何事にもタブーはあります。もちろん、「血液型と性格」についても例外ではありません。そこで、今まで気が付いた「タブー」(本当にタブーなのかどうかは皆さんの判断にお任せします)について考察したのがこのページです。危ないんじゃないか?という人もいるかもしれませんが、そんなことは全然ないはずなのでご心配なく!(笑)
どうもAB型の私は他人を批判するのが性に合っているらしく、血液型特性のところなんかよりつい力が入ってしまうのはご愛敬でしょう(笑)。
実は、このページ(FAQ番外編もそうですが)は、ABOFAN本来の趣旨である、明るく楽しい知的エンターテイメントを提供するというものからちょっと?外れています。読んでみるとわかりますが、かなり批判色の強いものとなっています。それはなぜか?というと、もう少し主張を明確にした方がわかりやすいのではないかと考えたからです(イヤミが好きということももう1つの理由ではありますが…f(^^;;)。今までの書き方は、かなりソフトタッチで主張を押さえてきたのですが、何を言いたいのか明らかでない点もありましたので…。もちろん、面白くないという意見が多いのであればこの方針は変更します。
また、このページには一部過激な?主張もありますが、決して人格批判をしているわけではありませんので、どうかご了承ください。
-- H10.1.21
このタイトルを見てピンときた人は、かなりの血液型マニアですね(笑)。「血液型と性格」という言葉は、その最初の研究者である古川竹二からずっと使われてきました。最近の本では、これを意識しているかどうかは知りませんが、大村政男さんの『血液型と性格』、松田薫さんの『「血液型と性格」の社会史』というように有名な本が出版されています。 |
多くの日本の心理学者にとっては、「血液型と性格」について研究するのは(どういうわけか?)「タブー」のようです。いや、そんなことはありえない、「タブー」なんてことは絶対ない!と主張する(日本の)心理学者も多くいます。しかし、私は心理学者はまるで何者かにマインドコントロールされているかのように、「タブー」だと信じ込まされていると考えています。論より証拠、次に具体例をあげてみましょう。
私が知る限り、血液型と性格の関係を否定する日本の心理学者で、外国の論文をちゃんと読んだ人はいません。ほとんどは知らんぷりか、よくてもせいぜいどっかの文献の再引用です。ウソだと思ったら…いや、特定の心理学者の名前をあげることはやめましょう。
たとえば、『ネイチャー』の論文やキャッテルの研究については、ほとんどの日本の心理学者が原文を読んでいないはずです。『ネイチャー』は血液型と性格の関係はないと断定している、という明らかに間違った記述は、原文を読んでいればありえないはずです。ひどい場合には、外国の研究は全くないと断定している人もいます。これらの記述は明らかに間違いです。
しかし、調査不足で知らなかったというならまだわかります。私もこのホームページで知識不足のために間違ったことを書いていることはかなりあるはずです(わかった時点でなるべく訂正するようにしていますが…)。それはそれでしかたないので、私はどうこう言うつもりはありません。しかし、海外の参考文献については次の文献に詳しい解説があります。
井田拓自他 海外における「血液型と性格」の研究 (『血液型と性格』〜その史的展開と問題点 現代のエスプリNo.324 詫摩武俊・佐藤達哉編 至文堂 H6.7 168〜176ページ)
この『血液型と性格』〜その史的展開と問題点 現代のエスプリNo.324 という本は、血液型と性格の関係を研究している日本の心理学者にはバイブル的な存在(というと言い過ぎかもしれませんが、必読書の1つであることは確かでしょう)ですから、まさか読んでないなんていうモグリの人はいないはずです。もし読んでいないなら、ぜひ読んでみるべきです!
しかし、この後に発行された本や、最近のホームページを眺めていても、明らかに海外の文献を読んでないと思われる記述が多いのです。いや、多いというよりはほとんどといっていいでしょう(日本の心理学者のホームページは「無断転載禁止」という表示が多いのですが、この程度の記述はいいと思いますので「引用」しておきます)。これは一体何を意味するのでしょうか?
多くの日本の心理学者は、「血液型と性格」の研究は日本の方がずっと進んでいると考えているのでしょうか? ま、進んでいるかどうかは別として、日本での論文数が多いことは事実です。が、海外の研究についても可能な限り入手して読んでみるというのが一般的な研究者の態度でしょう。しかし、この本の発行からすでに4年も経過しているのにこんな状態とは実に不思議です。
もう一つ不思議なことがあります。それは、能見さんのデータについて追試をして反論しているのは私の知る限り草野さんだけです[その後、大村さんの論文に1つだけあることを発見しましたが、心理学者では私の知る限りこの1つだけです -- H10.9.23]。それは、この本です。
「血液型性格判断」の虚実 草野直樹 かもがわ出版 H7.3
実は、反対論者である日本の心理学者は(草野さんを除いて)能見さんのデータにただの1つも追試をしていないのです!
最初は信じられませんでした。「まさか」と思って詳しく調べたのですが、いくら調べても追試のデータは1つも出てきません。どうも、こうなると何らかの理由を考えないといけないようです。この点について非常に不思議に思って何人かに質問したのですが、明確な回答はいまだに得られていません。非常に奇妙なことです(追試というのは、全く同一の質問をもう一度行っているということです)。
一般的に、何かに反論するのは必ず追試をやるのが常識です。しかし、ただの1つも行われていないというのは非常に奇妙です。ですから、これらの反論自体が意味をなしていないのです。この点、草野さんは(心理学者ではないのでしょうか?)ちゃんとデータを取って反論しています。その努力には本当に頭が下がります(ウソでなく)。
また、「もし、血液型と性格に関係があるならば、世界中の心理学者が飛びつくはずだ」という反論もあります。確かに、現状は「世界中の心理学者が飛びつく」状態ではありません。だからやっぱり血液型と性格は関係ないと思っている人がいるとしたら、それはちょっと違います。現在、一部のHLA(白血球の"血液型"です)との関係があることが遺伝子レベルで証明されているそうです(ウラは取ってはいませんが)。だから、HLAと性格は明らかに関係があるのです。しかし、HLAと性格の関係を調べている心理学者は私の知る限りいません。つまり、血液型と性格に関係があろうがなかろうが、「世界中の心理学者が飛びつく」状態にはならないのです。
以上のことから何が言えるでしょうか? そう、謎はすべて解けた!のです。 つまり、日本の心理学者にとって血液型と性格の研究はタブーなのです! 他の理由が考えられるでしょうか? -- H10.2.26
これを裏付けるかのように、脳と意識の研究は最近まで、心理学では「タブー」だったという記述があります。
F・クリック 『DNAに魂はあるか』 〜驚異の仮説〜
31〜32ページ (講談社 H7.11) |
一部ですが、血液型と性格の研究は疑似科学や超能力研究と同じ(「科学的」ではないからケシカランという意味)という主張をする人がいます。これらの人は二重の意味で間違っていると思います。この主張が成り立つためには次の2つの仮定が成り立つ必要があります。
1.血液型と性格の研究は疑似科学(あるいは超能力研究)と同じである
2.疑似科学(あるいは超能力研究)は「科学的」でない
まず、1.の仮定はちょっと無理があると言えるでしょう。私は疑似科学や超能力研究には素人なのですが、疑似科学や超能力研究は再現性に問題があるのが最大のネックになっていると思います(違うのかな?)。例えば、「スプーン曲げ」(古い!)は私がやったのでは間違いなく曲がりませんし(笑)、永久機関を作ることもできません。しかし、血液型と性格のデータは自分でいくらでもデータを取ることができますし、海外・日本の心理学者から安定した(?)データがいろいろと示されています(FAQ番外編や理論!?のページにあります)。
ま、上のような私の主張を認めない人もいると思います。では、次の2.の仮定はどうでしょう?
まず、疑似科学は私はよくわかりませんのでここではふれません。しかし、超能力研究はレッキとした科学的な研究です。現に、ある教授(ちなみに、彼は血液型と性格は関係ないと主張しているそうです。そして、心理学にも懐疑的だそうです)は、真面目にヒトダマの研究をしています(超能力とはちょっと違いますが)。また、日本の某有名企業でも超能力研究をしているのはその筋では有名なことだそうですし、外国の軍部では真剣に超能力研究をしているところもあります。その教授や某社や某軍部では単にヒマだからそんな「科学的」ではない研究をしているのでしょうか? いや、そんなことは絶対ないでしょう。ヒトダマの解明や超能力を実用化するために科学的な研究をしているに決まっています!
上では、私は一応、科学的と「科学的」を区別して書いています。科学的は本来の意味の科学的で、「科学的」は血液型と性格の研究は科学的でないと主張する人が言う場合です。では、この2つは何が違うのでしょうか? 井沢元彦さん(B型)の『逆説の日本史1』の59ページにはこんな記述があります。福翁自伝の中の有名なエピソードですが、
反骨精神旺盛な福沢少年は、「神様の名のある御札を踏んだらどうだと思って」「踏んでみた」。
ところが、「何ともない」。そして、今度は叔父の家の稲荷の社の中の、ご神体の石を引っぱり出し、変わりの石を入れておくというイタズラをする。
これは、明らかに迷信を打破しようとする勇気ある行為でしょう。なにしろ、江戸時代には「種痘をすれば牛になる」といったような迷信があったそうですから(『逆説の日本史1』より)。引用を続けましょう。
福沢諭吉という人、実は私も尊敬している。特に「独立の精神」という言葉が好きだ。明治の思想家としては、もちろん偉大な人物である。(中略)「福沢先生」以外に「先生」はいない、などと神格化して、批判はしないなどという態度をとるならば、それは「天は人の上に人を作らず」と言った福沢精神を、逆に踏みにじることになるだろう。そこで遠慮なく批判させて頂く。福沢の最大の罪は、彼以後、宗教的なものを「初めから馬鹿にして信じない」ことが、知識人の条件のようになってしまったことである。たとえば、怨霊、呪詛、あるいは神、悪魔、それに宗教−こういったものを科学の対象からはずすことが正しい、そのように知識人に思わせたことである。言うまでもなく、これは真の科学的態度とは言えない。確かに、「御神体」も「御札」も、物質として見れば、タダの「石」であり「紙」であるかもしれない。しかし、そこにわれわれは何かを感じるのである。感じるからこそ、それを拝んだり尊んだりするのだ。
そして、その何かを感じること(「臨存感」)が事実として存在する以上、ではその正体は何なのか、それを論理的な方法で追求するのが科学である、その「臨存感」が現実に存在することの証明として、たとえ福沢諭吉でも「母親の写真」(単なる印画紙)は踏めないだろうと続きます。
確かに、戦前に古川説が消え去ってから能見さんが『血液型でわかる相性』を出すまでは、血液型と性格に関係があるという説は「科学的」ではないと烙印を押されてしまった感じがします。こういう「科学的」でないものは研究に値しないし、研究する者は科学者ではないという偏見があっても不思議ではありません(本当かどうかは確認していませんが)。能見説も古川説の焼き直しだから(私はそうは思いませんが)、やっぱり「科学的」でないと思う人もいるようです。一部の心理学者が能見説にヒステリックと思うほど反発するのは明らかにこのせいだと思います(と私は感じますが本人がどう思っているかどうかは知りません)。
次に、ある教授が研究しているヒトダマの例をあげましょう。同じく『逆説の日本史1』からの引用です。
たとえば、「ヒトダマ」というものがある。これは現に見た人もいるし写真を撮った人もいる。ところが、ヒトダマとは何か、と研究したいと言えば、これまではまったくできなかった。「そんなものは科学の対象ではない」とか「もっと他にやるべきことがあるだろう」とか、あるいは観察してデータを収集したわけでもないのに「あれはリンが燃えているんだ」と一方的に断定する、とか様々な妨害があったからだ。明治時代、いやそれ以前からヒトダマの存在は知られていた。だが、それがまともに研究されるようになったのは、つい最近のことである。なぜ、できなかったと言えば、それは明らかに、誤った「福沢精神」の影響なのである。
これだけ書けばわかってもらえたでしょう! 海外の文献を全く読んでなかったり、能見さんのデータの追試なんか全然やらなくても「血液型と性格は関係ない」と断定している理由は実はこれだったのです。「血液型と性格」の研究は「科学的」ではないうなんていう人こそ非科学的なのです! 彼らこそ誤った「福沢精神」の影響を受けているのですが、自覚していないだけに実に困ったものです…。
ヒトダマの研究はすでに解禁になりました。しかし、「血液型と性格」の研究はいつ解禁になるのでしょうか?
