探求記念館が理解を深めた先に目指すところ

参考:ホームページ(HP)「福島大尉から武人の心探求記念館」(https;//www002.upp.so-net.ne.jp/bujinn-kokoro/

始めに
 
表記はホームページ開設後に膨らんだ思いである。福島大尉を追い続けて18年余、やっとホームページ・記念館開設にこぎつけた。開設時には出来上がりの姿、と考え、記念館設置の考え方の心得(7項目)に目指すところとして「福島大尉の真実とは、武人とは、武の心とは、顧みずの心とは、宝ものとはなどについて広く考え、理解を深める一石とし、・・」(第1項)、「更なる発信の拠点とし」(第2項)とした。これはこれで大変意味がある。しかし、某誌編集委員から投稿を勧められ、「ホームページ開設に寄せて」を背景事項を主に書き終えた。その草稿を練っている最中に、この目標(第1項)は静的でなく動的であり、動的である以上、"理解を求める"先にあるものは何か、どこへ向かおうとしているのか、また発信すべき3つの心の中に日本人の武の心を加えた深意はどこにあったのかという疑問が私の深奥から湧いてきた。今までは福島大尉に導かれてきて、なんでも"冠福島大尉"であったが、ここから先は福島大尉を離れて私がどこを目指すのか、を考えなければならない局面ではないか、と気づき、「ホームページ開設に寄せて」稿を見直して、表題に取り掛かった。

1、記念館の目指すところ、の全体像
 
そして同草稿の結びで 「(HPの背景説明を主とした)拙稿でHPの背景から三つの心の発信内容へと読者の興味が拡がり、そこで(武人や日本人の武の心としての)顧みずの心や(統べるものとしての)専心と最善の両立などについて考えて頂ければ、と思う。そして投じた一石の波紋が広がって、それらが(武人或いは日本人の武の)心の標準(の一角)として定着し、後世に受け継がれて欲しい、と願う。そこへ向かっての途中の景色で、なにがしでも参考にして頂ければ幸甚である。」とした。未だ考えを纏め切ったわけではないが向かう所の大まかなイメージ(概念)を追加して、明らかにした。

 ここで、武人の心の武人とは自衛官であり、その心とは自衛官の使命感を指す、と具体的にした。その使命感とは入隊時に行う服務の宣誓にある危険を顧みず責務を果たす、の顧みない心をいう。統べるものとは部下を命令で死地に投じる幹部自衛官を基本的に指すが指揮官職にある曹も含んでいる。日本人の武の心とは国土や国民の危難に際し身を挺して立ち向かう心であり、普段からわが愛する人をその手で守る気構えといざでは自衛隊と共に立つ、という高い役割意識をいう。ことに当たり統率に任じる幹部自衛官は任の重さや隊員の命の重さを深く自覚して地に足をつけた使命遂行に最善を尽くし、命ぜられた隊員は身を挺しわが身の犠牲も厭わない命懸けでことに当たる。武の心ある日本人は自衛隊に加わり或いは支援する等自衛隊と共に立つ。これらへの敬意が払われ、広く国民に浸透する。その積み重ねが標準として日本人に定着し、後世に受け継がれて欲しい心である。

 
記念館のめざすところ、のその先
 
ここから先を本稿で明らかにしたい。その先にあるのは、あってはならないけれど、備えていなければならない、ことある時に自衛隊及び自衛隊と共に立つ日本男児・大和撫子が日本国民の儀表(手本・模範)として戦い勝つ姿である。儀表について念頭にあるのは硫黄島を戦った栗林中将である。同中将は外郭要地である硫黄島防衛にあたり補充兵主体の兵団の心を一つにして戦い抜くため周到な作戦準備と厳しい訓練を積み重ねたが、米軍の侵攻必至の局面で日本精神錬誓五誓(註)を兵と共に誓い合っている。最後・五番目は我等は国民の儀表なり 此の矜持と責務を自覚し身を持すること厳に人を俟つこと寛かに日本精神を宣化せんことを誓う、であり、その誓いどうりに戦い抜いた。栗林中将及び硫黄島兵団の精神は大いに学ばなければならない。

註:日本精神錬成五誓(硫黄島部隊誓訓)
一 日本精神の根源は敬神宗祖の念より生ず 我等は純一無雑の心境に立ち益々此の念を深くし我等の責務に全身全霊を捧げんことを誓う
二 日本精神の基幹は悠久三千年の尊厳なる国体より生ず 我等は此の精神を蹂躙する敵撃滅の為凡有苦難を克服すうことを誓う
三 日本精神の涵養は御勅諭の精神を貫徹することに在り 我等は愈々至厳なる軍紀風紀を確立し猛訓練に耐え必勝の信念を益々強固ならしめんことを誓う
四 我等は国防の第一線に在り 作戦第一主義を以て日本精神を高揚し上聖明に応え奉ると共に下殉国勇士の忠誠と銃後国民の期待に背かさらんことを誓う
五 我等は国民の儀表なり 此の矜持と責務を自覚し身を持すること厳に人を俟つこと寛かに日本精神を宣化せんことを誓う

 これで私の中で漸く向かう所の全体像がはっきりした。顧みずの使命感や日本人の武の心を日本の心の標準とし、戦いに臨んでは儀表としての矜持と覚悟を持つ域に到るため心構えとしてどうあって欲しいのか、を次に考えたい。対象(自衛官と心ある日本人)に直接関連する①本気・本心の感作と②服務の宣誓の顧みずの心の国史的背景の二つに絞り考えたい。

