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智勇情兼備の武将島津義弘(その2)

        ~島津忠良・貴久・義弘、中興三代の大業と士風

2章 薩摩・大隅領有の戦い

 本章は貴久が太守として実質的に活動を始め、大隅国錦江湾沿い(国分・加治木・帖佐・蒲生)の戦いから薩摩・大隅北境(横川・真幸院・牛屎院・太良院)の戦いをほぼ制し、薩摩・大隅北境の領有の完成を見ずに、没して義久が太守として、3州統一を引き継いで、薩摩・大隅をほぼ領有するまでの戦いを述べる。戦いを見るに当たっては薩摩士風の確立・継承・発展の見地から第1段は貴久、第2段は貴久と忠平(義弘)、第3段・以降は忠平(義弘)を中心に据える。

本章の構成と(関連)リンク

 1段階 大隅国錦江湾沿い(国分・加治木・帖佐・蒲生)の戦い

本段の主な戦い(清水城(国分)、加治木城、帖佐城、蒲生城),、第一段特筆事項へ(1軍司令官貴久、2島津の士風、3山田・帖佐、蒲生・松坂地頭配置、4教え戦う、5忠平(義弘)の活躍、5-1いろは歌と郷中教育、5-2役割意識、)

 2段階 薩摩・大隅北境(横川・真幸院・牛屎院・太良院)の戦い  第2段先頭へ本段の主な戦い(忠平(義弘)飫肥から飯野へ、横川城の戦い、馬越城・堂崎・市山・曾木の戦い、日新斎死去、羽月の戦い、大口城の戦い、伯🈶斉死去)堂崎の戦いへ 第二段特筆事項へ1日新斎の書、2軍司令官貴久、3島津の士風といろは歌、4忠平(義弘)の活躍、4-1武将忠平(義弘)、4-2武人忠平(義弘)、4-3役割意識、5島津士風の継承・発展者、6川上忠智栗野地頭)
  
 3段階 大隅・日向州堺(真幸院)及び下大隅(垂水・肝付)の戦い  第3段先頭へ本段の主な戦い木崎原の戦い、垂水・肝付の戦い

木崎原の戦いへ 第三段特筆事項へ(1島津士風の継承・発展、2忠平の活躍、2-1智勇情兼備の武将、2-2武人忠平(義弘)-共動、2-3統率の肝、2-4役割意識、3島津の士風(整理)、4士風の継承・発展者、近郷軍(援隊)の意味)

第一段階 大隅国錦江湾沿い(国分・加治木・帖佐・蒲生)の戦い

清水城(国分)攻め

 天文17(1547)日新斎は冬103日(或いは98日)、大軍を以て、清水城(現国分)を攻め、進退窮まった城主本田薫親は翌日庄内へ遁走した。日新斎は同地を召し上げ、13代にわたり領有した本田の名も断絶させた。貴久は清水の地を島津忠将に与えた。桑原郡一体を有し常に本田と組み敵対する北原兼守との連携を絶ったこと、薫親領の曽於郡一体をわが領としたことで海上路の要衝である桜島・生別府(国分)の保持を確実にして、隅州と帖佐・加治木方面からの薩州制覇の楔を打ち込んだ。

清水城攻めの経緯

 2月、清水城主本田の暴虐を怒り反旗を翻して姫木城に立て籠った本田刑部少輔を討つため薫親は姫木城を攻めたが逆に敗れた。324日、薫親は再攻の念をたぎらせ、北原兼守と共に日当山(隼人)を攻めた。帖佐城主渋谷良重はこれに味方した。宮内の留守桑波田道賀の求めを受け、これを介入の口実として、貴久は伊集院忠朗に救援を命じた。

 忠朗は良重に(陸路では)糧道を絶たれる恐れがあるので、夜間桜島から秘かに陸路で宮内に到り、正八幡宮の上の山上に砦を築き、日当山に睨みを利かせつつ、生別府を陥れた。事前の調整通り、貴久は同地に沖の浜・大野原を加え長浜と名付け樺山善久に与えた。天文11年薫親との偽和に際し、善久から取り上げた地を取り戻し、与えた。是で後顧の憂いが無くなった忠朗・善久は廻城(福山城)を攻め、上井・敷島を降らせた。北原・本田は降を申し出、日新斎は北郷忠相と共に来、議して両者を許した。忠朗は引き続き宮内を守り善久と共に薫親輩の動向即応の体制を続けた。

 貴久は忠朗と策を練った。救援要請を口実とし、薫親が日当山に前かかりになっている状況を活かし、正八幡宮の山上に砦を築いて、牽制しつつ、生別府をとり、善久に与え、海上からの糧道を確保し、忠朗・善久連携し、廻城(福山城)を落して、有利な態勢を築いてしまった。

本田・北原・祁答院叛く

 831日、本田薫親、北原兼守・祁答院(帖佐城主渋谷良重)に謀って日当山に叛し、忠朗日当山を陥す。この時田尻荒兵衛が活躍する。荒兵衛は伊作田尻村の農民で、加世田攻めの時、新納康久から汝城に入ってこれを焼かば我が女を娶らせ、公に告げて士とすべし、と言われ、即城を焼き、以て士となり、数多の大功を立てた。人材登用の熱気が伝わる。

 95日、姫木城本田刑部秘かに忠朗を招きいれた。在城の北原狩之介はこれを知らず抵抗するが降り、忠朗は狩之介以下30数人を、踊りの境まで送り、真幸に帰らせた。姫木城・日当山・宮内に忠朗、長浜・福山城に善久が陣取り、清水城を孤立させたところで、日新斎の前記清水城攻略となった。降る者に寛容な日新斎・貴久も暴虐目に余り信望が無く、降って平気で叛く薫親には我慢の限界を超え、断絶という強い処罰で臨んだ。西藩野史では本田貞親封を清水に浮けてより13世爰に至って除せらる、と記している。困窮した民業の立て直しを急務とし、隅州・日州制覇の即応(軍事動員)の要地とする考えもあったであろう。

 天文18(1549)、伊東義祐度々飫肥を襲い、救援のため、貴久清水城にあって、伊集院忠朗を派遣、忠朗は島津忠親と319日から共に戦い、43日業毎ノ辻を始め7つの集結地を蹴散らし、義祐を敗走させ、410日清水に帰る。


加治木城攻め

 肝付兼演以安蒲生為清・渋谷良重(帖佐城主)等と謀って加治木城をまた(註)掠め取り、城に居した。

註:大永の乱のとき、襲い取った北原兼孝からまた掠め取ったので

 天文11年日新斎は兼演を攻めたが、果たせず、貴久が引き継ぎ天文185月、伊集院忠朗、北郷忠相(豊州家・・代島津忠広の養子となった忠親の父)、菱川隆秋(薩州平良、牛屎二院の主)に以安を討つよう命じた。529日、3将は黒川崎に進出し対陣、渋谷・蒲生は以安に加勢し、日々戦うも雌雄決せず、1114日、火箭で肝付の陣が火災をおこし、北風で餘煙が覆うなか、3将兵を進めて、敵を破る。肝付・渋谷・蒲生降り、清水に到り、貴久に謁し、罪を謝す。貴久加治木を以安に安堵する。良重にも帖佐を安堵した。天文1718年は加治木・帖佐の状況を最大関心として、貴久も忠朗も清水を拠点とした。中心的活躍をしたのは忠朗であった。加治木・帖佐を押さえたことで、西藩野史はその意義を貴久陸地を経て伊集院に帰る、と記している。

天文1912月、貴久伊集院を去って、鹿児島に移る

 この頃、貴久は太守としての実権を名実共に確立した。

 同年(1550年)日新斎は加世田に本格的に隠居した。しかし実権は握り続けて、琉球を通じた対明貿易や、鉄砲の大量購入、家臣団の育成に励んだ。また万之瀬川に橋を掛け、麓と呼ばれる城下町を整備、養蚕などの産業を興し多くの仁政を敷いた。深く禅宗(曹洞宗)に帰依し、永禄7年(1564年)、加世田武田の地に保泉寺を再建。忠良の死後、7世住持の梅安和尚が寺号を日新寺と改めた。日新寺は明治2年(1869年)の廃仏毀釈により破壊され廃寺となったが、その4年後の明治6年(1873年)に同地に竹田神社として再興され、忠良は祭神として祀られた。永禄11年(1568年)1213日、77歳で加世田にて死去。

天文22年川上左近将監久朗、世子義久の国老とす。

加治木城攻めらる

 天文23年夏、渋谷良重、蒲生為清また叛き、これに入来院重聡(註)・北原兼守・菱刈孝秋が加勢して加治木城肝付以安を攻めた。その原因は以安が貴久から誓書を求められ異心無く応じたことに為清・良重が反発したためであった。以安の子兼盛は綱掛川に出て、市口に戦うも両軍死者多く、829日より、対峙(持久)、城中大いに苦しむ。

註:貴久の外戚,川内・郡山・伊集院を領有していたが、驕奢が目に余ったので、貴久に郡山を収公され、恨みを抱き、逆徒に加担

帖佐攻め

 9月、貴久は帖佐岩剣城を攻めて加治木城を救うことに決した。渋谷良重、蒲生為清は岩剣城を放ってはおけず、囲みを解いて助けに来るであろう、そこを叩く、叩けば、加治木の囲みは解ける、と判断した。帖佐攻めで岩剣城に狙いを定めたのは良重、為清にとってより痛いからであった。

 蒲生為清は蒲生城を本城とし北に松坂城、東に山田城、南に岩剣城、東南に平山城という4つの支城と北村、高城、新城、古城等のつなぎ城を構えていた。松坂城は蒲生防衛の北外郭第一線で祁答院との連絡要地、岩剣城は蒲生防衛の南外郭第一線で薩摩・大隅進出の足掛かりであった。渋谷良重は祁答院との連絡上からも平山城を本城、岩剣城を支城、新城・山田城を詰め城と位置づけ、蒲生防衛網の一角を受け持っていた。岩剣城は帖佐平地の西南の山地の尾根上にある三方を断崖に囲まれた山城であり、蒲生、鹿児島、加治木・国分を繋ぐ要点にある。視界は良く、平山城・加治木城を望める。

 貴久は無理押しても日時がかかり、損害がかなり出る、と考え、いきなり城を囲まず、貴久・義久は平松、忠平(義弘)は白銀坂、尚久(日新斎の三男)を狩集に配し、清水から駆け付けた忠将を脇本付近に游兵とし、城攻めの構えをとって、敵の救援を待ち受けた。即ち郡山の兵を使って蒲生の後方擾乱や城付近の集落諸処の火付け並びに稲刈りをして、その対応に疲れさせあるいはたまらず城外で戦おうとするところを討って損害を与えること及び良重・為清の救援を待ち受ける態勢を保つことの二つを主眼に作戦を指導した。ほぼ1ケ月経って、いよいよ疲れ閉じこもった敵に対し、102日城を囲み、黎明に西門を破ろうとする時に、良重嫡子の西俣武蔵守以下2000の救援軍が平松川を渡り、二手に分かれて、池島から岩剣城に向かってきた。これを待っていた貴久は総攻撃を命じ、激しい戦いが続き、戦い敗れ、敗走しだした敵を戦場追撃(約4.5km)して、高樋川で武蔵守を斬り殺した。敵は壊乱し、その夜、岩剣城の敵は城を自焼し、逃れ去った。加治木城の囲みも解けた。これより3年、義弘(忠平)が城番を命ぜられた。

 義久・義弘・歳久兄弟揃って初陣。鉄砲が使用された。

 この戦いで加治木城攻めを好機と考え、貴久は敵は必ず加治木を棄て、助けにくると読み切り、心理戦を仕掛けて敵城兵を疲れさせ、無理攻めはせず、救援軍を予期戦場に迎え撃つ主動の戦いをした。日新斎譲りではあるが、貴久色の濃い主動である。

蒲生攻めの失敗

 天文24年(1555)春正月、偽りの内通、貴久公を北村城に招き入れ主為清を討つ、に応じて、貴久・義久は蒲生北村城目指して吉田を経て蒲生内に入ったところ、四面から囲まれ、絶対絶命となった。その時、貴久退く気配なく、指宿右馬允立ち返り打ち死して、漸く退き始めた。ところが大軍が追尾して貴久はまたもや囲まれた。忠辰引き返し引き返し戦い、右馬允の子四郎二郎はじめ10人程が一命を棄て、横あいから打ちかかったので、虎口を脱した。この頃、忠将の大軍が来て、打ち破り、全軍を収容した。歳久19歳受傷。貴久一生の不覚、貴重な家臣も失った。太守の武威を過信して評価(裏を取ること)を怠った痛い教訓であった。

註:下線は島津貴久記より補

肝付以安帖佐平山城を攻め、失敗

 32日、以安はわが子兼盛に帖佐平山城(鍋倉)を攻めさせた。良重は城外に出て戦い、兼盛が下がるのに追尾して山田迄深追いし、伏兵に囲まれて命からがら平山城に逃げ帰って固く守った。兼盛は追尾して城下へ到ったが、諦めて軍を引いた。
平山城攻め

