「性格の一貫性」とは心理学者以外にはあまり聞きなれない言葉だと思います。しかし、この概念を使うことによって、血液型と性格に関するデータは、ほとんど矛盾なく統一的に説明できることがわかりました。v(^^)
おっと、統計が好きでない人は、もうイヤになってしまったかもしれません。(^^;;
そこで、要約だけを書いておきましょう。 とは言っても、常識的な結果と言えるものなのですが。(^^) まず、 1.同じ血液型の人の行動は、年齢、地域、性別、社会的地位などの状況や環境によって大きく変化する。 まあ、これは常識というか当然のことでしょうね(笑)。では次! 2.血液型別のアンケートによる回答率の差は、同じ内容でも文章表現によってかなり変化する。 例えば、「ものごとのけじめや白黒をはっきりつける」と「ものごとにけじめをつける」では、前者の方が差が大きくなります。つまり、具体的な状況が想像できるときの方が差が大きくなることなります。逆に、(心理学の性格テストのような?)抽象的な書き方では差がなかなか出ないようです。 この例は、松井豊さんの論文からの抜粋です。
論文2の方が3.9%差が小さく出ていることに注目してください! |
#実は、あまりにもうますぎる話なので、ちょっと警戒しています。(^^;;
ま、『ABO FAN』は、そこまで学術性を追求するHPでもないので、とりあえず未完成の状態のまま公開することにしようと思います。(^^;; うまくいったらおなぐさみ! -- H11.11.27
そもそもの発端は、アメリカの心理学者、W・ミシェルの"Personality and Assessment"によって提起された「人間−状況論争」(性格を決めるのは内的要因である人か、それとも外的要因である状況かという論争)です。現在、原典を読んでいるのですが、邦訳が入手できないために四苦八苦しています。(*_*) 日本では人気がないようですから、もう絶版なのでしょうか?
ここでは、結論だけ簡単に要約しておきましょう。
それは、心理学により定義された「パーソナリティ」(=性格)と行動の「通状況的一貫性」(状況に関わらない一貫性)は相関がないということです。
判りやすく言い換えると、普通の人間は状況が変われば行動(=パーソナリティ)が変わるということになります。つまり、特定の性格による(状況を超えた)一貫した行動パターンはないのです。逆に言えば、特定の状況では特定の行動をするということで、状況が決まれば性格が決まるのです。これが、ミシェルが言っている「首尾一貫性」です(つまり、状況が決まらなければ性格も決まりません!)。
例えば、性格検査で「外向的」(他の性格でもいいですが)とされた人が、本当に「外向的」な行動を取るか調べることにしましょう。さまざまなデータを詳細に検討した結果、状況が変われば必ずしも「外向的」な行動を取るわけではない、というのがミシェルの主張です。私のような部外者には、そんなの当たり前のような気がするのですが…。実は、従来の心理学で定義する「パーソナリティ」では、状況に関わらず行動の一貫性があるということが前提になっているそうです。つまり、「通状況的一貫性」がないとすると、従来の「パーソナリティ」の概念が崩壊してしまうことなります。
念のため、学術書から引用しておきます(B・クラーエ 堀毛一也編訳 社会的状況とパーソナリティ H8.5 北大路書房 15、197ページ)。
- パーソナリティは個人のユニークさを反映したものである。
- パーソナリティは持続的で安定したものである。
- パーソナリティやパーソナリティの行動としての表出は、個人の中にある力あるいは傾性によって決定される。
