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智勇情兼備の武将島津義弘(その1)

    ~島津忠良・貴久・義弘、中興三代の大業と士風

 西藩野史という家臣得能通昭が著した島津藩の膨大な歴史資料、島津藩の国史を清和天皇に始まり、初代忠久公から二四代重年公まで、当主を中心に纏めたもの、がある。当時目を触れることが出来なかった国史書を江戸藩邸勤務の傍ら一般向けに纏め直し、薩摩藩の創業守文(創業は難しいが、時代に適応させて変化させることはもっと難しい)に如何に貢献するか、という島津愛を子孫や心ある家臣に問いかけたものである。

 その中で、私は忠良(日新斎)・貴久・忠平(義弘)という中興3代に注目する。戦国乱世に忠良が国家の危うきに武によって備える、を大元として、国の統一と国つくりに立ち上がり、貴久が受け継ぎ、忠平(義弘)によって盤石となった。武によって備える、は、端的に戦いぶりに表れており、それが薩摩士風として受け継がれ藩の伝統となったという感想が強い。この点を焦点としてどう形成され、受け継がれて、藩ならではの共有物、後世への遺産になったのかを考えてみたい。第1       薩摩半島のほぼ領有の戦いでは忠良(日新斎)が先頭に立って戦いを指揮、薩摩士風を実践し作った。第2章 薩摩・大隅領有の戦いの前半部頃までも貴久が先頭に立って戦いを指揮、受け継いだ薩摩士風を実践し作った。しかし、第2段の後半、義久の代以降、島津の戦力は充実し太守の権威も確立して、士風の継承者があらわれ、活躍するようになり、太守が戦いぶりを実践する必要はなくなった。忠良(日新斎)は初陣以降戦いぶり、島津士風の中心にあって活躍をした。従って、本稿の記述の主対象は忠良(日新斎)・貴久・忠平(義弘)の順であるが、力点は忠平(義弘)に置き、士風の継承・発展・伝統化に果たした役割・功績等を明らかにしたい。

 この際、郷士の動員や教育・訓練に影響する外城・地頭制、郷中教育などの関連事項についても、該当個所で触れる等手を拡げたい、と考えている。

 さらに福島大尉に端を発した私の武人研究は今義弘が焦点である。何故戦において部下を、非情に、死地に投じて尚慕われたか、という武人統率の極地にも迫りたい。

稿全体の構成と第1章の(関連)リンク

 第1章      薩摩半島のほぼ領有の戦い      :(その1)稿
   第1節 島津忠良の前半生
  (忠兼の忠良への国政委任、実久による忠兼と忠良の離反工作)

  第2節 実久との対決と領国の回復・拡大       第2節TOPへ

    (本節の主な戦い(南郷城、日置城、伊集院城、加世田城、谷山城,川辺城、串木野城、貴久太守へ))

  第3節 本期の特筆すべき事項                 本期の特筆すべき事項へ(①太守日新斎、2軍司令官日新斎、3島津の士風4川辺地頭(外城制)、5士風形成の元となる教育訓練6日新斎の育てる情熱

 第2章      薩摩・大隅領有の戦い         :(その2)稿
 第3章      日向領有の戦い&九州統一の戦い  ;以下検討
 第4章      豊臣秀吉政権下での生き残りの戦い
 第5章      徳川家康政権下での生き残りの戦い

1      薩摩半島のほぼ領有の戦い
 本章は忠良を主人公として、生れ育ち、伊作・相州家を継ぎ、貴久を本宗家勝久の養子とし、破談し、薩州家の実久と戦い薩摩半島をほぼ領有し、長子貴久を太守にたてるまでの親子二人三脚での戦いを述べ、戦いやその周辺に投影される忠良の戦術・戦略的思考等を明らかにして,じごの薩摩士風の展開及び忠平(義弘)が生れ育った背景を明らかにする。

 1節 島津忠良の前半生

 島津義弘の祖父島津忠良(日新斎)は守護大名島津氏の薩・隅・日3州統治が同族の分裂争乱で、存亡の危機に瀕した戦国乱世に、伊作島津氏9代、善久の長子として明応元年(1492)923日伊作城(鹿児島県日置郡伊作町)で生まれ、伊作家(註1)と相州家(2)を継ぎ、3 州統一の基礎を築いた島津氏中興の祖と言われている。

1:伊作家は島津家第3代久経の二男久長が伊作を父から譲り受け、同地に住んで、伊作氏を称したことに始まる。
2:相州家は島津氏本宗家第10代忠国の長子友久が側室の子ゆえに、本宗家を継がず、田布施・阿多・高橋を賜って田布施に住んで、相模守を代々名乗ったことに始まる

 相州家初代友久の子運久には子がなく、忠良を養子として、忠良21歳の時(永正9年(1512年))、運久は後を継がせ、所領全部を譲って隠居した。忠良は田布施城に移り、両家・領地を良く治め、両民を愛し、武備を怠らなかったのでその勢威は日増しに強大となった。

忠良が3歳の時、父善久が家臣に殺され、9歳の時、祖父久逸が薩州家の内紛に巻き込まれ戦死した。幼子3人を抱え、城を守ったのは母常盤である。常盤は新納是久の娘であるが実家は久逸に同調し宗家に逆らって衰え、孤立無援で近隣の豪族に狙われた。これを助けたのが田布施城主の運久で、運久は常盤に惚れ結婚を申し込む。常盤は断り続けるが運久の本気に、忠良が相州家を継ぐこと、重臣も諾することを条件に結婚に応じた。

