否定論者の(日本の)心理学者の反応について、ほぼ結論が出ましたので書いておきます。もっとも、批判色が強すぎるかなあという気もしますが…。実は、否定論者からの反論を期待しているので、ワザとこんな文章にしています。というのは、経験上、こういう「批判色」(悪口といった方が適当かもしれませんが…f(^^;;)が強い文章が(否定論者に)熱心に読まれる傾向があるからです。どうかご了承ください。m(._.)m
なお、多くの否定論者の方(もちろん、心理学者もいます)には、親切に資料を送っていただいたり、貴重な時間を割いてもらい議論をさせていただきました。この場を借りて深く感謝いたします。このページの「批判」は、決して人格非難ではなく、あくまで論議上のことですから…
-- H10.9.23
平成16年2月21日に放送されたTBSの探検!ホムンクルスを皮切りに、平成16年4月4日に放送されたフジテレビの発掘!あるある大事典II、平成16年6月13日に放送されたテレビ朝日の決定!血液型ランキングと、今年は民放を中心として一気に血液型ブームが再燃しました。そのおかげかどうか、私も平成16年6月26日の朝日新聞beのこだわり会館に紹介されることになってしまいました(ありがとうございます)。ちなみに、テレビ局からの問い合わせも何件か受けました(役に立ったのかなぁ、と少し心配です)。 私が知る限り、マスメディア上での反論は極めて少ないようです。少なくとも、否定論者(≒心理学者)がテレビや雑誌で反論しているケースは、私の知る限りありません! インターネット上をチェックしてみても、メジャーな否定論者のサイトはそのほとんどは沈黙を守っています。どうも、沈黙している一部が匿名掲示板に乗り込んでいる模様です。 これで、否定論者の社会的影響力が大幅に低下したことが証明されてしまったことになります。なぜなら、その否定論者自身のサイトは更新せず、匿名掲示板にのみ書いているということは、否定論者(≒心理学者)のサイトの影響力は匿名掲示板より低いことを(否定論者自身が)認めているからと推測できるからです…常識的には、自分のサイトを更新した方が匿名掲示板を使うより効率がいいはずですからね。 本当はどうなのか知りませんが、時代もすっかり変わったものだと妙に感心してしまいました。 -- H16.7.26 |
最近わかったのは、大部分の心理学者は、統計学も論理学もよくわからないということです。これは誹謗中傷でも冗談でもウソでもなく、事実を書いているだけです。だから血液型と性格の関係について、統計的にも論理的にも判断のしようがないわけです(失礼!)。詳しくは下のページをどうぞ! #最初は私自身も半信半疑だったのですが、どうやら間違いないようです。これでHPオープン以来の疑問が氷解しました。v(^^) 否定論者の心理学者である渡辺芳之さんは、『現代のエスプリ〜血液型と性格』で次のように書いています(188ページ 『性格心理学は血液型性格関連説を否定できるか〜性格心理学から見た血液型と性格の関係への疑義』)。
となると、(私や心理学者も含めて)普通の人はブランド志向ですから、議論の内容より誰が言っているかで判断することになります。これは別に血液型に限りません。 この文章を読んでいるあなたは、決してそんなことはない!と私は堅く信じています。 -- H11.8.22 |
まずは、井沢元彦さん(B型)の『言霊(ことだま)』からの引用をどうぞ! -- H10.9.23
開戦17年前の太平洋戦争予測記事
「中国における権益問題でアメリカと対立した日本政府は、内政に対する国民の不満をそらす意図もあって、対米開戦を決意する。開戦当初、日本はアメリカより海軍力においてやや優位にあり、その優位を維持し戦局を有利に展開しようと、海軍はフィリピンに奇襲攻撃をかけマニラを占領し、西太平洋の制海権を握る。しかし、生産力に優るアメリカが海上封鎖による持久戦法をとり、中ソ両国も反日に転じ、戦局は逆転する。そして艦隊主力をもって行なわれたヤップ島沖海戦でも日本は敗北し、アメリカはグアム島など南洋の島々を次々に占領し、日本側守備隊は全滅する。さらにマニラも奪い返される。 この間、ソビエトは樺太(からふと)に侵攻、これを占領し、中国軍は南満州を支配下におく。ついに内閣は総辞職するなか、アメリカの爆撃機が東京上空に襲来し、爆弾を投下する。ここにいたって日本は、アメリカ側の講和勧告を受諾し、戦争は終結する」
これは、昭和16年(1941年)から昭和20年(1945年)までの間に、この国で実際に起こったことである−−もしそう言えば、おそらくあちこちで抗議の声が挙がるだろう。事実が違っていると。
特に傍点をつけた[注:下線に変更しました]ところがおかしい。日米開戦にあたって日本海軍が奇襲をかけたのはハワイであってフィリピンではない、とか。艦隊決戦が行なわれたのはミッドウェーやレイテ沖であって、ヤップ島沖ではない、とか。アメリカ(正確には連合国側)が行なったのは降伏勧告であって講和勧告ではない、とか。さらに史実に詳しい人なら、ソビエトが侵攻したのは樺太(現・サハリン)だけではない、など気になる点がいくつもあるだろう。しかし大筋においては、まちがっていないことも認めざるをえないだろう。
実は、これは予言なのである。いやけっして非科学的なものではない。より正確に言うならば、シミュレーションの手法を用いた未来予測だ。問題はこの未来予測が発表された時期である。なんと、太平洋戦争開戦の昭和16年よりも17年も前の、大正13年(1924年)に発表されているのだ。…
私の知る限り、この予測はあまり「有名」ではない。歴史に詳しい人、戦争中実戦に参加した人でも、この予測のことを聞くと知らない人が多い、いやほとんど知らない。おそらく読者も初耳の人がほとんどではないか。
なぜ予測を冷静に受け取らないか
では、この予測は英米の一部でひっそりと発表され、日本では注目されなかったのか。とんでもない。ただちに数種の翻訳が出版され、ベストセラーになった。ということは、多くの国民・軍関係者にも読まれたということである。それなのに、なぜこの予測は記憶されていないのだろうか。もし、私が 「平和教育」をするために歴史の教科書を書くとしたら、まずこの予測から始める。大正13年の時点で、これだけ正確に予測され、しかも広く知られていたのに、なぜ戦争の勃発(ぽっぱつ)を防ぐことが出来なかったのか。…
しかし、これが日本へ伝えられた時、たちまち起こったのは朝野をあげての反発であった。この予測を冷静に検討し、もし「日米未来戦」が起こる危険性があるとすれば、それを回避すべく対策を立てるべきだ、という反応はなかった。少なくとも主流にはならなかった。
むしろ「日米未来戦」ブームが起こり、その内容は徐々に「日本がアメリカに負けるはずがない」との内容に統一されていった。中には「このまま戦いを始めれば日本は負ける」という良心的(?)な予測を発表する人もいたが、それも結局、無視されるか、「だから軍備をさらに増強しなければならない」という意見の補強材料にされてしまう。
予測が予測として冷静に受け取られないのはなぜか。言うまでもなくコトダマの支配する世界だからでは「かく言えばかくなる」ゆえに、予測だろうが資料だろうが意見だろうが、全部そうなることを望んでいる」と解釈されてしまうからだ。バイウォーターは「日本の敗北(正確には屈辱的的講和)を望んだ」と受け取られ、 そう受け取られたからこそ、朝野をあげての反発が起こったのである。これでは冷静な検討どころではない。…そして、その見方を否定する形で日米未来戦ブームが起こった。…これに関する小説類や展覧会(当時、デパートなどでよく催された)には、ほとんどがこのバイウォーター予測に対する反発が底流にある。それにデパートなどが海軍省後援で展覧会を開く場合、「日本が負ける」という結論になるものをやるはずがない。それゆえ公平な予測ではなく「誤った予断を与える情報」になってしまい、それによって青少年が「洗脳」されるという、とんでもない結果になってしまう。
「不愉快な」予測に対する日本人的反応
いま手元に「バイウォーター太平洋戦争と其(その)批判」(大正15年、文明協会刊)という訳本がある。これは、小説仕立てになっているバイウォーターの原著を全訳したうえで、「そんなことは有り得ない」と長文の批判を訳者(海軍少佐・石丸藤太)が付け加え、一冊の本にして刊行したものである。この訳者序を読むと、なかなか面白い。こういう「不愉快な」予測をぶつけられた場合の日本人の、典型的な反応がよく出ているからだ。要約して紹介しよう。
まず内容に対する反論に入る前に、石丸はバイウォーターの国籍を問題にしている。すなわち著者はイギリス人であるがゆえに、「排日的言動を弄し、米国の民衆に向いて排日熱を扇動し、日米の離間を策しつつ、英国をして漁夫の利を占めんとせしむる」(原文は旧かな)と決めつけている。
そして、 内容についても以下のように反論している。
@「日本を不利ならしめんとして、開戦の原因および動機を誣(し)い、国内に於(お)ける不穏分子を扇動し、また国外に拡げる善隣国との関係を悪化せしめんとして」いる。
A「米国を有利ならしめるが為(た)め無暴なる作戦の実例を示して米人を警醒(けいせい)し、また日本が採ることあるべき作戦を指摘して」米国人が参考になるよう論述している。
B「米国の富力財力物力の無尽蔵なるを力説して、日本の到底米国の敵にあらざるを日本国民に知らしめ」「日本人をして日米戦争の無益なるを知らしめん」としている。
「気にくわない」予測は頭から否定する
このバイウォーター予測に対する石丸の反論に、さらに反論してみよう。
第一に、相手がイギリス人だからといって、必ずしもイギリスの国益に沿う行動をするとは限らない。それは軍人や情報部員でもそうだ。どんな国にも内紛はあり反体制派もいる。少なくとも日露戦争の時は、軍部にもそれを利用するというセンスがあった。別の言葉で言うならりアリズムだ。それが欠如している。
また@で、開戦の原因および動磯を「誣いる(事実を曲げる」と言っているが、バイウォーターは中国における日米の利権争いが、戦争のきっかけになると言っているのであって、この分析は非常に正確である。実際の戦争も、中国を支配下に置こうとした日本に対して、アメリカが 中国から完全に手を引け」という最後通牒(ハル・ノート)を突きつけたことが、開戦のきっかけになった。だから、この石丸反論は誤りであると言ってもいいだろう。
Aについては反論を述べるまでもない。こういう色メガネで見られてはどうしようもない。ただコトダマ列島日本では、専門家が何の私心もなく発表しても「××に有利なように書いたのだろう」とか「あれは○○人だから○○国の利益のために発表したのだろう」とかに、見られがちなことは、記憶しておいてもいいかもしれない。
Bについても、当時のアメリカが「無尽蔵」といえるほどの国力を有していたのは、歴史的事実である。当時はGNPなどの指標はないが、粗鋼生産量等を比較して考えれば、おそらく20対1ぐらいの差はあったのではないか。もちろん日本のほうが1である。戦争をするもしないも、すべての計算はここから始めなければならない。それを、その事実を正確に指摘されたこと自体を非難し、「日米戦争の無益なるを知らしめん」との「謀略」だと解していては、どうしようもない。「予測」を「資料」として、将来の参考にするという態度は望むべくもない。
どうして石丸は、というより日本人は、バイウォーターの予測にかくもムキになって反論したのか。それは、結論が気に食わないからである。この結論は「日本がアメリカに屈伏し屈辱的な講和を強いられる」ということである。そしてコトダマの支配下にある国では、「かく予測すればかくなる」ことになってしまうので、そういう予測は頭から否定しなければならなくなる。それが正確なデータに基づいた妥当な予測であっても、結論が日本にとってマイナスならば、頭から否定されることになる。
そうなると、その予測の基礎になっている正確なデータも、「嘘」か「誇張」か「事実だが無視してもいい些細なこと」としなければ辻棲(つじつま)が合わなくなる。典型的なのがBの例で、「アメリカの物力は無尽蔵」という事実に対し、「そんなことはない」とか「それほどのことはない」とか「確かに物力は凄いが、決め手は精神力だ」といった論議(?)にすりかえられてしまうのである。…
「コトダマ反作用の法則」
マイナスの予測というものは、本来は将来の危機を避けるための最も有効な資料であるべきものだ。 ところが、コトダマの世界ではむしろそれが、将来の危険を招くほうへ働いてしまうのである。これを 「マイナス予測におけるコトダマ反作用の法則」と呼ぼうか。…
