番外編 Ver.2
[注:実は血液型と性格は関係があるという医学的根拠があるようです→詳しくはこちら -- H14.1.3]
いままでメールで意見をとってもたくさんいただきました。どうもありがとうございます。しかし、「血液型と性格」についてはまだまだ誤解があるようですね。そこで、そういう誤解や疑問を一掃するため(本当にできるのか?)、FAQ番外編[Ver.2]をオープンしました。もっと一般的な質問を集めたFAQ(本編)へはここをクリック!
また、このホームページでは、明るく楽しくという趣旨に反するので、特定の個人や団体を名指しして批判するといったことは極力していません。ご了承ください。
私が不勉強のため、間違い等も多数あるかと思います。ここが間違っているよ、あそこが違うよと感じた方は、ご意見・ご質問を私へお寄せください。もちろん、反論も大歓迎です。血液型と性格に関する議論を深めるため、時間が許す限りなるべくお答えしたいと考えています。
以前のVer.1ではほとんどが私独自の意見だったのですが、資料が集まったこと、そして議論の信頼性を上げるため?に、大幅に(否定論者の)心理学者の論文からの引用を増やしています。ずいぶん引用が多いんじゃないか?という疑問を持つ人もいるかもしれないので、あらかじめお断りしておきます。また、日本の心理学者で積極的な肯定論者は(私の知る限り)いません。ですから、日本の心理学者と書いてある場合は、特に断りがないかぎり、全て否定論者です。
なお、心理学関係者からは以下の私の意見に対する反論はたくさんいただきました(どうもありがとうございます)。しかし、データによる反論は一つもいただいていません。その全ては「差が出たデータは○○と解釈すべきだ」あるいは「データがいいかげんだ」というものです。しかし、心理学者が提供しているデータについては後者はありえません(?)から、それは「解釈」の問題になります。しかし、その「解釈」が正しいという別のデータの提供がないのですから、これは(反証ではなく)単なる可能性ということになります。また、能見さんのデータに対する追試は、私が調べた限りの資料にはありませんでした[その後、大村さんの論文に1つだけあることを発見しましたが、心理学者では私の知る限りこの1つだけです -- H10.9.23]。つまり、現在の時点では、心理学的にはデータによる反証は不可能と結論せざるを得ません。これは、非常に奇妙なことなのですが…
竹内久美子さんの『小さな悪魔の背中の窪み』によると、血液型と性格の関係はR.B.キャッテルの研究で明らかだと思います。非常に画期的な研究ですね! -- H10.4.26
私が読んだ資料や判断基準・論理構成について知りたい方はこちらをどうぞ!
abofan@js2.so-net.ne.jp or 血液型おしゃべりメーリングリスト[ABO-chat ML]
白血球の型と性格には関係があるのだそうです。もちろん、遺伝子レベルで科学的根拠があるのだそうで…。残念ながら、赤血球の型(ABO式血液型など)とは関係があるとはまだ証明されていません(高田明和著『血液は体のすべてを知っている』 コスモの本 H4.10 206ページ)。白血球の型は現在HLAしかないので、HLAと性格の関係は遺伝子レベルで証明されていると考えていいようです。
白血球の型とある種の体質、性格は遺伝子のレベルで結びついていることが知られている。しかし、赤血球の場合は遺伝子レベルでこのような関係があることは知られていない。血液型性格診断は占いの一種くらいに思った方がよさそうである。
残念ながら、どの型がどんな性格に関係があるのかは書いてありませんでした。しかし、この本の著者はABO式血液型と性格の関係には否定的です。私は、この調子でABO式血液型と性格に関係があることが証明されることを願っているのですが。
論文については、ここをクリック! -- H10.5.13
確かに血液型で性格に差が出た!という代表的な論文です。
原題: "The relation of blood types to primary and secondary personality traits." The Mankind Quarterly, pp35-51, Vol. 21, 1980.
またまた、竹内久美子さんの『小さな悪魔の背中の窪み』から要約します。
R.B.キャッテルという心理学者が、(人種や民族を均一にするため)オーストラリアに住む白人323人に対して性格検査と血液検査を平行して行った。ABO式はもちろん、MNSs式、Rh式、P式、ケル式、ダフィー式、コルトン式の7種類の血液型、赤血球中の酵素5種類、血清タンパク5種類について、それぞれの型との性格との相関を調べた。性格検査は、「キャッテルの16性格因子質問紙法」という有名な方法。
では、どんな結果が出たかというと、ABO式でも有意差が出ましたが、P式の方がもっと強く現れたそうです。
ということだそうです。日本人とはちょっと違うような気もしますが、文化の差でしょうか?
なお、以上の出典は、マンカインド・クウォーターリー(1980) 21巻 35〜51ページ だそうです。ちょっとぴっくりですね。原典についてもっと詳しく知りたい方はここをクリックしてください! また、日本以外の研究としては、有名な『ネイチャー』の論文やD.A.スワンの研究、V.V.Jogawarの研究などがあります。
-- H10.1.10
日本の心理学者は、ホントは「血液型による性格には差がない」と主張しています。それは、「差が出た!」というデータで確実なものはないからというという理由です。そういう心理学者の代表者の1人、松井豊さんの代表的な論文からのデータです。松井さんのデータの信頼性は、ランダムサンプリングの手法やサンプル数の多さなどで、心理学者の間(もちろん私も)では高く評価されているようですね。しかし、実はちゃんとした差が出ているものもあるのです。ちなみに、このデータは能見さんのデータと同じ傾向が現れています。
「ルールや慣習や秩序を重視する」と回答した人の比率です (詫摩武俊・松井豊 1985 血液型ステレオタイプについて 東京都立大学人文学報 第172巻 15〜30ページ)。
血液型 回答者数 比 率 O 29.7% 57.7% A 36.7% 54.7% B 22.5% 50.7% AB 11.1% 41.2% 合計 613人 −
これも、ほぼ予想どおり、O≒A>B>ABの順になっています。危険率は0.1%以下です。 (H9.10.21)
もう1つ書いておきます。JNNデータバンクの調査で、2年おき4回のデータが分析され、それぞれ約3,100人ずつ、合計で12,418人のデータが分析されているそうです(松井豊 1991 血液型による性格の相違に関する統計的検討 東京都立立川短期大学紀要, 24, 51-54.)。で、「ものごとにこだわらない」と回答した比率を調べた結果、次のようなデータが得られたそうです。
年度 O A B AB S55 34.3 30.6 37.8 31.8 S57 36.1 33.0 35.6 39.1 S59 39.9 32.0 38.8 39.5 S61 37.1 35.9 45.1 42.9
水色が一番比率が低いデータです。確かにA型の比率が少ないですね。で、4年間の平均で表を作り直してみました。
O A B AB 36.7 32.9 39.3 38.3
予想どおり、A型がかなり低いようですね。これも危険率は0.1%以下です。PART1&2についてもっと詳しく知りたい人はここをクリック! -- H10.5.3
このデータについては、(日本の心理学者でははじめてなのですが)血液型別にアンケート結果に差があるという論文を読みました。それはこれです!