誤解のないようにちょっと書いておきます。私は現在のところ超能力があるとは思っていません。別に信じていないというわけではなく、データの再現性にまだまだ問題があるのではないかと思うからです。ヒトダマについては、実験には成功したと聞いていますので、ヒトダマが存在する可能性はあると思います。また、このどちらの研究も科学的なものだと思っています。 |
その後、私の考えを裏付けるような記述を見つけました。血液型と性格の関係を否定している『現代のエスプリ〜血液型と性格』にはこう書いてあります(188ページ 『性格心理学は血液型性格関連説を否定できるか〜性格心理学から見た血液型と性格の関係への疑義』 渡辺芳之)。
これまで何人かの心理学者が、 血液型と性格との関連を実証的方法で反証し、血液型性格関連説を否定しようとしてきた。ここで注目されるのは、彼らが血液型性格関連説を「科学的方法によって反証可能な理論」、すなわち科学的理論とみなしていることである。この点でそれを「非科学的な迷信」とみなして無視した従来の心理学者とは異なる。 -- H10.3.27
「血液型で性格を決めつけるのは差別だ」と否定論者はず〜っといい続けてきました。いろいろな資料によると、大村政男さんによる昭和60年の『朝日ジャーナル』での論文が最初であるようです。ところが、ある日、松田薫さんの改訂第2版『「血液型と性格」の社会史』(357ページ)を読んでいたところ、そこには驚くべきことが書かれていたのです。
あいかわらず、血液型による差別という正義ぶった記事を、資料提供者の私の名前をぬいて作文するので(以下略)
ウラを取ってないのでなんともいえませんが、もしこれが本当だとすると相当ひどいものです。この前の記述には、これまたほとんどの反対論者に引用されている平成2年11月21日付けの朝日新聞の記事『AB型社員でチーム−三菱電機ヒット商品開発目指す』があります。松田さんは、この報道や心理学者の批判に対しても、三菱電機は自社宣伝になるのでプレス発表しただけと書いています。それを朝日が取り上げ、社内で笑われ他社にからかわれたので、即時解散したのだそうです。当然でしょうね(なお、その後に三菱電機に問い合わせた人の情報によると、「そういう事実はない」と否定しているそうで、あれはマスコミによる「誤報」というコメントということでした)。また、血液型別に保育をしている西陣保育園についても、地味な保育園なので地元ではこのことはほとんど知られてないそうです。
なんのことはない、資料提供者の名前を抜いて自分に都合のいいところだけ報道しているのです。「血液型で性格を決めつけるのは差別だ」といっている人は、このことに気付いているのでしょうか? 主張することはいいのですが、もう少し事実を確認してからにしてほしいものです。
また、「血液型で性格を決めつけるのは差別だ」とはほとんどの人が思っていないことも付け加えておきましょう。とはいっても、別にいちいちデータを取ってなんて面倒なことは不要です。最近の女性誌や芸能人紹介のような記事を見てください。そこにはかなりの確率で血液型が書いてあるはずです。また、血液型と性格についても頻繁に雑誌の特集が組まれています。もし、かなりの人が「血液型で性格を決めつけるのは差別だ」と思っているならわざわざ血液型のことなんて書くわけがありません。私の印象だと、最近になってから血液型についての記事や情報が増えているはずなので(ちゃんとデータもあるようです)、どう考えても「差別」と思っている人は減っているとしか思えません。つまり、「血液型で性格を決めつけるのは差別だ」とはほとんどの人が思っていないのです! 詳しくはここをクリック! -- H10.5.18
今までは遠慮して(?)書かなかったのですが、複数のホームページに書いてあったことなので(ニュースソースは書きませんが…)、公開していい情報だと判断してここに書いておきます。 それは、(社会)心理学専攻の学生の間でも、いわゆる「血液型性格判断」はポピュラーな話題だということです。それが、ケシカランという内容ならわかりますが、逆に「○型は××な性格だ」という話題で結構盛り上っているようです。最初に聞いたときは半信半疑だったのですが、複数のホームページに書いてあるので、どうもこれは事実と考えていいようです。「差別」だと考えている人がこんなことをするわけがありません! これが、「差別」ではないという直接的な証拠です。実は、傍証もありますが、これでは個人攻撃になりかねないので、あえて公開はしないでおきます。(^^;; |
誰が最初に血液型は「差別」だと言い出したのか知りませんが、実にうまいことを考えたものです。というのは、血液型と性格に関係があろうがあるまいが、これで肯定論者を黙らせることができるからです。
いうまでもありませんが、ある人が「差別的」ということになれば、その人は社会的な制裁を受けます。ですから、「差別的」な血液型と性格の研究をしているような「差別的」なI人間はケシカランということになっても何の不思議はありません。私は、アカデミックな研究は、その研究テーマが「差別的」かどうかは関係ないと思っていたのですが、どうもそうではないようです。
現に、某県警の血液型のページは、「差別」であるという抗議によって平成9年7月に削除されてしまいました。非常に残念なことです。また、某血液センターの「血液型性格判断」のページも、「差別」であると抗議を受けている可能性があります(確認はしていませんが)。個人のホームページでも、「差別」になるかもしれないのでという遠慮がちな文章も時々見かけます。
しかし、否定論者との議論でも、仮に血液型によって交通事故のパターンが違うのであれば、それで気をつけるようになるから交通事故防止に役に立つという意見もありましたし、「血液型性格判断」で献血者が少しでも増えるなら目くじらを立てる必要はないし、必ずしも「差別」であるとはいえないという意見もありました。
もちろん、「差別」であるという意見を無視するわけではありませんが、逆に上に書いたような意見を全く無視して「差別」であるという主張をする人には、首を傾げざるをえません。ですから、現時点で「差別」と断定するにはあまりにも時期尚早で、判断材料も不充分でしょう。この点について否定論者の何人かに確認しましたが、残念ながら確定的な返事はいただけませんでした。
某県警には血液型と交通事故のページを復活させてもらいたいし、某血液センターにはぜひ献血者が増えるように頑張ってほしいものです!
また、血液型による「差別」がひどいということであれば、他の差別に比べて特にひどいという理由がなければいけません。そうでないと、議論そのものが成り立たないでしょう。
例えば、就職や昇進の際に血液型による「差別」があるとすれば(事実関係を確認しているものは未だに1つもありません)、これは問題でしょう。しかし、実際にはどの程度のものが「差別」になるのかは、かなり微妙なところです。
具体例を出してみましょう。まずは、性別による差別についてです。
確かに、性別だけで「差別」されるのは良くないことです。しかし、職種や業務内容によって結果として性別が偏るのはしょうがないでしょうし、それを「差別」だという人はいないでしょう。仮に無理に男女同数にするということであれば、それこそ「差別」でしょうし、男女雇用機会均等法の趣旨に反することになるではないでしょうか?
ですから同様に、業務内容によって血液型構成が偏るのは「差別」ではありません。それはあくまで結果であって、その差は個人の能力によるものです。そんなの当然ですね!
次に、三菱電機のケースについて書いておきます。
日本では、三菱電機のようなケースは、常識的には「差別」ではないでしょう。女性(性別)だけの開発チーム、20代(特定年齢層)だけの開発チーム等々、いくらでも考えられます。これらを差別だという意見には私はお目にかかっていません。なぜ血液型だけがいけないのでしょうか? また、ウラを取ってみると、このケースは事実とは到底思えません。
#念のため、何人かに否定論者にメールを出してみましたが、まだ回答をいただいていません。
また、学力水準が云々ということであれば、日本では現在でも多くの会社で「学歴」や「有名大学」による就職や昇進の「差別」は現在も行われており、これは社会通念上、いわゆる「差別」ではありません。
#それで裁判になって敗訴したという話は日本では聞いたことがありませんから。
また、就職試験ではかなりの会社で「性格テスト」が行われており、上の論理に従えば、これも「差別」ということになります。もっとも、私は「差別」だとは思いませんが…。
#この件についても否定論者にメールを出してみましたが、まだ回答をいただいていません。 -- H10.7.18
血液型と性格に関係があるという説は、昭和初期の教育学者古川竹二さんによって提唱された説です。一時は軍部にまで研究される有力な説だったのですが、結局学会で支持を得られず消え去っていきます。この経過については、松田薫さんの『改訂第二版「血液型と性格」の社会史』に詳しく書かれています。非常に詳しく書いてありますので、興味がある方は読んでみるといいでしょう。
では、なぜ古川説は敗北したのでしょうか? 竹内久美子(A型)さんは、その著書の『小さな悪魔の背中の窪み』の中で、心理学者の戦前の派閥争いが原因ではないか?と書いています。詳しい経緯はこれらの本を読んでもらうことにして、とにかく当時の血液型の権威であった東大医学部教授の故・古畑種基さんが反対したことが一番大きな原因であることは確かなようです。この古畑さんは、AB型の遺伝で世界的にも画期的な研究成果を上げています。
しかし、亡くなった方を批判するのは大変心苦しいのですが、この人は毀誉褒貶の激しい人のようです。井沢元彦さん(B型)の『逆説の日本史1』の43ページにはこんな記述もあります。
一つは、法医学の権威で、東大名誉教授をはじめとする数々の肩書きを持つ古畑種基博士(故人)のことである。
私もこの人の本で法医学を勉強したのだが、最近になって、この古畑博士がかつて行った、弘前事件、松山事件、財田川事件などについて、この血痕鑑定が、すべて間違っていた、ということが明らかになったのである。
これは事実だ。いずれも公式に再審鑑定が行われ、古畑鑑定はすべてをくつがえされている。ところが、これらのケースは素人の私が見ても、「どうしてこんな明白なミスが今までわからなかったのだろう」という気がするのである。
この件についても、事情通は言う。
「これも博士が生きているうちは言いにくかったのでしょう。医学界では先輩や恩師の説を批判することはできませんからね」
血痕鑑定が間違った話は、松田薫さんの『改訂第二版「血液型と性格」の社会史』にも書かれています。ウラを取ってないので判断はできませんが、もし上の記述が正しいとすると、能見さんの最初の著書である『血液型と相性』が昭和46年に出版されたのは偶然ではありません。この時期は、古畑さんの影響はほとんどなくなった時期に一致するからです。
能見さんの著書が発表されてから後の展開は皆さんご存じのとおりですね!
