性格の一貫性と血液型でお世話になった渡邊芳之さんからのメールです。お忙しい中、ご返事をいただきまして大変ありがとうございました。心理学者や否定論者は議論があまり好きでないような印象を受けていたのですが、どうやら私の勘違いもあったようです。
私の主張には、論理構成・データの間違い、曖昧で不明瞭な文章等、不行き届きな点が多々あると思いますが、ぜひ寛大な心で見守っていただいき、同時にどしどし指摘していただければ幸いです。
なお、『ABO FAN』では、原則として敬称は「さん」で統一していますが、ここではメールの性質上「先生」を使うことにさせていただきます。どうかご了承ください。>ALL -- H12.1.21
#その後、「先生」ではなく「さん」にしてほしいとのことなので、「さん」に訂正しました。
4.メッセージ:
1.心理学者が反論しない理由
ABOFAN・HPを多くの心理学者が見ていることは事実です.しかし,菊池さんなどごく一部を除いては,その内容に反論したり,意見したりする人はいません.しかし,これを「ABOFANの内容が真実で,反論できないからしない」と捉えるのは間違いです.
心理学に限らず学問にはそれなりの方法と知識の蓄積があります.それを専門とするものはそうした蓄積を教育され,自分でも学んでおり,学問上の議論はそうした蓄積を「前提」にして行なわれます.したがって,研究者同士の議論は前提の部分は抜きで,問題点だけを議論することができます.しかし,そうした蓄積を持たない人との議論は,前提となる蓄積から説明していかないといけないので,たいへん時間と手間がかかります.実質的に相手に「心理学の教育」をした上でないと,議論にはならないからです.多くの心理学者は,それが難しい専門知識を要する問題であるほど,一般人と議論するのは嫌います.簡単に言えば,議論を成り立たせるまでの手続が面倒だし,そんな時間があれば専門家同士で議論したり,自分の研究を進める方が効率的だと考えているのです.私もABOFANさんと議論しようと思っても,そのために議論の前に理解してもらわなくてはいけない事柄があまりに多すぎるので,げんなりしてしまいます.その点菊池さんは偉いなあ,と思います.
たしかに一般の人としては驚異的に勉強されており,心理学者でも私たちが紹介するまでほとんど誰も読んでいなかったミシェルの本を読まれたり,統計の技法もよく勉強されていて感心します.自分の学生たちにこのくらい熱意があったらなあ,などとも思います.しかし,性格の問題,とくに一貫性問題などかなり専門的なことについては,議論するために必要な前提がまだまだ多すぎるのです.たとえば一貫性問題の解説などを読むとほとんどの人は「なんだ,当たり前のことじゃん」と思います.しかし,この「当たり前」という反応こそ,問題をまったく理解していない人,理解していない心理学者が典型的に示すものなのです.しかし,なぜその反応が誤りなのか,一般の人にわかるように説明しろ,といわれたら最低でも本一冊は必要です.
私たち一部の心理学者が血液型性格学に興味を持つのは,それが正しいかどうか,ではなくて,それを信じている人がなぜ信じるのか,とか,どうしてそういう俗説が限りなく生まれるのか,という点です.そして,血液型性格学の分析を通じて,心理学の中にあるいろんな問題点が浮かび上がってくる点です.たとえばABOFANさんが心理学の統計技法について指摘することとか,統計的には血液型と性格に差があるということとか,これらは私も本当だと思います.だからといって心理学より血液型の方が正しいとはならない.そうではなくて,心理学が原理的にも用法的にもこんなに問題のある統計という技法にあまりに頼りすぎているのは良くない,という視点が生まれるわけです.
心理学はその扱っているテーマが誰にでも興味の持てるものだけに,一般の人が自分でもすぐに理解でき,議論に参加できると思いやすい.もし「ケクラマゴケモドキに含まれるテルペン」とか「Aspergillus terrus K26によるイタコン酸発酵」とかいう研究テーマなら,普通の人は自分が議論に参加できるとも思わないでしょう? 実際には心理学が積み重ねてき,議論の前提にしている知識の量というのは「しろうと」がすぐ議論に参加できるほど少なくはないのです.ABOFANを読んでも反論しない心理学者の多くは,議論を成り立たせるためにまず伝達しなければならない知識の量の多さを考えると,めんどくさくて反論する気にならないのです.こうした心理学者の態度が正しいとは言いませんが,それが現実です.
2.性格と血液型に関係がないという根拠
それでも私は議論しようとしているのですが,ここでは敢えて議論の前提が成立しているものとして議論してみます.私の説明がもし理解できなかったら(注1),それは議論の前提が成立していないということです.
私は「性格」というもの自体,特定の時間と場所,特定の状況,特定の対人関係の中で一時的に生じる,関係的な概念であると考えています.誰かを「明るい性格」だと言うときには,「いつ,どこで,だれが,だれを」明るいと言ったのかが特定されなければ,その言説には意味がありません.同じ人が,他の場面で,他の人から見ても「明るい」かどうかはさまざまな文脈的変数の関数です.ただ,ふつう一定の安定した状況の中で暮らしているわれわれの認識はそうした文脈的な条件を捨象するように出来ており,そうした性格がその人固有で,一貫したものであるかのように錯覚します.普通の生活ではその錯覚には実害がありませんが,それをそのまま科学理論とするのは無理です.
つまり,性格というものが本人の内部にある,固有の何かで,科学的な検討の対象になるものと考えること自体が錯覚なのです.その点で,性格が内的で一貫性のあるものと考えてきた従来の性格心理学も,血液型で性格が決まるという考え方も,錯覚を実体と取り違えている点で同じく間違っています.ところがわれわれの日常的認識はとてもいい加減ですから,性格理論とか血液型とかいった枠組みを外から与えられると,簡単にその方向に変容します.ウソでもそう見えるし,信じるとますますそう見えるのです(この辺のことは菊池さんの本にも詳しい).
血液型にしても,心理学にしても,質問紙や性格検査から得られるデータは「人々がどのような錯覚を持っているか」を示すだけで,それが血液型と統計的に関係があったとしても,血液型とその錯覚が強く結びついていることを示すだけです.もちろん,性格検査の結果から行動が予測できる,などというのも同じ誤謬です.「性格評定行動」と性格そのものは区別しなければなりません.まあ心理学者も間違ってきたことですから,しろうとが錯覚に気が付かなくてもしかたありませんし,前にも言ったように性格に関する錯覚の多くは日常的に無害だったり,表面的に役に立ったりもします.でも心理学はそうした素朴理論よりずっと先に進みつつあるのです.
(注1)理解できるかどうかと,賛成反対はまったく別のことです.理解したけど反対,ということなら,議論は成立しています.
3.遺伝と性格の問題
ABOFANさんは私が「環境を重視しすぎている」と言われました.その根拠は行動遺伝学の知見でしたが,私は行動遺伝学を相当疑問の目で見ています.詳しいことはまたあまり専門的になるので述べませんが,先にも言ったように性格は文脈に依存する関係的なもので,遺伝は環境と相互作用して性格に影響することがあっても,性格の実際の形態を決定するようなものではないと思います.進化論的に考えても,性格は遺伝的に決定されるよりも後天的に変異して環境に選択される方が適応に有利です.
より具体的な点に触れるなら,行動遺伝学がなにを従属変数にして遺伝と性格の関係を研究しているのか,という点です.私も調べてみましたが,性格検査や質問紙の性格評定などがほとんどでした.つまり「遺伝が60パーセント決める」のは性格検査の結果なのです(注2).性格検査が性格関連行動(日常行動に現われる性格)をほとんど予測できないことはすでにおなじみですね.そしてもっと大事なことは,その性格検査の結果と血液型とにはほとんど関係がないということです.百歩譲って性格が遺伝で決まるにしても,性格と血液型はどちらも遺伝で決まるというだけで,性格と血液型とに関係があるかどうかというのはまた別の問題です(統計で言う疑似相関).こうした論理の飛躍は竹内久美子さんの本にも出てきました.
(注2)遺伝と性格評定行動との間に関係があるという事実は,それはそれで興味を引くものですが.
4.おわりに
心理学者にもいろいろな学派,派閥がありますから,私の説明が心理学者を代表していると考えられては困ります.一貫性の問題や,性格の本質の問題でも私のいうことをまったく理解してくれない,理解できない心理学者はたくさんいます.性格検査がいまだに続々と開発されているのもその証拠です.そうした心理学者に比べればABOFANさんのような人たちの方がずっと柔軟な発想を持っているし,私の言うこともわかってもらえるのでは,などと期待する部分もあるし,反対に古いタイプの心理学者は基本が同じな血液型ともっと仲良くすればいいのになどと皮肉な考えを持つこともあります.
いずれにしても,私が血液型と性格の関係を否定するのは,理論的にいって血液型が性格を決めるということが考えられないからです.理論的におかしいことが方法によって実証される場合,それは方法がおかしいか,理論がおかしい.ただ,統計という原理や心理学的用法が人間行動を研究するときにかなり欠点が多いことはすでにわかっていますから,私は自分の理論的思考を疑いません.
心理学者の多くは,自分で考えなくてもデータが答えを出してくれると考え,データ処理の一手法に過ぎない統計を一種の理論のように崇めてきました.その結果,どう見てもおかしいことが統計的に証明されたときにはただうろたえる.心理学と血液型のように理論と理論がぶつかり合うときには,統計データなどというチャチなものではなく,理論そのもののレベルで戦う必要があるのです.
これを書くのにも私はかなりの努力をし,時間を費やしました.このことが無駄にならないことを祈っています.
大変ご丁寧な長文のメールをありがとうございます。m(._.)m 心理学者からはあまりメールが来ないものですから、反応が分からないので大変ありがたいです。どうもお手数をおかけしました。
では、順番にお答えしていきたいと思います。
1.心理学者が反論しない理由
これについては、私の書き方が悪かったと思うので、お詫びしてここに訂正させていただきます。
私のホームページには、確かに一部に「心理学者が反論しない」というような意味の文章があるのは事実です。(^^;;
ただ、それは、後日必ず返事をするという内容のメールをいただいたにもかかわらず、何ヶ月しても返事が来なかった、といった例が何回かあるので書いているだけです(しかも、そういう方は私以外の人には何回かメールを出しているようです)。さすがに少々不愉快だったので(決して感情的な書き方をしていないとは言いませんが)、他意はありませんのでどうかご了承ください。もちろん、頻繁にそういうケースがあるということではありません。また、丁寧に返事をいただいた多くの方には大変感謝しています。
誤解のないように書いておきます。私からのメールは、原則として(反論の)メールを歓迎している人にしか送っていません。この点についてだけは自信を持って断言できます。しかし、そのほとんどは相互に納得した「関係ある」という条件を満たすというデータが見つかったとたんにピタッと返事が来なくなりました。どうしても結論を知りたかったので、しつこく何回も送ったのですが…。こういうケースが何回も(というかほとんどですが)続くと、ついそういう文章も書きたくなるのは人情というものではないでしょうか?
その一部はこちらにあります。ただ、証明するとなるとそのメールを公開しなければなりません。そんなことをするのはネチケットに反するので、今後ともするつもりはありません。ですから、私の言うことが信じられなくとも当然ですし、信じるべきだというつもりもありませんので…。
大変失礼しました。m(._.)m
> 統計的には血液型と性格に差があるということとか,これらは私も本当だと思います.
統計的に差があるという主張は、日本の心理学者では坂元先生以外はたぶん初めてだと思います。いずれにせよ、どうもありがとうございました。
>
私たち一部の心理学者が血液型性格学に興味を持つのは,それが正しいかどうか,
>
ではなくて,それを信じている人がなぜ信じるのか,とか,どうしてそういう俗説が限り
> なく生まれるのか,という点です.
私の知っている日本の論文数を数えてみましたが、「正しいかどうか」と「なぜ信じるのか」が半々程度で、「どうしてそういう俗説が限りなく生まれるのか」は少ないという印象を受けました。また、「私たち一部の心理学者」というのは日本だけなのでしょうか? 海外の研究では「正しいかどうか」がほとんどのはずですが…。この文章の根拠は何なのでしょうか?
#ちょっと気になったのは「俗説」の定義なのですが、ここではあえて触れません。
>
ABOFANを読んでも反論しない心理学者の多くは…めんどくさくて反論する気になら
> ないのです
差し支えなければ、このサンプル数をぜひお教えください。
2.性格と血液型に関係がないという根拠
>
性格というものが本人の内部にある,固有の何かで,科学的な検討の対象になるもの
> と考えること自体が錯覚なのです.
この文章には非常に驚きました。(@_@)
私はこのHPで、基本的に「科学的な検討の対象になるもの」しか扱っていないつもりです。性格が「科学的な検討の対象になるもの」ではないとすると、私には「性格なんて非科学的なもの」としか解釈できませんが本当なのでしょうか?
もしそうだとすると、性格心理学はオカルトなのでしょうか? まさか!
ミシェルの本にもそんなことは書いてなかったようですし…。完全に私の誤解だと思いますので、よろしければ次回にもわかりやすい解説をお願いしたいのですが。
3.遺伝と性格の問題
菊池先生の話題もあったので、著書から引用させていただきます(『超常現象の心理学』〜人はなぜオカルトにひかれるのか〜 平凡社 H11.12 133〜134ページ)。
性格とは血液型のように生まれつき定まるものではなく、育ってきた環境によって決まるものだ、という反論もある。性格の発達にとって環境要因が決定的であることは確かである。しかし、新生児でも敏感さや気分の安定性などが子どもによって異なることも知られており、性格における遺伝的要因は決して無視できるわけではない。最近では、「新規探索傾向」といった性格特性に、特定の遺伝子が関与するとも考えられている。
>
進化論的に考えても,性格は遺伝的に決定されるよりも後天的に変異して環境に選択
> される方が適応に有利です.
2.での性格の定義は、「性格というものが本人の内部にある,固有の何かで,科学的な検討の対象になるものと考えること自体が錯覚なのです.」のはずです。となると、性格という非科学的(?)なものと進化論(たぶん科学だと思いますが…)の関係を科学的(?)に証明できるのでしょうか?
それとも、進化論の研究者がそう主張しているのでしょうか? 根拠となる論文は何なのでしょうか?
> 性格検査の結果と血液型とにはほとんど関係がない
これを読んで、すっかり混乱してしまいました。(*_*)
というのは、性格検査の結果と性格に関係がない(?)なら、性格検査の結果と血液型に関係があろうがなかろうが、「血液型と性格」は関係があるはずがありません。なぜ、わざわざ「性格検査の結果と血液型とにはほとんど関係がない」と書く必要があるのでしょうか?
それとも、性格検査の結果は性格と(少しは?)関係があるのでしょうか?
> 性格と血液型とに関係があるかどうかというのはまた別の問題です(統計で言う疑似相関)
これまたわかりません。というのは、1.で「心理学が原理的にも用法的にもこんなに問題のある統計という技法にあまりに頼りすぎているのは良くない」ということですから、疑似相関があろうが本当の相関があろうが「血液型と性格」は関係ないということになります。ここでわざわざ「疑似相関」という言葉を出すのは何か意味があるのでしょうか? はて?
4.おわりに
> どう見てもおかしいことが統計的に証明されたときにはただうろたえる.
となると、坂元先生の論文には心理学者全員がうろたえたのですか? そういう感じは受けませんでしたが…。
最後に、血液型と性格に関係があることを証明するには、どんな条件が必要なのかご教示ください。
では、お忙しい中お付き合いいただきまして、大変ありがとうございました。この場を借りて深く感謝申し上げます。失礼な点も多々あると思いますが、どうかご容赦ください。m(._.)m
気が向いたときで結構ですから、ご返事をお待ちしております。
【読者からのメール】 その1
読者の方から、このページの感想をいただきましたので、ちょっとだけ紹介しておきます。それは、渡邊さんと同様の論法を使えば、何だって証明できるのではないか(!?)というものです。例えば…、
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ABOFANへの手紙(その2)
ABOFANさんにメールを書くのにはそれなりの決心が必要だったのですが,部分的にでも議論が成立しているようでうれしいです.少し面白くなってきました.
まず,前回の私の説明の内容には不正確,不十分な点がありました.ABOFANさんが疑問に思われた多くはそれに起因しています.いま思えば,少し感情的になっていたかな,と思います.学者は自分の研究を冷静にやっているように思われるかも知れませんが,こっちは生活と人生すべてをかけてやっているわけで,けっこう感情的になることが多いのです(少なくとも私は...).
さて,ABOFANさんが疑問に思った部分について,もう少し詳しく説明してみたいと思います.ただ,どれも大変奥の深い,かつ心理学のもっとも議論百出のテーマと関連する複雑な問題なので,一度には無理です.すこしずつやっていきたいと思います.これを読んでいる他の心理学者の皆さんは「渡邊はあいかわらず暇だなあ」とあきれるかも知れませんが,私はこういうことが好きなので見逃してください.
<性格心理学はオカルトか?>(今回は注は文末にまとめました)
1.性格にまつわる3つの仮説
心理学から性格をとらえるときには3つの仮説があります.まず以下の2つです.
仮説1 われわれは自分や他者に一貫性を持った性格の存在を感じている(性格の認知).
仮説2 人の行動には個人に特有の持続的なパターン(個性)がある(行動上の性格)
この2つは議論の余地のない事実です.仮説1については私も含めて誰もが実感していることであり,説明の必要はないでしょう.仮説2についても,さまざまな行動の個人差が繰り返し観察されることから明らかです.そして,この2つの仮説はそれぞれ科学的な検討の対象になります.
仮説1については,われわれがどのような情報をもとに,どのようなしくみで自分や他者の性格を認知するのか,それが自分や他者の実際の行動とどう結びついているのかという研究が社会心理学の分野で古くから行なわれています.仮説2についても,行動やその持続的なパターンは客観的に観察できますから,どのような要因がそうしたパターンを作るのかという研究が,行動理論の立場から可能です.
ちなみに,私がとくになんの注釈も付けずに「性格」という言葉を使うときには,ここでいう仮説2の意味で使っています.遺伝と性格,というときには「遺伝が行動に現われるパターンに与える影響」などを考えていますから,遺伝,行動どちらも客観的に分析可能なので,これは科学的検討の対象になるわけです.「血液型と性格」でも同じです(注1).
ところが,われわれの素朴な認識や従来の性格心理学では,そこに3つめの仮説が加わります.
仮説3 行動上の性格は,人の内部にある何らかの実体によって規定される(性格の実体論).
「実体」は「こころ」や「欲求」,「無意識の心的力動」などといった心理的なものでも,遺伝や血液型のような生理的なものでもよいのですが,いずれにしても性格は本人の内的要因(性格の実体)の力で決まると考えるのです.こうした考え方は日常的な感覚からはもっともで,正当なものに思えます.それもそのはず,この仮説3はわれわれの日常的な性格認知を基盤に持っているのです.したがって,
派生仮説A 性格の認知は,性格の実体や行動上の性格をある程度正確に反映している(正確反映仮説)
そして,
派生仮説B 状況とは独立の内的要因に規定される以上,行動上の性格は状況を越えた一貫性を持つ(性格関連行動の通状況的一貫性).
という仮説がそこから派生します.派生仮説Aは,性格評定や性格検査が性格を測れる,という前提になりますし,仮説3,派生仮説ABを組み合わせると,性格検査の結果から人の日頃の行動を(状況とは関係なく)説明したり予測したりできる,という性格心理学の大前提のひとつが生成されます.
一貫性論争や,私のこれまでの議論で問題にし,批判しているのはこの「仮説3」なのです.そして,血液型性格学も従来の性格心理学も,仮説3を前提として構築されている点で同じです.
2.「一貫性論争」でなにがわかったか
ミシェルの批判は,この仮説3に対して,派生仮説を実証データから検証するという形で挑戦したものです.まず,ミシェルは自分自身が集めたデータから次の事実を発見しました.
事実1 性格検査は人の実際の行動をほとんど予測できない.
そして自分のデータや他の研究の精査から,その理由を以下のような事実に求めました.
事実2 性格の認知(たとえば性格検査の結果)は,実際の行動上の性格と一致していない.
事実3 行動上の性格は環境・状況の影響を大きく受け,通状況的一貫性を示さない.
事実2と3は先の派生仮説ABを直接反証するもので,ミシェルはここから,それまでの性格心理学の基本になっていた仮説3に疑問を突きつけたのです.このことは大変な論争(一貫性論争)を生み出しました.そして,20年以上の論争の中でも事実1から3を無条件で反証できるような新しい事実は発見されなかったのです.
つまり,われわれが自分の性格認知をもとに信じている「性格を決めるのは内的な何かで,だから性格は状況を越えて一貫している」という仮説3はかなり怪しい,ということです.
そして,行動上の性格,つまり科学的に扱うことができる現実としての性格は内的要因と環境・状況との相互作用(注2)で決定され,内的要因だけから性格を理解することはできないと考えられるようになりました.これが相互作用論です.私はこの立場をとりますから,血液型性格判断が主張するように血液型だけから多くの場面での性格が広範にわかるといったことは信じられません.
また,性格認知は行動上の性格の観察を基本にはするものの(注3),観察の条件や見る側のさまざまな認知的要因,錯覚などに大きく影響されるもので,行動上の性格を科学的に理解するためのデータとしては信頼できないと考えられるようにもなりました.私が血液型と性格の関係に有意差が出ても別に気にしないのはそのせいです.性格評定などの性格認知と血液型にいくら関係が出ても,それは性格認知に新しい錯覚がひとつ加わったに過ぎない,と考えることができるからです.
これらのことから,仮説3の根拠は「多くの人にそのように見える」ということだけになり,科学的検討の対象とはなりにくくなったのです.その意味で,従来の性格心理学のような「性格の実体論」は,確かに一種のオカルトとして扱うべきものになったと言えるかも知れません.
3.なぜそのように見えるのか
しかし,仮説3についてはまだ考えないといけない問題があります.それは,前に述べたように「行動に現われて客観的に観察できる性格」が状況の影響を大きく受けて変動するのに,なぜわれわれの性格認知はそれを感知しないのか,つまり「なぜ仮説3のように見えるのか」ということです.
これは,われわれが性格を認知し,そして性格という概念を用いる「現場」が,状況的に非常に限定されていることによります.私たちが日常気にしたり,知りたいと思うのは自分の近くにいる,自分と関係のある人たちの性格です.そして,多くの場合は性格認知を行なう自分と,その対象となる他者は,同じ社会的関係の中にいて,お互いに相手にとっての「環境」の一部となって影響を与え合っています.つまり,ある一定の環境・状況の中で,お互いに影響を与え合っている人と人との間で性格の認知は生じるわけです.
そこでは,自分の行動も相手の行動もその状況や人間関係の影響を大きく受け,その力によって一貫した行動パターンを示すようになります.したがって,自分はその人の前ではいつも一貫した行動をとるし,相手も自分の前では一貫した行動パターンを示すようになります.それをわれわれは自分や相手の「性格」として認知するのです.
もちろん,その状況の外側,自分と相手との関係の外側では,相手がどのような性格かはわからないし,おそらく大きく違った性格なのでしょうが,われわれが他者の性格を知りたいのは,その人が自分の目の前でどんな行動をするか,自分に対してどんな行動をするかを予測したり説明するためであり,自分の見てないところでその人がどんな性格か,などということは普通知る必要がありません.
ですから,われわれは性格認知の前提になっている状況的・環境的な制約はすぐに捨象して「この人はこういう性格を持っている人」と決めつけ,性格をその人の内部に投影します.でも,そのことには日常生活上は何の問題もないのです.その人と自分とがつき合う一定の状況,その人と自分との一定の関係の中では,たしかに「性格認知から行動がわかる」し,そういう性格の原因がその人の内部にあって,性格に関連する行動を決めていると考えても実害はないからです.
私はもともと「性格」という概念とはそういうもの,つまりあくまで一定の状況,一定の人間関係を前提に,自分の身近な人の行動を理解し,予測するための便利な道具だったのだと考えます.前に書いた「性格は関係的な概念である」というのは,そういう意味です.そして,われわれは日常的には性格の概念をその関係性を越えて利用したりはしません(注4).
心理学が犯した間違いは,こういう関係的な概念を,関係性(状況や人間関係)抜きに測定したり,利用したりできるもの,あるいは科学的分析の対象にできる「実体」だと考えたことです.そして,心理学がそれをやった根拠は,一種の「錯覚」として関係性を捨象してしまっている「性格の認知」だけだったのです.ミシェルの批判はそうした心理学の性格概念の「誤用」を浮き彫りにしたのです.
もちろん,日常生活で関係性の限定の中で使われ,役に立っている「性格認知」のありかたはそれはそれで心理学的な研究の対象になりますし,最近流行の社会構成主義的な立場をとれば,それこそが性格の本質,性格心理学が研究すべき対象なのだ,ということもできます.心理学がこれまで考えてきたような性格観が間違っているのだ,性格心理学よ本来の現場に戻れ,ということです.
いずれにしても,状況や関係性からまったく独立な「性格」が行動に現われるなどということは現実にはないし,性格がそうした状況や関係性とは別の何か(体格とか遺伝とか血液型とか)から詳細に予想されたり,説明されたりすることはありえません(注5).そのように見えるのは(従来の性格心理学も含めて)すべて錯覚です.そして,そうした錯覚のしくみはすでに心理学によって解明済です.だから私は血液型性格判断を信じないのです.
4.おわりに
今回書いたことはABOFANさんの疑問に直接答えるにはちょっと不十分だったかも知れません.しかし,議論をする前提となる知識,あるいは議論における私のスタンスはかなり伝えることができたのではないかと思います.また,これらを理解していただければ,「現代のエスプリ」の「性格のための心理学」の号に載っているたくさんの論文や,私があちこちに書いているものを「本来の意味で」理解していただけるのではないかとも思います.その上で初めて,賛成,反対の議論になります.
重要な問題として「遺伝と性格」,そしてそれと関連する「相互作用」の問題がまだ残っていますし,「疑似相関」のことや(これは実はすごく重要なことです),ABOFANさんが主張される「関係があるとわかると心理学者はメールをよこさなくなる」問題のことも議論していきたいのですが,あまり長くなるとホームページジャック(?)みたいで恐縮ですので,今日はこのくらいにします.
しかし,わずかこれだけのことの説明にも私がこんなにたくさん書かなければいけない(原稿用紙にして20枚を越えました),ということを見れば,他の心理学者が「返答を面倒くさがる」ことを一概に批判はできないと思いませんか?
2000年1月21日 大雪の帯広より 渡邊芳之
注
(注1)その点で血液型性格学は反証可能な仮説,つまり科学的仮説ですから,「血液型なんて非科学的だ」という意見は間違っています.ただし「その仮説が科学的かどうか」と「その仮説が正しいかどうか」は無関係です.
(注2)内的要因と状況の相互作用なら,血液型のような内的要因が性格をある程度決めたっておかしくない,あるいは,相互作用とはいってもそのうち遺伝が60%占めるというのだから,性格の6割は遺伝でわかるんだろう,というような考え方は,相互作用というものをすこし誤解しています.ただこの問題はちょっと複雑なので,改めて別の機会に説明したいと思います.
(注3)これは当然のことで,あの人は〜な性格だ,というためにはある程度はその人の行動を観察するのが普通でしょう.その人に会いもしないで血液型だけで判断する,などということは能見さんも戒めていましたよね?
(注4)たとえば会社の自分と同じ部署の同僚が,会社という状況を離れ自分との関係も離れた家庭や行楽先などでどんな性格かとか,どんな行動をするかとかに興味を持ったり,本気で予想しようとしたりすることはあまりないでしょう.心理学者は「学校でやった性格検査の結果から家庭での適応を理解する」とか平気でやりますね.
(注5)私が論じているのは「健康な人の性格」だけです.ある種の精神病や中枢神経系の障害などでは,状況の影響を受け付けなくなって性格が固定してしまうことがありますし,そうした「異常」の様態(つまりその人の性格)が遺伝的な要因と深く関係していることはよくあります.しかしそれはあくまで特殊な例です.クレッチマーの類型論が精神病と体格との関係を基礎にしていることはその点で重要です.
毎回大変ご丁寧なご返事をありがとうございます。
さて、今回は単刀直入に答えさせていただきます。よろしくお願いします。
1.性格にまつわる3つの仮説
全く同感ですのでコメントは省略させていただきます。ここで、渡邊さんのおっしゃる「性格」の意味を再確認できました。
2.「一貫性論争」でなにがわかったか & 3.なぜそのように見えるのか
>
われわれが自分の性格認知をもとに信じている「性格を決めるのは内的な何かで,
>
だから性格は状況を越えて一貫している」という仮説3はかなり怪しい,ということです.
この「性格を決めるのは内的な何かで,だから性格は状況を越えて一貫している」という定義が一般的であるという根拠は何でしょうか? 確かに欧米人はそういう文化的伝統の中に生きていますから、こういう定義は自明なものなのかもしれません。しかし、私は日本人ですから、この定義には非常な抵抗を感じます。試しに、小学館の『スーパーニッポ二カ』で「性格」を調べてみました。
ある人が特定の場面で、ある行動をとる場合、同じような場面に出会っても、その人によってとる行動には違いがある。たとえば、道でそれほど親しくない知人に出会ったが、先方が気がついていないといった場合、ある人は黙って通り過ぎるし、別の人はこちらから声をかける、といった違いがある。このように、行動の個人差には単に環境的条件の差だけでなく、その人がだれであるかという主体的条件によって決まってくる面がある。性格は、このような他人との違いを説明しようとするとき用いられる概念である。 (C)小学館
この文章を素直に読むと、「性格を決めるのは内的な何か」とも、また「性格は状況を越えて一貫している」とも読めません。全体を読んでも、そんな印象は受けません。性格は環境や状況によって変化するのは当然だと思えます。いや、状況により性格が変わるのが人間本来の姿である、という方が私にはぴったりきます。
#言うまでもありませんが、(自覚した)状況が一定であれば行動パターンは一定です。
再度ミシェルの最新版に当たってみたのですが、やはりそう書いてあるように思えます(Walter Mischel, "Introduction to Personality" Sixth Edition, 1999, pp. 426)。
Situation-Behavior Personality Signature: Stable If ... Then ... Relations
In the CAPS model, the underlying structure of the personality system remains stable, although the surface behavior it generates change in relation to changing situations (see also Larsen, 1992). As in a musical piece, the notes played at any moment change, but they do so in an organized pattern that reflects the structure of the composition. Specifically, CAPS theory predicts that individuals will be characterized by distinctive if ... then .. situation-behavior profiles of characteristics elevation and shape like those illustrated in Figure 15.2. These profiles provide a kind of behavioral personality signature.
[大意]
状況−行動パーソナリティシグニチャ: 安定的な If ... Then ... 関係
CAPSモデルでは、状況によって表面的な行動は違うにもかかわらず、その下部にあるパーソナリティの構造は安定している。それは、例えば音楽のように、一定のパターンに従って音符が時々刻々と変化するようなものである。ここで強調しておくと、CAPS理論は個人が明確な If ... Then ... 状況−行動プロファイルによって特徴づけられることを予測している。このようなプロファイルは、ある種のパーソナリティシグニチャを規定することになる。
パーソナリティシグニチャとは、一般に言う性格のようなものなのでしょう。たぶん…。いずれにせよ、性格の「通状況的一貫」はないにしろ、「首尾一貫性」はあることになる…はずです。
これに対応する能見さんの主張を引用しておきます(『新・血液型人間学』 青春出版社プレイブックス S60.6)。
人間の性格は、生まれつきの、すなわち先天的な気質が、後天的な形成作用を受けて、作られていく。…
気質は前述のように、人間のスタート時点での神経回路の特性といえる。気質も成長につれて、多少の変化が予想されるが、原則として、不変と考えていい。
気質は、そのままでは外部からは、うかがい知れない。外界から何かの刺激が神経回路に加えられると、それに反応し、目に見える行動や表現となって現われてくる。
日常生活での刺激は、一つ一つが異質のものではない。ほぼ一定の刺激の繰り返しが多い。…そうした刺激の反復が、気質の反応に一定の傾向を作る。その傾向の著しいものを、“性格”と言い慣わしているのである。
反復刺激のあり方により、似たような気質、同じ血液型の人でも、性格が違ってくるのは当然である。…“環境の差”というのも、この刺激の合計値の差といえる。だから同じO型に生まれても、大都会に育ったO型と、ジャングルの中で生まれ育ったO型では、まるで性格も違って来よう。一方、同じジャングルで育っても、A型のターザンとB型のターザンでは、文字通り、別人のようになる。血液型と性格の問題は、このように両面から考慮する必要がある。
反復刺激は、人間の場合は、計画的なしつけ、教育・学習、訓練、あるいは自分自身による性格改善の修行、修養など、意図的なものも加わってくる。これらの、自然的・人為的な反復刺激の総合を、後天的影響と総称するのである。
まさに、『血液型人間学』はミシェルの主張そのものだと思うのですが…。
念のため、血液型と性格がわかるからの抜粋です。 多重性格を初めて解明した血液型気質と性格については、能見さんは次のように使い分けています。 気質は先天的なものです。これに対して、性格は、気質が後天的な形成作用を受けて作られれていくもの、ということです。気質は、そのまま外部からは分かりませんが、外界からの刺激に対してなにかしらの反応をします。この刺激の反復が、気質の反応に一定の傾向を作り、その特徴が「性格」になるというものです。 次は、「多重性格を初めて解明した血液型」として、『決定版【血液型】ズバリわかる人間学』に取り上げられている例から引用しておきます(34〜37ページ 傍点は下線に変更)。
37ページには、内向性と外向性についての記述があります。
江戸川乱歩は、おばあさん子で、体育がダメで、少年時代は全く内向的だったそうです。ところが、内面では政治家志望(=外向的)だというのだから、少々驚きです。大学卒業後には、20の職業を転々とし、屋台のソバ屋までやり、結局28歳の時に職業作家になります。この時は、徹底した人間嫌い(=内向的)で、昼間も暗い土蔵に閉じこもってローソクの光で執筆していたそうです。あの怪人二十面相や明智小五郎の活躍が、こんな状態で書かれたというのも意外ですね。ところが、40代を過ぎると、戦争中に町内会長や警棒団長として活躍、戦後は探偵作家クラブを結成し、後輩の育成に努めます。彼の人生は、内向・外向が交錯し、一定の傾向はないのではないか、というのが能見さんの結論です。 別の例も書いておきましょう。下の図を見てください。O型は環境にストレートに適応するのに対して、B型のマイペースぶりが目立っています。ただし、実際にそうであるということではなくて、単なる模式図ですので、念のため。(^^;; 同様に、神経質についても書いていますが(39〜40ページ)、ここでは『新・血液型人間学』から引用しておきます(101〜102ページ 傍点は下線に変更)。
なかなか納得できる説明だと思うのですが、どうでしょうか? 次は、皆さんからのメールからです。なお、この他にも、同様の趣旨のメールをいただいています。 No.165 A型女性のシーラさんから H11.4.2 22:001.面白いですか?
2.お気に入りのページ
3.血液型と性格の関係は?
4.メッセージ:
No.164と同じく、ご指摘の点は、ほとんどそのとおりです(笑)。 |
以下は、性格の一貫性と血液型からです。 性格の一貫性論争 そもそもの発端は、アメリカの心理学者、W・ミシェルの"Personality and Assessment"によって提起された「人間−状況論争」(性格を決めるのは内的要因である人か、それとも外的要因である状況かという論争)です。現在、原典を読んでいるのですが、邦訳が入手できないために四苦八苦しています。(*_*) 日本では人気がないようですから、もう絶版なのでしょうか?
同書によると、この論争の結論はいまだに出ていないようです。(*_*) ところで、欧米では人間の性格には一貫性がある、という暗黙の前提があるようです。もちろん、日本(東アジア?)ではそんな前提は成り立たない、というが常識(?)のようです(山本七平ライブラリー1 『「空気」の研究』 空気の思想史――自著を語る 文芸春秋 H9.4 350ページ)。
日本の伝統的規範では、この孔子の正直どおりに行動することが期待されています。ただ、孔子はいつもこのように行動しろと主張しているわけではありません。あくまでも血縁関係がある場合だけです。日本ではこの血縁関係的な規範が社会の一般的規範になっているので、十分に注意しておきましょう。(^^;; 面白いのは、立場が相手との相対関係によって変わることです。 では、具体例で説明しておきます。 例えば、上司の家族から電話がかかってきた場合を考えてみましょう。対応する人は、電話の相手とその上司が家族であるという前提(当然!)で敬語を使います。では、他社から上司に電話がかかってきた場合はどうでしょう? 対応した人は、電話の相手に対してその上司に敬語を使うでしょうか? 使う、と答えた人は、社会人としては失格です(失礼!)。あるいは、新入社員の研修マニュアルが不十分だったのでしょう(笑)。 日本の社会では、会社は擬似血縁関係にある集団であることが自明の前提とされています。この場合、電話の相手は会社から見れば他人ですから、上司は家族同様に扱い、敬語は使わないことになります。つまり、相手によって自分の立場が変わることに…。 #なお、韓国ではそんなことはありません。社長は社長で、電話の相手が誰だろうが対応には「社長様」というように敬語を使うそうです。 となると、日本のような社会構造の国では、性格や行動の「通状況的一貫性」は仮定するだけ野暮というものでしょう。逆に、「首尾一貫性」については非常に厳密に守らないといけません! 守らないなら、その人はまともな社会人とは認められませんから…。 #心理学者も例外ではないはずです、たぶん。 別な角度からも考えてみることにします。 普通の日本人は、「内面(うちづら)」と「外面(そとづら)」が違うのは当然とされています(え? 私はどうかって? それは…f(^^;;)。まあ、当然とまではいかなくとも、内面と外面が違っても、その人の人格が崩壊していると考える人はごく少数でしょう。会社では部下に厳格な上司が、家に帰ると大甘の父親・母親というのはよく聞く話です(逆のケースもあるようですが…)。これも、別にその人の人格が崩壊しているわけではありません。 そういえば、その昔に道徳の教科書で、「相手の立場に立って行動するべきだ」と習ったような記憶もあります…(今はどうなのかな?)。 つまり、性格や行動の「通状況的一貫性」は、日本では成り立たないのが当然とされているわけです! ついでに書いておくと、日本では多重人格の症例が非常に少ないそうですが、それにはこういう社会的背景があるのかもしれません。欧米では多重人格障害が多く報告されているようです。非常に有名な例がビリー・ミリガンで、本もあるので知っている人も多いことでしょう(私は読んでませんが…(^^;;)。 閑話休題。 状況の話が出たので、ついでに状況倫理と固定倫理について紹介しておきます(山本七平ライブラリー1 『「空気」の研究』 「空気」の研究 文芸春秋 H9.4 92ページ)。
同様に、人間の主義主張(性格?)も容易に変える(変わる)べきではない、という暗黙の前提もあるようです。日本のように「若気の至り」というのは認められないのではないかと思います(では、若くない私はどうなるんだろう?…汗)。 山本七平さんによると、以前にある首相と外務大臣(どちらも自民党)がアメリカのある上院議員に「左翼的」と批判されたことがあるそうです。その理由は、本人が元社会党員(現在は社民党と改名)だったり、妻が元社会党員だったとのこと。冗談としては面白いのですが、日本人で本気でこう考えている人は、かなりの例外と言っていいでしょう。 また、ある出版社の元社長(故人)は、戦前の一時期に共産党員だったそうです。そのため、敗戦後30年たったときでもアメリカには入国できなかったとのこと。理由は、やはり彼が元共産党員であったということで、日本ではちょっと考えられません。氏がアメリカに入国できるまでには実に多くの障害を除かねばならなかったとのことです。
結局、アメリカ人の思想に対する態度は宗教に対するものと同じで、キリスト教徒は生涯キリスト教徒であるというのと同じことになります。自分自身で他の思想を選択したことを明言しない限り、いつまでもその人の本性として存続することになるそうです。 ミシェルの"Personality and Assessment"によって提起された「人間−状況論争」は、こういう文脈の下に理解する必要があるのではないかと考えているところです。本当はどうなのでしょう? -- H11.11.27 |
4.おわりに
>
議論をする前提となる知識,あるいは議論における私のスタンスはかなり伝えるこ
> とができたのではないかと思います.
どうもありがとうございました。私のコメントは今まで書いたとおりです。
> 「関係があるとわかると心理学者はメールをよこさなくなる」問題
例だけ挙げておきます(実はまだあるのですが…)
> あまり長くなるとホームページジャック(?)みたいで恐縮ですので,今日はこのくらいにします.
全く気にする必要はありません(笑)。ただ、忙しい場合はHPの更新が若干遅れるかもしれませんので、その点だけはご了承ください。
>
わずかこれだけのことの説明にも私がこんなにたくさん書かなければいけない(原稿
>
用紙にして20枚を越えました),ということを見れば,他の心理学者が「返答を面倒く
> さがる」ことを一概に批判はできないと思いませんか?
いままでは統計的に差があるかどうかが問題だったので、渡邊さんのケースとは様子が違うことは確かです。基本的にはデータをどう解釈するかだけですから時間はかかりません。具体例を挙げておきます(文章は一部変更しました)。
【例1】 …先生にお手数をおかけするの大変申し訳ないので、とりあえずの回答は次の2つ質問の番号を選んでいただくだけで結構です(気が向くのなら、解説もしていただければ最高ですが…)。これなら大してお時間はかからないでしょう。
お忙しい中大変申し訳ありませんが、ご返事をお待ちしています。 【例2】 血液型と性格の関係に否定的なのは、どういう論理に基づくものなのか教えていただければ幸いです。
#もちろん、渡邊さんは1.の立場だと思いますが…。 |
しつこいようですが、血液型と性格に関係があることを証明するには、どんな条件が必要なのかご教示ください。
さて、再度読み直したのですが、ちょっと疑問が湧いてきました。
まず、1.では、
遺伝と性格,というときには「遺伝が行動に現われるパターンに与える影響」などを考えていますから,遺伝,行動どちらも客観的に分析可能なので,これは科学的検討の対象になるわけです.「血液型と性格」でも同じです(注1).
ところが、2.では、
行動上の性格,つまり科学的に扱うことができる現実としての性格は内的要因と環境・状況との相互作用(注2)で決定され,内的要因だけから性格を理解することはできないと考えられるようになりました.これが相互作用論です.私はこの立場をとりますから,血液型性格判断が主張するように血液型だけから多くの場面での性格が広範にわかるといったことは信じられません.
更に、3.では、
状況や関係性からまったく独立な「性格」が行動に現われるなどということは現実にはないし,性格がそうした状況や関係性とは別の何か(体格とか遺伝とか血液型とか)から詳細に予想されたり,説明されたりすることはありえません(注5).そのように見えるのは(従来の性格心理学も含めて)すべて錯覚です.そして,そうした錯覚のしくみはすでに心理学によって解明済です.だから私は血液型性格判断を信じないのです.
この3つは相互に矛盾しないのでしょうか??
なぜなら、2.が成り立つためには、1.により「客観的に分析可能」ということですから、「血液型と性格」についても血液型と行動についてのデータがないといけません。しかし、3.では「性格がそうした状況や関係性とは別の何か(体格とか遺伝とか血液型とか)から詳細に予想されたり,説明されたりすることはありえません」ということですから、データは不要ということになります。それにしては2.と3.では、「血液型性格判断を信じない」ということですから、1.により「客観的に分析可能」なデータを見たとも思えません。私はすっかり混乱してしまいました。(^^;;;
毎回のことですが、乱筆・乱文失礼します。
どうもありがとうございました。
【読者からのメール】 その2
読者から、その1の内容がわかりにくい、という意見をもらいました。(^^;;
この方がわかりやすいと思いますがどうでしょうか? 渡邊さんのおっしゃることは、「実験(観測)をしていない状況での人間の行動(物体の運動、物質の性質 etc.)は予測できない」だけでなく、「一般的に(似たよう状況であっても)人間の行動(物体の運動、物質の性質 etc.)は予測できない」ということです。少なくとも前者は論理的には正しいのです。 しかし、この論理に従うと、少しおかしな結論が得られます。たとえば、ニュートン以前には万有引力という概念がなかったので、万有引力を観測した人はいません。つまり、
ということも、容易(?)に証明できてしまう(?)ことになります。同様に、まともに万有引力が測定されているのは太陽系(地球?)近辺だけですから、
ということも証明できる(?)ことになります。 物理学では、「条件が与えられれば物体の運動(物質の性質 etc.)は予測できる」というのが大前提です(厳密には違うのですが…)。心理学がそうではないとすると、少なくとも自然科学と同じ前提が成立しないことになります。 そこで、再度ミシェルの記述を検討しておくと…(Walter Mischel, "Introduction to Personality" Sixth Edition, 1999, pp. 426)。
このパーソナリティシグニチャのグラフを見ると、「(少なくとも)特定の条件が与えられれば人間の行動は予測できる」ということになります。これは別に私独自の見解ではなく、心理学の専門書でもちゃんとそう書いてあります(B・クラーエ 堀毛一也編訳 『社会的状況とパーソナリティ』 H8.5 北大路書房 80〜82ページ)。
この本は、渡邊さんも訳者の一員ですし、かなりの論文で参考文献として挙げられているので、少なくとも日本の心理学会では一般的な見方だと思います。 おまけとして、もう1通メールが来たので紹介しておきます。渡邊さんの論理を拡張すると、こんなことも証明できるのではないかという思考実験です。解説は不要でしょう…。
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ABOFANへの手紙(3)
私,わかっちゃいました.他の心理学者がいずれかの時点でABOFANさんとのメールのやりとりをやめてしまう理由.
理由1 議論が自分(心理学者側)の意図したものからどんどん拡散されていくので,どこから手を着けて,どこから説明したらいいかわからないし,その手間を考えるとげんなりする.
理由2 ABOFANさんが,あくまでも自分が自分なりに完全に理解し,論争可能だと思う「問い」の中でしか議論しようとしないので,議論するためには前提を延々と説明しないとならないし,それを理解しようとしてくれるかどうかもわからない.
もちろん,問題を拡散させずに議論するのには経験と訓練がいるし,議論を成り立たせるにはある程度相手を「飼い慣らす」必要があります.しかし心理学者相手の議論ならこうした苦労は相対的に少ない.だから多くの心理学者はしろうととの議論をとても嫌います.むしろ誠実で,きちんとした議論を求める心理学者ほどそうだと思います.でも私はそれほど誠実ではないので,まだ議論を続けていこうと思います.
本当は次は遺伝と性格,相互作用の話と,「疑似相関」の話をしようと思っていたのですが,拡散した話題につき合います.もっとも,ABOFANさんの感じる「混乱」はもっと大きくなると思います.
1.「単刀直入な問い」について
ABOFANさんが求めているのは結局次のことについての結論ですね.
問い 血液型と性格に関係があることを証明するには、どんな条件が必要なのか
私からはちっとも単刀直入とは見えないのですが,ご希望なので私も「単刀直入風」に答えてみましょう.もっとも単純な答えは,
答え1 性格のどんな側面と,どんな文脈で関係づけるかによって条件はさまざまである.
ですが,これでは揚げ足取りみたいですね.もうすこし具体的に,前にあげた性格の3つの仮説とも関連づけていうと,
答え2 「性格の認知と血液型との関連」が血液型と性格の関係であるなら,
証明 → 血液型と性格との関係を認知している人がいることを示す.
答え3 「行動上の性格と血液型との関連」が血液型と性格の関係であるなら
証明 → 状況要因や性格認知を統制したデータで,血液型が行動上の性格を説明・予測することを示す.
となります.答え2についてはABOFANさんを含め信じている人がたくさんいて「血液型で性格がわかる」と言っているという時点で証明は完了です.血液型と性格には関係があります.そして,血液型性格判断を信じている個人または文化では血液型と性格には関係があるし,それを信じない個人・文化では関係がない,という結論が予想されます.
性格認知についての心理学的データ(性格検査や性格評定)と血液型との関係について,関係があったりなかったりするのは,そのサンプル(対象者)が信じる文化・個人から取られているか,信じない文化・個人から取られているかの違いでしょう.ですから血液型本の読者アンケートとか読者の性格評定と血液型に有意な関係が出るのは当然ですし,信じてない人々からとった心理学者のデータで関係が出ないのも同じです.
答え3についてはもうすこし難しくなります.「状況要因や性格認知を統制したデータ」をどう手に入れるか.もちろん性格検査や心理テスト,自己評定他者評定,どれもだめです.考えられるのは,血液型ごとに数十人の人をサンプルとして選び,全員の日常生活をつぶさに観察して,その人の行動パターンに現われる性格と血液型に関係があるかを分析する,といった手法でしょう.
そんなこと,心理学だってやってないじゃないか,というあなた,正解です.性格と体格の関係とか,筆跡と性格の関係とか,心理学がもっともらしくやっていることも,実は「答え2」,性格認知と体格や筆跡の関係を分析しているだけ,性格心理学は「そのように見ている人が多い」「心理学者の自分にもそう見える」ということだけでやっていたのです.そうした性格心理学がミシェルや一貫性論争で批判され,否定されたわけです.
もうひとつあえて混乱させることを言うと,答え2であげた「状況要因や性格認知を統制したデータ」というものは,実際には完全な形で手に入れることが困難です.それは観察というもの自体が,観察を行なう文脈や,観察者の性格認知に拘束されるからですが,この問題はあとて述べる問題とも関係するし,文献を示すだけにします(注1).
2.「証明」と証明責任について
ついでですが,証明ということについて大切なことを確認しておきます.それは,ある仮説についての立証責任は,その仮説を主張する側にしかない,ということです.血液型に関していえば,血液型と性格に関係があると主張する人がそれを立証する責任を持ちます.それ以外の人はその立証方法やデータに納得できるならそれを信じるし,納得できないなら信じないだけです.「信じない」理由は「信じる理由がない」だけで充分で,仮説を反証したり,信じない根拠を提出する責任はありません.そして,すくなくとも科学の文法では「ないという証明はできない」ことは,もうすでに多くの人が言っていることですよね.
血液型について心理学者がほとんどとりあわないのは,われわれの持っている知識と興味から言ってその仮説を検証する価値があるとは思えないからです.「科学的に扱うことができる仮説」であるかどうかと,それを検証することに興味を持つかどうかは全然別です.それを「検証しないのはおかしい,ないというならないと証明しろ」といわれても,難癖つけられたみたいにしか感じませんし,面倒くさいだけなのです.
私や佐藤達哉,大村政男先生などが血液型に興味を持つのも,べつに「血液型と性格に関係がある」という仮説に興味があるからではありません.大村先生などは「(自分が信じられない理論を)信じている人が多いのがけしからんからなんとか否定しよう」(笑)というスタンスですし,佐藤達哉と私の共同研究は「こういうことが流行るのが社会現象として面白いから調べよう」「血液型と心理学の関係が歴史的に面白いから調べよう」という興味,そして私個人的には血液型性格判断の論理に見る問題が,心理学そのものの問題点を再確認し,改善していくヒントになると思っています.「いまの性格心理学は全然ダメだ,だって血液型と論理が同じじゃん」ということです.
いずれにしても,血液型と性格に関係があると主張する手っ取り早い方法は,前にあげた「答え2」のように(状況要因や性格認知からある程度独立な)行動上の性格と血液型との関連を示す納得できるデータを,血液型性格学の側が示すことです.いままでの質問紙データなどでは,ぜんぜん納得できません.
また,心理学者を納得させたいなら,それを心理学の学会で発表するか,心理学の学会誌に投稿することです.学会には入会すれば誰でも発表・投稿することができます.日本心理学会のように入会に推薦者が必要なら私がなります.
もし,自分の仕事もあるしそんなことできないよ,とおっしゃるなら,血液型性格学を信じる人たちから募金を募って,そのお金で心理学者を雇って研究させたらどうでしょう? 能見さんあたりはそのくらいの財力があるのではないでしょうか.これは冗談や皮肉ではなくまじめな提案です.
もちろん,私はその研究が血液型と性格の関係を証明できるということはないだろうと思いますが,それはあくまで理論的に考えてですから,やってみなければわかりません.ぜひやってみてください.
3.科学的知識と文脈
つぎに,「読者から寄せられた感想」の件(便宜的に番号を付けました).これは今日これまで考えてきた問題とも深く関連します.
感想1「ある物体に万有引力が観測された、と言うとき、どこの場所で、いつの時代に、だれがその実験をしたか、が特定されなければ、その実験には意味がありません。ある物体が万有引力を持つかどうかは、さまざまな文脈的変数の関数です。ただ、普通一定の安定した条件で暮らしているわれわれの認識はそうした文脈的条件を捨象するように出来ており、万有引力が物質固有で一貫したものであるかのように錯覚します。」
感想2「たしかに、無限回の追試をしない限りは、どんな法則だって論理的に証明されたとは言えませんからね(^^;)。物理学もすべて錯覚なのでしょう(^^;)。」
感想3「昔の人が引力を信じなかったのは、昔は引力がなかったからなんでしょう。」
これ,書いた人は「そんなはずないじゃん」と思って皮肉たっぷりに書いたと思うのですが,実は,最近では多くの科学者がこのように考えるようになっています(ただし感想2は仮説の検証のしくみを誤解していますので除外します).
ふつうは「客観的」と思われる実験結果が実験者の持っている理論に拘束される「理論負荷性」の問題は古くから論じられていましたが,最近では仮説の生成とか実験の計画,データの処理,それどころか「科学という営み」自体が,時代背景や科学者社会の文脈に拘束された相対的なものであると考えることが多くなりました.有名なクーンの「パラダイム論」などもそうです.
実験などの「科学的手法」による知識はこれまで普遍的なものだと思われてきたわけですが,いまはそうではありません.実験データなどに「客観性」があると考えるのは,最近は「科学主義」というひとつの思想(宗教?)とみなされています.
そういう意味で,知識はすべていつ,誰が,どこでそれを知り,主張したかという文脈の拘束を受けます.その意味である知識が究極的に正しいとか,間違っているということはないのです.これを「知識の相対性」といい,第2次大戦後の哲学,科学論ではこれが共通の認識です.
天動説が間違っているというのは現代の文脈でそうなので,1000年前にも間違っていたのかは「判断できない」のです.感想3の引力の問題もそうで,引力が発見される前に引力があったのかどうか,昔の人の考えは間違っていたのかということは「判断できない」と考えます.だから感想3のようにいうことは間違ってはいない.
この相対主義をもっと進めているのが前にも出てきた社会構成主義とか社会的構築主義という立場です.科学というもの自体,科学者によって作られた「学界」という社会の風習に過ぎず,実験や科学的証明などというものもその社会の内部でだけ有効で,科学的知識が学界の外で有効だという証明はない,と考えるのです.そして,すべての科学的知識もその学界の社会構造や,「だれが,いつ,どこで」それを言ったのかといったことについての分析抜きでは理解できないと考えます(ちなみに,私は現在これに非常に近い立場をとっています).
「そ,そんなばかな」と思うかも知れませんが,これが哲学と科学の最先端です.もっと知りたい人のために参考文献をあげておきます(注2).HPなどの論旨から,ABOFANさんはたぶん理系大学などで基礎分野を勉強され,わりと科学の客観性みたいなものを信じて議論されているのではとお見受けしますが,残念ながら,「科学」はABOFANさんが学部で勉強されたような「雑誌ネイチャー的な幸福なもの」からずいぶん変わってしまっているのです.
そして,科学的な知識ですらそうなのだから,「性格」のような日常的な素朴概念やそれに基づく知識が文脈に依存するのは当然すぎるくらい当然です.性格について考えるときには,誰が,いつ,誰に対して認知した性格なのかという限定抜きに考えることはできません.その認知が心理学者によって,性格検査などのツールを通じて行なわれている場合も同じです.
そんなの聞いたことない,というかも知れませんが,こういうことは科学が「科学主義」の一定の歴史を積み重ねてきた上で,その先に行くための議論です.初学者や一般の人を相手に話すときにはまず「科学主義」のパラダイムが正しいと措定した方が既存の知識の伝達は効率的になるので,そうしているだけです.心理学だってそうで,町の本屋に普通に売っているような心理学本に「これらの知識は相対的なものだ」なんて書くのはナンセンスです.その先の議論は一定の知識と技術レベルを得た人以外にはまだ必要ないのです.でも出てきてしまったので一応お話ししておきました.もちろん,ここでの議論全体にこれらの問題を拡散する気はありません.
4.おわりに
ABOFANさんはすでにだいぶ面倒になってきていると思いますし,一般の読者の皆さんもそうでしょう.まだ読み続けている人はほとんどいないのではないでしょうか.でも,私が職業としての心理学者としてこの問題をまじめに議論しようとすれば,どうしてもこうなります.そして,これはまだほんの導入編に過ぎません.
今回も原稿用紙にして20枚を越える手紙になりましたが,私の見積もりではABOFANさんがこれまで私に対して出された質問に,答えの前提もきちんと説明して答えて行くにはまだ同じくらいの長さの手紙が30通くらいは必要ですし,一回ごとにABOFANさんが議論を拡散させていくと考えると,まあ100通くらいは必要でしょう.私は最初のメールを書いたときにその覚悟をしています(他の心理学者たちはそれをしたくなかった).そして,議論を成立させるためには,ABOFANさんにもその100通をきちんと読んでもらい,きちんと考えてもらわなければなりません.
「心理学者からメールの返事が来ない」などと言っていても,心理学者が本気で返事を書き出したら,こんなに面倒なことになるのです.私たちが心理学者だというのは,そういうことです.学者と本気で議論するなら,自分の説のために仕事や趣味の時間も削って勉強して議論を続ける(つまり自分も学者になる)しかないし,それが面倒なら学者からは研究の結論や結果だけを聞いて満足するか,自分は自分だけで楽しんで学者に議論をふっかけたりしないかです.
「しろうと向けにやさしく短く説明してくれてもいいじゃないか」という意見もあるかもしれません.しかし,ABOFANさんは自分で意識しているかは別として,すでに学者に対して学者の流儀で議論を投げかけてしまったのです.あなたがプロのボクサーにリングの上で試合を挑んだらどうなるでしょう? もし相手が試合に応じたとして,しろうとだから手加減してくれというのはちょっと卑怯です.まあ普通はボクサーの方が「しろうと相手に試合なんかして,怪我させたらかわいそうだから」とリングを下りるでしょう.
メールに返事をくれない心理学者のなかには,そうしたプロのボクサーみたいな人もいるのではないでしょうか.私は相手がしろうとだなんて考えようともしない,マイク・タイソンみたいなボクサーなのかもしれないなあ.
(注1)渡邊芳之・佐藤達哉 一貫性論争をめぐる行動観察と予測の問題 性格心理学研究,2;1,68-81,1994年3月 手に入らないようでしたらコピーをお送りしますので渡邊(ynabe@obihiro.ac.jp)までご連絡ください.
(注2)まず,ヴィヴィアン・バー,田中一彦訳「社会的構築主義への招待〜言説分析とは何か」川島書店,それから「現代思想」1998年11月号「特集 サイエンス・ウォーズ」青土社(この雑誌をおいている東京なら紀伊国屋などの大きな本屋ならバックナンバーで手に入ります)
ABOFANへの手紙(3)追伸
1.ABOFANさんは私の議論への反論に,「ミシェルにもそんなことは書いてない」ということをおっしゃいますが,私がミシェルの名を挙げて論じるとき対象にしているのは1968年の「Personality and Assessment」(私たちの訳,詫摩武俊監訳「パーソナリティの理論」誠信書房)だけです.また,この本の中にも私の考えと違うところはいくらもあり,私は別にミシェルを論拠として議論をしているわけではありません.付け加えれば,最近のミシェルの研究はがっくりきちゃうほどクダラナイものが多いです.若いときに偉大な学説を提唱しながら,その後はパッとしなかったり,むしろ若いときより劣った理論に落ち込んでいった学者は星の数ほどいます.
2.ABOFANさんは「#言うまでもありませんが、(自覚した)状況が一定であれば行動パターンは一定です。」と書かれていますが,それは非常に疑問です.「自覚」などの意識は行動に先行して生じるわけではないのです.説明してもいいですが,また長いですよ.
ABOFANへの手紙(3)追伸の2
3.ABOFANさんがまとめられた「単刀直入」な質問の例,
> 【例1】 問1 松井先生や坂元先生が分析されたJNNデータバンクのデータでは
> 「『○型は、この特性において、明確に×型と異なる』というデータを
> 示して」いると判断されますか?
>
> 問2 「ラベリング効果」の影響によって質問の回答には影響を与えると判
> 断されますか?
これは私がいま説明していることとまったく関係がありませんし,もともとABOFANさんが私に投げかけられ,今回の文通の原因となった問いともまったく別のものです.私の考えをあえて答えれば「どうでもよい」あるいは「どっちでもよい」です.こういう議論の相手は私ではないのではないでしょうか?
> 【例2】 血液型と性格の関係に否定的なのは、どういう論理に基づくものなのか教
> えていただければ幸いです。
>
> 1.統計(≒心理学の性格テスト)を使うことは「無意味」だ
> 2.統計的に「差はある」。しかし、それは「信念」によるもので本当は性格との関係は
> ない
> 3.統計的に「差はない」。だから、血液型と性格の関係はない
>
この3つの問いはそれぞれが別のことを問うていて,3択にはできないと思います.また,2と3は複数の問いから構成されており,答えようがありません.統計的に差がないからといって,血液型と性格に差がないなんて言えないと思うのですがどうでしょうか? また,
> #もちろん、渡邊さんは1.の立場だと思いますが…。
これは明らかに違います.
毎回迅速な、そして大変ご丁寧なご返事をありがとうございます。
さて、今回も話題を拡散させるようで申し訳ありませんが…。渡邊さんの論理によると、渡邊さん自身が間違っていることが簡単に証明できる(???)はずです。たとえば、
私は渡邊さんのおっしゃることが正しいとは信じません。なぜなら、「『信じない』理由は『信じる理由がない』だけで充分で,仮説を反証したり,信じない根拠を提出する責任はありません.」ということだからです。
本当にこれでいいのですか???(@_@)
次に、「他の心理学者がいずれかの時点で私とのメールのやりとりをやめてしまう理由.」ですが、以前にも書いたように、私がメールの内容を公開しない限り真偽は不明です。推測が可能なのは、私のHPに公開されているものについてだけですが…。ですから、これ以上議論しても意味がないと思うのですが、なぜこだわるのでしょうか?
どうしても調べたいということなら、やりとりをした方に私がメールを出して渡邊さん宛に説明のメールを出すことをお願いするぐらいですが…(もちろん、先方に了解をいただいた方のみになります)。
1.「単刀直入な問い」について
お答えいただいてありがとうございます。ここで議論の対象となるのは、どうやら答え2と3のようですね。
>
答え2 「性格の認知と血液型との関連」が血液型と性格の関係であるなら,
> 証明 → 血液型と性格との関係を認知している人がいることを示す.
これは問題なくクリアしているということですからパスします。(^^)
>
答え3 「行動上の性格と血液型との関連」が血液型と性格の関係であるなら
> 証明 → 状況要因や性格認知を統制したデータで,血液型が行動上の性格を説明・予測することを示す.
これは、能見さんのデータがいくつかあります。たとえば、『血液型愛情学』では、
どうかご確認ください。もちろん、血液型別にちゃんと傾向が現れています。
>
血液型性格判断を信じている個人または文化では血液型と性格には関係があるし,それを信
>
じない個人・文化では関係がない,という結論が予想されます.
これはデータにより否定されています。たとえば
などです。職業別の血液型データも入れてもいいのかもしれません。
> そんなこと,心理学だってやってないじゃないか,というあなた,正解です.
これはそのとおりですね。
2.「証明」と証明責任について
>
血液型について心理学者がほとんどとりあわないのは,われわれの持っている知識と興味から
>
言ってその仮説を検証する価値があるとは思えないからです.
この心理学者のサンプル数はいくつでしょうか? キャッテルなどの海外の心理学者はどうなのでしょうか?
>
血液型と性格に関係があると主張する手っ取り早い方法は,前にあげた「答え2」のように(状況
>
要因や性格認知からある程度独立な)行動上の性格と血液型との関連を示す納得できるデータ
> を,血液型性格学の側が示すことです.
今回の冒頭に書いたので省略します。
>
心理学者を納得させたいなら,それを心理学の学会で発表するか,心理学の学会誌に投稿する
>
ことです.学会には入会すれば誰でも発表・投稿することができます.日本心理学会のように入会
> に推薦者が必要なら私がなります.
ご好意はありがたく受け取らせていただきます。
>
血液型性格学を信じる人たちから募金を募って,そのお金で心理学者を雇って研究させたらどうで
> しょう?
