六曜と血液型


ABO FAN


Pencil_and_Paper32.gif (245 バイト)六曜と血液型[と心理学者]

 このタイトルを見て、かなりヘンに感じた方も多いのではないでしょうか? あるいは、ヘンに感じなかった人もいるでしょう。この2つの共通点は、どちらも有名な「俗説」ということです(私は血液型は「俗説」とは思っていませんので、念のため)。しかし、血液型を正しいと思っている人は多くとも、六曜を正しいと思っている人はごく少ないに違いありません。
 おかしなことに、血液型を知らなくとも日常生活に影響はありません(?)が、六曜を知っていないと多くの場合はとんでもない目にあいます。ご存じのとおり、仏滅の結婚式場や友引の葬祭場は、ほとんど開店休業の状態です。イベントや冠婚葬祭はもちろんのこと、車の納車や入退院の日にまで六曜を気にする人も多いようです。日本では、六曜を知っているのは社会人としての「常識」といえるでしょう。

#誰ですか、血液型を知っていないと異性との会話に困ると言っているのは…(笑)。   -- H10.10.6

32.gif (286 バイト)六曜とは?

 さて、岡山大学文学部心理学教室の長谷川さんには、そんな「俗説」についてのデータがあります。1997年に自分の学生にアンケートをした結果です。このデータはなかなか貴重だと思います。この場を借りてお礼を申し上げます。詳細は以下のURLにありますので、もっと詳しく知りたい方はぜひどうぞ!

血液型判断資料集−岡山大学文学部心理学講座

 ここでは結果だけ引用させていただきます(1997年10月2日付「じぶん更新日記」)。

「俗説」が人間の行動の予測や理解に役立つと思う人の比率(%)

区分 文学部(63名) 医学部(19名) 歯学部(51名) S短大(65名)
(1)血液型 30.2 21.1 45.1 72.3
(2)星占い 17.5 5.3 15.7 44.6
(3)手相 20.6 15.8 19.6 46.2
(4)バイオリズム 33.3 63.2 43.1 41.5
(5)因縁 22.2 26.3 25.5 27.7
(6)大安・仏滅などの六曜 4.8 5.3 9.8 16.9
(7)姓名判断 22.2 0.0 13.7 41.5
(8)ノストラダムスの予言 3.2 0.0 9.8 6.2

 上に示した比率の相対的な大きさは殆ど変わらない。たいがい、血液型人間「学」と、バイオリズムがトップを占める。ついで、手相、因縁、姓名判断、星占いが第2位グループを形成し、大安・仏滅・友引といった六曜や、ノストラダムスの予言などは、あまり信じられていないようだ。
 ただ念のため言っておくが、この設問は「人間の行動の予測や理解に役立つと思うか」であって「これを信じるか」という聞き方はしていない。以前1度だけ、「これを信じますか」という問いに変えたことがあったが、○をつける比率はガタっと減ったように記憶している。

 社会人では、因縁や六曜の率はもっと上がるとはずです。例えば、1996年のNHK調査では、「神様や仏様に願いごとをすると、なんとなくかなえてくれそうな気がする」には54.1%がそう思うと答えています(出典:NHK放送文化研究所・編 『現代の県民気質−全国県民意識調査−』 NHK出版 H9.11 付表66ページ)。残念ながら六曜については手元にデータがないのでなんともいえませんが、常識的に考えてほとんどの人が真剣には信じていないことは確かでしょう。

 しかし、ほとんどの人が信じていないのなら、なぜそれほどまでに六曜を気にするのでしょうか?
 実は、ちゃんと説明ができるのです。それは、「非科学的」なものは「頭から信じない」という明治的啓蒙主義の悪影響なのです!
 「あるもの」さえわかっていれば、六曜は機械的に計算できます。機械的に計算できる現在の曜日のようなもの、それが昔の六曜に対する感覚です。現在だって、○曜日が縁起が悪いなんて言ったらバカにされるだけでしょう。昔だって同じことです。つまり、現代人にとって六曜がこれだけ気になるのには、その神秘的(?)な算出方法が大きな原因となっていることになります。「非科学的」な「あるもの」を否定し、誰もわからなくしてしまったのが問題なのです。