古川説の当時はカイ自乗検定なんていう便利な統計手法はありませんでした。その他の学問水準も現在よりは低かったので、当時はちゃんとした差が出なかったのは無理もないのです(現在でも確定的な結論が出ていないのですから…)。 |
当時のデータをもう一度カイ自乗検定で分析してみると、ちゃんと差があることが実証できます。つまり、古川説は必ずしも間違ってわけではなかったのです。ただ、性格分類が単純すぎるというような種々の問題点があることは事実です。
不思議なのは、反対論者が「古川説は戦前に否定されたから間違いだ」とよくいうことです。戦前は学問の水準が低かったのですから、そのときに検出されなかった性格の差が再分析の結果検出されても全然不思議ではありません。戦前の定説がひっくり帰るなんてことは、私が指摘するまでもなくどの学界にもゴロゴロしているでしょう。だから、古川説を否定するのだったら「現在の手法で分析しても否定されている」というべきでしょう。しかし、反対論者でこういっている人はほとんどいません。不思議なことに…。 -- H10.1.19
今までの多くの否定論者(≒日本の心理学者)は、血液型による性格の違いは存在しないと主張してきました。信頼できるアンケート(≒日本の心理学者)のデータでは安定した結果が得られないというのがその理由です。つまり、血液型による性格の違いは存在しないが、もしそのように見えるにしてもそれは「血液型ステレオタイプ」(特定の血液型はこういう性格だという思い込み)によるものというわけです。
しかし、これとは全く逆の主張も存在します。つまり、血液型別にアンケート結果に差があるというものです(詳しくは、ここをクリック!)。それはこれです!
ただし、この差は「血液型ステレオタイプ」によるものとのコメントが付いています。実際の計算は、難しすぎて私には正直にいって解らないのですが、とにかく時間を追うごとに性格が血液型ステレオタイプに近づいてゆくという結論が示されています。
しかし、このデータでちょっと注意する必要があるのは、本当に「時間を追うごとに性格が血液型ステレオタイプに近づいてゆく」かどうかは証明されていないことです。正確には、「時間を追うごとに質問の回答(性格そのものではありません)が血液型ステレオタイプに近づいてゆく」のです。時間が経つにつれて環境は変わりますから、環境変化に伴って血液型別の気質が顕在化しただけなのかもしれません。質問の回答と性格そのものの相関が証明されていない以上、この差は本当に「血液型ステレオタイプ」によるものかどうかは断定できないのです。これは私がそう主張しているのではなく、心理学者が質問紙法の欠点としてあげているものですので間違いないでしょう。:-p |
どう考えても、以上の2つの考えは相互に矛盾します。もし、山崎論文が正しいとすると、「信頼できるアンケートのデータで安定した結果が得られた」のですから、「血液型による性格の違いは存在する」ことになります。逆に、今までの考え方が正しいとすると、「信頼できるアンケートのデータで安定した結果が得られない」のですから、「信頼できるアンケートのデータで安定した結果が得られた」山崎論文は明らかに間違いです。いや、どちらも正しいということであれば、山崎論文以後の時期(平成以後)では「血液型ステレオタイプ」が存在し、それ以前(昭和55年以前)には「血液型ステレオタイプ」は存在しないということになります。一体どれが正しいのでしょうか?
非常に不思議だったので、何人かに質問してみたのですが、残念ながら確定的な答えは返ってきませんでした。
また、心理学者である坂元さんは、『現代のエスプリ〜血液型と性格』で次のように主張しています(184ページ 『血液型ステレオタイプと認知の歪み〜これまでの社会心理学的研究の概観』 坂元章)。
これまでに、多くの研究が、 血液型ステレオタイプによる認知の歪みを検討し、それを支持する証拠を得たとくり返し主張してきたが、そのすべてが方法あるいは結果に問題を抱えており、いまだに、認知の歪みに関する明確な証拠は提出されていないと言えよう。
さらに言えば、これらの研究はいずれも、認知の歪みがあるかどうかを扱ったものであり、坂元の研究などを除けば、その認知の歪みが「血液型性格学」に対する信念を形成していくという問題については、 ほとんど検討していない。
例えば、大村は、FBI効果を提出しているが、FBI効果によって信念が形成されるまでの過程に、人々が、FBI効果によって、血液型ステレオタイプが自己・他者にあてはまるという経験をくり返し、そのくり返しによって「血液型性格学」に対する信念を形成あるいは持続させているのか−は検討されていない。その信念の形成・維持までの過程がはっきり立証されてはじめて、「血液型性格学」の浸透の原因の一つが、人々が持っている「歪んだ認知をする傾向」であると言えるのである。
筆者は、これらのことから血液型ステレオタイプによる認知の歪みの問題は、かなり以前から指摘され検討されているものであるが、現在でもなおその知見はあいまいであり、今後も大いに検討する意義のある問題であると考えている。
また、同じ『現代のエスプリ〜血液型と性格』で渡辺さんはこのように主張しています(189〜190ページ 『性格心理学は血液型性格関連説を否定できるか〜性格心理学から見た血液型と性格の関係への疑義』 渡辺芳之)。
血液型性格関連説のもうひとつの根拠である「血液型性格判断が当るように思える」「周囲の人の行動が血液型によって違うように見える」という日常的な実感が多くの場合錯覚に基づくものであることを、「FBI効果」という優れた概念を用いて論証している。つまり、血液型性格関連説が当っているように見えるのは、その性格記述が誰にでも当てはまるようなものであること(Freesize効果)、血液型を知っているとその血液型に合った性格特徴だけが目立ってみえること(Labeling効果)、自分の血液型の特徴とされるものに自分の行動を合わせてしまうこと(Imprinting効果)の三つの効果によるというのである。
大村の論理は説得力があるが、ある面で両刃の剣でもある。自分たち心理学者が製作し、正当であるとしている「性格検査」による性格判断も、血液型性格関連説と同じ土俵で批判されてしまうのである。たとえば、作られてからかなりの年月が経つが現在もよく使われている性格検査の中には、現在の統計的基準から見るとその一安当性の根拠となるデータやその解釈がかなり怪しいものはいくつもある。古川竹二のデータ解釈が誤っているのはあくまでも現在の目から見てであり、同程度に誤ったデータ解釈は過去の「科学的」心理学にもよく見られる。また、「心理学的性格検査による性格判断が当る」という経験的事実が「FBI効果」による錯覚でないと言い切ることもできないだろう。
たとえばYG性格検査の類型ごとに性格特徴を記述している文章などはかなり「フリーサイズ」なものであり、大村と同じ手続きで類型とその説明文をデタラメに入れ替えて被験者に示しても、多くの場合自分に当てはまっていると思うのではないか。
また、検査結果が他者の性格についての判断をバイアスしたり、自分自身の行動を検査に合わせて変容したりすることも十分に考えられる。これでは「心理学も血液型もうさんくさい」ということになるだけで、心理学者からの批判が大衆にあまり強い印象を与えないのは当然である。
実は、上の問題は心理学者の思考の盲点?を突いているのです。というのは、通常の心理学での性格テストというのは「ステレオタイプ」の発生を防ぐために、質問内容は一般には公開されていません。全部調べたわけじゃありませんが、ほとんどの性格テストではその内容はオープンにされていないのです。そして、これは日本だけでの傾向ではありません(というよりは、性格テストと方法論が欧米からそのまま輸入されたのだと思います)。私がキャッテルの16性格因子法を調べたときも、やはり一般には質問項目は公開されていませんでした(つまり、心理学者しか入手できません)。血液型と性格の研究では有名な性格テストなので、自分で入手して質問項目を検討しようと思ったのですが、個人には販売してもらえないようなので結局あきらめた経緯があります。(*_*)
逆に、血液型で性格が違うという場合は、質問は基本的にオープンにされています。性格テストのアプローチとは全く正反対の訳です。血液型と性格の情報はマスコミ等を使って大量に?フィードバックされていますから、「血液型ステレオタイプ」が日本に定着する可能性は大いにあります。以上のようなことから、このような血液型と性格のアプローチに対処するノウハウは、(日本の)心理学者にはないのかもしれません(失礼!)。だから、上のような全く正反対の結論が出るのではないかと…。本当はどうなのでしょうか?