 常盤は和漢の教養豊かで、嫡男忠良の教育に熱心で、自ら教え、忠良が7歳になった時、兄忠澄、出家して海蔵院の頼増和尚(号を漁隠)に預けて学ばせた。頼増和尚は起居を共にし厳しく薫陶した。その甲斐あって文武の才豊かな青年に育った忠良は戦に強いだけではなく学を好み、慈悲心溢れる武将であった。

 永正11年(151455日 虎壽丸(後の貴久)誕生

 忠良が相州家の家督を継ぐ前後に、島津本宗家(本拠鹿児島、守護職)12代忠昌は一族争乱につかれ自殺(46)、忠昌の長子忠治(13代)、二男忠隆(14代)が後を嗣も、相次いで亡くなり、三男忠兼(後勝久)(文亀3年(1503)生まれ)が養子先の頴娃家から呼び戻され15代当主につく(永正16年(1519)、16)という当主の短命・幼少など本宗家の家勢が凋落気味であった。これに比べ、本家を凌ぐ勢いであったのが出水の薩州家()であり、大永5年(1525)実久(生年不詳)が父忠興没に伴い後を継いだ。

註:薩州家は島津久豊の二男用久(長男は忠国)出水・谷山・川辺・加世田・高尾野・阿久根・高城・水引などを領し、出水に住んで、薩摩守を名乗ったのが始まりである。

 実久は大永6(1526)頃には、大隅・日向での反乱の頻発(註)や重臣との意思疎通に難があるという忠兼の統治の乱れに付け込み、姉が忠兼の妻であるという閨閥を笠に着て横暴を極め、自ら忠兼にとって代わろうとし始めた。このため国が大いに乱れ、本宗家の力ではもはやこの分家を押さえきれず、国の乱れも治めきれないと判断した忠兼は近臣の意見を入れ、妻を離縁し、英邁の聞え高い忠良にその任に当たらせ、国政を委任しよう、と図った。

註:永正17年(15208月伊集院尾張守(曾於郡城)の反乱(新納忠武加担)辛うじて制圧、大永3年(1523)新納忠武志布志で反乱、征討軍敗れて帰る等

忠良への国政委任

 大永6(1526)、忠兼は本田親尚を田布施に派遣して、我が不徳の致すところ、我に代わって賊を討つよう、南郷を与えると説かしめた。忠良これを承諾。同年11月、忠兼は伊集院に赴き、島津昌久(妻は忠良の姉)を派遣して、国政委任のだめおしとして、日置(城主山田有親)を忠良に与えた。忠良は日置、伊集院(5)に出向き、忠兼に謁して謝し、委任引き受けを固く約した。是より忠兼の鹿児島帰城(7)に忠良も同行し、これを機として二人の交流は深まり、勝久は、24歳で嗣子が無く、忠良の子虎壽丸(13)を養子として本宗家をつがせることとなった。忠良は虎壽丸を元服させ貴久と名乗らせ鹿児島に住まわせ、伊作より、松崎飛騨守、満冨吉左衛門、池上但馬、折田淡路守、吉田肥前、河越新左衛門を従臣とした。

  同年12月、実久はこの決定を怒り、帖佐城主辺川筑前守に反旗を翻させ、島津善左衛門を援兵として送った。忠良は忠兼に告げて出動しこれを討ち、島津昌久に守らしめた。忠兼大いに喜び、9代忠国以来本宗家の支配地であった伊集院を忠良に与えた。同地は村民離散し田野荒廃していたので、伊作・谷山の民の一部を移した。忠良の領国経営は村民を豊かに・平穏に暮らさすことが第一義で、豊かになれば兵力も充実する、と考えていた。

 大永7(1527)415日、忠兼は当主の座を貴久に譲り、剃髪、忠良も剃髪して日新斎と号す。忠兼は16日自ら乞うた伊作城に閑居した。日新斎は鹿児島にはいり貴久を輔て国改めに着手。忠兼は伊作に移る時、先祖伝来の重要な寶器()を貴久に譲った。

註:生杉摺墨佐々木高綱宇治川渡鎧、生杉摺墨江付たる郎党の太刀に野太刀(7尺3寸)綱切の太刀、方1寸阿弥陀(丹後の局袋を縫う)、頼朝公の旗等なり

 ここまで短期間に一挙に事が進んだのは覚悟をもてないまま当主につき、その苦しみから逃れたい、それも他力で、という願望に忠兼が捉われていたこと。そこに忠良が向き合い、国主・国政のあるべき姿を説き、忠兼が自らの至らなさを悔い、忠良にすべて任せよう、それが乱世を治める唯一の道と自然に思わしめた日新斎の政治の確かなビジョン、というほかはない。

 しかし、実久は忠兼を意のままにするという権力欲と伊集院・日置という本宗家の土地を奪い取る領地欲にかられ、全力を挙げて反撃にでる。また南郷・日置・伊集院は自己領地を直接脅かし、帖佐は薩・隅連接の要地、絶対に容認できない地であった。実久は直ちに南郷を忠良に献じ忠良から命ぜられて同地を守っている桑波田孫六と続投を命ぜられた日置城主山田有親及び新たに命ぜられた勝久配下の帖佐城主島津昌久に反旗を翻さす工作を始めた。