この論文の元データは、松井さんのデータより年数が多いのです。具体的には昭和53年から昭和63年までの1年ごとのデータが使われています。松井さんは、昭和55年から昭和61年までの2年ごとのデータです。グラフを見るとわかりますが、ちゃんとはっきりとした傾向が現れています。ですから、「安定して一貫した傾向が見られる」ということになります。ただし、この傾向が見られるのはA型とB型のみのようで、他の血液型はないようです。松井さんのデータでもA型についてははっきりした差が出たことから、このデータはA型に差が出やすいデータだといえるでしょう。 |
血液型と性格の関係に否定的な『現代のエスプリ〜血液型と性格』には心理学者の渡辺さんが執筆しています(188〜189ページ 『性格心理学は血液型性格関連説を否定できるか〜性格心理学から見た血液型と性格の関係への疑義』 渡辺芳之)。
性格検査と血液型との関係
これまで何人かの心理学者が、 血液型と性格との関連を実証的方法で反証し、血液型性格関連説を否定しようとしてきた。ここで注目されるのは、彼らが血液型性格関連説を「科学的方法によって反証可能な理論」、すなわち科学的理論とみなしていることである。この点でそれを「非科学的な迷信」とみなして無視した従来の心理学者とは異なる。
しかし、論文を一読すればわかるように、彼らの多くは「血液型性格関連説は間違っている」というアプリオリな立場を持っており、それを実証するために研究を行なっていることもまた確かである。
心理学者が血液型性格関連説に対して行う反証は二つのタイプに分かれる。一つは「性格検査」など「性格」を測定しているとされる外的基準と血液型との間に関連がないことをデータで示して、血液型と性格には関係がないと結論するものである。たとえば長谷川は、YG性格検査の類型分布が血液型によって変化しないことを示しているし、その他にもEPPS、SPIなどどの関係を調べた多くの研究が、それらの検査結果と血液型とに関係がないことを示して、血液型と性格との関係を否定している。性格検査の妥当性を前提とする限り、こうした論理は正当なものに思える。
しかし、多くの性格検査はそれぞれ人の性格のごく一部を測っているにすぎず、ある検査と血液型とに関係がなくても、他の検査とは関係しているかもしれない。実際、性格検査の得点と血液型との関連が、ごくわずかとはいえ統計的に有意なかたちで見出されたという報告もある。
また、すべての性格検査について検討して血液型と関係するものがひとつもなかったとしても、人の性格というのは非常に複雑なものであるから、これまでどの検査でも測られていない非常に重要な要素が存在して、 それが血液型と関連している可能性が残る。
また、坂元さんは同じ『現代のエスプリ〜血液型と性格』で次のように主張しています(184〜185ページ 『血液型ステレオタイプと認知の歪み〜これまでの社会心理学的研究の概観』 坂元章)。
4 結論
これまでに、多くの研究が、 血液型ステレオタイプによる認知の歪みを検討し、それを支持する証拠を得たとくり返し主張してきたが、そのすべてが方法あるいは結果に問題を抱えており、いまだに、認知の歪みに関する明確な証拠は提出されていないと言えよう。
さらに言えば、これらの研究はいずれも、認知の歪みがあるかどうかを扱ったものであり、坂元の研究などを除けば、その認知の歪みが「血液型性格学」に対する信念を形成していくという問題については、 ほとんど検討していない。
例えば、大村は、FBI効果を提出しているが、FBI効果によって信念が形成されるまでの過程に、人々が、FBI効果によって、血液型ステレオタイプが自己・他者にあてはまるという経験をくり返し、そのくり返しによって「血液型性格学」に対する信念を形成あるいは持続させているのか−は検討されていない。その信念の形成・維持までの過程がはっきり立証されてはじめて、「血液型性格学」の浸透の原因の一つが、人々が持っている「歪んだ認知をする傾向」であると言えるのである。
筆者は、これらのことから血液型ステレオタイプによる認知の歪みの問題は、かなり以前から指摘され検討されているものであるが、現在でもなおその知見はあいまいであり、今後も大いに検討する意義のある問題であると考えている。
5 最後に
本稿は、議論の対象を血液型ステレオタイプによる認知の歪みの問題に絞っているために、他の分野の問題に触れることができなかったが、筆者は、「血液型性格学」に関するアカデミックな研究は、認知の歪みの分野だけでなく、全体として、いまだに未成熟な部分があるとしばしば感じている。これには、二つの理由があるのではないか。
第一に、「血液型性格学」の研究者はこれまで、審査の厳しい学会誌に論文をあまり投稿してこなかった。それにはさまざまな理由があったかもしれない。だがいずれにしても、厳しい審査を経ていないために、多くの論文がやや問題を残したままになっている。
第二に、「血液型性格学」のアカデミックな研究者は、それぞれの研究を十分に吟味し、批判し合う姿勢をあまり持ってこなかった。例えば、本稿では、認知の歪みの研究の問題を指摘してきたが、これまでに、これらの研究の展望を含む論文はしばしばあったにもかかわらず、これらの研究を列挙するにとどまり、本稿のように、その問題を指摘したものはなかったであろう。
互いの研究をよく吟味し、その不備を探し、それを踏まえたうえで慎重な議論を重ねていく姿勢は重要である。「アカデミック」とは、そういうことではないかと筆者は考えている。現在の「血液型性格学」研究は、「アカデミック」な立場から、「ポップ」な立場を批判するものとなっているが、筆者は、その「アカデミック」の足場をまず固める必要性を感じているのである。これは最近、自分自身が自戒していることでもある(筆者自身も、かつては、本稿で取り上げた筆者の研究の結果によって、認知の歪みの証拠が得られたと言ってよいと思っていたのである)。
もちろん、ほとんどの日本の心理学者は否定的ですが、それに疑問を持つ人も少数ですが上の2人以外に存在します。また、坂元さんは、かつては否定的な見方をしていたのですから、興味深いことですね。ただ、この2人も積極的に肯定しているのではありませんので念のため。
なお、竹内久美子さんの『小さな悪魔の背中の窪み』によると、心理学者の戦前の派閥争いが原因ではないか?という説もあります。私はよく知らないのでなんとも言えませんが…
しつこいようですが、そんなことはないのです。能見さんのデータについて追試をして反論しているのは私の知る限り草野さんだけです[その後、大村さんの論文に1つだけあることを発見しましたが、心理学者では私の知る限りこの1つだけです -- H10.9.23]。それは、この本です。
「血液型性格判断」の虚実 草野直樹 かもがわ出版 H7.3
実は、反対論者である心理学者は(草野さんを除いて)能見さんのデータにただの1つも追試をしていないのです!
最初は信じられませんでした。「まさか」と思って詳しく調べたのですが、いくら調べても追試のデータは1つも出てきません。どうも、こうなると何らかの理由を考えないといけないようです。この点について非常に不思議に思って何人かに質問したのですが、明確な回答はいまだに得られていません。非常に奇妙なことです。
一般的に、何かに反論するのは必ず追試をやるのが常識です。しかし、ただの1つも行われていないというのは非常に奇妙です。ですから、心理学者の反論自体が意味をなしていないのです。この点、草野さんは(心理学者ではないのでしょうか?)ちゃんとデータを取って反論しています。その努力には本当に頭が下がります(ウソでなく)。しかし、あれだけデータを取っても、能見さんのすべてのデータに反論するのは難しいはずです。ですから、血液型と性格に関係がないということは誰にもいえないのです。もし仮にやるとすれば、能見さんのデータの少なくとも数十倍以上はデータを取らないと信頼性はないはず(少なくとも危険率の逆数倍以上のデータが必要です)ですから、現実的には非常に難しいことです。
この論理は、私のような肯定論者には当たり前?のことなのですが、反対論者にこの話をすると、必ず反対論者のデータ「のみ」が正しく、差が出ているデータは「すべて」無効(無効な理由はいろいろ考えるようです)なのです。これでは、議論そのものが成立しません。
この点については、何人かの反対論者の方と議論しましたが、「完全にランダムサンプリングがなされていて、かつ安定したデータが複数回得られぱ」血液型と性格の関係を認めるという結論になりました。それが、上に示した反対論者である心理学者のデータを使った「完全にランダムサンプリングがなされていて、かつ安定したデータが複数回得られた」データです。元々は心理学者のデータですから、「ランダムサンプリング」と「複数回」という条件は満たしています。
しかし、これでも反対論者には納得してはもらえないようです。どうも「完全にランダムサンプリングがなされていて、かつ安定したデータが複数回得られて」も1つではダメで、「ほとんどの質問」でそういうデータが得られないといけないといいたいようです。これには参りました。能見さんのデータならともかく、さすがに心理学者がデータにはそこまでの差はありませんからね。
ちなみに、差が得られたデータは危険率(偶然にそういう差が出る確率)は0.1%以下です。普通、統計でこの危険率なら全く文句ないはずなのです。実は、私は控えめに0.1%以下と書いていますが、ちゃんと計算すると1つは0.01%以下ぐらいにはなります。万が一(0.01%以下)にも偶然というのはあり得ないのです。また、質問項目を見るとわかりますが、お互いにほとんど関係ない内容なので、1つの項目でも差が出ればいいはずなのです。
差があるのか、差がないのか、皆さんはどう判断されますか?
