勇情兼備の武将島津義弘(その4)
~島津忠良・貴久・義弘、中興三代の大業と士風
その3の九州制覇までは、武将義弘を理解するため、祖父忠良からの戦いを主に見てきた。そのことで九州統一をほぼ達成するに至った戦国大名島津の成長・進化とその余禄としての島津の士風(戦いぶりと人作り)の継承・発展を把握出来た。これからは豊臣、徳川という中央政権へ臣従する大名として生きる中で生ずる危機への対応、特に生き残り策と戦いを主に見ることで忠良~義弘が目指した国・軍の実現の在り様と武将義弘をより深く理解したい。そこに余禄島津の士風(戦いぶりと人作り)がどのように絡むかも観たい。そこを大方針としてその4では文禄の役で義弘が日本一の遅陣をして、改易の恐怖を味わい、このまままでは御家滅亡、という危機感を抱き、この恥辱を晴らすのは戦いしかないと必死で貢献する途を模索し、同時に体制改革のため太閤検地を働きかけ、実現させた。検地による改正の朱印で、義久・義弘の蔵入地は格段に増えたが、家臣の知行は半減し、総所替えとなった。これは島津に対する豊臣の楔の意味もあった。これに地頭・外城制の再構築を合わせて、長い目で豊臣御政権の軍役に応じられる体制・体質への転換がはかられることになった。義久と義弘は政治的立ち位置が異なり、家臣団も混乱や対立し、危機が芽生えた。
尚生き残り策については主に島津義弘の賭け(山本博文)及び*戦国武将島津義弘(平成18年度開館二〇周年記念特別展図録、姶良町歴史民俗資料館編)所載の資料並びに山本博文氏の所説に拠って思考した。特に断らない限り挿図は*資料による。
本篇の構成
第4章 豊臣政権への臣従と島津の危機への対応
第1節 豊臣政権の要求
第2節 文禄の役への出兵
第3節 文禄の役での戦い
第4節 太閤検地
(以下その5)
第5節 慶長の役への出兵
第6節 慶長の役での戦い
第7節 庄内の乱
第5章 徳川政権への臣従と島津の危機への対応
第1節 関ケ原役前
第2節 関ケ原役
第3節 関ケ原役後
第4節 関ケ原役戦後のその先へ
終章
以上
第4章 豊臣政権への臣従と島津の危機への対応
第1節 豊臣政権の要求
豊臣政権が島津に限らず服属する大名に広く求めたこと
《領主を国元から離し、膝下(京)に詰めさせる朝の務め》
秀吉は義久に京師への朝を命じた。義久は天正15年(1587)6月15日鹿児島を出て、筑前岩屋に到り、秀吉から召されて博多へ出頭。そこで22日秀吉から宴に招かれ、人質伊集院幸侃も招かれ侍した。義久が京に到着、秀吉帰京ごも宴に招かれ、費用分穀禄5千石、後に幾田1万石を賜った。
《妻子等を国元から離し、膝下(京)に居させるー人質の務め》
義弘嗣子久保、義久3女亀寿、彰久、忠豊(家久の子)の母(樺山善久の娘)、忠豊の妹
、これに従う国老忠長が質として上京。他に国老伊集院忠棟。
《軍役の務め》
秀吉は肥後の佐々成政の失政を怒り、九州の諸候に征伐を命じた。京にあって命を受けた義久は伊集院荒侃を派遣、伝えた荒侃はそのまま帰京。12月、義弘(8月義珍から改名)は軍を率いて、征伐に加わる。成政が罪を認め京に出頭したがこの間に命を受けた加藤清正らが成政の悪政に加担したものを討った。ので軍を退いた。後に北条征伐や2度にわたる朝鮮出兵があり、軍事以外では城普請等の役務がある。
豊臣政権が島津に特に求めたこと
《方広寺大仏殿の材木と巣鷹の上納》、領内の杉・檜をすべて調べ提出、屋久島へは荒侃と忠長が直々に調べ残らず書き出し、島の者は一本も伐ってはならない。《刀狩り》、天正16年7月に地下の武士の刀を取り上げるよう命じ他大名は提出したが、何度も命じたにもかかわらずまだ領内に命令すら出してない、と三成等に義弘は難詰される。《琉球に秀吉への服属の使者を送るよう計らうこと》、最も義久を悩ました要求である。今まで義久と琉球王との間で貿易し友好関係を保ってきたが、自分が服属したから、琉球も服属せよと言い難く、苦悩しつつ、琉球へ戦勝祝賀の使節を送るよう書状を書いた(天正16年8月12日)。しかし琉球は無視する。その件を石田三成から義弘へ厳しく糾問され、17年正月20日には、重ねて島津の態度を非難して、秀吉の軍の琉球差し向けを匂わし、そうなれば面目を失うのは島津だ、さらに遊山ばかりで、この命令を遂行しなければ、お家の滅亡、と義弘を脅している(三成・幽斎連署状)。《勘合の儀》、明から望むようにし、その上でこちらから命じられるよう取り計らえ、という超難問が与えられた。《賊船の儀》、倭寇の取り締まりは明との国交を開く要求の基本条件である。薩摩の浦々特に出水には日本人による倭寇の拠点がありこれを厳しく取り締まれ、という要求である。琉球や明国に関する諸命令は外交・貿易権は秀吉が完全に掌握した、ということであり、これに逆らうことはお家の滅亡を意味した。《太閤検地》、(後述)。
取次が握る島津の命運
秀吉政権は大名の申し出や献上物を秀吉に披露し、前記要求などに関する秀吉の命令を大名に伝える取次というものを設けており、秀吉は朱印状で大名に命令するが、そのさい取次に添え状により具体的細部指示を行わせる。しかし取次には大名に豊臣政権から期待されている行動を指南し、大名家の態勢強化の助言を行うという役目もあった。非常に幅広く、取次の裁量によるところが多い。島津に対しては細川幽斎と石田三成であった。
秀吉は近代化が遅れている西の遠国、海洋交易立地という島津に注目し、警戒しつつも末永く政権を支える有力大名となることを期待して最側近の三成を取次に充てた。従って大名島津はこの取次の指南や助言に従ってその存続を図る、という立場にあった。しかし、「愚慮」で九州制覇の野望が潰え、秀吉の軍門に降り、前向きさを失った義久及び島津藩は、豊臣政権に距離を置こうとする。結果、改易へ向かう(危機)流れに堕してしまう。その流れに掉さし、秀吉政権と真摯に向き合い、機会を掴んで、島津の生き残りと近代化を図ったのが義弘であった。もう一人伊集院荒侃もいるが両者で決定的に違うのは"私"の有無である。義弘は純に領国・島津のためを思い、荒侃は秀吉の威をかりて島津には私意をもって接するところがあった。
それをこれから見て行きたい。
義久と義弘が朝を交互に務める
天正16年(1588)5月、義弘は京への朝を命ぜられ、6月4日大阪城で秀吉に謁し、従5位下に叙せられ侍従に任ぜられた。島津は義久と義弘二人が朝を命ぜられ、交互に努めることになった。7月5日には義久が召され、摂州・播州の内に采地1万石を賜った(先述の朝の費用に充てよとの秀吉の意)。7月26日義弘従4位下に叙され、秀吉の姓を賜って羽柴兵庫頭豊臣義弘と称す。官位も義久に並んだ。8月3日には久保に給わった日州諸縣郡を久保が未だ嗣子であるからと義弘に賜った。西藩野史はこの8月に義弘は17世の太守に任ぜられた、としている。このことは後太閤検地の知行割のところで再考したい。9月、義久、帰国を許され帰国。この時細川幽斎のとりなしで質の娘亀寿を連れ帰る。義久と幽斎の親交深まる。天正17年8月10日、義弘暇を賜って帰国、この時飯野から栗野へ移る。義久は8月24日鹿児島を発って9月24日聚楽第で秀吉に謁す。屋敷を伏見に給う。秀吉は義弘を義久と同格に寓している。
義弘は朝のため、上洛しょうとする自分(義弘)に供をしょうとする老中が一人もいず、反銭(段別銭ともいう、この場合は朝のため特定の田地に対して臨時に徴集する金銭)・屋別銭(棟方銭ともいう、この場合は朝のため、特定の地域の棟毎臨時に徴集する租税)等の費用捻出を命じても一文も集めていない、と書き送っている。(宛義久に従って在京している比志島国貞(紀伊守、市来地頭)・本田正親(因幡守、加世田地頭)、天正16年4月21日)
天正16年冬、帰国した義久は 国中が衰亡の極に達しいうべき言葉もない、と驚愕した旨書き送っている。(宛日付欠石田三成宛書簡)
義弘・義久に映る国元の状況と向き合う態度の差
義弘が義久に代わって朝、秀吉の命令に従う、の任を果たすのは領国の為であり、それが義久の荷を軽くする、ことと信じて疑わなかった。にも関わらず義久の周りの家臣は義弘の命には全く服さない。その理由は二つある、と私は考える。一つは国元の老中は義久の息がかかった者たちであり義弘に仕える義務を感じていない。二つ、国元に漲る豊臣政権に協力する者への冷ややかな視線と豊臣に精を出すならそれは秀吉に貰った禄高でやればという突き放した空気感に左右されていた。義久もそう思っていたのであろう、命ぜず、きづいても正そうとしないのでそれをよいことに改めようとしない。義弘には老中の怠慢は非公然の怠役に映り、このままではお家が危ないと感じ、家臣団の統制や体制改善等を取次の力を借りてでも手を打つべき、とやがて考えるようになって行く。そして帰国した義久には衰亡の極みと映り、自分が領国にいない期間が長すぎるからと考え、義弘・久保と1年置きの在京を三成に希望する。そして、家臣が、領地・役職・俸禄を失ったり、働き手を亡くして困窮する状況に心を痛め老中の内向きに同調し、藩全体を覆う士気低下・規律の乱れという目の前の現実に本気で向き合わなかった。取次三成に惨状を報告するが解決案を示し、腹をわって取次の力を借りるという発想もなかった。この両者の違いは義弘が豊臣政権と取次の実力を認め向き合おうとするのに対し義久は取次も含め豊臣政権を信用せず警戒する姿勢をとるところにあった。
義弘の異例の要請 何故?