 貴久は310日、伊集院治部少輔・野村民部少輔に兵をつけ船で、忠将・樺山善久は清水・長浜から、加治木城へ行かせ、以安に有無を言わせず帖佐攻めの打ち合わせをさせた。

 以安は北村攻め失敗という貴久の足元をみて、集められるだけの兵(溝部・加治木・日当山)を集めて、平山城を落しにかかり失敗した。囲みを解いて去る敵を叩くこともせず、このたびは好機到来とばかり旧来の領地争奪戦に走った。三州統一を目指す大義に私利私欲があってはならない、太守自立の正念場と即決断した。案の定準備が整っていない以安は正八幡宮のお告げで出陣の日を決めよう、と言い、忠将は激怒して、君命を受け、賊を討つのに日を選ぶ暇はない、と善久等と共に以安をおいて、出陣した。

 貴久は蒲生攻めの失敗、以安の帖佐平山城を攻めから、蒲生防衛ラインと反貴久連合の堅確さを感じ、外郭支城を落して足場を固めてから本城を落すべき、まずは平山城からと思いを新たにした。又以安の平山城攻めにおいて乗じるべき機会をのがしたことに複数の伏兵を用いる要を痛感した。

 317日、忠将・善久は岩野原(現岩原)、忠平(義弘)・尚久は別府川の南に陣を敷いた。軽卒を城に接近させ鉄砲で挑発、城兵は突出してくる軽卒は逃げる、城兵追いかけ、その人影が岩野原に到ったところで、尚久はその横、忠将はその前を討った。城兵は敗走、逃げるを追って城下に入り放火、城門打ち破り、猛攻5日、遂に42日、良重勢夜に乗じ、新城・山田城二城を棄て、祁答院に逃げ帰った。城に逃げ帰り籠った敵を烈火の如き攻めで落とし、以安これみたか、という島津の士風をみせつけた。城攻め5日間の忠平(義弘)・喜入季久の武勇傑出。

 残る外郭第一線の支城は松坂城のみとなった。反貴久連合の雄、渋谷氏(祁答院氏)を本貫の祁答院だけに押し込めた意義は大きい。帖佐地頭に鎌田刑部左衛門、山田地頭に梅北宮内左衛門を命じ、蒲生攻略の足固めをした。7月良重は蒲生為清の助けを受け、帖佐を襲うが、忠平(義弘)城を出て、打ち破る。

蒲生・松坂城攻め

 弘治2(天文241023日改元弘治元年となる、1556)315日、貴久松坂城を囲む。平山城を落してから蒲生氏に降ることを勧告したが拒絶され城攻めとなった。帖佐・山田地頭制の効果(後述)を確認するためにも1年は必要であった。松坂城は天然の要害に加え城塁堅固、城兵は矢石で良く防いだ。山田地頭梅北宮内左衛門国兼突進して城門を破り、忠平負けじと先頭で登り、立ちはだかる敵勇士を斃す、鎧に5つの矢を受け、ここまでと軍を退く。義弘は真面目に攻める威力偵察で様子解明をした。維新公御自記には「予忍可寄彼要害之模様見、茂架蘺・乱杭・逆茂木・城戸垂数多重有之()」とある。

蒲生攻め

 10月、再度、貴久が義久・忠平(義弘)・忠将・尚久を従え松坂城を囲む。19日、渋谷良重・蒲生為清救援に駆け付けるが、貴久は軍を二手に分け、攻めかかり壊走させ、追撃途中で反転し、松坂城を落した。懐深く入りこんで、術中に嵌る危険性と事後の戦況推移に与える松坂の価値を洞察し、松坂城を 確実に落とすことを優先した。その後、愈々本城攻撃のため七曲・馬立に進出した時、12月中旬頃、菱刈重豊が大兵を率いて北村の境に進出した。貴久は対陣を選択した。貴久は①城攻め続行案では背後を衝かれ、日が経ち、城が抜けない場合、折角静かになった反貴久の賊が一斉蜂起し、進退窮まる。②重豊と対陣して、機に乗じて重豊を破り、その後城を落すことで二賊を斃せる、と考えたが、他に③我の後方連絡(糧道)は山田・松坂を保持して、自在である。一方菱刈は本拠から遠いうえに、松坂・山田が我が方にあり、さらに遠回りとならざるを得ず、祁答院の支援が必須であるが、これも遠回りとなり、対陣が長引けば菱刈陣には不利である。松坂を落すことを優先した効果がここに表れている。④蒲生が対陣の場となり、秋の収穫を蒲生は期待できない、も考えたに違いない。

 弘治3年(1557415日、貴久は敵の鋭気漸く衰えた、とみて、菱刈を攻撃開始。重豊軍高山に陣し、直下に矢炮(ほう:おおづつ)を放ち、死傷甚だ多く進めず。忠平は単騎で登り、立ちはだかる敵兵を斬り殺し、尚も進む。衆皆忠平を追い従い、矢石を掠め登り、敵多数死傷さす。重豊進退窮して自刃。忠平は受傷。城攻めに掛からんとする時、為清家臣、降を伝え来る。為清は家臣の異心を知って、もはやこれまでと、420日夜、城に火を放って、祁答院に逃れた。

 蒲生に比志島美濃守、松坂に市来内蔵助、帖佐に鎌田刑部左衛門、山田に梅北宮内左衛門を地頭に命じた。この種の記述は川辺に次いで2例目である。ここに意味があると思い考察を巡らした(後述)。西藩野史は蒲生を落した後に以上の通り記しているが、同じ西藩野史で松坂攻めで梅北国兼を山田地頭とあることから、帖佐と山田は平山城陥落後に命ぜられた、と私は考える。

 太守として自立した貴久は危機にも陥ったが、かえってそれを奇禍として、反貴久連合崩しを完成させた。肝付以安は貴久に従い、蒲生は滅び、渋谷は本貫地の祁答院に逃げ帰り、菱刈は大敗を喫して本貫地大口に逃げ戻った。そこで貴久は薩摩・大隅境の蒲生・帖佐を直轄地とし地頭をおき、岩剣の忠平(義弘)をそれら連携の要とし、桑原郡・清水を忠将に与えて(一所持ち)、日新斎の敷いた外城制・地頭制の礎を拡充して、2州統一ヘ向って足場を固めた。
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本段の特筆事項

1、 軍司令官貴久

 《降る者は許した》和戦両様で戦いで降るものは赦し、降らないものは攻め続けた。主将が逃げるか、死ぬまで苛烈に攻めた。加えて何度も背いた本田薫親は名を除した島津の過ちに寛容、からしても許容限度を超え、除するは最も重い処分であった。日新斎いろは歌:つ:つらしとて恨(うら)みかえすな我れ人に報(むく)ひ報ひて はてしなき世ぞ。ら:楽も苦も時過ぎぬれば跡もなし世に残る名を ただ思(おも)ふべし

《主動の保持》貴久はすべての戦いで先見洞察して主動の戦いをした。その例は以下の5点である。細部は該当条による。①本田薫親の内紛による救援要請を好機として介入し、生別府を手に入れ有利な態勢を占めた。②蒲生為清や渋谷良重の加治木攻めに際し、岩剣城を攻め、前2者は囲みを解いて救援に来る、と読み、予想戦場で待ち受け撃破した。③救援が来るまでは岩剣城の力攻めは封印し、疲れさせる心理戦を仕掛けた。④帖佐平山城攻めで、城兵を誘きだす伏せ兵策略で撃破し、下がるに追随して、城門を打ち破り城を落とした。⑤松坂城攻略時に、救援にかけつけた蒲生・渋谷勢を壊乱・敗走させ、追撃途中で、引き返し松坂城を落した。➅蒲生本城攻撃に際し、救援に駆け付けた、菱刈重豊に対し、長期対陣を即決断した。日新斎譲りの主動の中で、情報感覚が貴久には薄いようである。力が格段についた自信の表れであろうか。ここが蒲生・北村の危機を招いた所以かもしれない。

2、 島津の戦いの士風

 《滅私当千()敵の多寡にかかわらず、敵には怯むことなく果敢に突進した。①岩剣城救援軍、②松坂城救援軍との戦い。

 《攻め急がない(着実)》岩剣城力攻めは損害多発と読み、急がず心理戦に持ち込み、城外での戦いを優先し、敵来援を待って叩く戦法採用。堅城松坂城の威力偵察。蒲生本城攻めでの援軍菱刈重遠との対陣選択。《滅私当千()》と《攻め急がない(着実)》の併存。

 《策略(城攻め)放火、軽卒による挑発・鉄砲使用等で城外での戦いに持ち込む伏せ兵策略。岩剣城、平山城。

 《修羅場で畳みかける(城攻め)力攻めでは鉄砲使用で矢石防ぎ、城門打ち破り・城壁よじ登って一気呵成に攻める。剣岩城、平山城、松坂城、北村城。

 《指揮官の率先陣頭》忠平(義弘)は状況不明下に先頭に立ち猛烈に攻撃(威力偵察)し状況を掴んだ(松坂)忠平(義弘)初陣以来最困難な城門打ち破りを指揮し、城壁を真先に登り、立ちはだかる敵を倒した。

 《主従一心》蒲生・北村の偽りの内応で出陣した貴久が退路を断たれ、絶対絶命となった時、勇士が逃すため打ち死にし、それでも厳しい局面打開のため、命を棄てて大軍の横あいに斬りこんで貴久を守った。最困難な城門打ち破りで梅北に励まされ忠平が指揮(松坂)、忠平(義弘)が矢石を冒して城壁を真先に登り、勇士が遅れじと従う(北村)

《薩摩一心》蒲生北村内応(偽り)時の貴久の危機を勇士が救い、大軍を率いて到着した忠将が全軍を収容した。

3、  山田・帖佐、蒲生・松坂に地頭配置の意義

 平山城をおとして、蒲生攻めにかかった。このため平山・山田に地頭をおいて麓()の建設を急ぐと共に、後方連絡(糧道)の中継、所在郷士の動員等による後詰めの準備をさせた。松坂・蒲生本城攻めには不測の事態も考えねばならず、最優先課題であった。菱刈重豊の救援時に即して、両地頭による自在の後方連絡路の確保が背景としてあった、ので貴久は対陣の決断がスムーズに出来た、と考えられる。蒲生が落ちて、松坂・蒲生に地頭をおいた。これは帖佐・山田と共に、事後薩摩・大隅州界の安定と2州統一への足場固めのため、日新斎の外城制・地頭制礎案の更なる拡充であった。これらの要に貴久は忠平(義弘)をおいた。忠平(義弘)は岩剣城在番を命ぜられ、岩剣城を守る直接責任、平山城攻めへの関与、帖佐(平山城)・山田地頭と連携しての蒲生攻めへの関与、蒲生・松坂地頭を加えた4地頭と連携しての蒲生・帖佐地域への関与によって日新斎の外城制・地頭制礎案の運用・拡充を貴久と共有した。また貴久は以安が勝手に溝部・加治木・日当山の兵を動員して帖佐を攻めたことに危機感を持った。降って所領安堵した領主及び一所持直臣には軍役の裁量を与えているが、このような形で使われると今後に要注意である。本来動員権は太守に一元化するべきであるが、直ちに是正するには抵抗が大きすぎる。長い目でその機を待つしかない。忠平(義弘)は経緯をつぶさに知っているだけに思いを貴久と共有した。

4、教え戦う

 貴久の下には忠将(日新斎2男)・尚久(日新斎3男)・伊集院忠朗・樺山善久等の有能・勇敢な武将が、日新斉の薫陶を受けながら戦いの中で育った。義久・忠平(義弘)・歳久・家久の4兄弟も初陣以来、祖父日新斎・父貴久の薫陶を受けながら、有能・勇敢な武将を鏡とし、配下の勇士たちに触発されながら、戦いの中で、天賦の才を開花させた。岩剣城攻めでは日新斎・貴久・4兄弟が、最初で最後に、戦場で、一堂に会し、実戦ならではの貴重な学びの時間を持った。

5、忠平(義弘)の活躍

5-1、勇将として大成する資質の発現といろは歌、郷中教育

 初陣(19)岩剣城攻め以降、最困難な場面や不明下で率先陣頭に立ち、配下を励まして勲功をたてた。状況不明下で先頭に立ち、様子見をして、状況を確実につかみ、戦いを止める進言をする等智将としての資質も発現している。若くして、戦におじけることなく、勇敢な指揮官を体現できていた。晩年に書いたと言われる維新公御自記によれば、少時より身を弓箭に委ね、危難の間に命を奉じた、と述べて、自身の思い出の強い、勇敢に戦った6つの戦場働きを挙げている。半分の三つが冒頭岩剣、ついで松坂、蒲生攻めである。若くして戦場経験の少ないなかで、匹夫の勇敢さに止まらず、勇将の資質を発現できたのは、祖父日新斎の下に通った鍛錬や教えがあったからだ、との思いがあった、であろう。そしてそれは若者を幼少時から、教育する重要性の理解と実践への思いへと膨らみ、「郷中教育」へと発展した。忠平(義弘)は兄弟の中で日新斎の教え、いろは歌の体現ぶりは徹底していた。

●郷中(ごじゅう)教育

 郷中の起源は島津義弘によるとされる。そうであるとすれば、その大元は日新斎の孫4人を呼びつけての教育とそれを体現した忠平(義弘)の実行力と言える。鹿児島市鍛治屋町で郷中教育の表示板を目にしたので、説明に代える。