ミッシェル(Mischel, 1968)のパーソナリティ測定検査批判は,パーソナリティ測査によって得られるものは,それまで考えられていたような行動の内的原因(パーソナリティ)の指標ではなく,内的要因と状況要因との双方とに影響された行動を観察し,抽象化した結果にすぎない,ということを強調するものであった。したがって測査結果から状況を超えて行動を予測することなどできないし,現にパーソナリティ測査の結果は行動の予測に失敗していると主張し,それを支持するデータを示したわけである。
同書によると、この論争の結論はいまだに出ていないようです。(*_*)
ところで、欧米では人間の性格には一貫性がある、という暗黙の前提があるようです。もちろん、日本(東アジア?)ではそんな前提は成り立たない、というが常識(?)のようです(山本七平ライブラリー1 『「空気」の研究』 空気の思想史――自著を語る 文芸春秋 H9.4 350ページ)。
『論語』の子路篇に出てくる話に、「葉公、孔子に語りて曰く、吾が党に躬(み)を直(なおう)する者有り。その父、羊を攘(ぬす)みて、子これを証(あらわせ)り。孔子曰く、吾が党の直き者は是に異なり。父は子の為に隠し、子は父の為に隠す。直きことその中に在りと」――葉公[注:中国の王様])は、父が羊を盗んだことをその子供が証言したといって褒める、それに対して孔子は、父が羊を盗めば、子供はそれを隠すのが正直というものだ、と応える。
日本の伝統的規範では、この孔子の正直どおりに行動することが期待されています。ただ、孔子はいつもこのように行動しろと主張しているわけではありません。あくまでも血縁関係がある場合だけです。日本ではこの血縁関係的な規範が社会の一般的規範になっているので、十分に注意しておきましょう。(^^;;
ということで、日本では共同体だろうが学校や会社のような機能集団だろうが、メンバーはこのような「擬似血縁関係」どおりに行動することになっています。もちろん、私も例外ではありません。(^^;;
面白いのは、立場が相手との相対関係によって変わることです。
では、具体例で説明しておきます。
例えば、上司の家族から電話がかかってきた場合を考えてみましょう。対応する人は、電話の相手とその上司が家族であるという前提(当然!)で敬語を使います。では、他社から上司に電話がかかってきた場合はどうでしょう? 対応した人は、電話の相手に対してその上司に敬語を使うでしょうか? 使う、と答えた人は、社会人としては失格です(失礼!)。あるいは、新入社員の研修マニュアルが不十分だったのでしょう(笑)。
日本の社会では、会社は擬似血縁関係にある集団であることが自明の前提とされています。この場合、電話の相手は会社から見れば他人ですから、上司は家族同様に扱い、敬語は使わないことになります。つまり、相手によって自分の立場が変わることに…。
#なお、韓国ではそんなことはありません。社長は社長で、電話の相手が誰だろうが対応には「社長様」というように敬語を使うそうです。
#なぜなら、韓国では会社は擬似血縁集団ではないからです。
となると、日本のような社会構造の国では、性格や行動の「通状況的一貫性」は仮定するだけ野暮というものでしょう。逆に、「首尾一貫性」については非常に厳密に守らないといけません! 守らないなら、その人はまともな社会人とは認められませんから…。
#心理学者も例外ではないはずです、たぶん。
別な角度からも考えてみることにします。
普通の日本人は、「内面(うちづら)」と「外面(そとづら)」が違うのは当然とされています(え? 私はどうかって? それは…f(^^;;)。まあ、当然とまではいかなくとも、内面と外面が違っても、その人の人格が崩壊していると考える人はごく少数でしょう。会社では部下に厳格な上司が、家に帰ると大甘の父親・母親というのはよく聞く話です(逆のケースもあるようですが…)。これも、別にその人の人格が崩壊しているわけではありません。
そういえば、その昔に道徳の教科書で、「相手の立場に立って行動するべきだ」と習ったような記憶もあります…(今はどうなのかな?)。
つまり、性格や行動の「通状況的一貫性」は、日本では成り立たないのが当然とされているわけです!