そういう心理学者は紹介していただけるのでしょうか? 紹介していただけるとなると、ザックバランなところで研究費はどの程度必要なのでしょうか? 私が心理学会に入会するよりは簡単そうなので…。(^^;; 差し支えなければ教えていただきたいのですが。
3.科学的知識と文脈
> つぎに,「読者から寄せられた感想」の件
【読者からのメール】その2、に書いたのでここでは省略します。
>
ABOFANさんはたぶん理系大学などで基礎分野を勉強され,わりと科学の客観性みたいなものを
> 信じて議論されているのでは、
私が一応理系出身であることは確かです。しかし、血液型と性格については、議論の相手と相互理解に努めているつもりなのですが…。
> 有名なクーンの「パラダイム論」などもそうです.
私はこの本は読んでないのでなんとも言えないのですが、また混乱してしまいました。なぜなら、2.では、
>
心理学者を納得させたいなら,それを心理学の学会で発表するか,心理学の学会誌に投稿する
>
ことです.学会には入会すれば誰でも発表・投稿することができます.日本心理学会のように入会
> に推薦者が必要なら私がなります.
ということですが、3.の文章全体としては心理学会は正しくない(失礼!)としか読めません。(^^;; となると、正しくない心理学会に入会しても意味がないではないのですか? 一体どうすべきなのでしょうか?
4.おわりに
> まだ読み続けている人はほとんどいない
いますので、気になさらないでください(笑)。いずれにせよ、大変なお手数をかけていることに感謝します。
ABOFANへの手紙(3)追伸
>
私がミシェルの名を挙げて論じるとき対象にしているのは1968年の「Personality
and Assessment」
>
(私たちの訳,詫摩武俊監訳「パーソナリティの理論」誠信書房)だけです.この本の中にも私の考
> えと違うところはいくらもあり,
再確認させていただきますが、渡邊さん独自の考え方ということでよろしいのですね?
> 「自覚」などの意識は行動に先行して生じるわけではないのです.説明してもいいですが,また長いですよ.
お手数でなければお願いします。
ABOFANへの手紙(3)追伸の2
例1と例2は、あくまで参考のために書いただけです。書き方が悪くて申し訳ありませんが、渡邊さんからお答えをいただくことを目的としている訳ではありません。
ただ、回答に時間がかからないケースもあることはおわかりだと思います。それに、例2では、
>>
#もちろん、渡邊さんは1.の立場だと思いますが…。
> これは明らかに違います.
と、簡単かつ明快に答えていただいてますよね。つまり、例2については時間がかからないことはここで実証された訳です。
しかし、ほとんどの心理学者は、この私の質問に沈黙してしまいました。答えをいただいた方も、「非公開」という方がほとんどです。となると、回答することがよほど都合が悪いとしか思えませんが…。本当はどうなのでしょうか?
#なお、サンプル数は10人ほどです。
ちょっと補足しておきます。
渡邊さんは、心理学の性格検査はアテにならないということですよね。となると、私の解釈では、「統計(≒心理学の性格テスト)を使うことは『無意味』だ」ということになります。この選択肢は渡邊さんの主張を想定して書いたものです。どこが違うのでしょうか?
乱筆・乱文失礼します。では。
その後、ちょっと調べてみました。性格心理学では、クーンの定義によるパラダイム・シフトが起きたという捉え方でいいのでしょうか? つまり、ミシェルにより性格関連行動の通状況的一貫性が否定され、同時に性格の実体論も否定されたことになると…。
さて、全体を読み直していくつかの疑問が出てきたので、思いつくまま書いておきます。
まず、「他の心理学者がいずれかの時点でABOFANさんとのメールのやりとりをやめてしまう理由.」についてですが、私の経験では、相互に納得した「関係ある」という条件を満たすというデータが見つかったとたんにピタッと返事が来なくなる、というケースがほとんどです。これは、メール(その1)の4.の中の、
> どう見てもおかしいことが統計的に証明されたときにはただうろたえる.
という記述と一致します。しかし、メール(その3)では、
> 理由1 議論が自分(心理学者側)の意図したものからどんどん拡散されていくので,どこから手を着
>
けて,どこから説明したらいいかわからないし,その手間を考えるとげんなりする.
> 理由2 ABOFANさんが,あくまでも自分が自分なりに完全に理解し,論争可能だと思う「問い」の中
>
でしか議論しようとしないので,議論するためには前提を延々と説明しないとならないし,それを理解
> しようとしてくれるかどうかもわからない.
メール(その3)の方が正しいと解釈していいのでしょうか?
また、2.「証明」と証明責任についてですが、
>
血液型に関していえば,血液型と性格に関係があると主張する人がそれを立証する責任を持ちま
>
す.それ以外の人はその立証方法やデータに納得できるならそれを信じるし,納得できないなら信
>
じないだけです.「信じない」理由は「信じる理由がない」だけで充分で,仮説を反証したり,信じない
> 根拠を提出する責任はありません.
大変失礼な言い方になってしまって申し訳ありませんが、となると、心理学では血液型と性格を否定することが不可能ということなのでしょうか??? あるいは、まだやってないということなのでしょうか??? それとも、全員がやる気がないということなのでしょうか???
それから、3.科学的知識と文脈についてです。
これはニューサイエンスの考え方と似ていますよね。そう解釈していいのでしょうか? ニューサイエンスについては、私は10年以上前にC+Fコミュニケーション図編著『パライダイム・ブック』〜新しい世界観−新時代のコンセプトを求めて〜(日本実業出版社 1986.3)で読んだことがあります。押入から引っぱり出してきたこの本の表紙には、
ニューサイエンスの特徴を大まかに見ると、東洋思想と現代物理学の相似性の強調、還元主義に対する包括的理論の提唱、そして両者をつなぐすべてのスペクトルの根底にある神秘主義的アプローチという三つの要素が浮かび上がってくる。
短い文章ですが、ニューサイエンスの本質がよく書けていると思ったので引用してみました。ほぼ同時期に、ダグラス・R・ホフスタッターの『ゲーデル、エッシャー、バッハ』〜あるいは不思議の環〜(野崎昭弘他訳 白揚社 1985.5)も話題になりましたが、この本もなかなか面白かったことを覚えています。全く的外れだったならすみません。(^^;;
ところで、その3追伸で、
>
私は別にミシェルを論拠として議論をしているわけではありません.付け加えれば,最近のミシェルの
>
研究はがっくりきちゃうほどクダラナイものが多いです.
私の手元にある渡邊さんの論文では、どこにもそんなことは書いてなかったと思いますが…。どこかにそう書いてあるのですか??
また、その3追伸の2で、
>
2.ABOFANさんは「#言うまでもありませんが、(自覚した)状況が一定であれば行動パターンは
>
一定です。」と書かれていますが,それは非常に疑問です.
ということですが、渡邊さん自身の記述は(『現代のエスプリ』No.372 1998.7 〜性格のための心理学〜 性格の一貫性と新しい性格観 118ページ)、
一貫性論争で批判の対象になり、結果としてほとんど否定されたのは、性格の一貫性そのものではない。筆者はこの論争に関してはっきり「状況主義者」側の立場をとるが、だからといって人の性格がなんの一貫性も持たず、時間や状況の変化によってコロコロと変化すると主張しているわけではないし、そう思ってもいない。人の性格は確かにひとりひとり独自の形で存在し、なんらかの一貫性を示している。
また、同122ページでは、
アセスメント結果から別の時点や別の状況での性格や関連行動を説明したり、予測したりとするためには、アセスメント場面と説明予測場面とが状況的に似通っていればいるほど、アセスメント結果の説明力や予測力は高まるし、逆に状況の類似性が低いほど、アセスメント効果は役に立たなくなる。
この記述は、私の「(自覚した)状況が一定であれば行動パターンは一定です」とあまり意味が変わらないと思うのですが…。
しつこいようですが、ミシェルの主張を再掲しておきます(Walter Mischel, "Introduction to Personality" Sixth Edition, 1999, pp. 426)。
状況−行動パーソナリティシグニチャ: 安定的な If ... Then ... 関係
CAPSモデルでは、状況によって表面的な行動は違うにもかかわらず、その下部にあるパーソナリティの構造は安定している。それは、例えば音楽のように、一定のパターンに従って音符が時々刻々と変化するようなものである。ここで強調しておくと、CAPS理論は個人が明確な If ... Then ... 状況−行動プロファイルによって特徴づけられることを予測している。このようなプロファイルは、ある種のパーソナリティシグニチャを規定することになる。
このパーソナリティシグニチャのグラフを見ると、「(少なくとも)特定の条件が与えられれば人間の行動は予測できる」ということになるはずです。
これまた重複しますが、渡邊さんも訳者グループになっている心理学の専門書にもそう書いてあるようです(B・クラーエ 堀毛一也編訳 『社会的状況とパーソナリティ』 H8.5 北大路書房 80〜82ページ)。
…特例に関連する行動の外的妥当性については何も言えないことになる。これら2つの問題は、ライトとミシェル(Wright & Mischel, 1988)による傾性カテゴリーの「条件付き見解」(conditional view)の中で扱われている。…たとえば、ある人が「内気」だという場合、そのあるタイプの文脈で(たとえば、見知らぬ人や権力を持った人のいる社会的状況など)において、その人とのとりそうな行動について述べていることになる。こうした if-then(もし〜ならば〜であろう)という関係、あるいは条件と行動の随伴性は、特性語を構成する特徴であり、個人行動は絶対的に安定・一貫したものというより、状況によって系統的に変化するものと考える人々の意識を反映している。…ライトとミシェルは、条件つき特性の知識の発達が、包括的な限定語から、ターゲット人物に関する成人の観察者の間に見られる系統的な記述の違いを反映する条件文に進展してゆくという考えを示した。データはこの仮説を明らかに指示した。
この本は、かなりの論文で参考文献として挙げられているので、少なくとも日本の心理学会では一般的な見方だと思いますが…。どうなのでしょうか??
ABOFANへの手紙(4)
第1部
やっぱり予想通りの展開です.さて,どこからやろうかな.じつは,ABOFANさんからの返信が遅かったので「手紙(4)」として遺伝と環境,相互作用の話がすでに書いてあるのですが.それは後(第2部)に回して,まずはABOFANさんからの質問に少し細かく答えていこうと思います.
ただ,気がついておられるかわかりませんが,ABOFANさんから毎回課せられる「問い」は,問うほうにとっては単純でも,答える方からみれば実にたくさんの問いが複合したもので,答えるためにたくさんの説明すべき前提があります.それを説明しないと私として適切な答えができないので,おそらくABOFANさんからは遠回りな議論のように見えるでしょうし,「議論をはぐらかしている」ように見えるかもしれません.
しかし,そんなつもりであれば最初からこんな議論に「参戦」はしません.心理学者として誠実な議論をするためには,どうしてもその前提をきちんと説明しないわけにはいかないのです.もちろん,できるだけ近道を心がけますので,ご容赦ください.
さて,今日はまずこの問題からです.
1.「立証責任」と「信じない理由」について
> 私は渡邊さんのおっしゃることが正しいとは信じません。なぜなら、「『信じない』
> 理由は『信じる理由がない』だけで充分で,仮説を反証したり,信じない根拠を提出す
> る責任はありません.」ということだからです。
まずこの議論の経緯を整理したいと思います.以下が私の認識です.
1.ABOFUNさんが血液型と性格が関連するという仮説を,ホームページという「公共の場」で提出している.
2.それを心理学者が否定する,あるいは無視することを疑問に思っている.
3.「どうして信じないのか」と心理学者に公的に問いを発している.
4.かつABOFANさんから公的に私に名指しで議論の要請があった.
5.その際「心理学者は議論を嫌う」「メールが来なくなった」というような記述があり,私は議論する義務を感じた.
以上です.この議論は基本的にABOFANさん側が提出した仮説を軸に進行しているのです.ですから立証責任がそちらにあると主張しています.そして,私はそれを信じない理由を説明する必要がないことは前述の通りですが,ABOFANさん側から議論が要請されたので,いま「信じない理由を説明する」という余計なことをしているわけです.その点で私はABOFANさんに私の説を信じさせようとしている(仮説を立証しようとしている)わけではないですから,上のように考えてもらっても一向にかまわないのですが...
私の目的としては,心理学者がきちんと議論をしようと少なくとも努力はするのだ,と言うことを示すこと,そして,ABOFANさんが,「自分はこの人の説に納得はできないが,この人はこの人なりに根拠を持って血液型を信じていないのだな」と思ってくれることの二つしかありません.一方的に根拠もなく否定しているのではない,と認めてもらいたい,ということです.じっさいの議論というのはその先に初めてあるものです.
それに,ABOFANさんもご存じでしょうが,私の主張している考えは心理学の中でも決して主流ではありませんし,心理学者の中でも私の考えに全く理解を示さない人もたくさんいます.心理学者でも理解できにくいものを,心理学者でない人に完全に理解してもらうことは,予定も期待もしていません.しかし,できるかぎり議論をしようとはしています.そのことをわかってもらいたいです.
この問題はこれで終わり.次に行きます.
2.「心理学者がメールを書かない理由」の問題について
> 次に、「他の心理学者がいずれかの時点で私とのメールのやりとりをやめてしまう理
> 由.」ですが、以前にも書いたように、私がメールの内容を公開しない限り真偽は不明
> です。推測が可能なのは、私のHPに公開されているものについてだけですが…。です
> から、これ以上議論しても意味がないと思うのですが、なぜこだわるのでしょうか?
これは驚きました.私は私に対するABOFANさんの問いの中に当然これが重要なものとして入っていると思っていましたので.私はそもそも,ABOFANさんがページのあちこちで「心理学者から返事が来なくなる」「心理学者が議論しようとしない」と書かれている中に「心理学者は不誠実にも議論を忌避しようとしている」というニュアンスを感じ,自分も議論を要請されて議論しなかったらそう思われると思いました.だからこの議論を始めたのです.
そして,ABOFANさんとの議論を忌避したり,メールを書かなくなる心理学者が必ずしも不誠実であるとは限らないと考える理由を提示してきました.私に言わせれば「そっちがこだわるから説明しただけのこと」なのですが,そういうことならこの説明(議論には至ってませんね)はもうやめましょう.
その場合,まず,私という実例がある以上心理学者がみんな議論を忌避するわけでないということを明確に認めてもらうとともに,いかにも不特定多数の心理学者(特定されていないのだから,読者はそれが渡邊芳之,あるいは私の共同研究者のことだと思うかもしれませんよね?)からメールの返事が来ないみたいなことを不用意に,かつ批判のニュアンスを込めて書くのはやめてほしいと思います.このお願いは理不尽ですか?
このへん私にとってはとても大切なことですが,ABOFANさんにとっては些末なことですか? そうだといけないので次に行きます.今度はちゃんと内容に関する話です.
3.科学的知識の相対性と学問のパラダイムについて
> 私はこの本は読んでないのでなんとも言えないのですが、また混乱してしまいました
> 。なぜなら、2.では、
>
> 心理学者を納得させたいなら,それを心理学の学会で発表するか,心理学の学会誌に投
> 稿することです.学会には入会すれば誰でも発表・投稿することができます.日本心理
> 学会のように入会に推薦者が必要なら私がなります.
>
> ということですが、3.の文章全体としては心理学会は正しくない(失礼!)としか
> 読めません。(^^;; となると、正しくない心理学会に入会しても意味がないではないの
> ですか? 一体どうすべきなのでしょうか?
前回私が紹介した文献や,せめてクーンの「科学革命の構造」(みすず書房)は科学論の基本文献で,最近では文系の学部生でも読んでいる本ですので,ぜひ読んでください.読んでいない人に知識の相対性の話をしたのは私の戦略ミスでした.ミスの責任をとってできるだけ簡単に説明します(それでも長くなると思うけど).
科学的知識が相対的であることと,「正しいかどうかの判断ができない」ことは別です.正しいかどうかの判断も相対的であることは確かですが,とりあえずの判断基準はその時代,その文化のもつ「学問」のディシプリン(学範,学問の手続き)によって与えられます.ディシプリンの正当性は,最終的にはその学問の生産物が世界の理解や人間の生活に有効かどうかで決まります.
いまの心理学でいえば,客観的に観察可能なデータをもとに,多くの場合は統計を用いて仮説を検証するというのがひとつのディシプリンです.そして,その範囲でそれぞれの知識が正しいかどうかが判断されていきます.その結果出てくる知識が人間や人間行動を理解するのにうまく役立っているなら,このディシプリンはとりあえず正当です.
こうした一群のディシプリンと,それによって科学的知識の意味や正誤が判断される仕組みのことをクーンはパラダイムと呼びました.そして,あるパラダイムはそれが目の前の現実をうまく説明できるうちは,有用な「正しい」知識を産出していきます.
しかし,パラダイムはそのうちにそのパラダイムの中では理解できない事実に直面したり,そのパラダイム通りにやっているとディシプリン的には正しいけれど直感的に変な知識を生み出したりし始めます(天動説の末期が典型的です).その時にはパラダイム全体が新しいものに移り変わることが起こります.これが「パラダイム変換」です.
クーンがこういうことを言うまでは,科学やそのディシプリンというのは普遍的なものだと考えられてきました.占星術や錬金術みたいなものが駆逐されて「科学」という永遠不滅の普遍的ディシプリンが達成された.
今後はこれでコツコツ知識を蓄積していけば,自然はすべて理解され,コントロールされるであろう.
でも,そうはいきませんでした.「科学」パラダイムの限界を示したものには,相対性原理,素粒子物理学,その他がありますが,「科学」も時代や文化の変化につれて変遷していくパラダイムのひとつに過ぎないことが明らかになったのです.
しかし,だからといってパラダイムに意味がないわけではなく,学者が研究をし,その成果を判断する基準は,自分がいま属している学問のパラダイムしかないのです.そして,皮肉なことにパラダイムの欠陥はそのパラダイムで研究していく中でしか発見できません.
だから,パラダイム論や科学的知識の相対論の意味は,自分が手に入れ,学界で認められた知識を過信すべきではないし,自分のよって立つディシプリンに固執せずに現実の社会や事実とのつながりを失うな,ということであって,「正しい知識などない」ということではないのです.その時代,その文化,その学問において正しい知識は,はっきりとディシプリンによって認定されますが,それが文化や時代を超えて普遍的に真実であるとは限らない,ということです.
4.心理学のパラダイムと血液型,そして私の意見
ここまでが議論の前提です.やっと議論されている問題に近づきました.
例の「読者からのメールとされるもの」が,万有引力の問題と性格の問題を同じように扱っていることの間違いは,「万有引力」はすくなくともニュートンがそれを提唱した(実証したわけではありません)その時代,そしてまあわりと最近の現代までの科学パラダイムの中でなんの矛盾もなく世界を説明できた原理であるのに対し,「性格の実体論」や「性格の一貫性」は現在の心理学パラダイムの中で矛盾が指摘され,有効でなくなってしまっている,ということを区別していない,ということです.万有引力(の実在)の仮説が科学パラダイム内で矛盾を生み出さないなら,それを錯覚として分析する必要はありません.
ところが,ABOFANさんも引用されているようにミシェルは質問紙データと統計という「性格心理学のディシプリン」の中で性格検査などの有効性に疑問を持ち,同じディシプリンで性格の一貫性を否定してしまったのです.そして,心理学の現有ディシプリンで否定されたものを人々が信じているのならば,そこには錯覚や条件の捨象があるのだろうという仮説が,ふたたび心理学ディシプリンによって検証・傍証されてきたわけです.
そして,私も含めてすべての心理学者は基本的には現在の心理学パラダイムの中で話をしています.もちろん,私はいまの心理学のパラダイムはすでに相当の矛盾を抱えていると考えていますし,データと統計というディシプリンが血液型性格判断を否定できないという事実(これは私は他のところでもはっきり認めているはずです)も,いまの心理学パラダイムの限界を示していると考えています(注1).そして,私は心理学の新しいパラダイムがどんなものになるかを日夜考えています.性格に関する私のたくさんの研究と論文は,正直に言えば性格という土俵で新しい心理学パラダイムを追究する試みなのです.
といっても新しいパラダイムがすでに確立しているわけではないので,私も他の心理学者も,とりあえず今は現有のパラダイムの中で問題の真偽を判断しないとなりません.これは科学の宿命です.
さて,これらのことを前提にすると,以下のようになります.私がABOFANさんと議論している問題を大きく2つに分けると,
1.血液型性格判断を私はなぜ信じないのか
2.心理学者に血液型と性格の関係を信じさせるにはなにが必要か.
になると思いますが,順不同で行くと2に対する答えは,「現在の心理学パラダイムとそのディシプリンのなかで血液型と性格の関係を検証したと誰もが信じるような結果を,誰もが信じる方法で提出すること」ということになります.私が「血液型と行動上の性格の関係をデータで示せ」とか「学会で発表するか論文を投稿しろ」と言っているのは,上記のことを具体的に実施する方法を提案しているわけです.「心理学者を雇え」という話も同様です.
ところが,1に対する答えはちょっと複雑になります.つまり,それなら私は現在の心理学パラダイムの中で血液型と性格の関係が示されたら,それを信じるのかというと,おそらく「ノー」なのです.ここでは,自分が現在の心理学パラダイムに感じている矛盾や問題点というものを抜きに考えることができないからです.
これは確かにわかりにくい,都合のいい主張だとは思うのですが,前にも述べたようにここでは心理学者相手に自分の仮説を立証しようとしているのではなく,私の信じられない仮説を立証しようとしている人に対して「私が信じない理由」を説明しているという議論の性質上,正直に説明した方がいいと思います.
私がABOFANさんとデータの議論をしないのは別にそれから逃げているわけではなく,本当にこころからそれがどうでもよいと思っているからです.どうでもよいものを詳しく分析したり,考察したりするのは気が進みませんし,ABOFANさんの示す血液型性格関連データを否定する気も特にありません(ただ,それで納得はしませんが).こんなことを言ったら他の心理学者から総スカンかもしれませんが,今の心理学パラダイムでは,このままいくと血液型と性格の関係はあるという結果になる可能性が非常に高いと予想しています.
たとえば,多くの性格心理学者はあいかわらず性格認知のデータを「性格のデータ」と考えて研究を進めています.それなら,性格認知が現に血液型に影響されているという事実は明らかなのだから,血液型と性格には関係があると認めざるを得ないでしょう.また,これはABOFANさんも指摘されていることですが(私がABOFANさんのHPを最も評価している点もそこですが),血液型データをランダムサンプリングしてないと批判する心理学者のほとんどが自分の研究ではランダムサンプリングなどしていません.任意の人々の,任意の性格認知データだけで,性格の問題がいろいろ解明できると心理学者が考えるのなら,血液型のデータだって正当なデータでしょう(注2).私が「血液型と性格心理学は基本的に同じだ」というのはそういう意味です.
だから,心理学者に納得させたければ,あとは心理学ディシプリンが求める方法,つまり学会発表や論文の形でそれを問えばいいと言っているのです.科学では多くの場合,真実であってもその学界のディシプリンに合わない発表のしかたをしては全く評価されません.それから,心理学科・大学院を出た心理学者じゃないと評価されないかも知れないから,心理学者を雇ってやれと提案しているのです(注3).
私の言うとおりやってうまくいけば,多くの心理学者が血液型性格学を信じるか,少なくとも無視しないようになるでしょう.めでたしめでたし.
しかし,私はと言うと,それでもやっぱり血液型と性格の関係は信じないでしょう.
それは,私が今の心理学パラダイムに抱いている疑問,パラダイムの欠陥の結果出てくると思われる「ディシプリン上は正しいが間違っている答え」の例として想定している結果が,まさにそこに現れるからです.そのとき私はきっと「ほーらみろ,ついに血液型を信じないといけなくなったぞ.これでもパラダイムを見直さないでいいというのか?」と他の心理学者たちに問うでしょう.まあその結果石を投げられて死ぬかもね.それなら本望です.いまもさかんに石投げられてますからね.
以上のことから,私がなぜ今の心理学パラダイムに疑問を持つのか,私が性格に関する新しいパラダイム,新しいディシプリンと考えているものは,どのようなことを基礎にして構築されているのか,ということを説明することが,私がなぜ血液型と性格の関係を信じないのか,という問いに答えることになると思うのです.それが,前回まで話した性格の一貫性問題とか,性格の認知の問題とか,これから話そうとしている遺伝と性格の関係や,相互作用の問題,そしてそれに続くであろういくつかの問題なのです.それを語らずに,私が血液型と性格の関係を信じない理由を説明することはできません.
これで,私がデータの話題に乗らないことが決して問題をはぐらかしているわけではないということがわかってもらえたと思います.私のHPに「統計的に有意差が出ようが出まいが血液型と性格には関係はない」と書いたのもそういう意味です.ここまで,いいですか? では今日の第2部,遺伝と性格,相互作用の話に進みます.
第1部の注
(注1)私は現在の心理学パラダイムの中での統計の用法には違和感と疑義を感じていますが,統計そのものを信じていないわけではありません.実際,大学で統計学の講義を担当したことだってあるのです.そして,統計に適したデータを,適した方法で処理したときには,統計は今後も役に立つツールであり続けると思います.ただ,(1)心理学では統計に適さないデータを不適当に処理している事例が多すぎる.それから,(2)いかに統計に適したデータでも,そのデータそのものが不適当な方法で収集されていたり,研究者の意図と実際のデータの中身が違っていたりするときには,統計でいくら有意差が出ても無意味なのに,それがきちんと検討されていない例が多すぎる.といった理由で心理学の研究に出てくる「統計結果」を疑うのです.性格の一貫性や血液型性格判断などの問題で私が統計を信じないというのは主に(2)の理由です.だから「統計(≒心理学の性格テスト)を使うことは無意味だ」と考えているか,というような問いに簡単に「イエス」とは答えられないのです.
(注2)このことは,私はたしかどこかにちゃんと書いたと思います.それなのにABOFANさんが私に向ける「単刀直入な問い」がいつもデータの解釈に関するものであることには困惑します.ちょっとどこに書いたか今はっきりしないので申し訳ありませんが...
(注3)心理学者を雇う実際の費用ですが,私が提案したように,質問紙や性格評定じゃない「通好み」の研究方法を採り,(心理学への皮肉も込めて)きちんとランダムサンプリングした研究を行なうとすると,研究立案・コーディネーターとして大学教員クラスを3人と,実際の観察・データ収集処理要員として大学院生クラスを5人くらい,週2日で2年間くらいは拘束しないとならないし,学会に出席して研究成果を発表したり,論文を執筆するための費用も負担しないとならないでしょう.しかし,普通にバイトで雇うよりも「研究費」の相場は安いですから,文部省科学研究費などのイメージで行けば,500万円くらいあれば充分と思います.能見さんそのくらいなんとかならないでしょうか.500万が現に目の前にあれば,やってみようという心理学者は必ずいると思います.ただし「血液型と性格の関係を立証する研究に500万!」などと宣伝しても,狭い業界ですからみんな人目を気にして出てこないと思います.うまい方法があるので,その時になったら私に改めて相談してください.
第2部
1.遺伝と性格について
ABOFANさんはどこかで私が「環境を重視しすぎて,遺伝を軽視している」というような意味のことを書かれたと思います.しかし,性格を考える上で環境を重視することと,遺伝を軽視することは実はまったく別々の問題です.私は遺伝を軽視していませんし,性格が形成される上で遺伝は基本的な役割を果たしていると思います(あなたがいま感じた疑問にはこれから答えます.先までまず読んでください).
私はわれわれの行動(性格も含む)はもっぱら環境によって選択され,変動すると考えます.しかし,私たちが環境に反応してどのような行動を選択することができるかは遺伝によって決まっています.私たちはどんな環境に置かれようが自力で飛ぶことはできませんし,特別な器具なく水中で活動することはできません.つまりわれわれが実行可能な行動のレパートリーは遺伝的に限定されており,環境がこれを越えて行動を規定することはできません.
そして,われわれが環境に適応するように行動を形成したり,変容したりするシステム,つまり環境の影響を受けるしくみ(たとえば学習のシステム)自体が,われわれに遺伝的に与えられているものです.
このように,遺伝は行動やその集約されたパターンとしての性格に大きな影響を与えます.ですから,相互作用論で言う「人」の要因の第一にあげられるのは遺伝要因であると私は考えています.そして,遺伝など人の要因が環境・状況と相互作用して行動に現われる性格を作り出しているのです.遺伝を無視していい理由などどこにもないし,無視などしていません.それこそ,性格というものが決まる全体のしくみのうち遺伝が影響している割合は8割とか9割とかだと思います.行動遺伝学の4割なんてかなり控えめではないでしょうか.
(あなたがいま感じている違和感は最後まで読むと解消されます.)
性格は遺伝と環境の相互作用です.遺伝にあきらかに影響されています.ところが,ABOFANさんや一般の人たちは,とても大切なことを誤解しています.「遺伝の影響を受ける」ということと,「遺伝で決まる」ということは,実は全然違うことなのです.「遺伝の影響力が6割というのなら,〜の遺伝を持った人は6割の確率で明るい性格になるんだ,遺伝でそれだけわかるんだ」という一般的な考えは,間違っています.
2.「遺伝と環境の相互作用」について
あまり難しくしないで,わかりやすい例で考えてみましょう.「タモサ」と「レトシ」という,それぞれおもしろい遺伝を持った2種類の動物がいるとします.「タモサ」は出生後に,他に動物がいる環境ではトラに,草が多く生えている環境ではウシに,水の多い環境ではカバになることが遺伝的に決まっています.いっぽう「レトシ」は他に動物のいる環境ではライオンに,草が多く生えている環境ではヤギに,水の多い環境ではワニになることが決まっています.(話を簡単にするために,動物がいて水が多い,といった環境は想定しないことにします.)
つまり,タモサとレトシについては,環境に応じた形態のレパートリーも,その形態が選ばれる環境条件も,遺伝的に100%規定されているのです.さて,これからお母さんから生まれる一匹のタモサと一匹のレトシ,それぞれが実際にどんな動物のかたちをとるかを,遺伝から100%予測できるでしょうか?
予測できません.そのタモサかレトシがどんな環境に置かれるかがわからなければ,その形態を予測することはできないし,もし特定の形態をとらせたければ環境を調整する以外の方法はありません.しかし,環境がわかった上でそれがタモサであるかレトシであるかがわかっていれば100%形態が予測できますし,タモサかレトシであるかわかった上で環境を調整すれば形態を100%コントロールできます.そういう見方をすれば,タモサおよびレトシの各個体が示す実際の形態は「100%遺伝によって規定されるが,100%環境によって決定される」と言ってもそれほど間違ってはいません.
正確さを犠牲にして,もっとわかりやすい例を挙げましょう.あなたが会社で,これから会社がとるべき行動について3つの案を作るように言われ,社長に提出します.その案のうちどれをとるかは社長が決定します.さて,このとき会社が実際にとる行動はあなたの案によって決まるのでしょうか,それとも社長の判断によって決まるのでしょうか?
会社がとる行動の選択肢やその内容はあなたの案によって100%規定されています.
しかし,実際に会社がとる行動は100%社長の判断によって決まるのです.しかし付け加えれば,あなたの案がなければ社長の判断も,会社の行動も生じません.
遺伝と環境の相互作用とは,つまりそういうことです.遺伝だけでも,環境だけでもまったくなにもわからない,両者の情報が合わさって初めてなんらかの説明や予測ができます.「遺伝と環境の相互作用」というのは「遺伝と環境で半分ずつ決まる」というのとは全然違うのです.
そうはいってもタモサとレトシのの例では,遺伝さえわかれば環境を無視してもそれぞれ33.3%ものの割合で形態が予測できます.しかし人の性格など,実際に人間行動を決めるために起きている遺伝と環境の相互作用では,遺伝側が用意するレパートリーの数も何千,何万という膨大なものとなるでしょうし,それらがそれぞれ出現するための環境的条件もそれこそ何十万通りという複雑なものになるでしょう.現実的に,遺伝の情報だけで実際の行動を予測することは不可能なのです.
ひとりひとりの人間が現実に示す性格は.遺伝の影響は大きく受けているけれど,遺伝だけではまったくわからないということです.もし万が一血液型が性格に影響する遺伝要因と強く関係しているとしても,それによって血液型が「血液型性格学」が主張するように具体的な性格のありさまを決めたり,それと強く関連するようなことは考えられません.
性格と遺伝の関係を主張する行動遺伝学者でも,遺伝と環境の相互作用を否定する人はいません.ということは,遺伝だけで人の性格について何かがわかると考える人はいないと言うことです.最近ヒトゲノムの解析などが進んでいますが,人の遺伝子がすべて解明されたとしても問題は同じです.恋人の性格や自分との相性が遺伝子解析でわかるなどということには決してならないでしょう.むしろ,遺伝子解析が終わった時にいよいよ残されたもの,つまり人の性格に影響する環境要因を詳細に分析する必要が生まれてくるのです.
3.心理学者はなぜ環境を重視するか
相互作用というなら遺伝と環境と両方研究しなくてはいけないのに,心理学者はどうも環境ばかり問題にするように見える.たしかにそうです.私も性格に遺伝が与える影響についてこんなに詳細に考え,書いたのは初めてです.なぜそうなるのでしょう.
第一の理由は,多くの心理学者は人間だけを,それも特定の種類の人間だけを対象にして研究している,ということです.さまざまな種類の動物を対象にしている動物行動学などでは,種によって遺伝要因が大きく違いますから,まず遺伝を明確にしなければ話は始まりません.しかしたとえば性格心理学では対象は人間だけですから,種による遺伝の差は考えなくてよくなります.サルとイヌとの差に比べたら,人間同士の遺伝要因の差はごく微々たるものでしょう.
そのうえ,多くの場合心理学は対象をもっと絞ります.「日本の中学生における性行動」とか,「現代大学生の倫理観」とか.そうするとサンプル間の遺伝要因の差はますます小さくなります.臨床的な分野になれば対象にするのは具体的な個人になりますから,遺伝の問題はもうまったく考えられなくなります.
このような理由で,心理学者の多くは,自分の研究対象となる人々が遺伝的には等質なものと考える傾向があります.もちろん,遺伝性障害など明らかに平均の範囲から逸脱する対象については区別しますが,そうでない限りは遺伝要因を考慮に入れることは少ないのです.性格のような問題を考える場合はこの傾向には問題があるかも知れませんが,実態はそうです.
第二の,より重要な理由は,遺伝要因が心理学者にとってアクセス可能でも,コントロール可能でもないことです.研究を行なうためには自分の理論や仮説の中で重要な概念や要因を客観的にとらえたり,場合によっては測定したりすることが重要です.
しかし,心理学がもっている方法や技術は遺伝情報を分析するような性質のものではありません.それは遺伝学の領域です.一方,環境と行動はわれわれの方法で適切にアクセス可能です.
学問というのはその方法論と密接に結びつくもので,心理学とは広い意味で心理学的方法で行なわれる研究のことです.したがって,われわれは自分の方法がアクセスできない遺伝要因は除外して(正確にはランダムサンプリングによって統制して)(注1),環境と行動との関係に絞って研究し,考察します.その点で,多くの心理学者にとって「血液型」の問題は独立変数と言うよりは誤差項で,もし有力だとしても直接研究対象にするよりは,研究計画の中で統制されるべきものというイメージが強いと思います.
同時に,もしなんらかの問題が遺伝要因の影響で生じているとしても,心理学者にはそれをどうすることもできません.心理学というのは歴史的に「問題志向」の学問です.発達の遅れや対人関係の問題,性格上の問題点などで悩んでいる人がいるからそれをどうするか,人々を苦しめる心理学的な問題をどう解決するかというのが心理学の大目標だし,私たちはみなそのように教育されています(注2).ところが,遺伝要因が原因の問題には心理学者は手も足も出ません.心理学的な方法では解決できないのです.自分たちの方法で解決できない問題には手を出さない.
私が遺伝の問題に深入りしないのも,この理由です.遺伝の問題はわれわれの方法ではアクセスもコントロールもできないのだから遺伝学者に任せる.われわれは心理学独自の得意分野,アクセス&コントロール可能な環境と行動を中心に役に立つ知識を積み上げていく.そして,遺伝学者と心理学者それぞれの知識が綜合されたところに,遺伝と環境の相互作用が見えてくるわけです.それが学問の分業の健全な姿だと思っています.
生理心理学や認知心理学など,心理学の本来の得意分野から離れたところをよりどころにした心理学は,結局二流の生理学,二流の認知科学にしかなれません.心理学は心理学しか扱う方法を持っていない分野,つまり環境と生体の相互作用全体と関係する行動の分析に軸足を置く必要があると思っています.
第2部の注
(注1)サンプルが正しくランダムサンプリングされていれば,遺伝要因の個人差も平均化されるはずです.ランダムサンプリングはABOFANさんも詳しい話題ですよね.
(注2)それで,私のような役に立たない理論志向の心理学者はよくアイデンティティの混乱に悩みます.
追伸
書き終えて送ってからHPをみたらまたまた更新されていました.ABOFANさんもがんばっていらっしゃる.大変心強いです.
さて,「追記」の分で「手紙(4)」を読めばわかる(と私が期待している)部分については繰り返しませんが,それ以外の部分で論じる価値があることについて説明します.
その1
>> 私は別にミシェルを論拠として議論をしているわけではありません.付け加えれば,
>> 最近のミシェルの研究はがっくりきちゃうほどクダラナイものが多いです.
>
> 私の手元にある渡邊さんの論文では、どこにもそんなことは書いてなかったと思いま
> すが…。どこかにそう書いてあるのですか??
>
たしかどこかに書いたと思いますが,なにしろ量が多くて.いずれにせよ私のどの論文をABOFANさんが読んでいないのかを解明すれば解決することです.ABOFANさんが持っている私の論文をリストアップしてください.ちなみに「がっくりきちゃうほどクダラナイ」ものにはABOFANさんが盛んに引用されている「CAPSモデル」ももちろん含まれます.それがどうクダラナイかも説明する責任がありますか? でもそれではあまりに私の方の負担が不公平に大きいなあ...
その2
> この本は、かなりの論文で参考文献として挙げられているので、少なくとも日本の心理
> 学会では一般的な見方だと思いますが…。どうなのでしょうか??
そうかもしれないですね.でも「心理学会で一般的な見方が正しい」という論理をこの議論に導入すると,「心理学会で一般的でない血液型は正しくない」という主張が成立してしまうし,その基準でなら少なくとも血液型よりは私の主張の方が学会誌とか専門書にけっこう掲載されているわけですから正しい可能性が大きくなってしまいます.同様の理由で,少なくともこの議論の中では,私の主張が心理学界で必ずしも広く認められているわけではないということと私の主張の妥当性とも,関連づけることはできないと思います(今後予想される論点の先取りです.笑).
その3
> これはニューサイエンスの考え方と似ていますよね。そう解釈していいのでしょうか?
ぜーんぜん違います.そんな古い話をどこから見つけてきたのかとすっかり楽しくなってしまいました.まあニューサイエンスが今の社会構成論に与えた影響というのはある程度はあると思いますけど.この辺はどうぞご自分で本を読んで確認してください.
その意味でも私があげた参考文献はできるだけ読んでくださると議論の進行は楽になります.
その4
> 性格心理学では、クーンの定義によるパラダイム・シフトが起きたという捉え方でいい
> のでしょうか?
正確には,パラダイムシフトの前提となりうるような,現行パラダイムの矛盾が発見されつつある,ということになるでしょう.
それではまた議論を続けましょう.
追伸の2
>> 最近のミシェルの研究はがっくりきちゃうほどクダラナイものが多いです.
>
> 私の手元にある渡邊さんの論文では、どこにもそんなことは書いてなかったと思いま
> すが…。どこかにそう書いてあるのですか??
の件,見つかりました.古いもので難儀しました.
佐藤達哉・渡邊芳之 1992「人か状況か論争」とその後のパーソナリティ心理学「人文学報」(東京都立大学)第231号 91-114
その脚注4において私たちは,
「しかしMischel(1973)は「認知的・社会学習的個人変数」を提唱,それ以後は相互作用論に近い立場を示している.特に70年代半ば以降は,「認知的」アプローチを強め,本来自ら批判していたような構成概念の安易な使用を始めている(Mischel,1973; 1979; Wright & MIschel,1982 etc.)ため,アメリカのパーソナリティ心理学界におけるMischelの独自性は徐々に薄れている.最近のパーソナリティ関係論文でも,Mischelの著作が引用されるときには最近の論文よりも1968年の本であるのは何を意味しているのだろうか.」
と書いています.まだ20代の頃の文章ですから,読みにくさは勘弁してください.
これは佐藤・渡邊コンビの初論文ではなかったかな?(しいなつか!).私がファーストオーサーでもないし,古い紀要ですから手に入らないのは当然ですね.失礼しました.
ちなみに,ABOFANさんが心理学辞典や百科事典でMischelの名前を見つけることができないのも,同じ理由です.ただし,アメリカの心理学の教科書を調べれば,まあどんなに入門的なものでも最新のものでも,必ずMischel(1968)は出てきますよ.
追伸の3
しかし,「読者からのメールと称するもの」で
> この人こそ、「科学者が共通に持っている前提」、
> をちゃんと勉強して欲しいものです。
というのには,申し訳ありませんがほんとに腹を抱えて笑いました.これを読んでいる他の心理学者の意見でもいちばん笑えたのはここだということです.笑えた理由をくわしく説明するのはもはや「いじめ」ですので控えさせてもらいます.
一言だけいえば,これだから日本からは個性的な科学理論は出てきにくいのだな,と妙に納得てしまった,ということです.
追伸の4
延々3時間の会議を終えて帰ってきました.大学は後期が始まって講義や会議でだいぶ忙しくなりましたから,いつまでこのペースで手紙が書けるかわかりません.できるうちにがんばっていきます.
さて,すこしはABOFANさんが好きな分野の議論もしてみますか.
>> 答え3 「行動上の性格と血液型との関連」が血液型と性格の関係であるなら
>> 証明 → 状況要因や性格認知を統制したデータで,血液型が行動上の性格
>> を説明・予測することを示す.
>
> これは、能見さんのデータがいくつかあります。たとえば、『血液型愛情学』では、
>
> ご主人は家庭の問題について相談に乗ってくれるか?
> 妻からみた夫の評価
> 夫から見た妻の評価
> 何型が夫優先タイプか
> あなたのご主人は家で仕事の話は?
>
> どうかご確認ください。もちろん、血液型別にちゃんと傾向が現れています。
「血液型愛情学」,もちろん持ってますよ(角川文庫版).さっそく調べてみました.
この本,とっても面白いですよね.能見正比古という人は少なくとも文筆家としてはなかなかのものだと思います.私もこんなに面白く書きたいものです.
さて肝心のデータですが,「単刀直入に言って」これらはすべて「評定データ」で,環境要因も性格認知も統制されていませんから,残念ながら私が提示したタイプのデータではありません.だからダメです.
ただし,こうしたデータを「行動のデータ」として認めることは多くの心理学者がやってますから,そういう人たちはこの結果を否定しにくいでしょうね.ただ,サンプリングの問題でケチを付けることができるかな?でもその部分には私は興味ありません.
きっと大村先生か松井先生あたりがすでにどこかで論じてるんでしょう?
次の問題.
>> 血液型性格判断を信じている個人または文化では血液型と性格には関係があるし,そ
>> れを信じない個人・文化では関係がない,という結論が予想されます.
>
> これはデータにより否定されています。たとえば
>
> 渡邊席子さんの論文
いちおう渡邊さんの論文を確認してみました.ABOFANさんが作っている「渡邊席子さんの論文」のページは,私には何のことかまったく理解できなかったので,原典にあたりました.これは草稿段階で一度見せてもらった記憶がありますが,なかなか良い論文です.
渡邊席子さんは大変な秀才かつパキッとした美人なので私は大好きなのですが最近はあうチャンスがなく残念です.私と名字は同じですが,血縁関係等ではありません.
北海道は結構「渡邊」が多いです(そんなことどうでもいいか).いまは札幌郊外の短大の先生になられたものと記憶しております.
さて,渡邊席子論文をもう一度確認しましたが,この論文がABOFANさんが言うように「血液型ステレオタイプを否定している」とも「血液型と性格の関係を証明している」とも,私には読めませんでした.
はっきりしているのは,血液型性格判断についての文献的知識(プロトタイプ)よりも,自分の性格と血液型の関連についての体験的知識(イグザンプラ)のほうが,自分の性格についての認知に影響する,ということだと思います.
私から見ると,このイグザンプラ自体が血液型性格判断を信じていないと成立しないものだし,またイグザンプラの形成はその人が接した血液型性格判断のなかで,「当たってるー」と思われた特定の部分の影響によって生じることが多いと思われます.
また,血液型と結びつけられる自分の性格についての認知自体が,その場面で参照された血液型性格判断情報に依存するように思われます.
また,この論文のデータのひとつである「自分の性格についての評定」が,その人の性格そのものではなく,性格認知の内容であることも考慮すべきでしょう.
ですから「データで否定されている」というABOFANさんの説には同意できません.
とはいえ,これらも私にとっては「どうでもいい」ことです.ちょっとABOFANさんの興味におつきあいしてみました.サービスタイムはこれでおしまいです.
以下の渡邊さんからのメールは、議論の内容とは直接の関係はないのですが、公開可ということでここに掲載させていただきます。なお、内容に影響のない範囲で、一部改変してあります。どうかご了承ください。HPの構成についてのお願い H12.1.24 15:05楽しませていただいております.どうもありがとうございます.また,ABOFANさんに向けていろんな問題を説明することは,私にとっても非常に勉強になるし,大学での授業のやり方などを考える上でもとても役に立つはずです.私はこれを,とても有意義で楽しい作業と考えて取り組んでいます.どうかもう少し続けさせてくださると幸いです. |
毎回どうもありがとうございます。
第1部
1.「立証責任」と「信じない理由」について
私の書き方が悪かった点もあるかもしれないので、ここに補足し訂正させていただきます。(^^;;
>
1.ABOFUNさんが血液型と性格が関連するという仮説を,ホームページと
> いう「公共の場」で提出している.
> 2.それを心理学者が否定する,あるいは無視することを疑問に思っている.
> 3.「どうして信じないのか」と心理学者に公的に問いを発している.
> 4.かつABOFANさんから公的に私に名指しで議論の要請があった.
>
5.その際「心理学者は議論を嫌う」「メールが来なくなった」というような記述が
> あり,私は議論する義務を感じた.
1.については、ホームページが「公共の場」かどうかは、まだまだ一般的な見解はないと思います。もっとも、「公共の場」的な要素もあることを否定するつもりもありませんが…。私自身は、心理学者に対するささやかな反抗心から始めたので、まさかこんな膨大になるとは予想もしていませんでした。(^^;;
そういう意味では「公共の場」ではありません。(^^;;
2.については、心理学者が私のHPを無視すること自体が疑問なのではありません。疑問なのは、返事(その1)にも書いたとおり、意見やメールは歓迎と言っておきながら、相互に納得した「関係ある」という条件を満たすというデータが見つかったとたんにピタッと返事が来なくなるケースが多いことです。
3.については、心理学者に「どうして信じないのか」とは絶対に言っていません。あくまで、読者の皆さんに判断する材料を提供しているだけです。また、心理学者に対しては、心理学者自身が認めた「関係ある」という条件を満たしたデータを示しているだけです。もちろん、それでも「関係ない」と主張するならおかしい、とは書いてありますが…。従って、渡邊さんの場合はあまりあてはまりません。
4.については、最初に渡邊さんが私のHPを名指しで疑問点を指摘したからで、私の方から議論は要請していないつもりだったのですが…。もちろん、議論の要請があれば、時間の許す限りお付き合いはしようと思います。もっとも、今回のケースとは別に、渡邊さんの論文はいろいろと引用させていただいているので、そう解釈されたのかもしれませんが…(この場合は、渡邊さんのおっしゃるとおりになりますf(^^;;)。
5.については、再三述べたとおりです。
> この議論は基本的にABOFANさん側が提出した仮説を軸に進行しているのです.
ここから食い違っているようですね。(^^;; 私は、心理学者から「関係ある」という条件を出してもらい(もちろん人によってそれぞれ違う訳ですが)、それを満たすデータを示すことで反論しています。別に、積極的に仮説を提出しているつもりはないのですが…。もちろん、これは原則論ですから、すべてのページについてそうだと言うつもりはありません。
>
私の目的としては,心理学者がきちんと議論をしようと少なくとも努力はするのだ,
> と言うことを示すこと,
どうもありがとうございます。残念なのは、渡邊さんのように努力している方は、かなりの例外だということです(失礼!)。
>
「自分はこの人の説に納得はできないが,この人はこの人なりに根拠を持って血
>
液型を信じていないのだな」と思ってくれることの二つしかありません.一方的に根
>
拠もなく否定しているのではない,と認めてもらいたい,ということです.
了解しました。
#「信じる」「信じない」という言葉にひっかかったのですが、ここではこれ以上触れません。
2.「心理学者がメールを書かない理由」の問題について
>
ABOFANさんがページのあちこちで「心理学者から返事が来なくなる」「心理学者
>
が議論しようとしない」と書かれている中に「心理学者は不誠実にも議論を忌避し
> ようとしている」というニュアンスを感じ,
あまり言いたくはないのですが、確かにそのとおりです。経験上、こう書くとメールが来るのでそう書いています。(^^;;
> 自分も議論を要請されて議論しなかったらそう思われると思いました.だからこの議論を始めたのです.
前述のとおりです。
>
そして,ABOFANさんとの議論を忌避したり,メールを書かなくなる心理学者が必
>
ずしも不誠実であるとは限らないと考える理由を提示してきました.私に言わせれ
>
ば「そっちがこだわるから説明しただけのこと」なのですが,そういうことならこの説
> 明(議論には至ってませんね)はもうやめましょう.
以上に述べたとおりです。失礼な点があるのであれば、ここにお詫びします。
#ただ、第1部の4.と追伸の3で引っかかったのですが、この点は後述します。
>
いかにも不特定多数の心理学者(特定されていないのだから,読者はそれが渡邊芳
>
之,あるいは私の共同研究者のことだと思うかもしれませんよね?)からメールの返
>
事が来ないみたいなことを不用意に,かつ批判のニュアンスを込めて書くのはやめ
> てほしいと思います.このお願いは理不尽ですか?
念のために書いておくと、サンプル数は10名程度です(正確には数えてませんが…)。
私は、基本的に名指しはしない方針にしています。もちろん、いくつかの例外もあります。(^^;;
なお、公開可の方は、今回のように公開しています。メールが来ないのは事実ですから、なるべく失礼にならないように実名は出していません。これは当初からの方針なのですが…。不愉快な点については、大変申し訳ありませんでした。
3.科学的知識の相対性と学問のパラダイムについて
有益な解説をありがとうございました。m(._.)m
4.心理学のパラダイムと血液型,そして私の意見
ほとんどは同意見なので、いくつか気の付いた点だけコメントさせていただきます。
まず、「読者からのメールとされるもの」ですが、これは確かに読者からのメールです。しかし、追伸の3でも「読者からのメールと称するもの」と書いてあります。ということは、本当は読者のメールではないのではないか、と疑っているともとれます(違うのだったら申し訳ありません)。確かに、私の提示したものが本当に「読者からのメール」なのかどうかは、私自身とこの読者本人しかわかりません(プロバイダは除きます…)から、事実上証明しようがありません。(^^;;
この論理は、私の言う「返事をもらえない心理学者」にも通用するはずです。つまり、非公開のメールについては、私の言うことが本当かどうかは証明できないわけです。違うのでしょうか?? そういうつもりで書いているつもりなのですが…。
>
私はいまの心理学のパラダイムはすでに相当の矛盾を抱えていると考えていますし,
>
データと統計というディシプリンが血液型性格判断を否定できないという事実(これは
>
私は他のところでもはっきり認めているはずです)も,いまの心理学パラダイムの限界
> を示していると考えています
これは全く同感です。
>
といっても新しいパラダイムがすでに確立しているわけではないので,私も他の心理学
>
者も,とりあえず今は現有のパラダイムの中で問題の真偽を判断しないとなりません.
> これは科学の宿命です.
了解しました。
>
「現在の心理学パラダイムとそのディシプリンのなかで血液型と性格の関係を検証したと
>
誰もが信じるような結果を,誰もが信じる方法で提出すること」ということになります.私が
>
「血液型と行動上の性格の関係をデータで示せ」とか「学会で発表するか論文を投稿しろ」
>
と言っているのは,上記のことを具体的に実施する方法を提案しているわけです.
せっかく話題が出たので、少々補足させてください。
「血型と性格に関係が(可能性でも)あるなら、心理学者が研究しないなどということはあり得ない」と多くの心理学者は言っています。論文にも本にも、こういう記述はいくらでもありますので、わざわざ探す必要はないでしょう。それではというので、私がそういうデータを探し出して見せたところ、ほとんど全員が黙ってしまいました。渡邊さんのような反応はかなりの例外に属します。これについては、再三書いているとおりです。
ですから、具体的に実施しても、はたして成功する可能性があるかどうか、実はかなり疑問に思っています。せっかくの話に水を差すようで大変申し訳ありませんが。(^^;;
#やってみる価値はあると思いますけれども…。
いずれにせよ、ここまできてだんだん共通の前提ができてきたようですね。私もやっと渡邊さんの論理が理解できるようになってきました。(^^)
さて、ちょっと質問させていただきたいのですが、科学には次の2つの条件が必要とされているはずです。
1.再現性があること
2.反証可能性があること
渡邊さんから提示されたパラダイムでは、この2つの条件は満たしているのでしょうか??
それと、(注3)についてですが、500万円ではちょっと難しいですね。私としては、コストパフォーマンスを重視たいので、もう少し低く押さえたいところです。(^^;;
第2部
ほとんど同感ですので、コメントは省略させていただきます。ただ、気質は遺伝(血液型など)によって変わらない部分もあるはずなのですが…。それと、遺伝が性格に与える影響は考えられないということですが、データはないのでしょうか??
追伸
その1については、追伸その2(お手数をおかけしました)にも書いてあるので、一緒にコメントさせてください。
正直、私には趣旨がよくわかりませんでした。私の印象では、渡邊さんの主張はミシェルの主張をかなり参考にしていると思えます。それが、「別にミシェルを論拠として議論をしているわけではありません」「最近のミシェルの研究はがっくりきちゃうほどクダラナイものが多いです」というのでは混乱してしまいます。少なくとも、私のような素人にわかりやすいとは思えません。
読者にとっても、「たしかどこかに書いた」「脚注4」に書いてあるのでは、よくわからないかもしれません。お手数でも、今後は改善していただけないでしょうか?
その2については、渡邊さんの意見とこの本の意見が違うと私は理解しました。
その3については、私の勘違いのようでしたね。(^^;;
その4については、「パラダイムシフトの前提となりうるような,現行パラダイムの矛盾が発見されつつある」ということですから、新しいパラダイムに基づいて議論することは、現時点では不可能というという理解でいいのでしょうかか…。
追伸の2
追伸で書いたので省略します。
追伸の3
4.心理学のパラダイムと血液型,そして私の意見、で書いたので省略します。
追伸の4
>
さて肝心のデータですが,「単刀直入に言って」これらはすべて「評定データ」で,環境要因も性格認
>
知も統制されていませんから,残念ながら私が提示したタイプのデータではありません.だからダメです.
お手数をおかけしました。ということは、こういうデータはどこにも存在しないということですか? となると、実験されていないのですから、肯定も否定もできないと解釈していいのでしょうか?
>
ABOFANさんが作っている「渡邊席子さんの論文」のページは,私には何のことかまったく理解で
> きなかったので,原典にあたりました.
原典よりやさしく書いたつもりなのですが…。(^^;;
>
血液型性格判断についての文献的知識(プロトタイプ)よりも,自分の性格と血液型の関連について
>
の体験的知識(イグザンプラ)のほうが,自分の性格についての認知に影響する,ということだと思い
> ます.
同感です。
>
私から見ると,このイグザンプラ自体が血液型性格判断を信じていないと成立しないものだし,また
>
イグザンプラの形成はその人が接した血液型性格判断のなかで,「当たってるー」と思われた特定
> の部分の影響によって生じることが多いと思われます.
それはないと思います。この論文は非常に難解なので何回も読んでますが、そういう解釈にはならないはずです。「血液型性格判断」(この言葉は好きじゃありませんが…)を信じている場合が「ステレオタイプ」で、関係ない場合が「イグゼンプラ」という定義のはずです。もっとも、私の理解度が低いのかもしれませんが…。
>
また,血液型と結びつけられる自分の性格についての認知自体が,その場面で参照された血液型
> 性格判断情報に依存するように思われます.
これは違うはずです。血液型と性格の知識がある人ほど、自分でその血液型の性格だと思っている項目の確信度が低いのです。つまり、間違った知識を持っている人ほど、血液型と性格の確信度が高いという妙な(?)結果になっていたと思ったのですが…。
>
「自分の性格についての評定」が,その人の性格そのものではなく,性格認知の内容であることも
> 考慮すべきでしょう.
これはそのとおりです。
> ですから「データで否定されている」というABOFANさんの説には同意できません.
ということで、最後の点以外には同意できませんが…。
HPの構成についてのお願い
今日は時間がないので、申し訳ありませんが後日検討させていただきます。
なお、
>
2.ABOFANさんは「#言うまでもありませんが、(自覚した)状況が一定であれば行動パターンは
>
一定です。」と書かれていますが,それは非常に疑問です.
この点についてのご返事がないようですが、よろしければ次回にでもお答えいただければ幸いです。
いろいろと不行き届きの点があるかと思いますが、今後ともよろしくお願いします。
その後、ちょっと考えてみました。結局、従来の心理学のパラダイムによると、私の論理は正しいことになると理解したのですがよろしいのでしょうか? となると、渡邊さんのような例外を除いて、心理学者からメールが来ないのは、やはり私の考えが正しいからということにならないのでしょうか?
論理的にはそうなるはずですが…。どうなのでしょう?
それと、新しい心理学のパラダイムはまだ発見されていない(?)のだから、やはり血液型と性格の関係については、否定も肯定もできないことになりませんか? だから、新しいパラダイムによって「関係ない」というのではなく、「信じられない」ということになると…。
違っていたらすみません。
ABOFANへの手紙(5)
*脚注はセクションごとについていた方が読みやすかったという意見がありましたので,それに戻しました.
今日は書く時間ないかなあ,と思ってましたが急に家で次男(3ヶ月)の子守をしなければならなくなりまして,書く時間ができてしまいました.天もこの議論に味方しています.
私の説明が良すぎるのか(笑),議論の収束の方向がもう見えてきてしまいました.もっと延々とやろうと思ったのですが,残念です...というのは冗談で,ABOFANさんが私の説明をきちんと読んで理解してくださっているので議論がかなり成立してきているのはとてもうれしいです.もちろん,議論が成立した上で「見解の相違」があるのは当然で,あとはその部分を詰めていけばいいと思います.
1.この議論の性質について
私はABOFANさんと「対等の立場で」議論しようとしています.これが非常に厳しいことで,とくにABOFANさんに大きな負担を強いることは前にも書きました.こっちは心理学者じゃないんだから,素人にわかるようにやってくれなくちゃ,という気持ちはよくわかります.
でも,それを受け入れるとそれは結局「専門家が素人に教える」という形になります.
それは私が「プロの心理学教師」として,「サービス」としてひごろお金をいただいてやっていることであり,他の人からお金をもらってやってることを,特定の人にだけ無料でやることはできません.これはひとつのプロ意識です.でも,「心理学者」同士の議論に報酬を得ようとは思いません.
それでも,本来は「対等」であれば「これとこれを読め」「あれを参照しろ」ですますところをけっこう説明してたりして,ちょっとサービスしすぎかなあとも思っています.どちらにしても,これ以上「素人向き」の説明を増やすことは「対等」の原則を崩すことになるので,できません.対等に議論するために,すこしでもいいですから私が前提としている文献や,参考にあげている文献を読んでください.それでは負担が多すぎて議論できない,ということであれば残念ながら打ち切りということになります.心理学と血液型の間にある深くて暗い川は今回も渡ることができなかった,ということです.
つぎ行きましょう.
2.客観性と反証可能性について
> さて、ちょっと質問させていただきたいのですが、科学には次の2つの条件が必要と
> されているはずです。
>
> 1.再現性があること2.反証可能性があること
>
> 渡邊さんから提示されたパラダイムでは、この2つの条件は満たしているのでしょう
> か??
まあその「条件」そのものもきっと最近の科学論者なら議論の対象とするでしょうが,ここではそれが科学の条件だと認めるとしても,再現性や反証可能性の性質や基準が普遍的なものでなく,それぞれの学問のディシプリンとパラダイムの中で決定されるものなのは確かです.ですから,たとえば心理学なら心理学の現行パラダイムのなかで再現性と反証可能性と考えられているものを満たしていれば,心理学内部では認められます.
この話題はこの議論のテーマとは別の,もう一つの私の研究テーマと結びついているのですが,あまり深入りすると議論があまりに拡散してしまいます.ちょっとだけ触れれば,そこでは私は今の心理学パラダイムの再現性と反証可能性の基準があまりに曖昧で,都合の良いものであることを批判しています.前の議論とちょっと矛盾するみたいですが,私は心理学に対してはもうすこし「科学主義」的な,きちんとした再現性と反証可能性の基準を導入すべきだと主張しています(注1).
たとえば性格心理学における性格認知のデータと性格そのものの混同や,無根拠な通状況的一貫性の仮定などは,性格心理学全体を反証可能性に欠ける仮説の集合体にしてしまっています.科学全体では「科学主義」はもう古いけれど,心理学はまだ科学主義の段階にすら達していない,というのが私の認識です.
私の考える新しいパラダイムでは,心理学において再現性と反証可能性の基準をもっと明確にすることがその重要な部分になります.端的に言えば,質問紙や評定(あらゆるテスト類)のように被験者の認知やその場の状況に大きく影響されてしまうようなデータを基準にするのではなく,本当に客観的な「行動の直接観察データ」を基準にすべきだということです.その意味では私は心理学に対しては科学主義者(自称「遅れて来た論理実証主義者」)ですし,その基準からみていまの心理学はすごくいい加減なのです.
まえに「読者からのメール」に爆笑したというのは,心理学の中では「ゴリゴリの科学主義者」である私に「科学者の共通の前提を理解して」みたいなことがいわれているのがおかしかった,と言う意味もあります(それだけではないですが).
>> さて肝心のデータですが,「単刀直入に言って」これらはすべて「評定データ」で,
>> 環境要因も性格認知も統制されていませんから,残念ながら私が提示したタイプのデ
>> ータではありません.だからダメです.
>>
> お手数をおかけしました。ということは、こういうデータはどこにも存在しないとい
> うことですか? となると、実験されていないのですから、肯定も否定もできないと解
> 釈していいのでしょうか?
これはかなり正しくて,私が求めるようなデータは心理学者による性格理論についてもいまだ提出されていません.つまり,私の基準でいえば「性格というものが存在する」という客観的なデータ自体,心理学はまだ提出していないのです.その意味では性格心理学は「オカルト」です(注2).
ただ,実際にはそれに類するデータはいろいろなところで示されています.ところが,行動の直接的・客観的観察からは,人の行動が状況と連動して複雑に変容していることばかりが検出されて「性格」のような安定した行動パターンの実在というものがほとんど立証されないのです.つまり,血液型と性格の関連なんていうこと以前に,性格なんてもの自体,客観的には実在しないかもしれない.性格というもの自体がわれわれの認知の問題なのかもしれないということです.このへんのデータは Mischel(1968) のなかにたくさん出てきますし,そう考えるとどういうことになるかは最初のメールと「手紙(2)」でも詳しく述べました.
そういう意味で,心理学が私が考えているような新しいパラダイムに移行し,とりあえず科学主義のレベル(再現性と反証可能性の保証)を達成したら,血液型と性格というテーマは今よりもっと対象にされなくなる可能性のほうが大きいと予想します.
(注1)このテーマについての,私の代表的な論文をあげておきます.必要でしたら抜刷お送りします.
1.心理学における構成概念と説明 北海道医療大学看護福祉学部紀要,2,81-86,1995年5月
2.心理学的測定と構成概念 北海道医療大学看護福祉学部紀要,3,125-132,1996年5月
3.メタファーとしての「こころ」〜心的概念が意味しているもの 北海道医療大学看護福祉学部紀要,4,75-82,1997年5月
4.個人差の心理学的説明と観察のパースペクティブ 渡邊芳之 北海道医療大学看護福祉学部紀要,5,51-58,1998年5月
(注2)このことについて私の友人(心理学者)が以下のようなメールをくれました.
> 科学じゃなきゃオカルトだっていう発想の方をどうにかしてほしいね。こんな考えか
> たしてるから、科学で挫折したり否定されたりするとオウムみたいなところに行っち
> ゃうんだろうね。世界観が単純なり。自然科学教育を考え直さねば。
まあそうなんですが,ABOFANさんの方が科学/オカルトという二分法で質問してきたので,こっちは安易にそれに乗っかっています.