いずれにせよ、上に書いたようにちゃんとデータがあるのに、心理学者はなぜ否定しているでしょうか? 私には分かりません。
これも不思議な考え方です。というのは、一般に科学理論は、従来の理論で説明できない事象がある程度発見されたとき、(演繹的にではなく)帰納的に構築されるものだからです。
もちろん、精緻な科学理論には数学の力が必要です。しかし、残念ながら私にはそこまでの力がありません。
ですから、私は血液型と性格に関するデータをなるべくたくさん集めようとしているわけです。このホームページを公開するのもその試みの一つです。
-- H9.9.9
もちろん、統計的にはランダムサンプリングでないとデータとしては意味がないというのは全くそのとおりです。血液型と性格に関係があるというデータは個人が集めたものがほとんどなので、手法としてランダムサンプリングを行うのは回収率や経費の関係から非常に困難だからです。この点を指摘されると、私としては非常に困るのですが…
と以前に書いたところ、大変参考になる本を見つけることができました。
実は、この本は血液型と性格の関係を否定している代表者の一人、大村政男さんの『血液型と性格』という本です。もちろん、詳しく統計データをあげて血液型と性格の関係を否定しています。その分析の正確さとデータ量、歴史的な経緯の著述、参考文献の豊富さはすばらしいと言えるでしょう。私はこの本の内容自体に疑問を持つわけではありません。
著者は心理学と統計学のプロですから、「血液型と性格が関係ある」というデータを取り上げてすべて否定しています。しかし、素朴な疑問として、血液型と性格が関係ないなら、これほどまでに「血液型と性格が関係ある」というデータがあるはずがないのです。残念ながら、私のこの素朴な疑問には著者は答えていません。「血液型と性格が関係ない」というデータがどの程度の量あるのか知りませんが、素人の素朴な感想としては、これだけ有意差が出ているデータがあれば、常識的に考えて「血液型と性格は関係ある」と判断する方が自然なのでは?と思うのですが。皆さんはどう思われますか?
その後、日本の心理学者のデータを分析しても、ちゃんと関係が示されているようですね。データはこのページの一番最初にあります。
また、一部の反対論者のデータについては、データの取り方に問題があるという指摘があちこちからされています。そういわれてみれば、「完全な論ダムサンプリング」「複数回の安定した結果」というのにはちょっと問題があるデータも一部あるようですね。 -- H10.1.11
その後、坂元章さんの論文を入手しました。論文2のFig.7では、明らかにA型とB型では差が出ています。それも、完全なランダムサンプリングによる3万人のデータで、11年間も安定して差が出ているのです。ですから、今までの主張の「信頼できるアンケート(≒日本の心理学者)のデータでは安定した結果が得られない」というのは明らかに間違いということになります。今までの主張は見事にひっくり返ったことになるのですが…。 -- H10.5.13
大部分の(日本の)心理学者によると、血液型によって性格が違って見えるのは「血液型ステレオタイプ」だからだそうです。
「血液型ステレオタイプ」というのは、血液型で性格が違うという「信念」のことだそうです。つまり、血液型によって性格が違って見えるのは、「事実」ではなく単なる「見かけ」で本当は性格は同じということでしょうね。これは理屈としては筋が通っています。では、本当は同じというのはどうやって証明するのかというと、その元データは質問紙法(アンケート調査によるデータ)というのです。
能見さんが「AB型は表情の動きが少ない」というなら、心理学的に精密な測定方法があるのだそうですから、実際に測ってみればいいはずです。「ある血液型は表情の動きが少ない」なんてことを知っている人が多いとは思えません。また、それなら質問紙法でそんなことを知っているかどうか質問すればいいはずです。でも、そんな反論は私の知る限りありません。
実は、血液型と性格の関係が一般の人にどの程度知られているかというのは、心理学者がちゃんとデータを出しています。正確には知られていないというデータがちゃんと出ている…はずなのです。だから、「ステレオタイプ」では説明できないはずです。詳しくは次に…。 -- H9.11.8
心理学者のいう「ステレオタイプ」が否定されているとも思えるデータを入手しました(大村政男 「血の商人」の餌食になるなデタラメぶりは立証された 『朝日ジャーナル』 昭和60年3月8日号 89〜92ページ) 。大村さんによる同様のデータは、平成4年4月号の『ニュートン』にもあるそうですから、心理学では定説?になっているのではないかと思います。彼は、血液型と性格の関係を否定している代表者の一人です。
それは、例えば、本来?の性格である「O型は大らか」「A型は注意深い」「B型は好奇心が強い」「AB型は合理的」というような内容を印刷し、それを入れる封筒のラベルには別の血液型を書き、本当に自分と合っているかどうか回答してもらうというものです。変える順番はなんでもいいですが、例えば、O型とAB型を交換し、更にA型とB型を交換するというものです(表II)。あるいは、各血液型からランダムに性格の記述を拾ってくるというものです(表III)。
表II おかしな一致(その1)57人
本人\ラベル O型
(実はAB)A型
(実はB)B型
(実はA)AB型
(実はO)O型 13 1 − 2 A型 − 19 1 1 B型 − 2 12 − AB型 − − − 6
表III おかしな一致(その2)63人
本人\ラベル O型
実はO1・A3・
AB6で構成A型
実はO5・B5
で構成B型
実はO1・A6・
AB3で構成AB型
実はO3・A1・B5・
AB1で構成O型 21 1 1 − A型 − 18 − − B型 − 1 11 − AB型 − − 1 7
心理学者がやっているのですから、ランダムサンプリング等の統計的な問題はクリアしているものと仮定します。で、結論としては、彼のいう「フリーサイズ効果」(性格の特徴があいまいで何にでもあってしまう)が実証されているように思えます。しかし、私にはどう見ても「ステレオタイプ」が否定されているとしか思えませんが…。さて?