ついでに書いておくと、日本では多重人格の症例が非常に少ないそうですが、それにはこういう社会的背景があるのかもしれません。欧米では多重人格障害が多く報告されているようです。非常に有名な例がビリー・ミリガンで、本もあるので知っている人も多いことでしょう(私は読んでませんが…(^^;;)。
閑話休題。
状況の話が出たので、ついでに状況倫理と固定倫理について紹介しておきます(山本七平ライブラリー1 『「空気」の研究』 「空気」の研究 文芸春秋 H9.4 92ページ)。
メートル法のように、規範を非人間的な基準においてこれを絶対に動かさない場合は、その規範で平等に各人を律すればよい。この場合の不正は、人間がこの規範をまげることである。だがこれが徹底化し、行為のみが規制の対象となれば、情況倫理という考え方は一切なくなる。…西欧の伝統は一貫して峻厳な固定倫理であり、そのゆえに19世紀以降、これへの痛烈な批判が起って不思議ではない。
同様に、人間の主義主張(性格?)も容易に変える(変わる)べきではない、という暗黙の前提もあるようです。日本のように「若気の至り」というのは認められないのではないかと思います(では、若くない私はどうなるんだろう?…汗)。
山本七平さんによると、以前にある首相と外務大臣(どちらも自民党)がアメリカのある上院議員に「左翼的」と批判されたことがあるそうです。その理由は、本人が元社会党員(現在は社民党と改名)だったり、妻が元社会党員だったとのこと。冗談としては面白いのですが、日本人で本気でこう考えている人は、かなりの例外と言っていいでしょう。
また、ある出版社の元社長(故人)は、戦前の一時期に共産党員だったそうです。そのため、敗戦後30年たったときでもアメリカには入国できなかったとのこと。理由は、やはり彼が元共産党員であったということで、日本ではちょっと考えられません。氏がアメリカに入国できるまでには実に多くの障害を除かねばならなかったとのことです。
別の話もあります。山本さんの知人の教授は、学生時代「民青」(=共産党)で何かをやっていたそうです。今ではマスコミに“右翼”とされることもある人でも、やはりアメリカになかなか入国できなかったとのこと。となると…(山本七平ライブラリー4 『「常識」の研究』 「常識」の非常識 文芸春秋 H9.5 313ページ)。
つまり、アメリカ人にとって「思想と人との関係」は、われわれのようにあやふやではないということである。
かつて日本には、「二十代でマルクスにかぶれない人間は馬鹿だが、四十過ぎてもかぶれている人間はもっと馬鹿である」という言葉があった。これは、人間の思想は年齢によって類型的に変化をするのが当然(ノーマル)だという考え方で、こういう変化をしない人間がいればむしろ異常(アブノーマル)なのである。
従って、三十年前に社会党員であろうと四十年前に共産党員であろうと、日本では全然問題にされず、若い日の共産党員が後に実業家となって財界で活躍することは少しも不思議な現象ではない。従ってそのとき「あの人はかつて共産党員だったから云々」などと言えば、そういう人間が非常識なのか、何か難くせをつけるかケチをつけるためにそう言っていると思われるのが普通である。
結局、アメリカ人の思想に対する態度は宗教に対するものと同じで、キリスト教徒は生涯キリスト教徒であるというのと同じことになります。自分自身で他の思想を選択したことを明言しない限り、いつまでもその人の本性として存続することになるそうです。
ミシェルの"Personality and Assessment"によって提起された「人間−状況論争」は、こういう文脈の下に理解する必要があるのではないかと考えているところです。本当はどうなのでしょう? -- H11.11.27
ところで、帯広畜産大学の渡邊芳之さんのHPに『ABO FAN』が紹介されました。ご紹介ありがとうございます。m(._.)m
せっかくなので、説明文を抜粋しておきます。
ABO FUN HOME PAGE[正しくはABO FAN HOME PAGEです!]