実久による忠兼と忠良の離反工作

大永7(1527)56日、昨年12月に帖佐城主に封じた島津昌久が加治木城主伊地知周防介と共に叛き、日新斎は出向いてこれらを誅した。この時、実久は出水に在って秘かに忠兼の家臣で実久に心を寄せる者を使い、忠兼と日新斎の中を裂き、忠兼の命で実久が日新斎・親子を討つよう仕向けた。これが図に当たり、実久は先ず忠兼が忠良に与えた日置・伊集院を掠め取ろう、とした。帖佐の乱は日新斎を鹿児島から離す陽動作戦の一環であった。そんなこととは露知らず日新斎は征誅に出かけ、ことなって、帖佐を忠兼の隠居城にすべくその相談に向かおうと加治木から船での帰途、戸桂(鹿児島)に到った時、異変に気付いた。日新斎は大変驚き、直接忠兼に見(まみ)えんと思ったが、家臣の反対でそうせず、陸に上がり湯越を経て田布施に帰った。一方、実久の兵が鹿児島に満ちているのを見た貴久は従臣と議し、夜をまって実久の追求を逃れて山間に入り苦辛して伊集院・伊作を経て金峰山の西方を回り田布施に入った。日新斎は貴久に忠兼公と父子の関係で潜行して逃げること道にあらず、速やかに伊作に赴て暇を告げよ、と諭す。貴久は道を選び伊作城の忠兼に謁し、暇を乞うた。忠兼は義を重んじ意を決して来たことを喜び、自らの心に偽りの無いこと及び奸臣のために父子の情が違えたのみ、と涙を流して語り、もてなした後、従者をつけ、田布施に送り届けた。

 忠良、貴久親子が予期せぬ状況に遭遇し、本拠地に帰ることを決断し、ほぼ同じころ帰着できたことは武人としての平素の心がけと鍛錬の賜物である。日新斎が貴久に潜行して逃げること道にあらず、速やかに伊作に赴て暇を告げよ、と諭し、貴久が従う件は後の関ケ原の退口を髣髴とさせる。親子・武人としての道を踏み外さず、島津の名を汚さない。そのために私を捨ててかかるという矜持と覚悟のDNAを見る思いである。併せて私を捨ててかかることで儒・神・仏のご加護があるという(日新斎のいろは歌にいう)信心して迷わない心もここに見る思いである。

18日、忠兼は鹿児島に戻り、21日、復位した。610日、実久は兵を率いて伊集院を襲い、城兵戦うも、陥れた。

723日、実久は勝久が伊作を去るに乗じて、これを奪わんとした。日新斎はこれを察し、伊作は忠兼の求めに応じ献じたまでで、本来伝領した聖地だから速やかに収めて当然と、夜陰に乗じて攻撃し同城を落とし、自身の居城として、実久にそなえた。

亨禄元年(大永8(1528)829日改元)忠兼は勝久と改める。

忠良の覚悟と冷静な判断

 この屈辱から日新斎は譲り受けるだけの権威や権力は弱い。弱肉強食・下剋上の乱世には守護職の権威は必要だがそれを裏付ける力はもっと必要だ。他を圧倒し領国を平安にさせる軍事力と当主の統治力(民の暮らしを良くする善政にまで気を配る)によって、島津一族・国人衆・譜代の重臣・領民から待望され支持される、権威ある守護職・力ある戦国大名とならねば、と再認識した。過去の3州統一は本宗家の力と足利将軍等の守護職任命が必須要件であったが、今は本宗家の力に加え島津一族・国人衆・譜代の重臣・領民から待望され支持されることが必須要件、と見切った。

 そして、忠良は時間をかけて、3州全体の形勢と実久と勝久の関係を観望した。民を豊かにする領国経営と兵制・兵備を調えることに専念しつつ、主敵は実久、勝久は躍らされているだけ、と冷静に判断し対応した。勝久から貴久が譲り受けた事実がものをいう時が必ずくると信じ、現状継続を主眼に、隙を見せずこちらからはしかけず時を稼いだ。日新斎は天文元年(亨禄5年(1532)に入り、国力充実に自信を持った。この数年間は中興島津の力を蓄える期間であった。

5年間の過ごし方:必勝の軍の育成

 屈辱を胸に5年間で主敵実久を打ち負かす軍の育成に励んだ。伊作と田布施・阿多・高橋領の動員数の増加に努めた。並行して精強な部隊の錬成、各級指揮官や戦士個々のスキルアップを図ったであろう。この結果、加世田攻めで自力で動員した1000は最大であった、と考えられる。しかし、3州統一を見据えていた日新斎は伊作・田布施等にこれ以上の負担は避けるべきである。風を恃んで降ったり味方に付く諸家はあてにすべきでない。自前の兵を増やさなければならない。このため戦いで増えた領地での軍事動員化が出来る態勢を考えたであろう。即ち日新斎は後の外城制と地頭制に繋がる構想礎案を着想した、のではないか、と思う。具体的には章の最後(本期の特筆事項)で後述する。

2節 実久との対決と領国の回復・拡大

戦い全局の指導:主動

 南郷に狙いを定め、機が熟したら仕掛けた。以降、伊作・田布施を中心にして外郭を右回りに3段階で着実に領地拡大。第1段階は勝久から与えられたが実久に奪われた領地(南郷・日置・伊集院)を奪い返す戦い。第2段階は実久支配地または保有領地(谷山・川辺・加世田)奪取の戦い、第3段階は実久に与する地(市来・串木野)奪取の戦いである。

 南郷攻め

天文2年(1533329日、日新斉は愈々行動開始し、南郷を復した。

 南郷城を守らせた桑波田孫六が実久に与して反旗を翻した。これを討つべく、盲僧了公に探らせ、孫六以下が城を出て狩りをする、との情報を得て、秘かに兵を孫六の狩に見せかける服装で城門を開けさせ、乗っ取って、しかる後兵を遣って孫六を追った。盲僧によって情報を集め、城取の策略を立てた。南郷を改め永吉とした。

