simaさんからのメール
その1〜22
臨床心理士のsimaさんからのメールにはかなりの反響があったので驚いています。そこで、特別コーナーをオープンしました。メールをいただいた方には、(もちろん、simaさんを含めて)深く感謝いたします。
元の発言は、みなさんからのメールのNo.138です。
以下のメッセージは、公開可のみのものだけです。公開の確認が取れていないものもまだまだあることを付記しておきます(私の意見に賛成のもののを更に何通かいただいています)。
なお、simaさんから回答をいただいていない質問がいくつかあります。もし、回答がいただければ、議論がもっと面白くなるはずだと思います。simaさんがお忙しいことはわかっていますし、無理なことは承知の上でのお願いなのですが…。返す返すも残念です。 -- H11.3.9
ふつう
2.お気に入りのページ
血液型再検討、血液型と性格のタブー
3.血液型と性格の関係は?
ない
4.メッセージ:
私は臨床心理士のsimaといいます。私が担当しているクライアントの鬱状態が悪化した原因がどうも血液型占いにあるようなのです。私は血液型占いのことを知りませんのでネットで検索していたらこのページに来ました。そのクライアントは時々軽い鬱状態になったときに私のところにカウンセリングに来るのですが、1月下旬に来たときには今までよりも重い鬱状態でした。理由を聞くと、1月15日の「どうなってるの」という番組で「結婚したくない血液型」ということをやったそうで、それを見た彼女は「私は結婚できない」と将来を悲観して鬱になったようです。対人関係や仕事関係も順調のようですので原因はこの番組にあるとしか思えません。職業上、これ以上の話はできませんが、管理人様、どのように思われますか?ご意見を聞かせてください。
臨床心理士のsimaです。血液型と差別に関して管理人様のご意見を伺いたいと思います。私のクライアントの症状に関連して友人の社会心理学者に話を聞いたところ、彼の学生の中にも血液型占いのせいで不快な体験をした人が結構いるのだそうです。就職面接やバイトの面接で「*型は性格が悪いから」などと不採用になったり、バイトで採用されてもそこの店長が「自分は*型は嫌いだから」といって差別されたというような体験をした学生が結構いるのだそうです。人種や国籍で結婚したくないとかとなりにすみたくないなどと言うと差別という問題になりますが、血液型でそのようなことを言うのは差別ではないのでしょうか?管理人様はみんな楽しんで血液型占いをしているから、裁判になっていないから血液型差別は存在しないとおっしゃっていますが、どのように思われますか?いじめや殺人や人種差別でも楽しんでやる人間は存在します。南北戦争以前に黒人奴隷を差別していると考えた白人がどれくらいいたでしょうか?意識されない、あるいは楽しんでいると言うことと差別や偏見の有無とは別問題です。「明確に意識されない」という点が血液型占いが植え付ける偏見の悪質なところなのではないのでしょうか?それとも本当に裁判にならないと社会的な問題として認識する必要はないとお考えなのですか?ご意見をお聞かせください。
臨床心理士のsimaです。心理学会では血液型と性格の関係について研究することはタブーであると誤解されていらっしゃるようですので、一言説明したいと思います。学問は過去の研究の積み重ねであり、過去に否定された研究は明確な反証がない限り再検討されることは少ない傾向があります。血液型性格関連説はご存じのように戦前に否定された研究です。管理人様は、能見氏が存命中は心理学者からの血液型占いを否定する研究がなかったのはタブーがあり心理学者には天才能見先生を論破できないからだとお考えかもしれません。それはタブーでも何でもなく、「血液型占いは俗説であり真面目な研究テーマではない」と見なされていたからです。80年代になって心理学者の研究が発表されるようになったのは、学生たちの間に血液型占いが浸透してしまったので、「なぜ俗説を信じるか」という疑問が研究テーマになったからだと思われます。幽霊や呪いの存在は心理学の研究テーマにはならないが、憑霊妄想は研究テーマであるのと同じことです。また、血液型占いに限らず「真面目な研究をしないで受けねらいの研究をする奴」と見なされることは多くの研究者にとっては不名誉なことでしょう。また能見氏のアンケート結果にしても、管理人様も読者カードを使ったアンケートなのでランダムサンプリングにはなっていないと書いているように、調査結果の致命的な欠点はまさにそこにあります。「ジャイアンツのファン感謝デーに東京ドームに集まった5万人のプロ野球ファンに好きな野球チームを質問したところ、95パーセントがジャイアンツと答えた」という結果からプロ野球ファンの95パーセントはジャイアンツファンだと主張するようなものです。大村氏が主張するような「調査対象の血液型分布が日本人の分布と一致していない」ことは、それに比べれば些細なことです。血液型占いの情報が全くない人間を対象にした調査から血液型と性格の間に関係が認められたというのなら検討に値するのです。管理人様のご意見をお聞かせください。
長文のメールをどうもありがとうございます。3通を1つにまとめさせていただきましたのでご了承ください。臨床心理士って、人の心を理解できるのでしょうからすごいなって思っています。そんな人からメールが来るとは少々感激しています(決してお世辞でも皮肉でもありません!)。
さて、私の考えを書こうかと思ったのですが、simaさんのメールを全部読んだところ、すでにその中で結論が出ているようですので、それを書くことで私からのご返事に代えたいと思います。どうかご了承ください。m(._.)m
まず、この『ABO FAN』は「血液型占い」ではありません。あくまでも統計的(科学的?)に「○○型は××の傾向がある」ということを証明しようとするHPです。従って、simaさんが担当しているクライアントの症状が「血液型占い」によって悪化したとするならば、それは私とは関係あるはずがありません。とは言っても、このHPは、おっしゃるように一部のサーチエンジンでは「血液型占い」に分類されています。ですから、一部の人には確かに「血液型占い」と思われていても不思議はありませんが。(^^;;
ということで、「血液型占い」とは関係ないのですが、ご要望ですので順に私が確認したsimaさんの考えを書いていくことにします。
まず、その1の「結婚したくない血液型」ということですが、確かにこういうデータは実在します。下のデータは、佐藤達哉さんの論文、「プラットタイプ・ハラスメント」からです(『現代のエスプリ〜血液型と性格』 No.324 至文堂 H6)。
表3 各血液型のイメージ(%) N=318
A B O AB なし 隣には住みたくないタイプ
6 18 2 20 51 仲間として一緒のクラブに入りたくないタイプ 6 9 2 13 64 結婚したくないタイプ 10 12 3 22 50 自分には好きになれないタイプ 5 12 2 14 60
確かにB型とAB型のイメージは若干(?)は悪いようです。ただ、「なし」という回答が50%以上あることにご注目ください。でも、少々問題のような気もしますね。ところが、社会心理学者である松井豊さんの『恋ごころの科学』には、はるかに極端なデータが掲載されています。ここに書くのは少々気が引けるのですが、比較のために書いておくことに…。この本によると、男性・女性とも、相手を選択する条件としては「外見的魅力」が70%以上の比率だそうです(元々はアメリカの心理学者のデータです)。つまり、血液型などは全く問題にならないようなのです。simaさんは、この本や元々のアメリカの論文はすでにお読みになっているのでしょう。ですから、血液型よりも心理学の方が鬱状態にははるかによくない、と考えているに違いないはずです。私はそう確信しています。
#血液型別未婚率のデータは私は見たことがないので、確定的なことは言えないことを付記しておきます。
では、その2に移ります。
差別については、詳しくは血液型と「差別」?のページをご覧ください。ここでは、少々補足しておきます。
手元に、某地区の「求人ニュース」があります。このなかから、ランダムに条件を拾ってみました。
お断りしておきますが、これは違法なチラシではなく全国紙の折り込みチラシです。つまり、就職には年齢が問題になるということです。これまた言うまでもなく、学歴による差別もあります。某有名家電メーカーが「学歴不問」の採用試験をしてニュースになったぐらいですから、ほとんどの企業は年齢による差別(?)の他に学歴による差別(?)もあるわけです。公務員は言うまでもありません。また、最近はバブル期はなくなった(有名大学の)指定校制度が復活しているようです。これは、一部のマスコミでも報道しているようですし、私は複数のニュースソースから実状を聞いているので、まず間違いなく事実でしょう。
しかし、私は血液型が問題になったというケースは寡聞にして知りません。一部マスコミ報道については、私が確認できる限りそういう事実はありませんでした。では、全くそういうことはないかというと、本当のことはわかりませんし、(年齢や学歴よりも)数が少ないからいいということもないでしょう。私は、血液型による採用が合法なのか、あるいは「差別」になるのかは、正確なことを知りませんのでなんともいえません。ただ、一般的には「血液型だけ」による採用は得策とはいえません。なぜなら、血液型による能力の差は、そこまで絶対的なものではないからです。とは言っても、「年齢」や「学歴」は「差別」ではないのでしょうから、「血液型」が差別なのかは微妙なところです。「男女雇用機会均等法」成立以前は、性別による採用は「合法」でした。となると、「血液型雇用機会均等法」がないのだから、血液型による採用は合法なのかもしれません…。何とも言えませんが…。
おっと、これでは何の結論にもなっていませんね。(^^;;
と言いつつ、その3に移ります。
まず、「タブーでも何でもなく、『血液型占いは俗説であり真面目な研究テーマではない』と見なされていた」とのことですが、これが私のいうタブーそのものです。ヒポクラテスの体液説があるぐらいだから、血液型と性格について研究するのはタブーでもなんでもないはずです。いや、ヒポクラテスの体液説やクレッチマーの体型説は俗説だ、と言うことなら私は何も言いません。しかし、ほとんど心理学の教科書では、ヒポクラテスやクレッチマーの説は「俗説」とは書いてありません。simaさんもそうおっしゃっていないようです。つまり、ヒポラクテス(クレッチマー)説は科学的だが、能見説は「俗説」ということになります。私には、どう考えても「タブー」以外にはうまい言葉が思いつかないのですが…。いや、simaさんは、ヒポラクテス(クレッチマー)説は「非科学的」とお思いなのでしょうか? はて?
続いて、「80年代になって心理学者の研究が発表されるようになったのは、学生たちの間に血液型占いが浸透してしまったので、『なぜ俗説を信じるか』という疑問が研究テーマになったからだと思われます」とのことですが、この根拠はなんでしょうか? というのは、能見正比古さんが存命中の方がはるかに「学生たちの間に血液型占いが浸透してしまった」はずだからです。しかし、彼の存命中は大した批判はなかった。能見さんへの大々的な批判が開始されるのは、彼の死後半年たってからです。なぜこのタイミングなのか? 私が納得できる説明は、いまだら心理学者から聞いたことはないような気がします…。でも、simaさんはご存じのようですから、次回のメールでぜひお教えいただければ幸いです。
こういう印象はなにも私だけのものではなく、前川さんの『血液型人間学−運命との対話』でも、「『血液型と人間の性格の関係は完全に無関係』ということを『論証』するための番組」であり「論証は非常にずさんなものだった」と書かれています(532ページ)。
能見[注:正比古さん]の死後、半年ほどでのこの番組[注:NHK「ウルトラ・アイ」]の放送は、血液型人間学批判の効果的なタイミングを計算してのものだったように思える。能見の死後の直後というのでは、個人を鞭打つものとして、視聴者の反感を買いかねなかったし、強力な論客がいなくなったすきをねらっての攻撃という批判(実際、能見がいなくなったからこそ、こういうずさんな反論番組が放送されたという側面は、否定し得ないように思える)も避けたかったことであろう。かといって、そういつまでも反論を遅らせる気持ちも毛頭ない。半年もたてば、能見の死の記憶も何とか薄らいでいることだろう。こうして、82年5月17日が選ばれたのだと思われる。
公共放送であるNHKが(なぜか?)両論併記の形ではなく、否定側の主張だけをそのまま放映するのどうかなと思います。なにしろ、学問的には、いまだに決着が付いていない問題なのですから…。
次に、「『ジャイアンツのファン感謝デーに東京ドームに集まった5万人のプロ野球ファンに好きな野球チームを質問したところ、95パーセントがジャイアンツと答えた』という結果からプロ野球ファンの95パーセントはジャイアンツファンだと主張するようなものです。」とのことですが、全くそのとおりです! 実は、メール(その2)の結論はわざと書かなかったのは、このためなのです。つまり、「友人の社会心理学者に話を聞いたところ、彼の学生の中にも血液型占いのせいで不快な体験をした人が結構いるのだそうです」ということですから、この社会心理学者は血液型に肯定的なのでしょう。なぜなら、全く同じ理由で、否定論者の社会心理学者に話を聞けば、「彼の学生の中にも血液型占いのせいで不快な体験をした人が結構いるのだそうです」と言うに決まっているからです。繰り返しますが、simaさんは「『ジャイアンツのファン感謝デーに東京ドームに集まった5万人のプロ野球ファンに好きな野球チームを質問したところ、95パーセントがジャイアンツと答えた』という結果からプロ野球ファンの95パーセントはジャイアンツファンだと主張するようなものです。」ということですから、否定論者の社会心理学者に話を聞くはずがない、私はそう信じています!
しかし、私は寡聞にして肯定論者の(社会)心理学者は知りません。肯定論者なら、私とはいろいろ話が合いそうですから、よろしければ次回のメールででも、ぜひぜひお教えください。m(._.)m
ここまで書いてきて、私はsimaさんの主張を全く誤解していることに気が付きました。なぜなら、「血液型占いの情報が全くない人間を対象にした調査から血液型と性格の間に関係が認められたというのなら検討に値する」とのことですが、実はそういうデータは実在するからです(詳しくはここをクリック!)。ということは、simaさんは、肯定論者なのかもしれません。もし、私が誤解しているようなら、ここにお詫びします。m(._.)m
最後に、「血液型と性格」を知らない人ほど、血液型に対する偏見が強いことを付記しておきます(ここをクリック!)。ですから、正しい知識が普及するほどsimaさんのクライエントの症状はよくなることになる…はずです。
以上、ご返事になるかどうかわかりませんが、長々と書かせていただきました。乱筆、乱文、どうかご容赦ください。
では、simaさんのクライエントの症状がよくなること願っています。どうもありがとうございました。m(._.)m
基本的には、特に指定がない限り原文のままです。ただし、発言者個人が特定できるような情報は私の判断により削除する場合があります。
simaさんのメールについて思ったこと
他人のメールにあれこれ言うことを「公開」することの是非は管理人の裁量であることを認めた上で、simaさんに申しあげる体裁のメールです。といっても、このメールを非公開とするならば、simaさんに届けてほしいといった類の要求をしているわけではありません。(^^;; そういう意味では、基本的にはあくまでowadaさん宛のメールのつもりです。あ、そういえばsimaさんのメールも管理人様宛ですね。(^^;;
simaさんのメールで気になったことがありまして、ちょっと話しておきたい、と・・・。
simaさんの立場上、この鬱病患者氏の「実在」性は、ちと疑問ではあります。ですから、書き手が「実在」と言っている以上「実在」している、ということで話しを進めます。が、もし、本当にsimaさんが本メールをお読みになることがあって、「このような不特定多数の目にふれる場所で、実在の患者のことを話すわけないじゃぁないの、バーカ」ということであれば、それで済ませたいと思います。
全体の文意からするとsimaさんは、この鬱病患者氏が血液型と性格には関連がないことを理解すれば、治癒されると考えているように思えるのですがどうでしょうか。もし、そうならば、根本的なところで間違っています。メッセージ:(その1)から明らかなことは、真の問題は「私は結婚できない」と将来を悲観していることであり、それは「結婚できない」=「悪い状態」という価値観に押しつぶされている、ということではありませんか?「結婚」=「女の幸せ」とか、「既婚者」=「多数派」=「善」といった社会通念が(彼女の中で)異常に重みを持っていることが問題なんじゃないでしょうか。フジTV「どうなってるの」は、わたしも何回か見ましたが、一種のお笑い番組でしょ。あの程度のおふざけが、鬱状態の悪化という深刻な影響を及ぼした、というその事実にこそ着目すべきではないのですか。テレビ番組の影響といっても、結婚を前提とした特定の相手が、「どうなってるの」を理由に去っていった、というような具体的な経緯があったわけじゃなし、そもそもタイトルだって「結婚したくない血液型」であって「結婚できない血液型」ではないのでしょう。
まずは、家族をはじめ、周囲の方達のご協力をあおいで、未婚がどんな意味でも「悪」ではないことを知って貰うべきでありましょう。話できる「友人の社会心理学者」がいらっしゃるなら、「いまどきの女性の結婚観」についてご講義を受けられたほうが得るものがあると思います。
ははは。ま、えらそうに書き連ねましたが、実は、わたし自身はこの鬱病患者氏の実在が信じられません。女性が「私は結婚できない」と悲観するとしたら、その原因は、まず『容姿』ではないのですか?これはわたしの思い込みでしょうか。(管理人さんはアメリカの学者のデータを示して似たような疑義を呈していましたね)『容姿』で悩まず『血液型占い』でガックリ、なんてホントかしら。って、だから病気?ま、『容姿』については(例えば「美容整形」という最終兵器でにせよ)既に乗り越えたのだとしたら、今更『血液型占い』でもないもんだ、とも思ってしまいます。が、まぁ、それはあまりに「臨床心理」に無知というものでありましょうか。
実在の患者の症例から、話しの展開上必要最小限の描写に留めたため非現実的な存在になってしまった、という可能性は残ります。だとしたら、血液型と性格の関連を否定するために、実在の患者氏の人格を歪曲してしまったように思えます。これって結構「差別」ですよねぇ。実は、こうして、(多分違反?)メールを書く気になったのは、いわゆる「心理学」関係者の「差別」の酷さ(というか、上手さ、といおうか)が垣間見え、それが気になって仕方がないからなのです。simaさん、アナタの主張のために、患者氏の人格を弄んではいけません。
simaさんは、「心理学の専門家」なのですから、自分自身の「心理学プロパー」としての立場から否定してほしいですね。
「差別意識」に着目されたのならば、少なくとも、『◯頃から血液型占いによる差別に悩むクライアントが増えてきた』程度の実証性を示していただきたいものです。そして、血液型と性格の関連性が疑問ならば、ご自分の「クライアント」そのものに血液型による偏りが有るのか無いのか、「症状」に関してはどうか、症状の「説明」に特徴が見られるか、「治療」の効果の差は如何、「治癒」の過程ではどうか、等々、正に「その道のプロ」であるあなたにしかできない研究の切り口は、素人目にもいくらでも有るように思います。臨床心理士たる者はそうした考察をしなければいけない、と言っているのではありません。「心理学の専門家」が(血液型と)「性格」に関して、発言するならば、シロート談義は許されないと思いますよ。と言うか、たった1例をもとに、友人の話しで膨らませて一丁あがり、って、「臨床心理士」の肩書きが泣きましょう。
最後に再度念のため申し添えます。以上の通りで、「公開」にふさわしい内容でないことは充分自覚しておりますが、「公開」を拒むものではありません。「公開」によっておこるトラブルは引き受けますが、他人のH.P.で喧嘩するような愚は望むところではありません。「公開」の際は、わたしの事情等は一切考慮せず、あくまでowadaさん(のサイト)ご自身の利益に沿うかどうかでご判断下さい。
ヘンなメールでしたでしょうか、ご迷惑にならないことを念じております。
(その1)
この臨床心理士の血液型の方に興味があります。
(その2)
再度、意見を書きます。
(1)臨床心理士ともあろう人が「血液型占い」や「血液型と性格」について知らなかったということが不思議。もちろんそれを信じるかどうかは別です。臨床においてそのようなことを言われることもあったはずです。そのことが不思議でした。
(2)例えばクライアントが「自動車事故に合ったことから鬱病になった」という場合、今回と同様のことを自動車会社に言うのでしょうか?この例は極端と言われそうですが、同じことだと思います。
(3)この臨床心理士はクライアントの信頼をかち取る、クライアントが身をゆだねてもいいと思わせるようにする為に日常はどんな努力をしているのでしょうか? このメールを読む限りこの臨床心理士は不思議な人だなーという感じです。
(その3)
「臨床心理士」の明確な定義を知っておく必要があると思い、私の勤務先のカウンセラー(社員の悩み相談、メンタルヘルスなど)に尋ねてみました。
その結果、「私も『臨床心理士』です。」という返事と共に下記の説明がなされました。
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この「臨床心理士」名称はまだあまり知られておらず、カウンセラーというのが一般的。最近いわゆる心の問題がいろいろな領域で言われるようになり、そうしたこころの問題の解決のために心理学(臨床心理学)的な手法すなわち「カウンセリング」によってお手伝いする専門家の育成が急務となってきた。
<(臨床心理士=カウンセラー)と理解したい。>
臨床心理学もしくはカウンセリングの歴史は、日本では戦後まもなく始まり、すでに多くの諸先輩方がカウンセラーとして活躍してきたが、医師や教師などのような国家資格がないままであった。
そこで、1980年代に入り、臨床心理学関連の学会が集まり、将来の国家資格を目指す活動として、「臨床心理士」を正式な職名にし、一定のレベルを保持するために文部省を主管とする(財)日本臨床心理士資格認定協会をつくり、より厳しい資格基準のもと資格認定の作業に入ることになった。こうして現在では全国で約7000名の「臨床心理士」が誕生いたしている。
<今回、話題のsimaさんは、その一人ということです。>
この資格は、5年毎の更新が義務づけられており、その間に一定の研修を受けることや学会等での発表があることが要件。また、新しい臨床心理士を養成するための大学院のカリキュラムの再検討なども、臨床心理士会独自で行っている。
こうした活動をベースに、国家資格化に向けて各省庁との折衝が現在継続中。
国も「臨床心理士」の国家資格化の必要性は十分に認識している、「臨床心理士」の活動領域は、病院、学校、家庭裁判所、福祉施設、企業、開業など幅広いために、統一した国家資格の創設にはまだまだ多くのハードルがある。
しかし、社会の「臨床心理士」に対する認知は大きく広がってきた。その一つは昨今の学校問題解決のために文部省がスクールカウンセラーの派遣を決め、それには「臨床心理士」の資格をもつものとしたこと。さらに、1995年の阪神淡路大震災の折り、臨床心理士会が被害者の方々のとくに
心理的支援のために臨床心理士を派遣したこと。その他、エイズ患者や家族のための心理的支援については厚生省が各県の臨床心理会に協力を要請し、犯罪被害者に対する心理的支援活動も警察庁とのタイアップが始まっております。
ところで、精神科医もある意味では「臨床心理士」と近い。「臨床心理士」も精神医学を勉強はするが、こころの問題は、従来の精神医学におけ
る患者個人の内部だけをみて、診察室の中だけで解決できるというものではない。家族や地域などの環境との相互作用が重要。
その点で「臨床心理士」の活動領域は、精神科医に比べるとはるかに広がりがあり、そのためにはもっと広い領域の学問を取り入れておく必要があります。
<simaさんの発想で、このようなことが出来るか疑問です。>
カウンセリングの手法も、その意味では現在も常に研究が継続されております。これは決して精神科医に対する「臨床心理士」の優越性を主張するものではないが、精神科医でありながら「臨床心理士」の資格もとっておられる先生が少なくない。
<simaさんは、臨床心理士から出発したのではなく、精神科医で「臨床心理士」の資格を持っている人ではないかと思います。>
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追伸:
それにしても、このMLに参加したことでいろんな分野のことを知ることが出来て
うれしく思います。
(その4)
いろいろと興味をかき立てられるので、またまた感想と意見を書きます。
>その1
simaさん側の情報を全面的に公開しないままでABO−FANに意見申し入れしてくること自体がおかしい。卑怯でもある。
臨床心理士としてはまずクライアントのことを最優先に取り組む必要があるはずで、ABO−FANへの意見はその観点からなされるべき。しかし、クライアントの守秘義務があるので、これは管理人SHOZOさん個人にそれなりの方法で意見申し入れすべき。
このやり方はカウンセリングに名を借りたABO−FANへのいやがらせではなかろうか?
