魁となったその精神に学んだ。両者から尊皇のため危難に進んで身を挺する心をわが心として育った。幼い頃神官二人に国学・漢学・漢詩等をならい、前記地霊二人を手本とするよう習ったのが大きかった。地霊とつながり、尊皇を基本として本当に国の役に立つ誉とその名を残すことで、多くの人の心に生き続け、語り継がれる永遠の命を得たいと願った。そこが武人として生きようとした本心であった。本稿の初めにで提起した彼がものすごく無理をして頑張って、単に軍人としてよりも、もののふ、武人、として生きようとしたのは、何故?の答えである。

 大伴家持の永遠性
 大伴家持は天平勝宝三年(七五九年)出雲の国主としての賀歌「新しき年の初めの初春の今日降る雪のいや重(し)け 吉(よ)こと」を巻尾として万葉
集を閉じ、じご歌作は残されていない。
何故この歌が巻尾か。そしてこの歌にはどういう意味が込められているのか、を考えたい。
 ここで万葉集の構成上の注目点を短切に言うと、巻頭は雄略天皇御製と言われる歌である。途中には宮廷歌人柿本人麻呂の壬申の乱を鎮める歌や持統天皇を神と讃える歌「大君は神にしあれば雷の上に庵せられるかも」があり、大伴家持も 「 壬申の年の乱の平定しぬる以後の歌」と題し、巻一九-四二六〇「大王は神にしませば 赤駒の はらばふ田居を 都となしつ」(大伴 御幸)、巻一九-四二六一「大王は神にしませば 水鳥のすだく 水沼を都となしつ」(作者不詳)の二首を載せている(天平勝宝四年二月二日)。歌意は田居や水沼を都にした天武天皇は神のごとき存在と讃えている。万葉集で神(のようなという意味)と歌われる天皇は天武皇統のみである。人麻呂の精神を家持は引き継ぎ確立した。何故かは他の皇統との顕著な違いを考えればわかりやすい。私は律令制の中央集権国家という新しい国作り(への草莽の大きな期待)だと考える。
  そうすると、豪族の連合政権の祭祀王的大王から政治・行政・軍事的リーダーとしての権威を確立した雄略天皇。この権威をゆるがせた壬申の乱を勝ち抜き、律令制の中央集権国家という新しい国作りを成し遂げ、「天皇」としての権威を確立し、揺らぎの無い御代とした天武皇統の始まりである天武天皇。これに日本国を建国した神武天皇を加え、三つの節目をつなぐ皇統のお陰の御代が永遠に続きますように、吉事が毎年続き、繁栄・安泰でありますように」と願い、日本国史の節目で、役割を果たした大伴の志・覚悟とその名を秘かに後世に残さんとした。一つの皇統を連綿と保ち続けた国史の重みと支え続けた大伴の仕える心を振り返りつつ、御代の永遠を願うことで、家持は大伴そして自身の永遠の命を願い、その精神と歌を後世に残した。
栗林中将の永遠性
 栗林中将は決勝訓練の到達域として一九年一二月日本精神錬成五誓を定め、日本精神に立ち返ること、その第一項で「日本精神の根源は敬神宗祖の念より生ず 我等は純一無雑の心境に立ち益々此の念を深くし我等の責務に全身全霊を捧げんことを誓う」と日本精神の根源は敬神宗祖の念、第二項で「日本精神の基幹は悠久三千年の尊厳なる国体より生ず 我等は此の精神を蹂躙する敵撃滅の為凡有苦難を克服することを誓う」と日本精神の基幹は国体、であると述べている。根源・国体(くにがら)という日本精神の大元に立ち返っている。これは大元に立ち返り、そことの?がり、連綿性を持って、全身全霊を捧げ、たとえ死しても、永遠に輝き続ける勲を世に残す、との深意であった、と感じる。
そして、
「米国海兵隊と太平洋進軍戦」(遠征部隊指揮官スミス中将著)によれば
「太平洋で相手とした敵指揮官中、栗林は最も勇猛であった。島嶼の指揮官の中には単に名目だけの者もあり、敵戦死者の中に名も知らずに消え失せる者もあった。栗林の性格は硫黄島に彼が残した地下防備に深く記録されていた。彼はわれわれが追い詰めるまで至近距離で米軍を阻止し、北の岬の洞窟内に立て籠った。硫黄島は最初の数日間に組織的抵抗が崩壊することなく、最後まで抗戦を継続したので著名になった。」と激戦を戦った相手なれではの評価、真の猛将との、を受けた。米軍によって一躍著名になり、名を後世に残した。