島津忠良が完成させた47首の「日新公いろは歌」や、新納忠元の作成した「二才咄格式定目にせばなしかくしきじょうもく」を教育の根幹とした。

5-2、貴久が期待した忠平(義弘)の役割意識

 貴久は忠平(義弘)戦場指揮官としての資質を見抜き、1019日、戦場でそのまま岩剣城番を命じ、鹿児島に引き上げた。城番とはいえ、若干19歳で忠将と並ぶ出先地域の大将である。城番は、ことある時は隣接地頭を指揮し、城を守ることが直接的任務である。貴久はこの直接的任務の全うだけでなく、城番として関わらねばならないことはすべて誤りなく行って欲しかった、に違いない。長期にわたる責任の重い職責ほど、非明示的な任務が増え、明示された任務以外にも、果たすことが期待されているものを考え、その優先度に従って自分の責任で実行する意識()が必要になる。これを私は役割意識と称する。

 明示された任務とは岩剣城を反貴久勢の反間工作や奪取攻撃から守ることであり、必ず達成すべき事項である。これ以外に忠平(義弘)(自発的に)期待されていることとして①岩帖佐・山田地頭領域が侵された場合の地域作戦主宰。②蒲生攻撃を控えたこれからは帖佐・山田地頭の要として、蒲生攻略の基盤を作らねばならない。その基盤とは麓郷士集落の建設、軍事動員と蒲生攻めの後方連絡(糧道)の確保である。①は太守の(地頭を指揮しての)決心事項であるが、初動は地域主宰者の関わりが必須である。構想・準備段階からの連携を追求すれば、②は太守の(地頭を指揮しての)主宰事項であるが、太守の最大関心事項であり、地域作戦主宰者としてはいかに寄与するかを追求すれば、それらの達成が望ましい事項の関与の度合いは定まるはずである。

 貴久の蒲生本城攻めに掛かる時の、敵援軍菱刈重豊勢との対陣決断、我に自在の後方連絡あり、にその答えがあると思うが、貴久は地頭・忠平(義弘)の関与については触れてないし、資料も残っていないのでこれ以上触れようがない。

 しかし、松坂城攻めでの威力偵察と攻撃中止進言。これは忠平(義弘)が自発的に地域作戦主宰者として自らの役割を考え進言し、貴久も満足をもって承認したであろう。また松坂城攻めで、最困難な城門打ち壊し・城壁直登の場面で、山田地頭梅北国兼との絶妙な戦場連携は1年間の、山田兵の編成から錬成や指揮官相互の心の通い合いに関する忠平の関与を窺わせる。そして忠平(義弘)は蒲生平定後、帖佐・山田・松坂・蒲生地頭の要として、薩摩・大隅境の安定、薩摩・大隅2州統一の足場固め等の役割意識をもって、貴久の最大関心正面で、城番を続けること、から貴久の忠平(義弘)への親心としての試練は尚続く。貴久は将来、義久を支える大黒柱として、忠平(義弘)にこの役割意識の熟成を期待した。この役割意識こそ、忠平(義弘)が武勇情兼備の武将へと脱皮・大成する鍵となる資質、と私は考える、ので今後とも注視したい。

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 第二段階 薩摩・大隅北境(横川・真幸院・牛屎院・太良院)の戦い

義弘飫肥へ

 永禄元年(弘治4228日改元,1558)6月、伊東義祐飫肥長慶寺を攻め、貴久は加世田地頭春成久正を差し向けるが討ち死にで頓挫し、その後豊後守忠親奮戦し、義祐を敗る。11月、義祐は飫肥新山城を落す。忠親は実弟北郷忠孝に救援させるが、忠孝、城主以下も戦死。

 永禄33月、義祐は肝付兼続入道省釣(肝付城主、註)忠親の領地である志布志・松山城を策をもって襲い取ったのを機に示し合わせて飫肥福島(串良)を挟み撃つ。前後に大敵を受け、忠親窮地に陥る。義弘は貴久から忠親の養子となるよう命ぜられ、319日飫肥に入った。義祐・省釣兵を退く。貴久は宗家と豊州・北郷家と固い結びつきを示すことで、抑止効果を期待し、長期的には義弘の処遇を考えた、のであろう。

註:肝付兼続入道省釣は日新斎の長女を娶るが、貴久と反りが合わず、反旗を翻し、弘治28月には豊後守忠親(永禄元年3月撤兵)が大崎で、北郷時久(10代当主)が恒吉宮ケ原で、省釣を討つため戦った。両者深く憎みあい、貴久に代わって討伐する関係が、主敵同士の関係になってしまう。省釣は永禄元年10月、忠親の領である志布志を攻めるが失敗し、その後松山城城主が城外に赴く機会(弘治24月)に殺し、城を奪った。

義弘飫肥を去る

 永禄3(1560)10月、貴久は飫肥を巡る島津と伊東の争いの将軍義晴の調停使に末吉で会い、同席した腹心4名に伊東氏の言い分を真っ向から否定させ、島津の言い分を言わせた。514日、省釣廻城を、城主の目の病・長非子の幼少に付け込み、奪い取り、居城とした。これに対し貴久は大軍を発し、同城を囲んだ。垂水城主伊地知重興、根占城主禰寝重長が省釣の誘いに応じ、城に入った。下大隅の反貴久連合が公然となった。貴久は廻城を落し敵は退散するが、清水城主忠将以下70名を失った(戦死)。義弘を飫肥へ出したあと、国分・加治木・帖佐・蒲生地区の大黒柱であった忠将を失った痛手は余りにも大きかった。ここで貴久は①下大隅に冠する省釣並びに同調勢力を討つ②薩・隅州界の第1段残存勢力の一掃とその後ろ盾である伊東・相良の介入排除等を重視し、③飫肥は戦略的次等正面、とする決断を下しキーマン義弘を鹿児島に呼びもどした(同年)。貴久の考えは次の通り。①または②は3州統一の欠かせないステップであり、それぞれその局面を作為し、または好機に乗じ進めねばならない、国家存亡の秋となった。その完成まで飫肥正面は忠親、北郷時久自力で持ち堪えて貰わねばならない、何故なら飫肥は遠すぎ、近隣での応援連携体制が出来る、①②完成段階までは手が抜けない。義弘は国家の重点正面に使って活かすべき。

 以上の推論の背景として、「維新公御自記」を挙げたい。義弘は同記で飫肥へ行き、去る件を一項目に纏め、大意次のように述べている。「為豊州之養子可相越旨」との貴久公之命を承り、「誠一大事之儀進退究此也」と覚悟を決め飫肥へ入った。飫肥は累年の戦で有名な家臣の多くは戦死し、残ったものは餘裔に過ぎず、「易難受加勢」の地で、「不異夏虫入火也」であったが「重義軽命武士之法」と3年務めたところ帰国の命を受けた。自分が去れば伊東は大軍で攻めよせ、飫肥をわがものにしてしまうであろう。「一旦豊州親子之約」を結んで此の時に解消することは道に背き、自他国の誹謗逃れ難く、「不顧貴命走籠飫肥」と悩むが、廻城を省釣が攻め取り、貴久公・義久公が城を囲み、忠将始め歴々戦死という御家危存亡の時であれば是非もない。忠親旅館に訪ね来て、義弘「一人後にするのは御家長久のため」、忠親「愚家亦終可開運不相鎮哉」と「終日流涙被異見」して、「被推道理令帰国」。

 書き写しながら貴久の国を思う非情さに、情の深さ故に翻弄されながらも、忠親と情を繋げて、命を受けいれる義弘の姿が浮かんできた。その姿には智勇情兼備の武将の面目がある。義弘は日新斎の教え、いろは歌を一生かけて実践した。情についての実践が偲ばれる一例、いろは歌「さ:酒も水ながれも酒となるぞかし ただ情(なさ)けあれ 君が言(こと)の葉」。

 その後の飫肥の情勢

 永禄5(1562)218日、義祐・省釣飫肥を侵し、忠親兵尽き、志布志を与え、飫肥を去って、福島(串間?)に退く。義祐飫肥を取る。永禄5917日、忠親は謀で義祐を急襲し、飫肥を復した。末吉を太守に献じ、梅北を北郷時久に譲る。永禄11(1568)4月下旬、義祐・省釣に攻められ、飫肥城が落とされ、忠親(泰心)は福島に逃れたが、68日、福島も義祐・省釣に攻められ、719日落城、忠親(泰心)は都城に逃れた。太守忠昌の時、忠廉が飫肥福島に封じられて83年、遂に島津の手を離れ、伊東の有するところとなった。義祐は佐土原から飫肥に移る。

 忠平(義弘)横川城攻め

 遂に貴久に好機が到来した。永禄5(1562)夏、真幸院を領する北原家で乱があり、三山城主兼守死す、子なし。兼守の妻は義祐の娘であり、義祐、兼守の一族馬関田右衛門佐を城主とし、兼守の妻を娶らせた。これに老臣反対して、麾下の城主等馬関田を離れ、太守公に降り、その采地を献じた。これで栗野・吉松・馬関田等等踊以北の地及び士は大守公に属した。

貴久の一の手、二の手
 
この時貴久は一の手:川上忠智を栗野地頭に命ずる等数城に腹心の臣をいれ、三山勢の攻撃に備えると共に三山城攻めの準備にかかった。これは即日新斎礎案を受け継いだ真幸の外城・地頭化であった。次に二の手:真幸との連絡要路上の横川城を落すことを忠平(義弘)に命じた。忠平(義弘)は横川攻めの意義を「彼院往還不自由之間、回霧島山之麓、凌山川越着飯野」(維新公御自記)と認識し、初めて総大将となり63日、新納忠元、伊集院久春を従え、吉田地頭歳久もこれに会して攻めた。城外で迎え撃った敵を破り歳久は先登で城中へつけ入り、傷を負ったが、北原勢は窮まり、自殺・戦死者100以上。横川を、かって渋谷・蒲生に与したが帰降した、菱刈隆秋に与えた。

 忠平(義弘)真幸を賜り飯野城へ

貴久の三の手:降った家臣たちの心を掴む

 永禄6年210日、貴久三山城を落とし、北原兼親を北原氏の後継当主とし、真幸を与えた。貴久は降った家臣たちの心情に触れ、虐げられていた正当な後継兼親()に光を当て、故地に返すという貴久ならではの渥恩(あくおん:熱い温情)を示した。北原の親戚・老臣は兼親にこれを受けるよう勧め、伊東・相良と絶縁して心を一にして太守公に仕えた、ので兼親も従った。当然伊東・相良の怒り・反発は織り込み済みである。

註:8世当主貴兼が死して、嫡子豊前丸幼少のため、叔父立兼家督代となったが、飫肥で戦死し、立兼の弟兼珍が無理に奪い立って真幸を領し、3世伝えて兼守に到る。豊前丸は球磨に行き、相楽氏に寓し、相楽頼泰の娘を娶り、兼泰を設け、その子が兼親である

貴久の四の手:舞台を整え忠平(義弘)を据える

 同年11月、吉松の北原左衛門尉(兼親の叔父)が伊東・相良に通じ、兼親を討つことを謀る。貴久は相楽・伊東に接し、独歩を保つ状況は兼親には酷と考え、兼親に伊集院神殿邑を与えところ替えをさせた(1117日)。ここに至って真幸を忠平(義弘)に給うた。忠平(義弘)は飯野城に移り、加久藤城を築き夫人をここに移し川上忠智を城代とした。貴久は忠平(義弘)を飯野に据えることで、薩摩・大隅及び大隅・日向北諸県郡両方の北境の抑えとした。薩・隅の統一を成し遂げる間後ろ盾の伊東・相良を排除すると共に領国への伊東・相良の(合一しての)侵襲を防ぐ要地、真幸・飯野、にしかるべき忠平(義弘)を据えることで貴久は漸く安堵した。

永禄9(1568)2月、貴久は義久に家督を譲り、剃髪し、伯囿(ゆう:鳥獣を放し飼いにする庭)斉と称す。

三山城攻め

 同年10月、義祐兵を三山に集め、飯野城を襲うことを謀る。義久は伯囿斉に命ぜられ、三山を攻める。忠平(義弘)先軍となり、先登するも傷を被り、死傷多くて抜きがたく、兵を退く。

馬越城攻め

永禄10(1569)11月、貴久から永禄5年に横川を拝領した菱刈隆秋がまた叛いた。隆秋は兄である当主重猛が前年に亡くなり、遺児鶴千代(後の重広)の後見役になったことで態度を一変させた。

 伯囿、義久は栗野から湯尾を越えて、1123日、馬越城攻めの態勢(義久:諏訪山、囿斉::陣尾)を取ったところに、忠平(義弘)が真幸の兵を率いて到着、陣変え(伯囿斉;徳辺に移る)をして、翌日忠平(義弘)を前軍とし攻撃。直接城壁に取りつくが城兵上から矢石を飛ばす、勇士先登し壁の頂上に到達すると敵は必死の逆襲、これを忠平(義弘)逆に討って先頭で城に走り入る。これに後れじと新納忠元らが競い進んで門壁を破り、城主井手籠駿河守親子以下200余の首級を撃ち、落城させた。ここに球磨八代(相楽)と大口(菱刈)の援軍が到着するが、義久が迎え撃って、敗走させた。隆秋は横川・本城・湯之尾・曾木・市山・青木・山野・羽月・平泉の城をすべて棄て大口に退ぞかせた。援けを相楽義陽に乞い、300余人が来援。