これが日本国家の将来にかかわることだったらどうか。困ったことにこういう大事になればなるほど、「コトダマ反作用の法則」はより強く作用する。国家の大事であればあるほど、世論の反発も強くなるし、多くの人が「マジメ」に考えるようになるからだ。誤解しないでほしい。コトダマの世界で、より「マジメ」に考えるということは、結局「縁起でもないこと」を省いた「祝詞(のりと)」を作るという作業に熱中するということである。それも困ったことに、親切で優しくて良心的な人ほど、そうなってしまう。これも分かりやすいように具体的に言おう。
たとえば、仮に、これはあくまで仮にだが、「このままいけば日本の農業は滅亡する」という予測が出されたとしよう。早トチリの人がいるといけないので、もう一度言うが、これはあくまで仮の話である。しかし、このような予測が発表されれば(それがいかに正確なデータに基づいた的確な予測であっても)、世論の大反発を食らう。なぜなら、コトダマ社会において「滅亡する」は「滅亡することを祈った」ことになってしまうからである。農業問題のような、国家の根計にかかわる問題であればあるほど、世論も大きく反応することになるので反発も大きくなる。
そして「農業は滅びるはずがない」という世論が強固に醸成され、その結果として真に必要な滅亡への対策」がなおざりにされ、とどのつまり、本当に「滅亡してしまう」ということになる。これを予測作成者の側から見ると、「農業は滅亡する」という結論が出ても、それを発表するのはためらわれる。反発を食いたくないということも無論だが、コトダマの世界では発表すればその実現を祈ることになるので、 余計ためらわれるのである。
科学者やジャーナリストにとっての良心とは、情報や分析を色をつけずに発表することだが、それと日本人の良心とはかなり違っている。日本人の良心とは、コトダマに忠実なことである。特にマイナス予測の場合はそうだ。
コトダマを信じている人間にとって、マイナス予測をそのまま発表することは、そのマイナスが実現するようコトアゲしたことになってしまうのだから、少しぼかしたり論点をすりかえたりして、発表することになる。日本人的に「親切で」「優しく」「良心的な」人ほどそうしてしまうのである。だから余計まずい。
長々と引用させていただきました。『言霊(ことだま)』に限らず、井沢元彦さんの本は面白いので、興味を持った方はぜひ読んみてください。私のオススメの一つです。なお、この『言霊』という本はかなり好評だったらしく、『「言霊の国」解体新書』『言霊II』などの続編も出ています。
さて、本題に戻ります。「血液型と性格」についても、上に引用させていただいた文章とほぼ同じ経過をたどっています(だから、長々と引用したのですが…)。もっとも、血液型の場合は、「コトダマ」だけでなく、「組織防衛」的な面もあるようです。
では、井沢さんと同じ論理構成で経過を追ってみましょう[注:以下の文中で、「心理学者」や「心理学界」とは、日本の心理学者で「血液型と性格は関係ない」と主張している人や人達のことです]。
まず、能見正比古さんの『血液型人間学』により、「血液型と性格は関係ある」という事実が発表されます。実は、これはデータ分析に基づく結果なのです。決して非科学的なものではありません。より正確に言うならば、統計的検定の手法を用いたデータ分析です。しかし、心理学者にとっては非常に「不愉快な」ものでした。なぜなら、今までの性格心理学をまるっきりひっくり返すものであるからです。
そして、「能見血液型人間学」がきわめて正確・妥当なものだったことは、数々のデータや多くの分析結果が証明しているわけです。しかし、心理学界で起こったのは反発と、それに伴う「能見説」の無視だけでした。能見さんのデータを冷静に検討し、もし「血液型と性格は関係ある」ということであれば、心理学者も能見さんのデータの追試をするべきだ、という反応はなかったようです。少なくとも、主流にはなりませんでした。結局、「能見血液型人間学」は、能見さんの生存中は、心理学界からは全く無視されることになります。
しかし、能見さんの死後、心理学界に「反『能見血液型人間学』」ブームが起こり、それは「血液型と性格は関係あるはずがない」との内容に統一されていきました。中には「血液型と性格は関係ないとはいえない」という良心的(?)な意見を発表する人もいましたが、それも結局、無視されるか、「だから『能見血液型人間学』を否定しなければならない」という意見の補強材料にされてしまったのです。どんなデータや事実−−結果が全く正反対なものでさえ−−でも「血液型と性格は関係あるはずがない」ということにされてしまいました。
#「血液型と性格は関係ないとはいえない」のは、現状では、関係を全面的に否定するだけの心理学的な
#方法論やデータがないからで、決して「関係がある」と断定しているのではないことに注意してください。
#ですから、この結論は、「血液型と性格は関係ない」とは積極的には言えない、という非常に妥当なものです。
日本の心理学者には、「能見血液型人間学」に対する反発が底流にあります。だから、心理学者は「血液型と性格は関係あるはずがない」という結論になるのです。だから、必ずしも公平な分析ではなく「不正確な結論を与える分析」になってしまい、それによって一部の学生(?)が「不正確な結論」を信じてしまうという、おかしな結果になってしまうのです。
そして、心理学者は能見さんの立場を問題にしています。すなわち能見さんは「アカデミック」でなく「ポピュラー・サイコロジスト」で在野の人だから、「差別的・人権侵害的な言動を弄し、一般人に反心理学熱を扇動し」ていると言わんばかりの内容もチラホラ見かけます。
そして、 内容についても以下のように反論しています。
@「心理学者を不利ならしめんとして、心理学的性格分類を誣(し)い」している。
A「能見を有利ならしめるが為(た)め無暴なるデータの実例を示して一般人を警醒(けいせい)し」ている。
B「能見のデータの膨大なるを力説して、心理学者の到底能見の敵にあらざるを日本国民に知らしめ」「日本人をして能見・心理学者論争の無益なるを知らしめん」としている。
この「能見血液型人間学」に対する心理学者の反論に、さらに反論してみましょう。
第一に、相手が在野の人だからといって、必ずしもデータや分析結果が不正確とは限らないのです。χ2検定なら、誰がやったって正確な結果が出るに決まっています。最新の生化学や大脳生理学なら、心理学者だって私のような素人だって、どちらにせよ専門外には違いありません。
また@で、心理学的性格分類を「誣いる(事実を曲げる)」と言ってますが、能見さんはデータ分析の結果そう言っているのであって、この分析は非常に正確です。ですから、他のデータ−−心理学者のデータでさえ−−についても、ほとんど能見さんの分析結果と一致します。だから、この反論は誤りであると言ってもいいでしょう。
#ちなみに、この点については他のページに書いてあるとおりです。
#私の指摘も、心理学界からは全く無視されているようです(影響力がないのだから、無視されるのは当然ですが…。f(^^;;)
Aについては反論を述べるまでもないでしょう。こういう「偏見」を持ちながら見られては…。井沢さんも「色メガネで見られてはどうしようもない」とのことですが、ご存知のとおり「人権無視」「差別的」「アカデミックでない」といった非難が飛んで来るのは、残念なことですがよくあることです。
#当然のことながら、能見さんのデータの正確さが全く無視されています。
Bについても、当時の能見さんが「膨大」といえるほどのデータを持っていたのは事実です。データ量等を比較して考えれば、おそらく20対1ぐらいの差はあったのではないでしょうか。もちろん心理学者のほうが1です[注:当時のサンプル数は、能見さんは2万人、心理学者は最大で千人程度…現在は差が縮みましたが、それでも能見さんの方がトータルのデータがかなり多いという事実は変わりません]。論争をするもしないも、すべての計算はここから始めなければならないでしょう。それを、その事実を正確に指摘されたこと自体を非難し、「論争の無益なるを知らしめん」との「謀略」だと解していては、どうしようもないでしょう。「データ」を「資料」として、分析の参考にするという態度は望むべくもありません。
#この点も、同様に能見さんのアンケートの膨大なサンプル数が全く無視されています。
どうして心理学界は、「能見血液型人間学」にこうヒステリックとも思えるほど反論したのでしょうか。それは、結論が気に入らないからです。この結論は「血液型と性格は関係ある」「(性格)心理学はアテにならない」ということです。そしてコトダマの支配下にある学界では、「かく言えばかくなる」ことになってしまうので、そういう分析は頭から否定しなければならなくなります。それが正確なデータに基づいた妥当な分析であっても、結論が心理学界にとってマイナスならば、頭から否定されることになります。
そうなると、その分析の基礎になっている正確なデータも、「嘘」か「誇張」か「事実だが無視してもいい些細なこと」としなければいけなくなり、典型的なのがBの例で、「能見さんのデータは膨大」という事実に対し、「そんなことはない」とか「それほどのことはない」とか「確かにサンプル数は凄いが、決め手はランダムサンプリングだ」とか「血液型による性格の差は『思い込み』によるもので本当は差はない」とかといった「反論」にすりかえられてしまうのです。それらの「反論」が相互に矛盾しているかどうかのチェックを行なうことは普通はありません。いや、行ってはいけないのです。
で、結局、コトダマを信じている人間にとって、マイナスの分析をそのまま発表することは、そのマイナスが実現するようコトアゲしたことになってしまうのだから、少しぼかしたり論点をすりかえたりして、発表することになります。日本人的に「親切で」「優しく」「良心的な」人ほどそうしてしまうのです。だから余計まずいということになります。
#これが、「血液型による性格の差は『思い込み』によるもので本当は差はない」などという分析結果になります。
驚くべきことに、論理構成はほとんどそのままでいいことがわかります。あまりにも…ですね。
おっと、井沢さんの文章のかなりの部分をそのまま使ってしまいました(問題があれば、即刻削除・訂正します)。また、「コトダマ」だけでなく、「組織防衛」的な面もあることは、読んでいておわかりだと思います。
ただ、心理学者の反応で納得がいかないのは、能見さんの死後になって初めて「反『能見血液型人間学』」ブームが起こったことです。なぜ、能見さんの生存中に堂々と「能見血液型人間学」に反論しなかったのでしょうか? 更に不思議なことに、私の反論も−−初期の私の集めたデータが不充分だった時期を除いて−−全く無視されていることです。だから、反論のメールを出しても、そのほとんどには返事が来ません(私のデータや意見が正しいと主張しているのではありません、ただ「返事が来ない」という客観的事実を述べているだけです、念のため)。
#もっとも、能見さんが無視されるのはともかく、私のメールが無視されたからといって、何か問題があるわけではないのですが。f(^^;;
まあ、これは単なる偶然なのではないかと思っていたのですが、どうもそうではないようです。聞くところによると、前川さんの『血液型人間学−運命との対話−』についても、心理学界には全く無視されていることです。ということは、やはり井沢さんが指摘したのと同じように、「心理学界ではあまり『有名』ではない」「血液型に詳しい人、論争に参加した人でも、この本のことを聞くと知らない人が多い、いやほとんど知らない」という結論になりそうです。非常に残念なことですが…。そうならずに論争が活発化することをぜひ願いたいものです。
#最近はまた反論のメールが増えてきたようで、非常に期待しているところです。
なお、井沢さんが血液型についてどう思っているかは知りません。血液型なんてとんでもないなんて言われると、とても困るのですが(笑)。
-- H10.9.23
では、なぜ「能見さんのデータは膨大」という事実に対し、「そんなことはない」とか「それほどのことはない」とか「確かにサンプル数は凄いが、決め手はランダムサンプリングだ」とか「血液型による性格の差は『思い込み』によるもので本当は差はない」といった「反論」にすりかえられてしまうのでしょうか。また、なぜそれらの「反論」が相互に矛盾しているかどうかのチェックを行なうことはないのでしょうか?