纏め
 以上から、武人が役割・使命・責務・任務を果たすためことある時を意識することは死生の最悪を覚悟することである。そのような場合、その純粋さ故の永遠願望が生じる。先人の心を受け継ぎ名を残し、勲を立て、先人の列に入ることで多くの人の心に生き続け語り継がれたいという願望である。任務を果たすことに専心した結果として伴の緒由縁の武人達は運にも恵まれて、私たちの心に永遠に生ている。

第二節 覚悟
 覚悟とは心構え・決心とある(広辞林第五版)。私は心が強く定まっていることを覚悟と捉えたい。そうすると本稿中の志、専心、最善、危難に進んで身を挺するなどはすべて覚悟を意味するが特に私の心に響く心の定まり方が伴緒由縁の武人達には顕著である。そこを述べたい。

福島大尉の覚悟
使命や任務を果たすことを専心する心には三つの覚悟があった。
使命や任務達成に専心する心の芯は天皇尊崇のこころであり、天皇陛下のお役に立つ人物になるという志であり、覚悟であった。その芯の成長につれ志と覚悟は確たるものになった。少年期は平民でも学問して、天皇陛下にお声を掛けて頂けるような立派な人物になるという素志、少尉任官に伴い、軍旗の前即ち天皇の御前で奉公せんと工兵から歩兵に転科し、普段は柱席の臣、戦時は干城として天皇のお役に立つという青志となり、弘前中隊長着任と共に兵を護るために冬季戦の研究調査を行うという成志となった。雪中露営演習の成果が上聞に達し、お言葉を賜った。その感激が次への励みとなり、八甲田山雪中行軍ではうまく成功すれば天皇陛下上奏と気負う。参謀本部に乞われて提出した論文「一慮」は偕行記事臨時増刊(明治三七年二月号)に掲載され、全軍将校に配布された。上聞に達したであろう名誉と併せその感激を、今後は筆を投げ打って軍刀にて奇勲をたてんとの心願となり、黒溝台決戦という見えない出番に備えた。

 使命や任務達成に専心する心は危難に進んで身を挺する心であり、国家の存亡の危機に身を進んで投げ出すという覚悟、それも普段からその時に備える覚悟が不可欠である。戦場で今までに経験しない未知に出会わないために常に予想外を求め喜んだ。冬季戦研究で常に厳しい場を求め、最後は八甲田山雪中行軍で厳冬期に二つの山岳越えに挑むという前人未到の危難に進んで身を投じた。八甲田山雪中行軍では予想を超える大寒波の襲来・猛吹雪・深雪下であった。田代台行軍では引き返しを進言する道案内人を叱り飛ばし行軍を続行する。八甲田山東麓越では四八時間五〇分の不眠・疲労行軍のなか、率先陣頭で全員で青森に行き着くという唯一つの行動方針を追求した。たじろがない肝の据わり様であり、覚悟の強さであった。