次に、O型の性格としてあげられている8つの特徴を各血液型の人に自分に当てはまるかどうか質問してみたそうです(表IV)。
表IV O型の特徴といえるものがあるのか(%)
項 目
O型
115人A型
216人B型
104人AB型
45人1.現実的な考え方が目立つ 54.8 57.8 63.5 55.6 2.ロマンチストである
65.2 68.5 66.3 75.6 3.集団的な結束力が強い
60.6 50.0 51.9 53.3 4.独立心旺盛
49.0 51.9 60.6 55.6 5.仲間内では開放的
82.6 75.5 79.8 68.9 6.初対面では警戒する
58.7 58.3 58.7 62.2 7.論理を好む
39.4 34.7 36.5 33.3 8.直感で判断しやすい
61.3 64.4 71.2 60.0
赤が一番高い比率です。これも、結論として、3.5.7の3項目だけが他の血液型より高い値を示しているが統計的には意味がないと締めくくっています。なるほど!ですね(どうもこの表はO型の数字にミスがあるらしく、人数がちゃんと出ないのですが、とりあえずそのまま使っています)。
実は、同じような話が国民性にもあります。10年ぐらい前だと思うのですが、ポール・ボネさんが書いた『不思議の国ニッポン』という日本人論がベストセラーになったことがあります。でも、早速海賊版が出て、アジアの某国で翻訳されベストセラーになったそうです(確認はしていませんが、ありそうなことだとは思います)。もちろん、内容については「日本」が「アジアの某国」に変わっただけで(明らかに日本だとわかる記述は変えたそうです)内容はほとんど同じということでした。でも、私が知る限り、アジアの某国と日本とは国民性が非常に違いますから、普通に考えればベストセラーになるはずがないのです。 上の結果をどう解釈するかは自由ですが、だから国民性なんてない!という人はいないでしょう。 |
では、私のこじつけ的?な解釈も書いておきます。f(^^;;
表IIと表IIIについては、「ステレオタイプ」はないと考えるのが自然です。もし、血液型別の特徴を正確に知っているのだったら、こんな結果は出ませんから…。もう一つ、言葉で性格を表現するのは非常にむずかしいということも考慮する必要があります。1.〜8.までの内容を正確に記述するとなると、それだけで何十ページにもなりますから。その何十ページのものを読めば結果が違ってくるかもしれません。
次に、表IVでは、あまり大きくありませんが差は確かに出ています(もっとも、カイ自乗検定をやっても有意差は出ません)。もし、「ステレオタイプ」なら、O型だけが高くなりそうですがそんなことはありませんね。確かに大村さんの主張は正しいように思えます。
しかし、表IVの差は、血液型別にアンケートをやった場合に普通に出る数字とほとんど変わりません。例えば、5.ではグループに対する帰属心のデータと同じような傾向です。このデータもカイ自乗検定では有意差は出ませんが同じ傾向を示しています。となると、この差は単なる偶然なのか、それとも本当の差なのかという疑問が湧いてきます。私は、5.のように他のデータと一致するものもあるので、単なる偶然ではなく本当の差だと考えます。能見さんの本も調べましたが、やはり血液型別の極端な差というものはなく、せいぜい回答率が10〜20%違うといったところです。
じゃあ、なぜカイ自乗検定で有意差が出ないのでしょうか? 実はその理由は簡単で、計算するとわかりますがこの程度の差だと数百人のデータでは有意差は出ないのです。では、いったい何人ぐらいだったら差が出るのかなぁと思い試算してみたところ、回答者の人数を2倍にすると、5.のデータの危険率が5%以下になります。3倍にすると、5.の危険率が1%以下になり更に3.4.8の危険率が5%以下になります。つまり、能見さんがいっているようなことを実証するにはアンケートの人数が足りないのです。O型の特徴も(8.は違いますが)3.と5.ではちゃんと出るという結果が得られます(つまり、能見さんのいうとおり、血液型による性格の差というものはそれほど大きいものではなく、共通しているものの方が多いということですね)。
しかし、じゃあなぜ他のデータでは差が出ないんだ?という反論があると思います。実は私にはわかりません(苦笑)。みなさんはどう考えますか? -- H9.12.7
その後の展開はこちらです。
日本の心理学者でははじめてなのですが、血液型別にアンケート結果に差があるという論文を読みました。それはこれです!
ただし、この差は「血液型ステレオタイプ」によるものとのコメントが付いています。実際の計算は、難しすぎて私には正直にいって解らないのですが、とにかく時間を追うごとに性格が血液型ステレオタイプに近づいてゆくという結論が示されています。しかし、私はここではてな?と疑問に思いました。というのは、「日本の心理学者によるデータ PART2」と同じデータから全く逆の結論が得られているからです。
JNNデータバンクの調査で、2年おき4回のデータが分析され、それぞれ約3,100人ずつ、合計で12,418人のデータが分析されているそうです(松井豊 1991 血液型による性格の相違に関する統計的検討 東京都立立川短期大学紀要, 24, 51-54.)。
松井さんは、このデータでは「一貫した傾向は見られなかった」と結論づけているのですが、池田さんは「時間を追うごとに性格が血液型ステレオタイプに近づいてゆく」のですからどう考えても「安定して一貫した傾向が見られる」ということになります。はたしてどちらが正しいのでしょうか? -- H10.1.10
実は、この論文の元データは、松井さんのデータより年数が多いのです。具体的には昭和53年から昭和63年までの1年ごとのデータが使われています。松井さんは、昭和55年から昭和61年までの2年ごとのデータです。グラフを見るとわかりますが、ちゃんとはっきりとした傾向が現れています。ですから、常識的に判断すると、「ステレオタイプ」のせいかどうかはわかりませんが、「安定して一貫した傾向が見られる」ということになります。ただし、この傾向が見られるのはA型とB型のみのようで、他の血液型はないようです。いずれにせよ、「ランダムサンプリング」と「複数回」という条件は満たしています。更に、松井さんのデータでもA型についてははっきりした差が出たことから、このデータはA型に差が出やすいデータだといえるでしょう。 |
坂元さんは『現代のエスプリ〜血液型と性格』で次のように主張しています(184〜185ページ 『血液型ステレオタイプと認知の歪み〜これまでの社会心理学的研究の概観』 坂元章)。
4 結論
これまでに、多くの研究が、 血液型ステレオタイプによる認知の歪みを検討し、それを支持する証拠を得たとくり返し主張してきたが、そのすべてが方法あるいは結果に問題を抱えており、いまだに、認知の歪みに関する明確な証拠は提出されていないと言えよう。
さらに言えば、これらの研究はいずれも、認知の歪みがあるかどうかを扱ったものであり、坂元の研究などを除けば、その認知の歪みが「血液型性格学」に対する信念を形成していくという問題については、 ほとんど検討していない。
例えば、大村は、FBI効果を提出しているが、FBI効果によって信念が形成されるまでの過程に、人々が、FBI効果によって、血液型ステレオタイプが自己・他者にあてはまるという経験をくり返し、そのくり返しによって「血液型性格学」に対する信念を形成あるいは持続させているのか−は検討されていない。その信念の形成・維持までの過程がはっきり立証されてはじめて、「血液型性格学」の浸透の原因の一つが、人々が持っている「歪んだ認知をする傾向」であると言えるのである。
筆者は、これらのことから血液型ステレオタイプによる認知の歪みの問題は、かなり以前から指摘され検討されているものであるが、現在でもなおその知見はあいまいであり、今後も大いに検討する意義のある問題であると考えている。
5 最後に
本稿は、議論の対象を血液型ステレオタイプによる認知の歪みの問題に絞っているために、他の分野の問題に触れることができなかったが、筆者は、「血液型性格学」に関するアカデミックな研究は、認知の歪みの分野だけでなく、全体として、いまだに未成熟な部分があるとしばしば感じている。これには、二つの理由があるのではないか。
第一に、「血液型性格学」の研究者はこれまで、審査の厳しい学会誌に論文をあまり投稿してこなかった。それにはさまざまな理由があったかもしれない。だがいずれにしても、厳しい審査を経ていないために、多くの論文がやや問題を残したままになっている。
第二に、「血液型性格学」のアカデミックな研究者は、それぞれの研究を十分に吟味し、批判し合う姿勢をあまり持ってこなかった。例えば、本稿では、認知の歪みの研究の問題を指摘してきたが、これまでに、これらの研究の展望を含む論文はしばしばあったにもかかわらず、これらの研究を列挙するにとどまり、本稿のように、その問題を指摘したものはなかったであろう。
互いの研究をよく吟味し、その不備を探し、それを踏まえたうえで慎重な議論を重ねていく姿勢は重要である。「アカデミック」とは、そういうことではないかと筆者は考えている。現在の「血液型性格学」研究は、「アカデミック」な立場から、「ポップ」な立場を批判するものとなっているが、筆者は、その「アカデミック」の足場をまず固める必要性を感じているのである。これは最近、自分自身が自戒していることでもある(筆者自身も、かつては、本稿で取り上げた筆者の研究の結果によって、認知の歪みの証拠が得られたと言ってよいと思っていたのである)。