 同年814日、実久の陣営中から、秘かに実久が永吉を奪還する、という確かな情報を得て、貴久をきづかれないように城中に入れて備えさせ、実久が鹿児島の軍を率い攻めかかった時、日新50騎余りで後ろを、貴久は城中より突出して、その前を前後に挟み撃ち、完敗した実久は辛うじて逃れ鹿児島に帰った。

 狙って、情報を入手し、城を乗っ取り、奪還に来た敵を埋め草(野伏せ)を使い前後挟み撃ちにした。この戦いは①主動で戦う、②少数精鋭で戦う、③主従一体等の島津士風の象徴である。貴久は初陣であった。初陣でありながら、難しい役を与えられ、初陣ゆえに島津の士風を性根に叩き込まれた。

日置攻め

勝久公から日置を給わり、日置城主山田有親をそのまま据え置いていたが、有親もまた実久に与した。しかしその非を知り、同年(天文2年(1533))12月、日置を献じて降った。日新斎は免じて山田に移したが、二心を疑い後の禍を絶て、との諫言を受け、有親を切腹させた。忠良は悔悟の思いに捉われ、その子有徳を教導し、見込んで、山田氏の本貫地である日置郡山田を継がせ、貴久につけた。後功を挙げ市来、串木野の地頭を務め、任半ばに病で死した。その子、有信は義久の代に日向高城主として高城合戦や秀長軍との籠城戦で活躍、その子有栄は福山地頭として義弘の窮状を見かねて関ケ原参戦、退口では先手を務め、殿も努めた。山田家は不忠ものと白眼視されたが、後代はその汚名を見事に注いだ。日新斎の慈悲心・人を見て育てる教育眼が後世に士道の花を咲かせた。

寶器返還の申し入れ、を断る

 この年、勝久は比志島、河田を使いとして、寶器を返すよう督促してきた。日新斎は親子の誓約で預かったものではない。貰ったものだ、一度与えたものを返せとは失礼だ。復命後尚もまた求めてきたので、日新斎は前約を変えて信を失うのみか宝を貪って義も忘れるか。強いて求めるなら戦で決着をつけよう、と強く断った。日新斎は勝久の流されやすい人間性からもしものことを考えたに違いない。宝器は宗家継承の約があった証の品である。その事実がものをいう時のために、宝器を貴久の脱出以前に鹿児島城から持ち出していた。

 天文2年(1533)長男虎壽丸(後の義久)、天文4年(1535)次男忠平(後の義弘)、天文6(1537)3男又六郎(後の歳久)(以上伊作城で生まれる)、天文164男又七郎(後の家久)誕生

勝久の末路と日新斎の覚悟

 天文3年(15341025日、状況が激変する。川上昌久が末廣伯耆守を谷山皇徳寺で斬った。是には訳があった。勝久は実久派の末廣及び小倉武蔵等を近付け、忠良を遠ざけた。このことで昌久等16名上書して諫めるも聞きいれなかった。このため昌久は斬ったのだ。勝久は恐怖して根占に走り帰らず。4(1535)秘かに鹿児島に帰り、昌久を切腹させた。ここに至って諫めた10余人、身を退き、勝久は全く孤立した。実久は時到ると兵を鹿児島に入れ、村市を焼き払った。身の危険を感じた勝久は帖佐に逃げ、実久入城して太守を気取った。勝久更に転々として最後は豊後沖浜に居し、天正元年(1573)死す。

 日新斎は、太守は私心なくその任に向き合う器量がなければならない。勝久にはそれがなく、国が乱れ切った。貴久を名実ともに太守に復させることが今この国に一番大事なこと、と改めて誓った。

伊集院攻め

 天文5年(15363月、日新斎は大永7年に実久に掠め取られた伊集院を日新・貴久・忠将(日新二男17)1000余を率い攻め、一宇知城を落とす。923日、伊集院忠朝(日新家老)太田原を襲い、守将が長崎砦を自焼し落城、日新斎神殿砦を落とし、天文6年(1537)正月17日、竹之山砦を攻める。入来院弾正忠重聡(貴久夫人の父)来援し、落城、福山砦・大迫砦戦わずして落ちて、伊集院を全く復した。27日、鹿児島・谷山の実久勢は悉く川辺へ退いた。日新・貴久伊集院から鹿児島に入り、吉田・谷山を掌握。この時住民歓呼して迎える。実久ががっちり固めた伊集院を10ケ月かけ、日新斎一門自力で攻略した。薩摩の喉首を征し、実久の本拠出水と鹿児島を遮断した。その成果を拡げ谷山・吉田を手中にした。日新・貴久伊作を出て伊集院へ移る。

和議提案

 同年5月上旬、実久が加世田にあって阿多・田布施を狙っている、との情報を得た日新斎(在鹿児島)は実久に会い、和議を提案する。加世田・川辺と田布施・阿多は隣あって紛争が絶えないので、鹿児島・伊集院・吉田・谷山は実久領、加世田・川辺は日新斉領とする案を提示し争いをやめ、民業困窮を救う、と呼びかけたが実久応じず。日新斎のしたたかな外交術である。即ち、実久が応じれば、民業を回復し民の難を救う大義が立つ、作戦的には労せずして加世田が手に入り、機をみて、守る組織が壊滅し、準備不十分な伊集院等を攻めれば良い。拒否すれば非は実久にあり、作戦的には従来通り加世田攻めに全力をあげるのみ。