血液型性格判断を信奉する論客が反血液型派心理学者の研究を一刀両断.特徴は統計的データを示して反論していること.統計と検定だけが仮説の正しさを保証すると信じ切っている愚かなる心理学者たちはいまや血液型と性格の関係を認めるべきだろう.そうじゃないんだって,統計的検定だけに頼って,論理的なことはなにも考えなくなってるからこういう批判にほっかむりするしかなくなるんだって(ねえ松井さん,笑).統計で有意差が出ようが血液型と性格には関係ないんだし,そういう点では心理学の研究だって怪しいものなのだ.こういう私の主張は血液型陣営にはうまく理解できないらしく,こうしたHPでの私に対する彼らのとらえ方はまさに玉虫色なのが可笑しい.
実は、このページを作る最大のきっかけがこの説明文なのです(どうもありがとうございます)。しかし、ミシェルを勉強するのにかなり時間がかかったので、ご紹介がかなり遅れてしまったことをお詫びします。
この文章で面白いのは、統計的には心理学者の説明は間違っていて、私の説明は全く正しいということです(やった!)。だから、「こういう批判にほっかむりするしかなくなる」ということで、非常に安心しました。(^^)
どうもありがとうございます。 -- H11.11.27
ここで、あらかじめお断りしておきます。『ABO FAN』では、いくつかの例外を除き、原則として個人名を出しての批判はしていません。しかし、相手から名指しで批判されている場合は当然ながら別扱いとなります。上にも書いたように、渡邊さんから名指しで批判(?)があったのですから、こちらからも疑問ぐらいは提出しておくのが礼儀というものでしょう…。
では、ミシェルの状況主義に基づいた血液型批判について、渡邊さんの意見をなるぺく正確に書いておくことにします(渡邊芳之他 オール・ザット・血液型〜血液型カルチャー・スクラップブック〜 H8.6 コスモの本 190〜191ページ)。
血液型っていうのは生まれつき決まっているもの。ということは、血液型で性格がわかるっていうことは、人の性格も生まれつき決まっている、という考え方になる。…
心理学者はそうは考えてない。確かに昔は性格が遺伝する、って考える学者も多かったけど、最近では遺伝より生まれてからの環境の力の方が大きいっていうのが定説。性格は生まれてからの育てられかたや暮しかた、周囲の人間関係なんかに影響されてできあがるもので、血液型で生まれつき決まるものなんかじゃない。もちろん遺伝的なことも多少は影響するけど、その力は昔ほど重くみられなくなってる。それに、性格は固定したものじゃなく、人生の転機などでまわりの環境が大きく変わると、それにつれて変わる。血液型で性格が決まるって考え方はこういう性格の変化も否定してしまう。人の性格は血液型論者が考えているほど頑固なものじゃなく、人生のいろいろなできごとで少しずつ、ときにはガラリと変わるものなんだ。やっぱり血液型で決めつけるのは間違ってる。
しかし、この記述に対応する能見さんの記述は発見できませんでした。強いて対応する部分をあげるとすると、次のような文章になります。それは、「人間の性格が、4つにわけられるはずがない」という意見に対しての反論です(『新・血液型人間学』 青春出版社プレイブックス S60.6)。
もし同じ血液型の人が同じ性格だったら、四つの血液型で4通りの人間しかいなくなる。人間はトランプではない。そんなバカげたことは、あるはずがないのに、どうして分 かりきったことを、わざわざ言い出すのか?…
それにしてもへンな話である。私は、ある血液型が、ある一通りの性格とは、一度も言ったことがないのに、この人たちは、私が、そう決めつけているものと、勝手に決めつけているのだ。人間の性格は、生まれつきの、すなわち先天的な気質が、後天的な形成作用を受けて、作られていく。…
気質は前述のように、人間のスタート時点での神経回路の特性といえる。気質も成長につれて、多少の変化が予想されるが、原則として、不変と考えていい。
気質は、そのままでは外部からは、うかがい知れない。外界から何かの刺激が神経回路に加えられると、それに反応し、目に見える行動や表現となって現われてくる。