ちなみに、「血液型ステレオタイプ」が存在しようがしまいが、血液型と性格の違いがあるのかどうか見分けるのは、それほど難しいことではありません。身近な人の性格をちょっと注意して観察するだけで十分です。「血液型ステレオタイプ」を全部正確に覚えている人なんてそんなにいませんから…(笑)。これにはちゃんとデータもありますので安心です(爆笑)。 -- H10.3.27
何人かの反対論者(≒日本の心理学者)の方には、メールで大いに議論させていただいています。お忙しい中お付き合いいただいて大変ありがとうございます。この場を借りて深く感謝いたします。
しかし、中には「能見さんはなぜ心理学会で反論しないのか?」という疑問を持つ人もいるようです。そこで、私のような素人が個人でこんなささやかなホームページを作って反論しています(え、その割にはこのページの態度が大きいのでは?と思う人もいるかもしれませんが、それは単なる思い過ごしです!(笑))。
ところが、一部の反対論者のホームページでは、最近は「無断転載禁止」という表示が多いのです(まさか、こう書くのは「無断転載」ではないでしょう!)。また、個別のメールは受け付けないという意味の断り書きがある場合もあります。私の記憶では、こういう表示は昔はなかったはずで、今年(平成10年)になってからの現象のようです(逆に反論のメールも歓迎という表示のホームページもあったはずです)。本当の理由は不明ですが、いずれにせよ一部のホームページは「議論」や「反論」を歓迎していないことは確かでしょう。
心理学会についてはわかりませんが、私の知っている学会だと、入会には複数の会員の推薦が必要なはずで、更に論文を提出しても審査にパスしないと発表させてもらえません。論文が無審査の学会もあるようですが、心理学会については知らないのでなんともいえません。
例えば、私が「反論」を提出するとなると、以上のプロセスを全部パスする必要があります。ですから、事実上は不可能と言っていいでしょう。しかし、ホームページなら簡単です。自分の思ったとおりにリアルタイムで「議論」や「反論」ができるのですから。そんなのは当たり前ですね!
ですから、反対論者も全く同じ理由でホームページを作っていると思っていました。「議論」や「反論」に時間がかかるのでは?と思うかもしれませんが、実はそうでもないのです。私のホームページを見た反対論者から来た「反論」のメールは現在の時点では2人だけ(通数ではもっと多くなります)です。確かに、血液型と性格について詳しく研究している人は非常に少ないですから、あまり来ないのは当たり前ですね!(もっとも、私からの反論のメールはかなり出しましたので、お忙しい中ご回答いただいた方には非常に感謝しています。それから、質問や励ましのメールはかなりいただきました、ありがとうございます。)
以上のことから、一部の反対論者のホームページは、明らかに「議論」や「反論」を歓迎していないと言えます。私の考えた理由(?)については、次の否定論者の特徴的な反応を読んでみてください。
私は、時間の許す限りメールが来ればなるべく答えるようにしているつもりです。しかし、中には忙しいために失礼した方もいるかもしれません。それはどうかご容赦ください。m(._.)m -- H10.2.26
ちょっと失礼かもしれませんが(たぶん失礼でしょう…)、否定的な反応で特徴的なものを書いてみます。
1.肯定論者を無視する
これは、ちょっとどうかなぁと思います。ま、忙しいのでしょうから無視されてもしょうがないですが…。だから、「無断転載禁止」とか個別のメールは受け付けないというのはちょっと…。相手の反論を意見を無視するのは普通のことですが、それにしても…。
2.能見さんの本を読まない
これも非常に特徴的なことです。有効な反論をするには、相手の主張を徹底的に理解し、その中から矛盾点をいろいろと見つけ出すというの作業が絶対に必要なはずです。それには、最低限、能見さんの代表的な著作を徹底的に読破する必要があります。しかし、残念ながらそういうことをしている人は非常に少ないようです。最初は理由がわからなかったのですが、最近やっとわかりました。実は、これは日本の伝統的な思考様式そのものなのです。
論より証拠、第2次世界大戦の日本人の行動を振り返ってください。アメリカと戦争するのに、英語は「敵性言語」だから学習禁止で、もちろん使うことも禁止されました。また、アメリカに関する「正確」な情報を提供したらゴウゴウたる非難が飛んでくるという状態にもなりましたし、海外の情報が入手できる短波放送の受信も禁止されました。つまり、相手のことを正確に知ること自体がケシカランということです。しかし、アメリカ人の反応は全く逆で、徹底的に日本のことを研究するという態度でした。どちらのやり方が正しかったかは言うまでもないでしょう。詳しくは井沢元彦さん(B型)の『言霊』などの著作をお読みください。理由が非常に詳しく書いてあります。
だから、能見さんの本を徹底的に読んで研究するということは「タブー」なのです。これで、否定論者の反応を非常にうまく説明することができました。これは単なる推測ではありません。さすがにここには書きませんが、傍証もいくつかあります。 -- H10.2.25
詳しくはこちらへどうぞ!
その後の状況をちょっと書いておきましょう。
もちろん、すべての否定論者がすぐ上に書いてあるのような人ばかりではありません。中には、親切に資料を送っていただいたり、丁寧に返事をいただいたりした方も何人かいます。これらの方々には、この場を借りて感謝申し上げます。
しかし、中には、「都合の悪いデータの無視、方法論上の欠陥が山積しているにもかかわらず、『関係がない』という信念だけは揺るがない」人もいるようです。どうやら、こういう人に共通しているのは、「血液型性格関連説」によって「実害」を受けたことによる極端な不快感だと思えます。
例えば、世の中には血液型別に4つの性格しかなく、それは、O型は権力志向、A型は神経質、B型はマイペース、AB型は2重人格といったたぐいのものです。なぜこんな結論になるかわかりませんが、どうやらそう思い込んでいる人も一部にはいるようです。
#確かに、そんなことを毎日言われたら誰だっていやになりますけど…。
#もっとも、このページを読んでいる方は[血液型と性格]をそんな単純に理解している人はいないでしょう。
そんな単純(?)な誤解に基づいて、「血液型性格関連説」は差別だ、人権無視だと主張する人の中には、このような人もいるのに驚かされます(別なタイプの人もいますけど…パターン2で後述)。元々の「血液型性格関連説」の理解が誤解だらけなのですから、なんともご苦労様なことで、私もその苦労(?)に同情するしかありません。
ただ、この人達(の一部)で問題なのは、その「差別」や「人権無視」を否定するのに「少々のこと」はやってもいいと思っていることです。例えば、みなさんからのメールでは、一部からいやがらせとも思えるメールを何通か受け取っています。最初はわからなかったのですが、最近ではほぼ送信者を特定できています(システム上では送信者は分かりません、念のため)。というのは、内容から年齢や性別はほぼ推測がつきますし、そういう人は同じようなメールをしつこく何通も送ってくるからです。
まあ、そんなことをされても別に困りませんが、否定論者のレベルを著しく下げているのは間違いないでしょう。そういう意味では、否定論者全体にとって困った存在だと思えます(いずれにせよ、肯定論者にとっては有利なことには違いありません)。若い人が多いようですから、自分が若かったころのことを考えるとあまり大きなことはいえないのですが…。いずれにせよ、もっと正々堂々とフェアな議論を期待したいと思います。 -- H10.8.26
#なお、上のような否定論者には特定の血液型が多いという感触を持っています。
もちろん、上に書いたような否定論者はどちらかというと少数で、礼儀正しい方も多くいます。でも、今までメールで議論させていただいて、「関係がある」という相互に確認した条件を満たした(私の)データを見たとたんに返事を送ってもらえなくなった方も何人かいるのです(もっとも、私が勝手にそう思い込んでいるだけなのかもしれません)。確かに本業が忙しいのでしょうが、その後の議論ができなくて非常に残念です。
では、その条件について、より分かりやすいように、否定論者の長谷川芳典さんの文章から引用しておきます(『現代のエスプリ〜血液型と性格』 128ページ 『目分量統計の心理と血液型人間「学」』)。
「血液型と性格は関係がない」という作業仮説のもとに地道にデータを集め、ある性格的特徴について明らかに血液型との関係を示すようなデータが安定的に得られた時に初めてこの仮説を棄却するのである。これこそが、雑多な変動現象の中から帰納的に規則性を見い出そうとするときにとるべき科学的態度である。
こういう人は、どちらかというと心理学関係者に多いようです。で、ホームページ等をたまに見たりすると、(私が指摘して)都合が悪くなったところはこっそり(?)書き換えてあったりするのです。新着情報やタイムスタンプはそのままなのですが…。こういうのを何回か見ると、少々不愉快になります。もちろん、こういうのはごく一部の人の問題ですけど。
う〜ん、自分で書いていてイヤミのAB型と苦笑してしまいました。(^^;; ただ、最近はあまりにも否定論者からのメールが少ないし、ホームページを見るとそんな状況なので、やや強い表現で書かせてもらいました。悪しからずご了承ください。
いずれにせよ、否定論者からの反論のメールをお待ちしています! すぐにこんな文章を削除できるように…。 -- H10.8.26
その後、大村政男さんの新訂『血液型と性格』を読んで興味深い記述を発見しました(217ページ)。
わたくしの批判的研究は、能見正比古の没後であるから彼からのコメントはもらえないが、もし正比古が生きていても彼はこのようなすぐにでも底が割れる発言はしなかったと思う。彼はおそらくわたくしの批判を無視したと思われる。貝のように殻を閉じると思う。子どもや、おとなが寡黙になる、それらは欲求不満や葛藤のときの反応としてよく知られている。
確かに、否定論者は(ごく一部を除いて)、「わたくしの批判を無視し」「貝のように殻を閉じ」ています。結局、反論のメールがないということは、性格心理学的な説明によると「欲求不満や葛藤のときの反応」ということのようです。なるほど、そうだったのか…。 -- H10.10.17
その後、井沢元彦さん(B型)の『言霊(ことだま)U』〜なぜ日本人は真実を見たがらないのか〜(祥伝社 H9.12)で、興味深い記述を見つけましたので引用しておきます(59〜64ページ)。もう少し早く気づくべきでした…。 -- H10.10.27
さらに、ジャーナリズムにおける言霊の弊害をもう1つ付け加えるならば、言霊の世界では、まともな論争が成立しないということである。…
問題はこの論争する論敵の側が、私や私と考えを同じくする人たちに対して、まず何をするかということである。
本来私の主張が間違っていると思うならば、その主張の内容を細かく分析し、論理的矛盾、あるいは事実と違う誇張といった欠点を探し出し、それを冷静に指摘すればよい。もしそういうものがあるとすれば、私の論拠は崩れるのである。
ところが、そういう時に、日本人が論敵を倒すために一般的に何をやるかというと、まずレッテル張りである。
たとえば私が張られたレッテルでいえば、「右翼」、あるいは「軍国主義者」、「保守反動」といったものである。つまり、彼らはこういうレッテル張りをすれば、それで議論に勝ったと思い込んでいる。…
「1プラス1イコール2」というのは初等数学の定理だけれども、これは誰にとっても真理であり、たとえば右翼が言ったから「1プラス1イコール2」ということは真理ではないというような議論の立て方は、言うまでもなく明白な間違いである。