すでに引用した渡辺さんも面白いことを書いています(『性格心理学は血液型性格関連説を否定できるか〜性格心理学から見た血液型と性格の関係への疑義』 渡辺芳之)。
大村の血液型批判
血液型と性格との関係を否定するもう一つの論理は、血液型論者が関係の証拠としてあげているデータや、その解釈法の矛盾を指摘したり、血液型性格判断が当っているという認識の多くが錯覚であることを論証して、血液型と性格との関係を否定しようとするものである。大村政男の一連の研究がその代表的なものといえる。大村はまず、古川竹二にはじまる血液型性格関連説がその根拠として示してきたデータを再検討して、血液型によって性格に違いがあるように見えるデータの多くが統計的には差がなかったり、データの収集法や解釈に問題があることを明らかにした。
また、血液型性格関連説のもうひとつの根拠である「血液型性格判断が当るように思える」「周囲の人の行動が血液型によって違うように見える」という日常的な実感が多くの場合錯覚に基づくものであることを、「FBI効果」という優れた概念を用いて論証している。つまり、血液型性格関連説が当っているように見えるのは、その性格記述が誰にでも当てはまるようなものであること(Freesize効果)、血液型を知っているとその血液型に合った性格特徴だけが目立ってみえること(Labeling効果)、自分の血液型の特徴とされるものに自分の行動を合わせてしまうこと(Imprinting効果)の三つの効果によるというのである。
大村の論理は説得力があるが、ある面で両刃の剣でもある。自分たち心理学者が製作し、正当であるとしている「性格検査」による性格判断も、血液型性格関連説と同じ土俵で批判されてしまうのである。たとえば、作られてからかなりの年月が経つが現在もよく使われている性格検査の中には、現在の統計的基準から見るとその一安当性の根拠となるデータやその解釈がかなり怪しいものはいくつもある。古川竹二のデータ解釈が誤っているのはあくまでも現在の目から見てであり、同程度に誤ったデータ解釈は過去の「科学的」心理学にもよく見られる。また、「心理学的性格検査による性格判断が当る」という経験的事実が「FBI効果」による錯覚でないと言い切ることもできないだろう。
たとえばYG性格検査の類型ごとに性格特徴を記述している文章などはかなり「フリーサイズ」なものであり、大村と同じ手続きで類型とその説明文をデタラメに入れ替えて被験者に示しても、多くの場合自分に当てはまっていると思うのではないか。
また、検査結果が他者の性格についての判断をバイアスしたり、自分自身の行動を検査に合わせて変容したりすることも十分に考えられる。これでは「心理学も血液型もうさんくさい」ということになるだけで、心理学者からの批判が大衆にあまり強い印象を与えないのは当然である。
(中略)
この相性についての心理学的研究はまだ始まったばかりであり、相性を診断できる検査はないし、性格検査の結果から相性を診断する方法もまだない。したがって「血液型で相性がわかる」という血液型性格関連説の「セールスポイント」を性格検査との関係から否定することができないのである。
私の言いたことはもうありません(笑)。 -- H10.4.26
これには、松田薫さんの『改訂第二版「血液型と性格」の社会史』の反論があります。ABO遺伝子と酵素・ホルモン・神経系の関連遺伝子がシステムをなして動いている場合は、脳に血液型物質がなくとも性格との関係はある可能性もあるというのです。(ちなみに、私も同意見です)。
それから、反対論者のABO式血液型と糖鎖のわずかな違いで性格の違いが生じるのはおかしいという指摘に対しても、それならなぜその「わずかな違い」で輸血ができないのか?と一蹴しています。
また、井口さんらの論文も『現代のエスプリ〜血液型と性格』で反論を提出しています(『海外における「血液型と性格」の研究 井口拓自、白佐俊憲)。内容は、もっと高度なので私にはよく理解できませんが(苦笑)。
ですから、もう少し大脳生理学やヒト・ゲノムの研究が進めば別ですが、現状では「血液型を構成する物質は脳にはほとんどないから性格と関係ない」とも「脳内物質以外のものも性格に影響はある」とも言えないと思います。やはり、現在のところ、実際にデータを取るなりして、地道に血液型別に人間を観察するなりしかないのではないかと思います。 -- H10.4.26
次に、遺伝子がちょっと違うだけで、非常に体質が違ってくるという例を挙げます。
最近本で読んだのですが(確か、中公新書の「がん遺伝子」という本だったと思いま すが、題名はあやしいです)、がんの発生のメカニズムが明らかになってきています。その1例として、1つの遺伝子の組み合わせ(A、T、C、G、U?記憶が曖昧ですが…)が違うだけでがんになるという例が挙げられています。その他に、がんになる遺伝子の組み合わせが何種類かあり、いずれも遺伝子のちょっとした組み合わせの違いががんを引き起こすという事例が述べられています(なお、がん遺伝子があるからすぐがんになるというものではないそうです)。
私は医学には素人なので、これ以上になるとわかりませんので、このぐらいにしておきます。
以下は単なる私の推測です。
1つの組み合わせの違いでがんになるなら、性格ぐらい(といっては問題でしょうか?)変わっても不思議ではないと思います。もちろん、これには何の根拠もありません。
また、次のようなことも可能性としてはあります。 -- H10.4.26
血液型は体質型だから、性格に影響があるホルモンや脳内物質等の分布が変わる。そこで、血液型によって性格が変わる。同じくこれも根拠はありません。)
血液型人間学メーリングリストでの議論で、主催者である鹿児島大学の板倉さんから、なかなか説得力のある説明がありました。それによりますと、糖鎖の違いと性格には関係があるかもしれないのではないかということです。ただし、ABO式血液型糖鎖で性格が違うかどうかはまだ未解明のようですが。次からが引用です。
最近、と言いましても1994年くらいに発行された糖鎖関係の書物を読んでいますと、糖鎖研究は、私の学生時代には想像もしなかった展開を見せているようです。
20年も前は、血液型物質と気質の関係について私に可能性として考えられたのは、
神経伝達物質やホルモンの「受容体」の作用に対して周辺の糖鎖がなんらかの影響を与える可能性
程度でした。(ま、それはそれでおもしろい面もあるので、■興奮と脱感作 としてこのメールの最後につけておきます。)
さて、昨年、久留米大の先生にABO式血液型を決定する遺伝子について講演していただいたとき、その遺伝子が、
神経、筋肉、骨
において、胎児期に大量に発現しているということを伺いました。実は、わたしは、「脂肪組織、筋肉、骨、ではどうですか?」と質問したのすが、上記のようなお答えでした。脂肪組織の方は、わからない、ということでした。神経(脳を含む)は、われわれとしては当然ですね。
この答えが、わたしの予想にあまりピッタリだったので少し驚きましたが、「胎児期」というのにひっかかりました。う〜ん。「発生」について勉強して、仮説も練り直さないと。。。と思ったわけです。
しかし、昨日届いた 日経サイエンス 糖鎖と細胞 の中の「神経系の糖脂質による細胞認識」は、なかなかエキサイティングなものでありました。
動物の糖脂質であるスフィンゴ糖脂質の中でもガングリオシド(末端にシアル酸がついた酸性糖脂質)の話しではありましたが、糖脂質が神経系の発生、シナプス形成において重要な役割を果たしている、ということなのです。
脳の複雑な機能は、脳細胞(神経細胞)の複雑な神経回路網によるわけですが、その回路網の接続部分がシナプスです。
ただし、ガングリオ系ではなく、ラクト(ネオラクト)系糖脂質である血液型物質が、上記の事柄に関与しているとは書かれていません。
「単なる糖鎖が。。。」という否定の言葉は、これで笑いとばせるのですが、「単なるラクト系スフィンゴ糖脂質が。。。」と言われると、ま、「まだまだこれから。。」と答えるくらいしかないかもですね。(^^;
ガングリオ系とラクト系は、糖鎖の大きさや複雑さにそんなに差があるわけじゃないですけどね。はしっこに、酸性のシアル酸がついていることが一番の差のようです。また、ラクト系にシアル酸がついて、長糖鎖ガングリオシドというのができることもあるようです。
長くなりましたので、また。m(_ _)m
例えば、アセチルコリン受容体については、分子レベルの研究がかなり進んできました(おなじ遺伝子スーパーファミリーに属すると考えられているセロトニン受容体なども同様のようですが)。α、α、β、γ、δという5つのサブユニットが細胞表面で輪を作って中央に穴(閉じたり開いたりするチャンネル)ができています。
特命リサーチでも出てきましたが、神経細胞と神経細胞の接合部であるシナプスにおいて、神経終末から放出された神経伝達物質が次の神経細胞に届くと、この受容体に結合します。そうすると、チャンネルが開いて、Naなどのイオンが流入し、興奮へとつながるわけです。
神経細胞の種類、性質によって神経伝達物質が異なり、それぞれの受容体が存在し、流入するイオンの種類も違うようです。
さて、ここで、この受容体には「脱感作」という状態がある、ということなのです。神経伝達物質がずっと存在していると、つまり刺激が長く続くと、受容体に神経伝達物質が結合しているのにチャンネルが開かない、つまり刺激に反応しなくなっちゃう状態です。むちゃくちゃ興奮し続ける危険性を回避しているわけですね。
さてさて、能見さんの本に出てくる、血液型別興奮曲線ですが、この脱感作となんらかの関係があると思われませんか?
