【H17.8.8追記】 平成17年7月29日付けの血液型性格判断資料集では、岡山大学文学部紀要として、批判的思考のための「血液型性格判断」がPDF形式で掲載されています。 ここで興味深いのは、血液型と性格を否定する根拠が事実上消滅してしまったことです(例えば、3ページ2行目の、「相関が無い」ということの積極的な証明にはならない)。ウソのような本当の話です。 #明確に否定する根拠がないのに、否定的見解を強調するのはいかがなものでしょうか…。 また、大村さんのFBI効果の説明自体は残っているものの、ラベルのスリ替えの説明はありません。はて? これでは、ますます肯定論者に有利な結果になってしまうと思うのは私だけでしょうか? #ちなみに、他の否定論論者のサイトや著書でも同じような状況のようです。 また、ちょっと気になったのが「差別」の問題です。仮に「相関がある」とすれば、いくら差別してもいいのでしょうか? いや、絶対にそんなことはありません! ということは、「相関の有無」と「差別」は全く別な問題のはずです。なぜ一緒に論じる必要があるのでしょうか? もう一つ気になったのが、マスメディア(特にテレビ番組)に関する記述がかなり多いことです。研究者なら、マスメディアに取り上げられるかどうかより、否定する根拠をきちんと明確にする、あるいは専門分野で業績を上げるのがスジかと思います。もっとも、これは独立行政法人になって、広報や社会的貢献の重要性が上がったからかもしれませんが、それにしても少々行き過ぎだと思います。 なお、意外なことに例のTBSの番組についての解説があります。
しかし、この番組を批判していながら、大村さんの転向には全く触れていないのは不思議です。やはり身内だからなのでしょうか? 皆さんはどう思いますか? |
【H16.6.27追記】 JustNetが終了するため、じぶん更新日記のアドレスがSo-netに変更になりました。血液型性格判断資料集も同じです。 なお、平成16年6月の日記に血液型の話題が取り上げられましたが、「差別」についてふれているだけで、(なぜか)以前の私の質問には答えていただけないようです。 ■6月4日付
■6月19日付
ただ、「差別」があるかどうかは言うだけヤボというものでしょう。なぜなら、長谷川さんの言うとおりだとすると、テレビ番組は「血液型差別」によって「娯楽性が保てる」ので視聴率が上がる、ということになります。いくらなんでも、こんなことを真面目に信じている人がいるとは思えません。 ちなみに、放送大学はもっとストレートで、担当の女性助教授は「血液型性格判断の『おもしろさ』を否定するものではない。」と単刀直入に「性格心理学」のテキスト(202ページ)に書いています。やはり、担当が女性だからでしょうか?(まさか、こう書くのは女性差別ではないでしょう!) 【H16.7.18追記】 7月13日から16日まで血液型の話題が続いていますが、またまた長谷川さんお得意の冗談が炸裂しているようです(笑)。 ■7月13日付
この中で、長谷川さんは次のように述べています。
しかし、長谷川さんが「ネット界屈指の論客」(7月14日付けの日記)としている渡邊芳之さんは、全く反対の主張をしているようです(性格心理学は血液型性格関連説を否定できるか〜性格心理学から見た血液型と性格の関係への疑義 『現代のエスプリ〜血液型と性格』 188〜191ページ)。
一体どちらが正しいのでしょうか? はて? それとも、長谷川さん一流の冗談なのでしょうか? あるいは、この部分だけ「ネット界屈指の論客」ではないのでしょうか? ■7月14日付
残念ながら、この日の内容には明らかな勘違い(?)があります。いや、たぶんこれも冗談なのでしょう。 この部分で、受講生はドッと受けたのでしょうか(笑)。
ここは、A型(AB型もそうなのかなぁ?)は平均すると他の血液型より免疫力が弱いが、インフルエンザに限ってはB型が弱いという意味であるはずです。ですから、別に矛盾した内容ではないと思いますが…。最近の研究では、細菌の感染と糖脂質(ABO血液型物質も糖脂質)の構造には密接な関連があることが明らかになってきており、特定の感染症が特定の血液型に多い可能性もあるようですしね。 また、最近のテレビ番組の傾向として、次のような特徴があるとのことです。少々長いのですが、正確を期すために関係部分を全文引用させていただきます。(太字は私) さて1994年あるいはそれ以前には、「血液型性格判断」批判の論点の1つとして、「フリーサイズ効果」と言われるものがあった。要するに、誰にでも当てはまるような特徴を、ちょっとだけ形容詞を変えて、すべての血液型に当てはめるというトリックであった。 私は、この文章を読んで思わず吹き出してしまいました(失礼!)。なぜなら、長谷川さんが本当にこう思っているとすると、以前の主張とは全く矛盾してしまうからです。これこそ冗談に決まっています! たぶん、読者の記憶力を試してみようとする趣向なのに違いありません。そのうちタネ明かしがあるのでしょう、きっと(ワクワク)。で、1997年6月24日の日記にはこうあります。これまた、正確を期すために関係部分を全文引用させていただきます。(太字は私) 970624(火) 「几帳面」「マイペース」「2面性」は、「決めつけ、ステレオタイプ型」なのか「絶対的に強固な特徴とも言い切れない」かどちらなのでしょう。素直に解釈すれば、1997年時点では「絶対的に強固な特徴とも言い切れない」と判断していたのが、現在では「決めつけ、ステレオタイプ型」に変更になったのでしょう。しかし、私はそういう解釈は取りません! またまた長谷川さんの冗談が炸裂したのだと思います(笑)。 この日の日記は、「ABOFAN」が紹介された朝日新聞のこだわり会館についての記述があります(取り上げていただいてありがとうございます)。しかし、長谷川さんは基本的なミスを犯しているようです。なぜなら、新聞のような二次情報(失礼!)を基準に判断しているようからです。私の主張である一次情報はホームページ上にある(まさに読んでいるこれです!)のですから、朝日新聞の記事だけを基準にして判断するのは、研究者の態度としてはあまり好ましくはありません。長谷川さんは、そんなことは重々承知で書いているのでしょうから、まさにこれも冗談としか解釈のしようがないのですが…。 ■7月15日付
星座による性格判断は、長谷川さんは既にご存じで、あえてとぼけているのでしょう(笑)。実は、英語のみならず日本語でも報告があるのです。
それでは、この本の93ページのコラムを読んでみましょう。正確を期すため、コラム全体を引用します(このコラムは、北星学園大学社会福祉学部教授の今川民雄さんが執筆されたようです)。
要するにこういうことです。 ■7月16日付
これは冗談に違いありません! なぜなら、血液型によって免疫力に違いがあるため、血液型ごとに違う淘汰圧がかかる、というのが竹内久美子さんやS教授の本来のロジックだと思うからです。ですから、「免疫力が弱い(強い)人は、血液型にかかわらず」という問にはあまり意味がない…ということになるのではないでしょうか? ■憲法のお話(6月19日付け7月14日付け日記より) さて、ABOFANの趣旨は、皆さんもおわかりのように読者に知的エンターテイメントを提供することです(え?そんなの知らなかったって?どうもスミマセンm(._.)m)。本来の趣旨からは外れるのですが、インフルエンザワクチンの話題が2回も出てくるとなると、さすがに無視するわけにもいきません。実は、この文章は憲法違反の可能性があります! それは…
1.S教授は社会的影響についてどんな責任を取る必要があるのか? まず、S教授が社会的影響について責任を取る必要があるかどうかです。長谷川さんによると、法的責任も含むようなニュアンスですがどうなのでしょうか? 関係しそうな憲法の条文には、
国立大学は、独立行政法人化されても基本的にはこれらの憲法の規定が適用されるはずです。従って、長谷川さんが「その社会的影響についてもちゃんと責任をとっていただきたい」と主張すること自体は、憲法に保障されている権利の行使になるので合憲です。しかし、国立大学教官である長谷川さんが、S教授の責任を問う行動や裁判を起こした場合は、逆にこれらの規定に抵触する可能性もあります。いずれにせよ、国立大学教官が憲法に抵触するとも思われる行動を起こすことは、あまり好ましいこととは思えませんが…。 もっとも、国民がS教授に反感を抱いて結果的に社会的責任を取らざるを得なくなった場合については、憲法や法律が直接関知するところではありません。憲法は原則として政府や地方自治体(もちろん、国家公務員や地方公務員も含みます)などに適用されますが、個人対個人の関係には適用されないことに注意しましょう。 2.「A型なので免疫力が弱い」という理由で結婚を断った場合、違法行為になるのか? 結婚の相手を選ぶのは基本的に個人の権利です。例えば、憲法では次のように規定されています。
念のため、民法を調べてみましたが、血液型で婚姻を断ることの禁止規定はないようです。
従って、血液型で結婚相手を選んでも憲法や法律には抵触しないと言っていいでしょう。1.の結論も考慮すると、どうやらS教授は法的責任を取る必要はないようです。 3.インフルエンザワクチンが不足していた場合にはA型から優先的に予防接種を実施するという施策は合法か? 現在の医療制度では、政府や地方自治体が何らかの形で予防接種に関係しています。従って、このような予防接種に関する施策は憲法の適用対象になると言っていいでしょう。そこで早速、関係条文を調べてみました。
インフルエンザの予防接種を規定する法律は予防接種法ですから、これも関係条文をリストアップしてみました(インフルエンザに関係する部分は太字にしました)。
では、「インフルエンザワクチンが不足していた場合にはA型から優先的に予防接種を実施するという施策」を実施するにはどうすればいいでしょうか? 特定の血液型を優先する制度なんて聞いたことがありません(私が知らないだけ?)から、なんらか形での制度改正が必要となります。具体的には、「インフルエンザワクチンが不足していた場合にはA型以外の血液型から要望があっても予防接種はさせない」という方法しか私には考えつきません。これには、予防接種法第7条を適用するしかないようです。第7条は、
ということですから、厚生労働省令で「インフルエンザワクチンが不足していた場合にはA型以外の血液型から要望があっても予防接種はさせない」と決めれば(少なくとも制度上は)いいことになります。しかし、こんなことが可能でしょうか? ちょっと難しいんじゃないでしょうか? 現実の予防接種では、「年齢による優先」や「性別による優先」はあるようですし、就職でも「年齢による優先」は日本では合法です(ちなみに、アメリカなどでは違法のようです)。しかし、就職で「血液型による差別」はケシカランと言っている人なら、予防接種の「血液型による差別」に反対することはまず間違いないでしょう。結局、厚生労働省令で「インフルエンザワクチンが不足していた場合にはA型以外の血液型から要望があっても予防接種はさせない」と決めることはほとんど不可能になってしまいます。 となると、長谷川さんは、近々「インフルエンザワクチンが不足していた場合にはA型以外の血液型から要望があっても予防接種はさせない厚生労働省令」を制定する運動を始めるに違いありません! いつ始めるのでしょうか? はて? しかし、この厚生労働省令改正(案)には大きな問題があります。なぜなら、インフルエンザは、血液型による抵抗力の差よりも、年齢による抵抗力の差の方が大きいようだからです。つまり、「インフルエンザワクチンが不足していた場合にはA型以外の血液型から要望があっても予防接種はさせない厚生労働省令改正(案)」では、A型以外の高齢者の感染者が増えることが予想されます。A型以外の人なら、憲法第13条と14条を盾に取って反対するでしょう。 #反対しないとなると、長谷川さんはA型なんでしょうか?
憲法を素直に読めば、「インフルエンザワクチンが不足していた場合にはA型以外の血液型から要望があっても予防接種はさせない厚生労働省令改正(案)」は裁判所に訴えるまでもなく違憲でしょう。多数決でも、A型は40%以下しかいませんし…。私はAB型ですから、そんな厚生労働省令改正(案)には絶対反対です(笑)。 ただし、全てのインフルエンザ予防接種が法定のものではないようなので(任意接種というようです)、この場合はまた別な検討が必要となります。これ以上の分析は、時間も能力も厳しいのでこのへんで…。m(._.)m まあ、これも長谷川さん一流の冗談なのでしょうね、きっと(大笑)。 【H16.9.7追記】 いやぁ、またまた長谷川さんの冗談が炸裂しています(爆笑)。 ■7月31日付
ところが、9月1日の日記にはこうあります、 ■9月1日付
私はこれを読んで爆笑してしまいました。つまり、こういうことです。
冗談の好きな長谷川さんのことですから、日記の記述が全部本当かどうかわかりません(笑)。 が、長谷川さんの某家族が差別的であるとも思えないので、間違いなく血液型ネタの娯楽番組が面白くて見ているのでしょう。ですから、長谷川さん自身も、本当は血液型が差別的だとは思っていないことは明らかです。(^^) 長谷川さんも、冗談ばっかり言ってないで、たまには本当のことを書いてほしいものです(大笑)。放送大学でも:血液型が面白いことは認めているのですから…ねぇ。 【H16.9.9追記】 ■9月7日付
この番組は見ていないので、残念ながらスイカの種を飲み込むのは何型かわかりませんでした(笑)。 #ところで、タイトルの(5)は(6)の間違いでしょうか?