ところが、日本では往々にして、自分に対して反対の意見を持っているいわゆる論敵に対して何をするかというと、相手の主張の中身の欠陥の指摘ではなく、人格攻撃になる。たとえば右翼、たとえば軍国主義者、あるいはその逆の立場からいえば、左翼、過激派といったような悪口である。
問題はその人間がどんな思想を持っているかということではなくて、とりあえずは、その主張している中身が正しいか正しくないかということが重要なのである。それなのに日本人は、なぜ議論の中身ではなく、相手にレッテル張りをすることによって、議論に勝ったような錯覚に陥(おちい)るのか。それも、実は、まさに言霊の作用なのである。
言霊の世界では、言った人間の言説と、その人間の個人の人格とが分離していない。つまり、その人間の主張というものが本人とは別のものであるということが意識されない。だからこそ?その分離を信じない人間、つまり言霊を信じている人間は、相手の人格さえ否定すれば、あるいは相手が人格的に劣等な人間であるということさえ証明すれば、その議論に勝ったと思い込むことになる。
いわゆる進歩的文化人にとって、右翼、軍国主義者というのは不倶戴天(ふぐたいてん)の敵であり、絶対悪である。したがって、その絶対悪であるというレッテルさえ張ってしまえば、もう議論の中身や、相手の主張の中身など、どうでもいいことになる。その主張の中身を分析し、検討しようなどという気持ちはまるでなく、ただレッテル張りをすればよしとする。そういう態度に出るのも、結局、言霊というものを意識していないからである。…
言霊というものをしっかり意識して、そういうものは一種の迷信だと信じているならば、私の発言内容、あるいは主張している説がいかにおかしいかということを論理的に検証すればいいのであって、それをせずに人格攻撃に走るのは、まさにその人間が言霊に捉われているからだ。
次に、同書161〜164ページからです。
では、こうした場合に、これは言ってはいけない禁句集、つまり言霊の影響を復活させないために、 これは言うべきではない言葉というのを、思いつくままに挙げてみよう。
まず「縁起が悪い」、「不吉だ」という言葉である。これについては、説明の必要はないだろう。
あるいは「人の気持ちを考えろ」というのも、実はクセモノである。結局これは、言葉というものが1つの魔力を持って、その周囲に影響を与えるということが前提になっているのであって、だからこそ、そういう言葉が出てくる。
しかし、あらかじめ言葉が与える言霊的影響を予測し計算するならば、物事を冷静に判断することなど、けっしてできなくなる。たとえば、ハイジャック事件の人質問題において、再発を防止するために絶対に妥協しないという冷静な処理をしようとする場合に、「人質の気持ちあるいは家族の気持ちを考えろ」というような議論が起これば、冷静な判断というのはできなくなる。
またこれとは逆に、「聞きたくない」という反応もありうる。
「聞きたくない」というのは、それが情報としてインプットされることを拒否する、受け付けないという意味であって、受け付けなければ分析も対応もしょうがない。それなのになぜそういうことを言うかといえば、言霊の世界では言わなければ実現しないのだから、とにかく言わせないし、万一相手が言ってしまった場合も、それを聞きたくないという情緒的反応が起こるのである。だからこういう言葉も絶対に使ってはいけない。
「怖(こわ)いんだろう」というのもある。つまり、これも情報の内容よりも、それが与える影響を先回りして言っている言葉である。
実例を挙げると、戦前の軍部において、日本はアメリカと戦うと負けるからやめろ、あるいはソ連の力は強大だから冷静に軍事計画を練り直すべきだ、というような正当な意見を吐いた軍人や外交官は、「恐米病」や「恐露病」だと言われた。もちろんそんなことはなかった。この中には山本五十六(やまもといそろく)や吉田茂(よしだしげる)のような、きわめて優秀な軍人、外交官が含まれていた。そういう正論を吐く人たちを封じるのに、この言葉は乱用されやすい恐れがある。
それと通ずる言い方として、「何々の手先だ」という言い方がある。これは「売国奴」と言い換えてもいいが、「そんなことをあえて口にするのは、お前は敵の一味だろう」という発想になっている。
しかしよく考えれば、これもおかしいので、会社が倒産しそうだったら倒産しそうだというのが、本当の意味で会社のためである。ところが、言霊信者はそういうことを言うと、物事が実現してしまうと思っているから、あえてそれを口にする人間のことを会社に対する敵対者と見てしまう。
これが何度も指摘しているように、言霊の最大の問題であって、本来ならば忠告、実のあるアドバイスと聞かれるべきことが、敵視され、消されてしまうということになる。したがって、これもこういう言葉を絶対に口にさせてはならない。
以上が言霊の影響を排除したブレーンストーミングをやる場合の禁句集である。もちろんこれに類することはいくらでもあるので、皆さんじっくり考えていただきたい。その際、考え方のヒントは、言霊信者というのは、言葉の内容よりも、その言霊の与える影響のほうを重視するということである。
生理学的な反論も多いようですが、どうもこれも「タブー」が多いようです。たとえば、反対論者の中には、脳がABO血液型物質を認知できないことから、血液型と性格は関係ないと主張する人もいます。この点については、松田薫さんがその著書『改訂第二版「血液型と性格」の社会史』の中で反論しています(361ページ)。
ABO遺伝子とその関連遺伝子が、酵素系・ホルモン系・神経系とシステムをなして動いている場合、別に血液型物質が脳にあろうとなかろうと関係ない。
私も同意見です。更に、糖鎖のわずかの違いで性格が違うわけがないという反論に対しては(同書から)、
生化学構造の差がわずかだから性格と関係がないという乱暴な論法を「輸血」にあてはめたらどうなるのか。生化学構造の差がわずかだから、A型をO型やB型に輸血しても大丈夫なことになるではないか。(以下略)
と述べています。また、血液型人間学メーリングリストでの議論で、主催者である鹿児島大学の板倉さんから、なかなか説得力のある説明がありました。それによりますと、糖鎖の違いと性格には関係があるかもしれないのではないかということです。ただし、ABO式血液型糖鎖で性格が違うかどうかはまだ未解明のようですが。次からが引用です。
最近、と言いましても1994年くらいに発行された糖鎖関係の書物を読んでいますと、糖鎖研究は、私の学生時代には想像もしなかった展開を見せているようです。
20年も前は、血液型物質と気質の関係について私に可能性として考えられたのは、神経伝達物質やホルモンの「受容体」の作用に対して周辺の糖鎖がなんらかの影響を与える可能性
程度でした。(ま、それはそれでおもしろい面もあるので、■興奮と脱感作 としてこのメールの最後につけておきます。)
さて、昨年、久留米大の先生にABO式血液型を決定する遺伝子について講演していただいたとき、その遺伝子が、
神経、筋肉、骨
において、胎児期に大量に発現しているということを伺いました。実は、わたしは、「脂肪組織、筋肉、骨、ではどうですか?」と質問したのすが、上記のようなお答えでした。脂肪組織の方は、わからない、ということでした。神経(脳を含む)は、われわれとしては当然ですね。
この答えが、わたしの予想にあまりピッタリだったので少し驚きましたが、「胎児期」というのにひっかかりました。う〜ん。「発生」について勉強して、仮説も練り直さないと。。。と思ったわけです。しかし、昨日届いた 日経サイエンス 糖鎖と細胞 の中の「神経系の糖脂質による細胞認識」は、なかなかエキサイティングなものでありました。
動物の糖脂質であるスフィンゴ糖脂質の中でもガングリオシド(末端にシアル酸がついた酸性糖脂質)の話しではありましたが、糖脂質が神経系の発生、シナプス形成において重要な役割を果たしている、ということなのです。脳の複雑な機能は、脳細胞(神経細胞)の複雑な神経回路網によるわけですが、その回路網の接続部分がシナプスです。
ただし、ガングリオ系ではなく、ラクト(ネオラクト)系糖脂質である血液型物質が、上記の事柄に関与しているとは書かれていません。
「単なる糖鎖が。。。」という否定の言葉は、これで笑いとばせるのですが、「単なるラクト系スフィンゴ糖脂質が。。。」と言われると、ま、「まだまだこれから。。」と答えるくらいしかないかもですね。(^^;ガングリオ系とラクト系は、糖鎖の大きさや複雑さにそんなに差があるわけじゃないですけどね。はしっこに、酸性のシアル酸がついていることが一番の差のようです。また、ラクト系にシアル酸がついて、長糖鎖ガングリオシドというのができることもあるようです。
長くなりましたので、また。m(_ _)m
■興奮と脱感作
例えば、アセチルコリン受容体については、分子レベルの研究がかなり進んできました(おなじ遺伝子スーパーファミリーに属すると考えられているセロトニン受容体なども同様のようですが)。α、α、β、γ、δという5つのサブユニットが細胞表面で輪を作って中央に穴(閉じたり開いたりするチャンネル)ができています。
特命リサーチでも出てきましたが、神経細胞と神経細胞の接合部であるシナプスにおいて、神経終末から放出された神経伝達物質が次の神経細胞に届くと、この受容体に結合します。そうすると、チャンネルが開いて、Naなどのイオンが流入し、興奮へとつながるわけです。
神経細胞の種類、性質によって神経伝達物質が異なり、それぞれの受容体が存在し、流入するイオンの種類も違うようです。
さて、ここで、この受容体には「脱感作」という状態がある、ということなのです。神経伝達物質がずっと存在していると、つまり刺激が長く続くと、受容体に神経伝達物質が結合しているのにチャンネルが開かない、つまり刺激に反応しなくなっちゃう状態です。むちゃくちゃ興奮し続ける危険性を回避しているわけですね。
さてさて、能見さんの本に出てくる、血液型別興奮曲線ですが、この脱感作となんらかの関係があると思われませんか?
- O型は、一度興奮しだすと(あがったりすると)収まらない。
- A型は、普段はO型ほど安定しているわけでもないが、興奮の後、開き直って安定する。
- B型は、喜怒哀楽も激しい方であるが、AやOのような興奮状態がない。
- AB型については、能見さんは2つの波を重ねてかいていますが、B型同様、AやOのような興奮まではいかない? 突発的感情変化、というのはよくいわれますが。
上の、A型の開き直りって「脱感作」そのもののような気がするのですが。。。
ただ、成人の神経細胞に、ABO式血液型糖鎖がどれだけ存在しているのか(胎児では、ABO式血液型遺伝子が大量に発現しているということではあるが)はたまた、存在しているとして、それがどれだけ受容体の作用に影響できるのか、情報不足、未解明、の部分が多いですね。
それから、ABO血液型遺伝子が性格に関係するメカニズムは考えられないと反論する人もいます。しかし、実はこの反論はおかしいのです。ABO血液型遺伝子が性格に関係することを否定するには、「遺伝子が性格に及ぼす影響が全て解明され」かつ「その影響を及ぼす遺伝子の中にABO血液型遺伝子(及び関連する遺伝子)が含まれない」という仮定が両方成り立つ必要があります。前者はほとんど解明されていませんから、どう考えても「ABO血液型遺伝子が性格に関係するメカニズムはありえない」とはいえません。もちろん、「ABO血液型遺伝子が性格に関係する」ともいえませんが。
また、複数の血液型の研究者から次のような言葉をいただいています。
ABO血液型物質の糖鎖は、赤血球に限らずいろいろな細胞表面に分布している。だから、神経細胞(ニューロン)になんらかの影響を与えている可能性は否定できない。従って、アプリオリに「可能性がない」とすることはできないのではないか?