何事も反論はあって良いので、反論したければ、堂々とやれば良いのです。
>その2
採用問題に限って書いてみます。
「学生時代に運動部に所属していたから、忍耐強く、他人との協調性もある」を採用の根拠のひとつとすることのナンセンスさには気がつかないのでしょうか?
>その3
>臨床心理士のsimaです。心理学会では血液型と性格の関係について研究
>することはタブーであると誤解されていらっしゃるようですので、一言
>説明したいと思います。学問は過去の研究の積み重ねであり、過去に否
>定された研究は明確な反証がない限り再検討されることは少ない傾向が
>あります。
学問の世界でこういう状態が続き、関わる人達が、これを認めているのであれば、学問の発展は期待できないと思います。
(その5)
最大素数さんは書きました。
>実は、わたし自身はこの鬱病患者氏の
>実在が信じられません。
同感です。
simaさんの文章で描かれている患者に全くリアリティがありません。
そしてsimaさんの行動にもリアリティがありません。
もしかしたらsimaさん自身が臨床心理士ではなく、単にABO−FANへの反論をしたい為の偽装ではないかと思います。
躁鬱病は、脳の器質的なものに原因がある場合が少なくないそうです。ですから、臨床心理的な治療よりも投薬での治療が効果的だ、と私は本で読んだのですが…。
(その1)
>面白いメールが来たので紹介しておきます。(^^)
>反論することそものは簡単なのですが、いかに読者に面白がってもらえるか、そして
>こういう人にいかに納得して(苦笑して)もらえるかが腕の見せどころですね。
とりあえず、占いではないことをわかってもらわなくてはなりませんね(^-^)
>その1
>私は臨床心理士のsimaといいます。私が担当しているクライアントの鬱状態が悪化し
>た原因がどうも血液型占いにあるようなのです。
>関係も順調のようですので原因はこの番組にあるとしか思えません。
たまたまある人の鬱状態が悪化するきっかけが血液型の番組だったからと言って、そこにそれ以上の意味があるのかな、と考えてしまいますね。
その人がそんなことぐらいで鬱にならないよう援助するのがこの臨床心理士さんの仕事でしょう。
>血液型と差別に関して管理人様のご意見を伺いたいと思いま
>血液型でそのようなことを言うのは差別ではないのでしょうか?
とりあえず就職の採用は人を差別して初めて成り立ちます。差別したくなかったら希望者全員を採用するしかありませんから。
>いじめや殺人や人種差別でも楽しんでやる人間は存在します。
>南北戦争以前に黒人奴隷を差別していると考えた白人がどれく
>らいいたでしょうか?
話が飛びすぎますね。ついていけません (-_-;;
思うに、採用を断る時に便利な口実として血液型を持ち出しているのではないか、という気もします。
わたしが以前勤めていたある会社の上司は女性でしたが、求人のたびに生年と干支の組み合わせで人を採用するので困りました。
「あの人は昭和△年の兎だからきっと真面目よ」とか言って採用するのですが、どう考えてもその会社の仕事に向かないような人ばかり採用するので、やりにくくてしょうがありませんでした。
ある人がほんとにいい人材でも採用する会社は採用するでしょうが採用しない会社は採用しないでしょう。その理由がなんであれ、採用する側の自由です。それを差別だと言ってみたところで、何もはじまりません。
(その2)
>もしかしたらsimaさん自身が臨床心理士
>ではなく、単にABO−FANへの反論を
>したい為の偽装ではないかと思います。
その可能性はあるかもしれませんね。
>その1
>対人関係や仕事関係も順調のようですので
>原因はこの番組にあるとしか思えません。
>職業上、これ以上の話はできませんが、
>管理人様、どのように思われますか?
>ご意見を聞かせてください。
ここには2つ問題があります。
1つは時々鬱状態になる人の対人関係が順調であると本気で考えているなら、そして鬱が悪化した原因がテレビ番組にあると本気で推察しているとしたら、わたしはこの人の臨床心理士としての能力を疑います。
もう1つは、この人は意見を聞いているのではない、ということです。
メールその1には事実の経過とそれに対してsimaさんが推察したことが書いてあるだけで、問題が含まれていません。
意見を聞かれても、そうですか、としか答えようがありません。
でも、このメールを出したモチーフはよくわかります。つまり、
「いいかげんな血液型占いの番組のせいで苦しんでる人がいるんだ。おまえのHPも同じだろうから、罪の意識くらい感じたらどうなんだ」
ということですね。
まあ、半分脅しのようなものです。みなさんが鋭く反応したのも、無理はありません。
たぶん、血液型占いで検索がヒットしたことで、それみたことか、と思ったんでしょう。
ではまた。
私の意見に賛成の方ばかりで、反対の方がいないようです。(^^;; これでは不公平なので、反対の意見の方のメールをお待ちしています。 |
臨床心理士のsimaです。
早速のご返事ありがとうございました。血液型性格診断は占いではないとのこと、確かに占いとは星の運行や個人の運気など何らかの変動するものを独自の理論体系と方法論で予測するものですから、変動しない血液型は占いにさえなり得ませんね。失礼しました。
さて、管理人様からのお答えに対していくつか述べさせていただきます。
ヒポクラテス説やクレッチマー説ですが、私は現代の心理学の基準からすれば「非科学的な誤った説」であると考えています。心理学の教科書などには歴史的な考え方の流れでヒポクラテス説やクレッチマー説が書いてあるものが多いですが、それは天文学の歴史が占星術に端を発し天動説が過去主流であったということを書いてあるのと同じようなものです。クレッチマーの病前性格と体型関連説に関しては、統計的緻密さに欠けるとの批判が強くなったために平成5年の医師国家試験出題基準の「特に留意すべき述語」から除外されました。心理学や精神医学の領域ではクレッチマー説は否定され淘汰される考え方になっています。
否定派心理学者の研究発表の時期に関してですが、まともな心理学者はデータがないと議論できません。データを取ってそれを統計的に分析して学会での口頭発表なり学会誌の論文発表をするまでには研究を始めてからある程度の時間がかかります。学会発表で半年から1・2年、論文だと審査が入るので80年代だと1年から3年ぐらいかかっていました。研究発表にはこのようなタイムラグがつきまとうと言うことを理解してください。また、私が心理学科の学生だった80年代前半ははすでに能見氏が亡くなった後だったのですが、あまり学生の間で血液型性格診断に関する話は聞きませんでした。80年代後半になって学部の学生たちからそのような話を聞くようになりました。これは私個人の体験ですし、70年代の研究室の状況は知る由もありませんが、能見氏の生前には大学の先生方の耳には血液型性格説は届いていなかった可能性も高いと思います。80年代になって比定は心理学者の研究が発表されるようになったことと、能見氏の死去とは無関係なのではないでしょうか?
渡辺氏の論文に関しては元の論文を読んでからコメントします。
ところで、「能見氏の元々の調査結果は愛読者カードを送ってきた人へのアンケートですから、無意味なのでは?」という質問へのお答えをいただいておりません。能見氏の著作を読んで感じるところがあって愛読者カードを送った人のところにその能見先生からアンケートの依頼が来れば多くの愛読者は感激して回答することでしょう。その際、能見氏の血液型性格説に準拠した回答をするという実験者効果が強く働いた可能性が高いのではないかと思います。管理人様はどう思われますか?ご意見をお聞かせください。
>ヒポクラテス説やクレッチマー説ですが、私は現代の心理学の基準からすれば「非科学的な誤った説」であると考えています。
有名な否定論者の論客2人は、次のように述べています。
[ヒポクラテス説の解説で]地(土)と黒胆汁質…と血液という結びつきで、本当にうまく結合されたものだと思う…現代の内分泌腺の化学を先駆ける構想と言える。(心理学者の大村政男さん 『血液型と性格』 62ページ)
この説[注:ヒポクラテス説]は、後世、根拠を失ったとされ、われわれの性質や考え方が体液で決まるなどと言う人はほとんどいなくなりました。しかし、この古いといわれている考え方が、現代において再び見直されているのです。(血液型学が専門の高田明和さん 『脳からストレスが消える』 22ページ)
>私が心理学科の学生だった80年代前半ははすでに能見氏が亡くなった後だったのですが、
>あまり学生の間で血液型性格診断に関する話は聞きませんでした。80年代後半になって学
>部の学生たちからそのような話を聞くようになりました。これは私個人の体験ですし、70年代
>の研究室の状況は知る由もありませんが、能見氏の生前には大学の先生方の耳には血液型
>性格説は届いていなかった可能性も高いと思います。80年代になって比定は心理学者の研究
>が発表されるようになったことと、能見氏の死去とは無関係なのではないでしょうか?
素朴な疑問です。「まともな心理学者はデータがないと議論できません」ということですが、この結論はデータに基づいているものなのでしょうか? そして議論の対象になるのものなのでしょうか?
>「能見氏の元々の調査結果は愛読者カードを送ってきた人へのアンケートですから、無意味なのでは?」
>という質問へのお答えをいただいておりません
その前に素朴な疑問です。否定論者の心理学者のデータのほとんどは、自分の教えている学生だけのサンプルです。能見さんの読者アンケートだけのサンプルと信頼度はどう違うのでしょうか。信頼度のテストは行われているのでしょうか? これは、私の疑問ではなく、否定論者の心理学者である松井豊さんの疑問です。
では、回答をいたします。実は、HPの中に小さくは書いてあるのですが…(苦笑)。ただ、わかりにくい場所なので、そうおっしゃるのは当然です。ということで、再度説明いたします。
私はいろいろなデータの比較をしてみました。驚くべきことに、ほぼ同じ傾向を示しています。ランダムサンプリングだろうが、知識があろうがなかろうが、ほぼ同じなのです[注:中には違う傾向のデータもあります、念のため]。つまり、ランダムサンプリングは絶対的な条件ではないことがわかりました。もっとも、サンプルの状態によって、データの若干の修正は必要ですが…。具体的なデータは、血液型と性格の謎を推理するをご覧ください。
#そういえば、私の質問へのお答えもいくつかいただいていないよう気がするのですが…。
今回は手短に書かせていただきました。乱筆、乱文、どうかご容赦ください。
NHKの番組(1982年)は山岡さんの心理学研究室(大村さんも同じ研究室だったと記憶しています)によるものですが、simaさんの言うとおり「学会発表で半年から1・2年、論文だと審査が入るので80年代だと1年から3年ぐらいかかっていました」ということで、論文は1984年頃から続々と発表されています(学会発表も論文とほぼ同時期)。つまり、論文審査も学会発表もしていないものをNHKという公共放送で放映しているのですから、心理学会には論文審査も学会発表もしていないものをマスコミ等で先行して発表するというルール(?)があるのでしょうか…。はて? |
このメッセージは長くなると送信エラーになってしまいますね。
さて、管理人様はじめ皆様からのご意見をいろんな意味でおもしろく読みました。私のクライエントの実在が疑わしいとのご意見に対して、クライエントのプライバシーのためにできるだけリアリティーを伝えないようにという私の意図は成功だったと思う反面、このような情報を流して少し軽率だったかとも思い反省しています。
さて、血液型よりも容姿の美しさで人を判断する方が差別的ではないかというご意見に対してですが、容姿が美しい人に好意を持つという結果を示している研究は初対面の相手あるいは写真に対する好意度評定の研究であるはずです。現実にある程度の期間交際しているカップルを対象とした研究では「身体的魅力が同程度のパートナーを交際相手として選択する」ということを学生時代に社会心理学の授業で習いました。松井氏の著作にも書いてあるのではないですか?たしかに身体的魅力は対人魅力の規定因ですが、それが特に効果を発揮するのは交際のごく初期の段階であるはずです。このことを知っていれば別に鬱になる必要もないのではないでしょうか?容姿はダイエットやメイク、整形などで変えることができますが、血液型は骨髄移植でもしなければ一生変わらないのではないですか?
臨床心理士のsimaです。さっきのメッセージではこのフレーズがなかったかもしれませんが私です。ぶつぎりで読みずらいでしょうがつづきです。
さて、年齢や学歴で就職を制限するのは血液型よりも差別ではないかという指摘に対して私の意見を述べさせていただきます。確かにただ年齢や学歴で人間の行動を制限することは差別ですね。しかし職業にはそれに必要な能力があるということはご理解いただけると思います。望ましい形ではないことは十分承知の上で言うのですが、職種に必要な能力の指標として年齢や学歴があるのではないでしょうか?私はなにも今の年齢や学歴で人物を選ぶことがよいと言っているのではありません。しかし年令や学歴は職業が必要とする能力と結びついていることが多いが、血液型はそのような能力と結びついてはいないと言うことを問題としたかったのです。管理人様の論調をお借りすれば「もしも職業に必要とされる能力と血液型性格が結びついているとおっしゃるのならばなにももうしあげることはないのですが。。」。さらに私が問題視していることは管理人様が「正しい血液型性格診断の知識の持ち主ではない」とおっしゃるのも関わらず、血液型で適正を判断する輩が多数存在し、その結果不愉快な思いをする者がいると言うことなのです。
臨床心理士のsimaです。
渡辺氏の論文を読みました。管理人様はこの研究が血液型性格関連説バイアスのない人のデータと位置づけてご紹介してくださったのだと思います。それが「血液型による差について知っていようがいまいが回答には影響しないと理解したのですが違うのでしょうか」という発言になったのだと思います。確かにこのデータは「血液型による性格について知っている人といない人の対比データがないので残念」とおっしゃるようにおわかりだと思うのですが、渡辺論文の通説受容群と通説非受容群は血液型性格診断に関する情報を持っている人間の中で、いかに血液型性格診断のテキストに一致した知識を持っているかどうかの違いであって、「血液型による性格の差について知っている人といない人」ではありません。どちらも血液型性格診断の情報を持っている者でなのです。これは渡辺氏も可能性を指摘していますが、血液型性格診断情報が統一されていないことの影響が強いのではないでしょうか。テキストとイクゼンプラを分けていますが、オーソドックスな血液型性格診断情報とは一致しないものでも、その人が入手したマスコミ情報ならその人にとってはテキスト(プロトタイプ)情報と言うことになります。もしも、渡辺氏の研究がもっとランダムサンプリングしたデータに基づいたものであれば、この可能性を少しは相殺できるかもしれません。しかしそれでも独立変数として通説受容群と非受容群とすることには疑問が残ります。渡辺氏の論文に関してはここが一番のセールスポイントになるはずですので、もっと厳密にするべきだったと思います。
臨床心理士のsimaです。
私が臨床心理士であることや私のクライアントの実在に関してお疑いになる方が多いことは別にかまわないのですが、いくつか理解していただきたいことがあります。「頭では理解できても感情的に納得できない」という経験はありませんか?自分でもおかしいと思いながらもそのおかしい考えに捕らわれてしまうからこそ、クライアントは臨床心理士のところに来るのです。お笑い番組のおふざけ企画であっても、それがわかっていてもそのことが心にのしかかって消えないからクライアントは私のところに来るのです。
私がこのサイトに書き込みをしたのは、血液型性格診断についての知識がなかったからであり、それについての疑問に答えていただきたかったからであり、一番の目的は血液型性格診断を強く肯定する方達に、「血液型で結婚や恋愛が左右されることはない」と言っていただいてそれを私のクライアントに見せたかったからです。これは私の甘い考えでした。私のことやクライアントの実在に関していくら卑怯だと言われてもこれ以上の情報を出すつもりはありません。
ただ私の素朴な疑問に関してはまたお尋ねすることになると思います。よろしくお願いします。
丁寧なご返事ありがとうございます。
■その5について
メール送信フォームは、JustNet提供のものを少し変更して使っているのですが、ときどきエラーになるようです。システムのせいか私が作成したHTMLのせいなのかわかりませんが、いずれにせよ、使いにくいのはユーザーの皆さんには申し訳ないことです。
>容姿が美しい人に好意を持つという結果を示している研究は初対面の相手あるいは
>写真に対する好意度評定の研究であるはずです。現実にある程度の期間交際してい
>るカップルを対象とした研究では「身体的魅力が同程度のパートナーを交際相手とし
>て選択する」ということを学生時代に社会心理学の授業で習いました。松井氏の著作
>にも書いてあるのではないですか?
>たしかに身体的魅力は対人魅力の規定因ですが、
>それが特に効果を発揮するのは交際のごく初期の段階であるはずです。
前半は全くそのとおりです。しかし、「身体的魅力が同程度のパートナーを交際相手として選択する」理由についてはほとんど何も書かれていません。これは、男性・女性の両方が「可能な限り身体的魅力が最大の相手を選択する」というルールで行動する、と仮定してもうまく説明できる…はずです。だから、身体的魅力が「特に効果を発揮するのは交際のごく初期の段階」とは断定できないと思うのですが…。いずれにせよ、身体的魅力が「身体的魅力が同程度のパートナーを交際相手として選択する」ことについての影響は不明ですから、完全な否定はできません。私の仮説が正しい可能性も残されているのではないでしょうか?
>容姿はダイエットやメイク、整形などで変えることができますが、
それは事実でしょう。ただし、ダイエットやメイク、整形が身体的魅力に与える影響についてのデータは『恋ごころの科学』には紹介されてはいません。また、この本には「元々」の身体的魅力と「ダイエットやメイク、整形」による身体的な魅力の割合についてデータがありません。従って、断定的な結論は出せないと思います。
#女性読者の方、大変申し訳ありません。m(._.)m
それに、simaさんのおっしゃるように、身体的魅力の70%以上の差でさえ「特に効果を発揮するのは交際のごく初期の段階」なのだとすれば、血液型による差は(あるとしても、せいぜい10〜20%)は十分努力でカバーできる差なのではないでしょうか?
>血液型は骨髄移植でもしなければ一生変わらないのではないですか?
これは違います(ここをクリック!)。骨髄移植だけでなく、感染症やガン、肝臓移植でも変わるそうです。
■その6について
>年令や学歴は職業が必要とする能力と結びついていることが多いが、
>血液型はそのような能力と結びついてはいない
どうも誤解されているようですね(というのか、私の説明が悪いのでしょうか?)。私は、「機会の平等」を言っているつもりなのですが…。決して「結果の平等」を言っているつもりはありません。「指定校」や「年齢制限」はその「機会の平等」さえ否定しているわけです。simaさんがおっしゃる「血液型差別」は(とりあえず面接はしてもらっているのですから少なくとも)「機会の平等」は保証されていることになります。中には、血液型による「機会の平等」がない(あるいはそれに近い)ケースもあるかもしれませんが、もちろん私もそういうケースには反対です。
私は「機会の平等」はなるべく保証すべきだと思います。ですから、「指定校」や「年齢制限」には(「血液型差別」も含めて)あまり賛成ではありません。ただ、採用条件は公共的団体を除いて各社の自由なはずですから、(たとえ好ましくなくとも)明確に違法でなければ、禁止するべきだという主張はおかしいのではないかと思います。もちろん、禁止しろという主張自体を公開するのは問題ありません。
#私の誤解なのでしょうが、simaさんは「指定校」や「年齢制限」も必ずしも反対ではないとも読めますので…。
>「正しい血液型性格診断の知識の持ち主ではない」とおっしゃるのも関わらず、
>血液型で適正を判断する輩が多数存在し、その結果不愉快な思いをする者が
>いると言うことなのです。
「不愉快な思いをする者」というのは何人程度なのでしょうか? いくら調べてもデータが見つからなかったので、今後のためにぜひぜひご教示ください。私の知識を訂正しようと思いますので、本当によろしくお願いします。m(._.)m
参考までに、私の調べたデータの一例はこちらです。
■その7について
これも誤解があるようですね。渡邊席子さんの論文のページから抜粋しておきます。赤字のところにご注目ください。
正確な知識とその人の知識との相関(表Cを一部改変)
区 分
知識問題の正答率
→大きいほど知識がある通説−通説判断の相関
→正確な知識と
その人の知識との相関その血液型のものと
判断した性格特性の確信度
→大きいほど自分にあてはまる
→血液型で性格を決めつける正確な知識がある人 ≧.75 (n=38)
.82 .90 (SD=.96) ≧.72 (n=46)
.73 1.05 (SD=.93) 正確な知識がない人 <.75 (n=56)
-.06 1.32 (SD=.91) <.72 (n=48)
-.10 1.34 (SD=.94) <.65 (n=35)
-.25 1.48 (SD=.84)
血液型と性格の正確な知識(=通説)がある人(=通説受容群)は、正確な知識とその人の知識とはほぼ一致しています。つまり、青字のように通説−通説判断には強い正の相関があります。逆に、正確な知識のない人(=通説非受容群)は、通説とは「全く関係ない知識」か「反対の知識」を持っているはずです。ですから、血液型と性格の関係があるのなら、通説と「反対の知識」とは負の相関があることになります。赤字のデータを見ればわかるように、「反対の知識」が増えるほど負の相関が強くなることがわかります。つまり、血液型と性格は関係がありそうだという可能性を示唆しているのです。ただ、統計的に有意な差があるわけではないので、あくまでも可能性を示唆しているだけで、断定はできません。
更に、
これらのことから、血液型と性格についての知識を普及すればするほど「偏見」や「差別」が減るはずだという結論が得られます。つまり、否定論者の「血液型と性格は関係あるはずがない」といった主張は、本来の意図に反して「差別」や「偏見」を増やすことになり、全く逆効果であることになる…はずです。これが本当だとすると、否定論者には皮肉な結論というしかありません。
とは言っても、この論文は非常に難解です。私の解釈が間違っているかもしれませんので、ぜひいろいろとご教授ください。
■その8について
>私が臨床心理士であることや私のクライアントの実在に関してお疑いになる
私は別に疑ってはいませんでした。ただ、
これらのいずれも事実ではない可能性があるのなら(しかも私からはチェックしようがない)、私からは何らのコメントはできませんし、したとしても意味がないことは言わずともおわかりでしょう。それにもかかわらず、(その1)で「どのように思われますか?ご意見を聞かせてください」という質問をいただいのは私には理解できません。常識的には、最初に「クライエントのプライバシーのためにできるだけリアリティーを伝えない」と一言あるべきだと思いますが…。いかがですか?
>私がこのサイトに書き込みをしたのは、血液型性格診断についての知識がなかったからで
>あり、それについての疑問に答えていただきたかったからであり
どうもありがとうございます。
>一番の目的は血液型性格診断を強く肯定する方達に、「血液型で結婚や恋愛が左右され
>ることはない」と言っていただいてそれを私のクライアントに見せたかったからです。これは
>私の甘い考えでした。
これも誤解があるようです。「血液型で結婚や恋愛が左右されることはない」かどうかは正確なデータがないのでなんとも言えません。前述のように(simaさんがおっしゃった)身体的魅力の70%以上の差でさえ「特に効果を発揮するのは交際のごく初期の段階」なのだとすれば、血液型による差は(あるとしても、せいぜい10〜20%)は十分努力でカバーできる差なのではないでしょうか?
