(補展稿)福島泰蔵大尉に学ぶ武人の心―連綿と続く顧みずの心

始めに
本稿(補展稿に比し)で「顧みずの心」、つまり役割・使命・任務・責務等を果たすことに、命を懸けて、専心する心と部下を死地に投じる指揮官として「最善を尽くす心」、つまりその責めの重さや死地に投じられる兵の命の重さを深く自覚し、兵の命を護るために最善を尽くす心を両立できる武人を「伴緒由縁の武人」(の系譜)と(第4章第1節で)規定したが、書いている途中で、統べる者として兵の無念に向き合うことについて、何度も書いていることに気づいた。そして今、この気づきは (自分の命令で亡くなった)兵を弔う、という、統べる立場にある武人の心の在り様へと向かっている。

 日本会議唐津支部での講演の翌日、(令和元年)69日訪れた名護屋山大乗寺(佐賀県唐津市)縁起に、加藤清正は同寺を建立し、出征に先立ち怨敵降伏を祈願し、慶長の役後に戦死者を弔った、とあった。丁度武人旅の胸付八丁で、このであい!と胸がときめいた。この件はブログ・福島泰蔵大尉の実行力を訪ねて・よろく旅、福島大尉が漢詩で読んだ武将達についてその心の重なりように現地などで思いを巡らす旅である、で清正を取り上げた際は気づかなかったことである。またブログ・同・よろく旅で坂上田村麻呂を取り上げた際、律令制後初めて、武人として、征夷大将軍を確とした田村麻呂が清水寺(京都)を建立し、蝦夷征討に向かった、とあること(そして当然戦後の弔いもあるはず)を承知した。そしてこの二人の寺の建立や弔いは単なる信仰心や弔いに止まらず、統べる者として、兵を死地に投じる自分の責めや兵の命の重さを深く自覚して最善を尽くしたか、を自らに問いかけるものであったに違いない、と思っている。その思いを深堀したい。有名・無名の統べる者の多くが有形・無形に兵の弔いを行っているであろうが、偶々、私が承知することになった上記二人との奇縁に導かれるままに歩みを伴にしたいと思う。

(補展)第7章 加藤清正

1節 慶長の役・蔚山城の戦い
清正が兵を弔いたい、と思う上で、最も心が痛んだのは上記戦いであったろう。顧みずの心も統べる者として兵の命を護るために最善を尽くす心も尽くした上で、尚、最善を尽くし切れなかった、という点に、良く戦って戦場に散った兵への感謝と共に、兵の無念を感じたであろうし、その分省みる余地が大きかった、であろう、から。

到る経緯の概要
 
文禄の役に続く、秀吉が激怒した和議不調に伴う再征は慶長2年(1597221日に発表され、一番隊は加藤清正(10000)2番隊は小西行長(14700)以下8番隊、このうちに6番隊の水軍と釜山城・加徳城の残置守備隊を含み、総勢141490。これに先立ち、清正は西生浦城、鍋島直茂は竹島城に、続いて行長も熊川城に入り、準備に着手、全軍の渡海終了は6月頃。6月上旬、左右両軍を以て、朝鮮を屈服させるため(まだ武威を示していない)全羅・忠清2道を攻略すべし、左軍の将宇喜多秀家、先鋒小西行長、右軍の将毛利秀元、先鋒加藤清正、との太閤秀吉の命を受け、7月下旬から10月中旬にかけて出撃し内地との連絡に便利な沿岸の根拠地に引き上げ、築城に着手した。このうち蔚山(加藤清正)・泗川(島津義弘)・順天(小西行長)の3城が最も重要な基地で、明・朝鮮側は倭の3窟と名付けていた。日本軍の上陸を承知していた明軍の本格参入はこの年12月であった。
  慶長21222日、3城のうち最右翼に位置した蔚山城、未だ未完成、は突如、明軍57000、朝鮮軍12500の大軍に包囲された。蔚山城は南を大和江に面し、東・北・西の3正面に天然の要害があり、これに外郭(1400間(2500m)余の土塁と木柵)と内城(延長760余間(1370m)の石垣)を設けていた。西生浦城と共に加藤清正の持ち城であった。

救援のため清正蔚山入城
 このとき清正は6里(24km)離れた西生浦城にいたが、急を聞いて駆けつけ、夜9時ごろ城に入った。この模様を主に清正公記(中村事、明治422月発行、国会図書館蔵)(註)、に(大意)拠ると(丸数字は筆者)。

 一刻の猶予もなし、直ちに早船を出し蔚山へ入城せんと触れだされた。これに対し、老党の面々は諫める。軍勢の3分の1は蔚山にあり、今半分をこの陣(西生浦)に留めると、お手元に従う兵は3分の1に過ぎず、敵は100万の大軍で如何に勇猛でも危うい危うい。諸将の来援を待ち大軍にて後詰なさるべし。公曰く「①蔚山の城は清正が持ち分で、清兵衛(加藤清兵衛のこと、清正が若干16歳で200石取になった時に召し抱えた竹馬の友)以下を籠らせている。後日(救援が)遅れて落城せば弓矢の瑕瑾、恥辱は一命よりも重い。②のみならず蔚山に籠城せる勇士は清正と共に今日まで生死の境に往来した者、情において我が子も同様である、その火急を聞いて便々時日を過ごさるべきか、③特に敵軍今は押し寄せて間もなく、陣屋の要害未だ十分ではあるまい、この時を失わば大軍にても近づき難かるべし。危うきを冒すはこの故なり」と。老党の面々は「哀れ今は何をか申すべき、我等の朋輩を救わんとて、君には万死を冒して進まんとのたまうぞや、いづれもこの君のご馬前に死してご恩に報い奉れよ」と呼ばわれば、士率涙を奮って勇み立つ。清正いたく喜び「今日の一戦日頃の戦と同じからず、ただ一概に城に入るを心掛けよ、左右を顧みず、真一文字に進め、敵を討つとも首をとって暇取るな」とげきを飛ばし、数十雙の早舟にうち乗り蔚山に向かわせ給う。敵の軍船数百隻はただ目口を見開いて見送るのみで、難なく入城した。

 清正は配下の兵士の命を救うため、或いは見殺しにしないため、に間髪をおかず決断をした。統べる者としての責めの重さ、自分の命令で死地に投じた兵の命の重さの深い自覚のもとその命を護るために尽くした最善が危険を冒した上記入城である。そして、入城に当たり、左右を顧みず真一文字に進め、とこの戦い(入城)の目的を徹底する檄を飛ばす。この檄は単に左右を見るなではない。今まで述べてきた「顧みずの心」であり、無事に入城(増援)、という使命・任務を果たすことに専心する心の発露である。この局面は清正が「専心」と「最善」を両立させ、伴緒由来の武人の系譜に属する証左、と考える。

 大苦境だからこそ御大将がその現場に進出し、危険を冒して共に戦う、死なば諸共の情を示したことは、士気を高め、苦境に耐えて蔚山城を守り抜く原動力となった。敵をまえにして、部隊の垣根を越えて国のために共に戦う仲間という意識が前面にでて、窮地の仲間を救うため、配下の兵と同様に自らの危険を冒しても救援に赴くという行動が自然に行われた。

註:清正公記(法華行者)は公300年祭の明治422月、中村事が従来の武勇伝の域を脱し、公の法華行者等の内面に目を向け、埋没していた故実、言い伝えなどにも目を向け、学術に拘らず、整理収集したものである。そういう意味で内面に関する資料は乏しく困っていたので、事実と事実をつなぐ想像上一つの仮説、特に指揮者としての戦術判断などを学ぶ上での参考、と考えたので、この点に注目して関係事項を拾い出した。

蔚山城攻防戦と兵の無念への思及

 この時、城内の食糧は23日分を残すだけで、守城の準備はできて居なかった。明・鮮軍の攻撃は23日から開始され、外郭を破られ、この日だけで、660名の戦死者をだした。前日の外郭線の外の戦い、浅野幸長の物見の兵200名ばかりが釜山・蔚山間遮断中の敵大軍に残らず討たれ、これに怒った幸長がこの敵に討ち入りし、乱戦となり、これを救援し城内に収容するために守将加藤清兵衛が大木土佐らに500の手勢をつけ兵を出した戦い、で助けに来てくれる友軍のために460余名が戦死、以上を合わせると戦死は攻防開始初日ですでに1000名を越えるという激しいものであった。攻囲軍は連日多勢に物言わせ何時となく猛攻を加えたが、城兵は良く守り、損害を重ねさせた。一方城内では食料が欠乏し、攻囲軍に谷々の水をせき止められ水にも窮乏し、寒気にうたれて凍傷を起こし、凍死するものも少なくなかった。翌3年正月2日、遂に待望の援軍、毛利秀元・鍋島直茂・黒田長政らの軍勢13000名、が到着した。おどろいた攻囲軍はこの夜、夜襲を行ったが、失敗、翌朝攻撃を停止し、4日囲みを解いて、来援軍に後方を遮断されることを恐れ、慶州に退却し、さらに京城まで後退した。明軍の死者は20000名に、遺棄死体は10386を数えた。この年5月、蔚山城の修理がおわると、釜山、西生浦等の諸城守備65000を残し、他は帰国させた。

 先鋒として全羅道・忠清道攻撃に全力をあて、撤収も最後尾で、守城の準備は手薄にならざるを得なかった、と思われる。その準備不十分で命をおとした兵の無念。攻囲軍は自分の好きな時に攻撃できるが守兵は常に受け身で対応せざるを得ず、それに高所から打ちかける西洋砲に悩まされ、その中で命を落とした兵の無念。それに食べ物がない・水がない、凍傷・凍死の恐怖、暖国の兵は厳しい寒気に慣れておらず無防備に近かった、という3重苦が基で命を落とした兵の無念に清正は思いを寄せたであろう。そして統べる者としての責めの重さ、兵の命の重さについての深い自覚を甦らせ、最善を尽くすと誓ったに違いない。その思いが名護屋山大乗寺での弔い、となった。

明・鮮軍の大攻勢と築城力

 蔚山籠城を語ればそのご後の蔚山城での攻防を語らなければならない。明・鮮軍は9月に入り、日本軍3大拠点(蔚山・泗川・順天)に大攻勢をかけ、日本軍の一挙駆逐を図った。陸路は3路から各拠点を同時に攻撃させ、これに水軍を策応させた。蔚山に向かう東路軍(明軍24000・鮮軍5500は9月20日から攻撃開始、郭外におびき出す作戦を企図したが清正はその手に乗らず、敢闘、106日、泗川での大敗で、慶州に撤退。泗川に向かう中路軍(明軍13500、鮮軍2300)は928日、旧城を奪い、101日、新城を攻撃したが、島津の釣り野伏戦法に合い大敗、殲滅された。島津軍は斬首38700余という戦果を挙げ、朝鮮の役前後を通じ最大の損害を与えた。順天に向かう西路軍(明軍13600、鮮軍10000余)は919日、明・鮮水軍と呼応し攻撃開始、102日から水陸協力して総攻撃を行ったが、7日夜、陣地を徹し、水軍も9日海上封鎖を解いて去った。