日常生活での刺激は、一つ一つが異質のものではない。ほぼ一定の刺激の繰り返しが多い。…そうした刺激の反復が、気質の反応に一定の傾向を作る。その傾向の著しいものを、“性格”と言い慣わしているのである。
反復刺激のあり方により、似たような気質、同じ血液型の人でも、性格が違ってくるのは当然である。…“環境の差”というのも、この刺激の合計値の差といえる。だから同じO型に生まれても、大都会に育ったO型と、ジャングルの中で生まれ育ったO型では、まるで性格も違って来よう。一方、同じジャングルで育っても、A型のターザンとB型のターザンでは、文字通り、別人のようになる。血液型と性格の問題は、このように両面から考慮する必要がある。
反復刺激は、人間の場合は、計画的なしつけ、教育・学習、訓練、あるいは自分自身による性格改善の修行、修養など、意図的なものも加わってくる。これらの、自然的・人為的な反復刺激の総合を、後天的影響と総称するのである。
まさに、『血液型人間学』はミシェルの主張そのものだと思うのですが…。はて? -- H11.11.27
念のため、血液型と性格がわかるからの抜粋です。
|
状況主義を主張する心理学者たちの理論は、最近では総称してCAPS理論(Cognitive-Affective Personality System Theory)と呼ばれています。
ここでは、血液型のデータは、CAPS理論でバッチリ実証できることを次に書いておきます。以下は、血液型と性格の謎を推理するからの抜粋です。その1、その3、その4に注目して読んでみてくださいね。(^^)
#この文章は私がCAPS理論を知る前に書いたものです、念のため。
|
その3に関しては、別の推理もできます。CAPS理論によると、「状況」とは本人が認知する状況であり、決して客観的な状況ではないのです。
本人が認知する状況と、その人の行動との相関は高いことが知られています。血液型のデータでもこのことが確認できるようです。読めば判るとおり、血液型の特徴は具体的な状況を想像できる文章が多いので…。
では、具体例を書いておきましょう。松井豊さんの論文からの抜粋です。
#この文章も私がCAPS理論を知る前に書いたものです…。
|
項目の内容 |
O(182) | A(225) | B(138) | AB(68) | 最大と 最小の差 |
1. ものごとのけじめや白黒をはっきりつける |
55.5 | 53.3 | 47.1 | 55.9 | 8.8 |
論文2のデータ−血液型別にみた質問の肯定率(%) →最高値が赤 →最低値が青
項目の内容
O A B AB 最大と
最小の差6. ものごとにけじめをつける(S55)
38.2 39.2 36.6 42.7 6.1 6. ものごとにけじめをつける(S57)
41.6 41.2 37.0 44.9 7.9 6. ものごとにけじめをつける(S61)
36.5 38.9 35.6 37.4 3.3 6. ものごとにけじめをつける(S63)
39.3 39.5 35.0 39.0 4.5 6. ものごとにけじめをつける(平均)
38.9 39.7 36.1 41.0 4.9
論文2の方が3.9%差が小さく出ています。違うのは質問項目と対象者です。まず、質問項目については、
なお、太字が違うと思われる部分です。論文1の質問の内容については、「能見(1984)を参考にして、血液型による差があらわれやすいと予想される性格特性を選び」と書いてあります。ここを強調しておきますね。
次に、対象者については、
別に大した差はないのではないか?と思ってはいけません。かなりしつこいですが、血液型と性格の謎を解くのページでは、差が出るための条件としてこんなことを書いています。
1.回答者が均質でないといけない(つまり、同じ大学の大学生なんかがいちばんいい)
2.回答者総数が数百人以上でないといけない(できれば千人以上で血液型別の人数が同じならなおよい)
3.能見さんの本の血液型別の特徴を質問項目にすること(一般の性格テストではダメ)更に条件があって、
4.能見さんの本の血液型別特徴と回答結果は必ずしも一致しない(とにかく差が出ればよい)