囿斉;は、本城・曽木・羽月を島津薩摩守義虎(註)に守らせ、市山城を市来備後守、平田加賀守、伊集院刑部少輔に守らせ、大口城攻めの準備をさせた。3将は大口を偵察したが、城兵に追われ、西河原で全員戦死。城兵それに乗じて市山を侵す。この後度々市山を襲う。このため、新納忠元に市山を守らせた。

註:日新斉・貴久と争った薩州家実久の長男晴久、後に義虎と改名、義虎は父と違い従う姿勢を示す。実久が出水に隠棲後、義久の長女於平を室とし、和解臣従。

堂崎の戦い

 永禄11(1568)正月20日、菱刈軍3000城を出て堂崎に陣す。忠平(義弘)は機先を制すべし、と義久の制止を振り切り、馬越城をでて、200人余を率い、攻めかかるが、衆寡敵せず、勝てないと判断して戦いつつ退る。敵は急追、飛瀬田でまさにあわやという時に義久の家老川上久明取って返して敵将と戦って重傷を負い、馬越に後送後死亡。忠平(義弘)弓で敵将別府安芸守を射殺す。忠平(義弘)は殿(しんがり)となり、羽作瀬を渡る弱点に、敵急追して迫り遠矢下野守以下力戦し受傷、忠平(義弘)が単騎つけ入ろうとすると敵が群がり攻寄せ、弓で数人を斃す。その最中に忠平(義弘)の軍が駆け付け決戦生起、さらに義久の国老伊集院久治(抱節)が戦況不利を聞き馬を飛ばして駆け付け先頭で突入、その配下数十人が後れじと加わり、敵大いに狼狽して退き、忠平(義弘)曽木城に入る。伯🈶・義久は敵の敗れたるを聞いて引き返す。忠平(義弘)は僅かの手勢を引き連れ攻めかかるが劣勢に陥り、戦いつつ退るという難しい戦をして、敵を自らの矢で漸減しつつひきつけて時間を稼ぎ、その間に新手(の主力)、彼の期待通り?に、が駆け付け、決戦を仕掛け、遂に勝ちを得た。このことから①戦機を掴んで攻めるには全軍が揃うのを待つのではなく、指揮官単独でも渦中に飛びいり家来はすぐできる者から随伴し、やむを得ず遅れる場合は予想戦場に突進する。②体を張って懸命に戦いつつ下がることによって敵を吸引し決戦の機会を作為する、これは埋め草の策略に通じる。③必ず追求してくるはずと味方を信じ、体をはって、機会を作為した忠平(義弘)と忠平(義弘)危うしとわが身を顧みず駆け付ける直属の家来との間に主従一心、義久の国老川上久明・伊集院久治のような加勢を命ぜられた者の間に、薩摩一心の信頼関係が生れていた。
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市山の戦い

 228日、島津忠長・肝付兼寛は伯🈶の命を受け新納忠元を訪ね謀を議した。忠元は小苗代原に到り、ここに埋め草(伏兵)を置いて、新納忠元の歩卒等が大口城下へ到って偵察をした。菱刈の将牧野次郎左衛門、相楽の将竹添丹後守が兵を率いてこれを追い、小苗代原で忠元・忠長・兼寛が伏撃、鎌田政年が牧野と戦い、面高眞蓮坊が牧野を鉄砲で打ち殺し、その首も得た。敵憤激してますます進み、忠元戦い且つ退き市山城下に到り、白坂でまた戦う。竹崎等と鑓を交わし、忠元傷を負い、従兵助けて城に入る。敵は城を囲み、壁を登り攻める。鎌田政年等打って出、城兵もこれを助ける。敵大口に退く。逃げるを追って首級許多を得る。忠元6ケ所に傷受けるが、伯🈶の謀(島津の士風、埋め草の策略)を見事に体現して見せた。特に体を張って戦い、指揮官を鉄砲で打ち殺し、憤激させる等で、兵を伏せた地点を越え、城下・城攻めまで敵を引きこみ、城兵の反撃で敵を退かせ、逃げるところを討った。

曽木の戦い

 3月、菱刈隆秋、また曽木城を攻めんとす。伯🈶はこれに備えるため、佐多家10代当主佐多常陸守久政を派遣し、城主宮原筑前守景種を応援させた。313日、隆秋は、相楽・入来院・祁答院・東郷の応援を得て、城を囲んだが、景種・久政が打って出たため支えられず退いて、馬越城下を荒らし、ついで市山にいたり、戦いを挑んできた。忠元は城を出て、白坂でよく戦った。この間に隆秋は別動隊を永福寺に差し向けたが、迎え討った長谷場弥四郎が鉄砲で、敵将を撃ち殺した。敵の動揺に乗じて攻め撃ち、隆秋は遁れて大口に還った。     

 在城兵力を強化して待ち受け、出撃して打撃を与え、曾木から追い払い、市山に表れた敵を忠元はまだ傷が癒えてなかったが、城を出て、地の利を活かして戦い、戦況の推移を先読みして手を打ち、敵指揮官をねらわせ、指揮官が撃ち斃された動揺に乗じて敵を破った。

忠平(義弘)飯野へ還る

 8月、囿斉;、相楽義陽と手を打ち、山野(大口北方・・km)を与え、菱刈の援助をしない約を取り付け、大口を攻めるが、義陽は簡単に約を違え、堂崎に兵をだして菱刈を助けた。連携して伊東義祐が桶平に出陣して飯野を攻めんとした。ために忠平(義弘)は飯野へ還った。

日新斉死去

 1213日、日新斉死去77歳。辞世の歌「急ぐなよ又留まるな わが心 定まる風の 吹かんかぎりは」。遺体を日新寺(加世田)に葬送し、彫像を刻んで常潤院(日新寺中)に祭る。生前、日新斎は学を好み上天を敬い、下民を憐れみ、賢を尊び能を愛した。特に毎朝祠堂に入り、祖先を拝し、終って、賢・能の者として、新納武蔵守忠元、川上左近将監監久朗、鎌田尾張守政年、肝付弾正忠兼寛の4名の武運を祈る、のを常とした。(久国雑話)

 日新斎は 和歌を好み其奥旨を究む。徒に風花雪月興を遣()るのみならず常に世の教え人の警となすべきを詠じ身を顧み徳を修む。この結実が前述のいろは47文字を冠にした警戒の詞の歌である。日新斎いろはうたは忠平(義弘)らの活躍で薩摩士風継承・発展のもととなる。

羽月の戦い

 永禄12(1568)正月18、義陽・隆秋から和平の申し出があり、和平がなって、318日、伯囿斉;は使者蒲地越中守、従者17人、を派したところ隆秋はこれを惨殺。伯囿斉;は驚き、肝付兼寛、新納忠元を羽月城に入れ、変に備えた。隆秋には羽月城を数回攻撃されたので、忠元・兼寛は横川城を賜った家久と策を練り、家久の大口攻めに合わせ、戸神尾、稲荷山に兵を伏せた。伏兵の将は大野駿河守忠悟・宮原筑前守景種、忠元・兼寛は遊軍であった。家久は大口に入り、鉄砲で城を攻撃、城兵数百が城をでてこれを追う。家久戦いつつ下がり、敵を伏中に入れる。伏兵立って左右を討ち、忠元・兼寛その前を討った。家久奮戦し、城兵狼狽して逃げる。逃げるを追って首級136余を得る。伏兵・遊軍を強化し、伏撃で敵を破り、逃げる敵に追い打ちをかけた。

大口城攻め

 永禄12(1568)818日、伯囿斉;・義久大口城を囲み、攻めた。92日、隆秋・義陽は力窮まって降伏した。914日、隆秋・義陽城を出て球磨に去った。ここに12代にわたり菱刈院・牛屎院を領した菱刈氏は太守の指揮下から除された。新納忠元は大口に封ぜられ、武蔵守を賜り、大口に移る。元亀元年(1570、永禄13423日改元し、元亀元年となる)、渋谷良重は薩摩を献じ、入来院重嗣は百次、平佐、高江、碇山を献じ、東郷重尚は東郷、高城、水引、湯田、西方を献じて、罪を謝す。義久悉くその罪を免じ、重嗣を清色に重尚を東郷に、薩摩守義虎()を高城郡水引、中郷、西方、京泊に、家久を隈城に封じた。良重は許されるも封なし。330余年領した渋谷の地は太守の指揮下から除された。太守の寛心をもってしても背くこと数回の罪は重かった。渋谷の地は命により、川辺地頭新納康久が受け検めた。

註:日新斉・貴久と争った薩集家実久の長男晴久、後に義虎と改名、義虎は父と違い従う姿勢を示す。実久が出水に隠棲後、義久の長女於平を室とし、和解臣従。

囿斉;逝去

 元亀2(1571)626日、香を焼き、経を誦し、忽然として、逝く。58歳。墓を福昌寺に建て、立影像・神主を南林寺()に祀った。伯囿斉;3州の乱を靖み、遺言として神主を3州に立て、長く国家鎮護の神足らんと欲す。

註:弘治3年、僧信厳を請じ建立

 

本段の特筆事項

1、 日新斉が義久に与えた書

 要略:「仁を以て人を愛し義を以て悪を断ず。過ぎては則ち改め,怒りをば以て制し、聖人の言を畏れ、鰥(かん、おとこやもめ)寡孤独を憐れみ苟も人を毀傷することなかれ。罪あれば断然として決すべし。刑罰は逆に似て却って人を恵するなり。姑息は惠に似て却って人を暴なり。国家の為に身を顧みることなかれ。善も悪、悪も善なり。為せば成す。心よ心恥よおそれよ。」

 日新斎の意とするところを、徳田小藤次は島津家御舊制軍法巻鈔冒頭で、治世より国家の危きを忘れず武備を全うすること政事第一肝要なり、その武備の大元は、日新主から維新(義弘)主御三代の主が国君の主将たる道義を専らに御心掛けて実行を行い給う事であり、今の世までも語り継がれ、慕われ続けられていることに明らかである。その大元の感化(人徳)によって、薩州の士臣身命を擲ち忠孝戦功を励み鋒之勇鋭なりしと説明している。

 さらに私見を述べると。

 永禄4年(1561)暮、日新斎書を作り、義久を教諭す。日新斎69歳、貴久47歳、義久28歳。日新斎は自分そして貴久の歩んだ戦乱を終わらせる道に間違いはないさらにこの道を歩み続けなければならない。いずれ来るであろう、死(4年前)、を思うと、日新斉は義久に今伝えねばならない、と思った。それは[日新斉隠居11年後、貴久が太守としての力量を発揮して清水、加治木・帖佐、蒲生を征したが、大口・真幸、下大隅は途上であり、飫肥は失った。3州統一は義久の代以降までかかるかもしれない。義久は貴久を引き継いで、力任せではなく、仁と義を基本とする国作りに身をかえりみず邁進せよ。]であったろう。以上は3州統一国家(つくり)の基本理念を掲げ、太守はあるべき国に向かって顧みず尽くし、家臣また太守・国に顧みず尽くせという日新斎イズムが明確に表示された記念の書であった。

 また国のために顧みず尽くす日新斎・貴久から薫陶を受けた者たちが長じて、顧みずの心といろは歌をわが心として活躍し、国・太守・島津家・太守の分身である城主や地頭等の公に《滅私奉公》し立ちはだかる敵に《滅私当千()》で《主従一心》・《薩摩一心》であたるという島津の士風が体現・継承されて行く。

 顧みずの心といろは歌の主な体現継承者は日新斉が主動した戦いの時代では種を自ら蒔き、貴久が主導した戦い(第一段:大隅国錦江湾沿い(国分・加治木・帖佐・蒲生)の戦い)の時代では弟忠将・尚久、伊集院忠朗、樺山善久等であり、貴久が主動した戦い(第二段:薩摩・大隅北境(横川・真幸院・牛屎院・太良院)の戦い)では義久・義弘・歳久・家久の4兄弟、家臣新納忠元・川上左近将監監久朗・鎌田尾張守政年・肝付弾正忠兼寛・伊集院久治等である。(下線部分後述)なかでもその忠平(義弘)は同世代のトップランナーであった。

2、 軍司令官貴久

 《降る者は許す》和戦両様で降るものは赦し、降らないものは攻め続けた。主将が逃げるか、死ぬまで苛烈に攻めた。加えて何度も背いた菱刈隆秋は名を除し、渋谷良重は最後に降り、領地を献じたが封じなかった。島津の過ちに寛容、からしても許容限度を超えていた。島津の基本精神は日新斎いろは歌:つ:つらしとて恨(うら)みかえすな我れ人に 報(むく)ひ報ひて はてしなき世ぞ、にある。又島津の名を残す価値観から言って除すというのは重い処分であった。ら:楽も苦も時過ぎぬれば跡もなし 世に残る名を ただ思(おも)ふべし。《主動の保持》本段階では戦力が充実し、島津の戦いは前段迄の当主自ら先頭に立って行う域から当主が高所・大所の指導の域に達している、即ち戦いの実行面よりも組み立てや領国経営面に主動性の重点が移っている、と感じる。《棄てる》忠平を飫肥へ養子に行かせ、鹿児島に戻した判断では飫肥は次等正面、という冷徹な見極めがあった。《ワンクッションをおく》北原兼守の死に伴う、内紛での家臣団とその采地ごとの帰順に乗じ、虐げられていた本来当主を真幸の故地に還すというワンクッションをおいて、家臣団の心を掴み、当主の力量をみて、伊集院にところ替えして、忠平(義弘)を持ってきた。《敵に攻めさせる》馬越城を落とし、大口城攻めに掛かる間に菱刈は市山・堂島・曽木・羽月と4度攻めてきた。これに乗じその都度伏せ兵策略で打撃を与え漸減し、大口攻めで降伏させる下均しをした。