加世田攻め

 天文7年(15381219日、加世田を攻める。日新斎軍は萬世川(阿多と加世田の境)の鎮守を渡り、敵が待ちかえた鵜塚の砦(益山)を攻めるが利あらず、乱戦となり、日新斎果敢に敵中に突出し、あわや死ぬかと思われた時、諫めるもの3名、早く退いて後の勝ちを策せ、と叫んで敵に突入して死す。日新斎この間に危難を免れて軍を田布施に返し、再挙を期す。

 伊作の士2名を間者として夜ごと加世田に入れ虚実併せて探らせ、城兵1229日城を出て家へ帰る、という情報を得て、再攻。今回は敵が待ち構えたところを避け、夜間に花瀬―川畑から直接本城(別府城)に迫り、大手(日新・貴久)、搦め手(忠将)に分けて攻める、忠将軍が壁を登り切り、諸軍突入して本城が暁頃落ち、敵兵は新城へと下がる。新城を囲んだところに、敵援軍が来て、これに気づいた貴久が数十人を分けて応戦、この前後を敵に囲まれあわや、という時に、忠将が助けに来て激戦の後に破り敵援軍は逃げ去った。そうなると新城は落ち、加世田は日新斎に属した。この地で祖父久逸は明応9年(1500年)に薩州家の島津忠興に攻められ戦死した。この仇を薩州家に39年ぶりに報じた、と一同喜んだ。加世田を失って実久は薩摩の南部拠点を失った。

 間者を加世田城下にいれ、その情報(年末から年始にかけて城の警戒がゆるむ)をえて、前回の失敗を踏まえ、それらを元に攻城計画(時期と攻め方)を定めた。この戦いも主動的である。

 日新斎が本当に厳しい場面で、死ぬことなど全く脳中になく、陣頭で戦いの指揮に没頭する、から兵はふるい立つ。助かりたいと思った時指揮にひるみがでる、それは兵に伝わるからだ。しかし、将たる指揮官が欠けたら軍は崩壊する。それを分かって、匹夫と争ってどうする、それが将のつとめか、と諫め身代わりになって三名(肥後掃部左衛門・井尻四郎左衛門・宮原隼人)の士が戦死し、離脱の時を稼いだ。このことによって日新斎は離脱し、後の勝を得た。主従一心の島津の士風の極地である。

 忠将は貴久(友軍)の危機に気づいた。貴久を潰してしまえば敵援軍は新城を囲むわが軍の背後に襲い掛かり、城内からも打って出て、挟み撃ちにされるだろう。そうなると味方は大混乱・大苦戦・大敗に繋がる、という判断だった。それは戦い全局を支配する重要局面であった。忠将は戦場において周りが良く見え、自らも危うい状況にありながら、咄嗟に貴久(友軍)並びに全軍を救う行動をとった。危機に強い島津の士風を特徴づける武将である。

谷山ついで川辺を攻む

実久は再度谷山を掠め取り神前城(和田町)苦莘城(皇徳寺町)を出城とし、主力は本城(慈眼寺)に守りを固めた。天文8313日、日新斎・貴久は鹿児島に入り、紫原(郡元)に陣したところ実久が城を出て襲い掛かかったが、激戦して敗走させ、実久は川辺に退いた。苦莘城は城主平田式部少輔が内通して落ち、主力不在となった本城にも兵をいれ、残るは神前城(和田町)のみとなったが、14日、守将3名が、風を臨み、降って落ち、谷山を復した。(貴久は谷山を固めるため残り)、日新斎は川辺に到り、28日川辺高城城主降り、続いて本城も降り、川辺を全く日新斎が掌握し、新納伊勢守康久(註)に守らせ、41日、川辺の内の永山・高田・宮村を平田新左エ門宗清を地頭とした。

註:西藩野史では友義となっているが種子島家の内訌でも友義とあり、康久の間違いである。

 実久は何故、本城に拠らず、紫原で向かい討とうとしたのか、劣勢になると(負けると)一挙に川辺まで下がったのか。実久は本城が伊作道方向から衝かれると弱いという弱点を認識していた。また神前城の守将の一人河野通能が日新側に内通していることが判明、該方面からの攻撃の企図を確信した。これらから長引かせず一挙に決をつける、勝ち目はここしかないという意図で本城の兵を出撃させた。しかし、劣勢となり、伊作方向からの退路遮断による殲滅を恐れ、一挙に川辺に下がった。一方日新斎は一石二鳥を狙っていた。通能の弟通吉は日新斎に近侍しており、日新斎は秘かに内通して落城させることを命じた。成功すればこの成果を物心両面に拡充し本城を落とす。ところが露見して通能は自刃する。しかし、日新斎が鹿児島から攻撃するという情報を実久に確信させ、陣前に誘(おび)きだす狙いは成功した。期せずして両者短期決戦を企図する陣外決戦が生起した。紫原の決戦で、実久との争いの雌雄が決した。事後、戦闘らしきものは起きず、風を臨みて降る者が続出した。

 自刃した通能には9歳の伊勢松丸がおり、家人が連れ去って通吉に預け、日新斎に仕え、後に筑後通泰と名乗り、天正14年筑前岩屋城で戦死した。日新斎の情の篤さ、面倒見の良さ等がうかがえる。新納康久は出家した父忠澄が漁隠と号し、妹常盤の願いで、常盤の子の菊三郎(後の島津忠良)に仏教・儒学・政治学を教えた。日新斎はその恩を忘れず、康久を幼少から預かり、その才を見抜いて、英才教育を施し、加世田攻めに従軍させる等経験を積ませた上で、今回川辺を与え城主とした。後に家老となる。