大伴家持の覚悟
「海行かば」で祖の役割を果たすことに専心し大君に赤心から尽くす言立て(志)と自らの覚悟を歌っている。そこには武の名門として、武技を磨きいざに備えること及び名を絶やさない覚悟も明らかにしている。そして藤原の権謀に対しては大君に尽くすことが臣の道との考えの下に和略の覚悟で接し、そのために滅びたが節操を貫いた。
栗林中将の覚悟
 体質として沁みついた水際撃滅をすて、後退配備による沿岸撃滅を硫黄島赴任直後に変更し、地下坑道・洞口陣地による全島要塞化での徹底抗戦、最後まで生き切って米兵一〇殺を求める等の決定・指導の全てを一身に負う覚悟であった。敢闘の誓いや日本精神錬成五誓は自らの覚悟と共に将兵にも覚悟を求めるものであった。特に日本精神錬成五誓の筆頭にその根源である敬神宗祖の念を純粋無雑の境地に立ち、我らの責務に全身全霊を捧げることを誓うが、専心の覚悟そのものである。
自衛官の覚悟
 伴緒由縁の武人はことあるときの己の役割使命等を果たすため己を貫く覚悟を見せた。その覚悟は一朝一夕では出来上がらない。長い年月をかけた修練の積み重ねの賜物である。自衛官の雲仙普賢岳噴火災害や東日本大震災での派遣隊員の活動も全く劣るものでは無い。一朝一夕では出来上がらない覚悟を発揮した自衛官がいる。私のブログ「晴耕雨書」(二〇一三.一.二三)から引用する。

第一空挺団初降下ー団長の自由降下に思う 

第一空挺団初降下ー前田団長の自由降下

TⅤニュースで平成二五年一月一三日(日)に行われた第一空挺団初降下・離島奪回訓練の様子を承知していた私は一月某日習志野駐屯地を訪れた際、空挺団長前田将補の自由降下(普通降下ではなく、より難しく資格がいるスカイダイビング)実施を聞いた。全くの素人であり、門外漢であるが、その難しさは容易に想像できた。私は大変な感銘を受けた。

<strong><strong>自由降下は随分難しいらしい</strong></strong>

<strong>まず飛行中のヘリから空中に飛び出さなければならない。</strong>
何回やっても恐しく、躊躇する心が当たり前だと思う。

<strong>飛び出してすぐ水平の空中姿勢をとり其のまま降下。</strong>
秒速何十メートルの速さで落ちてゆく。その間、俯きで大の字に手足を拡げる水平姿勢を取り続けなければならない。少しでも傾くとパラシュートが体に巻きついて開かず予備傘が操作できない場合はそのまま墜落してしまう。

そこをクリアして、<strong>所定の高度に達っしたら落下傘を開き、操作して、目的地上空に誘導する。</strong>
風速・風向を考えながら、狭い習志野演習場内の降下地点に誘導することがまた難しい。

降下地点への誘導をクリアしても、<strong>最後の着地がある。
完全には減速できない、数米から飛び降りたのと同じ衝撃が体に加わる。この衝撃は自分の体の柔軟さや動きで吸収するしかない。降り易いフラットな処は少ない。凹凸面や木・石などの障害もある、それらへも適応しなければならない。

要するに体力気力に優れ、訓練を重ねた空挺隊員の中でも更に技量や経験に優れたもの(有資格者)が自由降下に挑戦出来る。

二〇年ぶりの空挺勤務

確か前田団長は昨年七月に上番、若手幹部時代に数年勤務して以来二〇年ぶりの空挺勤務であったはず。

二〇年は普通に考えると致命的なブランク。降下技術が体から抜け落ちてもおかしくないし、パラシュートも進化しその操作要領は時代遅れのはず。何より年齢が問題。

聞いたところでは風洞訓練場で空中姿勢が保てるか否かを試したところ体が覚えていたので自信を得て、本格的に風洞訓練を重ね、教官の厳しいチェックを受け降下断行を決意したらしい。


無事降下成功に思う

身についていた基本動作

若手幹部の時に真剣に取り組んだ降下技術が本当に身についていた。言い換えれば本当に身に着くまで徹底して訓練した、からと思う。その訓練は先輩幹部や猛者の陸曹諸官の厳しく温かい指導・注意と本人の汗と恥かきの賜物であった、ろうと思う。初降下での団長の自由降下は基本動作を身につける大切さを教える何よりの手本である。