再び、井沢元彦さん(B型)の『言霊(ことだま)』から引用しておきます。[注:傍点は下線に変更しました]
日本人的員数(いんずう)主義
員数主義とは聞きなれない言葉だが、ただの「員数」なら辞書にも出ている。「数」または「一定の数」のことである。員も数も「かず」を意味する漢字だ。では員数主義とは何かといえば、その命名者の山本七平(やまもとしちへい)氏によれば「『数さえ合えばそれでよい』が基本的態度」の「その内実はまったく問わないという形式主義」のことだ。
日本軍は、この員数主義に骨の髄まで侵されていた。具体例を山本氏の『一下級将校の見た帝国陸軍』(朝日新聞社刊)から引用すると、「紛失(なくなり)ました」という言葉は日本軍にはない。この言葉を口にした瞬間、「バカヤロー、員数をつけてこい」という言葉が、ビンタとともにはねかえってくる。紛失すれば「員数をつけてくる」すなわち盗んでくるのである…(中略)…いわば「盗みをしても数だけは合わせろ」で、この盗みは公然の秘密であった。…(中略)…これは結局、外面的に辻棲が合ってさえいればよく、それを合わすための手段は問わないし、その内実が「無」すなわち廃品による数合わせであってもよいということである。
蛇足ながら付け加えれば、盗みをして数を合わせるのは検査の時だけでいい。ということは、実際に兵器や備品の数が足りなくてもかまわないことになる。それどころか実際には、役に立たない物でも数のうちに入れていた。
この員数主義が高じてくると、一雨降れば使用に耐えぬ飛行場が、参謀本部の地図に立派な飛行場として記されたり、何一つ役に立たない要塞が完成したと報告されたりする。そしてそういうインチキは、アメリカ軍という「実数」の軍隊に次々と粉砕されていく。日本軍の敗北は、参謀本部の「員数」作戦と、それに対応する現場の員数報告による虚構の世界が、アメリカという「員数」のない国の軍隊によって破壊されたことだというのが、山本氏の認識である。
この認識は正しいと思う。そしてこれは、帝国陸軍だけの話ではない。員数主義は今も生きている。…
これら山本氏の指摘に対し、私はどうして員数主義が生まれるのかという分析をしてみたい。言うまでもなく、それはコトダマの作用である。「かく言えばかくなる」というのがコトダマの基本作用であり、逆に「かくなるようにかく言う」のがコトアゲという作業であるが、それの応用で「(何かが)あると言えば、(実体はなくても)ある(とする)」というのが員数主義である。これは、言葉と実体がシンクロするというコトダマの基本原理の一変型であることは、お分かりになると思う。…
これが員数主義の実体である。これはインチキでありゴマカシであるのだが、日本人はこれに対して罪悪感を抱かない。「どこでもやっていること」だし、日本人なら幼いころから「形式さえ整っていればオーケー」 という教育を、知らず識らずのうちに受けている。それは、もちろんコトダマの影響であり、それが社会に員数主義を生み出すことになる。
一生懸命ならば、ゴマカシでも許される
先に述べたように、日本人の良心とはコトダマに忠実なことであり、物事を正しくあからさまに表現することではない。だから員数主義を、ゴマカシと叫ぶことすら抵抗があるような心理状態になる。それどころか、良心に従って員数主義を行なうケースすらある。たとえば「これは政府の悪を追及する集会である。にもかかわらず参加者は少ない。だから水増しして発表しておこう。それは結局、社会のためになることだから許される」というような論理である。
これに対し、「それは虚偽ではないか、悪を追及する大会を“ゴマカシ”という悪で汚してはいけない」などと反論したらどうなるか。「おまえは政府の味方か、みんなが一生懸命やっているのに、どうして余計なことを言うのか」と非難されるのがオチだ。この一生懸命というのも一つのキーワードである。一生懸命やっていれば、実際にはゴマカシでも許される。もちろん熱心な詐欺師なら許されるという意味ではなく、当事者が良心に従って行なえば、内実は員数主義でも許されるということだ。…
自己の信条や思想にかかわらず、現実に存在するものは存在すると認めるのがリアリズムである。きわめて当たり前の話である。ところが日本ではしばしば、その当たり前のことが当たり前にならなくなる。その極端な例が冒頭に採りあげた帝国陸軍で、「アメリカの軍事力、強大な経済力」は無視(ないと思えば実際になくなる)し、「自軍の実力や軍備」については、員数主義(名目上存在すれば存在する)を採る。これで戦争を始めればどうなるか、負けるのは決まりきった話である。
これが自分とまったく関係ない昔の話なら、「あいつらバカだなあ」で済むが、コトダマ員数主義も今現在続いている。…
解説は不要でしょうが、ちょっとだけ。要するに、「能見血液型人間学」は「敵」なのだから、もし心理学者の誰かが、「なぜ能見さんのデータの追試をしないのですか?」「FBI効果は本当にあるのですか?」「○さんと△さんの分析結果は矛盾しないのですか?」などという「疑問」を言えば、「おまえは能見の味方か、みんなが一生懸命やっているのに、どうして余計なことを言うのか」と非難されるのがオチだということになってしまっても何も不思議ではありません。もちろん、これは私の全くの推測で根拠はありませんが、(心理学者も含めた)否定論者の言うことを聞いていると、井沢さんが指摘したものとほぼ同じ反応であることはほぼ間違いないでしょう。
ですから、私は(心理学者も含めた)否定論者は、ほとんど全員が良心的でマジメな人だと信じています。これは決してウソではなく、マジメにそう思っているので、皮肉でもなんでもありません。しつこいようですが、念のため。
#現に、そういう「疑問」を持っている否定論者も何人かいるようですが、まだまだ主流にはなっていないようです…。 -- H10.9.23
しつこいようですが、井沢元彦さんの『穢(けが)れと茶碗』からも引用させていただきます。
戦時中のマンガにみる日米の違い
太平洋戦争当時、日本と戦っていたアメリカの大統領、フランクリン・ルーズベルト(在位1933年〜45年)の写真[注:省略しています]が当時の日本の子ども向け雑誌の表紙に掲載されます。
これはまるで鬼です。日本人というのは、一口に言えば、こういう教育の仕方をするわけです。つまり、当時のアメリカというのは、光栄ある大日本帝国に逆(さか)らう悪者、いわゆる「まつろわぬもの」、反抗者であったわけです。ですから、このように描く。その場合、「盗人(ぬすっと)にも三分の理」という諺(ことわざ)がありますが、こういう考え方は一切しません。とにかく、相手が100パーセント悪いと決めつける。これが、日本の教育の基本パターンなのです。
いわゆる「鬼畜米英(きちくべいえい)」という言葉があります。鬼畜というのはもちろん差別用語です。鬼のような、畜生のような悪いやつだ、ということです。戦前は子どもたちに、イギリスやアメリカのことを、文字どおり「鬼畜米英」と呼ばせていたわけです。その一環として、この絵があるということです。もう一度言いますと、日本の教育というのは、常にこのようなやり方をするのです。
しかし、アメリカでも同じようなマンガがあるという疑問に対しての反論が次に書かれています。
敵性語を追放した日本と、 日本語を学んだアメリカ
では、日本とアメリカは同じなのかというと、けっしてそうではありません。少なくともアメリカの側には、敵である日本をよく知ろうという考え方があったのです。これはご存じかと思いますが、日本はアメリカと戦争を始めた段階で、敵性語追放という、言わば差別語狩りに似た英語狩りをやりました。…
ところが、ではアメリカはどうしたかというと、アメリカは日本との戦争が近いとなったとき、「敵を知り己(おの)れを知らぱ百戦危(あやう)からず」という有名な孫子の言葉どおり、猛然と日本の研究を始めたわけです。
具体的には優秀なメンバーを集めて、日本語を学ばせています。そのことが後に太平洋戦争における日本軍の暗号解読につながり、山本五十六(やまもといそろく)連合艦隊司令長官機の撃墜にもつながったのです。
つまり、山本五十六長官が視察をするという情報が、アメリカ側に漏(も)れていたにもかかわらず、日本側は能天気と言いますか、暗号が解読されているなどとは夢にも思っていなかったわけです。…
つまり、何か悪いものがある場合、その悪というものを、徹底的に戯画化して強調する。そして、盗人にも三分の理はあるなどということは一切教えずに、ある時代においては英語を、現代においては差別語を、そうしたものを一切排除する、というのが日本の教育のやり方です。
外国のやり方、特にアメリカのやり方が違うのは、相手が悪であるならば、その正体を詳細に見極めようとする点です。
どちらが正しい態度かと言えば、これは言うまでもなくアメリカのほうです。日本のやり方というのは、最初に「鬼畜」という断定があります。次にその鬼畜という判断を押しつけるわけです。
アメリカのやり方にも、そうした面もないとは言いませんが、少なくとも相手をよく知って、そのうえでその悪というものを納得させよう、つまり最後の判断は、個人個人に委(ゆだ)ねようという教育の仕方を行なっているわけです。
これも解説は不要でしょうが、余計なことをちょっと。まず、私の統計的な反論や論理構成については、メールやネットサーフィンをした印象では、(大変僭越な言い方ですが)否定論者も含めて、かなりの人が「否定はできない」と思っているようです。しかし、「能見血液型人間学」は「悪」なのだから、私が「『差別』は本当にあるのでしょうか?」「○さんと△さんの分析結果は矛盾するのではないでしょうか?」「なぜ返事がもらえないのでしょうか?」「生化学的な否定は可能なのでしょうか?」などと言えば、「おまえは能見の味方か、否定論者はみんな一生懸命やっているのに、どうして余計なことを言うのか」と非難されるということになるはずですし、現にメールやホームページでもそう非難されています。(^^;;
しかし、否定論者の中で、自分で資料を集めたり、データを分析するのが好きな人はあまりいないようです(なぜ?)。そこで、非難は続けつつも、私の反論には有効な再反論ができず、結局無視するというパターンが多いように感じています(え、違う?