 忠澄は新納祐久を日新斎に紹介する。祐久は曽祖父・是久が新納本家と争い戦死した後、代々新納本家に仕えたが、天文7年(1538年)、豊州家島津忠朝らの攻撃を受け、本拠の志布志を失い一族は離散した。祐久は子・忠元を伴い田布施に移り、忠澄の伝手で日新斎に仕える。忠元は後に木崎原や沖田畷で活躍し、大口地頭となる。日新斎はわが祖父久逸が櫛間に赴き、志布志の新納是久(父善久の義父・母常盤の実父)の兄忠続と争った際、是久が味方をして戦死したこと。そのせいで祐久が新納本家筋(兄忠続筋)に従わざるを得なかったこと。志布志を追われた訳は豊州家忠朝が実久側につき、新納是久を誘ったが断われたためであることなど身内の情や伊作・相州家への義理たての深さなどに感じいって、忠元を訓育した。

(実久方の)市来・串木野攻め

 天文8年(1539)閏617日、貴久は市来平城を落とす。この時援兵多数来援(入来院重聡、種子島恵時、称寝、肝付、伊地知、蒲生、頴娃某等)進んで市来城を攻め、先陣(喜入忠俊、樺山善久・蒲生宮内大輔)勇戦、後方忠将の大軍の控えを見て守将降り諸軍逃げ去る。続て串木野城主市来落城を聞いて降る。8月、「市来鶴丸城の戦い」で実久の弟・忠辰が討たれ実久は降伏、本拠地の出水へと隠棲(いんせい)し、争いの決がついた。入来院重聡(娘は貴久室)は市来攻略を機に暇を貰い、息子重朝に後事を託した。日新斎・貴久を助けたが後叛く。

 天文11(1542)3月、種子島家で14代恵時とその子時直の間に争いがおき、恵時から助けを求められた貴久は新納康久を派して仲直りをさせた。恵時は領地の割譲を申し出るが、領主としての道を歩むよう助けるのが本意と日新・貴久の意を体して説得したので、両者は心底から感謝して和し、忠孝を誓った。

再び加治木を攻めるが、他日を期して偽和議を結ぶ

大永7年に伊地知周防介を誅したが、実久の乱にあって討たず。その後北原兼孝が襲い取り、さらに肝付兼演これを掠め取った。天文11(1542)、日新斎・貴久は海上から国分生別府に上陸し、成敗に向かったところ兼孝が渋谷兵庫助・北原周防守を引き連れ来て進んで加治木城を囲み、激しく戦い、敗れ真幸院に去った。兼孝は元は自分の所有であり、是非攻め落としたい、と主張し日新に手を出させなかったのであろう。日新斎は1兵も失ってないがこの地の落とし難きことが分かり、兵を収めて生別府に引き上げた。その機に乗じ、隅州清水城主本田薫親が生別府を侵し取った。日新斎・貴久は樺山善久と議してこの地を薫親に与え時を待とうと偽和を約して去った。日新斎はこの地に対する諸家の執着が尋常ではない、それだけ大事なところ、と再認識し、そのうえ薩州でのわが軍の勢威が未だこの地には及んでいない、と冷静に判断し後日を期した。兼孝の戦うに任せ、兵を失わず兵を引く決断をしたこと及び薫親には偽和を結んでその場を凌ぎ他日を期したことに日新斎の冷静さが光る。大永6年に生別府を樺山信久に与え、今回善久から取り上げ本田に与えた。しかし天文17年(1548)貴久は本田を征し、生別府を落とし、沖浜・大野原を加えて長浜と号して善久に与えた。善久は日新斎の娘の婿、貴久の妹の婿であった。

鉄砲伝来 

天文11(1542)8月、種子島に南蛮船漂着、島主であり種子島家当主恵時の子である時堯がこれに直接対応した。その時鉄砲発射に驚き、その有効性を確信し、3丁を購入し、その術を習った。1丁を貴久に献じ、その術を紀州根来寺の僧杉の坊に伝え、これより本朝に流布した。1丁がいち早く貴久に届けられた意義は大きく、貴久の下で島津の装備・戦い方が、中央のそれに劣らず中央から最も遠い九州の片隅で、形作られた。日新斎・貴久と種子島家の深い良好な関係が貴久に鉄砲を献じる元となった。種子島内訌を宗家と共に乗り越えた強い信頼の絆もあったであろう。

天文14年(1545318日、貴久太守につく

豊州家4代島津二郎三郎忠廣(1)・北郷(ほんごう)讃岐守忠相(註2)等313日、伊集院に到り、伊地知・本田(貴久の近臣)を始め勝久の旧臣等と相談して貴久を太守に立てることを決定し、貴久公に受諾を懇請した。18日、貴久公は太守の任につき、日新斎これを補佐し、戦国大名として戦乱を終息させ、3州統一を強力に進めることとなった。

 忠廣・忠相の主張は①太守不在で乱が収まらない。②勝久公の養子は佞臣のために空しくされたが、すでに勝久公は無きに等しく(註3)、佞臣また成敗され、貴久公の太守就任を害するものはなく、貴久公(31)は春秋を糧として、成長され、度量寛弘・文武の才あり、国家の乱を鎮め太平の世を築き、民を冨すこと疑いない、であった。

忠廣の思惑:実久・日新斎の争いでは島津実久側に与し、勝久の重臣であった肝付兼演・本田薫親などと共謀するが、天文8年、貴久が市来・串木野で勝ち、ほぼ争いの決をつけたこと。同12年(1543年)には伊東義祐が攻勢を強め、日向にある島津家の砦が次々と陥落、飫肥危うし、という状況で宗家の後ろ盾を痛感したこと。北郷忠相と連携を深めその意見を重視したこと等が思惑(本音)と考えられる