義久の上記二度目の上洛には義弘の異例の要請があった。天正17年(1589)4月6日の書状がそれである。それはなぜか?それには三成の義久上京への強い督促があったからである。なかなか腰を上げようとしない義久に豊臣政権と距離を置こうとしている、それでは通用しない、と三成は感じて義弘に再三要請した。そこを汲み取った義弘は徳川家康についての最近の噂(註)を例に家康のように秀吉と余儀なき間柄であっても世間では噂するので、漸く存続を許された島津のような家は万時御遠慮が必要の時です、と付け加えた。義久が要請を受けず或いは上洛が遅れると、三成からどのように秀吉に言上されるかわからない、或いはどのような危険な噂が広まるかもしれない、ということを義弘は最も心配したが遠慮して行間に滲ませるにとどめた。
註:義弘の家老新納旅庵が家康の家臣から聞いた話と断って、家康家中の者が主人に「不相届仕立(逆心のこと)」があると秀吉に書面にて言上した。秀吉はその書状を家康に届け、言上したものを京に召して糾明すると通告した。家康は妻病気で帰国せんとしていたが、落着迄京に滞在することになった。
京で情けない島津の姿
秀吉に服属した朝の初めに義弘が思ったことは解消されず、国持大名かたなしの姿が引き続いた。この模様を義弘は義久の家老鎌田政近に書き送っている(天正19年(1591)5月7日書状)。政近は木崎原の戦いで50騎を率い木崎原に伏兵となり、大勝利に貢献した。その後も数々の戦で義弘に従って功を立てた。義弘と気ごころの知れた間柄である。義弘は赤裸々な姿を政近を通じ義久に伝え、義久に気づいて欲しいことがあった、に違いない。
「国持の大名といえば、毛利・家康の次に島津であるが、島津が秀吉様の御用に立つことは一つもない。例えばどこかで一揆があって、先手の兵に加えて貰おうと思っても手持ちの軍勢がいない。秀吉のお側に加えて貰おうと思っても、騎馬の者数名では、話にならない。かといってお伽衆(秀吉の側近に侍して相手をする職名、雑談に応じたり、自己の経験談、書物の講釈などをした人)の役もできず、御普請の御用にもたたず。とあっては国持大名の家を長く保てようはずがない。また格式に見合う体裁も見すぼらしい限りで借銀での在京など言語同断、国の置目(政治やきまり)をゆるがせにしていると言われて、上様の不興をかうであろう。」(要旨)
何故この状態が続くのか。それは義弘の腹、本気で秀吉に仕えようとしない、だから家臣も右へ倣えをしている、にあった。義弘はそれを感じ、義久に気づいて欲しかった。三成も同じことを感じていた。
三成の豹変と義弘恫喝
この書状のなかで、義弘は「この頃は何たることを聞きつけられ候哉、はたと相替わり、島津家滅亡は程あるまじく思はれ候て、取次なども公儀向きまでをと承り候条々多々候」と述べている。このことについて三成の家臣で島津との連絡担当の安宅三河守秀安から聞いた話として「取次の三成と幽斎が(内々に立ち入り)国の置目から京都屋敷の造作まで念を入れて指示したのに、一つも首尾よく達成したものがない。三成は『これは義久が得心せず、真剣に取り組んでいないからだ』と考え、『とんだ見込み違いをしたものだ。もう取次も内々に立ち入っての熟談はよそう』と決意したようです。三成は『とても島津は長くは続くまいと見限った』と繰り返し仰せられました。」と書いている。
ここでは三成は島津の豊臣政権の期待に応えてない現状が義久の態度にあることを認識し、良くて国替え、悪くすると滅亡と義弘を脅し励ます。
さらに三成が聞きつけたことについて秀安の話を「就中三兵(秀安のこと)物語に、京儀へ精を入れ候ものは、惣別国元衆へ気に外れ(嫌われ)、龍様(義久)も我等(義弘含む)も国元衆へ同意候て、京儀をも題目と存じ寄らざるの由、治少(三成)聞き付けられ候由に候。誠に大事なる儀に候。」と述べている。
義弘は国元に反豊臣の感情が根強くあり、そのために豊臣のために働く者へ冷たい視線が向けられ、それに義久が同調していることを察していた。それは義久が豊臣政権を警戒して距離を置こうとしているのに対し義弘は豊臣政権に役立つことが島津の存続を図ることと考えてきた路線の違いに気づいたからである。その上で何とか義久に気づかせたい、三成に苦しい状況を理解して貰いたい、と務めてきた。しかし、三成は義弘のジレンマに理解を示しながらも、敢えて、義久に遠慮して豊臣政権の要求を疎かにしている同調者とみて、滅亡への道を歩むなと義弘を恫喝する。
義弘の最悪事態への危機意識
ここに至って義弘は国元の非公然の怠役に打つ手がないと感じつつも豊臣政権の要求を疎かにしている同調者とみられてはたまらない、と思うと共に今の島津のままではいつお家滅亡への落とし穴に嵌っても不思議ではない、と危機意識を持つようになった。
特筆事項―義弘の役割意識
《朝の当初に義弘・義久の国元の状況に向き合う態度に差が生じたのは何故》生まれてこの方義弘は貴久に仕え、いずれ太守義久に仕え・支える武将という宿命の下、義弘は多くの役職を得て戦いを経験した。その中で一貫して未知の役割を身を顧みない実践(実戦)で果たし、前向きに限界を超えてきた。言い換えれば最初は軽い所から始まり段々地位が上がるが、置かれた状況の中で与えられた地位・職責などから自分がどうすることを期待されているか、そのなかで何が一番求められているを考え実践するくせ(役割意識)を磨いたので、重い役割・責任への堪性が身につき、降伏・朝を受け容れ、国の代表として対外折衝という役割に前向きに取り組んだ、のに対し、義久は生まれつき太守として育てられ、周囲が身を顧みない冒険をさせない環境にあった。このため、おぜん立てに慣れて、大宰相としての天賦の才はあるのに未知を突き破る、自らの限界を破る経験を積み重ねなかった。ために九州制覇という未知の大舞台では震えて「愚慮」を犯し、降伏後豊臣政権に臣従するという未知の経験ではそこに自分から飛び込もうとせず(飛び込めず)、従って豊臣政権と距離を置いた。若い頃両者の対応が対照的であった例がある。馬越城を落とし大口攻めの準備をしている間に、敵3000余が堂崎に出陣し、馬越城にいた義弘は僅か200余で攻めようとした。義久は制止したが義弘は戦機逃すべからずと聞かずに突っこみ、忽ち苦戦に陥り、戦いつつ退き、義弘自ら殿して敵をひきつけているうち、部下たちが追い付き或いは義弘を死なすなと友軍が駆け付け、ついには形勢を逆転して勝った。この時制止した義久はその場を離れ、後刻救援に向かっている時に勝利を聞いて引きあげた、という。
《義弘の義久の家老鎌田政近への書状(天正19年(1591)5月7日)に表れた役割意識》役立ってない現状や見苦しい現状等を心に留め発信していることは義弘が本気で豊臣政権に役立つこと及び島津のためになることは何か、何が出来るかということを当主の代わりに朝に任じるという立場で突き詰める役割意識をずっと持ち続けている証左である。《義弘の最悪事態を避ける覚悟に表れた役割意識》お家滅亡という最悪事態にいち早く気づき、体制変換等に着手すべしという覚悟を持てたのは義弘が当主に代わって朝に任じ、自分が薩摩にいる時は当主に代わって国を見る、京にいる時は島津を代表して対外折衝に当たる、と機会を疎かにせず、常にお国・お家第一に考えて、己が為すべき役割を考究し続けていたからといえる。
秀吉の北条攻め
天正18年(1590)2月、秀吉20万を動員して臣下の礼をとらぬ北条氏政成敗のため、出陣、久保これに従う(初陣)。桁違いの武力・経済力・支配力で長期にわたって小田原城を囲み、7月8日氏政降り、伊達政宗、佐竹義重、上杉景勝始め東国・奥州の輩悉く降って秀吉の全国統一なる。
第2節 朝鮮出兵で島津存亡の危機出来
その1 島津義弘日本一の遅陣
武力で日本統一を完成させ自信を深めた秀吉は天正19年(1591)暮れ、日本・寧波・琉球・高山国(台湾)・呂宋(ルソン)を結ぶ環東シナ海国家とでもいうべき構想を掲げ明国を討つため、朝鮮を経る旨、朝鮮王に諮ったが拒否された。従って先ず朝鮮を討つことに決め、西州の諸侯に、名護屋に城を築くよう命じた。諸候は主君自ら縄張りに当ったが、島津は義久病気のため義弘がその役を果たす。また薩摩には義久、義弘、久保、新納忠元に軍を率い明年朝鮮に攻め入るよう命じた。
後に秀吉は朝鮮に行かないものを責め、義久もそのうちの一人であった。徳川家康がとりなして義久の渡海を免除、忠元も免除され、義久はお礼言上のため5月5日鹿児島を発ち、6月5日から名護屋につめた。
文禄の役経過図
天正20年3月13日、朝鮮への渡海命令が発せられ、4月13日、9軍・総勢16万余でもって朝鮮への出兵を開始した。第1軍(長小西行長等)が先鋒となり釜山浦へ上陸し、即日釜山城を落とした。続いて17日には第2軍(長加藤清正等)が釜山浦に、同日に第3軍(黒田長政等)第4軍(毛利吉成等)が慶尚道金海に上陸、19日には第6軍(小早川隆景)・第7軍(毛利輝元等)が釜山浦に上陸、第5軍(福島正則等)も金海へ上陸し、続々と朝鮮内陸へと破竹の進撃を開始した。29日、第1軍が東大門から、5月3日第2軍が南大門から漢城(ソウル)に入り、後続8軍(宇喜多秀家)も漢城に入り、さらに内陸を目指し始めた。25日秀吉は肥前名古屋に到着し、この報を聞いて、自ら渡海しょうとしたが、家康・前田利家が押しとどめ、石田三成・大谷吉継、増田長盛の3名を奉行として派遣することにした。