それは大変失礼しましたf(^^;;
ぜひ反論をいただければ幸いです)。
これは非常に不思議なことです。なぜなら、私の分析しているデータは全体からすればほんの一部ですし、全ての分析が正しいとは自分でも思っていないからです(正しいと思っているものを公表しているつもりですが、思いもよらぬところで間違っているという可能性はありますから)。だから、どんどん反論をしてもらいたいのですが…。
#でも、そうなると、反論をしないで無視するということが、私に対しての最大の反論なのでしょうか…。はて? -- H10.9.23
「コトダマ」とは、井沢さんが初めて再発見したものですが、山本七平さんもその基ともなる指摘をしています。それは戦艦大和の話です…。
『宇宙戦艦ヤマト』を見た方ならよく知っているでしょうが、太平洋戦争末期、戦況が日増しに悪化してゆく中、戦艦大和は沖縄戦のために出撃しました。この時期には、日本軍は既に完全に制空権を奪われていました。片道分の燃料しか搭載せず、たった1機の艦載機の援護もなく、悲壮な覚悟で大和は出撃したのです。しかし、米軍の戦闘機・爆撃機の攻撃はすざまじく、多数の魚雷や爆雷を受け、大和は奮戦空しく巨大な火柱を残して爆沈します。そして、数多くの艦員が大和と運命を共に…。
私はこの場面で非常に感動しました。涙なくては…とまではいきませんが、『宇宙戦艦ヤマト』の見せ場の一つであることは確かでしょう。この昭和20年4月7日に九州坊ヶ崎南方沖[本当は違う場所らしいですが…]に深く沈んだ旧日本軍の戦艦大和は、西暦2199年に「宇宙戦艦ヤマト」に改造されます。改造が終了した後、「ヤマト」は全人類を救うため、遙か14万8千光年先のイスカンダル目指して旅立つ…というのが『宇宙戦艦ヤマト』のストーリーです。おっと、あまりにも懐かしくてつい感傷的になってしまいました。(^^;;
しかし、『宇宙戦艦ヤマト』はともかく、実際の戦艦大和が出撃したのはそんな理由ではなかったのです。なぜなら、戦艦大和の出撃は、その場の「空気」によるもので、合理的判断によるものではなかったからです(山本七平さんの『空気の研究』より)。
以前から私は、この「空気」という言葉が少々気にはなっていた。そして気になり出すと、この言葉は一 つの“絶対の権威”の如くに至る所に顔を出して、驚くべき力を振っているのに気づく。「ああいう決定になったことに非難はあるが、当時の会議の空気では……」「議場のあのときの空気からいって……」「あのころの社会全般の空気も知らずに批判されても……」「その場の空気も知らずに偉そうなことを言うな」「その場の空気は私が予想したものと全く違っていた」等々々、至る所で人びとは、何かの最終的決定者は「人でなく空気」である、と言っている。…(中略)…
驚いたことに、「文芸春秋」昭和50年8月号の「戦艦大和」(吉田満監修構成)でも、「全般の空気よりして、当時も今日も(大和の)特攻出撃は当然と思う」(軍令部次長・小沢治三郎中将)という発言がでてくる。この文章を読んでみると、大和の出撃を無謀とする人びとにはすべて、それを無謀と断ずるに至る細かいデータ、すなわち明確な根拠がある。だが一方、当然とする方の主張はそういったデータ乃至根拠は全くなく、その正当性の根拠は専ら「空気」なのである。従ってここでも、あらゆる議論は最後には「空気」できめられる。最終的決定を下し、「そうせざるを得なくしている」力をもっているのは一に「空気」であって、それ以外にない。これは非常に興味深い事実である。…(中略)…
「空気」と「論理・データ」の対決として「空気の勝ち」の過程が、非常に興味深く出ている一例に、前述の「戦艦大和」がある。これをもう少し引用させていただこう。
注意すべきことは、そこに登場するのがみな、海も船も空も知りつくした専門家だけであって素人の意見は介入していないこと。そして米軍という相手は 昭和16年以来戦いつづけており、相手の実力も完全に知っていること。いわばベテランのエリート集団の判断であって、無知・不見識・情報不足による錯誤は考えられないことである。まずサイパン陥落時にこの案が出されるが、「軍令部は到達までの困難と、到達しても機関、水圧、電力など無傷でなくては主砲の射撃が行ないえないこと等を理由にこれをしりぞけた」(連合艦隊参謀長・草鹿龍之介中将)となる。従って理屈から言えば、沖縄の場合、サイパンの場合とちがって「無傷で到達できる」という判断、その判断の基礎となりうる客観情勢の変化、それを裏づけるデータがない限り、大和出撃は論理的にはありえない。だがそういう変化はあったとは思えない。…(中略)…
従ってこれは、前に引用した「全般の空気よりして……」が示すように、サイパン時になかった「空気」が沖縄時には生じ、その「空気」が決定したと考える以外にない。
このことを明確に表わしているのが、三上参謀と伊藤長官の会話であろう。伊藤長官はその「空気」を知らないから、当然にこの作戦は納得できない。第一、説明している三上参謀自身が「いかなる状況にあろうとも、裸の艦隊を敵機動部隊が跳梁(ちょうりょう)する外海に突入させるということは、作戦として形を為さない。それは明白な事実である」と思っているから、その人間の説明を、伊藤長官が納得するはずはない。ともにベテラン、論理の詐術などでごまかしうるはずはない。だが、「陸軍の総反撃に呼応し敵の上陸地点に切りこみ、 ノシあげて陸兵になるところまでお考えいただきたい」といわれれば、ベテランであるだけ余計に、この一言の意味するところがわかり、それがもう議論の対象にならぬ空気の決定だとわかる。そこで彼は反論も不審の究明もやめ、「それならば何をかいわんや。よく了解した」と答えた。この「了解」の意味は、もちろん、相手の説明が論理的に納得できたの意味ではない。それが不可能のことは、サィパンで論証ずみのはずである。従って彼は、「空気の決定であることを、了解した」のであり、そうならば、もう何を言っても無駄、従って「それならば何をかいわんや」とならざるを得ない。
ではこれに対する最高責任者、連合艦隊司令長官の戦後の一言葉はどうか。「戦後、本作戦の無謀を難詰する世論や史家の論評に対しては、私は当時ああせざるを得なかったと答うる以上に弁疏(べんそ)しようと思わない」(傍点筆者[注:下線に変更])であって、いかなるデータに基づいてこの決断を下したかは明らかにしていない。それは当然であろう、彼が「ああせざるを得なかった」ようにしたのは「空気」であったから−−。
私は、これを知って非常に憤慨しました。戦艦大和は悲壮な覚悟で一生懸命戦ったと信じていたからです。しかし、実はそうではなく、非合理な「空気」による決定で、万が一にも勝てない戦いに出陣したことになります。要するに、戦艦大和の出撃は全くのムダだったのです! そのために2千人もの貴重な人命が失われました。大和が出撃したからといって、戦況の悪化が防げたのではなかったのです。これでは2千人は何のために死んでいったのか…。
おっと、これまた感情的になってしまいました。(^^;; 結局私が言いたいのは、どの世界にも何かしらの「空気」があるということです。そして、山本七平さんの言うように、「空気」と「論理・データ」が対決すれば、「空気の勝ち」になることもあるのだということです…残念ながら。
-- H10.9.27
実は、日本の心理学会にも「空気」が存在したのです。それはもちろん「血液型」です!
私は、日本の心理学者が「血液型性格関連説」を否定するのは、心理学者の「論理・データ」が能見さんの「論理・データ」に勝っているからだ、とず〜っと信じ込んでいました。
能見さんのデータは、サンプル数では(能見さんの4万人程度に対して心理学者は最大3万人程度ですが、質問項目もカウントすると能見さんの圧勝です)では勝っているものの、「ランダムサンプリング」の点にやや問題があると思っていたからです。確かに、以前にはそういう面があったことは否定できません。そこで、私はあちこちいろいろと探して、やっと「ランダムサンプリング」の点でも「有意差」でも全く問題なく、そして能見さんのデータとも一致する傾向のものをいくつか発見しました。そのためには本当に数多くの方に助けられました。一々お名前は書きませんが、今でも大変感謝しています。インターネットも大きく役に立ったことはもちろんです。なお、このデータは、血液型では有名な心理学者が学会に発表しているのですから、正確さでも文句があるはずがありません。
大多数の心理学によると、血液型と性格に「関係がある」という条件は次のようなものです(『現代のエスプリ〜血液型と性格』 128ページ 『目分量統計の心理と血液型人間「学」』 長谷川芳典さん)。この条件は、複数の心理学者にメール等で確認しているので間違いないはずです。
「血液型と性格は関係がない」という作業仮説のもとに地道にデータを集め、ある性格的特徴について明らかに血液型との関係を示すようなデータが安定的に得られた時に初めてこの仮説を棄却するのである。これこそが、雑多な変動現象の中から帰納的に規則性を見い出そうとするときにとるべき科学的態度である。
それでは、少しでも読みやすくなるように、私の論理の要約を下に書いておくことにします。「ある性格的特徴について明らかに血液型との関係を示すようなデータが安定的に得られた」のでしょうか?