素朴な疑問として、訴訟を起こす前に某家族に諭すのが順序だと思うのですが…。心理学者は違うのでしょうか? いずれにせよ、誰が考えてもかなりの悪気(?)がある「○○県人はダサイ」etc.といったテレビでの発言が禁止されていない以上、長谷川さんが言う「何気ないつもりの発言」なら特に問題視されないのは当然と思えるのですが…。 さてさて。 実は、この日記を読んで笑いころげてしまいました(失礼!)。 これで血液型は差別的でないことが(ほとんど)はっきりしてしまったからです。なぜなら、長谷川さんが訴訟を起こすということは、(日記には書いてないようですが)損害賠償の請求など、民法でしかありえない…はずだからです。名誉毀損罪や侮辱罪も考えられなくはないですが、これらは個人の名誉ということですから、△型が××な性格ということぐらいでは直接的な因果関係や損害が生じたことが証明できない限り難しいでしょうから…。「潜在要因」ならもっと難しいようです。 もちろん、社会的制裁に関してはこの限りではありませんが、(少なくとも当分の間−これらは親告罪ですから被告が敗訴するまでの間−は)法律上は差別でないことが証明されてしまう(?)ことになります。長谷川さんが訴訟を起こすのと起こさないのと、否定論者にとってどちらが得なのでしょうか? はて? さて、関係しそうな憲法の条文は、
しかし、憲法が適用されるのは皆さんも知っているように国・地方自治体などですから、民間テレビ局には適用されません。 そこで、民法の損害賠償について調べてみました。
つまり、こういうことです。
従って、「血液型」番組における差別と偏見について情報を求む【情報をお寄せください】のページに「差別や偏見に相当すると思われる内容(出演者の発言を含む)に気づかれた場合、ご自分の血液型に関して不快な思いをされた場合」とありますが、これだけでは訴訟を起こして損害賠償を請求することは難しいようです。なぜなら、明確な「不法行為」ではないからです。もし、不法行為ではないのに裁判所により相手の発言を制限しようとすると、憲法第14条だけでなく、第19条、第21条にも違反することになるはずですから、もちろんダメです。
結婚差別については、7月14日付の日記、2.「A型なので免疫力が弱い」という理由で結婚を断った場合、違法行為になるのか?にも書きましたが、違法になる可能性は低いようです。 就職差別についても、血液型により差別をしてはけいない、とどっかの法律に書いてあるとか、裁判になったという話は聞いたことがない(単に私が知らないだけ?)ので、民間の場合は明確に違法とは言えないのではないかと思います。ただし、国・地方自治体などでは憲法第14条違反になる可能性もあります。 以上のことから、「血液型」番組における差別と偏見について情報を求む【情報をお寄せください】のページに寄せられた情報によって訴訟を起こすことは、かなり難しいと思われます。メールを出す人は、訴訟の可能性はほとんどゼロと思っていた方がいいようですね。(*_*) #言うまでもありませんが、「血液型は差別である(差別でない)」という意見を主張することは、憲法に定められた権利です。 やはり長谷川さんはご冗談がお好きなようです(笑)。 【H16.10.25追記】 ■10月13日〜20日付 大村さんの「転向」の話を聞きたいのですが、まだ何も書いてありませんね。どうしたのでしょうか? 【H16.10.27追記】 「血液型」番組における差別と偏見について情報を求む【情報をお寄せください】のページにこんなコーナーができたようです。 このコーナーの「転載禁止」という意味で、こんな注意書き(しかも目立つように赤字で!)があります。
ところが、その中にABOFANからの転載と思われるものを見つけました。
Googleで検索してみると、やはりABOFANしかヒットしません。みなさんからのメールのNo.903のコメント(下線部)と全く同じもののようです。
「転載禁止」というページで、私のホームページの内容(?)を無断で「転載」しているのにはどうしても納得できません。:-<
この投稿者によると、ABOFANは「悪質なホームページ」ということですが、どうやら証拠はないようです。いくらなんでも、証拠もなく「悪質なホームページ」と断定するのはひどいでしょう。この部分まで「転載禁止」という長谷川さんに断固抗議します! もっとも、長谷川さんは冗談が好きだから、ここも冗談なんでしょうね、たぶん(笑)。 |
岡山大学文学部心理学教室の「長谷川さんのページへの感想」をスタートしました。心理学者や否定論者は議論があまり好きでないような印象を受けていたのですが、どうやら私の勘違いもあったようです。少なくとも、長谷川さんは議論は基本的に歓迎ということです。では、ご好意に大いに甘えてさせていただくことにします。ということで、このページで私の主張を展開させていただきまのすで、ぜひよろしくお願いします。m(._.)m
論理構成・データの間違い、曖昧で不明瞭な文章等、不行き届きな点が多々あると思いますが、ぜひ寛大な心で見守っていただいき、同時にどしどし指摘していただければ幸いです。
なお、『ABO
FAN』では、原則として敬称は「さん」で統一していますが、このページの性質上、一般メールと同じく「先生」を使わせていただきます。どうかご了承ください。>ALL
(その後、「先生」ではなく「さん」にしてほしいとのご要望だったので、論文1&2以外については訂正しました。論文1&2については経過がわからなくなるので訂正していません。-- H10.9.27)
議論のルールですが、長谷川さんは次のような方針であるとのことです。
私もほぼ同じですが、次のローカルルールを付け加えます。もちろん、長谷川先生や他の方を拘束するものではありません。
というのは、過去に引用された(このページの)文章を訂正すると、途中経過がわからなくなってしまうからです。しかし、こうすると、私の論理構成やデータに間違いがあったら非常に困るのですが、それは次回の文章で訂正するということにしたいと思います。ご理解ください。>ALL
では、スタートに先立って、長谷川さんのURLをお知らせしておきます。
血液型判断資料集−岡山大学文学部心理学講座
とりあえず、ルールはこんなものでいいと思うのですが…。新ルールは、必要になってきた時点でまた考えようと思います。 -- H10.9.26
最近気が付いたのですが、平成12年1月2日付けの更新で、『ABO FAN』へのリンクが全部削除されてしまいました。それだけでなく、内容も削除されているようです。
非常に残念というしかありません。理由は不明ですが、「本文中のリンク先の中にはすでに存在しないサイトもあり、またリンク先を個別に点検する余裕もありませんので、2000年1月2日をもって、一律タグを外すこととしました。」と説明があります。しかし、『ABO FAN』はまだ存在していますし、このページは基本的に追加するだけで、訂正しているのは誤字・脱字ぐらいです。読者の便宜を考えると、リンクを外す積極的な理由は見つかりません。なぜなのでしょうか?
なお、削除については「Yahooのオススメに選ばれることになりましたので、これを機会に最小限の手直しをしました。」という説明しかありません。「最小限の手直し」かどうかは皆さんの判断に任せることにして、このページの末尾に削除・変更された部分を付け加えておきます。
いずれにせよ、否定論者は肯定論者のことを無視するということが、またもや事実によって証明されてしまったようです…。(*_*) -- H12.2.1
平成11年11月6日『日本経済新聞』33面のNIKKEI“X”記事について 長谷川さんのHPについて取り上げられているので、その部分のみ抜粋しておきます。どうもおめでとうございます。(^^) 見出し: ネット発言「実名」で論議 匿名によるトラブル続出 ルール作り提言も 内容:
この記事では、「匿名での反論」が『ABO FAN』と関係あるかどうかは分かりませんので、コメントは差し控えさせていただきます。しかし、長谷川さんに「困惑した経験」があるとまで言わせ、そして内容が「充実して」いるという「血液型と性格」についてのサイトであれば、ぜひアドレスを知りたいところです。誰か紹介してくれないものでしょうか…。 さて、実は私が言いたいのはそういうことではありません(え、それなら早く言えって? はいはい)。 読めばわかるとおり、この記事は実名・匿名に関して両方の意見を紹介したものであり、特定の結論を導いているものではありません。つまり、長谷川さんの意見はあくまでも「参考」にしか過ぎないのです。だから、この記事自体は「匿名はダメ」という結論にはなっていません。 #皆さん、ご確認のほどを…。 次に、この記事の事実誤認について書いておきます。まず、「血液型と性格は無関係」なんて、長谷川さんは絶対に言ってないのです。逆に、「『血液型と性格は関係ない』とは(絶対に?)言えない」というのが彼の立場ですから、全く正反対の内容になってしまっています。:-< 更におかしいのは、長谷川さんは実名だけではなく、HPで本人の所属等を公開するべきだと主張しているのです。要するに、実名だけではダメということですから、これまた記事とは違うのです。「実名」と「HPで本人の実名・所属等を公開」では、内容が全く同じとは言えないはずですが…。 #長谷川さんがご自分のHPで取り上げないのはこのせいなのでしょうか? そして、この記事にはオチが付きます。日本の新聞では、「社説」は匿名が普通です。『日本経済新聞』ももちろん例外ではありません。で、「社説」を『日本経済新聞』のHP上で探してみると、確かに匿名になっています。では、論議や批判記事は全くないのでしょうか? それは、皆さん自身で読んでみて確かめてみてくださいね(^^)。 -- H11.11.14 |
平成12年1月14日『日本経済新聞』1面のコラム「春秋」についてまず本文をそのまま引用しておきます。
残念ながら、事実誤認が多いようですが、ここでは触れません。 |
■じぶん更新日記(長谷川さん−平成10年9月24日) ふたたび血液型性格判断(1):「有る」ことと「無い」ことはどう違うのか
まず、別の「ある方」によると、私がこのホームページを「ちっとも話題にしない心理学者たちを批判し」ているのだそうですが、長谷川先生に限っては事実ではありません。誤解のないようここに書いておきます。
しかし、否定論者の中には、心理学者に限らず、「多忙」ということで、突然ご返事のメールをいただけなくなった方も何人かいらっしゃいます(一部のメールの内容についてはここをご覧ください)。たぶん、長谷川先生もご存知の方だと思いますが…。もしお忙しくないならで結構なのですが、できれば先生からも「事実確認」をしていただきたく、ぜひその方のメールアドレスをお知らせしたいのです。しかし、「個別には返事不可」とのことですのでお送りできません。ですから、「事実確認」はあきらめざるをえないと思います。非常に残念ですが…。
それとも、別の「ある方」によると、ということなので、先生は、私のホームページを「ちっとも話題にしない心理学者たちを批判し」ているとは思われていないかもしれません。もしそうなら、このお願いは不要なことになりますが…。
また、同じく別のある方によると私は「『どうだ、これでも反論できないのか! 弱虫どもめ!』とでも言わんばかりの主張を展開している」のだそうですが、この文章もどうにもわかりません。なぜなら、否定論者からは、『ABO FAN』への反論がないのは、
と毎回(?)のように言われているからです。ですから、反論しない人が弱虫だということは全くないはずです。少なくとも、否定論者がそう思うことは絶対(?)にないはずでした…。
しかし、一部の否定論者が、「『どうだ、これでも反論できないのか!
弱虫どもめ!』とでも言わんばかりの主張を展開している」と感じているということなら、少なくとも私の主張が全く間違っているということではない…はずです。しつこいようですが、
のだから、絶対に「レベルが低くて誰にも相手にされない」と言うはずです。どう考えても、「『どうだ、これでも反論できないのか! 弱虫どもめ!』とでも言わんばかりの主張を展開している」ことにはなるはずがありません。さっぱりわからないので、よろしければ次回にでも理由をご説明いただければ幸いです。いや、別の「ある方」によるということなので、長谷川先生は、私のホームページを「『どうだ、これでも反論できないのか! 弱虫どもめ!』とでも言わんばかりの主張を展開している」とは、思っていらっしゃらないのかもしれません。結局、私には先生がどう考えていらっしゃるのか理解できませんでした…。
そういえば、以上の2つについては、長谷川先生のお考えとはほとんど関係ないと思うのですが…。 一応の反論は書かせていただきましたが、先生本人以外の主張に反論しても、私にはあまり意味があるとは思えません。ひょっとして、心理学界の議論には、一番最初に自分の考えと関係ない他人の主張を持ってくるといったような慣習(?)があるのでしょうか? また、文章の一番最初に、「ある方から〜主張を展開しているのだという」「〜ような気もする」という、私には「議論」とも「主張」とも取れないような表現があります。これは、客観的事実でない(?)からあまり議論の対象にはならないと思うのですが…。結局、私にはそう書いた理由が理解できませんでした。日記だから別に不思議ではないのでしょうか? |
では次へ。私は「『血液型否定論者』の『主張』をすべて論破すれば、『血液型と性格には関連がある』ことが実証されたことになる」というような論理だということです。私は、否定論者のロジックを逆手に取っているので、基本的にはそのとおりです。少なくとも、否定論者のある種のロジックは「論破した」と感じています。
#もっとも、否定論者が「論破された」と考えているかどうかは別問題です。
しかし、次には理解できない文章が続きます。「8人は『この島にはお化けが居る』と考え、残りの2人は『お化けが居ない』と主張し」、その「8人が2人を『論破したら』、その島にはお化けが居る」のかどうか。先生のおっしゃるとおり、「お化けが居る」ということにはならないでしょう、たぶん。
#ただ、2人はロジックがおかしいから「論破」されたことは事実です。
よく考えてみると、これはちょっと妙なロジックです。科学的には「この島にはお化けが居る」ということは否定できません(説明は不要でしょうから省略します)。つまり、2人のロジックがどうだろうが、8人を「論破する」ことはできないのです。ディベートをする前から結論が出ているという妙なことになります。例としてはあまり適当とは思えないのですが、何か意味があるのでしょうか?
もう一つ疑問なのは、「8人が2人を『論破したら』」ということがありえるらしい(?)ことです。もし「8人が2人を『論破したら』」という可能性が絶対にないのだったら、この例は意味がないですから、わざわざ例として取り上げるはずはありません。つまり、私の論理は「レベルが低くて誰にも相手にされない」のではなく、「『血液型否定論者』の『主張』をすべて論破」することが(可能性としては?)ありえるということになるのですが…。それでいいのでしょうか?
次に行きます。私は、「『血液型の比率に偏りがある』という事例が1つでも実証され」ればよいといったような論理だということですが、これは元々は私の論理ではありません。坂元章さんの論文の分析結果をそのままオウム返し言っているだけです。3万人のデータで11年間一貫したデータでも、「『血液型の比率に偏りがある』という事例が1つでも実証され」たことにもならないのでしょうか? ということは、坂元章先生の論理は間違っているのでしょうか? この質問は、否定論者の心理学者の誰に質問しても、そのほとんどはあいまいな答えでお茶を濁されて終わりになってしまいました(たとえ返事をもらえても、その全てが「公表不可」とのことなので、残念ながら公開できません)。長谷川先生はそんなことはないでしょうから、気が向いた時で結構ですから、ぜひ教えていただければ幸いです。
それでは、少しでも読みやすくなるように、私の論理の要約を下に書いておくことにします。
松井豊さんの論文からの転載です。松井豊さんの分析論文1では、20項目の質問中で2つの項目でしか統計的な差が出ませんでした。 →最高値が赤 →最低値が青
といったぐあいで、さっぱり差がないのです。また、論文2では、全部で1万人以上のデータを分析したにもかかわらず、24項目の質問中でたった1つの項目でしか統計的な差が出ませんでした。
つまり、データに血液型による差がない→血液型による性格の差がない、という結論になっています。 坂元章さんの分析しかし、論文2と同じデータ(ただし、年数は4年分→11年分と増加)を分析した坂元章さんの論文では、データに血液型による差がある→血液型で性格に差があるという「信念」によるもの(=「血液型ステレオタイプ」)→血液型による性格の差がないという結論になっています。 よく考えてみると、これは明らかにおかしいのです。血液型と性格は関係ないという結論こそ松井さんと同じものの、データに血液型による差がない(松井さん)、データに血液型による差がある(坂元さん)と全く正反対の分析結果が得られてしまったのですから…。
私の分析不思議なことに、この「矛盾」には心理学者は誰も気が付いていなかったようです。いや、本当は気づいていたのかもしれません。なぜなら、否定論者の心理学者の誰に質問しても、そのほとんどはあいまいな答えでお茶を濁されて終わりになってしまうからです(たとえ返事をもらえても、その全てが「公表不可」とのことなので、残念ながら公開できません)。しかし、教えてもらえなければ、ますます知りたくなるのが人情というものでしょう。 |
本題とは関係ありませんが、「デジタル技術の進歩のせいかどうか分からないが、ともすれば、『無い』を『0』、『有る』を『1』というように、排他的に物事をとらえがち」であるというのはあまり納得できません。ファジー論理、AIもありますから…。ただ、ファジー論理やAIは最近は人気が落ちているようです。あれ?ニューロコンピュータはどうなのでしょうか。おっと、遺伝子アルゴリズムもありますし、最近はさっぱり分かりません。(^^;;
#やっぱりこれは余計なことでした…。
次に、「『差別につながる血液型性格判断はやめよう』と言うのは、『差別』が根拠で反対しているのではなくて」とのことですが、上瀬・松井両先生の『血液型ステレオタイプ変容の形』(社会心理学研究,11,3,170-179.)では、
講義の内容は以下のものとなっている。 この講義では、Weber&Crocker(1983)のように、ステレオタイプ化された集団に所属する個々の成員の情報を与えるのではなく、当該ステレオタイプ全般の歴史的な経緯や、非科学性、ステレオタイプの社会的意義などについて、概括的な説明を行っている。
1.血液型研究の歴史:古川学説(古川,1927)/能見正比古・鈴木芳正らによる古川学説の復活と問題点
2.詫摩・松井(1985)の研究紹介:研究結果の紹介/ステレオタイプの中身の暖昧性/血液型ステレオタイプを持つ人の性格特徴
3.サンプリング調査によるステレオタイプの否定(松井,1991)
4.大村(1984)の研究紹介:フリーサイズ効果/ラベリング効果
5.血液型ステレオタイプの問題:差別的な現状/ナチスドイツにおけるユダヤ人迫害との類似点
ということは、たとえナチスドイツにおけるユダヤ人迫害との類似点を講義したにしても、「差別をもたらす恐れを指摘しているだけ」なのでしょうか? もっとも、差別そのものではなく「差別的」な現状だけだし、ナチスドイツそのものではなく、あくまで「類似点」ですが…。
やはり、「差別」の実態は現状ではさほどではなく、「恐れ」だけというように解釈してよろしいのでしょうか? 実は、差別についてのデータをかなり探したのですが、実際に差別があるというデータはほとんどなかったので…。もし、ご存知であればお教えいただければ非常に幸いです。
#私が知る限りのデータでは、血液型が「差別」と思っている人はほとんどいないようです。
では次へ。「偶然とは言い難い存在なり特徴が安定的に確認されたときに初めて、その事象に限って『有る』という結論を下す」とのことですが、前述した坂元章先生の分析結果については、血液型による性格の差は「有る」という方が適当なのでしょうか、それとも「無い」という方がいいのでしょうか? 「明らかに血液型との関係を示すようなデータが安定的に得られ」ているのか、そうでないのでしょうか?