西藩野史には島津義弘は2月27日、子の久保と共に国元を出、3月28日名護屋に至り、4月12日義弘久保薩隅日三州の兵一万を卒し衆諸侯の大軍と共に名護屋を発す、とある。しかし実際は国元をでる時から軍船が一艘も来ず、数人の供を連れ賃船を雇って壱岐へ渡り、諸藩の軍船でごったがえすなか、漸く12日国元からの私船・賃船を捕まえ、17日久保が、28日に義弘が対馬へ渡り、5月3日に釜山港に上陸した。身を潜めるようにした渡海、綱渡りの船繰りで属していた第4軍・毛利吉成とは10日も遅れ、ついに合流できなかった。
義弘はこの時の思い悩み無念の心境を2通の書状に吐露した。
妻宛の書状
「国ぐにの大名小名舟数をかざり、われもわれもと打渡らるに、借り船の事にて時分おくれ、諸軍衆の跡になり候間、ここもかしこに泊まり泊まり、忍びわずらい、あはれをとどめたる事にて候。」(年月、日)
義弘は妻宛には各大名が我も我もと渡海しているのに、我等はそれらの後を肩身狭く渡海した。まことに情けないと嘆いている。
国元の家老川上忠智宛の書状
「唐入りの軍役を調えると老中(島津家老中)の談合で決めておきながら、今船が一艘もこないというのは、お家御国を傾けるだけのことだ(中略)龍伯様御為、お家の御為を存知、身命を捨て、名護屋へも能時分に参り候得ども、船延引の故、日本一の遅陣に罷りなり、自他の面目を失い(中略)無念千万に候事。」(5月5日)
島津滅亡の危機の実感
義弘は忠智に日本一の遅陣、と無念千万の思いを伝えながら、憤りの矛先を老中連中へ向けている。家臣団の非公然の怠役(反豊臣感情からくる軍役への非協力姿勢と豊臣政権に協力するものへの冷たい視線加えて義久の命令以外聞く耳を持たない)に対し、御国を傾けるだけだ、と歯ぎしりしている。
今までは義弘の感覚に留まっていた島津の滅亡にたいする危機意識が、この「日本一の遅陣」という失点の渦中にいて、本当に改易されてしまうかもしれないという恐怖をともなう実感となった。ここに至って義弘は体制変革の必要性を痛感することになる。
太閤検地への覚醒
義弘は中央政権に直接触れることで、島津の問題に気づいた。降る者は許してその土地を貪らず隷下に加え、薩摩一心で戦ってきた日新斎以来の緩やかな統治法は島津の良き士風であり伝統であった。多くの戦いの中で最後まで戦い敗れて領地没収に到った例よりも、途中で降り領地、一部没収はあるが、を安堵され家臣に加わったものが圧倒的に多い。没収した"少ない"土地は戦功のあった家臣の賞と当主の蔵入り地に充てられた。そして長年にわたり、有力家臣は多くの土地を固定的に所有した。当主の蔵入り地は少なく、貨幣が未発達な領国では土地が経済力・軍事力そのものであって、戦いはおのずと近傍・短期間に限定されてきた。数万を動員しての筑前攻め及び豊後攻めでその限界、三日分の兵糧持参が主で後は現地略奪、に気づいた。一方豊臣という中央政権は九州攻めで20万という軍勢を動員し、その軍勢をまかなう交代人員・兵糧・武器等を長距離、陸・海併せて、長期間にわたって、途切れることなく、送ることが出来る。それだけではなく軍士の生活・文化等の満足も満たせる。
秀吉は早い段階から直轄地が増えるたびに検地を行い、征服地の検地も行って、同一の基準(石高)で収穫量を掴み、大名の石高と任地を決め、軍役動員の基準とし、税徴収の基盤としてきた。そして今秀吉は島津に対しても有無を言わせず検地を考えているようだ。ただ遅く服属し、近代化が遅れ、自ら検地が出来ない大名で、(殊勝に)申し出があれば他大名と並びで軍役を負担できるよう手助けするという狙いもあるらしい。
秀吉が築いた軍役体制・基盤は一言でいえばものすごく近代化されている。秀吉は各大名をこの体制に適応させている。適応できない大名は容赦なく改易されている。この政権の軍役を担うということは、島津も近代化して適応しなければならない。それは有力家臣をしがみついている土地から離し当主の蔵入り地を増やす、ことに尽きる。それはものすごい反対があり、気が重いことである。
日本一の遅陣という失点で義弘の改易になるかもしれないという恐怖は豊臣政権の要求(期待)に応えられる家臣団統制や長期遠征等の軍役動員ができる体制・体質への変換、生まれ変わり、へ早く楫を切り、そのために中央政権の力を借り、積極的に関わることで目的達成を早め同時に努力を認めて貰いお家滅亡という最悪事態への転落を防ごう。義弘の胸のうちで太閤検地の活用への思いが胎動し始めた。危機感のない国元は検地に反対するだろう、肥後・佐々成政の例もある。そのリスクはあるが最悪のお家滅亡を避けることの方が大事だ、と秘かに考え始めた。
その2 梅北国兼の一揆
さらに「日本一の遅陣」に追い打ちを掛ける想像もしない事態が起きた。梅北国兼が義弘に従って出兵のため舟待ちをしていた肥後佐敷で、佐敷城(6月15日、城主加藤・・)を乗っ取り、八代城も乗っ取らんとする暴挙を引き起こした。10日も経たないうちに、梅北は殺害され、残党も撃ち果たされ、騙された者たちも復帰して終わった。梅北は山田地頭に任ぜられ、蒲生松坂城攻めで義弘と競うようにして先頭にたって功を挙げる等名を知られていた。その経緯を西藩野史は梅北は義弘渡海の後平戸にあって、義久の名を騙って兵を集め、名護屋に赴く者を悉く騙しその数2000余人。手薄に乗じて肥後国を奪い、秀吉を殺し昔時の仇を報ぜんとした、とある。義久の名を騙ったことについて、野史に「龍伯公名護屋にあり、公如何せん国兼曰公に変あらば歳久をもって太守とせん」とあるので義久・歳久が御輿に載ってくれるはずという甘い見通しがあったのであろう。実際、これを裏付けるように、梅北は反するに当たり、名護屋の義久に薩州からを装って使いを出したが義久によって秘かに誅された、とある。また佐敷は肥後と薩摩の国境であり、義久の領国薩摩或いは歳久の領国北薩摩の支援を得て肥後国奪取の取り掛かりという妥当性が一応あり得る。
名を騙ったことを秀吉怒って曰「彼既に龍伯(義久)か命を称す罪なしとすべからず」、と罰を与えようとしたが、家康が罪なきこと問はずして明らか、と庇い、秀吉怒解く、とある。
梅北は国元の兵を集めようとしない状況とこれをゆるす義久の統率に反出兵・反秀吉の一揆への理解・同調が得られる、流れを作ってしまえば名を騙ったこともゆるされる、と誤解したのであろう。秀吉は名を騙られた義久の罪、を糾弾しょうとした。その深意は豊臣政権に真剣に奉仕しょうとしない義久の態度を責めることにあったであろう。しかし家康が庇い、義久の即時の処置が適切だった(後述)ので、渡海たけなわの時に、義久の罪を責めている場合ではないと鋒を一旦収めたに違いない。
義久と義弘の危機意識
秀吉は朱印状で「今度島津家中の者、不出陣の者相改め遣わされ候の処、その内梅北宮内左衛門尉と申す者、遅渡海の儀迷惑せしめ、佐敷辺一揆を企つの由、義久名護屋に相詰め、則言上候。」(6月18日)と義久の報言をそのまま採用したと述べている。従って、義久は名護屋に来て遅陣の状況を知り、命令を出したが、不承不承従う者の中で梅北国兼が渡海に遅れ自暴自棄になって一揆を起こした、と秀吉に則報告したわけである。となると義久は名護屋にきて遅陣の状況をこの目で見て、渡海の命令を出さざるを得なかった、出しても言いつけを聞かないものや不承不承の者が多かったこともわかっていたはずである。だとすればどうしてそうなるのか?それはなぜかに思いが及ぶはずである。
義久は義弘に書状で「忽ち諸家より、言上致され候へば、愚拙相果つべき様躰別儀なき処に、最前言上せしめ候の故、太閤様、上意忝く候て、進退奇特に安穏の事、まことに天道の加護にても候哉、不思議の子細の事。」(7月日付け)と述べている。誰からも遅れずに即座に言上したことで秀吉の心証を良くし、身の破滅から逃れることが出来た、と自分の当座の対応に焦点を当てて安堵の心境をかたっている。確かに義久より先に他のものから秀吉へ報告がなされていたら、義久が名護屋にいなかったら、と思うと相果てても不思議はなかったからそれなりの重い危機意識ではある。しかしここで日本一の遅陣について島津の置かれた状況への懸念や義弘の無念や苦悩を気遣う言葉は確認できない。
義久は国元の非公然怠役と自らの関与、統率の甘さを自覚しておらず、お家滅亡への危機意識が希薄、といわざるを得ない。それが遅陣の痛みや問題意識を義弘と共有しょうとせず、秀吉の深意にも気づかない根本の問題である。この原因については後程細川幽斎の仕置きのところで考えたい。
義弘は国元の怠慢と義久の関与、ゆるゆるの統率が梅北を誤解させ一揆を起こし、日本一の遅陣の傷をさらに拡げた、国を治め・秀吉へ仕えるのに一時の油断があってもいけない、と気を引き締めた。秀吉の表面(おもてづら)に関わらず、本当に改易されてしまうかもしれないという恐怖をともなう実感はより深刻になり、お家滅亡への危機感は愈々昂まった。