3.文献資料の見方について
Mischelの話が出てきたので,次の話題に移ります.
> 正直、私には趣旨がよくわかりませんでした。私の印象では、渡邊さんの主張はミシ
> ェルの主張をかなり参考にしていると思えます。それが、「別にミシェルを論拠として
> 議論をしているわけではありません」「最近のミシェルの研究はがっくりきちゃうほど
> クダラナイものが多いです」というのでは混乱してしまいます。少なくとも、私のよう
> な素人にわかりやすいとは思えません。
これは,学者と素人の「本の読み方」の根本的な違いです.
もしある著者が一冊の本の中で,A,B,Cの3つの主張をしているとします.そして,そのうちAが何らかの意味で正しいと証明されているとします.そのとき素人考えでは「Aが正しいのだから,B,Cも正しいだろう」ということになります.
これは宗教などの論理でもよく見られます.たとえば「地層から世界的大洪水の跡がほんとうに見つかった.やっぱり聖書には本当のことが書いてある.だからキリストの復活もあるに違いない」といった論理です(注3).
しかし学者はそうではありません.その本の中に書いてある主張,その著者が並行してあげている主張ひとつひとつについて,独立に妥当性を検証します.ABCのうち,Aは正しいがBは間違っているかもしれない,Cも間違っているかもしれないという前提で本を読みます.これが「文献の批判的な読み方」で,心理学に限らず実証科学に携わろうとする人には大学院レベルで徹底的に訓練される技術です.
聖書の大洪水やノアの箱船などの記述は確かに事実に基づいているかもしれません.しかし,そのことと聖書の他の部分が事実であるかどうかはまったく別の問題なのです.同じように,Mischelの1冊の本や,その後の業績の中に示されているさまざまな主張にも,評価すべきものもあれば,そうでもないものもあるのが当然で,私たちはそれをひとつひとつ先入観にとらわれずに吟味してゆくし,その中で有意義なものは自分の議論の根拠にしますし,そうでないものは「クダラナイ」と考えます.
具体的には,Mischelが性格検査の問題点や一貫性の錯覚をデータから論証したことは不滅の業績ですが,彼が自分の発見を説明するためにその後主張したさまざまな議論のほとんどは,私から見て取るに足らないものだ,ということです.もちろん他の心理学者はまた違った見方をするでしょう.
CAPSモデルの問題などまさにそうですが,私に言わせれば,あれはMischelが保守回帰して古いタイプの性格心理学者にも親近感の持てるような論理で立てた理論だからよく引用されるだけで,そうした心理学者はCAPSモデルは理解できても,Mischel(1968)の意味は依然として理解していないのです.同じ意味でCAPSモデルはABOFANさんのような人にも理解しやすいでしょう.でもそれは私が重要な前提として繰り返し引用するMischel(1968)を理解しているということとは全然別の問題なのです.
次に行きましょう.
(注3)聖書学では「外証」という考え方です.私はクリスチャンなのでイエス・キリストの再臨は信じていますが,それでもこういう論理には笑っちゃいます.
4.「読者からのメール」問題について
> まず、「読者からのメールとされるもの」ですが、これは確かに読者からのメールです
> 。しかし、追伸の3でも「読者からのメールと称するもの」と書いてあります。という
> ことは、本当は読者のメールではないのではないか、と疑っているともとれます(違う
> のだったら申し訳ありません)。確かに、私の提示したものが本当に「読者からのメー
> ル」なのかどうかは、私自身とこの読者本人しかわかりません(プロバイダは除きます
> …)から、事実上証明しようがありません。(^^;;
>
ごめんなさい.わざと挑発しました.これは,ABOFANさんが「simaさんからのメール」でやったことをまねてみたのです.私の言いたいことは,議論の主張については,あくまでも主張の内容について議論すべきで,それが誰から送られてきているのか,送り主が仮名じゃないか,複数ではないのか,心理学者に操られているんじゃないか,みたいなことは議論の上ではどうでもよいはずだ,ということです.その点で私はABOFANさんがsimaさんのメール問題でとった態度にとてもがっかりしたのです.
ですから,私はこのメールがたとえばABOFANさん本人が書いたのじゃないかとか,そうではなくても複数の人から来てるように見えるが実は著者はひとりじゃないかとか(これは私けっこうそう確信してるのですが...違ってたらごめんなさい),そういうこととは無関係に,議論の内容にはきちんと答えたつもりです.ただ挑発するようなことをしたのはお詫びします.
つぎ行きます.
5.心理学者に研究させて発表したら,の件
順不同ですみません.
> 「血液型と性格に関係が(可能性でも)あるなら、心理学者が研究しないなどという
> ことはあり得ない」と多くの心理学者は言っています。論文にも本にも、こういう記述
> はいくらでもありますので、わざわざ探す必要はないでしょう。それではというので、
> 私がそういうデータを探し出して見せたところ、ほとんど全員が黙ってしまいました。
> 渡邊さんのような反応はかなりの例外に属します。これについては、再三書いていると
> おりです。
>
最初の「可能性でもあるなら」説が本当なら,現在の心理学パラダイムからいえば血液型と性格に関係がある可能性は十分にあるでしょうし,そうなら誰か研究するでしょう.だからその説は間違ってますね.でも,私はそんなこと言ったり書いたりしたことありませんよね(自信がない...).
うーん,なんで黙っちゃうのかなあ.私が前回までで考えて説明したような理由ではないとすると,私にはわかりません.認めざるを得なくて認めるのがイヤだから黙っちゃってるのかなあ.ほんとにわかりません.そういう心理学者のみなさんには黙らないで発言して欲しいです.だって私はそれがどうしてだか説明できないもん.ただ,いちばん多いのは「めんどくさくなった」と言う理由だと思いますけど,それは確かに不誠実ですね.
> その後、ちょっと考えてみました。結局、従来の心理学のパラダイムによると、私の論
> 理は正しいことになると理解したのですがよろしいのでしょうか? となると、渡邊さ
> んのような例外を除いて、心理学者からメールが来ないのは、やはり私の考えが正しい
> からということにならないのでしょうか?
>
> 論理的にはそうなるはずですが…。どうなのでしょう?
心理学者たちがそうではない理由を説明しない限りは,そういうことになるでしょう.また,私の個人的な立場からいえば,そうなる可能性は十分にあるでしょうね.ただし何度も言っているように,それは私にとっては,血液型性格判断の正しさが証明されたというよりは,現在の心理学パラダイムの欠陥が明らかになったという意味になりますが,この点はわかっていただいてますよね?
ただ,今度は私が議論を拡散させてしまうかもしれませんが,つぎのようなことを考える必要もあります.
(心理学者を雇って研究しても....)
> ですから、具体的に実施しても、はたして成功する可能性があるかどうか、実はかな
> り疑問に思っています。せっかくの話に水を差すようで大変申し訳ありませんが。
> (^^;;
確かに私もうまく行かない可能性は大いにあると思いますよ.でも,(私のようなうるさい心理学者が見ても納得するような)きちんとした手続で調べて血液型と性格に関係が出なかったなら,それは心理学的にはとても重要な,歴史に残る業績となるでしょう.そして,ABOFANさんも血液型と性格に関係がないと納得するか,あるいは心理学と血液型のパラダイムは相容れないのだと納得して,心理学者と議論するような面倒な仕事とは明確におさらばするか,どっちにしても問題がはっきりするじゃないですか.
> 結局、従来の心理学のパラダイムによると、私の論理は正しいことになると理解したの
> ですがよろしいのでしょうか?
>
いまはまだ,その可能性があるというだけです.ただ,ABOFANさんは素人なのだから,その可能性で満足する,という道もあります.心理学者はあいかわらず無視したり,否定論をあっちこっちに書いているけど,自分は正しいんだからそんなこと気にしないもんね,という生き方です.それについては私も気にしません.自分には納得できないけど,それなりにきちんとした論理で血液型性格学を主張している楽しい人たちがいるんだよね,といった認識で暮らすことができます.
しかし,以下のようなことを考えるなら,それだけでは済まなくなります.
1.心理学者に血液型と性格の関係を認めさせたい
2.心理学者が否定論を述べたり書いたりするのをやめさせたい
3.もっと多くの人に血液型性格学を勉強してもらいたい
1,2は言うまでもありませんが,3も血液型が心理学の「商売敵」になるという点で同じ,どの場合も「心理学者を納得させる方法」を繰り出して戦わなければなりません.そうであれば,心理学者の納得の基準=現行の心理学パラダイムのなかで,できるだけケチの付きにくい方法で証拠を示して,相手を黙らせるしかないと思います.それがこの前の提案でした.
血液型側から示されている多くのデータは,確かに「否定」する事はできないにしても,心理学パラダイムから見てケチの付けやすいものであることは確かです.それに,血液型側のデータがある一方で,基本的には同じ手法(評定データと統計)でやっても,心理学者がやると関係が見つからないというデータが複数あることも事実です.
互いが現有の不十分なデータ,それも自分側のデータだけで自説の正しさを主張し続けても不毛だと思います.
ここは評定データなんかに頼らない,きちんとランダムサンプリングした,立派な研究計画に基づいてパキッと調べて,お互いがその結果を受け入れる,と言うふうにした方が建設的だと思いますけれど.
そして,その時もその研究を実行する責任は「仮説」を提唱している血液型性格学の側にあるのです.それをやらない限りは,心理学の側の「血液型と性格には関係がない」と言う主張を止めることはできません.
長谷川先生もどこかに書いているように心理学者が言っている「関係ない」という説は仮説ではないし,今の科学的検証のシステムでは「ない」ことを確かめることはできません.この問題は繰り返しになるのでこのくらいにします.
6.おわりに
「渡邊席子論文の解釈の問題」はもう少しよく考えてからもう一度説明する必要があると感じればまた書きます.今のところはその必要を感じていません.また,
> 「#言うまでもありませんが、(自覚した)状況が一定であれば行動パターンは 一定
> です。」と書かれていますが,それは非常に疑問です.
の問題は,心理学というもののあり方とか,「こころと意識と行動」の問題とか,心理学の根本問題に属することで,説明するとすると上記のように結論だけを述べるか,大変な長い説明をするかのどちらかしかありません.後者がご希望でしたら少し準備のための時間をください.
議論を逃げているわけではありませんよ(笑).
それではまた.
追伸
今回は追伸はこれだけにするつもりですので(笑)
> それと、(注3)についてですが、500万円ではちょっと難しいですね。私として
> は、コストパフォーマンスを重視したいので、もう少し低く押さえたいところで
> す。(^^;;
これは反論ではないのですが,これだけの大規模な研究を本当にやるとしたら500万なら実際にはかなり安いですよ.
これを血液型ととくに結びつけないで,たとえば「日常行動に現われる行動パターンと性格自己評定との関連性について〜行動観察およびサンプリングによるデータの検討」とかいう課題にでっち上げれば10人くらいの研究グループを編成して文部省科学研究費の基盤研究Bくらいを申請することもできると思います.そしたら上限は2000万ですよ.まあ研究費が当たるかどうかは別として(笑).
いずれにしても,これだけの研究(これは「これだけの研究」といえるほどの,大規模で学界への影響力も重大な研究になります)が500万では高いという感覚は,やっぱり学者とは違います.私のような理論研究と違って,実証研究というのは,実際にとてもとても金のかかるもので,心理学者は研究をやる金を集めるためにあっちへペコペコ,こっちへペコペコ,大変な苦労をしているのです.大学からもらう研究費なんか(注)ではとても実証研究はできません.
「ほんとうの研究」というものは,大変な勉強が必要なだけでなく,金も莫大にかかるものです.血液型の人たちがデータ収集や研究にかけている金はどうも非常に少ないように見えます.金をかければいいというのじゃなくて,それだけのことを言えるほどの研究をホントにするなら,もっと金がかかってるはずじゃないの,ということです.
(注)大学の研究費 心理学だとポストに応じてひとり年間30〜80万くらいが相場で,この中から研究のための本を買ったり,学会誌を購読したり,研究機器やコンピュータを買ったり,消耗品を買ったりした残りが,実際に研究の実行に充てられるお金です.実証研究なんかできませんよ.私は理系大学の実験系修士講座なのでもうすこし優遇されていますが,それでも五十歩百歩です.そのうえ来年からは国立大学は「予算改革」でもっと減らされます.これでもっと研究しろ,研究しないと昇進させないとか言うんだからキビシイですよ.単なる愚痴でした.
次に,
> #「信じる」「信じない」という言葉にひっかかったのですが、ここではこれ以上触れ
> ません。
私が触れますよ(笑).多分「信じる,信じないじゃなくて科学的に検証されたかどうかを論じるべきじゃないか」とか,考えておられるのではないかと思います.でも,現実には科学者でもみんな「科学的」な基準だけでことの真偽を判断しているわけじゃないですよ.論理的,データ的に明らかに正しいことを主張していても「学界で信じてもらえない」結果,長年ほって置かれた大発見なんて例,たくさんありますよね.
私も自分と対立する説を述べる心理学者と議論して,もう論理的には私が絶対正しいという場面になったら「でも私はそんなの信じない」っていわれたことありますし,「あんたがなんと言おうが私が正しい」みたいなことを学会のシンポジウムで言われたこともあるし,議論が私有利になった瞬間から急に口聞いてもらえなくなったことも...あれ,これどこかで聞いた話と似ているなあ(また笑).
ただし,逆は必ずしも真ならず,「心理学者が躍起になって否定する説はどれも正しい」ということにはならないことに注意(これも笑).
それから,とりあえずその場は論理的に相手が正しい,ということになっても何となく信じられないなあ,という違和感が残っているときは,かなり高い確率であとになって相手の論理の欠陥や自分の勘違いに気づきます.そういう意味では科学者にとっても「信じられる,信じられない」という直感はけっこう信頼できるものです.
血液型については多くの心理学者が「直感的に信じられない」んだけど,自分の知っているパラダイムではうまく否定できないので困惑している,って部分もあるような気もします.ワタシテキ(注)には「心理学者の皆さん.皆さんの直感は正しい.その正しい直感を検証できない今のパラダイムを疑ってみましょう」ということになります.
この話,全然的はずれでしたらごめんなさい.
(注)ワタシテキ 私的,シテキと間違えられないためにカナにしました.これ,冗長ですね(笑)
それから,
> ですから、具体的に実施しても、はたして成功する可能性があるかどうか、実はかなり
> 疑問に思っています。せっかくの話に水を差すようで大変申し訳ありません
> が。(^^;;
の件,私勘違いしていたかも知れません.これは研究が成功しないと言う意味じゃなくて,「ちゃんとした研究をして実証しても,心理学者はどうせ口を閉ざすか,わけもなく無視するだけだから成功しない」という意味でしたか?
そうであれば,私はそんなことはないと思います.研究方法,発表方法が心理学のディシプリンに基づいたものであれば,その中で正当に提出されたものを無視することはできません.いままで心理学者が(もしABOFANさんのデータに反論できなくても)無視や沈黙で切り抜けられたのは,ABOFANさんの示すデータが「心理学のやり方で,心理学者によってとられたものでない」からです.
私は少なくとも心理学業界全体がそんなに不誠実であるはずはないと信じています.たとえば私みたいな心理学を批判ばかりして勝手な説ばかり吐く人間にも,ちゃんと学会誌や書籍で自説を披露するチャンスをたくさん与えてくれるのですから.ただし,これが「渡邊芳之が心理学科,大学院を出て大学で心理学を教えている」という「心理学コミュニティ内部性」によって保証されていることも間違いありませんね.
今日はこれでABOFANさんが提示された質問にかなりの割合で答えたと思います.
なかなかサービス満点でしょう? たまには誉めてくださいね(笑).これでも今日は長い会議一個こなしたり,「授業改善」関係の本に何冊か目を通したり,きちんと大学教員の仕事もしているのです.
私とのメールのやりとりは、二人の議論が成立しているとのことで、非常にうれしいです。(^^)
さて、今回はちょっと感じが違いますのでご了承ください。
1.この議論の性質について
ここは最初からよくわかりません。「対等の立場」というのが、どんな意味かわからないからです。(^^;;
日本国憲法の下に対等と言っているとも思えませんし、渡邊さんと私は元々立場が違うわけですから「対等の立場」ということはありえません。それとも、インターネット上の立場が対等なのでしょうか? これも非常に考えにくいことです。まさかとは思いますが、議論する立場が対等ということなのでしょうか? そうとも思えませんが…。
実は、今まではかなり遠慮していたのです…(^^;; しかし、私なりの解釈の「対等の立場」でいいということなら、今回はその点も考慮して書いてみることにします。ということで、今まで以上に失礼な点が多いかもしれませんが、どうかご容赦ください。
#もちろん、毎回親切に心理学の説明をしていただいていることは、大変感謝しております。m(._.)m
2.客観性と反証可能性について
これもよくわかりません。
結局、渡邊さんの提示するパラダイムは、現在の時点では客観性と反証可能性がないとしか読めません(失礼!)。違うのでしょうか?? もし、客観性と反証可能性があるなら、具体的に論証可能(客観性&反証可能性)なようにご提示ください。ついでに言わせていただくと、客観性と反証可能性についての問題は、心理学の専門ではないと思うのですが、違うのでしょうか?
#もし心理学の専門だというなら、ぜひ客観性と反証可能性のある文章でご提示ください!
例えば、「血液型と性格の関連なんていうこと以前に,性格なんてもの自体,客観的には実在しないかもしれない.」という文章に、客観性と反証可能性があるのでしょうか?? どうなのでしょうか?
>
(注2)このことについて私の友人(心理学者)が以下のようなメールをくれました.
>>
科学じゃなきゃオカルトだっていう発想の方をどうにかしてほしいね。こんな考えか
>>
たしてるから、科学で挫折したり否定されたりするとオウムみたいなところに行っち
>>
ゃうんだろうね。世界観が単純なり。自然科学教育を考え直さねば。
>
まあそうなんですが,ABOFANさんの方が科学/オカルトという二分法で質問してき
> たので,こっちは安易にそれに乗っかっています.
これには驚きました。というのは、私が「オカルト」と言ったのは、そういう意味ではないはずだからです。以下に、渡邊さんと私の文章で、「オカルト」が含まれるものをピックアップしてみました。
私の返事(その1)
>
性格というものが本人の内部にある,固有の何かで,科学的な検討の対象になるもの この文章には非常に驚きました。(@_@) 私はこのHPで、基本的に「科学的な検討の対象になるもの」しか扱っていないつもりです。性格が「科学的な検討の対象になるもの」ではないとすると、私には「性格なんて非科学的なもの」としか解釈できませんが本当なのでしょうか? もしそうだとすると、性格心理学はオカルトなのでしょうか? まさか! メール(その2) その意味で,従来の性格心理学のような「性格の実体論」は,確かに一種のオカルトとして扱うべきものになったと言えるかも知れません. メール(その5) つまり,私の基準でいえば「性格というものが存在する」という客観的なデータ自体,心理学はまだ提出していないのです.その意味では性格心理学は「オカルト」です(注2). |
渡邊さんも、確かに「オカルト」と書いていますから、私と全く意見が一致していることにならないのでしょうか? これは、「科学じゃなきゃオカルトだっていう発想」とは違うのですか?
それに、私は渡邊さんの言う「性格」は結局「オカルト」になるのでは?という質問を発しているだけです。決して断定はしていません。その後の文章では渡邊さん自身が「オカルト」だと断定しているわけです。つまり、「科学じゃなきゃオカルトだっていう発想」や「科学/オカルトという二分法」は、そもそも渡邊さんの主張ということになりませんか? 「ABOFANさんの方が科学/オカルトという二分法で質問してきた」という主張はどういう論理に基づくものなのでしょうか?
また、渡邊さんのご友人はA型ではないのですか? 渡邊さんは確かA型だったと記憶しますが、「科学じゃなきゃオカルトだっていう発想」や「科学/オカルトという二分法」というのは、A型的なような気がしますが違うのでしょうか?
#もっとも、血液型は外れていても私は責任を持ちません。単なる余興です(笑)。
それと、気になったのが「科学で挫折したり否定されたりするとオウムみたいなところに行っちゃうんだろうね」という文章です。まず、「オウムみたいなところ」に行った人は本当に「科学で挫折したり否定されたりする」ケースが多かったのでしょうか? 客観性と反証可能性のある論証はあるのですか? また、「オウムみたいなところ」という記述は少々問題ではないのでしょうか? オウムは確かに現行法では(たぶん?)違法のはずです。しかし、「オウムみたいなところ」は間違いなく違法ではないはずです。社会的・道徳的にはともかく、私は適法な行為を非難するつもりはありません。特定の団体が「オウムみたいなところ」に該当するのかどうかは、誰がどのように客観性と反証可能性を備えた判断をするのでしょうか?
3.文献資料の見方について
> Mischelが性格検査の問題点や一貫性の錯覚をデータから論証したことは不滅の業績です
>
が,彼が自分の発見を説明するためにその後主張したさまざまな議論のほとんどは,私か
> ら見て取るに足らないものだ,ということです.
心理学では、参考にした他の人の主張の中で、自分と関係ない(のかどうか知りませんが…)部分は脚注に書いたり、「たしかどこかに書いたと思います」というのが慣習なのですか? それとも、単なる単純ミスなのでしょうか? あるいは、別の事情があるのでしょうか? いや、私の読み違いなのでしょうか?
4.「読者からのメール」問題について
>
議論の主張については,あくまでも主張の内容について議論すべきで,それが誰から送られ
>
てきているのか,送り主が仮名じゃないか,複数ではないのか,心理学者に操られているん
>
じゃないか,みたいなことは議論の上ではどうでもよいはずだ,
心理学者にもいろいろな意見があります。長谷川さんのサイトをご覧になってはいかがでしょうか?
もちろん、渡邊さんは所属を明記の上、実名でメールを送っていただいているわけで、私としては非常な敬意は払っているつもりです。それは、この私の返事(その5)以外の文章でおわかりいただけたと信じています。
#もちろん、信じることを強制するつもりは全くありません、念のため。
5.心理学者に研究させて発表したら,の件
>
最初の「可能性でもあるなら」説が本当なら,現在の心理学パラダイムからいえば血液型と
>
性格に関係がある可能性は十分にあるでしょうし,そうなら誰か研究するでしょう.だからそ
> の説は間違ってますね.
反証を挙げておきます。
菊池聡さんは、『超常現象の心理学』〜人はなぜオカルトにひかれるのか〜(平凡社新書 H11.12)でこう書いています(108ページ)。
現在の日本に流布している血液型ステレオタイプを学術的な仮説と考えるには、後述するように大きな問題点がいくつもある。しかし、だいたい心理学者なんてものは好奇心のおもむくままに生きている人種だから、こんな面白そうな題材を座視するはずもない。
詳しくは、菊池先生へのメールのページをご覧ください。
また、以下のページもご覧ください。
気が向いたときで結構ですから、ご返事をいただけると幸いです。
追伸
>
これは反論ではないのですが,これだけの大規模な研究を本当にやるとしたら500万
> なら実際にはかなり安いですよ.
そんなことはもちろんわかっています! 一流と言われるシンクタンクに依頼するなら、最低で1千万円は必要だそうですから、確かに500万円は安いと思います。ちょっとした調査書でも最低数百万円はしますし…。しかし、個人で500万円は高いと言わざるを得ないでしょう(苦笑)。
言わずもがなのことをもう一つ書いておきます。コストを積み上げて値段にできるなら、こんな楽なことはありません。誰だって、最小の費用で最大の効果を上げるために頑張っているのですから…。現実的な予算の中で可能な方法はいくらでもあるはずです。すぐ下の渡邊さんのメールにもあるように、現在でも100万円以下でそれなりの研究ができているのですから、500万円は高いし非現実的だと思います。
> (注)大学の研究費 心理学だとポストに応じてひとり年間30〜80万くらいが相場
この点は、わざと触れませんでした(文系の先生に話は聞いていましたが)。というのは、心理学では「血液型と性格」の研究は事実上不可能(?)ということになってしまうからです…。当然の論理的帰結として、今までの心理学の「血液型と性格」の(否定的な)研究はすべて無駄ということになります。つまり、血液型を否定することは不可能になってしまうのです。(^^;;
さて、その後の文章で、「信じる」「信じない」は、おっしゃるとおり「信じる,信じないじゃなくて科学的に検証されたかどうかを論じるべきじゃないか」ということです。私は理系の人間ですから、信じられないような発明や、従来の常識を覆すような発見はあっても当然のことと受け止めます。いかに「信じられない」ものでも、いったん実証されたものは「信じる」し、以後はそれが新しい「常識」になるわけです。科学、いや心理学もそうやって進歩してきたはずですが…。
#もちろん、直感を否定するわけではありせん、念のため。
>
いままで心理学者が(もしABOFANさんのデータに反論できなくても)無視や沈黙で
>
切り抜けられたのは,ABOFANさんの示すデータが「心理学のやり方で,心理学者
> によってとられたものでない」からです.
これにも驚きました。具体例を示していただけないでしょうか? もちろん、ABO FANの全部のデータが「心理学のやり方で,心理学者によってとられたものでない」ことは事実です。しかし、渡邊さんもおわかりのように、論証のメインは松井先生と坂元先生のデータです。他の心理学者のデータもたくさんあります。これは、「心理学のやり方で,心理学者によってとられたものでない」のですか?
以上、私なりに「対等の立場」を意識して書いてみましたので、あしからずご了承ください。
乱筆・乱文失礼します。
いやあ、渡邊さん、素晴らしいですねえ!
初回のメールで
> 議論を成り立たせるためにまず伝達しなければならない知識の量の多さを考えると,めんどくさくて反論する気にならないのです
とか
> 私の説明がもし理解できなかったら(注1),それは議論の前提が成立していないということです.
などなどの逃げ道作りのexcuseと見紛いかねない言辞も、それなりに予定稿をご用意されている様子から、どうやら杞憂に終わりそうで嬉しいです。
100通が1000通でも読み通しますよ、わたしは(^^
渡邊さんの怒濤のメール、仕事なんぞしている場合ではなさそうなのですが(笑)そうもいかず、読み次ぐのに手一杯でちと焦っています(たはは)。
ま、それはそれとして、議論の拡散防止の意味で、別口の質問とか横レスは控えていたのですが、ながーいやり取りをする覚悟の表明と、その裏付けとしての「予定稿」の存在(の可能性)に甘えまして、口を挟んでみることにしました。
口を挟む前に、渡邊さんの「戦略」について"感想"を述べることをお許し下さい。
渡邊さんの本当の狙いは、心理学のパラダイム変換のための第一歩としての「性格(心理学)」に関するディシプリン否定であり、その突破口としての血液型性格関連説批判のように思っています。
で、まあ、
> パラダイムの欠陥はそのパラダイムで研究していく中でしか発見できません
あたりの文からは「資本主義は成熟することによって内包する矛盾が顕在化し、必然的に革命(新しいパラダイムへの移行)に至る」(「」ですが引用ではありません。ネタ本が見つかりません・笑)などという文言を想起してしまい、さらに"突破口としての血液型性格関連説批判"かいな、と思ったときは「一点突破全面展開」なんちゅう言葉まで連想してしまいました(笑)。
「性格心理学はオカルト(と言って悪ければ疑似科学?笑)」という認識はわたしと同じですが、その理由は勿論(プロとしろーとなんですから、ということにしておくとして・笑)大分異なるようで、そういう意味でも大変興味深く拝読しているのですが、「敵の敵は味方(byマルコムX)」ということになるのかどうかも含めて、今後もますます楽しみです。
性格心理学に対する疑義を巡って
結局のところ渡邊さんは、性格心理学の"仕事"を認めて(賛意という意味ではない)はいないのでしょうか、それともそれなりに評価してはいるのか、もう一つ良く判りません(判らせない、のか・笑)。
わたしは、性格心理学は、未だ性格心理を学問として"仕事"してないと思っています。ま、性格心理学者の(血液型と性格の関連)否定論のお粗末さ加減による印象でしかありませんが。
ともあれ、渡邊さんには否定するそれなりの理由があるはずでして、その辺を確認するのはアリですか?
例えば、「質問紙」の問題です。渡邊さんはあっさり切り捨てていますが、「質問紙」の可能性をぎりぎりまで追究した結果があって、それを踏まえて、ということなのでしょうか。
性格(表現)特性が直截表現されないように、というように、観測したい事象を被験者に悟られないような工夫はあるようですが、もっと別の観点からの検討はどうなんでしょう。自分で自分自身の精神活動・意識内容を評定させる質問、自分で自分自身の行動を判定させる質問、他者が見ている自分の性格表現を評価させる質問、などなど、質問が被験者に与える「負荷」の問題や、それぞれの質問の信頼性・有効性などなど、そうした考察というのはどの程度ツメたのでしょうか。ナニを聞き出すかによる質問の組立・順番等のノウ・ハウってどのくらい蓄積されているのでしょうか。こうした内容ってなかなか「しろーと」レベルまでは降りて来ないので判らないのですが、ここで渡邊さんに説明の労を求めているわけではありません。ある、としたら「あんた等しろーとが知らないだけでそれはそれでちゃんとあるのだ」程度のコメントを頂けると嬉しいです。示せ、というかたちの追求はしません。
それと、やはり、「クレッチマー説」についての決着(オトシマエ)はきちんとつけて欲しいですねえ。渡邊さんにとってはスカみたいなテーマで鬱陶しいだけでしょうからこれについての議論はのぞみません。否定的な傾向が強まっているようですので、とりあえず、「血液型と性格は関係ないのになぜ多くの人が関係あると思っているのか」を「体格と性格は関係ないのになぜ性格心理学の専門家が関係あると思っていたのか」に変更して「心理学会」で見解を確定させていただきたいという希望を述べておくことにします。
更に加えて(というよりこれが一番本質的でしょうが)は、性格(表現)とはなにか、ということです。単なる定義の問題ではなく、どう認識するか、ということなのですが、これは、実は渡邊さん、未発表の予定稿にあるような気がしていますのでもう少し様子を見ようかなあ、なんてね(^^。
特に、実体(言って見れば"ハード")の性質と精神活動としての性格(言ってみれば"ソフト")との関連については、あるとしても意味無い的な「ゴリゴリの科学主義者」とは思えない理由に止まっていますので、これは先があるなあ、と思っています。
> 議論がかなり成立してきているのはとてもうれしい:メール(その5)
予定稿が役立っているようでご同慶の至りです(^^
【追記】
上のメールは、最大素数さんからものです。
初めからハンドルを書かなかったことと、直前の「匿名」「実名」の議論に関係があるかどうかは、黙っていた方が面白いのでここでは書きません(笑)。自由にご想像ください…。
しかし、その後に本人からハンドルを明記してほしいという要望があったので、こうして公開することにしました。どうかご了承ください。
そのため、渡邊さんからのメール(その6)では、アップロードのタイミングの関係で「読者」と書かれています。
ABOFANへの手紙(6)
「対等」の問題,ABOFANさんがおっしゃることももっともだと思います.そういう意味で,私の方が「対等な議論」と「一方的に教えること」の二分法に陥っていた嫌いがありますので,素直に反省して,今後この問題は論じないことにします.議論が成立した以上は私も防衛的になる必要ありませんので,リラックスして悪いと認めたところは素直に引っ込めます.
ただ,現実には私は「教えながら議論する」ということを実行しているわけで,ようはこのままでいいのかな,とも思います.それに,今回ABOFANさんが「対等を意識して」書かれたという問いも,現実に議論可能なわけですから,私の議論自体が「疑似問題」だったかもしれません.
さて,この議論も読んでくれている人が意外と多いようで,私のところへも励ましのメールがチラホラと来るようになりました.とてもうれしく,力になります.ありがとうございました.また,あとで詳しくふれますが,ABOFANさんがこの直前に引用された「読者からのメール」も非常に励ましになりました.「読者」さんもありがとうございました.
いっぽう,柴内さんや長谷川先生(注)の例を見ていると,こういうところに参入すると血液型支持者から大量の批判メールが来たり,誰からわからない人から「学者ヅラするな,このバカ」みたいなメールが来たりするものと覚悟していましたが,今のところそういうことは全くありません.
これはうれしい誤算である一方で,「血液型性格学の支持者側が,意外とこのホームページを見ていないのではないか?」という疑問が生じます.といって「そんなことはない」と批判メールが急増するようなことになっても困りますが,ABOFANさんはこのへんのところをどう思うのでしょうか.また,血液型性格学を支持する,ここ以外のHPの主張と,ABOFANさんの考えとの関係はどうでしょう.支持派HP間の意見の一致はどの程度なのでしょう.
ここは私がABOFANさんに質問する場ではないと思うので,回答は必須ではありませんし,この問題とこの手紙での議論は無関係です.ちょっと思ったことを書いてみました.
(注)柴内さんや長谷川先生 心理学者に対して私が「さん」と「先生」を使い分ける基準は,単純に相手が先輩,あるいは年長であるかどうかです.「先生」は年長者,先輩に対して,「さん」はごく親しい同門(同じ大学出身など)の先輩,同門でない同世代,および同門でない年下の人に使います.同門で同世代だったり,後輩の場合は呼び捨てになるときもあります.たとえば佐藤達哉は同門で同級生だから呼び捨てです.文野おまえも呼び捨てにしてやるよ(私信モード).
1.客観性と反証可能性について(すごいタイトルだ!)
> 結局、渡邊さんの提示するパラダイムは、現在の時点では客観性と反証可能性がない
> としか読めません(失礼!)。違うのでしょうか?? もし、客観性と反証可能
> 性があるなら、具体的に論証可能(客観性&反証可能性)なようにご提示ください。
繰り返しになりますが,客観性と反証可能性の基準は普遍的なものではなくそのパラダイムが決めることです.また,客観性と反証可能性そのものについて論じることはそこで論じられている客観性と反証可能性を超越しますから,その議論について客観性と反証可能性を保証すると言うことは論理的に不可能です.この問いは「不可能な問い」です.
まあそんなことを言ってもしょうがありませんから,私が考えるパラダイムにおける客観性と反証可能性についてもう一度述べますが,つまり,仮説の客観性はそれが(状況の影響を統制できない個人の認知データ,評定データなどではなく)観察可能な行動データと直接結びついている,あるいは結びつけることが可能であることによって保証されますし,反証可能性はその仮説がそうした行動データによって反証できうること(実際に反証した,ということでは必ずしもない)によって保証されます.
これは別に私の言うパラダイムによって新たに提唱されたことではなくて,心理学ではほんとうはずいぶん前からそういうことになっているはずです! 「実験」というのはそういうことですよね? 現に実験心理学や先進的な発達心理学などではすでにかなり実現されていますし,他の分野でも理屈の上ではそういうことになっているのです(これに反論できる心理学者がいたらメールをください).また,スキナーに始まる「徹底的行動主義/行動分析学」やギブソンに始まる「生態心理学」などの最新(異端?)分野では,こうした基準が現にパラダイムの基本になっています.
ところが,性格心理学はそうではありません.そもそものテーマである「性格の実在」自体が,こういった心理学の他の分野では当たり前の,かつABOFANさんが信じるような「一般的な科学の原理」から言っても当然の基準に基づいては検証されていないのです.だから血液型と性格が関係ある,と言われても科学的に反証できないわけです.ABOFANさんが言うように「血液型」は科学的に反証可能な基準ですが,
「性格」は現在のところそうではないからです.だから,性格心理学もう少しちゃんとやろうよ,というのが私の主張です.
> ついでに言わせていただくと、客観性と反証可能性についての問題は、心理学の専門で
> はないと思うのですが、違うのでしょうか?
これとほとんど同じことを,私に言った心理学者がいます(ABOFANさんも知っている人).「だから,あなたが科学論みたいなことをいくら考えても,二流の科学哲学者になるだけだ,それより私は一流の心理学者を目指したい」ということでした.
そういう意味では全く対等な「レベルの高い質問」ですね.
しかし,学問の諸分野と哲学との関係,とくに科学の諸分野と科学哲学との関係はそういう性質のものではありません.科学哲学はわれわれがやっている研究の基本的な意味について考えるものです.たとえば客観性や反証可能性の問題は科学でなにが意味のある仮説,検証に値する仮説なのか,そしてその検証はどう行なわれるべきなのかということを議論しています.したがって,科学の諸分野は科学哲学の成果についてきちんと理解し,自分の研究に適用していく必要があります.
ではわれわれ科学者はそうした検討は科学哲学者の「専門」として任せて,その成果だけを理解・利用すればよいのか.そうではない.科学哲学が検討するテーマは実際の科学研究からしか出てこないのです.実際に行なわれている研究の中で出てきた問題点や矛盾点を明確にし,それをもとに科学の論理について分析していくのが科学哲学で,それは実際の研究を基盤にしなければ成立しません.
その証拠に,ブリッジマンなどの例を挙げるまでもなく,偉大な科学哲学者のほとんどは特定の科学分野出身で,その分野の研究者としてもきちんとした業績を残しています.20世紀の科学哲学者に理系出身が多いのは,20世紀の科学の主流が自然科学だったからで,社会構成主義などの最新の科学哲学が社会科学・人間科学出身の学者によって議論されているのは,21世紀の科学の主流が社会科学・人間科学になるからでしょう(これはちょっと我田引水かな?).
ですから,科学者はすべて科学哲学の専門家ですし,そうであるべきだし,そうなれます.私も若いときには誤解していて,自分がいろいろ感じている心理学の方法論上の問題なんか,科学哲学ですっかり議論しつくされて,答えが出ているだろうと思い,科学哲学の本を読みあさりました.しかし,参考になることはたくさんあったものの,答えなんて全然出ていない.科学哲学なんて,たいしたことないなあ(失礼),と思いました.
結局,心理学が抱える独自の問題については,科学哲学が他の分野について解明したことは参考にするとしても,根本的には心理学者が自分で「科学哲学する」しかないのです.そして,その成果はかならず科学哲学全体,科学全体の進歩に寄与するでしょう.つまり,心理学者が心理学独自の科学哲学的問題を扱うときには,一流の心理学者は一流の科学哲学者でありうる,ということです.心理学における客観性と反証可能性という問題は,まちがいなく「心理学者の専門」です.まあ自分が一流だとは言いませんが(そう思ってるじゃないか!と突っ込んでね...笑).
なんか今日は心理学者向けに書いている気がする(笑).少し読者が見えてきたもので...
2.「オカルト」の問題
「友人のメール」は別にABOFANさんへの批判じゃなかったと思うのですが,そうとられたのかな? この問題は単に私が議論をわかりやすくするためにABOFANさんの問いの中に出てくる「オカルト」という言葉を便利に使っただけですので,議論の経緯から言えばABOFANさんの言うとおりです.気分を害されたらごめんなさい.
「オウム」の問題についてもABOFANさんの言うとおりだし,私も破防法適用絶対反対の立場ですから(「読者」さん,ここでまた大笑いしないで!),ちょっと引用のしかたが不用意でした.ただ,現行科学の方法論は絶対だみたいに考えていると,その枠を大きく越えちゃった議論(オウムの教義みたいな)に曝されたときにひどく弱いよ,ということが論旨だと思います.
3.文献資料の見方について
>> Mischelが性格検査の問題点や一貫性の錯覚をデータから論証したことは不滅の業績で
>> すが,彼が自分の発見を説明するためにその後主張したさまざまな議論のほとんどは
>> ,私から見て取るに足らないものだ,ということです.
>
> 心理学では、参考にした他の人の主張の中で、自分と関係ない(のかどうか知りませ
> んが…)部分は脚注に書いたり、「たしかどこかに書いたと思います」というのが慣習
> なのですか? それとも、単なる単純ミスなのでしょうか? あるいは、別の事情があ
> るのでしょうか? いや、私の読み違いなのでしょうか?
学者が論文の中で参考にするのは「他の人の主張の内容」であって「他の人」ではないのです.私が「ミシェル(1968)が証明した」と言ったとき,それは「ミシェル(という人)が証明した」ではなくて,「ミシェル(1968)という文献に書かれている知見が証明した」という意味です.だから,論文に他の人の主張を引用するときにはその人のどの論文の,場合によってはどの部分を引用しているのかを明記し,かつその論文を必ず引用文献リストに明示します.もちろん「ミシェル(1968)は正しいが,ミシェル(1973)はまったく間違っている」という主張はなんの問題もなく可能です.これは心理学以外の科学でも同じだと思います.
ただし「どこかに書いたと思います」というのは明らかな私の手抜きで,心理学では普通こうするなんてことは全くありません.その時確認できなくて,でもABOFANさんとの議論は急いで先に進めたかったので,とりあえずそう書きました.だからあとでちゃんと確認できたものはお知らせしてますよね? いずれにしても反省します.
あと「脚注」についてですが,なにかを本文に載せるか脚注にするかは本文の文脈との関係で決まるだけで,脚注の内容もはっきりと「論文の一部」です.現実に論文の読者は脚注の内容も必ず読むことができます.そこで自説を主張することになんの問題があるのでしょうか? まあ私も含めて「一番大事なことは脚注に書く」みたいな人が意外と多いことは,素人にはわかりにくいかも知れませんが.
あと,議論の進め方に関連して,
>> 議論の主張については,あくまでも主張の内容について議論すべきで,それが誰から
>> 送られてきているのか,送り主が仮名じゃないか,複数ではないのか,心理学者に操
>> られているんじゃないか,みたいなことは議論の上ではどうでもよいはずだ,
>
> 心理学者にもいろいろな意見があります。長谷川さんのサイトをご覧になってはいか
> がでしょうか?
これははっきりしていて,私はこのことに関する長谷川先生の考え方には反対です.
誰からどんなかたちで提示されたにしても,答える価値のある問題で,自分に答える気があれば答えればいいし,(たとえば高名な心理学者から)実名で問われたとしても答える価値や答える気がなければ答えなければいい.それだけです.それをメールの送り主の素性とかで論じるのは,答えないことを正当化するためととられる可能性があります(もちろん,長谷川先生がそうであると言っているわけではありません).
4.心理学者に研究させて発表したら,の件
> 反証を挙げておきます。
>
> 菊池聡さんは、『超常現象の心理学』〜人はなぜオカルトにひかれるのか〜(平凡社新
> 書 H11.12)でこう書いています(108ページ)。
これは議論が交錯しています.私は「心理学者が興味を持つような問題なら必ず心理学者が誰か研究しているはずだ」という説が間違っていると言っているので,「そういう説を提唱する心理学者がいる」ということを否定しているのではありません.
興味があったって,今のところ研究する方法がないとか,研究費用や時間がないとかいう理由で放置されている仮説なんて山ほどありますよ.超能力とかね.私もそういうのやりたーい,でも今はできなーい.
関連して,
> この点は、わざと触れませんでした(文系の先生に話は聞いていましたが)。というの
> は、心理学では「血液型と性格」の研究は事実上不可能(?)ということになってしま
> うからです…。当然の論理的帰結として、今までの心理学の「血液型と性格」の(否定
> 的な)研究はすべて無駄ということになります。つまり、血液型を否定することは不可
> 能になってしまうのです。(^^;;
これも,全然そうではありません.どうしてそういう論理展開になるのか理解できません.
大学の研究費でできなければ外部の研究費や科研費をとればいいので,学者に研究する気があればそれはなんとかなる可能性が常にあります(注1).それから,一般論として金がないからきちんとした実証研究ができにくいということと,これまでの実証研究がきちんとしていないということは全然別です(これも,逆は必ずしも真ならず).日本の大学にはホントに自分の骨身を削って,暖房費まで節約し,実験器具を手作りして研究している先生方が理系でも文系でもいて,そういう研究が素人の喜ぶ「ネイチャー」とかに載るような成果を生みだしてるのは紛れもない事実です.
ただ,もっとお金があればもっといい研究ができるし,血液型の問題だってちゃんとした議論をできるようなデータが得られるような研究にはいまよりもっと金がかかるから,それを血液型の側でなんとかしてみたらどうだ(注2),と言ってるのです.
同時に,私が言ってるような意味で「性格心理学をちゃんとやる」には今までとは比べものにならないくらい研究費がかかる,だから新しいパラダイムに移行するには研究費の問題も考えて行かなくちゃならない,そういう意味では科学研究だって経済行為です.
それから,
> これにも驚きました。具体例を示していただけないでしょうか? もちろん、ABO
> FANの全部のデータが「心理学のやり方で,心理学者によってとられたものでない」
> ことは事実です。しかし、渡邊さんもおわかりのように、論証のメインは松井先生と坂
> 元先生のデータです。他の心理学者のデータもたくさんあります。これは、「心理学の
> やり方で,心理学者によってとられたものでない」のですか?
これは失礼しました.以下のように修正します.
いままで心理学者が(もしABOFANさんのデータに反論できなくても)無視や沈黙で切り抜けられたのは,ABOFANさんの示すデータが「心理学のやり方で,心理学者によってとられ,心理学者によって分析されたものではない」からです.
これならいいですか? 誤解して欲しくないのは,これは「心理学者が無視しても,それほど問題にされないであろう,そして心理学者が無視を決め込むのによい口実になるであろう条件」であって,「心理学者が無視してもかまわない条件,あるいは無視した方がよい条件」だと言っているわけではありません.現に私は,上記の条件がきちんと(笑)整ったこの問題を無視していません.
(注1)科研費 ただし,誰に科研費を与えるかという審査は,心理学なら心理学の重鎮,はっきりいってジジババによって決定されてますから,心理学の現行パラダイムから外れた,よくいえば独創的な研究(血液型関係もそうでしょう)にはなかなか研究費を当ててくれません.私たちも数年前にかなりすごいメンバーを集めて「血液型性格関連説についての研究」を応募しましたが,みごと落選でした.最近はだいぶ柔軟になっているようですが.
(注2)血液型の側でなんとか 私はABOFANさんに個人で研究費をなんとかしろといってるのではなくて,血液型性格学を信じ,それを主張し,場合によっては商売にしている人がこれだけたくさんいるのだから,それらの人たちがお金を出し合ったり,とくに儲かっている人(たとえば能見俊賢さんあたり)が私財を投じるみたいなことができないのか,と言ってるのです.そりゃあ個人で500万の研究費ポンと出せる人なんかなかなかいませんよ(いたら紹介してください).
5.読者からのメールについて
今回の「読者」さんのメールは前にも書いたように本当に励ましになりました.私の議論をかなり完全に理解してくれている上に,私の腹づもりとか,あろうことか私の思想的・政治的背景まで(笑)かなり完璧に読み取っているからです.こういう人となら議論は早くすむし,早くすまして二次会に行って,パーっと大宴会といきたいですね.
「読者」さんの「正体」がわからないので,なんともいえませんが,ABOFANさんについてももちろんそうですが,いわゆる学者じゃない人からこういうきちんとした知性,ときには専門の学者以上の論理性や理解力を感じることができる,ということが,心理学の研究だけじゃなく,心理学教育や一般向けの解説に携わることの最大の面白さ,喜びです.そういうことが好きだから,私はこういった場にも出てくるのです.その信念は今回もきちんと証明されました(ただしこれは私の個人的感想というデータなので反証不能).
さて,「読者」さんの提示された質問にも答えたいと思いますが,どれも私に都合の良すぎる質問でかえって赤面です.もしかしてこのメール私が書いて送ってるのじゃないかとか,心理学業界からは誤解されかねません.そんなことは絶対ないですよ!
> 渡邊さんの本当の狙いは、心理学のパラダイム変換のための第一歩としての「性格(心
> 理学)」に関するディシプリン否定であり、その突破口としての血液型性格関連説批判
> のように思っています。
正しすぎ(涙々).近く出版される本(注)でも詳しく話してるのですが,私はもともと社会学部の出身で,心理学の大学院に入ってから心理学の方法にいろいろ疑問を感じました.そしてその疑問がいちばん強かったのが性格心理学で,それに対して疑問を突きつけ,検討していくうちにそれが専門になって,あろうことか「性格心理学者」なんて言われるようになってしまった,という経緯があります.私の血液型に対するスタンスが他の性格心理学者と非常に違うのは,そういう理由です.
> 例えば、「質問紙」の問題です。渡邊さんはあっさり切り捨てていますが、「質問紙」
> の可能性をぎりぎりまで追究した結果があって、それを踏まえて、ということなのでし
> ょうか。
もちろんそうです.古くは名大の故・続有恒先生の徹底的な研究(質問紙の回答があてになるか,本当にその人の行動を追跡調査したりしている)がありますし,最近でもその問題だけを2巻にわたって延々と論じた,たしか「心理測定学」という本がありました(この本のタイトル自信ありません,どなたか正確なのご存じの方お願いします).したがって質問紙の有効性と限界はかなりわかっているし,それを踏まえて,それが有効である分野で,有効な方法で質問紙を使うことは今後もアリと考えます.
ただし性格心理学,とくに「性格が実在する」と考える分野ではダメということです.
> それと、やはり、「クレッチマー説」についての決着(オトシマエ)はきちんとつけて
> 欲しいですねえ。渡邊さんにとってはスカみたいなテーマで鬱陶しいだけでしょうから
> これについての議論はのぞみません。否定的な傾向が強まっているようですので、とり
> あえず、「血液型と性格は関係ないのになぜ多くの人が関係あると思っているのか」を
> 「体格と性格は関係ないのになぜ性格心理学の専門家が関係あると思っていたのか」に
> 変更して「心理学会」で見解を確定させていただきたいという希望を述べておくことに
> します。
この「スカみたいなテーマ」なんて言い方は実に私っぽくて,その点で「読者=渡邊」ではないかと他の心理学者はますます疑うと思いますが(笑),ホントにスカみたいなテーマですね.で,まあクレッチマー説は「体格と関係のある精神病の症状や,その精神病に特有の性格傾向を理解するためにはある程度有効だが,健康な人間の性格を理解するためにはもはやあまり考慮されていない」ということになるでしょう.
ただ,ダメになった学説はいつもきちんと否定されるかというと,そんなことはありません.それは「老兵は死なず,ただ消え去るのみ」ということになって,新しい学説に自然と交代していくものです.だって,天動説や錬金術を,どこかの学会が決議をもって否定した,なんてことはたぶんないでしょう(あるかも知れない.もしそういう史実をご存じの方はぜひ教えてください).
とはいえ,ダメになった説をちゃんとやっつけておかないと「老兵が復活」ということになる場合もあります.血液型についても心理学業界では一応「昭和15年頃に決着済み」というのが公式見解なのですが,その時はきちんと心理学的な議論で決着を付けずに,血液学者や生理学者の応援や,東京帝国大学の権威などを利用してうやむやにしてしまった経緯があります.だからこうやって復活してきても効果的に戦えない.
それは反省する必要がありますね.
クレッチマーは現に心理学の教科書に堂々と載っているんだから,血液型より深刻な問題かも知れません.血液型は心理学の教科書に(ごく一部を除いて)載ってませんから.基本的に同じ問題なのに,そっちはほっといて血液型だけやるというのは,私もけっこうずるいのかも知れない.やっぱり学界の権威が恐い? 否定はできません.
> 更に加えて(というよりこれが一番本質的でしょうが)は、性格(表現)とはなにか、
> ということです。単なる定義の問題ではなく、どう認識するか、ということなのですが
> 、これは、実は渡邊さん、未発表の予定稿にあるような気がしていますのでもう少し様
> 子を見ようかなあ、なんてね(^^。
> 特に、実体(言って見れば"ハード")の性質と精神活動としての性格(言ってみれば"
> ソフト")との関連については、あるとしても意味無い的な「ゴリゴリの科学主義者」
> とは思えない理由に止まっていますので、これは先があるなあ、と思っています。
>
>> 議論がかなり成立してきているのはとてもうれしい:メール(その5)
>
> 予定稿が役立っているようでご同慶の至りです(^^
これ,予定稿なんて本当にないんです.ホントに毎日毎日書いてるんです.いま1月26日の午後1時過ぎですが,今日は大学に10時にきて,それからメールを見たり事務的なことをすましてから,10時半くらいから書き始めて,今ここに至っています.実際,自分でもビックリするほどの執筆量.周囲では渡邊芳之躁病説が囁かれています.個人的には雪が積もって目に入る光の量が激増したせいではないかと思っています(うつ病の治療で,光線療法とか,日光療法とかいうのがあるくらいですから).
冗談はさておき,予定稿は本当にないのですが,これだけのことを始めたのですから,だいたいこんな順序で,こんなことを話していけばいいかな,という計画はありました.ただ,そういう風に進められるかは全く「敵の出方」(笑)によりますから.まあこれまでもいつも考えてきた内容なのでわりと簡単に書ける,ということもあります.
そして,上記のテーマ,とくに性格とは結局なにか,みたいな問題は当然討論予定には入っています(ハードとソフトのこと,そして「精神活動」の問題はまだ考え中,これちゃんとやるとなるとかなり大変なのです).ただ,それが必要かどうかは議論の進行次第ですし,それらは他の場所でけっこう書いています.もしここでそのテーマが出なかったら,それらの問題についての私の著書や論文をご紹介します.
「読者」さん,どうもありがとうございました.
(注)近く出版される本 佐藤達哉・渡邊芳之・尾見康博「心理学論がはじまる(仮題)」北大路書房 4月くらいまでには出版されると思います.
毎回毎回どうもありがとうごさいます。
今日はあまり時間が取れないので、私の興味がある部分だけつまみ食い的に書かせていただきます。最大素数さんからのメールについては、私が書くのもどうかと思うので触れません。よろしくお願いします。
1.客観性と反証可能性について
私の説明不足かもしれませんので補足させていただきます。
私がお願いしているのはそういう意味ではありません。渡邊さんのパラダイムに適合した論理に、客観性と反証可能性があるかどうか示していただくことです。たとえば、前回のメールだと、「『血液型と性格の関連なんていうこと以前に,性格なんてもの自体,客観的には実在しないかもしれない.』という文章に、客観性と反証可能性があるのでしょうか? いかが思われますか?」という部分です。
2.心理学者に研究させて発表したら,の件
まず、従来の心理学者の血液型と性格に関する研究についてです。渡邊さんの論理を私なりに整理してみると、
1.「『ほんとうの研究』というものは,…金も莫大にかかるもの」である
2.「ほんとうの研究」以外は無駄である(あるいは意味がない)
3.しかし、従来の心理学の血液型と性格についての研究は、金が膨大にかかったものではない(のかどうか知りませんが…)
4.従って、従来の心理学の血液型と性格についての研究は、「ほんとうの研究」ではない
以上により、従来の心理学の血液型と性格についての研究は無駄である(あるいは意味がない)ことなるはずですが…。違うのでしょうか?
次に行きます。
>
ABOFANさんの示すデータが「心理学のやり方で,心理学者によってとられ,心理学者に
> よって分析されたものではない」からです.
つまり、松井さんと坂元さんのデータは、次のいずれかに当てはまるということでしょうか?
1.心理学のやり方ではない
2.心理学者によってとられたものではない
3.心理学者によって分析されたものではない
どれに当てはまるのか教えていただけると幸いです。
更に不思議なのは、この2つの論文はほぼ同じデータを扱っているにもかかわらず、坂元さんは差がある、松井さんは差がない、と全く正反対の結論を導き出していることです!(詳しくはこちら) 私の分析ではないことにご注目ください。
3.血液型性格学の支持者側が,意外とこのホームページを見ていない?
アクセス数はカウンタのとおりです。このページや渡邊さんへのメールが少ない(?)のは、こんな感じの議論に興味を持つ人が少ないためのようです(苦笑)。ABOFANへのアクセスの大部分は、血液型別とメールのページへのアクセスのようですから…。ということで、渡邊さんへ批判メールが殺到する事態は、まずありえないと思います。(^^;;
蛇足ですが、心理学者のHPに批判メールが殺到することは、同じ理由で非常に考えにくいのです。
さて、ABOFANでは原則として自分の考え方をメインにしています。他の肯定側のページは細かくチェックしていませんが、若干の違いはないとはいえないでしょう。もっとも、その差は否定側心理学者同士の意見の差よりは小さいとは思いますが…。
なお、都合によりここしばらく更新が遅れる場合がありますのでご了承ください>ALL
CAPSモデルは間違っているとのことですが、渡邊さん自身の記述を再掲しておくと(『現代のエスプリ』No.372 1998.7 〜性格のための心理学〜 性格の一貫性と新しい性格観 118ページ)、
一貫性論争で批判の対象になり、結果としてほとんど否定されたのは、性格の一貫性そのものではない。筆者はこの論争に関してはっきり「状況主義者」側の立場をとるが、だからといって人の性格がなんの一貫性も持たず、時間や状況の変化によってコロコロと変化すると主張しているわけではないし、そう思ってもいない。人の性格は確かにひとりひとり独自の形で存在し、なんらかの一貫性を示している。
また、同122ページでは、
アセスメント結果から別の時点や別の状況での性格や関連行動を説明したり、予測したりとするためには、アセスメント場面と説明予測場面とが状況的に似通っていればいるほど、アセスメント結果の説明力や予測力は高まるし、逆に状況の類似性が低いほど、アセスメント効果は役に立たなくなる。
となっています。まさにCAPSモデルの説明そのものだと思うのですが…。お忙しいのに大変申し訳ありませんが、説明にはどの程度の時間が必要なのでしょうか? やはり気になります。(^^;; 厳密な説明を要求するつもりはありませんから、そんなに時間がかかるとも思えないのですが…。とりあえずは、具体的にここが違う程度のごく簡単なもので結構です。よろしくお願いします。
読者の皆さんのために、CAPSモデルの説明も再掲しておきます(Walter Mischel, "Introduction to Personality" Sixth Edition, 1999, pp. 426)。
状況−行動パーソナリティシグニチャ: 安定的な If ... Then ... 関係
CAPSモデルでは、状況によって表面的な行動は違うにもかかわらず、その下部にあるパーソナリティの構造は安定している。それは、例えば音楽のように、一定のパターンに従って音符が時々刻々と変化するようなものである。ここで強調しておくと、CAPS理論は個人が明確な If ... Then ... 状況−行動プロファイルによって特徴づけられることを予測している。このようなプロファイルは、ある種のパーソナリティシグニチャを規定することになる。
このパーソナリティシグニチャのグラフを見ると、「人の性格は確かにひとりひとり独自の形で存在し、なんらかの一貫性を示している」ということになるはずですが…。
とっても(^O^)
2.お気に入りのページ
E−MAIL、A型、渡邊芳之さんのメール
3.血液型と性格の関係は?
ある
4.メッセージ:
渡邊芳之さんのコーナー、ほかの心理学者の方とのやりとりにくらべて、しろうとの自分にもピンとくるような気がする議論が多く、たいへん面白いです。
自分は現在、A型の女性と交際中なのですが(ちなみに彼女は精神医学専攻の学生ですが、心理学とは関係ないの?関係ないならどうでもいい話ですよね、どうでもいいついでに口惜しくも自分は無職ですが)、どこまでも前提から事物を説き起こそうとする感覚や、いったんその前提に組み込んでしまった(あるいは前提を立てるうえで切り捨ててしまった)観念の当否についてはちっとも興味を示してくれない姿勢(自分に言わせればそれはつまり進歩主義!…だからどうしたってわけじゃないですけれども)、論点を先取りした早合点など、なんとなく彼女と渡邊さんの論法がダブって見えていたところに共に血液型がA型であることを知るにつけ、A型のひととの交際に乏しい自分としては、まあそういうもんなのかなあと思いつつ、また、なるべく彼女との関係を平穏に保ち、ともに白髪の生えるまで末永くしあわせに暮らしたいという野望が若干ですが自分にはあるので、なにか参考になるところはないかな、でもこんなことよりまず先に就職を考えたほうがいいよなあ、と様々なことを思いながら、興味深く読んでいます。
そんなこんなのA型の彼女に対して、自分の言論はやはりちっとも通用せず、誰かのメールにもあったように、それを言ったらオシマイ的な発言を気軽に乱発するのがよくないらしいのですが(だって、オシマイになるのはそれがオシマイだからだモン。自分のせいじゃないモン)、そこへいくとowadaさんはAB型だからか、それともたんに知性の差か、上手に議論を成立せしめることが出来るみたいで感心させられると同時に、ひょっとするとここらへんの論理感覚の差が、血液型と気質の関係におけるキーポイントなのかな、と手前勝手に空想したりもしています。
また、これもほかのひとのメールにありますが、(自分が一番興味のある)A型のひとのメールが少なく、そのくせ(自分が飽き飽きしている)B型連中のメールが妙に多く、この際だから自分自身がA型のつもりになって血液型を偽ってこのメールを出そうとも思いましたが、よくよく考えると、それでは自分にとって全く参考にならないうえになによりすこし面倒くさいので、とりあえず今回はウソをつくのはやめて、自然にA型のひとのメールがあつまってくるのを期待することにしました。
というわけで、心理の方との議論に忙しいさなかに、くだらないメールを送ってすみません。また、メールの内容になにか失礼な点があって差し障りがあるようでしたら、メールのコーナーに載っけないでかまいません。そんじゃ、さよなら。
追伸 A型のことばかり書いたので、ほかの血液型も一応。O型のひとに怒られたり軽蔑されたりすると一番こたえるような気がします(おもに女性において)。AB型のひとはやっぱり、素朴にちょっぴり力になりたいなと思わせるひとが多いですね(原則として女性に限り)。B型は、自分自身も含め各自適当に健闘してくれればイイんじゃないかしら?としか思いませんけれども、生きるのに疲れたときにふと思い出すのがB型のひと(女性のみ)の馬鹿げた笑顔!?いや、そんなこともありませんね、やはり。
ABOFANへの手紙(7)
私もABOFANさんもどうも体調が悪いようで,その上お互いに仕事も忙しくなってしまい,ちょっと休む必要がありそうです.まあ,議論の基盤は成立してるし,ゆっくりやりましょう.
そんなことで,今回は簡単に手紙(6)へのABOFANさんの質問に答えるだけにさせてください.
1.客観性と反証可能性について
> たとえば、前回のメールだと、「『血液型と性格の関連なんていうこと以前に,性格な
> んてもの自体,客観的には実在しないかもしれない.』という文章に、客観性と反証可
> 能性があるのでしょうか? いかが思われますか?」という部分です。
これはとてもシンプルです.まず,私の基準で「性格が実在する」ことを立証するためには,
条件 ランダムサンプリングした被験者を対象に,状況要因を統制(あるいは捉え得る限りの状況を横断)した,性格認知や性格評定に頼らない,客観的な行動について得たデータから,人の行動に一貫した個人的パターンを検出すること.
が必要です.これによって「性格が実在する」という仮説に客観性と反証可能性を与えます.そして,
結果1 そうしたパターンが検出される → 性格は実在する
結果2 そうしたパターンが検出されない → 性格が実在するとは言えない
ということになります.「実在するとは言えない」は今の科学パラダイムでは「実在しない」ということと同義ですから,結果2が得られれば「性格が実在しない」ことを客観性と反証可能性をもって検証したことになります.
以上です.ちなみに,これはまったく現在の心理学パラダイムの中で可能なことです.
また,ほんらい他の目的でとられて,偶然この条件を満たしているデータはかなり古くからいくつかあるのですが,それらはいずれも「性格の実在」を示していません.
それらはMischel(1968)の中にも紹介されています.
2.心理学者に研究させて発表したら,の件
> まず、従来の心理学者の血液型と性格に関する研究についてです。渡邊さんの論理を
> 私なりに整理してみると、
>
> 1.「『ほんとうの研究』というものは,…金も莫大にかかるもの」である
> 2.「ほんとうの研究」以外は無駄である(あるいは意味がない)
> 3.しかし、従来の心理学の血液型と性格についての研究は、金が膨大にかかったもの
> ではない(のかどうか知りませんが…)
> 4.従って、従来の心理学の血液型と性格についての研究は、「ほんとうの研究」では
> ない
>
> 以上により、従来の心理学の血液型と性格についての研究は無駄である(あるいは意
> 味がない)ことなるはずですが…。違うのでしょうか?
えーと,これは議論が極端に単純化されて「三段論法」的になっている嫌いがあります.確かに,ABOFANさんの推論のように考えることもできます.したがって,「血液型に関する従来の心理学的研究データも,(ここ大切ですが)同時に従来の血液型性格学側のデータも意味がない」,そう考えることもできます.これは確かに間違いではありません.個人的にはそうしてしまうのがいちばんシンプルかな,とも思います.
しかし,これは推論の各要素が持っている幅や例外条件を全く捨象した場合です.それを考慮すると,「そう言えるが,すべてそうとは限らない」というのが妥当な推論でしょう.
もちろん,この問題を本当にもっと明確にきちんと解明するには,金も手間も莫大にかけた「ほんとうの研究」をやるのが近道であることは間違いありません.しかし,それと「これまでの研究がむだである」ということとは,それぞれの研究成果について個別の議論が必要な問題だと思います.そういう意味では「ほんとうの研究」論での私の議論が雑だったと思います.その点はお詫びします.
次に,
> ABOFANさんの示すデータが「心理学のやり方で,心理学者によってとられ,心理
> 学者によって分析されたものではない」からです.