挑む気概

団長がより難しいへ挑んだ気概は敬服に値する。将補の団長が自由降下をした例がどのくらいあるか私は知らない。まして年度訓練初めの初降下に於いては・・・。

失敗も十分頭をよぎったであろう。しかし、失敗よりも己を信じ断行したそこに惹かれる。団長以下全員が成功させる為に心と技を一つにする。しかもそれは一人一人が敢えて厳しい目標や状況に挑戦する気概を前提とする。そしてやる以上は必ず成功させる、勝!その中で、指揮官は部隊の核心たらん、を強く自分に言い聞かせる強い気持ちが伝わってきた。全員で味わった任務達成の美酒に空挺魂を隊員と共有する喜びも伝わってきた。

本稿の終わりに
当日の風速は二米/秒であった、らしい。昨年一四米/秒の風速で降下が出来なかった、と聞いた。団長の気概に運も味方したのであろうか。

前田団長にとっての二二〇年は"国家のいざ"では、何時でも何処でも飛び降りて見せるぞ、の覚悟を新たにする日々の積み重ねであった、に違いない。

第三節 不条理に輝いた武人

福島大尉の不条理と輝き
三一連隊の雪中行軍と同じ時にあった第五連隊二一〇名全員遭難に世人は驚愕した。この時、福島大尉は行軍間に綴った『手記』を帰隊一〇日後に「始末」「付第三一連隊雪中行軍記」として公表した。真剣に訓練している軍の真姿が一顧だにされず興味本位に扱われている弊や厳しい訓練を放棄して萎縮している風潮に、来たるべき対露戦に備え非常の困難を究めた精鋭の真姿を書かねばならないと思ったからであった。しかし、細心に事件取り調べ委員の調査状況を把握し、遭難の核心に触れることは沈黙し、その分の表現力の低下は当然のこととした。遭難の核心に触れないことが弔意を尽くすこと、と考えていた。後に書く二つの論文『影響』でも論文『一慮』でも自分が行った雪中行軍や雪中演習などの体験はすべて"下敷き"とした。八甲田山雪中行軍はすべての仕上げであり、そこに至る事前の成功体験は切り離せない一体のもの、即ちすべてが八甲田山雪中行軍を語ることになる。八甲田山雪中行軍を語ることは今でもそしてこれからも永劫に関係者の敏感な神経をかき乱す、成功体験に触れないことが弔意を尽くすこと、と考えた。沈黙して、論文の説得力を翳らせてでも思いやりを掛けるべき、と考えたのだ。福島大尉ならでは不条理の克服としての武人(もののふ)の情(なさけ)であった。 

大伴家持の不条理と輝き
 家持は天応二年(七八二年)正月には氷上川継の乱への関与を疑われて解官、後許され参議に復したが、万葉集を閉じたときに感じていた藤原の権謀がわが身に迫って来る不安が現実のものになったと感じたであろう。家持は親天武皇統の心情を持ち続けた。その天武皇統の後継候補親王が藤原の権謀により藤原腹の皇子以外は直接・間接に淘汰されて行き、天武系天皇が他戸親王の廃太子とその薨去で完全に途絶えたことに心を痛め、神のような統治をした天武皇統と輝く御代を誰よりも貴び、今後の安定を強く願わずにはおれなかったであろう。 
 
 これをもたらした藤原の権謀の本質は「内の臣」という天皇とのミウチ関係により、政治的立場を強め、娘を天皇の后として、皇子を設け、やがて立太子して天皇に即位させて、外戚となり政治的権力を恣にする。それが永続し藤原だけが繁栄する蔭位制や議政官改変という仕組みをつくり、邪魔者を次々に葬り続ける。家持は藤原の権謀に対し、大元が違うと感じたであろう。地位が上がり、責任が重くなるにつれ、この藤原の権謀に巻き込まれる恐れは、武の名門故に、増していった。注目度が高まるにつれ万葉集の家持の歌は自然に湧き出るように広まった、であろう。これを目にした藤原の関係者或いはこれにおもねるものは「陸奥の国の出金を賀す詔に応えるための歌」(応詔歌)群・「族に諭す歌」・「防人の歌」・「新年の賀歌」などで国史精神に立脚した国を貴び国を護る精神の純粋性に気づいたであろう。なかでも「陸奥の国の金出を賀す詔」で天皇が大伴を「内の兵」と呼び、これに大伴家持が大感激して「応詔歌」を歌ったことに藤原以外に「天皇から「内」と特別視される存在をゆるしてはならない、との思いを強くしたことであろう。また大君を崇敬し、大君に真心から忠を尽くす赤心やもののふ我の意気は邪心のある藤原にとって目障りであったであろう。また大君のために力を合わせるべしという臣の道は暗に藤原への呼びかけであること及び「諭族歌」の藤原の専横が目に余る場合は大君の命あればこれを討つという秘めた覚悟、両者を合わせて和略の知恵と考える、に気づいた藤原の関係者もいたことであろう。それらも藤原の権謀に巻き込まれることに繋がった要因になったであろう。
 