 蔚山城(の築城)は明・鮮軍が全く手が出せない強固なものであった。このため明・鮮軍は誘い出しを図ったが清正はその手に乗らなかった。蔚山籠城戦の教訓・反省を活かした築城力への絶体の自信があった。地形を活用した地形改造&築城編成、土塁・石垣等個々の施設の障害としての強度、機動と射撃と掩護の連携、水源・食料の確保等築城技術力についての清正の識見は高かった。

2節 地震加藤

 前節、朝鮮・慶長の役に清正が名を連ねていたのはある意味奇跡だった。ひょっとしたら切腹してこの世にいなかったかもしれない運命を切り開いたのが慶長大地震(註)とその時の清正の働きだった。

註 この年は地震が各地で頻発し、慶長と改元された。 閏7月9日 - 伊予国で大地震、薬師寺の本堂や仁王門、鶴岡八幡宮が倒壊(慶長伊予地震)、 閏7月12日 - 豊後国で大地震と大津波、瓜生島が海中に没する(慶長豊後地震)、 閏7月12日から13日 - 畿内一円で大地震、伏見城や方広寺の大仏殿が倒壊(慶長伏見地震)

地震発生直後清正登城 

 慶長元年7月12日夜、大地震発生。二、三百年間、聞いたことがないほどの烈しい揺れ。五畿内全域に及ぶ広範囲に家屋は一戸残らず倒れ、死者も数知れず。この時清正は即行動開始、足軽・侍を引き連れ、伏見城・太閤の側へ急行。一番乗りであった。太閤は大庭に出て、幕屏風で囲った中に、大挑灯に照らされ、女装束で政所様・松の丸殿・高蔵主そのほかの上臈衆に交じって座っていた。が清正には声を掛けない。政所様からの数々の質問に、清正は答える。それを側で聞いていた高蔵主は太閤へ言上した。文禄の役での清正の数々の貢献・手柄については考慮されず、小西行長が同じく文禄の役で清正に後れをとり表裏を申し上げたことは聞かれ、和平の不都合は承知されず、石田光成と仲が悪い為受けた讒言を誠と思われ、今切腹すべし、と高麗から呼び戻され、蟄居を命じられたと。

清正後日の申し開き

 後日、政所様からの使いが清正のもとへ。清正の勘気は溶けたが召し直しの儀は世間の手前もあり、家康・利家のとりなしをもって太閤御前に出座のこと。不届きの2点,①小西程の者を境の浦の町人と云ったこと。②許してもないのに勝手に豊臣朝臣などと北京への勅答に書いた事について委細申し上げよとの御意が示された。登城した清正は謹んで家康・利家の方を向いて答える。

 ①について行長の軍は明国軍40万の勢いにおされ、1戦にも及ばず、武器を捨て、釜山浦迄逃散し、日本人がいない地域を多く作ってしまった。行長は宗対馬の守の縁者、大明国への案内者で堺の浦の商人であり、逃げたのは仕方がない。行長を大将とすると日本が侮られる。従って本大将ではない、私が大将だと言った。②について豊臣と書いたことは我等は4つや5つのころより親に離れ候へば氏をも調べる機会を持たず、日本太閤か本武将と言ったのは私である。明・朝鮮40万を自分の方に引き付け、切り崩し、大明国迄攻め入らんが為であった。③休戦の交渉や生け捕りにした朝鮮王子と美女の扱いの交渉を行長は誤っていたので、日本を飾り小西を悪しく言った。朝鮮王子は太閤に伺わず返すことは出来ない。

 聞き終わった太閤は「涙を流され扨々太閤に能く似たる物かな。彼が後追いの時より我が膝の上にて育ち我等が計り事を能く見置、其の儘にせたる物かな。我等為には近き親類也。去れども余り荒者にて人柄かいを小さきときよりしつけ親子名乗りを不致と。」家康・利家に「豊臣氏改むべし」との上意を仰せ付けらる。(以上清正記から、丸数字筆者)

まとめ 清正の伴緒由縁の心

 蔚山城が明・鮮の大軍に急襲され包囲された時の清正の救援のため入城するという決断に配下の兵を救いたい、拱手して見殺しには出来ないという統べる者としてその任の重さや兵の命の重さに対する深い自覚のもと最善を尽くす心と本行為の意義は海上での戦いではなく、入城しての加勢にあると、只管漕ぎいることに専心した横をも顧みない心の両立の極地を観る。そしてこれは今まで述べてきた伴緒由縁の武人の心と重なる。

 補展旅を私は武将清正が名護也山大乗寺(開基清正、開山白儀聖人)を建立したのは単なる信仰心の篤さだけではなく、統べる者としての深い自覚があるはずであり、その自覚は蔚山城の戦いに示されているはず、という所から始めた。そのことは冒頭でのべた通りであるがその思いを確かめるべく、同寺の檀家総代田中武樹氏(桜の会・会長)を通じ、住職のお話をお聞きかせ頂くよう依頼したところ、1010日にその運びとなった。久保田智雄住職にはお忙しいにも関わらずお時間を割いて頂き、「清正公大神祇」について、貴重なお話を伺った。さらに山号「名護也山」と寺号「大乗寺」名づけの証である寺宝の題字旗「南無妙法蓮華経(血染の軍旗)」と「軍礼状(真筆、木版彫り)」拝観の栄に預かり、大感激した。なかでも題字旗の血書に兵の命を護る決死の覚悟とその迫力を感じた。

 清正公記では蔚山城入城の際に、「船頭(へさき)に南無妙法蓮華経の大旗を押し立てたる下に、」と記述してあることから、その時のままにその決死の気分を今に残していると感じた。軍礼状は至極残念であるが解読不能で、今後の課題としたい。しかしこの寺建立に掛ける清正の本気を今に伝えていると感じた。お陰様で想像に過ぎなかった思いを確信に変えることが出来た。思い巡らし旅の最高の喜悦である。関係された皆様へ大感謝すると共に同寺及び唐津市に幸多からんことを祈るばかりである。

 (参考)福島大尉は八甲田山雪中行軍の最も厳しい露営の最中に厳しい戦いであった蔚山城の加藤 清正を思っている。兵を思うということで繋がっている、と言えよう。①「(前略)慶長2年2月加藤清正の再ひ朝鮮に入るや朔北の風雪甚だしき為めに土穴を穿ち寒を防ぎし例証(以下略)」②「附記す雪中行軍及ひ露営に在て四肢の凍凝は最も恐るべき者なりと雖も尚一の恐るべきは眼目の昏鳴に在り酷寒の際空腹なる時は先づ眼目の視力を減じ次第に眩暈を帰来して倒る。加藤清正の朔雪中土居せし時も将士多く雀目を患いたると云ふ」(以上、八甲田山雪中行軍実施報告第十一雪中露営の状態)

 (補展)第8章 坂上田村麻呂

1節 清水寺建立の発端

 田村麻呂は清水寺を建立した。その縁起には諸説あるようだが、鹿狩りに音羽山を訪れた武人、坂上田村麻呂が音羽の瀧で修行中の賢心と出会い、賢心に殺生を戒められ、その教えに深く感銘を受けたのが始まりという。賢心の教えに反応する田村麻呂の心の中に、殺傷を官とする武門坂上氏の嫡男として、戦いで命を落とした兵への弔いの気持ち、敵味方を問わず、があったであろうし、更に深いところでは統べる者として兵を死地に投じる責めの重さや死地に投じられる兵の命の重さへの深い自覚と最善を尽くしたかを自問する心があったに違いない。とは言いながら今までに私が知る限り戦いに関する資料は乏しく、新しい発見がない限り、この面からのアプローチは難しい。従って私財をなげうって清水寺建立するという奥深い心に注目して、その武人像を掘り下げ、伴緒由縁の武人の系譜に加わるものを見つけたい。しかし、坂上田村麻呂(高橋崇、吉川弘文館)を読み進めると「征夷で田村麻呂が難敵を武略で、その勇気で討伐した、と大きく評価することは当を得ないではないか、と思う。結局は、長い征討の歴史のいわば最後に登場し、征夷の英雄という名声・評価を本人が好むと好まざるとに拘らず独占してしまうことになったのである。そういう意味でいえば、じつに好機に登場した田村麻呂であったということもできるのではないだろうか。(著述要旨抜粋)」に出会い、全く同感であるが、私はここで止まるわけにはゆかない。何故好機に登場でき、力を発揮できた、のか、について武人を学ぶという切り口で思いを巡らすこととしたい。

2節 田村麻呂誕生以前の武門坂上氏

 坂上田村麻呂は天平宝字2年(758)生まれ、と言われている。父刈田麻呂31歳の時の子、祖父は犬養、曾祖父は大国、高祖父は老。坂上氏は古くに帰化し、倭漢氏から分かれた氏族で家は世々武を尚び、業を伝え相伝えて絶えずと武門の誉れが高く、天皇の信頼厚き家柄であった。特にその信頼は犬養の代に到って顕著となった。その犬養の祖父老の死,文武天皇3年(69958日、に際し、天皇は以下の詔を下した。

「汝、坂上忌寸老、壬申の年の軍役に、一生を顧みずして、社稷(国家)の急(あやうき)に赴き、万死を出でて国家の難を冒す。・・略・・冥路を慰めんことを思う。宜しく直広壱(正4位下に相当する高位・貴族の地位)を贈り兼ねて物を賜うべし」

 この詔は役割や使命を果たすことに専心することが尽くすことという老の心を天皇がしっかり受け止め、深く信任して、その冥路を天皇が慰めたいとの思いを込めている。ここで一生を顧みずして、社稷(国家)の急(あやうき)に赴き、万死を出でて国家の難を冒す、とは今まで述べてきた役割や使命を果たすことに専心することそのものであり、「顧みずの心」である。従って、坂上氏は「顧みずの心」を代々伝え続けて老の代で顕われたものであり、天皇が認めるこの心を強く伝える決意を新たにしたであろうし、田村麻呂も受け継いだ、と考える。