私は、手元に正確なデータがないので確定的な結論は出せません。ただ、能見正比古さんは、「血液型による相性のよしあしはない」「性格は変えられるもの」と一貫して主張していますので、私もそう思っています。詳しくは、ここのページの「血液型人間学に対する反論のすべてを一掃する」をご覧ください。より詳しくは、彼の『血液型愛情学』をお読みください。
ということで、『血液型エッセンス』(192〜196ページ)に書いてある血液型十戒をここにも書いておきましょう。
1.血液型で、人の性格を、決め付けてはいけない。
2.血液型が、性格のすべてであると思ってはいけない。
3.血液型で善悪を分けたり、人を非難してはならない。
4.血液型で頭の良し悪しをいってはいけない。
5.血液型で、性格は、もう変わらないと早合点してはいけない。
6.血液型は適性適職に対して重要だが、それですべてを決めてはならない。
7.成功や業績は人間の努力の結果、それを血液型で割り引いてはならない。
8.血液型と性格の関係分野を、医者の領分とカン違いしてはいけない。
9.血液型を、占いの一種と思ってはいけない。
10.血液型による違いより、人間どうし共通性がはるかに大きいと思うべきである。
>私のことやクライアントの実在に関していくら卑怯だと言われてもこれ以上の情報を出すつもりはありません。
これも理解できません。「職業上、これ以上の話はできません」(その1)、「クライエントのプライバシーのためにできるだけリアリティーを伝えないようにという私の意図は成功だった」(その7)となると、なぜ卑怯なのでしょうか? 私は別に「卑怯」とは思ってはいませんが…。ただ、前述したように、最初に「クライエントのプライバシーのためにできるだけリアリティーを伝えない」と言っていただきかったとは思います。
>ただ私の素朴な疑問に関してはまたお尋ねすることになると思います。よろしくお願いします。
このような形でよろしいのでしょうか? 時間的な問題もあるので、全部のご希望には沿えないとは思いますが、なるべく努力はするつもりです。こちらこそ、かえってよろしくお願いします。
なお、一部simaさんからお答えがいただけていない質問があります。とは言っても、その後の返事からsimaさんの考えはほぼ理解できましたので、確認のためにここに書いておきます(お忙しいでしょうから、この件に関してはご返事は不要です)。 まず、私からの回答(その2)の「有名な否定論者の論客2人」は「心理学の基準からすれば『非科学的な誤った説』」を主張しているぐらいだから、この2人の他の説明も「心理学の基準からすれば『非科学的な誤った説』」であるということです。 次に、メール(その7)でランダムサンプリングの必要性があるとのことですから、否定論者の心理学者のデータのほとんどは(自分の教えている学生だけのサンプルだけだから)信頼性がないということです。 また、論文審査も学会発表もしていないものをNHKという公共放送で放映しているのですから、心理学会には論文審査も学会発表もしていないものをマスコミ等で先行して発表するというルール(?)があるということになります。 最後に、「80年代になって否定派心理学者の研究が発表されるようになったことと、能見氏の死去とは無関係なのではないでしょうか?」という論理は、具体的なデータがありませんが、(なぜか?)データに基づいているということです。 どうもありがとうございました。 |
一部に誤りがありましたので、ここに訂正させていただきます。simaさんには大変申し訳ありませんでした。m(._.)m
誤りの場所は太字の部分です。
>ヒポクラテス説やクレッチマー説ですが、私は現代の心理学の基準からすれば「非科学的な誤った説」であると考えています。
有名な否定論者の論客2人は、次のように述べています。
[ヒポクラテス説の解説で]地(土)と黒胆汁質…と血液という結びつきで、本当にうまく結合されたものだと思う…現代の内分泌腺の化学を先駆ける構想と言える。(心理学者の大村政男さん 『血液型と性格』 62ページ)
引用そのものは正しいのです(『血液型と性格』は初版の記述を採用)。が、大村さんはヒポクラテス説[注:体液と健康]は肯定し、ガレヌス説[注:体液と性格]は否定しています。つまり、体液と性格は関係ないという主張だったのです。私のチェックが甘かったとしか言いようがありません。そこで、該当部分を再度長めに引用しておきます。(^^;;
大村政男さん 『血液型と性格』 H2.10 62〜63ページ(太字は私が追加)
エムペドクレスの自然哲学を人間の体液に対応させたのは、人類最初の医師といわれるヒポクラテスである。コスモスが四つの元素から構成されているなら、ミクロコスモスにもそれに相当した四つの体液があると考えたのである。
地(土)と黒胆汁、水と粘液、火と黄胆汁、風(気)と血液という結びつきで、本当にうまく結合されたものだと思う。ヒポクラテスは、この四つの体液がバランス状態にあれば健康であるが、アンバランスになると病気になるといっている。これがヒポクラテスの体液病理学である。現代の内分泌腺の化学を先駆ける構想といえる。
このヒポクラテスの考え方はローマの医師ガレヌスに伝わっていく。ガレヌスはこの体液によって人間の気質が決められると考え、有名な「四気質説」を樹立している。この学説はそのルーツをエムペドクレス・ヒポクラテスに持っている。そこで基本的に誤ったものであるが、人気抜群で現代にまで継承されている。黒胆汁の多い人は憂うつ気味(黒胆汁質)、粘液の多い人は冷静で沈着(粘液質)、黄胆汁の多い人は性急で怒りつぼく(胆汁質)、血液の多い人は陽気(多血質)、というガレヌスの考え方は、多くの人びとに共感ざれ支持されたのである。泥っ気の多い人は陰気、水っ気の多い人は冷たく、火の気の多い人は怒りやすく、空気の多い人はふわふわしているという通俗的なつながりは、大衆の人気をさらうのに十分な魅力を持っていたといえよう。体液心理学は、このようにして第一歩を踏み出したのである。
ついでに、新訂版の記述も追加しておきます(大村政男さん 新訂『血液型と性格』 H10.4 42ページ 太字は私が追加)。
体液と性格心理学
ヒポクラテスの体液病理学は、やがてローマの医師ガレヌスに伝わり、彼によって人間の気質と体液の関連が多くの人びとに知られるようになった。ガレヌスの構想は「四気質説」と呼ばれるが、四つの体液と四つの気質とのリンクは彼の思索的抽象にすぎない。それが現代にまで連綿と続いて心理学書にも登場しているのは「血液型と性格」のような魅力があるからであろう。第一の個性と体液の関係は次のとおりである。
黒胆汁質:憂うつ質ともいう。非社交的、緘黙(かんもく)、強い感受性が目立っている。
粘液質:冷静、耐忍性、感激や悲哀というような情緒生活にはかかわりがない。
胆汁質:反応性が強く、短絡的で、活発な行動を展開していく。
多血質:楽天性、饒舌(じょうぜつ)、幸福感に浸っているが刹那的な生活に陥りやすい。
四気質説の源泉は、エムペドクレスの自然哲学に遡(さかのぼ)る。このあたりからミスが始まったのであるが、体液と性格の関係は等閑視できない。性格の類型論はここから出発していくのである。
ところで、大村さんの初版『血液型と性格』ではクレッチマーの記述はありませんが、新訂版では説明があります(新訂『血液型と性格』 43ページ 太字は私が追加)。
体格と性格心理学
気質と呼ばれる第一の個性は、体液というコンセプトによって代表される内分泌腺、それから神経系の複雑なメカニズムによって左右される。そこで当然体格と気質の連関が考えられてくる(1)。
クレッチマーは、精神病者の体格から類推して、一般人の体格と性格とを結びつけていく(2)。彼があげた三種の類型は次のとおりである。
分裂性性格:細長型の体格の人に多く見られる性格で、非社交的で過敏な面と鈍感な面が同一人のなかに共在している一風変わった性格である。
躁うつ性性格:肥満型の人に多く見られる性格で、社交的で、躁状態(活発に活動する相)と、うつ状態(沈静に落ち込む相)とが交互に現われる性格である。循環性性格とも呼ばれる。
粘着性性格:てんかん性性格とも呼ばれているもので、粘着・穏和・朴訥(ぼくとつ)のほか爆発などを特徴とする性格である。筋骨型の体型者に多く見られるといわれているが、彼の『体格と性格』ではあまり触れられていない(3)。(1)ここで一番困惑するのは気質や性格などという重要なコンセプトの暖昧性である。クレッチマーはCharakter(カラクテル)ということばを使っている。
(2)クレッチマーは、精神分裂病およびそれに類似している精神病の患者(分裂病圏の患者)175人中に81人(46.3%)の細長型を見出している。また、際うつ病(循環性精神病)およびそれに類似している精神病の患者(繰うつ病圏の患者)85人中に58人(68.2%)の肥満型を見出している。これらの数値はのちの研究によって信頼性が裏づけられている。
(3)クレッチマーの『体格と性格』の1955年版でもあまり触れちれていない。
要するに、クレッチマー説は正しいと説明していることになります。ですから、大村さんの説明が「現代の心理学の基準からすれば『非科学的な誤った説』」であることには違いない…ことになるはずです。
その後、手元の心理学事典に当たってみました(南博編著『読みこなし 使いこなし 自由自在 心理学がわかる事典』 日本実業出版社 H6.2)。まず、126ページからです。
■血液型で何がわかるか
血液型相性診断や血液型性格分類などの知識が一般的に広まっているのは周知の事実です。NHKの世論調査によると、首都圏の調査対象者のうち75%が「血液型と性格には関係がありそう」と回答しました。昔、陸軍医による将校兵754人を対象とした血液型と階級・身体・懲罰経験などにつての調査では、「B型には優秀な兵士が多く44%が上等兵になっている」と報告しています。また数年前B型人間[注:A型かAB型ならまだわかるのですが…]はチームワークがよいとの理由で、B型のみ集めて会社を経営している社長の話題がありました。いずれも血液型による差別問題にまで発展しかねない報告です。
血液型と性格との関係については、予想以上に巷で信じられているようです。しかし現段階での脳の研究からは、 血液型が脳の活動様式に影響を及ぼしているとはとても思えません。にもかかわらず1911年[注:正しくは1900年ですが、単なる誤植かもしれません]に血液型が発見されて以来、実に多くの研究者たちがABO式の四つの血液型と人間の性格・気質・行動との関連を求めて研究を行なってきました。大村政男著『血液型と性格』(1990)は、そうした研究の歴史を“偉大なる錯覚の歴史であった”と論じています。
最近、血液中にある血小板MAO(モノアミン酸化酵素)の活性が、脳の神経伝達物質の活動に影響を与え、それによって行動や性格に影響してくることが知られるようになってきました。MAOが低値の人は、アルコール依存性にかかりやすく、スリルと冒険を求める傾向が強く、外向性で、攻撃行動・喫煙傾向が高いそうです。しかし脳MAOと血小板MAOの間には複雑な関係が存在し、同一に論じられるものではありません。
現在のところ、科学的には脳の機能に血液型が関係しているという確たる証拠はないのです。
私がわざわざ解説するまでもなく、「血液型と性格」については全面的に否定していることがわかります。ところで、この本にはクレッチマーについての解説もあります(128ページ)。
■性格類型I
クレッチマーは、臨床上の経験に基づいて、体格と性格の関係に注目し、下図[省略]のように体格を肥満型・闘士型・細長型に分けました。それに基づいて内因性精神病との関連を試みたところ、肥満型体格では平均以上に躁うつ病が多く、闘士型ではてんかん、一方、細長型体格では精神分裂病が目立って高頻度で現われることを発見しました。
肥満型体型に親和性のある一般的気質としては循環気質が多く、その性格としては社交的・親切・温厚・明朗・活発・ユーモアがある反面、激しやすい・寡黙・平静・陰うつ・気が弱いなどの特徴を合わせもつ場合が多いといえます。
闘士型体型は粘着性の性格特徴と関連があり、その性格には強靭(粘着)性と爆発性の両方が含まれます。たとえば、静かでエネルギッシュ・凡帳面・執拗さなどを強く現わす傾向があります。
細長型体型の人の性格特徴は、分裂気質であり、非社交的・控え目・まじめ・臆病・敏感・従順・気だてがよい・正直・落ち着き・鈍感などの特徴があげられます。
クレッチマー説については、「平成5年の医師国家試験出題基準の『特に留意すべき述語』から除外され」たそうですが、いずれのケースも平成5年以降に出版された本で「正しい」とされています。ということは、これらの本の内容は、「現代の心理学の基準からすれば『非科学的な誤った説』」となるのでしょうか? はて?
臨床心理士のsimaです。丁寧なお答えありがとうございました。
管理人様のお答えの、「著名な否定論者の論客の2人は非科学的な誤った説を主張するくらいだから、この2人の他の説明も非科学的な誤った説と言うことです」、「論文審査も学会発表もしていないものをNHKで放映しているのだから、心理学会には論文審査も学会発表もしていないものをマスコミで先行して発表するというルールがあると言うことになります」、「平成5年以降に出版された本の中でもクレッチマー説は正しいものとして記載されているが、これらの本の中身も誤ったものになるのでしょうか」という論法が気になりますね。このように「あるものの一部分が**だから他の部分も**だ」という一部分から全体を判断する思考法はさすがに血液型性格診断擁護派ですね。残念ながら全く説得力はありませんね。この思考法で言えば、管理人様は「能見氏は手塚治虫氏の血液型に関して誤った記述をしているのだから、能見氏の他も記述も誤ったものだ」と考えていらっしゃるはずですね。
当然のことながら、誰にもミスや思い違いはあるものですよね。また、「クレッチマーの病前性格と体型の相関説は平成5年以降の医師国家試験出題基準の留意すべき項目からはずされた」ことは私も平成9年に精神医学の教科書を読んでいたときその脚注で知ったことです。このことを知らない心理学者も多いのではないでしょうか?
ところで以前私が「心理学者はデータに基づいていないと議論ができない」と書きましたが、それは論文執筆や学会発表は何らかのデータあるいは理論に基づいていないとできないと言う意味です。どうも誤解されているようなので書いておきます。
ところで管理人様が「血液型が性格に影響するのはせいぜい10から20%」とおっしゃる根拠を教えて下さい。よろしくお願いします。
臨床心理士のsimaです。
「血液型性格診断否定派の心理学者の研究の多くは学生を対象にしたものでランダムサンプリングになっていないので信頼できないのでは?」という管理人様の質問に対してですが、確かに信頼性が低いものがあることは確かです。ただし、学生の中には血液型性格診断を信用している者も否定している者も、知らない者もいろいろいます。私の友人の社会心理学者がいくつかの大学で何年かにわたって「血液型と性格には関連があると思うか」と質問したところ約50から60%が「関連ありと思う」と答えているそうです。心理学者が自分の講義の受講生にあらかじめ血液型性格診断否定の立場を明確にしたり否定情報を講義した上での実験や調査ならばそれは、血液型性格診断否定の研究結果ではなく説得や態度変化の研究と言うことになります。しかしそのような情報を与える前で特定の大学や一部の専攻に偏らずある程度以上の人数のデータであれば、その結果は「大学生」という限定付きではあっても信頼できると思います。ところで、能見氏の初めの調査結果は能見氏の血液型に関する著作を読んで読者カードを送ってきた人にアンケートを郵送し調査を依頼したものでしたよね。私が以前書いたことは「もともと能見氏の血液型性格説に感銘を受けて読者カードを送ってきた人、つまり自己関連情報処理の枠組みとして能見説が組み込まれている人に、その能見先生からの調査依頼が来れば、能見説に沿った形で記憶が再構成され能見説を支持する回答をするだろう」と言うことです。だから信頼できないと言うのです。残念なことに、自分が買った本の著者の影響力は自分が選択した科目を担当する教員の影響力よりも遙かに大きいのです。心理学者が大学生を対象に調査した研究にも確かに問題はありますが、それは能見氏のデータの問題とは異なるのです。
ところで教えていただきたいのですが、脳内物質の種類や分泌量がABO式血液型によって異なるという証拠があるのでしょうか?
お忙しい中、毎回丁寧なご返事をありがとうございます。
■その9について
「当然のことながら、誰にもミスや思い違いはあるものです」ということですが、これは全くそのとおりです。私も早速ミスをやらかしました。内容は、私からの回答(その2)の訂正、のとおりです。(^^;; ということで、私の論理が「説得力のない」ものであることは認めています(苦笑)。
では、能見正比古さんが自分自身のミスについてどう考えていたか、彼に怒られるのを覚悟(?)でいくつか引用しておきます(太字は私)。(^^;;
『血液型人間学』 S48 255ページ
今になれば笑い話だが、本人の申告に基づいて、A型の妻を長くO型と信じていたのも、私を随分混乱させた。これは戦争中の検査ミスである。戦争中に集団で行われた血液型の検査にはかなりのミスが多い。5、6年前、妻の正確な血液型が判ってから、多くの不明な点が一ぺんに辻つまが合ったのは事実である。
『血液型活用学』 S51 284〜285ページ
血液型確認のためにも献血を
「どこへ行ったら血液型を調べられますか」
という素朴な質問も、よく受ける。学校や企業などで集団検査する以外は、病院へ行くことだ。普通の開業医でいい。もよりの保健所へ行けば無料である。結果は一日で判り、ABO式とRh式両方の型をハガキで知らせてくれる。ただ、保健所によって、検査日と検査時間を指定しているところがある。
ほんとうは、おすすめしたいのは、日本赤十字の血液セソターヘ献血なさることである。(中略)日赤に献血して血液型を調べる重要なメリットがある。それは血液型の表検査と裏検査をやってくれることだ。これは、血球と血清の両方から検査することである。大病院以外の、普通の医院や保健所では、表検査しかやらないが、これだと数パーセントの検査ミスがあるのである。自分は大体何型……というのでは、気分の悪い話だ。現在、大半の人は表検査だけで、自分の血液型を承知しているので、私も資料調査や統計をとるときは、4、5パーセントの誤差があることは、常に覚悟している。
裏検査は、いくらか時間がかかる。採血すると、その場で表検査をして「何型です」というが、数日して送ってくる血液型のカードの記入が違っていて、びっくりする人もいる。右のような事情なのだ。
ところで、能見正比古さんが書いている手塚治虫さんの文章は、B型のみでA型の記述がありません。これでは記述の比較ができないので不便です。そこで、代わりに長嶋茂雄さんの記述について引用しておきます。
#長嶋さんの血液型は、最初はAB型と取り違えて、後日B型と訂正しています。
AB型の記述…『血液型でわかる相性』 S46 64〜65ページ
仕事に集中できるせいか、AB型は、びっくりするほどの業績を示す、周囲は間違えて切れ者としたり、AB型は天才を生むタイプとしたりする。前に述べた自民党のAB型、宮沢喜一前通相や山中貞則総務長官を眺めると、共通した何かが感じられるだろう。
代表的なAB型に、読売ジャイアンツの長嶋茂雄がいる。彼は、打撃、守備、チーム・ワーク、チーム内外の人間関係(ヒーマン・リレーション)、マスコミとのつき合い、ファンへのサービス……と、八面六臂(はちめんろっぴ)の超人的な熱中を示し、呆れるほどの能率をあげている。彼の生活は、野球を中心とした合理性に貫かれている。
彼の“物忘れ癖”は、愛嬌となって、ファンに喜ばれてるが、合理的な彼にとって、これだけが計算外の効果であろう。この健忘症は、ただ、野球に対する、プロ意識に徹した集中が、原因となっているのであろう。だが、AB型が具体的な“物”への執着が少ないこともたしかだ。
長嶋は“燃える男”と言われ、いかにも激情家のように思われがちだが、つまりはピンチにたてば、いっそう野球への集中力が増すだけなのだ。野球のように、格闘スポーツに比べれば理知的(計算的)スポーツは、カッカすると、かえって弱い。
B型の記述…『新・血液型人間学』 S53 138〜139ページ
不用心キングの長嶋
調査能力の発達は、B型の興味を外界の事物現象に集中させる。興味を持ったものへのこり性は、B型は文句なくNO1である。それだけでも、他のことがおルスになるのに、元来大草原住まい。すぐ身近の周囲には、神経のレーダーを張りめぐらせていない。音に聞こえたB型の不用心である。
その点では長嶋茂雄は、首位打者級である。彼の不用心ぶりは現役時代のサインの見落しにもあったが、中で有名なのは、忘れ物へきである。かって球場で、自分の自動車が盗まれたと大騒ぎしたことがあった。球団の者が総出で探して見つからず、いよいよ警察へ届けようという時になって、長嶋は頭をかいて言った。
「考えて見たら、今日はタクシーで来た」
こんな例は何ダースもある。子供を連れて出て、子供を忘れて帰宅し、夫人に怒られたこともある。先輩干葉茂の車に同乗させてもらい、降りる時、タクシーと間違え、料金を払おうとしてドナられたこともある。もっとも、これは私にも、時どきある。
どちらが長嶋さんの性格に当てはまっているかは、simaさんと読者の方々が自分自身で判断してみるべきだと思うので、私はあえて何も言いません。そして、ミスがあった場合、どう対応したのか…もです。
#この訂正の記述も読んだ記憶があるのですが、今回は残念ながら発見できませんでした。
#参考までに、能見正比古さんのミスは、彼の著書で素直に認めて訂正していた…はずです。
ですから、simaさんの論旨からすると、
は、全部正しいのだと解釈しています。よろしいのでしょうか? 能見さんは自分の間違いを素直に訂正している…はずですから、否定論者も素直に訂正しているのでしょう。私はそう理解しています。
また、仮にある人の血液型が間違っていても、別の血液型と共通する点もあるので、長嶋さんや手塚さんのようなケースも(多くては困りますが…)、ある程度は存在します。これは○○県人は××だ、と言ってもも△△県人も××だというのと同じです。例えば、ある人は「東北人だからねばり強い」のだとしても、東北人でなくても「ねばり強い」人は、いくらでもいるわけです。ある人の出身地はわからない場合、ねばり強いから東北人だろうという推測は成り立ちますが、その人が東北人でない可能性もあるわけです。これを計算で実証しようとしたのが次の項目です。
ところで、simaさんは手塚治虫さんの血液型を本当にB型以外だと確認できたのですか? 私は残念ながらわかりませんので、ぜひ次回のメールでお教えください。本当によろしくお願いします。m(._.)m
次に、「『クレッチマーの病前性格と体型の相関説は平成5年以降の医師国家試験出題基準の留意すべき項目からはずされた』ことは私も平成9年に精神医学の教科書を読んでいたときその脚注で知ったことです。このことを知らない心理学者も多いのではないでしょうか?」とのことですが、これは本当でしょうか? そうだとすると、多くの心理学者は今でも「非科学的」なことを信じていたり、学生にそう教えているのですか? まさかとは思いますが、そんなことは私には絶対に信じられません。何かの間違いではないのでしょうか?
また、「『心理学者はデータに基づいていないと議論ができない』と書きましたが、それは論文執筆や学会発表は何らかのデータあるいは理論に基づいていないとできないと言う意味」とのことですが、そうなるとこのHPの議論も「データに基づいていない」場合もあることになるはずですが、その場合もやはり「議論ができない」ことになるのでしょうか?
蛇足になりますが、私がクレッチマーの例を出したのは、simaさんの論理によって血液型と性格の研究は「タブー」であることを証明したかったからです。おかげさまで、めでたく「タブー」だと証明することができました。本当にどうもありがとうございました。m(._.)m
そして、「血液型が性格に影響するのはせいぜい10から20%」の根拠ですが、これは私のHPのデータが掲載されているお好きなページをご覧ください。例えば、血液型と性格の謎を推理するなどがあります。下に一例を示します。
「ルールや慣習や秩序を重視する」と回答した人の比率
血液型 回答者数 比 率 O 29.7% 57.7% A 36.7% 54.7% B 22.5% 50.7% AB 11.1% 41.2% 合計 613人 −
■その10について
まず、『血液型と性格には関連があると思うか』と質問したところ約50から60%が『関連ありと思う』とのことですが、これは(たぶん?)バイアスがかかったデータです。ほとんどのランダムサンプリングによるデータは、「関連あり」が70%台です。つまり、最低でもこの程度は違いがあるということになります。次に、「大学生」という限定付きなら大丈夫とのことですが、私と議論した心理学者は「完全なランダムサンプリング」でないといけないという立場がほとんどです。ということは、心理学者間でも立場の違いがあるということなのでしょうか? 私には、どちらが正しいのかわかりません。(?_?)