2、本気・本心の感作で高め合う
 
自衛官の使命感と日本人の武の心は前述のように顧みずの心で繋がる。自衛官の使命感は日本人の武の心を根源とし、これに支えられ、両者は感作を及ぼし合う関係にある。以上は自衛隊の発足以来の歩みに見ることが出来、その一端が湯浅陸幕長の「修親」巻頭言(2019.5月号)にある。先ずはその紹介から。

 同巻頭言は湯浅陸幕長が2019.3月に就任して、「修親」紙上での第一声である。そこに述べられているのは平成3年雲仙普賢岳の噴火災害に、大村の16普通科連隊基幹の部隊が災害派遣活動を行い、終了した際の感謝の夕べにおいて高田長崎県知事のご挨拶の一部を

「・・・忘れも致しません。第一回目の予想もしなかった巨大な火砕流があった平成三年六月三日、尊い四十三名の方々の命が一瞬にしてヤマに奪われました。一縷の望みを抱く遺族の願いをかなえるべく、自衛隊はその翌日から連続して三日間、たった今火砕流が来ても不思議ではないあの真っ最中に、火砕流のあった現場の真っ只中に入られたのです。不安でおののていた市民にとって、あれくらい力強い思いをしたことは無かったでしょう。生命は地球よりも重いと言われるこの時代の風潮の中で、その地球よりも重い命よりももっと重い『使命感』というものがあったということをまざまざと見て、熱いものがこみあげてまいりました。自衛隊は、いざという時に、死を賭してやってくれるものだということを、市民はしっかりと見届けたのであります。自衛隊の真骨頂を見る思いでした。...」

 と続く辞脈の中で湯浅陸幕長は自衛官の使命感を地球よりも重い、その地球よりも重い命という風潮の中で命よりも重いものを見た、との言葉で紹介し、続いて、出動した隊員や家族及び命令を下した指揮官の心中を思いながらも、部隊・隊員は淡々と愚直に使命を果たした。その後も東日本大震災災害派遣を始め、国内外の様々な活動において隊員たちは黙々と使命を果たしてきた、と述べ、事に臨んでは危険を顧みず任務を果たす(という服務の宣誓が)崇高な使命感にまで高められており、実践陶冶を通じて自然と使命感を養ってきた多くの隊員とそれを育み継承してきた陸自の組織風土への敬意と誇りを述べられている。

 以上から感じることは。雲仙普賢岳災害派遣において服務の宣誓の顧みずを使命感とする隊員の命がけが長崎県知事の心からの感謝と日本人としての使命意識再発見の言葉となって返ってきた。この言葉は実に発信力のある言葉で、自衛官は己の使命の誇りを再認識し、新たな困難な任務に立ち向かう力となった。これに限らず多くの人が各種災害派遣等の活動における自衛隊の献身・勇気・本気に接し、自衛隊に感動・感謝し、本心からの発信をして広く国民の理解を深めるという感作を産んできた。東日本大震災は自衛隊に対する国民の意識を劇的に変えた。ここでいう感作に作為は無い。あるのは自衛官の本気と国民の本心である。近年は自衛隊にとっても国民にとっても未知の困難に遭遇しその都度自衛官がよく立ち向かう、という特質がある。だからこそ本気と本心が際立っている。現在の見えない敵新型コロナに対しても立ち上がり当初のクルーズ船パンデミック発生時における自衛隊中央病院の自衛官チームが一人の感染者も出さずに任務を果たした。これは常に未知の困難の先頭に居る使命意識の高さの現れであり、国民の信頼はまた一段と高い域に到った。我が国周辺情勢の緊迫化や自然災害の多発・激甚化という大きな流れの中で、どんな事態になっても必ず即応出来る備えを維持し、決してあってはならないが、そのことに際しては危険を顧みず責務を果たし続け、本気と本心が感作し合ってお互いを高め合って貰いたい。入隊時の宣誓の顧みずを実践陶冶で使命感にまで高める隊員とそれを醸成する組織風土は営々と築き上げた陸上自衛隊、日本の財産である。

3、服務の宣誓の顧みずの心の国史的背景
 服務の宣誓中のことに臨んでは危険を顧みず責務を果たし以て国民の負託に応える、の顧みずは(宣誓冒頭にある)我が国の独立と平和を守る崇高な使命を守る自衛隊の一員になるに際しての誓いの中で、実行して責務を果たす自衛官にとって、最も肝心かなめの言葉である。この顧みずは日本人が大切に使ってきた言葉である。すでに「福島大尉に学ぶ武人の心―連綿と続く顧みずの心」(偕行下書き原稿、HP掲載)で顧みずの心について福島大尉・大伴家持・栗林中将・今の自衛官についてそのあり様と?がりを述べた。同補展稿(HP掲載予定)で加藤清正・坂上田村麻呂を取り上げそのあり様と?がりについて前稿を補展する予定である。詳しくはこちらをご覧いただきたいがここでは大伴家持と坂上田村麻呂の顧みずの心の繋がりとその背景である律令制に移行して(8世紀初頭)から陸奥の国の征夷が一応の平定を見る(9世紀初頭)百年間の武の心(顧みずの心)のあり様に思いを巡らして、今の陸上自衛隊の使命感(顧みずの心)に繋がる国史的背景を考えたい。