曾祖父犬養は天平8128日に正6位上から外従5位下に55歳で昇進した。これは坂上氏が「外位」という位階を持つ中下級の貴族又は地方豪族と位置付けられており、位階昇進に際し通らなければならないコースであった。この先は内5位に進むのは狭き門で、外5位で衛府などの下級武官で終わる運命、と言える境遇にあった。ところがこれから急昇進、天平2017日には67歳で従4位下に昇り左衛士督、勝宝8(756)聖武上皇崩じ、山稜を護ることを乞い孝謙天皇これを嘉として許し、正4位上を授け、翌年兼造東大寺長官となし、83歳で没す。坂上氏は犬養の代で「外位」としての地位を脱し、政界に確実な地歩を占めた。栄進は聖武天皇の目に留まり、武才を以てその役割を果たし、その信任を得たことによる。左衛士督という天皇を直接護り、仏教による国作りの象徴である造東大寺の長官を命ぜられるという篤い信頼を得た。犬養の後半生、地位があがるにつれ、大伴家持のところで述べたが、政変に見舞われたが、巻き込まれなかった。これは橘奈良麻呂の乱で、奈良麻呂側から味方ではないが敵に回してはいけない人物とマークされ実行間に隔離される対象とされる一方、左衛士督として、中納言藤原永手と共に左大臣藤原豊成の邸宅に赴き、長男乙縄が一味加担したかどで捕縛に当たった、ことによく表れている。これは本来の武才を磨き、聖武天皇の信を愈々篤いものとした。邪に与せず武を以て国家に仕える臣の道を踏み外さなかった、からであり、この道は代を経て田村麻呂に受け継がれた、であろう。

3節 田村麻呂誕生から出仕の頃

 藤原仲麻呂変じて大師(太政官)恵美押勝は光明皇太后が天平宝字4(760)に崩じて後ろ盾を失い、孝謙上皇は道鏡を寵愛し、孝謙上皇と淳仁天皇・押勝の対立は抜き差しならなくなり、追い詰められた押勝は天平宝字8年(7649月道鏡排斥の乱を起こす。父授刀少尉刈田麻呂は上皇に命じられ、出動し鎮圧に一役買う。刈田麻呂は正6位上から、一躍中衛府少将従4位下となる。37歳、父犬養が67歳で昇った位階に並んだ。宝亀元年(770)84日称徳天皇崩御、同月21日道鏡の奸計を告げ、正4位下を授けられる。邪を見逃さず武臣の道を踏み外さなかった。田村麻呂13歳。田村麻呂は父の背中をみて武臣の道の何たるかを体感したに違いない。

 同年916日、刈田麻呂陸奥鎮守将軍に任ぜられ、多賀城赴任。田村麻呂15歳。刈田麻呂は僅か半年で呼び戻される。少年田村麻呂が同行したか否かは定かではないが、陸奥、蝦夷の動向には人一倍強い関心を抱いたはず。

 天応元年(78146日、光仁天皇は山部親王に譲位し、桓武天皇が即位した。その即位の宣命発布に際し、正⒋位上となり、丹波守兼任のまま右衛士督となり、父犬養と肩を並べた。刈田麻呂54歳。田村麻呂も父がその父と並んだ姿に倣い、父に並ぶとひそかに研鑽を誓ったに違いない。

 延歴元年(782)年氷上川継の謀反事件発生、その波紋が刈田麻呂におよび右衛士督を解任されたが、4ケ月後に返り咲く。この時大伴家持も解官された。田村麻呂は地位が上がるにつれ藤原の権謀や反権謀の謀に巻き込まれる恐れが大きくなるということを父の背中で実感し、その処し方について深く考えるところがあったに違いない。

 宝亀11年(781)田村麻呂は近衛府の将監(4等官の3番目の判官、現場指揮官クラス)となる。父・祖父・高祖父と同様武官からの出仕であった。

4節 出仕から征夷大将軍まで

 田村麻呂の歩みは陸奥の征夷の歩みである。桓武朝での3次の征討を主に眺めて田村麻呂の活躍・成長を辿りたい。

宝亀11年の征討

 田村麻呂が将監として出仕した宝亀11322日、伊治公砦麻呂が、按察使(もともとは国司を監督する立場であったが転じて陸奥・出羽国の最高執行責任者)紀広純・陸奥国牡鹿郡大領(長官)道嶋大楯等を伊治城で殺害し、その余勢?としての蝦夷の加担などにより鎮守府多賀城が炎上し蓄えていた軍需品・武器等が跡形もなく略奪される、という大事件が発生した。328日・29日征東軍首脳が発表され、4月征討に赴いた征東副使兼陸奥守、大伴益立は成果を挙げられず。9月持節征東大使は藤原継縄(文官)から藤原小黒丸(文官)に代わり征討に向かう。数万の軍勢を有していた征東現地軍は一向に動かず10月には「今年は征討すべからず」と報告する有様であった。小黒麻呂は益楯の陸奥按察使を兼務することとなり、この間に、光仁天皇譲位、桓武天皇即位(天応と改元、4)し、(そのどさくさ?にまぎれ)、8月、小黒麻呂は征夷を終え「征伐こと畢りて入朝」と、委細構わず帰京、節刀返納まえに征東軍を解散したらしい。小黒麻呂は征討に関しさしたる手柄もないまま位3階昇り正3位、もう一人の副使紀古佐美は消息が伝わらないが従4位下へ。大伴益楯は出発に際し、賜った従4位下を「しばしば征期を謝って逗留して進まず」とはく奪された。おっとり刀の征東軍派遣で、準備不十分は歴然であった。胆沢を得れば陸奥出羽の安泰これにすぐることなしと言いながらそのための情報が不足し進士を募らなければならない軍の足元が脆弱であったこと及び兵糧・武器等並びに更なる奥地への推進手段等が不十分であったこと、が失敗の因として挙げられる。また多賀城の原状回復が先か胆沢とその先の奥地への進軍が先か、という征討の目的の不統一等があった。益楯一人が孤立し責任を負わされたが中央は現地情勢の分析と見通しがないままに勢いに任せて派遣しいたずらに現地軍を督促するばかりであったこと及び征東大使小黒麻呂の(文官)官僚としての保身優先としか言いようのない振る舞いを考えると益楯には酷であった、と私は考える。この衝撃の事件と征夷の不首尾に国家は本気の征討を進めるため、圧倒的軍事力投入、軍の精強化、適任の首脳人選等を痛感した。

桓武朝1回目の征討

 征夷の計画は前回の反省を踏まえ、延歴3年(784)早々策定され、211月大伴弟麻呂が征東副将軍を兼任。32月、陸奥按察使・鎮守将軍大伴家持が持節征東大使に命ぜられた。ここに家持は律令制の新国家の軍制に相応しい働き場、待ちに待った機会を手に入れた。これからが正念場と思ったであろう。しかし、829日家持は陸奥の国で死去し、923日の藤原種継(平安京遷都の責任者)暗殺の首謀者とされ、解官の憂き目にあった。こうして家持の征討は実現せず。

 国家は26月、坂東諸国からの徴兵について従前は弱く戦争に耐えないので、と軍士の適任者の選抜や国ごとの割り当て数及びその錬成は国司の責任であることを定め、国郡司の綱紀粛清に着手した。兵の質の低下と幹部の綱紀厳正を反省事項と捉えたからであった。延歴4年には多治比宇美を陸奥守・陸奥按察使兼鎮守将軍に就任させている。

 翌5年、国家は征夷のため、佐伯葛城を東海道、紀楫長を東山道に派遣し準備にかかり、7年(780)、先ず321日副使4名が発令され、7月、57歳の紀古佐美が征東大使(大将軍)に任命された。前回の征討から、想定を超える事態に文官に大将軍が務まるか(或いは文官が忌避した)、との危惧を持ち、武官を充てるという方針に変更したが難航した故であった、と思われる。坂東諸国及び東海・東山・北陸3道の国々に対し兵糧を今年7月以前に陸奥国へ搬入すること、東海・東山道諸国と坂東諸国に対し、52800余を多賀城に来年3月までに集結させること及び征討は延歴83月以降、と勅した。

 7127日、征東大将軍古佐美は節刀を賜り、且つ勅書も賜った。この勅書で前回の反省を踏まえて大将のみが発し得る、軍令に従わない部下に対し、死罪以下の専決権を与えた。古佐美はその場から征夷に出発。翌年3月、「諸国の軍多賀城に会し、道を分けて賊地(胆沢)に入る」がそこで(衣川付近)で滞陣したまま動かず、中央から督促され、5月末になって胆沢の賊すべて河東に集まる、との情報を得て、進軍開始、前軍と左中軍・右後軍に別れ衣川を渡河し、その後全軍の合流を企図したが、前軍は賊の為進み渡ることが出来ず。左中軍・右後軍は前面に敵を受け、新手の賊も加わり、やや退いたところ、更に新手の賊が東山(北上川東岸の江刺・磐井郡の山地)から出て、わが背後を絶たれ、大敗してしまう。その後挽回ならず奥地(志和城など)への進軍も留まることも良策ではなく、臣等議して、現地での軍解散しかない、と決し、前回並みの結果に終わった。衣川での戦いで戦死25(別将1名、中堅幹部多数)、負傷245名、溺死1036名、裸身で逃げ帰ったもの1257名という大損害、賊の損害はすべての住居焼亡14村、宅800軒、賊首斬獲89であった。国家(天皇)は古佐美について「元の謀に合順(あいしたがわ)ず。進入(すすみい)るべき奥地を究め尽くさずして、軍を敗り、糧を費やして還参来(かえりまいき)つ」と述べ副将軍等について「その道の副将軍等計策の失するところなり」と断じている。翌年98日、古佐美は敗績して帰京、節刀を返上後、「征東将軍等逗留して敗軍するの状」について勘問を受けた。国家はその施策に準備の周到や基盤の整備等前進が見られたが、征東首脳陣は大将のみが発し得る権限の行使を真剣に考えず、関わった全ての者が征夷に積極的でなく無策であった、との思いを滲ませた。賊軍の高度な組織化に対する情報の不備、大使決定が副使の後という首脳人選の不手際及び征討軍と国司の連携不十分を反省し、大将軍以下本当に託せる人材を選び、その道を極めさせると共にその言を用い。且つ準備期間を与え相互の連携が図れるよう意を用いるべし、との結論に到った。

 
 延歴6年田村麻呂は近衛少将(4等官の上から2番目次官に相当する位)となり、今回の征討に関し、天皇の「その道を究めよ」に田村麻呂の武の名門としての矜持や賢さは大いに刺激され、以下の点を己に問いかけたに違いない。

 1つ、作戦を副将軍入間広成・左中軍別将(別動部隊長)池田真枚・前軍別将安倍猨嶋墨縄等の合議で決め、解散も合議できめたが、非常の決断は合議に馴染まない。その責任・権限を有する一人の決断で為されなければならない。だからこそ将軍はその重さに耐え道を究めなければならないのだ。

 2つ、適時適切な決断と命令により部隊を意のごとく動かすこと、についての意識がない。この点からいえば①衣川にとどまり続け賊に対応の暇を与えたこと(戦機を逃したこと)。②全軍を3ケに分け、遠く離れて2ケ所から渡河し、且つ前後左右分離という弱点を抱え、各個撃破の機会を提供したことをその道のプロして強烈に反省しなければならない。③今回の兵は進士であり、坂東諸国の重い負担の中での振り絞った貴兵である。貴兵を合議という責任者不在で、しかも計策の誤りで失うことは国家の無念であり、兵個人も無念であろう。この無念は誰が受け止めるのか。自分の命令で死地に投じるという深い自覚を持ち最善を尽くすと誓ったうえでの戦いでなければ浮かばれない。無念の兵をださないことが道を究めることなのだ。