ところで、実際のデータに当たってみると、能見さんのデータだろうが、大学生のデータだろうが、ランダムサンプリングのデータだろうが、だいたい同じ傾向を示しています。ですから、私は結果として能見さんのデータも信用できるという判断をしています。なぜなら、私からの回答(その1)で述べたように、渡邊席子さんの論文によると、本人の知識は(あまり?ほとんど?)関係ないはず…だからです。
また、「情報を与える前で特定の大学や一部の専攻に偏らずある程度以上の人数のデータ」は、調べた限りほとんどありません。もしあるなら、お教えいただければ幸いです。ほとんどの場合、サンプルは心理学専攻の学生だけですから…。それに、心理学の先生は血液型を否定している、という情報をわからない学生がいたら、それは「まじめ」な学生ではない…と私は思います。
最後に、「脳内物質の種類や分泌量がABO式血液型によって異なるという証拠があるのでしょうか?」とのことですが、読めばおわかりのとおり証拠は全くありません(状況証拠は別です)。ただ、そういうことを研究したケースは(私が知る限り)ないので、異ならないという証拠もありません。従って、この議論は無意味になるはずです。
お忙しい中、たびたびどうもありがとうございました。
今までは、直接的に私からの質問を切り出すということはなかったので、少し気になった点を2つほど尋ねしたいと思います
まず、次の文章をお読みください(渡部昇一さん 『ハイエク』〜マルクス主義を殺した哲人〜 H11.2 PHP研究所 236〜237ページ)。
「科学的」の簡単な定義は、あるセオリーを出してそれを実験し検証することが誰でも同じにできるということです。だから、「社会科学」というのは本来ならばおかしいのです。社会を対象にしてそんなことはできないのですから。…
そして、そのマルクス主義の「科学的」という概念をもって、ルネサンス以降のヨーロッパ文明を支えてきた価値観に対して「異端者に対するが如き思想裁判」をすることを是認する特徴が見られたとハィエクはいいます。…全体主義者たちは、意見が違うと、自分たちは科学的に正しく、相手が間違っているという論法で弾圧したのです。
「科学的」「科学的態度」というのは全体主義者が好きな言葉葉ですが、ここでハイエクは「科学的態度」という本を書いたウォディントン(C. H. Waddington, 1905-75)という学者を取り上げます。ウォディントン博士は科学者こそが全体主義を運営する資格を持つと主張し、…その基本となっているのは「科学は人間の行動に対して倫理的判断を下すことができる」というウォディントン独自の命題だと指摘しています。ちなみに、これはドイツの政治的科学者たちが昔からいっていたことだとハイエクは書き添えています。
科学は人間の行動に倫理的判断を下せるという命題とはどういうことか。これはやはり疑似科学になるといっていいと思います。本当の自然科学ではできるわけがないからです。疑似科学というのはマルクス主義のいう科学で、科学だという前提のもとに倫理的判断を下すことはできるわけです。だから、思想裁判も科学的にできるということにもなります。
#この本は、ハイエクの『隷属への道』の解説書です。
#ハイエクは、1974年にノーベル経済学賞を受賞しました。
渡部さんの主張が正しいかどうかは、正直に言うと私にはよくわかりません(苦笑)。ただ、「血液型は差別になるから非科学的でケシカラン」という主張は、「科学は人間の行動に対して倫理的判断を下すことができる」と同じことにならないのでしょうか? もしそうだとすると、それは「疑似科学」になるのでしょうか?
次に移ります。この文章は、井沢元彦さんの歴史対談集『日本史再検討3』(世界文化社 H11.2 13〜14ページの梅原猛さんとの対談)からです。
梅原 …日本の学界の悪いところは、一度定説が立つとそれに対して疑わないんですよね。疑うと職がなくなるんです(笑)。誰も私の説を用いないのは、用いると職がなくなるからですよ。それだけの理由なんです。それで、その定説に対して文句を言えずにずっと来ている。
井沢 定説を疑うと職がなくなるというのは、私は何となく分かりますが、一般の方は分かりにくいと思うんですが。
梅原 ボスが学界を支配しているんです。最近大学が多くなったからどこかの大学にもぐり込むことが可能になりましたが、昔は大学のポストというのは少なかったんです。それで、ボスの説に反したら職を世話してもらえない。世話してもらえなければ大学に職は持てない。今はたくさんあるから、ボスに睨まれてもいくところはありますが。それでもそういう根性は容易に直らない。
梅原 …それがいいと思っても認めないんです。沈黙することに如(し)かずということで、沈黙するわけです。しかしこのころそういうボスの支配というものがだんだん弱くなってきているので、私の説を認める人も出てきました。
この内容が正しいかどうかは、これまたよくわかりません。ただ、正しいとすると、今までの一部の心理学者の反応を、かなりうまく説明できることは確かです(誤解のないように書いておきますが、心理学者でも非常に親切な方もいらっしゃいますし、そういう方には非常に感謝しています)。学会にボス支配があり、その定説(血液型と性格は関係ない?)に対して疑わないというのは本当なのでしょうか? 確かに、人によっては能見さんの説を認めず、私のメールやHPの内容にさえ沈黙する人もいます。また、最近は、前川さんの『血液型人間学』という能見さんの説を認める人も出ていたので、現象面ではほぼ同じもののようなのですが…。いかがお考えですか?
以上の2つの質問は、非常に失礼なものであるかもしれません。それは十分承知しています。ただ、私は日本の心理学者の本当の考えを知りたいだけです。心理学者は、人格的にも立派な方が多いと信じています。ボス支配なんかはないはずですし、ましてや疑似科学(?)を信じているなどという人はいないはずです。私は、そんなことは完全に否定したいのです。
勝手ながら、ぜひぜひご回答くださいますよう、重ね重ねよろしくお願いいたします。m(._.)m
最大素数さんからのメールです。
>実は、こういう話をしたくてしかたなかったのです
ありがとうございます。なるほど、確かに丁寧な解説で、恐縮してしまいます。あれかこれかと並べ立てたことについてもひとつひとつ説明してくださって、統計学に関するわたしの無知がずいぶんお手間をかけさせてしまったようで申し訳ないです。
ご説明の内容を咀嚼し終えるには、ちと勉強が必要ですね。ただ、印象としては、やっぱり、「気質・性格(傾向)」の基本概念を(タタキ台としてさえも)持っていないことが、いろんな意味で障害になっているようです。それと『むしろ「A型だけが変わらずA型的で、他は非A型的になっている」という方が妥当のようです』という考察は大変興味深いですね。
今日はまた別の話しを致します。
『クレッチマーの想い出』
心理学にハマッた高校の頃、「性格学」でクレッチマー説を知りました。精神医学現場での知見をもとにした彼の性格類型は病前性格などとと言われていますが、各類型の名称は、『躁鬱質』『分裂質』『てんかん質』等、病名そのまんまで、これには本当にビックリし、また正直に言えば"魅了"されてしまいました。勿論、解説には、その病気自体とは関係無いと(印象としては汗だくで)説明が付いているのですが、いきなり「えー、性格検査の結果、あなたは『分裂質』ですね」などといわれたらこりゃ魂消ますよねぇ。体質でいうと、健康診断後「あなたの体質は『胃癌質』ですね」などと言われたようなもので、どうしますぅ?いえいえ、胃癌になるとか、なりやすいとかではなく、単に体質の名称です、なんていくら説明されても、なにはともあれ、ガン保険にはいっちゃうでしょう?心理学ってすっげえコト言うんだなあ、とビックリし、そして確かに人間心理の研究にいちいち「人の気持ち」なんか考慮できるかいっ、なのかもしれず、そういう「ココロを鷲掴みにしちゃうもんね」的迫力を感じ、すっかりマイッてしまったわけです。今振り返って見直すと、心理学が内包する"差別"がわたしの"差別意識"にぴったりしたってことのようで、いやはや、であります。
「性格学」についてはその用語の曖昧さ(正比古氏がよく引き合いに出していた「神経質」という言葉はその最たるもので、後年、『血液型人間学』で正比古氏に大いに共感した内容のひとつです)に嫌気がさし、クレッチマー説でいえばそれに対する無批判な迎合に疑問をもち、心理学全体に対する興味もしぼんでいきました。
クレッチマー説の統計的検証については当時全く目が向きませんでした。原データとしてのクレッチマーの採取数・項目等は一般向け解説書には載っていず、また、追試のことにもふれていなかったように思うのですが、ま、この辺の記憶はアテになりません。
当時の初心者レベルの感想としては、各類型の妥当性の検証がないことが最大の不満でした。例えば、肥満人は『躁鬱質』というのですが、その内容として「お人好しの傾向」なんてことを言うわけです。太っている、ということは食に困らぬという場合が多く、要するにお金持ちと殆ど同義、ケンカせずを実践してたらそら確かに「お人好しの傾向」には見えるわな、と、その辺の事情についてはどうなのかなんか説明が欲しいわけです。体型=体質についてもそれ自身の検証って疑問だったですねえ。後年、肥満は体型より体脂肪率で決めることになった(?これ、例えば学会レベルで決定したとかいうことがあるんでしょうか)と聞いたときはクレッチマー説の終焉か、などと思ったりもしたのですが、心理学会には馬耳東風のようだったみたいです。そんな例えは失礼だって?馬に・・・。
クレッチマー説との一番最近の遭遇はTV放送大学の「心理学」で、'98のことでした。受講しているわけではなく、興味本位でこの手の番組はよく見るので、この場合もタマタマでした。(ただし、放送大学では「心理学入門」「認知心理学」「社会心理学」など心理学関係の講義はたくさんあるらしいのですが、どの科目かは分かりません)
時間をかけて(確か30分目一杯)説明用のフリップ等も豊富でずいぶん丁寧な造りだったと思います。トータルの感想としては、30年前よりはずいぶん精密に「性格」が解明できるようになったモンなんだ、と、ついせせら笑ってしまいましたけど。
さてさて、臨床心理士simaさんのお話しではクレッチマー説は既に6年前に否定され、表舞台からの退場が始まったそうですね。(全くの余談ですが、この方のメールの出だし、「臨床心理士のsimaです」ってメチャ格好いいっすねえ。これ、どうも『サイコメトラーEIJI』のヒロイン、特技プロファイリングの女刑事「志摩」さんが想起され、TV版「志摩」さん、大塚寧々ちゃん迄連想が行ってしまうせいでもあるようですが・・・)にしてもその情報を「精神医学の教科書を読んでいたときその脚注で知った」ってのには驚きました。「知らない心理学者も多いのではないでしょうか?」って、おいおいホントかよォ。少なくとも「性格学」のセンセ達は知ってんだろうなあ。それって、スゴイ内容を孕んでいると思うのですがねえ。そんな、"脚注"って、あぁた・・・。お話しでは、クレッチマー説に取って代わるナニカが出てきたわけではなく、これで、「心理学」は「体質と気質の関連」を説明"しない"ことになったわけで、一体どんなことになるのか想像できません。だって、気質や性格は脳の働きによるわけでしょう(これは、これでいんですよね)。わたしのようなコンピュータ屋から見ると、人体に比べれば(というより比べようがない程)単純なシステムである現代のコンピュータでさえ、ハードウェア(脳組織)と切り離してソフトウェア(思考そのもの)の性能(傾向)を評価することはできないのだけどなあ、なんて思ってしまいます。
わたしの感想はどうでもいいのですが、今後、なんらかの知見により、「体質と気質の関連」が明らかにされてしまったら(ははは、別に"血液型と"には拘りませんけどね)、心理学はどう対応するのでしょう。クレッチマー説の再検証、などと一時的にせよ復活させる?ま、否定の理由が「統計的緻密さに欠ける」とのことですから「統計的緻密さに欠けるとしたのは検証の緻密さに欠けていた」とでも言えばアリなのかもしれませんが。そうでもしなければ、結局「心理学は対応しない」とでも言うほかないよねえ。え゛、対応しなかったら「性格学」も沈没しちゃうんじゃないかしらん・・・。
そうそう、否定の理由が「統計的緻密さに欠ける」って、本気のセリフでしょうか。発表から七十余年かけて今(と言っても6年前)漸くでた結論が「統計的緻密さに欠ける」・・・。
東京大学の柴内さんのホームページの「血液型性格判断は疑似科学か?」という論文は「血液型性格関連説の主張者は、心理学者と、50年以上蓄積された知見を無視しているように思います。」と実にカッコ良く締めくくられていますが、「50年以上蓄積された知見」の成果のひとつが「クレッチマー説は統計的緻密さに欠ける」ってぇのォ!?恥ずかしい・・・。
チャチャはともかく、これはマジなツッコミ。血液型性格関連否定の心理学者達の殆どが振り上げている拳(というより棍棒だナ)のことについてです。「血液型と性格は関係ないのになぜ多くの人が関係あると思っているのか」これは「体格と性格は関係ないのになぜ性格心理学の専門家が関係あると思っていたのか」に変更して、「心理学会」で見解を確定させていただきたいですねえ。本当に真面目な意見です。「血液型と性格云々」は所詮素人さん相手、「〜に関する無知」をベースに展開すれば、ま、何を言っても当たらずとも遠からずに落ち着くわけで、心理学自体の底の浅さの傍証程度の意義しか持ち得ませんが、「体格と性格云々」は違います。何と言っても(心理学者)自分自身のことですから、専門の心理学のスキルを縦横無尽に使って「関係あると思っていた」根拠を全て解明できることが期待できます。しかもこの「性格学の専門家」は複数いますから、各人の考察を検討しあうことで更に解明が深まるものと思われます。なんたってなんたって、皆その道の専門家なのですから。
これ、例えば、わたしら「メーカー」レベルで言えば「欠陥品」の販売であって、即無条件リコールですよ。「ごめん、間違っちった」で済む話しではありません。
クレッチマー説が"表舞台"というか"現役"から完全に退くまでにはまだ時間がありそうですが、その終焉に立ち会うことになりそうで、非常に感慨深いものがあります・・・。
>ある心理学者が私への反論を始めてくれた
O大学のH助教授のことでしょうか?
うぅむ、申し訳ありませんが、わたしには「議論」といえる程噛み合っているようには見えなくて、ちと物足りなかったのですが、owadaさんにとっては「サンプルは揃」った時点で意義はなくなったということだったのでしょうか。
実際にH助教授かどうかはともかく、ついでなので、『心理学者の発想』を確認して、最近owadaさんご執心の「心理学会のタブー」について私見を述べさせていただきます。
自称「臨床心理士」simaさんもそうなのですが、まず初めの噛みつきに、他人(ひと)の口を借りて、っていうのがもう、見るからに情けないです。owadaさん、H助教授への反論の冒頭で「議論の最初に他人の主張を持ってくるのは心理学界の慣習でもあるのか」風にイヤミを言ってましたが、simaさんも、自分の患者の他は(最初のメールから)「友人」の話しを引き合いにだして攻撃してたわけで、「イヤミ」ではなく、いきなり「本質」を突いてしまったようですね。(笑)
そうした"腰の引け具合"と、owadaさんが問題にしてらっしゃる「タブー」とは、実は同じ根っこではないのかしらと思っています。
H助教授の攻撃の主体は、1.本論に対する否定論の論破が本論の正当性の証明にはならない。
2.肯定の根拠の議論には、データ収集法やロジックの立て方が「帰無仮説」の立証として問題がある。の2点ですが、これ、どちらも「心理学の知見」ではないと思います。まずは、「心理学の知見」に基づいた批評をすべきでしょう。勿論、心理学が論理学や統計学とは関係無いとか、関係してはいけないとか関係する筈無いということではなく、だって、そんな考察なら「論理学」なり「統計学」の専門家にお出で頂いたほうが実り多いかもしれないわけで「心理学者」が出張って来るこたぁ無いじゃん、って思ってしまうのです。そういう議論なら「O大学心理学研究室のH助教授」ではなく、「○○在住のH生」みたいな匿名氏で始めて頂きたかったですねえ。
そしてsimaさん。メールを拝見している限りでは、この方は「本質」論が「苦手」のようです。最近は専ら「管理人様の論の立て方」に言及することが多いようで、多分それは職業がらということなのでしょうから、近いうちに管理人様にはなんらかの診断結果とその自宅療法のご指導があるものと、他人事ながら楽しみにしております。それはそれとして、つまり、simaさんには「血液型性格関連説」を「心理学」の立場から論ずる、という発想は全く見られません。(最初のメールでわたしがなにを問題視したか理解できていないと思っています)
実は、これはお二人に限ったことではなく、既に何度も書いているように、「心理学界」の問題なのではないかと思っています。
T大学のSさんのホームページには『「関係」とは』と題した「関係の検証の理論と応用」についてかなり高度な内容を実に解りやすく解説したコンテンツがあって、とても勉強になりました。お世辞でもなんでもなくSさんという方はかなり頭の良い方と思われます(オマエに誉められてるようじゃタカが知れてる、って?ま、いいからいいから)。がっ、そのSさんにして、「血液型性格関連説」を「心理学の知見」から否定するという、言ってみれば「王道」を通ってはいないのです。Sさんの力量からして、「心理学の知見」から「血液型性格関連説」を論ずることが不可能な筈はありません。別に皮肉でもナンでもないことは前記『「関係」とは』を読めば誰でも納得できると思います。ですから、理由はひとつ。「血液型性格関連説」を論じうるだけの「心理学の知見」の蓄積といったものは無い、のです。あのSさんが、「科学的方法」なる概念をもちだして「血液型性格判断は疑似科学か?」って、ふっておいて、データ収集法がどうのの統計談義、そして「血液型は○○○なので、性格に関係する」の○○○が抜けてる、って!?「体格は○○○なので、性格に関係する」の○○○抜きで「クレッチマー説」をふれ回った70年間はどうするおつもりか・・・。そもそも「心理学」が「科学」かどうか問われているんじゃあなかったかしらねぇ。
「血液型性格関連説」に切り込む「心理学の立脚点」は「体質と気質」の筈じゃあないのですか。思考や感情の性向のうち、先天的なものと後天的なものに関する考察を踏まえて、まずは、正比古氏の気質の理解・評価(良し悪しではなく、例えば、神経質の"程度"の「評価」ではなく、"対象"を「評価」すべし、という意味での「評価」)・分類を論じるべきではないでしょうか。
素人論議で言えば、「このような質問によって得られる回答は、被験者の先天的気質よりも思春期の異性との交友体験による対人性向に依る度合いが高い」とか、「この質問では、アノ気質傾向とコノ気質傾向による意識を分離できない」「この質問とこの質問の回答意識には同一気質傾向が反映するはずであるが、結果が相反しているのは検査方法に不備があったと思われる」などなど、「心理学の知見」によらなければできない検証はいくらでも有るはずだと思うのです。
体質との関連はともかく、気質・性格の研究成果のひとつに「こういう傾向・度合いは、こういう理由(理論)で、こうすることで知ることができる(或いは"知り得ない")」という知見が無いとしか思えないのです。(「クレッチマー説」への疑義・否定の理由が「統計的緻密さに欠ける」ってのもその有力な証拠ですね。・・・それにしても、ったく、とんでもない連中です)
というわけで、心理学者はどうしたって自分の土俵ではないところで否定論を述べるしかないわけで、"腰が引"けちゃうのも宜なるかなでありますし、また、「タブー」もなにも、心理学界は「心理学」として「血液型性格関連説」に「対応」できないだけだと思います。「心理学会」は「論理学会」ではないし「統計学会」「差別問題研究会」でもありません。「統計学会」(ところで、そんなのあるのでしょうか)で「性格類型」は論じないと思うし、それは「タブー」だからではないと思います。
前便で「(simaさんから)近いうちに管理人様にはなんらかの診断結果」が下されるのでは、と書いたら、同日の便で「内部完結型の破綻した論理」とまとめられてしまっていましたね(笑)。「自宅療法のご指導」は無いなあ、と思ったら、それこそ彼女の本当の「お仕事」、無料ってわけにはいきませんやね。が、はて、「レッテルを貼って理解したようなつもりになる」というのは「血液型性格関連説」に対する典型的な攻撃のひとつだったような・・・。しかも「偉い社会心理学の先生達」と、どこかの誰かを引き合いに出したりして、これでは、以前のご自身のお言葉「自分にとって都合のよい著名人の発言の上にさらに仮定の上に仮定を重ねても、何の証明にも論理的主張にもなりません」同様「自分にとって都合のよい偉い人の行動に仮定を重ねても、何の証明にも論理的主張にもなりません」ってことでしか無く、少なくともsimaさんには「内部完結」した論理を期待したいものです。
臨床心理士のsimaです。
管理人様には意図的かどうかわかりませんが、大きな誤解があるようですね。学会という者は心理学会に限らず様々な考えをする者がいるところであって、決してある学会の会員が全員同じ考えを持っているというわけではありません。異なる学説が存在するから議論が生まれ研究が進み科学が発展していくのです。ご存じだとは思いますが、現代の心理学は医学、生理学、社会学など様々な隣接領域の知見を取り込み細分化されたものになっています。心理学者といっても心理学すべての領域に精通しているわけではありません。確かにわたしはクレッチマーの性格と体格の関連説を非科学的な誤った説と考えていますし、この説への批判が強くなり「医師国家試験出題基準の特に留意すべき項目」からはずされたのも事実です。しかしこのことはクレッチマー説を学会全体が否定したことにはなりませんし、学会全体にこのことが告知されたわけでもありません。従って、クレッチマー説への批判を知らない心理学者がいるも、批判を知ってもクレッチマー説を養護する心理学者がいる可能性も高いでしょう。管理人様の「多くの心理学者は非科学的なことを信じていたり学生に教えているのか?」という質問の答えになったでしょうか?
ところで管理人様は「クレッチマーの例を出したのはsimaさんの論理により血液型性格研究がタブーであることを証明したかったからであり、めでたく証明できた」とおっしゃっていますが、私にはどのような論理展開で証明できたのかわかりませんので教えて下さい。
臨床心理士のsimaです。
心理学者の研究は管理人様が調べた限りほとんどが「心理学専攻の学生だけ」を対象としたものとおっしゃっていますが、私は大学の研究室にいるわけではないので原論文を入手できないものも多いので管理人様が調べた論文の被験者の部分をリストアップして教えていただけませんか?心理学専攻の学生ということは心理学科の学部生か大学院生ですよね。その人達だけを集めることは人数的に難しいと思います。ただ単に心理学の授業を履修している学生であれば、学科や専攻は様々な学生がいるはずです。特に一般教養の心理学であれば、心理学科の学生の比率はかなり低くなるのではないでしょうか?管理人様は「心理学の先生は血液型を否定しているという情報をわからない学生がいたらそれは真面目な学生ではないと思う」とおっしゃっていますが、前にも書きましたが、6割前後の学生は素直に血液型性格関連説を信じているようです。管理人様の心理学を受講する大学生に対するイメージはだいぶ現状とはずれているようですね。中には心理学の授業は雑誌に載っているような心理ゲームをやるものだと思っている学生も結構いるという話もよく聞きます。これは大学で心理学の授業を担当している何人かの友人から聞いた話なので正確なデータに基づいたものではありませんけどね。
ところで管理人様は社会心理学者のデータをよく使って自説の根拠としていらっしゃいますね。管理人様の論法で行くと「血液型と性格は無関係であるなどという誤った説を主張する心理学者の研究により得られたデータは誤ったもの」ではないのですか?