>
> つまり、松井さんと坂元さんのデータは、次のいずれかに当てはまるということでし
> ょうか?
>
> 1.心理学のやり方ではない
> 2.心理学者によってとられたものではない
> 3.心理学者によって分析されたものではない
>
> どれに当てはまるのか教えていただけると幸いです。
>
確かに松井/坂元データは心理学のやり方で,心理学者によって(正確には心理学者の指導のもと放送局の調査部門によって)とられ,心理学者(松井/坂元)によって分析されています.しかし,その「分析」は,「血液型と性格に関係があるかどうか」について行なわれているわけではありません.
松井先生か坂元さんが,自分の分析から「血液型と性格には関係がある」と結論しているならともかく,これらのデータから「血液型と性格の関係が立証された」ように言っているのはABOFANさんだけで,そういう意味では「血液型と性格に関係がある」というのはABOFANさんによる分析であって,心理学者による分析ではありません.
> 更に不思議なのは、この2つの論文はほぼ同じデータを扱っているにもかかわらず、
> 坂元さんは差がある、松井さんは差がない、と全く正反対の結論を導き出してい
> ることです!(詳しくはこちら) 私の分析ではないことにご注目ください。
それはまた全然別の問題です.同じデータからの心理学者2人の結論が異なっているからと言って,必ずどちらかが間違っているというわけでもないし,心理学者の説が間違っていて血液型が正しいということにも全くなりません.ちなみに,この問題のデータそのものやその具体的解釈については私の議論とは関係ないので触れません.
3.CAPSモデルの問題
> となっています。まさにCAPSモデルの説明そのものだと思うのですが…。お忙しい
> のに大変申し訳ありませんが、説明にはどの程度の時間が必要なのでしょうか? やは
> り気になります。(^^;; 厳密な説明を要求するつもりはありませんから、そんなに時間
> がかかるとも思えないのですが…。とりあえずは、具体的にここが違う程度のごく簡単
> なもので結構です。よろしくお願いします。
話せば長いのですが,結論だけを簡潔に言います.
CAPSモデルに代表される,認知的変数を個人側の変数として状況との相互作用を論じ,その結果生じる一貫性を解明したとする研究では,個人変数側の基準が私の求めるレベル(かつ,心理学の現行ディシプリンでも当然求められるレベル)の反証可能性をクリアしていません.
すなわち,人の内部の認知過程で生じている,とされる個人差は,質問紙や自己報告,他者による認知報告,行動からの間接的な類推など,客観的に反証不能な基準で「測定」され,互いに独立な要因として状況と結びつけられています.これらが従来の「性格」概念と実質的に同じもので,実際には状況から独立でないことは明らかです.
もしこうしたモデルを提唱するのであれば,まず「個人要因」をもっと客観的にアクセス可能なものにすること,それから,そうした個人要因が状況とは独立に行動に影響することを,できれば客観データによって,最低でも論理的にはきちんと証明する必要がありますが,それがなされていません.現状では,ああいうものは単なる「控えめな性格実在論」に過ぎないのです.
能見スタイルの血液型*状況相互作用論も,その前提になる「血液型が状況を越えて性格に影響する」(性格を決める,ではない)という仮説が反証不能になっているので,問題は同じです.
まあその意味で血液型性格学が「まさにCAPSモデルの説明そのもの」というABOFANさんの主張自体は正しいです(笑).
いろいろと気を使っていただいてありがとうございます。
今回のメールは、直接的には渡邊さん宛ではなく、読者の皆さんを意識して書いています。私宛にメールが何通か来ていますので(ありがとうございます)。
ということで、またまた感じが違うと思いますが、AB型に免じてご容赦ください(笑)。
1.客観性と反証可能性について
「『性格が実在しない』ことを客観性と反証可能性をもって検証」しようする渡邊さんの実験結果から、簡単に「性格が実在する」ことが証明できます。(^^;;
まず、被験者に心理学の一般的な性格検査をやってもらいます。性格検査の結果と、「性格認知や性格評定に頼らない,客観的な行動」との相関を計算してみるとどうなるでしょうか? 本当は相関がないとしても、タイプ1のエラーは必ずありますから、項目数が多ければ何らかの「相関」は必ず存在する…はずです。つまり、「性格が実在する」ことが簡単に証明できてしまうことになります。従って、この実験は渡邊さんの意図とは正反対の結果が出てしまうことになる…はずです。
もっと露骨に「性格が実在する」ことも証明できてしまいます。普通の相関分析では、性格特性ごとの相関を計算しますが、今度は1つ1つの質問項目ごとに相関を計算してみるのです。性格検査は、たいてい100項目以上はありますから、危険率を5%にすれば、
100項目×0.05=5項目
となり、最低でも5項目程度以上に「相関」が存在することになります。いや、危険率程度の項目数じゃあしょうがない、という反論があるかもしれません。しかし、別に全然困ることはありません。全質問項目に統計ソフトで因子分析でも実行すれば完璧です(笑)。その理由は、渡邊さんも重々ご承知でしょうからここには書きません…。
#性格検査の結果と行動が違っても特に問題はありません。
#何からの相関が存在することさえ証明できればいいのですから…。
血液型が好きな方なら既に気づいたかもしれませんが、血液型なら行動がどんな結果になろうと全く問題ありません。つまり、この実験をやると、必ず血液型と性格に関係があることが証明できてしまうのです!
いや、「性格が実在しない」ことを証明するのなら、全く同じ条件でもう一度別な実験をやって、最初の実験結果と違うことを示せばいいじゃないか、という反論もあるかもしれません。しかし、これもうまくはいかないのです。なぜなら、この実験は500万円程度以上かかる(かどうか知りませんが…)からです。こんなに予算が必要な実験は1回しかできませんから…。いや、仮に2回目の実験ができたにしても、1回目と2回目の実験は、なんらかの条件の「差」があるとケチを付けることは簡単です(場所、時間、説明者…)。つまり、1回目も2回目も必ず「相関」が出てしまうことになります。これでは、ますます「性格が実在する」ことになってしまい、当初の意図とは全く反対の結果が出てしまうことにもなりかねません…。(以下略)
実は、この実験には、まだまだ問題があります。それは、「ランダム・サンプリング」です。わかりやすくするために、極端な例を出しておきましょう。ということで、下の図を見てみてください。こういう場合は、血液型(じゃなくともいいですが…)の差を見るのには、ランダムサンプリングは全く役に立ちません。いや、逆に有害と言ってもいいでしょう。どの場合にどんな方法が有効かはケース・バイ・ケースです。そのための統計学なのですから…。
#下の図は実際にそうであるということではなく、単なる模式図です。念のため。
人の話にケチばかりつけてもしょうがないので、少しは建設的なことも書いておきましょう。では、本当に「性格が実在しない」というためにはどうすれぱいいのでしょうか? 私は心理学者ではないので、無料で教えてしまいます(笑)。別に難しくはありません。この場合は、被験者を「抽選」で2班(多いほどよい)に分けて実験をすればいいのです。条件を同じにするために、同じ人が説明なり実験をして、行動にこの2班の相関がないことを証明できさえすればOKです。班の順番による影響を取り除くには、班の数を増やして、順番は乱数表で決めれば大丈夫なはずです。
え? こんな方法では500万円以上かかるのではないかって? それは全く逆です! ランダムサンプリングが(原則として)不要なので、学生を使えばかなり低コストで実施可能だと思います。
ここまで読んできて、やはりこの実験は有効だと思った人もいるかもしれません。しかし、それは甘いのです!
このやり方にも欠点はあります。行動をR、性格をP、環境をEとすると、それぞれの被験者についてはR=PEと定義できることは言うまでもないでしょう。ここで、RとEはベクトル(または1×n型行列)、Pはn次正方行列です(別にテンソルもいいし、非線形モデルでもいいのですが、私の能力を超えますので簡単に行きます…苦笑)。実験の環境の数だけRとEを大きく取れば、一般的にPは一義的に決まります。つまり、性格をPと定義すれば一義的に決まってしまうのです。いや、そんなのインチキだ!ということなら、因子分析でも使えば任意の大きさの行列にすることも可能です(本当かな?)。つまり、性格は必ず存在することになります! これは個人についての計算なので、班の数は関係ありません。しかし、このやり方にも欠点があって、それは…いや、こんなことを書いていては読む人が減るだけなのでもう止めましょう。f(^^;;
とにかく、ミシェルの本を読んだ限りでは、こんな実験はないようです(英語なので全部はチェックしてませんが…)。逆に、最初の論法が適用できますから、一般的には「性格特性は行動を予測できない」(=通状況的一貫性は存在しない)にしても、特定の状況なら「性格特性は行動を予測できる」(=首尾一貫性存在する)ということになります。つまり、必ず「性格は実在する」という結論が得られることになってしまう…はずです。
2.心理学者に研究させて発表したら,の件
「推論の各要素が持っている幅や例外条件を全く捨象した」とのことですが、では具体的に何を捨象したのでしょうか? その説明がないと、「客観性と反証可能性」はないはずですが…。
そして、渡邊さんの論理に従うと、私が「捨象した」ものを詳細に分析すれば、500万円未満の予算でも「ほんとうの研究」ができることになるはずです。そういう分析をしないのは何か理由があるのでしょうか?
次に行きます。松井/坂元論文は、「血液型と性格に関係があるかどうか」の分析は行っていないとのことですが、それは渡邊さんの定義による「性格」という意味なのでしょうか? それとも原典での「性格」という意味なのでしょうか? 前者ならともかく、後者なら、これらの論文は全く無意味ということになるはずですが、そうなのですか?
更に不思議なのは、松井/坂元論文の解釈です。松井論文は、データに血液型による差がない→血液型による性格の差がない、という結論になっています。逆に、坂元論文では、松井論文と同じデータ(ただし、年数は4年分→11年分と増加)を分析した結果、データに血液型による差がある→血液型で性格に差があるという「信念」によるもの(=「血液型ステレオタイプ」)→血液型による性格の差がないという結論になっています。
この2つの論文の論理構成は、明らかに矛盾します。結論こそ「血液型と性格には関係がない」と同じものの、データに血液型による差がない(松井論文)、データに血液型による差がある(坂元論文)と全く正反対の分析結果が得られてしまったのですから…。
不思議なことに、この「矛盾」には心理学者は誰も気が付いていなかったようです。いや、本当は気づいていたのかもしれません。なぜなら、否定論者の心理学者の誰に質問しても、そのほとんどはあいまいな答えでお茶を濁されて終わりになってしまうからです(たとえ返事をもらえても、そのほとんどがが「公表不可」とのことなので、残念ながら公開できません)。しかし、教えてもらえなければ、ますます知りたくなるのが人情というものでしょう。
そういう意味で、公表していただいたのは大変ありがたいのですが、
>
同じデータからの心理学者2人の結論が異なっているからと言って,必ずどちらかが間違
>
っているというわけでもないし,心理学者の説が間違っていて血液型が正しいということに
> も全くなりません.
ということでは、松井/坂元論文は「正しいとも間違っているともいえない」ということ(?)ですから、これらの論文から「血液型と性格には関係がない」との結論は導けないはずです。論理的にはそういうことになる…はずです。私はそう解釈しました。
いずれにせよ、論理構成を教えていただけないという点では、他の心理学者と変わらないのが残念です。
3.CAPSモデルの問題
>
まあその意味で血液型性格学が「まさにCAPSモデルの説明そのもの」というABOFANさ
> んの主張自体は正しいです(笑).
ありがとうございます(笑)。
読者の方から、私の返事(その7)の1.客観性と反証可能性について、がわかりにくいという指摘をいただきました。f(^^;; そこで、少し補足しておくことにします。
まず、性格検査の項目の具体例です。大村政男さんの「新訂『血液型と性格』」を読んだところ、YG性格検査の「のんきさR」の質問項目が公開されていました。普通は性格テストの質問項目は非公開なので、非常にラッキーなことです。それは、
- よく考えずに行動してしまうことが多い
- 早合点の傾向がある
- いつもなにか刺激を求める
- 計画を立てるよりも早く実行がしたい
- いろいろ違う仕事がしてみたい
- 人と一緒にはしゃぐことが多い
- 口数が多い方である
- お祭り騒ぎが好きである
- じっとおとなしくしているのが苦手である
- 気軽なたちである
の10項目です。なお、YG性格検査では、全部で12種類の性格特性があります。「のんきさR」は、そのうちの1つです。
次に、「性格認知や性格評定に頼らない,客観的な行動」のデータについてです。残念ながら具体的な内容が不明なため、ここでは行動A、行動B、…行動Jまでの10種類を仮定することにします。ここで、各行動のデータについては0/1のデジタル的(=ノンパラメトリック)なものではなく、0〜1(別に0〜10、0〜100、−10〜−10でもなんでもいいですが…)のアナログ的(=パラメトリック)なものとします。
さて、性格特性と行動の組み合わせは、下の表のとおり10×12=120通りあることになります。
組合せ 行動A 行動B 行動C 行動D 行動E 行動F 行動G 行動H 行動I 行動J 抑うつ性D 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 気分の変化C 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 劣等感I … 神経質N 客観的O 活動性G 攻撃性Ag 活動性G のんきさR 内向外向T 社会性S 支配性A … 120
ところで、統計的検定をする場合は、危険率は普通は5%にすることになっています。危険率とは、偶然に起こる確率のことです。つまり、「偶然」に起こる確率が5%以下の出来事なら、統計的には「偶然でない」と認めるということです。統計では、「偶然でない」ことを「有意」と言います。
で、この有意(=偶然に起こる確率が5%以下)に相関がある項目の組合せの数はどのぐらいでしょうか? 全部で組合せの数は120通りですから、平均すると120×0.05=6項目程度には「相関」があることになるはずです。察しのいい読者なら、危険率1%以下で有意に「相関」がある組合せについても、1つぐらいはあることになることもわかるでしょう。
さて、この「相関」は偶然によるものなのか、それとも本当のものなのでしょうか? 実は、どちらともいえません! なぜなら、この実験は予算がないので1回しかできないからです。つまり、客観性はありますが、反証可能性がないのです。仮に私が「本当のもの」と主張しても、否定することは誰にもできません。万が一、予算が確保できて2回目の実験ができたにしても、1回目と条件が違う(から結果が違っても問題ない)、とケチを付けることは簡単(?)ですから、問題になりようがありません(本当かな?)。
更にもっともらしくするために、因子分析を適用することにします。因子分析について知りたい読者のために、簡単に説明しておきます。 詳しくは多変量解析のテキストに当たってもらうことにして、直感的に示すと下の図のようになります。
上のような緑のような分布のデータがあったとします。これをオリジナル(黒)のX軸、Y軸で分析しても、さっぱり特徴が現れません。そこで、X軸、Y軸を反時計回りに45度回転させ、新しいX軸、Y軸(赤)を作成することにします。すると、X軸方向に分布が集中するので、この軸に沿ってデータの特徴が現れることになります。逆に、Y軸方向にはあまり特徴が現れません。ですから、このデータを分析する場合、新しいX軸方向を主要な因子として分析すると好都合なはずです。つまり、X軸、Y軸の2つの軸によるデータが、新しいX軸によって1つの軸(=因子)に集約されたことになります。
もちろん、以上の説明は2次元に分布するデータの場合ですが、3次元以上の場合も基本的には同じです。しつこいようですが、正確な説明は多変量解析のテキストを読んでみてくださいね。今回は10×12次元のデータですが、こんな感じで自分の好みの次元数に圧縮することが可能です。
実際の計算は、統計ソフトでやればいいので省略します。ちゃんと「相関」が出ることは間違いありません。ウソだと思ったら、お好きな心理学の論文を読んでみてください。その具体例は…いや、失礼なのでここには書かないことにしましょう。(^^;;
閑話休題。
ここまで読んできてうんざりした読者もいるでしょう(少ないことを希望しますが…)。ということで、統計的な説明はおしまいにすることにします。
次に、錯覚の問題に移ることにします。今までの渡邊さんの説明だと、性格が存在するように見えるのは「錯覚」とのことでした。では、この「錯覚」である根拠は何かというと、それは「性格は存在しない」からということのようです(違うのでしょうか?)。この論理を整理すると、
1.性格は存在するように見える
2.しかし、本当は性格は存在しない
3.従って、性格が存在するように見えるのは錯覚である
ところが、2.については完全な証明がされていません。なぜなら、新しいパラダイムはまだ不完全だからです。つまり、性格が存在するのは「錯覚」ではない可能性もある…はずです。少なくとも、論理的にはそういう結論になります。
私だけがそう主張しているのではありません。例えば、血液型と性格に関係があるように見えるのは、「錯覚」や「認知の歪み」であるという主張に対して、心理学者の坂元さん(否定論者)は、『現代のエスプリ〜血液型と性格』で次のように主張しています(184〜185ページ 『血液型ステレオタイプと認知の歪み〜これまでの社会心理学的研究の概観』 坂元章)。
これまでに、多くの研究が、 血液型ステレオタイプによる認知の歪みを検討し、それを支持する証拠を得たとくり返し主張してきたが、そのすべてが方法あるいは結果に問題を抱えており、いまだに、認知の歪みに関する明確な証拠は提出されていないと言えよう。
さらに言えば、これらの研究はいずれも、認知の歪みがあるかどうかを扱ったものであり、坂元の研究などを除けば、その認知の歪みが「血液型性格学」に対する信念を形成していくという問題については、 ほとんど検討していない。
例えば、大村は、FBI効果を提出しているが、FBI効果によって信念が形成されるまでの過程に、人々が、FBI効果によって、血液型ステレオタイプが自己・他者にあてはまるという経験をくり返し、そのくり返しによって「血液型性格学」に対する信念を形成あるいは持続させているのか−は検討されていない。その信念の形成・維持までの過程がはっきり立証されてはじめて、「血液型性格学」の浸透の原因の一つが、人々が持っている「歪んだ認知をする傾向」であると言えるのである。
筆者は、これらのことから血液型ステレオタイプによる認知の歪みの問題は、かなり以前から指摘され検討されているものであるが、現在でもなおその知見はあいまいであり、今後も大いに検討する意義のある問題であると考えている。
なお、前川輝光さんの『血液型人間学−運命との対話−』にも同様の記述があります。
坂元さんの言葉を拝借すると、「『性格心理学効果(?)』によって信念が形成されるまでの過程に、人々が、『性格心理学効果(?)』によって、『性格が存在する』というステレオタイプが自己・他者にあてはまるという経験をくり返し、そのくり返しによって『性格が存在する』という信念を形成あるいは持続させているのか−は検討されていない。その信念の形成・維持までの過程がはっきり立証されてはじめて、『性格が存在する』という信念の浸透の原因の一つが、人々が持っている『錯覚』であると言えるのである。」ということになります。
次に、渡邊さんの理論の適用範囲の話に移ることにします。、渡邊さんは、データは重視しないと書いています(違うのでしょうか?)。例えば、メール(その3)では、「実験データなどに『客観性』があると考えるのは,最近は『科学主義』というひとつの思想(宗教?)とみなされています.」とあります。つまり、実験データには問題があるので、そんなデータは無視するということになる…はずです。
これにも非常に驚きました。例えば、相対性理論は、従来のニュートン力学で説明できない現象を説明できると同時に、従来の現象もそのまま説明できるからです。実もふたもない言い方をすると、相対性理論はニュートン力学の理論を厳密にしただけのものなので、それ以上でも以下でもありません。量子力学も同様です。ということですから、ハードディスクドライブ(フロッピーディスクドライブでもいいですが…)の動作を分析するのに、わざわざ相対性理論や量子力学を使う人はいないでしょう。言うまでもありませんが、回転しているディスクは回転していないディスクより寿命が延びる(?)でしょうし、磁気ヘッドがトンネル効果によってディスクを突き抜ける確率もゼロではありません(笑)。しかし、日常的な範囲では、ニュートン力学で十分間に合うのです。
#え、なんかヘンだって? それは単に気のせいです(笑)。
話を戻します。渡邊さんのパラダイムでは、データは客観性がないことになります。つまり、新パラダイムでは従来のデータを説明することはできない…はずです。結局、今までのデータは全く無駄になってしまうのです。こうなると、実質的に今までのデータは新理論・新パラダイムの適用範囲外ということと変わりません(違うのでしょうか?)。心理学の理論ってそんなものなのでしょうか???
と、ここまで書いて気が付いたのですが、渡邊さんのメール(その3)では、
>
実験などの「科学的手法」による知識はこれまで普遍的なものだと思われてきたわけです
> が,いまはそうではありません.
実験データなどに「客観性」があると考えるのは,最近は
> 「科学主義」というひとつの思想(宗教?)とみなされています.
ところが、メール(その7)では、
>
ランダムサンプリングした被験者を対象に,状況要因を統制(あるいは捉え得る限りの状
>
況を横断)した,性格認知や性格評定に頼らない,客観的な行動について得たデータから,
> 人の行動に一貫した個人的パターンを検出すること.
となると、この2つの「データ」の意味が違うのでしょうか? はて? またまた謎が増えてしまいました…。
> 知性,・・・を感じることができる(メール・その6)
「"痴生"の誤変換でした」ってのがオチなのですね(^^)。ま、いっかー。
丁寧なコメントありがとうございました。
> たしか「心理測定学」という本がありました(メール・その6)
多分、心理学者とのやりとりで初めての有意義なご教授です。本当にありがとうございました。
本のタイトルは殆どの場合編集者がつけるものなのですが、これもそうなんでしょうかねぇ。質問紙(法)の研究の本の題が「心理測定学」だなんて胡散臭過ぎ!いやあ、大好きです、こういうの。嬉しいなあ。著者はきっとマジメなんですよねえ、でも「ほんや」は売りたいわけで、ウケるタイトルを考えたんでしょうねえ、いやいや、著者の大まじめな意気込みがストレートに反映し(過ぎ)たのかしらん!?いいですねえ。全2巻、高価そうですが、書店で出くわしたら買ってしまいそですので、とりあえずは図書館で探してみることに致します。
> この「スカみたいなテーマ」なんて言い方は実に私っぽくて
一応、渡邊さんの"評価"を想定した表現のつもりでしたので、それなりに気に入って(と言う意味ではないかも知れませんが・笑)頂けたようでよかったです(^^。
但し、わたしは、「クレッチマー説の評価」に決着をつけろ、と言っているのではありません。(そういう意味では、性格心理学者にそういうことができる力量があるのかどうか甚だ懐疑的です。これについては後述します)
近年、(精神)医学界では「クレッチマー説」は否定的に扱われているらしいのですが、「クレッチマー説」を無批判に受け入れてきたとしか思えない心理学界は、この先、やはり無批判・無反省に廃棄処分にしてしまいそうなので、それにたいする(今のところは)牽制のつもりです。まともな検討をしてこなかったのは「能力」の問題もあるのであんまり強く責めるのもどうかと思うわけですが、「血液型と性格は関係ないのになぜ多くの人が関係あると思っているのか」などとほざいてる暇があるなら手前らの頭の蠅を先に払ったらどーなんだっ、ということなのですね。所詮「クレッチマー説」の垂れ流ししかできなかったくせになんの根拠があって「多くの人が関係あると思っているのか」などと他人様の心が解り得るかのようなお題目を唱えるのでしょうか!?いー加減な幕引きすんじゃねーぞ、ってことです(^^。「心の専門家」を看板の生業なれば、他人様の心とまでいかなくても、自分自身の心の有り様くらいは把握できる筈でしょう。各自、自分自身を振り返れば良いわけで、「(他人である)多くの人」の考えをでっち上げるよりはよほど得るものが多いというものです。だって、実際に、「なぜ多くの人が関係あると思っているのか」は判明してないんでしょう? 揶揄的にいえば、判明してしまった、解明できた、としたら、現在のパラダイムも捨てたモンじゃないナってことになっちゃいますよねぇ。
おお、ついムキになってしまいました(笑)。別にこれで糊口を凌いでいるわけでもないわたしがこんな場面で逆上してしまうのは"僭越"というものですね。どうも、この件に関する性格心理学の無責任ぶりには本当に腹が立ってしまうのですが、ま、この辺については後ほど。
1.性格の錯覚が発覚?
なにを今更の旧聞かと言われそうですが(と言ってもまだ1週間ほどしか経っていないのですが)、メール(その2)での「性格にまつわる3つの仮説」に未だ違和感があります。
仮説1、2はその通りで、共通の認識事項として「定説」(笑)と言っても良いかもしれません。
しかし、仮説3には渡邊さんは異議ありということなのですよねえ。実を言いますと、その後の議論を読んでも、その"異議"の内容が今一良くわかりません。と、言うより、どうも仮説1と仮説2での性格の捉え方が微妙にずれており、それが仮説3で齟齬を生みかけ、派生仮説A・Bで破産したように思えるのです。
どういうことかと言いますと、わたしには「性格と性格表現は違う」という認識があり、それが仮説1と仮説2での性格の捉え方に違和感を覚えさせるのです。
心理学者(の内の"否定派"と限るべきか?笑)の基本的な認識として、ある「特有の持続的なパターン」には、それに"対応"する要素(そのパターンの原因となるナニカ)があり、それは唯一無二の一対一対応である、というような大前提があるような気がしてしょうがないのです。血液型云々という前に、意識の奥では同じ心情なのに違う行動をしてしまう、ってことはよくあったし、今もあり、逆に(殆ど)同じ行動でも心持ちの有り様は全く別、ってこともよくあったし、今もあるわけです。一つだけ例を揚げれば、「好意を抱いた相手に対する行動」ってあたりでしょうか。「可愛がる=いぢめる」が同義である場合がある、というのはわたし特有の発想ではない筈です。従って、「好意を持つ相手との対人関係に見られる持続的なパターン」を特定できるわけもなく、勿論本来の「いぢめ」との区別がつかなければ、「好意」という一つの要素に対応づけることはできません。例として、二者択一風に簡素化しましたが、勿論現実世界ではいろいろな要素が絡んできますのでもっと判り難いことになってきます。
ついでながら、こうした「好意を持つ相手との対人関係」における性格(表現)の"認定"って、性格心理学ではどう扱うのでしょうか。我々一般庶民しろーとは「好きになるとアレコレちょっかいを出す(恋愛関係では)マメなヤツ」といったり、「いぢめ」の程度によっては「恋愛が不器用なヤツ」ということになったり、一言で「(恋愛に於いては)ガキ」と片付けられたりしてしまうのですが、それぞれ、案外「性格」の捉え方としてなかなか当を得ているような気がしませんか?(しねーか、ごめん)
更に、こうした「しろーと認識」は、そいつがまた誰かを好きになったと聴くと「また相手が嫌がることして振られちゃうんだゼ」などと「行動の予測」を「可能」にしてしまうので、よけい始末が悪かったりします(笑)。
仮説1で「認知」された「性格」と仮説2で定義した「性格」は同じではないように思うのです。仮説3において性格の実体を問題にすべきは、仮説2で言及している(行動上の)性格ではない筈です。
そう考えると、次の派生仮説A・Bは成り立ちません。
2.クレッチマーは血液型の夢を見るか?
これは、クレッチマー説とその評価についてのわたしの考えなのでして、特に渡邊さんとの論点になるようなものではないのですが、渡邊さんの目論見が、性格心理学と血液型(性格関連説)を同レベルで屠ることにあるので、クレッチマー(説とその評価)を題材にして性格心理学と一線を画しておこうと思います。
かつて能見(正比古)氏の著作にはまったとき、これらは結局心理学の知見に基づいて心理学の方法論によってきちんと検証され、そのうちに(せいぜい10年後には)結果がでるものと思っていたのでした。勿論能見氏が心理学をバカにしていた(特に性格心理学)ことは良く知っていましたが、「気質」とか「性格(傾向)」と言うとき、あれこれ言っても、その根拠、その検証や判定の、基礎と言いますか、立脚点としての「知識体系」は心理学のものの筈だからです。
特に、「実体」との関連でいえば、「クレッチマー説」という前例と言いますか、"大先輩"がいたわけです。能見氏の最初の著作はもう30年ほど昔のことで、当時、クレッチマー説の追試とか再検証が行われているのかどうかは知りませんでしたが、しろーとのわたしが知らないだけで、学界では継続的に研究されているであろうことを全然疑いませんでした。その研究の「成果(研究の過程で得られた知見も含めて)」は、血液型(性格関連説)の検証にも大いに役立つに違いないと考えていました。
しかししかし、なんとなんと、(性格)心理学は「クレッチマー説」を垂れ流してきただけで、なんの検証もしてこなかったのでした。何故そんなことを言い切れるのか?血液型(性格関連説)否定の論立てと、「クレッチマー説」の解説が紹介の頃と同じこと、というようなことから明らかです。
例えば、体格と体質との相関については何とも言えないとか、肥満と痩身の境界が曖昧とか、ずーっと同じコトを言っていますが、体脂肪率とか皮下脂肪厚、骨量骨密度、筋量筋繊維密度(この言葉はウソかもしんない)などどなど数量化の指標と成りうる数値が近年は簡単に得られるのですから、基本データとして、毎年ではなくてもせめて5年毎ぐらいには、当該精神病の患者のデータを採取するくらいのことはしてなきゃいけなかったんではないでしょうか。
ひょっとすると、躁鬱病患者の占める割合から、肥満の指標は従来の体脂肪率X%以上ではなくZ%以上である、などという"提唱"ができたかも知れません。
データ研究だけではなく、「病前性格」についての研究ってどうなっているのでしょう。これが否定されたら体質と精神病の関係がどうでも性格類型論としては破産してしまう筈ですが、どうもそういう結果は出ていないようです。では、ちゃんと確認されたのでしょうか、いえ、ある程度の傾向が観測されてはいる、あたりでもいいのですが、もしそうならば、渡邊さん達の「一貫性」や「実体と性格」に関する議論はほとんど成り立たなくなってしまうのではないでしょうか。それに、どういう性格項目が関連するのかという追究の成果が、例えば「YG性格検査」などにも反映されて「YGK(?Cだっけ)性格検査」とかになっている筈じゃあないかしらん。
ずばり言えば、精神医学者という"権威"にすがっての垂れ流しだったのではないでしょうか。かのドイツの、立派な精神医学者様の御説、間違っているわけは無く、追試・再検証など疑うような所業は畏れ多いことである、というわけです。
クレッチマーは勿論、日々の診療業務のなかでなんとなく感じたことが発端だったそうですが、もう少しヒマだったらもっと別の基準を"発見"していたかもしれません。あ、"もちろん"血液型"と言っているつもりでは・・・(笑)。
3.性格心理学の永い午後
「性格心理学」という看板を掲げたこと(朝食)は掲げたのでしょうが、なにはともあれそれなりの成果をあげた(昼食にありついた)と言えるのでしょうか。
はっきり言って、少なくとも日本の性格心理学界は、諸外国の見解(学説、と言い切るべきか・笑)を垂れ流しただけにすぎないのではないでしょうか。"紹介"をそれなりの"業績"とすれば、粗末ながらもランチはとった、のかもしれませんが(笑)。
血液型(性格関連説)との絡みでいえば、否定的な立場の方が引用するのは、(勿論わたしの印象にすぎませんが)圧倒的に岡山大の長谷川さんの論旨であって、(性格心理学会長の)大村さんの著作ではないのですね。これって案外象徴的で、(性格心理学にそれなりの希望を繋ぎたい)わたしとしては、結構忸怩たるものがあります。イヤ、本当に。
このままでは、性格心理学が"成熟"期なり"爛熟"期(ディナー)を迎えることはできそうになく「永い午後」を過ごしているとしか思えません。それって、わたし的にはすっげーこまるんですよねー。
4.やっぱりちゃんと言っておこう的締めくくり
本稿の1での論議、渡邊さんの"思うツボ"かも知れないんです(^^;;
「仮」説としながら「議論の余地のない事実」と言い、owadaさんの「全く同感です」とのコメントにも反応せず、結構わたしとしては「??」モノでした。
先のわたしの記述の中での"「定説」(笑)"は、勿論時事的旬を踏まえてのことでもあったのですが、なぜ「定説」と言わないのか、という疑義でもあったのです。
渡邊さんの目論む新しいバラダイムではこれはあくまで「仮説」ってことなのではないですか?
つまり、本稿の1での論議を待って、「そんなこと言われちゃうなら言うけどサ」的に、来るべきパラダイムについての自説を開陳に及ぶ、ってのが渡邊さんの狙いなんじゃないのかなあ、と思っていたのです(います、か・笑)。
で、まあ、なんとかそういうノリに持ち込ませないように考えたのですが、どうも、やっぱり自信がないので、こうしてハッキリ書いてしまうことにしました(^^。
言ってしまうと、前便での「予定稿」に関する言及は、そうした渡邊さんの「伏線」についての牽制の意味もあったのです。ま、今は、もうどうでもいいのですが。
それはそれとして。そういうのは無しネと言い切ってしまうと、渡邊さんにとって有効な反論を封じてしまうことになるのかもしれません(笑)ので、一概に拒否ってわけにはいきませんが、newパラダイム論の展開については事前に当HPの主宰者の許可を得て下さいね。
もしわたし宛の私信扱いなら、わたしが要約してアップしてしまうことはできます(笑)。勿論わたしの"筆力"に一任ってことになります(大笑)。
2.心理学者に研究させて発表したら,の件で、「『血液型と性格に関係がある』というのはABOFANさんによる分析であって,心理学者による分析ではありません.」とのことですが、そんな条件を満たすのは簡単です。例えば、私が心理学会に入会すれば、「血液型と性格は関係ある」というのは「心理学者の分析」になってしまいます。それで認めてくれるというなら話は簡単なのですが…。
実は、もっと簡単な方法もあります。確か、学会には決まった定義はないはずで、登記も必要ではないはずです(たぶん…)。だから、私と仲間で「日本血液型心理学会」でも設立すれば、「血液型と性格は関係ある」というのは「心理学者の分析」になってしまいます。本当にこれでいいのですか?
待てよ、海外の心理学者の研究では、「血液型と性格に関係がある」というのはいくらでもありましたね…。
また話が脱線しますが、(日本の)心理学者は、必ず「血液型と性格は関係ない」ということを行動で示しているわけです。つまり、(日本の)心理学者という「状況」が決まれば、必ず「血液型と性格が関係ない」という「行動」を示すことになります。これって、「首尾一貫性」の例にはならないのでしょうか? はて?
ABOFANへの手紙(8)
風邪と,それに伴う胃腸障害で大変苦しんでいます.毎日ほとんど果物とヨーグルトのようなものしか食べられず,体重も4キロも減ってしまいました.それでも今日はだいぶ気分が良くなってきたので,そろそろ議論に復帰したいと思います.
さて「私の返事(その7)」でABOFANさんが主張された「性格の実在証明」の手続はあまりにバカバカしいし,私とABOFANさんとの議論とも関係ないので無視してもいいと思います.
でも一応指摘しておけば,「質問紙の項目への回答」という「行動」とその他のさまざまな行動との間に関係があるのは当然ですが,そのことと,その「質問紙が測定すると主張する構成概念と行動との関係」との間には深くて暗い川があります.
たとえば「資源保護態度尺度」という質問紙の中に「使わない部屋の電気を消す」という項目があるとします.その項目への回答と「実際に使わない部屋の電気を消すかどうか」との間には一定の相関があるでしょう.その結果,「資源保護態度尺度」の得点は電気を消す行動をある程度予測できることになります.しかし,このことから「資源保護態度というものがあって,それが電気を消す行動を生み出している」と言えるでしょうか.項目と行動との相関は,その項目が含まれる尺度全体が対応させられている概念と行動との関係とは独立のものです(注1).
また,ランダムサンプリングの問題もABOFANさんの誤解です.独立変数と従属変数との関係が直線でなかったり,独立変数によって分割される群間で従属変数の分布が異なったりするときにはそれに見合った統計を使えばいいだけの話で,その場合もランダムサンプリングしてなければ検定には意味ありません.
それに「血液型ごとの差が(比較的)小さいからサンプルが等質な方が」というのはあまりにもデタラメな話で,差が小さい場合はサンプル数を増やして検出力を上げるのが常道です.どんなに小さくても本当に差があるならサンプル数を増やしても安定して検出され,有意水準は向上するはずですよね.また,大学生などが「等質」だという考え方は心理学者並み(笑)に乱暴で私もハラヒレホレハレです.
そもそも,私が性格の実在証明のために求めているのは「実際の行動が状況と独立に規則性を示す」証拠であって,「実際の行動が質問紙と相関している」証拠ではありません.前者が証明された上で,その規則性と性格検査との間に相関があるというならともかく,単に質問紙への反応と実際の行動が相関するということだけならそれは環境要因の影響によっても生じうることで,性格の実在とは何ら関係のないことです.
それとも,ABOFANさんはなにか全く違う問題を論じているのですか?
(注1)このことについては以下の論文に詳しく述べました.
佐藤達哉・渡邊芳之「パーソナリティの測査」,
大淵憲一・堀毛一也編「パーソナリティと対人行動」
(対人行動学研究シリーズ5)の第10章 誠信書房
1.「データ」の問題
さて,今日はデータの問題についてお話ししたいと思います.ABOFANさんは繰り返し「渡邊さんはデータを重視しない」という表現をされています.私はそのつど「そういうことじゃないんだけどなあ」と思いながら,他の議論に紛れてきちんと反論できずにいました.これ,とても大事なことなのでこの辺でちゃんとしておきたいと思います.
確かに私は「血液型論争」については血液型側が提出しているデータにも,反血液型側(心理学者)が提出しているデータにもほとんど興味がありません.そういう意味ではABOFANさんがわざわざこのHPを作って展開している議論の大半に興味がないことになり,それがABOFANさんと私の議論がうまくかみ合わない主な理由でしょう.
しかし,そのことと私がデータを重視しないということは全く別です.私は心理学者で,心理学が他の人文諸科学に対して持っている最大のアドバンテージはデータを取るということ,データに基づいてものを言えるということだと思っています.つまり,心理学の良さというのは,思弁だけに頼らずデータを取り,データを使うということだと考えています.その意味で,データは心理学の主要構成要素で,重視しないなどということはありえません.
しかし,データが大切だということと,どのようなデータでも重視することとは違います.ある研究がなんらかの問題や対象について,なにかを実証するためにデータを採るとき,データはなによりもまず,問題や対象を適切に捉えることができるような方法で,適切な手続に基づいて収集されなければなりません.不適切な方法で,不適切に収集されたデータには,なんの意味もありませんし,そうしたダメデータをいかに高級な統計手法で分析したところで,その結果はなにも示すことができません.
大学生の学力を大学ごとで比較したいときに,
(1)学生に直接学力テストを実施したデータ
(2)学生自身に(自分がどのくらいの学力と思うか)評定してもらったデータ
(3)大学教員に自分の学生について評定してもらったデータ
(4)大学の周囲の住民に評定してもらったデータ
の4種類があるとします.
どのデータも,なんらかのかたちで学生の学力を反映しているでしょうから,どれを使っても大学間の比較はできるでしょう.しかし,(2)から(4)の評定データはあくまでも間接的なもので,最初から多くの誤差要因を含んでいます.これらのデータをいくら細かく統計分析しても,「学生の学力を知る」という目的については,最初から限界があるのです(注1).この目的のために最も適切なデータは(1)であり,最初からそれを手に入れてそのデータから話をしなければ,どうにもなりません.
また,(1)が採れるのなら,少なくともこの研究目的においては(2)〜(3)のデータは必要ないし,考慮する必要もありません.
同時に(1)のデータであれば統計技法などほとんど気にしないで,それこそ記述統計レベル,テスト得点の平均値の差だけで分析が終わります.複雑な統計が必要になるのは(2)以降のデータを分析する場合でしょう.
(注1)もちろん,「成績についての学生の自己認知を知る」とか「学生の学力について周囲の住民はどう感じているか」といった違った分析目的のためのデータとしては,それぞれのデータはそれぞれの意味を持ちます.
2.心理学と「データ」と「統計」
つまり,心理学研究では最初から問題や対象にあった良いデータを得ることが一番大切で,それができれば統計なんてごく単純なもので十分なのです.良いデータが得られないと,複雑な統計に頼らなくてはならなくなったり,もっとひどい場合,統計手法や統計手続きの議論がまるで研究そのものであるかのような醜態をさらすことになります.
その点では統計というのは心理学の研究手法のごく一部を支えるものに過ぎません.
それが現在のように大きな顔をしているのは,まず心理学者が「最初から良いデータを手に入れる」という努力を放棄して安易な評定&質問紙データに依存しすぎ,その結果あふれかえったクズ含有量の高いデータの「純化」あるいは「再処理」のために因子分析とか最近では共分散構造分析(名前聞いただけで笑っちゃう!)とかいった高級(しかし脆弱な)統計に頼るようになってしまったからです.
大切なのはデータを採る前に,その仮説を検証する(実態を分析する)ためにはどのようなデータが最適か,最適なデータを採るためにはどのような方法がふさわしいかということをきちんと考察した上でデータを採ることなのですが,現在の心理学者の多くはこういったことをほとんど教育されていません.
とにかく質問紙を作ってデータを採れ,採ってしまえば後から統計でなんとでもなるべや(北海道弁)というのが学部の卒論レベルから始まる「心理学研究法」の実態.
「きちんとデータを採る」という心理学の神聖な前提が「なんでもいいから採って統計でなんとかする」に堕落し,その結果「データを扱う」という壮大な問題が「統計の使い方」という技術論に矮小化されてしまう.だから今の心理学者の多くは統計には詳しいけれど「データの良し悪し」という基本的な問題についての判断力を持っていないのです.
ここでやっと本題に近づきますが,「血液型と性格に関係がある」の問題も,わたしから見れば「データが悪くて話にならない」チャンチャン,で終わる話です.なにかと性格を関係づけるときに必要かつ適切なデータは質問紙データではないのです.じゃあどういうデータが適切か,ということは前に述べたとおりです.
ところが,性格心理学もデータが悪い.一貫性論争というのは一言でまとめれば「性格心理学が依拠しているデータは適切なのか」という論争ですし,論争の結論は「今までのデータは悪い」ということでした.しかし性格心理学が全く反省せずに旧態依然のデータでいまも営業していることはご存じの通りです.それでは血液型のデータが悪いとは言えない(というより,悪いとは気が付かない).それでサンプリングだとか統計技法の間違いとかクダラナイレベルでしか血液型に反論できないのです.
ところで,ABOFANさん気が付いているかどうかわかりませんが,血液型に反対する論調を繰り広げている心理学者は,大村先生を除いては「性格心理学者」ではありません.わたしが性格心理学者だなど,ここまで読んでくださった方は誰も認めないでしょう(笑).だったらみんな血液型データの「データの悪さ」に気づくかというと,そうでもないようです.前にも言ったように「データの良し悪し」を見る目を心理学教育の中で養われていないからだと思います.それでやっぱり「得意分野」の統計で反論しようとする.それで反論できなくなると黙る(らしい).情けない限りです.
まあ,名指しはしませんがこのHPにも登場する一部の人はとっくに「血液型も性格心理学もどっちもデータが悪くて話にならない」ことに気づいているけど(そういう話は個人的にはしたことありますよ),それを公言するほどアホ,または親切であるのは渡邊だけということもあるでしょう.
いずれにしても,わたしが血液型問題でABOFANさんがデータについて論じることに興味を示さないのは,別にデータに興味がないからではなくて,そこで出てくるデータが,血液型側のものであれ,心理学者側のものであれ,この問題を本質的に議論する上で適切なものではないと考えているからです.
わたしはダメデータに基づいた議論など,どちらにも付く気はありません.それより,血液型と性格の関係をほんとに実証したいんだったらもっと良いデータを採って,それで議論しようよ,といってるのがこの前からの議論でした.そして,良いデータを採って示す責任があるのは,仮説を提唱している血液型の側だよ,というのも何度も論じたことです.
3.ふたたび「客観性」の問題
もちろん,性格心理学的なデータをこれまで価値があると「認定」してきたのは心理学のディシプリンです.このように,ある程度の時間や変化を経れば明らかに疑問視されるようなことを,あるディシプリンが「正しい」と認め,それに基づいて研究が進められていくことはいくらでもあります.そして,そのディシプリンの中ではそれが「客観性」なのです.くりかえしますが,少なくとも心理学の中では性格心理学みたいなやりかただって,つい最近までは客観性と反証可能性のある方法だと信じられていたのです.
わたしが「客観性を信じること」を「宗教」と言ったのはそういう意味です.なにが客観性・反証可能性なのかということは,学問のディシプリンや時代の変化によっていくらでも変わりうるのです.それを,客観性とか反証可能性といったものが普遍的なものとして存在するように思うのは宗教だし,そういう考え方だと,心理学なら心理学が「これが客観性だ」と主張するものを全く疑わず,盲信する傾向が生まれます.
これは何度言っても言い足りませんが,「科学」は人類が行なってきたさまざまな営みのひとつであり,それ以上でも,それ以下でもありません.科学がたとえば文学や芸術とはちがったなんらかの優位性を持っており,それが「客観性と反証可能性」だというような考え方は,子どもに科学教育をするときの方便としてならともかく,現在まじめにものを考える人たちの間ではもはや決して受け入れられない思想です.
文学には小説とはこういうもので,こう書くべきだ,とか,こういった種類の文学は詩歌に分類するとかいったディシプリンがありますし,芸術には遠近法とか色彩技法といったディシプリンがあります.客観性と反証可能性もそういったものとなにも変わらない,科学というひとつの村の中だけで通用する慣習に過ぎませんし,慣習の中身や用法は時代の流れに応じて変わっていくものです.だから,それを普遍的なもののように思うのは盲信につながります.
付記1 相対性理論は「厳密にしただけのもの」?
> 相対性理論はニュートン力学の理論を厳密にしただけのものなので、それ以上でも以下
> でもありません。量子力学も同様です。
> ......
> しかし、日常的な範囲では、ニュートン力学で十分間に合うのです。
これ,物理学者が見たら泣くでしょうね.たしかに「相対性理論はニュートン力学の理論を厳密にしただけのもの」とも言えるでしょうが,「厳密にした」というのは,測定の小数点を増やしたとか,力学的予測の精度を上げたとかいうことではありません.相対性理論が厳密にしたのは「従来のニュートン力学による説明や予測が成立する条件,または,成立しない条件」なのです.
相対性理論が出てくるまでは,私たちはニュートン力学は時間と空間を越えて適用可能な普遍的原理と考えてきました.ところが相対性理論は「ニュートン力学が通用しない時間や空間」の存在を論証し,それまで普遍と考えられてきたニュートン力学に「それが成立する条件」を与えたのです.量子力学も同じです.いいですか,なにかが普遍であるのと,その成立に一定の条件があることとは,天と地ほども違います.
ニュートン力学が日常的な範囲で役立つのは,われわれの日常的な範囲ではニュートン力学が成立する条件がすべて整っているからです.だから,素人は世界は普遍的なニュートン力学で動いていると思っていてもなんの問題もありません(前提条件の捨象,というのは素人には常に許される誤謬です).でも,世界の有り様を素人よりも詳細に厳密に分析するのが科学者の役目であるなら,私たちはそこに安住することはできないでしょう.
もちろん,普遍と思われていたものの前提条件を明確にすることは,結果として,その概念や説明モデルの適用範囲や予測力も明確に規定することになりますから,全体として,世界の記述と説明という科学の営みは,以前より前進します.前提条件を捨象していたときには見えなかった,世界のより深遠な側面が,そこに見えてくるわけです.
性格の問題もこれによく似ています.素人は性格(とその認知)が成立する前提条件には気づかず,それを捨象して,自分の認知が普遍と一致しているように思っている.
古い心理学も自分たちのデータが不変と一致しているように思っていた.でも新しい心理学はその前提条件を明確にし,性格に関するより厳密で科学的な分析を可能にしようとしている,ということです.
付記2 反証可能性は「私が反証できること」ではない.
> なぜなら、この実験は予算がないので1回しかできないからです。つまり、客観性はあ
> りますが、反証可能性がないのです。
これは冗談だと思いたい.反証可能性というのはふつう「現在その科学がもっている方法の範囲で反証可能であること」であることを指し,反証のための実験が実施できるかどうかを指すわけではありません.ですから,反証可能性があることと実際に反証される(された)こととは明確に区別されます.
したがって,反証のための方法が明確にでき,かつそれが論理的に実行可能であるときには反証可能性があるのであって,反証のための研究が社会経済的に実行可能かどうかは別の問題.仮説の提唱者に求められるのは「反証の方法が論理的に明確化できること」であって,それが現実に実行できるという担保は不要です.したがって上記のような場合は「反証可能であるが反証のための研究が実行できない」とすべきです.
ただ,その「実行できない」もふつうはその科学やそれを包含する社会経済体制全体の状況から言って実行できない場合だけを指すでしょう.たとえば「月にはウサギが住んでいる」という仮説は月に行って調べれば反証できますから反証可能です.しかし,月ロケットがない時代には月に行くことは絶対に不可能でしたから,この仮説は「反証可能だが反証が実行できない」ものだったでしょう.しかし,月ロケットが開発された現在ではこの仮説は「反証可能かつ反証が実証可能」で,結果として月にはウサギはいないと多くの人が信じています.
ここで,「私には月ロケットを打ち上げる費用がないからそれを反証できない,だからその仮説には反証可能性がない」と言うのがナンセンスなのはわかりますよね.反証可能性があって,社会経済的に反証可能であれば,もしそれをあなたがやれないにしても,金がある,あるいは能力のある誰かがやればいい話です(注2).それと反証可能性とは無関係です.
もし「私が検証できない」ことで反証可能性がないといえるなら,たとえば私の立場から言えば,アラスカに人が住んでいること,イタリアでは食事の時間が長いこと,ニューギニアには裸に近い格好で暮らす人々がいること,独身者より妻帯者の方が飲み屋ではモテること,など,とてもたくさんのことが反証不能になってしまいます(これらは実際にはすべて反証可能です).
では,反証可能性がないというのはどういうのをいうのか.それは,現在その科学が持っている方法の範囲では反証の方法を論理的に明確にできず,その結果として有効な反証の手段がないような言説のことです.「私の心の中の悪魔が罪を犯させるのだ」といった言説では,「心の中の悪魔」を明確に定義し,観測することが現在のところ不可能なので反証不能です.同様にさまざまな心的概念を用いる心理学理論の多くも,心的概念が定義不能,観測不能(注3)なので反証不能なものがほとんどです.
血液型と性格に関係がある,という仮説も現在の心理学では「性格」が観測不能な状態に置かれているので,検証不能です.もちろん,私が前に述べたような方法をきちんと採れば性格が観測可能になるので,この仮説も検証可能になります.
(注2)金のある誰か そういう意味で私はABOFANさんに個人的に金のかかる研究をしろと言っているのではなく,「血液型陣営」のお金を集めたら,と言っているのです.能見さんが本当に自信があるのなら,お金出してくれませんかね.ABOFANさんから能見さんには連絡のルートはないのですか?(この質問は確か前にもしましたが,まだ答えてもらっていないので...)
(注3)心的概念が反証不能 観測されているのはそれについての言語報告だけで,言語報告と心的概念そのものとの対応はなにによっても保証されないから.
手紙(8)の追伸 私が心理学者になっても.(by 森高千里)
前回(前々回?)の「私の返事(その7)追記の2」の中でABOFANさんは以下のように述べています.
> 2.心理学者に研究させて発表したら,の件で、「『血液型と性格に関係がある』とい
> うのはABOFANさんによる分析であって,心理学者による分析ではあり
> ません.」とのことですが、そんな条件を満たすのは簡単です。例えば、私が心理学会
> に入会すれば、「血液型と性格は関係ある」というのは「心理学者の分析」に
> なってしまいます。それで認めてくれるというなら話は簡単なのですが…。
残念ながら,私が論じていたのは「心理学者が無視する理由にしやすい条件」であって,それがクリアされても無視されなくなるだけで,すぐに主張の内容が認められるわけではありません.ただ,ABOFANさんが学会に入り,その研究成果を学会発表などされれば,無視はされなくなると思います.ただし,そうなれば私もふくめ心理学者みな手加減なしですからけっこう厳しいことになりますよ.でも,本当に心理学者に認めさせたいならこれは近道.推薦者くらい私が喜んでなります.
ただ,心理学会に入れば心理学者と認められるかというのは難しい問題です.「心理学者」社会の一番のコアの部分は,大学の心理学科を出て,心理学の大学院を出て,大学で心理学を教えている人たちで,この条件から外れれば外れるほど,外様になります.私は学部は心理学じゃないですが,それだけでもハンデ感じることはあります.
そういう意味で,コアに近いほど「変わった説」を出してもデータがちゃんとしていれば受け入れやすいし,逆にコアから遠ざかると「普通の研究」じゃないと受け入れられなくなる傾向はありますね.そういう意味でも金だけ用意して心理学者に研究させるというプランが現実的と思うのです.
> 実は、もっと簡単な方法もあります。確か、学会には決まった定義はないはずで、登
> 記も必要ではないはずです(たぶん…)。だから、私と仲間で「日本血液型心
> 理学会」でも設立すれば、「血液型と性格は関係ある」というのは「心理学者の分析」
> になってしまいます。本当にこれでいいのですか?
これはだめですね.学会はいちおう「日本学術会議」登録かどうかでまともかどうか判断され,登録されるには一定数の学者の会員と機関誌の発行などまあ素人にはクリアできない条件がいろいろあります.われわれが「性○心理学会」をでっち上げたときもそれなりに大変でした.学者世界の自己防衛ラインもけっこうしっかりしてるんですよ(笑).
> 待てよ、海外の心理学者の研究では、「血液型と性格に関係がある」というのはいく
> らでもありましたね…。
いくらでもというほどじゃあないですね.それに,アイゼンク以外は心理学者なのかなあ? たしかにどれも血液型と性格の関係を傍証はしているかも知れないが,血液型と性格を直接扱っているのはアイゼンクだけでしたよね.アイゼンクがやってるのがまずかった(笑).アイゼンクの論文は前提になっている性格理論が独特のへんてこなもので,世界的にも,日本でも最近はあまり本気で考える人が少なくなってしまっているのです.私は個人的には大好きで,かなり評価しているのですが.あと,確かアイゼンクは生まれた星座と性格に関係があるというような論文も書いていました(これはうろおぼえ,違っていたら誰か指摘してください).やっぱり,性格占いのたぐいは当たるのでしょうか(笑).
> また話が脱線しますが、(日本の)心理学者は、必ず「血液型と性格は関係ない」と
> いうことを行動で示しているわけです。つまり、(日本の)心理学者という
> 「状況」が決まれば、必ず「血液型と性格が関係ない」という「行動」を示すことにな
> ります。これって、「首尾一貫性」の例にはならないのでしょうか? はて?
大村先生がよく私に「君たちは性格に一貫性がないとずっと主張している,その行動に一貫性があるじゃないか」といいますが,それと同じ話ですね(笑).首尾一貫性の問題はあとで改めてやるつもりですが,首尾一貫性はたしかに存在しますし,ここで挙げられている例はそれを例証する良いサンプルでしょう.ただし,首尾一貫性が存在することと,首尾一貫性の説明としてMischelなどが論じていることが正しいことは別です.端的に言えば,人の行動に首尾一貫性を生み出している主な力は実際には環境・状況であり,内的な認知システム(Mischel)や血液型などの人の側の要因ではないということです.この問題はまた詳しくやりましょう.
今年もインフルエンザが流行しているようです。幸いなことにインフルエンザではなかったのですか? いずれせよ、お大事にしてください。
さて、今日は時間がないので簡単にお答えします。
>
項目と行動との相関は,その項目が含まれる尺度全体が対応させられている概念と
> 行動との関係とは独立のものです.
ご紹介の文献は読んでいませんが、ミシェルの"Personality and Assessment"や手元の渡邊さんの論文によると、性格検査が行動を予測できないという根拠は、項目と行動に相関がないというのが最大の理由だったと思います。今回のケースでは、項目と行動に相関がある(?)のですから、その意味では行動を予測できることになる…はずです。ましてや、血液型は概念や尺度とは関係ありませんから、行動を予測できることになる…はずです。
ランダムサンプリングについては、他のケースでも心理学ではそのような検定方法をしているようですね。非常に特殊な例だと思います。と言うか、こんな使い方をするのは心理学ぐらいだと思いますが…。
「差が小さい場合はサンプル数を増やして検出力を上げるのが常道です.」ということですが、おっしゃるとおり心理学者のデータはサンプル数が少なくて意味がないケースが多いようです…。具体例は失礼なのでここには書きません。(^^;;
大学生が、ランダムサンプリングのデータより均質なのは言うまでもないでしょう。学力、社会的地位、年齢…。血液型のデータでも、「均質」であることは実証されています。
1.「データ」の問題
一般論としては同感です。具体例が出てくればコメントするつもりです。その場合は、渡邊さんと意見が違うかもしれません。
2.心理学と「データ」と「統計」
では、具体的にどういうデータの取り方がいいのかご教示ください。
3.ふたたび「客観性」の問題
我々の間に、何らかの「客観性」や「基準」がなければ議論しようがないのではないのでしょうか?
付記1についてですが、我々は物理学者ではないので、ここで物理学の議論をしてもあまり意味がないと思います。(^^;; ただ、ちょっと書いておくと、ニュートン力学でも、相対性理論でも、量子力学でも適用範囲は有限です。そういう意味では普遍的な物理学の理論はありません。
付記2については、現時点で反証可能性がないならば、(少なくとも現時点では)科学的に正しいとも間違っているとも言えないはずです。現に、相対性理論もそういう扱いを受けてきました。ご存じのように、アインシュタインはノーベル賞を受賞しましたが、それは相対性理論によってではなく、光量子効果であることはあまりにも有名なエピソードです。なぜなら、相対性理論はその時代の科学技術では反証可能性がなかったからです。
注2についてですが、私と能見俊賢さんとは、直接のコンタクトはありません。
追伸についてです。心理学会に入っても無視される可能性が高いということであれば、メリットがないので止めます(笑)。
血液型と性格を直接扱っているのは、アイゼンクだけではなくて、キャッテルやSwan、Jogawarもいますね。プールデルもそうですが、この人の論文はフランス語らしいのでわかりません。(^^;; 私の知っている海外の文献を挙げておきます(心理学者以外のものもあります)。
星座と性格を研究したのはユングですね。アイゼンクはどうなのかなぁ。ゴークランもそうですが、この人はかなり怪しいようです。(^^;;
ABOFANへの手紙(9)
最近のABOFANさんの「反論」はどうもパワーに欠けますね.やはりABOFANさんも体調が悪いか,それともこの議論に飽きてきているのかな.どの反論も明らかに誤解だったり,間違っていたり,再反論する方もあまり意欲がわきません.ひとつひとつ「これは,こう,これは,こう」とやっていってもいいのですが,ちょっと面倒だなあ.
ただ,ABOFANさんと私が微妙に違う読者を想定して,それぞれ自分の想定する「読者」相手の議論をしているのがだんだんはっきりしてきて面白いです.
昨日の英文論文リストなど,これは今までいろいろなところで示されていてわざわざあげる必要はないと思うのですが,ここでABOFANさんがこれを敢えて挙げるのは,「しろうと」読者相手に外国でもこんなに研究があるぞ,とアピールする,もっと意地悪を言えば英語ならなんとなく信頼性を置いちゃうような読者が対象ですよね.
私が相手だとすれば,これらの論文については私は以前からアクセス可能だし,英語で書いてあろうがフランス語で書いてあろうが,クダラナイ論文はクダラナイ論文で,全くどうでもよいことです(注1,注2).
私はと言えば,かなり心理学者を相手に書いているところがあります.もうはっきり言ってしまってもいいと思いますが,ABOFANさんが持っている科学観,心理学観みたいなものは,現在の多くの心理学者が持っているそれと,かなり一致しています.何度も言っているように,ABOFANさんの「論理」と「方法」はもし心理学者がそれを用いて研究したなら,じゅうぶん研究として認められるものだし,その意味でいまの心理学そのものです.
その点で,私はABOFANさんが求めているようなタイプの議論(統計の方法どっちが正しい,とかね)においては,「現在の性格心理学の水準では」実質的にABOFANさんの議論が正しい,と認めているつもりです.だから,今の心理学が血液型を否定できないのは当然のこと,これも前に書きました.
しかし,ABOFANさんの論理や方法が持っている問題点は,いまの心理学が持っている問題点そのものです.たしかに,ABOFANさんは心理学者(まあ性格心理学者と限定しておきます)の一般レベルは軽くクリアしている(注3).しかし私に言わせればその「一般レベル」は「科学者」としては低すぎるのです.性格心理学をもうちょっとまともな「科学」にするためには,ABOFANさんを相手に議論しても,性格心理学者を相手に議論しても,内容はほとんど同じになってしまいます.
私はそういうスタンスで今後も議論を続けて行くつもりですが,それがもしABOFANさんから見てもはや興味のわかないものであるなら,いつでもうち切ってもらって結構です.
「渡邊みたいなうるさいやつはいても,基本的に心理学一般から見たら自分がそんなに間違ってないとわかったんだから,もうこれでいいや」とABOFANさんが結論することは自由なのです.ただし,その場合はこれからABOFANさん(そして血液型性格学)は従来型性格心理学と同じ末路をたどる仲間ということになりますが(笑).
また,うち切る場合にはABOFANさんがこの場できちんとうち切る理由を説明してくださることを希望します.別にうち切られることを前提にしているわけではありませんが(笑).
(注1)論文リストを見てちょっと気になったのは,ごく一部を除いて,掲載雑誌が査読のない(投稿すればすべて載る,あるいは金を払えばすべて載る)雑誌であることです.もちろんそうした雑誌に良い論文が載ることもありますが,一般にはこうしたものは二流とされます.まあ私も二流メディアの論文が多いのですが,それは今の心理学ではデータを取らない研究や理論研究が一流メディアに載りにくいからです.リストに挙げられた研究はどれもきちんと(?)データを取っているのに,どうしてもっとまともな雑誌に掲載されないのでしょうか.不思議です.
(注2)英文論文リストについてもう一言いえば,血液型と知能とか,血液型と精神病とか,血液型と社会階層とかいった論文は,「血液型と性格」というここでの議論と関係ないので除外すべきです.「知能と関係あるんだから性格とも...」みたいな傍証論理は素人独特の誤謬で,ふつうの科学では採用しません.前にも言ったように,竹内久美子さんの本の最大の問題は,こうした傍証だけで論理を展開していることです.その点であれは私から見ても「トンデモ本」です.
(注3)従来型心理学ディシプリンのエッセンスである「統計」において,ABOFANさんより理解度が低い心理学者が間違いなくいることを見ても,これは明らかでしょう.
1.いくつかの大切な問題
パワーがないとはいっても,ABOFANさんの「返事」には今回もいくつかの大切な問題が含まれています.それについてはきちんとしておきます.
> では、具体的にどういうデータの取り方がいいのかご教示ください。
正しいデータを採るには,まず対象をきちんと定義する必要があります.性格と血液型の関係を知りたいのなら,対象は「血液型」と「性格」ですよね.まず血液型を定義しましょう.
血液型検査で検出される個人差? よろしい.では血液型検査にはいろいろありますが,どれを取りますか? その根拠は? 一定の根拠でABO式を選ぶならば,それでよろしい.(RH式とか,他のを選ばないのはABOFANさん的にはどうしてですか?)確かに血液型は構成概念とか尺度値じゃないので簡単ですね.
では性格はどうしますか? ABOFANさんは性格をどう定義しますか? ABOFANさんにとって「性格」とはどのような具体的に観測可能な事実と対応するのでしょうか? それが決まらなければ,そもそも客観性とか反証可能性とかいう議論にならないのではありませんか?
私は前に「性格とは行動に現れる個人独特の持続したパターンである」とはっきり定義しました.ですから,それをできるだけ直接に観測して,それを研究のためのデータにしようと考えます.その意味で質問紙や評定尺度は間接的で,誤差要因が多すぎるので採用しません.
もしABOFANさんが「性格とは性格検査の結果である」と定義するなら,それはそれでいいのです.もしそうなら,私とABOFANさんの議論は「性格の定義」に関するものになり,データの議論は全くする必要がなくなります.いっぽう,ABOFANさんも「性格とは行動に現れる個人独特の持続したパターンである」という私の定義に同意するなら,そこではデータの採り方の議論,具体的には「性格検査・質問紙・評定法で性格は測れるのか」「性格検査がダメなら,どういう方法がいいのか」という議論になります.また,ABOFANさんが性格の第3の定義を提出するなら,また定義についての議論になります.
> 我々の間に、何らかの「客観性」や「基準」がなければ議論しようがないのではない
> のでしょうか?
対象の定義,データの採り方,この二つの議論に決着がついて初めて,具体的なデータによる議論ができます.ここでは,ABOFANさんが対象を明確に定義し,それとABOFANさんの用いる測定法との関係を明確にし,かつそれについて(たとえば私との間に)同意が成立したときに初めて,「客観性」や「基準」に基づいたデータによる議論というものが始まるのです.ここでの議論は全くそのレベルには達していません.