ABO FANの読者ならもうおわかりでしょう。差が出ないのは、対象者と質問のせいだったのです! -- H10.5.5
1つだけだと信用しない人もいるようなので、もう1つの例を書いておきます。データそのものはすでに書いたのですが…
まずは、大村さんの「大学生のデータの分析」からです(大村政男
「血の商人」の餌食になるなデタラメぶりは立証された 『朝日ジャーナル』 昭和60年3月8日号 89〜92ページ) 。
大村さんのデータでは、
O型の特徴というものはあるのか(%) →最高値が赤 →最低値が青
項目の内容
O(115) A(216) B(104) AB(45) 最大と
最小の差5. 仲間内では開放的
82.6 75.5 79.8 68.9 13.7
松井さんの論文1のデータでは、
血液型別にみた血液型予想質問の肯定率(%) →最高値が赤 →最低値が青
項目の内容
O(182) A(225) B(138) AB(68) 最大と
最小の差9. 人には心を開く方である
54.4 49.3 52.9 47.1 7.3
全く同じ傾向を示していますが、松井さんの方が6.4%も差が小さいのです。質問項目を比較すると、
太字が違うと思われる部分です。対象はどちらも大学生ですから、この差は質問項目によるものと判断していいでしょう。つまり、「人」といった抽象的な記述よりは、「仲間」という具体的な記述の方が差が出るのです。更に、松井さんは「方である」というあいまいな記述を加えています。この2つの違いが6.4%の差になって現れているのです(データのバラツキを考慮してもかなり大きな差です)。大村さんが能見さんの記述をダイレクトに使っているのに対して、松井さんはオリジナルな記述であることはいうまでもありません。
ついでに、松井さんの論文1の別なデータを見てみましょう。
血液型別にみた血液型予想質問の肯定率(%) →最高値が赤 →最低値が青
項目の内容
O(182) A(225) B(138) AB(68) 最大と
最小の差13. 人とのつきあいに距離をおいている 33.5 40.4 41.3 45.6 12.1
前のデータとA型とB型の順序が違いますが、それはデータのバラツキによるものか記述の差によるものかはわかりません。とにかく項目9の方が項目13より4.9%も差が小さいのです。質問項目を比較してみると、
9. 人には心を開く方である
13. 人とのつきあいに距離をおいている
太字が違うと思われる部分です。対象はどちらも全く同じですから、この差も明らかに質問項目によるものと判断していいでしょう。項目9には「方である」というあいまいな記述が加わっています。この2つの違いが4.9%の差になっているのではないでしょうか?
いずれにせよ、血液型による性格の差を調べるには、質問項目の選択に十分な注意が必要なようです。
-- H10.5.5
別の例として、大村政男さんの論文から抜粋します。 -- H11.11.27
|
実は、渡邊芳之さんへの疑問はもう一つあります。それは、状況や環境の影響を過大に評価しているのではないかということです。例えば、次のような記述です(渡邊芳之 「性格の一貫性と新しい性格観」 現代のエスプリ No.372 性格のための心理学 H10.7 至文堂 123ページ)。
もちろん、性格の形成にその人が持つ遺伝的・生理的または心理的な性質がまったく無関係であるわけではない。
素直に読むと、「まったく無関係であるわけではない」にしろ、あまり関係はないのだとしか解釈できません。しかし、同じページには、
一貫性論争のこうした結果から、当然の帰結として現われたのが「相互作用論」という新しい性格観である。
相互作用論では、これまで人の内部にある内的実体の行動への現われと考えられてきた性格を、人と状況との相互作用の産物として位置付けし直した。
相互作用なら、「人=内的要因」と「状況=外的要因」は車の両輪ですから、どちらが重要かというのは意味があるのでしょうか? ミシェルの原典には全部当たっていないのですが、「どちらが重要か」という意味の文章はなかったように記憶しているのですが…。はて?