臨床心理士のsimaです。
管理人様からのご質問に対して答えられる範囲でお答えしようと思います。まずは梅原氏がいうところの学会のボス支配について。人は自分の経験を一般化して語る傾向があるし、梅原氏が話していることは、主に彼が学界で認められなかった時代のそれも史学会の話だと推測されます。少なくとも梅原氏が日本の心理学会のことを語っているとは考えられません。では心理学会にそのようなボス支配がなかったかというと、心理学は細分化されているために学会全体を支配できるような影響力を持つボスは存在し得ません。社会心理学会のなかでもパーソナリティー研究の領域でもそのようなボスは私の知る限り思い当たりません。さらにボスが存在したとしても、ボスとは異なる研究期間に就職した後ではそのボスに忠誠を尽くす必要はないはずですよね。
また、「血液型は差別になるから非科学的でけしからんという主張は科学は人間の行動に対して倫理的判断を下すことができるというのと同じことで疑似科学の主張ではないか?」という主張に対してはいくつかの点から反論できます。科学は人間の生活を豊かにするための実用の学という側面も持っています。人間の生活から不利益の種を減らすことや啓蒙活動が疑似科学になるのでしょうか?私には「意見が違うと相手にはタブーがあるという論法で相手の主張を曲解すること」、さらに「血液型性格説は元々心理学の性格検査の手法にはなじまないもの」とし、佐藤氏の一節を持ってきて「そもそも心理学の性格検査自体信頼性が低い」と主張して検証を拒否し、自らの説の正当性を自らのデータで立証しようとせずに「完全に否定できない以上血液型性格説が正しい可能性が高い」という論法自体が疑似科学の典型のように思います。
管理人様の2つのご質問にしても、著名人の主張を紹介して「この主張が正しいかどうかはわからないが、正しいとすると***ということになる」という論法ですよね。そしていつのまにか「AであればBであり、BであればCということになるのではないか」という主張が「Cである」という結論にすり替わっていますよね。自分にとって都合のよい著名人の発言の上にさらに仮定の上に仮定を重ねても、何の証明にも論理的主張にもなりませんよ。
いつも丁寧なご返事をありがとうございます。
■その11について
結局、クレッチマーの説は、心理学学会では「定説」なのか、「疑問視」されているのか、「非科学的」なのか、私にはよくわかりませんでした。常識的には、教科書から外されたら「定説」とは言えないでしょうから、「疑問視」か「非科学的」のいずれかでしょう。一般的にはどちらなのでしょうか? また、simaさんは、論旨からして後者と解釈されているということでよろしいのでしょうか?
ところで、simaさんはクレッチマーの説を「非科学的」と考えているそうですね。それなら、クレッチマーの説は、「非科学的」で、また「体型」だけで性格を3つに「決めつける」から「差別」的ということになりますが、それでよろしいのでしょうか?
大村さんは、クレッチマーの説が「体型」だけで性格を3つに「決めつける」としても「科学的」ですが、「血液型」だけで性格を4つに「決めつける」(私は「決めつける」とは思っていませんが、一応ここでは彼の論理に従います)のは「非科学的」だということになります。これも、どのようにお考えですか?
いずれにせよ、血液型だけを差別的(?)に扱っているわけですから、私から言わせれば「タブー」ということになります。
【2/21追記】 念のため、百科事典に当たってみました(下線は私)。これでわかったのは、類型により性格を「決めつける」という批判は、心理学の性格類型にもあてはまることです。 ●マイクロソフト エンカルタ99 平成10年発行 性格類型 せいかくるいけい 人の性格の個人差をいくつかの類型にわけるこころみは古来からみとめられる。たとえば古代ギリシアにヒッポクラテスが胆汁質、黒胆汁質、多血質、粘液質の4つの気質の型をみとめたのは有名であり、また近年にいたっては、シュプランガーの経済型、理論型、審美型、宗教型、権力型、社会型の6つの類型もよく知られている。しかし、心理学の観点にたつ類型説としてまずとりあげる必要があるのは、ドイツの精神医学者エルンスト・クレッチマーの体型説である。 ●平凡社 世界大百科事典(CD−ROM版)第2版 ベーシック版 平成10年発行
●小学館 スーパー・ニッポニカ 日本大百科全書+国語大辞典(CD−ROM版) 平成10年発行
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最大素数さんからのメール(その6)では、放送大学でも「定説」として放送していたそうです。私も見たような気もしたのですが、残念ながら記憶は曖昧です。
結論として、手元のどの資料に当たっても、積極的肯定か少々の疑問を呈しているだけで、「非科学的」という記述は見あたりませんでした。仮に「非科学的」ということであれば、百科事典には全く掲載されていないか、そういった記述があるはずです。ところが、実際にはかなりのスペースを取って「正しい」ものとして説明されています。
どうやら、オープンな議論にはなっていないのではないでしょうか?
■その12について
まず、次のデータをご覧ください。私のチェックしたもの一部です。学部の記載がないものも多いので確定的なことは言えませんが、人数や性別、論文の記述から受ける印象では、ほとんどが心理学専攻、あるいは文系の学生だと思われます。この中で、完全なランダムサンプリングは、松井さんの論文と坂元さんの論文ぐらいです。
ただ、その10については、私の「ほとんどの場合、サンプルは心理学専攻の学生だけ」という主張は一部訂正させていただきます。m(._.)m これはあくまでも私の推測にすぎません。もっとも、「『情報を与える前で特定の大学や一部の専攻に偏らずある程度以上の人数のデータ』は、調べた限りほとんどありません」という結論はそのままです。
次に、松井豊さんの発言を『血液型と性格』(現代のエスプリ No.324 分析手法から見た「血液型性格学」 119〜120ページ)から引用しておきます。
心理学者の反省
しかし、方法論上の問題を抱えているのは、「血液型性格学」支持者だけではない。「血液型性格学」を否定する立場の多くの心理学者にも、先の批判を甘受しなければならないものが多い。詫摩・松井だけでなく、多くの研究は、学生を対象にしたアンケート調査に基づいて、「血液型性格学」を支持しないデータを提出している。それらの多くは、厳密な心理検査を利用しており、先の批判の第1(項目の不備)を改善している。しかし、これらの研究においても、回答者は講義や授業を受けている1つか2つの学校の生徒や学生に偏っており、ランダムサンプリングによるものはみられない。血液型は自己報告によっており、第二の批判(血液型の測定)にも対処されていない。
残念ながら、血液型ステレオタイプに戦いを挑んでいる良心的な研究者たちも、方法論という面からみると、「血液型性格学」支持者と同様に批判を受けざるを得ないのである。
次に、血液型に興味がある人の割合のデータです。下の表の赤枠の中が心理学専攻の学生です。平均を計算すると「興味ある」が53%になるので、@の中学生グループを除けば、他のいずれの被験者グループよりも低いことがわかります(佐藤達哉 1995 血液型性格判断、星占いを信じやすい性格があるか 児童心理,649,112-121.)。
これだけでは不十分でしょうから、別のデータも書いておきます。
1.血液型と人の性格は関係ありそうだ(無作為抽出の首都圏15〜69歳の住民1,102名)
回 答
回答率
そう思う 75.0% そう思わない 18.4% どちらともいえない 5.9% わからない・無回答 0.6% 出典:昭和61年NHK世論調査資料
2.あなたは、血液型と人の性格や相性と関係あると思いますか?(無作為抽出の全国20歳以上の男女2,320名)
回 答
回答率
関係あると思う 18% 多少関係あると思う 46% 関係ないと思う 21% わからない 14% 無回答 1% 出典:昭和62年毎日新聞「こころの時代」全国世論調査
3.血液型と性格・相性の関係は?(500名)
回 答
回答率 ある 72% ない 18% わからない 10% 出典:関西テレビ『発掘!あるある大事典』(平成9年6月15日放送)
4.血液型ステレオタイプに対する態度 →太字は50%以上 (都内の女子大生318人)
変数名
肯定率(%) 血液型によって性格は異なる
* 血液型性格判断は信用できる
37.5 血液型性格判断は当たっている
53.8 血液型性格判断は楽しい
83.6 血液型性格判断が好き
61.5 コミュニケーションに役立つ
40.4 初対面時に役立つ
26.0 血液型を考えてから対人行動 5.8 血液型によって行動を変える
4.9 他者行動の理解に役立つ
14.4 血液型でまず相性を考える
26.7 血液型に関する記事をよく読む
57.7 自分を知るのに役立つ 26.0 知らない自分がわかる
12.5 自己について新しい発見をする
16.4 自分を客観的に見られる
26.0 A型の人はきらい 5.8 B型の人はきらい 10.6 O型の人はきらい 1.0 AB型の人はきらい 10.6
* 本回答のみ、回答は以下の5件法で求めている。
「血液型によって性格は非常に異なる」(0%)、「かなり異なる」(10.5%)、「やや異なる」(61.1%)、「あまり異ならない」(16.8%)、「全く関係ない」(11.6%)出典:上瀬由美子・松井豊 1996 血液型ステレオタイプ変容の形 ―ステレオタイプ変容モデルの検証― 社会心理学研究,11,3,170-179.
最後に、「血液型と性格は無関係であるなどという誤った説を主張する心理学者の研究により得られたデータは誤ったもの」ではないかとのことですが、これはどっちに転んでも私の得になるのです(笑)。というのは、仮に、この仮定が正しいとすると心理学者の論文はほぼ全滅(失礼!)ですし、正しくないとすると能見さんデータと一致することはチェックしていますから…。
私は、能見さんのデータとはほぼ一致するので、条件付きで正しいと思っています。具体的なデータは、血液型と性格の謎を推理するをご覧ください。
■その13について
まず、前半についてです。
よく考えたら、心理学会がボス支配であるかどうかと「血液型と性格」には直接の関係はないのです。そして、手元の資料でご返事を差し上げようと思ったのですが、そうなると(個人名を出さざるをえないので)ほとんど個人批判に近いものになってしまいます。こんな内容は、このHPの趣旨には沿いません。ということで、よろしければ、この議論はここで終わりにしたいと思います。大変申し訳ありませんでした。ただ、最近の学会は心理学会に限らず細分化されているということだけを付記しておきます。いずれにせよ、少々軽率だったと反省しています。m(._.)m
次に、後半についてです。「科学は人間の生活を豊かにするための実用の学」とのことですが、ハイエクの反論は次のようなものです。同じく渡部さんの本からです(80ページ)。
専門家の幻想は特殊なものではなく、一般に広く見られる幻想だと、ハィエクはいいます。たいがいの人間は偏った好みや特殊利益によって動かされているものであり、その意味では程度の差はあっても、みんなが専門家なのだというのです。
確かに、いろいろな専門家がいます。ハイエクが例としてあげているのは、伝統的な風景の保存を求める田園愛好家、絵画的ではあるが不衛生な古い建物を一掃したいと思っている熱烈な健康主義者、国土を巨大な高速道路網でズタズタに切り裂きたいと思っているモータリスト、専門化と機械化の徹底を求める効率狂信者、個性の発達のために独立職人たちの保存を求める理想家、などです。
ハイエクによると、これらの専門家を「科学的」に優先順位を付けることは不可能です。私もそう思います。
もっと具体的に言いましょう。simaさんは、心理学は「人間の生活を豊かにするための実用の学」だと考えているはずに違いありません。ところが、私の回答(その12)の4.血液型ステレオタイプに対する態度では、「血液型性格判断」(この言葉には抵抗がありますが…)は「人間の生活を豊かにするための実用の学」と考えている人もかなりの数存在するわけです。優先順位はどう「科学的」に付けるのでしょうか?
ところで、私が「意見が違うと相手にはタブーがあるという論法で相手の主張を曲解すること」という論理がわかりません。私は論理的に「タブーがある」と主張しているつもりなので、相手の主張を「曲解」しているつもりはありません。それに、ご返事(その11)では、「どのような論理展開で証明できたのかわかりません」ということですから、更に意味がわかりません。私の論理の誇張している点や間違っている点を、どうかご指摘ください。
さらに「血液型性格説は元々心理学の性格検査の手法にはなじまないもの」とし、佐藤氏の一節を持ってきて「そもそも心理学の性格検査自体信頼性が低い」と主張して検証を拒否し、自らの説の正当性を自らのデータで立証しようとせずに「完全に否定できない以上血液型性格説が正しい可能性が高い」という論法自体が疑似科学の典型のように思います。
これも何回も読み直したのですが、全く意味がわかりませんでした。私の読解力が不足しているのでしょうか(苦笑)。
私のHPのどの部分を読むとこのような論理構成になるのでしょうか(私から言わせると「曲解」に近いのですが…)。と言っても始まらないので、再度説明させていただきます(詳しくはこちら)。
以前、私は何人かの心理学者(否定側)と議論しましたが、彼らは能見さんのデータは絶対に認めようとしませんでした。これで議論になりません。そこで、能見さんのデータが正しいと証明することは諦めました。私がいくら正しいと証明しても、彼らが認めなければ議論そのものが成立しないからです。議論にならないのでは、全く意味がありませんから…。ところで、彼らも心理学者のデータを使うのは一向に構わないわけです。当然のことながら、心理学者のデータを使うのなら、結論を否定するしかありません。
ということで、「関係がある」という条件を何かさんざん議論しました。これは、割と簡単に結論が出ました。「完全なランダムサンプリング」、「複数回安定した結果」、「大きなサンプル数」の3つです。松井さん、坂元さんのデータはこの条件を完全に満たしています。
ここで、私は一安心しました。なにしろ、相手が出した条件を全部満たしたのだからいいだろうと…。しかし、予想は完全に外れたのです。その後、彼らは完全に沈黙してしまったのでした。メールの返事も、以後は全く来なくなりました。これは完全に予想外でした。つまり、(一部の)心理学者には一般の「論理」は通用しないということです。
これでは、あまりにもおかしいというので、血液型は「タブー」であるという証明を始めたわけです。
ここで触れようかどうかかなり迷ったのですが、佐藤さんの論理についても少し書いておきます。ようこそ!否定派の3つのタイプのところをご覧ください。
最後に、「結論がすり替わったり」「仮定の上に仮定を重ねても、何の証明にも論理的主張にもなりません」とのことですが、確かにそういう傾向はないとは言えません(苦笑)。ただし、全部がそうであるということではありません、念のため。そして、simaさんがそんな感じを受けているなら、いろいろとテクニックを使っていますから、私の意図は達成されていることになるわけです…(失礼!)。
どうもありがとうございました。
【ちょっと一休み】…2/21追記 ここまで読んでいただいた読者の方、どうもお疲れさまでした。ここでは別な読み方をご紹介します。 まず、私からの質問(その1)については、一応私はまじめ(?)に書いてはいますが、論理や内容はさほど重要ではないのです。 心理学では「血液型と性格」がタブーかどうか? もしタブーでないなら冷静な議論ができないとおかしいのです。例えば、タブーであるかどうか実際に資料を調べてみよう、といった展開になるはずです。あるいは、あまりにも馬鹿馬鹿しいので笑い飛ばすか…。常識的な反応は、だいたいこのどちらかでしょう。しかし、(simaさんを除いて…ですが)ほとんどの心理学者はヒステリックに近い反応を示しています。あるいは、都合が悪い(?)ので全く無視する場合もあります。これが「タブー」である「状況証拠」になるわけです。「疑似科学」や「ボス支配」についても同様です。 どうやら、こういう印象は強いようで、竹内久美子さん『小さな悪魔の背中の窪み』の61ページにも、
皆さんにはすでにおわかりのように、否定論者が私のどの質問に答えたか(あるいは無視したか)を一覧表にすれば、何が「タブー」で何に問題があるのか一目瞭然です。これは、データが集まり次第作ろうと思っています。 では、こんなことを書いてsimaさんに失礼にならないのか?とご心配の方もいらっしゃるかもしれません。全くご心配には及びません。simaさんは、こんなことはわからないはずがないですし、私の質問には毎回親切にお答えをいただきましたから。重ねてsimaさんにはお礼を申し上げます。m(._)m |
管理人様はクレッチマー説も血液型性格説も「非科学的論理に基づいたカテゴリーで性格を決めつけているの」に、血液型説だけ「差別的」とされるのは「タブー」が存在する証拠とお考えのようですね。非科学的基準で性格を分類することにはもちろん科学的な問題がありますが、それだけで差別的というのではありません。ごく少数の例外を覗いて生涯不変である血液型の中で、特定の血液型に悪いイメージが付与されそのイメージが一般に広がっているから「差別的」というのです。この点を見落としてはいけません。
クレッチマー説だけではなく、類型論の考え方自体現代の心理学者の研究上の興味をひかなくなっているように思います。学者にとって自分の研究テーマを追求することが第一になります。そのために否定しないと先に進めないものであれば当然積極的に否定します。しかしそうでないのなら、積極的にデータを取って否定することはあまりないでしょうね。従って多くの学者からは否定的に見られながらも完全に否定されずに過去の定説として記載されるケースはクレッチマー説に限らずあるでしょうね。特に百科事典では明確な否定的データが存在しない限り掲載する傾向が強いでしょうね。
ところで「心理学専攻の学生」の問題ですが、管理人様が表の赤枠の中を「心理学専攻」とされていますが、明確なのはFだけで後は「受講生」ですよね。また、その他の研究でも例えば富士短期大学には心理学科は存在しないし、都立大の心理学科は1学年20人程度なので学部生全員を集めても150人にはなり得ません。また心理の学部生全員が「青年心理学」を受講するとは考えられません。
臨床心理士のsimaです。
管理人様は「能見さんのデータが正しいと証明することはあきらめました」とおっしゃいますが、残念なことです。是非とも科学的な手法でお説の正しさを証明していただきたいと思います。ただその証明とはディベートではなく、「追試によるデータの再現」で証明して下さい。例えば全く能見氏と同じ手法のアンケート調査を郵送で行って能見氏と同じ結果が得られれば、画期的なことだと思います。もし同じ結果が得られなければ、能見氏のネームバリューによる実験者効果の可能性が大きいということになります。また、能見氏と全く同じことをしても「質問項目が曖昧でなんとでも解釈できる」という批判を招くおそれもあります。例えば、松井氏、坂元氏などの心理学者と共同で「質問項目」を作成してデータを取り、それを心理学者と管理人様とで別々に統計的に分析し結論を比較すればお互いの問題点が明確になると思います。別に調査は心理学者でなくともできるわけですので(調査法に関する書物もたくさん出ています)その気になれば管理人様にもできるはずです。バイアスが入るにしても、ネット上でのアンケートも一つの手段でしょうね。是非管理人様やお仲間で「追試によるデータの再現」によって能見氏の説の正しさを証明して下さい。YG性格検査などの心理テストに関しても購入先をお教えしますよ。
さて管理人様は心理学者と議論し、相手からの議論が帰ってこなくなったから「タブー」が存在するという証明を始めたそうですね。管理人様もお認めのように、管理人様が使っていらっしゃる「結論のすり替えや仮定の積み重ね」などのテクニックはディベートで自説の正しさを印象づけたり相手の論理破綻を導いたりするためのもので、科学の議論のテクニックではありません。例えば管理人様が使う「***のいうことが正しいかどうかわからないが、そうであれば...」という論法も、自説の立脚点や立場を明確にしないものですので、科学の議論では無視されても当然のものです。お忙しい偉い社会心理学の先生達は、管理人様がいくら過去のデータの再解釈をしてみても、「独自のデータに基づかない単なるディベート」と見なして無視するのかもしれませんね(私は臨床心理士ですので内部完結型の破綻した論理につきあうことになれていますから、社会心理の先生達よりは気が長いでしょうね。)。このようなことを書くと管理人様はそれこそが「タブー存在の状況証拠」とお考えになるのかもしれませんが、状況証拠とは状況の解釈でしかなく、あくまでも恣意的なものです。管理人様が血液型説の科学的証明を目指すのであれば、あきらめずに独自のデータを取って証明して下さい。
■その14について
まず、「特定の血液型に悪いイメージが付与されそのイメージが一般に広がっている」とのことですが、本当にそう判断されますか? というのは、このデータはランダムサンプリングによるものではないからです。次に、「…でしょうね」という表現が多いのですが、これはデータに基づいたものなのでしょうか?
さて、本命の「心理学専攻」の学生数についてですが、私はsimaさんからのご返事を、思わず何回もじっくりと読み直してしまいました。これは冗談に違いありません! なぜなら、私に一方的に有利な内容だからです。まさか「トリック」ではないとは信じていますが…。
では、これからその理由を説明しましょう。まず、Eのデータですが、simaさんもおっしゃるように、これは明らかに佐藤達哉さん(当時は東京都立大学人文学部)のデータです(下線は私)。
佐藤達哉 1993 血液型性格関連説についての検討 社会心理学研究,8,3,197-208.
→予備調査 公立高等看護学院の"精神保健"受講学生29人(全員女性)
→本調査 公立大学の”青年心理学”受講学生150人(男性89人、女性60人、不明1人)
常識的に考えて、これだけ数字が一致することは考えられませんから…。ところで、このデータは「興味ある」と回答した割合は47%です。全体の平均が60%ですから、それに比べると13%も低いわけです。私は、このケースは心理学専攻、あるいは心理学と何らかの関係がある学生だと推測したのですが、simaさんはそうでないとおっしゃるわけです。となると、常識的には「心理学専攻」の学生より率が高くないとおかしいのです。ところが、実際にはFよりもかなり低い。Fがサンプル数が極端に少ないから除外するとしても、全体の平均よりもかなり低率であることには違いありません。
では、この違いは何によって生じたのか?
考えられる(妥当な)理由は一つしかありません、それは教える人の影響です。つまり、心理学専攻だろうがなんだろうが、教える人によって「興味ある」と回答する率が変わってくることになります。
更に詳しいデータを199ページから引用しておきます。
”質問1 血液型と性格の関係に興味あるか"への回答は、ある…46.7%、どちらでもない…28%、ない…24.7%、無回答…0.7%であった。
表1 回答形式の違いから見る血液型と性格の関連
2者択一式
回 答
人 数
あ る 34人(47%) な い 36人(50%) 答えない 2人( 3%) 計 72人(100%) 5者択一式
回 答
人 数
あ る 4人( 5%) ややある 38人(49%) あまりない
18人(23%) な い 11人(14%) わからない 7人( 9%) 計 78人(100%)
また、simaさんご指摘のデータ以外は、すべて「ほとんどの場合、サンプルは心理学専攻の学生だけ」、あるいは「『情報を与える前で特定の大学や一部の専攻に偏らずある程度以上の人数のデータ』はない」という結論になりますが、それでいいのでしょうか? それとも、こういうやり方がディベートなのですか?
■その15について
私の読解力がないのでしょうか? どうも意味がわかりませんので再度教えてください。
#ところで、「内部完結型の破綻した論理」に反論(?)しても、何か意味があるのでしょうか?
simaさんは、私が何らかの「科学的な手法」で証明を行えば、血液型と性格は「関係ある」と認めていただけるのですか? いままでの議論では、simaさんが欲しいとおっしゃったデータは、できる限りいろいろなものをお示してきたつもりです。が、結果的には、いずれも「関係ある」とは認めてもらえませんでした。どこが不十分なのでしょうか? 具体的に、どういうデータがあれば「関係ある」と認めていただけるのでしょうか?