 家持没後、時機は分からないが万葉集はその全体が公開された。家持は作歌活動間に以上の崇高さの裏で藤原の権謀を恐れる心や保身等の弱い心との葛藤があったであろう。この点からいえば家持は後戻りのできない(取りかえしのつかない)決意表明をし続けた、と後悔することがあったかもしれない。また作歌活動停止後にも大伴の名を絶やすことに繋がるかもしれない万葉集を世に出すことに強いためらいがあったかもしれない。

 以上は家持にとって不条理の世界であった。しかし家持は妥協することなく、しなやかな強さをもつ武人としての心を貫いた。祖の言立てを継ぐ者ならではの奉公の大元である大君に赤心を持って尽くし切る強い心と伴緒(統べる者)としての任や死地に投じる兵の命に対する重い自覚という地に足の着いた心及び藤原の権謀に対する和略の知恵等を静かに歌い立ち向かった。そして自らの志操と精神と名を今に遺した。

 栗林中将の不条理?と輝き

 新編されたばかりの第一〇九師団長兼小笠原集団司令官として昭和一九年六月八日、着任した栗林師団長は本土外郭防衛という重要な局面で命ぜられたからには重任を果たすと誓う一方で米国の底力をよく知るがゆえに戦うべきではない戦い、受け身に陥った今、勝ち目のない戦い、と思っていたであろう。武人の定めとはいえ、内心に不条理、も感じていたに違いない。その本当のところは分からない。以下の事象から想像するしかないが、何か強く迫ってくるものがある。これを一応不条理感として進めたい。

 栗林中将は長野県立長野中学校から 陸軍士官学校(第二六期)に入り、陸軍大学校卒業(第三五期、次席)恩賜の軍刀組であるが、陸軍では幼年学校を経ての士官学校出身者が優遇され、陸大をでてもそれが覆ることは無いという。弟(長野中学)の陸士受験に際し、この旨を語り海兵受験を勧めている。又彼は部隊勤務は騎兵科ばかりで一五連隊隊付、同連隊勤務(第二騎兵旅団隷下)、同連隊中隊長(習志野)、第七騎兵連隊長(旭川)、第二次いで第一騎兵旅団長(近衛師団隷下、習志野)、留守近衛師団長と務め、近衛での勤務が殆どである。留守近衛師団長として近衛師団の派兵間の天皇守護という大任を任された。将来の侍従武官長要員と目されていたかもしれないと思われるぐらいである。第二一騎兵旅団長時は戦車旅団改編への解体という重要なステップを担当した。また陸軍省軍務局(馬政課)という軍政畑であり、軍の花形である作戦・運用畑には全く縁がない。先程の幼年・士官学校出身者からなる主流の人脈とは距離を置くというかお呼びがかからなかった、という見方も出来る存在である。更に当時中学では英語が必須であるのに対し幼年学校・士官学校では独・仏語が必須であり、陸軍の独・仏傾斜の人脈の中で米国留学(軍事調査)・カナダ駐在武官経験者、知米派は疎んじられていた。