実は、渡邊さんと一緒にミシェル学説を日本に導入するのに大きな役割を果たしたSさん(名指しで批判するつもりはないので…)は、この点をもっと明確に説明しています(別冊宝島335 性格がわかる・変えられる! <自分探しから自分づくりへ> 性格診断テスト・コレクション! H9.10 宝島社 258ページ)。
性格はどのようにつくられるかということですが、まあ100%環境によると思いますね。
文章を読んだ限り、若干のニュアンスの違いはあるにしても、渡邊さんも同感しているような感じを受けましたのですが…。相互作用とは言えないような気がするのは私だけでしょうか??
これまた、日本的伝統からの説明ができるかもしれません(山本七平ライブラリー1 『「空気」の研究』 「空気」の研究 文芸春秋 H9.4 92、93ページ)。
[西欧は伝統的に峻厳な固定倫理である]ところが日本は元来、メートル法的規制、人間への規制は非人間的基礎に立脚せねば公平ではありえないという発想がなく、全く別の規範のもとに生きてきた。いわば元来の発想がきわめて情況倫理的なのである。こういう社会へ、西欧でその伝統への“進歩的な批判”として発生した情況倫理が、その伝統を抜きにして、独立した一つの権威として入ってきたらどういう状態になるか。…「自らに適合する新しい説」は、自己の生き方への外部的権威からの認証として受け入れて、自己徹底を図るのが普通である。これが常に反復されるから、そのたびに日本がさらに徹底して日本化し、いわゆる西欧化の進行とともに逆に断絶が深まっていき、最終的には実質的な“鎖国”へと進むわけであろう。
* * * *
人間を尺度の基準とするなら、すべての人間が「オール3」的平均値を示さねば、尺度とはなり得ない。当然である。そして基準が人間の方にあるなら、輸入の尺度はそれに対応しなければならない。とすれば身長「オール140センチ」と計るには、物差を伸縮自在なゴムでつくって、尺度の方を身長に合せねばならない。こうなれば全員は平等であって、一切の“差別”はなくなるであろう。
いや、そういっても、人間の社会生活は複雑だから、社会に出たら、ゴムの物差で身長を計るようなわけにいくまい、と考えるならそれは誤りで、この伸縮自在な物差に相当する倫理的尺度が「情況」なのである。人間がそれぞれにもつ人間性は基本的には「オール3」であって、平等である。それが別々のように見えるのは、対応する情況が違うからであって、ただそれだけにすぎない。
CAPS理論が日本で人気がない(?)のには、もう一つの理由も考えられます。もちろん、あくまでも私の推測に過ぎませんし、特定の心理学者についてのことでもありません、念のため。
それは、心理学者は統計が不得意な人が多いことです(失礼!)。CAPS理論を実証するためには、さまざまな状況の設定して実験・観察を行い、(割と?)高度な統計的手法を使って結果を分析することが必要となります。いや、高度の統計的手法というよりは統計的センス、あるいはデータマニア的な感覚が必要だと言った方が適切かもしれません。(^^;; ところが、こんな人は心理学者にはほとんどいません。少なくとも私の知る限り…。
となると、「相互作用」の計算が面倒なので(できないと断定するのは失礼というものでしょう…)、状況や環境の影響を過大(?)に評価するしかないことになります。CAPS理論では、状況を超えた行動の一貫性がないことを証明しないといけないのです。結局、状況の評価ができなければ、行動の一貫性がないことを強調するぐらいしか(うまい?)方法を考えつきません。本当はどうなのでしょうか? はて?
皆さんはどう思いますか? -- H11.11.27
【参考文献】
|
このページを書くために、数種類の心理学事典に当たってミシェルについて調べるつもりだったのですが、全部のケースで項目自体がありませんでした。もちろん、最新の大事典もチェックしています。
念のため、『世界大百科事典』(CD−ROM版)と『スーパーニッポニカ』でもチェックしてみましたが(やはり?)どちらでも発見できませんでした。となると、やはり日本ではポピュラーではないのでしょうか。はて?