松井豊さんの論文からの転載です。松井豊さんの分析論文1では、20項目の質問中で2つの項目でしか統計的な差が出ませんでした。 →最高値が赤 →最低値が青
といったぐあいで、さっぱり差がないのです。また、論文2では、全部で1万人以上のデータを分析したにもかかわらず、24項目の質問中でたった1つの項目でしか統計的な差が出ませんでした。
つまり、データに血液型による差がない→血液型による性格の差がない、という結論になっています。 坂元章さんの分析しかし、論文2と同じデータ(ただし、年数は4年分→11年分と増加)を分析した坂元章さんの論文では、データに血液型による差がある→血液型で性格に差があるという「信念」によるもの(=「血液型ステレオタイプ」)→血液型による性格の差がないという結論になっています。 よく考えてみると、これは明らかにおかしいのです。血液型と性格は関係ないという結論こそ松井さんと同じものの、データに血液型による差がない(松井さん)、データに血液型による差がある(坂元さん)と全く正反対の分析結果が得られてしまったのですから…。
私の分析不思議なことに、この「矛盾」には心理学者は誰も気が付いていなかったようです。いや、本当は気づいていたのかもしれません。なぜなら、否定論者の心理学者の誰に質問しても、そのほとんどはあいまいな答えでお茶を濁されて終わりになってしまうからです(たとえ返事をもらえても、その全てが「公表不可」とのことなので、残念ながら公開できません)。しかし、教えてもらえなければ、ますます知りたくなるのが人情というものでしょう。 |
次に、この差は「血液型で性格に差があるという『信念』によるもの(=『血液型ステレオタイプ』)」という点については、FBI効果は存在するか?から転載しておきます。少々長くなりますが、少しでも読みやすくなるように…。
前川輝光さん 『血液型人間学−運命との対話−』(551〜553ページ) 「FBI効果」について見ていきたい。大村は能見血液型人間学はニセ科学であり、自らの所説を真実らしく見せるために3つのトリックを用いていると言う。すなわち「フリーサイズ効果(Freesize)」「ラベリング効果(Labeling)」
「インプリンティング効果(Imprinting)」の3つである。「FBI効果」の「FBI」というのは、各効果の英語表現のうちの傍点を付けた文字をつないだものである。
しかし、この問題は実は、大村の依拠する既存の心理学において、すでに議論されていたことであった。引用した大村の発言ではこのことがぼかされているが、白佐俊憲・井口拓自のこの点についての発言を読むと、事態がより明瞭になるであろう。
大村自身、こうした説の存在は知っていたのである。『血液型と性格』の4年半前に出版された『「血液型」の迷路』では、大村は、大西赤人との対談中、目立たない形でではあるが、こうした説にふれている(「これと同じような事が一般の性格テストでも起こります。そういう報告もありますよ」 『「血液型」の迷路』86頁)。ただし、それが気になったらしい大西から質問が出ると、さっさとこの話題を切り上げている(87頁)。 坂元さんの疑問ところが、坂元さんは『現代のエスプリ〜血液型と性格』で次のように主張しています(184〜185ページ 『血液型ステレオタイプと認知の歪み〜これまでの社会心理学的研究の概観』 坂元章)。
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要するに、FBI効果が存在するかどうかは明確な結論が出ていないわけです(詳しくはこちら)。更に、渡邊席子さんの論文では、「『自分の血液型に当てはまるもの』 と判断した性格特性については、その特性が通説によって本人のものとされているか否かに関係なく、調査対象者はその特性がよりよく自分に当てはまっていると思っていることになる」ということなので、FBI効果があろうがなかろうが、質問の回答には影響を与えないことになります。つまり、普通のアンケートの回答は、何にもしなくとも「血液型ステレオタイプ」の影響は排除されているはずです。
結局、これらのデータは、「客観的・具体的な基準の元で再現可能な形で定義された性格特徴を1つでも掲げ、かつ『血液型ステレオタイプ』の影響も排除した上で、『○型は、この特性において、明確に×型と異なる』というデータを示して」いるから、「血液型と性格は関係ある」ということになるはずです。私はこれで一息つきました。これだけちゃんとしたデータがあれば大丈夫だろうと…。なにしろ、血液型では有名な心理学者が学会で発表しているのですから、データの正確さについて文句があるはずがありません。 -- H10.9.27
なお、この点については、心理学者以外の否定論者の多くから「統計的に証明しても意味がない」というメッセージを沢山いただいています。つまり、「統計的な証明」については多くの否定論者からも認めてもらっているわけです。しかし、「統計的に証明しても意味がない」となれば、当然のことながら性格心理学や性格テストが否定されるので、心理学者ではそういう立場の人はかなり例外です、念のため。 ここでは性格のプロである心理学者の論理に従って、そういう否定論者の論理は取り上げないことにします。 |
再度、山本七平さんの『空気の研究』から引用しておきます。否定論者は、肯定論者を「悪」、否定論者を「善」という2方向で把握しているからおかしいのです。だから、データを見ると何も言えなくなってしまうのでしょう。これ以上の解説は不要でしょうから書きませんが…。 -- H11.4.13
さてここで、空気支配のもう一つの原則が明らかになったはずである。それは「対立概念で対象を把握すること」を排除することである。…この言い方も抽象的だから、具体的な例をあげよう。
たとえば、一人の人を、「善悪という対立概念」で把握するということと、人間を善玉・悪玉に分け、ある人間には「自己のうちなる善という概念」を乗り移らせてこれを「善」と把握し、別の人間には「自己の内なる悪」という概念を乗り移らせてこれを「悪」と把握することとは、一見似ているように見えるが、全く別の把握の仕方である。…前者はすなわち「善悪という対立概念」による対象把握は、自己の把握を絶対化し得ないから、対象に支配されること、すなわち空気に支配されることはない。後者は、一方への善という把握ともう一方へのその対極である悪という把握がともに絶対化されるから、両極への把握の絶対化によって逆に自己を2方向から規定され、それによって完全に支配されて、身動きができなくなるのである。言いかえれば、双方を「善悪という対立概念」で把握せずに、一方を善、一方を悪、と規定すれば、その規定によって自己が拘束され、身動きできなくなる。…
また少々「公害問題」を取り上げさせていただく。いままで「空気」の研究の素材に主として海軍と公害を取り上げてきたが、こういう結果になったのは、この2つが、「科学的なデータ」と「醸成された空気」との誤差が非常にわかりやすいからだ、という理由にすぎず、この2つが空気支配の典型だというわけではない。これらの部門は、元来、専門家が科学的根拠だけで決定すれば、「大過ない」決定になるはずだが、それさえ結局、全く奇妙な「空気」の決定になっている。こうなると、これらより格段に「データ」と「空気」の誤差がわかりにくい部門となると、「意志決定はすべて空気に委ねる」が、「それが何らかのデータに基づいているように見せる」のが実情であっても不思議ではない。ただそれが、明確につかみにくいだけである。
海軍にも国際性があったわけだが、同じように科学上のデータにも「国際性」がある。従ってその国際的基準を基に日本の決定を再検討すれば、「空気の決定」の実態が明らかになる。しかしタテマエとしては日本における基準の決定はあくまでも「科学的根拠」によるのであって「空気」によるのではないことになっているから、外国からその科学的根拠を問われると、だれも返答できないことになってしまう。
そこで、この点についてどう思うか、心理学関係者に次々とメール等で確認しました。しかし、今まではすぐに返事をもらえた人でも、どういう訳かさっぱり返事をもらえません。たまに返事が返ってきても、「私文書」とか「著作権」とかの問題で「公開不可」とのことです。今まではそんなことはなかったのですが…。しょうがないので、再確認のメールを出したりしたのですが、これまたそのほんどがナシのつぶてです。これには本当に困ってしまいました。基準をどうするかで違うのですが、私が意見を確認した心理学者関係者の総数は7人で、確定的な返事をいただいたのは結局そのうちたったの1人です。
心理学者は統計のプロですから、私の言っていることがわからないはずがありません。もし「わからない」なら、私はその人の専門家としての能力を疑いますが、そんな人がいないことは自信を持って断言できます。返事がもらえないのは、「多忙」なのか、それとも「回答拒否」なのか、あるいは私に対しての「反論」を準備中なのか、いや単に「面倒」なのか…確認する方法がなくて困っていました。いずれにせよ、メールは非公開が原則なので、その内容を公開することはできません。ところが、意見を公開してもいいという親切な方が現れたのです! 内容については以下のページを見てください。
長谷川さんの反応について、皆さんはどんな印象を持ったでしょうか?
結局、私の質問にはただの1つも回答はいただけませんでした。そして、当分の間は回答していただける予定もないようなので、返す返すも残念です。ちなみに、他の心理学者についてもほぼ同じ反応でしたので付記しておきます。 それはともかく、長谷川さんには、お忙しい中わざわざメッセージを送っていただき、大変ありがとうございました。この場を借りて深く感謝申し上げます。本当にどうもありがとうございました。m(._.)m |
長谷川さんは心理学者ですし、心理学者は統計のプロですから、私の言っていることがわからないはずがありません。このページで私が欲しい回答は、(考えることさえ不要な)2つの数字だけです。私の文章が意味不明なところや、あまり(?)礼儀をわきまえていないことをかなり割り引いたとしても、長谷川さんがたった2つの数字を書くのが不可能なはずはありません(もっとも、これは私の全くの推測であることを予めお断りしておきます)。
じゃあ、結局どうなんだ?と思われる人も多いと思います。何が「空気」で何が「論理・データ」なのか、「血液型と性格」は本当に関係あるのか…。それは、皆さん自身で自由に考えていただくのが一番でしょう。まだまだ不十分とはいえ、私はできる限りの判断材料は提供したつもりですから…。
最後に、「血液型と性格」は「全く関係ないとは断定できない」という心理学者の方も最近では(少数ですが)いらっしゃるようです。私にとっては心強い味方で、大変うれしい限りです。そして、より多くの人が研究して、肯定・否定の両方からの議論を深めることが一番大切なことでしょう。 -- H10.9.28
その後、大村政男さんの新訂『血液型と性格』を読んで興味深い記述を発見しました(217ページ)。
わたくしの批判的研究は、能見正比古の没後であるから彼からのコメントはもらえないが、もし正比古が生きていても彼はこのようなすぐにでも底が割れる発言はしなかったと思う。彼はおそらくわたくしの批判を無視したと思われる。貝のように殻を閉じると思う。子どもや、おとなが寡黙になる、それらは欲求不満や葛藤のときの反応としてよく知られている。
否定論者は、長谷川さんのような例外は別として、「わたくしの批判を無視し」「貝のように殻を閉じ」ています。結局、反論のメールがないということは、性格心理学的な説明によると「欲求不満や葛藤のときの反応」ということなのでしょうか?