 栗林中将の不条理感が現れている事象がある。二つ程紹介する。
八月八・九日大本営陸海軍部作戦部長眞田、中澤両少将の来島に際し、栗林中将が語ったことを眞田少将は日記に残している。そこには①現在の戦闘機があまりにも少なすぎて東京を出る時から激減している。これでは戦にならない。②硫黄島のまわりに我が機動艦隊が存在しないので、(米軍に制海権を握られて飛行場保持、まして第三飛行場の新設等は)今のままでは無意味である。③飛行場に直接配備するだけの兵力は無いので砲兵で制圧し敵に使わせない。④七月四日の米機動部隊が一.五ケ師団で来攻したら一週間か一〇日しか持たない、という認識を示している。現実に確りと向き合い、虚勢や弱音は不要とばかりに、腹を据えて、兵力を寄越せと言っている。この時、両作戦部長に大本営への意見具申を口にし、具申書を託したという。それには「米軍の戦力、アメリカの国力を至急に判断し、サイパン玉砕後は早急に和戦の方法を講ぜられるように」との意が示されていた。戦争継続以外の選択肢を誰も言い出せない中で、一人栗林中将は硫黄島で米軍に最大限の出血を強要し、終戦交渉を有利に働かせる、との狙いを持っていた。開戦の詔勅にある天皇の深意をただ一人慮ったとも思える。しかし、この件は眞田日記には無い。

 三月七日栗林中将は戦訓電報(膽参電第三五一号)で作戦指導上の問題点及び教訓等について秦参謀次長あてに、蓮沼侍従武官長に連絡されたしとして、全く特異であるが、報告した。その中で作戦指導上の致命的な問題が海軍により惹起されており、このことを率直に述べている。①海軍側の飛行場確保の希望に従ったが、水際陣地は最小限、主陣地は飛行場に関わらずもっと後退させるべきであった。②水際陣地に多大の資材、兵力を徒費され、主陣地の拠点施設に徹底を欠いた。③使用飛行機がないにもかかわらず、中央海軍側の指令により飛行場拡張に兵力を吸引され、そのため平坦で飛行場地域を含む守りにくさを補う陣地の強化が出来なかった。当時陸海の作戦指導の一元化が問題になっており、蓮沼侍従武官長を通じ、内大臣などに協同の現状及び意見を報告することが狙いであった。

 栗林中将は不条理に私心を持ち込むことなく、ひたすら責務を果たすことに専心し、最善を尽くして戦う傍らで終戦工作及ぼ最大の問題、陸海の作戦指導の一元化を国家・国民のために心底から事後への教訓として提言した。

不条理に向き合う自衛官

伴緒由来の武人は不条理に私を捨てて立ち向かい、本気で大元だけを見つめ己を貫いた。だからその真が余計に輝くのである。武人はその武ゆえに不条理に見舞われる宿命がある。だからそれを分かって向き合うことが大事である。自衛官の生き方も全く同じである。自衛官は国の独立と平和を守るという崇高な使命遂行の傍らでその存在を違憲と主張する不条理に向き合って居る。この不条理は今迄述べてきた武人が抱える不条理とは異質である。今まで述べてきた武人の不条理は武の恐さや有効さを良く知っているという現実に根差したものであった。ところが今の自衛官の抱える不条理は理想・観念偏重で武の現実に向き合わないという点でこれとは異なる。これに対する道は武及び武人を良く知って貰うことと憲法を現実に即したものに変え、実績を積み重ねることである。前者は本稿を書いた目的そのものであり後者は既述の通りである。自衛官はこの不条理にらしく向き合っている。以下私のブログ「晴耕雨書」(二〇一四.八.一九)から引用する。

NHKスペシャル「六〇年目の自衛隊 ~現場からの報告~、大いなる精神は静かに忍耐する」、に思う

始めに

八月一〇日、夜九時の表記報道を視聴後、私は私なりに余韻を楽しんでいた。そこへ八月一八日、某氏から電話があり、陸上自衛隊幹部候補生学校長が語った『大いなる精神は静かに忍耐する』、に感動した、と言う。何故?の私の問いに、あの言葉に日本人の魂そのもの、多くの人が忘れていた、を感じたから、という答えが返ってきた。