3-1、神代における大伴の祖の尽くす心は武の心の源流である。
 
まず大伴家持の「海行かば水漬く屍山行かば草生す屍大君の辺にこそ死なめ、顧みはせじ」(以下海ゆかば)ついてあらましを語りたい。  
 天平21年(749年)陸奥の国に黄金が産出し、これで大仏建立が出来る、と聖武天皇は喜び、共に分とうと皇族や臣下を召して、「陸奥の国の金出を賀す詔」を下された。その際大伴・佐伯氏に対してお前たちの祖(おや)は 「海行かば水漬く屍山行かば草生す屍大君の辺にこそ死なめ,のどには死なめ」と尽くしてくれた。内の兵(いくさ)(ミウチという特別に近く親しい関係、藤原の内の臣以外は使われていない)としてこれからもこの心忘れず尽くしてくれ、と宣された。これを国司の任地富山で聞いた家持は大感激して、『これに応えるための歌』(応詔歌)」を歌い、その一節に前記の海行かばを挿入した(万葉集18巻-4094番)。その際、聖武天皇も承知されている大伴の祖の志を踏襲しつつも、「のどには死なじ」を「顧みはせじ」と言い換え聖武天皇及び(天皇が治める)新しい国に尽くす志と自身の覚悟を歌った。

 海行かばから、水漬く屍・草生す屍となるような厳しい戦いを勝つ、即ち役割を果たすことに専心して、大君のお傍で赤心を極め尽くしたい。それらのことで死ぬことも覚悟している。水漬く屍・草生す屍に向き合い最善を尽くす決意を新たにする、と私には伝わってくる。
 「海行かば」は国を貴び国を護る精神(註)と建国以来大君の忠臣として連綿と続く一つの皇統を支えた国史精神、他の歌人には無い、がある。これを踏まえ①尽くすことは役割を果たすこと。②役割の核心は武である。③統べる者として役割を果たすことに専心する心とその責めの重さを深く自覚し死地に投じられる兵の命を護るために最善を尽くす心の両立を図らねばならない。の三つを基本精神としている。従って大伴の顧みずの心は役割を果たすことに専ら心を砕くことであり、それが赤心から大君に尽くすことであった。また統べる者として専心と最善の両立を図ることが建国以来1400年余(紀元)という気の遠くなる長い間大君のお傍に居て仕え切る臣の道と認識していた。

註:国を貴び国を護る精神とは絶えることなく綿々と続く大君を尊崇し、大君を国家の背骨と戴いて君臣相和す国柄(くにがら)や自然豊かで四季の移ろいが美しい国土で民がその実りを享受して人情豊かに暮らす国柄(くにから)を愛でる心のことである。
くにがら:国の成り立ち、国体
くにから:国の本性、まほろな国であるわけ(以上広辞林第五版)

 
 ここから本題に入る。この歌の背景である大伴の役割を果たしてきた歩みをざっとでも辿らないと、真の歌意の理解・顧みずの心の理解には行き着けない。大伴氏は日本最古の武の名門である。大伴の祖は神話・天孫降臨の頃以来の敬神宗祖のおおらかで純粋な心のまま大君を畏敬・尊崇して仕えてきた。敬神宗祖は仏教や儒教などが伝来する前から存する日本の風土が育んだ日本人固有の精神であり、神や祖を崇めるように大君に尽くす心は後の武の心の源流であった。

神武東征にも従い、
大和入りの熊野迂回に際し、策応者のいない先導役を久米氏を率い務め、大和の豪族ニギハヤヒ(後の物部氏)の帰順に功があった。明治天皇の軍人勅諭には「昔神武天皇躬つから大伴物部の兵ともを率ゐ中國のまつろはぬものともを討ち平け給ひ」とあるが、大伴は物部よりも古くから大君に仕えてきた。

 大東亜戦争における硫黄島の栗林中将は部下将兵と「日本精神錬成五誓」を誓った。同誓の第一項「日本精神の根源は敬神崇祖の念にある。純粋無雑の境地に立ち、この念をますます深め、我等の責務に全身全霊を捧げることを誓う」とある。この第一項中の我等の責務に全身全霊を捧げる、とは陸軍の野外要務令綱領の「死生を顧みず本分を尽くす」の顧みずの心、役割・責務を果たすことに専心することそのものである。敗色濃厚で、今となっては本土の人々の、それぞれの家族を含めた、生活がB29の戦略爆撃から逃れて、一日でも長く続けられるように、とだけに戦いの意義を求め、しかも再補充兵主体の兵団の戦意を高めるために、栗林中将が純粋無雑に行き着いた答えである。武人の心の継承であると同時に大伴還りの精神であったような気がする。国難に際し、自衛官及び日本人が立ち向かう心を一つにする上で大いに参考とすべき精神である。

大伴の祖の敬神崇祖の念をもって純粋無雑に尽くす心は大君に尽くす標準であった
 最古の名門の武臣として大君のお傍近くで、朝廷の要職を占め続け、その間の功は数え切れない。なかでもその功を天皇が嘉(よし)として公知し、遺した事実の多さ及びそれらが建国から6世紀中ごろまで続いたインパクトは周りに尽くす心の標準であると受け止められた、というにふさわしい、と考える。
 例えば神武東征時、大伴の祖は熊野迂回に際し、久米氏を率い、押坂邑に誘い込んで撃破し直後に歌った久米歌を天皇は奢らない良将のわざと讃え、雅楽・久米舞として、大伴に伝承させ、大嘗会などの儀式で奏させている。また天皇は建国第一の功労者と、建国のその日真っ先に讃え、築坂村(橿原市鳥屋町)に住む場所を与え、記録にとどめている。垂仁・景行・仲哀朝で大夫(大臣等)を務め、(景行朝の)ヤマトタケルの東征に功を挙げた大伴の祖は甲斐の国酒折宮において靫負部(地方の軍団)を下賜された。(仲哀朝で)宮中の警護を任された。大伴が絶頂期を迎えた5~6世紀、室屋は允恭から顕宗天皇まで5代に大連として仕えたが雄略天皇崩御の直前、広大な部民を有しているので守って欲しいと皇太子を託され、星川皇子の反乱を鎮圧、吉備氏を滅ぼした。孫の金村は専横を極めた平群氏を滅ぼし、政を天皇に反(かえ)したてまつり、と武烈天皇即位に貢献した。大連金村は武烈天皇崩御後、継体天皇を探し出して即位に貢献した。宣化朝では新羅侵攻から任那救援、欽明では高麗征討、を命ぜられ大伴挙げて使命を果たした。時代は下るが、聖武天皇は「陸奥の国に金出賀す」詔において大伴の祖は海行かば水漬く屍山行かば草生す屍大君の辺にこそ死なめのどには死なじと尽くしてくれた。遠い天皇から今の御代の天皇まで皆内兵(内のいくさ、身内)と思っている、とすべての皇親や官人が並ぶ中で、大伴佐伯氏に対し賜っている。また天平勝宝4年(752年)の東大寺大仏開眼供養でも前記久米舞は演じられた。
 