桓武朝2回目の征討

 国家は延歴9(790)3月、東海道諸国及び東山道諸国に革甲等の武具2000作成及び軍糧14万斛(こく、1斛は10斗)の乾備を命じ、蝦夷征討に着手した。革甲の作成を3ケ年と限っていることから延歴12年以降の征討を考えていた。更に延歴103月、右大臣以下5位以上に甲を作ること、6月には鉄甲3000を諸国に,10月には東海・東山2道諸国に征箭(や、矢のこと)34100余の製作を命じた。兵士の動員は10年1月から具体化、軍士簡閲と戎具点検のため百済俊哲と田村麻呂が東海道、藤原真鷲が東山道に派遣された。動員数は10万余。同年7月、首脳人事を発表。征夷大使:従4位下大伴弟麻呂、副使:正5位上百済俊哲、従5位上多治比浜成、従5位下坂上田村麻呂、従5位下巨勢野足。

首脳部の人選の充実

 前々回はおっとり刀の編成であった。大使藤原継縄は行政官・高級武官としてのキャリアは十分で大使としての形式上の資格は十分であったが、実戦経験がなくまして実兵感覚もないうえ現地に赴かず、戦うという現実から逃げに終始して、罷免された。後を継いだ小黒麻呂もまた継縄同様のキャリアで、征討という本来の任務達成とは程遠い形で、光仁天皇譲位のどさくさに紛れ、益楯一人に責任を負わせて幕を引いた。副使大伴益楯は征討をけん引する実質的中心武官としての使命を果たさ(あるいは果たせ)なかった。もう一人の副使紀古佐美は大使の意向に流された。要するに武の行使の先頭に立つ、という基本的心構えにかけた者を大使・副使に据えるという人選の誤りで、副使が力を発揮する状況にはなかった。
 
 前回(1回目)は国家として準備の余裕を持ち、首脳部の適任者の人選に留意したが、難航した。その故か副使が先ず決まりその後大使を決めた。前々回の失敗、無条件で参議(相当)から選ぶ、については反省し、或いは文官の方で避けたという方が適切かもしれないが、副使経験をかい、且つ参議(相当)という理由で紀古佐美に決まったが、すでにみたように、大使の意向に流されたこと小黒麻呂のさしたる手柄もないのに3階級昇進にあずかった4位下昇進であった点で有資格者とされたことには疑問符をつけざるを得ない。衣川(巣伏)の戦いで部下将軍の合議に任せ、進まず、叱責されて進んで大敗を喫し、先見と決断力のなさを露呈した。

 そして今回の首脳部の人選で国家は更に適任者選びを徹底した。大使大伴弟麻呂については、延暦2年(783年)征東副将軍(征夷未実施)の経験をかい、征夷大使に叙任時(延暦10年(791年))従四位下に昇階させた。適任者を参議(相当)にするという人物本位の起用であった。大伴弟麻呂が征夷大使・従4位下となったのは61才の時である。父古慈悲が天平宝字元年(757年)橘奈良麻呂の乱に連座して任国である土佐国への流罪となり、宝亀元年(770年)光仁天皇の即位後まもなく罪を赦されて本位である従四位上に復位したが、その父の流罪が許されるまでの昇進は遅く、その後累進したがその間の逆境に耐えた誠実な奉公ぶりから、苦労人大将軍としての器量特に包容力そして政治力や武才がかわれた。

 今回は大使を早い段階で決め、その意向に添って副使4名を選んだと思われる。その時期は百済俊哲が軍士簡閲の為東海道に派遣される頃、日向権介の左遷を許される延暦9年(790年)より以前であろう。国家は何としても征夷の成功を弟麻呂に託し、託す以上は万全の態勢作りのサポートを約したに違いない。

弟麻呂の3つの信念

 1つ、前回の敗戦に関する失態は、天皇の叱責、「その道を極めるべき武人として計策の誤り」通りであり、当事者の、というよりは武を以て国家に尽くす武人全体のゆるみである。ために、武門の壁を越えて、切磋琢磨しなければならない。

 2つ、1項に当たっては持節征東将軍に到りながら無念の死を遂げた大伴家持の「顧みずの心」、特に伴緒由縁の武の心を引き継ぐべきである。弟麻呂は家持との3つの縁、副使で仕え・征討大使を引き継ぎ・大伴の祖を同じくする者として、考えたであろう。「顧みずの心」とは、征討の役割を果たすことに専心する心であり、これに統べる者として衣川で水没したり矢・刀傷で死亡した兵の無念を自分のこととして受け止め二度と無念を出さないと最善を尽くす心の二つを両立させねばならない。

 3つ、武人が前面に出る征夷で律令制国家を新たな高みへ到らせる時である。宝亀11年の征夷は理不尽であった。大使継縄(文官)は戦いから逃げて現場進出しなかったし、次の大使小黒丸(文官)は天皇譲位のどさくさに紛れ、益楯一人に責めを負わせて、幕引きを優先した。我々は武人として胆沢安定に繋がる征夷完遂に命を懸けねばならない。以上3点を考慮して、副使以下の要員を選んだであろう。

 そして、副使には以下の4名を挙げ、理由を述べたに違いない。

副使4名の人選について

 百済俊哲は宝亀6年(775)大伴駿河麻呂、宝亀11年藤原小黒麻呂に従った征夷の経験特に宝亀11年では弓矢尽き蝦夷に囲まれて絶体絶命の戦いでも神仏の加護を得て勝利を得たという、天佑神助運を重視したこと。及び延暦6年(787年)何らかの事件に連座し日向権介に左遷されるが、延暦9年(790年)赦免され入京を許された。その武官としての才を惜しんで弟麻呂が動いたようだ。

 多治比浜成は前回(1回目、延歴8年)副使として参加、衣川(巣伏の戦い)では勇敢に戦い賊を撃破、奥地を侵略した唯一の勝将軍としての経験をかったこと。

 巨勢野足は延暦8年(789年)以来、陸奥鎮守副将軍であり現地情勢に詳しいこと。

 そして、坂上田村麻呂は実戦経験はなく、未だ年齢も34才と、その実力は未知数であったが、近衛での勤務ぶりから、実兵感覚は十分にあり大部隊を率いる素質十分と弟麻呂は看て、どうしても副使にしたい、最も期待した男であった。

 今首脳陣には目に見えない血脈レベルの連帯の気分があり、国家の一大事でその連帯は益々深くなった。弟麻呂の父古慈悲は天平宝字元年(757年)橘奈良麻呂の乱に連座して、土佐国への流罪となり、多治比浜成の父国人も平城京に召喚されて尋問を受け、結局伊豆国への流罪となった。宝亀元年(770年)光仁天皇の即位後まもなく罪を赦されて本位に復位したが許されるまでの間、無実を信じ、権謀を怒り、苦節の時を過ごした。田村麻呂の父刈田麻呂と巨勢野足の父苗麻呂は橘奈良麻呂の乱に際し、加茂角足の自邸の酒宴に招かれた。勇武に優れた武人で、反乱時に敵側へ加勢することを抑止するためであった。巨勢野足の祖父堺麻呂は同事件において、薬の処方を受けるために答本忠節の邸宅を訪ねた際に、大伴古麻呂や小野東人が反乱を計画していること、この計画を知った忠節が右大臣・藤原豊成に報告を行っているとの情報を得て、これを孝謙天皇に密かに上奏し、功を立てる。田村麻呂の父刈田麻呂と大伴家持は延暦元年(782年)正月氷上川継の乱に連座して解官されたが同年5月には復職している。刈田麻呂は宝亀元年(770年)称徳天皇が崩御し光仁天皇が即位すると、道鏡の姦計を告げて、その排斥に功を挙げた。以上を通じ、皇統に反というか軽挙というかの私心に与しない、見過ごさないで忠を尽くす武の心という芯を共有していた。武門を越えて使命達成の連帯意識を共有し切磋琢磨する上司・同僚を得て、田村麻呂は過去の戦例を自分のこととして学び、弟麻呂以下の言を自らの言とし、自らの言を全体の言とする明智を発揮し、中心的役割を果たした。

 国家は、賊地の懐柔策と武力行使の準備を並行して進めた。懸案であった兵士の質の向上を図り、延歴11年、従来の兵士を一切廃止し、郡司の子弟等に礎を置く健児(こんでい)という兵制を採用し、国別に割り当てた。田村麻呂の意見具申であったろうと思う。また名称を延歴122月、「征東大使」を「征夷大使」とし、さらに「征夷大将軍」と改めた。胆沢の蝦夷が征討目標である、と明確にした。

 延歴11年閏11月征東大使弟麻呂辞見(天皇に挨拶すること)、翌122月、征夷副使近衛少将田村麻呂辞見、とあり、じ前調査のための陸奥出張或いは準備状況の(御下問等)報告若しくは意見具申等であろう。意見具申と挙げたのは、延歴16年(797)、壬申の乱での刈田麻呂下功、道嶋嶋足大功とあったのを共に下功と改めたこと、延歴24年(805)私寺である清水寺の領地を賜ったこと、弘仁元年(810)清水寺に印を賜ったこと等に意見具申があったと思うこと。延歴21年(803)降伏した阿弖流為・盤具母礼の助命を乞うたこと及び弘仁元年上皇の東国入りを阻止するため派遣された際文室綿麻呂の冤罪を注ぎ同行を申し出たこと等大事だと考えることを臆せず申す事例が多々あるからである。

 延歴131月、征夷大将軍弟麻呂は節刀を賜い征討に出発。そして613日、「征東副将軍坂上大宿禰田村麿已下蝦夷を征す」(『類聚国史』)。1028日大伴弟麻呂戦勝を奏する。457級斬首、150人を捕虜、馬85匹を獲、75処を焼き落とす。翌延歴14129日大伴弟麻呂凱旋、とある。他に様子を窺わせる資料はない。

 これだけの記述ではあるが、辞見から現地事前調査?であれば弟麻呂に田村麻呂が追及したこと、或いは準備状況(御下問)報告並びに意見具申等であればその連携に、弟麻呂は田村麻呂を信頼し、重きを置いていること。4名の副使の中で田村麻呂のみが辞見をしていること及び成果に田村麻呂のみしるされていることから田村麻呂が中心的役割を果たしていることなかでも実戦の指揮を執り大きな成果をあげたこと、戦いの周辺への遠謀が的を得ていたこと、弟麻呂のねらいを副使全員が共有して体現し、田村麻呂は一目も二目も置かれていたことが十分推察される。

 上記弟麻呂と田村麻呂の緊密な関係を窺わせる資料(残念ながら出所未確認)があるので参考までに挙げておく。延暦10年(791年)従四位上・征夷大使に叙任されるが、延暦11年(792年)11月に一旦征夷大使の辞表を提出し、翌延暦12年(793年)2月には征夷副使・坂上田村麻呂も辞表を提出している。しかし、結局両方とも認められなかったらしい。