ふつう科学者同士がデータだけで議論可能なのは,そのパラダイムの中で一般的であるような研究テーマでは,対象の定義やデータの採り方についての考えが研究者間で共有されていることが多いからです.その意味でABOFANさんと従来型性格心理学者とではデータだけで話ができるのかもしれません(注4).しかし,私とABOFANさんとの間にはそうした同意がありません.
いいですか,データに基づいた,ABOFANさん式に言う「客観性と反証可能性のある議論」というもの自体が,対象の定義,データの採り方という「データ以前の議論と同意」に依存するものなのです.「性格」というパラダイム変換前夜の複雑で微妙な問題を,ルーティン的な化学実験みたいな単純な世界と同じ論理で考えたり,そこに普遍的な「客観性と反証可能性」みたいなものがあると考えるみたいな子供じみたことはやめましょう.
これに関連して,
> 付記1についてですが、我々は物理学者ではないので、ここで物理学の議論をしてもあ
> まり意味がないと思います。(^^;; ただ、ちょっと書いておくと、ニュートン力学でも
> 、相対性理論でも、量子力学でも適用範囲は有限です。そういう意味では普遍的な物理
> 学の理論はありません。
私は科学の手続きについての議論をしているので,物理学の議論をしているのではありません.
「ただ,ちょっと書いておくと」以下のことを,ABOFANさんはどうしてわかったのですか? 相対性理論や量子力学の出現のおかげではありませんか? ニュートンが自分の力学法則の適用範囲が有限だと言いましたか? 「そういう意味では」とはどういう意味ですか? 「そういう意味」でなければ普遍的な物理学の理論はあるのですか?.........
問えばきりがありませんが,どうもこの問題については私の議論は徒労に終わったようです.かなりがっかりしています.
> 付記2については、現時点で反証可能性がないならば、(少なくとも現時点では)科
> 学的に正しいとも間違っているとも言えないはずです。
まったくその通りです.しかし,正しいとも間違っているともいえないものを「正しい」といっても良いのでしょうか? 素人はそれでもいいです.しかし科学者はそうではありません.現在の科学のひとつの基礎となっている「論理実証主義」の考え方では,科学はまず反証可能性のない仮説は「非科学的命題」として排除し,その上で反証可能性のある仮説だけを検討していき,反証に耐えた仮説だけを「正しい」とします.その意味では,科学者にとっては反証可能性のない仮説は,そのことだけですでに科学理論として「正しくない」のです(注5).
「血液型性格関連仮説」について科学的に議論するためには,なによりも「性格」をきちんと観測し,それについて客観性と反証可能性のあるデータを得る必要があります.現在のところ性格については(心理学側でも,血液型側でも)それが実現されていないので,この仮説は反証不能,したがってABOFANさんが望むように「客観性と反証可能性を持って」血液型と性格に関係があるということはできないのです.
そして,この仮説は科学理論としては検証以前に正しくないということになります(注6).
たとえば私が以前提案したように,性格を「行動のパターン」と明確に定義し,それを行動レベルで直接的に観測する方法を適用するなら,性格は反証可能性を持った概念になり,客観性を持ったデータが得られます.もちろん,私の提案以外の方法でもなんでも良いのですが,とにかく性格を反証可能性を伴って観測できる方法が提出されない限り,この問題は科学的には決着しません.
たしかに,反証可能性がないときには間違っているとも言えないのですが,それは間違いなく「科学理論としては検討に値しない」ということになります.私が血液型性格学を「俗説」とか「俗信」と呼ぶのはそういう意味です.もちろん,心理学が提出している多くの性格理論もその意味では「俗説」です.どちらも,素人が提唱し,信じるのは自由ですが,科学者がそれをまじめに扱う必要はありません.
> 星座と性格を研究したのはユングですね。アイゼンクはどうなのかなぁ。
ユングのも確かにありましたが,たしかアイゼンクはこれをABOFANさんの好きな「性格検査・質問紙」で「実証」してたように思うのです.私も調べてみます.
(注4)「話ができる」ことと「実際に話をする」こととはどうも別個であるようですが...
(注5)ABOFANさんの「なぜなら、相対性理論はその時代の科学技術では反証可能性がなかったからです」というのは間違いです.前回も説明したように反証可能性とは論理的なもので,相対性理論についてはそれはクリアされていたから「反証可能だったが,反証できなかった」とすべき.この場合は科学理論として検討可能です.
(注6)もし血液型性格学の主張が「血液型と性格検査の結果に関係がある」とか「血液型と性格認知に関係がある」というものであるなら,これは反証可能な科学的仮説,お得意の質問紙データで前者なら完全に,後者でも一定範囲で検証可能です.
「一定範囲」というのは,「性格認知そのもの」と言語報告(質問紙)がどのくらい相関するか,という条件がつくからですが,これは相関があると認めてもよさそうだからです(正確には,認知とは実は言語報告そのものだからなのですが,これはまた微妙な問題なので...).
2.最大素数さんのメールについて
この前ちょっと私が喜びすぎたせいか,今回の最大素数さんのメールはあえて(?)辛口になっているところが,これまた愛らしく(失礼)読ませていただきました.提起されている問題はどれも本質的なものです.順に考えていきます.
2.1 クレッチマー問題
クレッチマー問題についてはご指摘の点,どれもこれもおっしゃるとおりです.ただ,率直に言うと「クレッチマーのこと俺たちに言われても困っちまうよなあ」という気持ちもあります.私たちが教育を受けた頃でもクレッチマー説は教科書の中だけの話で,きちんと教わったことなどほとんどありませんでしたから,実感がないのです.
あえて否定することはもちろん,クレッチマー理論を厳密化することなど思いつきもしなかったというのが実際です.
とはいえ,これも率直に認めますが,私も教科書を書くときに無批判にクレッチマー説を紹介したことがあります.なぜかというと,編者の大先生&出版社から送られてくる「見出し案」に必ず「類型論〜クレッチマー」と明示されていて,それを省略するのには特に若いときには勇気が必要だったからです.最近は血液型を批判するならクレッチマーも同じであるとはっきり認識していますから,教科書(入門書)では取り上げないか,取り上げることを指定されても批判的に取り上げるようにしていますが(注6).
クレッチマー問題に限らず,教科書(入門書)の心理学と,実際の研究現場が乖離しているというのも,とくに性格心理学では大問題なのですが...今後なんとか改善できるよう努力したいと思います.
(注6)たとえば,心理学者の会21「心理学ほどドキッとする学問はない」PHP研究所,この本の私担当の章(第5章 パーソナリティ)をご覧ください.
2.2 性格の3つの仮説と性格心理学の未来
さて,もう一つの問題.性格に関する3つの仮説の問題も,最大素数さんのおっしゃるとおりです.私が
仮説1 われわれは自分や他者に一貫性を持った性格の存在を感じている(性格認知)
仮説2 人の行動には個人に特有の持続的なパターン(個性)がある(行動上の性格)
の2つの仮説を,
仮説3 行動上の性格は,人の内部にある何らかの実体によって規定される(性格の実体論)
で統合したのは,別に私がそう統合されると思っているわけではなくて,現在の性格心理学パラダイムが仮説3で1と2をむりくりに統合している状態をわかりやすく示すためでした.実際には性格心理学は,互いに関係はある(かもしれない)が,実際にはそれぞれ別個で,全く違った方法によって検討すべき3つの仮説の上に不安定に浮かんでいると考えるべきです.
ただ,従来の性格心理学ではこれらが明確に区別されることはありませんでした.性格検査の理論や用法(仮説1のデータで仮説2の現象を説明・予測しようとし,その理論的根拠を仮説3に置く)を見れば,そのことは明らかでしょう.
ここでの議論も終盤が近づいてきた(と私は感じている)ことだし,多少は「禁じ手」の「将来ビジョン」を述べさせてもらえば,性格心理学の正常化(最大素数さんのことばで言えば「性格心理学がお仕事できるようにすること」)は,この3つの仮説をきちんと区別し,それぞれを明確な手順で研究することから始まるでしょう.
まず仮説1に関して言えば,私たちが日常的に性格に関係する概念を用いて自分や他者の行動を説明・予測していること,そしてその説明・予測が一般に有効であることは,人類が時代や文化を越えてこの種の概念を用いていることからも明らかです.無効な概念ならとっくに使われなくなっているでしょう.このことは,これ自体が重要な事実です.
したがって,そうした事実の実態(人がどんなときに,どのように性格概念を用い,性格概念の利用がどのように機能しているのか)と,そうした事実を支えている前提条件(いつ,どのような条件のもとで性格概念による説明や予測が有効になるのか)についての詳細な分析が必要になります.
その時,性格概念が使われる文脈や状況(物理的環境,社会的環境,その場の人間関係や集団力学)という,これまでの性格心理学が捨象してきた要因が,初めてきちんと扱われることになります.これらの要因はもちろん科学的に扱うことができますが,いずれも具体的な人間関係や社会状況と密着するだけに,文化人類学やフィールドワークの色彩の強い研究分野となります.
私はもともと社会心理学出身で,性格の認知が卒論のテーマでした.ですから個人的には今書いたような研究に一番興味がありますし,こうした研究はすぐにでも始められます.現に,いくつかのテストケースといえるような研究が現われてきていますが,いずれも社会構成主義の影響を大きく受けたものになっているのは当然でしょう.
仮説2は自然科学的な色彩の強い方法で扱われるでしょう.まず,性格を行動レベルできちんと把握する方法が確立され,人の行動にあらわれる経時的に安定した規則性が反証可能な形で観測される必要があります.その上で,そうした規則性に影響する要因を精密に分析していくことで,性格がなにで決まるのかがはじめて科学的な知識として明らかになります.
そうしたデータが状況との関係の中で分析されれば,性格の規則性が状況の規則性に依存するだけのものなのか,状況とは独立に性格に影響する要因が存在するのかは容易に明らかになります.そして,状況以外の独立変数はなんなのか,それと状況がどのように相互作用するのかという問題が,ここではじめて客観的なデータによって分析されることになります.状況以外の独立変数となるのは人の内的なものですが,これは心的概念や「認知過程」などといった反証不能なものではなく,より生物学的・生理学的に特定可能なものでなくてはなりません(遺伝要因が代表的でしょう.血液型もその資格は満たしてますね).
こうした研究は人の行動と環境との相互作用の分析に非常に有効な「行動分析学」のパラダイムを基盤に展開し,そこに認知科学(認知心理学ではない)や行動遺伝学の知識が必要に応じて導入される形をとるでしょう.ただし,これらの研究はどれもここの議論でいう「500万円レベル」のものですし,人手も時間もかかります.今から始めたとして,それなりの成果が出てくるには20〜30年くらいはかかるのではないでしょうか.でも,これがやれれば心理学が初のノーベル賞に輝くかも知れません(マジ).
仮説1についての研究,仮説2についての研究が上記のように進行した上で,はじめて仮説1と仮説2の関係についての研究ができます.性格認知が行動に現われる性格をどのくらい正確に反映できるのかという問題も,仮説2についての客観的研究が成立して初めてきちんと分析できるようになります.
また,現在は心理検査はどうもあてにならないというだけで,どうあてにならないのかもわからないわけですが,性格そのものが客観的に捉えられれば,まず性格検査の有効性を明確にできますし,どうしたら少しでも有効に利用できるのか,ということも,心理検査の基盤になっている性格認知の有効性に影響する先行条件が明確になれば,当然はっきりしてくるでしょう.
仮説3の問題は,そのまた先にあります.私が生きているうちにそれについてなにかを知ることができるのでしょうか.....
心理学者渡邊芳之は性格心理学の未来にこのような夢を見ているのでした.
2.3 性格と性格表現の問題
> 心理学者(の内の"否定派"と限るべきか?笑)の基本的な認識として、ある「特有の持
> 続的なパターン」には、それに"対応"する要素(そのパターンの原因となるナニカ)が
> あり、それは唯一無二の一対一対応である、というような大前提があるような気がして
> しょうがないのです。血液型云々という前に、意識の奥では同じ心情なのに違う行動を
> してしまう、ってことはよくあったし、今もあり、逆に(殆ど)同じ行動でも心持ちの
> 有り様は全く別、ってこともよくあったし、今もあるわけです。
これはG.W.オールポートも主張している,性格心理学上の大問題です.つまり,性格は行動の「意味」なのであって,行動そのものと一対一対応するようなものではないという主張です.キャッテル以後の「統計化」性格心理学はこの問題をどうにもできず,そのままになっています.いわばクレッチマー並みの積み残し問題.
この問題への対応のひとつめは,性格を人間の意識の中にある意味構造とか,現象学的な領域に持っていってしまうこと.この場合,性格が科学的な検討の対象になるという性格心理学の前提自体が留保されます(俺はけっこうそれが一番シンプルかもと思うけどね).
ふたつ目は,個々の行動が単独に性格を構成するのではなくて,その機能によってグループ化された行動のユニットが性格を構成するという,アイゼンク的な階層構造を考える方法.オールポートの例を借りれば「自分の本を大切にする」という行動と「人の本は粗末にする」という行動が「利己的」という行動ユニットを形成し,それが性格全体の構成要素になっている,という考え方.しかしどういう基準で行動はユニット化されるのか?
最後は,原型(性格)と表現型(性格表現)という因果を考えず,「性格表現」としての矛盾する行動群は「行動の原理」で環境との関係においてそれぞれ形成され,それをひとつの「性格」に統合してみるかみないか,どう統合するかは「性格認知の原理」でそれはそれとして決定されるという考え方.「利己的な性格」が2つの行動を同時に生み出すと考えるのではなく,ふたつの行動が認知レベルで「利己的」というラベルでまとめられるにすぎない,という考え方.
どれも明確な答えではないです.こういうのどう考えたらいいのか今の心理学ではまだわからないというのが一番誠実な答えです.ただ,性格を客観的に捉える方法が,行動レベルの直接測定しかない,という点はそれでも変わらないと思います.それが適用できないのなら,性格そのものが客観的に把握不能である,と結論するしかないでしょう.
また,意識の上では同じなのに違う行動とか,同じ行動なのに意識の上では違うとか言うとき,ふつう「意識が勘違いしてるだけで実は単にまったく違う行動」とか,「あらゆる意味で同じ行動を意識だけが勝手に違う意味にとっている」とかいった可能性を考えることはないですよね.私はその可能性も含めて分析すべきと思います.
意識が行動を決めているとか,意識が必ず行動に先行するとかいう常識にも根拠はないんですよー.
2.4 病前性格の問題
> データ研究だけではなく、「病前性格」についての研究ってどうなっているのでしょう
> 。これが否定されたら体質と精神病の関係がどうでも性格類型論としては破産してしま
> う筈ですが、どうもそういう結果は出ていないようです。では、ちゃんと確認されたの
> でしょうか....
いつも良いところ突いてきますね(笑).一応説明しておくと,病前性格とは精神病の患者さんが,その病気が発病する前から病気の種類に応じて一定の(多くはあまり望ましくない)性格特徴を示すことです.典型的なのが精神分裂病における「神経質」などです.
これもクレッチマーの類型論と同じく,精神科医たちが経験的に主張してきたことで,明確な根拠はありません.しかし,一般的には体格と同じく,遺伝的な精神病質の現われとして,病前性格も遺伝的に現われるもの,と考えられることが多いようです.
ただ,これが否定されると体質と精神病の関係が破産する,という性質のものではないと思います.最近では病前性格も必ずしも遺伝的な精神病質から直接的に生じるものではないと考えられるようになってきているからです.
たとえば,精神分裂病は一定の確率で親から子へ遺伝します.しかし,病気が遺伝するということは,その遺伝要因が親から子供へ受け継がれるというだけではなく,病因を持った親によって,病因を持ったこどもが育てられる,ということも意味します.
つまり,病前性格は遺伝的に形成されるだけでなく,その病気を持った親,病的性格を持った親に養育されることによって,後天的に形成される部分もあると考えられるのです.
ですから,たとえば精神病質は体質と密接に結びつきながら遺伝するけれども,病前性格自体は精神病質の親による養育によって,遺伝とは別個に親から子に受け継がれていると考えれば,もしある条件(たとえば実の親に養育されないなど)のもとでは病前性格が発現しなくても,精神病の遺伝自体が否定されたことにはならないわけです.
ただこのへんは非常に複雑に絡み合った問題で,遺伝の問題はともかく病前性格が精神病の発病に大きく寄与していることは明らかです.つまり,精神病の遺伝を持っている人は,遺伝の力と,病前性格が原因となるさまざまなストレス(注7)との相互作用で精神病の発病が促されることが多いのです.ただ,以前は病前性格にも遺伝の影響が強いと考えられていたので,このことはしかたのないこと,と考えられてきました.
最近では病前性格の後天性が多少は考えられ,精神科医療の現場ではとくに精神病治療後に社会復帰を目指す人たちを対象に,病前性格(この場合正確には病後性格ですが)の問題点をきちんと教え,それを改善する訓練を行なうことで社会的ストレスを減らし,病気の再発を防ごうという「生活技能訓練(SST)」(注8)が普及し,健康保険の支給対象にもなっています.
まとめれば,病前性格は必ずしも遺伝するものとは限らない,また,それを修正することで精神病の発病を防ぐようなケアも生まれ始めている,ということです.ちょっと教科書的になってきたので,今日はこれでおしまいです.
(注7)たとえば,神経質で細かいことに気を使いすぎるので仕事が遅く,職場の同僚に責められるとか,コミュニケーションがヘタで約束をうまく断われずすっぽかしてしまって責められるといったことがストレスになります.
(注8)生活技能訓練については「現代のエスプリ」372号「性格のための心理学」所収の私の論文,「SST(生活技能訓練)と性格変容」をご覧ください.
ご丁寧なメールをありがとうございました。また、ご心配ありがとうございます。幸いなことに、体調はまずまずです。(^^)
忙しさにかまけて、確かにその8の返事は不十分なものでした。(^^;;
その分を今回で取り返せたかどうか…。
さて、まずは英語の論文についてです。(私が挙げた?)英語の文献がクダラナイ(?)とのことですが、渡邊さんからは初めて聞いたような気がします。(@_@) それなら、そう初めから言ってもらえればいいのに…。というのは、海外の論文については、私は今までに3回の質問をしているからです。念のために抜粋しておきます。
私の返事(その1)
> 私たち一部の心理学者が血液型性格学に興味を持つのは,それが正しいかどうか,
> ではなくて,それを信じている人がなぜ信じるのか,とか,どうしてそういう俗説が限り
> なく生まれるのか,という点です.私の知っている日本の論文数を数えてみましたが、「正しいかどうか」と「なぜ信じるのか」が半々程度で、「どうしてそういう俗説が限りなく生まれるのか」は少ないという印象を受けました。また、「私たち一部の心理学者」というのは日本だけなのでしょうか? 海外の研究では「正しいかどうか」がほとんどのはずですが…。この文章の根拠は何なのでしょうか?
私の返事(その3)
> 血液型について心理学者がほとんどとりあわないのは,われわれの持っている知識と興味から
> 言ってその仮説を検証する価値があるとは思えないからです.この心理学者のサンプル数はいくつでしょうか? キャッテルなどの海外の心理学者はどうなのでしょうか?
私の返事(その7)追記の2
待てよ、海外の心理学者の研究では、「血液型と性格に関係がある」というのはいくらでもありましたね…。
いずれも、返事はいただいていない…はずです。なるほど、その理由はクダラナイ(?)ということだったのですか…。しかし、ほとんどの心理学者は「海外の研究がない」ことを血液型と性格は関係ないという根拠にしているようです。例として、『現代のエスプリ〜血液型と性格』から引用しておきます(『海外における「血液型と性格」の研究 井口拓自、白佐俊憲)。
あまり知られていない海外の「血液型と性格」の研究
血液型性格判断をめぐる論議の中で、海外では血液型と性格について、ほとんど研究もされていなければ話題にもなっていない、ということがこれまでたびたび書かれてきた。
そして、それは「だからやっぱり血液型と性格など関係はないのだ」という主張を補強する材料となってきたように思われる。「海外でやっていないからまやかしだ」あるいは「海外でやっているから正当だ」といった主張は単なる舶来崇拝主義のようで、あまり説得力のある議論とは思えない。しかし、 その前にまずは事実の確認をしてみることも大切なことだろう。
だから、「英語ならなんとなく信頼性を置いちゃうような読者」というのは、上記の文献によれば(日本の)否定論者や心理学者のことになるようです…。
また、不思議なのは、私が「英語だから信用がおける」と主張しているらしい(?)ということです。そんなことはどこにも書いたつもりはないのですが…。私は、単に海外の心理学者の研究がある、という事実を主張しているだけです。内容がクダラナイ(?)のかどうかとは別の問題のはずですが…。更に不思議なのは、渡邊さんがおっしゃるとおり、「これらの論文については私は以前からアクセス可能」なら、なぜ今まで上記の私からの質問に答えていただけなかったのでしょうか? 忙しいからなのですか?
ついでに書いておけば、一流(二流)の雑誌だから云々というのも、私にはよくわかりません。それなら、わざわざ素人である私のHP上で議論をする意味がないのではないでしょうか???(「査読のない」「投稿すればすべて載る」、しかも無料!…苦笑)。どんなメディアで公開されようが、その主張は内容によって評価されるべきだ、というのがこのHP上での私の考えです。確かに、掲載される雑誌によって、論文の平均的な信頼度には差があるかもしれません。それは否定するつもりもありません。しかし、一流(二流)の雑誌だから云々というのでは、自分の判断を放棄することにはならないのでしょうか? となると、心理学者の○○さんの論文は××に掲載されているから△△だ、と判断されないとも限りません。もっとも、心理学会ではそういう慣習がある(?)ということなら、私は何も言うつもりはありませんが…。
#蛇足ですが、海外では「二流」とされるものでも、日本の「一流」の論文より面白いものが
#多いような気もしないでもありません。あくまでも素人である私の単なる印象ですが…。
>
私はABOFANさんが求めているようなタイプの議論(統計の方法どっちが正しい,とかね)
>
においては,「現在の性格心理学の水準では」実質的にABOFANさんの議論が正しい,と
> 認めているつもりです.
どうもありがとうございます。m(._.)m
> 竹内久美子さんの本の最大の問題は,こうした傍証だけで論理を展開していることです.
これにも驚きました。(@_@) 彼女の最大の問題点は、論理そのものが間違っていることです(失礼!)。ということは、心理学者の誰もこの点に気がついていないということなのでしょうか? もしそうだとすると、心理学者は統計に弱い、という証拠がまた一つ増えたことになるかのもしれません(失礼!)。
なお、議論の打ち切りについては、考えてはいますが結論は出ていません。その際は、何らかの形で今までの議論をまとめて明確にしたいと思っているところです。せっかくの議論がもったいないですから…。
もうすこし時間をいただけるとありがたいです。
1.いくつかの大切な問題
さて、血液型は当然のことながらABO式です(笑)。もちろん、他の血液型を調べても構いません。が、例えば、RH式は日本人ではマイナスの人が約0.6%ですから、マイナスの人のサンプル数が非常に少なくなってしまいます。他の血液型は、調べるのにそれなりの費用(1つの血液型で約1万円ぐらい?)がかかりますから、費用の面でなかなか無理でしょう…。余計なことかもしれませんが、ABO式でも遺伝子型がホモ(AA、BB)かヘテロ(AO、BO)かどうかを調べないのも同じ理由です。調べるにはDNA鑑定が必要になるそうで、費用は1人につき約20万円かかるそうです。(@_@)
次に性格の定義についてです。私の性格の定義については、基本的に能見さんの定義と同じです(『新・血液型人間学』 青春出版社プレイブックス S60.6)。
人間の性格は、生まれつきの、すなわち先天的な気質が、後天的な形成作用を受けて、作られていく。…
気質は前述のように、人間のスタート時点での神経回路の特性といえる。気質も成長につれて、多少の変化が予想されるが、原則として、不変と考えていい。
気質は、そのままでは外部からは、うかがい知れない。外界から何かの刺激が神経回路に加えられると、それに反応し、目に見える行動や表現となって現われてくる。
日常生活での刺激は、一つ一つが異質のものではない。ほぼ一定の刺激の繰り返しが多い。…そうした刺激の反復が、気質の反応に一定の傾向を作る。その傾向の著しいものを、“性格”と言い慣わしているのである。
反復刺激のあり方により、似たような気質、同じ血液型の人でも、性格が違ってくるのは当然である。…“環境の差”というのも、この刺激の合計値の差といえる。だから同じO型に生まれても、大都会に育ったO型と、ジャングルの中で生まれ育ったO型では、まるで性格も違って来よう。一方、同じジャングルで育っても、A型のターザンとB型のターザンでは、文字通り、別人のようになる。血液型と性格の問題は、このように両面から考慮する必要がある。
反復刺激は、人間の場合は、計画的なしつけ、教育・学習、訓練、あるいは自分自身による性格改善の修行、修養など、意図的なものも加わってくる。これらの、自然的・人為的な反復刺激の総合を、後天的影響と総称するのである。
ただし、私が議論をする場合には、原則として相手の定義する「性格」に合わせることにしています。というのは、お互いの定義が違うのでは、議論そのものが成立しないからです。ですから、今回も渡邊さんの定義する「性格」に合わせるつもりだったのですが、私が理解するのには非常に時間がかかることがわかりました(苦笑)。最近、やっと見えてきたという感じがしています。
> 私は前に「性格とは行動に現れる個人独特の持続したパターンである」とはっきり定義しました.
やっと理解できてきたような気がします。そこで、測定法を具体的に説明していただけないでしょうか? 例えば、
今までの議論を読むと、2に近いと思うのですが…。いずれにせよ、このままでは具体的なイメージが湧いてきません。(^^;;
ここで、行動主義への批判があるので引用しておきます(F・クリック 『DNAに魂はあるか』 〜驚異の仮説〜 31〜32ページ 講談社 H7.11)。
ところが、やがて心理学者に不幸な出来事が起こった。心理学者のなかに、意識を概念として取り上げることに利点を認めない動きが出てきたのだ。その根拠となったのは、自己分析の実験では出口がどこにも見えなかったこと、いま1つは、実験者が明瞭に観察できる行動(特に動物の行動)を研究する方が、心理学をより科学的なものにすると思われるようになったからだ。これがいわゆる行動主義の台頭である。精神的な事柄を語るのはタブーとなった。すべての行動は、刺激と反応によって説明されなければならなくなったのだ。
行動主義は、特にアメリカで勢力を得た。アメリカの行動主義は、第1次世界大戦以前にジョン・B・ワトソンたちによって始められ、1930年代から40年代にかけて盛んになっていった。アメリカの行動主義の象徴的存在となったのが、B・F・スキナーである。
>
ですから,それをできるだけ直接に観測して,それを研究のためのデータにしようと考えます.
>
その意味で質問紙や評定尺度は間接的で,誤差要因が多すぎるので採用しません.
これもわかりません。というのは、ミシェルらの主張は「性格検査は行動を予測できない」ということのはずです。しかし、逆に同じ状況で同じ(違う)行動を取った人に対して性格検査のデータを比較したケースはないはずです。
#あるなら教えていただきたいです。それなら私の読み落としですから…。(^^;;
となると、(少なくとも特定の状況での)特定の行動に対し、性格検査の特定の項目との相関があることは否定できない…はずです。なにしろ、データが少ないようですから…(一部は私の返事その7追記に書きました)。従って、血液型によって性格検査の特定の項目に差があれば、血液型と行動とに相関があることが推測できます。以上が私の論理です。これを整理すると、
しかし、渡邊さんは上の私の論理は間違っていると主張している…はずです。私の理解では、1は成り立たない、2について部分的に成り立ち、従って3については成り立たない。こういう理解でいいのでしょうか?
しつこいようですが、1について否定しているデータはどこにあるでしょうか? ミシェルの"Personality and Assessment"(原典でお願いします、邦訳は入手できなかったので…)の表番号を教えていただけませんか?
>
ふつう科学者同士がデータだけで議論可能なのは,そのパラダイムの中で一般的
>
であるような研究テーマでは,対象の定義やデータの採り方についての考えが研究
> 者間で共有されていることが多いからです.…
>
しかし,私とABOFANさんとの間にはそうした同意がありません.
ここで、やっと「同意がない」ことに同意することができました(笑)。
> ニュートンが自分の力学法則の適用範囲が有限だと言いましたか?
私は『プリンキピア』を読んだことはありません。ましてや、彼の全著作は読んでもいません。(^^;; しかし、ニュートン自身が自分の力学法則の適用範囲が無限であると言ったとは、私には到底信じられません。今となっては正確には覚えていませんが、彼は「私は海辺で戯れる3歳の子供に過ぎない」というような言葉を残していたはずだからです。つまり、ニュートン自身は、科学が「大人」になったときに初めてすべての物理現象が説明できる、と考えていたことは明白です。
「普遍的」な物理法則が存在するといった思想は、19世紀的科学万能主義、あるいは啓蒙主義的なものでしょう。それは、「マックスウェルの悪魔」や、誤った福沢諭吉主義的な「明治的啓蒙主義」の影響だと思います。ニュートンは16世紀の人ですから、神学主義的な思想を持っています。神学的にはどうなのかわかりませんが、彼が科学万能主義的なことを言ったとはやはり信じられません。出典はどこなのでしょうか?
さて、やっと最近わかってきたことを書いておきます。渡邊さんは、やはり理論重視なのですね。語弊を省みずに言えば、私は「理論的に不可能」。あるいは「理論的にありえない」という言葉にはあまり興味がありません。なぜなら、現実をうまく説明できない理論は無意味だからです。少なくとも私に取っては…。ゲーデルの不完全性定理はご存じでしょう。いくら論理的に矛盾しない理論を構築しても、現実を説明できないケースはあるわけです。
具体例を挙げておきます。しばらく前ですが、常温超伝導がニュースになったことがありました。実は、超伝導には「BSC理論」(という名前だったと思います…)という有名な理論があり、この理論によると「常温超伝導」は「理論的に不可能」とされていました。しかし、実際にはご存じのように常温超伝導物質が発見されてしまったわけです。また、最近まで「青色半導体レーザー」は「技術的に不可能」だとされてきました。なぜなら、青色を発光できる(適正なパンドギャップを持つ)物質でうまく半導体に加工できるものが見つからなかったからです。このケースでも、まもなく製品の本格出荷が始まる予定になっています。青色半導体レーザーの発明者は日本人ですが、ノーベル賞のウワサもチラホラあるようですね。この人の勤めていた会社は、四国にあるあまり有名ではない(失礼!)会社でした。
面白い例はまだまだあります。専門家によると、飛行機やロケットは「理論的に実現不可能」だと考えられていました。つまり、飛行機やロケットは小説の中だけのもので「俗説」だとされてきたのです。
こんな調子で、例はいくらでもあります…。ですから、私は「理論的に不可能」とか、「理論的にありえない」、あるいは「俗説」という言葉はあまり気にしないことにしているのです。
なお、この後の部分は最大素数さんに対してのものなので、私のコメントは省略させていただきます。
どうもありがとうございました。
ABOFANへの手紙(10)
体調も徐々に良くなってきて,一回当たり原稿用紙40枚ペースにやっと復帰できました.
さて,今回のABOFANさんの「反論」は最近では最も手応えのあるものでした.
私がすでに負けているものもあります(笑).ではひとつずつ見ていきましょう.
1.「海外の研究」の問題
前回私が書いたことの趣旨は「海外の研究だから日本の研究より正しいとは言えない,海外の研究でもクダラナイものはクダラナイ」ということで,その点はABOFANさんとも同意できるようです.ただABOFANさんも指摘するように日本の心理学者は外国の論文は崇拝しがちで,外国の論文はないということが日本の心理学者にとって血液型を否定するひとつの根拠だったことは間違いありません.
でも実際にはあるわけです.これは問題で,日本の心理学者総崩れなんてことになるとイヤなので(注1),外国に論文があっても心配ないんだぞ,というアピールを心理学者の読者向けにしてみました.メディアの一流二流の話も純粋に心理学者向けで,ここの議論とは直接関係ありません.「ためにする議論」ですのでABOFANさんは無視してください.
> #蛇足ですが、海外では「二流」とされるものでも、日本の「一流」の論文より面白い
> ものが多いような気もしないでもありません。あくまでも素人である私の単なる印象で
> すが …。
そりゃあもうおっしゃるとおり.ひれ伏すのみです.
ただ,
> 私の知っている日本の論文数を数えてみましたが、「正しいかどうか」と「なぜ信じる
> のか」が半々程度で、「どうしてそういう俗説が限りなく生まれるのか」は少ないとい
> う印象を受けました。また、「私たち一部の心理学者」というのは日本だけなのでしょ
> うか? 海外の研究では「正しいかどうか」がほとんどのはずですが…。この
> 文章の根拠は何なのでしょうか?
これは,「血液型を信じている人」の頻度や,それが社会的に取り上げられる頻度が欧米より日本で圧倒的に大きいからだと思います.たしかに欧米にも血液型/性格の研究はあるようですが,日本のように血液型性格学が大ブームになっているようなことはないようです.ブームになっていない欧米では心理学者(?)は実際の関係だけに目が向くし,ブームになっている日本ではブームの方(信じる人たちの方)に心理学者の目が向く,ということだと思います.
その点で,日本のブームが輸出されているアジアの一部の国々で心理学者たちがどういう態度をとっているのか知りたいですね.あ,それは私が調べるべきことでした.
>> 竹内久美子さんの本の最大の問題は,こうした傍証だけで論理を展開していることで
>> す.
>
> これにも驚きました。(@_@) 彼女の最大の問題点は、論理そのものが間違っているこ
> とです(失礼!)。ということは、心理学者の誰もこの点に気がついていないというこ
> となのでしょうか? もしそうだとすると、心理学者は統計に弱い、という証拠がまた
> 一つ増えたことになるかのもしれません(失礼!)。
これまでの例から見て,ここでもABOFANさんのいう「論理」とは「統計データの読み方」だと思うのですが,これは私の「論文の読み方」とABOFANさんのそれの典型的に違うところだと思います.私は,まず論文なり記事なりの全体をみて,その(仮説やその検証手続きの)論理構造や,その中でのデータの位置づけがまともであると判断できたときに初めてそこに載っているデータをきちんと見ます.全体の論理がいい加減なときには,データを見るまでもない,と考えるわけです.だから,そこでの統計が正しいかどうかとかは知らないし(知る必要がない)し,それは別に統計に弱いということにはならないと思います.この問題はあとでまた論じます.
(注1)ここで「日本の心理学者」を一番信用してないのが私だということが露見してしまいました....
2.「性格の定義」
> 次に性格の定義についてです。私の性格の定義については、基本的に能見さんの定義
> と同じです(『新・血液型人間学』 青春出版社プレイブックス S60.6)。
このあとに引用されている「定義」ですが,これは性格の形成とか出現に関する「理論」であって,定義ではありません.「性格とは...」と書いてあればすべて定義であるわけではないのです.私が求めている定義というのは,「具体的にどこに,どういう形で存在する,どの事実を性格と考えるのか」ということです.これは「操作的定義」(注2)といわれるもので,事象を科学的に扱うために必ず必要になるものです.操作的定義が不能な構成概念,または操作的定義がされていない構成概念は科学的に観測できないので,反証不能となります.
ただ読者の多くも気づくと思いますが,ABOFANさんが引用された能見さんの定義は,心理学の教科書に載っている心理学者による「性格の定義」とそっくりです.
そういう意味で能見さんははっきりと心理学を基盤にした議論をしていることは,最大素数さんも指摘されていました.もちろん,私はそうした「性格の心理学的定義」も反証不能だと思います.
> ただし、私が議論をする場合には、原則として相手の定義する「性格」に合わせること
> にしています。というのは、お互いの定義が違うのでは、議論そのものが成立しないか
> らです。
これはもっともなようで,間違っています.「相手の定義に合わせる」というのは科学的議論ではたいへんなことです.定義が変われば,そこにあるデータの意味も,データの読み方も変わってしまいます.その都度相手の定義に合わせるということは,相手によって自分のデータの意味や,読み方を変えるということになりますが,そんなことはできません.現に,ABOFANさんは実際にはそんなことはしていない.たとえばABOFANさんが性格の定義を私に合わせたら,ABOFANさんの提出してきたすべてのデータは間接的で,誤差の多いものと認めざるを得なくなりますが,ABOFANさんはそうは認めていないでしょう?
(注2)操作的定義 直接観察できない構成概念を直接観察可能な手続きや事象の組み合わせによって定義すること.心理学では一般に心的概念を行動的指標によって定義すること.
3.「行動の直接的な測定」について
> やっと理解できてきたような気がします。そこで、測定法を具体的に説明していただ
> けないでしょうか? 例えば、
>
> 1.心理学者による観察(定性的で数量化不可能な場合もある?)
> 2.刺激に対してボタンを押すなどの数量化可能なもの(行動主義?)
>
> 今までの議論を読むと、2に近いと思うのですが…。いずれにせよ、このままでは具
> 体的なイメージが湧いてきません。(^^;;
もちろん,2です.まあ「ボタンを押す」といったイメージはあまりに定型的ですが,だいたい合っています.1でも性格検査よりはマシですが,基本的に変わらない問題を抱えてしまいます.
2を具体的に行なうには,たとえば以下のような手続きをとります.
1.測定すべき行動または行動のクラスを明確に定義する
2.その行動が生じたか,生じなかったかを区別する基準を作る
3.その行動を特定し,生起不生起の判断をすることができる観察者を訓練する(複数名が必要)
4.複数名の観察者が一定時間にわたって被験者の行動を観察し,測定すべき行動の生起頻度を計量する(ここで「ボタンを押す」場合もある,笑).
5.観察者間で一致した行動生起の頻度を,その行動の頻度としてデータにする.
こうした手続を「タイムサンプリング」といい,質問紙調査のできない乳幼児や動物の行動研究ではすでに基本的な方法となっていて,心理学専攻の学生はふつう学部で訓練されています.
性格研究であれば,さまざまな人々が,さまざまな状況で示す,性格と関係ありそうな行動をひとつひとつこの方法でサンプリングしていき,それらの結果に「個人特有の規則的なパターン」があるかどうかをまず調べます.そうしたパターンの存在(つまり「性格」の存在)が確認されて初めて,それと状況との関係や,内的要因との関係(血液型との関係もここ)が分析可能になります.
気の遠くなるような面倒な作業ですが,これをやらない限り性格心理学は反証可能な科学にはなれません.私が「ある程度の結果が出てくるまで20〜30年」と言ったのはそういうことです.
そして,これははっきりと「行動主義」の立場に立つ仕事です.ABOFANさんが挙げたような通俗的な行動主義批判にいちいち反論する気はありませんが(注3),すくなくとも現在の状況では心理学がある程度の科学性を達成するためには行動主義の原理を用いる以外の方法はありません.認知心理学なども行動主義を批判しますが,その研究法は明らかに行動主義を基盤にするものです(注4).
(注3)通俗的な行動主義批判 重要な部分だけ反論しておけば,行動主義は精神的な事柄を語ることを禁ずるのではなく,精神的な事柄もひとつの行動(多くの場合は言語行動のひとつ)として他の行動と同じ「科学的」手続で分析すべきだ,と主張しています.「行動分析学入門」(産業図書)などが参考になると思います.
(注4)行動主義を基盤に 論理体系は旧来のメンタリズムを維持しながらデータ扱いの方法論だけは行動主義の都合のいいところを移入したような心理学を「方法論的行動主義」と呼びます.現在の心理学ではどんな分野でも「客観的なデータ」をとりますが,そのほとんどが方法論的行動主義です.
4.性格検査と行動,血液型の関係について
> これもわかりません。というのは、ミシェルらの主張は「性格検査は行動を予測でき
> ない」ということのはずです。しかし、逆に同じ状況で同じ(違う)行動を取った人に
> 対して性格検査のデータを比較したケースはないはずです。
前半,正確には「状況の大きな変化があったときに性格検査は行動を予測できない」で,状況が安定しているときの行動予測についてはミシェルはとくに述べていません.
後半,少なくともこれまでの性格心理学ディシプリンでは「同じ状況で違う行動をとることイコール性格検査の結果が違うこと」であるはずで,敢えて分析したりはしないでしょう.これは性格検査の信頼性の問題になります.もちろん,それが本当にそうかは議論の対象になりますが.
> 1.(特定の状況での特定の)行動と性格検査(の特定の項目)には相関がある
> 2.血液型と性格検査(の特定の項目)には相関がある
> 3.従って、血液型と(特定の状況での特定の)行動には相関がある
私,1は全然否定していませんよ.前回にも書いたように「パーティーなどでは黙っていることが多い」に「はい」と答えた人は,「いいえ」と答えた人より実際にパーティーで黙っている確率がある程度は高いのは間違いないでしょう.そうでなければ性格心理学以前にあらゆる目的での「質問」という行為,「質問の答えを信じる」という行為の妥当性が疑問になってしまいます.
私たちが,またミシェルが問題にしているのは,それがそのまま「性格概念と行動との関係」を保証する訳ではない,ということです.たとえば「パーティで...」の項目は「内向性」という性格概念と結びつけられるわけですが,上記のことから「内向性の人はパーティーで黙っている傾向が強い」と言えるのか,また,「パーティーで...」の質問に「はい」と答えた人が,他の内向的な行動,たとえば「友達がなかなかできない」といった傾向も示すのか,というのは別問題だろう,ということです.もっと端的に言えば,そこからパーティ以外の状況でも黙っていることを予測で きるのか,という話です.
また,2もABOFANさんのデータを信じるなら事実だし,その可能性はあるでしょう(注5).さあ,私は1も2も認めました.では3も認めるのでしょうか? 認められません.これは,いつものような私の理論的考察とかそんなむづかしい話ではなくて,ごく簡単な「論理」です.
AとBに相関があり,BとCに相関があるとき,AとCに相関があるとは限りません.
それは,AとBに相関を生み出している理由(共変動または共分散)と,BとCのそれが異質なものであることはいくらでも考えられるからです.さきの例で言えば,質問紙と行動の相関は現実の対応によって生み出されているが,質問紙と血液型との相関は認知の歪みによって生み出されているような場合,行動と血液型との相関は生じないでしょう.
これは,相関が常に「ある程度の関連」であることに起因します.一般的な三段論法で「AならB,BならC,したがってAならC」が成立するのは,AとB,BとCの関係が完全な一対一対応だからです.しかし,ここで論じているような相関の場合「Aならばある程度B,Bならばある程度C」に過ぎず,その「ある程度」の位置や原因がズレている場合は「Aならばある程度C」は成立しなくなります.
よい例を思いつきました.Aさんの顔はBさんとどこか似ている,Bさんの顔はCさんとどこか似ている,このとき,Aさんの顔はCさんの顔とどこか似ているでしょうか? かならずしもそうではないですよね.そういうことです.
相関で話をする場合,3を言うためには,やはり血液型と個々の行動が相関することを直に示さなければなりません.ところが,血液型と個々の行動に相関が見いだされた場合にも,血液型から個々の行動が決まるとか,血液型が個々の行動に影響するとすぐに結論できるかというと,そうでもないのです.統計的な相関は実際の因果関係や,関連性が存在しないところにも見かけ上生じることがよくあります.これを「疑似相関」といいます.これは相関係数に関する基礎知識で,統計の教科書には必ず書いてあることですから,ご自分で確かめてください.
相関係数という統計値自体が,かなり不安定で問題の多いものですし,その解釈や意味づけもかなり幅のあるものです.なにかをきちんと検証しようとするときに相関研究はあまり力がありません.でも性格心理学はほとんど相関研究なんだよなあ.
(注5)血液型と性格検査の関係が,研究者(ABOFANさんも含む)によって出たり出なかったりするという問題は,ABOFANさんが考えているよりずっと(血液型性格学にとって)重大なことです.ランダムサンプリングに関するABOFANさんの説はこの問題については意味がありません.ただ,これらのテーマには私はそれほど興味がないことは何度も言っているとおりです.
5.「理論的に」ということ
> 私は『プリンキピア』を読んだことはありません。ましてや、彼の全著作は読んでも
> いません。(^^;; しかし、ニュートン自身が自分の力学法則の適用範囲が無限であると
> 言ったとは、私には到底信じられません。今となっては正確には覚えていませんが、彼
> は「私は海辺で戯れる3歳の子供に過ぎない」というような言葉を残していたはずだか
> らです。つまり、ニュートン自身は、科学が「大人」になったときに初めてすべての物
> 理現象が説明できる、と考えていたことは明白です。
プリンキピアを読んでなければニュートンの話ができないのだったら,そもそも私は私が紹介した参考文献をほとんど読んでくれていないABOFANさんとどうして議論ができるのですか.そういう問題ではありません.それはさておき,
ニュートンは確かに自分が世界の全てを解明したとは考えていなかったでしょうが,自分の発見した原理が,世界を普遍的に説明できる原理の一部であることは信じていたでしょう.「科学が大人になる」というのは,自分が力学について発見したような普遍原理が世界の全てについて発見されること,を指していると思います.「無限であるといわなかった」ことと,それに多くの前提条件があることを意識していたこととはまったく違うのではないですか.また,この問題と「科学万能主義」みたいな話とはまったく無関係です.
> さて、やっと最近わかってきたことを書いておきます。渡邊さんは、やはり理論重視な
> のですね。語弊を省みずに言えば、私は「理論的に不可能」。あるいは「理論的にあり
> えない」という言葉にはあまり興味がありません。なぜなら、現実をうまく説明できな
> い理論は無意味だからです。少なくとも私にとっては…。ゲーデルの不完全性定理はご
> 存じでしょう。いくら論理的に矛盾しない理論を構築しても、現実を説明できないケー
> スはあるわけです。
あんまり素人みたいなことを言わないでください(素人なのか,笑).まず,「論理」と「理論」をはっきり区別しないといけません.論理とは話の進め方,理屈のことで,理論以前の問題です.ABOFANさんがこの言葉を使うときに意味する「データの読み方」も論理の部類ですが,私はむしろデータを取る以前の論理を重視します.いっぽう「理論」とは,論理的に正しい(ように見える)仮説や命題の集まりです.
さて,なんらかの仮説が「理論的にありえない」という意味はごくラフに考えても3つあるでしょう.
1.論理的に間違っていて,理論的に検討する価値もない
2.現在の理論によって,それが偽であることをはっきり論証できる
3.現在の理論によってはそれが真か偽かを論証できない
ABOFANさんは1と2であるようなものまで,ぜんぶ3の仲間に入れてしまっています.これは素人はよくやることで,たとえば心霊研究の検証論理の稚拙さとか,データの採り方の問題点とかを指摘する学者に対して,「心霊は現在の科学では解明できないのだ」みたいなことを言うのが実例です.
実際には,理論的に不可能というときには1や2がほとんどで,3であり未来の科学の発展を待たなくてはいけないような仮説はごく一部なのです.私が理論的に間違っているというのは,おもに1と2で,3の場合は「反証不能」とか,別の言葉を使うでしょう.
現実をうまく説明できない理論は無意味,ごもっともです.では現実をうまく説明するとはどういうことでしょう.天動説がなかなか捨てられず,地動説に移行できなかったのはなぜですか? 天動説が素人の感じる「現実」を,地動説よりもうまく説明できているように,素人からは見えたからです.また,惑星の運行など実際には地動説の方がうまく説明できるような「現実」も,天動説の中でそれなりにきちんと「説明」されていたのです.地動説が採用されるようになったのは,説明の経済とか,説明範囲の拡張といった,すぐれて「理論的」な理由であり,それがなにかを「説明できなかった」から(つまり,データによって否定されたから)ではありません.
まあそんなに難しい話をしなくても,さっきの例で1,つまりその仮説が論理的に(理論的に,ではありません)間違っている場合には,その仮説についてデータを検討する意味も必要もありません.とくに,その仮説が対象とするものとそこで提出されるデータとの結びつきが論理的に保証されない場合(これは論理的以外には保証され得ません)には,そこでなにかが「データによって」示されていても,それは仮説を検証できていないわけで,ゴミです.かつ,そうしたデータは多くの場合現実をうまく説明しません(「例外」についてはあとで論じます).実際,性格に関する最近の理論的再検討は,そもそも「性格検査(データ)が役に立たない」という「現実」から始まっているわけです(そういう意味では理論とデータは弁証法的な関係にあります).
性格心理学について私が議論しているのはせいぜいそのレベルの話に過ぎず,常温核融合をめぐる問題などとは全然レベルが違います.ABOFANさんが例に挙げている飛行機や常温核融合や青色半導体レーザー(でしたか...)などは「まだ現前していない(いなかった)」ものの可能性に関する議論ですが,私が言っているのは,目の前に現にある問題をどうとらえるか,というレベルの話なのです.
6.「データ」は「論理」を超えるか?
今のような議論をあるところでしたとき,以下のようなことをいった心理学者がいました.「渡邊さんの言うこともわかるが,もし仮説が論理的に間違っているなら,それはいずれデータによって否定されるわけだから,われわれは渡邊さんのような難しいことを考えなくても,とにかくいろんな仮説についてデータをとって,データに語らせればいいんじゃないでしょうか」.
ABOFANさんはこの主張に心から同意するのではないですか? まあ比較的多くの心理学者もそうでしょう.でも,私はそうではありません.
まず「論理的に間違った仮説はデータによって否定される」という「仮説」を受け入れるとしても,それはとても時間の無駄です.私に言わせればダメデータとはいえ,それを採り,分析するためには一定の時間と人手がかかります.データを取る前にその仮説が論理的に正しいかどうか,そのデータを取ることに意味があるかをきちんと考えれば,無駄なデータであるなら取るのを止めて,その時間と資源を節約できます.
このことに心理学者が鈍感なのは,質問紙など今の心理学データが比較的お手軽にとれ,もしそれが無駄になってもそれほど痛手でないからかも知れません(注6).ABOFANさんに至っては,自分でデータは取っていないわけですから,ますますどうでもいいですよね.反対に,もし私が性格について主張しているような金と手間のかかるデータの採り方が一般的になれば,みんなデータを取る前にもう少し考えるようになるかもしれません.
また,間違った仮説がデータによって否定されたとして,それからどうするのでしょう.論理を問わないのであれば,その仮説がなぜ否定されたのか,どこをどう改良すればより良くなるのか,といった考察はされないことになります.学問は,単なる思いつきが無秩序に展開されるだけの,なんの蓄積も生み出さないものになってしまいます(科学の歴史と現実がそういうものでなかったことは明らかですが!).
それより,そもそも本当に「論理的に間違った仮説はデータによって否定」されるのでしょうか? 現在データについての判断がほぼすべて統計(統計的検定)によって行われていることを考えると,これはかなり怪しい.
まず,統計は「差がない」ことを証明できないので,間違った仮説でも「否定」することができない.これはなんども出てきたことですね.かつ,統計とその現在の用法はどちらかというと「差があるところに差を見つけない」よりも「差がないところに差を見つけだす」方向に偏る傾向がある.
研究者は仮説を検証するためにデータを取って有意差が出ないと,有意差が出るまでいろいろな検定法を試して,差が出たものだけを発表する.ときにはデータを分割したり,多少調整(笑)したりして,差が出る方に持っていく.意識的にではなくても,自分の仮説が検証される方へ,検証される方へと統計手法をシフトするのがふつうです.この辺はABOFANさんも詳しいはずですが,統計はある意味ではいくらでも都合の良い結果を導き出すことのできる,便利なシステムです.だから,論理的に間違った仮説が統計的に有意なデータで支持されることはあり得ます.
それ以前に,仮説やその対象とデータとの結びつきがでたらめな場合,データは明らかに有意差を示しているが,実際にはそれは仮説を検証してはいない.だが表面上は仮説を検証しているように見える,と言うことが起きます.
わざと極端な例を考えましょう.「性格の悪い人からは他人は離れていく」という仮説を検証するために,「性格の悪さ」の指標として「足の臭さ」をとります.そして,足の臭い人から他人が有意に離れていくことをデータで示します.そして,仮説が検証されたと主張します.これは正しいですか? 誰もが「正しくない」というでしょう.それは「性格の悪さ」を「足の臭さ」で測る,という「対象とデータとの結びつき」が論理的に正しくないことが,誰にでもわかるからです.
でも,ここで対象とデータの結びつきをだれも論理的に検証しなかったらどうなりますか? このデータから仮説が検証されてしまいます.こんなにわかりやすいことはありませんが,同じようなことはいくらでも起きうるのです.
この場合,データを見るまでもなく,「性格の悪さを足の臭いで測っている」時点でこの仮説はスカなのです.でも,その「スカさ」はデータによっては示されません.
仮説やその検証手続きの論理的妥当性はデータによってではなく,論理によってしか検討されないのです.そして,論理的にスカとわかっている問題について,データなどみる必要は全然ないのです.
仮説の論理的妥当性までデータが判断してくれるような考え方を,私は「データ信仰」と呼びます.データが全てを明らかにしてくれるという「根拠のない」信念です.実際には,きちんとした論理と理論的検討に基づかないデータはそれがなにを示そうが無意味です.仮説をきちんと検証するためには,まず仮説が論理的であり,仮説の対象とデータとの結びつきが明確になっていることが論理的に確認された上で,データ が仮説を支持する必要があるのです.「データに語らせる」だけでは,仮説の検証は非常に恣意的なものになってしまいます.
私はこうしたデータ信仰は,現在の科学のシステムを無批判に普遍として受け入れ,科学を単なる技術的ルーティンにおとしめて,その中で日々の単純労働を繰り返す(つまり,黙々とデータをとる)ことを「科学の実践」だと思って疑わない「理系的なアホさ」から生まれてくると思います.心理学も人文科学の中では「理系っぽい」ものですから「理系アホ」にかなり感染しているでしょう.
データを採ることが科学なのではありません.「きちんと考えて」データを採ることが科学なのです.「理系」であることと「科学をやっている」こととは近いようで遠いのです.実際には科学の本当の基盤を作る「理論的検討」は(それが理系の人から出るか,文系の人から出るかはともかく)文系的な知性によってしか促進されないのではないかと思います.そういう意味でも,大学の理系学部でもきちんと文系科目を教養として教えていくことには重大な意味があります(注7).
なお,「ゲーデルの不完全性定理」の話は,ここで論じているようなレベルよりずっと先の話で,ここでの話には無関係ですし,ABOFANさんの引用のしかたも不適切だと思いますので,とくにふれません.
ちょっと話が大きくなりすぎたので今日はこれでおしまい.ほんとうは「首尾一貫性」の話を今日こそはしようと思ったのですが,なかなかできませんね(笑).
(注6)お手軽データ でもそのお手軽データの向こう側には,時間を割いて質問紙に答えてくれる被験者さんたちがいるのです.心理学者が質問紙や実験などによって被験者に与えている負担や苦痛についてあまりに無頓着なことに,時々暗澹たる思いをさせられることがあります.
(注7)理系学部でも文系科目を でも理系の専門の先生たちはこういった文系科目の意義をまったく理解していないから,教養科目はどんどん削減されます.自分たちも教育されていないのだからしかたないですが,日本から独創的な科学研究が出にくい理由はここにもあると思います.
体調が回復してよかったですね。(^^)
さて、共通の前提がまだまだ違うようで、すり合せに時間がかかりそうです…。心理学者と議論する場合は、毎回そうなのですが。とはいっても、渡邊さんとは一部でも共通の前提ができてきたようで、大変うれしいです。
1.「海外の研究」の問題
ここでは、竹内久美子さんの仮説についてだけ書いておきます。しかし、私は彼女の大ファンですので、間違いを指摘するのは全く気が進まないのですが…。ま、今回は特別サービスということで、ちゃんと書いておくことにします。(^^;;
彼女の仮説を(粗っぽく?)要約すれば、O型が感染症に一番強いから他の血液型より「社交的」になる、というものです。確かにO型は感染症に強いようですし、そういうデータもたくさんあります。なるほど、この仮説は正しいのかもしれません。ところが、既に多くの人が指摘しているように、この仮説はほとんど実証不可能なのです。また、血液型による感染症の差は、本当にあるのかどうか疑問であるという意見も専門家からたくさんいただいています。
ところで、竹内説に対する主な反論は、
というようなものです。渡邊さんも、このような理由で竹内説を疑っているのだと思います。違うのでしょうか?
しかし、この中で反論らしい反論は3ぐらいで、1と2は「疑問に思う」程度であることは言うまでもないでしょう。その3にしても、竹内説を完全に否定することは難しいようです。ところが…、
実は、竹内説は明らかに間違っているのです。なぜなら、O型が感染症に強いなら、最後には人類全部がO型にならないとおかしいからです! しかし、渡邊さんはA型(?)ですし、私はAB型です(笑)。つまり、O型が感染症に強い、という仮説は間違っているのです。(^^;;
#もっとも、この反論は元々は私のものではありません。
2.「性格の定義」
私の説明が足りなかったと思うので、ちょっと補足しておきます。(^^;;
当初私は、能見さんのデータが(統計的に)正しいさえ証明できれば、心理学者は納得してくれるものと思い込んでいました。しかし、実際は違ったのです。データは心理学者のものでないとダメですし、しかもランダムサンプリングが必須とのことでした。心理学者のデータだってランダムサンプリングなんて全然してないのにズルい、とは思ったのですが、相手を納得させるにはしょうがありません。
#能見さんのデータが正しいと証明しても、心理学者が納得しないことは実証済みです。(^^;;
従って、私は相手に血液型と性格は「関係ある」という条件を出してもらい、そういう条件のデータを見つけるという方法でず〜っとやってきました。それが、以前に紹介した松井/坂元論文です。これで、ほとんどの心理学者が黙ってしまったことは何回も書きましたので省略します。
3.「行動の直接的な測定」について
これでやっとわかりました! 渡邊さんは、「性格心理学により定義される性格=パーソナリティ」は存在しない、ということを主張しているのですね。私にとっては、日本語の「性格」とはニュアンスが違うような気がするので、原語の「パーソナリティ」、あいるはその直訳である「人格」と言った方がわかりやすいです。とは言っても、日本語で「人格」というと道徳的な意味もあるので、やはり原語のまま「パーソナリティ」と言うのが無難なのでしょうか…。
ここで、読者の皆さんのために補足しておきましょう(詳しくはこちら)。念のため、学術書から引用しておきます(B・クラーエ 堀毛一也編訳 社会的状況とパーソナリティ H8.5 北大路書房 15ページ)。
注意しないといけないのは、2はどんな環境(!)でも「持続的で安定し」てないといけないことです。もちろん、怖い上司に対しても、配偶者に対しても、近所の人に対しても、そして赤の他人に対しても…、です。私は日本人ですから、この定義は非常に奇妙に感じますが、心理学はもともと欧米人が対象ですから別に奇妙ではないのでしょう、たぶん。 |
そういう定義なら、普通の日本人には「パーソナリティ」は存在しません。いや、どんな環境でも「パーソナリティ」が同じ人間がいたら、日本では異常だと判断されてしまいます(苦笑)。欧米人はどうなのか知りませんが…。いや、ミシェルの本を読んだ限りでは、欧米人でも同じことなのでしょう…。
心理学的にはどうなのか知りませんが、日本人では異常と思われるようなデータを測定しても、あまり意味があるとは思えませんが…(失礼!)。
4.性格検査と行動,血液型の関係について
ここも、はじめてわかりました。つまり、渡邊さんと私はほとんど同意見ということですね(笑)。
どうやら、意見が違うのは3だけのようです。しかし、3は1と2が成り立てば(程度の差はあっても)自動的に成り立つ…はずです。それは、相関係数の計算方法に戻って考れば明らかだと思います。ここでは、具体的に計算してみます。
まず、1の相関係数(行動と性格検査)をR1、2の相関係数(血液型と性格検査)をR2、3の相関係数(血液型と行動)をR3とします。常識的(?)に考えると、R3=R1×R2となりそうな気がしますね(当然ながらR1≠0、R2≠0)。しかし、渡邊さんによると、R1≠0、R2≠0の場合でも、R3=0になるということになります。
以下のコラムは、読者向けの解説です。統計が好きでない人は読み飛ばしてください。
相関係数の意味は、互いに相手(変数)の分散をどの程度説明できるかということです。相関係数の2乗を決定計数と言いますが、この決定計数が分散を説明できる割合になります。例えば、相関係数が0.9なら、2乗の値は0.9×0.9=0.81ですから、相手の分散の81%が説明できることになります。つまり、相手のことを8割方は説明できるのですから、まあ「関係がある」と言ってもいいでしょう。では、相関係数が0.5ならどうでしょうか? この場合、決定係数は0.25ですから、全体の分散の25%しか説明できません。つまり、残り75%は説明できないのです。相関係数が0.5というと、半分ぐらいは関係がありそうな気がしますが、実は「あまり関係がない」といった方がいいのかもしれません(笑)。となると、相関係数が0.1なら1%しか説明できませから、「全く関係がない」と言う方が正しいようです…。
本題に戻りましょう。R1ではR12だけ分散を説明でき、R2ではR22だけ分散を説明できるのですから、結局R32はR12×R22だけ分散を説明できることになります。となると、R32=R12×R22が成り立つはずです。絶対値を考えて2乗を取るとR3=R1×R2となります。なるほど…。 なんだ、やっぱり最初と同じじゃないか、と思う人もいるかもしれません。しかし、実は違うのです。例えば、R1=R2=0.8の場合、R3=0.8×0.8=0.64になるはずですね。ここで、仮に(本当はそんなことはありえませんが…)行動と血液型に完全に相関があると仮定します。この場合は、R3=1となります。しかし、R1=R2=0.8でも特に問題はありません。なぜなら、行動と性格検査や血液型と性格検査は完全な相関がないからです。ということで、数学的には完全に詰めていませんが、どうやらR3=R1×R2ではなく、|R3|≧|R1|×|R2|(||は絶対値)が成り立つようです。 |
結論だけ書いておきます。|R3|≧|R1|×|R2|(||は絶対値)が成り立つようです。つまり、3は1と2が成り立てば(程度の差はあっても)自動的に成り立つ…はずです。
5.「理論的に」ということ
ニュートンの件については、私は「ニュートン自身が言った」という事実にこだわりすぎたかもしれません。(^^;; 常識的に考えて、科学者より神学者であるニュートンが「科学万能」と言うはずがない、というのが私の素直な感覚ですから。となると、渡邊さんのいうニュートンは、彼自身とは直接関係はなく、あくまでも科学哲学の象徴としての「ニュートン」なのでしょう…。それなら同感です。ただし、19世紀的な解釈での、という限定が付きますが。
>
さて,なんらかの仮説が「理論的にありえない」という意味はごくラフに考えても3つあるでしょう.
>
> 1.論理的に間違っていて,理論的に検討する価値もない
> 2.現在の理論によって,それが偽であることをはっきり論証できる
> 3.現在の理論によってはそれが真か偽かを論証できない
>
>
ABOFANさんは1と2であるようなものまで,ぜんぶ3の仲間に入れてしまっています.…
>
私が理論的に間違っているというのは,おもに1と2で,3の場合は「反証不能」とか,別の言葉を使うでしょう.
1は原則として間違いですが、それは論理にもよるでしょう…。2の例としては、「常温超伝導」があります。従来のBSC理論では「偽」であるとされていたはずのものです。常温で超伝導が起こるはずがないと言われていたし、現に何十年もそうだったのですから…。また、相対性理論以前にニュートン力学では説明できない現象も入ります。3は昔の相対性理論ですね。だから、私は2については「現在の理論で偽」としか言えないと思います。本当に正しいのかどうかは、なんとも言えません。
本題ではないのですが、天動説の話題が出たのでちょっと書いておきましょう。最初は、天動説と地動説では大した差はありませんでした。目視観測なので観測精度が低かったという理由もありますが、コペルニクスは惑星の軌道は真円だと思っていたからです。これでは誤差は天動説と似たり寄ったりです。(^^;;
しかし、その後にケプラーが楕円軌道を数学的に導くと話が変わりました。天動説では、周転円(観測結果を説明するための補助的な円)を何十何百と追加しても誤差があまり減らなかったのに対し、楕円軌道ではほとんど誤差がなかったからです。つまり、地動説は最初は2や3だったのです。そして、宗教的には1だった…はずです。
6.「データ」は「論理」を超えるか?
>
「もし仮説が論理的に間違っているなら,それはいずれデータによって否定されるわけだから,
>
われわれは渡邊さんのような難しいことを考えなくても,とにかくいろんな仮説についてデータ
>
をとって,データに語らせればいいんじゃないでしょうか」.
>
ABOFANさんはこの主張に心から同意するのではないですか? まあ比較的多くの心理学
> 者もそうでしょう.でも,私はそうではありません.