そして、「理論として『血液型と性格は関係がない』ということを主張する意味での否定論ではなく」とのことですが、『オール・ザット・血液型』の186ページには、
血液型と性格には関係がない、だから血液型性格判断はうそ、ということ。…(中略)…つまり、心理学者たちは全員がほぼ一致して、血液型性格判断を否定しているわけ。このことにはたくさんの証拠があるし、性格心理学の理論からいっても、血液型と性格に関係があるとは考えられない。
この文章を素直に読むと、「理論として『血液型と性格は関係がない』ということを主張する」のだとしか思えないのですが…。いや、それは私の読み違いで、やはり「理論として『血液型と性格は関係がない』ということを主張する意味での否定論」ではないということなのでしょうか?
それに関連して、「血液型人間『学』がある種の普遍性を強調する『理論』である」とのことですが、能見正比古さんはそんな主張はしていなかったような気がしました(統計的事実であることを主張していたことは確かですが)。もっとも、たぶんこれは私の記憶違いなのでしょう。出典を教えていただければ再度チェックしてみたいと思います。
最後に、「客観的・具体的な基準の元で再現可能な形で定義された性格特徴を1つでも掲げ、かつ『ラベリング効果』の影響も排除した上で、『○型は、この特性において、明確に×型と異なる』というデータを示して」とのことですが、データについては前述した坂元章先生の分析結果があります。ラベリング効果については、ステレオタイプについて、FBI効果は存在するか?、渡邊席子さんの論文があります。いずれも、ラベリング効果は(A型を除いて?)ほとんどないという結論が出ていると思うのですが…。
以上、長々と書かせていただきました。乱筆、乱文ご容赦ください。問題点は多々あると思いますが、気が向いた時で結構ですので指摘していただければ幸いです。
お忙しい中大変申し訳ありませんが、ご返事をお待ちしています。では、重ね重ねよろしくお願いいたします。
その後、26日の朝にこのページを早速ご覧になっていただき、リンクもしていただいたようで大変喜んでおります(タイトルについては、「owadaさん」ではなく「ABO FAN」にしていただければ幸いです)。どうもありがとうございます。
ところで、25日の日記の<9/26追記>で、「実名入り対話コーナーが登場して驚いた」とのことですが、文章の一部が理解できなかったので、お手数ですが再度説明していただければ幸いです。実名入り対話コーナーにした理由は、「オリジナルの記事についてはリンクフリー」「適切な範囲についての引用」はOKとのことでしたので、大学のURL上で所属・氏名を明らかにして書かれている記事に対しては、実名を出すのが礼儀かと思ってそうさせていただいています。他意はありません(逆に、匿名では失礼ではないのでしょうか? それとも、実名とは関係なく単に「驚いた」だけでなのでしょうか? あるいは、別なことなのでしょうか?)。いずれにせよ、議論の形式にはこだわりませんので、方法についてはおっしゃるとおりにいたします。では、本題に移ります。反論1では、先生のご好意に甘えて私の疑問を片っ端から並べてしまいました。お忙しいところ大変申し訳ありませんでした。私が本当にお聞きしたいのはたった1つです。先生のロジックでは、「客観的・具体的な基準の元で再現可能な形で定義された性格特徴を1つでも掲げ、かつ『ラベリング効果』の影響も排除した上で、『○型は、この特性において、明確に×型と異なる』というデータを示して」いれば、「血液型と性格は関係ある」とのことですが、この理解でよろしいでしょうか?(もし違うのであればご指摘ください) では、OKと仮定して、私の意見を述べておきます。
データについては前述した坂元章先生の分析結果(坂元章さんの論文)があります。反論1とダブりますし、長くなりますが、少しでも長谷川先生の時間を節約できるように、私の論理の要約を下に書いておくことにします。
松井豊さんの論文からの転載です。松井豊さんの分析論文1では、20項目の質問中で2つの項目でしか統計的な差が出ませんでした。 →最高値が赤 →最低値が青
といったぐあいで、さっぱり差がないのです。また、論文2では、全部で1万人以上のデータを分析したにもかかわらず、24項目の質問中でたった1つの項目でしか統計的な差が出ませんでした。
つまり、データに血液型による差がない→血液型による性格の差がない、という結論になっています。 坂元章さんの分析しかし、論文2と同じデータ(ただし、年数は4年分→11年分と増加)を分析した坂元章さんの論文では、データに血液型による差がある→血液型で性格に差があるという「信念」によるもの(=「血液型ステレオタイプ」)→血液型による性格の差がないという結論になっています。 よく考えてみると、これは明らかにおかしいのです。血液型と性格は関係ないという結論こそ松井さんと同じものの、データに血液型による差がない(松井さん)、データに血液型による差がある(坂元さん)と全く正反対の分析結果が得られてしまったのですから…。
私の分析不思議なことに、この「矛盾」には心理学者は誰も気が付いていなかったようです。いや、本当は気づいていたのかもしれません。なぜなら、否定論者の心理学者の誰に質問しても、そのほとんどはあいまいな答えでお茶を濁されて終わりになってしまうからです(たとえ返事をもらえても、その全てが「公表不可」とのことなので、残念ながら公開できません)。しかし、教えてもらえなければ、ますます知りたくなるのが人情というものでしょう。 |
結局、
いずれが正しいと判断されるのか、お教えいただければ幸いです。
実は、この質問は、心理学者の誰に質問しても、そのほとんどはあいまいな答えでお茶を濁されて終わりになってしまいました(たとえ返事をもらえても、その全てが「公表不可」とのことなので、残念ながら公開できません)。長谷川先生に限ってそんなことはないでしょうから、次回の日記で、ぜひ教えていただければ幸いです。ぜひぜひよろしくお願いいたします。m(._.)m
もう一つのラベリング効果については、FBI効果は存在するか?から転載しておきます。長くなりますが、少しでも長谷川先生の時間を節約できるように考えたつもりですので、どうかご了承ください。
前川輝光さん 『血液型人間学−運命との対話−』(551〜553ページ) 「FBI効果」について見ていきたい。大村は能見血液型人間学はニセ科学であり、自らの所説を真実らしく見せるために3つのトリックを用いていると言う。すなわち「フリーサイズ効果(Freesize)」「ラベリング効果(Labeling)」
「インプリンティング効果(Imprinting)」の3つである。「FBI効果」の「FBI」というのは、各効果の英語表現のうちの傍点を付けた文字をつないだものである。
しかし、この問題は実は、大村の依拠する既存の心理学において、すでに議論されていたことであった。引用した大村の発言ではこのことがぼかされているが、白佐俊憲・井口拓自のこの点についての発言を読むと、事態がより明瞭になるであろう。
大村自身、こうした説の存在は知っていたのである。『血液型と性格』の4年半前に出版された『「血液型」の迷路』では、大村は、大西赤人との対談中、目立たない形でではあるが、こうした説にふれている(「これと同じような事が一般の性格テストでも起こります。そういう報告もありますよ」 『「血液型」の迷路』86頁)。ただし、それが気になったらしい大西から質問が出ると、さっさとこの話題を切り上げている(87頁)。 坂元さんの疑問ところが、坂元さんは『現代のエスプリ〜血液型と性格』で次のように主張しています(184〜185ページ 『血液型ステレオタイプと認知の歪み〜これまでの社会心理学的研究の概観』 坂元章)。
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要するに、FBI効果が存在するかどうかは明確な結論が出ていないわけです。更に、渡邊席子さんの論文では、「『自分の血液型に当てはまるもの』 と判断した性格特性については、その特性が通説によって本人のものとされているか否かに関係なく、調査対象者はその特性がよりよく自分に当てはまっていると思っていることになる」ということなので、FBI効果があろうがなかろうが、質問の回答には影響を与えないことになります。つまり、普通のアンケートの回答は、何にもしなくとも「『ラベリング効果』の影響も排除」されていることになると思うのですが…。
私の反論は以上です。先生にお手数をおかけするの大変申し訳ないので、とりあえずの回答は次の2つ質問の番号を選んでいただくだけで結構です(気が向くのなら、解説もしていただければ最高ですが…)。これなら大してお時間はかからないでしょう。
問1 松井先生や坂元先生が分析されたJNNデータバンクのデータでは、「『○型は、この特性において、明確に×型と異なる』というデータを示して」いると判断されますか?
- 松井先生が正しいから、データに血液型による差が「ない」→血液型による性格の差がない
- 坂元先生が正しいから、データに血液型による差が「ある」→血液型で性格に差があるという「信念」によるもの(=「血液型ステレオタイプ」)→血液型による性格の差がない
- 1.と2.の中間として、1988年以後は「血液型ステレオタイプ」が存在し、1978年以前には「血液型ステレオタイプ」は存在しない
- その他
問2 「ラベリング効果」の影響によって質問の回答には影響を与えると判断されますか?