なお、性格テストについては、以前発売元に問い合わせたところ、「個人では購入不可」とのことなので、入手をあきらめた経緯があります。
蛇足ですが、私の経験では、「偉い社会心理学の先生達」の方が一般の方より丁寧な対応をしていただいたことを付記しておきます。
最後に、私が調べた心理学者の論文では、能見正比古さんと同一の質問項目での追試は、ただの1つもありません。本当の理由は不明ですが、ある否定論者からは「能見正比古さんと全く同じ結果が出るはずだからだ」と聞いています。もし、これが本当だとすれば、「タブー」の証拠にはなると思います。
乱筆・乱文、どうかご容赦ください。
臨床心理士のsimaです。
関西方面へ主張していたのでこの前のメールを送ってからこのサイトを見ていなかったのですが、誤解があります。私は「社会心理学の先生が議論に応じなくなった」という管理人様のお話から、臨床心理士はお忙しい偉い社会心理学の先生達よりは気が長いということの理由として「職業柄自己完結型の破綻した論理につきあうことになれているから」と書いたのであって、管理人様のことを揶揄したつもりはなかったのですが.....。名前不明の心理学者さんがおっしゃるように「本質的な議論が苦手」なものですのでね。
主張帰りで疲れていますので今日はこれで失礼します。
どうもお疲れさまでした。別に揶揄されているとは感じていませんので、気になさらないでください。(^^)
では。
最大素数さんからのメールです。
>私に対する反論は、構えたものが非常に多いのです
もう、ハナっから「なんとしても論破、否定してやる」で凝り固まっているからなのでしょうね。ま、それにしても工夫が無さ過ぎではあります。「心理」学者というくらいですから、相手の考えを先取りして優位に立つ、なんちゅうテクに長けていそうですが、実情は全然違うようですね。実はちとガッカリです。論破を目的とする場合、常套手段といってもよいのですが、「済みません、よく分からないので教えて下さい」というスタンスで、主に相手に話させ、ほころびができるのを待つ、という手がありますけどね。特に、性格心理学は「分からない」コトだらけですから、「専門家」がそう言っても不自然ではない、という「利点」がある筈なのですが、ま、学者「センセ」にとっては「教えて下さい」ってのは抵抗強すぎるでしょうな。
simaさんも、メールの動機として
>一番の目的は血液型性格診断を強く肯定する方達に、「血液型で結婚や恋愛が左右
>されることはない」と言っていただいてそれを私のクライアントに見せたかったか
>らです。(メール;その8)
という「明確」な「目的」があったのなら、そう「言わせ」て見せて欲しかったです。owadaさんの考えはこのサイトのあちこち(というより全て)に反映されているのですから資料は豊富、「内部完結した論理」に切り込んで、「言わせ」て、後で「実はそう言って頂くことが目的で、いろいろ失礼なことを申し上げてしまいました。お陰様で、クライエントはすっかり立ち直ることができました」とでも吹いてくれればカッコ良かったのにねえ。
simaさん、といえば、メール(その16)なんですけど・・・。「本質的な議論が苦手」と以前メール(その7)で書いた覚えはありますが、わたしは「心理学者」ではありません(^^。がっ、わたしが心理学者を無能呼ばわりしていることを踏まえての「心理学者」呼ばわりなのだとしたら、うふふ、結構言えるじゃぁないですか、少しは「心理学者」を見直そうかしらん。そういう返しは好みですので、ご褒美にひとつ教えてあげましょう。ローマ字変換入力では「出張」は「SHUCCHOU」とタイプすると「しゅっちょう」になる筈ですよ(^^。うぅむ、ここまで読み返してみると結構わたしもイヤミっぽいでしょうか。・・・移ったとか。(爆)
>自然科学に対する劣等感
確かに、「ディジタル指向のせいか、1か0かと割り切りたがるが、現実はそんな単純ではない」などという知ったような物言いは劣等感丸出しで、ちょっと恥ずかしいです。ハード的には「1か0か」の判断技術の発達こそがコンピュータの進歩のメインであることを知っている人達は、「単純」のアナロジーに「1か0か」を持ち出すなんてことは思いもつきません。そもそも二者択一を言うときは「マルバツ」とか「白黒」と言ったもので、「1か0か」になぞらえるところに「劣等感」がチラチラしちゃうのですね。また、「1足す1は2と決まっている数学/自然科学と違って」ってのも同工で、マジに小バカにした風に言えば「例えば、コンピュータで使われている計算は1+1=1という数学であり、1+1=10と数えていきます。1+1=2はどこにも出て来ません」というところでしょうか。前段の論旨に沿っていえば、「専門家」としての「心理学者」はわたし(や、"自称素人"owadaさん)のような(心理学の)素人の言い分に対して、同じくらい小バカにした風の「解説」をして欲しいのですがねぇ。
ともあれ、いわゆる「文系」の学問には、おしなべてそういう傾向があるようです。多分、無いのは、自然科学の対極に位置づけられがちな「芸術」くらいなものでしょう。経済学にもそういう意識は顕著で、『経済学とは何だろうか』(岩波新書)という解説本は第一章「経済学は<科学>たりうるか」から始まっているくらいです。(ここで経済学者まで相手にする予定はありませんので内容については言及しません。・・・って、をいをい)
わたしも、理系ですが、ま、「現場技術屋」的発想の傾向が強いかもしれません。
電気屋の(設計・製造)「現場」は「理論(理想状態・原理)」と「現物(ワースト値)」の折り合い(というより、せめぎ合い?)が殆ど全てですから、「原理」をおいといて「現象」を語ることがどうにも落ち着きませんのです。「専門性」という意味では、例えば不具合対策の場合でも、機構的な症状だからといってメカ屋さんに任せっきりにせず、こちらはこちらで電気まわりをチェックする(放熱不足による高温で仕切り板が反ったことによる異音、なんてことがあったりします)、という風に、「まずは手前の足元を」意識がありますね。
わたしは、心理学者の否定の根拠(殆どWeb上での知見です)や、最近話題のクレッチマー説の取扱いから、心理学(少なくとも性格心理学)は「科学」以前の問題として、「学問」足り得ていないのではないかと考えています。
社会心理学の「タブー」話しとして
>「身体的魅力が同程度のパートナーを交際相手として選択する」
との話題、事実ならばowadaさんの解釈が正解でしょうね。他に理由は思いあたりません。
が、その調査結果、本当でしょうか。乏しい見聞と偏見によれば、「身体的魅力がアンバランスなカップル」のほうが多いような気がしますが・・・。ともあれ「身体的魅力」という"尺度"が決められる、という発想はスゴイですね。その「"尺度"を決めた意識」は差別意識そのものに他なりません。さすがにアメリカは「人種差別」という差別の本道とでもいうべき「差別」の本場、心理学者もこんなにはっきりした差別意識を無自覚・無防備のまま露呈しちゃうんですねえ。(かつてsimaさん、メールその5でこの研究に言及していましたが、この差別性には無頓着でした。授業時にもそういう指摘はなかったようで、全くもって、心理学が差別について語るなんざちゃんちゃら可笑しいこってす)
その22は、本当はその17の前に送っていただいたものです。私のケアレスミスで掲載するのを忘れてしまい、申し訳ありませんでした。m(._.)m しかし、レス(その21)が付いてしまったので、番号を付け替えるとかえっとわかりにくくなってしまいます。そのため、その22として掲載させていただきます。どうかご了承ください。 |
臨床心理士のsimaです。
さて管理人様が、「血液型と性格の謎を推理する」でおっしゃっている5つの条件についての私見を述べさせていただきます。まあこれもぼやきですよ。
1,ランダム・サンプリングをしてはいけない。
「同じ血液型でも年令、地域、社会的地位などにより傾向が異なるためランダムサンプリングをすると血液型による差が出てこない」としていらっしゃいますが、私が理解しているランダムサンプリングはそれら様々なじゃまな要因を相殺してそれらに影響されない効果を抽出するためのものなのですが違うようですね。ランダムサンプリングをして多数のデータを取りそれを血液型別の群に分け集計して比較すれば「血液型」による純粋な効果を(それが存在するのなら)抽出できるはずです。例えば学生集団のような年令・地域などが均質な集団は同一の情報による影響を受けやすいでしょう。均質な集団での差では血液型による有意差ではなく、それらの別な要因による影響という批判から逃れられないでしょう。
2,数百人以上の回答者でないといけない。
1でも述べましたが、じゃまな要因を相殺するためには多数のデータが必要になります。ただし管理人様がおっしゃる「ランダムサンプリングではなく均質な集団の多数のデータ」という条件は有意差を強引に作り出すためのものでしかないように思います。
3,能見氏の本の血液型別の特徴を質問項目とすること。
つまり能見説の妥当性の検討が目的になるわけですね。これはよいでしょう。ただし、「Oは独立心が強いが、弱い立場では依存心が強くなる」のような項目は不適切でしょう。なぜなら誰でも「独立」と「依存」を両極とした一次元上にいるためにこの質問では誰にでも当てはまってしまうからです。能見説をベースにして項目をチェックして質問項目を作成することは「能見説の妥当性の検討」という研究目的からすると当然ですね。ところで詫摩・松井(1985)では能見氏の質問項目を使っていたのではないですか?
4,能見氏の血液型別特徴と結果は必ずしも一致しない。
これは困りましたね。いきなり仮説の検証を放棄されたら科学的証明も何もないように思いますが、はて...。能見説と異なる血液型による有意差が出たのなら、それは能見説の否定であって、たとえば「B型は独立的」と行ったように得られた有意差に基づいた血液型性格関連説を主張すればよいのではないのでしょうか?「能見説と異なる結果であっても血液型による有意差が出れば能見説の証明となる」のであれば便利ですね。能見説は最強ですね。ほとんど神のお言葉ですね。私のつたない理解では神のお言葉は宗教の領域であって自然科学ではないと思うのですが、理系の管理人様にとっては自然科学なのでしょうか?はて....。
まだ続きます。
臨床心理士のsimaです。やはり文章が長くなると送信エラーになりますね。さっきの続きです。
5,誤差をきちんと計算すること。
誤差の計算は大切ですよね。誤差を考慮するから「有意差」が重要になるのですよね。誤差の範囲を超えているから統計的に有意な差がある、誤差の範囲内だから有意な差がないというのですよね。「松井さんの分析ミス」で既に誤差を考慮した有意差が出ている結果にさらに誤差を検討することにどれだけの意味があるのか私には疑問です。またこの誤差の計算でなぜ各血液型のサンプル数を1/4としたのでしょうか?このデータはランダムサンプリングですので日本人の血液型分布と近似するはずです。それを使って標準偏差を計算しそこから誤差を算出しないと「きちんと誤差を計算した」ことにはならないのではないでしょうか?また管理人様は「4年間の肯定率の平均」として「算術平均」を使っていろいろ計算しているようですが、肯定率の平均なら「幾何平均」を使うべきではないでしょうか?
さて管理人様の議論を拝見していて、いくつかの拡大解釈や議論のすり替えが見られます。1を聞いて10を知る聡明な理系の方々ならではの勘違いかもしれませんが、心理学に限らず研究者は得られた結果から考察した結論をどこまで一般化できるか慎重に議論するはずです。例えば管理人様が、血液型と性格に多少関係があると思う人が50%弱いることから「つまり血液型と性格には強い関係はないにしても多少の関係はあるということです」と太字で強調してしまうことは拡大解釈であり結論のすり替えです。また、「2,数百人以上の回答者でないといけない」と主張する根拠は「大村の大学生のデータは平均を見ると差があるように思えるが実際には有意差が出ていない、これはデータが少ないからでありもし回答者が2倍以上であったら有意差が出る」ということですよね。これは回答者が2倍以上になっても同じ平均値になることを仮定しての議論ですが、これは机上の空論です。データ数が増えるほど一般に標準偏差と誤差は増大するためにもし平均値が同じになったとしてもそれだけでは有意差は出ないでしょう。また、松井氏のデータの分析で有意差が出ていない結果の順位を問題にしていますが、有意差がないということは血液型別の4群間に肯定率の大小の差はないということでその順番をいくら論じても無意味なのではないでしょうか?
他にもいろいろありますが、私のは管理人様がおっしゃるように「血液型と性格の関係が証明された」ようには思えません。まあ私は非科学的な臨床心理士だし大学の先生でもないし、わかってないこともわからない本質的な議論もできない者ですから、管理人様の崇高にして高度な理論を理解できないだけなのかもしれません。やはり血液型関連説を証明するためには、@血液型による複数回の同じ方向の有意差、Aその複数回の有意差と整合する血液型と性格との関連のメカニズムを説明する理論の整備、B理論から導き出した予測を支持する複数回の有意差が必要になるでしょう。その際のデータはランダム・サンプリングによるものが必要ですね。さらに能見説の検証になると、「A型の○○が**に作用するので¥¥な性格になる」ぐらいの理論化と証明をしてほしいですね。無能な心理学関係者に管理人様のお説を納得させるために必要なことは、血液型以外では全く説明できない複数回の同一方向の有意差を示すデータなのです。
臨床心理士のsimaです。
管理人様や最大素数様から「身体的魅力が高い者に好意を持つ」という研究結果は差別だとのご指摘をいただいておりました。私は社会心理の専門家ではないのですが、私見を述べさせていただきます。これらの研究の根底には「自分と同程度の社会的価値を持つ相手との交際が最も公平で快適だ」という公平理論があったと理解しております。身体的魅力だけに注目すれば「美人は美人と」釣り合うことになりますが、その他の要因を考慮すれば例えば「金持ちだがルックスの悪い人」と「ルックスはよいが金はない人」は釣り合うということになります。社会的価値を決める要因は外見や経済力だけではなく、性格のよさや様々な知識や能力、持ち物など評価者が価値を見いだすもの全てということになり、自分と釣り合うかどうかも評価者の主観的な判断ということになります。最大素数さんが指摘していたルックスがアンバランスなカップルはそれ以外の要因で収支を合わせてバランスを取っていると思われます。このように対人魅力研究では身体的魅力だけが突出した要因になっているわけではないのです。
ところで最大素数様は「身体的魅力を決めた意識は差別そのもの」とおっしゃいますが、もっと「差別的」な研究がありますよ。女性犯罪者の罪状を書いた紙と犯人の写真を見せて懲役何年が相当かを判断させる模擬裁判の実験です。写真により美人条件と不美人条件を操作してあります。強盗犯の場合は美人条件の方が不美人条件よりも被験者の解答を平均すると懲役年数が短いという結果でした。この研究から裁判での冷静な判断を求められる場合であっても外見の影響を受ける可能性を指摘することができます。市民陪審員制度を取っているアメリカではこの指摘は重要ですよね。私が取っていた社会心理学の先生はこの実験を紹介するとき、外見で他人を判断することがその人の一生を左右することもあるので、外見で他人を判断したり決めつけたりしてはいけないという趣旨のことをいっていました。このような問題点を指摘するための研究で「身体的魅力を評価すること」も差別なのでしょうか?人間の思考や行動の問題点、人々の生活に悪影響を及ぼす現象を指摘する研究も差別なのでしょうか?
確かに外見で人間を判断し序列をつけることはいけないことですよね。また学歴や年令、性別で個人を判断しその人が能力を発揮する機会を制限することもよくないことですよね。管理人様も最大素数様もそのような差別をなくすように積極的に声を上げて下さい。そして血液型で性格を判断されて不愉快な思いをする人が出ないように積極的に声を上げて下さいね。
PS.最大素数様へ:管理人様が出している情報だけ判断しているようでは管理人様に踊らされるだけですよ。管理人様と議論するにはご自分の主張の根拠ぐらいは確認しないと議論にならないのではないですか?
臨床心理士のsimaです。
「血液型と性格の正しい知識が普及すれば血液型による差別や偏見が減少する」という管理人様の主張の正しさをやっと理解できました。
管理人様は渡辺氏の研究から、血液型性格診断の知識があまりない人は「自分の血液型のものと判断した特性の確信度が高い→大きいほど自分に当てはまる→血液型で性格を決めつける→血液型だけで性格が決まると思っている」と解釈して上記の結論の根拠になさっていますが、この「血液型で性格を決めつける」以降は管理人様お得意の議論のすり替えですね。このデータはあくまでも「自分に当てはまるかどうかの判断」であって他人の性格を判断したり決めつけたりということではないはずです。にもかかわらず、管理人様のお説の正しさを確信したのは「血液型と性格の謎を推理する」を改めて読み返し、管理人様の主張する次のような正しい知識を理解したからです。
@ABO式血液型による性格の差はあるとは断定できない。
Aあるように見えても10%程度の差であり、誤差の範囲である。
B従って「A型は○○」、「B型は**」などと主張することはできない。
確かにこのような血液型と性格の正しい知識が主張すれば、「☆型は**だから嫌いだ」などという差別や偏見を持つ輩が減少することは確実でしょう。さすがに優秀な理系の管理人様ですね。正しい結論だけを提示しておいてそこへ至る道筋は自分で見つけろという深いご配慮、頭が下がります。どうか管理人様には正しい知識を普及させて差別や偏見を撲滅するためによりいっそうご尽力していただきますようお願い申し上げます。
どうもありがとうございました。心から御礼申し上げます。
■その17〜18について
私のつたない文章を読んでいただき、本当にありがとうございます。実は、そういう反論はほとんどなかったので、非常にありがたいです(お世辞でも皮肉でもなく、正直な気持ちです)。こういう論議があることによって、肯定・否定の両方とも次へのステップへと進むことができるのだとと信じています。
#ところで、私からの回答(その14について)のご返事があまりないようなのですが、気のせいでしょうか…。
さて、全体的な印象を述べさせいたただきます。私は、原則として具体的なデータに基づいて論理を展開しています。最初からケチを付けるようで恐縮ですが、データもなしに「○○でしょう」では、私にはコメントしようがありません。ですから、次回にでも具体的なデータを示していただければ幸いです。それだったら、何かしらのコメントができるものと思います。と言いつつも、気になった点をいくつか書いておきます。
1.ランダムサンプリング
極端な例を出しておきましょう。下の図をご覧ください。こういう場合は、血液型の差を見るのにはランダムサンプリングは役に立ちません。いや、逆に有害と言ってもいいでしょう。どの場合にどんな方法が有効かはケース・バイ・ケースです。simaさんには釈迦に説法でしょうが、そのための統計学なのですから…。ただし、下の図は実際にそうであるということではなく、単なる模式図です。念のため。
2.数百人以上の回答者でないといけない。
「『ランダムサンプリングではなく均質な集団の多数のデータ』という条件は有意差を強引に作り出すためのものでしかないように思います」とのことですが、となると心理学者の論文はほとんどダメということでしょうか?
3.能見氏の本の血液型別の特徴を質問項目とすること。
「『Oは独立心が強いが、弱い立場では依存心が強くなる』のような項目は不適切でしょう」とのことですが、上の図のような場合はどうなるのでしょうか?
「この質問では誰にでも当てはまってしまう」のでしょうか?
同様な例をもう一つ書いておきます(O型は人間は権力志向型なんだって−血液型性格学 別冊宝島6 『性格の本−もうひとりの自分に出会うためのマニュアル』 宝島社 S52.8)。 血液型別につかんだ特徴をあげると、 血液型気質学入門 |
次に、「詫摩・松井(1985)では能見氏の質問項目を使っていたのではないですか?」とのことですが、能見さんあるいは原論文は読まれましたか? もし読んでいれば、こんな疑問があるはずがないのですが…。確かに、詫摩・松井論文の質問項目には、「ルール、慣習、秩序を重視する」というような質問項目が存在します。これは、能見さんの「A型の主な特徴」に出てくるものです。しかし、能見さんはストレートに「ルール、慣習、秩序を重視する」という質問はしていません。なぜなら、能見さんは帰納的に「ルール、慣習、秩序を重視する」という結論を得たからです(この結論を得るためには、彼なりの観察やデータの積み重ねがあったはずです)。他の特徴や質問項目についても同様です。逆に、能見(正比古)さんが使っていた質問項目は、私が調べた限り1つも存在しません。
4.能見さんの血液型別特徴と結果は必ずしも一致しない。
上に述べたので省略します。
5.誤差をきちんと計算すること。
検定方法にはいろいろなものがあります。血液型については、通常はχ2−検定のようなノンパラメトリックな検定を使うのですが、パラメトリックな検定や、他のノンパラメトリック検定を使う方法もあります。実際には、ケース・バイ・ケースなので一概には言えません。
>この誤差の計算でなぜ各血液型のサンプル数を1/4としたのでしょうか?
確かに1/4にしたのは正しいとは言えません。実は、血液型別に書くのが面倒だからという理由です(笑)。必要とあれば、血液型別に計算をしてもいいのですが、結論は変わりません。
>肯定率の平均なら「幾何平均」を使うべきではないでしょうか?
「幾何平均」を使った方がよいとのことですが、これは意味がわかりません。ひょっとして、「加重平均」のことでしょうか?
はて?
実は、これも面倒という理由で単純平均を使っています(笑)。ただ、毎年のサンプル数がほとんど同じなので、結果はほとんど変わらないはずです。
>血液型と性格に多少関係があると思う人が50%弱いることから「つまり血液型と性格には強い関係はないにしても多
>少の関係はあるということです」と太字で強調してしまうことは拡大解釈であり結論のすり替えです
読めばおわかりと思いますが、アンケートのデータによる説明と、自己観察に基づく回答をマッチングしているだけです。決して、1つのデータで判断しているわけではありません。
>回答者が2倍以上になっても同じ平均値になることを仮定しての議論ですが、これは机上の空論です
とのことですが、他のデータでも同じような質問なら同じ傾向を示しています。従って、「回答者が2倍以上になっても同じ平均値になる」と仮定しても妥当だと思います。例を下に示します。
松井豊さんの論文からの抜粋です。データの再分析(その3) 1つだけだと信用しない人もいるようなので、もう1つの例を書いておきます。データそのものはすでに書いたのですが… 大村さんのデータでは、
松井さんの論文1のデータでは、
全く同じ傾向を示していますが、松井さんの方が6.4%も差が小さいのです。質問項目を比較すると、
太字が違うと思われる部分です。対象はどちらも大学生ですから、この差は質問項目によるものと判断していいでしょう。つまり、「人」といった抽象的な記述よりは、「仲間」という具体的な記述の方が差が出るのです。更に、松井さんは「方である」というあいまいな記述を加えています。この2つの違いが6.4%の差になって現れているのです(データのバラツキを考慮してもかなり大きな差です)。大村さんが能見さんの記述をダイレクトに使っているのに対して、松井さんはオリジナルな記述であることはいうまでもありません。 ついでに、松井さんの論文1の別なデータを見てみましょう。
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>データ数が増えるほど一般に標準偏差と誤差は増大するためにもし平均値が同じになったとしてもそれだけでは有意差は出ない
書き間違いではないでしょうか?
正規化すれば、標準偏差と(統計的な)誤差はサンプル数が増えるほど減少します。もちろん、いずれも絶対値では増大します。ですから、平均値が変わらないとしてもサンプル数が増えれば有意差が出ます。これは、計算すればすぐわかることですから、ケアレスミス(失礼!)なのでしょうか?
>松井氏のデータの分析で有意差が出ていない結果の順位を問題にしていますが…
ノンパラメトリック検定で、そういう方法もあるはずです(未確認)。また、χ2−検定は万能でありません。
>@血液型による複数回の同じ方向の有意差
>B理論から導き出した予測を支持する複数回の有意差が必要になるでしょう
上に書いたとおりです。
>Aその複数回の有意差と整合する血液型と性格との関連のメカニズムを説明する理論の整備
ということは、クレッチマーの体型説は、はじめから意味がないのですか?
メカニズムについては何も説明がありませんから…。
次は、ようこそ!!否定派からの抜粋です。
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■その19について
前半部分については、ほとんど同感です。後半部分については、私あてではないようなので、コメントは省略させていただきます。最後の「血液型で性格を判断されて不愉快な思いをする人」ということですが、半分賛成で半分反対です。個人が何を考えようが自由ですから、「血液型で性格を判断」しようが、「血液型で性格を判断されて不愉快」だろうが、私がどうこう言うべき問題ではないと思います。ただ、行き過ぎや差別があるとすれば、もちろん反対はします。ただ、現時点ではそういうデータが、「ランダムサンプリング」や「複数回の同じ方向の有意差」という条件を満たしていないということだけです。それと同時に、「血液型を有効に使って楽しい」人のことも考えていただきたいと思います。
■その20について
>このデータはあくまでも「自分に当てはまるかどうかの判断」であって他人の性格を判断したり決めつけたりということではないはずです。
確かにそうですね。ただ、他のデータだと、興味関心の度合いと知識問題の正解率にはあまり相関がないようなので(未確認)、そういう推測はできるはずです。
渡邊席子さんの論文からです。 ある血液型に当てはまる特定の性格特性が存在しているという信念は調査対象者間には共通しているが、「×型は△な性格だ」という明確な性格像は共有されていないといえる。 |
>@ABO式血液型による性格の差はあるとは断定できない。
>Aあるように見えても10%程度の差であり、誤差の範囲である。
>B従って「A型は○○」、「B型は**」などと主張することはできない。
@については、自然科学的には証明されていませんが、統計的にはほぼ証明されていると判断しています。Aの前半はそのとおり(ただし10%ではなく10〜20%)です、後半は今までに述べたように「誤差」ではありません。Bは、血液型による差はありますが、「決めつける」ことは不可能ですし、言葉で正確に表現するのは難しいということです。また、正確には、差があるのは「気質」であり「性格」ではありません。
どうもありがとうございました。
その22は、本当はその17の前に送っていただいたものです。私のケアレスミスで掲載するのを忘れてしまい、申し訳ありませんでした。m(._.)m
しかし、レス(その21)が付いてしまったので、番号を付け替えるとかえっとわかりにくくなってしまいます。そのため、その22として掲載させていただきます。どうかご了承ください。
臨床心理士のsimaです。
私からのメール17の前にもう一通送ったはずですが、届いていませんでしたか?