その3 秀吉、歳久の罪を責める
島津の危機はまだ続いていた。秀吉は細川幽斎に歳久の罪を責め、検地による薩摩仕置きを命じた。これに先だち義久は暇を賜り、国兼の残党処理と幽斎の仕置きへの協力のため、国へ帰った(7月5日)。9日に幽斎は鹿児島に到着。国老比志島国貞・白浜次郎左衛門に対し、秀吉の命を告げ、歳久の5つの罪を軽きにあらずと責める秀吉の告文を見せた。①征西の日、義久以下降ったのに病を称して出頭せず②祁答院通過の際、嶮難の径を嚮導し、山賊によって軍を悩まし、兵を殺した③今に到るも朝勤の礼を失す④命を叛き朝鮮に至らず⑤梅北が叛歳久が臣多し。
国貞等義久に告げる際、群臣を集めこの命を聞き、一同寝耳に水で、驚愕した。
この直後に秀吉から義久宛の朱印状が届いた。その中に歳久に関し、「先年薩摩へ軍を出した時、歳久は慮外の働きをした(上記①②)ため処罰しょうと考えていたが、その方と義弘を赦免したため同様に許した。しかし京都に参勤することもなく(③)重々不行き届きなので、京都からでも命じようと考えていたが、ついでもなく延引していた。今回、もし歳久が義弘と共に朝鮮にわたっているなら、その身は助け、家中の者に悪逆の棟梁(梅北一揆を指す)がいるのであろうから、十人も二十人も首をはねて進上せよ。もし朝鮮に渡らず国元にいるのであれば、かの歳久の首をはねて提出せよ。」とありどうすべきか明確に示してあった。((原文)7月10日付け、島津義弘の賭け・山本博文所載より転用)
義久は秀吉の表面(おもてづら)に安堵して、秀吉の深意を聞かされず、幽斎の薩摩仕置きに協力とのみ言われて、帰国したが秀吉は内心、歳久責めで梅北一揆始末と薩摩仕置きの一石二鳥を狙っていた。
出頭を命ぜられた歳久は従臣100余人をつれ宮之城をでて、鹿児島に至り、わが身の置かれている状況を察し、(恐らく秀吉朱印状を見せられ)、速やかに宮の城に戻り自害しょうと夜秘かに船を出し帖佐へ向かった。義久は肉親の情偲び難いところであったが、秀吉の手前、お家のため是非とも歳久に死んでもらわねばならない、と思い詰めていただけに秘かな脱出は万一、宮之城で籠城して秀吉に反旗を翻すなど、を恐れ、やむなく家老町田久培に兵をつけ追わせた。
行く手がふさがれ、追手に気づいた歳久は瀧ケ水(鹿児島市)に上がり、陣を構える。双方の矢砲の戦いが始まり、やがて久培軍が上陸し攻めかかる。旧知の者多く苦戦が続くが、衆寡敵せず、従臣悉く死に最後の時を迎えた。しかし歳久は痿睥(しへい、しびれ萎える病)のため自害できず、家臣も追手もうつに忍びずためらう、歳久の檄でようよう原田某が進み出、これにうたれた(7月18日夜)。それまで斬り合っていた者たちも一様に地に伏し声をあげて悲しんだという。
以下は後日談である。義久は歳久の首を秀吉に届け、実見した秀吉は義久に書を与えてこれを賞し歳久の領土を義久に給う。歳久の首は聚楽戻橋に?された。10余日後、忠長秘かにこれを奪い、供養す。義久は根白坂で亡くなった歳久の養子忠親の子、袈裟菊に家を継がせたい、と幽斎に申しで、幽斎は太守の心のままに、と諾して誓書を書いた。これを基に袈裟菊宛の起請文を書き、幽斎の誓書も合わせて、なかなか開城しない宮之城の家臣達に見せ、無事立ち退かすことが出来た。これを以て歳久責めの仕置きは完結した。
義弘の危機意識
日本一の遅陣が梅北一揆によってダメージを受け、今回義弘が恐れるお家滅亡の危機に、秀吉の歳久の責め、自害強要という予想外の流れが加わった。秀吉が歳久の忠誠心を心の奥深い所で疑っており、その疑念はいつまでも種火として消えずに残っており、強風が吹くとあおられて燃え上がった、というのが今回の実感である。これは歳久が自ら招いた落ち度であり、是正もしなかった落ち度である。同時にこれは義久や義弘がこの日あることを考え及ばなかった落ち度である。降伏の時歳久も強く説得してくだらせ共に謁すべきだったし、朝の儀で同行する等打つ手はあったはずである。最悪事態を気付かなかった、といえばそれまでだが、秀吉に服属する以上、先ずは疑念を持たれない様に、落ち度の無いよう太守や義弘みずから努めるので皆も守れ、と細心を払い続けるべきだった。そしてこれこそが今義弘の脳裏から離れない国元の非公然の怠役と義久の関与、ゆるゆるの統率が豊臣政権下でお家滅亡が本当にあり得るという恐怖を伴った危機意識と同根・同質であると気づいていた。 尚、西藩野史に義久の歳久自害にまつわる悲しみ、苦しみは見いだせてもこの点の気づき等の記述はない。
秀吉は政権への不忠・不従を許さない・見逃さないという政権の強い姿勢を見せつけ、島津は震えあがったが、同時に秀吉は大名島津強化の手を差し伸べる。
その4 細川幽斎による薩摩仕置き
天正20年(1592)8月14日、秀吉は3ケ条の朱印状を幽斎と義久に発給した。
その内容は①島津の領地で最近破壊した(売り払った)土地を悉く修覆し(取り戻し)元の如く(義久・義弘蔵入り地)ならしむべし②寺社破壊地(売り払った)も同じで修覆なった土地を義久領とすべし(義久の蔵入り地)③財用たらざるを聞く悉く神社仏寺領を国用とすべし(代官の算用に不正が多く改めること)。是には秀吉の註があり、是予が命する処なり、神仏窮するとも念とすることなかれ。以上からわかるように大名島津の権力基盤の強化が狙いであった。島津の蔵入り地は弱体で、その上朝勤のための滞京や戦の費用捻出等のため蔵入り地が売却され、さらに弱体化していた。これではとても長期の遠征などが行えないので、政権が取り戻しを命じて可能にした。大名にとっては申し分ないが蔵入り地を俸として賜った家臣・寺社・蔵入り地を買い取った商人等とは利害が相反し、反発の強いものであった。
永禄3年(1593)正月19日、(天正20年12月文禄と改元され、文禄元年に改元)幽斎は仕置きを終え、鹿児島を出て名護屋へ帰る。
幽斎仕置きの実態を明らかにする資料はないが、周辺資料により判断すると失敗だったようで、特にゆるゆるの義久に妥協し秀吉の意図を徹底していない、と判断されたようである。
其の1 幽斎の家臣麻植長通は義弘の側近伊勢貞真に「憚(はばか)り多き申し事に御座候へども(申し上げにくいが)、常々緩みに仰せ付けらるる故に候哉(家臣を甘やかしているので)、今度在国中、諸侍気違い申す儀遠慮なく万申し談じ候へども(心得違いを遠慮なく指摘したが)、何とも事行かざる様に御座候。」との感想を伝えている。
其の2 国元の家老新納旅庵は義弘に幽斎仕置き後の国元の状況について「大隅国の本来義弘の蔵入り地に編入されるべき土地の大部分が皆義久の蔵入りになり、残るところも義久の家臣に与えられ、辛うじて義弘の蔵入り地になったところはやせたところばかり。是非大隅の勘落地を義弘領と是正すべき。」(要旨、文禄2年8月23日付け)と書き送り、久保は新納忠元に「朝鮮で久保に従っている家臣の知行が収公されたことを憤って即刻返却すべき」(要旨、8月3日付け)と申し送っている
其の3 義弘は奉行長束正家へ「(朱印状の趣意に違え)、蔵入り地を(義久・義弘が所有して軍役の用に心がけるべきところ)、そうせずに朝鮮で汗を流していない者等に分け与えてしまっている。(ので分け与えた地は元(義久・義弘蔵入り地)に戻し、義弘蔵入り地の勘落地で義久領としたものは義弘領へ戻し、また朝鮮従軍中の者の収公地は元に戻し、彼らに報いるため久保が秀吉から受領した地は久保の蔵入り地にして欲しい。)代官も上方の規定に沿わず算用しているので即刻是正すべし」(要旨)と嘆願している。
其の4 この書状は三成に見せられ、三成の家老安宅秀安は義弘に「沙汰之限、然るべからず候(言語同断)。第一御朱印を悉く相背かれ、よくをほんと恣に振舞に候。」(要旨、8月28日付け)と書き送り、幽斎の仕置きを口をきわめて批判し、続いて「其の儘置かれ候ては、何れの道にも御家は続くまじく候。」と警告し、その原因を「惣別御心よはく候事(義久や義弘等が家臣にたいし弱腰である)、御家中衆も存知候故、今度のごとく、主仁(人)に一届をも申し入れず(主人に一度も相談せず)知行を分け取り、剰(あまつさ)え知行?(ならびに)代官職なども恣(ほしいまま)に替え候て取り候。」と指摘している。
ここに至って、幽斎の仕置き失敗で秀安の対義久・義弘?島津認識は政権公知と言って良い事態となった。
義弘の危機意識の極と覚悟
幽斎の仕置きは勘落地を蔵入り地にするところまでは果たしたが、それから先は島津の自由にさせた。それゆえに、家臣の恣、義久のゆるゆるが出て、島津は御朱印の主旨をないがしろにする秀吉政権で存続が許されない国に成り下がり、お国滅亡の淵に来てしまった。速やかにこの評判を正し、豊臣政権の要求する軍役をこなせる体制・体質への変革に着手しなければならない。そのためには太閤検地を石田三成殿に遣って貰って、抜本的な体制改革・意識改革に踏み切る以外に今の惨状・窮状を救う道はない、と覚悟を決めた。御家維持のための怠役のつけは払わねばならない、痛みは甘受しなければならない、それが何になるかはわからないが・・と思った。そして、秘かに根回しを始めた。