 井沢元彦さん(B型)の『逆説の日本史1』の59ページにはこんな記述があります。福翁自伝の中の有名なエピソードですが、

反骨精神旺盛な福沢少年は、「神様の名のある御札を踏んだらどうだと思って」「踏んでみた」。
ところが、「何ともない」。そして、今度は叔父の家の稲荷の社の中の、ご神体の石を引っぱり出し、変わりの石を入れておくというイタズラをする。

 これは、明らかに迷信を打破しようとする勇気ある行為でしょう。なにしろ、江戸時代には「種痘をすれば牛になる」といったような迷信があったそうですから(『逆説の日本史1』より)。引用を続けましょう。

福沢諭吉という人、実は私も尊敬している。特に「独立の精神」という言葉が好きだ。明治の思想家としては、もちろん偉大な人物である。(中略)「福沢先生」以外に「先生」はいない、などと神格化して、批判はしないなどという態度をとるならば、それは「天は人の上に人を作らず」と言った福沢精神を、逆に踏みにじることになるだろう。そこで遠慮なく批判させて頂く。福沢の最大の罪は、彼以後、宗教的なものを「初めから馬鹿にして信じない」ことが、知識人の条件のようになってしまったことである。たとえば、怨霊、呪詛、あるいは神、悪魔、それに宗教−こういったものを科学の対象からはずすことが正しい、そのように知識人に思わせたことである。言うまでもなく、これは真の科学的態度とは言えない。確かに、「御神体」も「御札」も、物質として見れば、タダの「石」であり「紙」であるかもしれない。しかし、そこにわれわれは何かを感じるのである。感じるからこそ、それを拝んだり尊んだりするのだ。

 そして、その何かを感じること(「臨存感」)が事実として存在する以上、ではその正体は何なのか、それを論理的な方法で追求するのが科学である、その「臨存感」が現実に存在することの証明として、たとえ福沢諭吉でも「母親の写真」(単なる印画紙)は踏めないだろうと続きます。

 私も面白い体験をしたことがあります。かなり前のことですが、アメリカの高校生グループが日本にやってきて、夏休みに地元の高校生グループと親善交流をしたことがありました。なぜか私も参加し、たまたま1日だけ彼らと一緒にいたのです。キャンプを一緒にやったのですが、夜になって恒例の肝試し大会をすることになりました。皆さんも知っているように、一部男子グループが幽霊に扮して女子グループを驚かすというあれです(笑)。高校生にもなれば、男女共に幽霊を信じている人はほとんどいないはずです。しかし、当然というか、日本の女子高生グループはキャーキャー騒いで大変なことになっていました(笑)。一部の気の弱い子は泣き叫ばんばかり…。しかし、アメリカの高校生は男女とも全くなんともありません。私だって少しは怖かった(笑)のですから、アメリカの高校生もちょっとぐらいは騒ぐだろうと予想していました。しかし、私の予想は見事に外れ、全員がなんともなくニコニコしています。「幽霊」は業を煮やし、おどかしをエスカーレートさせたのですが、アメリカ人グループはそれでも全く平気です。最後には、「幽霊」をからかうグループも出てくる始末…。日本人グループは困ったに違いありません。
 つまり、こういうことです。ほとんどのアメリカ人は、幽霊はいないと信じている。しかし、ほとんどの日本人は、幽霊はいないとような気がしたにしても、本当はいると信じているのです。この国際交流キャンプは、日米の宗教観の違いあまりもに鮮やかに浮かび上がらせたのでした。
 山本七平さんの本にも同じような話があります。日本人とユダヤ人がある遺跡の発掘をしたそうです。しかし、そこは戦場だか墓場だったらしく、人骨がバラバラ出てきた。しょうがないので人骨も掘り出したのですが、ユダヤ人はなんともなかったのに対し、日本人は全員高熱を発して寝込んでしまったのだそうです。人骨は単なる物質ですから、超自然的存在である霊魂なんかが宿っているはずもありません。ですから、科学的に考えると、単なる人骨という物質から、人間が何らの影響を受けるはずがない、ということになります。しかし、実際に日本人は「霊魂」の影響(?)を受けて寝込んでしまいました。私も「霊魂」なんて信じていませんが、それでも人骨の発掘なんかまっぴらご免です。つまり、私も結果として「霊魂」は信じていることになるわけです…(笑)。

 なぜ、こんなおかしなことになってしまったのでしょうか? 井沢さんの言葉を借りると、人骨にわれわれは「何か」を感じるのです。明治的啓蒙主義では、それは「ないこと」にされてしまいました。「その正体は何なのか、それを論理的な方法で追求するのが科学」だなんていう疑問をちょっとでも感じたら、それは「非科学的」ということになってしまったのです。こんなおかしなことはありません!