以上のことから、生理学的に血液型と性格の関係が「ある」か「ない」かを説明することは現状では無理だと思います。つまり、生理学的には「血液型と性格は関係ある」ともいえませんが、「血液型と性格は関係は存在しない」とも断定できないと思います。現状では、生理学的なアプローチは採用せずに、地道にアンケートの回答を分析するのが唯一の方法なはずです。それを、強引に「生理学的に血液型と性格は関係ない」と主張するのはどうかなぁとは思うのですが…。
ABO式血液型の研究者からは、こういう意見もいただいています。
ですから、脳の発生の時期(性格?)に何らかの影響を与えていることは完全には否定できないと思います。 |
なお、性格は環境によってのみ決定されるというのは明らかに間違いです。というのは、現在でも、びっくり病、強迫神経症、攻撃性、注意不足などが遺伝子と関係あることが実証されているようですから(『脳内物質が心をつくる』 石浦章一 羊土社 H9.5)。 -- H10.2.26
最近では、性格テストを使ったアプローチも盛んにされているようです。心理学で長い間論争になっていた「遺伝か環境か」にピリオドを打つかもしれない記述もありました。それによると、遺伝の影響が40%強、環境の影響が60%弱だそうです(R・グラント・スティーン 『DNAはどこまで人間の運命を決めるか』 226〜227ページ 三田出版会 H10.4)。
現在おこなわれている人格テストに問題があるのは明らかだが、別々に育てられた一卵性双生児の間の類似度が高いという事実は、 人格の遺伝性に関する強力な証拠となる。
職業適性、職能、および全般的な関心事に関する徹底的なテストの結果、人格のこれらの分野の遺伝率は全体として40%ほどであった(*1)。 一緒に育てられた一卵性双生児と別々に育てられた一卵性双生児の間には重大な違いが見られ悪 どんなことに関しをもつようになるかについては、 環境の果たす役割がかなり大きいことが確認された。また、いくつかの異なったテストによれば、社会的態度といった漠然としたものでさえ、40%の遺伝性があるとされている。現に、双生児による回答からは、人生において宗教は重要であるという奪え方の遺伝率は40%、伝統的な価値観にこだわることに関しては53%の遺伝率が出ている。双生児の2人の間のもっとも大きな違いをひとつだけ挙げるとすれば 「社会面での無宗教的な態度」で、これは受けた教育による影響がかなり強かったが、それでも遺伝率は34%となっている。別々に育てられた一卵性双生児から特性に関して最大限の遺伝率が算出されるのはもっともであることを考えてもなお、 これらの結果には驚くべきものがある。ついでながら述べておくと、別々に育てられた一卵性双生児の研究では、IQの遺伝率は69%となっている (第8章参照)。
人格決定因は各々遺伝性の程度が異なり、遺伝性の強いものもあればほかよりも弱いものもあることは十分に考えられる。 しかし現在のデータでは、それぞれの決定因の間に大きな違いがあることは明らかにはなっていない。数年前、合計で双生児が三万組になる四つの異なった研究結果を総合したところ、外向性と神経症傾向のどちらも遺伝率は50%という数値が出た(*2)。さらに最近になって、 異なった研究からデータを集めたところ(表10・1)、異なった人格特性に見られる遺伝率がほぼ均一の数字となって現れた。もっとも遺伝率の高かったのが外向性で47%、いちばん低かったのが人当たりに関する遺伝率で39%であった(*3)。これらの結論は、多数の双生児を対象とし、近代的な心理テストをおこない、最新型のコンピュータ・モデルを採用して遺伝率を計算したいくつかの研究を基にしたものである。表10・1 人格特性の遺伝a
特性 遺伝性 環境 外向性 47% 53% 開放性 46% 54% 神経症傾向 46% 54% 誠実性 40% 60% 人当たり 39% 61% 全体的性格 45% 55% (a) 各々の人格特性に関するデータは、多くの異なった研究の平均(*3)
*1 Bouchard, T. J., et al., Sources of human psychological differences: The Minesota Study of Twins Reared Apart, Science 250 (1990): 223-228.
*2 Plomin, R., The roles of inheritance in behavior, Science 248 (1990): 183-188.
*3 Bouchard, T. J., Genes, environment, and personality, Science 264 (1994): 1700-1701.
元の論文は『サイエンス』だそうですから、なかなか信頼できる数字だと考えていいと思います。遺伝のうち血液型はどのくらいなのかわかりませんが、私の感じだと概算で最高で数10%といったところです。血液型って結構な影響があるものですね。 -- H10.8.27
以前は「推測なのでは」と書いたのですが、いろいろな論文を読んでみると、どうもこれはほぼ確実なことのようです。血液型の性格を固定的なものと考えていること、能見さんのデータを追試していない(心理学的手法を無視していますから確かに追試しようがない)ことなどの疑問点がうまく説明できるからです。
また、松井豊さんの論文のページを最後まで読んだ人にはわかると思いますが、いままでポピュラーに行われていた統計手法(χ2検定)は、実は血液型による性格の差を見るには非常に不向きな方法だったのです。血液型による性格の差はせいぜい10〜20%程度ですし、普通の質問項目では数%しかありませんから、元々の誤差が数%ある数百人程度のサンプルでは統計的に意味のある差が出ないのは当たり前です。そんなのはちょっと計算してみれば当然のことなのですが、今まで誰も指摘しなかったのは非常に不思議です。しかも、サンプル数を増やすと、(当然のことながら)対象者が均質でなくなることが多くなって差が小さくなることが確認されています。だから、ちょっとぐらいサンプル数を増やしても、差はなかなか出ないのです。さすがにJNNのデータのように1万人以上にすると差は出ますが、それにしてもほんのわずかなものですからね。
いずれにせよ、松井さんの論文1&2、大村さん、能見さん、坂元さんのデータについても、かなりの再現性があることが確認されました。質問項目や対象者による影響についても、私の仮説がちゃんとあてはまることもわかりました。万々歳といったところです。
つまり、心理学の「常識」は血液型の「非常識」なのです。普通の統計では差が出るはずがないし、性格テストの質問項目を使っても血液型による差が出るはずがないのですから、まじめな人ほど「差が出ない」「データの再現性がない」というのは当然のことでした。これで、いままでのことがすべてうまく説明できました。ということで、当分の間は心理学者から「血液型と性格は関係ある」という主張は出てこないでしょうね、残念ながら。 -- H10.5.18
これは大変失礼なことなのですが、あえて書いておきましょう。
今まで、(否定論者の)心理学者の論文を何十と読みましたが、はっきり言って統計分析が(実に!)不得意な人が多いのです。私のような統計の初心者がそう思うのですから、他の心理学者はほとんどがそう思っているに違いありません(まさか、日本の心理学者全員が統計が不得意というわけじゃないでしょうから…)。私が感心したのは松井豊さん、坂元章さん、渡邊席子さんといったところですが、他の人については??という人が(実に!)多いのです。理由は不明ですが、単に勉強不足なのではないかと思います(でも、統計計算がいい加減な論文でも学会を通っているのものあるのですから、審査が甘い場合もあるのかなぁ?)。具体例を出すのは簡単ですが、失礼なのでここに書くのは遠慮しておきます(私が名前を出さなかった人がそうですから…)。
つい最近、松井豊さんの論文で初めて分析ミスを発見しました。松井さんの分析の確かさには定評がありますが、やはり凡ミス(失礼!)もあるのですね。ちょっと安心しました(笑)。しかし、問題なのはこの論文が(否定論者の)心理学者に非常に多く引用されていることです。もちろん、内容や分析についてはノーチェックです。つまり、こんな凡ミス(失礼!)が10年以上も誰にも指摘されずに堂々とまかり通っていたのです。
いや、松井さんはとっくに気付いていたのかもしれないのです。ただ、誰にもわからないのでそのままにしよう思っていたのかもしれません。う〜ん、これではまるで私のようだ(苦笑)。いや、松井さんのことだから、なにか別な理由があったのかもしれません。例えば、わざとミスを書いておいて、どの心理学者が一番最初に発見するのか知りたかったとか…。 でも、心理学者でない私が一番最初に発見してしまいました。これでは、松井さんもさぞかし残念(?)でしょう。いや、仲間内ではすでに「発見」されていたのかも(本当かな?)。おっと、これまた『金田一少年の事件簿』や『名探偵コナン』の見過ぎでしょう(笑)、たぶん。 |
私はこれを知って正直あきれかえりました。私のような部外者が簡単に(でもないか…(^^;;)わかった単純ミスが、10年以上も内部の誰にも指摘されないというのは実に不思議です。まあ、(否定論者の)心理学者のレベルというのは大体こんなものです。だから、血液型と性格は「全く関係ない」といった無茶苦茶な(失礼!)結論が出てくるに違いありません。私のような統計の初心者だって「全く関係ない」という結論を出すには、能見さんを上回る膨大な「関係ない」というデータが必要であることは簡単にわかりますから。そんなデータはどこにも存在しません!