ところで管理人様は「血液型で不愉快な思いをしている人の存在を示す信頼できる統計的データがないから現段階ではそのようなことはあるといえない」という立場で一貫していらっしゃると理解しています。そのような人々の存在を示すことと「血液型と性格の関連を証明すること」は異なるはずです。聡明な管理人様ですのでご存じの上で私に課題を出しているのでしょう。「何かの被害にあった」という人の訴えを「それはまだ多くの人には社会問題として認識されていない、統計的に有意な数の人が被害を訴えているわけではないのでおまえが被害にあったと認めるわけにはいかない」として退けるのでしょうか?教えて下さい。
臨床心理士のsimaです。
しばらく仕事で忙しくこのサイトを覗く暇もなかったのですが、「心理学は科学ではない」というところにまで行ってしまいましたね。お見事としかいいようがないですね。
心理学も領域によって「科学度」が異なるといえます。生理・知覚・学習などの基礎心理学はデータの再現性も高く、最も科学度が高いでしょう。社会心理になると個々人の過去経験などの影響が大きくなりデータの再現性は基礎心理ほど高くはないことはご存じの通りですね。臨床心理学になるとデータの再現性だけでなく、論理的整合性も低いものが多くなりケースの主観的解釈が中心になるのが現状です。最も科学度が低い臨床心理学に携わる私が「理系」の方々を相手に心理学の科学性を云々するなどちゃんちゃらおかしいと笑われそうですね。別に私は心理学会の代表というつもりもないし本質的な議論も苦手なので、心理学の底辺に関わる者のぼやき程度として受け取って下さい。
私が思いますにどのような自然科学の領域でも基礎ほど再現性が高く、影響する要因が増える応用ほど再現性は低くなりますよね。例えば理系の管理人様の判断基準では基礎化学は自然科学でもデータの再現性が低い臨床医学・薬学は自然科学ではないということになるのでしょうか?はて....。
管理人様は「方程式で人間の行動が説明できなければ科学的とは絶対にいえない。そのような方程式は絶対にないので心理学は自然科学ではない」とおっしゃいますが、確かにそのような万能の方程式は私の知る限り現段階では存在しません。さらに「いくら勉強しても人間の行動を解けないから理系はがっかりして心理学に失望する」とおっしゃっていますが、それはお気の毒ですが心理学に期待しすぎたための失望というしかないですね。ただ管理人様のおっしゃる科学とは「過去の研究から公式化され完全な結果の再現性があるもの」であり、「未知の現象を解明しようという研究、従って公式化されていないしデータの再現性も低いもの」は科学ではないということになりますがよろしいですか?すると管理人様のおっしゃる科学とは「お勉強」レベルのもので「研究」レベルのものは科学ではないということになりますよね。
脱線しますが、オウムの信者に理系の優秀な人が多くて世間の人々を驚かせたことがありましたが、私は次のように分析します。「科学とはこういうものだ」と教え込まれた理系の優秀な人たちにも現実問題は科学的方程式通りにはならないしそもそも方程式すら存在しない。「科学とは」という意識が強い人ほど「科学」は無力と感じ、「科学では解けない方程式の答えを持っている」という詐欺師に盲従してしまったのでしょう。これは勉強はできても本当の研究をしたことがない人たちなのでしょう。まるで、問題集を解いていてわからないとすぐに解答を見ようとし、解答がついていないとパニックになる子供のようですね。
なに、ただのぼやきですよ。まだ続きますが、ひとまず送信します。
■その21について
大変申し訳ありませんでした。m(._.)m 私のチェックミスでしたので、どうかご容赦ください。また、番号の付け替えは行いませんでした。ご了承ください。
>「何かの被害にあった」という人の訴えを「それはまだ多くの人には社会問題として認識されていない、
>統計的に有意な数の人が被害を訴えているわけではないのでおまえが被害にあったと認めるわけに
>はいかない」として退けるのでしょうか?教えて下さい。
どうも誤解があるようですので、ここに補足させていただきます。まず、simaさんと共通の「差別」の定義をしないといけないと思います。普通の否定論者は、1人でも不愉快な人がいれば「差別」であるという論理です。しかし、私はそうではないと思います。simaさんはどうなのでしょうか?
井沢元彦さん(B型)の『歴史の嘘と真実』(祥伝社文庫 H9.7)から少々長いのですが、引用しておきます(24〜28ページ)。
ミス・コンは「女性差別」なのだそうだ。 もちろん、この民主主義の社会における人間は、どんな思想や信条を持とうと自由である。また自分の思想を「正義」だと思うことも自由である。 ただ、その「正義」を通すために他人の自由を侵害してばいけない。 ミス・コンが女性差別だと思うなら、それに参加しようとしている女性に参加しないように説得すればいい。ミス・コンの参加者は、強制的に集められているわけではない。あくまでも自分の自由意志で、参加したいから参加しているのである。だから、それをどうしてもやめさせたいなら、参加者および主催者にやめるよう説得すべきであって、それ以外の手段で妨害すべきではない。それは参加者に対する重大な人権侵害である。彼女たちは、自分たちが参加したいものに参加する自由があるからだ。(中略) ミス・コン反対者の中には、そもそも「女性の美」を競うことすら「差別」だと叫ぶ人々もいるらわしい。 しかし、そんなことを言うなら、「ソロバン日本一」を決めるコンテストは、人間を「計算能力」で差別するということになる。それどころか「オリンピック」も、人間を「運動神経」で差別する、とんでもないイベントということになってしまう。 人間には、さまざまな能力・属性があり、生まれつきのものもあれば後天的に獲得したものもある。それを比べてみたいという欲望も当然ある。 もちろん、本人の承諾もなしに、勝手に「美人」だの「ブス」だの決めつけることには抵抗があるだろう。しかし、何度も言うように、当事者が自由意志で参加するイベントは、法律に触れるようなものでない限り、他人が妨害すべきではない。「ミス・コンが女性差別だ」 とみなす自由はあるし、「女性差別を糾弾する」自由も当然ある。だが、同時に各人がコンテストに参加する自由もあるのだ。それを現場(注:言論?)以外の不公正な手段で妨害しようとするなど、真の自由も人権もわかっていないのだとしか言いようがない。(中略) 人間は、思想の自由を持つ。平たく言えば「何をどのように考えてもいい」ということだ。だからこそ、100人のうち99人までがそうでないのに残りの1人が「不快感」を抱くこともある。「自由」である以上、それは当然起こり得る。それゆえにこそ、そういう「少数者の不快感」を絶対化してはいけないのである。これは「少数意見の尊重」とはまるで意味が違う。この絶対化は、「お漏らし」(注:建設省が作った治水推進の細川ふみえさんのポスターが「お漏らし」に見えると問題になった事件のこと)のように良識ある人間は考えないことを、「正義」にしてしまうことになる。 それに、もしそれが許されるなら、世の中のことすべてに「インネン」をつけることができるようになる。 たとえば「オリンピック中止」や、サッカーの「カズ・ダンス」が体を自由に動かせない人にとっては「不快」だからやめろ、ということにもなりかねない。理屈と膏薬(こうやく)はどこにでもつく、のである。 ところが、実際には「少数者の不快感」が絶対化され、ますます推進されているのだ。個人の感性の差にすぎない事柄を人権の名のもとに告発するのは、かえって重要な人権問題である差別に対する国民の感性を歪(ゆが)めるのではないか。 |
もう1つの問題は、そのケースが「差別」であるかどうか、否定・肯定の両面からチェックしないといけないということです。このためには、伝聞証拠や自分の経験だけではなく、何らかの客観的な証拠・論拠が必要です。私は、否定論者に教えていただきたいと毎回お願いしているのですが、いまだに1件もそういうケースがありません。従って、現在の時点では「差別」が存在するとは言えないと思います。
#「差別」があることを否定しているのではありません、念のため。
■その22について
正直、ここで科学論議をするとは思っていませんでした。血液型と性格に直接的な関係があるとは思っていませんので…。とは言いつつも、せっかくのご質問ですので、できる範囲で簡単にお答えします。
「影響する要因が増える応用ほど再現性は低く」なるとのことですが、応用だから再現性が低くなるとは思えないのですが…。また、仮に再現性が低くても、そのために統計学があるはずです。なお、具体的なケースについては、私には医学・薬学の知識がありませんので、なんともコメントできません。ご了承ください。m(._.)m
次に、研究レベルのものは科学ではないではないかとのことですが、それでも「科学的」手法を使うことは可能でしょう。そして、その研究レベル(怪しげ?)のものの中から、次の科学的な事実が発見されることになるわけです。言うまでもなく、研究レベルのものでは「科学的に証明された」と言えないことは確かでしょう。つまり、(性格?)心理学には「万能の方程式は私の知る限り現段階では存在しません」ということですから、(性格?)心理学には科学的に証明されたものはないことになる…はずです。となると、現時点では(性格?)心理学は(科学的ではなく?)経験的に正しいことになります。
オウムについては、違法行為をしたかどうかが問題なのだと思います。科学との関連やその価値判断については、何も信頼できる情報を持っていないので、現時点ではお答えできかねます。また、何を信じようが何をしようが、違法でない限り構わないはずです。ただ、違法行為があれば、法に従って処罰すべきなのは当然です。
#オウムを弁護しているのではありません。念のため。
乱筆・乱文ご容赦ください。
最大素数さんからのメールです。
うーむ、他のページをずいぶん「勉強」したご様子、「管理人様」になんと言わせるおつもりか、楽しみですねえ。「まあこれもぼやきですよ」などと言いながら、着眼点は悪くないと思いますよォ。ただし、「心理学」の「復習」がもう一息かなー。やっぱり、わたしなんぞが「心理学の知見」などと振り回すのとは違って、ご自分の「専門」ですからしんどいでしょうね。でもでも、simaさん、真面目な方なんですねえ、ちょっと「sima像」を修正します。(^^;
でも、そのせいか、イヤミやおちょくりはあまり上手ではありませんね。正攻法だけではご不満ならば、「慇懃無礼」の線でいったほうが良い味でるんじゃないかと思いますよ。
そんなことより、わたし宛にメール頂いてしまいましたからね。「管理人様」宛のメールの中にはわたしも関連していそうなものもありますが、ここはわたし宛分について述べることにします。「名無しの心理学者」だったのがハンドルで呼んでいただけるようになり、「心理的に」エラクなったような気がしてしまいます。(^^;
『恋こごろの科学』を巡って
>管理人様や最大素数様から「身体的魅力が高い者に好意を持つ」という研究結果は差別だとのご指摘をいただいておりました。
とりあえず、はっきり言っておきたいことは、わたしは「研究結果は差別だ」ということは言っていませんし、「差別的な研究」についての良し悪しも(まだ)言っておりません。このへんは後段の「差別意識について」で述べさせていただきます。
先に、内容の受け取り方について確認しておきます。
>最大素数さんが指摘していたルックスがアンバランスなカップルはそれ以外の要因で収支を合わせてバランスを取っていると思われますわたしのメール(その11)へのowadaさんのコメントも、「身体的魅力だけでは"決まらない"」で締められしまっていますが、おふたりとも、この研究の内容をご存知なので、詳細を知らなかったわたしの錯誤に気がつかなかったのではないかと思いました。わたしはこの研究のことは知らなかったので、「初対面」から「6か月後」の期間限定とは思わなかったのです。で、
>「身体的魅力がアンバランスなカップル」のほうが多いような気がしますが・・・
というのは、「でも、それだけでは"決まらない"のですよね」と言ったつもりでした(ただし、「乏しい見聞と偏見によれば」=「確証が有るわけではない」)。つまり、「カップル」の対象が、初対面級から、銀婚式級まで、ひっくるめて考えてしまったのでした。身体的魅力に応じてできるカップルがそのまま"決まる"(=結婚まで進む)わけじゃないですよねえ、と言いたかったのでしたが、教えていただいた(実際の調査)内容を見たら、ちと、勘違いしてしていたことに気が付いたのです。わたしのメール(その12)の「そういうことだったのですね!」は実に"そういうことだったのです"。いちいち説明するほどのものでもないと思いましたし、owadaさんのコメントでの日本での類似調査例がものすごく面白くて、ま、そのままにしてしまいました。が、こうして、お二人からそれぞれ丁寧なご説明を頂いてしまったので、もう一度よく考えてみました。owadaさんは、わたしの疑問(「身体的魅力が・・・気がしますが・・・)が事実関係の不明によるものと解釈されて具体的にデータを提示して下さったのですね(ありがとうございました)。simaさんは、わたしが「そういう研究は差別である」と、研究そのものも、その「結果」も否定しているようにご理解なさったようですね。「その他の要因を考慮すれば・・・わけではないのです。」と丁寧な解説、ありがとうございました。勿論、内容はよく分かります。それはそれとして、simaさんは、カップルというのはそれなりに相互に評価しあって落ち着くところに落ち着くもの、というように見ておられるようですが、わたしは、殆どの場合「美しき誤解」の結果ではないかと思っています。蛇足ながら申し上げておきますが、これはカップル成立の「否定」ではありません。(^^
差別意識について
まず、一般論として、血液型と性格関連説が差別を生んでいる、という批判での決まり文句に「根も葉もない俗説で差別されるのはたまらない」とか「ウソであることを知らしめることで差別の元を減らすことができる」といった言い方があります。
まったくねえ、根も葉も無かろうが、根拠があろうが、「差別」がいけないんでしょう?血液型と性格の関連が明らかになったら、それによる「差別」は仕方がない、ってものではないでしょう?
正しくは"「差別」がいけない"のではなく、「よくない」「区別」を「差別」と言います。(「よくない」「区別」とは、とりあえずの原則論で分かりやすいところで言えば、区別される側が望まない「区別」や、区別される側が不利益を被る「区別」、でしょう、が、さしあたって詳細な定義は不用と思います)。ですから、全て(と言い切ってもいいか?)の「区別」の概念は、「差別」になりえます。即ち、「区別」が問題なのではなく、それが「差別」に転化する「構造」や、「差別」に転化させる「意識」が問題なのです。
仮に、本当に"仮に"、「血液型性格関連説」が、根拠のない「ヨタ話」だとしましょう。だとして、差別を生む構造が存在しない社会で、血液型と性格の「ヨタ話」を楽しめる社会と、差別の元となりそうな話題は統制される社会と、simaさんは、「心理学」は、どちらを「良し」とするのでしょう。っても、ま、「心理学」がそんな視点で発想したことはなさそうですが、「心理学」が「人間の生活から不利益の種を減らすことや啓蒙活動」と無縁の学問ではないのなら、是非御一考願いたいです。わたしは勿論、前者を支持します。差別を問題にするならば、「血液型性格関連説」が「ヨタ話」であろうとなかろうと、「差別を生む構造が存在しない社会」の実現だけを考えるべきでしょう。
というわけで、わたしは実は「差別的な研究」それ自体を否定しません。simaさんは「問題点を指摘するための研究」や「人間の思考や行動の問題点、人々の生活に悪影響を及ぼす現象を指摘する研究」も「差別」か?と、ダメなのか?といろいろ限定していますが、研究そのものが差別であろうとなかろうと、どのような研究でも、行われて構わないと思っています。そうした研究結果が実際の差別に転化しない、実際の差別を強化してしまわない社会構造かどうかを問題にしたいのです。
さて、そこで「心理学」です。わたしが考えるに、「差別」を無くす方法が求められている中で、そのために、ではそもそも「差別意識」とはなんぞや、というあたりが「心理学」の守備範囲ではないかと思うのですが如何でしょうか。そして、その「差別意識」は人間心理の普遍性と特殊性の中でどのように生まれ、存在するのか、といったあたりを解明し、「差別意識」を克服したり、それから解放されたりし得るものなのかどうか、克服なり解放が可能ならば如何にしてなし得るか等々について考察・研究することが「差別」解消にあたって「心理学」に期待される役割ではないでしょうか(違うかしら。違うとすると、そういうことを期待できる学問分野ってなんなのだろう)。ま、私見「心理学の役割」の妥当性はともかく、個々の「差別」を取り上げて、根拠の有無がどうのこうの言うのって、少なくとも「心理学」が出る幕じゃないように思います。あ、勿論「心理学者」としてではなく、シロートの「ヨタ話」として言い募るのはアリでしょうね。
あまり詳しく話してはいられませんが、わたし自身のこれまでの考察によれば、アイデンティティの確立と差別意識は、多分切り離せません。例えば、憎む気持ちの一つの極限は「殺意」だと思うのですが、これは「命の尊さ=かけがえの無さ」を知っていればこそ、最高のダメージとして認識できる結果なわけです。短絡的に言ってしまえば「命の尊厳」を学ぶことは憎しみの極限の感情としての「殺意」を学ぶことになりかねないのです。逆説的に言えば、「憎しみの極限の感情としての殺意」を抱けるようになれば「命の尊厳」を理解できたことになるのかもしれません。って、まあ、この辺は極論としても、「アイデンティティ」が自己と他者との「区別」の認識無しには成り立ち得ないことを考えると、その「区別」がほんの僅かの「優劣」意識と繋がってあっさり「差別意識」に転化してしまうことは避けがたいのではないか、と愚考するわけです。従って、わたし自身は、差別意識の解消とか、解放は、無理なのではないかと思っています。
が、勿論これは「人間心理」の素人の「愚考」に過ぎない可能性が高いのかも知れず(実は「アイデンティティ」が確立しきらないからその区別が差別になるんじゃないか、とかね)、なにはともあれ、「専門家」にちゃんと考察してほしいのです。それなのに、「差別意識」は(解消云々は置いといても)「心理学」の問題であるはずなのに、「心理学者」が、特に自分自身の差別意識にあまりに鈍感のように見えることが極めて残念なのです。で、まあ、特に心理学者の差別意識をあげつらっているわけですね。
差別の解消に向けて
差別意識の存在は否定できないのならば、それが現実の差別に至らない方策を講じるしかないのではないか、というのが、今とりあえずのわたしの結論です。「殺意」は否定せず「殺人」に至らなければよいとすることと同じです。これは「人間は精神的に完全に自由であるべき」というわたしの基本理念と通じることでもあります。(「殺人」の防止策としての法制に倣うかどうかということはまた別問題かと思いますが)差別意識を差別に至らせないための基本として、わたし達一人ひとりの差別意識を自己認識することが必要であろうと考えています。個人個人でずいぶん違うものですよ、差別意識って。先のわたしのメール「クレッチマーの想い出」では、わたしの差別意識の一端を漏らしてしまいましたが、どういう「意識」の故か、「専門家」のsimaさんにはバレバレでしょうか。
そういうわけでも、とりあえずのところで心理学者の差別意識をつつくのです。ちなみに、「身体的魅力・・・」の心理学者でいえば、「身体的特徴には"優劣"がついて当然」という意識があるので「相手を選ぶときの評価のひとつ」としてごく自然に「身体的魅力」を選んだのですね。ごくごく一般的な差別意識ですから、心理学者さん、無警戒に露呈してしまいましたね、とつついたわけです。で、まあ、そういうツッコミっこは、心理学者の間ではもっと頻繁におこなわれてしかるべきではないか、と、行われてほしい、と、思うわけであります。
差別を産む環境条件(こういう発想は理系バカ、っすかねえ)は、少なくとも一因として、「多数=善」という(かなり強固な)社会通念にありそうです。「最大多数の最大幸福」!(うふふ、古典ですね)、民主主義(=良い仕組み)の基本は多数決、ごく普通の生活レベルで言えば「寄らば大樹の陰」。最初のメールでsimaさんのクライアントについて「既婚者」=「多数派」=「善」の意識を指摘しましたが、ノー・コメント、うぅむ、これは的外れでしたあ?
本質論だけではなく、「現場」論についても話しておきましょう。心理学者には、即、してもらわなきゃいけないことがあります。あのね、「神経質」という言葉がどれだけ「差別」的に使われているか、少しは反省しなよねー。もともとは(精神)医学用語かもしれませんが、普及したのは性格用語としてでしょう。「あいつ、結構シンケイシツだよね」という使われ方を憂えてほしいのですね、「心理学者」として。他にも、性格用語がつくり出している差別があると思います(って言っても、例はもうあげません。だってわたし自身の差別意識が反映しちゃうから恥ずかしいです)。つまり、「心理学者」は「血液型性格関連説」に「少数差別」などと、新しい差別の概念を押しつけて、少数派の血液型の人達を不幸にするようなことはさっさと止めて、「心理学」が産んだ「差別」の後始末に取りかかるべきです。
「血液型性格関連説」と差別
わたしは、「多数=善」意識が産む差別が結構ある、と本気で思っています。社会生活において、「社会参加」とは「社会のルール」を尊重することと殆ど同義で、社会への参加意欲、社会奉仕意欲はあるけれど、不必要としか思えない規則に束縛されるのは大嫌い(社会のルールに無頓着)などという意思は殆ど認められていません。「規則がうるさい、なんて、本当は社会奉仕がイヤなだけだろう」ってなことで、「ダメ人間」・「嘘ツキ」扱いされます。(能見)正比古説によれば、このような「社会のルール尊重意識と社会参加意識が連動しない」感覚はAB型(とBにもやや?)特有といっても良いらしいのですが、もし、本当にそういうことならば、「社会参加」をタテに無用かもしれない規則を押しつけ、あげく、参加の機会を奪ってしまう、といった差別を一つへらすことができることになりませんか。
「血液型性格関連説」は新しい「区別」の提案ですから、「差別」として機能させることが可能ですが、その「新しい区別」によって「従来の区別が産んだ差別」を解消させられるかもしれないのです。
なお、
>血液型で性格を判断されて不愉快な思いをする人が出ないように積極的に声を上げて下さいね
とのことですが、はっきりいって、わたしは、「肯定派の人に、そんなことはないと仰っていただくよう」な手間はかけません。血液型や質問紙などで性格を判断するような人には、面と向かって、きっちり、その間違いを指摘しますよ。特に「性格心理学」で分かるようなことを言う輩には、ついマジになってしまいます。
Re:PS.