大伴の祖の尽くす心は大君と後の天皇及び国家に尽くす標準
 そして大伴の祖の尽くす心は海行かばが万葉集に載せられ、多くの人に歌われ続けることによって、上からの指導ではない草莽の精神としても日本人に定着し、大君に尽くす標準となっていった。後の世の天皇と国家に尽くす標準ともなった。


3-2、「海行かば」が歌われた時代における「海行かば」の顧みずの心は今の自衛官の使命感(顧みずの心)の祖(礎)型である。
 
大伴の祖の歩みについて話を続ける。大伴の祖は国の形が首長連合体でその祭祀長的立場であった大君の言向け(話し合い)や掃き清め(討伐)を武に拠って支えた。やがて大君が力をつけ雄略天皇の頃に武力・政治力・経済力で豪族たちを支配する権威も確立した。それを大伴の武が支えた。この頃大伴は全盛期を迎えた。室屋は大泊瀬幼(おほはつせ)武(わかたけるの)皇子(みこ) (後の雄略天皇)自ら大和の豪族葛城氏を討つのを助け、天皇即位に貢献し、大連となり、雄略の死後、託されて、皇位簒奪を図った吉備氏を誅し、清寧天皇即位に貢献した。金村は仁賢天皇没後政権を恣にする平群氏を討ち、武烈天皇即位に貢献した。その死後継体天皇を探し出し即位に貢献した。朝鮮半島経営を任されたが、任那4県の百済割譲失政により隠遁した。役割を果たせなかった大伴は静かに表舞台から去り、次の機会を待った。壬申の乱では部民や領地を取り上げられる方向性にもかかわらず大海人皇子につき、その勝利と天武皇統下での新しい国作り(律令制の中央集権国家)及び乱で揺らいだ大君の権威を天皇の権威として立て直すことに貢献した。
 以上大伴の顧みずの心は祖が神話時代から天武皇統での新しい国作り(律令制の中央集権国家)に到る迄、貢献し役割を果たし続けた心である。大伴の祖は神武天皇、雄略天皇、天武天皇とその皇統という国史の節目で大きな役割を果たしてきた。


 
以上のような国史の理解に到ったのは万葉集の構成に抱いた疑問が出発点である。万葉集は雄略天皇御製と言われる歌に始まり、途中に天武・持統天皇を神と歌い、家持の新年を賀す歌で終わる。防人歌では難波の津の回想も入っている。何故か、何故かの答え探しの結果である。詳しくはブログ武人、その心・大伴家持の武の心の該当稿を参照頂きたい。
 
 律令制以前は大伴氏初め有力氏族は部民や領地を許され、武を(大君が統治する)朝廷から委任されていたが、新しい国では国家(太政官)が武を直接握り、大伴を初めとして朝廷に仕えていた氏族は部民や領地を返納し、2官8省及び令下の官の中央政府に仕え、官人となった。
 官人は文官と武官に分けられる、文官は式部省、武官は兵部省が所掌したが、厳密に分けられていなかったようで経歴が交差しているものが多い。参議以上の上級官人は議政官として国政に参画させるので、高位の人材育成上、文官には武の、武官には文の経歴を積ませ、資質・適性等を見極める考えだった、ように思われる。天武天皇から持統・文武天皇にかけての50年間に諸王以下官人皆が武器を手にし武技を磨き,兵事の素養を身につけるよう詔を度々下している。唐の侵攻に備えてであろうが、政・武に亘る最高意思決定の補佐という面からみると、諸王並びに有力氏族である文官の武の素養を高める狙いもあった、ように思われる。
 
 大伴は基本的には武官だが、参議になり議政官として朝廷の要議に列した家柄から武官専念は許されなかった。文官としての力量も当然視された。朝廷では有力氏族の氏上は夫々議政官の構成員であったが、律令制後の新しい国では議政官は太政官におかれ、構成員は諸王ならびに参議(以上)の官人(公卿)とされた。この官人は文官が主流であった。そして地方で手を焼く、征夷はその都度軍を編成し、指揮官である征夷大使(呼称は様々)は参議相当から選ばれた。蝦夷の抵抗が強くなかったせいもあり武官ありきではなかった。従って文官として武の素養を高め、参議になる、一方武官は武官専念を嫌い、文の素養を高めるというのが文武を通じ上昇志向官人の考え方であった。家持は以上を強く意識し、文官の比重を高める務めの中でも、本分は武官である、を鮮明にするため、顧みずの心を新しい天皇と新しい国家へ尽くす志や覚悟として「海行かば」を歌った。家持には官人のスタート時頃には祖父安麻呂が新しい国のもとで議政官となり、太宰帥(705)へ、父旅人も征隼人持節大将軍(720年)、大宰帥(728年)へという武官でありながら文の素養も高い上級官人(公卿)になった、という現実が見え、自分も同じ道を歩む、と覚悟を固めていた。旅人に武人としての歌がないのは何故か、家持は歌っているのに、という疑問も生じる。旅人は新しい国の発足の頃、国に仕える官人になるに際し、武の最古の名門としての武才と誇りがいつでも活かせる、武官専任で武才を磨きながら高位が約束される途を願ったであろう。しかし、その道は新しい国発足直後の制度では、父安麻呂は官人として歩みの途上にあり、見通せなかった。旅人は氏長として上級官人への歩みを優先した。その決意の表明として武の名門意識を封印した、のではないか。資料が残ってないだけかもしれないが、謎がつきない旅人ではある。
 纏め・教訓 
 以上から大伴の祖及び家持の尽くす心・顧みずの心は神話時代から律令制の中央集権という新しい国に?がる。その新しい国は①神話時代から連綿と続く一系の天皇を背骨として国民が相和すくにがら、②法に則り、③武が国家に直接仕えるという意味で今に続き、今の自衛官の使命感の祖(礎)型である。