上の、A型の開き直りって「脱感作」そのもののような気がするのですが。。。
ただ、成人の神経細胞に、ABO式血液型糖鎖がどれだけ存在しているのか(胎児では、ABO式血液型遺伝子が大量に発現しているということではあるが)はたまた、存在しているとして、それがどれだけ受容体の作用に影響できるのか、情報不足、未解明、の部分が多いですね。
-- H10.1.20
その後、驚くべきことが分かりました! 「血液型を構成する物質は脳にはほとんどない」というのは全くのウソではありませんが、それでも人体中で最も多い胃の8%程度は存在するのです(胃のABO型物質は血液中より多いことに注目)。これでは、どう考えても「血液型を構成する物質は脳にはほとんどない」とは言えないでしょう。:-p
ところで、否定論者は「脳には血液型物質はない」のだから「血液型と性格は関係ない」という人が多いのです。となると、同じリクツで、「脳には血液型物質は(量は少なくとも)ある」のだから「血液型と性格は関係ある」ということになります。血液型の専門書をちょっと確認すればわかることを、なぜ否定論者の多くは確認しなかったのでしょうか? はて?
→詳しくは、ここをクリック! -- H10.6.13
これも非常に不思議な考え方だと思います。日本にしかないもので貴重なものはいくらでもあります。例えば、私が書いているこの文章そのものが日本語で、もちろん日本でしか使われていません。今は世界に冠たる工場生産方式の「カンバン方式」や、このホームページの対象の「マンガ」「アニメ」も元々は日本から広まったものです。これらは、一部の日本の識者からは非常に悪評でしたが、現在では世界的に高い評価を得ているといっていいのではないかと思います。
血液型と性格の関係も、現在では日本でしか(台湾や韓国でもあるという話もあるようですが)研究されていませんが(もちろん批判もたくさんあります…)、正しいと証明されれば世界的に広まる可能性は大いにあると思います。私はそう希望しているのですが…
なお、欧米では個人にまつわること(身長、体重、収入など…もちろん血液型も入ります)を聞くのは失礼だという傾向があるようです。確認は完全には取ってはいません。
閑話休題。
試しに、Yahoo!USAでBLOOD TYPEを検索してみましたが、血液型と性格に関係あるようなホームページはありませんでした(現在は2つあります。リンクのページへどうぞ!)。やはり、アメリカではポピュラーではないようですね。
その後、いろいろと確認したのですが、アメリカでは自分の血液型を知っている人は少ないようです。理由は知りませんが、日本のようにほとんど誰でもABO式血液型を知っているということはないようです。となると、血液型による性格の違いが一般の話題になることはあまりなさそうですね。
-- H10.4.26
その後、在米の台湾の方からメールをいただきました。大変ありがとうございます。
それによると、台湾でも血液型と性格は話題になっているそうです。では、台湾ではなぜそういう状況かというと、どうも元々は日本から伝わったものらしいです。台湾は昔は日本でしたから、血液型と性格の関係についてが話題になる下地があった上に、能見さん(人名については確認していません)の本のような日本からの情報が伝わって(翻訳もされているそうです)話題になっているそうです。韓国については確認していませんが、やはり同じような状況だと思います。他のアジア諸国については確認していません。
欧米でも、一部のマスコミでは日本発の情報としていろいろと話題になっているようです。血液型と性格の関係も、随分と有名になったものですね。
-- H9.10.17
飛岡健さんの本(フランス風味の血液型 『おもしろくてためになる 血液の雑学事典』日本実業出版社 H2.3 131ページ)にこんな記述があります。
血液型占いの盛んなのは、何も日本ばかりではない。
フランスでも、1960年にレオン・ブールデルが『血液型と気質』という本を発刊した。
これは、心理学者のコ・ジュネペと一緒に、2500人もの性格を血液型と関連づけた研究で、フランスで大きな反響をまき起こした。
その後、1970年代になっても、ゴークランという心理学者が、彼の研究を現代心理学叢書のなかで紹介し、学術的研究の必要性を説いた。
ブールデルの血液型性格分類は「A型はハーモニー型」「B型はリズム型」「O型はメロディ型」「AB型は複雑型」といったように音楽の用語に例えられていて、非常にわかりやすい。
皆さんの知っている日本人の血液型性格分類と比べてみてはどうだろう。
更に、その前に昭和初期に「血液型ブームのルーツがあった」(130ページ)として次のような記述があります。
日本では、能見正比古氏が書いた『血液型人間学』という本が大ベストセラーになった。その後、類書がいくつも出て、日本人は血液型を知らなくては生きられぬほど、これに関心を持つようになった。だから、初対面の人にでも血液型を尋ねて平気となるのだが、他の国に人にしてみれば、いきなり血液型を尋ねられると、私たちが小学校時代の成績を聞かれたときぐらいに驚くことになる。
とにかく、日本人にとって、血液型というのは、他人を理解するためにも、自分を紹介するためにも特別に重要視されてきたことは間違いあるまい。
さて、このブーム以前、実は昭和初期にも、血液型と性格を関連づける研究や発表があったというから、根は深い。
古川竹二という東京女子高等師範学校の教授で教育心理学者が、同じように、血液型ブームを引き起こしていたそうだ。しかも、この当時は「血液型研究」という専門誌まで出ていたというのだから、現在以上に本格的だった。
血液型と性格や体質との関係について多くのデータがあるが、科学的に確立された根拠はいまだにはっきりしていない。
一昔前までは、学者は、占いは占いであるといって、否定するまでもないという相手にさえしなかった。ところが、最近は、少しずつ、この根拠らしきものがはっきりとし始めたところである。
著者は、元々は航空工学(東大大学院出身)の専門家です。一般的な傾向として、心理学・医学関係者は否定論が多く、どういう訳か工学系の人は賛成論が多いという傾向にあります。理由はよくは分かりません。ちなみに、能見さんも東大工学部出身です。蛇足ですが、一応私も工学系の人間のつもりです(現在の仕事は全然違いますが…)。 -- H9.11.8
最後に極めつけを! 『現代のエスプリ〜血液型と性格』からです(『海外における「血液型と性格」の研究 井口拓自、白佐俊憲)。 -- H10.4.26
あまり知られていない海外の「血液型と性格」の研究
血液型性格判断をめぐる論議の中で、海外では血液型と性格について、ほとんど研究もされていなければ話題にもなっていない、ということがこれまでたびたび書かれてきた。
そして、それは「だからやっぱり血液型と性格など関係はないのだ」という主張を補強する材料となってきたように思われる。「海外でやっていないからまやかしだ」あるいは「海外でやっているから正当だ」といった主張は単なる舶来崇拝主義のようで、あまり説得力のある議論とは思えない。しかし、 その前にまずは事実の確認をしてみることも大切なことだろう。(後略)