1豊州家は島津宗家8代当主島津久豊の三男の島津季久よりはじまる。季久が豊後守を称していたことから豊州家と言われた。初代の季久は帖佐を領していたが、2代の忠廉の代から日向飫肥に移り、伊東氏と領土争いを繰り広げた。
2:北郷氏は、島津氏の有力分家。南北朝時代の島津宗家4代当主島津忠宗の子、資忠が祖、資忠は北朝方として功があり、足利氏より薩摩迫一帯(現宮崎県都城市山田町)の地を与えられ、郷名を取って北郷氏を称した。北原氏、伊東氏、新納氏、肝付氏といった周辺勢力と抗争を繰り返した。8代忠相は豊州家と結んで周辺勢力を討ち勢力を拡大、都城市・三股町・山之口町そして曽於市の一部(財部、末吉)に及ぶ都城盆地周辺一帯を手中に収めていた。
3:勝久公天文4年鹿児島を去って後、都城に到り8/9年ヲ経て、都城を出たのは天文12.3年頃であろう。忠相・忠廣が相談し、見限って、退去させたのであろうか。

 日新斎は力では実久を叩きのめし勝久去って決着がついた。今貴久は待望され、支持されている。予見した通りの条件が整って、太守の座に就く機が到来した、と思ったに違いない。太政大臣近衛植家衣冠を給うて是を賞す。

 国老に以下の6名を命ず。伊集院大和守忠朗入道孤舟、三原遠江守守重、村田越後守経重、伊集院掃部介忠倉、川上上野介忠克、肝付弾正忠兼盛。

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3節 本期の特筆すべき事項

これまで見てきた戦いは日新斎の思いや考えが濃厚に反映されており、日新斎手作り、と言っても過言ではない。その中から、薩摩を制覇し、3州統一へと後代に受け継がれるであろう大元とでもいうべき特筆事項を纏めておきたい。

1、太守補佐役

 【目指すべき太守】3州統一のため他を圧倒し領国を平安にさせる軍事力「軍事本分」と当主の統治力によって、島津一族・国人衆・譜代の重臣・領民から待望され支持される、権威ある守護職・力ある戦国大名となる。【政治のビジョン】大永7(1527)415日、勝久が太守の座を貴久に譲るに到った日新斎の人間力の中で、国主・国政のあるべき姿を説き、勝久が自らの至らなさを悔い、忠良にすべて任せよう、それが乱世を治める唯一の道と自然に思わしめた政治のビジョンは確かであった。【領民を思う】大永512月、帖佐城主辺川筑前守を討ち、勝久から伊集院を賜った。同地は村民離散し田野荒廃していたので、伊作・谷山の民の一部を移した。天文55月上旬、日新斎(在鹿児島)は実久に会い、和議を提案する。この時争いのため民業困窮という認識があった。民を常に豊かにすることを思っていた。【降るを許し、貪らず】戦いの間、降るものは赦し、本領安堵して仕えさせることを原則とした。名を存続させ、心服させることが狙いであったので、領地を貪り取ることはしなかった。

2、軍司令官日新斎

 戦い全局の指導は前述のように、すべて日新斎が何時、どこからどのように、を主導的に決めている。個々の戦い、例えば南郷や加世田攻めでは情報を入手し、それをもとに先見洞察して策略を立てる等主動的に行っている。

3、島津の士風

《主動の保持》情報を入手し、それをもとに先見洞察して策略を巡らすことと《滅私当千()の勢いを重視。
滅死当千()すべての戦いで日新が動員できる兵は領地の狭さから少なく、寡勢での戦いを本意としている。従って兵の多寡を問題にせず、死を恐れず命を棄てて立ち向かい、勢いを作り、常に主動の地位を保持して、所命を貫通し敵を撃ち破る。【日新いろは歌:ふ:不勢とて敵を侮ることなかれ 多勢を見ても 恐るべからず「少数だからといって侮ってはいけない。また大勢だからといって恐れる ことはない。」】
《主従一心》加世田攻めで見せた難戦になっても将が率先して一体となって戦う、本当に将が危ない場面では諫めて、身代わりになる。【日新いろは歌:こ:心こそ軍する身の命なれ そろふれば生き 揃はねば死す「心こそいくさする者の命である。自分たちの軍の心が一つにまとまっていれば生きることができ、揃っていなければ死を招く」
《薩摩一心》加世田新城攻め最中のわが軍の背後に敵来援軍が到着、これに気づいた貴久は数十人で圧倒的に優勢な敵来援部隊を攻撃した『滅死当千()』が逆に包囲されて絶体絶命となった。これを忠将がわが身の危急も顧みず救い、破った。このことで城も落ちた。

4、『川辺を征して、城主に直臣の新納康久を命じ(地頭役を兼務させ)、平田新左衛門宗清に一部の地域の地頭を命じた』意義

 川辺の内、平田が受けもった永田・高田・宮は加世田と隣り合っており、加世田と連携させ南薩統治を即機能させる狙いもあったのであろう。新納康久は一所持ちの(地頭兼務)に、平田宗清は任地指定の地頭として概念区分が明確であり、日新斉による外城・地頭制の礎となる着想がすでにできていた裏付と考えたい。そして、上記は「幕藩制の一つとしての地頭の起源沿革等について、まだ必ずしも詳らかでないが、太田喜久雄氏は、明応4年(1495)辺川氏を帖佐地頭とせるを嚆矢とすると云われる。近世的藩職制(筆者註:藩レベルで軍事動員化をねらいとする)の一つとしての地頭が戦国期のそれを継承改変したものである事は、()容易に推察できる。」(桑波田興、戦国大名島津氏の軍事組織について稿、島津氏の研究、福島金治編)とあることから、日新斎は新しいタイプの地頭出現という傾向にいち早く着目し、外城制・地頭制という軍事動員化の着想を持っていた、と思いたい。