 もう少し補足したい。新しい国では、有力氏族に武をゆだねる形から武を直接国家が握る形となった。このため(部民や領地を失った)大伴本流は武官が基本であるが、その地位から武官専任は許されず、将来の高位候補として文官としても、仕えることになった。上級官人として生きる道は実力本位(建前)の厳しい競争社会の中にあった。律令制は大君(とその所有する土地や人)から天皇と(天皇が治める)国家という概念の分化を産んだ。氏族存立環境の激変により、官人として国家を肌で感じた家持は大君に武を以て尽くす顧みずの心を新しい天皇と(天皇が治める)国家という新しい器へ、注ぎ分けた。この時代に海行かばが作られたことに、私はそういう意味を見出す。
 
家持の顧みずの心はこの時代以降の人々の尽くす標準となった。
 海行かばの家持の顧みずの心は万葉集に載せられ、多くの人に歌われ続けることによって、上からの指導ではない草莽の精神として日本人に定着し、新しい天皇と新しい国に尽くす情感上の標準から次第に観念としての心の標準となっていった。


3-3、坂上氏の血統としての顧みずの心はいざに備え続ける心
 
宝亀11年(780)3月22日陸奥国で伊治公呰麻呂反して多賀城炎上し、蝦夷討伐のため蓄えていた武器・軍糧が悉く消失という大事件が起こった。これまでも蝦夷の侵襲が続いていたので、これをきっかけに大規模な征討が国家を挙げて2度計画されたが頑強な抵抗により2度とも失敗した。延暦13年(794)の征夷(桓武朝2回目)では国家は腰を据えて征夷をおこなうため総指揮官を「征夷大将軍」とした。初めて同職に就いたのは大伴弟麻呂(64歳)。軍勢は10万、征夷の実績を上げた。その時坂上田村麻呂(37歳)は4人の副使(副将軍)の一人として弟麻呂に抜擢され、信頼を得て軍を取り仕切った。延暦20年(801)年の征夷(桓武朝3回目)で弟麻呂は表にでず、田村麻呂は延暦16年に征夷大将軍になり、陸奥出羽両国の政・軍を一元的に掌握すべての準備を合わせ行い、胆沢の軍事的平定に成功、延暦21年胆沢城、延暦22年志波城を築き、政治的・経済的安定を図った。
 
 ここに至ったのは坂上氏代々の血統としての顧みずの心が後を継ぐ者に活躍の舞台を用意し、武才を磨かせて、いつ来るかわからないその時に備え続けたからであった。それがたまたま田村麻呂であった。坂上氏は新しい国では大伴本流とは違い、外位という中下級の貴族・地方豪族 に過ぎない存在で、武官(専念)として仕えてきた。ところが田村麻呂の4代前(高祖父)の坂上老の死,文武天皇3年(699)5月8日、に際し、天皇は以下の詔を下した。
「汝、坂上忌寸老、壬申の年の軍役に、一生を顧みずして、社稷(本来は朝廷又は国家、この場合は国家)の急(あやうき)に赴き、万死を出でて国家の難を冒す。・・略・・宜しく直広壱(正4位下に相当する高位・貴族の地位)を贈り兼ねて物を賜うべし」

 ここで一生を顧みずして、社稷(国家)の急(あやうき)に赴き、万死を出でて国家の難を冒す、とは今まで述べてきた役割や使命を果たすことに専心することそのものであり、「顧みずの心」である。従って、坂上氏は「顧みずの心」を代々伝え続けて老の代で顕われたものであり、天皇が認めるこの心を強く血統として伝え続けた。
 祖父犬養は天平8年1月28日に正6位上から外従5位下に55歳で昇進した。外5位で衛府などの下級武官で終わる運命、と言える境遇にあった。ところがこれから急昇進、天平20年1月7日には67歳で従4位下に昇り左衛士督、勝宝8歳(756)聖武上皇崩じ、山稜を護ることを乞い孝謙天皇これを嘉として許し、正4位上を授け、翌年兼造東大寺長官となし、83歳で没す。坂上氏は犬養の代で「外位」としての地位を脱し、政界に確実な地歩を占めた。栄進は聖武天皇の目に留まり、武才を以てその役割を果たし、その信任を得たことによる。父刈田麻呂は恵美押勝の乱の功により、37歳で父犬養が67歳で着いた従四位下に並び、道鏡の奸計を告げる等邪を許さず見逃さない武才により栄進した。そして田村麻呂は父の蔭位を受け、武官として歩み始め、征討の功により延暦14年38歳で従四位下を授けられ、祖父・父と肩を並べた。


纏め・教訓
 
坂上氏の血統としての顧みずの心はいつ来るか、こないかもしれないことある時に代々引き継いで且つ気を緩めることなく備え続け、武才を磨き続ける心である。そういう血統の中から国家の急に際し真に託せる大将軍が生れた。これを自衛隊に置き換えれば顧みずの心を使命感にまで高めるため実践陶冶する隊員とそれを助長する組織風土を育て、これに感作を受けた新しい血が加わって、引き継ぐ中から国難に際し、真に即応し役立って国民の負託に応え得る部隊・人材が育つ。