公平な立場からの再検討を
最近になるまで海外での血液型と性格に関する研究がほとんど紹介されなかったことの根底には、「血液型と性格など関係あるはずがない」という先入観があったのではないかと筆者らは考えている。 そうした先入観が、改めて調査をしないで「これは日本だけの現象だ」と断定してしまうような傾向を生み出したのではないか。
「血液型と性格」ではないが、「血液型と社会経済的階層」の関係について調べた研究がイギリスの科学雑誌『ネーチャー』に載ったことがある。バードモァとカリーミ・ボシェーリが、ABO式、Rh式血液型と社会経済的階層の関係を調べた結果、Rh式では有意な差はみられなかった が、 ABO式ではA型が有意にクラスT、Uに多く、クラスV、Wに少なく、O型はその逆であることがわかったというのである。
最近、「血液型と性格」に関する記事の中で、なぜか「血液型と社会経済的階層」をテーマとしたこの研究がよく紹介されている。そして、『ネーチャー』誌上でのこの研究をめぐる論争について、統計的処理に大きな誤りがあったという批判がなされたが、当事者はいまだに反論をしておらず、この研究は間違っていたというのが一般的となっている、といった紹介がなされているようである。
けれども、実際、この問題が特集された『ネーチャー』の当該号を調べてみると、批判者の論述とともに当事者の反論も一緒に掲載されていることがわかる。さらに編集者の手によるものと思われるこの特集の前書きの部分でも、まだこの論争に決着はつけられないということが書かれている。この研究自体の是非はともかく、なぜ紹介の際に「反論が掲載された」という単純な事実が見落とされてしまったのだろうか。やはり前述したような先入観が影響しているのではないかと筆者らには思えるのである。(後略)
こういうことは、本編のFAQにはある程度書いたのですが、このページにはもう少し詳しく書いておきます。
これも、どうも誤解があるようです。一般的に、統計学ではある仮説が統計的に有意であることを検定するのに、対象の分類方法をどのようにとってもいいことになっています。ですから、ABO式血液型だけで性格を分析しても、統計学的には何の問題もありません。要するに、こういう疑問を持つ人は、統計学はケシカランといっているのと同じことです。統計学をケシカランといわれても、私は苦笑するしかありませんから…。
では、わかりやすくするために、県民性を例にして説明してみましょう。
県民性といっても、47都道府県だから47種類の性格しかないとは誰も思わないでしょう。また、
といった論理も成り立ちます。
では、なぜ県民性の違いを言うことが可能なのでしょうか? これが可能というのが、上に書いたことです。統計学的には、仮説を証明するのにどのような分類をしても構いません。もし、有意差が出ないなら、その仮説は成り立たないということになりますが、ただそれだけです。
ここで、話を血液型に戻すと、論理が全く同じことに気づくと思います。
結局、統計的に有意なデータがどの程度あるのかが勝負になります。このようなことは、統計学をちょっとかじったような私でも分かる基本的なことです。 -- H10.4.26
私は非常に驚いたのですが、一部にこういう見方があるようです。(@_@)
なぜ、血液型による性格の傾向を言うことが差別になるのでしょうか?(?_?)
差別について書くのは、長くなるし楽しく明るくというこのホームページの趣旨には合いませんので、とりあえずは省略します。
しかし、これは大事な問題だと思うので、私なりの見方を書いておきます−こんなことを書くのは私の本意ではないのですが…。もちろん、面倒な方は読み飛ばして構いません。
私が疑問なのは、「血液型で性格を決めつけるのは差別問題につながる」という発言そのものではありません。血液型で性格を決めつけるのは差別問題につながるから「そういう研究・分析をすべきではない」あるいは「そういう結果を公表すべきではない」とも意味が取れる発言です。
もちろん、こう解釈するのは曲解と言われるかもしれませんが、そうと受け取られないかねないような発言も一部にはあります。どうも、これは私の読み違いのような気もするので、書くこと自体が恥ずかしいのですが…。
一般的に、誰が何を考えても言っても自由ですので、私は(万が一)それらがこういう趣旨の発言だとしても、このような発言をするべきではないとは言いません。逆に自分の考えはどんどん公表すべきだと思います。
という訳で、私は上のような発言の趣旨は、「血液型で性格を決めつけるのは差別問題につながる」から公表するなと言うのではなく、「血液型で性格を決めつけるのは差別問題につながる」けれども、公表すること自体は本人の自由です(歓迎です)と言っているのだと解釈しています。
それともう一つ、(もちろん万が一ですが)上のような発言が、公的機関の発言だと思われるような場合は問題だと思います。
私は、大多数の人は「血液型で性格を決めつけるのは差別問題につながる」と思っていないでしょうから、血液型で性格をどうこう言っても差別問題にはつながらないと思います。
「血液型で性格を決めつけるのは差別問題につながる」かどうかは別にして、血液型と性格に関係があることは統計的な事実だと思いますから、それ自体を否定するのはどうかなと感じますが…。もちろん、私のデータにも不完全な点はあるはずですから、間違い等はどしどし指摘していただければ大変ありがたいです。
肯定的にせよ否定的にせよ、もっと明るくフランクに多くの人と血液型と性格の問題について考えて行きたいと思います。
-- H10.4.26
上の説明で納得できない人もいるようなので、PART2を書いてみます。とは言っても、差別そのものについて書くことはしません。 PART1でも書きましたが、楽しく明るくというこのホームページの趣旨には合いませんので。
じゃあ、何を書くかというと、血液型による性格判断は差別につながるという人の考えの中に差別的な表現があるのではないかということです。私が引っかかったのは、とりあえず次の2つです。もちろん、複数のメディアで見たものです。人の批判をするというのは非常に気が引けるのですが…
1.血液型と性格が関係あるという俗説
2.日本でしか研究されていないから正しくない
まず1.についてです。「俗説」というのを国語辞典で調べると、だいたい「俗間で言い伝える説」「世俗の人の説」「学問的根拠がないのに世の中で広く言われる説」とあります。「血液型と性格が関係あるという説は世間で広まっている」というほめ言葉かというとそんなことはないようです。世間で広まっているいる学問的根拠のない説はたくさんあるでしょうが、そういう説の代表者に「あなたの説は俗説だ」といって喜ぶ人はいるでしょうか?たぶんいないと思います。もちろん、私もいい気持ちはしません。というのは、「俗」には「世間」「世の中一般」という意味の他に「卑しい」という意味があるからです。その反対語は「雅」です。これ以上書くことはやめますが、私の言わんとすることはわかってもらえるでしょうか?