 おっと、ずいぶん前書きが長くなってしまいました。要するに、われわれが実際に感じている「非科学的」なことを、頭ごなしに「ないこと」にするのがよくないのです。なぜそう感じるのか、それにはちゃんとした理由があるはずです。それを論理的に追求するのが科学的な態度なはずですね。

 では、話を六曜に戻しましょう。実は、六曜は昔からあり、庶民はバカにして誰も信用する人なんかいなかったのです。明治政府はいくつかの迷信を禁止したのですが、六曜はあまりにもバカバカしくて誰も信用していなかったため、これだけは禁止しなかったのだそうです。もうすぐ21世紀にもなろうとする現在の日本で、六曜が未だに猛威を振るっている(?)なんて、明治政府の役人たちが聞いたら目を回すことでしょう。現代人はなんて迷信深いんだ、われわれはそんな日本人を育てた覚えなんかない、というに決まっています。

 ところで、皆さんは六曜ってどういうふうに決めるのか知っていますか? ほとんどの人は知らないでしょう。少しだけ知っている人はこういうでしょう、旧暦と関係があるんだよって。では、旧暦とはなんでしょうか? 六曜と旧暦はどう関係があるのでしょうか? こうなるとほとんどの人はわからないと思います。残念ながら長谷川さんのホームページにもこれは書いてありませんでした。そこで、私が説明してみることにしましょう。
 え、前書きが長すぎるって? まあ、もう少しガマンしてください。どうしても地学に興味がない人は、次のコラムは読み飛ばしてください。

 まず、現行の暦について説明します。現行の暦はグレゴリオ暦といって、中世ヨーロッパでローマンカトリック教会によって採用されたものです。グレゴリオというのは、そのときの法王の名前グレゴリオ13世にちなんだものです(『天文現象・暦計算のすべて こよみ便利帳』 暦計算研究会編 恒星社厚生閣 S58.1)。

1.現行暦 (グレゴリオ暦) の規則
 i)閏年の置き方
 閏年の置き方は法律によって定められており、それは明治31年の勅令第90号にある。すなわち 「朕閏年ニ関スル件ヲ裁可シ茲ニ之ヲ公布セシム神武天皇即位紀元年数ノ四ヲ以テ整除シ得ヘキ年ヲ閏年トス但シ紀元年数ヨリ六百六十ヲ減シテ百ヲ以テ整除シ得へキモノノ中更二四ヲ以テ商ヲ整除シ得サル年ハ平年 トス」によって決められる。この置閏法は現今広く世界で使用されているグレゴリオ暦法の約束であり、神武紀元=西暦+660であることから上記の表現となったものである。
 西暦を知ってその年が閏年かどうかは「西暦年数が100の倍数のときは400で割れる年、100の倍数でないときは4で割切れる年を閏年とし、その他の年を平年とする」によって判定する。
 平年は365日からなる。閏年は366日を1年とし2月記日の翌日に29日の閏日を置く。2月以外の月の長さは平年閏年とも同じで、1、3、5、7、8、10、12月が31日、4、6、9、11月が30日である。何故2月の末日に閏日を置き、他の月の長さも大小があって、その慣序が不規則なのかを語ることは太陽暦の歴史、ひいては暦法の歴史を語ることになる[注:この点についてはここでは触れません]。