私はこれだ、と思った。

前田学校長の大仕事

学校長は実に大きな仕事を二つした。先ず一つ、たった一つのフレーズで自衛隊の六〇年はこれです。これから先も(役割の変化でより難しい状況となっても)精神は変わらず務めを果たす、と言ってのけ、視聴した大多数の人にそのしんし(真姿)を納得させた。

二つ、同時にたった一つのフレーズで、視聴した人に、暗に気高い志がありますか?その志を果たす為忍耐する事を知っていますか?と問いかけ、一人一人はその胸に手を当て感じるところがあった・・・。
その感じた何か、例えば冒頭の『日本人の魂そのもの』、が自衛隊のしんし(真摯)さへの納得、共感の感情を呼び起こした。


その真摯さとは『事に臨んでは危険を顧みず、身を挺して責務の完遂に務め』の宣誓に正面から取り組む姿勢である。いつ来るか分からぬ事ある時に備えて、覚悟と意欲を静かに燃やしている姿勢であり、その事ある時に断固実行する姿勢である。
その事ある時は自分の代では来ないかもしれない、しかし後に続く誰かが身を挺して責務を果たす。自衛官がその心を伝え続ける真摯さもある。

東日本大震災で原発事故に際し、原子炉の早急な冷却が求められた時、その緊急事態で国家が持ち得た手段は極めて限定されていた。その限定された取り得る手段は放水冷却隊であった。完全防護で、ヘリは最も放射能の濃度が高い原発真上から放水した。地上からは消防車の短いホースを最大限延して、原発に最接近し、放水した。状況不明下に刻一刻と迫っているかもしれない大爆発の危機、自衛官が後ずさりしたらその瞬間に限っては国家は無策であった、かもしれない。これこそ将に自衛官の服務の宣誓そのものである。自衛隊創設以来、営々と育み、伝え続けた自衛官の心を行動で示した、ものである。

多くの人がこの光景を見、その行為の意味を理解していた。この事が該報道で、前記真摯さに共感、納得した下敷きである。

終わりに

前田学校長は陸上自衛隊幹部候補生学校開設六〇周年の今年、入校した候補生への訓示に建学の精神として「大いなる精神は静かに忍耐する」を取り上げたが、集団安全保障の閣議決定に絡めたNHKの報道というタイミングの中では対象が候補生だけで済むはずがなかった。図らずも部外者・国民の多くの方への大きなメッセージという副次の効果を挙げた、と思う。

これこそ将に大いなる精神は静かに忍耐するの実践ではないか、そんな気が強くしている。

この稿終わり
終りに
 雪中行軍には軍人の真摯さに全く関心を払わない、歪めた興味本位が秘話として溢れている。これは世間一般の武人に対する関心や理解の低調と軌を一にしている。先ずは軍人福島大尉を知って欲しい、と「拓く 福島大尉正伝」を著した。この本は福島大尉の息遣い溢れる資料を基に福島大尉が何を思い、どう考えたかの真実だけを見つめて静かな環境で正しい理解を得たいと願ったものである。本稿は福島大尉の武人の側面に重点を移して思いを巡らし、真の武人の心とは、を考え、世間一般に武人に対する関心や理解が低調であるという私の実感を基に、武人の理解を深め、令和を機に考えて欲しいことを述べた。
 
 本稿の構想・著述に当たり、九桜会(会長斎藤四郎)、桜の会(会長田中武樹、唐津市)・日本会議佐賀唐津支部(支部長岩本剛人、事務局長藤原雄)での講話が決定的に重要な機会であった。九桜会は在九州の防大九期生の会であるが、他の二つは部外者を対象として、国民に武をどう説明すれば理解して頂けるか、に力点を置いた。背伸びの連続の難産続きであったが、お蔭様で一七年に及ぶ福島大尉研究の集大成に相応しい域に達することが出来た。福島大尉も喜んでくれていると自賛している。多大なお力添えを頂いた50有余年来の友人であり、大尊敬する人生の達人であり、退官後も武人であり続け、小・中・高生で後に銃剣道3段有位者100名超の教え子を持つ山口八郎氏(元自衛官、銃剣道範士八段・前佐賀県銃剣道連盟会長・現同会名誉会長、唐津氏在住)はじめ関係皆様方に深甚なる謝意を表し、結びとしたい。
 添付資料
*資料第一:八甲田山雪中行軍概要図
 資料第二:区域概要図(挿図)
*資料第三:黒溝台会戦要図
*資料第四の一『陸奥の国に出金を賀す詔』及び第四の二『左記詔に応えるための歌』(応詔歌)
*:掲載号の末尾または記述に連動して挿入