次に2.です。「日本でしか研究されていないから正しくない」なら、普通に連想するのは「日本以外で研究されているなら正しい」ということです。ま、これも私の考えすぎだと思いますが、もしこういう風に思っている人がいるならそれは問題でしょう。これについても、これ以上書くことはやめます。
私は差別的表現をするなとは主張しません。また、上の表現が差別だと思わない人もいると思います。ただ、差別はいけないという人が一部の人(私ですが)に差別的とも取られる表現をするのは矛盾ではないだろうかと思うだけです。
以上、ちょっと気になる表現について書きました。私の心配は杞憂だと思いますが、少々と気になったので。 -- H9.9.9
しつこいようですが、第3弾です。
仮に血液型で性格を決めつけるのが差別問題につながるとしましょう。問題は先天的なものでの差別でしょうから、身長や容姿についても差別(バブル時の三高とか…)の対象になることになります。血液型と違って隠しようがないから、差別としてはもっと悪いでしょう。だから、常識的に考えると、血液型の差別も悪いが、身長や容姿による差別はもっと悪いという結論になるはずです。しかし、こう主張する人は聞いたことががありません(こういう主張なら、内容はともかく、論理としては筋が通っていますからね)。
実は、メールでこの「差別問題」を議論して気がついたのですが、こういう情報は全くウラが取れていないことが多いのです。例えば、就職や昇進の際に血液型による「差別」があるなら、私もそういう「差別」には反対です。しかし、私が知る限りそういう情報でウラを取れたものはありませんから、私が知っているのはマスコミによる二次情報しかありません(これについてはPART4をどうぞ!)から非常に少ないはずです。しかし、そういう「差別」を批判している人が所属している会社や組織の一部(全部とはいいません)は、採用試験や昇進の際に、堂々と「指定校制度」や「性別」による「差別」をしているのです。これはウラを取っている情報なので間違いありませんが、一般的に(?)行われていることですから、どうやら「差別」ではないようですね。これは、いったいどういうことなのでしょうか? -- H10.4.26
しつこく第4弾です(苦笑)。
松田薫さんの改訂第2版『「血液型と性格」の社会史』には、357ページに「あいかわらず、血液型による差別という正義ぶった記事を、資料提供者の私の名前をぬいて作文するので(以下略)」という記述があります。この記述のとおりとするとかなり問題ではないでしょうか? -- H10.1.10
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骨髄移植でABO式血液型が変わることは事実です。では、それによって性格が変わるのかどうかというと、データがないので私はなんともいえません。ただ、常識的に考えると、性格はほとんど変わらないと考える方が妥当でしょう。
だから、骨髄移植で血液型が変わるから性格との関係はないのでは?という疑問は当然ですね。こういうことはどの程度の率であるのでしょうか? 私にはデータがないのでなんともいえませんが、骨髄移植がニュースになるぐらいだから非常に率が低いはずです。例えば、私の身近で骨髄移植をやった人はいません(だから、どの程度性格が変わったというデータもないのですが…)。例えば、この率が0.1%程度以下(適当だと思われる数値を書きましたが、特に基準があるわけではありません)だとすると、血液型と性格との関係では、統計的には問題になるほどの数ではありませんので、誤差の範囲内ということになります(もし、この率が10%や20%ということになれば、さすがに無視することはできませんので、別の何らかの解釈が必要でしょう)。
ちなみに、県民性では、年間の移動率が10%以上ある地域がありますが、統計的には問題がないことになっているようです。1年ぐらいで県民性が変わるとも思えないのですが…どうなのでしょう? -- H9.11.11
→その後の展開については、ここをクリック!
実は、統計以外にも血液型と性格の関係は証明できます。血液型による特徴的な表情の動きとか、顔かたちとかもあります。ただ、これらは例外もかなりあるので、私はせいぜい50%ぐらいしか血液型を当てられません。
表情の動きは、血液型別にかなり特徴があるのですが、ビデオカメラも必要ですし、数値化するのも非常にむずかしいので、実際にデータ化するのは大変です。
大体、次のような特徴があります。
一応文章にするとこうなるのですが、実際に理解するには訓練が必要です。例外も多いので、なかなか一筋縄ではいきません。
私の意見とほぼ一致するものが否定論論者の心理学者からあったので、参考までに引用させていただきます(太字は私)。 -- H11.6.6
そんなわけで、血液型性格判断は調査によって実証されず、支持する証拠というのは間違いばかりだ[これには異論がありますが…]。だから科学的結論として血液型性格判断は否定されるのである。もっとも、本稿の読者なら先刻ご承知の通り「完全に関係はない」ことを証明することは不可能である。未知の関連性が発見される可能性はある。だから、この場合「能見説をはじめとする現在の血液型性格相関説を正しいという根拠はない」くらいが妥当な表現だろうか。
ただ、最近は血液型性格判断を撲滅しようという意識ばかりが先走って、適切でない批判をする人も散見される。よく聞くのは「多様な人の性格が四つになんか分けられるはずがない」という批判である。しかし「何らかの基準によって四つに分ける発想」自体には本質的に問題はないのである。もちろん境界線上であいまいに分類される欠点はあるが、この発想自体は心理学でも類型論という考え方で受け入れられている。肝心な点は、「四つに分けること」の問題ではなく「性格を血液型で分ける」ことになんら根拠がない点なのである。
性格とは血液型のように生まれつき定まるものではなく、育ってきた環境によって決まるものだ、という反論もある。性格の発達にとって環境要因が決定的であることは確かである。しかし、新生児でも敏感さや気分の安定性などが子どもによって異なることも知られており、性格における遺伝的要因は決して無視できるわけではない。
血液型が性格に影響を与えるメカニズムが明らかでないことを批判点として挙げる人もいる。説明原理の不在は科学理論として決して望ましいものではないが、現実に承認されている他の科学理論にも詳しいメカニズムが不明なものはある。メカニズムを解明しようとしない血液型学の提唱者を批判することはできても、理論自体をこの点だけから批判するのはフェアではない。
また「A型なのに、ぜんぜん凡帳面じゃない人はいっぱいいる」というように、血液型性格学に対する反証例を挙げる批判法。これも「身の回りの人が当てはまるから信じる」というのと同じ誤った考え方である。血液型学に限らず、おおよそすべての性格理論は統計的なものであって、集団全体の傾向としてしかとらえられない。たとえば筋肉を使った運動能力は女性よりも男性の方が優れていることに誰も異論はな いと思うが、それでも特定の男性を取り上げれば、平均的な女性より力が弱い人はざらにいるだろう。必要なのは個々の事例ではなく、統計的な事実なのである。
いずれにせよ、血液型性格判断はなぜ虚偽なのか、これは提唱者が言うような性格の差が、現実に信頼できる統計データとして見あたらないという点につきる[これにも異論がありますが…]。血液型性格学への批判は確かに重要だが不適切な批判で満足しているとすれば、それは非論理性という点では相手と同じ穴のムジナになりかねないことに注意しなければなるまい。
私も、かなり前から血液型と性格には興味を持っていました(というと、あまり若くないということですが…)。
他人の批判をすることは、このホームページの趣旨ではありませんのであまり書きたくはないのですが、一昔前は、科学雑誌やマスコミが、統計的に有意なデータを有意差がないと断定したといった不思議なことがまかり通ってました。誰がどう検定したのかわかりませんが、レッキとした心理学の研究者(もちろん統計学のプロです)もいたように記憶しています。私のような統計学の初心者から見ても明らかに有意差が出るデータを有意差がないと断定して、しかも自分でちゃんと調べたデータなのですから、なんて言ってよいのやらわかりません。
昔のことですし、このホームページの趣旨にも合わないので、ここで雑誌名や番組名は書こうとは思いません。しかし、さすがに昨今はかなり改善されているようです。血液型人間学に多大の貢献をした、故能見正比古氏が亡くなってからもう15年以上経ちますが、着実に日本では浸透しているようで、私としては非常にうれしい限りです。そして、竹内久美子さんの『小さな悪魔の背中の窪み』によると、血液型と性格の関係はR.B.キャッテル研究で明らかなはずです。このページの最初に日本の心理学者のデータも示してみました。
なお、今までの経験から言うと、血液型と性格の関係に反対するのが一番多いのがO型で約5割以上、次がB型という印象を受けています。経験した数は少ないのであくまでも傾向ですが。
それにしても、番外編の方が本編より長くなるとは…なんででしょうね?(?_?) -- H9.10.21