 神武紀元というのもすごいですが、この法律はたぶん今も生きているはずです(同書より)。

  ii)太陽暦の歴史
 月の満ち欠けの周期性から1か月という周期を発見し、その周期で日を数え月を定める暦法を太陰暦(太陰とは月のことで太陽に対応する語)という。太陰暦とはいっても次に述べる年の概念が入ってくるが、あくまで1か月の長さが基本であって、この月がいくつか重なって1年というように数えるから年の長さが年毎に違っていてもそれには無関心なのである。歴史をさかのぼると、どの民族も暦法として太陰暦を使っていたこと確かめられている。
 一方、季節の周期性と太陽の南中高度との相関から、あるいは太陽とある恒星との同時出没、また日出没時にその恒星が南中する等の周期的変動から1年という周期も早くから発見されていた。この周期を基本にしたものが太陽暦で1年の長さを一定に保とうとするものである。われわれの使用しているグレゴリオ暦も太陽暦に属する。
 以上から年は太陽の公転周期、月は月の公転周期、日は地球の自転周期に起源をもっていることがわかる。
 季節の循環と気候、播種と収穫、樹木の成長、動物の繁殖、魚群の回遊、渡り鳥の移動とが年と結びついていることから、1か月を基本にした太陰暦の中にも1年という周期を何らかの形でとり込まざるを得なかった。日本の旧暦もこのようになっていて、12か月を1年とするが、時々閏月を挿入して13か月を1年とする年をもうけて月と季節との関係を意味あるものにしてきた。これを太陰太陽暦と称している。通称旧暦あるいは陰暦と呼んでいるのはこれである。表4[省略]に新旧暦の対照表を掲載しておいた。

 iii)基本周期間の関係式
 太陰暦あるいは太陰太陽暦でいう1か月は月が満ち欠けする周期で、これを朔望月と呼んでいる。これを平均すると29.530588…日となる。旧暦では1か月は29日か30日で前者を小の月、後者を大の月と称している。われわれが現在使っているグレゴリオ暦では1か月が28、29、30、31日の4種類であるのに較べ簡単である。また旧暦では小の月より大の月が多くあらわれるのも平均朔望月の数値からうなずけよう。
 1年は太陽の南中高度が変化する周期で、平均すると365.2422…日である。グレゴリオ暦では平年を365日、閏年を366日としているのもこの数値から了解されよう。365.2422日を太陽年あるいは回帰年と呼んでいる。
 太陰太陽暦は太陰暦の中に太陽暦の基本周期をとり込むために苦闘した歴史の成果であって、これは29.530589×Iと365.2422×Jとの間をできるだけ近似させる正整数を発見するための歴史であったといえる。
 この歴史に深く立ち入ることはしないが、K=12、J=1とすると
    29.530589×12−365.2422×I=−10.874… となり、太陰暦の12か月を1年とすると太陽暦の1年に較べ11日弱短い、太陰暦の3年は太陽暦の3年に較べると33日弱短くなる。これは1か月を超える日数である。よって太陰暦の1年を12か月からなる年と13か月からなる年との2本立とする。13か月からなる年の余分の月を閏月と称し13月とは呼ばない。
 閏月の挿入法として広く知られているのは19年7閏法と称し、太陽暦の19年間に7回閏月を挿入する方法で、これはI=235、J=19とすると
    29.530589×235−365.2422×19=0.08661…となり19年経過しても平均2時間位しかくい違わない。この周期をメ トン周期(ギリシャ)、章法(中国)と呼んでいる。235を12と13の倍数に分解すると、235=12×12+13×7となる。具体的に何時挿入するかは歴史的にも地域的にも相違があるから注意を要する。
 太陽暦は365×m+366×nと365.2422×(m+n)とをできるだけ近似させる正整数m、nを発見するための歴史の成果である。 太陽暦の一種であるユリウス暦はm=3、n=1で
    365×3+366×1−365.2422×4=0.00312となり、4年間に0.0312日の違いが生じる。これは400年間に3日強である。この3日間を調整するためにグレゴリオ暦が導入された。この暦法は、m=303、n=97で、
    365×303+366×97−365.2422×400=0.1200となり,400年間に僅か0.12 日しか暦と実際の太陽の動きとの間には違いが生じない。これが400年間に97回閏年を挿入する根拠で、何時挿入するかの約束が前節冒頭にあげたルールである。

 ユリウスというのは、古代ローマの英雄ユリウス・カエサルのことです。カエサルの時に暦が整備され、4年に1回だけ閏年を挿入するようになりました。しかし、4年に1回の閏年だと約128年で1日ずれることになり、ユリウス歴に移行して1500年以上経った中世ヨーロッパでは、このずれが10日以上にもなってしまったのです。こうなると、真の春分の日が復活祭にならないといけないのに、実に10日以上も差があるということになり、宗教的に非常な不都合が起こります。さすがにまずいので、グレゴリオ13世の時にこのずれを補正し、真の春分の日が復活祭になるように暦の改訂が行われました。これが現在使われているグレゴリオ暦です。カトリックの国では比較的早グレゴリオ暦を採用したのですが、教派の違いから、プロテスタントの国や東方正教会の国では、採用が百年単位で遅れるというおまけまでつきました(同書より)。