 主な参考・引用図書等
「拓く 福島泰蔵正伝」川道亮介 文芸社
「武士道」新渡戸稲造 岩波文庫
「旗、軍艦旗、軍旗」を週報に掲載の件陸軍情報委員会起案、次官決済(昭和一二年二月二五日)
「古事記」日本古典文学全集 小学館
「日本書記①~③」日本古典文学全集 小学館
「続日本紀一~五」新古典文学大系 岩波書店
「古事記・日本書紀」多田元監修 西東社
「古事記と日本書記」坂本勝 青春出版社
「古代日本と朝鮮」座談会 中公文庫
「壬申の乱を歩く」倉本一宏 吉川弘文館
「藤原氏」倉本一宏 中公新書
「藤原氏の正体」関裕二 新潮文庫
「大伴氏の正体」関裕二 河出出版新社
「白村江の真実」中村修也 吉川弘文館
「訳文万葉集」森淳司編 笠間書房
「万葉集を知る辞典」桜井満 東京堂出版社
「万葉集の精神」保田與重郎 新学社
「わが万葉集」保田與重郎 文春学芸ライブラリー
「大伴家持①~⑥」中西進 角川書店
「柿本人麻呂」多田一臣 吉川弘文館
「柿本人麻呂とその子躬都良」大西俊輝 東洋出版
「坂上田村麻呂」高橋崇 吉川弘文館
「明治二十七八年日清戦史」第2、5、6巻参謀本部編纂
「郷土兵団戦史」第1巻 第1師団、陸上自衛隊第1師団司令部
「機密日露戦史」明治百年史叢書 谷壽夫 原書房
「日露戦争」第三巻 児島襄 文芸春秋
「新資料による日露戦争陸戦史」長南政義 並木書房
「明治三十七八年日露戦史」第7巻 参謀本部編纂
「中部太平洋陸軍作戦」硫黄島 防衛庁防衛研修所戦史室 朝雲新聞社
「硫黄島作戦」陸戦史研究普及会 ぞ悲しき」梯久美子 新潮文庫
」小島襄 文芸春秋
「硫黄島」R・Fニューカム田中至訳 光人社NF文庫
「米国大統領への手紙」平川祐弘 新潮社版
「イラワジ会戦」ビルマ防衛の破綻 防衛庁防衛研修所戦史室 朝雲新聞社 
「インパール作戦」上下」陸戦史研究普及会編 原書房
「参戦ビルマ」(自家出版)有吉正
「ビルマ戦線崩壊の深層上下」(自家出版)田中豊(著者寄贈受け)
*「魂は甦る」(自家出版)土生甚吾
*「壮絶連隊長の死を悼む」(手記)副官土生甚吾
*「小室連隊長戦死の状況」(小室小枝様宛書簡)歩兵中隊長石田徳二郎
*「有川白梅中隊長」小隊長安田嘉治
*「工兵第56連隊の戦闘」(講話録)龍兵団参謀長川道富士雄
以上の*は小郡駐屯地広報館蔵
「参謀辻政信伝奇」田々宮英太郎芙蓉書房
『私の日本国憲法改正案』大澤 嘉昭「偕行」(平成30年10月号)
『憲法改正案について考える』広瀬誠「偕行」(平成30年7月号)
『憲法改正案について考える・・再論・・』広瀬誠 「偕行」(平成30年?月号)



武人の心 - 福島大尉から武人の心探求記念館