- ラベリング効果は「ある」→回答には影響を与える
- ラベリング効果は「ある」→回答には影響を与えない
- ラベリング効果は「ない」→回答には影響を与えない
- その他
お忙しい中大変申し訳ありませんが、ご返事をお待ちしています。では、質問ばかりで申し訳ありませんが、重ね重ねよろしくお願いいたします。
■じぶん更新日記(長谷川さん−平成10年9月26日) 「長谷川さんとの対話」ページ開設の感想と、ネット上での「対話」や「議論」のあり方について思ったこと
お忙しい中、ご返事どうもありがとうございました。ただ、反論2についてのご返事はいただけなかったようで大変残念です。確かに、どうしてもご返事がいただきたかったので、方法に一部適当でない点があったかもしれません。率直にお詫びいたします。ということで、なるべく長谷川さん(ご要望どおり以後「長谷川さん」と呼ばせていただくことにします−反論1&2については経過がわからなくなるので訂正しません−のでご了承ください)のご指摘に従ってこのページを一部手直ししました。
しかし、数字を2つ書いていただくこと(反論2の回答)が面倒というのは私には理解できません。というのは、長谷川さんに説明するのは釈迦に説法ですが、他の皆さんにために一応説明しておくと、この2つは心理学の「血液型性格関連説」についての論文全部がひっくり返るほどの重大な問題なはずだからです(他の心理学者からも同様の感触を得ていますが、明確な返事がいただけないので確認はできていません)。私の文章を読んで一々考えるならともかく、少なくともこの2つにいては、長谷川さんはすでに結論を出されているはずです。結論を出していない可能性は万が一にもないと断言できます。考えることはないのだから、1秒でも時間がかかるはずがありません…。
あるいはに、長谷川さんは個別の質問(反論)に一切答えない、という方針ならご返事をいただけないのもわかります。しかし、どうもそうではないようです。なぜ数字を2つ書くのがそれほど面倒なのか、私にとっては理解不能というしかありませんが…。いずれにせよ、この2つの疑問については、当分の間はご返事がいただけないのは大変残念なことです。
#もちろん、この文章も反論を強制するものではないことはご理解いただけるものと思います。
では、他のものについても順を追ってお答えしていきます。
Eメイルはお断りという意味ではなくて、Eメイルであろうと掲示板書込であろうとMLであろうと、とにかく特定個人の方との質疑応答形式の対話はお断りしますという意味だったのだ。
わかりました。どうやら私の勘違いだったようです。ご容赦ください。
できれば「長谷川ページへの感想」程度のコーナーにしてほしかったなあ
前述のとおり訂正しました。ご確認ください。
さて、それではなぜ個別的な対話をお断りするかというと…
重々承知しています。ですから、今回のように親切にご返事をいただいたことには大変感謝しています。
この時の経験を言えば、ネット上での議論というのは簡単のように見えて実は殆ど不可能。
これも重々承知しています。私も複数のパソコン通信、複数のMLに参加していますし、掲示板の会議にも参加したことはありますから。自分でもなかなか返事が書けない場合も多々ありましたので、よくわかっているつもりです。
返事が無いことを理由に、相手が逃げたとか反論できないなどと批判する…
私のホームページには、確かに一部にそういう意味の文章があるのは事実です。ただ、それは、後日必ず返事をすると内容のメールをいただいたにもかかわらず、何ヶ月しても返事が来なかった、といった例が何回かあるので書いているだけです(しかも、そういう方は私以外の人には何回かメールを出しているようです)。さすがに少々不愉快だったので(決して感情的な書き方をしていないとは言いませんが)、他意はありませんのでどうかご了承ください。もちろん、頻繁にそういうケースがあるということではありません。また、丁寧に返事をいただいた多くの方には大変感謝しています。
相手方の行動の制約につながるようなコンテンツ(例えば、質問ばかりを並べたてるようなコンテンツ)は避けよう。相手方の記述の足りないところを問い合わせるような最小限の質問はよしとしても、何項目にもわたって「〜についてはどう思われますか」、「〜という私の考えは正しいと思いますか」というように、新たに意見の提示を要求するような内容は、相手が不正行為でもしていない限り控えるのがエチケットというものだろう。
これは、反論1についてのことだと解釈しています。反論1には、長谷川さんの好意に甘えすぎ、確かにそういう点があったと反省しています。が、反論2では(考えることさえ不要な)2つの数字を書いていただくだけで結構ですと訂正しています。それでもダメだというなら、私には「立場の相違」といういうしかありませんが…。なお、前述したように、この文章も反論を強制するものではないことはご理解いただけるものと思います。
相手方から反応が無かったからといって、相手が逃げたとか反論できないといった印象を読者に与えるような記述は避けよう。…相手方には、反論ページにアクセスする義務は一切無い。
全くそのとおりです。一部に適当でない表現があったかもしれません。ただ、それは実名やメールアドレスを公開することは(あまりにも礼儀を失するので)していないからです。やむを得ずそうしているという事情もご理解いただけると幸いです。私の文章表現が下手といった点はともかく、ありもしない「事実」に基づいて発言しているのではありません。ご理解ください。
自己紹介がないように思うが、あったら教えて欲しい。
『ABO FAN』については、原則として個人が特定されるような情報は書いていません。ここでは詳しくは書きませんが、以前に一度懲りたことがあったので…。もっとも、別に秘密にしているのではなく、必要がない限り積極的に公開はしないということです。また、今後どうするかというのは別の問題です。どうか事情をご理解ください。
対話ページは「です、ます」体になっているけれど、それに合わせて日記の文体まで丁寧体に変えるのはご容赦をいただきたい。
もちろん結構です。
とりあえず、対話のページの一部については早ければ明日にでも意見を申し上げたいと思っているが、それはあくまで、9/24の日記の指摘の延長にならざるをえない。
お忙しい中恐縮ですが、よろしくお願いします。でも、数字を2つ書いていただくこと(反論2の回答)が面倒というのは、やはり私には理解できません。長谷川さんの方針といえばそれまでですが…。
ゴールデン血液型倶楽部という、とっても興味深いサイトを発見した。…失礼だが、こちらのサイトのほうが数倍面白い…
いやいや、全くおっしゃるとおりです(苦笑)。「今後はそちらのほうから先に反応させていただくことになるかもしれない」とのことですので、非常に楽しみにしているところです。
現時点において、私は昼間の仕事の時間まで割いて、血液型性格判断の問題に検討を加える余裕はない。
前述しましたが、これも全くおっしゃるとおりです。気が向いたときで結構ですから、回答をお待ちしています。
Web日記でも開始され、御自分の人生が血液型性格判断によって如何に有意義なものになっているかをぜひご披露していただきたいものである。
残念ながら、現在の時点では予定はありません。
これでほぼ全部のご質問について回答できたはずです。なお、文章に失礼な点がないよう毎回注意しているつもりですが、乱筆、乱文、不明瞭な点等が多々あるかと思います。どうかご容赦ください。
なお、「長谷川さんのページへの感想」については、とりあえずこれで終了させていただきたいと思います。というのは、私にとって必要な材料がほぼ揃ったからです。非常に自分勝手なことかもしれませんが、「相手方には、反論ページにアクセスする義務は一切無い」とのことなので、ご好意に甘えさせていただきたいと思います。特に問題はない(?)でしょうから…(もし問題なのであればご連絡ください)。長谷川さんには、お忙しい中、ご協力をいただきどうもありがとうございました。私の方から議論を展開していくのは次の機会に譲りたいと思います。本当にどうもありがとうございました。m(._.)m
結局、
私には理由はわかりません。ただ、長谷川さんによると「相手方から反応が無かったからといって、相手が逃げたとか反論できないといった印象を読者に与えるような記述は避けよう。…相手方には、反論ページにアクセスする義務は一切無い」ということだそうですので、念のために付記しておきます。
ということで、私の質問にはただの1つも回答はいただけませんでした。そして、当分の間は回答していただける予定もないようなので、返す返すも残念です。ちなみに、他の心理学者についてもほぼ同じ反応でした。 |
■じぶん更新日記(長谷川さん)
その後、いろいろとご返事をいただいたようで大変ありがとうございます。ということで、早速方針を変更し、順を追ってお答えしていきたいと思います。私のハンドルネームがないと不便でしょうから、とりあえず"SHOZO"に決めました。できれば、今後はSHOZOと呼んでいただければ幸いです。では、よろしくお願いします。
私が確認できた15時頃までにはもう要望通りにタイトルが変更されていて、その素早い対応にまたまた驚く。…
お褒めいただき、ありがとうございます。たまたま週末に時間が空いていたので更新したのですが、何か問題があったのでしょうか?
何でそんなに性急に回答を求めたがるのだろうか。またなぜ、「1.か2.か」などとパターン分けした回答を求めたがるのだろう。…この方が、何でこんなにせっかちに「反論への反論」ばかりに執着するのか、むしろこのことのほうに興味が出てきた。
繰り返しになりますが、他の心理学者にはほとんど教えていただけないからです(7人中1人だけでは…)。この点は非常に大事なところでして、もしこの部分が間違っていれば、私の主張全部が吹き飛んでしまうほど重要なことだからです。どうしても教えてもらえないなら、ますます知りたくなるのは人情というものでしょう。
こちら[私のホームページ]はさらに分量が多く、とうてい全部は見きれなかった。…この情熱はどこから来るのだろうか。
「血液型と性格」について検証したいからです。情熱については答えるのに窮しますが、(大変不適切な例えかもしれませんが)長谷川さんが心理学に対する情熱と同じ(私の方が情熱は少ないでしょうが…)といったところでしょうか。
「否定論」に対しては、あれだけ厳しく批判しておきながら、「肯定論」については、その適用に慎重論を唱えながらも、ほとんど無批判に受け入れてしまっているということだ。特に、能見正比古氏の主張内容については、まるでオウムの信者が麻原教祖を慕うかのごとく受け入れてしまっている。
おっしゃるとおりです。しかし、私も「肯定論」を全面的に受け入れているのではありません。ただ、『ABO
FAN』ではそういう部分は意図的(?)に書いていないことは事実です。そういう点で「不公平」であることは確かですから、批判は甘んじて受け入れます。具体例については、ここで書く必要はないでしょう。
ただし、一部の心理学者についても、逆に「否定論」を無批判に受け入れているという批判は否めません。こちらの具体例については、『ABO
FAN』の中にたくさんありますので、既にご覧になったとおりです。
大変余計なことながら、「オウム」以下の文章については、あまり適当な表現ではないと思います…。
しかし、いやしくも科学を口にするのだったら、「否定論への反論」と同じ学究的な態度で、独自の体系的な性格論を構築する方向に前向きに進んでいってもいのではないかな。
私では力不足なので、この点については『血液型人間学−運命との対話−』の著者である前川輝光さん[心理学者で亜細亜大学助教授]にお任せしようと思います。次の著書も準備中なようですから…。
心理学者への反論なんかに依拠して自己の正当性や存在感をアピールしなくったって、きちっとしたデータの基づきオリジナルで体系化された「血液型性格判断」を提唱していただければ、自然に注目されるようになるはずだ。
心理学者に反論すると存在感が増すというのは初耳ですが、本当でしょうか? そんなことは全く考えていませんでしたが、単なる読み違いでしょうか?
それから、心理学者の反論が中心というのはちゃんと理由があります。それは、心理学者から、能見さんのデータがいい加減だという反論があるからです。ですから、相互に認めあえるデータは心理学者が(「否定論」のために)調査したものしかありえません。これは、心理学者との議論の中で合意したものですから当然です。その中で矛盾するデータを見つけて…という経緯で私の反論が構築されてきました。当初は、能見さんのデータの正当性だけ証明すればよかったと思っていたのですが、それでは甘かったということです。能見さんのデータだけを使っていれば、ひっとして私オリジナルの「血液型人間学」ができていたのかもしれません…。
実は、能見さんのデータと心理学者のデータはかなりの再現性があるのですが、それは全ての分析が終了してからわかったことです。
<9/29朝追記>もうひとつだけ言わせてもらうが、自己紹介も無いままにたくさんの心理学者に一方的に質問メイルを送ったところで、返事をもらえないのは当然ではないだろうか。…
これは、私の経験からして絶対ありえません。というのは、基本的にはメールを歓迎している人にしか送っていないからです。自己紹介がなかった、という理由で返事をもらえなかったことは、今までに1回もありません。この点についてだけは自信を持って断言できます。それなのに、同じ人に反論1&2についてメールを送ったら、ピタッと返事が来なくなりました。どうしても知りたかったので、しつこく何回も送ったのですが…。さて、この後の文章の一部にも疑問点がありますが、大したことではないのでとりあえずパスすることにします。失礼しました。m(._.)m
「パターン分けして、すぐに答えを与える」ことこそまさに「血液型性格判断」が好まれる最大の特徴であったのだ。
私はそうは思っていません。「性格テスト」や「心理テスト」のように、「パターン分けして、すぐに答えを与える」ものならとってもラクなのですが…。もちろん、血液型によって性格をある種のパターンに分けることはできますが、それは「性格テスト」や「心理テスト」とは違って一筋縄ではいかないものなのです。それらは、能見さんなどの本に書いてあるとおりです。
零か壱か、という二者択一型の思考をするまえに、少なくとも3つの点に留意する必要がある。
全くそのとおりです。ただ、最近のパイオニア10号&11号のデータによると、物理学の法則でも「太陽系周辺の宇宙のあらゆる場所でも成り立つ可能性が高い」とは必ずしもいえないようですが…。
帰無仮説についての説明は全く同感です。いや、統計のプロにこの言い方は失礼かもしれませんが、ご容赦ください。
よく、心理学者は「血液型と性格は絶対に関係が無い」と否定していると言われるが…みなが「絶対に無い」と主張しているわけではない。…「血液型性格判断はなぜ当たっていると思われるか」という研究が「関係が無い」という前提が無ければ進められない研究だというのは、ハッキリ言って誤り。…そういう意味では、一部の心理学者が“完全に「無い」”ことを前提にしているかのように決めつけることには問題がある。
全く同感です! そういう意味では、「血液型性格判断はなぜ当たっていると思われるか」という研究では、私の知る限りそのほとんどが「関係が無い」という前提で進められているようですから、早速訂正を申し入れたいと思います。どうもありがとうございます。
私自身がこの件について過去にどのような主張をしたのか、特に初期の…の2点については、私の資料集に早急にアップしたいと思っている。
楽しみにしております。ぜひぜひよろしくお願いします。
では、立場を変えて、「関係が無い」が実証できないのだから、「これも有る」、「あれも有る」と言いたい放題でよいのか。言論の自由という点からは許されるとしても、これは科学的態度としてはふさわしくない。
確かにそのとおりだと思います。そういう意味で、『ABO FAN』でも反省すべき点が多いとは感じています。
いやしくも科学を口にするのであれば、まずは有意差が確認された特性についてだけ、その一般性や安定性を地道に検討すればよい…
この一部が反論1&2で取り上げたものなのですが…。
直観やフィーリングだけで血液型人間「学」なるものをうち立て、「血液型の違いは一目でわかる」…というように、本を売ることを優先するような「血の商人」的な態度は許されない。いや、占いなら大いに結構。勝手にやってくれればよい。…心理学者たちの多くが「血液型人間学」を標榜する人々を批判してきたのは…こういう商業主義優先の似非科学の「研究」態度を批判してきたのである。
書く都合で、ちょっと順序がずれましたが、ご了承ください。
まず、能見さんについて言えば、直感やフィーリングだけでなく、彼独自のデータとも照らし合わせて結論を出しています。ですから、能見さんのデータはランダムサンプリングがされてないから信用できないなどと批判されているのです。最初から直感やフィーリングだけ結論を出しているのなら、そういう批判自体が存在するはずがありません。そして、能見さんのデータの追試は、私が調べた範囲では1つだけ(大村さん)です。従って、心理学者の批判は、そのほとんどは能見さんのデータを否定するものではありません。
次に、「血液型の違いは一目でわかる」というのおかしいということですが、実際に「血液型の違いは一目でわかる」のだから、70%以上の人が血液型と性格は関係あると思っているのだと思います。ここ10年間、その比率はほとんど変わっていないようです。
また、「血の商人」的な態度というのには疑問があります。なぜなら、能見さんは相手の弱みにつけ込んで、強引に本を売りつけているのではないからです。それは、データにもはっきり現れています。ほとんどのデータでは、70%以上の人が「血液型性格判断」(この言葉には少々抵抗がありますが…)を楽しいと思っているのです(上瀬由美子さんの論文)。いろいろと調べてみたのですが、「血の商人」についてデータで証明したものはないようです。もっとも、何から何まで全部調べたのではないので、全くないとは断定はできませんが。
いずれにせよ、お忙しい中、わざわざご返事をどうもありがとうございました。
この項目は、長谷川さんの『じぶん更新日記』との直接的な関係はありません。
じぶん更新日記にもありましたが、『現代のエスプリ〜血液型と性格』の中で、長谷川さんはこういう意見を述べています(128ページ 『目分量統計の心理と血液型人間「学」』)。「血液型と性格は関係がない」ことを証明するには、1つだけの反例があればいいというものです。
ここで強調しておくが、 血液型人間「学」がある種の普遍性を主張する「理論」であるのに対して、「血液型と性格は関係がない」というのは理論ではない。研究の出発点となる作業仮説にすぎないのである。 理論は一つの反例によって崩すことができるが、作業仮説に反例を示したってしょうがない。
「血液型と性格は関係がない」という作業仮説のもとに地道にデータを集め、ある性格的特徴について明らかに血液型との関係を示すようなデータが安定的に得られた時に初めてこの仮説を棄却するのである。これこそが、雑多な変動現象の中から帰納的に規則性を見い出そうとするときにとるべき科学的態度である。
ところで、同じ『現代のエスプリ〜血液型と性格』には渡辺芳之さんも執筆しています(188〜189ページ 『性格心理学は血液型性格関連説を否定できるか〜性格心理学から見た血液型と性格の関係への疑義』)。
性格検査と血液型との関係
これまで何人かの心理学者が、 血液型と性格との関連を実証的方法で反証し、血液型性格関連説を否定しようとしてきた。ここで注目されるのは、彼らが血液型性格関連説を「科学的方法によって反証可能な理論」、すなわち科学的理論とみなしていることである。この点でそれを「非科学的な迷信」とみなして無視した従来の心理学者とは異なる。
しかし、論文を一読すればわかるように、彼らの多くは「血液型性格関連説は間違っている」というアプリオリな立場を持っており、それを実証するために研究を行なっていることもまた確かである。
心理学者が血液型性格関連説に対して行う反証は二つのタイプに分かれる。一つは「性格検査」など「性格」を測定しているとされる外的基準と血液型との間に関連がないことをデータで示して、血液型と性格には関係がないと結論するものである。たとえば長谷川は、YG性格検査の類型分布が血液型によって変化しないことを示しているし、その他にもEPPS、SPIなどどの関係を調べた多くの研究が、それらの検査結果と血液型とに関係がないことを示して、血液型と性格との関係を否定している。性格検査の妥当性を前提とする限り、こうした論理は正当なものに思える。
しかし、多くの性格検査はそれぞれ人の性格のごく一部を測っているにすぎず、ある検査と血液型とに関係がなくても、他の検査とは関係しているかもしれない。実際、性格検査の得点と血液型との関連が、ごくわずかとはいえ統計的に有意なかたちで見出されたという報告もある。
また、すべての性格検査について検討して血液型と関係するものがひとつもなかったとしても、人の性格というのは非常に複雑なものであるから、これまでどの検査でも測られていない非常に重要な要素が存在して、それが血液型と関連している可能性が残る。
なんか、私の意見とほとんど変わりませんね。素直に読むと、長谷川さんと渡辺さんは全く正反対の主張であるようですが、本当はどうなのでしょうか? この本は4年前の本ですが、その後はどうなったのでしょうか?