 今では多くの非キリスト教圏社会でもこのグレゴリオ暦を採用している。日本は1873年(明治6年)からグレゴリオ暦を採用している。しかしこの時に出された改暦詔書による置閏法はユリウス暦法に従ったもので、グレゴリオ暦法による置閏法は1898年(明治31年)に勅令第90号として公布された。i)の冒頭に触れたとおりである。

 私の趣味に走ってしまったので、かなり長くなってしまいました。(^^;; しかし、これがわからないと旧暦の意味がわからないのです。
 では、旧暦の説明にいきましょう。ただ、一般的に日本の旧暦という場合は、天保年間に改暦された天保暦のことを言います(同書より)。

 いわゆる旧暦というのは明治5年(1872年)12月2日までわが国の公式の暦として使用されていた太陰太陽暦の一種である天保暦のことである。新暦とは現行のグレゴリオ暦のことである。新暦に切替わって100年以上経過したが、いまだに民間では生活のある面(冠婚葬祭、通過儀礼等)と旧暦とが深く結びついているのが現状である。大安、仏滅等の六曜はこの旧暦によって決まるからである。
 表4[省略]は1870〜2000年の旧暦の各月の1日は新暦では何月何日であるかを知る表である。旧暦12月1日が翌年の1月になる場合は*印を付記した。閏月1日の月日は右端に記入した。
 本表の旧暦は天保暦と多少違う点がある。まず天保暦の定義を以下に述べる
 (a) 太陽と月との黄経が相等しい[注:太陽と月の位置が同じ]時刻を朔[注:新月]とする。
 (b) 暦日は京都における地方真太陽時午前0時[太陽の見かけの位置による時刻で]に始まる。
 (c) 暦月は朔を含む暦日に始まる。
 (d) 暦月で冬至を含むものを11月、春分を含むものを2月、夏至を含むものを5月、秋分を含むものを8月とする。
 (e) 閏は中気[冬至(270゜)、春分(0゜)、夏至(90゜)、秋分(180゜)といった、12月の太陽の位置を表す日]を含まない暦月に置く。中気を含まない暦月が、すべて閏月とはならない。
 本表の旧暦は上記(b)の代わりに、「暦日は東経135度における地方平均太陽、すなわち日本時0時に始まる」としたものである。

 これには少し解説が必要でしょう。昔の日本では京都が中心ですから、京都の時間に対して暦や一日の長さが定義されます。しかし、現在では、世界標準時に9時間加えたものが日本標準時です。また、現在では「定時法」といって一日の長さは季節に関わらず一定ですが、昔は「不定時法」といって見かけの太陽の動きによって一日の長さが決められていました。これが、「本表の旧暦は上記(b)の代わりに、『暦日は東経135度における地方平均太陽、すなわち日本時0時に始まる』としたものである」という意味です。ですから、そういう意味では「真の旧暦=天保暦」とは若干の差があります。ちなみに、現在の「旧暦」のほとんどは、上の定義の「改訂天保暦」を採用しています。
 ところで、旧暦は「天保暦」というぐらいですから、当然のことながら天保年間に改暦されたことになります。じゃあ、それ以前はどうなんだ?という疑問は当然あることでしょう。残念ながら、長くなるので(実は調べてないのです…苦笑)ここには書きません…。興味がある人は自分で調べてくださいね。

 では、最後に六曜の決め方についてです(同書より)。

 六曜の決め方
 六曜は先勝、友引、先負、仏滅、大安、赤口からなり、一般にはこの順序で同一の日となるが、旧暦の月が新しくなると、この順序に従わずその月固有の六曜の日からはじめる。その規則は次表のようになっている。