 桓武朝3回目の征討

 延暦15年(796年)125日に陸奥出羽按察使兼陸奥守に任命され、1027日に鎮守将軍も兼任すると、翌延暦16年(797年)115日には征夷大将軍に任じられ、東北全般の行政を指揮する官職を全て合わせた。国家はこれに拠り征討を進めるため政・軍を一元的に田村麻呂に握らせた。延暦17年(798年)閏524日に従四位上、延暦18年(799年)5月に近衛権中将となると、延暦19年(800年)116日に諸国に配した夷俘(完全に馴化していない蝦夷)を検校に出かけ、民政安定策の案出の資とした。

延暦20年(801年)214日に節刀を賜って、4万の軍勢、5人の軍監、32人の軍曹を率いて平安京より出征とある。この間の国家の準備はすべて田村麻呂が関与して、意見具申を活発に行い、意向を強く反映すると共に実行も指導する等、があったはずである。大きな特長が2つ。1つ、陸奥出羽を大宰府と同じような機構にして、対外的にはまつろわぬ蝦夷を討伐しつつ征地の拡大を、対内的には征地の安定と奥羽2国の律令制化の推進を図った。2つ、蝦夷を含めた民生安定策を推進した。1511月、坂東諸国及び出羽・越後等の国の民9000人を陸奥の国伊治城に遷地した。前回までの征討で、伊治村の重要性に注目し、帰順して伊治村に配置した俘等の動向が流動的でこの地を安定させることは作戦的には胆沢征討と安定の基盤であり、胆沢の安定は奥地征討の基盤となる。即ち伊治村の安定がすべての鍵であり、また中長期的には農業開発や兵力基盤充実の基盤となる、との考えに到った。同様のねらいで帰順したが不穏な俘 等を国内に積極的に移住させた。宝亀11322日、伊治公砦麻呂が按察使紀広純・陸奥国牡鹿郡大領(長官)道嶋大楯等を伊治城で殺害し、鎮守府多賀城が炎上したことが国家を挙げての征討となり、蝦夷との30数年に及ぶ戦いの一大エポックであった。伊治公砦麻呂は朝廷に帰順して、他蝦夷帰順働きかけの手柄を立て、国家機構の末端に連なった。伊治村を根拠とする地方豪族であり、根っこでは陸奥・出羽の蝦夷のネットワークの中心を占め、帰順・抵抗の帰趨を握っていた存在であり、伊治村は地理的にそういう存在を生み出す気運を抱える土地であった。この戦略性という本質に気が付き手を打ったのが田村麻呂であった。

 記録に乏しいが『日本略記』には、927日に「征夷大将軍坂上宿禰田村麿等言ふ。臣聞く、云々、夷賊を討伏す」とのみあり、討伏という表現を用いて蝦夷征討の成功を報じている。成果に自信を持った言い切りかたである。1028日に凱旋帰京して節刀を返上すると、117日に「詔して曰はく。云々。陸奥の国の蝦夷等、代を歴(へ)時を渉りて辺境を侵乱し、百姓を殺略す。是を以て従4位上坂上田村麿大宿祢等を遣はして、伐平下掃き治ししむるぬ云々。略」とある。

 宝亀以来の宿願であった胆沢の軍事的平定は終わった。次にはこの地を長く陸奥の国の領域として安定させることが国家の課題となる。先ずは胆沢城の造営である。

胆沢城・志波城造営

 田村麻呂は、延暦2119日、造陸奥国胆沢城使として派遣された。直ちに坂東諸国等10ケ国の浪人4000人の「陸奥国胆沢城」への配置に着手。4月、「夷大墓公阿弖流為・盤具公母礼等、種類500を率いて降る」。遂に蝦夷抵抗の首謀者が根拠地胆沢を征服され進退窮まって、田村麻呂の軍門に降った。710日、田村麻呂夷大墓公二人と500名を伴って入京。25日、(行事で)百官、蝦夷の平ぐことを賀す。813日、夷大墓公二人を処刑、田村麻呂は助命し、陸奥へ帰すよう乞うが聞き入れられず。

 田村麻呂は夷大墓公二人の陸奥での暮らしへの強い愛着及びそれが失われて行く悲しみなどを感じつつ、戦い続けた執念と大軍を率いた力量に武人としての敬意を抱いていた。自分を頼って懐に入って来た以上は助けて、彼らの本気を新国土の安定・発展と民の融和に向かわせるべき、それが国家のためになる、と考えた。斬首という政治の決定は無情であるが従わねばならない。彼らの投降とその死を陸奥・出羽の真の安定・融和に繋げなければならない、と誓った。まずは、蝦夷の無念を受け止め、供養は自ら行う、清水寺で、と決めた、であろう

 延暦22年(8033月、造志波城使として派遣された。国家は2月、越後国に米30斛・塩30斛を送らせた。国家は将来の安定を目指した出先機関の造営を一挙に、田村麻呂に任せた。まもなく、国府多賀城、鎮所・鎮守府は胆沢城となった。これに拠り岩手県中部までは律令国家の領域となり、胆沢城・志波城(洪水の為徳丹城に移転)が行政・軍事の要となった。延歴211月、田村麻呂を含む8名が度者(得度した者)一人を賜ったが田村麻呂(のみ)はその度者を陸奥に伴い幾たびかの戦乱による彼我の戦没者の冥福を祈ったという。また征討に出発する際は清水寺に戦勝祈願を、凱旋帰京した時は同寺にご加護のお礼と共に戦死者の冥福を祈った。この時の武人としての深い心は如何であったろうか。その答えはもう少し後で、回り道かもしれないが後で出て来るであろう景色を眺めた上で、述べたいと思う。

桓武朝4回目の征討

 延歴231月、4度目の征討が計画され、田村麻呂は征夷大将軍に任命され、次いで副将軍なども任命された。国家は是より先坂東7ケ国に軍糧搬入等を命じ、その後志波城と胆沢城の間に駅を置くこと等を決めた。田村麻呂は延歴246月、坂上氏で最初の参議となった。48歳。ところが、2412月殿中で「天下の徳政」論議が交わされ、征討中止と決まった。しかし、蝦夷の叛に備える意味もあったであろう、「征夷大将軍」号はそのまま使い続けることを許された。田村麻呂に対する信任の篤さの表れでもあった。翌253月桓武天皇崩御。田村麻呂はこれより先陸奥の地を踏むことはなかった。

5節 薬子の変の田村麻呂

 上皇の平城遷都が現嵯峨天皇を無視して発せられたことが発端で「薬子の変」が起こった。上皇とは兄である前平城天皇のこと。田村麻呂は桓武天皇が亡くなった時、悲しみのあまり立てなかった皇太子(後の平城天皇)を抱いて殿を降り、皇位の印と剣を奉った。中納言・従三位・右近衛大将であったにもかかわらず、平城天皇は侍従を兼務させ、常にお側に控えさせた。一方嵯峨天皇も田村麻呂を側近に祇候させ、田村麻呂は少将・中将・大将に任命されても側近から離れず天皇を守護した。その時々の天皇の信任が篤かった。

 平城天皇の治世は3年と短い。意欲的に政務に励んだが病気により、皇大弟の嵯峨天皇に位を譲り、上皇になった。病気からの回復と共に上皇として、持統天皇と文武天皇の例に倣い、2頭政治を始めた。平穏とは云えぬ状況が現出した。

 上皇の平城遷都発令時、田村麻呂と蔵人の頭(註)藤原冬嗣が造宮使に任命された。冬嗣は嵯峨天皇の腹心であり、上皇の企ては筒抜けだった。それ以前の上皇の処置に腹を据えかねていた嵯峨天皇は直ちに動いた。田村麻呂の去就が事の成否を左右する鍵であった。

 3つの関所(東海道鈴鹿、東山道不破、北陸道逢坂)を閉じ、藤原仲成をとらえ佐渡権守に左遷、妹薬子は宮中から追放した。これを聞いた上皇は激怒し、畿内の兵を集め、天皇は関を固めた。

註 蔵人の頭とは天皇の命を太政官に伝える役所の長官である。

 上皇の動きの陰に薬子がいた。薬子は兄藤原仲成の廟堂での栄進の為平城天皇の後宮に入り、天皇寵愛を受け色々画策した。仲成と妹薬子は長岡京遷都の中心人物で非業の死を遂げた藤原種継(式家)の子である。薬子は平城天皇が皇太子の頃仕えていたが、邪淫と桓武天皇から退けられ、平城天皇即位と共に再びその懐にはいり、仲成栄進のための野望の為先行していたライバル追い落としの陰謀を巡らした。その頃、仲成と同じ藤原式家では既に緒嗣が重用され、北家では内麻呂が右大臣、南家では吉子が桓武天皇との間に伊予親王を設け、雄友・乙叡が大納言・中納言であった。その陰謀は退位と共に下火になったが、上皇の健康が回復し政治への情熱復活と共に、再度膨らみ、伊予親王謀反の疑いがかかり親王・生母共自殺、雄友・乙叡も配流・解官となった。薬子の差し金であり、除くべき奸臣であると、嵯峨天皇は考えた。上皇と天皇の対立を煽る因となった。

 上皇は東国へ向け平城をたつ、「諸司並びに宿衛の兵、悉く皆従う」。嵯峨天皇は田村麻呂を派遣し、美濃道より上皇を迎え撃つべく出発させる。この時田村麻呂を大納言に昇進させる。田村麻呂は文室綿麻呂の同行を願い出る、「綿麻呂は武芸の人なり。頻りに辺戦を経る。こいねがわくば、まさに同行せむ」と。綿麻呂は上皇側についていたが平城京より召喚され、左衛士府に禁固されていた。天皇は綿麻呂を昇進させ、参議に任じ同行させた。綿麻呂は「歓喜踊躍」して参加した。

 田村麻呂は宇治・山崎両橋と淀市の間に兵を配置し、この日仲成は射殺された。上皇一行を添上郡越田村(奈良市北之庄町)で行く手を遮り、上皇はやむなく平城京へ戻り、剃髪入道し、薬子は毒を仰いで自殺。

 上皇をむかえうつ、最も難しい役目を与えられた。田村麻呂は畏れ怯むことなく上皇に立ち向かい、血を流さずに上皇を平城京に引き返させた。武を行使せず、武の威力や田村麻呂個人の威徳で目的を達した。この時に文室綿麻呂の同行を奏請し、「歓喜踊躍」させる仲間を加えた。文室綿麻呂は征夷副使として征討に加わった時、陸奥介兼鎮守副将軍であった文室大原の子であり、共に戦ったよく知る仲間の子という血脈の信頼も示し、綿麻呂を本気にした。田村麻呂の良知は良智である。この良知&良智こそ、田村麻呂を最も良く表す言葉である。