■じぶん更新日記(長谷川さん)
10月6日の記述と補遺の前半部分(「血液型と性格」についての非科学的俗説を否定する.日本教育心理学会第27回総会. [東京都千代田区・国立教育会館] )については、私も全く同感ですので、感想は省略させていただきます。
補遺の後半部分(血液型と性格 −−−公開講座受講生が収集したデータに基づく俗説の検討,長崎大学医療技術短期大学部紀要, 1, 77-89.)については、長谷川さん一流のユーモアを持ってお書きになっているようです。私はユーモアのセンスに乏しいらしく、すぐにはわからなかったのですが…。しばらく考えて、やっと面白さがわかりました。長谷川さんは、なかなか冗談がお好きな方のようです(笑)。
日本では,北にB型者が多く南はA型者が多いなどと言われており(森本他《11》,pp 80-81),もし北と南の出身者が同数からなる集団に対してなんらかの気質調査を行なえば,「地域的な気質の差」を「血液型の気質の差」として誤って解釈される恐れがある.たとえば「スキーが好きか」という質問に対しては,北日本の出身者の方がより多くYesと答えるであろう.すると,僅かながらB型者でYesと答えた者の比率が高くなる.しかしこのことからB型気質がスキーの好みの原因となっていたなどと解釈できないのは明らかである.
実際の値を調べてみました。松田薫さんの『「血液型と性格」の社会史』によると、青森県と鹿児島県では分布に10%程度の違いがあります。A型は青森県が32%に対して鹿児島県は42%、B型はこの逆で青森県が25%に対して鹿児島県は20%となり、確かにそのとおりであることがわかります。しかし、「地域的な気質の差」を「血液型の気質の差」として誤って解釈される恐れは、血液型に限ってありません。これは計算してみればすぐわかることです。
では、早速やってみましょう。計算を簡単にするため、A型とA型以外で計算することにします。この方が実際(B型とB型以外で計算する)より差が大きく出ることは言うまでもありません。
血液型分布(%)
地域
A型
A型以外 青森県 32
68
鹿児島県 42
58
では、地域によってどのぐらいの回答率の違いがあるかというと、NHK世論調査では最大で20%程度です(NHK放送文化研究所・編『現代の県民気質−全国県民意識調査−』NHK出版 H9.11)。そこで、青森県と鹿児島県で20%の差があるものと仮定します。
仮想質問 あなたはスキーが好きですか?(%)
地域
好き
嫌い 青森県 60
40
鹿児島県 40
60
最後に、サンプルがこの2つの県だけだとして、血液型別のスキーについての態度を計算してみます。
仮想回答 あなたはスキーが好きですか?(%)
血液型
好き
嫌い A型 48.6
51.4
A型以外 50.8
49.2
差が20%なのですから、血液型分布の10%の違いを掛け合わせて(0.2×0.1=0.02)、約2%程度の差があることになります。これは当然のことでしょう。つまり、差がかなり大きくなるようにして計算したにもかかわらず、たった(?)の2%程度の差しか生じないことになります。実際には、こんなに差が出るのはごく特殊なケースでしょうから、ほとんどの場合はコンマ以下になることが予想されます。
ところで、普通(?)のサンプル数が数百のデータだと、回答の統計的誤差は最低でも数%はあります。「地域的な気質の差」のようなランダム(?)な誤差だと、誤差の数字そのもの比ではなく、その2乗の比でしか全体の誤差には影響しません(自明なことでしょうから説明は省略します)。つまり、ほとんどの場合は「地域的な気質の差」は全体の誤差の何十分の1ということになる…はずです。
結局、普通のサンプルが数百人程度のアンケートでは、「地域による気質の差」が血液型と性格に与える影響は、ほとんどの場合は無視できる…はずだということになります。念のため、B型についても同じ方法で計算してみました。ここでは結果だけ書いておきます。
仮想回答 あなたはスキーが好きですか?(%)
血液型
好き
嫌い B型 51.1
48.9
B型以外 49.7
50.3
ずいぶんまわりくどい説明になってしまいました。でも、統計のプロである心理学者なら、こんなことは簡単にわかるはずです。国立教育会館で長谷川さんの発表を聞いていた心理学者は、こんな面白い冗談にその場で大爆笑したに違いありません。さすが心理学者らしい統計的な冗談ですね。私も大いに愉快な気分にさせいただきました。(^^)
もっとも、好き嫌いの率の平均が50%から大きく外れると、「地域による気質の差」が血液型と性格に与える影響はかなり大きくなることになります。しかし、実際のデータを見ていると、そういうのはごくごく例外的なケースなはずです。例えば、反論1&2のデータについては、「地域による気質の差」では説明できません。 |
では、他の点についても少し触れておきます。
生物学的・医学的にみて,血液型が性格に差異をもたらすと根拠はなく(中原・富塚《15》など),しかも能見俊賢自身が認めているように(大西《5》,pp126-127),血液型のなかでABO式血液型だけを問題にしなければならぬ理由はどこにもない.ABO以外の種々の血液型が性格になんらかの影響をもたらすとすると,血液型の組合せは日本人の人口をはるかに上回ることになり【10】統計的検証は到底不可能になってしまう.
これについては、中原英臣さんの論文とFAQ番外編をご覧ください。
血液型人間「学」者が用いる性格用語の大半は,それらがどういう基準や手法で選ばれたものであるかが全く明らかにされていない.たとえば,能見(《14》,pp64-65)は,「親分のO型,リーダーのA型,親方のB型,大黒柱のAB型」,「ごますりのO型,ごもっともA型,たいこもちB型,調子いいAB型」などと述べているが,これら血液型別の性格表現がそれぞれどう異なるのかまったく明らかにされていないのである.能見父子らの性格表現のほうがよほど安易で幼稚であることはもはや明らかであると思う.
私の各血液型の解説からの引用です。
次も、能見正比古さんのほぼ全部の著書に紹介されている「血液型別、人柄のタイプと印象」です。マスコミ関係者だけあって、非常に的確なポイントをとらえていますね。私の迷?解説付きでお届けします。
人柄のタイプ O型の印象 A型の印象 B型の印象 AB型の印象 上に立つ型 親分のO リーダーのA 親方のB 大黒柱のAB O型は親子関係と同じ全人格的な関係、A型はルールに基づくリーダー、B型は技術指導に目を向け、AB型はあまり口を出さないといった傾向が読み取れます。 ほがらか型 陽気なO 明るいA おまつりB 洒脱のAB O型はシンから陽気で明るく、A型は少し締まった印象を見せ、B型はにぎやかでケジメがなく、AB型は感情的な表現がクールというところですね。 人と結ぶ型 団結のO 協調のA 井戸端B パイプ役AB O型は共同の目的に向かって一致団結し、A型は(自分の考えはあまり変えないが)協調し、B型は井戸端会議的にケジメがなく、AB型は自分が当事者にはならずパイプ役が得意ということですね。
これらの言葉は、能見さんが経験的に選んだのだと思いますが、作家だけあってなかなかのセンスだと思うのですが…。そう思うのは私だけでしょうか?
「血液型人間学」が「当たっている」と受けとめられる原因の1つとして,少人数の標本のなかで偶然的に生じた偏りに対してなんらかの意味を見い出そうとする傾向をあげることができる.調査4からも示されたように,少人数の血液型分布に対しては見かけ上の偏りを感じやすい.したがって,専門職業やスポーツ別に何百通りもの標本を集め,その中から見かけの偏りが大きいものだけを拾い出して自分の主張に都合のよいように適当な事後解釈を施せば,いとも簡単に「血液型人間学は当たっている」と思わせることができる.
あまりにもしつこくて大変申し訳ないのですが、これの反証(?)については反論1&2で取り上げました…。 -- H10.10.8
■じぶん更新日記(長谷川さん)
その後、YG性格検査と因子分析について調べてみました。長谷川さんの記述は次のようなものです。正確を期して、少々長めに引用させていただきます。
能見俊賢はまた,神経質,几帳面,明るい,暗いといった言葉は,安易な性格表現であるなどと述べているが(大西《5》,pp165),これも,質問の表面的な意味・印象と,その項目が真に測ろうとしている性格因子との関係を理解していないために生じた誤解あるいは曲解であると思う.たしかに,心理学の諸概念は,しばしば日常生活用語と重複している.しかしYG検査で測定される「気分の変化」,「劣等感」,「協調性」などの因子は,いずれも因子分析的手続の中で抽出されたものであり,日常生活用語とは独立した概念である点に留意する必要がある.もともと,能見正比古は,「なるだけ価値評価の入らない日常生活での好みや行動の傾向を(アンケートで)答えていただいた・・・・」という方法で,血液型別の基本気質を探っていったという(大西《5》,pp110).その過程で,質問の表面的妥当性と因子的妥当性をどう区別したのか,あるいは性格因子や気質因子をどのような客観的基準に基づいて抽出していったのであろうか.じじつ,血液型人間「学」者が用いる性格用語の大半は,それらがどういう基準や手法で選ばれたものであるかが全く明らかにされていない.
まず、別冊宝島335『性格がわかる・変えられる!』という本からです(81ページ)。下線は私が付け加えたものです(この項目については以下も同じ)。
9 矢田部ギルフォード性格検査(YG)
あなたは協調型か支配型か?
抑鬱性から神経質、情緒安定型まで、12の尺度であなたの性格を的確に判断する。
身近な人と2人でやってみると、より信用性の高い結果を得られるだろう。「YG性格検査」は、聞いたことのある人が多いかもしれない。日本の代表的な質問紙形式の性格検査法で、いわば古典である。教育、産業と幅広い分野で高い使用頻度を誇っている。
1940年代にアメリカの心理学者ギルフォードらによって開発された3種のテスト(ギルフォードSTDCR因子性格テスト、ギルフォード・マーチンGAMIN因子性格テスト、ギルフォード・ジンメルマン気質調査)のなかから選び出した240項目を、1954年に 矢田部達郎らが日本人用に翻訳改訂し、更に辻岡美延が1957年に標準化したものである。…
次に、大村政男さんの、「新訂『血液型と性格』」からです(24ページ)。
質問紙法に基づく性格検査には、多数の種類があるが、その多くはアメリカ原産・日本再標準化版である。代表的なものをあげてみよう。
矢田部ギルフォード性格検査(パーソリナリティ・テスト) Y−G性格検査と通称されている。ギルフォードたちが作成した3種の性格検査をベースにして作成されたものである。検査は、抑うつ性D・回帰性傾向C・劣等感I・神経質N・客観性の欠如O・協調性の欠如Co・愛想の悪さAg・一般的活動性G・のんきさR・思考的外向性T・支配性A・社会的外向性Sの12特性を測定する120項目である(1)。検査結果はA型からE型にいたる主要5型のプロフィール・パターンに分けられる。(1) 12特性を測定する120項目で構成されているということは1つの特性についてたった10項目しかない。質問紙の質問紙の測定上の生命は項目の多さである。項目数がいくつあれば−−という規定はないがたった10項目は少なすぎるといわなければならない。
この検査に「のんきさ」というのがあるが、それは衝動性(ラチミア)のことである。その項目は次のとおりである。
(1)よく考えずに行動してしまうことが多い。(2)早合点の傾向がある。(3)いつもなにか刺激を求める。(4)計画を立てるよりも早く実行がしたい。(5)いろいろ違う仕事がしてみたい。(6)人と一緒にはしゃぐことが多い。(7)口数が多い方である。(8)お祭り騒ぎが好きである。(9)じっとおとなしくしているのが苦手である。(10)気軽なたちである。
渡辺芳之さんも面白いことを書いています(『現代のエスプリ〜血液型と性格』 性格心理学は血液型性格関連説を否定できるか〜性格心理学から見た血液型と性格の関係への疑義 渡辺芳之)。
大村の血液型批判
…血液型性格関連説のもうひとつの根拠である「血液型性格判断が当るように思える」「周囲の人の行動が血液型によって違うように見える」という日常的な実感が多くの場合錯覚に基づくものであることを、「FBI効果」という優れた概念を用いて論証している。つまり、血液型性格関連説が当っているように見えるのは、その性格記述が誰にでも当てはまるようなものであること(Freesize効果)、血液型を知っているとその血液型に合った性格特徴だけが目立ってみえること(Labeling効果)、自分の血液型の特徴とされるものに自分の行動を合わせてしまうこと(Imprinting効果)の三つの効果によるというのである。
大村の論理は説得力があるが、ある面で両刃の剣でもある。自分たち心理学者が製作し、正当であるとしている「性格検査」による性格判断も、血液型性格関連説と同じ土俵で批判されてしまうのである。たとえば、作られてからかなりの年月が経つが現在もよく使われている性格検査の中には、現在の統計的基準から見るとその一安当性の根拠となるデータやその解釈がかなり怪しいものはいくつもある。古川竹二のデータ解釈が誤っているのはあくまでも現在の目から見てであり、同程度に誤ったデータ解釈は過去の「科学的」心理学にもよく見られる。また、「心理学的性格検査による性格判断が当る」という経験的事実が「FBI効果」による錯覚でないと言い切ることもできないだろう。
たとえばYG性格検査の類型ごとに性格特徴を記述している文章などはかなり「フリーサイズ」なものであり、大村と同じ手続きで類型とその説明文をデタラメに入れ替えて被験者に示しても、多くの場合自分に当てはまっていると思うのではないか。
また、検査結果が他者の性格についての判断をバイアスしたり、自分自身の行動を検査に合わせて変容したりすることも十分に考えられる。これでは「心理学も血液型もうさんくさい」ということになるだけで、心理学者からの批判が大衆にあまり強い印象を与えないのは当然である。
結局、「YG検査で測定される『気分の変化』、『劣等感』、『協調性』などの因子は,いずれも因子分析的手続の中で抽出されたもの」とはいっても、それは1940年代のアメリカの話のことのようです。それらについては、現代の日本で「因子分析的手続」によって抽出したものと同じであるという前提が成り立つとは(私には)思えません。因子分析をご存じの方ならおわかりのように、元データ(1940年代のアメリカ人と現代の日本人との性格特性)が違う場合は、この手法によって抽出される(性格)因子は違ってくるのが当然だからです。だから、渡辺さんのいうように、「YG性格検査の類型ごとに性格特徴を記述している文章などはかなり『フリーサイズ』なもの」という主張になってくるに違いありません。結局、「心理学も血液型もうさんくさい」といった感想を持つ人がいても不思議ではないと思うのですが…。本当はどうなのでしょうか?