こう書いたところで、意見を公開してもいいという親切な方がまたまた現れました。
内容皆さん自身で判断してほしいので、私のコメントはここには敢えて書きません…。 -- H11.4.13
最近分かったのですが、否定論者は圧倒的にA型が多いようです。例えば、血液型が公開されている否定論者では、大村政男さん、佐藤達哉さん、渡邊芳之さんは全員A型です。非公開の人でも、私が個人的に知っている範囲では数人のA型がいます。なぜかA型以外はほとんどいません。非常に不思議なことですが…。『ABO FAN』としては、正確な原因を分析する必要があるのでしょうが、残念ながらさっぱり分かりません。f(^^;;
#もっとも、これは血液型と性格に関係があるということでしょうから、まあいいか(笑)。
この点について、ある方から感想をいただいたので、ここに公開させていただきます。
「好意的」に解釈すれば、最多数派なので、肯定するのは気が引けるとか(^^;。或いは、自分自身の血液型の性向が嫌い、ってのはA型に多そう(例の「結婚したくない」関係のデータに見られるA型の不評)ですから、その反映でしょうか(^^;;。 身辺の印象では、OやBが「いずれにせよ、決定的な証拠はまだ無い」というあたりでも、それなりに納得するのに比べて、Aは、肯定するにせよ否定するにせよ、「はっきり」しないと気が済まない、という感じですね。「(関係が)あってたまるか」風全否定か「全ては血液型で決まる」風全肯定か、という人が多いような気がします。悪口のつもりではなく、Aの「価値観」とか「責任感」と深い部分で繋がっているように思えて、なかなか興味深いところです。というのが(OやBの無関心派はハナっから無関心という感じなのに)、「証拠はまだ無い」というところで、全く関心を失ってしまう人がAにはいるのですね。つまり、「はっきり」していないものには関心が無い、価値が認められない、という感じです。 この感じは、例えば『邪馬台国』論争なんかの方が顕著のような気がします。限られた証拠からは、「決定できない」という結論が「正しい」場合だってあると思うのに、「ここ」!と決定する人々がいて、どうも彼等、A型ではないのかなどと思ってしまうのですが、確かめてはいませんので、ま、これは妄想の類です。(^^;; ABさんは身近にいませんのでよくわかりません(^^。 |
そういえば、A型の特徴のところで、能見さんの記述がありました。
完全主義も幼児期にすでに発現する。自分だけではなく、自分の周囲にも完全な姿を要求することから、強い責任感と自立的行動が生まれ、手抜きをしない丹念さ、緻密さ、慎重さなども出てくる。他面、完全さを要求するため、"アラさがしのA"や"口うるささのA"にもなりやすい。
完全主義と勝ち気が結びつき、自分の理屈をどこまでも通そうとするA型は、シンのある理屈っぽい人間と見られやすい。滅多に謝らないA型に、強情頑固の評判が立つ。
A型、白黒のケジメをはっきり付けるので、「血液型と性格」のような曖昧なものには拒否感があるのかもしれません。あるいは、能見正比古さんがB型であることも影響しているのかもしれませんね。
99%は正しいが1%間違っている理論は、A型以外だったら「ほとんど正しい」と思います。しかし、A型には100%正しくないと「正しい」とは言えまないようです。心理学の理論に当てはまらない「血液型と性格」は、そういうA型には、間違っているから否定すべきだ、
と思われているのかもしれません。もっとも、本当の理由は教えてもらえないので、いずれも私の推測に過ぎませんが…。 --
H11.4.13
心理学者はなぜ反論をしないのか?という点については、私なりに分析をしてみました(六曜と血液型)。でも、本当はどうなのでしょう?
では、なぜ心理学者は反論をしないとまずいのでしょうか? それは、私のような「素人」には、性格の「専門家」である心理学者は勝って当たり前だからです。それも、喧喧諤諤(けんけんがくがく)の激論の結果、やっと勝ったなどというのではダメです。専門家と素人の論争なのですから、一発であっさりと勝負がつかないといけません。もしそうでないと、「専門家」の力量を疑われることにもなりかねません。例えば(戦争そのものの評価はさておいて)、湾岸戦争のことを取り上げてみましょう。次は、『マイクロソフト エンカルタ98』からの引用です。
湾岸戦争 わんがんせんそう Gulf War イラクのクウェート侵攻によってひきおこされた1991年1〜2月の、アメリカ軍を主力とする多国籍軍とイラク間の戦争。90年8月にイラクがクウェートを侵略、占領したことに対し、8〜11月、国連安全保障理事会は、経済制裁をはじめ、91年1月15日までにクウェートからの無条件撤退をもとめた一連の決議をくだした。そして、アメリカ、サウジアラビア、イギリス、エジプト、シリア、フランスなどから構成された約50万人の陸・海・空の多国籍軍が編成された。一方のイラク軍は、推計54万人を戦闘配備した。
国連決議の期限が切れたあと、多国籍軍はアメリカのシュワルツコフ将軍の指揮のもと、イラクとクウェートに展開しているイラク軍の軍事拠点に集中的な空爆をはじめた。従来型の武器ばかりでなくレーザー誘導爆弾や巡航ミサイルといった新しい武器がつかわれ、とくにバグダードとバスラで輸送手段や通信手段に損害をあたえ、サウジアラビアとクウェート国境の塹壕にいたイラクの歩兵隊や、イラク南東部とクウェート北部にいた12万5000人の共和国防衛隊を絶え間なく攻撃した。イラクは、移動式の発射装置からスカッド・ミサイルをサウジアラビアやイスラエルに発射して報復し、アメリカはパトリオット迎撃用ミサイルで対抗した。
1991年2月半ば、軍や民間の犠牲者が増加したイラクは、クウェート撤退を開始した。イラクは、ソ連の仲介で一連の条件を示したが、多国籍連合はそれを拒否して空・陸の攻撃を強めた。2月末、多国籍軍はサウジアラビア、クウェート国境のイラクの防御線をやぶって、イラク南部から侵入し、主要なイラク軍や共和国防衛隊を側面から包囲し、主要撤退ルートを切断した。クウェート市は解放され、1万のイラク軍は脱走したり、降伏したり、あるいは捕らえられるか、殺された。一方、多国籍軍の損失はおどろくほど軽く、攻撃作戦が停止された2月28日時点で、死者149人、負傷者513人だった。−(後略)−
最後の太字のところに注目してください。確かに、アメリカ軍を中心とする多国籍軍はイラク軍に圧勝しました。しかし、アメリカやアメリカ軍の威信が大いに高まったかというと、これは少々疑問です。戦争の終了した直後は別として、冷静になって判断してみると、アメリカ軍が勝つのはどう考えても当たり前だからです。逆に、ちょっとでも手間取ったりしたら、アメリカ軍の威信は大幅に低下することになります。現に、イラクでは、あの強大なアメリカ軍に対してよく戦ったということで、フセイン大統領の人気がかなり高まったそうです。「専門家」と「素人」の論争とは、つまりそういうことです。
ですから、私のような「素人」に対して、「専門家」である心理学者が反論しないなどということは、あまり得策ではないはずです。心理学者の反論があまりないこと自体が、私のような「素人」にとってかなり有利(?)なことなのです。そういう意味では、私も少々(相当に?)ズルいのかもしれませんね(苦笑)。
では、湾岸戦争で、アメリカ軍が手こずったりしたら、一体どんなことが起きるのでしょうか? いうまでもありません。ベトナム戦争のことをほんの少しでも思い出してもらえれば十分なはずです…。 -- H10.10.7
次は、血液型と性格のタブーから転載です。これでうまく説明がついたことになります。(^^) -- H10.10.27
「血液型と性格」の研究は「タブー」か?多くの日本の心理学者にとっては、「血液型と性格」について研究するのは(どういうわけか?)「タブー」のようです。いや、そんなことはありえない、「タブー」なんてことは絶対ない!と主張する(日本の)心理学者も多くいます。しかし、私は心理学者はまるで何者かにマインドコントロールされているかのように、「タブー」だと信じ込まされていると考えています。論より証拠、次に具体例をあげてみましょう。 私が知る限り、血液型と性格の関係を否定する日本の心理学者で、外国の論文をちゃんと読んだ人はいません。ほとんどは知らんぷりか、よくてもせいぜいどっかの文献の再引用です。ウソだと思ったら…いや、特定の心理学者の名前をあげることはやめましょう。 しかし、調査不足で知らなかったというならまだわかります。私もこのホームページで知識不足のために間違ったことを書いていることはかなりあるはずです(わかった時点でなるべく訂正するようにしていますが…)。それはそれでしかたないので、私はどうこう言うつもりはありません。しかし、海外の参考文献については次の文献に詳しい解説があります。
この『血液型と性格』〜その史的展開と問題点 現代のエスプリNo.324 という本は、血液型と性格の関係を研究している日本の心理学者にはバイブル的な存在(というと言い過ぎかもしれませんが、必読書の1つであることは確かでしょう)ですから、まさか読んでないなんていうモグリの人はいないはずです。もし読んでいないなら、ぜひ読んでみるべきです! しかし、この後に発行された本や、最近のホームページを眺めていても、明らかに海外の文献を読んでないと思われる記述が多いのです。いや、多いというよりはほとんどといっていいでしょう(日本の心理学者のホームページは「無断転載禁止」という表示が多いのですが、この程度の記述はいいと思いますので「引用」しておきます)。これは一体何を意味するのでしょうか? 多くの日本の心理学者は、「血液型と性格」の研究は日本の方がずっと進んでいると考えているのでしょうか? ま、進んでいるかどうかは別として、日本での論文数が多いことは事実です。が、海外の研究についても可能な限り入手して読んでみるというのが一般的な研究者の態度でしょう。しかし、この本の発行からすでに4年も経過しているのにこんな状態とは実に不思議です。 もう一つ不思議なことがあります。それは、能見さんのデータについて追試をして反論しているのは私の知る限り草野さんだけです[その後、大村さんの論文に1つだけあることを発見しましたが、心理学者では私の知る限りこの1つだけです -- H10.9.23]。それは、この本です。
実は、反対論者である日本の心理学者は(草野さんを除いて)能見さんのデータにただの1つも追試をしていないのです! 最初は信じられませんでした。「まさか」と思って詳しく調べたのですが、いくら調べても追試のデータは1つも出てきません。どうも、こうなると何らかの理由を考えないといけないようです。この点について非常に不思議に思って何人かに質問したのですが、明確な回答はいまだに得られていません。非常に奇妙なことです(追試というのは、全く同一の質問をもう一度行っているということです)。 一般的に、何かに反論するのは必ず追試をやるのが常識です。しかし、ただの1つも行われていないというのは非常に奇妙です。ですから、これらの反論自体が意味をなしていないのです。この点、草野さんは(心理学者ではないのでしょうか?)ちゃんとデータを取って反論しています。その努力には本当に頭が下がります(ウソでなく)。 また、「もし、血液型と性格に関係があるならば、世界中の心理学者が飛びつくはずだ」という反論もあります。確かに、現状は「世界中の心理学者が飛びつく」状態ではありません。だからやっぱり血液型と性格は関係ないと思っている人がいるとしたら、それはちょっと違います。現在、一部のHLA(白血球の"血液型"です)との関係があることが遺伝子レベルで証明されているそうです(ウラは取ってはいませんが)。だから、HLAと性格は明らかに関係があるのです。しかし、HLAと性格の関係を調べている心理学者は私の知る限りいません。つまり、血液型と性格に関係があろうがなかろうが、「世界中の心理学者が飛びつく」状態にはならないのです。 以上のことから何が言えるでしょうか? そう、謎はすべて解けた!のです。 つまり、日本の心理学者にとって血液型と性格の研究はタブーなのです! 他の理由が考えられるでしょうか? -- H10.2.26 血液型と性格は「差別」か?「血液型で性格を決めつけるのは差別だ」と否定論者はず〜っといい続けてきました。いろいろな資料によると、大村政男さんによる昭和60年の『朝日ジャーナル』での論文が最初であるようです。ところが、ある日、松田薫さんの改訂第2版『「血液型と性格」の社会史』(357ページ)を読んでいたところ、そこには驚くべきことが書かれていたのです。