 前述した西藩野史における地頭配置の例が川辺だけなのか、他にもあって記述していないだけなのか、本当にこれだけなのか、今はよくわからない。

 日新斎は自由になる領地を増やし、一族に私領を与え或いは直轄地を増やし、直ちに自己着想の外城制・地頭制に組入れ、3州統一に向かって大動員できる体制構築に着手したかった、に違いない。しかしそれは慎重でなければならなかった。特に新しい領地を獲得した初めの頃は直轄地を増やすよりも、力のある者を城主(所領持ち)とし、それらを通じて、現地を掌握することを優先したであろう。降った者はその功やその祖以来の貢献等を考慮し赦して城主(所領持ち)とすることも多かった。外城制を左右する所領持ち(既得権者)にとっては、直臣・新参を問わず、藩主に諸事掌握された“ため”のない軍役への抵抗は強い、とわかっていたからであった。3州統一&安定経営のため、この着想を温めつつ、出来ることから着手し、その機が来たら果断に行う、自分の代で駄目なら後代の誰かが行うべし、という遠大な構想であった。

後に島津藩が完成させた外城制の形

薩摩独特の行政区画で薩摩51郡、大隅42郡、日向諸県郡20郡、合計113(外城)に分け、これらの外城の中心には領地防衛のため武士が集住し、麓を形成した。島津氏直轄の外城は島津氏の直臣が地頭(直の地頭)に任命されてその地に住む根生いの武士(外城衆中、後の郷士)の指揮権を与えられ、外城衆中も微禄ではあったが島津の直臣であった。地頭を支え、地頭と衆中を繋ぐ内衆と呼ばれる地頭直属の家臣がいた。一方大身の有力家臣は、自らの外城を持ち、一所持ち(私領主)と称され自ら地頭職機能を持ち、必要に応じ内の地頭をおいた。新しく領地が増えると、直轄外城領又は一族の私領として、直轄外城には島津直臣の中から選んだ地頭を配置し、領内各地から衆中(郷士)を集めて麓を形成し、地頭に付与し、直接島津氏が掌握した。一所持ち(私領主)は本来の隷属関係の中で、任務として地頭機能を有し、内の地頭を任免した。内の地頭の職責は直地頭に比し限定されていた。麓の中を5人、または10人一単位として、切磋琢磨・連帯させ、島津軍事組織の末端とした。

5、島津の士風形成の元になる教育訓練活動

 日新斎は伊作や田布施等におけるその外城ならではの精神教育、掟、部隊行動要領、戦技の共有、武具・装具の操法等の教育を自己着想の地頭-衆中制の系統で行わせた、と思う。特に精神教育は忠誠心、(郷)士としての誇りや矜持、決まりの厳守・麓等の基礎単位部隊(例えば5人組10人組)の団結などに加えて士道、人道(忠孝)などについて自作(中)の教導歌(いろは歌))を元にした。教導歌(いろは歌)は後に新参と旧臣との家臣団の融和・一体化、島津の士道・人道の規範を共有させるねらいのためにも活用された。

 日新斉は5年余の歳月をかけいろは歌を天文14年(1545)頃作り、歌の大家花本宗義と先の関白近衛植家の跋文を貰った。そして人の生きる道、人の上に立つ者の心得を郷士や領民に広く教え諭した。特に薩摩藩「郷中(ごちゅう)教育」の基本の精神とされた。義弘も多大な影響を受け、その後も薩摩武士、士道教育の教典となったたといわれる。

 郷中教育とはレベルの高い郷士を育て、嗣子の近習に相応しい等の人材発掘のため、少青年の内から教育を行うというものである。その起源は島津義弘によるとされるがその大元は日新斎の孫4人を呼びつけての教育、預かった少年達の教育(後述)、隠居後の加世田の日新寺の一隅に塔頭(学問所)を作り、自らの学問や修行僧・一般領民の教育を奨励したなどにあったと思われる。

6、日新斎の育てる情熱

日新斎は面倒見がよく、教育熱心である。孫の義久・義弘・歳久・家久について、貴久太守就任後は伊作に呼んで、直接訓育した。義久にはいずれ3州を統一する太守・総大将としての器量の養育に、義弘・歳久・家久には義久を立て従い、勝軍を統率する才の養育に重点をおいた。武技・武術や体力・気力錬成の山坂行を基礎に鍛えた。民政、作戦・戦略・統率、士道・人の道を究め、教養を身につける基礎をしつけた。頼ってきた、義理のある、不憫な少年には教育の機会を与え或いは自ら訓育してその才を見抜き仕えさせた。後に大口地頭となる新納忠元、長じて川辺地頭、後に家老となる新納康久、紫原決戦で我への内応が露見し自刃した河野通能の子で後に筑後通泰と名乗る伊勢松丸(9歳)、実久に与し我に降ったが切腹させた日置城主山田有親の子有徳等への感化は大きく、後に活躍し、島津家・国に貢献する人材となる。いろは歌並びにその元になる神・儒・仏道を究めた日新流及び軍・政学等を駆使した教育を基礎とし、教育実践そのものが弟子の鏡であった。
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