纏めその1 何故好機に登場でき、力を発揮できたのか

以下の大きな流れとその節目を見て行く必要がある。

其の1、武の名門としての「顧みずの心」を連綿と受け継ぎ磨いてきたこと。特に血脈を受け継いだ志は、福島大尉のところで述べた志の発展形態特に目標の性格から言えば、素志(漠然)・青志(方向性)を経て任官時既に征夷をわがこととした成志(具体的)の域にあった。その志で賢く学び武才を磨いてきた。

其の2、蝦夷の反乱・多賀城炎上に伴う征夷に国家は押っ取り刀の征討で失敗し、征討を国家として本気で取り組んだこと。文官政治家の大使(トップ)のもと、副使である武官一人を悪者にする等征討の実をあげずに終えて仕舞い、軍の精兵化並びに大軍投入とこれに見合う兵糧・武具などの準備を痛感すると共に文官大使に危惧を抱き、武官を大使に、との風潮が生まれた。桓武朝1回目の征討で大使以下副使に武官を起用したが失敗し、真剣に適任者選びの機運が漲った。

其の3、桓武朝2回目の征夷で、大伴弟麻呂という人物が征夷大使に任ぜられ田村麻呂を重用したこと。国家は大伴弟麻呂に征夷を本気で託し大伴弟麻呂は未知数であった田村麻呂を副使に加え重用した。その時田村麻呂は征夷失敗の教訓を賢く学び弟麻呂にどうしても連れて行きたい、と思わせるものをもっており、副使として作戦・戦略・行政面で中心的役割を果たした。

其の4、桓武朝3回目の征夷で、田村麻呂は征夷大将軍として関係部門を一身に統合し、現地(国司・鎮守府)・征討軍・中央の連携を一元化して征夷を行い胆沢を平定した。引き続き胆沢城・志波城使として派遣され胆沢・志波を安定させた。

其の5、桓武天皇没後の次期平城天皇、その後まもなく健康を害し譲位して平城上皇と譲られた弟嵯峨天皇双方から侍従として信を受け、両者の対立が激化する非常事に判断を誤らなかったこと。薬子の乱において嵯峨天皇の命を受け、上皇の東国入りの阻止という最も難しい任を見事に果たした。

 以上を要約すれば田村麻呂は難問を解決する律令制国家の成長と歩みを同じくして成長した。言い換えれば時代が武人田村麻呂を必要とし、田村麻呂はその期待に応えたということになる。

2つの教訓

ここで、教訓を2つ語らねばならない。

1つ、宝亀11年の征討では大使藤原継縄、後を継いだ藤原小黒麻呂は公家政治家(文官)が大使につくのが当然と思って、武官を従えた。しかし、乱の烈しさから命のやり取りはマロの任ではないとばかりに、継縄は現地に赴かず、小黒麻呂は副使(副将軍)の大伴益楯一人に責めをおっかぶせて、天皇譲位のどさくさに紛れ征夷とは程遠い形で幕を引いた。公家政治家はその国家運営という高い地位にある者の崇高な義務として普段から武に関心を持ち素養を高め、命のやり取りという修羅から目をそらすことなく、武人の考えや行動例えば戦術的妥当性を理解し的確に判断でき、武官を直接使いこなす域から武に任せきる域の間で良い加減を見極める力量を持つ必要がある。一方の武官、大伴益楯は、想像以上の厳しさに、必勝の策を立てられず、文官大使の容嘴になすすべなく、一人悪ものにされた。桓武朝1回目の征討では大使以下武官で首脳部を編成した。しかし、想定外の乱の激しさに益楯同様に紀古佐見以下は、過去の乱平定の容易さや公家政治家の下で前面に出る必要の無さ等に慣れてきたつけが出て、大敗した。武官はいついかなる時も任務を果たし戦いに勝つ、そのために全責任を負うという覚悟と国家の一大事にその道のプロとして公家政治家に全幅の信頼を得られる力量を養っておくことが必須である。

2つ、坂上家の長年にわたる努力と田村麻呂の天性の武才・智才もさることながら、征夷という国家の大事を成し遂げる上で、大伴弟麻呂という存在を抜きにしては語れない。機が熟しつつあるときに登場し、英雄(と言われる人、以下英雄)出現のおぜん立てをし、英雄の活躍と共に自らは静かに舞台を去る人である。真に国家の大事を思う時、人は己の分を最大限に尽くす。そういう多くの人(群像)の中から英雄候補者を見出しその引き立てが自分の分と弁えるような人が出て来る。英雄出現の背景にそういう群像がある、のである。

纏めその2 田村麻呂の伴緒由縁の心

 田村麻呂は清水寺を建立した。清正同様に宗教心に留まらずその奥深い所で、武将としてその任の重さの深い自覚とそれに基づく最善を尽くす思いがあったはず、という所からスタートした。後で述べるが資料の少なさに清水寺に電話で田村麻呂の祈願などの記録がないか尋ねた時、史実に留まらず言い伝え迄広げるのであれば先ずは縁起を読むように、と言われ、北九州中央図書館に出向き閲覧した。その続群書類従清水寺縁起、によると、宝亀11年、将監田村麻呂(将監とあることから28歳と推定)は身ごもっていた妻高子のために鹿猟に来て、のどの渇きを覚え、水を求めて音羽の滝にやって来たところで修行僧賢心に出会い、殺生を戒められ、観世音菩薩の功徳を説かれ、深く感じるところがあった、とある。この時点では統べる者としての実戦経験は無かった(或いは乏しかった)であろう。従って、この面で、その任や兵の命の重さを深く自覚して最善を尽くすという心があったと言い切るには無理があると思う。しかし、武の名門を引き継ぐ者として、現に将監という4等官の上から3番目の現場(上級)指揮官としては死地に赴く覚悟があったに違いなく、その覚悟の上に、武門の経験した戦いの言い伝えや田村麻呂の意識が分明となった以降の戦いなどから、戦理や術策や武勇に留まらず兵の痛みを自分のこととして学ぶ賢さ・明智があった、と考える。

 以上は兵の血を流さなくても済むよう良く戦い、良く勝った、ことからの推論である。というのは征夷に際し、田村麻呂は戦い以前の伊治村安定策や蝦夷の根拠伊治村壊滅等の策でその抵抗力を奪うとしたこと。蝦夷の首領の投降とその扱いが平定・安定の鍵と考えていたこと。また薬子の変において、分室綿麻呂の同行を請い、或いは添上郡越田村(奈良市北之庄町)でその武威により上皇の東国入りを断念させたこと等からいたずらに兵の血を流させないですむ戦い方を熟知していた、即ち兵の痛みが分かっていた、と考えるからである。

 従って、高祖父老が文武天皇からその薨伝で壬申の乱で一生を顧みず社稷(国家)の急に赴きと評され、顕かにされた坂上家の顧みずの心は今まで述べてきた戦いに勝つという役割を果たすために専心する心であるが、それに加えて、田村麻呂には兵の上に立つ者として、兵の痛みをわが痛みとして、いたずらに兵の血を流さずに、地に足のついた戦いで勝ちを得る心を持っていた。ここまでの表現では田村麻呂は今まで述べた福島泰蔵、大伴家持、栗林忠道、加藤清正という4名とは肌合いが異なるようにも見えるが、兵の痛みが分かる、その先には統べる者としての任の重さや死地に投じられる兵の命の重さの深い自覚と最善を尽くす心があるはずであるが残された資料ではそこには行き着けない。しかし、兵の痛みをわが痛みと感じる地に足のついた感性を強く感じるという点だけでも十分伴緒由縁の系譜に相応しい、と私は考える。

 最後に延暦22年(8033月、造胆沢・造志波城使として派遣のところでこの時の武人としての深い心如何、と書いた。その答えを書きたい。田村麻呂は度者を伴い陸奥で、或いは凱旋後に清水寺に参り戦死者の供養をした。その深い心には自分の指揮下で倒れた兵の痛みに向き合うと同時に敵にも目を向け、いたずらに兵の血を流さなくても済むよう良く戦い勝つと誓った、に違いない。人として、更には人の上に立つ武人として、敵味方を問わず戦陣に倒れた兵の痛みを感じる深い心が、清水寺建立を思い立たたせたに違いない。

参考までに以下を付しておきたい

(参考)防人歌に見る武人大伴家持の境地

 防人歌で家持は防人の別れの悲しみに向き合い、家に繋がりたい思いを結びとしている。ここには三つの境地がある、と私は考える。①人としての自然の情愛に浸っている。防人の悲しみは自分の悲しみ・痛みであり、家を思う心も自分の思いである。②人の上に立つ武人として、防人のありのままに向き合い、兵の痛みを自分の痛みと感じている。③統べる者として、この悲しみの先にあるかもしれない戦いとそこでの悲しみを思う。それは自分の命令で兵を死地に投じるという任の重さ、投じられる兵の命の重さの深い自覚に由来する。家持は以上の境地の中で、海行かばでは統べる者として、その任や投じられる兵の命の重さの深い自覚のもと最善を尽くす心を歌っている。

 補展第9章 伴緒由縁の武人の奥深さ(中締め)

1節 出番に備える心

清正の心がけ

 慶長大地震といういざ、来るか来ないかわからない。その出番に備える本気と赤心から尽くす心での即動が再征参加・熊本領国経営継続という出番を拓いた。清正は常に即応のために心身の整頓を心掛け、いつ来るかもしれないいざに本気で備えていた。大地震という全くの不測の事態の時、真っ先に浮かんだのは太閤の無事如何であり、蟄居中にもかかわらず、直ちに手勢200を引き連れ、真っ先に駆け付けた。このことが勘気を解き、申し開きの機会を得て、潔白の身となり、武人の本懐である再征という出番に繋がった。

 常に脳中にあったのは赤心ー何を、どうすることが本当に太閤及び国の為か、という尽くす心であった。そのために蟄居中にも関わらず、真っ先に太閤のもとに駆け付けたし、在陣間、行長を悪者にして太閤や国益を守らんとした。その結果讒言を受けた。帰朝後の蟄居の間、三成等と仲直りをしなければ太閤はお許しにならない、と言われても頑として自分の意を貫き、座を立った。 もしこの地震がなく、地震があってもこの地、この時に居合わせ無かったら、おそらく切腹を命ぜられ、汚名を晴らせなかったであろう。それでも清正は自分を曲げなかった。

 以上の基には普段からいざ、戦いに備え続ける心がけがあった。清正はその死に際し、遺言を残している。遺言には「我死せば具足を着させ、太刀をはかせ、棺に入納へし」とあり、別に「家中侍共へ被申出7ヶ条」がある。

 (この7ヶ条は)清正が終生守り通した心がけを手本として示したものである。全条に通じる精神はいざ、戦いに備える、である。 いざを基準に武芸を磨け(1・2条)、いざに役立つよう無駄なことをするな(3・4・5・6条)、いざに備えて学文に励め(兵書を情を入れて読め・忠孝の心懸け・太刀を取りて死ぬ事が本望・武士道吟味・・7条)。そして死後もその魂は甲冑を纏い熊本城の西の中尾山本妙寺(熊本市花園町)で熊本城に向かい、加藤家・熊本のいざに備え続けている。