3-4、坂上田村麻呂の「顧みずの心」は80年前の新しい国に尽くす初心への原点回帰
~田村麻呂を抜擢した大伴弟麻呂の思い、を思う。
 
桓武朝2回目の征討で田村麻呂は大伴弟麻呂の抜擢で、と前に書いた。明確な記述はないが二人の行動の息がぴったり合い、引き立てが明瞭と感じる様から、余程気脈を通じる何かがあると思う。何といっても国家の急を思う心を共有し託せるのは田村麻呂しかいない、と思った、からであろう。ここでは弟麻呂の人となりとその内面に思いを巡らさなければならない。
 弟麻呂は古慈悲の子である。古慈悲が橘奈良麻呂の変で流罪となり後許されるまでの間の昇進は遅く、延暦10年(791年)従四位上・征夷大使に叙任された時弟麻呂は61歳であった。弟麻呂の意向に沿って副使4名を選定、田村麻呂を抜擢した。その後、一旦征夷大使の辞表を提出し、征夷副使・坂上田村麻呂も同調するが認められず、延暦13年(794年)正月に初めての征夷大将軍を命ぜられ、節刀を賜与され、出発し、同年6月に副将軍の坂上田村麻呂が蝦夷征討で大きな戦果を挙げた。翌年正月節刀を返上した。
 国家は過去の失敗の教訓を活かし大将軍以下の準備に3年余をかけた。征夷大使に叙任時(延暦10年(791年))従四位下に昇階させ、参議(相当)にした。従来は参議の中から選ぶ、従って文官優先となる、から武官の適任者本位に変更した。また従来の副使を先に決め後で大使を決めるやり方から大使を決めその意向で副使を選ぶ、軍の目的合理性の精神を重視した。征夷大使の辞表云々も弟麻呂が頑張りどころと考えたに違いない。これも偏に弟麻呂の逆境に耐えた誠実な奉公ぶりから、苦労人大将軍としての器量特に包容力そして政治力や武才がかわれたからだが、そこには国家の2度の征討失敗に関する苦い教訓があった。
宝亀11年の征討失敗を思う
 既に述べたが、宝亀11年3月22日、伊治公砦麻呂が反し、鎮守府多賀城が炎上し蓄えていた軍需品・武器等が跡形もなく略奪される、という大事件が発生した。直ちに4月征討に赴いた征東副使兼陸奥守、大伴益立は成果を挙げられず。9月現地に赴かなかった持節征東大使藤原継縄(文官)は藤原小黒丸(文官)に代わり征討に向かうが成果を挙げられず、光仁天皇譲位、桓武天皇即位(天応と改元、4月)のどさくさ?にまぎれ、8月、小黒麻呂は「征伐こと畢りて入朝」した。押っ取り刀の征東軍派遣で、準備不十分であった上に蝦夷が格段に組織化され強くなっていたこと等が失敗の直接因として挙げられるが、持節征東大使は上級文官(公卿)の名誉職という風潮が出来上がっていた。その中で武の牽引役の益楯一人が孤立し責任を負わされた。弟麻呂は思った。新しい国になって80年のゆるみが大使は名誉職で命を懸ける職ではない、と逃げ腰で、軍をけん引すべき副将軍は無気力・武才に問題ありという征討首脳の無責任・無能力となって現れた。

桓武朝1回目の征討失敗を思う
 
国家は7年(780)、先ず3月21日副使4名を発令し、7月、57歳の紀古佐美(武官、前回益楯とともに副大使)、を征東大使(大将軍)に任命された。前回の征討から、想定を超える事態に文官に大将軍が務まるか(或いは文官が忌避した)、との危惧を持ち、武官を充てるという方針に変更したが適任者選びに難航した。
 7年12月7日、征東大将軍古佐美は節刀を賜り、且つ勅書も賜った。古佐美はその場から征夷に出発。翌年3月、「諸国の軍多賀城に会し、道を分けて賊地(胆沢)に入る」がそこで(衣川付近)で滞陣したまま動かず、中央から督促され、5月末衣川の分散渡河戦で大敗、
その後挽回ならず進軍も留まることも出来ず、臣等議して、現地で軍を解散した。国家(天皇)は古佐美について「元の謀に合順(あいしたがわ)ず。進入(すすみい)るべき奥地を究め尽くさずして、軍を敗り、糧を費やして還参来(かえりまいき)つ」と述べ副将軍等について「その道の副将軍等計策の失するところなり」と断じている。
 弟麻呂は思った。新しい国になって、80年のゆるみが武官のだらしなさとなって現れた。そのだらしなさは先が読めず、責めを一身に負う決断ができないことであり、普段からここを思って武官職に向きあう真剣さが抜け落ちてしまったせいである。文官職との交差の悪い面が積もりに積もり、地道に武才を磨くことを軽んずる風潮が蔓延してしまった。その上に橘奈良麻呂の変などで真摯に尽くし直言する数少ない武材が粛清されてしまった。
 弟麻呂はこの二つのゆるみは重い。これをただすのは80年前の初心、新しい国に尽くす心、役割を果たすことに専心、に立ち返らねばならない。副将軍には80年間ひたすら武官に専念し、実地・実員・実学で「顧みずの心」を磨いてきた坂上一族に注目し、中でも能く言い、能く行動する田村麻呂を加え、衆心の刷新を図らねばならない。