この文章を読んだとき、思わず吹き出してしまいました(失礼!)。私はこの人の意見には全く同意しません! 心理学者って本当にそんなものなのでしょうか…。(@_@)
もしこの人の言うことが本当なら、私だって相対性理論や量子力学が導けるはずです(笑)。なぜなら、データはいくらでもありましたから…。しかし、有名な物理学者が四苦八苦しても、マイケルソン=モーリーの実験結果である「光速度一定」の説明をすることはできませんでした。それを解決したのが、当時スイス特許局に勤務していたアインシュタインです。「素人」が提唱した相対性理論は、最初は物理学者の間では「奇説」「珍説」だと思われていました…。おっと、科学史の解説をするつもりはないのでこのぐらいにしておきます。(^^;; そういえば、湯川秀樹博士(日本人初のノーベル賞受賞者)の「中間子理論」も最初はそんな扱い(=奇説・珍説・俗説…)を受けていましたね…。
元に戻って、「光速度一定」の原理から相対性理論を導くには「テンソル」の知識が必要だそうです。私は分からないのでパスします(苦笑)。いずれにせよ、「データに語らせればいい」のだったら、これほど楽なことはありません。
> ABOFANさんに至っては,自分でデータは取っていない
取っていますよ! ただ、心理学者の議論には使わないことにしてます。理由は2で説明したとおりです。もっとも、大したデータでないという理由の方が大きいですが…(苦笑)。
>
私はこうしたデータ信仰は,現在の科学のシステムを無批判に普遍として受け入れ,
>
科学を単なる技術的ルーティンにおとしめて,その中で日々の単純労働を繰り返す
>
(つまり,黙々とデータをとる)ことを「科学の実践」だと思って疑わない「理系的なア
> ホさ」から生まれてくると思います.
確かに、「科学の実践」の一部には違いないでしょう。データがなければ何もできませんから。しかし、それだけなら「理科的なアホ」と言われてもしょうがありませんね。そういう人はかなりの例外だと信じたいのですが、全くのゼロではないとは思います。(^^;;
となると、「血液型の検定にχ2検定を使うのは間違いだ」というような人は、そういう「理科的なアホ」以下の存在ということになります。学部レベルならともかく、「一流大学」の院生レベルでもそういうケースがないとは言えないようです。そういう「理科的アホ」以下の人が心理学に多いとは、私はいまだに信じられないのですが…。
今回は、わりとまとまともな返事が書けたかと思いますが、どんなものでしょうか?
どうもありがとうございました。
ついでに、人工衛星や月ロケットがなぜ「理論的に不可能」だったのか書いておきます。なお、以下は読者向けの話題です。
SFやアニメや特撮では、反重力エンジンや波動エンジンを使って簡単に惑星間航行ができます(笑)。しかし、現実は甘くありません。なぜなら、普通のロケットでは、せいぜい毎秒3〜4キロメートルぐらいしかスピードが出せないからです。SF好きな読者なら知っているとおり、人工衛星は毎秒約8キロメートル、月ロケットは毎秒約11キロメートルのスピードが必要です。しかし、これではスピードが遅くて話になりません。残念ながら「理論的に不可能」のようです…。
じゃあ、なぜ我々はNHKの衛星放送を見たり、気象衛星「ひまわり」の画像を見られるのでしょうか?
実は、毎秒3〜4キロメートルという限界は、ロケット1段についてなのです。ロケットを2段にすれば2倍、3段にすれば3倍のスピードを出すことが可能になります。ということで、3段以上にすれば、めでたく月にも行けるし人工衛星も打ち上げられるのでした(笑)。わかってみれば当たり前なのですが、そういうアイデアを最初に思いついた人は本当に偉いと思います。
実際には、いろいろ細かい条件が必要になります。なんでもいいから3段にすればいいというものではありません。月ロケットを打ち上げるには、すごい量のデータが必要になるのです。
祝・渡邊さん復活。
> あえて(?)辛口になっている
それほど「芸」達者ではありません(笑)。
1.最後のクレッチマー話し
> ご指摘の点,どれもこれもおっしゃるとおり
げっ。そうなんですか。
揚げ足取りでも何でもなく、最初のメールで
> 心理学に限らず学問にはそれなりの方法と知識の蓄積があります.
> ・・・議論はそうした蓄積を「前提」にして行なわれます.
と、相当太い釘を刺されてしまっていたので、かなりキツーイご返事があるものと覚悟(というより期待・笑)していましたので拍子抜けしてしまいました。
> クレッチマーのこと俺たちに言われても困っちまうよ
の「こと」とはどの辺まで含むのでしょうか。
渡邊さん(達)が、クレッチマー理論がその一部である性格心理学を含む心理学の有り様そのもの(現行のパラダイム)に対して疑義を呈していることは勿論承知しております。そうした情況に即して言えば、クレッチマー理論の現状は疑義を受けとめるほどの内実を持っていず、そういう「こと」も含めての提起のつもりでした。
にしても。
> クレッチマー理論を厳密化することなど思いつきもしなかった
「厳密化」って、わたしが前便で書き連ねた「例えば、体格とと体質との相関・・・」以下の内容も指しているのでしょうか(先の「どれもこれもおっしゃるとおり」からするとそう思えてしまいます)。
・・・「厳密」ですかぁ。それらって、殆ど、かつてわたしが心理学にはまっていた高校生の頃の考えですよ。クレッチマー説はなかなか魅力的で、正直に言えばかなり気に入ったのですが、いかんせんそれはチンピラ高校生がみても結構穴だらけで、それでまあ、その「穴」埋めとしてあんなようなことを考えていたのでした。
それはそれとして。
ありがとうございました。皮肉とかイヤミということではなく、クレッチマー説については漸く"一つ"はっきりしたわけで、本当にお世話になりました。
2.(これも最後の?笑)性格の3つの仮説話し
> 3つの仮説の問題も,最大素数さんのおっしゃるとおりです
うーむ。この前ちょっとわたしが辛すぎたせいか,今回の渡邊さんのメールはあえて(?)甘口になっているようですが,あまり愛らしい感じはしませんでした(失礼)。(^^;
わたしの「期待」の仕方が間違っていたのでしょうか。この件についての説明にも「(最初のメールでのことわり書きである)知識の蓄積」が無いようです。わたしは、このあたりにこそ、心理学という学問が築いてきた方法論と知識の蓄積があるものと思いこんでいました。渡邊さんの示した仮説1〜3は、(パラダイムシフト論を踏まえれば)それに"抵触"していないか、ということであり、また、揶揄的に「(心理学の)知識の蓄積」をご理解なさっているのか、というカラカイ気分もあったのですが、そんな真っ正面から「仮説1についての研究,仮説2についての研究が上記のように進行した上で,・・・客観的研究が成立して初めてきちんと分析できるようになります」などと言い切られては戸惑ってしまうではありませんか。
3.性格と性格表現
いくら利いた風なことをぬかしても所詮はしろーとのわたしとしましてはG.W.オールポートという人のことを教えていただいたことに深く感謝します。
「 性格心理学上の大問題」であり「クレッチマー並みの積み残し問題」なのですか。この問題に関しての心理学者の歯切れの悪さはそういうことだったのですね。
対応の方向性として三つご教授いただき、ありがとうございました。
しろーとの印象としましては、この手の問題は、「フロイト」の「総括」が一つの鍵のように思っています。もっとあからさまにいえば、いかにして「フロイト」を振っ切るか、「無意識」という呪縛から脱却できるか、でしょう。そういう意味では「行動分析」という方向は間違っていないように思うのですが、今のところ従来の性格観に対するアンチテーゼとしての「存在」に留まっているようです。もっと「振り子」が振れて、アンチテーゼとして「機能」してくると面白いかなあ、なんてね、ここまで偉そうに言うことはないんですが・・・。
ともあれ。
> どう考えたらいいのか今の心理学ではまだわからないというのが一番誠実な答えです
誠実に受け止めさせていただきます
4.病前性格についての補足
> これが否定されると体質と精神病の関係が破産する,という性質のものではないと思います
はい。そういう性質のものではありません。
わたしが言及したかったのは
> その病気が発病する前から病気の種類に応じて一定の(多くはあまり望ましくない)性格特徴を示すこと
は確かなのかどうか、ということです。体質と精神病の関係はあっても、精神病と性格特徴とは無関係でも矛盾はありません。クレッチマー説にあっては、精神病と性格特徴とが関係なくなったら、性格類型論としては破産してしまうでしょうということです。但し、渡邊さんの説明では、関係性が認められているように思えますが、「性格特徴」の意味がもうひとつ不明瞭ですし、クレッチマー説に対する渡邊さんの"姿勢"と考えあわせると、どうもこの問題についてのこれ以上の議論は殆ど意味が無さそうではあります。
5.ああ、今回もこの話題になっちゃうのかなー
さて、渡邊さんの議論は、わたしの心理学者に対するイメージを一新させるに充分なものです。丁寧で真摯な解説は本当にありがたく思っています。なにはともあれおしゃべり大好き人間であるらしい、という思いもあります(笑)が、これは勿論、"否定"的な意味ではありません。
しかし、この一文はどんなもんかなあ。
> (多くはあまり望ましくない)性格特徴を示すことです.典型的なのが精神分裂病における「神経質」などです.
人の行動や言辞、感情の発現にある種の"まとまり"を見い出し、「パーソナリティ(人格)」という概念で表現したのは心理学の成果に違いありません(渡邊さんが如何に否定しても・笑)。しかし、その「概念の表現」に価値判断を付け加えてしまったのは心理学の大きな過誤であったと思います。その"成果"が、近年ハヤリの「ネクラ」から「オタク」に至る差別扱いであり、「あいつ、結構シンケイシツだよね」という言い方の差別的な使われ方です。
どうも印象としては社会心理学者に多いようなのですが、血液型性格判断は新たな差別の温床である、みたいなことを言い、その例として「A型は神経質」という表現をあげるのです(勿論わたしもowadaさんも能見さんもそんなことは言ってません)。「あまり望ましくない」という価値判断込みで「神経質」という言葉をばらまいたヤツ(=心理学者)にそんなこと言われたくはありません。
渡邊さんも、ごく自然に「神経質」=「あまり望ましくない性格特徴」なのですか!?
拙いながらも申し述べておきます。
人の心的成長は「自我」の形成であり「自己の存立基盤」の確立でしょう?その、精神的基盤に関連するコトには誰だって「他人以上に気にかかる(=神経質になる)」わけで、逆に言えば、そうした「神経質」な部分を持つことが「心的成長」の証しなのではないですか?つまり、誰もがナニかに神経質なのだ、ト。だから、全人格の表現としては不適当である、ト。神経質な部分を欠点扱いしてはいけない、ト。そういう発想が必要だったのではないか、ということです。
更に言っておけば、クレッチマー説では躁鬱(質)性格の特徴として、陽気でおおらか、なんちゅうことが言われています(大笑)が、「陽気」や「おおらか」も「あまり望ましくない性格特徴」なのでしょうか(ま、こういう絡みは反則かなー)。
6.「立証責任」を巡ってちょっと
渡邊さんとの議論がどこまで噛み合うか、のポイントは、精神活動の発露としての性格(言ってみれば"ソフト")とその対象しての実体(言ってしまえば"ハード")との関係をどう考えるか、ということのように思います。
わたしは、本業は、いわゆる"コンピュータ技術屋"でして、(コンピュータに限らず)「ハード」の性質と無縁の「ソフト」の性能って殆ど考えられません。但し、考え方として、ハードに依存しないソフト、というのはありますし、その方向での評価も勿論あります。しかし、それはハードの影響を免れ得ないものだからこそ、そういう評価がアリなのだということでもあるわけです。ソフトの性能として、ハードの影響が殆ど問題にならないことってのはありますが、それをもってソフトとハードの関係は無いと言えるわけではありません。
渡邊さんは、「関係がある、と主張する側に立証責任がある」とおっしゃいますが、わたしの感覚では、"ハード"の性質とは無関係に"ソフト"の性質を論じうる、という立場の方がよっぽど奇異でして、なぜ切り離して考えてよいのか、という立証責任があるんじゃないの、と言いたくなってしまいます(笑)。
勿論、関係ないという前提で、ハードと切り離して純粋にソフトの性能のみとして評価してみる、という立場はありますし、そうして得られるモノの価値を認めないのではありません。
しかし、生物学が生態学や博物学の範疇から分子生物学へと主流が移ったように、史学が年代測定に放射性同位体(14C)の濃度計測を取り入れたり、というように、既存の「守備範囲」にこだわり続けてはいられないことは明白で、(性格)心理学も、遺伝学の知見等を積極的に取り込むスタンスが必要なのではないでしょうか。(血液型と性格の関連についての知見もネ、という言葉をグッと呑み込む・笑)
ABOFANへの手紙(11)
ABOFANさん曰く...
> 今回は、わりとまとまともな返事が書けたかと思いますが、どんなものでしょうか?
論点満載,という点ではたしかに実にまともですね! やる気が出ます.その結果原稿用紙にして60枚分も書いてしまいました(今日はさすがに疲れた!).
1.竹内説の問題
> ところで、竹内説に対する主な反論は、
>
> 1.O型が本当に感染症に強いかどうか疑問である
> 2.たとえO型が感染症に一番強いとしても、自然淘汰で「社交的」な人が多くなる、と
> いう仮説は(事実上)実証不可能である
> 3.自然淘汰で性格が変わるなら、その地域で一番多い血液型(日本ならA型)が一番
> 「社交的」になるはずである
>
> というようなものです。渡邊さんも、このような理由で竹内説を疑っているのだと思
> います。違うのでしょうか?
私は2が一番近いですが,つまり竹内論理によればどんな血液型とどんな性格との関係も説明できてしまう,という点が問題だと思います.つまり概念と論理が「オープン」になってしまっているのです.だから,もしデータが出てきても見る価値なし.(もっとも,ABOFANさんに指摘されて竹内さんの本見直してみたら,竹内さんが示しているデータは「血液型と感染症」のものだけでしたが...)
1は反証可能な命題なのでデータの問題,ABO血液型は基本的に免疫体型なので関係あるかも知れないのでデータさえよければあるかも.しかし,血液型と感染症が関係あり,(もしあるとして)感染症が性格と関係あるというデータがあっても,この2つのデータだけでは「血液型と性格が関係ある」とはいえません.これは次で論じます.
2.相関係数と疑似相関の問題
> 1.(特定の状況での特定の)行動と性格検査(の特定の項目)には相関がある
> 2.血液型と性格検査(の特定の項目)には相関がある
> 3.従って、血液型と(特定の状況での特定の)行動には相関がある
>
> どうやら、意見が違うのは3だけのようです。しかし、3は1と2が成り立てば(程
> 度の差はあっても)自動的に成り立つ…はずです。それは、相関係数の計算方
> 法に戻って考れば明らかだと思います。ここでは、具体的に計算してみます。
これは竹内問題とも関連しますが,重要なのは「相関係数が出る」ということと「実際の関係(とくに因果関係)がある」ということは,区別しないといけないということです.
ここでABOFANさんが純粋に統計値としての「相関係数」だけを問題にしているのなら確かに上の1から3まですべて正しいのですが,私にはそうとは思えません.
「相関がある」ということを「ある種の因果的関係」の指標とみている,つまり相関があるのだから「血液型と行動には関係がある」あるいは「血液型が行動に影響する」という主張をしていると私には読めます.そうであれば「必ずしもそうとは言えない」といわざるを得ません.
確かに「AとBに相関,BとCに相関」の場合,計算上は「AとCに相関」になるのですが,これと,実際に「AとCに関係がある」こととは必ずしもイコールではありません.2変数間の相関係数は,2変数が直接関連しているときにも検出されますが,単に2変数がそれぞれ同じひとつの変数と独立に関連しているときにも検出されます.
例を挙げましょう.
ある家でニワトリを飼っていて,そのニワトリは毎朝7時ちょっと前に鳴くとします.
その家のお父さんは毎朝7時ちょっと過ぎに出勤するとします.このとき,ニワトリが鳴くこととお父さんが出勤することとの間には高い相関が検出されるでしょう.ニワトリが鳴いた後に必ずお父さんが出勤するからです.
では,これを「ニワトリが鳴くこととお父さんが出勤ことには深い関係がある」とか,「ニワトリが鳴くことがお父さんが出勤することに影響している」「ニワトリが鳴くからお父さんが出勤する」などと結論することは正しいでしょうか.
正しくないですよね.この場合,ニワトリは「朝7時ちょっとまえ」であるから鳴き,お父さんは「朝7時ちょっと過ぎ」であるから出勤するだけで,ニワトリが鳴くこととお父さんが家に出ることは,それぞれ「7時」という時間と相関しているだけで,直接の関係はないのですが,表面上(統計上)高く相関してしまっているのです.ニワトリと「7時」に(ほんとうの)相関があり,「7時」とお父さんの出発に(ほんとうの)相関があり,その結果ニワトリとお父さんに(見かけ上の)相関が生じてしまったわけです.
こうした現象を「疑似相関」,この例であればニワトリの鳴き声とお父さんが家を出ることの相関は「時間を媒介した疑似相関」である,といいます.こうした論理的な錯誤は統計値に限らず,なにかとなにかの関係に関するわれわれの素朴な認識でもよく起こります(注1).
ABOFANさんの例で考えれば,行動と血液型との間に検出される相関は,それらの直接の関係を示したものではなく,「質問紙を媒介した疑似相関」である可能性があり,本当の相関かどうかを知るためには,媒介変数の分散を統制した「偏相関」を算出しないとなりません.つまり,質問紙を媒介しないとき(質問紙の結果が一定であるとき)の行動と血液型とに共分散があることを明らかにする必要があります(注2).
ニワトリとお父さんの例に戻れば「7時でないときにニワトリが鳴いてもお父さんが出発するかどうかを確かめる」ということになります.統計データの場合実はこれは計算上で簡単にできますから,ABOFANさんのデータでぜひ確かめてください.
あれ,データはないんでしたっけ?
簡単にまとめると,たしかにABOFANさんの「論理」上で血液型と具体的な行動との間に相関が存在することはありうるが,それはそのまま血液型と具体的な行動の「関係」を示すものではない,ということになります.竹内さんの論理にも疑似相関かも知れないものを実際の関係と決めつけている部分が多いと思います.前回の段階でこれ(相関と関係の区別)をきちんと説明すべきでした.ごめんなさい.
では次に行きます.
(注1)素朴な認識 相関関係に三段論法の論理を持ち込むのは良くある実例ですが,認知心理学者によると人間は相関関係と因果関係や一対一対応をうまく区別することが本来うまくできないのだそうです.
(注2)質問紙データの疑似相関 これを突き詰めていくと,心理学が仮説の検証に用いている質問紙データを基礎にした相関のほとんどが疑似相関である可能性を秘めています.重回帰分析などでは相関係数そのものでなく偏相関を分析の基礎にすることで,見かけ上の相関ではない「実際の関係」だけを検出する工夫がされていますが.
3.「追試」と質問項目の問題
さて,もうひとつ「技術的」なことを述べておきます.ABOFANさんが「心理学者が能見説をきちんと追試していない」という論拠のひとつに,「能見さんの質問項目をそのまま使っていない」というのがありますが,ここでは「血液型と性格評定に関係があるか」という仮説と「能見項目が血液型を弁別するか」という仮説が混同されているように思います.
心理学者はあくまで「血液型と性格評定に関係がある」という仮説を追試しようとしますから,自分たちの理論や経験から「よりよく性格評定データを採取できる」項目群を用いて,それと血液型との関係を調べることで,仮説を追試しようとするでしょう.このことにおっしゃるほどの問題があるとは思えません.
それより,ABOFANさんのおっしゃるように,性格について同じようなことを尋ねる2つの評定項目があって,その片方が血液型と相関し,片方は血液型と相関しないなら,ふつうの心理学者的感覚だとABOFANさんのように「相関しない項目に問題がある」と考えるよりむしろ「性格評定と血液型の関係はあまりあてにならない」と考えます.
たとえば,
- 私はよく人の不幸を喜ぶ はい..どちらでもない..いいえ
- 人の不幸を喜ぶほうだ はい..どちらでもない..いいえ
という2つの項目があるとします.答えてみてもらえばわかると思いますが,この2項目間の相関はかなり高くなるでしょう.1は「はい」だが2は「いいえ」,あるいはその逆,という人はあまり多くないでしょう.
このふたつの項目は実質的に同じ内容を測定しており,項目間のデータの差異(相関しない部分)は,ことばの言い回しや順番といった,本来それらの項目が測定しようとしている本質とは別の「誤差要因」によるものと考えられます.
このとき,1は血液型と相関があり,2はないとしたら,それはなにを意味するか.2つの仮説が考えられます.
- 血液型と「人の不幸を喜ぶ」性格傾向と関係があるのだが,項目2は「人の不幸を喜ぶ」ことをうまく測定できていないため,血液型との相関が出ない.
- 血液型は「人の不幸を喜ぶ」性格傾向とではなく,項目1が持っている特殊な誤差要因と相関している.
どちらをとるかには項目1と項目2の相関が目安になります.項目間の相関が十分に高ければ(.80くらい以上あればいいでしょう),仮説2が正しい確率が高まりますし,項目間の相関が低いほど,仮説1が正しい確率が高まります.
ABOFANさんの主張される問題でも,まずは類似する「能見項目」と「心理学者項目」の相関を明らかにすることが問題を明確にするでしょう.
質問紙データにおけるデータの分布や項目間の相関は,その項目が本来測ろうとしている対象とは無関係に,項目の形式や使うことば,言い回しなどにも大きく影響されます.分布で言えば,「私は〜だ」式の質問より「私は〜のほうだ」式の質問のほうが一般に正規分布しやすいとされますし,相関で言えば,尋ねている内容が全く違っても「〜なほうだ」「〜しやすい」などの語尾が同じだったり,「どちらかというと」などの語頭が同じだったりする項目同士には,一定の相関が検出されることもわかっています.極端な話,まったく内容も形式も違う質問項目でも,同じ質問紙の近い位置に印刷されているだけで,有意な相関を示したりする場合もあるのです.
これを質問紙調査における「方法による分散」といいます.つまり,質問紙の項目への反応(粗データ)は,
本来のデータ+方法による分散+項目毎の誤差+個人の反応傾向+その他の誤差
という複合体なのです.その意味では,さまざまな方法によって,さまざまな項目で,さまざまな個人から採られたデータに共通してみられるものこそが,「本来のデータ」そのものに一番近いと言えます.
その点で,血液型と性格評定の関係が,項目によって出たり出なかったり,性格検査の種類によって大きく違ったりするという事実は,血液型が性格評定あるいは「性格そのもの」よりも,特定の項目や評定方法などの「誤差要因」と相関しているに過ぎない可能性を示唆します.
本当に関係あるのなら,多少の項目の違いで相関が出たり出なかったりはしないのではないか,ということです.その点で「血液型と性格の関係は微妙なものだからそれを検出できるような項目を使わないとダメなのだ」というABOFANさんの主張は,少なくとも質問紙データの一般的な扱い方,という面からは承認できません.
ちょっと「統計の話」をしすぎました.闘争的論争ではできるだけ相手の土俵に乗らないのが鉄則(笑)なので,次は私の土俵に戻ります.
4.「一貫性問題」と「首尾一貫性」
やっとこの問題にたどり着きました.道のりは長かった(涙々).
4.1 一貫性のなにが問題か
> 1.パーソナリティは個人のユニークさを反映したものである。
> 2.パーソナリティは持続的で安定したものである。
> 3.パーソナリティやパーソナリティの行動としての表出は、個人の中にある力あるいは
> 傾性によって決定される。
>
> 注意しないといけないのは、2はどんな環境(!)でも「持続的で安定し」てないとい
> けないことです。もちろん、怖い上司に対しても、配偶者に対しても、近所の人に対し
> ても、そして赤の他人に対しても…、です。私は日本人ですから、この定義は非常に奇
> 妙に感じますが、心理学はもともと欧米人が対象ですから別に奇妙ではないのでしょう
> 、たぶん。
「一貫性論争」の根本問題はこの「2」をどう考えるのか,ABOFANさんが奇妙に感じるような「環境(状況)を通じた」一貫性(通状況的一貫性)を性格に仮定するのか,それとも仮定しないのか,ということだったのです.
先入観なしに考えると,「通状況的一貫性」の仮定というのはABOFANさんがいうようにほんとうに奇妙なものです.ところが,心理学理論ではこれがなぜか自明とされ,実践もそれを前提にして行なわれてきました.その典型が,性格検査です.性格検査が役に立つと考えることは,ふつうは性格検査の結果が状況を越えてその人の性格や,それに関連する行動を説明・予測できると考えることです.
たとえばミシェルが例の本を書く前1960年代前半に,最初に性格検査に疑念を持ったのは,アメリカがベトナムに派遣する「平和部隊」(青年海外協力隊のようなもの)の隊員たちが,アメリカで採用時に行なった性格検査結果と全く矛盾する行動をベトナムで示すという事実でした.
隊員の採用に携わった心理学者たち(たしかミシェルもその一員でした)は,性格検査によってたとえば「友好的で親切心に満ちた」性格の人間を選んでベトナムに送り込めば,ベトナムでも現地の人たちに受け入れられ,愛される行動をして,アメリカの国益を利するだろうと,なんの疑問もなく信じていたわけです.ところが,青年たちの多くはベトナムに行くと全く友好的でなく,親切でもなかった.
この経験からミシェルは一貫性への疑問を展開し始めたわけですが,ことさように心理学者(少なくとも欧米の)というものは,性格というものが状況を越えて強固に一貫しており,ある場面で性格が理解できれば,他の場面でも例外なくその「理解」が役立つと信じていたようです.その信念が強固だっただけに,ミシェルの本の後の論争が大沸騰したりセンセーショナルに扱われたりしたのでしょう.
たしかに,日本人から見るとミシェルの主張の方がもっともで,私も初めて彼の本を読んだときから非常にすっきり納得できました.しかしアメリカではそうでもなかった.ABOFANさんのいうような,文化的,民族的な問題は実際にあると思います.彼らはわれわれよりも一貫していることに価値をおいているとともに,自分が一貫していると信じているのは確かです.
聖書の登場人物と,たとえば伊勢物語の登場人物と比べたら,伊勢物語の登場人物は全然一貫性ないし,それ以前に性格ってほどはっきりした「自分」って,ないですよね.聖書はみんな著しく一貫してるし,性格もはっきりしてる.もし性格理論が本来日本で生まれたものだったら,一貫性の仮定なんて誰もしなかったし,性格検査なんてアホなものも生まれなかったかも知れないし,そもそも性格心理学なんてクダ.....(以下自主規制).
ちょっと話はずれますが,社会心理学のいろいろな理論などでも,日本人のわれわれから見ると「こんなことねえよ」とか「こんな行動しねえよ」と思うようなことがいっぱいあるわけですが,留学してきた人に聞くと,アメリカ人はいかにも社会心理学理論通りの行動や言動をしばしば示すのだそうです.社会心理学はMade in U.S.A ,心理学理論の文化負荷性みたいなこともちゃんと考えた方がいいですよね.
そんなことですから,日本ではほとんど誰もこの問題をまじめに考えていませんでした.ミシェルの本が出た実に20年後の1988年頃に私と佐藤達哉がこのことで騒ぎ出す前に,ミシェルの本や主張のことが日本で紹介された例はわずかに3件,すべてアメリカ留学経験者(すごい論争を見てきた人)によるものです.また,われわれが騒ぎ出しても多くの日本の性格心理学者の多くは「俺たちもともと性格が一貫してるなんて言ったことないもんね」という態度でした.これは今でもそうで最近も「そもそも渡邊が批判するような一貫性論者など実際には一人もいない」などと書かれている(クヤシイ!コロス!).
でも,これがすごく矛盾してることはわかりますよね.たしかに日本の心理学者は通状況的一貫性を前提に「考えて」はいなかっただろうけど,彼らがもっぱら頼り,自分の仕事の前提にしてきた「輸入理論」や,実践で使ってきた「輸入テスト」は通状況的一貫性を前提にしているものなのですから.それ「知らなかったわあ」みたいなことで済むのでしょうか.このことは,もちろん日本の性格心理学者たちが海外のテストを換骨奪胎して大量生産している「国産性格検査」でも同じことです.そんなもので就職がダメになったり少年の保護処分が左右されたりしているしている現実に怒れ国民.
4.2 通状況的一貫性と首尾一貫性 〜 性格の「実在」について
個人的な怒りはこのくらいにして(笑),先に進みます.20年にわたる一貫性論争の中で明らかになったのはおおまかに言って以下のことです.
- 「性格」ということばで示されるような,人の行動の個性的な特徴には,通状況的一貫性はない.
- 性格は「個人の中にある力あるいは傾性によって決定される」のではなく,個人の内的要因と環境・状況との相互作用によって定まる.
- 性格検査や評定は,人の性格を性格認知を媒介して測定しているものである.性格認知は一定の状況的・文脈的限定を受けるし,多くの錯覚や歪みを伴うものである.
3はすでにずいぶん論じているのでここではとりあえず置いておいて,1と2の方を考えていきます.
1と2によって,従来の考え方でいう「性格」の存在は否定されたといってよいと思います.その意味では「性格などというものは存在しないのです.しかし,そのことがイコール,「われわれが日頃感じているような性格の存在はすべて錯覚であり,それに対応するような事実は存在しない」ということになるわけではありません.
これはこれまでも何度も触れてきたことですし,ABOFANさんからも説明があった(笑)ことですから,結論だけを言いますが,われわれの行動にはそれぞれの個人特有の,規則性を持ったパターンが(今のところ客観的に実証はされていないとはいえ)確かにあります.その意味では「性格は存在する」し,それは私が提案するような客観的な研究手法によっても必ず検出されると思います(注3).
しかしそれは従来の心理学が考えていたような内的過程によって決定される通状況的一貫性をもったものではなく,その人がその中で過去から現在を生きて来,そして現在その中で行動している環境・状況と深く結びつきながら「経時的安定性」を持ったパターンなのです.このように,行動に現われる個人的な規則性のパターンが,状況との相互作用の中で安定性を持って示されることを性格の「首尾一貫性(coherence)」といいます.首尾一貫性の考え方は性格の相互作用論の中核的な概念のひとつです.
通状況的一貫性と首尾一貫性の一番の違いは,通状況的一貫性は状況のいかなる変化をも越えて示されると仮定されるのに対して,首尾一貫性は一定の状況との関係においてしか保証されないことです.
たとえば会社で「面倒見のいい人」がいるとき,通状況的一貫性の立場では,会社での観察だけをもとに,その人は家庭でも,自分の住んでいる町内などでも,やはり面倒見が良いという傾向が大なり小なり現われるだろう,と考えます.
いっぽう首尾一貫性の考え方では,その人の「面倒見の良さ」は会社という状況とその人との相互作用で定まっており,会社という状況においては今後も安定して示されるだろうと考えます.しかし,家庭や町内でそれがどうなるかは,会社の状況と家庭や町内での状況との類似性や差異の関数となり,会社での観察だけからは何とも言えない,と考えます(注4).
そういう意味で「血液型性格判断」のように,状況をとくに考慮しないで「O型は面倒見がよい」とか「B型はマイペース」とか考えることは,古い通状況的一貫性の性格観に基づいているといえます.これはクレッチマーなどの遺伝で性格が決まるというような考え方についても同じですし,世の中にある性格検査,「性格判断」のたぐいはみな同じ,私にとってはすでに受け入れられない考え方です.
ABOFANさんのいうように,確かに能見さんも状況を無視してはいないかも知れませんが,「O型の目的志向性の強さが,長所としては実行力に,短所としては強引さにつながる」といった記述が,状況との相互作用をそれほど考慮しているとは思えません.前にも言ったように,能見さんの性格観はそういう意味でも徹頭徹尾伝統心理学的なのです(注5).
(注3)性格は存在しない これまでの議論の中で私は,その時々の論点にあわせて,「性格が存在しない(かもしれない)」と主張する場合の「存在しない」ことの意味をいろいろ使い分けてきました.その点は今回の議論で明確に整理されると思いますが,これまで混乱させたことをお詫びします.
(注4)こうした相互作用論における性格のあり方,首尾一貫性の問題については私はこれまでさまざまな場所に詳しく書いてきましたので,ここではあまり詳しく述べません.興味のある方は以下の参考文献を参照ください.
渡邊芳之「相互作用論・状況論から性格をとらえる」杉山憲司・堀毛一也編「性格研究の技法」福村出版,1999,152-159
渡邊芳之「性格の一貫性と新しい性格観」現代のエスプリ372「性格のための心理学」至文堂,1998,118-124
(注5)ABOFANさんはどこかのページに「自分の努力が少しでも能見正比古,俊賢さんのお役に立てたらうれしいです」みたいなことを書いておられましたが,ここでの議論だけを考えると,ABOFANさんは能見正比古説を擁護しているというより,それを自分なりに換骨奪胎して違う世界に入っている気がします.それは,私はよいことだと思いますが.
4.3 性格における「ハード」と「ソフト」
さて,唐突ですが最大素数さんはメールの中で以下のように書かれました.
> 渡邊さんは、「関係がある、と主張する側に立証責任がある」とおっしゃいますが、わ
> たしの感覚では、"ハード"の性質とは無関係に"ソフト"の性質を論じうる、という立場
> の方がよっぽど奇異でして、なぜ切り離して考えてよいのか、という立証責任があるん
> じゃないの、と言いたくなってしまいます(笑)。
> 勿論、関係ないという前提で、ハードと切り離して純粋にソフトの性能のみとして評価
> してみる、という立場はありますし、そうして得られるモノの価値を認めないのではあ
> りません。
あいかわらずオイシイところを突いてきますね(笑).
私は別に「"ハード"の性質とは無関係に"ソフト"の性質を論じうる」と考えているわけではありません.問題は,性格という問題において「ハードの性質」をどう考えるか,そして,性格心理学が最も重視する「対象」と「ハードの性質」がどのように結びつくのか,ということです.
性格が内的要因と状況との相互作用であるなら,内的要因というハード部分の重要性は無視できない,性格の形成にハード部分も重視すべき,それはそのとおりです.しかし,実際の研究において相互作用のさまざまな要因のうちどれを重視し,どれを相対的に軽視するかはその学問の「目的」,つまり性格心理学がそもそもなにを明らかにしようとしているか,と密接に結びつきます.
性格心理学がこれまで最も重視し,これからも重視するであろう対象は「ある人が現実に示した/示している/示すであろう性格の具体的なありさま」という意味での「性格の様態」です.したがって性格心理学は,性格の様態をいかに記述し,説明し,予測するのかということを基本問題として常に持ってきたし,これからもそうです.
そして,相互作用論の立場をとるとすれば,相互作用に関わる諸要因のうち「相互作用の結果として首尾一貫性を持って生じる性格の様態に大きな影響力を持つ」要因は重視し,そうでない要因は相対的に軽視することになります.
要因間の相互作用がある様態を作り出しているときに,相互作用全体におけるその要因の重要性と,様態を決定するときの影響力は必ずしも一致しません.このことは「手紙(4)」の第2部で「遺伝と環境」の問題として詳しく述べました.性格においても,性格を作り出す相互作用全体の中で遺伝などの力が占める割合はかなり大きいでしょうが,こと性格の様態の決定においては,遺伝単独の決定力はそれほど大きくないことが予想されます.
それは,性格において遺伝や生理的・内的要因が規定するものが,おもに「状況に対応してさまざまな性格を表出する能力」と「表出されうる性格のレパートリー,および限界」だろうと考えるからです.つまり,内的要因と状況との相互作用において内的要因が提供するのは具体的な性格の様態ではなく「状況に応じていろんな性格になれる能力」と,「どんな性格にはなれて,どんな性格にはなれないかという限定」だけなのではないか,ということです.
このとき,相互作用による性格の形成はこうした内的要因の力に非常に多くの部分を依存しますが,具体的にどういう性格になるかは,もっぱら状況によって決まる,ということが生じます.そして,性格心理学が研究対象にするのが主に性格の様態であるなら,内的要因よりも状況を重視することにはなんの無理もありません.
コンピュータの比喩が出ていたと思うので,私もそれに乗ります.コンピュータがなんらかの機能を発揮するためには,ハードとソフトの双方が必要で,どちらかかが欠けても機能しません.その意味で,コンピュータの機能を考える上ではハードとソフト両方を考慮する必要があります.
しかし,もし私がコンピュータのふるまいだけに興味を持つ,たとえば,それがワープロとしてふるまうか,統計処理マシンとしてふるまうか,ウエッブブラウザとしてふるまうか,そのコンピュータが結果としてどのような作業結果を生み出すかだけに興味があるとしたら,どうでしょう.私はそのコンピュータにどのようなソフトウエアがインストールされているかさえ知れば,目的のかなりは達成されます.
コンピュータは,与えられたプログラムによって多彩な機能を実行できる機械です.
もちろん,どのようなプログラムを実行できるかはその機種の構成や,接続されたI/O機器などによってある程度限定されますが,そのコンピュータが「なにをするか」を決めるのはもっぱらプログラムの役目です.
たとえばマイクロソフト・オフィスは,一定のOS(これもソフトウエア)と組み合わされていれば,Intel8086系CPUでも,モトローラ68系でも(古いバージョンですが...),PowerPCでも動きます(Sparc系はどうでしたっけ?).私がそのコンピュータでワードを使えるかどうか知るために,そのマシンのアーキテクチャについて知る必要はなく,ただ単に「ワードがインストールされているか」を問えばよい.
確かにCPUの速さが処理速度に影響したり,MOの接続されていないコンピュータではMOは使えなかったりといったハードの影響はありますが,コンピュータのふるまい自体についてはソフトウエアさえ把握していれば予測できるのです.
このとき,コンピュータのハードウエアが人(の内的要因),ソフトウエアが状況,そしてコンピュータのふるまいが性格の様態と考えれば,性格のレパートリーと範囲の限定はハードによって規定されるが,実際に行動に首尾一貫性を持って現われる具体的な性格の様態はソフトウエアによって決定される,だから性格の様態に興味がある性格心理学者は,主に状況に興味を持つ,というふうに説明することができると思います(注6).
たしかにCPUの速さがパフォーマンスに影響するように,人のハード的要因が性格に影響することはあっても,それは主に量的な影響であって,具体的な性格の様態のような質的なものではないとも思います.そもそも,われわれ人類が持っている内的要因の個人差は,たとえばインテル80X86CPUとPowerPCのアーキテクチャの違いほど大きいものなのでしょうか.
もちろん,これはあくまでもあくまでも比喩ですけれどもね.
> しかし、生物学が生態学や博物学の範疇から分子生物学へと主流が移ったように、史学
> が年代測定に放射性同位体(14C)の濃度計測を取り入れたり、というように、既存の
> 「守備範囲」にこだわり続けてはいられないことは明白で、(性格)心理学も、遺伝学
> の知見等を積極的に取り込むスタンスが必要なのではないでしょうか。(血液型と性格
> の関連についての知見もネ、という言葉をグッと呑み込む・笑)
守備範囲にこだわるなって,そりゃあもちろんです.でも守備範囲を広げる方向は遺伝などの内的要因に向けてだけじゃなく,環境・状況という外的要因であっても良いわけでしょう? すくなくともそれらもこれまでは性格心理学の守備範囲ではなかったわけですから.
(注6)人間のソフトとハード 最大素数さんは環境・状況をソフトと考えたわけですし,ここでは私もそう考えています.しかし実際の人間とコンピュータの違うところは,コンピュータはハードの「内部」にプログラムがロード(懐かしいことばの響き!)されていて,その状態で「環境・状況」と向き合うわけですよね.認知心理学者なんかが人間をコンピュータの比喩で考えるときにはそういう意味でプログラム部分も内的要因と考えていると思います.しかし私としては「じゃあそのプログラムは誰が書いてどうやってロードするんじゃ?」と思いますけれども.
5.「フロイト」の問題
つづけて最大素数さんのメールについて.
> しろーとの印象としましては、この手の問題は、「フロイト」の「総括」が一つの鍵の
> ように思っています。もっとあからさまにいえば、いかにして「フロイト」を振っ切る
> か、「無意識」という呪縛から脱却できるか、でしょう。そういう意味では「行動分析
> 」という方向は間違っていないように思うのですが、今のところ従来の性格観に対する
> アンチテーゼとしての「存在」に留まっているようです。もっと「振り子」が振れて、
> アンチテーゼとして「機能」してくると面白いかなあ、なんてね、ここまで偉そうに言
> うことはないんですが・・・。
なるほど.むふふふふ.
心理学史におけるフロイトの功績は,「意識が人の行動を決定しているわけではない」ということを初めて明らかにしたことだ,と私は考えています.それまではこころ=意識であって,人間の行動は意識によって制御されていると考えられていました.したがって心理学は意識の哲学,または意識の科学だったわけ.
フロイトによってその呪縛が解かれると,フロイト本人は「人間の行動を制御している,意識ではないもの」として,意識よりもっと「内側」に「無意識」の存在を仮定するようになりました.これが精神分析学.
その一方で,おなじように行動を制御する意識ではない存在として,外部の環境の力を考えたのが「行動主義」,その末裔が現在の「行動分析学」です.
じゃあ一般の心理学はどうだったかというと,「意識の科学」という呪縛からは結局現在も抜け出せていません.ただ,表面的に行動主義を取り入れて「意識=こころ」を行動データから分析しようとしたり,認知科学のことばだけを取り入れて意識を「認知システム」などと呼び変えたりしているだけです.
つまり,フロイトの「大発見」にきちんと対応したのは精神分析学と,それとは対極的な道を選んだ行動主義=行動分析学だけで,心理学の主流はまだ「意識が行動を制御する」というテーゼから完全に抜け出せてはいません.さまざまな「心的概念」をあいかわらず理論モデルの中に生かしていたり,質問紙など被験者の意識報告を基本的なデータにしていることからもこれは明らかです.
そういう意味では,フロイトをふっきると言うよりも,フロイト以前をふっきることの方が大事なんですよ.また,フロイトの発見に対する心理学からの唯一の答えが行動主義だったとも言えるわけで,それを結局使いこなさずに「古いもの」として切り捨て,先祖帰りした「意識の科学」になろうとしているのが認知心理学に代表される現代心理学です(注7).
(注7)古いもの 実際にはほとんど正しく使われないうちに古いものとして葬り去られようとしているものとして,この行動主義,社会主義,そして日本国憲法などがあります.どの場合も,それらに替わって主流になろうとしているものはすべてもっともっと古いものの焼き直しです.
6.性格の評価の問題
最後にこれも最大素数さんのメールから.
>> (多くはあまり望ましくない)性格特徴を示すことです.典型的なのが精神分裂病に
>> おける「神経質」などです.
>
> (中略)
>
> どうも印象としては社会心理学者に多いようなのですが、血液型性格判断は新たな差別
> の温床である、みたいなことを言い、その例として「A型は神経質」という表現をあげ
> るのです(勿論わたしもowadaさんも能見さんもそんなことは言ってません)。「あま
> り望ましくない」という価値判断込みで「神経質」という言葉をばらまいたヤツ(=心
> 理学者)にそんなこと言われたくはありません。渡邊さんも、ごく自然に「神経質」=
> 「あまり望ましくない性格特徴」なのですか!?
> 拙いながらも申し述べておきます。
ああ,やっぱりこうなってしまった,と私も思いました.
私の文で「(多くはあまり望ましくない)」とカッコ付きで,追加的に書いてあるのは,書こうか書くまいか迷ったからです.ここでは「精神科医はその病前性格の持つ望ましくなさの部分を精神病の兆候と見ようとする」という意味で,わかりやすくするためと思って書いたのですが,失敗でした.
私は心理学が「性格に良いわるいはない」などといいながら価値判断を加えてきたことをはっきり認識しており,それを学会発表で問題にしたこともあります(注8).
私自身は「神経質」なんて一貫した性格特徴はないと思っていますし.....ってこれはあまりに詭弁か.まあ自分自身の性格認知としては自分は神経質で,それは私の学者としての資質には基本的にプラスになっていると考えています...くらいで勘弁してください.これは明らかに私の不注意でした.
(注8)学会発表 以下の論文集は入手しにくいと思いますので,お入り用でしたら私までメール(ynabe@obihiro.ac.jp)をください.
渡邊芳之・佐藤達哉 「よい性格」と「わるい性格」〜性格について価値判断すること 日本性格心理学会第3回大会,論文集38 1994年7月
かなり議論がかみ合ってきたようで、非常にうれしいです。(^^)
1.竹内説の問題
> 竹内論理によればどんな血液型とどんな性格との関係も説明できてしまう
そんなことはないと思いますが…。私の言いたいことがよく伝わらなかったのでしょうか? いや、竹内説の間違いをもっと私に説明させようという戦術なのかもしれません。(^^;;
そこで、極めてシンプルに説明しておきます。
まず、O型の遺伝子型はOOですからホモです。遺伝子型がホモの場合は、その型(遺伝子型がOO、AA、BB)だけで遺伝・存在することが可能ですね。つまり、O型は感染症に強いから生存に適している、という竹内説が正しいとすると、O型がどんどん増え続けることになります。計算するまでもなく、何百何千世代後には、A型、B型、AB型は消滅し、O型だけが残ることになる…はずです。
ところが、実際にはO型だけの人種や民族は極めて珍しいのです。私が知っているのは、南米のネイティブアメリカンぐらいですから…。例えば、日本人にはO型だけではないのですから、「O型は(感染症に強いから)生存に適している」という竹内説は、日本人については明らかに間違っていることになります。(^^;;
2.相関係数と疑似相関の問題
相関関係があったとしても疑似相関かもしれず、必ずしも因果関係があるとは限らない、という渡邊さんの説明は全くそのとおりです。となると、心理学の論文で、因果関係を分析したものはほとんどありませんから−少なくとも私が読んだ限り−心理学は壊滅状態になる…はずです。
#普通の相関係数だろうが、偏相関係数だろうが、それだけでは因果関係は証明できません。
ところで、相関関係がある場合には、因果関係が後日証明されるケースもあるのです。具体例をあげておきます。
まず1についてです。
O型の人が胃潰瘍になりやすいことは、統計的には以前からわかっていたのです。しかし、この仮説に否定的な人からは「相関関係があるとしても、血液型と胃潰瘍には因果関係があるとは言えない」と言われてきました。しかし、つい最近、ある種の胃潰瘍を起こすメカニズムが解明され、やはりO型は胃潰瘍になりやすいことが証明されたのです。つまり、「相関関係があるとしても、血液型と胃潰瘍には因果関係があるとは言えない」という説は間違っていたのです。
若い人にはわからないかもしれないので、2についても説明しておきましょう。脚気は、その昔「江戸わずらい」ともいわれ、明治になってからも日本軍を悩ました病気です。日清戦争(う〜ん、古い!)の時は、戦闘による犠牲者よりも脚気による犠牲者の方が多かったとも言われています。しかし、陸軍では「相関関係があるとしても、白米食と脚気には因果関係があるとは言えない」ということで白米食を続けた結果、日露戦争でも莫大な犠牲者を出し続けることになりました。これに対して、海軍では米食を麦食に切り替えて犠牲者を大幅に減らすことができたのです。その後、脚気はビタミンBの欠乏によることが分かり、「白米食と脚気には因果関係がある」ことが証明されたのです(吉村昭さんの『白い航跡』による)。
ところで、渡邊さんは(ほとんどの)遺伝子組み替え食品は「無害」と信じているのでしょうか? なぜなら、全部の遺伝子組み替え食品が人体に有害なのかどうか相関関係があると証明されているわけではないし、仮に相関関係が証明されていたとしても、因果関係が証明されているものはほとんどない…はずだからです(正確には確認はしてませんが…)。また、日清・日露戦争の兵士は白米を食べないといけなくなります。なぜなら、その時点では「白米食と脚気」は因果関係は証明されていないからです。私は小心者ですから、遺伝子組み替え食品は食べないでしょうし、白米食をやめて麦食にするでしょう、たぶん。
それと、血液型と行動に関するデータはいくつかあります。例えば首相にO型が多いなどの職業別データです。でも、これで渡邊さんが納得するとも思えないので、本来の意味での行動のデータを出しておきましょう。下の表は『新・血液型人間学』のもので、昭和33年秋から14年間の幕内力士うっちゃられ回数ベスト10です。
順位 力士名 血液型 回数 1 青ノ里 B 23 2 開隆山 B 22 3 大 豪 A 21 4 柏 戸 B 18 5 福の花 B 16 6 義の花 B 16 7 明武谷 B 14 8 小城ノ花 A 14 9 北の富士 O 13 10 若秩父 A 12
見たとおり、B型が10人中6人と圧倒的に多いことがわかります。なお、この期間の幕内平均人数は、O型8人、A型が10人、B型7人、AB型3人、不明が6人だそうです。血液型分布を日本人平均として計算してみると、χ2値は9.20となり、危険率5%以下で有意(=B型が多い)となります。
次は、以前に平成9年6月15日に放映されたフジTV系列の「あるある大事典」からです。ある日のある遊園地で迷子になった子供の血液型の数は…
O型
18人
A型
15人
B型
28人
AB型
12人
χ2検定をしてみると、χ2値が19.80にもなるので、危険率は0.1%以下です! つまり、入場者の血液型分布が日本人平均と同じだとすると、偶然でB型の迷子が多くなる確率は0.1%以下でしかありません。
3.「追試」と質問項目の問題
>
心理学者はあくまで「血液型と性格評定に関係がある」という仮説を追試しようとします
>
から,自分たちの理論や経験から「よりよく性格評定データを採取できる」項目群を用
>
いて,それと血液型との関係を調べることで,仮説を追試しようとするでしょう.
具体的にどの論文を指しているのでしょうか? そう言われて調べ直したのですが、「心理学者項目」より「能見項目」をそのまま使う方が多いようです。具体例を書いておきます。
[能見さんの本に]O型の性格としてあげられている8つの特徴を各血液型の人に自分に当てはまるかどうか質問してみたそうです。
項目の内容については、「能見(1984)を参考にして、血液型による差があらわれやすいと予想される性格特性を選び」と書いてあります。
問題に用いた性格特性28個は、血液型性格判断についての数冊の本(略)から抽出したもので、複数の本(最低3冊)に共通して現われていた項目を使用した(A型問題7問、B型問題7問、AB型問題7問、O型問題7問)。
心理学オリジナルのものは、以前に書いた松井/坂元論文と、大村さんの一部の論文ぐらいだと思いますが…。
ここで問題なのは、「能見項目」を使うなら、本のアンケート項目をそのまま使えばいいのに、そういうケース極端に少ないのです(私が知る限り1件のみ)。しかも、能見正比古さんのアンケートについては1件もありません! なぜわざわざそんなことをするのでしょうか? この質問も10人ぐらいにはしたと思いますが、明確な回答は1人もありませんでした。
また、ある心理学者から、「能見さんと全く同じアンケートをすると全く同じ結果になるからやらない」という回答をもらいました。本当かどうか知りませんが、こうなると何をかいわんやです。(*_*)
>
その点で,血液型と性格評定の関係が,項目によって出たり出なかったり,性格検査の
>
種類によって大きく違ったりするという事実は,血液型が性格評定あるいは「性格そのも
>
の」よりも,特定の項目や評定方法などの「誤差要因」と相関しているに過ぎない可能性
> を示唆します.
しつこいようですが、以前に書いた松井/坂元論文は「『誤差要因』と相関している」のではありません。それは渡邊さんも認めていることで、なぜこんなことを書くのか理解できません…。念のため、1つだけ引用しておきます。
メール(その1)
ABOFANさんが心理学の統計技法について指摘することとか,統計的には血液型と性格に差があるということとか,これらは私も本当だと思います.
4.「一貫性問題」と「首尾一貫性」
4.1 一貫性のなにが問題か
全く同感です(笑)。ただ、最後の「現実に怒れ国民」には同感できません。なぜなら、現実には怒っていないからです(怒っているのは私ぐらいでしょう…笑)。では、実際にはどうしているのか? いや、それは私ではなく、心理学者が分析すべきことでしょう…。
蛇足になりますが、仮に渡邊さんが書いていることが本当なら(失礼!)、血液型と性格について日本の心理学会でまともな議論ができないことになります。アメリカの心理学会で大問題になっていても無視できるなら、日本の「俗説」なんか簡単に無視できるはずですから…(苦笑)。
#どうやら、私が心理学会に入っても無視されることが証明されたようです…。
4.2 通状況的一貫性と首尾一貫性 〜 性格の「実在」について
>
「血液型性格判断」のように,状況をとくに考慮しないで「O型は面倒見がよい」とか「B型
>
はマイペース」とか考えることは,古い通状況的一貫性の性格観に基づいているといえます.
全くそのとおりです(笑)。私は、いわゆる「血液型性格判断」は信用していませんから…。
>
ABOFANさんのいうように,確かに能見さんも状況を無視してはいないかも知れませんが,
>
「O型の目的志向性の強さが,長所としては実行力に,短所としては強引さにつながる」とい
>
った記述が,状況との相互作用をそれほど考慮しているとは思えません.
それは違います。能見さんの大ファンを自認している私が言うのだから違うのです(笑)。念のため、もっと詳しい説明をO型のページから引用しておきます。
この現実性が、行動に現れると、O型の目的指向性となる。実生活の上の目的に集中的に突き進む傾向である。生活と遊離した目的には、O型は、それほど熱意を示さない。生きるために直接必要な目的、たとえば職業や仕事を大きくする目的、異性を求める目的、安全を求める目的、そして特に、集団内において力を求める目的などの場合、その集中力が高まる。
そうした目的が目前にないときは、日なたのネコのような状態となり、長く続けばひどく不安定な気分になったりする。
それでも「状況との相互作用をそれほど考慮しているとは思えません」ということなのでしょうか? 念のため、「神経質」についても引用しておきます。この文章は能見ファンなら誰でも感動しているはずですから…。
ここでは『新・血液型人間学』から引用しておきます(101〜102ページ 傍点は下線に変更)。
“神経質”は困った言葉
神経質という言葉は、古代ギリシャの時代から使い古されてきた言葉である。これこそ絶対、性格用語の本命のように思われている。しかし、改めて吟味して見ると、これまた性格を示す言葉としては、使いものにならないことがわかる。
つまり、ある状況の下には神経質だとか、ある方面には神経質であるとか、ないとかは言うことができる。だが、全方向に神経質な人は、まず、絶対といっていいほどいない。ある人は着るものに神経質で、別の人は食事に神経質だろう。その違いが、性格を語るのに重要なのである。
最近聞いたO型のある高級官僚氏は、趣味の音楽鑑賞はうるさく、神経質なくらいと言われていた。その同じ人が、湯たんぽのお湯を平気で煮炊きに使うという。神経質なんてそんなものである。もし病的な神経質で周囲を手こずらせている人がいれば、その人は、周囲の人の感情には、ドンカン、無神経ということになるのだ。
神経質な人の血液型別の方向を、簡単に列記してみよう。お断りするが、これはあくまで神経質と見られる人の傾向である。
O型は身体や健康について神経質。病的な潔癖症や高所恐怖症もある。社会の中での他人の目、好意や悪意にも神経質となる。
A型は周囲の動きや反応、それに対する自分の姿勢に神経質。物事のケジメ、善悪の評価などに潔癖。未来への悲観主義や、仕事などの完全主義傾向も一種の神経質だ。
B型は自分の気分調整に神経質。行動を制約された状態ではイライラ。過ぎたことにクヨクヨ。事実関係の正誤にもうるさい。
AB型は、人間関係で神経質となりがち。対人恐怖症も一部にいる。自分の社会的役割りや仕事面の蝿張り保持に神経過敏。経済生活の基盤がガタつくと、度を失い気味。
以上の例でも判るように、現在、日常で性格を指す言葉として使われているもので厳密には、性格を明示するに足るものは、ほとんどない。大ていは、行動や表現の断片か、せいぜい、前述のタイプに与えられる名称である。正直な性格とかウソツキなどになると、病的な嘘言(きょげん)症を除き、 単に二、三の行動や表現の評価にすぎない。ウソつきは人間共通の性格といったほうが、まだ事実に近い。
より詳しくは、性格の一貫性と血液型にあります。
>
(注5)ABOFANさんはどこかのページに「自分の努力が少しでも能見正比古,俊賢さんの
>
お役に立てたらうれしいです」みたいなことを書いておられましたが,ここでの議論だけを考
>
えると,ABOFANさんは能見正比古説を擁護しているというより,それを自分なりに換骨奪
>
胎して違う世界に入っている気がします.それは,私はよいことだと思いますが.
この文章は少々恥ずかしいので、データのあるページには極力書かないようにしています。(^^;;
もちろん、「自分の努力が少しでも能見正比古,俊賢さんのお役に立てたらうれしいです」という言葉はウソではありません。ただし、「自分なりに換骨奪胎して違う世界に入っている」つもりは全くありません。あくまでも、心理学者の間違っている部分を指摘しているだけです。通常の科学的な仮説の検証と全く同じプロセスを踏んでいるつもりですなのですが…。
言うまでもなく、ある仮説が正しいかどうかを検証するためには、反対の立場からも厳しくチェックしなければなりません。そして、提出されたすべての反論が却下されれば、その仮説は(少なくとも現時点では)「正しい」と認定されます。ですから、私はメジャーと思われる心理学者の反論全部に再反論しているつもりです。その結果、渡邊さん以外はほとんど黙ってしまいました(我ながらしつこい…苦笑)。つまり、少なくとも現在の時点では、能見説は「正しい」のです。あるいは、間違っているとは証明されていない、と言ってもいいでしょう。(^~)
#もちろん、私のやっていることを他の人がどう解釈するかは別の問題ですが…。
次からは、最大素数さんへのメッセージのようなので、私のコメントは省略させていただきます。
毎回どうもありがとうございます。
原稿用紙60枚ってのはものすごい量ですねえ!
「その情熱はどこから来るのか、何がそれを"強化"しているのか」などとお仲間から言われてませんか(笑)。
わたしは楽しく読ませて頂いていますし、勿論多々勉強になっており、大変有り難いこと(字義通りの意味でも!)と感謝しています。ということで、まずは。
1.驚愕と御礼
> その問題だけを2巻にわたって延々と論じた,たしか「心理測定学」という本がありました
近所の図書館でも、都内でも有数の書店でも、該当するような本には未だ遭遇できていません。引き続き探索中ですが、似たような本は幾つかあったのでパラパラ見てみました。
いやあ、無知というのは実際しょうもないもんで、大学の専門課程では「心理測定法」などという講座があったりするのですねっ!!「胡散臭過ぎ」などと言ってしまいましたが、大まじめなんですねえ(大笑)。いやいや、結構けっこう。論理素子を数千万個集めた程度で「人工知能」などと言ってしまうわたしらの業界と同じくらいの妄想癖が感じられ、皮膚感覚的な親しみを覚えてしまいました。学問とか研究とか言ってしまうには、そのくらいの大言壮語を本気で掲げる覇気が必要ですよねっ。うんうん、その言や良しっ(^^)。
ただし、ちょっと立ち読みした何冊かは、いずれも(多分海外の)ネタ本の存在が窺えてしまうような、紋切り型、と言いますか、語句の説明に重点が置かれた書き方で、実践(実戦?笑)的リアリティとでもいったものが感じられず、結局購入しませんでした。
しかしまあ、こういうことがあると、本当に嬉しいものですねえ。ありがとうございました。
2.御礼と留保
2.1.意識と無意識
> 一般の心理学はどうだったかというと,「意識の科学」という呪縛からは結局現在も抜け出せていません
というのは本当ですか!?(疑問ではなく、ビックリの「!?」です)
わたしの印象としては、心理学の解説本って、なんか肝心の部分は「"無意識"領域の解明を待たねばならない」風に、ま、「はぐらかされる」感じが何度かあって、ちとずるいなあ、という思いと同時に、"無意識"という(得体の知れない)概念をいつまで引きずっているんだろう、という思いもあったのです。つまり、"無意識"は、「意識の科学」としての心理学の"足枷"になっているように見ていたのですが、そういうことではないのですね。
とは言え。
> 心理学の主流はまだ「意識が行動を制御する」というテーゼから完全に抜け出せてはいません
の意味はよく解りません。「行動を制御する"存在"としての意識」は心理学のテーゼそのものだと思うのですが、それから「抜け出」す、とはどういう意味なのでしょうか・・・。
> フロイトをふっきると言うよりも,フロイト以前をふっきることの方が大事
「ふっきる」を「捨て去る」と受け取られたのでしょうか。これはどうもわたしの言葉の使い方がまずかったようです。「ふっきる」というのは捨てるとか否定することとは違うつもりでした。ごめんなさい。フロイトを検証し、そのアンチテーゼを提示することで、フロイトを止揚する、というようなイメージで、その場合のキー・ワードと言いますか、論点が、"無意識"なのではないか、と言うことです。勿論これは大仕事であろうと思います。誤解を承知で言えば、フロイトなみの"天才"の出現を待たなければならないのかもしれません。しかしまた一方で、個人の"才"が決定的な結果を産むことは、実は無いのだ、という考えを捨てがたく思ったりもしてはいます。
ともあれ、渡邊さんの説明は示唆に富んでおり、感謝しております。
2.2.「ハード」と「ソフト」
これはもう完全にわたしのミスです。
コンピュータのアナロジーは所詮「比喩」、適用範囲には充分な注意が必要なのですがそれを怠ってしまったようです。申し訳ありません。
コンピュータに限らず、同一の工業製品・商品には元々「個性」があってはいけないのです。分かり易い例で言えば、同じ会社の同じ型式のカラーTVで映り具合や発色に「個性」があってはいけないのです。
どうも手前の守備範囲内では暗黙の前提が自覚でき難いようです、って、これは言い訳です。
取り敢えず、かいつまんで言っておきますと、商品レベルではない辺りで観測される「ソフト」の「個性」と「ハード」の特質が念頭にあったのですが、「暗黙の前提」と合わせて、簡潔に整理してから改めて(機会があれば)述べることと致します。
それはそれとして。
> 私は別に「"ハード"の性質とは無関係に"ソフト"の性質を論じうる」と考えているわけではありません
これは失礼しました。勿論、
> 「手紙(4)」の第2部で「遺伝と環境」の問題として詳しく述べました
ことを無視しているわけではありません。むしろ、相互作用の重要性を述べながらも、
> 心理学者はどうも環境ばかり問題にするように見える.たしかにそうです
として、
> 第二の,より重要な理由は,遺伝要因が心理学者にとってアクセス可能でも,コントロール可能でもないことです
とおっしゃったので、「あえて」「無関係に"ソフト"の性質を論じうる」立場をとっていらっしゃるのかと思ってしまいました。
勿論これは「だってこう言ってたじゃないの」というノリの揚げ足取りのつもりではありません。「ハードと切り離して・・・、そうして得られるモノの価値を認めないのではありません」と申した通りです。
ともあれ、この問題については、少なくとも基盤の一部は出来たように思います。
3.「よい性格」と「わるい性格」
それほど強い意味("糾弾"とか・笑)を込めたつもりはありませんので
> 自分自身の性格認知としては自分は神経質で,それは私の学者としての資質には
> 基本的にプラスになっていると考えています
まで仰ることはありません。ご自身の主張の存立基盤に抵触しかねませんよ(笑)。撤回でも、改変でも無条件に認めます。・・・そういうたちで追い込むつもりもありませんでしたし。
> 渡邊芳之・佐藤達哉 「よい性格」と「わるい性格」〜性格について価値判断すること
あれ、これ、単行本になってませんでしたっけ?
ま、まだ、実名等を明らかにする気にはなっていませんし、匿名のまま、メールでの資料請求をするほどずうずうしくはありませんので遠慮しておきます。(^^
あっ。読む価値が無さそうだなどと思っているのではありませんよ!!
4.予告
一貫性と質問紙の問題は、大きなテーマで、しろーにはなかなか食い付きドコロが難しいものですが、渡邊さんが具体的なトコロから起こしてくれたのでちょっとまとめてみる気になりました。
では、次回に。
ABOFANへの手紙(12)
ABOFANさん曰く,
> かなり議論がかみ合ってきたようで、非常にうれしいです。(^^)
ま,まずい,完全にABOFANさんの土俵に乗ってしまった(笑).まあ仕方がないので,しばらくこの路線で行きますか.
1.竹内説問題
私が竹内説を重視しない理由は述べたとおりですが,それはABOFANさんが竹内説を批判する理由と対立するわけではありません.むしろ2つの面から批判可能ということで,ますます竹内説危うし,ということです.
> ところが、実際にはO型だけの人種や民族は極めて珍しいのです。私が知っているの
> は、南米のネイティブアメリカンぐらいですから…。例えば、日本人にはO型だけでは
> ないのですから、「O型は(感染症に強いから)生存に適している」という竹内説は、
> 日本人については明らかに間違っていることになります。(^^;;
まあそうですが,血液型の起源については,竹内説的なものが有力なようです.つまり,古代の人間が世界のいろいろな場所に別れて住んでいて,その土地土地における病気への免疫に有利なような(単独の)血液型物質を進化させていたのが,その後の民族移動などで混合して,それぞれの民族で複数の血液型が存在するようになった,ということです.