田村麻呂の心がけ

坂上氏は代々、武での地歩拡大とそれに伴う未知の役割を果たし、いざに備えてきた。

 祖父犬養の代で初めて67歳で従4位下に叙され、武才を発揮して聖武天皇に認められ、外位(中央・地方の下級官人)を脱した。父刈田麻呂は37歳で従4位下となり、その父を越えた。しかし参議にはなれなかった。田村麻呂の代で従4位下は38歳でなり、48歳で参議に初めてなるという長年月をかけた着実な地歩拡大の継承があった。その時々の拡大した地歩には新たな役割が求められ、それをその都度専心完遂し、常にいつ来るともしれないいざに備えてきた。それを可能にしたのは新たな役割の持つ未知を拓いた坂上氏の智であった。

田村麻呂は国家課題である征夷を自分の“いざ”として、賢く学び、覚悟を持って備えていた。知る人ぞ知るという域にあった。

 父祖の地歩拡大を継承し、それに伴う新たな武の役割を父祖同様に明智で適応して、備えた。田村麻呂の智については後程詳しく触れたい。

 宝亀11年以降、蝦夷の反乱と国家の拡充は相互に刺激し合って拡大し、征夷は益々国家の重大課題となった。田村麻呂は蝦夷対策の政・軍両面の急所や戦い方の教訓や兵の痛みなどをわがこととして賢く学んだ。また文官大使の下で武官副使が実質的に戦いを仕切る、という宝亀11年及び武官だけで行った桓武朝第1回目の征討は失敗した。文官大使は戦いの激しさや損耗の多さに、武は手に負えないことと考え逃げに終始し、武官副使は武を仕切る重さの覚悟と普段からの準備が足りなかった、と征討における国家を背負う覚悟と準備の大切さを、心に刻んだ。武人の適任者を大使(征夷大将軍)にという流れの中で、大伴弟麻呂は田村麻呂を副使に指名した。国家のすべてを背負う重荷を共に背負える者と考えた、に違いない。

2節 明智 

加藤清正の智

 攻守兼ね備えた勇将であり智将

 野戦での進むばかりではない、迎え撃つ築城も重視した。剛勇一点張りではない攻守兼ね備えた勇将であり智将であった。築城の名手と呼ばれ、難攻不落とうたわれた熊本城、夏の陣・冬の陣でそれを示した大阪城を作り、熊本南半分の領主となり領国経営と出征準備も重なる最も難しい時に名護屋城も縄張りをしたという。本物の築城力を持っていた。

 築城力で民の暮らしを豊かにする智

 慶長6年正月江戸城に赴き、家康公に城普請の許可を受け、3月帰国と共に工事に着手した。茶臼山に着目し、これを拓き、古城と千葉城を一つにして今の熊本城を築いた。この時清正は2つの事を同時に行った。城を要害とし併せて民の利便を図る事であった。城は3年後に完成する。位置取りや白川を外堀、坪井川を内堀にする巧みさと築城技術の卓抜さは天下の名城としての評価が高い。民の利便として、白川に流れ込んでいた坪井川の流路を変え、城地を巡らして内堀とし、河道を開削して井芹川に城下町の南端で合流させその流量を増やして河口から城までの舟による運漕を容易にすると共に灌漑水として使えるようにした。当時白川は現在の子飼橋~代継橋付近で大きく蛇行し、現在の熊本市役所付近で坪井川が合流、それから現在の坪井川の流路を通り、現在の長六橋付近で現在の流路となっていた。清正はその合流地点に分流堰を作った。清正以前の肥後は統一した大名がなく土豪処々に割拠し大川の堤防を築く力がなかった、ので年々洪水の害を蒙ることが甚だしかった。従って堤防を造り、その効果を広げて新田や、新村、新川等を作った。かって行基がその土木技術で、道を作り、橋を架け、川に船着き場を作り、灌漑用の水路を作り、民衆の支持を得て仏教の布教活動を行った。(古代史紀行、宮脇俊三、講談社文庫)。我が家は曹洞宗であるが、その修証義の一節にも舟を置き橋を渡すも布施の檀度なり、とある。仏教では道を作り橋を架ける等は布施という考えである。肥後領主であり法華行者であった清正はその布施により、民の心を掴み民を豊かにして、兵備を充実させるという領国統治の深い智恵を巡らしていた。その故か清正の治績には事欠かないがこの辺で止めておく。

 平成24年12月28日、ブログ旅で本妙寺の帰りに清正の治積を偲ぶため井芹川・坪井川合流点の西高橋神社を訪れた。この時西高橋神社の由緒、に依れば「かって高橋は津(港)として栄えた(略)。(細川の代になって鳥居などの修造の)寄進碑には役人や商人が多数刻まれ、商の港、高橋を物語っています(略)・・」とある。高橋は舟運と商いで賑わったことが分かる。清正の狙い通りである。清正の視線の先に民の暮らしがある、と実感できた。民を豊かにして初めて強兵の道が開けるという信念がある。

 良い人材を召し抱える智

 清正は築城技術に優れた者を召し抱え、自らも学びつつ腕をふるわせるという才覚の智があった。清正は若干16歳で170石取りで召し抱えられ、その後まもなく200石に加増された。その時、竹馬の友の加藤清兵衛を召し抱えた。禄は部下を養うために使うという先を見据えた智があった。

 蔚山城で浅野幸長を救援のため出撃した、大木土佐は経理の腕を見込んで配下に加えた一人である。それらのものは苦しい局面で、その持てる力を振るって清正を救い、清正の功を高めた。清正の良い人材を召し抱える智が清正にまわりまわって還ってきた。

 築城技術者は慶長の役最後の明・鮮軍の猛攻に耐える蔚山城の築城を完璧に作り清兵衛は慶長の役で最緊要な蔚山城を担当し、助けに入った清正と共に守り切った。関ヶ原の戦いの間に清正は肥後で戦い、奥方(註)は伏見にいたが、三成の企みで人質として大阪城に囚われていた。大阪の加藤家留守居は大木土佐(蔚山城で浅野幸長を救援のため出撃した)、船奉行は梶川才兵衛であった。両人申し合わせて救出のための行動を起こした。梶川は毎日3度川口から屋敷にくる、病人と偽って駕籠に乗り綿帽子・夜着を身に着け、出入りする。番人は別段怪しまなくなる。頃合いをみて、梶川は例の通り、城中に入り戻りに奥方を駕籠に乗せ、綿帽子と夜着でかくして大木と梶川は伴の内に紛れ込む。若し番人がとがめた時は大木が番人を切る、梶川は奥方を刺し殺す。命を棄てる覚悟の手筈であった。処が番人は咎めもしないで通す。川口からは船中に奥方を移す。船番所の見張りが有るので、大きな水桶3つを予め準備、其の内の1ヶは中底を設け、下に奥方を、上に水を入れてやすやすと舟番所の検査を受け通過。奥方は両忠臣の苦心によって無事帰国した。大木土佐は今の状況の中で取りうる方策を知恵を出して考え抜き、命を捨ててかかった。決して命令や指示を待つ余裕などなかった、であろう。最悪の場合、自分たちは勿論、奥方の命も捨てさせる覚悟であった。清正が死した時、大木土佐は殉死し、本妙寺で清正の伴をしている。

(註) 奥方は徳川家康の養女、実は水野和泉守の女で浄源夫人と言い、慶長3年入與翌年嫡子熊之助が誕生。

田村麻呂の智

 1大事に備え、着実に地歩を拡大する戦略的な智

 桓武・平城・嵯峨と三代の天皇に信頼され続け、お側に仕えた。徹底して忠誠を尽くし、信を得て、父祖が築いた地歩を更に拡充する。その地歩で、真に国家の大事(時)に力を発揮し貢献する。

 高祖父老はその薨伝で文武天皇から「壬申の年の軍役に、一生を顧みずして、社稷(国家)の急に趣き・・」と顧みずの精神を顕かにされ、祖父犬養の代で従4位下左衛督に武門で初めて昇る。武才を認められ、どうしても越えられなかった壁、外位(中央・地方の下級官人)を脱し、やっと政界にその地歩を築いた。刈田麻呂は37歳で、その武功で、従四位下に昇り、父犬養が74歳で昇った位に並んだ。田村麻呂の代で更なる壁、国政を議する参議に48歳で、武門で初めてなった。長年月を掛けて武の地歩を拡大したが、それに伴う役割はその都度未知の領域であり、失敗すれば歴代の努力が水泡に帰すという危機感から常に智を発揮し何をどのように果たすかという役割を見定め、全力投球して立ち向かった。結果認められて信をあつくするという地道なサイクルのリレーであった。その最高の走者が田村麻呂で血脈として培った良智を手に、戦いの言い伝えや分明した以降の戦いなどから戦い方や兵の痛みをわがこととすることなどを学び、父や祖父の背中から武人の生き方を賢く学び、成長して、征夷大将軍として桓武御代の征夷の仕上げを行った。桓武天皇薨去に伴う平城天皇即位、その後の譲位と嵯峨天皇即位並びに薬子の乱を収め嵯峨天皇の御代の安定にも貢献した。

 2つ、よりよく戦い、勝つという戦略的智

 1つ目、戦いの前段階の施策を充実する戦略的智

 俘囚を含む陸奥・出羽の民の暮らしを良くすることが俘囚問題解決の根本と認識していた。このため柵養俘囚(帰順間もない)や帰順し自立して柵や国・郡府並びにこれらを結ぶ伊治村などの戦略的要地に住む俘囚が、柵外奥地のまつろわぬ蝦夷の各種働きかけに応じたり奥地へ逃げ帰ったり、帰順を希望する蝦夷への反帰順工作をする基はこれらの民が貧しいことにあると考え、免租・役、養蚕技術の普及、帰順夷俘の優遇策、山夷・田夷を問わず有効者に禄を賜う、官採用のもとになる陸奥現地人への賜姓等の手を打った。

 また、一度帰順した俘囚などが背く、という相互不信の増幅も問題解決の本質であると見抜き(先見)、意見を具申して、施策を共有した。そのため①柵や城をもうけた地に郡・里等の行政区分とその司を定め、領域内の民度の向上を図ると共に、俘囚問題の直接的窓口としたこと。②柵外奥地のまつろわぬ蝦夷対策として、前記戦略要地に住む問題俘囚を国内各地に移民させ、また国内各地から良民を選んで或いは浮浪者を外して移民させる等人的・物的にその交流・策源を絶ち、蝦夷を帰順させると共にじり貧の状態に追い込んだこと。

 意見を具申して、施策を共有した、とは創意あふれる企図を具体化し、それを上下・左右・隷下に明示し、納得させ共有させる力があったこと、を意味し、中心的働きを為した核となる智である。