ウラを取ってないのでなんともいえませんが、もしこれが本当だとすると相当ひどいものです。この前の記述には、これまたほとんどの反対論者に引用されている平成2年11月21日付けの朝日新聞の記事『AB型社員でチーム−三菱電機ヒット商品開発目指す』があります。松田さんは、この報道や心理学者の批判に対しても、三菱電機は自社宣伝になるのでプレス発表しただけと書いています。それを朝日が取り上げ、社内で笑われ他社にからかわれたので、即時解散したのだそうです。当然でしょうね(なお、その後に三菱電機に問い合わせた人の情報によると、「そういう事実はない」と否定しているそうで、あれはマスコミによる「誤報」というコメントということでした)。また、血液型別に保育をしている西陣保育園についても、地味な保育園なので地元ではこのことはほとんど知られてないそうです。 なんのことはない、資料提供者の名前を抜いて自分に都合のいいところだけ報道しているのです。「血液型で性格を決めつけるのは差別だ」といっている人は、このことに気付いているのでしょうか? 主張することはいいのですが、もう少し事実を確認してからにしてほしいものです。 また、「血液型で性格を決めつけるのは差別だ」とはほとんどの人が思っていないことも付け加えておきましょう。とはいっても、別にいちいちデータを取ってなんて面倒なことは不要です。最近の女性誌や芸能人紹介のような記事を見てください。そこにはかなりの確率で血液型が書いてあるはずです。また、血液型と性格についても頻繁に雑誌の特集が組まれています。もし、かなりの人が「血液型で性格を決めつけるのは差別だ」と思っているならわざわざ血液型のことなんて書くわけがありません。私の印象だと、最近になってから血液型についての記事や情報が増えているはずなので(ちゃんとデータもあるようです)、どう考えても「差別」と思っている人は減っているとしか思えません。つまり、「血液型で性格を決めつけるのは差別だ」とはほとんどの人が思っていないのです! 詳しくはここをクリック! -- H10.5.18
誰が最初に血液型は「差別」だと言い出したのか知りませんが、実にうまいことを考えたものです。というのは、血液型と性格に関係があろうがあるまいが、これで肯定論者を黙らせることができるからです。 また、血液型による「差別」がひどいということであれば、他の差別に比べて特にひどいという理由がなければいけません。そうでないと、議論そのものが成り立たないでしょう。 次に、三菱電機のケースについて書いておきます。 #念のため、何人かに否定論者にメールを出してみましたが、まだ回答をいただいていません。 また、学力水準が云々ということであれば、日本では現在でも多くの会社で「学歴」や「有名大学」による就職や昇進の「差別」は現在も行われており、これは社会通念上、いわゆる「差別」ではありません。 #それで裁判になって敗訴したという話は日本では聞いたことがありませんから。 また、就職試験ではかなりの会社で「性格テスト」が行われており、上の論理に従えば、これも「差別」ということになります。もっとも、私は「差別」だとは思いませんが…。 #この件についても否定論者にメールを出してみましたが、まだ回答をいただいていません。 -- H10.7.18 否定論者の特徴的な反応ちょっと失礼かもしれませんが(たぶん失礼でしょう…)、否定的な反応で特徴的なものを書いてみます。 1.肯定論者を無視する
2.能見さんの本を読まない
否定論者の特徴的な反応−パターン1その後の状況をちょっと書いておきましょう。 もちろん、すべての否定論者がすぐ上に書いてあるのような人ばかりではありません。中には、親切に資料を送っていただいたり、丁寧に返事をいただいたりした方も何人かいます。これらの方々には、この場を借りて感謝申し上げます。 しかし、中には、「都合の悪いデータの無視、方法論上の欠陥が山積しているにもかかわらず、『関係がない』という信念だけは揺るがない」人もいるようです。どうやら、こういう人に共通しているのは、「血液型性格関連説」によって「実害」を受けたことによる極端な不快感だと思えます。 #確かに、そんなことを毎日言われたら誰だっていやになりますけど…。 そんな単純(?)な誤解に基づいて、「血液型性格関連説」は差別だ、人権無視だと主張する人の中には、このような人もいるのに驚かされます(別なタイプの人もいますけど…パターン2で後述)。元々の「血液型性格関連説」の理解が誤解だらけなのですから、なんともご苦労様なことで、私もその苦労(?)に同情するしかありません。 ただ、この人達(の一部)で問題なのは、その「差別」や「人権無視」を否定するのに「少々のこと」はやってもいいと思っていることです。例えば、みなさんからのメールでは、一部からいやがらせとも思えるメールを何通か受け取っています。最初はわからなかったのですが、最近ではほぼ送信者を特定できています(システム上では送信者は分かりません、念のため)。というのは、内容から年齢や性別はほぼ推測がつきますし、そういう人は同じようなメールをしつこく何通も送ってくるからです。 まあ、そんなことをされても別に困りませんが、否定論者のレベルを著しく下げているのは間違いないでしょう。そういう意味では、否定論者全体にとって困った存在だと思えます(いずれにせよ、肯定論者にとっては有利なことには違いありません)。若い人が多いようですから、自分が若かったころのことを考えるとあまり大きなことはいえないのですが…。いずれにせよ、もっと正々堂々とフェアな議論を期待したいと思います。 -- H10.8.26 #なお、上のような否定論者には特定の血液型が多いという感触を持っています。 否定論者の特徴的な反応−おまけその後、井沢元彦さん(B型)の『言霊(ことだま)U』〜なぜ日本人は真実を見たがらないのか〜(祥伝社 H9.12)で、興味深い記述を見つけましたので引用しておきます(59〜64ページ)。もう少し早く気づくべきでした…。 -- H10.10.27
次に、同書161〜164ページからです。
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ついでに、イザヤ・ベンダサンさん(山本七平さん訳・A型)の『日本教について』(文芸春秋 S47.11)からこれまた少々長いのですが、引用しておきます(229〜232ページ)。
正義とは「涜れた布」 人間の言葉で反論できない言葉はありません。また反論してならない言葉もありません。反論者を犯罪人の位置におく体勢をとること、これがナチズムの第一歩です。 |
解説は不要でしょうから書きません。ただ、山本七平さん(=イザヤ・ベンダサンさん)が生きていたら血液型は信用しないでしょうね、たぶん(苦笑)。私にこんな文章を引用されて、きっと天国で苦笑しているに違いありません(笑)。
『ABOFAN』をオープンして3年は経ちますが、最近はまたまた様子が違ってきたようです。というのは、目立った反対がほとんどなくなってしまったからです(笑)。これで、次のような心理学者の「定説」は、大部分が間違っていたことが証明されたと思います(本当かな?)。
では、順を追って説明してゆきましょう。
まず、1についてです。これは全く間違っていると言っていいでしょう。一般的に、学会に入会するには複数の会員の推薦が必要です。試しに、日本心理学会と日本性格心理学会について調べてみたところ、やはりそうでした。私なら、まずここで引っかかって入会できません。(^^;;
これをクリアして入会したとしても、何らかの方法で私の主張を学会で発表しなければなりません。しかし、これまたほとんど絶望的と言っていいでしょう。というのは、大部分の心理学者は血液型には否定的ですから、そんな発表を許すはずがありません。それを何とかかんとかクリアして発表できたにしても、大部分の心理学者は統計学も論理学もよくわからないのですから、私の主張が正しいかどうか判断するのは無理というものです(具体例は血液型統計入門を読んでみてください)。
つまり、まともに学会で発表するというのは事実上不可能だし、仮に発表できたにしても無視されるということになります。:-< それなら、HPによる反論の方がはるかに効果的です。
『ABOFAN』を読んでいただければ、以上の私の推測は間違っていない(たぶん…)ことは理解していただけるでしょう。(^^)
次に、2についてです。これは、反証をあげるだけにしておきます。
アメリカの心理学者、W・ミシェルの"Personality and Assessment"によって提起された「人間−状況論争」(性格を決めるのは内的要因である人か、それとも外的要因である状況かという論争)は、いまだにはっきりとした決着が付いていないようです。実は、これらのデータはミシェル自身が取ったものではありません。あくまで他人の論文の再分析なのです。しかし、彼の分析結果は、欧米の心理学会に一大論争を引き起こしました。もはやこれ以上の説明は不要でしょう。
次に、3についてです。実は、この主張はもはやほとんど存在しなくなってしまいました。(^^;; 最近出版されたどの心理学の本を読んでも、「血液型と性格は、統計的には全く関係がない」とは書いてありません。ウソのような本当の話です。つまり、心理学者の従来の主張は間違っていた(?)としか私には判断しようがありません。
細かく言うと、例外的に「血液型と性格は、統計的には(全く)関係がない」と書いてある場合もあります。ところが、誰がどの文献でどんな根拠によってということはほとんど書いてありません。意地悪い見方をするなら、根拠をはっきりさせてしまうと簡単に反論されてしまう(?)からとも解釈できます。なにしろ、根拠が曖昧では反論しようがありませんからね…。
例えば、
『新・心理学がわかる。』 朝日新聞社 H12.4
心理学がわかるキーワード50
11 血液型性格刊断
ABO式血液型の4カテゴリーに基づき、〈A型はきちょうめん〉〈O型はおおらか〉のように、それぞれの血液型に特定の性格特性を付与し、他人や自分の性格を理解しようとする血液型性格判断は、日本においてかなり広く普及している。しかし、これらの性格特性と血液型には今のところ、生理学的にも心理学的にも関連が見いだされていない。これだけ流行する背景の一つには、実際に血液型で性格を当てられたり、性格から血液型を当てられたりすることと、両者に関連があるということとは違うことなのにもかかわらず、それが理解されないという点がある。(139ページ)
実は、6年前の旧版では、この何十倍もの量で血液型と性格についての反論が掲載されています。となると、6年間の間に「何か」があったとしか考えられないのですが…。はて?