これって、やっぱり「ご忠告」ですよねえ。うふふ。ありがとうございます。
「踊らされる」ということで言えば、わたしの大きな不満は「心理学の知見」では「踊れない」じゃあないのっ、てことなんですが、そういう風には読めませんでしたでしょうか。それと「管理人様と議論するには」否定派に余計なちゃちゃを入れさせたくない、という、わたしの意識のほうが問題でしょうね。議論になりにくいとしたら、やはり、大筋では一緒だからじゃないかと思いますが、折角ですから、「自分の主張の根拠の確認」は怠らないように致します。
さて、それはそれとして、これは、「管理人様ならびに最大素数様へ」として、「能見正比古様が出している情報だけで判断しているようでは能見正比古様に踊らされるだけですよ」とした方が、より、simaさんの姿勢に合いませんか?またその方が、お言葉に、より一層深みが増したことと思います。
【閑話休題】 -- H11.3.11 ここで、simaさんにちょっとチャチャを入れておきましょう。とは言っても、simaさんから回答をいただくつもりは全然ありません。このページを読んでいる皆さんに面白がっていただければそれで十分です。(^^) 心理学専攻の学生は、(なんと!)80%以上が血液型による「差別」を肯定しています。なぜなら、心理学専攻の学生の間でも、血液型は楽しいものだからです。詳しいデータは、ここをクリック! ここでは、50%以上の肯定率の項目だけを元の表から抜粋しておきます。
この2つの表は、Table 1は「血液型は差別である」という講義前、Table 3はその講義後の女子大生へのアンケートです。講義前は80%以上が楽しいと答えていますが、講義後も60%以上が面白いと回答しています。もっとも、講義後のデータは、単位を取れるかどうかということもあるので若干割り引いて考える必要がある(?)でしょうから、まあ70〜80%の人が「楽しい」と考えていると思ってもいいでしょう。また、上瀬さんの別な論文では、やはり70%以上の回答者が「楽しい」と答えています。これは、別の多くのデータとも一致します。つまり、「差別」なんていう人よりも「楽しい」という人が圧倒的に多いのです。また、Table 1にもTable 3にも「差別」という選択肢がどういうわけか(?)ありません。ワザと入れなかったのか、それともあまりにも数が少ないと思ってデータが書いていないのか…。いずれにせよ、「差別」は示唆的なものであっても、直接的に証明されているとはまだまだ言えないと思うのですが。:-p さらに、複数のHP&メールからの情報によると、心理学専攻の大学生(特に女子大生)の間では血液型は大人気のようです。コンパでは、必ず自己紹介で血液型を言そうですし、友達同士では血液型の話題で盛り上がっているそうです。まぁ、事実を確認していないので、これはあくまでも伝聞情報にすぎませんが…。しかし、上のデータを見ると、確かに当たっていると言えそうです。 仮に、これが本当だとすると、心理学専攻の学生のほとんどは「差別的」ということになります。いずれにせよ、心理学の講義は、血液型による「差別」をなくすことには、ほとんど役に立っていないわけです。面白い(?)ことに、なぜ役に立たないのかについての分析はありません。:-p もう1つ、皆さんへのお楽しみを提供しておきます。私は、simaさんはA型だと推測しています。まぁ、確たる証拠はありませんが、経験上simaさんのようなタイプはA型が多いのです。さて、当たっているかどうか…。私のことですから、当たっていなくとも全く不思議はありません(笑)。実は、私からの回答(その4)のその9についてで、当たらない理由を説明を説明して、事前に予防線は張っているのです(笑)。ちなみに、 私が人の血液型を当てる確率は、せいぜい5割です。(^^;; 別のデータも書いておきます。ここでも肯定率50%以上のものだけ抜粋しておきます。
この中で太字に注目してみてください。同じ血液型だから性格が同じと思っている人はごく少数であることがわかります。血液型で性格が違うと言っても、だいたいこんなものなのです…(笑)。 |
最近、読者から何通かのメールをいただきました(どうもありがとうございます)。そのメールに触発されて、私なりに「simaさん」の謎を推理してみたので、お遊びとして公開させていただきます(読者のメールから一部のアイデアはいただいていますので、ここに深く感謝します。m(._.)m)。とは言っても、「simaさん」が誰だろうが血液型と性格には関係ありませんし、この点についてsimaさんからコメントをいただこうとも思っていません。読者の皆さんに私の(迷?)推理を楽しんでもらえれば十分満足です。(^^)
さて、 本当に「謎はすべて解けた」のでしょうか?
判断するのは皆さん自身です。
では、スタート!
ご存じのように、「謎はすべて解けた」は『金田一少年の事件簿』の有名な台詞(せりふ)です。本物の『金田一少年の事件簿』では、謎は最後まで明かさないのですが、ここでは読者サービス(?)として結論を最初に書いておきましょう。
ズバリ、simaさんは1人ではありません。『金田一少年の事件簿』を読んだ人ならわかるはずですが、「複数」の犯人(決してsimaさんが「犯人」という意味ではありません!)というのはよくあるケースです。普通の読者は、犯人は「1人」と思い込んでいるので、アリバイが成立してしまうことになります。実は、「simaさん」も複数である可能性が高いのです。では、これから、その理由を皆さんと一緒に推理していきましょう。
まず、メールのタイムスタンプに注目してみましょう。特徴的なのは、ほとんどが深夜の時間帯ということと、たいていの場合は間隔が2、3日ぐらい開いているということです。また、1回の分量もかなり長いことがわかります。そこで、下に1回(同時に複数通の場合も1回と数えます)ごとのタイムスタンプを調べてみました。
2、7、9は、1日間隔でメールをいただいていますが、この場合は分量は短いのです(1回に1通のみ)。一番妥当な推理は、私にメールを送信している(=パソコンを操作している)人と、メールの本文を書いている人が違うというものです。なぜなら、普通の人はこの時間帯には寝ているからです。仮に、大学(院)生やフリーのような人がパソコンを操作しているとすると、うまく辻褄が合います。
#もっとも、寝る時間は人それぞれですし、私もこういう時間帯に起きていることもあります…(笑)。
これには、もう1つの推理も成り立ちます。普通の場合は、メールは(勉強や仕事が終わった)夜中に書いて送信します。ですから、複数の人からメールを受信し、「simaさん」が実在の1人の人間に思えるように文体を統一し、まとめて私宛に送信するとなると、どうしてもこんな時間帯にならざるをえないのです。
#もう少し後に出してもいいのですが、そうすると少なくとも半日は遅れてしまいます。
#少しでも早く反論したいのが人情ですから、普通はそんなことはしません。少なくとも私はしません…。
複数の人が書いているとすると、(勉強や仕事の)都合で翌日に返事が書けない人もいるでしょうから、1日間隔のメールに長い分量のものがないというのも納得できます。例えば、8のケースでは、今までで一番長いメールをいただいています。これは3月5日の夜に「しばらく返事が来ないのでこのコーナーを終了する」という趣旨のメッセージを私が掲載したからです。つまり、このメッセージを読んでから返事に2〜3日程度はかかったことになります。メールの分量といい、返事の間隔といい、どうやら私の推理が(うまく?)当たっているように思えます…。
次に、その4で、「私のことやクライアントの実在に関していくら卑怯だと言われてもこれ以上の情報を出すつもりはありません」とのことですが、どうやらこれは図星だったようです。なぜなら、「simaさん」が実在の人物だと仮定すると、この文章は非常に不自然だからです。もし、私が「管理人さんは実在の人物ではないでしょう」とか「複数の人が書いているのでしょう」言われたら、思わず吹き出してしまうことでしょう。そして、文章にも、自然とそういう感情が表れるはずです。しかし、そういう形跡は(全く不思議なことに?)全然ありません。となると、やはり「simaさん」は実在しない可能性が高いことになります。
これを裏付ける(?)かのように、「simaさん」からのメールは、毎回「臨床心理士のsimaです」という書き出しで始まっています。最初の何回かならわかりますが、毎回同じことを書くのはかなり不自然です。もし、「simaさん」が実在の人物である証拠を示そうと意図しているなら、これまたうまく説明できることになります。
では、仮に「simaさん」の実体が複数の人物だとすると、具体的にどういう人が考えられるでしょうか? まずは、その2に登場した社会心理学者です。そして、同じ社会心理学者かどうかはわかりませんが、「富士短期大学には心理学科は存在しない」ことや「都立大の心理学科は1学年20人程度」ということがわかる人です。これは、まず間違いなく大学関係者でしょう。あるいは、「○○氏の一節を持ってきて『そもそも心理学の性格検査自体信頼性が低い』と主張して検証を拒否し」と(かなり感情的に?)書いているので、○○氏の関係者という可能性もあります(私は別に「心理学の性格検査自体信頼性が低い」とは思っていません。ただ、統計的に考えると、たとえ差がないとしても血液型性格関連説を否定できない、とは思っています。)。また、「私が心理学科の学生だった80年代前半」ということですから、年齢もある程度は推定できます。それと、大変失礼なのですが、「simaさん」は、統計にはあまり強くはないようです。少なくとも、統計に関する文章を書いた人と、文体のチェックをした人はそのようです。もっとも、これら全員が同一人物であるかどうかはわかりません…。
#実は、以上の情報から「simaさん」の可能性が高い「ある人」が推測できるのですが、名前はあえて書きません。(^^;;
#この人はA型である可能性が高い、とだけ言っておきます。
ところで、日本人の38.1%がA型です。「simaさん」が複数の人物だとすると、2人ともA型でない確率は38%、3人ともA型でない確率は24%となります。となると、「simaさん」がA型であるというのは、かなりの確率で当たることになります(笑)。『閑話休題』を書いたときは、そんなことは考えてもいなかったのですが…。いや、「simaさん」の血液型が「不明」なのは、複数の人物だからかもしれません…。はて、正しいのは一体どれでしょうか? それとも、全部が間違っているのかもしれません。f(^^;;
*−*−*−*−*−*
以下は、『ABO FAN』の方針である「公開された情報の判断は読者にお任せする」からは外れますが、少々気になったので書いておきます。
私は、今までの経験からして、「simaさん」からのメールは、せいぜい2、3回でおしまいになると思っていました。というのは、私が「simaさん」の質問にほとんど全部答えている(つもりである)のに対して、「simaさん」は私の質問にはあまり答えていただけない(と私は勝手に思っている)からです。
仮に、前述のように、パソコンを操作している「sima」さんと、メールを書いている「simaさん」が違うとすると、この文章はパソコンを操作している「sima」さんに読まれているわけですから、その人に「回答がない」といっても迷惑なだけですね。回答をしないのはその人の責任じゃないのですから…(失礼!)。
#それは事実と違う!という反論も、もちろんあることでしょう。
#そういう反論自体は否定しません、念のため。
普通の匿名の人が相手の場合は、すぐ返事をもらえなくなってしまいます。(勝敗は別として)私と議論しても、相手にとっては何の得にもなりませんから…。しかし、その得にもならないことを長期間続けるということになると、何らかの強い動機があるはずです…(え、それじゃ、私はどうなのかって? それは…f(^^;;)。
#非公開のメールの場合はまた別ですが、このページは基本的にオープンです。
しかし、「simaさん」は違いました。もう1ヶ月以上になりますが、まだまだ反論のメールが来るはずです。どうも不思議だと思っていたのですが、「simaさん」が実在の人物でないとすると、これまたうまく説明できます。前述のように、「simaさん」の実体が、複数の臨床心理士(?)や社会心理学者である場合です。つまり、匿名かつ複数で『ABO FAN』に対抗(?)しようということです。そして、「勝つまで続ける」という何らかの強い動機があるとすると、更にうまく説明できる…はずです。
#万が一そうだとすると、私としては非常に名誉なことだと思っています。(^^)
#もっとも、私の勝手な勘違い&考えすぎの可能性が非常に高いです(苦笑)。
もちろん、読者の皆さんにもおわかりのように、そうである確率は非常に小さいのですが…。万が一(本当に万が一ですが…)仮にそうだとすると、「匿名の臨床心理士」を名乗るのには、いくつの理由がありそうです。まず、「simaさん」が実在の人物だと読者の誰もに思わせることです。となると、「simaさん」の実体は、別に臨床心理士でなくともいいわけです。実在の人物なら、毎回のように肩書きを名乗るのは非常に不自然ですし、匿名だったら普通は肩書きは名乗りませんし。もう1つの理由は(もちろん万が一ですが)、私に勝てなかったり、あるいは引き分けになったりしたら、メンツがなくなる(失礼!)からです。
う〜ん、やはり考えすぎというものでしょう…。皆さんはどう思いますか?
ところで、「sima」さんの名前ですが、実体である複数の人の略号かもしれません。だから、「shima」ではなくて「sima」なのではないでしょうか? となると、人数は4人(以下?)ということになります。
最後に一言だけ。この項目は、simaさんからのメールだけ(=公開情報)に基づいて私が独自に推測したものです。もちろん、私の推測が当たっているという保証は全くありません、念のため。繰り返しになりますが、最初に書いたように、「simaさん」が誰だろうが血液型と性格には関係ありませんし、この点について「simaさん」からコメントをいただこうとも思っていません。なお、simaさんには失礼のないように書いたつもりですが、不行き届きの点はどうかご容赦ください。
#simaさんが、自分自身の実体を推測してほしくないということなら、もうこれ以上はもう書くつもりはありません。
#また、この項目に関してだけは文章の添削には応じるつもりです。そういう場合は、お手数ですがご連絡ください。
#どうかよろしくお願いします。m(._.)m
それでも、読者の皆さんに面白いと思ってもらえるなら、私にとってはそれで十分です。(^^)
いずれにせよ、「simaさん」の次の返事を待ちたいと思います。 -- H11.3.14
最大素数さんからのメールです。
いやあ、ズバリ切り込みましたねえ(笑)。
>
「○○氏の一節を持ってきて『そもそも心理学の性格検査自体信頼性が低い』と
> 主張して検証を拒否し」と(かなり感情的に?)書いている
のくだりは、owadaさんと「心理学者」の過去のやり取り・アレコレを偲ばせますね。(^^;
simaさん、また、間が空いているようですが、ご「出張」でしょうか・・・
。
この間に乗じて一言申し添えたいのですが、simaさん「達」、結局「関連」の否定の理由は、「サンプリング」方法だけ、のように見えちゃうんですけど、どうなんでしょう。差別がどうの、「管理人様の論理」がどうした、って、だから「話題にしたくない」とか「主張を認めない」とは言えても、「関連」の否定にはならないと思うんですがねえ。
「私の実体について、想像で決めつけておられるところはさすが血液型性格診断擁護派ですね」とかなんとか(笑)復活の折りには、その辺、もう少し論点を整理した鋭いツッコミを伺いたいです。ついでにもう一言、「専門家」として「心理学」にもっと自信を持ってもいいと思いますよ。(^^
ちょっとだけコメントしておきます。
>いやあ、ズバリ切り込みましたねえ(笑)。
あくまでも、余興です(simaさんには失礼かもしれませんが…)。ですから、simaさんからの回答は求めていません。とは言っても、回答をいただくことを拒否しているわけではありません。
>>
「○○氏の一節を持ってきて『そもそも心理学の性格検査自体信頼性が低い』と
>> 主張して検証を拒否し」と(かなり感情的に?)書いている
>のくだりは、owadaさんと「心理学者」の過去のやり取り・アレコレを偲ばせますね。(^^;
どうも、議論よりは「神学論争」、冷静というより「感情論」になる傾向があります(苦笑)。自戒の念を込めて…。
参考までに、心理学者の反応から抜粋しておきます。再び井沢元彦さんの『穢(けが)れと茶碗』からしつこいようですが、井沢元彦さんの『穢(けが)れと茶碗』からも引用させていただきます。
しかし、アメリカでも同じようなマンガがあるという疑問に対しての反論が次に書かれています。
これも解説は不要でしょうが、余計なことをちょっと。まず、私の統計的な反論や論理構成については、メールやネットサーフィンをした印象では、(大変僭越な言い方ですが)否定論者も含めて、かなりの人が「否定はできない」と思っているようです。しかし、「能見血液型人間学」は「悪」なのだから、私が「『差別』は本当にあるのでしょうか?」「○さんと△さんの分析結果は矛盾するのではないでしょうか?」「なぜ返事がもらえないのでしょうか?」「生化学的な否定は可能なのでしょうか?」などと言えば、「おまえは能見の味方か、否定論者はみんな一生懸命やっているのに、どうして余計なことを言うのか」と非難されるということになるはずですし、現にメールやホームページでもそう非難されています。(^^;; #でも、そうなると、反論をしないで無視するということが、私に対しての最大の反論なのでしょうか…。はて? -- H10.9.23 |
>結局「関連」の否定の理由は、「サンプリング」方法だけ、のように見えちゃうんですけど、
普通のケースはそうです。ただ、simaさんの否定論の根拠は、正直に言うといまだによくわかりません(苦笑)。否定の論理構成は、どうやらその18のようですが、私の再反論への回答はないようですし…。
最後にちょっとだけ。
大村政男さんの新訂『血液型と性格』を読んで興味深い記述を発見しました(217ページ)。
否定論者は、一部の例外を除いて、「わたくしの批判を無視し」「貝のように殻を閉じ」ています。結局、反論のメールがないということは、性格心理学的な説明によると「欲求不満や葛藤のときの反応」ということのようです。なるほど、そうだったのか…。 #ついでに、「長期出張」という理由も付け加える必要があるようです…。 |
という表現、「ABO FAN」サイトでもよく使われていますが、少々気になってます。
正比古氏のスタンスで最も印象深かったのは、「◯型は◯◯」という発想にはまってはいけない、という表現でした。家庭の事情で本を倉庫に詰め込んでしまい、手元に原本がないので正しい引用ができませんので、細部には思い違いがあるかもしれませんが、大意は外していない・・・
筈、ということで続けます。
『お土産を買わないAB』の項にも書いてあったと思うのですが(他の項目でもだったか、詳細失念)、「だからといってABはお土産を買わないと決めつけたり、ABのくせにお土産を買うのかなどと言ってはいけない。何型だろうと、旅行の際にはお土産を買うというほうが多数派なのだ。AB型でも、勿論買う派のほうが多いのである。しかし、理由は様々でも一部にガンとして買わない人達もいる。これは、お土産は日本における旅の文化でもあることを考えると、"特徴的"なことであろう。そうした"特徴"に注目して調べてみると、とても偶然とは言えない確率で、AB型が多かったということなのだ」おおよそそのような意味のことが書いてあり、いたく感動したものです。これは正比古氏の慧眼の一例でして、「血液型〜」だからというのではなく、性格類型を考えるときの普遍的な「立脚点」ではないかと思っています。確かに"特徴"というくらいなのですから、本来「少数派」である筈なのですね。
ま、確かに「◯型は◯◯な性格/傾向」という発想は「自然」(性格心理学の悪影響だと思っていますが、それは置いときます(^^;)で、わたしも、つい、そう言ってしまうのですが、なるべく「で、◯◯は◯型に多いのか?」と考え直すように気を付けてはいるつもりなのです。
「◯◯は◯型に多い」と「◯型には◯◯が多い」の違いは自省や他者の観察の際にも大切です。"◯型の自分/人は実際◯◯で、よく当てはまるので"関係ありと思うようになった人と"◯型だけど◯◯にあてはまらない場合があまりに多いので"信じないという人とは、実は差がないのではないかと思っています。
「◯型は◯◯(な傾向)」という発想では、まず「◯型は」というところで対象が確定してしまうので、後は「◯◯(な傾向)」かどうかの比較だけになり、心情的に信じていると、多少無理があっても"当てはめ"、信じたく無い人の場合は当然多数派の"あてはまらない"側に目が向きがちになる、といったバイアスがかかり易いのではないかと見ています。
初めに「◯◯は」と、性格表現が来ると、これは結構考えます。「社会の規範を重視するほう」か?と訊かれて、即答できるのは、不断からそういうことを意識し、考えている人だけでしょう。つまり、普段から自分で意識したり、考えたりしている性向でのみ、判断することになり、その場合の結論は割と信頼できるんじゃないでしょうか。(このサイトへのメールでも、特にAB型の人が、「なんか、私だけ◯◯で悩んでいたけれど、AB型だからということだったのですね」という感慨を述べられていることが多いような気がしますが、そういう感想は結構あてになるように思います)単なる血液型話しであっても、お土産の例で言えば、旅行は好きでないというAB型が「AB型はお土産買わないってホント?」ときかれても困るでしょう?まして「行ったとしても買わないんだってよ」なんて決めつけられたら不愉快ですよね。
「旅行に行ったときお土産は買う方?」と訊かれたのなら「旅行は好きじゃないからなあ」ですむ話しでしょう。「買う」と言えば、それは多数派、当たり前だし、「買わない」と言えば、それはそれで盛り上がれば良いわけです。
否定派には「結局後付けではないか」などと言う人がいて、しかもそれが「心理学者」だったりするものだから腹が立つわけですが、「後付け」が何故良くないのでしょう。「性格当て」や「血液型当て」にどんな意味があるというのでしょう。勿論、ある程度つきあいが進んで、考えや行動の特徴が見えてきて、それが血液型による特徴と近いことがあれば、結果的に当たることはありますが、そのことが「血液型と性格の関連」にとって重要なことではありません。特に「心理学者」が言うのは許せないんですよねぇ、それじゃ、行動を見ていれば、「YG検査に基づく性格類型」が判定できるとでもいうのでしょうかね、そしてそのことにどんな意義があるというのでしょう。わたしに言わせれば、「後付けとして有用」と思えるからこそ、(血液型性格関連説として)確立してほしいのです。
それはそれとして、血液型話しで盛り上がると、「◯型は◯◯だからなー」と「決めつけ」ちゃうのが面白かったりするのですが、まぁ、そういうのは「ここだけの話し」扱いが妥当でしょうね。で、まだ暫くの間、「◯◯は◯型に多い」とは言っても「◯型には◯◯が多い」ニか「◯型は◯◯な傾向」という言い方には十二分な注意が必要と思います。「◯型は◯◯」などと決めつける輩は言語道断、「血」の池地獄に叩き込んでしまいましょう、なんてね、ははは。
これもちょっとだけコメントしておきます。
「◯型は◯◯な性格/傾向」というのは、能見(正比古)さんがB型だからという理由も大きいように思います。「絶対」というのが「絶対」キライなB型ですからね(笑)。古川説は、彼がA型だったせいか、一部には「決めつけ」的な表現もあるようです。
では、「◯◯な性格/傾向」というのは具体的にどのくらいかというと、能見(正比古)さんによると、10〜15%程度です。私は、少し水増しして10〜20%と言っています(笑)。ごく一部ですが、15〜20%程度のデータも存在しますから…。データを素直に見る限り、これは別に不思議でもなんでもありません。しかし、このぐらいの差だと、「信じない」人が(やはり?)10〜20%程度存在するようです。
(一部の)心理学者が「決めつける」というのは、そう言わなければいけない理由があります。それは、なんがなんでも感情的に血液型を否定しないといけないからです。そのためには、前述のように「差別」や「決めつけ」が絶対に存在しないといけなくなります。彼らにとって、「血液型信者」は、「差別的」で人の性格を4つに「決めつける」、そんな単純でケシカラン人間でないと困るわけです。もし、「差別」や「決めつけ」がないとすると、感情的に否定する理由がなくなりますから…。最大素数さんや私は、感情的に否定しようがなんだろうが、データや論理とは全く関係ないという立場ですが、彼らにとっては、それでは非常に困ることになりますからね。
次は、みなさんからのメールからです。
とっても(^O^)
2.お気に入りのページ
その他、シマさん関係のページ
3.血液型と性格の関係は?
ある
4.メッセージ:
シマさんメールとの厚い議論を読んだ日本一短い感想
久しぶりにここのHPへ来て、更新情報の所からシマさんとの議論のページへ行きました。
すごく長かったので、ど近眼の私は途中から飛ばしとばしで読みましたが面白かったです。
特に最後の方で書かれてあった「シマさん=複数+あらゆる分野の心理学者←きっと大学関係」という推理にはびっくり!でもよくよく考えたら、途中から文章偉く立派になってるからそうなのかも・・・本当の所はどうなんでしょうね?はたしてシマさんの正体は???
どうもありがとうございます。まぁ、simaさんの正体がどうだろうが、「血液型と性格」とは直接の関係はありません。あくまでも余興として読者に楽しんでもらおうというが趣旨です。ただ、どう見ても私には臨床心理士とは思えないのですが…。