3、 島津の士風といろは歌 

  前述したが、本段で島津の戦いは前段迄の当主自ら先頭に立つ戦いから当主が高所・大所の指導の域に達している。これは島津の戦力が充実し、武将も育ち、4兄弟始め家臣の中に体現・継承者が現れて、島津の士風も確立されたことを日新斎・貴久が共に確信したことを意味する。

《滅私当千()多寡にかかわらず、敵には怯むことなく果敢に突進した。横川で弟歳久が城内に逃げ敵に追随し先頭で攻め入り、傷を負いながらも勇戦した。市山・曽木で城兵が打って出て敵を破った。堂崎の戦いで、僅かの兵を引き連れ、忠平(義弘)が敵へ突入し、時間をかけている間に味方が駆け付け決戦に持ち込み勝ちを得た。また忠平(義弘)はじめ勇将が馬越城の力攻めで、敵の上からの矢・石落し等をものともせず、城門を打ち破り、城壁をよじ登って一気呵成に攻めた。

《滅私奉公》堂崎で機先を制し真っ先に突入し果敢に戦いつつ下がり決戦を作為する忠平(義弘)、市山・曽木で忠元、羽月で家久等のわが身を顧みず果敢に攻め以て敵を伏せ中にいれる任務・役割第一の心。堂崎で、忠平(義弘)の突進に追求した家来、忠平(義弘)を救わんと馬で駆け付けた義久の国老伊集院久治、久治を案じわが身を顧みず追求する家来、のそれぞれの主君に尽くす心。

《攻め急がない(着実)》北原兼守が死に、後継に反対する家臣団が貴久に帰順した時点で、当主を兼親とし真幸を与えて様子をみ、ところ替えをして忠平(義弘)をもってくるというワンクッションを置いた。馬越城を落として大口攻めに掛かり、和戦両様で臨んだ。和議成立に伴い派遣した使者・従者が惨殺された際にも逆上せず冷静に対応した

《伏せ兵策略》市山の戦いで、伯囿斉;は敵が何度も市山を襲っていることから、忠元に伏せ兵策略を指示した。伯🈶は伏せ兵策略の奥義確立に強いこだわりを持っていた。忠元は良く戦いつつ下がり、兵を伏せた地点で、鉄砲で敵指揮官を斃した。激高した敵は城迄攻め寄せ、勢いのまま城攻めに移った。これを城兵が打って出て破り、逃げるを追い首級許多を得た。伏兵を伏せ兵地点での決戦ではなく城まで引き込む策略として用い、城兵の反撃に合わせ挟み撃ちでは使わず(忠元負傷のためか?兵力寡少のため?)、敗れ逃げる敵を討つために使った。忠元は日新斎の始めた()伏せ兵策略の可能性即ち状況の流動化に適応できるよう[亮介1] 選択肢(例えば打撃を伏せ兵地点で行う、城攻め中の敵に対して行う、逃げる敵に対して追いすがり行う、同じく逃げる敵に対し伏せ兵地点でおこなう等)を拡げ進化させた。

註:天文28月、永吉 (南郷を改める)の戦いでは予め秘かに貴久を城中にいれ、奪還に来た実久軍の後ろから忠良が、城中から貴久が打って出、挟み撃ちにし、逃げるを駄目押し、して破った。

曾木の戦いで、在城兵力を強化して待ち受け、出撃して打撃を与え追い払い、市山に表れた敵と忠元は城外で戦い、敵指揮官をねらわせ、指揮官が撃ち斃された動揺に乗じて敵を破った。羽月での戦いで、4男家久は敵をます本気にさせる強圧と退路を遮断されない離脱で敵を引き込み、忠元・兼寛、忠悟・景種の4者が伏撃と敗退する敵を攻撃した。

《士の鉄砲使用》鉄砲を緊要な場面での緊要な敵指揮官の狙撃に使い功を挙げている。島津の士が功を挙げ、名を残す表看板の武技であった。

《指揮官の率先陣頭》忠平(義弘)・歳久の滅私当千()、忠平(義弘)・歳久の滅私奉公参照。

《主従一心》堂崎での忠平(義弘)と駆け付ける家来。忠平(義弘)の危急を救わんと駆け付ける伊集院久治と久治の危急を救わんと駆け付ける家来。

《薩摩一心》堂崎での忠平(義弘)の危急を救わんと駆け付ける川上久朗、伊集院久治。

 

日新斎いろは歌の実践・体現による士風の確立

日新斎は政治・軍事・人の処世等に関する和・漢・神・仏・儒学に通じる識見、漢詩・和歌・茶道に通じる教養を身に着け、神仏宗祖を敬い国柄(くにがら・くにから)を重んじて、人として生き或いは人の上に立つ者の心がけ、戦いにも応用できる、を教諭調にし歌いながら身につけさせるよう早くから努めた。完成したのは晩年といわれる。いろは47文字を歌い出しとする47句の歌で説いている。薫陶を受けた忠平(義弘)は歌の心を実践し自らの処世に活かし、家臣を教導し、当然戦いに備え、戦ったに違いない。

歌意の実践により、戦いの士風形成に繋がったものを挙げたい。

 ◎《滅私当千(万)》ふ:不勢とて敵を侮ることなかれ 多勢を見ても 恐るべからず【少数だからといって侮ってはいけない。また大勢だからといって恐れる ことはない。】

◎《滅私奉公》み:道にただ身をば捨てんと思ひとれ 必ず天の 助けあるべし【わが奉公の道に一身を捨てて突き進め、そうすればかならず天の 助けがあるはずである】。

◎《主従一心》・《薩摩一心》こ:心こそ軍する身の命なれ そろふれば生き 揃はねば死す【心こそいくさする者の命である。自分たちの軍の心が一つにまとまっていれば生きることができ、揃っていなければ死を招く】。ゆ:弓を得て失ふことも大将の こころひとつの 手をばはなれず【軍の結束力をまとめるのも失うのも、すべて大将の心一つにある】、や:やはらぐと怒るをいはば弓と筆 鳥に二つの 翼とを知れ【優しさと怒るをたとえれば、文と武である。これらは鳥の両翼である。どちらが欠けても鳥は飛べない。】の実践・体現。

◎《覚悟》の:遁るまじ所をかねて思ひきれ 時にいたりて すずしかるべし【君や国()のため命をかけなければならないときがやってくる。日ごろから覚悟を決めておけば、その時は少しの未練もなく気持ちが清らかであろう】の実践・体現。

◎《実践》い:いにしへの道を聞きても唱へても わが行に せずばかひなし【昔の立派な教えを聞いたり口で唱えたりしても、実行しなければ何の役にも立たない】の実践・体現。

4、忠平(義弘)の活躍

4-1、武将忠平(義弘)

 忠平(義弘)の武勇について、本段では、馬越城攻め、堂崎の戦いで十分明らかである。特に堂崎の戦いで敵に突っ込む活躍に、無勢なのにわが命を惜しまず飛び込む豪胆さ、勢いを作る必勝の信念、家臣が続くことを信じて疑わない度量及び先見洞察力と決断が際立つ。また戦いつつ下がり、後続の到着を待つ活躍に、敵を自分に引き付けつつ退路を遮断されないよう離脱し、自ら殿(しんがり)を受け持ちという武将としての高い役割意識と家臣をむざむざ死なせてなるかという体を張った深い情を見る。この情は家来の義弘への敬愛の情を深くした。飫肥を貴久の命で去らねばならない時養親忠親へ去りがたい思いを腹を割って話し、お互いが心から了解して別れた。(堂崎では)弓・馬の武技を遺憾なく発揮したが、永禄5(1562)5月に乗馬、元亀2年(15719月、弓馬の相伝を受けた努力家でもあった。《滅私当千()》、《滅私奉公》等の島津の士風は4兄弟中でも忠平(義弘)の活躍によって刺激され、より一層顕かになった。

4-2、武人忠平(義弘

 忠平(義弘)が薩摩(国)、島津、太守という公に仕えその使命を果たす心は太守が国に尽くす心と同じ、顧みずの心で繋がっている。堂崎の戦いで、戦機を逸するべからずと少数で敵に突っ込んだのは、使命を果たすことに専ら心を砕く“専心”の為せるところであり、不利になっても簡単に下がらず、自ら敵をひきつけ、殿(しんがり:敵前で後退する場合、最後に残って、主力の掩護に任ずる部隊のこと)を受け持って、後続来着による決戦機会を作為し勝利を得たのは、統べる者として部下を死地に投じる使命の重さと投じられる部下の命の重さを深く自覚して最善を尽くす“最善心“のなせるところである。顧みずの心、専心と最善心を両立する心を持っている点で、福島大尉・大伴家持・栗林中将・坂上田村麻呂等と同じ武人の伴の緒である。

4-3 忠平(義弘)の役割意識

 活躍の背景に、①地域作戦主宰者としての役割意識(横川城攻め)、②島津家の戦い実行部門の上席弟としての役割意識(馬越城攻め・堂崎の戦い、太守・後継ぎ義久には見ていて貰う)があると感じる。伯🈶は忠平(義弘)を飫肥にやり、また鹿児島に戻し、飯野に据えて安堵した。菱刈隆秋の大口城攻めに参加させたが、伊東の不穏な動きで飯野に還した。このことで、貴久は忠平(義弘)を薩摩・大隅及び大隅・日向北諸県郡両方の北境の抑えとし、薩・隅の統一を成し遂げる間後ろ盾の伊東・相良を排除すると共に領国への伊東・相良の(合一しての)侵襲を防ぐ役割を期待した。忠平(義弘)の役割意識には前項①②に加え、③薩摩・相良・日向(真幸)境の安定、④飯野の軍事策源化が加わる。忠平(義弘)の必成事項は伊東が襲ってくれば撃退、われの三山奪取の準備、大口攻め・三山攻めのための自力動員兵の確保、大口・下大隅作戦の足手まといとならない等である。達成が望ましい事項はなるべく早く、大きなダメージを与え、伊東を真幸から遠く去らせ、相良との連携を絶つ、ことである。忠平(義弘)が何をどう考えて手を打つか、これから後を注視したい。

 横川城攻めでは初めて総大将として、前線には出ず、忠元・伊集院久春、歳久を従え攻略した。総大将ならではの、攻撃間の伊東の応援等重圧を感じ、貴久・義久の苦悩の一端を感じたであろうし、最前線には歳久が立ち、その姿に日新斎譲りの同じDNA、戦いぶりと役割意識を感じつつも自分ならこうする、との思いに我慢を強いられたり、兄弟としての競争意識を燃やしたことであろう。それらが後の肥やしになった、太守義久との違いとなって現れた、に違いない。

5、島津士風の継承・発展者

 本段の戦いの実行面で、義久・義弘・歳久・家久の4兄弟は士風継承・発展を加速・牽引し、中でも忠平(義弘)は中心的役割を果たした。4兄弟に刺激されるように、家臣新納忠元らが表舞台に登場し顕著な活躍を見せるようになった。忠元は日新斎が生前、祠堂に名前を掲げ、武運を祈ることを常とした新納武蔵守忠元、川上左近将監監久朗鎌田尾張守政年、肝付弾正忠兼寛の4名、のひとりである。この4名の祠堂での祈願にはこのように常に国の大事を思い、自立心に溢れ、私心を棄てられる等の人材が人作りの目標という日新斎イズムの発出の意もあった、ことも添えておきたい。

以下それらの活躍ぶりをざっと見てみたい。

新納忠元は大永6年(1526年)生まれ。天文7年(1538年)、13歳で父祐久に連れられ志布志を去って、伊作の島津忠良にお目見えして出仕。忠良の直接の薫陶を受けて成長、横川城攻めで忠平(義弘)に従い、市山・曾木・羽月の戦いで智勇兼備の働きをして敵を破り、大口城攻めで敵降伏の下ごしらえをし、大口地頭を命ぜられた。とくに市山では伯&囿斉の指示を受け、伏せ兵策略を実行し、その可能性即ち状況の流動化に適応できるよう選択肢を拡げ、島津伝統の士風を進化させた。

川上左近将監監久朗は天文6年(1537年)、川上忠克の二男として誕生。久朗は天文22年(1553年)に17歳にして当主の義久から島津氏の家老職、並びに谷山の地頭に任命され、義久の命で老中となり没年までその地位にあった。弘治元年(1555年)の蒲生氏攻略、永禄4年(1561年)の肝付兼続との廻城合戦等、各地で奮戦した。堂崎の戦いで、忠平(義弘)の突入を見殺しにしてはならないと新手の到着まで孤軍奮闘し、受傷し後送され、死亡した。享年32