おっと、随分悪口を書いてしまいました。もちろん、どの業界でも「ムラ社会」ですから、仲間内で間違っていても指摘できないということは多々あると思います。私だって、ここで心理学者を批判していても、自分のこととなると全く同じですから大きなことはいえません。f(^^;; ただ、(否定論者の)心理学者のレベルは、しょせんそんなものだということを書いておいた方がいいかなぁと思ってあえて書いておきます。また、日本の心理学者全体がそんなレベルだとも思っていません。あくまで、私が知っている(一部の否定論者の)心理学者ということです。
とにかく、腹立だしいのを通り越してあきれかえっています。う〜ん、こうなると『ABO FAN』の統計分析のところなんか、否定論者の心理学者には本当にわからないのではないかと心配になってきますね(え?それなら書くだけムダだから書くなって?)。こうなると、これは「タブー」どころではありません。本当に困ったものです! う〜ん、少々情けなくなってきました(反論がある方は、ぜひshozo_owada@ma2.justnet.ne.jpへメールをどうぞ!)。
なお、具体例については、前川輝光さん『血液型人間学--運命との対話--』の8章で詳しく紹介されています。興味がある方はぜひ読んでみてください。 -- H10.8.23
[詳しくはこちら! -- H11.6.24]
前川さんの本にも書いてありますが、同じデータを少し別な角度から見てみましょう。以下は能見さんの『新・血液型人間学』からのデータです。これは、国会議員にはO型が多いというものです。
区 分 (S53.4)
O型 A型 B型 AB型 人数 危険率 日本人の平均 30.7% 38.1% 21.8% 9.4% 115万人
−
衆議院議員 36.0% 30.9% 18.3% 14.8% 453人
<0.1% 同上自民党 39.7% 26.8% 19.2% 14.2% 239人
<0.1% 同上社会党 35.2% 31.2% 13.9% 19.4% 108人
<0.1% 参議院議員 30.0% 34.5% 21.1% 14.3% 223人
<10% 知事経験者 22.4% 55.2% 17.9% 4.5% 67人
<0.1% 人口20万人以上の市の市長 32.5% 37.7% 20.8% 9.1% 77人
<99% 人口5万人以下の市の市長 30.0% 32.0% 17.0% 21.0% 200人
≒0% 赤は多め、青は少なめの傾向
このデータは、普通の統計学の「教科書どおり」の解釈では、(当然のことながら)「衆議院議員にはO型とAB型が多い」ということなります。危険率というのは、偶然に「O型やAB型が多い」ことが起こる確率ですから、上のように危険率が0.1%以下ならそう判断することが可能です。危険率は、普通は5%に取るのが常識ですから、0.1%なら全く問題ないわけです。
ところが、否定論者の心理学者は、危険率が0.1%以下だろうがなんだろうが絶対に「O型やAB型が多い」とはいえないのだそうです(ちなみに、このデータの危険率は0.1%どころか少なくとも0.001%程度以下です…手元に0.1%以下の数表がないので概算ですが)。統計学の「常識」に反するこんな解釈には、何か裏付けがあるのかどうか調べてみましたが、残念ながら見つけ出すことはできませんでした。というか、統計学の常識からいって、どう考えてもこんな解釈ができるわけがないのです。つまり、否定論者は統計学を(意図的に?)無視している人が多いのです。本当に意図しているのかどうか知りませんが、実に困ったものです!
統計学の初心者でもおかしいと思う、こんな(ばかばかしい?)解釈が信じられられない人がいれば、全く同じことを否定論者に質問してみるといいでしょう。どの本やどの人もそういっていますから。しつこいようですが、これは事実です。
#どうしても否定したいということなら、0.001%以下の確率で偶然に起こったというしかありません。
また、別な否定論者から、こういう「理由」を教えてもらいました。政治家は親戚が多いから特定の血液型が多くなるのだそうです。冗談としては面白いのですが、これまた何の裏づけもありません(教えてもらえません)。私も探したのですが、残念ながら(?)データによる裏づけは見つけることはできませんでした。
常識的に考えても、戦前ならともかく、昭和53年ぐらいだとそれほど2世議員はいないはずです。敗戦で国会議員のメンバーは大幅に変わったはずですから、昭和53年ぐらいならそれほどの親戚関係はないものと予想できますから。もっとも、最近は増えている可能性はありますが…。
更に、どの程度親戚が多くなると特定の血液型がどの程度多くなるという計算も不明のままです。
ネタはまだまだありますが、書き出すときりがないのでこのへんにしておきましょう。:-p
上の2つの例に限らず、否定論者の統計的説明のほとんどがおかしいことは、教科書でも読めば一目瞭然なのですが、「心理学者」という専門家の「ブランド」があるのでもっともらしく思えるだけです。なぜ反論する人が前川さん以外に今までいなかったのでしょうか?
しかし、最近の衆議院議員のデータでは、どういうわけかほとんど血液型別の差が出ていないようです。時代が変わったのか、以前のデータがたまたまそうだったのか、私にはなんともいえませんが…。いや、ある否定論者の主張が正しいとすると、「親戚が減った」のでしょうか? |
心理学者にとってのタブーはまだまだあるようです。そこで、ちょっとだけ書いておきます。
1.心理学者同士の議論はないのか?
「血液型ステレオタイプ」は存在するか?にも書きましたが、この研究は今までとは全く反対の結果が出ています。本来ならここで議論が沸騰しないとおかしいのですが、私はそういうことは聞いたことがありません。単に私が知らないだけなのでしょうか?
2.ランダムサンプリングはちゃんとされているか?
元々は私の指摘ではないのですが、心理学者のデータの大部分はランダムサンプリングがされていません。例えば、データが自分の勤務先の大学生だけなどということが非常に多いのです。それにもかかわらず、能見さんのデータはランダムサンプリングがされていないという理由で否定しています。どうみても、これはダブルスタンダードですから公平ではありません。 -- H10.1.25
つい最近になって、心理学の本を読む機会がありました(こころの科学セレクション 性格 H10.3 日本評論社)。この本の174ページには、「血液型と性格」についての説明があります(個人攻撃をするつもりはありませんので、執筆者の名前はここでは書きません)。
[補遺]「血液型と性格」と性格心理学
現代の日本では、 ABO式血液型と性格になんらかの関係があるとする「血液型性格関連説」が多くの人のこころをとらえている。…
だが、性格心理学の分野では、血液型と性格の間に論理的・実証的関連を認める論者はほとんどいない。関係があるように見える錯覚であるとするのが主な論調である。つまり、関係には否定的なのである。否定的であることは、いつか関係を見出せるということまでを否定するものではないが、 現在の性格心理学者でこの問題に取り組んでいる研究者はおらず、学問レベルで関係が見出されることはあまり考えられない。
参考文献として、現代のエスプリ372(H10.3発行)もリストにあるので、現時点(H10.11)では最新のものと言っていいでしょう。しかし、読んでわかるとおり、「否定的であることは、いつか関係を見出せるということまでを否定するものではない」ということですから、完全な否定ではありません。ところが、巻末のインタビューには…
Aさん 心理学では、下手なことをいってマイナスであったというより、ああでもない、こうでもないといったほうが安全だというような風土がありますね。
Bさん 血液型がどうだとかいうのは、もう国辱的な問題だと思います(笑)。
Bさん 国辱的なものだなんていっていないで、もう少しそれに代わるものを考えることですね。
といったやりとりがあります。語るに落ちたというか…(もっとも、このインタビューは、1988年に行われているものの再録ですので、現在は考えが変わっているのかもしれません)。血液型と性格の関係を研究するのはやっぱり「タブー」であるようです。私にとっては神様のような存在である心理学の権威がこう発言しているのですから間違いないのでしょう、たぶん。これには非常にがっかりしました。あ〜あ。
実は、心理学と血液型は似ているのです。ヒポクラテスの体液説(4つの体液−血液、粘液、黄色胆汁、黒色胆汁−のバランスで性格、精神、健康が決まるという説)、クレッチマーの体型による性格分類などなど…。しかし、「血液型と性格」は、能見さんという在野の「ポピュラー・サイコロジスト」が広めたのですから、これは(日本の)心理学にとっては「異端」です。「異端は異教よりも悪い」のは古今東西を問わず歴史的な真理です。「異教」ならまだ許されますが、「異端」である説は徹底的に弾圧されるのが普通です。「タブー」ということであれば、心理学界では当分はまともに研究しようという雰囲気にはならないでしょうね。非常に残念なことですが…。
これを裏付ける記述もあります。安藤寿康さんの文章です(心の遺伝をめぐる11の誤解−再び注目を集める『遺伝・環境』問題」 現代のエスプリ第372号 H10.3 至文堂 203ページ)。
心の遺伝について、このごろようやく「科学的に」語られるようになってきたようだ。
これまで心理的な形質の遺伝を問題とすることはほとんどタブーだった。心や行動の遺伝を研究しているというだけで、あの(!)優生論者だの社会的ダーウィニズムだのと騒ぎ立てられ、科学的な議論に至る前に頭から葬り去られることがほとんどだったのである。
どうやら、こういう印象は強いようで、竹内久美子さん『小さな悪魔の背中の窪み』の61ページにも、
彼ら[心理学者]にとって血液型と性格について論じることはタブーのようなものではあるまいか、血液型と性格との間に何か関係があると思って いるような素振りを見せたなら、 即刻学会から永久追放されかねないのではないかと−−それはたぶん考えすぎというものだろうが−−私には感じられるのである。
といった感想が書かれています。同じようなことですが、最近の『ABO
FAN』への「批判」のほとんどは、統計的に証明しても意味がないとか、私が統計的「トリック」を使っているというのが多いのです。統計的に証明しても意味がないから、心理学の性格テストは無意味になりますし、「トリック」ならそのタネを見破ればいいはずです。しかし、そんなことはほとんど書いてありません。つまり、そういう人は、血液型と性格は「非科学的」ということを(科学的証明なしで)頭から信じ込んでいることになるのです。「科学的」なことを「非科学的」に信じ込む、これは本当に科学的なことなのでしょうか?
ところが、この奇妙な矛盾を指摘すると、罵詈雑言(ばりぞうごん)と決めつけが飛んできます。血液型と性格に関係があるはずはないとか、お前は能見の味方なのかとか、自然科学的に証明されないと信じない(?)とかというのが主なものです。あるいは、完全に沈黙してしまうこともあります。これも「タブー」というものなのでしょうか?