そういう点から見れば,古代の人類においては血液型と「感染症への強さ」などが関連していた可能性があります.そして,その後の人類の生活環境の変化などによって,現在では血液型による免疫力の差はあまり重要でなくなった,だからいまは日本人が全部O型にはならない.つまり,血液型はわれわれの尾てい骨に残っている「しっぽのなごり」に似たものかもしれないということです.
ただ,血液型と免疫に関係があるからといって,血液型と性格に関係があるかは別,ということは何度も述べたとおりです.
2.相関係数と疑似相関の問題
統計の話は私興味ないんだって...といいながら始めてしまったので続けます.
> 相関関係があったとしても疑似相関かもしれず、必ずしも因果関係があるとは限らな
> い、という渡邊さんの説明は全くそのとおりです。となると、心理学の論文で、因果関
> 係を分析したものはほとんどありませんから−少なくとも私が読んだ限り−心理学は壊
> 滅状態になる…はずです。
あ,これはそうでもないです.因果関係をはっきり論じる研究では心理学でも多くの場合重回帰分析,数量化2類,パス解析など偏相関的なものを基礎にした統計技法が使われることが多いです.ABOFANさんの見た論文がそうでないのは,性格心理学では「(内的)性格から行動へ」の因果をアプリオリに仮定している場合が多いせいで,それは私も間違いだと思います.そういうところも今後はちゃんとしないとねえ>心理学業界.
一応説明しておきますが,AとBの2変数に相関があるとき,その相関は
AからBの回帰(因果)+BからAの回帰+他の変数を媒介した疑似相関+誤差
の複合体です.したがって相関係数だけから因果関係の方向や大きさは特定できません.しかし,疑似相関を生み出している可能性のあるような第3以降の変数群(ダミー変数)を導入して偏相関を算出していけば,実際の因果と疑似相関は分離できます.
あとは因果の方向の特定ですが,これは理論的・論理的な基盤から推定しても良いし,パス解析などのように多数の変数間の相関係数や偏相関の組み合わせに基づいてある程度機械的に定めることもできます.別に,統計がほんらい因果関係を特定できない,というわけではありません.
その点で,
> ところで、相関関係がある場合には、因果関係が後日証明されるケースもあるのです
これはまったくその通りですし,これは議論の対象になりません.まあ,心理学で相関を使って話をするなら最初から因果関係を特定できる研究の構成や手法を採った方が効率的ですけどね.
ただ,私が前の手紙で論じたのは「AとBに相関,BとCに相関」のときに「AとCに相関」でも「AとCに関係がある」とは言い切れない,という話で,どうもちょっと論点がずれたと思いますが,相関の話をきちんとできたのでいいでしょう.
つぎ行きます.
「血液型と行動」の相撲や迷子のデータですが,これはランダムサンプリングしてないから検定しても意味ありませんよ,ってそういう話はここでは禁じ手か?(笑).
でも,ランダムサンプリングの意味についてもきちんと説明する必要ありそうです.
また統計の話だよー,おれはほんとに興味ないんだよー(涙々).
ABOFANさん(や心理学者)が血液型と性格の関係の証明・反証に用いている「統計的検定」は,「母集団から抜き出した少数サンプルのデータから母集団における傾向を検出したと言えるかどうかを確かめる」手続きです.
たとえば,サンプル10人のデータで箸の持ち方に男女差が検出されたときに,それが母集団にも一般化できるか,このデータなら「日本人一般に箸の持ち方に男女差がある」と言えるか,ということを確かめるものです.検定は,差の大きさ,データの分布,サンプル数などによって数学的に行われ,「有意差が出た」という場合,そのサンプルによるデータが母集団に一般化できる,ということになります(注1).
そうした統計的検定の「数学的」な手続は,そのサンプルがランダムサンプリングされていることを前提にしています.ランダムサンプリングとは,研究に使うサンプルを母集団全体から均等に,まんべんなく選び出すことです.これによって,集めたサンプルがたまたま偏っている,という可能性を除去します.
さっきの箸の持ち方でいえば,日本人全体を母集団と推定する研究で,10人のサンプルをたとえば東京のある高校の学生だけから選び出したとします.そこで箸の持ち方に男女差があった場合,その理由はいくつか考えられます.
1.日本人全体に箸の持ち方に男女差がある
2.東京だけで箸の持ち方に男女差がある
3.高校生だけで箸の持ち方に男女差がある
4.そのサンプルだけで箸の持ち方に男女差がある
そのデータが2〜4である場合,それを母集団(日本人全体)に一般化するのは間違いです.また,2〜4は研究者が恣意的に作り出すこともできます.つまり,検証したい仮説に合った傾向を持った被験者だけを選び出して実験・調査をすれば,どんな仮説も検証されてしまいます.しかし,統計的検定の数学的手続は,こうした(とくに2〜4)の可能性を考慮していません.ですからどの場合も「統計的」には「有意差」が出ます.
そこで2〜4の可能性をつぶすために行うのがランダムサンプリングです.サンプルを東京だけでなく全国47都道府県から均等に採れば2の可能性は消えます.高校だけでなく小中高大学,大人と均等に採れば3の可能性は消えます.そしてサンプルを研究者が恣意的に選ぶのではなく,無作為抽出すれば4の可能性が消えます(正確には,減ります).
これらの条件が整って(つまり,ランダムサンプリングをして)初めて,統計的な有意差から,母集団での差を証明できるわけです.つまり,ランダムサンプリングしたデータで有意差が出たときだけ母集団に一般化できる,というのが統計的検定の必要条件なのです.
血液型と性格の関係でも,「血液型と性格に関係がある」というときには「人間一般でそうである」とか「日本人一般でそうである」と言おうとしているわけですよね.
それを統計的検定で証明しようとするなら,ランダムサンプリングしなければデータの解釈以前に方法的にダメです.
さっきの迷子のデータでも,ランダムサンプリングしていないデータでは「たまたまそのデータで差が出た」だけで,「一般に血液型によって迷子になる傾向に差がある」とは言えません.能見さんのデータで,能見さんの血液型の本の読者を中心に集めたデータをもとに血液型と性格の関係を統計的に論じているようなのがありますね.これを心理学者が攻撃するのは,これは「ランダムサンプリングせず,血液型との関係が出やすいサンプルだけで得た傾向を一般化している可能性がある」からです.
ところが,心理学者もほとんどランダムサンプリングしていないことはABOFANさんが前から論じているとおりです.だから心理学の統計的検定も多くの場合は信頼できず,前に言った2〜4のデータを一般化している可能性があります(注2).
ですから,血液型側にしても,心理学側(否定側)にしても統計的検定をもとに(関係がある,あるいはないと)一般化したいなら,ランダムサンプリングしたデータで語らねばなりませんし,ランダムサンプリングしないなら統計的検定以外の方法を考えるべきです.だからABOFANさんの「ランダムサンプリングしたら差が出ない」論はやっぱり間違い.
ただ,ランダムサンプリングしていなくても,同じような研究をいろいろな被験者,サンプル群に繰り返し実施したときに,一致した結果が繰り返して出てくる場合には,その結果が「そのサンプルに特有」ではなく,一般的な傾向である可能性は増えます.
ですから,血液型と性格の関係がいろいろなサンプルで繰り返し観察されるなら,血液型と性格に関係ある可能性は高まるでしょう.
その点で,(ランダムサンプリングしてないにしても)心理学者が採ったサンプルでは血液型と性格との差が出てこない例がいくつもあることは,「血液型と性格に関係ない」という仮説を傍証することになるでしょう.もちろん,最初からランダムサンプリングすれば話はもっとクリアですが.
(注1)サンプルとランダムサンプリング したがって,悉皆調査,つまり研究の対象となる母集団全員について採ったデータの統計処理では,検定を行う必要はありません.たとえば「帯広畜産大学学生の意識調査」を畜大学生の大多数に行なったようなデータでは,平均値や比率などの記述統計だけを示せば目的は達せられます.
(注2)心理学の統計的検定 私の共同研究者である尾見康博は「通史・日本の心理学」(北大路書房)の中で,心理学者が統計的検定を使うのは,自分が採ったデータにおける「差の大きさ」「関係の大きさ」をアピールする記述的な意味に過ぎず,結果の一般化など実際にはほとんど意識されていない,という説を提唱しています.
ランダムサンプリングしないこと,悉皆調査であるようなデータでも検定を行っていること,などがその根拠となっています.だったら検定なんか使わないで記述統計だけで語れよ,というのが私の意見.
3.「追試」と質問項目の問題
> 具体的にどの論文を指しているのでしょうか? そう言われて調べ直したのですが
> 「心理学者項目」より「能見項目」をそのまま使う方が多いようです。具体例を書いて
> おきます。
それなら全然問題ないじゃないですか(笑).心理学者の結果を信じましょうよ.
> ここで問題なのは、「能見項目」を使うなら、本のアンケート項目をそのまま使えばい
> いのに、そういうケース極端に少ないのです(私が知る限り1件のみ)。しかも、能見
> 正比古さんのアンケートについては1件もありません! なぜわざわざそんなことをす
> るのでしょうか? この質問も10人ぐらいにはしたと思いますが、明確な回答は1人
> もありませんでした。
そうそう,私が論じたのもこの問題です.「能見項目」では差が出て,ABOFANさんも認めるように基本的には「能見項目そのまま」であるような「心理学者項目」では差が出ないのなら,その違いは「心理学者項目」の問題ではなく,「能見項目と血液型との関係が誤差要因によって維持されている」可能性はあるのではないですか?
> また、ある心理学者から、「能見さんと全く同じアンケートをすると全く同じ結果に
> なるからやらない」という回答をもらいました。本当かどうか知りませんが、こうなる
> と何をかいわんやです。(*_*)
これだって,(多分違うと思うけど,笑)その心理学者が能見項目自体に「血液型と関係するような」なんらかの特殊な要因が含まれると考えていて,それを排除するために項目の内容を変えているのなら,正しいですよ.
そうでなくても,前にも述べたように,質問項目の言い回しや表現が結果に大きく影響することは心理学者はみな意識していますから,能見項目の中に心理学者から見て結果をゆがめそうな言い回しとか表現,または質問紙項目として不適切な構造(注3)などがあるなら,それは改めた上で使うのは当然です.でもどうして誰もそういうことをABOFANさんにちゃんと説明しないのかね,それは確かに問題だね(笑).
> しつこいようですが、以前に書いた松井/坂元論文は「『誤差要因』と相関している
> 」のではありません。それは渡邊さんも認めていることで、なぜこんなことを書くのか
> 理解できません…。念のため、1つだけ引用しておきます。
ここでは技術的な話をしてるので,これは別の問題.それはそれ,これはこれ,です.
(注3)質問紙項目として不適切な構造 たとえばひとつの質問で実質的に2つの内容を尋ねているような「ダブルバレル項目」や,質問の中に一定の回答を誘導するような表現があるような項目など.後者の例,「無差別殺人をする暴力集団であるオウムの法的規制に賛成ですか」と尋ねて,その結果から「オウムの法的規制国民の90%が賛成」などとすること.新聞などの世論調査ではこうしたテクニックで世論が操作されることがよくあります.
4.通状況的一貫性と首尾一貫性 〜 性格の「実在」について
やっと私が興味もてる問題ですね.
>> 「血液型性格判断」のように,状況をとくに考慮しないで「O型は面倒見がよい」と
>> か「B型はマイペース」とか考えることは,古い通状況的一貫性の性格観に基づいて
>> いるといえます.
>
> 全くそのとおりです(笑)。私は、いわゆる「血液型性格判断」は信用していません
> から…。
そうすると,「血液型陣営」で正しいのはどれとどれで,どれは正しくないのでしょうか.ついでの時に教えてください.
それはそうと,
> 念のため、もっと詳しい説明をO型のページから引用しておきます。
>
>> この現実性が、行動に現れると、O型の目的指向性となる。実生活の上の目的に集中
>> 的に突き進む傾向である。生活と遊離した目的には、O型は、それほど熱意を示さな
>> い 。生きるために直接必要な目的、たとえば職業や仕事を大きくする目的、異性を求
>> める目的、安全を求める目的、そして特に、集団内において力を求める目的などの場
>> 合、そ の集中力が高まる。そうした目的が目前にないときは、日なたのネコのような
>> 状態となり、長く続けばひどく不安定な気分になったりする。
>
> それでも「状況との相互作用をそれほど考慮しているとは思えません」ということな
> のでしょうか? 念のため、「神経質」についても引用しておきます。この文
> 章は能見ファンなら誰でも感動しているはずですから…。
やっぱり考慮しているとは思えません.性格を「状況との相互作用」で見る考え方には,大きく分けて2つあります.
- ごく基本的な「性格傾向」のようなものは人の側にあるが,それが行動に現われるかどうか,現われるとして具体的にどのような行動になるかは,状況によって変わる,という考え方.
- そうした基本的な性格傾向自体も生体と状況との相互作用で決まり,それが行動にどのように現われるかはより詳細な状況との関係でまた変動する,という考え方.
1は心理学のごく古典的な考え方で,古い性格理論でもこうした「環境の影響」は必ず考慮されます.いくら通状況的一貫性を仮定していても,状況の影響が全くないと考えることはないし,それでは常識とも乖離してしまいます.ただ,状況の影響は受けるけれども,そうした性格傾向と行動との関係自体は状況を越えて大なり小なり維持される,と考えるわけです.
いっぽう,2は一貫性論争以後の「相互作用論」の考え方です.ここでは性格は基本レベルから状況との相互作用で定まり,状況を越えて作用する「基本傾向」のようなものは想定しません.いまの性格心理学で状況との相互作用を考慮するといったら,それは2の立場をとることだと思います.
引用されている能見説では「O型の目的志向性」という基本傾向は状況を越えて一貫しているが,その現れ方が状況の影響を受ける,という主張がなされています.これは古典的な心理学的性格理論そのものの発想です(注4).
一貫性論争で問題になったのはそうした「基本傾向」のようなものが存在するのか,それが通状況的に一貫して行動に影響するのか,ということで,結果としてそういうものは存在しないか,すくなくとも検証不能であるというのが結論です.
また,生活上の目的には集中し,そうでない目的には集中しないという,いわば2つの独立した行動を「O型の目的志向性」というメタ概念で結びつけることは,ことばの上ではいくらでもできますが,血液型から性格への因果が明確な形で証明されない限りは,そうしたメタ概念は「言葉の遊び」に過ぎないとも言えます.
O型の人があるときには集中し,ある時には集中しなかったという事実は,「O型の目的志向性とはそういうものだ」と説明することもできますが,単に別々の状況で別々の行動を示しただけで,その間には実際なんの関係もない,と説明することもできるからです.
心理学者も,こうした(状況に規定されただけと言い切ることも出来るような)矛盾した行動を,なんらかのメタ概念を使って統一された,一貫したもののように見ることが好きですが,そうしたメタ概念も,多くの場合は実証不能になってしまいます.
このことは,前に最大素数さんのメールへの返答として書いた「性格と性格の表現」の問題とも,密接に関連します.
(注4)古典的な発想 私がミシェルのCAPSモデルを批判するのは,それが心理学の古典的モデルに先祖帰りして,認知傾向などの内的であると保証できないデータを人の内部に戻し,状況を越えた一種の「基本的性格傾向」の存在を肯定してしまっているからです.ミシェルも焼きが回ったなあ,という感じですが,そうした点でCAPSモデルは血液型そのものというABOFANさんの考えにも同意します.ただしCAPSモデルそのものだから血液型も正しいのではなくて,血液型と同じだからCAPSモデルはやっぱりダメというのが私の意見.
5.最後に
いつもABOFANさんは
> 次からは、最大素数さんへのメッセージのようなので、私のコメントは省略させてい
> ただきます。
と書かれますが,私はABOFANさんに対してであれ,最大素数さんに対してであれ,なにか書くときにはここでの全体の議論の関連して述べていますので,私が最大素数さん宛に書いているようなところもABOFANさんとの議論の対象になります.意見があったらどんどん書いてくださいね.
と,ここまで書いて,確認のためにABOFANHPを見たら,最大素数さんのメールがアップされていました.いつもありがとうございます.
> 「その情熱はどこから来るのか、何がそれを"強化"しているのか」などとお仲間から言
> われてませんか(笑)。
そりゃあいわれてます.躁病だとか,現実逃避だとか(あながちハズレでもないが...笑).冗談はさておき,この問題,つまり私がなぜこんなにも情熱的にこの仕事に取り組んでいるのかという理由は,ここでの議論がひとまず収束するとき(そんなに遠いことではないと思っていますが)にきちんとまとめてお話ししたいと思っていますので,それまでちょっと待ってください.ちなみに「強化」はABOFANさんや最大素数さん,その他の読者の皆さんの「反応」だけです.
> 学問とか研究とか言ってしまうには、そのくらい
> の大言壮語を本気で掲げる覇気が必要ですよねっ。うんうん、その言や良しっ(^^)。
ほんとそうなんですよ.大言壮語できないくらいなら,学者になんかなっても仕方ないでしょう? でもまわりの心理学業界はあまりそういう雰囲気でないので悲しいです.
> 「行動を制御する"存在"としての意識」は心理学のテーゼそのものだと思うのですが、
それははっきり「ぜーんぜん違いまーす」と言っておきます.意識というものは,それが行動を制御してるなんてことはもちろん,それが行動に因果的に先行しているとか,それから行動が説明できるとかいった性質のものではありません.
私の個人的な考えを述べれば,意識はコンピュータにおけるディスプレイ上の表示のようなものです.コンピュータの中で起こっているイベントやその結果はディスプレイ上に表示されますが,ディスプレイ上の表示がコンピュータの動作を制御しているわけではありません(注5).
また,ディスプレイはコンピュータ内部で起きていることを表示はしますが,すべてではありません.たとえばバックグラウンドで動作しているソフトウエアはディスプレイ上には明示されませんが,それはコンピュータの動作の重要な部分を制御しているかも知れません.ネットワーク関係の機能拡張やライブラリ(マックでごめん)などはそうですよね.
フロイトは,人間の行動を決めているそういう「バックグラウンドのアプリ」を発見してしまったわけです.フロイトは徹頭徹尾人間を機械扱いして考えますから,当然のようにそれは人間の中の,意識より深いところにある「無意識」だと考えました.
バックグラウンドのアプリ(無意識)を知るためにフロイトが考えた方法は,システムエラーが表示されたときにその表示を詳しく調べたり,ディスプレイの表示のちょっとした揺らぎとか,表示される文字や画像の性質や表示され方を微に入り細に入り分析したり,コンピュータがスリープしてるときのディスプレイをじっと見つめたり(笑)という実に実に複雑な,名人芸の世界です.これが精神分析学.
いっぽう,ディスプレイを見てるだけじゃあコンピュータの動作理解できないのなら,そもそもディスプレイの表示からコンピュータの内部のこと考えること自体やめちゃえ,というのが行動主義.ディスプレイ表示からはコンピュータ内部のことは考えず,どんな入力が,どんな出力を導くのかを,おもに入力と出力との関係,つまり環境と行動との関係から分析しようとしたわけです.
行動主義では人間の精神はブラックボックスだ,というのはそういう意味ですし,行動主義は意識を扱わないのではなく,意識も行動として扱うのだ,というのもそういう意味.つまり入力(環境)との関係で定まる出力表示の一種としてディスプレイ表示(意識)を扱い,他の形態の出力と特に区別しない.ディスプレイ表示(意識)を他の出力とは違った「内的過程の有力な指標」のように特別扱いしない,というのが「行動主義は意識を無視する」ということの本当の意味です.
で,コンピュータの出力を第一義的に決定するのは入力ですから,ある特定のコンピュータにおいて(注6),その入力と出力との間の関数的関係を明らかにできれば,行動主義はハードについてはなにも考えなくても,コンピュータ(人)のふるまい(行動)について分析することができるわけです.これは知りたいのがコンピュータのふるまいだけであるときには,有効で効率的な方法であることは,前回述べたことでもわかります.
たしかに行動主義ではコンピュータの内部でなにが起きているのかはわからない.でも,あいかわらずディスプレイだけ見てコンピュータ内部のことをとやかく言ってるような人たち(たとえば認知心理学)よりはいくつかの点でまし,ということです.
本当に内部を知りたいなら,もっと直接的なデータを求めなくちゃダメ,ということです.コンピュータなら開けてみてマザーボードを調べますよね.
そして,ここでこの議論のコンピュータアナロジーは崩れざるを得ないのですが,コンピュータならばディスプレイの表示は内的過程を知るには不十分とはいえ,内的過程と矛盾した表示などはしないけれど,意識はディスプレイほど「正確」なのか,という疑問がわきます.私は意識はディスプレイよりもずっと不正確で,不誠実なものだと思います.
もうひとつ,コンピュータの場合は動作をアプリオリに決定するようなプログラムが内部で走っているけれども,人間もそのようなものなのか,ということです.人間とコンピュータの最も違う点のひとつは,その学習能力,環境への適応能力です.コンピュータはプログラムの範囲を超えた入力には適応できませんが,人間は非常に広範な学習機能によって,状況の変化に応じてどんどん新しい機能を発達させていきます.
つまり,人間の中には強力な「学習エンジン」の他にははっきりしたプログラムなどないのかも知れない.そうだったら意識なんてあてにならないものを通して人間の中をのぞき込むことはますます無意味でしょう?.
また,そうであれば「バックグラウンドプログラム」は人間の外にあるわけで,フロイトはとんでもない間違いを犯したことになります.
おっと,あまりわかりやすく説明しすぎると最大素数さんが自分で勉強する楽しみを奪ってしまうので,この辺にします.もし調べるなら,行動分析学関係の文献ももちろんですが,「J.J.ギブソン」(これは人名)「生態心理学」「アフォーダンス」なんて言葉がキーワードになっているような本も読むと良いと思います.面白いですよ.
> フロイトなみの"天才"の出現を待たなければならないのかもしれません。
すでに出現しており,それはB.F.スキナーとJ.J.ギブソンです(なんか「ものみの塔」みたいな文章になってしまった.むかしちょっと関係してたもので...笑).でもこれらの天才がフロイトのように一般に理解されるにはあと100年くらいかかるかな.そういう意味でフロイトは啓蒙と宣伝の天才でもありました.
さて,心理学ってけっこう面白いでしょう.そんなに捨てたようなもんでもないですよ.心理学者でこういう問題について私と同じような考え方を持った人が日本でも百人前後,アメリカに数千人,他の世界にやはり千人くらいいます(残念ながら,その中にいわゆる性格心理学者はいないと思いますが).これを多いと考えるか,少ないと考えるか,どうですか?
> 一貫性と質問紙の問題は、大きなテーマで、しろーにはなかなか食い付きドコロが難し
> いものですが、渡邊さんが具体的なトコロから起こしてくれたのでちょっとまとめてみ
> る気になりました。では、次回に。
楽しみにしてます.
(注5)意識とディスプレイ 実際にはディスプレイの表示と意識とはさまざまな面で異なります.典型的なのは「意識はそれと関係する行動よりも先に生じる」ということです.このことがわれわれに「意識が行動を決定している」という感覚を持たせますが,これは実は意識を司る神経回路の伝達が,実際の行動を構成する筋肉運動よりも立ち上がりが早く,動作も速いことによって生じる「誤差」であり,意識が行動に先行するという感覚はある種の錯覚です(こんなこと言い切って良いのかなあ...まあいいか).
(注6)ある特定のコンピュータにおいて... 行動主義/行動分析学では人間一般に適用されるのは「オペラント条件づけ」などのごくごく基本的な,少数の原理だけで,基本的にはひとりひとりの人間を対象に,その人の生きる環境においてその人が示す特定の法則を分析することを基本にして,人の行動を分析します.行動主義が個人差を軽視するように考えられるのは誤解で,最初からケース(一人の人間)単位で分析するのだから,個人差を特別に考慮する必要がない,ということです.コンピュータでも,ある一定のハードとOS,ある一定のソフトウエアという条件が維持されていれば,入力と出力は比較的安定した関数関係を示しますよね.
>>
かなり議論がかみ合ってきたようで、非常にうれしいです。(^^)
>
ま,まずい,完全にABOFANさんの土俵に乗ってしまった(笑).
> まあ仕方がないので,しばらくこの路線で行きますか.
よろしくお願いします(笑)。
1.竹内説問題
どうも私の意図するところが伝わっていないようですね…。(^^;; 遺伝子がホモの場合は、例えばO型のように同じ型だけの遺伝が可能です。しかし、ヘテロ(AO、BO、AB)は同じ型だけということにはなりません。計算してみるとすぐわかりますが、ホモの方がヘテロより生存に有利だとすると、いずれ必ずホモだけが生き残ります。しかし、現在のように4つの型が存在するなら、ホモよりヘテロの方が生存に有利という「超優性淘汰」が働いていると推測するしかありません。詳しくは、こちらのページをどうぞ。
また、分子生物学によると、渡邊さんの説明は成り立たないはずです。詳しくは、こちらのページをどうぞ。
2.相関係数と疑似相関の問題
> 統計がほんらい因果関係を特定できない,というわけではありません.
ちょっと確認させてください。因果関係を特定できることと、そのメカニズムが解明できるということは別物でしょう。私が「因果関係がある」と言うのは後者の意味ですが、渡邊さんは前者の意味で言っていたのでしょうか?
>
ただ,私が前の手紙で論じたのは「AとBに相関,BとCに相関」のときに「Aと
>
Cに相関」でも「AとCに関係がある」とは言い切れない,という話で,
これもよくわかりません。一番最初に戻ると、
私の返事(その9)
従って、血液型によって性格検査の特定の項目に差があれば、血液型と行動とに相関があることが推測できます。以上が私の論理です。これを整理すると、
- (特定の状況での特定の)行動と性格検査(の特定の項目)には相関がある
- 血液型と性格検査(の特定の項目)には相関がある
- 従って、血液型と(特定の状況での特定の)行動には相関がある
読めば分かるように、私は血液型と行動には「相関がある」と主張しているに過ぎません。因果関係は証明されていませんから…。渡邊さんも何度も述べているように、普通の心理学者は「相関がある」イコール「関係ある」ということですから、この場合は「関係ある」ということになります。
しかし、因果関係が証明されない限り「関係ある」とは言えないというなら、私は「関係ある」と主張するつもりはありません。以上のように、あくまで「相関がある」とだけ主張しているのです。この点は渡邊さんと全く同意見です。
「AとCに関係がある」が「AとCに因果関係がある」という意味なら、そもそも「AとBに相関,BとCに相関」があっても、最初からAB間、BC間には因果関係はないのですから、「『AとCに関係がある』とは言い切れない」のは当然のことです。
以上の議論をまとめると、次のようになります。
>
「血液型と行動」の相撲や迷子のデータですが,これはランダムサンプリングしてな
>
いから検定しても意味ありませんよ,ってそういう話はここでは禁じ手か?(笑).
別に禁じ手ではありません(笑)。ただ、ランダムサンプリングができないならダメということなら、任意の理論を否定することが可能です。例えば、相対性理論のデータは、宇宙空間をランダムサンプリングしたものではないから正しくない、とか…。確かに、任意の空間で相対性理論が成り立つかどうかは確認されていません。だから相対性理論は正しくない、とは言えないでしょう。血液型でも同じはずです。
まず、相撲や迷子のデータは正しいかどうかが問題なはずです。渡邊さんのように、これらを否定する別なデータを示さなくとも否定できる(?)ということなら、このように相対性理論も否定できてしまいます。
また、相撲と迷子のデータは同じ傾向を示しています。B型の人には失礼ですが、「B型は不用心」というデータなのです。(^^;; 2つだけじゃダメというなら、別な性格特性のデータもありますし、巨人の長島監督(B型)のエピソードを初めとして、データはいくらでもあります。しかし、渡邊さんはそれでもダメということなのでしょう…。それなら、具体的なサンプル数や試行数がどのぐらいならいいのか教えてください。いくら増やしてもダメなのですか? 事実上関係あるとは認めない、のとどう違うのでしょうか?
ミシェルのデータだって有限ですし、ランダムサンプリングはしてないのですから、「通状況的一貫性は存在しない」とも言えないのではないでしょうか?
いや、迷子のデータは危険率が0.1%以下ですが、心理学では危険率が0.1%以下でも有意差があるとは言えない、ということなのでしょうか?
3.「追試」と質問項目の問題
>
「能見項目」では差が出て,ABOFANさんも認めるように基本的には「能見項目そのまま」
>
であるような「心理学者項目」では差が出ないのなら,その違いは「心理学者項目」の問題
>
ではなく,「能見項目と血液型との関係が誤差要因によって維持されている」可能性はある
> のではないですか?
基本的には、「能見項目」「能見項目そのまま」「心理学者項目」のいずれも同じ傾向を示しています。
>
その心理学者が能見項目自体に「血液型と関係するような」なんらかの特殊な要因が含ま
>
れると考えていて,それを排除するために項目の内容を変えているのなら,正しいですよ.
そういうことは全くありません。この人(というかほとんどの心理学者)は、どのデータでも「差がない」と主張していました。もちろん、能見さんの本のデータは、ランダムサンプリングじゃないからダメ、と言うのです。
しつこいようですが、ほとんどの心理学者は「能見項目そのまま」は使わないのです。その本当の理由は不明ですが、いずれにせよ何らかの「タブー」がある可能性が高いと思われます。
>
そうすると,「血液型陣営」で正しいのはどれとどれで,どれは正しくないのでしょうか.つい
> での時に教えてください.
う〜ん、やっぱりここから説明しないとダメなのですか…。私は、原則として「血液型○○判断」「血液型占い」というようなタイトルの本は信用していません。また、データが1つもないものも信用していません。この基準を適用すると、能見さんの本が一番信用できることになります。
#血液型の本を読めば分かると思うのですが…。
4.通状況的一貫性と首尾一貫性 〜 性格の「実在」について
>
性格は基本レベルから状況との相互作用で定まり,状況を越えて作用する「基本傾向」の
>
ようなものは想定しません.いまの性格心理学で状況との相互作用を考慮するといったら,
> それは2の立場をとることだと思います.
これは定義の問題だと思うんですが…。確か、米医学界では、先天的なものは「気質」、後天的あるいは相互作用によるものは「性格」、という定義だったはずです。『日本経済新聞』の記事(平成10年4月12日 サンデー日経)によると、
【気質】
【性格】
#内向性・外向性は「性格」に分類されたはずです…。
そういう意味では、血液型によって決まるのは「気質」です。ただ、性格は気質によっても影響されますから、血液型が「性格」にも影響することもあるでしょう。今までは「性格」と「気質」をあまり区別しないで使ってきましたが、厳密に言うとそういうことになります。(^^;;
渡邊さんは、「気質」も存在しないと考えているのでしょうか?
5.最後に
私が最大素数さんとの議論に口を挟まなかった最大の理由は、時間がないからです。(^^;; そして、なかなか具体的なデータが出てこないということもあります。
渡邊さんが統計に興味がないのと同じように、私もデータがない理論や問題には興味が湧きません。もう一度読み直したのですが、具体的なデータがほとんどないようなので、返事を書くのはちょっとなぁ、という感じです。f(^^;;
むむ、それはそれで看過できませんね(^^; ということで。
>> 「行動を制御する"存在"としての意識」は心理学のテーゼそのものだと思うのですが、
>
> それははっきり「ぜーんぜん違いまーす」と言っておきます.意識というものは,それが
> 行動を制御してるなんてことはもちろん,それが行動に因果的に先行しているとか,それ
> から行動が説明できるとかいった性質のものではありません.
わたしの「意識」の理解が間違っているのでしょうか。
> 意識はコンピュータにおけるディスプレイ上の表示のようなもの
であって、
> 意識も行動として扱う
ということは、意識も行動も、(コンピュータになぞらえるなら)おなじ「出力」である、ということを仰っているのでしょうか。で、「環境」が「入力」だ、と。
ということは、例えば、肉親が死んで悲しいので泣いた、という場合、「肉親が死ぬ」という「入力」に対して「悲しい」という「(意識)出力」と、「泣く」という「(行動)出力」が、原理的には"同時"に起こる、という理解でよろしいのですか?
> 人間の精神はブラックボックスだ
ということですが、あのー、その表現はなんかゴ都合主義過ぎません?
「ブラックボックス」を「ブラックボックス」として扱えるのは、入出力関係を「一義的に決定できる」場合のはずです。単に入出力の関係が解らないのではなく、解らないけど入出力関係を「一義的に決定できる」から「ブラックボックス」として考えを進めることが許されるのです。何らかの入力に対してどんなに出力があるかは出てのお楽しみ、では単に「謎」の存在を確認しているだけです。念のため申し添えておきますが、これは勿論旧来のディシプリンとか既に過去の科学パラダイムでのみ通用する発想、といった類の話しではありません(笑)。
いいですか、上記のわたしの理解では、「一義的に決定」できる、「一貫性」が肯定されてしまうことになると思います。
もっとも、(揶揄的な意味ではなく)心理学ではそういう「謎の存在」という意味で「ブラックボックス」と言っているだけのことなのでしょうか。
言葉の使い方を別にして、それでは、
(a)「肉親が死ぬ」という「入力」に対して「悲しい」という「(意識)出力」と、「泣く」という「(行動)出力」をする「謎の存在」
と
(b)肉親が死ぬ」という「入力」に対して「(年上なんだから順番としてしょうがないよな的に)ふーん」という「(意識)出力」と、「微笑む」という「(行動)出力」をする「謎の存在」
との違いを「何処」に求めるのでしょうか。
それぞれに「謎の存在」を独立して認めていったら、それこそ人の数だけ「謎の存在」を認めなければならず、もう、なんていいますか、学問の有り様としては、いくつ「謎の存在」を集め得たか、ってな話しになっちゃいません?
「謎の存在」に"より"普遍的な概念を適用する必要があると思うのですがどうですか。
わたしは、そういうものが「意識」だと思っていました。で、「悲しい」という「(感情表現としての)出力」を喚起するものと考えていました。
ただし、そうに違いない、という「確信」的な意味ではありませんが。
実は、昔、心理学にはまったころのことをまた一つ思い出してしまったのです(^^;;。
「悲しいから泣くのではない。泣くから悲しくなるのだ」確かユングのセリフでしたよね。
くうぅ、味なことを仰って下さる!かなり新鮮で、結構感動してしまいました(笑)。反射神経的には「んなバカな!」と言ってしまいそうなところが「芸」の力でしょう(って、芸じゃねーか・笑)。
「悲しい」も「泣く」も同列に論じるのは無理があるように思うのですが・・・。
> 心理学ってけっこう面白いでしょう
はい。
面白くなさそうなイメージを与えていたのか、とすっげー滅入ってしまいました。
結局のところわたしが大学で工学部を選んだのは、どの大学でも心理学が文学部心理学科だったから、というのも大きな理由でした。文学部というスタンスで考える心理学に大学という場はもったいない、と思ったのです。
はっきり言って、殆どの心理学部・科の学生よりはわたしの方が面白がっています。もっと言えば、心理学の面白さを、より、理解しています。その辺、証明的にチラと口走れば、心理学の醍醐味はその「差別性」にある・・・おっとっと、いかんイカン(大笑)。
> 心理学者でこういう問題について私と同じような考え方を持った人が
> ・・・これを多いと考えるか,少ないと考えるか,どうですか?
率直に言えば、楽観にすぎるくらい多いと思います。わたしの経験の範囲に過ぎませんが、事実を積み重ねた結果の合意事項の筈なのに、最終的な決で幾つか(賛成・反対の二分ではない!)の意見に分かれることってそんなに珍しいことではありません。本当に、個人の好み・趣味とは関係ない確認済みの"事実"をベースにしているのにですよっ!ってここで興奮しても仕方ありません(笑)。「同じような考え方」なんてなんの保証も見込みもあるわけはありません。多分、「積極的に反対しない人数」と考えてちょーど良いくらいなのではないでしょうか。・・・結構真面目な答えのつもりですが、読み返してみるとなんか失礼なトーンのような気もします。少しでも気に障ったら全面的に撤回します。但し、謝罪等はしません。だって、訊くんだもーん。
ABOFANへの手紙(13)
この議論もさまざまな意味で佳境に入ってきたようですね(笑).もうひといき,がんばりましょう.
さて,竹内問題ですが,何度も言っているように私はABOFANさんの主張以前にあれは聴くに値しないと結論してしまい,そのあとなにも考えていないだけで,別にABOFANさんが主張される問題点に反論している訳じゃありません.ABOFANさんの言われることはその通り,ごもっともだと思います.
> また、分子生物学によると、渡邊さんの説明は成り立たないはずです。詳しくは、こ
> ちらのページをどうぞ。
これは失礼しました.あれも思いついたことを書いただけで,間違っていたならごめんなさい.
1.相関係数と疑似相関の問題
> 以上の議論をまとめると、次のようになります。
>
> 1.血液型と(特定の状況での特定の)行動には相関がある
> 2.ただし、それは疑似相関かもしれないし、因果関係についても証明できない
> 3.相関関係がある場合には、因果関係が後日証明されるケースもある
> 4.以上により、血液型と行動の相関があるとしても、因果関係については証明できない
> が、将来的に因果関係が証明される可能性も否定できない
まったくその通り.ただし,1がランダムサンプリングされたデータで得られた結果ならもっとクリアですが.そして,4については私はその可能性に否定的な予想をたてているし,ABOFANさんの予想は肯定的.ただし,これらの予想はABOFANさんが好むか好まざるかにかかわらず「データを超えた理論的なもの」です.いずれにしてもこの議論は完結ですね.
> ただ、ランダムサンプリングができないならダメということなら、任意の理論を否定す
> ることが可能です。例えば、相対性理論のデータは、宇宙空間をランダムサンプリング
> したものではないから正しくない、とか…。確かに、任意の空間で相対性理論が成り立
> つかどうかは確認されていません。だから相対性理論は正しくない、とは言えないでし
> ょう。血液型でも同じはずです。
残念ながらこれは違います.私が前に論じたのは,「統計,とくに統計的検定を使うならランダムサンプリングが絶対必要」という話で,統計的検定によって仮説を検証しないならランダムサンプリングは必須ではありません.そもそも統計というもの自体が「有限母集団の確定と母集団からのサンプリング」を前提にしており,宇宙空間のような(現在のところ)無限の母集団を対象にするような議論では統計はほとんど使えません.相対性理論の研究では統計的検定なんてしないと思うんですが,どうでしょう.
その点,血液型の問題は母集団が有限だし,そこで統計が使えるということを前提にして小数サンプルのデータを採って,かつ統計的検定で話をしているのだからランダムサンプリングは必須です.これには議論の余地ないと思うのですが,どうでしょう.
> まず、相撲や迷子のデータは正しいかどうかが問題なはずです。渡邊さんのように、
> これらを否定する別なデータを示さなくとも否定できる(?)ということなら、このよ
> うに相対性理論も否定できてしまいます。
これも同じこと.相撲や迷子のデータの代表値(平均とか分散とか比率とか)を母集団に一般化したいのならランダムサンプリングしてなけりゃ意味ないよ,ということです.確かに相撲や迷子のデータは,その場所,そのサンプルでは正しかった(その場では確かにそういう差が出た)かもしれませんが,それが「血液型と行動に関係がある」という一般論の根拠となるためにはランダムサンプリングが必要ということです.
参考までに言えば,心理学の中でも統計的検定をしないデータ分析とか,ランダムサンプリングをしない(母集団を想定しない)統計とか,そういったものはちゃんとあって,目的に応じて有効に使われています.
ABOFANさん(血液型側)が統計的検定を使って話をしようとする限りは,ランダムサンプリングをしないといけないし,それがイヤだったら統計的検定を使うのを止める,というだけの話です.もちろん,私は心理学者に対してもランダムサンプリングしないなら統計的検定は止めようよ,と提案しています.
> いや、迷子のデータは危険率が0.1%以下ですが、心理学では危険率が0.1%以
> 下でも有意差があるとは言えない、ということなのでしょうか?
ランダムサンプリングしてなかったら危険率自体に意味がないのです.危険率というのは,まあちょっと不正確ですがわかりやすくいえば,「このサンプルにおける結果が実は母集団を代表していない危険性」を示す数値です.そして,その計算はあくまでもランダムサンプリングされていることを前提にしています.ついでにいえば,ランダムサンプリングしてあれば,危険率なんて5%でも全然OKだと思いますよ.
私としてはこの議論もこれでじゅうぶん完結,と思うのですが,どうでしょう.
2.能見項目,心理学者項目問題
> 基本的には、「能見項目」「能見項目そのまま」「心理学者項目」のいずれも同じ傾
> 向を示しています。
だったら別になにも問題がないと思うんですが.
> しつこいようですが、ほとんどの心理学者は「能見項目そのまま」は使わないのです
> 。その本当の理由は不明ですが、いずれにせよ何らかの「タブー」がある可能性が高い
> と思われます。
そのままでなくても結果が同じなら,なにも問題ないじゃないですか.じっさいに項目が微妙に違っていて,かつ前回に私があげたような「意図」がないのなら,単にいい加減なだけなんじゃないですか?(笑).
「タブー」も,これに関しては違うと思います.たしかに「血液型と性格」関係の研究をすることにはある種の「タブー」のような制約があることは認めます(タブーというより,ただ単にバカにされるというだけか?).しかし,それをタブー視するような人はそうした研究をきちんと読むことなどないわけで,項目が能見と同じでけしからん,なんてあげつらう人がいるとは常識的には考えられません.
でもわからない,旧帝大とか筑○とかそれに連なる学○院とか○教とか(以下40字自主規制)....とかの権威主義的研究者世界では私のような雑草にはとても想像もつかない奇妙なことがあるみたいだから.私なんかも全然予想もつかない人から,予想もつかない理由で怒られることありますからね.これは私にはわからないとしかいいようがないです.
でも,いずれにしてもこのこと,ABOFANさんがいうほど重大な問題ではないと思うんですけど.
>> そうすると,「血液型陣営」で正しいのはどれとどれで,どれは正しくないのでしょ
>> うか.ついでの時に教えてください.
>
> う〜ん、やっぱりここから説明しないとダメなのですか…。
あ,これは単なる意地悪ですから気にしないでください.これ聞いたらABOFANさん困るだろうと思って(笑).
3.「気質」をどう考える?
> 確か、米医学界では、先天的なものは「気質」、後天的あるいは相互作用によるもの
> は「性格」、という定義だったはずです。『日本経済新聞』の記事(平成10年4月1
> 2日 サンデー日経)によると、
>
> 【気質】
>
> 好奇心の強弱(新奇追求性)
> 尻込みの程度(損傷回避性)
> 世間体への目配り(報酬依存性)
> しつこさ(固執)
>
> 【性格】
>
> 意志力(自己志向)
> 協調性
> 自制心の強弱(自己超越)
>
> #内向性・外向性は「性格」に分類されたはずです…。
>
>
> 渡邊さんは、「気質」も存在しないと考えているのでしょうか?
こういうこと,どういう根拠でいってるんでしょうねえ(笑).ABOFANさんがじゃなくて,「米医学会」がですよ.まあ従来型精神医学・心理学の理論を折衷的にまとめてみたんだろうね.
たしかに気質,つまり性格に影響するような遺伝的・先天的要因というもの自体の存在は,私も否定しません.というか,かなり重要なものだと思います.しかし,それが性格に与える影響は,どちらかというと量的なもので,性格の様態に質的な影響を与える,つまり「具体的な性格のありさま」を決めるようなものではないと思います.
たとえば従来の心理学でも気質の代表にあげられるものに,「感情の起伏」があります.これはアドレナリンなどのホルモン分泌の個人差によって生じるもので,「怒りっぽい」「涙もろい」などの「性格傾向」に結びつくと考えられてきました.
しかし,アドレナリンの分泌が実際に規定しているのは「環境からの刺激に対応して情動が生理的に喚起される」ときの「立ち上がりやスピード」そして「喚起される情動の量」だけであって,具体的にどんな「感情」が生じるかはその場の状況に100%依存するし,ましてやそうした感情がどのような性格に結びつくかは,まったく状況次第といえます.
さっきの「怒りっぽい」「涙もろい」などは,そうした「気質」の影響と状況との相互作用で生じうる無数の行動パターンのごく一例に過ぎず,他にも「すぐ喜ぶ」「すぐ沈む」「気が利く」「協力的」「自分勝手」「衝動的」など,状況とのいろいろな相互作用を考えたら質的に大きく異なる無数の行動パターンが,この「気質」から導かれます.これを状況を捨象してなんらかの「メタ概念」で統一してしまうことが,実際の性格や行動を理解する上で有益でしょうか?
4.ふたたび「データ」について
> 渡邊さんが統計に興味がないのと同じように、私もデータがない理論や問題には興味
> が湧きません。もう一度読み直したのですが、具体的なデータがほとんどないようなの
> で、返事を書くのはちょっとなぁ、という感じです。f(^^;;
これ,「同じように」ではないですよ.データに興味を持つ,持たないの二者択一で,私は興味がない方を選び,ABOFANさんは興味がある方を選んでいる,というようなことではないでしょう.
私がこの議論の中でずっと主張している,最も重要なテーマのひとつは,データをどう読むかは,そのデータがどういう論理で,どういう方法で採られたか, そしてそうした論理や方法の基盤にどのようなものがあるか,ということ抜きでは語れない.
ということです.データを読む以前のそうした「前提」が一致していないときには,それぞれがどんなデータを出してもまったく無駄なのです.ある一定のディシプリンを共有するものの間では,そうした前提がすでに成立しているから,データだけの議論ができるわけですが,ディシプリンが共有されていなければ,データは出すだけ無駄です.
まあ議論の集結も近いということで結論をまとめてしまえば,ABOFANさんがしようとしているデータの議論は,性格についてのデータ採集の原理や実際の方法について,ABOFANさんと基本的な前提を共有している相手に対してだけ有効だ,ということです.
ABOFANさんは心理学者一般がそうである(自分とそれを共有している)はずだ,と考えたわけだし,私も,性格心理学者一般とABOFANさんとはある程度共有された前提があると思います.ですから,そういう相手とはそういう議論をすればよい.性格心理学者(?)が議論を忌避するなら,それは明らかに相手側の落ち度でしょう.
しかし,私は違います.私はこれまでも性格心理学のデータの「前提」に疑問を持ち,それを批判してきました.そして,より厳密で実質的な「データ」を性格心理学に導入すべきだ,と主張しています.その点で,ABOFANさんや反血液型性格心理学者が提出するデータ自体に,検定とか以前に,私は信頼を置いていないわけです.
したがって,血液型に関する現状の「データの議論」には私は興味ありませんし,データのレベルでABOFANさんと議論する気はない,ということです.しかし,私が考えるような「きちんとしたデータ」が性格心理学や血液型性格学からでてくれば,私は喜んでデータの議論をします.
そういう意味では,私がABOFANさんと議論しなければいけない,議論したいと思っている問題はABOFANさんにとって興味のもてないものでしたでしょうし,ABOFANさんが私と議論したかった問題は,私にとって興味のもてないものだったわけです.それが最大の断絶なんですよね.
あえてもっと生の感情を書いてしまえば,最初にABOFANさんがHPに私の名前を出していろいろな「問い」を発し始めたときに,私は「クダラナイ性格心理学者とするような議論をおれにまでふっかけないでくれよ,そういうデータや話題はおれにとってはもはや鬱陶しいだけなんだよ」と思ったわけなんですが,それをきちんと説明するためにこれだけの手間が今までかかった,ということなんですね.
でも議論を始めてみたら意外と面白いし有意義なことがたくさん出てくる,というのは「誤算」でした(笑).
5.最大素数さんのメール,「ブラックボックス」について
おお,素早いレス,ありがとうございます.
>> 意識も行動として扱う
>
> ということは、意識も行動も、(コンピュータになぞらえるなら)おなじ「出力」であ
> る、ということを仰っているのでしょうか。で、「環境」が「入力」だ、と。というこ
> とは、例えば、肉親が死んで悲しいので泣いた、という場合、「肉親が死ぬ」という
> 「入力」に対して「悲しい」という「(意識)出力」と、「泣く」という「(行動)出
> 力」が、原理的には"同時"に起こる、という理解でよろしいのですか?
まったくその通りです.それでも意識が行動に先行するとわれわれが感じる理由は前回の(注5)のとおり.
で,「ブラックボックス」の問題ですが,ほんとうに最大素数さんは私が説明しやすい,問題を整理しやすい「誤解」をしてくれるので,やりやすいです(失礼).心理学者連中もこのくらい敏感だったらやりやすいのですが(涙々).
私が「ブラックボックス」だといった意味には2つあります.ひとつは,行動主義以外の心理学が行動主義を「精神をアプリオリにブラックボックス化している」と,まさに最大素数さんが疑問に思われた内容と同じような趣旨で批判していることの,本来の意味はこういうこと(前回説明したようなこと)だよ,ということ.
もうひとつは,行動主義はべつに,精神のことは「ディスプレイ」からはわからないからしかたなくブラックボックスにしておく,と考えているのではなく,「精神なんかブラックボックスにしておいても,実は全然問題ないんじゃないか」と積極的に考えている,ということなのです.
最大素数さんのあげた例を考えましょう.
> 言葉の使い方を別にして、それでは、
>
> (a)「肉親が死ぬ」という「入力」に対して「悲しい」という「(意識)出力」と、
> 「泣く」という「(行動)出力」をする「謎の存在」と
> (b)肉親が死ぬ」という「入力」に対して「(年上なんだから順番としてしょうがない
> よな的に)ふーん」という「(意識)出力」と、「微笑む」という「(行動)出力」を
> する「謎の存在」との違いを「何処」に求めるのでしょうか。
むふぁむふぁむふぁ.これ説明するの本当に面白いなあ.
この「肉親が死んで泣くか微笑むか」という違いを,「入力がまったく同じなのに行動が違った」と考えるなら,確かにブラックボックスの中に「謎の存在」を認めないといけません.
しかし,この2つの例で「入力」は本当に同じでしょうか.たとえばすごくシンプルに考えて,(a)の場合は女手ひとつで苦労して自分を育ててくれ,結婚してからもずっと同居してきた老母の死であり,(b)は自分が5歳のときに転居して以来ずっとほとんど音信不通だった叔父の死,であったらどうでしょう.
この場合,泣くか微笑むかという行動の差は「自分とどういう関係の,どういう肉親が死んだのか」という「入力の差」によって引き起こされているのです.この「入力の差」は「精神」とは無関係に,客観的に観察可能な「環境側の」要因として分析可能ですよね.
つまり,行動主義ではこれまでの心理学がこれといった根拠なしに「精神の機能」としてブラックボックスの中に放り込んでいたいろいろなことを,「環境の構造」という入力側の分析によって明らかにしようとしているのです.
じっさい,これまでまったく「心の内部の問題」と考えられてきた,「人やものへの好悪感情」とか「迷信を信じること」などの「精神活動」が,実際には入力側(その人をとりまく環境)の構造を分析するだけで説明,予測できることがどんどん明らかになっています(注1).
それでも「精神の影響はある」と主張できる実例を考えてみましょう.
上記の(a)の例で,苦労した老母に,同じように育てられた2人の息子がいて,葬式でひとりは泣き,ひとりは微笑んだ.とします.これはどうでしょう.環境からの入力は2人ともまったく同じであるはずです.やっぱり2人の「こころ」に違いがあって,そういう違いが出るのではないですか?
こんどは行動主義者は過去にさかのぼります.確かに葬式の時点でこの2人に与えられた入力は「物理的」には同じだったかもしれません.しかし,その日までのこの母親との関係,母親と2人の人間関係を細かく分析していくと,きっとそこに違いが出てきます.兄にとってはこの母は自分をきちんと育ててくれ,貧しい中でも大学まで行かせてくれた最愛の母かもしれません.しかし弟にとってこの母は,なんでも長男を優先し,兄は大学にやらせたのに自分は高校出たらすぐに働かせた,家のことでも兄ばかりひいきし,自分の妻にもいつも辛く当たった母であるかもしれません.
この場合,「母が死んで葬式だ」というその場の「物理的状況」はまったく同一でも,2人の兄弟にとっての「その状況の意味」がまったく違うのです.そして,その意味の違いは2人が過去に経験してきた環境要因の違い(行動分析用語でいえば「強化歴の違い」)によって生み出されているのです.
いや違う,やっぱり精神だ,この「強化歴の違い」はふたりの「記憶」という「精神活動」を通じて生じているのだから,というのは伝統心理学的な考え方.確かにそうかもしれませんが,もし過去の状況要因がすべて把握可能であるなら,記憶はそれに依存しますから,記憶を問題にするのは「冗長」です(行動主義者は概念の使用に関してとてもケチです).
まあふつうは過去の状況要因は全て把握可能ではありませんから,行動主義者も記憶を頼りにせざるを得ないときもあります.しかしそれは「記憶を通じて過去の状況要因を知ること」であって「記憶そのものを問題にすること」ではありません(これはまた議論になる問題ですけどね).
これらもあんまり述べすぎると「最大素数さんが自分で勉強する喜び」を奪いますので,このくらいにしておきますが,つまりは行動主義は精神を「ブラックボックス」にするだけではなく,これまでの心理学がそこに(無批判に)放り込んでいたことがらを,じつは環境側(人間の外側)の要因なのではないかといちいち疑ってかかり,調べていくということなんです.
ところで,
>> 心理学者でこういう問題について私と同じような考え方を持った人が
>> ・・・これを多いと考えるか,少ないと考えるか,どうですか?
>
> 率直に言えば、楽観にすぎるくらい多いと思います。
これ,私がいった人数はいくらなんでも楽観的すぎる,せいぜい多くてその半分だと「陣営側」から物言いがつきました.ちょっと多めに見積もりすぎたかな(笑).日本で数十人,アメリカに数百人.....そんなに少ないのかなあ(また笑).
(注1)対人好悪,つまり人の好き嫌いに関する「行動主義的」な理論の実例は,社会心理学のちゃんとした教科書なら必ず「強化情動モデル」という名前で載っているはずです.また,皮肉屋のスキナーは,迷信的な行動に「精神」の介在が不要なことを示すために,ハトに「おまじない」のような行為を実行させるなど,動物に迷信行動をさせてみせる,という「デモンストレーション」をしています.これも学習心理学や行動分析学の教科書には必ず載っている実験ですから,調べてみてください.
性格検査・質問紙を巡って
1.マエコマ
渡邊さんの「一貫性否定論」がわかりにくいのは、「性格検査(質問紙等)」と「一貫性」がセットになっているせいのように思います。ミシェルについても、「一貫性」の否定の根拠が「性格検査(質問紙等)」はアテにならないから、というように紹介さていますね。
しかし、「性格検査(質問紙等)がいい加減なので一貫性が確認できない」というのが妥当なところの筈です。
渡邊さんの論理によれば、性格の認知の不確かさによっていえることは一貫性の「認知」の否定なのではないかと思うのですがいかがでしょうか。
ま、わたしの理解力とも関係することですので、とりあえずそれはそれとして。
質問紙のいい加減さの理由が、渡邊さんとわたしではずいぶん違い、それ自体は当たり前なんですが、その違いのモトが、心理学を生業としている"プロ"と、結局個人の中で収束すればよい"アマ"との違いのようにも思えますので、この機会にちと書いておくことにしました。
基本的に渡邊さん(達プロ)にとっては、心理学の目的(の、少なくとも一つ)は、「他者理解」でありまして、ま、それは当然なのですが、わたしの場合は「自己理解」が目的なのですね。
"他者"理解とはナニカ、の具体的な目標(検証可能な仮説)が「行動の予測(の可能性と方法論、込みで)」なのだと理解していますが、"自己"理解の場合は特に公にするような目的は必要ないわけです。よけいな一言を言っておけば、「行動の予測」ってのも相当なモンですよ。何て言いますか、ナニをドウしたいんだっ的苛立ちを覚えてしまいます(笑)。
さて、そうした(ある意味閉塞的な)自己理解の手段としては、従来の性格検査は、問題提起・新しい視点の導入といった意味で結構役に立つものではあるのです。が、その理由はおそらくプロの計測装置としては役に立たない理由ではないかと思うのです。
2.ナカコマ
2.1.この質問って・・・
渡邊さんが「ABOFANへの手紙(11)」であげた例に沿って、(答えさせる側が答える側に立っての検討というのはなかなかし難いようらしい、ということにも鑑みて)ちょっと詳しく書いて見ます。
> 私はよく人の不幸を喜ぶ はい..どちらでもない..いいえ
> 人の不幸を喜ぶほうだ はい..どちらでもない..いいえ
この回答の評価を巡って
> 質問紙データにおけるデータの分布や項目間の相関は,・・・有意な相関を示したりする場合もあるのです.
> これを質問紙調査における「方法による分散」といいます.つまり,質問紙の項目への反応(粗データ)は,
>
> 本来のデータ+方法による分散+項目毎の誤差+個人の反応傾向+その他の誤差
>
> という複合体なのです.その意味では,・・・「本来のデータ」そのものに一番近いと言えます.
と丁寧な解説がつけられていますが、そもそも、例の質問は被質問者になにを「期待」しているのか、有り体に言って、愚弄されている感じすら致します。
2.2.思考の迷走
「私はよく人の不幸を喜ぶ」「人の不幸を喜ぶほうだ」
「人」って誰だろう。どういう人のことを言ってるんだろう。
ごく身近なひとか、家族とか極く親しい友人とか・・・。
でも、それはもう"他人"という意味の人ではないのだから、この場合は"我が身"の不幸だよなー。
あ、個体としては別なのに、そいつの不幸が我が身の不幸になってしまう関係が「身内」ってことかも。
じゃあ、全然関係ない他人を想定するのか・・・。
例えば、アフリカ難民が飢饉で苦しんでいるニュース映像を肴に「いいねえ、嬉しいねえ、酒がうめーや」なんちゅうノリのことを話題にしているのか。そんなヤツいるのか。せいぜい「我が身でなくて良かった」程度のもので、「喜ぶ」ってのはどうか。
とすると、やっぱりなんらかの「接点」が要るよなあ。
そいつの不幸が何らかのカタチでこちらの「幸せ感」に反映されることが必要だな。
例えば、かつて酷いことをされた大嫌いなヤツが何か失敗して散々な目にあった、なんちゅう場合は「ざまみろ」感いっぱいの喜びを感じる(筈)か。
そんな極端でなくても、羨ましいとか妬ましいとか、悪感情を抱いていた相手が不幸な目にあっても、ささやかな「ざまみろ」的喜びを感じる(筈)か。
と、すると、例は、実は、
「人の不幸があなたに幸せ感を感じさせる場合、あなたは喜びますか」(イ)
と訊いているのか。・・・バカじゃん。
「人の不幸があなたを喜ばせる場合がありますか」(ロ)
結局こういうことか。
で、これは元の質問と同義か。同じコトを訊いているのか。
言い換え(ロ)では「対人関係の有り様」みたいなことを訊かれていそうだけど、
実は、元の設問は、「幸せ感」の「確認手段」について訊いているのではないの。
「自分より不幸な人をみて喜ぶか」(ハ)
ホームレスが嫌われる理由が分からない(笑)。
やっぱり、アフリカ難民が飢饉で苦しんでいるニュース映像を喜ぶやつがいるのか(笑)。
更に分けワカランのは「(喜ぶ)ほうだ」と、相対評価を強いられていることだ。
ということは、「幸せ感」の「確認手段」という価値尺度の有無を訊かれている、ってのは違うのか。
持っている(筈の)「他人との比較による幸せ感の物差し」の「目盛り」のことか。
「誰でも自分の幸せを量るのには他人の幸不幸と比較するものですが」という前提を読んで考えなきゃいけないのか。
まさか、ねっ。
2.3.わたしの回答
(イ)の解釈では「はい」と言うしかないでしょう(笑)。これは冗談みたいですが、実際どうなんでしょう。
(ロ)は難しいですよね。幾つか心当たりがある以上「はい」というべきかもしれませんが、「(喜ぶ)ほうだ」という相対評価だと、多分「いいえ」です。「不幸を喜ぶような相手は少ないイイ奴」なのか、わたしはっ。んなばかな。わたし、実は、他人の幸・不幸に対する感受性に欠けるようなのです。そういう意味では「はい」にせよ「いいえ」にせよそれほどの確信はありません。
(ハ)上の理由と関係あると思うのですが、他人の"情況"にあまり関心がないので、「幸せ感」の「確認手段」にも殆どなり得ませんのです。と、いうとこれは「いいえ」でしょうか。しかし、この「いいえ」は質問の有り様に対するNOであって、質問の"内容"に沿って答えるなら「どちらでもない」なのかもしれません。
どう答えたにしても、そういう意味でいいのか、という不満・不安は残ります。
わたしの場合は「どちらでもない」が一番妥当なのかなー、と思っても、この選択肢の「どちらでもない」は、そういう意味を受け取ってくれる「どちらでもない」なのでしょうか。
2.4.質問が「良くない」のか
さて、2.2.や2.3.の迷走の中に、渡邊さんの意図したものはありましたか。
どれでもないんだなー、何読んでんだかなー、ということでしたら、それはそれで「迷走」の甲斐があったというものです。
わざとらしく見えたかも知れませんが、実際の反応です。
この程度の「迷走」はごくフツーです。
現実には、こうした迷いの末、質問紙自体のタイトル(例えば「友人関係診断」とか)や前後の質問などから、質問者の意図を類推して解釈してしまったりします!ですから
> 極端な話,まったく内容も形式も違う質問項目でも,・・・有意な相関を示したりする場合もある
のは全く当たり前のことです。
実を言うと、以前、質問者の意図を読み違えてしまったらしく「虚言癖有り」などと"診断"されてしまったこともありました。(某ビジネスショーでのコンピュータによる性格診断、みたいなやつね)
渡邊さんの例でも、ちょっとした勘違い等で、同一人のわたしの回答でさえどうにでもなってしまうのです。
これは、質問紙の組立「技術」とか「方法論」とかいった話しではないと思います。
もっと基本的なところで、ヒトの精神活動とか思考過程を踏まえて、「本来測ろうとしている対象」が見える質問を設定すべきです。
また、一方で、答えやすい質問もあるわけです。
「いつもなにか刺激を求める」(YG性格検査)
これは「はい」で確定です。わたしにおける「一貫性」の実在です(笑)。
しかし、ま、これも乱暴な質問ではありますけどね。揚げ足取り的っこみをしなければ、「一貫」して「はい」です。
で、過去には、質問をたくさん並べて、本来の回答と供に「答え易かった/難かった(/どちらとも言えない)」を答えてもらって、どの質問に答え易かったのか/難かったのか、から何かみえるのではないか、などと考えたこともありました。
しかし、実際には、適当な割合で「答え易かった/難かった(/どちらとも言えない)」に分かれるような質問群って、もっと難しそうです(笑)。
最近は、質問者との「相性」があるんじゃないかと思ったりもしてます。特に、雑誌のいわゆる性格診断コーナー的な場面ではそういう影響が大きそうです。
2.5.もう少し生産的な話し
「迷走」関係の話し自体には取り立てて言うほどの「一般性」はありません(笑)。
なにはともあれそうして得られた回答を、「はい=+1」「いいえ=−1」などと数量化して統計ソフトに入力して後は答え一発(う、古すぎ?)、なわけですね。
ここで合点がいかぬのは、先の例に絡めて言えば、渡邊さんの例に、「やっぱ、喜ぶ"ほう"じゃないよな」と、さしたる確信もなく答えた「いいえ=−1」と、確信いっぱいの「いつもなにか刺激を求める」に対する「はい=+1」とは結局相殺されて「0」になってしまうわけです!