日本一の遅陣・梅北一揆・歳久自害と高まった義弘の危機意識は幽斎の仕置き失敗で露呈した島津の至らなさに触発されてついにその極に達した。
義久と義弘の危機意識の違い
義久について、梅北一揆のところで書いたことをここでも再掲する。「義久は国元の非公然怠役と自らの関与、統率の甘さを自覚しておらず、お家滅亡への危機意識が希薄、といわざるを得ない。」
だから御朱印の主旨を違え無いよう指導もしないし、家臣の恣を正そうともしない。秀吉の意に違えること或いは公正な領国経営への問題意識がまるで感じられない。なぜか。その答えは色々考えられる。生まれ付き太守として育てられたので、一つ、絶対的な忠誠をうけ、それを壊す家臣の反発などがないよう無意識に務めることや家臣に任す太守としての度量を重視してきたことが、今回のように家臣の反発必至の状況では気が進まないので腰が引けて、目に見えない危機を気付き難くしていることもあるだろう。私は現場の実情を体感する機会を持たず人を介して承知することに慣れてしまって、(自分の命令等で)現場に起こっていることを想像し、なぜそうなっているか等を肌感覚で理解する感覚(現場感覚)が乏しかった、のが一番といえるのではないかと思う。
義弘は「日本一の遅陣」により、改易の恐怖を味わっているので御朱印の主旨を違えることは論外という深刻な危機意識があり、その論外という危機意識は単なる言葉の問題ではなく、目の前にない現場に起きていることやその本質を理解できる現場感覚に基づいていた。義弘の現場感覚は多くの戦いの中で戦場という現場の中で、成功体験の積み重ねと致命的には至らない失敗に学び、養われたが義弘はそれを戦いだけに偏らない人生を重ねる普遍的な現場感覚にする知恵があった。例えば義弘は先述の嘆願で、取り戻した勘落分の知行先を朝鮮へ出陣していない在国の者ども・京都から下がってきた能役者たち等と調べ上げ、代官についても任命したものへ新たに知行をだしそのうえ代官全員へ加増という二重の新知が1万5千石にものぼると調べ上げて問題を具体的に指摘しその不当性を訴えている。朝鮮にいて、国元で仕置き後にどのような状況が起こっているか良く分からない中、想像力や洞察力を働かせ、その事実?その本質を掴んでいる。是こそ、まさに現場感覚がなければできないことである。
西藩野史との対話
朝鮮出兵迄進んだところで、今まで違和感を持っていたことが明確な疑問となった。その代表例は(西藩野史には)九州制覇始動の際の義久の決断の「愚慮」及び今回の朝鮮出兵時の義弘の「日本一の遅陣」についてこれらを想起させる記述がないことである。西藩野史は島津藩の家臣、得能通昭が江戸時代に書いた。島津藩・領国の歴史を草々の時代から歴代の藩主のかかわった事績を、著者の史観に基づいて、編年ごとに記したものである。特に普段目に触れる機会の少ない一般の家臣向けに藩の歴史に触れ島津愛を喚起して藩のこれからについて識見、始めるは優しいが変化への対応は難しい(創業守文と表現)、を高めることが狙い、と考える。だとすれば藩のこれからを家臣の立場で考える際藩主の過失は必ずしも必要ないし、必要性の薄い藩主の過失は書くべきでない、ということになるであろうか。そして書かれた背景が江戸時代ということは徳川を意識しているといえる。徳川幕府が承知するかもしれない島津当主の弱点を家臣が書くわけにはいかないし、家臣の分際で書けない、というのが本音としてあろう。もっと言うなら江戸時代にも島津であり続けるため家臣として徳川を悪くは書けない、ということもあるであろう。それでは史実研究の資料として如何なものか、という思いが湧く、にも拘らず、以下のような可能性を信じるので今後も西藩野史に拠って研究調査を進めたい。①藩主のかかわった戦いは殆ど網羅されており、それらの記述の濃淡や著者独特の言葉遣いや表現法等から自分ならではの武人島津義弘の成長(役割意識)や島津の戦いの士風等の研究を深め、また忠良・貴久・義弘と受け継がれた武将義弘と島津の士風(戦いと人作り)のバックグランドをより確からしく考察出来る。②西藩野史をベースに色々な資料を読むことで違いに気づけ、決定的な資料(註)に出会うことで視野が広がり、①で述べた記述の濃淡や著者独特の言葉遣いや表現法等の意味をより深く理解出来る③多くの人物が登場し、その登場の頻度や場面、義弘との関係性を考察することで、義弘の周りや島津の士風(戦いと人作り)継承の考察を深めることが出来る。④中世の守護地頭から出発し、戦国期に3州統一から九州制覇を目指し、やがて秀吉・徳川への臣従という大きな歴史の流れの中で著者が西藩野史序の冒頭「創業固より難く守文も亦易からず」と述べた島津の創業守文の本質は何か、を考えたい、という誘惑に駆られている。私は武を大元とする国作りにある、と考えるが、秀吉への臣従下で徳川家康との交流の記述の密度が徐々に上がっている。これを今後追うことで、家康の御蔭と武が大元という島津の国是が江戸時代の島津藩の形を作った、といえないか、と思っている。そのことが明治維新の原動力島津の元である、と思うので。
註:「愚慮」について筑前戦国争乱(吉永正春、海鳥社)所載の「上井覚兼日記」による。「日本一の遅陣」について、【平成18年度開館二〇周年記念特別展図録】 島津義弘(姶良町歴史民俗資料館)、島津義弘の賭け(山本博文)所載の山本氏所説及び資料による。
第3節 朝鮮の役(文禄の役)での戦い
天正20年(1592)5月3日に漢城(ソウル)に入った日本軍は5月29日開城を落とし、二手に分かれて北上を続けつつ後続の諸軍を含めた八道の国割(担任区域の在番支配)を定め継戦基盤確立を企図した。第一軍(小西行長)は6月15日平壌に入り(平安道在番)、第2軍・加藤清正は6月17日安辺に、鍋島直茂は感興に入り(以上咸鏡道在番)、第3軍・黒田長政・大友義統は黄海道在番。第4軍島津義弘は、江原道に在番し、普天城ついで永平を守った。5軍以下の在番道は省略。
ところが各地で義兵が蜂起し、数の多さと進出気没に悩まされた。又李舜臣率いる朝鮮水軍は藤堂軍に勝って(5月7日)以来日本水軍に連戦連勝を重ね、制海権を握った。後方連絡線が伸び切り、制海もままならない日本軍は兵糧・弾薬等の不足、人員損耗に恒常的に苦しむようになった。5月援軍要請を受け、明は遼東の兵5千を差し向け、平壌を攻撃(7月17日)するが失敗して遁走、明は和議を提案し小西は50日の停戦協定を結ぶ。この間に明は本格参入を決め、12月25日鴨緑江を渡った。これに呼応し、各地の義兵は勢いづいた。
文禄2年正月8日、李如松率いる4万8千と朝鮮軍1万は平壌城を攻め、小西軍8000はよく戦ったが、開城勧告をうけ、兵糧不足により、平壌を撤退し、大友義統の守るつなぎの鳳山に辿りついたがモヌケノ殻(註)で、黒田長政が守る黄海道白川に向かった。明軍の追撃は急で、長政と共に小早川隆景等の守る京畿道開城に下がり、小早川等と共に1月17日漢城(ソウル)に戻った。日本軍は諸軍の将を漢城に集め、3奉行を中心に策を議した。この頃になると在番支配体制は破綻していた。
註:大友義統は恐怖に駆られつなぎの役を放擲して逃げ去った。この行為は太閤の逆鱗に触れ改易された。
義弘の居城転々
12月、北からの明軍に呼応して、朝鮮各地の官軍・義兵は勢いを増し漢城の日本軍の側背に脅威を与えた。中でも晋州を拠点とする将牧司の大勢力はその中心で都を襲わんとし或いは都と釜山の間を遮断しょうとしていた。
金化城に移る
奉行らは都の北・南・東の要域に城を修築してこれに備えようとした。その内の一つ金化城(都の東)は咸鏡・江原・慶尚3道の中央、漢城の東にあり、3面に敵を受け、守るに難しく、議しても、諸将は辞するばかりであった。奉行から請われ、義弘はこれに従い、12月26日金化城に移った。島津忠豊(豊久、500余人)は春川城(永平の東)に移った。金化城の背後の高山を敵が陣し、常に城中を見下ろしていたので、久保は銃手200を率い、これを殲滅敗走させ、威圧して二度と踏み入らせなかった。
清正への連絡
奉行らはこれに対処するため、各軍を都に集めようとしたが、咸鏡道にいる加藤清正へは、甚だ遠路であり敵が充満していることから、その連絡に窮し義弘に、願わくば(可能ならば)その役を引き受けるよう請うた。義弘は引き受け、人選を始めたところ、その難任に敷根仲兵衛が名乗り出て、義弘は勇を讃え、猿渡掃部兵衛を補佐させ、銃手200人をつけ出発させ、金化から甲山間約400kmを10余日間で走破し、清正に命を伝え、帰って義弘に報告した。清正は2月5日漢城に帰った。願わくばには嘆きの情が籠っている。奉行らは8月の時点で撤退を指示していたのに、清正は聞かず、支障ないと対陣を続けたので、半ば自業自得、とする気持ちもあったのであろうか。
春川の戦い