 桓武朝1回目の征討で国家は紀古佐美(武官、宝亀11年の征討時益楯とともに副大使)を7年征東大使(大将軍)に任命したが、難航した。私は力量からいって国家は征東大使に大伴弟麻呂をしたかったのではないか、と思った。その前の3年2月に陸奥按察使・鎮守将軍大伴家持が持節征東大使に命ぜられた際、弟麻呂は征東副将軍であったからだが、8月家持死去し、9月23日の藤原種継(平安京遷都の責任者)暗殺の首謀者とされ、解官され、征討は沙汰闇になった。これが尾を引き、ことに、家持との近さを警戒されたのかもしれない。紀古佐美は宝亀11年の征当時大使藤原小黒丸の言いなりで益楯と対立し、武の牽引役を果たさなかった、が小黒麻呂の昇任の御相伴に与り昇任した。大使に疑問符がつく武官であった。


纏め・教訓
 
田村麻呂の血統としての顧みずの心は顕れ、弟麻呂が確り見て、引き立てた。大伴と坂上の血統の顧みずの心は2回の征討失敗に顕れた緩み(征討指揮官を名誉職と勘違いする風潮、その道を究めるべき武人の失態)に喝を入れ、田村麻呂の「顧みずの心」は征夷従事者全員に初心、80年前の新しい国につくす心、に立ち返えらせた。
 陸上自衛隊にあってこのような緩み・失態があってはならない。築くは100年、壊すは一瞬である。挑むがための小さな失敗はつきもので、そこから学び成功体験を積み重ねて精強への途を限りなく歩み続けなければならない。陸上自衛隊はそのために常に初心に立ち返り、「顧みずの心を磨き続ける」健全な隊員と組織風土であり続けたし、あり続ける必要がある。武の心ある人はそれを確り見届け、ことある時の大きな力になる。その力は次代に向かって新たな駿血を加え「顧みずの心を磨き続ける」力となる。
 

3-5、田村麻呂の顧みずの心は戦う前に大勢を決めて良く勝ち、良く国を拡げた。
 
征夷大将軍・田村麻呂は桓武朝3回目の征討では延暦15年(796年)1月25日に陸奥出羽按察使兼陸奥守に任命され、10月27日に鎮守将軍も兼任すると、翌延暦16年(797年)11月5日には征夷大将軍に任じられ、東北全般の行政・軍を指揮する官職を全て合わせた。これに拠り政・軍を一元的に掌握し、1つ、陸奥出羽を大宰府と同じような機構にして、対外的にはまつろわぬ蝦夷を討伐しつつ征地の拡大を、対内的には征地の安定と奥羽2国の律令制化の推進を図った。2つ、蝦夷を含めた民生安定策を推進した。
 延暦20年(801年)2月14日に節刀を賜って、出京。10月28日に凱旋帰京して節刀を返上した。宝亀以来の宿願であった胆沢の軍事的平定は終わった。次にはこの地を長く陸奥の国の領域として安定させることが国家の課題となる。田村麻呂は延暦21年1月9日、造陸奥国胆沢城使として派遣された。この時、夷大墓公阿弖流為・盤具公母礼等500を率いて降った。遂に蝦夷抵抗の首謀者が根拠地胆沢を征服され進退窮まって、田村麻呂の軍門に降った。7月10日、田村麻呂夷大墓公二人と500名を伴って入京。田村麻呂は助命するが、聞き入れらず二人処刑さる。延暦22年(803)3月、造志波城使として派遣された。国家は将来の安定を目指した出先機関の造営を一挙に、田村麻呂に任せた。まもなく、国府多賀城、鎮所・鎮守府は胆沢城となった。これに拠り岩手県中部までは律令国家の領域となり、胆沢城・志波城(洪水の為徳丹城に移転)が行政・軍事の要となった。

纏め・教訓
3-5-1、田村麻呂が受け継いだ顧みずの心は国家100年の計「国を拡げる」の一応の区切りをつけた。
 
この拡げるは100年前は明瞭ではなかったが、国家の意図が行動となってあらわれると、蝦夷の反乱が続出、陸奥国では30年続きやがて強大化し、国家はやむを得ず圧倒的兵力の投入を決意、征夷大将軍田村麻呂に託して、成った。田村麻呂の顧みずの心は新しい国家100年の計【国を拡げる】へ向かう流れの中の決をつける段階に登場し、新しい国の成立から100年たって実現させた。この顧みずの心は国家に大きな区切りをつけたものであり、受けたバトンの一応のゴールへの到着であった。その後は1200年後の今の日本の融合・繁栄のシンボルとして受け継がれている。
 田村麻呂は現地の政・経・軍と征夷軍に関するすべての準備を時間をかけて一元的に行い、その段階で勝負あり、と言われる域に到らしめ、平定した。絶大な信を得た田村麻呂は武を主体とする胆沢や志波の安定策も命ぜられ、思い通りに行った。結果国家の北限を岩手中部にまで広げ現代の融合・繁栄の道を拓いた。田村麻呂は陸奥国胆沢城使として派遣された時、500人を連れて自分に降り、助命を請うも聞き容れられなかった夷大墓公阿弖流為・盤具公母礼の二人の死を陸奥・出羽の真の安定・融和に繋げなければならない、と誓った。まずは、蝦夷の無念を受け止め、供養は自ら行う、自分に従い斃れた兵と同じく、唯一認められていた私寺の清水寺で、と決めた。今この二人の慰霊祭が毎年秋に多数の人が参列して、同寺の二人の慰霊碑前広場で行われている(主催:阿弖流為・盤具公母礼の会(和賀亮介会長)。私はR1.11.8参列してそう実感した。敵味方を問わず、死者の無念に向きあう真摯な弔いは戦わざるを得なかった者たちの憎しみ・無念を風化ではなく溶かし、融和へと向かう。田村麻呂の顧みずの心はそのことを語っている。