 正月・七月…先勝 二月・八月…友引 三月・九月…先負
 四月・十月…仏滅 五月・十一月…大安 六月・十二月…赤口

 閏月の場合には直前の月と同じ六曜の日からはじめる。

 そして、この仏滅は陰陽道からきたもので、元々は物滅と言っていたのです。もちろん、仏教とは何の関係もありません。要するに、旧暦がわかっていれば、六曜は機械的に計算できるのです(ですから、六曜を計算するプログラムなんかが存在します)。意味は違いますが、現在の曜日とだいたい同じ感覚であると考えていいでしょう。現在だって、○曜日が縁起が悪いなんて言ったらバカにされるだけでしょう。昔の人にとっても全く同じことです。六曜は旧暦から機械的に計算できるから、そんなものを信じていたらバカにされるに決まっています。つまり、現代人にとって六曜がこれだけ気になるのには、その神秘的(?)な算出方法が大きな原因となっていることになります。結局、明治の時に旧暦を消してしまったのが最大の原因のようです。旧暦をちょっとでも覚えている人なら、六曜なんか信じるはずがないのですから…。明治の日本人は、旧暦なんて「非科学的」だからということで、頭ごなしに否定してしまいました。だから現代人が六曜なんてものに振り回されることになってしまったのです。全く因果な結末というしかありません! これこそ因果応報なのでしょうか…(笑)。

#ちなみに、六曜は旧暦の知識が薄れた大正時代ぐらいから「流行」しているらしいです(未確認です)。

 やはり、われわれは「何か」を感じるのです。明治的啓蒙主義では、それは「ないこと」にされてしまいました。「その正体は何なのか、それを論理的な方法で追求するのが科学」だなんていう疑問をちょっとでも感じたら、それは「非科学的」ということにしてしまった、その結果がこんなことになろうとは…誰も想像していなかったことに違いありません。明治にはそういう方法も意味があったのでしょう。しかし、この方法には大きな弊害もあるというのは覚えておいていいことには違いありません。

 次に、『マイクロソフト エンカルタ98』から引用しておきましょう。

日本の暦

日本では、1873年から現在のグレゴリオ暦がつかわれている。1872年までは太陰太陽暦を採用していた。暦に重要なのは日付けのほかに、節気と干支(えと)であった。それに日の吉凶をしめす迷信的な注がつけられていた。時代によっていろいろな太陰太陽暦がつかわれてきたが、基本は古代中国でつかわれていたもので、月をなるべく季節にあわせることに特徴がある。

中国では黄道上の太陽の位置を、冬至点からはじめて12等分し、それらの点を中気とよび、中気と中気の中央点を節気とよんだ。それら全部をあわせると二十四節気となる。冬至と春分の中央にある点は立春で、立春をふくむ月を正月とした。中気から中気までの長さは平均30.44日程度で、太陰月の平均29.53日より長いため、中気が太陰月の中で月末のほうにずれていき、次の年の立春は11日おくれることになる。また中気をふくまない月もあり、その月は前の月と同じ名前に閏をつけてよぶ。つまり、その年は1年に13カ月あることになる。

現在でもこの太陰太陽暦は、旧暦といって年中行事や農作業などではつかわれることが多い。節分、彼岸、入梅、土用などは雑節とよばれ、日本独特のものであり、季節感にあふれ、日本人の生活に節目をあたえている。節分は立春の前日、八十八夜は立春から88日目、二百十日は立春から210日目であり、気象や農作業などで重要な日となっている。入梅は太陽が春分点から80ーうごいた日で、梅雨(つゆ)にはいる日の意味である。土用は太陽が春分点から27゜、117゜、207゜、297゜になる日からの約18日間をいう。とくに夏の土用は今でもよくつかわれている。

 なぜ「八十八夜」や「二百十日」が大切なのか、なぜ節句が大切なのか、これでよくわかった(?)ことと思います。現在は太陽暦なので、同じ日だったら季節もほぼ同じですが、旧暦では立春から○日として計算しないと、季節に非常に敏感であるほとんどの農作物はうまく育たないのです。ではなぜ、あえて農業に不便な太陰暦を使っていたのでしょうか。太陽暦の方がずっと便利なのに…。それは、昔は夜は人工的な明かりがなかったので、月の状態がわかる太陰暦(1日が新月で15日が満月)の方が便利だったからと考えられています。当時は、太陰太陽暦を採用していた、東アジア最大の超・先進国であった中国の影響も大きかったのでしょう。

#ちなみに、「六曜」という項目はありませんでした。やっぱりねぇ。

 面白かったですか? ま、今回は私の趣味に走りすぎたようです…。f(^^;;