 2つ目、武力行使の智

 徴兵の質を高める健児や軍曹クラスの現場指揮官レベルの充実を図り圧倒的な兵力を投入し、それに伴う奥地進撃に要する兵糧や武具の調達・集積を図り実地に即した征討の準備を本格化した。また征討軍・鎮守軍、及び中央・国司・征討軍の要職を田村麻呂一人で兼ね一元統合した軍政軍令を行って、硬軟両様の策を展開した。特に饗給(きょうごう)に応じた柵養俘囚等を通じ、敵対する蝦夷の帰順(投降)工作を行った。

 また薬子の変で上皇をむかえうつ、最も難しい役目を与えられた。田村麻呂は畏れ怯むことなく上皇に立ち向かい、血を流さずに上皇を平城京に引き返させた。武を行使せず、武の威力や田村麻呂個人の威徳で目的を達した。戦いこそが唯一の決着という考えにとらわれず戦い以外の方法で難しい任務を果たす、さらにより良い方法で兵の損害を少なく勝とうとする智である。

 
 参考までに福島大尉が教導団生徒時代に論じた「文俎余臠(ぶんそよれん:まな板で調理した際の余り肉に相当する取るに足らない作文集の意?)」の「干戈論」の大意を紹介したい。

(参考)大意:干戈(武、軍)はあった方が良いのか、無い方が良いのか。余は答えを持たない。人による、としか言いようがない。智も同じである。奸智は無であるべきだし、良智は無くてはならない。

 3つ、人を知り、人の思いを察する智

 人知の智

 薬子の変で文室綿麻呂の同行を奏請し許され、歓喜踊躍して従った、という。田村麻呂に人知の”智”があった。文室綿麻呂の心情を良く知っており、どうすれば人が動くか、を知っている。上皇を迎えうつ役目は士気が振るわない、その中に「歓喜踊躍」する者を入れる効果を知っている。さらにより良い方法で兵の損害を少なく勝とうとする智を感じる。いざに直面してフル回転して最善を見つける智でもある

 人の思いを察する智

 阿弖流為・盤具母礼はなぜ田村麻呂(個人)に投降したのであろうか。鍵は彼らが投降する際500人が従ったこと。田村麻呂が京まで同行したこと。二人の助命を請うたこと、にある。根拠地を追われ、損害も累積して、じり貧に追い込まれ、胆沢の柵が出来るのは確実で盤石の形が出来上がり、最早これまでと思ったに違いない。ならば二人は何故田村麻呂(個人)に投降したのであろうか。そういう意図はなくたまたま、だったのか。ではないだろう。二人には500人を助け、後を託したい、という思いがあり、後を託せるのは良く戦って負けた田村麻呂(しかいない)と考えたに違いない。さらにこの負け戦の間に命を落とした蝦夷の仲間達の無念の思いや自分たちが愛し暮らした陸奥の永遠の発展への思いを残る500人に託そうと考えたに違いない。何らかの形で坂上の祖が帰化人であり、長い苦労の末、今は融合して、武で国家の一角を占めている、ということも知り、すべてを田村麻呂に託すことで、数百年後の自分たちの姿、を夢見たに違いない。田村麻呂はそこを良く察する明智があり、蝦夷の痛みが分かっていた。だから京へ同行し、助命を請うたのだ、と思う。公家政治家(文官)は大和の人たちの損害の多さ、という憎しみに駆られ斬首しなければ命を落とした大和人が浮かばれない、或いは見せしめと考えただろう。しかし田村麻呂はその思いも重々分かった上で、良く戦った相手に対する武人としての敬意があり、まだまだ不信の反復の芽は残っているので、その力量は活かして陸奥・出羽国や日本国全体の融合安定のため力を尽くし、俘囚として全国各地に生きるであろう500人のこれからを見届けさせたい、と考えたに違いない。そこには情に流された、でもなく良く見せるパフォーマンスでもない人としてそして統べる武人としての真心が真ん中にドーンと座っていた、と思う。歎願に拘わらず、二人は処刑されてしまう。ならば田村麻呂は自分が弔う、私寺の清水寺で、と。この時代に唯一私寺を認められ、国家鎮護の勅も得(た)清水寺でまつろわなかった民の融合を心底祈る、と誓った、に違いない・・。漸く私は思い到るというか何故田村麻呂か、の答えに行き着いた思いがした。

 10月初旬、資料の無さに困った私は清水寺の担当部門の方に田村麻呂の戦死者の弔いの記録の有無等について尋ねた(電話、名前は名乗らず聴かず仕舞い)ところ、度重なる火災で資料は皆無とお聞きした。ただ11911時から阿弖流為・盤具母礼の慰霊祭が同寺で行われるということをお聞きした。8日は海道東征のコンサートを聴きに大坂に出かける予定であったので、奇縁を感じ、足を伸ばして、その場に(見学ででも)立ち会わさせて頂いて、何故田村麻呂か、についてその場の雰囲気に浸り、答えの肝を見つけたい、と思った。

 早めに行こうと9時前に同寺についた私は、仁王門付近で準備中の関西アテルイ・モレの会という法被を着た人達が居られたので、お声を掛けたところ、会長の和賀亮太郎氏を紹介された。本日の建碑25周年記念法要を主催されている旨と学芸員の(清水寺の)さかい氏から、九州からお見えになる方が居ると聞いていた、と本日の立ち合いを了解し、線香も挙げてくださいとお話し頂いた。私は望外の扱いに感謝すると共にご連絡の労をいただいたさかい様にも心から感謝の思いで一杯になった。

 同会は岩手県人を中心に趣旨に賛同する方で構成されており本日は岩手県の方からも同地のアテルイを顕彰する会や奥州市長さん始め多くの関係者が参加し、総勢は200名はゆうに超える盛況であった。9時から西門下広場で京都鬼剣舞の奉納、11時から阿弖流為・母礼慰霊碑前での法要で、森清範貫主の読経に続き参列者全員での焼香、12時から大講堂円通殿での追善供養で(森貫主の)読経と焼香、法話と続いた。

 この中に混じって、読経を聞き、焼香をさせて頂き、会員の方々に話を伺わせて頂いた。阿弖流為・母礼や5百名の方の子孫やゆかりの方がおられたら言い伝えなどお聞きしたいという期待は見事に外れたが、この雰囲気に浸り、皆様が田村麻呂を敬慕し、阿弖流為・母礼の魂が清水寺で鎮まって、今の日本に完全に融け込んでしまっている、と強く感じた。阿弖流為・母礼が託した思いや田村麻呂が二人の死を弔った時に誓ったであろう思いが叶えられている気がした。そしてこの当時に唯一認められた私寺として出発し、田村麻呂の思いを活かして、観音信仰の中心的寺院であり続け、国家を鎮める役割を果たし続けてきた清水寺の独自性や大きさを実感した。森貫主がご法話で京都ホテルの壁画について触れられ、その絵には田村麻呂と賢心が音羽の滝で出会い、賢心に観音様の教えを説かれた田村麻呂が大悲大慈の心に目覚めた様子が描かれている、という件を聞くに到り、瞬時に本日この場に出かけてきた答えの肝を得た。清水寺縁起を読み頭で理解していたものが森貫主の生の語りでにわかに光を帯びた感じがした。私はこの大悲大慈の心とは武人田村麻呂と阿弖流為・母礼が好むと好まざるに関わらず戦わざるを得なかったという悲しみや阿弖流為母礼が敗れたという悲しみ更には人を殺めなければならない武人の悲しみに向き合い、田村麻呂が自他を慈み手を差し伸べる心を指していると思った。この心こそ武人田村麻呂の敵将阿弖流為・母礼の痛みを自分の痛みと感じる心である、と得心した。武人にとって信仰心とは如何なるものか、を説く知識は持ちあわせてないが、統べる者の奥深さを形成する心の奥深くのひだのような気がする。出かけてこなければ、そしてご厚意に預からなかったら、このお話に巡り合えなかった、と思うと同時にこれで田村麻呂の思い巡らし旅の幕が降ろせる、出かけてきた甲斐があったと思った。

 終りに

 伴緒由縁の心の普遍性

 両名に導かれるまま、ここに至った。見返してみると、伴緒由縁の武人に両名が加わっただけではなく、その深意の深堀にもつながった、と思う。特に田村麻呂の兵の痛みをわが痛みと感じる心が加わることで、統べる者として兵を死地に投じる任の重さの深い自覚と合わせ、これらを表す概念として、より深く地に足がついたという(心的状態を表す)普遍的な言葉を使いたい。そのことで更なる武人の心探求の余地を拡げたい。即ち伴緒由縁の心とは、を専心と最善を両立させことからより深く地に足をつけた役割・使命等を果たすことに専ら心を砕く「専心」と再規定したい。

 武人の奥深さの中締め

 また前項(補展稿に比し)の奥深さに続く中締めをしたい、それを以て福島旅を始めて以来のすべての締めくくりとしたい、という気がだんだん強くなった。その結果清正と田村麻呂両名の「出番に備える心」と「明智」をもって中締めの位置づけとした。百事皆戦いに勝つことが基準という武人の宿命を考えればここに至ったことは遅ればせながら当然という気がする。

福島大尉・武人の心旅のゴール

 そして「拓く 福島泰蔵大尉正伝」の続編としての「福島泰蔵大尉に学ぶ武人の心―連綿と続く顧みずの心」を脱稿出来た。福島大尉を起点とした伴緒由縁の心が連綿と続き、福島大尉がいつまでも生き続け、これからに続く根となることを願うばかりである。ここで根とは日本精神と国史に根差すという意味であり、福島大尉を起点として「顧みずの心」に着目して、考究をし、伴緒由縁の武人の心にたどり着いた。その間に、結果として、日本精神・国史について私見を持つに到った。これが福島大尉・武人の心旅のゴール、と実感している。自分でも説明のつかない心境で、もっと、もっとともがきながら気が付いたら思いもよらぬ高み、何故福島大尉旅か?、武人の心旅か?の答えを得た、に自分がいる。武人として、至らぬことばかりであった生き様を反省し後輩へ何かを遺したいと浅学菲才を顧みず、気づきと感応を原動力として、ブログ旅等からの生の手応えとスパイラルに変化して行く景色に刺激をうけて、只管前を向き続けたからであろうか。ここを以て17年余自ら背負ってきた人生の荷を降ろした喜びは何ものにも代えがたい。又続きというか補うべきところを思い立つかもしれないが、それはそれで・・・。「偕行」誌に感謝して筆をおきたい。それにしても自衛隊法第施行規則39条服務の宣誓に「顧みず」の文言を入れた人は誰だろう。深い洞察力を持った真に国を思い自衛隊を思う人であると思う。

(補展稿完)

補填稿の参考・引用書籍:清正記巻二 塙保己一 続群書類従巻六百五十二上、清正公記(法華行者) 中村事 秀榮舎、清水寺縁起・本願檀那大納言田邑麿事 続群書類従巻第七百七十二、 坂上田村麻呂 高橋崇 吉川弘文館、田村麻呂と阿弖流為 新野直吉 吉川弘文館。

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