その後、心理学事典に当たってみました(南博編著『読みこなし 使いこなし 自由自在 心理学がわかる事典』 日本実業出版社 H6.2)。302ページからです。
■YG法…矢田部−ギルフォード性格検査
YG法は質問紙法の性格検査で、ギルフォードらが作成した質問紙法をモデルとし、矢田部達郎らによって尺度が構成されたものです。現行のYG法は12尺度から成り、これらは@情緒不安定性因子、A社会不適応性因子、B活動性因子、C衝動性因子、D非内省性因子、E主導性因子の6つの因子の中に分類されています。
12尺度は各々10項目の質問から成り、例えば、「色々な人と知り合いになるのが楽しみである」「人目に立つことは好まない」「感情的である」等の240項目に対して反応を回答欄に記入するだけで、集団法でも個人法でも実施できます。結果を採点し、プロフィール作成、系統値算出、尺度レベル・因子レベルの判定をし、最後に類型レベルの判定をします。類型は、A(平均型)、B(不安定積極型)、C(安定消極型)、D(安定積極型)、 E(不安定消極型)の5つのタイプとなっています。実施に関しては専門的技術が不用で採点も簡便であることから、臨床場面だけでなく、中学校・高等学校・大学でのカウンセリングや職業指導、産業場面、鑑別所、警察、裁判所など、幅広い分野でさまざまな目的で使われています。ただ、被験者が意図的に反応を歪曲するとその影響が直接結果に現われるという難点もあげられています。
「実施に関しては専門的技術が不用で採点も簡便」とのことですが、質問数が比較的少なくて、類型に分けられるとういうのがその理由なのでしょうか…。ただ、5つの類型に分けるということになると、反論4で長谷川さんの
「パターン分けして、すぐに答えを与える」ことこそまさに「血液型性格判断」が好まれる最大の特徴であったのだ。
という指摘について、私からの反論がありますが、まさにYG法も「パターン分けして、すぐに答えを与える」ことが「好まれる最大の特徴であったのだ」ということにもにならないのでしょうか?
別冊宝島335『性格がわかる・変えられる!』という本では、次のような記述もあります(89ページ)。
オリジナルのYG性格検査は、問題数が120。後で印を付けかえたいときは最初に付けた印はそのままにして後で付けるほうを黒く塗りつぶしておくようにとの指示もある。しかし、後で付けた印のほうは一般に信頼性が低いと考えられるため採点しない。
この種のテストでは、質問によって何を測ろうとしているか、被験者にわからないように工夫してあるものだが、このテストの場合ストレートな質問もある。
たとえば、抑うつ性を問う質問で「たびたび憂うつになる」とか、著しい気分の変化があるかどうかを表わす回帰性傾向で「気が変わりやすい」、劣等感で「劣等感に悩まされる」、神経質で「神経質である」などは、モロである。
思わず笑ってしまうような質問もある。たとえば、「頭がよくなったり、悪くなったりきまらない」というもの。「客観性の欠如」を測る質問だが、なるほどこれに「はい」と答えるようなら、かなり客観性が欠如しているといって間違いないだろう。
「協調性の欠如」を測る質問で「スパイのような人がたくさんいる」という質問がある。これに「はい」と答えた場合と「世の中の人は人のことなどかまわないと思う」に「はい」と答えた場合が同じ得点と いうのは?という気もする。
社会的適応性を重視するYG検査は、企業などで職業適性を測るために使用されることも多いが、そのような場合に、これまで引用したような質問に「はい」と答える人がいるだろうか。本人が自分の性格を知るために望んで検査を受けたいと思っているならいざ知らず、就職、昇進の際の判定基準となることを考えると、被験者がどこまで率直に試験に答えるか疑問である。
たとえばヒステリー人格の場合、自分本位へ情緒不安定で、空想性が強いから、テスト結果はC、O、Agが高くなるはずだが、実際には理想的とされるプロフィールのD型を示す傾向が見られる。意図的ではなくても結果としてウソをついてしまうケースである。12の性格特徴のうち、質問の内容がどちらが望ましいとも決めがたいR、Tなどは比較的その影響を受けにくいといわれている。また歪曲以外にも質問紙法テストは自己を客観的に見る力が必要とされるから、内省力のない者は正しい結果が出ないということになる。
先日教員に対する問診表の中の質問内容がプライバシーの侵害に当たる、と非難が起こった件について、教師側からの反論が新聞に掲載されていたが、プライバシーの侵害とされた質問は次のようなものだ。…
解説は不要と思いますので書きませんが…。 -- H10.10.11
私にとっては少々都合が悪いのですが、皆さんの判断材料になるようにあえて書いておきます。というのは、大村政男さんの「新訂『血液型と性格』」に、YG性格検査の「のんきさR」の質問項目が公開されていたからです。普通は性格テストの質問項目は非公開なので、非常にラッキーなことでした。それは、
( )内は予想される血液型です。ただ、実際の回答がどうなるかは別問題です。私の予想は結構外れるので…(笑)。とにかく、個別の質問項目ならともかく、この組み合わせで血液型別の「のんきさR」を測定してもあまり意味はなさそう(?)のように思えます。 では、実際のデータに当たってみましょう。まずは、大村政男さんの論文の「血液型と情意徴標検査」からです。アイテム9が、YG性格検査の「のんきさR」に比較的似ているようです。
次は、同じ大村政男さんの論文の「YG性格検査−松井論文1との比較」からです。なお、大村さんのデータはサンプルが男女を合計しても約200人と少なめ、松井さんのデータは、全10項目のうち5項目を抜粋(どの項目かは不明)しています。ですから、あくまで傾向を見るだけで、詳細な比較は意味がないでしょう。
能見さんのデータとは、うまく一致するものがないのですが、『血液型愛情学』のデータ(夫685人、妻879人)が比較的近いようです。
このデータは、確かに大村さんのデータとはぴったり一致します。次に、夫のデータです。
あまりにも傾向が違うので、私はギブアップです。(^^;; 【結論】 結局、O型とB型が比較的「のんき」なようですが、性別や質問項目によってもかなり結果は変わってくるようです。ですから、断定的な結論を出すのは、上のデータだけでは無理だと思われます。サンプル数も十分でないものもあるようですし、詳細な分析は私は全くギブアップです(苦笑)。 |
■じぶん更新日記(長谷川さん)
長谷川さんも、ずいぶん冗談がお好きなようです。いや、これは大変失礼な書き方かもしれません。私がこんな反応をすることは、とっくに読まれているはずだからです(笑)。失礼だったら、どうか笑ってご容赦を。m(._.)m
余計なことはさておき、「ラベリング効果」は存在するかとのことですが、これは心理学的に明確に結論が出ています。ズバリ結論を言いましょう。心理学的には「ラベリング効果」は存在しません。これは坂元章さんを除く全員が断定しています。もちろん、長谷川さんも含めてです。12日の日記ではワザと結論を曖昧にしていますが、それはあくまでも冗談でしょう(笑)。
なぜなら、坂元さん以外の心理学者は、(少なくともデータ的には)血液型と性格は「関係ない」と断定しているからです。長谷川さんは断定こそしていませんが、「『血液型アンケート』等でその傾向に一致するように回答してしまう」ことはない(例えばYG性格検査では血液型による「差がない」)のだそうですから、やはり「ラベリング効果」はないということになります。これ以外の選択は論理的にありえないはずですが…違うのでしょうか?
ただ、一般の人に「『○○型は××という傾向がある』という固定観念が形成され」るという「ラベリング効果」はありえるでしょう(A型に特に顕著です)。しかし、いずれにせよ、データに表れるほどの差はないということです。
ついでに私の考えも書いておきましょう。「『○○型は××という傾向がある』という固定観念が形成され」ることは当然です。これは、ステレオタイプについてのところをご覧ください。しかし、そういう固定観念が形成されようがされまいが、「『血液型アンケート』等でその傾向に一致するように回答してしまう」ことはない…はずです。これは、渡邊席子さんの論文で明らかなはずだと思うのですが…。
これも非常に貴重な資料です。「全体的な傾向として、少々比率が増えているようにも見える」とのことですが、確かにそのようですね。
ご好意に甘えて引用させていただきます。
きょうの日記[15日]で言いたいことはただひとつだ。いっぽうで「多くの人々に潜在する性格のキメつけと、誤解に満ちた性格用語、人に対する差別意識や先入観を洗い流さないで、勝手に血液型分類で価値評価をしたり、いい加減な情報を振り回す愚かは、何としても避けたいものです。」(Dさん=能見俊賢氏監修ページ)とか、「この研究は、今スタート地点に立ったばかりです。」(Cさん=能見俊賢氏監修ページ)と言っている人が、「O型は日記を書くのが、わりあいにすきで、いつまでも大切にする。」とか「B型は、日記は思いつきで書いても長つづきしない人が多い。」などと言う(Aさん=能見俊賢氏の著書)。これではたまったものではない。−(中略)−
上に指摘したことについては、能見氏の匿名のファンではなく、ぜひ能見俊賢氏御本人からの直々の反論をいただきたいものである。
長谷川さんは、ここでまた得意の冗談を披露されているようです。私が「能見氏の匿名のファン」かどうかはさておき、長谷川さんによると、「相手方から反応が無かったからといって、相手が逃げたとか反論できないといった印象を読者に与えるような記述は避けよう。…相手方には、反論ページにアクセスする義務は一切無い」ということだそうです。つまり、「ぜひ能見俊賢氏御本人からの直々の反論をいただきたい」というのは全くの冗談ということになるわけですね(笑)。
ということで、能見さんには「反論する義務はない」ということですから、余計なお世話かもしれませんが、私が『血液型活用学』から引用しておきましょう。
本書を読まれてきても、前著の読者も、私が性格にさまざまの多様性と、変化の幅があることを主張し続けていることは、おわかりであろう。人間の性格の複雑多様は、血液型でなくても、どんなものを持ってきても、決めつけることはできないし、一がいに言うことはできない。血液型に対応する気質は、この多様の中から抽出した共通傾向なのである。
この反論を述べる人自身が、大へん決めつけ好きの人であることが多い。すでに“血液型人間学”は、性格を決めつけるものと、決めつけている。だから、その“決めつけ”を反対すれば、血液型人間学を否定できるものと決めこんでいる。
この人たちを含め、社会は何かにつけて、人や物ごとを決めつけ、決めこむ傾向がある。出身地、職業、家庭の差、何かの事件、人の噂……何でもとらえて、彼はこうだと決めつける。決めつけられたことは、容易に取り消せず、迷惑する人も少なくない。血液型を使っても決めつけることはできるが、 それは、その人の決めつけ趣味のせいであって、血液型の責任ではない。
血液型人間学は、むしろ “性格の決めつけ”を防止する上で、大きな貢献ができるはずである。
血液型を有効な分類基準とすることにより、この複雑多様な性格の実像を、より具体的に明らかにして、これまでのさまざまな“決めつけ”から解放された性格観を作ろうとするのである。
「同じA型で、全然性格が違うわよ」
この言い方も、同じ傾向のものだ。血液型と性格の関連をのべる以上は、同じ血液型どうしはソックリ人間、違った血液型どうしは、別人のごとくあらねばならぬと決めこんでいるのだ。
私の文章が「であることが多い」「の傾向がある」「平均的な何型は」など、断定しない言い回しの多いことに気づかれた人もあると思う。編集者には叱られ、一部読者には文句を言われる。
しかし、性格の多様さを知っていると、どうしてもこの種の表現となってしまう。アンケート依頼の際も、私はよく、
「明日になったら答えが違っても一向かまいません。現在正直のところを、書いて下さい」
などと頼みこむ。性格とは、刻々に変るものであることを知っているからだ。
いつの日か私も、性格を正確な測定結果で描くことを夢みている。それは恐らく数字か、数字以上に抽象的な記号で書くことになろう。
それから、“ABO−WORLD”から引用されているようですが(“ABO−WORLD”には引用については特に何も書いていないようです)、著作権等の問題はクリアされているのでしょうか? というのは、ある否定論者のHPからの「引用」は、著作権法上の問題があるとのことで、実質的には不可能だからです(この方は著作権には詳しいようです)。“ABO−WORLD”には許可は得たのでしょうか? もし、HPからの引用に作者の許可は不要ということなら、私もぜひそうさせていただきたいのですが…。もちろん、そのHPからは早速引用させていただくつもりです。
以上、乱筆・乱文ご容赦ください。なお、ご返事は結構ですので(もちろん、ご返事していただければうれしいですが)、念のために書き添えておきます。では、今後ともよろしくお願いいたします。
その後、大村政男さんの新訂『血液型と性格』を読んで興味深い記述を発見しました(217ページ)。
否定論者は、長谷川さんのような例外を除いて、「わたくしの批判を無視し」「貝のように殻を閉じ」ています。結局、反論のメールがないということは、性格心理学的な説明によると「欲求不満や葛藤のときの反応」ということのようです。なるほど、そうだったのですか…。 |
反論4で、長谷川さんの以下のような文章を引用させていただきました。
「否定論」に対しては、あれだけ厳しく批判しておきながら、「肯定論」については、その適用に慎重論を唱えながらも、ほとんど無批判に受け入れてしまっているということだ。
これに対する私のコメントを若干追加し、あわせて内容を一部訂正させていただきます。
まず、心理学者(≒否定論者)のような「専門家」と私(≒肯定論者)のような「素人」を一緒にするべきではないと思います。私が書いたなら笑って許される凡ミスも、心理学者のようなプロが書いたなら厳しく批判されるのが当然です。それが、プロと素人の違いというものでしょう。ですから、私が心理学者のミスを追求するのは当然のことであるはずです。専門家の議論なら、考えうるありあらゆる場合について質問があり、多方面からの批判を受け、それに耐えたものだけが正しいとされるわけです。これは、どの学問でも同じことでしょうから…。
もし、私が「『否定論』に対しては、あれだけ厳しく批判しておきながら」ということであれば、心理学者(≒否定論者)から感謝されることはあれ、ケチを付けられることはありえないはずです。もちろん、長谷川さんが私にケチを付けているというつもりは全くありませんので、誤解のないように書き添えておきます。