(?_?) -- H11.11.27
その後、12月8日付けで『ABO FAN』の説明文が更新されました。お忙しい中、拙HPをお読みいただき、大変ありがとうございます。m(._.)m
説明文を抜粋してもいいようですので、再度抜粋しておきます(まずいのであれば、お手数ですがご連絡ください)。
血液型性格判断を信奉する論客による心理学批判.良く文献を調べているし(Mischelの原書まで手に入れているのには感嘆),データの読みも鋭く感心.これらの心理学批判の多くの部分はたしかに傾聴する価値があると思う.私もあちこちに登場して批判されているが,どうも私の書いたものについてはよく理解していただいてないようなのが残念.私は血液型は間違っていて性格心理学は正しいと言ってるわけではない(むかし書いた日和見な内容のものへの批判は甘受するけれども).むしろ,どちらも同じように間違っている,ということなんだけど.たとえばこの論文を読んでみてください(99/12/8)
まず、私はいわゆる「血液型性格判断」は正しいとは思っていません。ましてや「信奉」しているはずもありません(血液型と性格がわかる→「血液型性格判断」とは?)。
次に、今回の説明文で「傾聴する価値がある」というのは、前回の説明文で「統計的データを示して反論している」ことなのでしょうか? これだけではよくわかりませんでした。お手数ですが、具体的に指摘していただければ幸いなのですが…。
また、血液型と心理学は「どちらも同じように間違っている」ということですが、ご紹介していただいた論文を読んだ限りでは、心理学が「間違っている」理由は理解できましたが、血液型については具体例が書いてないのでわかりませんでした。よろしければ、次回にでもご紹介いただければ幸いです。
念のため、私の理解した内容を書いておきます。
行動主義は、行動が「数値データ」で表せるというのが大前提のはずです。この数値データに統計的処理を施し、仮説が正しいかどうか検証することになります。つまり、データがなければお話にならない…はずです。
しかし、前回の説明文では「統計で有意差が出ようが血液型と性格には関係ない」ということですから、私の理解とは違います。また、ミシェルの本をいくら読んでも、そういう意味のことは書いてありませんでした(100ページぐらいで挫折しました…苦笑)。念のため、B・クラーエの『社会的状況とパーソナリティ』(堀毛一也編訳)にもそうは書いてないようです(もっとも、日本の論文ではそう書いてあるものもあるようです…)。ですから、「統計で有意差が出ようが血液型と性格には関係ない」という根拠をぜひ教えていただきたいのですが…。
ご承知のとおり、ミシェルはデータによる反論が主なので、(渡邊さんがミシェルと同じ方法論を使うとすれば)お手数ですが「血液型と性格」について「間違っている」根拠となるデータの紹介をお願いしたいと思います。それとも、「統計で有意差が出ようが血液型と性格には関係ない」のでしょうか?
渡邊さんはもちろんご承知のことだと思いますが、読者の皆さんのためにちょっと解説しておきましょう。 心理学では「心的概念」が「数値データ」にうまく変換できないから困っている訳です。ところが、血液型ではO、A、B、ABの4つの型に分けられますから、そういう問題は生じません。つまり、血液型という「科学的基準」によって(環境が一定なら)行動が予測できるかどうか統計的に検証できるということになります。そういう意味で、非常に画期的なことと言えるでしょう。そして、血液型により「アンケートの回答」という行動が予測できることは、データによってほぼ証明されている…はずなのです。 |
間違っているところ点も多々と思いますが、どうかご容赦ください。気が向いたら、次回にでもご指摘いただければ幸いです。
最後に、拙HPでは原則として個人名を出しての「批判」はしていません。あくまでも「疑問」ですので、念のため。
#「批判」と「疑問」が具体的にどう違うのかというと困るのですが…。(^^;;
気が向いたらご返事ください。乱筆・乱文失礼します。m(._.)m
追伸
「Mischelの原書まで手に入れているのには感嘆」ということですが(どうもありがとうございます)、このぐらいやるのは普通(?)なのではないでしょうか? それとも、何か特別な意味があるのでしょうか?? -- H11.12.19