他の回答者との比較でもそうです。わたしの確信「はい=+1」は、同じ項目の他人の回答「+1/−1」と同じ重さでいいのか、ということでもあるわけです。
実はここでもとめている答えは、わたしが(ここでも普段も)データ、統計論議に参加しない理由と関係あるのです。
質問紙でもなんでも、人間の精神活動を、項目の得点として数量化することで、統計処理による評価が可能である、というアイデアは誰の発想なのですか。
確率と統計は数学の理論であって、それの"正しさ"は数学上の証明によって保証されていますが、心理学の手法としてどうかというのは、心理学の側での検証によるわけです。つまり、そうした検証は必ずある筈で、本当は、何故統計学の数学上の正しさを心理学に援用できるのか、みたいな話しがある筈なんですよね。ですから、統計心理学(なんちゅう言葉があるのか・笑)の本には簡単な表現(この証明についてはこれを参照、程度でも)があると思ってたんです。が、かなり専門書風の本にもそれについての言及って載ってなくて、ま、ちと意地になってる部分もあったりして(笑)、データ・統計の話題って落ち着かないのです。
本業のほうでいえば、電気回路の動作が代数計算になっている、というのは、数学的に正しいと証明された代数論が適用できる環境を回路上に構築しうることを(これは"電気理論"上で)証明した上での話しなのです。製作上は、代数論が適用できる環境を回路として維持する、ということになります。
ランダムサンプリングがどうの、重回帰分析でどうか、という話しにとっかかりが見えない場合がおおいのです。
更に言ってしまうと、実は、確率と統計は、数学の中でも特殊な発想に基づいている印象があって、そちらの意味でも、「統計心理学(って、だからホントにあるのかそんなの・笑)」といいますか、科学的心理学の武器としての統計学というものが良くわかりません。というより、「おまーらホントに解って言ってんのかぁ?」という感じがしてしまうのです。
3.アトコマ
うーむ。血液型性格関連説と関係ない話しに終始してしまったのでしょうか。
「一貫性」の問題でいえば、性格検査・質問紙の不備をいくら突いても、「一貫性」の否定にはならないんじゃないか、ということですね。
あと、性格観ということでいっておけば、能見さんの性格観がやっぱり一番納得できるのですが、これが「古い」かどうかはまだ言えないと思います。
1.相関係数と疑似相関の問題
前半は双方とも合意したのでOKですね。(^^)
後半のランダムサンプリングについての議論には異議があります。まず、「統計,とくに統計的検定を使うならランダムサンプリングが絶対必要」とは言えません。例として、χ2検定について説明します。χ2検定は、2つの以上の独立に抽出されたサンプルが同じ母集団から抽出されたかどうかの検定です。サンプルを抽出するときには、「特定の条件に当てはまる」のものを抽出します。確かに、「特定の条件に当てはまる」ものからランダムサンプリングをする必要はあります。しかし、「特定の条件に当てはまる」ことがランダムサンプリングではない、というのでは検定そのものができません。
これではわかりにくいと思うので、私の返事(その7)で出した例を再度持ち出します。
「O型は独立心が強い」ことを証明しようとして、O型についてランダムサンプリングしてみましょう。しかし、残念ながらそういう結果は得られませんでした。なぜなら、O型の独立心は立場が強ければ強いのですが、立場が弱い場合は逆に弱くなるからです。つまり、下の図のようになります。
#この図は実際にそうであるということではなく、単なる模式図です。念のため。
ランダムサンプリングをすれば、当然ながらO型とB型の差は出ません。しかし、立場が強い場合と弱い場合に分ければ明確な差が出ます。それにもかかわらず、現実には「立場が強い場合と弱い場合で差の方向がバラバラだから差がない」という分析結果になるケースも多いようです。つまり、ランダムサンプリングは必ずしも役に立ちません。いや、こういうケースでは逆に有害と言っていいでしょう。つまり、必ずしもランダムサンプリングをすればいいのではないのです。
>
確かに相撲や迷子のデータは,その場所,そのサンプルでは正しかった
>
(その場では確かにそういう差が出た)かもしれませんが,それが「血液型
>
と行動に関係がある」という一般論の根拠となるためにはランダムサンプ
> リングが必要ということです.
結局、その場所、そのサンプルでは正しいのですから、「差がある」ことは確かです。上の図を見るとわかりますが、ある条件の下で「差がある」なら、一般的には「差がある」ということになります。ただ、それが現実的に意味を持つかかどうかは別の問題でしょうが…。
いずれにせよ、血液型は「幕内力士のうっちゃられ回数」や「遊園地の迷子」という行動には影響することになります。つまり、「血液型と行動」には差があるのです。なぜなら、「差がない」なら考えうるすべての場合について「差がない」ことを証明する必要がありますが、「差がある」ということなら1つの条件だけ安定的に「差がある」ことを証明するだけで十分だからです。
2.能見項目,心理学者項目問題
> タブーというより,ただ単にバカにされるというだけか?
これは図星でしょうね。私はそれを単にタブーと読んでいるだけです(笑)。
>> う〜ん、やっぱりここから説明しないとダメなのですか…。
>
あ,これは単なる意地悪ですから気にしないでください.これ聞いたらABOFA
> Nさん困るだろうと思って(笑).
やられた(笑)。
3.「気質」をどう考える?
>
状況を捨象してなんらかの「メタ概念」で統一してしまうことが,実際の性格や行
> 動を理解する上で有益でしょうか?
このページを読んでいる(かどうか知りませんが…)性格心理学者の感想をぜひ聞かせてください(笑)。確かに、そういう定義をしてしまえば、それぞれの行動は別物ですから、「メタ概念」で表すことはできません。それに意味があるかどうかは別問題ですが…。
4.ふたたび「データ」について
>
私はこれまでも性格心理学のデータの「前提」に疑問を持ち,それを批判してきま
>
した.そして,より厳密で実質的な「データ」を性格心理学に導入すべきだ,と主張
>
しています.その点で,ABOFANさんや反血液型性格心理学者が提出するデータ
>
自体に,検定とか以前に,私は信頼を置いていないわけです.
しつこいようですが、ミシェルのデータだって有限ですし、ランダムサンプリングはしてないのですから、「通状況的一貫性は存在しない」とも言えないのではないでしょうか?
5.最大素数さんのメール,「ブラックボックス」について
>
じつは環境側(人間の外側)の要因なのではないかといちいち疑ってかかり,調べ
> ていくということなんです.
一般論としてはそのとおりですが、例えばこのケースでは、環境の要因であることが(何らか手法で)証明されたのですか? 証明されたすると、それはどういう手法やデータなのですか?
私は「理論的に否定されたことは疑え」というのが基本的な姿勢ですから、そこが渡邊さんとの最大の違いなんでしょうね。論点が随分はっきりしてきたと思います。(^^)
「ブラックボックス」に拘ってみる(^^)
> 心理学者連中もこのくらい敏感だったらやりやすいのですが(涙々).
はっはっは。それはプロとしての心理学者に失礼ですよ。(え、皮肉ですよ、って?わかってますって。と、念のためにことわっておこう・笑)
> 「精神なんかブラックボックスにしておいても,実は全然問題ないんじゃないか」と積極的に考えている
「入力」も「出力」も外部からの観測(客観的事実として)で解るから良しとするならば、「ブラックボックス」は、もはや暗箱でさえもないのではありませんか(笑)。しかし、確かにそれは従来の心理学の、従来の科学のディシプリンではありませんね。
にしても、やっぱり「"ハード"の性質とは無関係に"ソフト"の性質を論じうる」という立場なんじゃあありませんか(笑)。
例に関して
> 「自分とどういう関係の,どういう肉親が死んだのか」という「入力の差」によって引き起こされているので
はなくて、出力の内容から、「入力の差」が解った、ということではないのですか?
出力の内容を吟味してみたら、同じように思えた入力が実は違うのだ、ということが解ったってことでしょう?
だって、入力の、それぞれの「意味」って、それぞれの「ブラックボックス」内でのことであって、「意味」は観測できないでしょう。それこそ「認知」レベルの話しだと思います。
さてさて、今回は「上手」に「誤解」できましたか?(笑)
P.S.「強化情動モデル」ですね。毎回新ネタを教えて頂いて感謝です。これはですねえ、ホントに、皮肉でもなんでもないんですよ。
続・性格検査・質問紙を巡って
本当は、先のメールで訊きたかったのですが、文脈を間違えると、揚げ足取りとして「拡散」してしまいそうだったのでやめたのですが、先の渡邊さんの手紙からは「誤解」アリらしいので確認させていただくことにしました。
> 「人の不幸を喜ぶ」性格傾向(ABOFANへの手紙(11))
ってな概念はあると考えておられるのですか?
それとも単に、例に乗っかっての、行きがかり上の表現ですか?
御自身があげられた例に関しての言及なのでその辺のご理解は気になっていました。
何とかお答えいただけませんでしょうか。
ABOFANへの手紙(14)
最大素数さんのメールも今回は小骨が多いですね(笑).
まずはABOFANさんの「返事」への返事から始めましょう.
1.ランダムサンプリングの問題
このこと,この前説明したからわかってもらえてると思ってたんですが,そうじゃなかったんですね.えーと,ABOFANさんがいっていることは単純に統計手法についてのごく入門教科書レベルの誤解に基づいています.これはちょっと驚いた.
どうも独立変数と従属変数という基本的なことから説明しないとならないようです.
仮説 変数Aが1であるときと2であるときでは,変数Bの値に違いがある
という仮説を検証しようとするとき,変数Aを独立変数(先行変数),変数Bを従属変数(説明変数)と言います.
統計的検定であれば,独立変数が質的変数であればランダムサンプリングしたサンプルを独立変数によって分割します.そして,分割されたグループ(群,といいます)の間で従属変数に差があるかどうかを確かめます.従属変数も質的変数の場合にはχ2検定を使いますね.
たとえば「血液型で相撲の組み手が違う」というような場合,血液型が独立変数,組み手が従属変数ですから,ランダムサンプリングされた相撲取りを血液型で分割し(あるいは血液型ごとの相撲取りからランダムサンプリングでサンプルを抽出し),血液型群ごとの組み手の傾向をχ2検定で比較すればよい.
ランダムサンプリングで「偏りのないサンプルを抽出する」というのは「独立変数以外の点ではできる限り均等なサンプルを得る」ということであり,独立変数はその対象ではありません.だから,ABOFANさんが言うようにχ2検定の独立変数に基づいてサンプルを抽出,あるいは分割することは「特定の条件にあてはまるサンプルを集める」ことにはあたりません.独立変数で分割された群それぞれのサンプルがランダムサンプリングされている(あるいはランダムサンプリングされたサンプルが群に分割される)ことだけが求められます.
> 「O型は独立心が強い」ことを証明しようとして、O型についてランダムサンプリン
> グしてみましょう。しかし、残念ながらそういう結果は得られませんでした。なぜなら
> 、O型の独立心は立場が強ければ強いのですが、立場が弱い場合は逆に弱くなるからで
> す。つまり、下の図のようになります。
これはまったく単純な間違いです.このモデルの場合「立場の強さ」は血液型と相互作用して「独立心」という従属変数に因果的な影響を与える独立変数です.このデータを2つの独立変数でクロスした分割表にすると
血液型
O型 B型
立 強い 高い独立心 中位の独立心
場 弱い 低い独立心 中位の独立心
となります.繰り返しますが,血液型と立場の強さが独立変数で,独立心が従属変数です.独立変数が2個の質的変数で,従属変数が(たぶん)量的変数ですから使う統計は「二元配置の分散分析」です.分散分析の結果このデータでは「血液型」と「立場」の2つの独立変数の主効果は有意にならない(その変数独自では差がない)でしょうが,独立変数間の「交互作用」(interactionを統計では交互作用と訳します.ふつうは相互作用)が有意になります(注1).もちろん,サンプルはランダムサンプリングされていなければなりませんし,ランダムサンプリングされていてもここで起きている現象はきちんと統計的に検証されます.
ABOFANさんがこのデータでランダムサンプリングして血液型の差が出ないというのは,ランダムサンプリングの問題ではなく,単に「立場の強さ」という重要な独立変数を分析に入れ忘れているだけ,あるいは独立変数と従属変数を区別できてていないだけの,まったくの誤りに過ぎません.
これはかなりカッコ悪いので,ランダムサンプリングを批判する主張は引っ込めた方がABOFANさんのためと思います.
> 結局、その場所、そのサンプルでは正しいのですから、「差がある」ことは確かです。
> 上の図を見るとわかりますが、ある条件の下で「差がある」なら、一般的には「差があ
> る」ということになります。ただ、それが現実的に意味を持つかかどうかは別の問題で
> しょうが…。
したがってこの主張も誤り.ABOFANさんは独立変数である「ある条件」と,サンプルの歪みである「ある条件」を混同しています.
「その場所,そのサンプルで」というのはランダムサンプリングされていない限りは「その場所,そのサンプルに限って」という可能性を除去できませんから,少なくとも統計的検定では「差がある」ということにはなりません.
また,ある条件のもとで「差がある」なら,一般的には「差がある」ということになる,という主張はまったく理解できません.とくに背の高い女の人と,とくに背の低い男の人だけを集めたデータで,男女の身長差を調べたら「女の方が男より背が高い」という結果が出るでしょう.この結果から「一般的には女は男より背が高い」ということになりますか? ランダムサンプリングは,そういう間違った結果を避けるための方法なのです.
この問題に関しては,少なくとも統計学に基づいた議論であれば,誰がなんと言おうと私の方が正しいです.それでも私が間違っているというのなら,ABOFANさんの統計学は,私たち心理学者の知っている統計学とは違うものだ,ということになり,ABOFANさんと心理学者のデータによる議論はますます困難になります.
(注1)交互作用が有意 このパターンで,交互作用がもっとも有意になるのは以下のようなデータの場合です.この場合も,血液型,立場の強さそれぞれの主効果は有意になりません.
血液型
O型 B型
立 強い 高い独立心 低い独立心
場 弱い 低い独立心 高い独立心
2.「気質」のメタ概念について
> このページを読んでいる(かどうか知りませんが…)性格心理学者の感想をぜひ聞か
> せてください(笑)。確かに、そういう定義をしてしまえば、それぞれの行動は別物で
> すから、「メタ概念」で表すことはできません。それに意味があるかどうかは別問題で
> すが…。
私も性格心理学者の意見が聞きたいですね.あと,彼らが私の議論にどう反論するかも聞きたい.ABOFANさん式に言えば「もし反論がないなら私が正しい」(笑).でも,賭けても良いけど誰からも意見は来ませんよ(ちょっとABOFANモード).
3.ふたたびふたたびデータについて
> しつこいようですが、ミシェルのデータだって有限ですし、ランダムサンプリングはし
> てないのですから、「通状況的一貫性は存在しない」とも言えないのではないでしょう
> か?
これはもっと正確に言うべきです.「ミシェルが調べて差が出ていなかった様々な研究例のデータも,母集団は有限だしランダムサンプリングはしていないのですから,通状況的一貫性は存在しないとも言えないのではないでしょうか?」(ミシェルのデータ,というものはないから).そして,この主張は半分正しくて,半分間違っている.
ABOFANさんの土俵に乗ってしまったせいで統計の話ばっかりでほんとに参っちゃうのですが....
これはこれまでも長谷川先生をはじめいろんな心理学者がABOFANさんに説明していることと思いますが,統計的検定というのは「差があるかないかどっちか確かめるもの」ではなくて,「差がないという帰無仮説を棄却できるかどうか確かめるもの」です.そしてその結論は「差があるといえる(帰無仮説棄却)」か「差があるとは言えない(帰無仮説採択)」かのどちらかです.
したがって,統計的検定というのは「差がある」と言いたい方が,さまざまな条件をクリアしていくことで,徐々に「帰無仮説棄却」に向けて進んでいくものです.そうした条件がクリアできないと自動的に「帰無仮説採択」になってしまいます.クリアすべき条件にはデータが偶然の範囲を超える差を示している,ということで,それにはランダムサンプリングされていることが必要です.
したがって,そこで見られた差や関係が小さいと言うことはもちろんですが,ランダムサンプリングされていないことも,帰無仮説を棄却するための条件がクリアできまいひとつの要因になりますから,帰無仮説が採択されます.つまり,ランダムサンプリングされていなくても,「差があるとは言えない」という結論は論理的には問題なく出すことができるし,極端な話,ランダムサンプリングされていないことだけで帰無仮説を採択することすらできます.
これはあくまでも理屈の話ですが,これでは納得できないでしょうからもっと実際的な話をします.ランダムサンプリングは主に「差がないのに差が出る」という過誤を防ぐために行われています.母集団には実際は差があるのに,サンプリングの偏りによって差が出ないと言うことは,その逆の場合より現実的に考えにくいのです.統計的検定は何度も言っているように「差がないという帰無仮説を棄却する」ためにすることで,「差がない」ということを証明するためのものではありませんので,わざわざ偏ったサンプルによって「差がない」データを恣意的に作ることも無意味です.
つまり,統計的検定というものはもともと差を出すのが目的で,かつランダムサンプリングしないときにはどちらかというと「差が出る」方向に結果がゆがむものなのに,それでも差が出ていない,ということは,これはほんとに差がないんだわ,と考えるのが心理学者の常識的な思考だし,それは間違っていないことが多いでしょう.
もちろん,それはあくまでも「慣例」であって,帰無仮説を棄却するにしてもランダムサンプリングされているデータに基づく方がよいに決まっていますから,そういう意味でABOFANさんの主張は半分正しく,半分間違っている,ということになります.
4.行動主義的思考について
>> じつは環境側(人間の外側)の要因なのではないかといちいち疑ってかかり,調べ
>> ていくということなんです.
>
> 一般論としてはそのとおりですが、例えばこのケースでは、環境の要因であることが
> (何らか手法で)証明されたのですか? 証明されたすると、それはどういう手法や
> データなのですか?
これは単純で,同じような条件や,あるいはそれを抽象的に組み直した実験場面で,他の要因を統制したときに,当該の環境要因を実験的に操作した結果として行動が変容すれば,行動に環境の要因が影響していることが証明されます.もちろん,前回の例で挙げた「葬式」のケースでの環境からの説明が正しいかどうかは直接証明できませんが,類似した,あるいは関連した行動についての環境要因と行動との関係が実験
的に証明されていれば,理論的に類推できます.
なんて木で鼻を括ったような答えをここではしますが,このことは最大素数さんの議論ともつながります(ABOFANさんもぜひ先まで読んでね).
> 「入力」も「出力」も外部からの観測(客観的事実として)で解るから良しとするなら
> ば、「ブラックボックス」は、もはや暗箱でさえもないのではありませんか(笑)。し
> かし、確かにそれは従来の心理学の、従来の科学のディシプリンではありませんね。
ああ,確かに暗箱ですらありません.実際には「精神」の存在自体も仮定する必要ないです.でもそれをいうと,素人はまたどんどんめちゃくちゃな曲解や誤解を展開してしまい,説明するのが面倒なので,あまり言いません.あまりに一般常識と違うからね.そのためだけにまた14通メール書かないとならないのよ....
ただ,確かにこれは従来の心理学のディシプリンではないけれど,思想史的にはロックやヒュームなどのイギリス経験論哲学やパブロフの条件反射学にはっきりした起源を見ることができますから,いわゆる科学ディシプリンからそれほど離れるものではないでしょうね.また,行動主義における「反証可能性」や「客観性」の基準はまさに「科学主義的」なものです.行動と環境はそれぞれ原則として客観的に観測可能,計量可能ですから.
> にしても、やっぱり「"ハード"の性質とは無関係に"ソフト"の性質を論じうる」という
> 立場なんじゃあありませんか(笑)。
それはちょっと違う.入力の構造と出力を結ぶ基本的な機能は明らかに生体側にありますから.たとえばぼくらが使う基本的概念である「オペラント条件づけ」では,自発した行動が環境から正のフィードバック(強化)を受けた場合にはその行動の自発率を高め,環境から負のフィードバック(罰)を受けた場合には自発率を低めるという基本的な原理が明らかに生体側にあるということははっきり認めています.進化の過程によって獲得され,遺伝的に伝達される,という意味でね.しかし,この原理によって全体としてどんな行動パターンが生成されるかは,生体が自発した行動に環境がどのようなフィードバックを与えるかに依存する,と考えます.
> はなくて、出力の内容から、「入力の差」が解った、ということではないのですか?
> 出力の内容を吟味してみたら、同じように思えた入力が実は違うのだ、ということが解
> ったってことでしょう?
あのね,これはものすごく正しいです.われわれも自分たちのディシプリンの中で理論的な議論を行うときにはそれを原則とします.ただあの場面でそれを言っちゃっても理解されるかどうか不安だったから.
端的に言えば,たとえばオペラント条件づけでなにが強化になるか,ということは,それを特定の個体の特定の行動に与えてみて,結果としてその行動が増えるかどうかによってしか決定できません.
ただし,その先があります.出力の差に基づいて入力の差がわかったら,今度はその「入力の差」を人為的に再現することで,出力の差を作り出すことができます.行動の増加によって強化子を特定できたなら,その後はその個体および類似した個体の,その行動および類似した行動の出現を,その強化子によって制御できるようになります.このときはじめて,その行動を成立させ,維持している環境の構造が本当の意味で明らかになります.
つまり,行動主義のおこなう環境からの説明は,すでに起きてしまった行動に対しては「仮説」に過ぎません.その仮説に基づいて環境を調整することで,それ以後の,未来の行動に影響を与えることができるかどうかで,その仮説が検証されるのです(これがずっと上のABOFANさんの問いへの答えです).
「葬式」の例でも,私が環境要因からした説明はあくまでも仮説で,それが正しいかどうかは,そこで行った説明に基づいて環境を調整したときに,実際に行動に影響を与えることができるかどうかによってしか検証されません.また,もしそれをやったとして誰かを葬式で泣かせたり,微笑ませたりすることに何らかの意味があるかは疑問です.
しかし,たとえば病的な行動とか,問題のある行動の修正,という目的では,行動主義のこうした論理は実際に有効になります.ある人の行動に社会的不適応につながる問題があり,本人がそれを修正したいと考えているとき,行動主義者(行動療法家)は,その人を取りまくさまざまな環境で,環境要因とその「問題行動」との関係を探ります.そこから問題行動を生成し,維持している環境要因を推定します.そして,そうした環境要因を除去したり,弱めたりする介入を行うとともに,その問題行動と拮抗するような行動を強化することで問題行動を減らしていきます.減らなければ仮説が間違っていますから,また環境を調べ直します.
簡単にいってしまえば,従来の心理学はすでに起きてしまった行動の原因を説明するのはうまいが,これから起きる行動を予測したり,制御したりするのは苦手です.なぜなら,彼らの理論ではこれから起きる行動に影響を与えるためには「こころ」や「意識」を変える必要があるが,目に見えないこころを修正する明確な方法はないから.
いっぽう行動主義はすでに起きてしまった行動については検証しにくい仮説しか提出できないけれども,これから起きる行動を予測したり,制御したりすることはうまい.なぜなら,今後の行動に影響を与えるであろう環境要因は目に見えるし,直接制御可能だからです.
行動主義/行動分析学のもっと具体的な手続や内容については「行動分析学入門」(産業図書)がすごく参考になると思うので,ぜひ本屋で立ち読みでも良いですから目を通してみてください.
> だって、入力の、それぞれの「意味」って、それぞれの「ブラックボックス」内でのこ
> とであって、「意味」は観測できないでしょう。それこそ「認知」レベルの話しだと思
> います。
ああ,ぼくらは本当は「意味」なんて言葉は使いません.わかりやすいように使っただけで,正確な意味は「同じ刺激に対する異なった反応を規定するもの」です.で,それは過去の強化歴の中に発見されるはずです.もちろん,これも過去をしらべてそれらしきものを発見した時点では仮説に過ぎませんが,それに基づいて環境からの入力を実験的に調整してみたときに,出力としての行動に個体差を作り出すことができれば,仮説は検証されます.
それを「認知」というのは自由ですが,その「認知」は結果としての行動によってしか類推できないものです.私が「あの人は私のことが嫌い」というのは,その人の内部に「私を嫌っている」という認知を発見した,という意味ではなくて,あの人が私を嫌っていると思えるような行動をとっていると私が認識している,ということに過ぎません.
それは心理学者が「認知」を言うときも同じです.人の内部にそんなものがある保証はないし,また過去の強化歴がはっきり類推できるときにはそれを過去の環境要因に結びつける方が,それが現在「認知」という形で人の内部にあるというより,説明の概念が節約できます(注1).
まあこういう問題は行動主義の問題というより,心的概念についての認識論に属しますから,ライルの「心の概念」(みすず書房)とかヴィトゲンシュタインの「哲学探究」や「心理学の哲学」(どちらも大修館書店)など,分析哲学の文献に目を通してみてください.哲学者たちがいわゆる心理学のパラダイム(たとえば内的な意識が行動を制御する,といった)を,すでに数十年も前からほとんど完膚無きまでに否定しきっていることがわかって驚きますよ.私もはじめて読んだときは驚いたよ.
(注1)概念の節約 科学理論では同じ現象を同程度に説明できる複数の仮説があるときは,少ない概念で説明できる方を「経済的」として採択する傾向があります.
5.最大素数さんの「性格検査・質問紙を巡って」について
これは最大素数さんのメールを順々に引用しながら答えていく,といったスタイルになじまない問題と思いますので,なるべく端的に私の考えを述べます.
質問紙への反応に関する,最大素数さんの意見には基本的にすべて賛成です.また,「迷走」の経路についても,私にも想定できるものですし,前に挙げた続有恒先生の研究などでは,そうした「質問項目=思考=反応」の関係についても,最大素数さんが考えられたのとかなり似た議論が行われています.
ある質問項目に対する「はい」の意味が,被験者によってさまざまに異なる,ということを意識していない心理学者はいないでしょう.しかし多くの場合は,なるべく答えやすく個人の思考を「迷走」させない質問項目を揃えるよう努力するとともに,
- 多数のサンプルを採ることでそうした個人差は平均化される
- そうした大サンプルの結果を平均した傾向が,他の基準と論理的に妥当な関係を示しているなら,個人差はあまり影響していな いと考えられる
あたりの理屈で,なんとなく納得しています.でも,一般法則をもとめるためのデータならそれで良いのかもしれないけれど,性格検査など,個人の反応と全体のズレなどで話をするデータでは,これらは成立しない.そこで今度は,
- 個人がその項目をどういう意味にとろうが,母集団の平均的傾向がはっきりしており,その平均的傾向と個人得点とのズレが母集団で一定の性格傾向との関係を示していれば,全ての個人にその関係をあてはめることができる.
などということをいいます.ウソみたいだけど本当に心理学の本にはそう書いてあるし,YG検査の説明書には,もっと驚くべきことが書いてある.たしか「読んでもよく意味のわからない項目もあると思いますが,それに対するあなたの答えは,すべて因子分析などの統計的方法に基づいて,全体の傾向と結びつき,あなたの性格を明らかにするために役立ちますから,気にしないで答えてください」みたいなことです.
ほんとに,なんだかわからないのです.ここでの議論では私は「質問紙データの基礎になっている性格認知が行動上の性格をうまく反映していない」ことを問題にしていきましたが,もちろん,「質問紙が性格認知をきちんと測定しているのか」「そもそも質問紙が人の意識をきちんと反映するなんてことができるのか」という問いも,私はこれまでいろんなところで問うてきました.ただ,ここでそこまで言い始めたら,まったく心理学全体を論じることになって,それこそ血液型どころではなくなるから,敢えて触れなかったのです.
ただまあ,このへんのことはかなり多くの(今度はほんとにかなり多くです,笑)心理学者が真剣に考えはじめていて,質問紙法はたぶん21世紀の心理学の中でその位置づけの大きな変化が予想される方法論のひとつですね.もちろん,世論調査や意識調査,意見の集約といった目的には今後も使われ続けるでしょうが,人間行動や意識(精神)を直接扱うためのデータとしては衰退するでしょう.
その証拠に,わたしが21世紀の心理学の中心になると思っているパラダイム,行動分析学,生態心理学,社会構成主義的フィールドワークは,どれも質問紙調査というものにまったく依存しません.ただし,最大素数さんが希望されるようにきちんとした総括がされることはなく,質問紙もまた静かに消え去るのみかもしれませんが.
> 質問紙でもなんでも、人間の精神活動を、項目の得点として数量化することで、統計処
> 理による評価が可能である、というアイデアは誰の発想なのですか。
特定の個人だけには帰属できないけど,間違いなくアメリカ人の発想.まあそれに似たものの元祖はフランスのビネによる「知能検査」なのですが,あれは単に知能の発達遅滞を発見するためだけのもので,意識あるいは精神活動自体をどうこうするものではなかったですから.
日本人はアメリカの研究ばかり見ていますから,質問紙法が「非実験系心理学」の唯一のデータ源みたいに考えていますが,フランス人とかドイツ人はそんなことバカにして全然やりませんよ.まあ彼らはそもそも「心理学を数値データ&統計で議論する」こと自体もアメリカ的だとバカにしていて,あまり興味がないようだけれど.
さて,もうひとつ重要な問題.
>> 私はよく人の不幸を喜ぶ はい..どちらでもない..いいえ
>> 人の不幸を喜ぶほうだ はい..どちらでもない..いいえ
これ,私は「項目にわずかな差があることで結果が違うとはどういうことか」ということを説明するためだけにでっち上げたもので,まじめに考えたりされないために,あえて馬鹿馬鹿しい,実際の回答も無意味になるような項目を作ったつもりだったのですが,デフォルメが足らなかったようですね.
私はよく足の臭いをかぐ
足の臭いをかぐ方だ
とでもしておけばよかったですね.よけいな疑念を抱かせてしまって申し訳ありません.したがって,
>> 「人の不幸を喜ぶ」性格傾向(ABOFANへの手紙(11))
>
> ってな概念はあると考えておられるのですか?
> それとも単に、例に乗っかっての、行きがかり上の表現ですか?
> 御自身があげられた例に関しての言及なのでその辺のご理解は気になっていました。
そんな性格傾向があるとは想定しておりません.ただ,そういう風に自分から,あるいは他者から解釈されるような行動パターンというのはあるかもしれませんが(笑),それを考えていたわけでもありません.
> 「一貫性」の問題でいえば、性格検査・質問紙の不備をいくら突いても、「一貫性」の
> 否定にはならないんじゃないか、ということですね。
そりゃあそうです.だから私は一生懸命「一貫性が否定される」理論的な根拠,一貫性を想定しないあたらしい性格心理学のビジョンを提出してきたつもりなんですが,まだ足りませんかねえ?
ABOFANへの手紙(14)
最大素数さんのメールも今回は小骨が多いですね(笑).
まずはABOFANさんの「返事」への返事から始めましょう.
1.ランダムサンプリングの問題
このこと,この前説明したからわかってもらえてると思ってたんですが,そうじゃなかったんですね.えーと,ABOFANさんがいっていることは単純に統計手法についてのごく入門教科書レベルの誤解に基づいています.これはちょっと驚いた.
どうも独立変数と従属変数という基本的なことから説明しないとならないようです.
仮説 変数Aが1であるときと2であるときでは,変数Bの値に違いがある
という仮説を検証しようとするとき,変数Aを独立変数(先行変数),変数Bを従属変数(説明変数)と言います.
統計的検定であれば,独立変数が質的変数であればランダムサンプリングしたサンプルを独立変数によって分割します.そして,分割されたグループ(群,といいます)の間で従属変数に差があるかどうかを確かめます.従属変数も質的変数の場合にはχ2検定を使いますね.
たとえば「血液型で相撲の組み手が違う」というような場合,血液型が独立変数,組み手が従属変数ですから,ランダムサンプリングされた相撲取りを血液型で分割し(あるいは血液型ごとの相撲取りからランダムサンプリングでサンプルを抽出し),血液型群ごとの組み手の傾向をχ2検定で比較すればよい.
ランダムサンプリングで「偏りのないサンプルを抽出する」というのは「独立変数以外の点ではできる限り均等なサンプルを得る」ということであり,独立変数はその対象ではありません.だから,ABOFANさんが言うようにχ2検定の独立変数に基づいてサンプルを抽出,あるいは分割することは「特定の条件にあてはまるサンプルを集める」ことにはあたりません.独立変数で分割された群それぞれのサンプルがランダムサンプリングされている(あるいはランダムサンプリングされたサンプルが群に分割される)ことだけが求められます.
> 「O型は独立心が強い」ことを証明しようとして、O型についてランダムサンプリン
> グしてみましょう。しかし、残念ながらそういう結果は得られませんでした。なぜなら
> 、O型の独立心は立場が強ければ強いのですが、立場が弱い場合は逆に弱くなるからで
> す。つまり、下の図のようになります。
これはまったく単純な間違いです.このモデルの場合「立場の強さ」は血液型と相互作用して「独立心」という従属変数に因果的な影響を与える独立変数です.このデータを2つの独立変数でクロスした分割表にすると
血液型
O型 B型
立 強い 高い独立心 中位の独立心
場 弱い 低い独立心 中位の独立心
となります.繰り返しますが,血液型と立場の強さが独立変数で,独立心が従属変数です.独立変数が2個の質的変数で,従属変数が(たぶん)量的変数ですから使う統計は「二元配置の分散分析」です.分散分析の結果このデータでは「血液型」と「立場」の2つの独立変数の主効果は有意にならない(その変数独自では差がない)でしょうが,独立変数間の「交互作用」(interactionを統計では交互作用と訳します.ふつうは相互作用)が有意になります(注1).もちろん,サンプルはランダムサンプリングされていなければなりませんし,ランダムサンプリングされていてもここで起きている現象はきちんと統計的に検証されます.
ABOFANさんがこのデータでランダムサンプリングして血液型の差が出ないというのは,ランダムサンプリングの問題ではなく,単に「立場の強さ」という重要な独立変数を分析に入れ忘れているだけ,あるいは独立変数と従属変数を区別できてていないだけの,まったくの誤りに過ぎません.
これはかなりカッコ悪いので,ランダムサンプリングを批判する主張は引っ込めた方がABOFANさんのためと思います.
> 結局、その場所、そのサンプルでは正しいのですから、「差がある」ことは確かです。
> 上の図を見るとわかりますが、ある条件の下で「差がある」なら、一般的には「差があ
> る」ということになります。ただ、それが現実的に意味を持つかかどうかは別の問題で
> しょうが…。
したがってこの主張も誤り.ABOFANさんは独立変数である「ある条件」と,サンプルの歪みである「ある条件」を混同しています.
「その場所,そのサンプルで」というのはランダムサンプリングされていない限りは「その場所,そのサンプルに限って」という可能性を除去できませんから,少なくとも統計的検定では「差がある」ということにはなりません.
また,ある条件のもとで「差がある」なら,一般的には「差がある」ということになる,という主張はまったく理解できません.とくに背の高い女の人と,とくに背の低い男の人だけを集めたデータで,男女の身長差を調べたら「女の方が男より背が高い」という結果が出るでしょう.この結果から「一般的には女は男より背が高い」ということになりますか? ランダムサンプリングは,そういう間違った結果を避けるための方法なのです.
この問題に関しては,少なくとも統計学に基づいた議論であれば,誰がなんと言おうと私の方が正しいです.それでも私が間違っているというのなら,ABOFANさんの統計学は,私たち心理学者の知っている統計学とは違うものだ,ということになり,ABOFANさんと心理学者のデータによる議論はますます困難になります.
(注1)交互作用が有意 このパターンで,交互作用がもっとも有意になるのは以下のようなデータの場合です.この場合も,血液型,立場の強さそれぞれの主効果は有意になりません.
血液型
O型 B型
立 強い 高い独立心 低い独立心
場 弱い 低い独立心 高い独立心
2.「気質」のメタ概念について
> このページを読んでいる(かどうか知りませんが…)性格心理学者の感想をぜひ聞か
> せてください(笑)。確かに、そういう定義をしてしまえば、それぞれの行動は別物で
> すから、「メタ概念」で表すことはできません。それに意味があるかどうかは別問題で
> すが…。
私も性格心理学者の意見が聞きたいですね.あと,彼らが私の議論にどう反論するかも聞きたい.ABOFANさん式に言えば「もし反論がないなら私が正しい」(笑).でも,賭けても良いけど誰からも意見は来ませんよ(ちょっとABOFANモード).
3.ふたたびふたたびデータについて
> しつこいようですが、ミシェルのデータだって有限ですし、ランダムサンプリングはし
> てないのですから、「通状況的一貫性は存在しない」とも言えないのではないでしょう
> か?
これはもっと正確に言うべきです.「ミシェルが調べて差が出ていなかった様々な研究例のデータも,母集団は有限だしランダムサンプリングはしていないのですから,通状況的一貫性は存在しないとも言えないのではないでしょうか?」(ミシェルのデータ,というものはないから).そして,この主張は半分正しくて,半分間違っている.
ABOFANさんの土俵に乗ってしまったせいで統計の話ばっかりでほんとに参っちゃうのですが....
これはこれまでも長谷川先生をはじめいろんな心理学者がABOFANさんに説明していることと思いますが,統計的検定というのは「差があるかないかどっちか確かめるもの」ではなくて,「差がないという帰無仮説を棄却できるかどうか確かめるもの」です.そしてその結論は「差があるといえる(帰無仮説棄却)」か「差があるとは言えない(帰無仮説採択)」かのどちらかです.
したがって,統計的検定というのは「差がある」と言いたい方が,さまざまな条件をクリアしていくことで,徐々に「帰無仮説棄却」に向けて進んでいくものです.そうした条件がクリアできないと自動的に「帰無仮説採択」になってしまいます.クリアすべき条件にはデータが偶然の範囲を超える差を示している,ということで,それにはランダムサンプリングされていることが必要です.
したがって,そこで見られた差や関係が小さいと言うことはもちろんですが,ランダムサンプリングされていないことも,帰無仮説を棄却するための条件がクリアできまいひとつの要因になりますから,帰無仮説が採択されます.つまり,ランダムサンプリングされていなくても,「差があるとは言えない」という結論は論理的には問題なく出すことができるし,極端な話,ランダムサンプリングされていないことだけで帰無仮説を採択することすらできます.
これはあくまでも理屈の話ですが,これでは納得できないでしょうからもっと実際的な話をします.ランダムサンプリングは主に「差がないのに差が出る」という過誤を防ぐために行われています.母集団には実際は差があるのに,サンプリングの偏りによって差が出ないと言うことは,その逆の場合より現実的に考えにくいのです.統計的検定は何度も言っているように「差がないという帰無仮説を棄却する」ためにすることで,「差がない」ということを証明するためのものではありませんので,わざわざ偏ったサンプルによって「差がない」データを恣意的に作ることも無意味です.
つまり,統計的検定というものはもともと差を出すのが目的で,かつランダムサンプリングしないときにはどちらかというと「差が出る」方向に結果がゆがむものなのに,それでも差が出ていない,ということは,これはほんとに差がないんだわ,と考えるのが心理学者の常識的な思考だし,それは間違っていないことが多いでしょう.
もちろん,それはあくまでも「慣例」であって,帰無仮説を棄却するにしてもランダムサンプリングされているデータに基づく方がよいに決まっていますから,そういう意味でABOFANさんの主張は半分正しく,半分間違っている,ということになります.
4.行動主義的思考について
>> じつは環境側(人間の外側)の要因なのではないかといちいち疑ってかかり,調べ
>> ていくということなんです.
>
> 一般論としてはそのとおりですが、例えばこのケースでは、環境の要因であることが
> (何らか手法で)証明されたのですか? 証明されたすると、それはどういう手法や
> データなのですか?
これは単純で,同じような条件や,あるいはそれを抽象的に組み直した実験場面で,他の要因を統制したときに,当該の環境要因を実験的に操作した結果として行動が変容すれば,行動に環境の要因が影響していることが証明されます.もちろん,前回の例で挙げた「葬式」のケースでの環境からの説明が正しいかどうかは直接証明できませんが,類似した,あるいは関連した行動についての環境要因と行動との関係が実験 的に証明されていれば,理論的に類推できます.
なんて木で鼻を括ったような答えをここではしますが,このことは最大素数さんの議論ともつながります(ABOFANさんもぜひ先まで読んでね).
> 「入力」も「出力」も外部からの観測(客観的事実として)で解るから良しとするなら
> ば、「ブラックボックス」は、もはや暗箱でさえもないのではありませんか(笑)。し
> かし、確かにそれは従来の心理学の、従来の科学のディシプリンではありませんね。
ああ,確かに暗箱ですらありません.実際には「精神」の存在自体も仮定する必要ないです.でもそれをいうと,素人はまたどんどんめちゃくちゃな曲解や誤解を展開してしまい,説明するのが面倒なので,あまり言いません.あまりに一般常識と違うからね.そのためだけにまた14通メール書かないとならないのよ....
ただ,確かにこれは従来の心理学のディシプリンではないけれど,思想史的にはロックやヒュームなどのイギリス経験論哲学やパブロフの条件反射学にはっきりした起源を見ることができますから,いわゆる科学ディシプリンからそれほど離れるものではないでしょうね.また,行動主義における「反証可能性」や「客観性」の基準はまさに「科学主義的」なものです.行動と環境はそれぞれ原則として客観的に観測可能,計量可能ですから.
> にしても、やっぱり「"ハード"の性質とは無関係に"ソフト"の性質を論じうる」という
> 立場なんじゃあありませんか(笑)。
それはちょっと違う.入力の構造と出力を結ぶ基本的な機能は明らかに生体側にありますから.たとえばぼくらが使う基本的概念である「オペラント条件づけ」では,自発した行動が環境から正のフィードバック(強化)を受けた場合にはその行動の自発率を高め,環境から負のフィードバック(罰)を受けた場合には自発率を低めるという基本的な原理が明らかに生体側にあるということははっきり認めています.進化の過程によって獲得され,遺伝的に伝達される,という意味でね.しかし,この原理によって全体としてどんな行動パターンが生成されるかは,生体が自発した行動に環境がどのようなフィードバックを与えるかに依存する,と考えます.
> はなくて、出力の内容から、「入力の差」が解った、ということではないのですか?
> 出力の内容を吟味してみたら、同じように思えた入力が実は違うのだ、ということが解
> ったってことでしょう?
あのね,これはものすごく正しいです.われわれも自分たちのディシプリンの中で理論的な議論を行うときにはそれを原則とします.ただあの場面でそれを言っちゃっても理解されるかどうか不安だったから.
端的に言えば,たとえばオペラント条件づけでなにが強化になるか,ということは,それを特定の個体の特定の行動に与えてみて,結果としてその行動が増えるかどうかによってしか決定できません.
ただし,その先があります.出力の差に基づいて入力の差がわかったら,今度はその「入力の差」を人為的に再現することで,出力の差を作り出すことができます.行動の増加によって強化子を特定できたなら,その後はその個体および類似した個体の,その行動および類似した行動の出現を,その強化子によって制御できるようになります.このときはじめて,その行動を成立させ,維持している環境の構造が本当の意味で明らかになります.
つまり,行動主義のおこなう環境からの説明は,すでに起きてしまった行動に対しては「仮説」に過ぎません.その仮説に基づいて環境を調整することで,それ以後の,未来の行動に影響を与えることができるかどうかで,その仮説が検証されるのです(これがずっと上のABOFANさんの問いへの答えです).
「葬式」の例でも,私が環境要因からした説明はあくまでも仮説で,それが正しいかどうかは,そこで行った説明に基づいて環境を調整したときに,実際に行動に影響を与えることができるかどうかによってしか検証されません.また,もしそれをやったとして誰かを葬式で泣かせたり,微笑ませたりすることに何らかの意味があるかは疑問です.
しかし,たとえば病的な行動とか,問題のある行動の修正,という目的では,行動主義のこうした論理は実際に有効になります.ある人の行動に社会的不適応につながる問題があり,本人がそれを修正したいと考えているとき,行動主義者(行動療法家)は,その人を取りまくさまざまな環境で,環境要因とその「問題行動」との関係を探ります.そこから問題行動を生成し,維持している環境要因を推定します.そして,そうした環境要因を除去したり,弱めたりする介入を行うとともに,その問題行動と拮抗するような行動を強化することで問題行動を減らしていきます.減らなければ仮説が間違っていますから,また環境を調べ直します.
簡単にいってしまえば,従来の心理学はすでに起きてしまった行動の原因を説明するのはうまいが,これから起きる行動を予測したり,制御したりするのは苦手です.なぜなら,彼らの理論ではこれから起きる行動に影響を与えるためには「こころ」や「意識」を変える必要があるが,目に見えないこころを修正する明確な方法はないから.
いっぽう行動主義はすでに起きてしまった行動については検証しにくい仮説しか提出できないけれども,これから起きる行動を予測したり,制御したりすることはうまい.なぜなら,今後の行動に影響を与えるであろう環境要因は目に見えるし,直接制御可能だからです.
行動主義/行動分析学のもっと具体的な手続や内容については「行動分析学入門」(産業図書)がすごく参考になると思うので,ぜひ本屋で立ち読みでも良いですから目を通してみてください.
> だって、入力の、それぞれの「意味」って、それぞれの「ブラックボックス」内でのこ
> とであって、「意味」は観測できないでしょう。それこそ「認知」レベルの話しだと思
> います。
ああ,ぼくらは本当は「意味」なんて言葉は使いません.わかりやすいように使っただけで,正確な意味は「同じ刺激に対する異なった反応を規定するもの」です.で,それは過去の強化歴の中に発見されるはずです.もちろん,これも過去をしらべてそれらしきものを発見した時点では仮説に過ぎませんが,それに基づいて環境からの入力を実験的に調整してみたときに,出力としての行動に個体差を作り出すことができれば,仮説は検証されます.
それを「認知」というのは自由ですが,その「認知」は結果としての行動によってしか類推できないものです.私が「あの人は私のことが嫌い」というのは,その人の内部に「私を嫌っている」という認知を発見した,という意味ではなくて,あの人が私を嫌っていると思えるような行動をとっていると私が認識している,ということに過ぎません.
それは心理学者が「認知」を言うときも同じです.人の内部にそんなものがある保証はないし,また過去の強化歴がはっきり類推できるときにはそれを過去の環境要因に結びつける方が,それが現在「認知」という形で人の内部にあるというより,説明の概念が節約できます(注1).
まあこういう問題は行動主義の問題というより,心的概念についての認識論に属しますから,ライルの「心の概念」(みすず書房)とかヴィトゲンシュタインの「哲学探究」や「心理学の哲学」(どちらも大修館書店)など,分析哲学の文献に目を通してみてください.哲学者たちがいわゆる心理学のパラダイム(たとえば内的な意識が行動を制御する,といった)を,すでに数十年も前からほとんど完膚無きまでに否定しきっていることがわかって驚きますよ.私もはじめて読んだときは驚いたよ.
(注1)概念の節約 科学理論では同じ現象を同程度に説明できる複数の仮説があるときは,少ない概念で説明できる方を「経済的」として採択する傾向があります.
5.最大素数さんの「性格検査・質問紙を巡って」について
これは最大素数さんのメールを順々に引用しながら答えていく,といったスタイルになじまない問題と思いますので,なるべく端的に私の考えを述べます.
質問紙への反応に関する,最大素数さんの意見には基本的にすべて賛成です.また,「迷走」の経路についても,私にも想定できるものですし,前に挙げた続有恒先生の研究などでは,そうした「質問項目=思考=反応」の関係についても,最大素数さんが考えられたのとかなり似た議論が行われています.
ある質問項目に対する「はい」の意味が,被験者によってさまざまに異なる,ということを意識していない心理学者はいないでしょう.しかし多くの場合は,なるべく答えやすく個人の思考を「迷走」させない質問項目を揃えるよう努力するとともに,
- 多数のサンプルを採ることでそうした個人差は平均化される
- そうした大サンプルの結果を平均した傾向が,他の基準と論理的に妥当な関係を示しているなら,個人差はあまり影響していな いと考えられる
あたりの理屈で,なんとなく納得しています.でも,一般法則をもとめるためのデータならそれで良いのかもしれないけれど,性格検査など,個人の反応と全体のズレなどで話をするデータでは,これらは成立しない.そこで今度は,
- 個人がその項目をどういう意味にとろうが,母集団の平均的傾向がはっきりしており,その平均的傾向と個人得点とのズレが母集団で一定の性格傾向との関係を示していれば,全ての個人にその関係をあてはめることができる.
などということをいいます.ウソみたいだけど本当に心理学の本にはそう書いてあるし,YG検査の説明書には,もっと驚くべきことが書いてある.たしか「読んでもよく意味のわからない項目もあると思いますが,それに対するあなたの答えは,すべて因子分析などの統計的方法に基づいて,全体の傾向と結びつき,あなたの性格を明らかにするために役立ちますから,気にしないで答えてください」みたいなことです.
ほんとに,なんだかわからないのです.ここでの議論では私は「質問紙データの基礎になっている性格認知が行動上の性格をうまく反映していない」ことを問題にしていきましたが,もちろん,「質問紙が性格認知をきちんと測定しているのか」「そもそも質問紙が人の意識をきちんと反映するなんてことができるのか」という問いも,私はこれまでいろんなところで問うてきました.ただ,ここでそこまで言い始めたら,まったく心理学全体を論じることになって,それこそ血液型どころではなくなるから,敢えて触れなかったのです.
ただまあ,このへんのことはかなり多くの(今度はほんとにかなり多くです,笑)心理学者が真剣に考えはじめていて,質問紙法はたぶん21世紀の心理学の中でその位置づけの大きな変化が予想される方法論のひとつですね.もちろん,世論調査や意識調査,意見の集約といった目的には今後も使われ続けるでしょうが,人間行動や意識(精神)を直接扱うためのデータとしては衰退するでしょう.
その証拠に,わたしが21世紀の心理学の中心になると思っているパラダイム,行動分析学,生態心理学,社会構成主義的フィールドワークは,どれも質問紙調査というものにまったく依存しません.ただし,最大素数さんが希望されるようにきちんとした総括がされることはなく,質問紙もまた静かに消え去るのみかもしれませんが.
> 質問紙でもなんでも、人間の精神活動を、項目の得点として数量化することで、統計処
> 理による評価が可能である、というアイデアは誰の発想なのですか。
特定の個人だけには帰属できないけど,間違いなくアメリカ人の発想.まあそれに似たものの元祖はフランスのビネによる「知能検査」なのですが,あれは単に知能の発達遅滞を発見するためだけのもので,意識あるいは精神活動自体をどうこうするものではなかったですから.
日本人はアメリカの研究ばかり見ていますから,質問紙法が「非実験系心理学」の唯一のデータ源みたいに考えていますが,フランス人とかドイツ人はそんなことバカにして全然やりませんよ.まあ彼らはそもそも「心理学を数値データ&統計で議論する」こと自体もアメリカ的だとバカにしていて,あまり興味がないようだけれど.
さて,もうひとつ重要な問題.
>> 私はよく人の不幸を喜ぶ はい..どちらでもない..いいえ
>> 人の不幸を喜ぶほうだ はい..どちらでもない..いいえ
これ,私は「項目にわずかな差があることで結果が違うとはどういうことか」ということを説明するためだけにでっち上げたもので,まじめに考えたりされないために,あえて馬鹿馬鹿しい,実際の回答も無意味になるような項目を作ったつもりだったのですが,デフォルメが足らなかったようですね.
私はよく足の臭いをかぐ
足の臭いをかぐ方だ
とでもしておけばよかったですね.よけいな疑念を抱かせてしまって申し訳ありません.したがって,
>> 「人の不幸を喜ぶ」性格傾向(ABOFANへの手紙(11))
>
> ってな概念はあると考えておられるのですか?
> それとも単に、例に乗っかっての、行きがかり上の表現ですか?
> 御自身があげられた例に関しての言及なのでその辺のご理解は気になっていました。
そんな性格傾向があるとは想定しておりません.ただ,そういう風に自分から,あるいは他者から解釈されるような行動パターンというのはあるかもしれませんが(笑),それを考えていたわけでもありません.
> 「一貫性」の問題でいえば、性格検査・質問紙の不備をいくら突いても、「一貫性」の
> 否定にはならないんじゃないか、ということですね。
そりゃあそうです.だから私は一生懸命「一貫性が否定される」理論的な根拠,一貫性を想定しないあたらしい性格心理学のビジョンを提出してきたつもりなんですが,まだ足りませんかねえ?
ABOFANへの手紙(14)
忘れてましたが,最大素数さんのつぎのコメントについても考えておきます.
> 本当は、何故統計学の数学上の正しさを心理学に援用できるのか、みたいな話しがある
> 筈なんですよね。ですから、統計心理学(なんちゅう言葉があるのか・笑)の本には簡
> 単な表現(この証明についてはこれを参照、程度でも)があると思ってたんです。が、
> かなり専門書風の本にもそれについての言及って載ってなくて、ま、ちと意地になって
> る部分もあったりして(笑)、データ・統計の話題って落ち着かないのです。
ほんと,ある筈なんですが,どうも見あたらないんですよ.
そもそも統計的検定の基礎になっているフィッシャーの推測統計学というのは農学から出てきたもので,もともと「肥料Aを入れた畑Aと肥料Bを入れた畑Bに同じ作物の種を蒔いたときに畑Bの作物の方がよく育ったとして,それが肥料Bの効果だといえるか」みたいなことを確かめるために作られたものだそうです.
種だったらランダムサンプリングも簡単ですよ.いろんな産地から種送ってもらって壺に入れて手でよく混ぜて,そこからランダムに取り出せば簡単に偏りのないサンプルを得ることができます.まあその時の種どうしの個体差も小さいでしょうしね.
そういうものがなぜか巡りめぐって心理学まで牛耳っている.ほんとにそういう方法が人間をサンプルにした研究にも適用可能なのか,謎です.誰かおせーて.
ただ,心理学をこんなに統計が牛耳るようになったのは,比較的最近のことです.私の知り合いが日本で一番権威があるとされる学術誌「心理学研究」を創刊号(昭和の初め)から全部調べたところ,統計的検定を使った論文が主流になったのはせいぜいこの20年くらいのことらしいです.
統計や統計的検定は別に心理学ができたときから心理学の重要な要素だったわけでもないし,そもそもそれが心理学の重要な要素になっていることにもこれといって明確な根拠や経緯があるわけでもないようです.じゃあどうして統計なのか,私は浅学にしてわかりません.
もちろん,心理学のデータの中に統計処理や統計的検定に非常に適したものがあることは確かで,そうしたものに統計を使うことは有意義だし,私も別に反対しないのですが(注1),どんなデータにも統計的検定をするのが当然みたいに考えて,必ずしもそれに適していないデータも無理矢理検定するみたいなことは,本当にクダラナイと思います.ランダムサンプリングの問題もそのひとつです.
(注1)私の知り合いの中には,どう見ても統計的検定のできるデータでも頑として検定をしないというくらい,統計的検定の使用に批判的な心理学者もいます.この人には学会などで「なんで検定しないんですか」という質問が必ず出ます.じゃああなたはなんで検定するんですか,と問い返すと多くの人はまともな答えができないようです.
1.ランダムサンプリングの問題
私が言いたいのはそういう意味ではありません。独立心の強さでは、現実にそういう間違いをしている性格心理学の大家がいるのです。個人批判になると思うので、ここではあえて名前は出しません。その13の図は、その人のことを想定して書いたものです。(^^;;
ということで、血液型以外に独立変数は無限(?)ですから、すべての交互作用を調べるのは事実上不可と言っていいでしょう。今回はたまたま独立変数がわかっていますが調べられるわけです。つまり、ランダムサンプリングをすると、かならずいくつかの独立変数が無視されることになります。無視された独立変数が従属変数に何らかの影響を与えている可能性がゼロとは言えません。これがランダムサンプリングをしてはダメという根拠です。
>
ある条件のもとで「差がある」なら,一般的には「差がある」ということになる,という主張
> はまったく理解できません.
私の書き方が悪かったようで、補足しておきます。物質Aと物質Bがあったとします。例えば、この2つの物質の性質が同じかどうか調べるために、例えば、
を調べたとします。この場合、1つでも違えば「差がある」ことになります。他の全部の性質が同じでも、です(当然!)。長谷川さんの言葉を借りると(『現代のエスプリ〜血液型と性格』 128ページ 『目分量統計の心理と血液型人間「学」』 長谷川芳典)、
「血液型と性格は関係がない」という作業仮説のもとに地道にデータを集め、ある性格的特徴について明らかに血液型との関係を示すようなデータが安定的に得られた時に初めてこの仮説を棄却するのである。これこそが、雑多な変動現象の中から帰納的に規則性を見い出そうとするときにとるべき科学的態度である。
つまり、「差がある」特徴は1つだけでもいいのです。
2.「気質」のメタ概念について
> 私も性格心理学者の意見が聞きたいですね.
このHPを読んでいる渡邊さんの友達は性格心理学者だと思ったからこう書きました。どうやら違ったようですね。(^^;;
3.ふたたびふたたびデータについて
渡邊さんは、実際にデータをいじったことが少ないのではないでしょうか?
#そうでなかったらゴメンナサイ。
1でも書きましたが、私が主張する「ランダムサンプリングはダメ」というのは、そういう意味ではありません。独立変数があらかじめ決まっていれば、ランダムサンプリングをした方がいいに決まっています! しかし、独立変数がわからなくて探し出す場合には、ランダムサンプリングをしていない、つまり「偏った」データから「異常値」を探し出して詳しく調べるという作業が絶対に必要です。その結果、新しい独立変数が探し出せるかもしれません。単純にランダムサンプリングをすると、この「異常値」そのものが消えてしまうのです。そういう意味で、ランダムサンプリングはダメなのです。
4.行動主義的思考について
プロザックを飲むと性格が変わるとか、肝臓移植で性格が変わるとか、様々な実例があるわけです。状況主義ではどう説明するのでしょうか??
行動によって測定された性格ではないから意味がないということなのでしょうか?
追伸について
>
心理学をこんなに統計が牛耳るようになったのは,比較的最近のことです.私の知り合いが日
>
本で一番権威があるとされる学術誌「心理学研究」を創刊号(昭和の初め)から全部調べたとこ
>
ろ,統計的検定を使った論文が主流になったのはせいぜいこの20年くらいのことらしいです.
アメリカの影響なんでしょうね、たぶん。日本は以前はドイツの影響が大きかったのではないでしょうか?
いずれにせよ、これで多くの心理学者が統計が得意でない理由の1つが明らかになったことになります。
> じゃああなたはなんで検定するんですか,と問い返すと多くの人はまともな答えができないようです.
統計の計算ができるからじゃないでしょうか(笑)。その人は計算ができないんですよ、たぶん(失礼!)。
かなり長くなるのですが、理解しやすいように別のページから引用しておきます。
私は、ランダムサンプリングそのものを否定しているのではありません。ランダムサンプリングを行ったデータをそのまま分析してはいけない、と言っているのです。独立変数を見つけるために、データはあらゆる角度から分析すべきです。ランダムサンプリングしたデータをそのまま分析したら差がなかった。だから差がないんだ、というような分析はよくありません!
分布図による分析
論文2のデータの分布図を書いて見てたので、論文1も分布図で分析してみましょう。
論文1−表2 血液型別にみた血液型予想質問の肯定率(%)
この質問項目は、能見さんの本を参考にして作っただけあって、さすがに差が出ています。どういうわけか、O−ABの方がA−Bより差が出ていることがわかります。もちろん、有意差なんか出ていなくたって問題ありません。見ればわかるとおり、これは「誤差」ではありませんから。
論文1−表4 血液型別の性格尺度得点の平均
この質問項目は、性格テストからのものです。O−ABとA−Bのどちらにもバランスよく差が出ていることがわかります。さすがに性格テストというべきでしょうかね。もちろん、見ればわかるとおり、これも「誤差」ではありません。:-p
論文2−表B 4年度の平均
前にも書いたとおり、確かにO−AB方向の差が少ないようです。また、やはり差が出にくいデータであるようです。理由は不明ですが、これは対象者が(ランダムサンプリングによる)均質でないことによるものだと思われます。しかし、A−Bはちゃんと差が出ていることから、O−ABは年齢によって血液型と逆傾向の差が出るのでしょうか? それとも、質問項目の選択(性格テストの中から?)によるものかもしれません。あるいは、大村政男さんの論文のページの分析のとおり、本来の3者択一を2者択一にしてしまったのが原因かもしれませんね。本当はどうなのかわかりませんが…
もちろん、見ればわかるとおり、これも「誤差」でないことは明らかです。:-p
血液型と情意徴標検査
…最大と最小の差の合計を見てみるとわかりますが、男子が123.4、女子が191.2、平均が92.9となっています(太字)。どういうわけか、男子と女子とを合計すると差が小さくなるようです。これは、サンプル数の違いからデータのバラツキ(誤差)が少なくなったとも考えられます。そこで、サンプル数の違いを考慮して合計の計算をしてみると、104.7となります。ということは、バラツキが減った以上に差が小さくなったことになりますね。はて?
そこで、私の仮説を思い出してみてください。え、覚えていないって? では、再度書いておきましょう。1.回答者が均質でないといけない(つまり、同じ大学の大学生なんかがいちばんいい)
2.回答者総数が数百人以上でないといけない(できれば千人以上で血液型別の人数が同じならなおよい)
3.能見さんの本の血液型別の特徴を質問項目にすること(一般の性格テストではダメ)
4.能見さんの本の血液型別特徴と回答結果は必ずしも一致しない(とにかく差が出ればよい)つまり、男子と女子とでは、血液型による回答の傾向が違うのです。ですから、回答者を均質にしないと差が出にくくなるのということですね。こんなに簡単に実証できるとは…私自身も驚いています。(^^)
血液型と情意徴標検査
…また、最大と最小の差の合計を見てみるとわかりますが、男子が113.0、女子が228.2、平均が90.4となっています(太字)。これも、男子と女子とを合計すると差が小さくなるようです。サンプル数の違いからデータのバラツキ(誤差)が少なくなったと仮定して合計の計算をしてみると、101.7となります。ということは、やはりバラツキが減った以上に差が小さくなったことになりますね。
私の仮説を再度書いておきましょう。1.回答者が均質でないといけない(つまり、同じ大学の大学生なんかがいちばんいい)
2.回答者総数が数百人以上でないといけない(できれば千人以上で血液型別の人数が同じならなおよい)
3.能見さんの本の血液型別の特徴を質問項目にすること(一般の性格テストではダメ)
4.能見さんの本の血液型別特徴と回答結果は必ずしも一致しない(とにかく差が出ればよい)またまた、男子と女子とでは、血液型による回答の傾向が違うようです。2回同じ結果が出たのですから間違いないのでしょう…たぶん。(^^;;
今回もまた丁寧な説明、ありがとうございます。
1.行動主義的思考、ですか
> 入力の構造と出力を結ぶ基本的な機能は明らかに生体側にあります
この「機能」を担っている「生体側」のナニカを「意識」と呼ぶことはできないのですか?
そうではない、ということでしたら、「ブラックボックス(=謎の存在)」を
> 確かに暗箱ですらありません
とまで言ってしまっているのですから、「"ハード"の性質とは無関係に"ソフト"の性質を論じうる」という立場の否定になぜそんなに拘るのかよくわかりません。
もう一つ良く判らないのが、「行動の予測」の内容です。(学問の目標として、とか方法論上の仮定として、というような意味では判ります)
読んだままでは、既知の「(意識・行動)出力」の原因となった「(環境)入力」と同じ(ような)入力においては同じ(ような)出力がある、ということを言っているように思えます。
しかし、これは
1.人格レベルと言うにせよ、行動のと言うにせよ、首尾一貫性より普遍的な方向での一貫性を認めることになる。
こと、及び別の問題として
2.実生活では、あらためて「予測」などと構える必要が無い「同じ(ような)入力」の繰り返しと、殆ど「同じ(ような)入力」などというものはない事態とから成り立っており、他者理解にはナンの役にも立ちそうにない。
ことなど、渡邊さんの言いたいことと違うことは明らか(な筈)です。
今回の、ABOFANへの手紙(14)での
> たとえば病的な行動とか,問題のある行動の修正,という目的では,行動主義のこうした論理は実際に有効になります
という文で少し落ち着きました。問題行動の修正・除去などにはこうした「予測」は有効でしょう。
しかし、結局のところそういうことならば、性格検査や一貫性という概念・考え方を「否定」する根拠も理由も意味が無いんじゃないでしょうか。
と、いうことで、この話題の焦点は、実は、渡邊さんの説明を「なんで?」という視点でまとめると、なんか論点が矮小化されてしまうようなんですが、そういうことではない筈ですよね、ってあたりです。
2.最後の「性格検査・質問紙を巡って」
まずは「例」から。
> まじめに考えたりされないために,あえて馬鹿馬鹿しい,実際の回答も無意味になる
> ような項目を作ったつもりだったのですが,デフォルメが足らなかったようですね
ある意味良かったです。
が、ショックでもあります。
「迷走」の例としては、ふさわしいものが、YG性格検査の質問項目にいくらでもありまして、例えば「よく考えずに行動してしまうことが多い 」「早合点の傾向がある」などなど、確信「はい」の例としてあげた「いつもなにか刺激を求める」がある「のんきさR」の群の中でも、その半分以上は、渡邊さんの「馬鹿馬鹿しい」例と似たようなレベルなわけです。
そういう意味では、
> 続有恒先生の研究などでは,・・・議論が行われています
と、それなりの研究があるにしてはYG性格検査の質問のお粗末さは信じがたいです。
YG性格検査の説明の一部や「心理学の本」の解説などなど、かなり"怖い"お話しではあります。
3.統計の根拠
> ほんと,ある筈なんですが,どうも見あたらないんですよ.
ああ、やっぱり、という感じでガックリ。
とはいえ、結構気合い入れての質問だったのですよ。「(それについての理論を)なんか聞いたような気がするが憶えてない」的に軽く受け取られないように、ってネ。
内燃機関の原理・仕組みは知らなくても上手な運転は可能だ、ということかなー。