 最後に一言。あなたが学生ならともかく、仮にも社会人だったなら、ここにあることをそのまましゃべってはいけません! 相手の血液型も考えて、本当にしゃべっていいかどうか、もう一度考えてからにしましょう(笑)。なんだかんだ言ったって、六曜を知っているのは社会人としての「常識」ですから。
 おっと、お後がよろしいようで…。  -- H10.10.6

32.gif (286 バイト)心理学者と血液型

 私は、血液型がこれだけ信じられている、そして神秘的だと思われているにのは、少なからず心理学者の態度が影響していると判断しています。つまり、「血液型と性格」なんていう「非科学的」なものは「頭から信じない」というその態度です。

 六曜のところで述べたとおり、この態度は心理学者自身にとっても大いに悪影響があると考えています。主なものをピックアップしておきます。

  1. 能見さんのデータの追試がほとんどない…私が調べた範囲では心理学者は1つだけ
  2. 否定の方法が論理的に矛盾する
  3. 検定の方法がおかしい
  4. 血液型と性格に関係ないことは、簡単に証明できるものではない

 では、順に説明していきましょう。

1.能見さんのデータの追試がほとんどない

 能見さんのデータについて(全く同じ条件で)追試をして反論しているのは、私の知る限り草野さんだけです。それは、この本です。

「血液型性格判断」の虚実 草野直樹 かもがわ出版 H7.3

 その後、大村さんの論文に1つだけあることを発見しましたが、私の調べた限り、この2つしかありません。否定論者である心理学者は(草野さんと大村さんを除いて)能見さんのデータにただの1つも追試をしていないのです!
 最初はどうしても信じられませんでした。「まさか」と思って詳しく調べたのですが、いくら調べても追試のデータはもう1つも出てきません。繰り返しますが、これはウソではありません。信用できない方は、ぜひ自分の目で確かめてみてくださいね。

2.否定の方法が論理的に矛盾する

 多くの否定論者は、

  1. 統計(≒心理学の性格テスト)を使うことは「無意味」だ
  2. 統計的に「差はある」。しかし、それは「信念」によるもので本当は性格との関係はない
  3. 統計的に「差はない」。だから、血液型と性格の関係はない

 の相互に矛盾する3つの論理のうち、2つ以上を同時に主張している場合が多いのです(こちらを参照)。この点について指摘すると、ほとんどの否定論者は黙ってしまいます。正しいと思っているなら、なぜ黙る必要があるのでしょうか?

3.検定の説明がおかしい

 これについては、前川輝光さんに登場していただきましょう(『血液型人間学−運命との対話−』 549ページ)。

 [否定論者には]こんな奇妙な発言もある。

 能見は推計学的方法を用いてものをいっている。彼は「“カイ自乗検定”という計算が、よく使われる。ややこしいことを覚えていただく必要はないが、この計算では“危険率”というパーセンテージをハジき出す」と書いている。統計学、特に推計学のコモンセンスを知らない人がそれをベースにして所説を展開するぐらい危険なものはない。(206−7頁)

 そして、欄外注に、「カイ自乗検定というのは、危険率というパーセンテージをはじき出すものではない」と付け加えている。
 もちろん、カイ自乗検定の計算は、直接にはカイ自乗値を「ハジき出す」ものである。そしてそのカイ自乗値をもとに、我々は、危険率のパーセンテージを得るのである。能見の言い方はやや未整理である。しかし、彼の一連の著作を見れば、彼が「統計学、とくに推計学のコモンセンス」をじゅうぶん知る人であることは明らかである。カイ自乗検定の手続きにきちんと従っているからである。まったく下品なあげ足とりと言わざるを得ない。

 詳しくは、前川輝光さんの『血液型人間学−運命との対話−』をどうぞ。いずれにせよ、「カイ自乗検定というのは、危険率というパーセンテージをはじき出すものではない」というのは、奇妙な発言であることには違いありません。

4.血液型と性格に関係ないことは、簡単に証明できるものではない

 これは論理学のABCです。能見さんの言っているように、「関係がある」ことを証明するなら、ある1つの性格特性だけを取り上げ、安定的に差があることを証明するだけで十分です。しかし、「関係がない」ことを証明するなら、考えられるありとあらゆる性格特性について「差がない」ことを証明する必要があります。つまり、事実上は不可能なことなのです。この点について指摘すると、ほとんどの否定論者はなんだかんだといって認めようとしません。そして、その根拠を質問すると、これまたほとんどが黙ってしまいます。なぜ黙る必要があるのでしょうか?