別の例も書いておきます(『現代のエスプリ』 No.384 偏見とステレオタイプの心理学 至文堂 H11.7)
血液型と性格に関連がないとする考え方は、単なる感情論ではなく、いくつもの理由に基づく「総合的な判断」である。今、本論はその論理を述べる場ではないので簡単に書いておくと、
- 過去の論争で決着がすでについており、それを見直しするような新しい証拠はない。
- 心理学で利用される性格検査などを用いる限りでは、血液型と性格の関連は認められない。
- 性格概念は構成概念であり、好意的に見ても生物学的指標との関連は仮説的なものにすぎない。
- 血液型性格判断が新しい偏見を作り出す温床となっている。
ということである。なお、これらの論点は比較的独立のものであり、お互いに支え合っているものではない。筆者は3の立場に立ちつつ4の立場を思考するものである。(153ページ)
全く同様の傾向であることがわかります。
最後に、4についてです。
実は脳内には「血液型類似物質」は存在するのです! 血液型学の専門書には、ちゃんとそう書いてあります。当然のことながら、抗原抗体反応も起きるのです。ということで、この論理によると、「脳には血液型(類似)物質が存在するので、医学的には血液型と性格は関係ある」ことになってしまいます…。
この説は、元はといえばある血液型学者が言い出したものですが、心理学者がノーチェックで引用するのには全く困ったものです。ちなみに、この人はこの件について、最近では全く黙ってしまいました。自分が間違っていることが分かったのかどうかは知りませんが…。:-<
いずれにせよ、血液型と性格についての心理学者の「定説」は、そのほとんどがひっくり返ったと言ってもいいでしょう。皆さんはどう思いますか? -- H12.5.25
ところで、上のいずれにもあてはまらないパターンもあるようです。理由も示さずに、頭ごなしに否定するというパターンです。この場合、具体的な指摘はほとんどないか、自分の研究だけを根拠にしているというケースも多いようです。中には、私との議論の後にそういう行動をとる人もいるのですが、何か影響があったのでしょうか。いずれにせよ、具体的な根拠も示さずに、頭ごなしの否定論を押しつけるのは、否定側の人にとってもいいこととは思えないのですが…。どんなものでしょうか? -- H12.7.11
【その他の参考資料】
【お詫びと訂正】 その後、「一般的に、学会に入会するには複数の会員の推薦が必要です。試しに、日本心理学会と日本性格心理学会について調べてみたところ、やはりそうでした。」という記述は間違いである、という指摘がありました。 再度調べてみたところ、確かに間違いでしたので、ここにお詫びし訂正いたします。m(._.)m まず、日本心理学会の正会員入会資格は、HPからそのまま引用しておくと、
私は、いずれのケースにも該当しないので、残念ながら入会できません。つまり、「入会できない」という結論自体は正しいのですが、それは複数の会員の推薦が必要という理由ではないということです。(^^;; 次に、日本性格心理学会についてです。 こちらは、HP上で会則が公開されているので、そのまま引用しておきます。
私は、学生会員ではない正会員、賛助会員ならなれることになります。ただし、常任理事会の承認を得ないといけないので、ここでひっかかるかもしれません。(^^;; いずれにせよ、 日本心理学会と日本性格心理学会に入会するには、複数人の推薦が必要ということではないようです。間違ったことを書いてしまい、大変申し訳ありませんでした。m(._.)m 閑話休題。 実は、このような具体的な指摘は非常に珍しいのです。心理学者や否定論者は忙しいんだ!というのが今までのそういう人の「公式見解」でした。しかし、今回のケースで正しくないことが証明されたと言っていいでしょう(本当かな?)。 #なぜなら、今回のミスは(幸いなことに)致命的なミスではないからです。ふぅ、よかった。(^^) 丁寧で具体的な反論をするなら、ワザと重大なミスは指摘しないのでしょうか? まさか!! 誰だって、簡単なミスよりは重大なミスの方を指摘するに決まっています! ところが、実際にはそういう例はまずないのです。ということは、重大なミスを指摘できないか、あるいは指摘すると逆に不利になると判断している、と考えるしかありません。他の合理的な理由があるのでしょうか? はて? まぁ、別にそういうことを証明したくてわざと間違ったということはないのですが、またまた勉強になったことは確かです。 いずれにせよ、どうもありがとうございました。 -- H12.7.11 |
反論をいただいたので、本人の了解の下にここに公開させていただきます。どうもありがとうございます。
まず、1についてです。これは全く間違っていると言っていいでしょう。一般的に、学会に入会するには複数の会員の推薦が必要です。試しに、日本心理学会と日本性格心理学会について調べてみたところ、やはりそうでした。私なら、まずここで引っかかって入会できません。(^^;;
↑推薦者のところは空欄で入会できるよ
金払うんなら喜んで入れてくれる
これをクリアして入会したとしても、何らかの方法で私の主張を学会で発表しなければなりません。しかし、これまたほとんど絶望的と言っていいでしょう。というのは、大部分の心理学者は血液型には否定的ですから、そんな発表を許すはずがありません。
↑人を誹謗中傷するようなものでなければ発表はすべて認められる
誹謗中傷でないちゃんとした批判・反論は問題なし
どこの学会でも同じだろうが
それを何とかかんとかクリアして発表できたにしても、大部分の心理学者は統計学も論理学もよくわからないのですから、私の主張が正しいかどうか判断するのは無理というものです(具体例は血液型統計入門を読んでみてください)。
↑それはバ○チ○ン大学の学部生レベルだろうが
トップクラスには何の関係もない
バ○チ○ン大学の物理学科の学生が大村○シリーズで数学の勉強しててもそれがトップと何の関係もないのと同じ
どうもありがとうございます。早速回答させていただきます。
まず、「推薦者のところは空欄で入会できる」ということですが、これは本当なのでしょうか? 会則には必要と書いてありますが、本当に必要ないのですか? それなら、なぜ会則を改正しないのでしょうか? また、この件について学会事務局に問い合わせてみたのでしょうか? 知り合いの方がたまたまそうだった(?)からと言って、確認もせずに全部そうだというのはどうかなと思いますが…。
いや、本当に「推薦者のところが空欄」でも「金払うんなら喜んで入れてくれる」というなら、その方が学会にとって不名誉なことなのではないでしょうか? 部外者の私はそう感じるのですが…。
次に、「人を誹謗中傷するようなものでなければ発表はすべて認められる」「誹謗中傷でないちゃんとした批判・反論は問題なし」とのことですが、これは当然のことでしょう。ただ、発表しても無視されることはほぼ確実だと思います。
私のインターネット上の経験によると、否定論者(心理学者も含む)と合意した「関係ある」という条件を満たしたとたんに黙ってしまうケースがほとんどです(苦笑)。その中には、心理学関係の学会の会員も数多くいます。具体例は、HP上のどこかにあるので探してみてくださいね。
#いや、学会では黙らないがインターネット上では黙ってしまうというのなら、私は学会に所属してないのでなんとも言えませんが…。
最後に、統計がわからないのは、「それはバ○チ○ン大学の学部生レベル」で「 トップクラスには何の関係もない」とのことですが、これはトップクラスの定義によると思います。海外(欧米)のケースなら確かににそうですが、日本では最難関と言われている大学(複数)の教官・大学院生でさえ、血液型に関しては明らかな間違いをしているのです(例はHP上にあるので探してみてください)。その他にトップクラスの人がいるというのなら、ぜひ紹介していただけると幸いです。
ちなみに、「血液型統計入門」のメールは、心理学関係の大学院(修了)生です。いずれも、日本では誰でも知っている有名な大学なのですが…。
【追記】 その後、私の以下の主張が矛盾しているので、HPを訂正してほしいという要求がありました。
私の説明も不十分だったようですので、再度説明しておきます。 次は、私のメールからの抜粋です(誤字・脱字と分かりにくいところは変更してあります)。 血液型は心理学では「タブー」なのです。従って、「人を誹謗中傷するようなものでなければ発表はすべて認められる」「誹謗中傷でないちゃんとした批判・反論は問題なし」なのですが、血液型は「タブー」ですから必ずしもこの原則はあてはまりません。下手すると、普通に書いても「誹謗」「中傷」にされてしまいます。(^^;;
また、心理学者は一般的に統計に弱い(失礼!)という点については、次のような記述があります。
残念ながら、学会誌のレフリーのレベルでも、そういうことは少なくない(?)ようです。
そして、日本の心理学者が論文を書くまでには、いろいろと難関を突破しないといけないようです。
これで、心理学者がよく言う、血液型と性格は日本でしかポピュラーではない(から間違っている)、という根拠がやっと理解できたようです。つまり、理工系とは違って心理学は欧米の方が圧倒的に強いようなのです。だから、日本でしか流行っていない→間違っている、という妙な結論が(必然的に?)導き出されることになるのではないでしょうか? まだまだありますが、このぐらいにしておきます。しかし、よくこれだけ書きにくいことを書いたものです。(^^;; それはともかく、この『心理学論の誕生』はなかなか良い本ですから、皆さんもなるべく買ってあげましょう!(^^) -- H12.7.24 |