鎌田尾張守政年は永正11年(1514年)生まれ、妻は山田有親の娘。島津忠良、貴久、義久の3代に仕え、大隅帖佐、薩摩馬越の地頭職、後に日向三ツ山、大隅牛根の地頭職も歴任。弘治3年(1557年)の蒲生範清攻め、永禄11年(1568年)の菱刈隆秋の薩摩馬越城攻め、市山の戦いでは小苗代原での伏せ撃ち、など数々の武功をたてた。

肝付弾正忠兼寛は永禄元年(1558年)頃()、加治木城主・肝付兼盛の嫡子として誕生、母は島津忠良娘・にし。祖父以久は貴久に背くが降って以降兼盛・兼寛は良く日新斎・伯囿斉;に従った。兼寛は市山の戦いでは日新斎の命で伏せ兵策略の応援、羽月の戦いでは和平使者が惨殺されるという不穏な情勢下で忠元と共に羽月城に入り不測の変に対処し、戦いでは伏せ撃ちを行う等、島津の伝統士風の発展・継承に功あり。一度背いた家系でも誤りを正し、真心を尽くし奉公すれば島津の寶になる、という日新斎の基本精神の象徴であった。

註:西藩野史では表記生年では若すぎるので“頃”とした。

 彼らは島津士風の継承・発展者である。何故なら、日新斎が資質を見抜き薫陶して育て、なるように願い、彼らも後に続く者の鏡として、期待に応えていたからである。祠堂で毎日祈る行為はこのような人材になれという日新斎の人育てのイズムの発信であった。

 日新斉はあげてないが、伊集院久治も本段で目立つ活躍をした。

伊集院久治は天文3年(1534年)生まれ、通称は三郎兵衛、右衛門兵衛尉。受領名は下野守。法号は抱節。父は伊集院久道。子に久元。久治の家は島津家の重臣である伊集院忠朗とは別流で、伊集院氏5代忠国から分かれた家である。後に日向国福島、薩摩国桜島・市来・出水、大隅国高山の地頭を務めた。堂崎の戦いで、忠平(義弘)の突入・危機に馬を飛ばして先頭で敵に突入、追求した家臣も久治を救わんと突入して、決戦を作為し敵を破った。まさに忠平(義弘)にそっくりの戦いぶりで、《滅私当千()》、《滅私奉公》等の士風を拡げ、遺す働きをした。

6、川上忠智の栗野地頭の意味

 永禄5年夏、真幸院を領する北原家で乱があり、三山城主兼守死す、この機に伊東義祐策動し、馬関田右衛門佐を城主とした。これに老臣反対して、麾下の城主等馬関田を離れ、太守公に降り、その采地を献じた。この時貴久は川上忠智を栗野地頭に命ずる等数城に腹心をいれ、三山勢の攻撃に備えると共に三山城攻めの準備にかかった。これは即日新斎礎案を受け継いだ真幸の外城・地頭化であった。そして永禄6年210日、貴久は三山城を落とし、北原兼親を北原氏の後継当主とし、真幸を与えたが、同年11月、吉松の北原左衛門尉(兼親の叔父)が伊東・相良に通じ、兼親を討つことを謀ったため、兼親のところ替えをし、忠平(義弘)を据えた。忠平(義弘)を前述栗野地頭等の要として、日新斎の外城・地頭制礎案(太守に一元化する案)実行の責任を与えた。忠平(義弘)は永禄910月、3年をかけて、真幸三山城攻めに飯野・栗野等の兵を率いて参加、その役割の一端を果たした。
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第三段階 大隅・日向州堺(真幸院)及び下大隅(垂水・肝付)の戦い

その1、大隅・日向州堺(真幸院)正面―木崎原の戦い

(木崎原合戦跡の表示板(えびの市教育委員会作成))



 永禄118月、島津が菱刈(大口)を攻めんとした時、伊東軍は三山城(現小林市)から桶平(飯野田原村、白鳥山の麓)に兵を駐屯させて、飯野を攻める気配を見せたので、馬越にあった忠平(義弘)は飯野に帰り、これを遠矢下総・黒木播磨の伏せ兵策略で揺さぶり、菱刈の逃亡・降伏或いは家督を譲っていた嗣子義益の急死と相俟って、伊東軍は三山城に下がり、忠平(義弘)は伊東軍の侵攻に備えた。

 義祐は忠平(義弘)の智勇を畏れていたので、相良義陽と約定して、大軍を以てまず妻子のいる加久藤城を夜襲で落とし、その後飯野城を攻める、と弟伊東加賀守祐安、同伊東新次郎・又二郎等を将とする3000余名を三山に入れ、元亀3(1572)53日、一隊(伊東新次郎・又二郎)は夜秘かに、人馬の声・物音を消して、飯野城を右手に遠く見、上江邑を通って、加久藤城を襲い、城近辺の民家に火を放った。もう一隊(伊東加賀守祐安)は妙見ケ尾に陣して義弘に備えた。

 忠平(義弘)は、火事に気づき、西ノ原に出て、火煙が加久藤城方向であることを確認、そこに上江村民藤本丹波が「今夜大軍上江を経て加久藤に迫る。三山の賊が加久藤を襲うようである」と告げに来た。そこで、策を定め、部署を命じた。1、遠矢下総以下50名、連絡道(約4.4km)を通り加久藤城救援(上図:上段)。2、村尾源左衛門以下50名、本地口で伏兵、帰る敵を襲え(上図:⑧)。3、五代右京亮以下50名、白鳥山麓の野間門で伏兵、敵の後ろを撃て(上図:⑤)、球磨軍の来援に備え旌旗を山林にたて備えある如く見せよ。4、有川雅樂亮飯野城を守れ(上図:上段)。5、本隊130名,二八坂にて動静を窺う(上図:上段中央)。

加久藤城は東西に走る比高50mの段崖上にあり、曲輪で幾重にも仕切られて、東の山に中城・新城がある。西側の西輪掛口は絶壁で徳泉寺と連なっており、南東に大手門がある。伊東軍は西輪掛口より攻めんとし夜まだ明けず誤って、徳泉寺口より寺主淨慶を攻めた。淨慶親子奮戦して死す。そこを城主川上忠智突出し、伊東軍は混乱の中で、退き、城南小渡瀬で池島川を渡り、川南に屯した。不動寺の僧、鉄砲で川南の敵将米良筑後守を斃す。この時、近郷(吉松、馬関田、吉田)の軍が到着、進んで駐屯中の伊東軍を攻撃した。忠智も機に乗じて挟み撃った(上図:左上・左中)。伊東軍敗れて、白鳥山に登り、高原に出て、帰らんとしたが、突如山中に鐘鼓が響き、鬨の声がこだまし、南木場・横尾山・八幡丘・諏訪山・平城に旗(紙、擬兵)が立ったので、伊東軍は驚いて山を降り、進退窮まって木崎原に屯した。妙見が尾の伊東軍も味方の窮状を救うため、鳥越に詰めかけた。

 こうなっては近郷軍及び忠智軍は進めなくなった。二八坂にあった忠平(義弘)物見の報告で敵は木崎原で休憩中を聞き、鎌田尾張守以下60名を伏兵として末永を経て、木崎原の後ろに回らせ、自らは70余名を率い、木崎原に突進した。ところが敵は義弘めがけて殺到し、たちまち数百歩後退、隊伍は乱れ敵し難い状況に陥り、久留伴五郎・遠矢下総以下数名の勇士が自ら敵に斬りこむのでその間に隊伍を整えて敵を破るべし、と申し出るやそのまま敵中に斬り込み力戦して共に死す。忠平(義弘)はこの間に敗軍を立てなおし、敵将新次郎を鑓で突き殺した。加久藤軍・近郷軍これに力を得て進み撃つ。大口軍(新納忠元以下)170名も到着、戦闘に加わって、敵を破る。伊東軍は狐疑原(小木原)に退く。鎌田尾張守以下60名は末永に来た頃、敵がさがるのを見て、直ちに鳥越山に向かい孤疑原(小木原)に出て、敵の横を撃った。五代右京亮は野間門の民家のなかから、敵の後ろを撃ち、五代右京亮の僕が加賀の守を射殺す。忠平(義弘)軍勢いを得て攻め撃つ。伊東又二郎、上別府甚四郎、稲津又三郎、肥田木四郎左衛門、米良式部少輔以下有名の士160余人ここに戦死す。敵悉く三山に向かって走る。逃げるを追って、鬼塚原に到り、ここで追撃を止め、飯野へ引き返す。この日の戦死者伊東軍500名余、島津軍260人。相良義陽5百余名を率い、彦山までくるが飯野・加久藤の山林に多数の白旗が立っているのを見て、薩州の大軍が飯野を助けている、と悉く遁れ去った。以降伊東氏は衰退の坂を下る。

木崎原の戦いの特性

伊東に攻めさせ、混乱や隙をつく

 伊東軍は加久藤城の西掛け口から攻撃した。伊東家の奥女中に島津の女間者を送り込み、その奥女中が伊東家中の若者と通じ合い、西掛け口攻めを調略した結果である、という。夜間、山中の細道を辿って来た敵は、徳泉寺石垣を城壁と間違え、同寺を攻撃、寺僧親子奮戦して死す。ここに城主川上忠智突出し、敵退散し、城南の川の瀬を渡り川南に屯し、休憩。これを忠智・到着した近郷軍(吉松)が攻撃し、敗走させ、この敗走で横陣ケ尾の敵後続が救出のため鳥越城に詰めかけた。この状況が忠平(義弘)の木崎原突進の背景となった。忠智は忠平(義弘)の手薄を考え、救援に駆け付けた遠矢下総以50名を復帰させた。

伏せ兵策略の深化・・釣り野伏確立

一度により多くを撃ち、伊東に決定的なダメージを与えた点に伏せ兵策略の深化がある。それには6つの鍵がある。

1つ目の鍵》予め敵の下がるところを撃つ、と腹を固め、必ず通るであろう予想後退経路上の要点に打撃と複数の伏せ兵を準備し、状況に適応させて発動した。敵が加久藤城攻めを諦めて、後退し三山へ戻る経路上の要点(野間門、本地原)に兵を伏せ、打撃と合わせその後ろを撃つ、主力は木崎原または本地原での打撃を準備した。敵の攻撃及び戦闘経過に応じ、敵が城攻めを諦めて、兵を纏めている(川南休憩中)ところを加久藤・近郷軍が攻め、主力はその機に乗じ、その後ろ及び詰め掛けた後続本隊を木崎原で打撃し敗走を始めた敵を既配置の野間門及び新たに木崎原後方に派した伏せ兵により伏撃し、さらに逃げるを追って本地原で再伏撃した。

2つ目の鍵》敵後続を釣りだす主力の打撃のタイミングと圧力及び敵を破った果敢な攻撃。敵を撃退した加久藤軍と到着した近郷軍(吉松)が川南に屯(たむろ)中の敵を果敢に攻撃し敗走させた。その救援のため敵後続部隊は妙見ケ尾から鳥越城に詰めかけ、さらに木崎原に進出しょうとした。これをみて、忠平(義弘)は主力を率い木崎原へ突進した。これに釣られ、敵後続は全部が木崎原に出てきた。忠平(義弘)の木崎原への突進は敵後続を釣りだす絶妙のタイミングと圧力であった。そこへ、加久藤軍・近郷軍(吉松)に加え、新納忠元らの応援部隊が忠平(義弘)主力と連携し果敢に攻撃し敵を破った。敵を破り敗走させ、伏せ兵が有効に機能した。

 3つ目の鍵》無傷の伏兵がその都度、待ち構えて、やり過ごし、後ろ・横を撃ち、新しく加わった力が全軍の追撃の衝力を持続させ戦果を拡張した。伏せ兵はいずれも待ち構えてやり過ごす我慢をし、立ちはだかって窮鼠猫をかむ、に陥る危険を避け、その分、力を温存した。

4つ目の鍵》敵指揮官を倒し、その混乱を衝いた。川南で屯中の敵将を不動の寺僧が撃ち殺し、その混乱に加久藤軍・近郷軍が乗じた。木崎原への突進で忠平(義弘)が敵将伊東新次郎を斬り殺し、忠平(義弘)直卒軍及び加久藤軍・近郷軍が息を吹き返した。この時、伊東軍の名だたる武将を打ち取り、敗走へと追いやった。

5つ目の鍵》戦場から逃さず予想後退路に戻す。加久藤軍・近郷軍の攻撃で、川南に屯中の敵は白鳥山に逃げ、高岡を経て三山を目指した。この敵を上厳上人始め僧・地元民300人余りが行く手に鉦鼓を打ち鳴らし、旗(擬兵)をいたるところに立て、木崎原に追い戻し、釣り野伏の袋に入れた。当夜だけでの準備ではできない。伊東の隠密侵攻を注進した住民等も含め平素からの緊密な連携、忠平(義弘)の意図の徹底があった。

6つ目の鍵》五代右京亮と上厳上人が連携して、旌旗(擬兵)を南木場、八幡丘、横陣ケ尾などに建て、球磨の援兵に大軍と見せかけた。実際、彦山に来援した相良軍は沢山の旌旗をみて、引き返した。

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その2、下大隅正面―垂水・肝付の戦い

 伊東にダメージを与え、残るは廻城の敗戦(永禄4年(1561)後も尚抵抗を続ける下大隅の反義久3者連合、肝付省釣(肝付、高山城主)を中核とする伊地知重興(垂水城主)と禰寝重長(根占城主)のみとなり、これを征し大隅領有を仕上げる好機に到った。