ということで、今後も私は「否定論」に対しては厳しく批判(?)していくつもりです。これは、日本の心理学者のためですから(笑)。いや、この言い方は正しくないですね。私の批判が心理学者に役立っているということは、たぶんないでしょうから(笑)。どうも失礼しました。
-- H10.10.19
上の「反論4の一部訂正」中で、一部誤解を生じるかもしれない表現がありましたので、ここに再度訂正させていただきます。
まず、今まで『ABO
FAN』上で特定の個人を「厳しく批判する」ということは(一部の例外を除いて?)していませんし、今後もするつもりもありません。私の批判しているのは、あくまでも否定論者(≒心理学者)全体とその方法論だからです。また、(特定の個人の)人格非難は全くしていませんし、するつもりもありません。議論に当たっては、この点についてだけは気を付けているつもりです。何か問題点等がありましたらご遠慮なくご指摘ください。できる範囲で、極力早く対応させていただくつもりです。よろしくお願いします。
■じぶん更新日記(長谷川さん)
ここは興味深く拝見しました。あらかじめお断りしておきますが、私はいわゆる超能力には詳しくありませんし、あまり興味もありません。
例の血液型がお好きな方がその気になれば、「超能力が絶対に存在しないなどということは証明できない」、「超能力を否定している物理学者にメイルを送ったが返事はいただけなかった」とか、「この科学者が行った透視能力の実験では、デタラメに答えて正解になる確率よりはるかに高い確率で正答が出ている。これでも超能力は無いと言えるのか」などと言い出すかもしれないと、ふと思った。
まず、「超能力が絶対に存在しないなどということは証明できない」ということですが、これは(科学的には)自明のことでしょう。ただし、その後に続く「超能力を否定している物理学者にメイルを送った…」というようなことは、やったこともありませんし、主張するつもりはありません。
次に、血液型と比較するとどうかということですが、長谷川さんの言葉をお借りすれば(変更点は太字)、
といったところです。その後の文章については、私もほぼ同感ですので感想は省略させていただきます。ただし、「『ゼロか1か』の二者択一」については、「超能力が絶対に存在しないなどということは(科学的には)証明できない」のですから、そもそも二者択一という命題そのものが成立しないのではないかと思います。なお、超能力については、[血液型と性格]のタブーでの「『血液型と性格』の研究は『科学的』ではないのか?」もご覧ください。
■じぶん更新日記(長谷川さん)
研究者の実名をあげて過去の著作に反論したり誤植や勘違いをあげつらう匿名サイトが複数あることが分かった。…なぜ、実名で語りたがらないのか、私には不思議でしようがない。
「研究者の実名をあげて過去の著作に反論したり」とのことですが、これは(印刷物に関しては)著作権法上は問題ないものと思いますがいかがなものでしょうか? 少なくとともこの『ABO FAN』に関しては、私は著作権法をクリアすることを最低条件としています。もし、まずい点があれば、そのページは削除するなり、著作権者の方にお詫びのメールを出すなどの処置は取りたいと考えているところです。幸いなことに、そこまでのトラブルになったことはありませんが…。匿名だと著作権法がクリアできないのでしょうか? 何が問題なのか、今後のためにぜひお教えいただければ幸いです。もちろん、気が向いたときで結構ですから。
血液型性格判断を肯定する人々、あるいは「否定論を否定する」人々が、なぜ自分のほうだけ実名を隠し続ける必要があるのか、私には理解できない。
私の理由については、ここにはあえて書きません(笑)。ただし、「実名を隠し続け」ている人の数は否定論者の方がずっと多いのです。それは、否定論者のサイトの絶対数が多いのですから当然のことです(ご確認ください)。ですから、長谷川さんの疑問は「能見さんの『肯定論を否定する』人々が、なぜ自分のほうだけ実名を隠し続ける必要があるのか」という点にも向けられているはずです。反論1に取り上げた9月24日の日記によると、否定論者の方からも(多くの?)メールを受け取っていらっしゃるようですから、そういう匿名の方も(たぶん)いらっしゃるのではないかと想像します。仮にそうだとしたら、そういう方にも「なぜ自分のほうだけ実名を隠し続ける必要があるのか」といった質問をされているはずです。この点について、気が向いたらで結構ですからご返事いただければ幸いです。
- 匿名で批判を続ける人は、HPの存続に当たって自分を守る必要がない。イヤになったらヤメしまえばよい。いつヤメても私生活では何の不都合も生じない。気が向けば別のサーバーから別のHP立ち上げればよいだけ。いっぽう、実名で批判を受けた人は、枝葉末節な点に至るまで反論や追加の説明を加えなければ、実生活全般にわたって信用を失うおそれがある。極端に言えば自分のクビをかけて、発言の内容の社会的責任を負わなければならない。この点、匿名サイトはまことに気軽なものだ。
前半の匿名サイトについての説明はほぼ同感です。私の場合は一部違うのですが、ここの議論には直接関係ないと思いますので書きません。しかし、後半の実名サイトについての説明については少々疑問があります。もちろん、一般論としてはほぼそのとおりですが、私は違う方針を取っています。それは、
#では、完全に上の原則を守っているかというと、それは自信がないのですが…。ですから、問題点等があればぜひご指摘ください。
ただし、一部の例外もあります。それは、文章の引用元が明らかに『ABO
FAN』とわかる場合です。肯定側サイトは数が少ないので、私が見れば誰のHPについて書いてあるのかはすぐにわかります。原則として、相手方が匿名であればこちらも匿名で引用しますし、相手方が『ABO
FAN』のURL等を明らかにしていれば同様の「対抗措置」を取ることにしています。
ですから、(少なくとも私の場合は)HP作者本人が「反論歓迎」といった明確(?)な意思表示をしない限り、その個人が「実名で批判」されることはありません。そういう意味で、なるべく他人に迷惑はかけない(?)ようにはしているつもりです。ただ、リンク集の「コメント」についてはどうなのか?という疑問があるかと思います。これらは、「説明」であって「反論」ではないというのが私の「説明」です。少々苦しいのですが、あのぐらいは許容範囲かと…。
蛇足ですが、9月24日の長谷川さんの日記については、『ABO
FAN』のことを書いてあることはすぐわかりました。この場合、普通は匿名で反論するのですが、長谷川さんのHPについては「引用・反論可」とのことでしたので、お言葉に甘えさせていただきました。どうかご了承ください。
そういえば、「相手方から反応が無かったからといって、相手が逃げたとか反論できないといった印象を読者に与えるような記述は避けよう。…相手方には、反論ページにアクセスする義務は一切無い」ということですが、となると実名サイトには、事実上「反論ページにアクセスする義務は一切無い」とはいえなくなるのでしょうか? 少々気になります…。
- 匿名のサイトの主宰者は、そこに記されているコンテンツの範囲でしか批判されない。これに対して、実名のサイトは、HP以外のあらゆる著作物や発言を引用して批判される。
前半の匿名サイトの説明については同感です。後半部分での著作物については、前述のように著作権法上許される範囲で引用しています。発言というのはどういう意味かわかりませんが、印刷物であれば一般の著作物と同様に扱うことにしています。
- 匿名で批判する人は、じぶんの主張内容には何の体系性、何の一貫性がなくても、相手の主張をローカルな(つまり断片的な)理屈だけで反論することができる。違う基準(スタンダード)で反論する時には、別のハンドルを名乗ることだってできる。
これは、匿名であろうがなかろうが同じことだと思うのですが…。私は、ローカルな理屈だけで反論しているつもりはないのですが、もしあるのであればぜひご指摘ください。なるべくご意向に沿うように対処したいと考えております。
匿名サイトは、いくら充実していて正確なコンテンツがあったからといって、その発言の資料価値はほとんどゼロに等しい。だってそうでしょう。実名の人がネット上で展開した主張であれば何らかの別の媒体に保管され引用することができるが、正体が分からない人の主張なんてサイトが閉鎖されたらそれっきり。オリジナリティを評価することもできない。
前半の匿名サイトの説明については(ある程度)同感です。ただし、後半の「実名の人がネット上で展開した主張であれば何らかの別の媒体に保管され引用する」というのは、ある否定側の実名サイトについては不可能のようです。少なくとも、私には引用はダメということでした。よくわかりませんが、著作権法上問題があるのだそうです。私はそこまで著作権法には詳しくないのでなんともいえませんが…。また、実名のHPでも、「コンテンツの2次利用を禁止します」といった断り書きをよく見かけます。となると、実名かどうかよりは、そのHPの作者の方針といった方が適当なような気がするのですが、いかがなものでしょうか?
余計なことですが、私のHPについては原則引用可です(ただし、マスコミの取材等は除きます)。明記はしてありませんが、それは引用の要望がないからです…(笑)。
長谷川の実名をかかげて、勝手に「現在議論が沸騰中!!」などと言っている方、本気で論争したいんだったらなんて恥ずかしがらず(?)に、いいかげん正体を明らかにしたらどうですか。
この文章はよく意味がわかりませんでした。というのは、長谷川さんは、私が匿名であるにもかかわらず、ご親切にもお相手くださったからです。お忙しい中、本当にありがとうございました。今後は、匿名の反論は相手にしない、という方針ならそれでも結構です。ただ、その場合は、匿名の否定論者のHPについても同様に扱っていただくよう重ねてお願い申し上げます。
なお、「現在議論が沸騰中!!」という表現は、長谷川さんの『血液型性格判断資料』での「当面のあいだ、ホットに更新」という表現と、日記の内容が私のHPに言及していると思われる場合が多いということで使わせていただきました。もし、好ましくないということであれば、ご連絡いただければ変更するつもりです。どうぞお知らせください。
以上、乱筆・乱文ご容赦ください。なお、ご返事は結構ですので(もちろん、ご返事していただければうれしいですが)付記しておきます。失礼な点も多々あることと思いますが、これに懲りず、ぜひ今後ともよろしくお願いいたします。
■じぶん更新日記(長谷川さん)
10月26日現在では、まだ血液型判断資料集には収録されていないようです[その後に収録されました -- H10.11.3]。しかし、『ABO FAN』がURL付きで紹介されているので、問題ないと判断して関連部分を引用させていただきます。どうかご了承ください。
まず、私が匿名である理由については、現在の時点ではこれ以上書く予定はありません。どうぞ、ご自由にご想像ください(笑)。
私の「反論のロジックには、いつもながら率直に言ってうんざりしている」ということですが、これは大変光栄なことだと感じています。というのは、相手を「うんざりさせる」というのが『ABO
FAN』の目的の1つであるからです。もちろん、第一の目的というようなことはありませんので、どうか誤解のないようにお願いいたします。m(._.)m
私に「自分自身の体系性をもったロジックが無い」というのは、残問ながらよく理解できませんでした。というのは、この『長谷川さんのページへの感想』では、長谷川さんのロジックに反論するということが主な目的だからです。私自身のロジックについてお知りになりたいのなら、『[血液型と性格]の謎を推理する』と『判断基準』のページをご覧ください。
引き続き「匿名のままで実名をあげて批判活動をしたり質問メイルを送りつけることの是非、あるいは匿名サイトと実名サイトのあいだでフェアな議論ができるのか、といった本質的な問題については何一つふれていない。」とのことですが、長谷川さんも相当ご冗談がお好きなようです(笑)。なぜなら、長谷川さんは「フェアな議論」ができると思ったからこそ、お忙しい中わざわざ私に反論を書かれたのでしょうから…。もし、「フェアな議論」ができないということであれば、そもそも9月24日に相手が『ABO
FAN』と特定できるような「議論」を書くはずもありません。『血液型判断資料集』の注意書きに、「匿名お断り」と最初から書いていただければ、(私は)そもそもこのような「議論」するつもりはありませんでしたから…。また、「匿名のまま」でメールを送ろうが実名で送ろうが、「フェアな議論」ができるかどうかとは全く(?)関係ないことは、長谷川さんご自身が『血液型判断資料集』で実証なさっているはずです(ご確認ください)。なぜ、「匿名のまま」だと「フェアな議論」ができないのでしょうか? それとも、つい最近方針を変更されたのでしょうか? そうとも思えませんが、もしそうなら(このページに関しては)長谷川さんの方針に従うことに異存はありません。
それから、私の「いろいろ掲げている設問?のかなりの部分は、すでにそれ自体意義を失っている」とのことですが、これも理解できませんでした。私は、否定論者には主としてデータで反論することにしています。メタ議論については、本当に必要な時以外はするつもりはありません。念のため、『血液型判断資料集』をもう一度読み直してみたのですが、残念ながらデータ基づく議論は(ほとんど?)発見することはできませんでした。128ビットRSAでも使って暗号化されているのでしょうか? 確かに私はこの暗号は(現在の時点では)読めないので、ひょっとするとそのせいかもしれません…。
結局、「相手方から反応が無かったからといって、相手が逃げたとか反論できないといった印象を読者に与えるような記述は避けよう。…相手方には、反論ページにアクセスする義務は一切無い。」とおっしゃっているのは冗談ということでしょうか? なぜなら、「これまでに書いたこと…をちゃんとお読みいただければ、…[私]がいろいろ掲げている設問?のかなりの部分は、すでにそれ自体意義を失っている」とのことですから。それだったら、「相手方から反応が無かったからといって、相手が逃げたとか反論できないといった印象を読者に与えるような記述は避けよう。…相手方には、反論ページにアクセスする義務は一切無い。」なんておっしゃらずに、最初からそう書いていただければよさそうなものです。これも心理学的な作戦(?)で、最初から計算されているものなのでしょうか?