江原道の敵6万余が春川を攻め、城の修復が終わっていなかったので、忠豊(豊久)は義弘に救いを求めた。義弘は迅速に救援し、敵は戦わず遁れ、義弘が去るとまた急に春川を囲んだ。忠豊(豊久)は、この間に敵を観察し、「滅私当千(万)」の覚悟を決め、独力で打って出て、敵を大いに破った。再び攻めて来なかった。
碧蹄館の戦い―立花宗茂の応援
李如松の大軍(明軍4万、朝鮮軍1万)の都攻めが愈々濃厚になり、奉行ら議して、籠城では兵糧が不足し、釜山との後方連絡遮断の恐れが大きいので短期決戦を採用、明軍の得意な騎馬戦を封じるため碧蹄館で迎え撃つ方針を固めた。碧蹄館は都の北西18km、南北4km幅400~800の渓谷にあった。先鋒大将小早川隆景、本隊総大将宇喜多秀家の陣容(総勢力4万)で迎え撃った。軍議で籠城に真っ向から反対し、強行に決戦を主張した立花宗茂は隆景の先陣を志願し伏撃をする先鋒となった。1月26日隆景隊先鋒は渓谷内出口付近で明軍と遭遇し、降雨のため一面泥濘化し騎馬の発揮できない状況を利して戦いつつ下がり、我の渓谷入り口付近で隆景本隊は敵を阻止、敵の左側中程を宗茂隊が、右側中程を小早川秀包隊が回り込んで撃った。明軍は敗走し、秀家本隊2万は無傷であったが、兵糧不足のため追撃は行わず。
軍議の模様を聞いた義弘は有馬次右衛門重純に軽卒100人をつけて宗茂の応援に向かわせた。宗茂は謝するも金化城こそ大事な備え、受けられないと断ったが、重純は主命をうけて来たのに戦わず帰ること出来ない、と聞かず。宗茂やむを得ずこれを麾下に置いて戦う。宗茂大功をたて、太閤は激賞す。厚く謝して重純を帰す。以後李如松は戦意を失い和平に傾き、日本軍も又和平の機運生じる。
和平を待つ間の休戦、義弘の動き
明軍沈惟啓は小西行長に和を図り、太閤の許しを得て、和約なる迄の休戦に入る。日本軍は釜山に、明軍は固城に退き、朝鮮王は都に帰った。義弘は奉行等の命により敵が違約して都を攻めればその背後を討つため龍仁(京畿道内部)に移った。和約が停滞し固城に止まり続ける明軍に不信を抱いた太閤は釜山で給養中の諸軍挙げて牧師数万が拠る晋州を討って、全羅道を押さえよ、と命じた。この時、奉行等は明軍が日本軍の後方を討つことを懸念し、龍仁にあった義弘に、抑えの(城を築城し防ぐ)役、この役は老獪の将でなければ務まらないと深慮し、を打診した。義弘は攻撃参加を熱望し総大将宇喜多秀家に談じ込み一旦は任の重さを説かれ押し切られるも、(奉行・秀家らが明察し)秀家1万8千余、毛利元清2万2千余がかわるがわる明軍に備え、その他8万余で晋州を討つと決まる。文禄2年(1592)7月7日或いは6月6日、攻撃、牧司を討ち、城兵遁走し、晋州川まで追撃して終わる。日本軍は全羅道に入り、南原一帯に城を築き(和城)、在番した。義弘は戦勝後昌原(釜山と晋州の間)に移り、日本軍の釜山への撤退に殿(しんがり)し、久保と共に巨済に駐屯した。
島津忠永(忠辰改め、薩集家当主島津義虎の子、母は義久の娘、太閤征西の時、真っ先に降伏しその功で出水を安堵され2万5千石を領)は義弘に従い朝鮮出陣中病を称して命に従わず、太閤大いに怒り改易、死を免じて小西行長に預け、薩集家絶える。
9月7日久保薨去、享年21歳。
3年(1593)10月30日忠恒朝鮮・巨済の営に入る。
忠恒は国に居て久保逝去を聞き、朝鮮に渡り義弘を援けたい、と太閤に願い出る。石田三成は島津家中(義久)に4つの指示をする。一つ、聚楽に来て太閤に謁すること。この狙いは渡海のお願いと後継ぎの公認。二つ、義久の上洛を待って久保未亡人亀寿(義久の娘)との婚姻。この狙いは後継ぎの確定。三つ、忠恒に義久の家老3人をつけ在陣させること。この狙いは太閤検地の決定(註)を受け、これを進め易くするため国元の義久の息のかかった家老を出陣させること。この人選と義久との連絡及び太閤検地の段取りを進めるために伊集院荒侃を使う。四つ、忠恒の後見役に唐津城主であり唐津と釜山の連絡役である寺沢廣高と小西行長をつける。この狙いは忠良の行動援助と義弘・忠良体制の強化。
何故三成は忠恒の渡海にこのように踏み込んだ仕置きをしたのか、が気になる。それは後程特筆事項の義弘の胸中を推察した後で書きたい。
註:4月7日付けの荒侃から義弘宛の書簡に国元の検地の実施が決まった。時期不明、との文言がある。
2年11月栗野を出発、12月13日泉州堺着、痘瘡を病み春治癒、3月20日聚楽第で秀吉に謁し、渡海を乞い秀吉これを許す。8月25日名護屋に至り、10月8日出航。
戦いの特筆事項
今節の戦いの記述は異質の感がする。何故か。
義弘が"主役"として絡む戦いの場面は大軍に攻められた春川城救援と忠豊独力での「滅私当千(万)」の攻撃のみで、他は①奉行等に重要な城の在番を次々に命ぜられたこと。②清正への連絡を奉行から命ぜられその連絡隊や自ら発案し立花宗茂の応援隊の派遣という些末と思える事項を述べていること。③日本軍挙げての晋州城攻撃に際する意見具申(?)等が主で所謂"脇役"として絡む場面が記述の主である。これら"役の違い"に私は異質の感を持った。以前私は西藩野史に「日本一の遅陣」について触れていない、と気づき、何故かを考え、その答えを推察した。これは既に述べた通りである。著者は「日本一の遅陣」を書かなかったが、文禄の役に関しては"脇役"としての関わり様という異質の著し方をした。改めてそれは何故か。それは著者の義弘の胸中、「日本一の遅陣」の不名誉を挽回するため、脇役であっても戦いに貢献したい、という思い、に共感したから、ではないかと思う。私も義弘の胸中に思いを寄せ、そこを掘り下げてみたい。
文禄の役における義弘の胸中
針の筵に座る義弘
日本軍が破竹の進撃を続ける間、義弘は肩身狭い思いで過ごした。「日本一の遅陣」で改易の恐怖を身に沁みて感じた義弘は取次三成が奉行として渡海する幸運を活かし軍役不足という窮状を危険な情報にも関わらず腹を割って三成に打ち明け、三成の力を借りてその改善を図った。軍役1万(20石に一人)とあるを現状を率直に伝え、5千(40石に一人)で良いとの三成の内意を得た。この際、配下の御朱印衆(註)の人員差出しの過不足や島津忠永(忠辰)の不服従の実態も正確に報告している。軍役数に満たなかった北郷は御朱印衆から外れ、忠辰は解易され、出水領3万800石は寺沢・宗家知行となった。義弘は内情を打ち明けるに当たって痛みの覚悟をしていた。軍勢不足の督促等を三成から義久へ直接命じて貰っている。
註:秀吉が直接朱印状で知行を与えた島津一門及び有力家臣である。島津以久(島津貴久の弟で忠将の子)・北郷忠虎・伊集院荒侃の3名である。
義弘は少しでも戦いに貢献できる途を本気で探った。遅陣の不名誉は戦いではらすしかない。島津の本来の底力とこれまでとは違う島津の意気を示し、三成ひいては秀吉の厚情に応えなければならない、と考えた。貢献の機会は状況の悪化と共に巡ってきた。破竹の勢いで朝鮮全土に広げた支配地が朝鮮義兵の抵抗や朝鮮水軍に連敗し、日本軍が制海権を失い、人員補充が無く、兵糧等不足に苦しむ中で、明軍の本格参戦により、戦線収縮・後退を余儀なくされるに至った、からである。
引き受け手がない金化城等の在番を引き受ける。
咸鏡道、江原道、慶尚道の3方向から攻められ、守るに難い城として誰もが敬遠した。奉行等からの要請を伊集院荒侃は断るよう進言したが久保は前向きに受けるよう決め、義弘は深い思慮と覚悟のもとで同意した。若し大軍に攻められた場合の防御の難しさに加え失陥した場合に加藤軍の撤退や漢城保持へ深刻な影響を及ぼすことが明白であった。しかし義弘は金化城健在が日本軍全体の側背掩護という役割の大きさに心が動かされた。恐らく、義弘は攻めて来ても義兵または明軍の一部であろう、明軍総力は漢城に向かい、金化城に来ることはないであろう、と見極め、万一来るときは全員で「滅私奉公」・「滅私当万」の本来の士風を発揮して戦うのみ、と覚悟を決めたに違いない。その上でほかならぬ奉行三成の窮状を救い、日本軍の戦線収縮から碧蹄館決戦という戦略大転換時の側背掩護、全軍の安寧、に島津が役立つなら、日本一の遅陣という不名誉挽回になり、本望と考えたに違いない。三成は受け手がない、という状況に、適所主義で義弘しかないと思い、引き受けてくれるはず。島津の名誉挽回の機会、後押しになる、から。逆に引き受けなければ島津はこれまでと冷めて考えたに違いない。
そしてこのパターンは和約交渉間の主力の釜山滞陣間に明軍が約束違反して漢城を攻める等の場合に、それを討つための龍仁(京畿道内部)在番、晋州攻め間の抑えの城在番(これは意見具申?の後攻撃軍に加わる(後述))、釜山への後退掩護と殿のための晋州城攻め後の昌原(釜山と晋州の間)在番と続き、窮戦の全軍が安んじて行動できるよう、主力と離れて全体に奉仕した。この際晋州城攻め間の抑えなど駄目なものはダメとはっきりさせた。難しい任ゆえの人選に困るという奉行三成の窮状を義弘が救い三成は挽回の機会を作って、相互に必要とし、信頼を積み重ねて行った。
加藤清正への連絡隊の派遣