 
 3-5-2、田村麻呂の顧みずの心は前人未踏の役割をも良く果たした。
  
田村麻呂は武と政を自分に一元化し、武を主とした政・経・民の一体化で蝦夷を平定・安定し【国を良く拡げる】ことと律令制の普及を急速に達成した。現地で武が政を主導するという前人未到の役割を果たしての国家への貢献であった。2度の征討失敗は待ったなしの状況を産み、桓武天皇の【国を拡げる】強い意志と田村麻呂への絶大な信頼が田村麻呂一人に権限を集中させた。国家が求める前人未踏の役割を田村麻呂は覚悟を持って受けとめ、潜在能力の高さ・人間力の高さを遺憾なく発揮して果たした。田村麻呂は武官職で武才をひたすら磨いた上に、視野を拡げ、武に関わる政・経・民等を良く学び天の時・地の利・人(の和)を見る明智を磨いていた。
 武の名門という血脈を田村麻呂はどう受け止めていたのか。単に誇りや矜持を持ち、言い伝えを守るだけではこのような視野の広さや明智は生まれない。この疑問を田村麻呂と付き合い始めてからずっと考えてきた。ここにきて、田村麻呂は坂上氏が帰化し、大君に尽くてきた歩み(国史)を自らの顧みずの心を映す鏡として成長したのではないか。未知が大きければ大きい程、己の志が高ければ高い程、先人の精神や知恵のDNAが鏡の中で輝いて見えた、から、という答えを見つけて得心した。大伴家持についても全く同じことがいえる。

 
 3-5-3、陸上自衛隊及び(武の心を有する)心ある日本人に願うこと
 
律令制の新しい国となって一応のことが成るまでに100年かかった。この律令制の新しい国となって以降100年の国家と国家に仕える武人の歩みには学ぶべき点が多くある。中でも今に活かす意味で最重要と思える点は人智を超えるものであったが、顧みずの心を受け継ぎ、最後に田村麻呂が前人未到の役割を与えられ、それを果たすことによって成った、ということである。そして前人未到の役割を果たしたのは武門の血脈である先人の歩み(国史)を己の顧みずを映す鏡として、その精神や知恵のDNAの輝きを自分のものとして、成長したことも。
 
 陸上自衛隊(官)は、人智を超える歩みの中だからこそ、武人として生き、日本人の心の源流や武人の心の祖(礎)型である顧みずの心に立ち返ってその国史的背景例えば国を貴び・護る精神等に思いを致し、顧みずの心を磨き続け、未知の役割に備えて欲しい、と思う。その際に、顧みずの心は伴の緒由縁の武人達、特に大伴・福島大尉・栗林中将に見る専心と最善を両立させる心(註1)や坂上田村麻呂の兵に無駄な血を流させないで良く戦い勝つ(註2)という統べるもの、の心があって成り立った。自衛官もこの系譜に連なる。以上を肝に銘じて欲しい。また己の顧みずの心を国史に映し、そこに先人の精神や知恵などのDNAの輝きを見つけ、未知に備えて欲しい。
 
 註1:詳しくは「福島泰蔵大尉に学ぶ武人の心―連綿と続く顧みずの心」(偕行下書き原稿、本HP掲載)該当項参照
 註2:詳しくは(補展稿)「福島泰蔵大尉に学ぶ武人の心―連綿と続く顧みずの心」(本HP掲載)該当項参照
 
 (武の心を有する)心ある日本人は自衛官の顧みずの心が統率の責めを負う幹部、連綿と続く伴の緒由縁の統べるものとして、の専心と最善の両立や隊員に無駄な血を流させないで良く戦い勝つという心があって成り立つ、ことに注目して欲しい。これは責務完遂に加えて、無念の隊員を出さないための必至が広く国民の認識を、身近なところでは自分の家族や縁者を喜んで入隊させ、或いは良い人材や支援者が増えるという、"自衛隊を理解・信頼する"域から"共に立つ"域へと押し上げて来た集団だ、とわかって欲しいからである。また田村麻呂が前人未踏の役割を果たす際、己の顧みずの心を先人の歩み(国史)に映した点に注目して欲しい。なぜなら困難な状況、厳しい状況において戦い抜く際の国史に拠る重要性を示している、と思うからである。前述した栗林中将が硫黄島防衛戦で日本精神錬成五誓を全員で誓いあったことを今一度想起して欲しい。最後に大伴の祖が神代に大君に敬神崇祖の念で尽くした心は日本人の武の心の源流であり、律令制の新しい国という国家意識の基に仕えた武の心は今の武人の心の祖(礎)型である、としたことにも注目して欲しい。心ある多くの日本人がその意識をもつなら、それは日本人の標準となり、自衛官の使命感の根源となり、支えとなる、と思うからである。

 
 結び
  
前稿の「HP開設に寄せて」は、思いがけず、本稿執筆の意欲を振起し、私の心底にあった思いを結集させ、私が奉職した陸上自衛隊と日本への思いを吐露する場となった。私は服務の宣誓の顧みずの心を使命感にまで高めてきた陸上自衛隊、旧軍を受け継ぎながらも戦後に与えられた環境で独自の財産を作り上げた、の歩みに心からの敬意と限りない信頼を表する。その上で標準となり、ことに臨んでは自衛官と(武の)心ある日本人が共に立ち儀表としてたたかって欲しい。そのためには服務の宣誓の顧みずの心が国史的背景に拠っている、という一層の自覚の広がりも重要な要素ではないか、と思う。ここで述べた国史的背景については全くの私見であるが投じる一石になればと思う。
 以上
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希「顧みずの心が日本人の武の心の標準たれ」