 元亀3年(15729月、木崎原の快勝により省釣の後ろ盾を奪った勢いに乗じ、義久は歳久に垂水の重興征討を命じた。歳久は小濱塁()を抜き、義久これを前(さ)き陣として、古塁濱を攻めるが死傷多く、対峙越年となる。義久はこの前き陣を足掛かりとして指宿から最短・直路の海上輸送も使い、物資の補給等を続け、敵将省釣のある癖に注目して征討の策を巡らす。

策その1、重長を取り込み、根占から肝付領へ攻め込んで、省釣を挑発し破る。

 天正元年(元亀4423日改元、1573)正月、重長懇意の僧と島津家僧の私的交際に便乗して使者を出し重長の本意、省釣が大軍を領し隣り合っているので、やむを得ず与してるのみ、太守に抗するは本意ではない、を直接確かめる。そこで使者から患いを絶つ長久の策として、禰寝重長の息子と家久の娘(義久の養女として)の婚約を提言し、双方承諾し成約なって、310日、新納忠元・上原尚近・伊集院久治等兵を率いて、禰寝城に入り、重長と肝付攻めを議して、318日忠元・重長らは西俣塁を攻めた。これに触発されてか省釣は大軍を率いて反撃してきたが14日肝付との境に展開していた島津本隊がこれを打ち破り、省釣は本城(高山城)に逃げ帰り、険阻な地形を楯に守ったので、島津軍は早崎に軍を引き上げた。

策その2、牛根城を攻め、省釣を度々挑発して破り、ダメージを与えて、降へと導く。

 天正元年1214日、義久は平常岡(ひらことのおか)に陣し、牛根城(城主省釣の臣,安楽備前守)を攻めんとした。天正213日、援軍を率い茶園ケ尾に進出してきた省釣を忠長・川上久信が急襲し、省釣敗れ本城に逃げ帰る。318日、新納忠元が早崎の軍を率い到着、城岸を掘って、2昼夜で、城内に堀入り、城内動揺し、城主降る。義久弟家久にこれを守らせる。723日、省釣また早崎(牛根)を不意急襲、家久突出し傷を負うが、諸将勇戦し、省釣敗れて帰る。省釣今度は重興と議して、不利に陥ったのは禰寝重長の裏切りのせい、懲らしめるべし、と共に禰寝領に攻め入る。義久は喜入季久、平田新左衛門(川辺地頭)を応援に派遣、諸軍の奮戦で、大いに破る。逃げるを追い、遂に重興、自領(垂水5ケ所)を献じて降る。義久これを許し下ノ城を賜う。省釣もこれを聞き、孤立しがたきを思い、罪を謝して降る。義久、高山を収め、これを許す。ここに隅州平定が初めて成った。

 薩摩・大隅の守護大名としての旧領回復とともに戦国領有化は成り、日向についての旧領回復・戦国領有化も大きな山を越え、3州統一の進展であると同時に九州制覇の始まりであった。尚、降る迄抵抗を続けたのは西藩野史にならい肝付兼続省釣とした。同野史には「伝記を考えるに降る者を省釣とす。来由記には永禄8年丙寅1115日省釣56歳して志布志に卒すという。その説に由らば省釣の子乎詳らかならず」とある。


その3、本段の特筆事項

 木崎原の戦いを主に述べる。

1、 島津士風の継承・発展

1-1 日新斎以来の戦い振りを継承した

《主動性の保持》敵に攻めさせ、その隙や混乱に乗じて伏せ兵策略を仕掛け(木崎原)、必ず反応して攻めて来るという癖を逆用して仕掛け、攻め勝つを繰り返し、ついに降伏させた(下大隅)《着実、攻め急がず攻め来るをうつ(下大隅)早崎に拠点を作り、そこを足場として、禰寝を調略して肝付攻め、牛根を攻略。伊地知・肝付が怒りの矛先を禰寝に向け攻めたのを機に各個に破り降伏へ。

1-2 日新斎以来の戦い振りを継承し、共動(後述)で、より高いレベルに引き上げた

 《滅私当千()(木崎原)350(飯野300、加久藤50)3000という圧倒的な勢力差であった。特に忠平(義弘)150(手元兵)対3000(合一) という差をものともせず、戦機を掴み、木崎原へ突進し、(合一した)敵全部を相手に戦った。《滅私奉公(木崎原) 忠平(義弘)は敵後続のつり出しを狙い、わが身を標的として、木崎原へ突進し、つり出され合一した敵と戦い、敵将伊東新次郎を倒し、勢いを作った。川上忠智・到着した近郷軍(吉松)が川野で屯中の敵を攻撃して敗走させたのは、敵後続の前詰め救援の誘い水となり、忠平(義弘)の敵後続つり出しのための木崎原突進の決断に繋がった。《主従一心》木崎原で忠平(義弘)が劣勢に陥り、絶対絶命となった時、加久藤城救援から戻った遠矢下総・久留伴五郎以下数名の勇士が隊伍を整えて敵を破るべし、と申し出るやそのまま敵中に斬り込み力戦して死す。忠平(義弘)はこの間に敗軍を立てなおし、敵将新次郎を鑓で突き殺した。敵を撃退した川上忠智は救援に駆け付けた遠矢下総を、忠平(義弘)の手薄を思い、復帰させた。《薩摩一心》加久藤軍及び救援に駆け付けた近郷軍(吉松)は川南に屯中の敵を進んで攻め敗走させた。これを見た忠平(義弘)は敵主力つり出しを狙い木崎原に突進、敵主力と戦い、敵将伊東新次郎を倒し、これで加久藤軍及び救援に駆け付けた近郷軍(吉松)は息を吹き返し、敵を破った。その他の近郷軍(菱刈)及び新納忠元指揮の大口軍も進んで戦いに加わり焦点に位置した。最初に配置された野間門、本地原の伏兵は企図を暴露することなくやり過ごして撃った。二八坂で木崎原後方への伏せ兵を命じられた鎌田政年は敵の敗走をみて、鳥越後方の小木原に変更し追い付いて横を撃った。追撃では疲労の少ない伏兵が衝力を持続し戦果を拡張した。忠平(義弘)が目指す、より多くを一度で倒す、を阿吽の呼吸で共有し、一つのストリーで繋がった。

1-3 日新斎以来の戦い振りを継承し、より深化させた。

伏せ兵策略の深化(釣り野伏確立)》新納忠元が市山で拓いた伏せ兵の選択肢を拡げる境地に刺激を受け、を更に深化させた。圧倒的に敵が優勢な場合に一度により多くを倒す勝ちを得るため、日新斎以来の伏せ兵策略を深化させ、初めから襲うところ、この場合は帰る敵を襲うと決めて複数個の伏せ兵を配置。敵一部を敗走させ、敵後続(主力)が全力で救援するよう、釣りだし、これを破り、敗走する敵を既配置の伏せ兵で襲い、追撃で戦果拡張という戦法を確立した。《勲功の基準》旧制御軍法によれば島津は敵将を鉄砲で斃す【川南:米良筑後守①、野間門:伊東加賀守(総大将?)②】、敗軍を殿(しんがり)し盛り返す【堂崎:忠平(義弘)】、曳起こし(敗軍の時切入り味方の勢いを曳き起こす【木崎原:将の危急を救った富永・野田等5人】、などを上功~功としているが、私はその契機は忠平(義弘)の堂崎・木崎原の戦いあたりから顕著になったように思う。《鉄砲を士の戦技》:旧制御軍法によれば島津は、鉄砲を足軽には持たせず、士に持たせた。士の武具であり、戦技として奨励した。特に敵将を狙った。(上記①②)

1-4これまで見てきた通り、島津ならではの士風の確立・継承は忠平(義弘)が居なかったら全く別物になっていたに違いない、忠平(義弘)の存在感(貢献)は大きい、と言える。

2、忠平(義弘)の活躍

2-1 武将忠平(義弘)の資質―智勇情兼備

 当初、後続も含めどのくらいの敵かは判断がつかなかったであろう。その時に2ケ所の伏兵を派した。加久藤城救援と合わせると忠平(義弘)の手元には半分の150騎しか残らない。手元に少しでも多く、というのが本音であったであろう。伏兵の遊兵化(無駄な兵)を畏れる気持ちは強かったはずである。しかし、ここには敵の多勢に立ち向かう猛将の域を越えて、敵は必ず帰る、その時を狙う、そのための(敗走)というより良い条件つくりと腹を決めた先見力と豪胆な決断、勇将&智将の資質がある。伏せ兵策略でより多くを一度で倒すを追求した策略は智将の、戦機を捉え自らが標的となって敵後続を釣出し、戦い破った戦闘行動は勇将の証である。

2-2、伴の緒由縁の武人忠平(義弘)-共動の域

 《薩摩一心》で、忠平(義弘)が目指す、より多くを一度で倒す、を阿吽の呼吸で共有し、一つのストリーで繋がった、と述べた。家臣たちは戦場で、指示・命令を受ける暇がないに関わらず為すべきと為すべきでない、を自ら考え行動した。忠平(義弘)隊は“共動”の域にあった。この時、忠平(義弘)は自分が死んでも狙いが達成できれば本望、もしそうなっても兵を退くな、弔い合戦で、狙い通り、より多くを一度で倒し勝ってくれ、と思ったであろう。この思いや実践行動が家臣に感化を与え、共動の域に到ったものに違いない。これは武人旅の最初、八甲田山雪中行軍で福島大尉指揮する行軍隊に感じた共動(註)と同じである。その核に忠平(義弘)自らが敵後続つり出しの標的となって木崎原へ突進するという《滅私奉公の実践》即ち私を顧みず国や太守(藩主)や属する軍に尽くす心がある。その在り様は地域作戦主宰者としての自分の使命・役割を果たすことに専心し、家臣を死地に投じる自分の使命・役割の重さを深く自覚するがゆえにあらゆる手を打った上で、真っ先に突出し、負けいくさで敵将を撃ち勢いをつけ、負戦から勝戦の陣頭指揮に最善を尽くす姿があり、死地に投じられる家臣の命の重さを深く自覚するがゆえに、堂崎の戦いの例が顕著であるが、真っ先に突出し、負け戦のなか殿を受け持ち、勝戦の陣頭指揮に最善を尽くす姿があった。専心と最善を両立する姿は福島大尉、大伴家持、栗林中将らと同じ、伴の緒由縁の武人のそれである。

註:ホームぺージ「福島大尉から武人の心探求記念館」・「武人の心コーナー」参照

2-3、忠平(義弘)の指揮統率の肝

この時点で私は本テーマ冒頭の疑問「義弘は何故戦において部下を、非情に、死地に投じて尚慕われたか」の答えの肝に気づいた

 木崎原の戦いで自分が標的となって、敵後続主力を釣りだし、敗色濃厚となるも家臣に助けられ、立て直して勝ち、堂崎の戦いでも同様に突出して敗退、殿を受け持ち、その間に家臣が駆け付け、形勢を逆転して勝つという本当に厳しい状況で最も難しい危険な役割を自ら果たし、負け戦から勝ち戦への盛り返しの陣頭にいた。この2度の滅私奉公・滅私当千(万)の実践は本気で家臣を思い、本気で家臣と生死を共にする気持ちの発露であった。家臣達はその心を感じ取り忠平(義弘)を心から仰ぎ見るようになった。加えて(木崎原で)勝つためとはいえ妻子を囮にした、その心底にあった絶対に勝って妻子を守る、という痛みを伴った強い気持ちをわがこととして忠平(義弘)を慕い、この人と一緒ならと喜んで死地に赴いた、以上は島津ならではの日新斎イズムの体現をベースとした二つの士風が土壌としてあるからこその、忠平(義弘)の思いや行動を善く理解できるゆえの、心象風景である。一つは「滅私奉公(当千)」・「主従(さつま)一心」という戦いぶりの士風であり、二つは若者の自立・切磋琢磨を重んじる郷中教育、郷中教育の根幹である日新斎いろは歌の実践等による人づくりの士風である。これらが前述の共動の原動力になった、点も大きいと言える。これらが前述の共動の原動力になった、点も大きいと言える。

 この点こそ「義弘は何故戦において部下を、非情に、死地に投じて尚慕われたか」の答えの肝ではないか、と気づいた。この2度の戦いは智勇情兼備の武将忠平(義弘)を確認した私の記念塚である。

 かって祖父忠良(日新斎)は加世田の戦いで、敵に囲まれ、突出して、家臣に諫められ、その身代わりで窮地を脱し、他日に攻略を果たした。父貴久は偽りの内通、貴久公を北村城に招き入れ主為清を討つ、に応じて、蒲生北村城目指して吉田を経て蒲生内に入ったところ、四面から囲まれ、絶対絶命となった。貴久は退かず、家臣の切り入りで、退路を開いたが、尚も退かず、大軍に包囲され、窮地に陥り、多くの家臣達の横撃ちで、漸く虎口を脱した。忠平(義弘)の上記2度の戦いは祖父・父譲りともいえる。だが、祖父・父を越えて忠平(義弘)は家臣思い、家臣と共にさらには家族思いという実践による情の花を咲かせ、島津ならではの士風という実も結ばせて、後世にその種を遺した。