局面は異なるが、奉行等から清正を咸鏡道から撤退させる連絡者の要請を受けた。底流に三成と清正の対立がある。後に清正は奉行等の命を聞かず秀吉に伏見に呼び戻され蟄居を命ぜられるが頑として頭を下げず、切腹・改易は自明となるが、慶長大地震が起こり、蟄居中にも関わらず真っ先に伏見城に駆け付け秀吉を守る。その功で申し開きを許され赦免となる。若し地震が無ければ、そのまま腹を切ったに違いない。清正は信念を持ち、それほど対立は根深かった。しかも昨年8月以来の撤退の指示を無視し続けている。清正は使者敷根仲兵衛以下の命掛けと猿渡掃部兵衛を補佐につけ鉄砲200人をつけて敷根を守らんとした義弘の部下思いに島津殿は良い家来を持たれた、と心を動かし、指示に従って退いた。三成にしてみれば戦略大転換の大事な時に私の諍(いさかい)といわれかねない失点で清正以下の兵を危地に陥れ無駄に死なすという奉行職遂行の危機であった。三成はこの危機回避を義弘にたより、併せて義弘に挽回の機会を与えた。義弘は三成を救い清正も救い不名誉挽回の一環とした。それ以上に家臣は志願して命がけで主命を果たし主君はこれを守るための最善を尽くすという本来の「島津一心」の底力を全軍に示した。
義弘は命がけ以外に清正の心を動かすものはないと見極め、敷根の志願を採り、銃手200をつけたが、その数は島津が朝鮮で保有する虎の子の鉄砲の内のかなりの割合であろう。単純に考えても立花宗茂応援隊に就けた銃手100の倍である。そこまでした理由は何か。それには二つ考えられる。一つ、加藤清正軍(第2軍)の撤退がこれ以上遅れれば壊滅という最悪の事態になる。それは避けねばならない、さらに加藤軍の撤退の応援(清正が望むなら)も考えれば鉄砲は多い程良い、即ち全軍・加藤軍への寄与度を重視した。二つ、400kmの経路上到るところ敵がいて何が起きるかもしれない状況への自隊対応や隊員の身を守る自隊力に乏しい、のでその力をつける。その力は銃手が最適、銃以外なんにでも使える、でその数は手が打てる最善であった。任務に内在する期待度の洞察して最善を追求しつつ家臣を死地に投じる責任の重さと死地に投じられる家臣の命の重さを深く自覚する義弘ならではのものであった。
この事例は、堂崎や木崎原の戦い同様に義弘の戦いの中で最もらしさを表すものである。義弘は、自己の任務の期待度を判断する優れた役割意識の持ち主であり、それを追求しながらも部下思いであり、部下を守るために最善を尽くす武将であった。そしてこの点が周りの者に義弘を尊敬や慕しみを持たせ特に清正等の関係部外者からは肝心な時の協力を引き出し或いは家臣等にあっては、義弘の周りに集い共動(志・目標を共有しそこへ向かって己の為すべきを尽くす)に至らせる大きな要因であった。
たかが連絡隊、されど連絡隊である。
島津の底力―春川城の戦い
本来の島津の底力は春川城の戦いでも発揮された。急遽守ることになった春川城の未完に乗じ、大軍が攻め寄せ、忠豊は救いを義弘に求めた。義弘は弟家久亡き後その子忠豊の面倒を見ていたが忠豊もまた義弘を慕っていた。名護屋にも真っ先に駆け付けてくれたので、義弘は何を置いてもとすぐ救援に駆け付けた。敵は戦わずに逃げ、去るとまた攻め寄せた。忠豊は敵は出方を見ていると冷静に判断し、全員打って出て敵を討ち破り、二度と来させなかった。勢力の多寡にかかわらず「滅私当千(万)」・「滅私奉公」の底力を発揮した。違う局面ではあるが、同じ底力を発揮した場面を加えたい。休戦待ちのための釜山への撤退に際し、昌原城に移り、殿(しんがり)を受け持った。義弘は堂崎の戦い、負け戦で、自ら殿し家臣を守ったが、終始脇役であった島津が最後は殿で全軍を守る気概を示した。
島津の底力でもう一つ強調しなければならないのが人作りの士風である。加藤清正への連絡に任じた敷根仲兵衛はこの難任を自ら志願し、命がけで果たした。宗茂の応援に任じた
有馬次右衛門重純は断られても主命を楯に聞く耳を持たなかった。この両者は義弘が育てた。この二人は義弘と島津の人作りの士風を広く知らしめた。
碧蹄館の戦いにおける立花宗茂応援隊派遣
本来義弘は決戦の場で功を上げることを本望としたが、日本一の遅陣の後遺症や1万を5千に下げて貰った気後れ?等もあり奉行の命に従って全軍の奉仕的役割に甘んじ、我慢せざるを得なかった。しかしその本望中の本望が表れた例が二つある。碧蹄館の戦いで立花宗茂に自ら発案の応援隊を差出したことと晋州城攻めの意見具申?である。
応援隊の差出しは義弘の発案であり、押しかけ応援である。宗茂の主張する戦い方こそが戦いの帰趨を決めるカギである。宗茂と共に戦わねば、と考えた義弘は本気を貫くため、金化城から兵を抜き、有馬次右衛門重純にその本気を伝えた。宗茂は断るが重純は聞かず、宗茂が折れて配下にして戦い勝ち、太閤から激賞され、厚く感謝して帰した。家臣が主君の心をわが心として実践する「島津一心」の士風を全軍に示した。三成は籠城案を主張した、というが日本軍が勝つための義弘の考慮には只今の三成との関係性云々の余地は無かった。それでも二人の間の信頼関係は揺るがなかった。
晋州城の戦いにおける意見具申?的効果
秀家に談じ込んだ義弘は何を話したのか。明軍が来るかどうかわからない。若し来なければ隠遁(遊ぶ兵となってしまう意)となる。功をたてる攻撃に加えて欲しい。これに対し宇喜多秀家はもし明の大軍が来たら我は晋州を落とせないばかりでなくわが軍全部が潰えてしまうかもしれない。その任は重く貴公を置いて他にない。功を計らずしてこれを守ってくれ、と言い、義弘はやむを得ず了承した。ところが後程の攻略計画は変更されていた。全軍あげての晋州城攻めから、秀家軍と秀包軍が交代で明軍対処を含めた予備、残り全部が晋州城攻めと変わり、義弘は攻撃軍となった。ここで注目したいのは義弘の意見具申?的効果である。晋州城攻めは太閤直々の命令で、案の段階から総司令官の意向を汲んで進めたものであろう。その意向(全力攻め)に沿って奉行は義弘に抑えの役を打診した。義弘はすぐ無理だと分かり、総司令官にじかに談じ込んだ。しかし正面切って言わず、来ない場合は隠遁になるので攻撃軍に加えて欲しいという言い方で明軍対処を問題にする。秀家は義弘を説得しょう、と明の大軍が来た場合の危険性と義弘の任の重さを語る。語るうちに言外の思いも伝わって、それほどの危険性があり、重い任なら、義弘の軍勢だけでは到底無理だと気づき、(義弘に軍勢をつけて現任務を続けさせるのは妥当でないので)、攻撃軍を割いて明軍対処の兵を置きもし明軍が来なければ攻撃に充当できる予備としても運用できる余地を持たすべし。そのため一つは明軍対処に便なところ、一つは明軍対処を何時でも増援でき、晋州城攻撃にも加われる便なところにおく、となったのであろう。秀家の気づきを引き出した義弘の意見具申?的効果である。戦いへの隠れた貢献がここにあった。この件に関し三成の出る幕は無かったようであるが義弘が戦いを深く洞察し、最も貢献できる途を本気で探り、駄目なものはダメと臆せず語る信じられる人物、という思いを深めたであろう。
まとめ
義弘は「日本一の遅陣」という不名誉をはらすのは戦いに貢献するしかない、とその途を探り、戦線収縮という戦略大転換にあい、その願いの一部は奉行三成の苦悩を救うという形で叶った。三成も取次としてまた朝鮮3奉行の一人として、義弘を援け、島津の改易の淵からの脱出と太閤下の有力大名への脱皮に力を惜しまなかった。ここに三成と義弘の間に島津の存続に関し、お互いを必要とし、信頼し合い連帯感といっても良いものが生れた。
何故三成は忠恒の渡海に踏み込んだ仕置きをしたのか
ここまでくると忠恒渡海で提起した疑問の答えが出て来る。答えの一つ目、大名で親子での渡海は島津だけであった。義弘はそれを嘆きつつも、国のため、(義久が行かない分)義久のためと辛抱した。その久保が亡くなり、義弘は落胆し、忠恒に妻を思い、母の支えになるよう書き送る。ところが忠恒は父を援けに渡海したいと太閤に願い出、許される。義弘が望んだ形ではないことを承知した上で三成は親子での渡海を踏襲する島津の豊臣への忠誠心は本物である。ここは存続に一肌脱ごう、厭戦気分に浸る他大名への示しにもなると考えたに違いない。二つ目、三成が義弘を必要とし、その脇を固めるため忠恒の立場を強化する必要があった、ことが考えられる。朝鮮での義弘との交流、腹を割って相談する義弘や日本軍の苦境における義弘の出処に義弘の島津を思う危機意識も軍役への貢献の意欲も本物である、という確信を抱いた。また豊臣政権に距離を置き、朝鮮の軍役にも非協力な義久では今後の期待が持てない。特に太閤検地の実施が決まった以上その推進や混乱の収拾に義弘は欠かせない。その義弘のサポート役としての忠恒の立場を強化する必要があった。三つ目、三成は義弘が死んだ場合の万一を考えていた、ことも考えられる。その万一とは、過酷な朝鮮の戦陣では高齢の義弘では健康面の不安があり、また朝鮮での厳しい戦局で、場合によっては死んで貰わねばならない任務を与えざるを得ない局面が度々あった。が幸いなことに、そこには至らずに済んだ。しかしこれからはそうは行かないかもしれない。だから死んで貰っても困るが、その万一の場合の痛手は島津にとっても豊臣にとっても大きい。だから後嗣忠恒の立場を縁組で万全にしておく必要がある、と考えていた。