 では、最後に、前川輝光さんの『血液型人間学−運命との対話−』からです(559ページ)。

 …「血液型性格学を信じている人の性格研究」である。…それについて、…[ある否定論者]は次のように整理している。

 ABO式血液型によって性格が異なるという信念を「血液型ステレオタイプ」と名づけ、そのような信念を持っている人の性格にアプローチしている。その結果、回帰性傾向、社会的外向性、親和欲求、 追従欲求などが強い人たちであることが見出されている。すなわち、気分にムラがあるが人づきあいが好さで、複雑な思考判断をするよりは権威に頼って生きていこうこするのんきな人たち、ということができるのである。(237頁)

 こうしたことを宣伝してまわれば、血液型人間学の普及に水をかけることができるとの期待もあるように見える。
 血液型人間学を信じている者たちは権威に弱いと言うが、「権威」ということを言うのなら、能見はそれを理由にアカデミズムから白眼視されているように、アカデミズムに属する人間ではなかった。読者に「権威」としてふるまった結果、血液型人間学が普及したわけではない。血液型人間学の普及の進展とともに、能見の知名度が上がり、そのことが一種の社会的「権威」を能見に与えていったことは否定しないが、能見血液型人間学の発展期にそれを支えたのは、別に、社会的肩書というような意味での「権威」ではなかった。そうした意味での「権威」が能見になかったにもかかわらず、読者は能見を支持したのである。

 否定論者の「反論」はこれだけではなく、更に「差別的」などというものも加わることがあります。私は、こういうのを読んで猛烈に反発しました。人が何を思おうが考えようが自由なはずです。それなのに、ずいぶんお節介なことを言う人もいるのだなあ、と。
 それでも、論理的・データ的に納得できる説明があるのなら、まだなんとか我慢できます。しかし、1〜4のような説明を聞いてからだと、私のような人(?)は、心理学者なんか絶対信用するものか!という気にもなります(これが、私がしつこく反論を書いている最大の理由なのですが…苦笑)。私だけでなく、ちょっとでも統計をかじった人なら、そう思っている人は少なくない…はずです(確認はしていませんが)。

 しかし、否定論者は統計学のプロが多いから、これらの矛盾点は(私に指摘される前に)全部わかっている…はずです。だから、これらの矛盾点を指摘すると黙らざるをえないのでしょう、たぶん。では、なぜそんな科学的・論理的におかしいことを信じているのでしょうか。ここまで読めば、皆さんはもうお気づきのことでしょう。六曜のケースと実に似ているのではないかと…。  -- H10.10.6

32.gif (286 バイト)六曜と血液型

 統計的に見る限り、血液型と性格は「関係がある」はずです。少なくとも、「関係があるはずがない」とは絶対に言えません。しかし、否定論者は、それは「関係があるはずがない」ことにしてしまいました。「血液型と性格は本当に関係があるのか、それを科学的な方法で追求するのが心理学だ」なんていう疑問をちょっとでも感じたら、それは「非科学的」ということにしてしまった、その結果がこんなことになってしまったのです。ですから、少しでも矛盾点を指摘されると、否定論者は黙ってしまうし、黙らざるをえない。今までの否定論者の方法論には、こんなに大きな弊害もあるのです。
 ということで、心理学専攻の学生の間でさえ、「血液型性格判断」はポピュラーな話題になってしまうことになります。もちろん、血液型がケシカランという内容ではなく、「○型は××な性格だ」という話題で盛り上るということです(あえて全部とは言いませんが、全体の70%以上は面白がっているのです)。
 しかし、困ったことに、心理学では「血液型性格判断」は「非科学的」なことにしてしまったので、この理由を追及できないことになります。今までの説明でおわかりのように、「非科学的」なことは科学的分析の対象外ですから…。そうなると、どうやっても対策の取りようがない。ここまでくると、私もなんといっていいやら困るのですが…。
 もちろん、この項目の結論は全く私の推測です、念のため。皆さんは別な理由を考えてみるのもいいかもしれませんね(笑)。    -- H10.10.6


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最終更新日:平成10年10月6日