 二つの士風という【土壌】に行き着いたところで私見を述べたい。私は忠平(義弘)を核とする家臣が島津の戦いぶりと人づくりをけん引し、牽引された戦い振りと人作りの士風が家臣個々を真に自立させ、より強くし、連帯を深めて藩の活力を高め、あるいは有為な人材を輩出させ、大業を為さしめた、と言えないだろうか。戦いの士風とは祖父忠良(日新斉)以来受け継がれ進化し続ける戦い振りの士風であり、人づくりの士風とは国作り・太守・家臣のあり様や島津に求められる人材についての祖父日新斉の識見(イズム)の体現による人づくり実践(いろは歌や郷中教育など)の士風である。ここに新たに注目すること(新たな仮説)で、これから忠平(義弘)が為し遂げるであろうことの意味をより深く理解できるのではないか、と思う。追ってみたい。

六地蔵塔建立

 忠平(義弘)は戦死者を敵・味方を問わず弔うため六地蔵塔を建立した。自分の命令で戦い命を落としたものの痛みを自分の痛みと感じる武人としての慈悲の心から発したものであり、日新斎いろは歌の実践である。え:回(え)向には我と人とを隔つなよ 看経(かんきん)はよし してもせずとも。

2-4、役割意識

 忠平(義弘)は地域作戦主宰者として、数年をかけて伊東氏対策に全智を傾け、より多くを一度で倒す策(基本構想)をねった。そこには本家の支援を受ける形は寸毫もない、本家を煩わせない自力完結型であった。基本は加久藤城をせめさせ、その帰りを狙う、とした。そのスト―リーに沿って策を練り、部内外を問わず地域すべてに目配りし、意図を徹底した。例えば敵に攻めさせる策、加久藤―飯野連携、近郷軍の応援・戦闘加入要領、寺・僧・地元民との連携(情報・敵将狙撃・退路閉塞・旗(擬兵))等である。


3 島津の士風(整理)

 前2項で新たに二つの士風という土壌に注目することにしたので、今までその都度記述してきたものをここでより趣旨に即した形にして整理しておきたい。

  3-1 戦いの士風

3-1-1 忠平(義弘)の士風確立の功績 (第23段特筆事項1関連)

〇日新斎以来の戦い振りを継承しつつ、共動で、より高いレベルに引き上げた《滅私当千 ()(木崎原》・《滅私奉公 (木崎原》(前述、略)。《主従一心》木崎原で忠平 (義弘)が劣勢に陥り、絶対絶命となった時、加久藤城救援から戻った遠矢下総・久留伴五郎以下数名の勇士が隊伍を整えて敵を破るべし、と申し出るやそのまま敵中に斬り込み力戦して死す。忠平 (義弘)はこの間に敗軍を立てなおし、敵将新次郎を鑓で突き殺した。《薩摩一心》加久藤軍及び救援に駆け付けた近郷軍(吉松)は川南に屯中の敵を進んで攻め敗走させた。これを見た忠平 (義弘は敵主力つり出しを狙い木崎原に突進進した。

〇日新斎以来の戦い振りを継承し、より深化させた

 《伏せ兵策略の深化(釣り野伏確立)》新納忠元が市山の戦いで拓いた伏せ兵の選択肢を拡げる境地に刺激を受け、更に深化させた。圧倒的に敵が優勢な場合に一度により多くを倒す勝ちを得るため、日新斎以来の伏せ兵策略を深化させ、初めから襲うところ、この場合は帰る敵を襲うと決めて複数個の伏せ兵を配置。敵一部を敗走させ、敵後続(主力)が全力で救援するよう、釣りだし、これを破り、敗走する敵を既配置の伏せ兵で襲い、追撃で戦果拡張という戦法を確立した。《勲功の基準》旧制御軍法によれば島津は敵将を鉄砲で斃す【川南:米良筑後守、野間門:伊東加賀守(総大将?)②】、敗軍を殿 (しんがり)し盛り返す【堂崎:忠平(義弘)】、曳起こし(敗軍の時切入り味方の勢いを曳き起こす【木崎原:将の危急を救った富永・野田等5人】、などを上功~功としているが、私はその契機は忠平(義弘)の堂崎・木崎原の戦いあたりから顕著になったように思う。《鉄砲を士の戦技》旧制御軍法によれば島津は、鉄砲を足軽には持たせず、士に持たせた。士の武具であり、戦技として奨励した。特に敵将を狙った。(上記①②

〇島津ならではの士風の確立・継承は忠平 (義弘)が居なかったらその姿は別物になっていたに違いない、忠平 (義弘)の存在感(貢献)は大きい、と言える

34-1-2日新斎いろは歌の実践・体現による士風の確立(第2章第1段特筆事項5関連 )

 忠平(義弘)は郷中教育を始めたと言われている。大口地頭新納忠元も郷中教育を行っている。両者には日新斎の薫陶、対面教育・訓練が大元にあったに違いない。その教育の根幹は日新斎いろは歌である。日新斎は政治・軍事・人の処世等に関する和・漢学、神・仏・儒教に通じる識見、漢詩・和歌・茶道に通じる教養を身に着け、神仏宗祖を敬い国柄(くにがら・くにから)を重んじて、人として生き或いは人の上に立つ者の心がけ、戦いにも応用できる、を教諭調にし歌いながら身につけさせるよう早くから努めた。完成したのは晩年といわれる。いろは47文字を歌い出しとする47句の歌で説いている。薫陶を受けた忠平(義弘)は歌の心を実践し自らの処世に活かし、家臣を教導し、当然戦いに備え、戦ったに違いない。

〇《滅私当千(万)》ふ:不勢とて敵を侮ることなかれ 多勢を見ても 恐るべからず【少数だからといって侮ってはいけない。また大勢だからといって恐れる ことはない。】

〇《滅私奉公》み:道にただ身をば捨てんと思ひとれ 必ず天の 助けあるべし【わが奉公の道に一身を捨てて突き進め、そうすればかならず天の 助けがあるはずである】。

〇《主従一心》・《薩摩一心》こ:心こそ軍する身の命なれ そろふれば生き 揃はねば死す【心こそいくさする者の命である。自分たちの軍の心が一つにまとまっていれば生きることができ、揃っていなければ死を招く】。ゆ:弓を得て失ふことも大将の こころひとつの 手をばはなれず【軍の結束力をまとめるのも失うのも、すべて大将の心一つにある】、や:やはらぐと怒るをいはば弓と筆 鳥に二つの 翼とを知れ【優しさと怒るをたとえれば、文と武である。これらは鳥の両翼である。どちらが欠けても鳥は飛べない。】

〇《覚悟》の:遁るまじ所をかねて思ひきれ 時にいたりて すずしかるべし【君や国()のため命をかけなければならないときがやってくる。日ごろから覚悟を決めておけば、その時は少しの未練もなく気持ちが清らかであろう】。

〇《実践》い:いにしへの道を聞きても唱へても わが行に せずばかひなし【昔の立派な教えを聞いたり口で唱えたりしても、実行しなければ何の役にも立たない】

3-2 日新斎イズムの体現による人づくりの士風

 3-2-1日新斎イズムの体現(第2章第2段特筆事項1日新斎の手紙、第2章第2段特筆事項3士風といろは歌、5士風の継承・発展者関連)

 《国作り・太守・家臣のあり様》永禄4年(1561)暮、日新斎は義久は貴久を引き継いで、力任せではなく、仁と義を基本とする国作りに身をかえりみず邁進せよ。という趣旨の書を作り、義久を教諭した。これは3州統一国家の基本理念を掲げ、太守は戦いの中にもあるべき国に向かって顧みず邁進し、家臣また太守・国に顧みず尽くせという日新斎イズムであった。

 あるべき国のために顧みず尽くす日新斎・貴久から薫陶を受けた者たちが長じて、顧みずの心といろは歌をわが心として活躍し、島津の士風を体現・継承する。顧みずの心といろは歌の主な体現継承者は日新斉が主動した戦いの時代では種を自ら蒔き、貴久が主導した戦い(第一段:大隅国錦江湾沿い(国分・加治木・帖佐・蒲生)の戦い)の時代では弟忠将・尚久、伊集院忠朗、樺山善久等であり、貴久が主動した戦い(第二段:薩摩・大隅北境(横川・真幸院・牛屎院・太良院)の戦い)では義久・義弘・歳久・家久の4兄弟、家臣新納忠元・川上左近将監監久朗・鎌田尾張守政年・肝付弾正忠兼寛・伊集院久治等であり、なかでも忠平(義弘)は同世代のトップランナーであった。義久が太守の戦い(第三段:)では戦いの主導者が忠平(義久)・家久・新納忠元等に移る。木崎原を戦った加久藤城主川上忠智、遠矢下総、新納忠元が加わる。

  《人作りの目標》日新斎は生前、祠堂で<前記4名の名を掲げ、武運を祈ることを常とした。これにはこのように常に国の大事を思い、自立心に溢れ、私心を棄てられる等の人材が人作りの目標という日新斎イズムの発出の意もあった。

3-2-2 日新斎イズム体現による人作りの方策(第2章第1段特筆事項5-1いろは歌と郷中教育関連)

 前項で名前の挙がった忠平(義弘)は幼少時に他の兄弟と共に、新納忠元は一族の離散で日新斎を頼り、日新斎の薫陶・対面教育・訓練を受けた。これが元となって模索しながら?郷中教育を始めた。この郷中教育とは郷中(同一地域内)内の武家の若者が勇気と根性を養い、躾を身に着け、武芸の鍛錬をする、自立・自治・相互啓発の教育システムで、小稚児・長稚児・二才(にせ)・長老などに区分した。稚児は二才の講義を受け、二才は講義のほか、役あるものは仕事、ないものは藩の学校等に通った。教育の根幹はいろは歌であった。木崎原の戦いでの新納忠元始め地頭が指揮する援隊は進んで戦ったがこれは外城・地頭制の教育・訓練が機能している表れと考えられる(後述:第二章第三段本段の特筆事項5近郷軍(援隊)の意味するもの)。その教育訓練も麓郷毎に、島津藩の軍制の最小単位である五人組・十人組を編成し、使命感や規律心、連帯・自立心を養い、特に二才や長老の役つきの者について郷中教育と連接・整合を図ったであろう。矢張り根幹はいろは歌であったろう。

 4、島津士風の継承・発展者

加久藤城主川上忠智

 伊東軍に夜襲を受けたが突出して撃退、川南で屯(たむろ)・休憩していた敵を、到着した近郷(吉松)も進んで、攻撃し敗走させた。これにより敵後続(主力)は救援のため、鳥越城、一部は木崎原に前詰めとなり、忠平(義弘)の後続つり出しのための木崎原突進に繋がった《滅私当千()》・《滅私奉公》。救援に駆け付けた遠矢下総を、忠平(義弘)の手薄を思い、即復帰させた《主従一心》。

遠矢下総

 常に忠平(義弘)の側近く仕え、堂崎・木崎原と窮地に陥った忠平を救い立て直させるため、身を以て敵に突入した《滅私当千()》・《滅私奉公》・《主従一心》。

新納忠元

 牛根城攻めでは城岸の坑道作戦、技術的奇襲作戦、を敵の妨害を屁ともせず2昼夜で貫行し、落城させた《滅私当千()》・《滅私奉公》。木崎原では大口の兵を率いて駆け付け、忠平(義弘)とのコンタクトが取れない中進んで戦いの焦点に位置した《滅私当千()》・《滅私奉公》・《主従一心》。この頃忠元は大口の兵を率い転戦に次ぐ転戦をし、成果を挙げている。郷中教育を工夫し、郷士の動員・錬成・掌握を確実に行った。

5、 近郷軍(援隊)の意味するもの  

 西藩野史では詳しく触れていないが、木崎原合戦跡表示板(えびの市)では応援に駆け付けた近郷軍を表示している。近郷軍は吉松・馬関田・吉田援隊、菱刈援隊、大口掩体の3種があり、烽火等の逓伝によりそれぞれの地頭(菱刈は、薩摩守義虎配下の城主の誰か?)が率いて駆け付け、戦いの状況を自分の目で見て、進んで戦った。吉松・馬関田・吉田援隊は加久藤軍と共に川南屯中の敵を攻めた。菱刈援隊はこれに遅れて加わった。大口軍は地頭新納忠元が指揮し、木崎原の後方野間門を攻めた。加久藤城主・栗野地頭の川上忠智は栗野の兵を、馬越地頭の鎌田政年は馬越の兵を率い、忠平(義弘)の直接配下で戦った。

 兵が駆け付け、進んで戦う姿から地頭が平素の動員・訓練責任を果たしていることが見てとれる。その地頭等は手塩にかけた兵を指揮して戦うがその態様は命・任により多様であり、援隊スタイルと川上忠智・鎌田成年の城番スタイルに分かれる。

 以上から忠良由来の外城・地頭制は深化している。即ち太守への直結と在地勢力の活用という本来の狙いが追求され、地域作戦主宰者忠平(義弘)の下で近傍地頭の連携も実を挙げている。新納忠元はじめ地頭が指揮する援隊は進んで戦ったがこれは外城・地頭制の教育・訓練が機能している表れと考えられる。その教育訓練も麓郷毎に、島津藩の軍制の最小単位である五人組・十人組を編成し、使命感や規律心、連帯・自立心を養い、いろは歌を根幹として郷中教育と連接・整合、特に二才や長老のお城務めのある者について、を図ったであろう。
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