第4節 太閤検地
文禄3年(1594)3月、義久は聚楽に至った際、三成から、薩隅日3州の田地・境界を更正すべしという太閤殿下の命を伝えられた。義久や国元は反対だったが、義弘は戦いに貢献する途を探りながらも、島津の窮状、お家滅亡を防ぐ、のはこれしかない、危険はあるが、と思い詰めていたので、三成の手で行って欲しいと存じていたところ望みのようになって安堵した(同年11月頃義弘の安宅宛返書)。検地は三成の配下の検地チームによって9月14日大口から始め翌3年2月終了した。義久は流石にこれに協力をせざるを得ず、問題も起こさせなかった。検地チーム帰京後即田地境界の改正がなった。
秀吉から召され、義弘は後を忠恒に委ね、文禄4年(1595)5月巨済を出、6月28日伏見に出頭。秀吉は聚楽第において、二日にわたり義弘を寓した。一日目は軍功を賞して茶の湯を賜り、愛用して勝利を得た縁起の良い小泉の冑と自ら愛玩する本朝無比の茶の名器平野肩衝を賜った。義弘に対して斟酌無きに似たり(他意なく、心を寛げている様に見えた)、とある。二日目は、検地による改正の目録・朱印詔書を与えた。7月伏見をでて8月国に帰り、御朱印の徹底を図り、栗野から帖佐に移り、朝鮮に渡った。
秀吉の召しは義弘にとっても島津にとっても重大な意義ある日となった。一日目は日本一の遅陣以来、抱いていた改易の恐怖からひとまずは解放された日であった。文禄の役の戦いに本気で探ってきた少しでも貢献したいという努力が実り、未だ窮状改善の途半ばであるが、秀吉公許となった。二日目は太閤検地なって地租改正を行った目録・朱印状が齎した新しい島津への改革であり、新しい苦難への幕開けであった。
目録・朱印状の特色と概要
1朱印状の宛名は義弘。領主たるものその支配を全うせよと命じた吾が宛名を目にして義弘は驚愕した。豊臣政権は義久ではなく義弘を領主としているのだ。
2総石高は57万8733石。従来22万5000石であったので35万石余増加したことになる。これは豊臣政権統一の検地尺、旧来とは短く規定され、によった結果である。増加分を基本的に大名の蔵入り地にし、大名権力を強化して豊臣政権下の軍役体制、当面の朝鮮出陣を西方だけでまかなう、を強化することに狙いがあった。
3召し上げ領の発生。秀吉領1万石(加治木、代官石田三成)、秀吉に喉首を押さえられる。三成領6328石(清水・敷根)、細川幽斎領3000石(肝属郡高隅村)、秀吉からすれば検地の褒章、島津からすればお礼。
4領主認知分の増加と領地変更。義久領10万石(7万3000石増、大隅)・義弘領10万石(8万8000石増、薩摩+大隅の薩摩近接の要地)。無役《軍役はかからない》、両者所替えを命じられた。歴代当主の居した鹿児島は義弘に指定され、本拠地変更も命ぜられた。
5御朱印衆の指定の継続と解除。伊集院荒侃8万石(5万9000石増、日州都城等)、島津征久1万石(種子島等)、北郷(石高指定無し、都城を去って宮之城へ所替え)。伊集院荒侃の厚遇が傑出。
6給人本知分【家臣知行地の総計】、14万1225石。検地通りなら2.5倍になるはずが、従来通りの額を所を変えて支給されるので実質は「半減以上」。一所懸命で先祖が、名を冠し、守ってきた土地から引き離され、土着の勢力を絶って全員が新たな気持ちで出発することにより、増加分を領主の蔵入り地、軍役強化に回しやすくするためである。島津領主の蔵入り分の増加だけでは窮状は全く改善されない、と豊臣政権は考えたのだ。
7給人加増分【加増または新参召し抱え用、予備】、12万5308石。
8総所替え。
検地によって義久・義弘以下ほとんどの家臣は知行地を移らされることになった。義久・義弘が先頭に立って見本を示すことで全員が移らざるを得ない状況を作った。
例えば玉突きで移るものとしては、秀吉が領することとなった加治木の肝付兼三は喜入へ、喜入領主喜入久道は大隅・永吉へ。三成が清水を領することになり、清水領主島津以久は種子島へ、種子島城主種子島久時は知覧へ、知覧城主佐多久慶は川辺へ。伊集院荒侃が領することとなった都城の北郷氏は宮の城へ等。名を冠した土地から移るものとしては、根占重長は小根占から吉利へ、入来院重時は入来院から湯之尾へ、敷根頼賀は敷根から垂水へ等。地頭や一般の家臣も例外でなかった。
ここまで徹底する豊臣政権の狙いは大名を近代化して政権の望む軍役を果たせるようにすること、特に明国制覇のための動員を西国大名だけで担わせることであり、反豊臣の気風の強い島津内勢力に対し政権の実力を見せつけことにあった。
領主の対応
義弘は体制・体質強化のため三成によって検地を行って貰うよう頼んできた。それしかお家滅亡の淵から脱する途は無いと考えたからである。検地の結果成った改正の朱印で総石高が増え、蔵入り地が大幅に増加するという狙い通りの成果がでたことに安堵し、方針貫徹に意を強くした。しかし実質で家臣の知行が半減し総所替えになり加えて加増分の配分を巡り、仕方がないと思いつつも混乱がおきるかもしれない、と考えた。それゆえに気を引き締めて、最後まで三成の力を借り、円滑に早い決着をしなければならない、と検地を依頼した張本人としての責任と覚悟を新たにした。義久と同額の石高を頂くことになり、しかも義久と領地を替えて薩摩を領し、自分が島津の領主に指名された。このことにただただ驚愕し、恐悦しながも受け入れざるを得なかった。しかし秀吉が命じた鹿児島には入らず栗野から家臣を引き連れて帖佐に移り、後継ぎ忠恒を朝鮮から帰国後鹿児島に入れようと考えた。義久を追い出してその後に自分がはいるという、義久を排除する気持ちは毛頭なかったので帖佐に中宿(田舎に一時的に滞在)という形で秀吉の命に逆らって義久への配慮を示した。
義久は豊臣政権が島津の代表を義弘と認めたこと、本拠地移動も命じられたことを受け入れ、鹿児島には義弘が移ることも承知して、無念を押さえ、自らの家臣団を引き連れて大隅に移る決心を固め、富隈(国分)に移った。義久は家督を義弘に譲る気はなく実権を握り続けた。秀吉の要求にこたえる気遣いは義弘に任せ、豊臣に反発する家臣団の中心にあって、政権と距離を置く姿勢を取り続けた。
実務作業と生起した混乱、危機
実施のおぜん立ては荒侃が行い、知行配当は文禄4年(1595)の9月から12月までは義久・義弘在国してひと段落させ、義弘は上洛し、義久が残って文禄5年3月まで継続した。実務は荒侃が主となって行い、発給は義久・義弘が行ったが、豊臣政権から大枠が示され、或いは三成からの指示を楯とするので、義久と言えども自由にならない所が多かった。
知行配当に対する不満の訴えが頻発し、三成も匙を投げる程であった。また朝鮮在陣者の不満(幽斎仕置きの是正がされない、給人加増分を朝鮮在陣者に優先という方針が全然実行されない等)が噴出し、忠恒は義久に談じ込むもらちが明かず、三成(安宅秀安)に談じ込み、家老忠長、鎌田政近を京に帰した。
危機の火種
第1の火種は今まで経過を見てきたように、検地後の改正朱印状を切っ掛けとして義久と義弘の家臣団を含む対立のエスカレートである。第2の火種として知行配当に伴う混乱があったが、政権の強権発動と島津藩の自制により暴発はしなかった。それには強権を裏付ける秀吉直轄領と荒侃領の位置取りがものを言った。秀吉直轄領は薩摩と大隅を分断し、荒侃領の都城は大隅を南北に、日向を東西に分断する楔としての位置にある。政権は知行割や所替えで不都合があるとすれば義久領とみてにらみを利かせていた。これでは義久は家臣を強く抑えざるを得ない。家臣団も自重せざるを得なかった。これらは政権の深謀遠慮であろう。
ところが第2の火種になったのは家臣団・朝鮮在陣者の憎悪の鋒先が荒侃に向かったことである。西藩夜史は或る説にいう、として「伊集院荒侃は密に反(そむい)て謀り秀吉及び執政に取り入り、寵を求め、そのうえで地の利がある都城を欲して、地租境界を正すという大義名分のもとに、承諾を貰い、龍伯に命じて封を改めた、という。」(大意)とある。ここには二つの底意がある。一つ目は秀吉・三成の威を借りて知行配当を取り仕切り依怙贔屓した。そのうえ画策して都城を手に入れ、8万石も拝領し、ところ替えも行わない等の怨嗟や非難の深い意である。二つ目は秀吉の意を体し都城を領しにらみを利かせるという、家臣でありながら、その分を超えあるいは主君を見限り、秀吉の手先となった不忠は許すべきではない、という誅意である。正面には出さないが、3州分断の楔を打ち込まれたという島津の痛恨事の片棒を担いだ荒侃を許してはならない、との思いは深かった。
検地後の秀吉朱印に伴う知行割と総所替えをベースに地頭・外城制の再構築が進められることとなった。次(その5、完結編)は島津が武全(武を全うする)で創業守文(始めることは優しいが状況の変化に対応することはもっと難しい)の真骨頂ヘ向かう歩みである。その中心にいるのは義弘である。(その4終わり)