-- H10.11.29
そこで、タブーについてMicrosoft-Shogakukan Bookshelfで調べてみました。
タブー (英taboo,tabu元来はポリネシア語)
- 未開社会での宗教的観念の一つ。異常と正常、聖と俗、清浄と不浄を区別し、両者の接近・接触を禁止し、これを犯すと超自然的制裁が加えられると信ずる社会的習俗。禁忌。
- (比喩的に)社会や特定の集団の中で、法的に禁止されているわけではないが、それに言及するのは良くない、そうすると悪い結果になると見なされていることがら。
「禁句」「タブー」「忌み言葉」の違い
共通する意味 ある集団、ある人物に対して言ってはならない言葉、また、その内容。英語 a taboo word
- 「禁句」は、個別の状況によって生まれるもので、「タブー」「忌み言葉」は、ある社会において共通の認識として成立するもの。
- 「禁句」は、言葉、内容どちらについてもいうが、「タブー」は、主に内容について、「忌み言葉」は、言葉そのものについていう。
なるほど、これで分かりました。一般の社会では、血液型と性格について話をすることはタブーではありません。しかし、あるグループ(心理学者など)では、「それに言及するのは良くない、そうすると悪い結果になる」と思われているのは確かです。また、「ある社会において共通の認識として成立」し、そして、「主に内容について」言うことになることになります。フムフム、確かにこの定義はピッタリです。ところが、Bookshelfは宗教学事典ではないので、タブーを打破する方法については全く書いてありません。これは困った。元々が宗教的な観念であるならば、なんらかの宗教的な方法(?)が必要になるのかもしれません。とは言っても、宗教はさっぱりよく分かりませんが…。
私は、いままで血液型と性格についての「タブー」を打破するために、科学的・統計的な方法でず〜っとやってきました。ところが、さっぱり成果が上がらないのです(苦笑)。でも、そんなのは当然です。なにしろ、元々は宗教的な概念なのだそうですから、科学的に分析することは可能としても、そんな方法で成果が上がる方がおかしいのです。これは、心理学的にも正しい結論です。もう少し早く辞書を引けばよかったなぁ…。もし、宗教的な概念だとすると、お祓い、お祈り、おまじないなんかが考えられます(ほとんど冗談ですが(笑))。あるいは封印するとか…いやいや、これはRPGのやりすぎかもしれませんね。
冗談はさておき、現実的にはだれかエラい人からの「ご宣託」が一番効果的でしょう。しかし、心理学の権威は血液型には絶対反対なのですから、そんなご宣託があろうはずもありません。つまり、ず〜っとタブーであり続けることになっている訳です。そういう人は、自分自身は「科学的」だと思っているのですから、なんらかの合理化が必要になります。ということで、合理化機制についてMicrosoft-Shogakukan Bookshelfで調べてみました。
心理学で、防衛機制の一つ。行動の真の動機となる欲求を隠して、もっともらしく理屈をつけること。理屈づけ。
これも納得です。典型的(?)な「差別的」「アカデミックでない」「性格を決めつける」「データがデタラメだ」といった反論は、どうやらそのためのようです。つまり、私の反論が正しかろうが間違っていようが、否定論者にとってはどうでもいいことなのです。単に合理化の理由が欲しいだけなのですから…。う〜ん、これは我ながら少々うかつでした。もう少し早く気が付けばよかったなあ。f(^^;;
ということで、今後はもう少し別な反論の方法を考えるつもりです(笑)。
では、そういう一部の否定論者はどういう性格なのでしょうか。「血液型性格学」を信じている人については、大村政男さんの『血液型と性格』の237ページには、こう書いてあります。「気分にムラがあるが人づきあいが好きで、複雑な思考判断をするよりは権威に従って生きていこうとするのんきな人たち」であると。ほとんどの肯定論者は、「信じている」のではありませんから、そういう性格ではないのでしょう、たぶん。しかし、血液型と性格の関係を頭から否定する人は「信じている」のだから、そういう性格なのかもしれません。つまり、「気分にムラがあるが人づきあいが好きで、複雑な思考判断をするよりは権威(=否定論者のの心理学者)に従って生きていこうとするのんきな人たち」ということになります。データがないのでなんともいえませんが、心理学者がそういっているだから、当たっているのかもしれません。なんともいえませんが…。 -- H10.12.3
#念のために書いておきます。私は、血液型と性格の関係が完全に証明されたとは考えていません。
#ただ、統計的にはほぼ証明されたし、自然科学的な可能性が全くないということはほぼ否定したつもりでいます。
#あくまで、データに基づいて総合的に判断しているので、決して「信じている」のではありません!
#誤解のないようにお願いします。
やっぱり「血液型と性格」は心理学者のタブーだった、という動かぬ証拠(?)を見つけました。それは、FBI効果についてです。
次のコラムは、大村政男さんが提唱したFBI効果についての説明です。
前川輝光さん 『血液型人間学−運命との対話−』(551〜553ページ) 「FBI効果」について見ていきたい。大村は能見血液型人間学はニセ科学であり、自らの所説を真実らしく見せるために3つのトリックを用いていると言う。すなわち「フリーサイズ効果(Freesize)」「ラベリング効果(Labeling)」
「インプリンティング効果(Imprinting)」の3つである。「FBI効果」の「FBI」というのは、各効果の英語表現のうちの傍点を付けた文字をつないだものである。
しかし、この問題は実は、大村の依拠する既存の心理学において、すでに議論されていたことであった。引用した大村の発言ではこのことがぼかされているが、白佐俊憲・井口拓自のこの点についての発言を読むと、事態がより明瞭になるであろう。
大村自身、こうした説の存在は知っていたのである。『血液型と性格』の4年半前に出版された『「血液型」の迷路』では、大村は、大西赤人との対談中、目立たない形でではあるが、こうした説にふれている(「これと同じような事が一般の性格テストでも起こります。そういう報告もありますよ」 『「血液型」の迷路』86頁)。ただし、それが気になったらしい大西から質問が出ると、さっさとこの話題を切り上げている(87頁)。 |
なお、大村さんは、この「FBI効果」を実験によって確認しています。
ところが、たまたま『性格のための心理学』(現代のエスプリ No.372 H10.7 至文堂)を読んでいたところ、衝撃的な事実が書かれていたのです!
「座談会―性格のための心理学」(22ページ)から引用しておきます(個人攻撃ではないため、あえて名前は書きません)。
【引用文1】
私はある授業の時、紙片に学生本来のフルネームを書いて出して貰った。少し経ってから、「君たちの書いた文字をある筆跡鑑定家に依頼してその文字から性格を判断して貰った」(これはもちろん嘘)といって1人ずつその偽の診断書を手渡した。そうしたところ、おおよそ70パーセントぐらいの学生が「当たっている」と報告してきた。
ということは、このケースでは、少なくとも70%程度の学生には「フリーサイズ効果」が現れることになります。ところが、続きの文章には…
【引用文2】
ずっと前にYG性格検査をやって、その後、偽の結果を手渡したがだれも文句を言わないで納得してしまった。
私は、この文章を読んで思わず自分の目を疑いました。信じられなくて、何回も読み直してみたのですが、確かに間違いありません。しつこいようですが、上の文章は一字一句違わずに原文どおり引用したものです。疑問がある人は、自分で原典に当たってみてください!
この文章が事実だとすると、YG性格検査では100%「フリーサイズ効果」が現れることになります。でも、YG性格検査がインチキだという心理学者はいません。少なくとも私が知る限りは…。結局、「フリーサイズ効果」が現れるかどうかと、性格に差があるかどうかは(ほとんど?)関係ないとしか言いようがありません。
単刀直入に言いましょう。この文章が正しいと信じる限り、
FBI効果は存在しない!
と判断するしかありません。とは言っても、あまりにも衝撃的な事実なのでいまだに信じられません。(@_@) 何かの間違いなのでしょうか?
更に問題なのは、下の文章です。
【引用文3】
それはそうと、このような研究は倫理的に問題だね。
しつこいようですが、この3つの文章の発言者は同一人(心理学者)です。つまり、心理学者自身が、こんな「倫理的に問題」な実験は好ましくないと言っているです。
これでは二重の意味で信じられません。つまり、大村さんの「FBI効果」は明らかに間違っていて、しかも、そのやり方は「倫理的に問題」であるというのですから…。つまり、心理学者はなんとしてでも血液型を否定しなければならないことになります。もしも事実とすると、なんと言っていいのやら分かりません。暗澹たる気持ちになってしまいました。
心理学者は、ここまでして「血液型と性格」を否定しないといけないのでしょうか…。 -- H11.11.18
今まで、一部の否定論者から、血液型は日本だけの現象で、海外では流行っていない[から間違いだ?]と声高に主張がなされてきました。さすがに最近は、英語圏だけではなく、韓国、台湾、中国などのアジアの状況が明らかになるにつれ、こんな事実に反する反論は下火になってきたようです。いやぁ、いいことですね。(^^)
しかし、日本でもアカデミック話題として、また英語圏では一般の話題としてもやはりタブーのようです。複数の血液型の研究者から、こんな内容の話を聞きました。読者の皆さんにも知ってほしいのであえて公開しておきます。
血液型については、欧米、特にドイツ、アメリカ、イギリスなどでは、人種差別との関係で、研究することがタブーとなっている[ようだ]。だから、血液型の研究は日本が進んでいる[らしい]。
もっとも、フランスなどではそれほどタブー視されていない[ようだ]。
実際に、血液型と関係する糖鎖の研究は、日本が世界一番進んでいます。また、「血液型と性格」の研究も、内容はともかくとして、論文の数では日本が一番です。
【参考】 海外での研究 『現代のエスプリ〜血液型と性格』からです(『海外における「血液型と性格」の研究 井口拓自、白佐俊憲)。
飛岡健さんの本(フランス風味の血液型 『おもしろくてためになる 血液の雑学事典』日本実業出版社 H2.3 131ページ)にこんな記述があります。
だから、フランスだけで「血液型と性格」研究が流行ったわけですね。ラテン系の国は、アングロサクソン系の国にくらべて、それほど人種が問題視されないと(?)いうことなのでしょう。 また、英語圏で有名な研究といえば、『ネーチャー』とR.B.キャッテルですが、『ネーチャー』は人種差別的な匂いもしなくはありませんし、キャッテルは著名な心理学者ですが(日本語版もある16PFで有名)、人種差別主義者であるとして批判もされているようです。こういうことも、英語圏での「血液型と性格」のイメージに影響しているのかもしれません。だから、研究が進まないのでしょうか? そういう意味では、日本の研究者はラッキーと言えるでしょう。(^^) |
また、アカデミックな面からは、
「血液型と性格」の番組は学術的なものはほとんどなく、クイズやバラエティなどが中心である。だから、非常にダーティなイメージがつきまとっている[ようだ]。そんな番組に喜んで出演する研究者なんて、あまりいない[のではないか]。
とのことです。確かに、クイズ番組やバラエティ番組ばかりに出演している研究者の評価が高まるとも思えませんし、真面目な研究が進展するとも思えません。私も含めて(?)、少々反省させられる内容でした。
もっとも、真面目な内容が一般に紹介されれば、研究機関や研究者に予算が付くということはよくあることなので、やはり内容は紹介すべきだとは思いますが…。そういうことなら、真面目な研究者も歓迎することは間違いないでしょう。要はやり方次第だと思います。(^^) -- H16.7.26
面白いですか? これより面白い話は、松田薫さんの著書『改訂第二版「血液型と性格」の社会史』の補章「止むことのない社会病理」の中に書かれています。ただ、松田薫さんは血液型と性格に関係があるともないとも断定していません、念のため。
また、最近出版された、前川輝光さんの『血液型人間学--運命との対話--』も面白いです。