いずれにせよ、私にはどうにも理解できないことばかりです。質問ばかりで大変申し訳ありませんが、気が向いたらお答えいただければ幸いです。
参考までに、井沢元彦さん(B型)の『言霊(ことだま)U』〜なぜ日本人は真実を見たがらないのか〜(祥伝社 H9.12)からの引用しておきます(59〜64ページ)。長谷川さんはこんなことをするはずはありませんから…。
次に、同書161〜164ページからです。
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乱筆・乱文、どうかご容赦ください。
注:「反論」では好ましくないということなので、「Web疑問日記」と項目名を変えてみました。
■じぶん更新日記(長谷川さん)
どうもありがとうございます。長谷川さんは、この日記で「真の謎を解明したまえ」と読者に挑戦していたようです。楽しいジョークをありがとうございました(笑)。大いに愉快な気分にさせていただきましたので、ここに深く感謝申し上げます。実は、私の別のホームページはここです(あくまでジョークですので、誤解のないようお願いします)。このページは、現在の時点ではgooには登録されていないはずなので、検索しても出てこないと思います。
上のページはあくまでジョークですので、見た方は決してお怒りにならないようお願いします。f(^^;;
それでも不愉快な方は、ここに深くお詫びします。決して悪気はありませんので、どうかご容赦ください。m(._.)m
そういう方は、以下の文章はどうか読み飛ばしてください。
長谷川さんは寛大な方でしょうから、私のジョークを楽しんでいただけると信じておりますが、(万が一)不愉快な場合は、ここに深くお詫びします。どうかご容赦ください。m(._.)m
ではなぜこんなページを作ったかというと、このページは長谷川さんのおっしゃる「実名」の条件をすべて(?)満たしているからです。あらかじめお断りしておきますが、このページを作ることによって「『匿名サイトの気軽さとはかなさ』議論は、少なくとも『ABO
FAN』には当てはまらないことになる」と主張するつもりは全然ありません。ですから、長谷川さんに謝罪していただきたいなどは毛頭思っていませんので、決して誤解なさらないようお願いします。全く不要な心配だと思いますが…(笑)。付記しておきますが、以上の文章は「反論」でも「批判」でもなく、あくまで「お願い」や「疑問・質問」です。
では、本題にもどりましょう。長谷川さんは、ここまで読んだだけですべておわかりだと思いますが、その他の方のために一応説明しておきます。
私は、「実名、匿名」に関しては、「零を否定すれば壱になるというような考え方ができるのは、数学や古典的な論理学の世界だけだろう」(9月29日の長谷川さんの日記)という見方です。つまり、いくら自己紹介をしようが、「実名」を書こうがそれほど意味はないのではないか?ということです(長谷川さんも同じ見方だと想像していますが、これについては後述します)。また、「批判」と「疑問・質問」の分け方についても、「零を否定すれば壱になるというような考え方ができるのは、数学や古典的な論理学の世界だけ」ということなのでしょう。では、具体例をあげてみましょう。
まず、私のこれまでの文章は、「批判」なのか[「反論」でも「批判」でもないはずの]「疑問・質問」なのかどちらなのでしょうか? 私は「疑問・質問」だと思っていますが、別な人は「批判」と判断するかもしれません。あるいは、「批判」と「疑問・質問」が入り交じっていた場合はどうなるのでしょうか? また、誰が判断するのでしょうか? こう考えると、長谷川さんのおっしゃる「零を否定すれば壱になるというような考え方ができるのは、数学や古典的な論理学の世界だけだろう」という意見には、全く同感です。
次に、「万が一、誹謗中傷とか著作権侵害のようなトラブルが起きた時にはちゃんと社会的責任をとっていただくために、必要な自己紹介を付していただきたい」ということですが、これは現実的には非常に微妙な問題です。一般的に、議論の最中には、「誹謗中傷とか著作権侵害」までは至らなくとも、ささいなトラブルなら(意図的でないにしても)起きることもあるでしょう。しかし、だからといって匿名では議論はするべきでないというのは、現実的ではないのではないでしょうか? もしそうなら、覆面作家はホームページ上で議論ができないことになりますが、そんな話は寡聞にして聞いたことがありません(本当はそうなのでしょうか?)。藤子不二雄さんも(正体を明かす前は)、ネット上の議論や他人の文章の引用はできないことなります。それに、実名を明らかににしたとしても、意図的に「誹謗中傷とか著作権侵害のようなトラブル」を起こす人なら、「ちゃんと社会的責任をとって」くれるはずはないと思うのですが、これは単なる思い過ごしでしょうか? もちろん、以上は「主張」ではなく単なる「疑問・質問」です、念のため。
別の「疑問」もあげておきます。パソコン通信の会員数では、現在でもP○−VANとN○FTYの会員数がトップクラスのはずです。現在はどうなのか知りませんが、当時は前者は原則として匿名可、後者は不可です。いうまでもありませんが、どちらも議論を目的とした会議室が用意されています。ここでもいろいろなトラブルがありましたが(具体的なトラブルの内容については省略します)、だから匿名はダメだということになったという記憶はありません。現在はどうなったのでしょうか? 匿名不可になったのでしょうか? いずれにせよ、マイナー(?)なトラブルではどこでも「責任」は取りようがないような気がするのですが…。
結論として、「誹謗中傷とか著作権侵害のようなトラブルが起きた時にはちゃんと社会的責任をとっていただく」とはいっても、「実名」か「匿名」かではそれほど差はないのではないかと思いますが、いかがでしょうか? 私も、「実名」の方が「トラブル」が少なくなることを否定するつもりはありません。しかし、パソコン通信で「匿名」や「実名」のシステムがあるのと同様、インターネット上でも「匿名」や「実名」の「議論」があっても不思議ではないのでないのでしょうか? インターネット上では「匿名」可の真面目な掲示板もたくさんあるようですが(実名を出しての批判も行われているようですし、大学関係者も参加していると聞いています)…。ついでに、その他の「疑問・質問」もあげておきます。
以上のようなことから、この項目の冒頭にある冗談のページにより、「『匿名サイトの気軽さとはかなさ』議論は、少なくとも『ABO FAN』には当てはまらないことになる」のではないか?と思うのですが…。長谷川さんは、「相手方から反応が無かったからといって、相手が逃げたとか反論できないといった印象を読者に与えるような記述は避けよう。…相手方には、反論ページにアクセスする義務は一切無い」ということですから、ご返事は必ずしも必要ではありませんが、私の判断基準(?)だけはお分かりいただければ幸いです。しつこいようですが、これは「批判」ではありませんから…。
最後に、では私が匿名のままで「誹謗中傷とか著作権侵害のようなトラブルが起きた時にはちゃんと社会的責任」を取れるのかということですが、なるべく具体的に書いておいた方がよろしいかと思いますので、ここに書いておきます。
長谷川さんとの「誹謗中傷とか著作権侵害のようなトラブル」ということであれば、遠慮なくご連絡ください。私にできる範囲で、なるべく納得していただけるような措置を取らせていただくつもりです。なお、これは人格非難や誹謗中傷等の不適切な表現等に限らせていただきたいと考えております。具体的なデータの分析方法等については、(明らかな間違いは論外として)一般的にはケース・バイ・ケースで判断すべきだと思われます。もっとも、データの分析については人格非難等とは(基本的には)関係ないと考えておりますので、どうかご了承ください。
このように、長谷川さんに失礼のないよう、いろいろ考えているつもりですが、至らない点も多々あるかと思います。できれば寛大に見守っていただきたい、というのが本音です…。
長谷川さんは『名探偵コナン』もご覧になっているようですから、ついでにここに書いておきます(笑)。 この10月30日の日記は、最近放映された番組を意識されているに違いありません。もちろん、原作はコミック第19巻(FILE.2 蒸発した文士〜 FILE.4 フランスにて)です。 番組中で、推理作家の新名任太朗は、週刊誌の連載『1/2の頂点』で全国の読者に謎を出します。「全国の名探偵諸君に告ぐ 私の頭脳を凌駕したくば この事件の真の謎を解明したまえ」という挑発的なメッセージで読者と対決するのでした。コナンが最初に謎を解いて彼の居場所を発見するのですが、新名任太朗はちょうど息を引き取ったところだったのです。自分が生きている間に、読者に謎を解いてもらいたかった彼としては、非常に残念な最期だったに違いありません。結局、ストーリーはハッピーエンドで終わるのですが、それはビデオを見るかコミックを読んでのお楽しみということにしたいと思います(笑)。 長谷川さんも10月30日の日記の「真の謎を解明したまえ」と読者を挑発しています。残念ながら私は、謎を解くのにかなりの時間がかかってしまいました。コナンには遠く及ばない(当然!)ようです…。いずれにせよ謎は解けたのですから、長谷川さんは、きっと喜んでいるに違いありません。v(^^) |
ということで、以上のような内容の文章は、匿名でも特に問題がないと考えています。もし問題があればご連絡ください。
なお、以上の文章で失礼な点も多々あることと思います。乱筆・乱文もどうかご容赦ください。
では、これに懲りず、ぜひ今後ともよろしくお願いいたします。
■じぶん更新日記(長谷川さん)
私のHPとは直接の関係ないのですが、ちょっと気になる点があったので、少々引用させていただきます。どうかご了承ください。
実名入りのコンテンツをいったんネット上で公開され、後に削除や大幅な修正される場合には、何らかの断り書きを付していただきたいと思う。
(ある心理学者の方から)この点については、[実名入りかどうかにかかわらず]自分のHPのコンテンツは[随時]修正される可能性があるから引用不可といったような意味のコメントをいただいています。従って、私はこの方のHPからは引用はしていません。こういう場合はどうなるのでしょうか?
それから、私が「『血液型性格判断』の普及に力を入れて」いるとのことですが、何かの間違い(別の作者?)だと思われます。『ABO FAN』のトップページには、
血液型と性格の関係、血液型とマンガ、血液型に関するFAQなどの情報を提供していきます。【ABO FAN】ホームページで楽しんでいってください!
と書いています。ですから、知的エンターテイメントとして楽しんでもらうのが第1の目的です。私が血液型の1ファンだから、『ABO
FAN』という名前にしたわけで、ファン以外の方に何か押しつけようなどという気は全くありません(否定論に対しての反論・疑問は書いていますが、別に押しつけているわけではありません)。また、「血液型と性格」についての学問的研究をなるべく集めて公開することももう1つの目的です。
決して「『血液型性格判断』の普及に力を入れて」いるのではありません。もちろん、結果的として「『血液型性格判断』の普及」に何らかの影響を与えることを否定するわけではありませんが、それは目的ではなくてあくまでも結果です。どうか誤解されませんようお願いいたします。
なお、以上の文章は「批判」ではなくて、「疑問・質問」と「お願い」です、念のため。
【お礼とお詫び】 長谷川さんには、本当にお忙しい中、わざわざおつき合いをいただき、どうもありがとうございました。m(._.)m |
■じぶん更新日記(長谷川さん)
この日記の内容が『ABO FAN』と関係あるかどうかは分かりませんので、コメントは差し控えさせていただきます。ただ、ちょっと疑問がありますので書いておくことにします。
実は、世界に冠たる現代日本の建築・土木技術をもってすれば、泥沼の上にビルを建てる程度のことなら訳はないのです。青函トンネルを完成させた日本のトンネル技術は、遂にユーロトンネルを貫通させました。関西国際空港のビルは、泉州沖の超軟弱地盤を埋め立てた空港島の上に建てられました。現時点で倒壊したという話は聞きません。数十センチ程度の不等沈下は、あらかじめ設計に折り込み済みなのだそうですから…。
いや、基礎なんかなくたって、メガフロートといって人工地盤自体をプカプカと水の上に浮かせるという工法もあります。この工法は、横須賀沖に予定されている首都圏第三空港で実験が行われる予定です。もちろん、この人工地盤上にビルを建てることも可能です。つまり、泥沼なんか問題にならないのです!
ということは、現代の心理学をもってすれば、「血液型と性格」の関係なんて、たちどころに実証できる(?)という長谷川さん一流の謎かけなのでしょうか? はて?
【追記】 日記読み日記-- H11.12.19
日記読み日記で、こんな文章を見つけました。私は長谷川さんの発言を「心理学者の代表であるかのように決めつけた」ことはないし、「価値判断を内包する『醜い』発言」をした記憶もないので関係ないはずなのですが…。となると誰のことなのでしょうか? 興味津々です。(?_?)
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主な変更部分は次のとおりです。
次に、日付順に細かく見ていきます。
■平成10年9月24日の変更…特になし
■平成10年9月26日の変更…次の部分が削除
4. 9/26の午後に、「血液型性格判断」に関するリンク集を新たに作成した。そのさいgooで検索中に、ゴールデン血液型倶楽部という、とっても興味深いサイトを発見した。Owadaさんには失礼だが、こちらのサイトのほうが数倍面白い(←何やら、文体がぢょしゅとほほ日記さんにそっくりな方だなあ)。ということで、今後はそちらのほうから先に反応させていただくことになるかもしれないので、どうか気長にお待ちいただきたい。
■平成10年9月28日の変更…次の部分が削除
9/26の日記で「ABO FAN」の主宰者のOwadaさんが、「長谷川さんと対話」コーナーを立ち上げておられたと書いた。またそのさい、
率直なところ、「対話」なるものを勝手に始められたのには少々困惑している。できれば「長谷川ページへの感想」程度のコーナーにしてほしかったなあなどと要望を述べたところ、私が確認できた15時頃までにはもう要望通りにタイトルが変更されていて、その素早い対応にまたまた驚く。ま、この方の血液型性格判断擁護活動には敬意を表するけれども、よくもこのように四六時中ガッタガッタと血液型ばっかり相手にしておられるものだと、少々心配になってくる。
「このページは心理学者たちによる血液型性格関連説研究の『なんか変じゃのう』というポイントをチクチクいびる」のが目的だそうだが、本当に、ページを拝見しているとチクチクという感触が背中のほうから伝わってくる。もっとも私個人は、「性格は行動の原因ではなく、性格を知ることは必ずしも人間理解には役立たない」とか「心理学研究における実験的方法の意義と限界」なんていう主張をする立場の心理学者だから、ホントのところは、この「Kimio Yudate」さんのページを全部プリントして、今度の心理学会の会場で配って一緒にチクチクしたいような気持ちもちょっぴりある。多少誤解もあるけれど、心理学の研究や、心理学教育の痛いところをついていることは確かだ。この「ゴールデン血液型倶楽部」には9/27の時点で全部で28個のファイルがあり、全部セーブして257KBの分量に達した。続いて、上に述べたOwadaさんのページを拝見に行ったが、こちらはさらに分量が多く、とうてい全部は見きれなかった。なかでも「メールの紹介」ページなどは、2ファイル合わせて300KBにも達するが、着信したメイル本文よりも、Owadaさん御自身の返信のほうが分量が多い。ざっと見積もって200KBもの返事を書いておられることになるが、この情熱はどこから来るのだろうか(←行動分析学的に言えば、何がこれを強化しているのだろうか)。
(この間変更なし)
ということで、今日も時間が無くなってしまった。何だ、心理学者の反論っていうのはこんなものだったのかなどと書かないでほしい。本当に言いたいことは次回以降にあるのだ。1年ぐらいかけて、のんびり議論すればよいではないか。...と思ったところで冒頭に書いた「なんで、性急に回答を求めたがるの」か、と「なぜ、『1.か2.か』などとパターン分けした回答を求めたがるの」かという原因が分かった。「パターン分けして、すぐに答えを与える」ことこそまさに「血液型性格判断」が好まれる最大の特徴であったのだ。<9/29朝追記>もうひとつだけ言わせてもらうが、自己紹介も無いままにたくさんの心理学者に一方的に質問メイルを送ったところで、返事をもらえないのは当然ではないだろうか。正体不明の人に苦労して返事など書いたって、すぐ逃げられてしまう可能性だってある。少なくとも私自身は、この方からのメイルは題名だけしか見ずにさっさと「迷惑メイル」boxに放り込んでしまった。先ほどこれを掘り起こしてみたところ、いただいたのは5/4、初めて中身を拝見したが、この方が「………」ではなくて「………」であることを初めて発見。メイルのやりとりなんてそんなものなんですよ。
■平成10年9月29日の変更…特に変更なし
■平成10年10月6日の変更…次の部分が削除
<追記>
■平成10年10月12日の変更…次の部分が削除
<10/13朝追記>10日ぶりに関連サイトをチェックしてみた。
■平成10年10月13日の変更…特に変更なし
■平成10年10月14日の変更…次の部分が削除
<追記>
■平成10年10月15日の変更…特に変更なし
■平成10年10月19日の変更…特に変更なし
■平成10年10月20日の変更…特に変更なし
■平成10年10月30日の変更…次の部分が削除
このところずっと血液型性格判断関連サイトをチェックしていなかったのだが、一昨日、ゴールデン血液型倶楽部さんが10/27付けの「決めつけの害」という記事の中で私の「ネームハラスメント」を批判しておられることに気づいた。これは、10/14の日記の中で、主宰者のyudateさんをyudakeさんであると勘違いし、かつこれがハンドル名であるとの思いこみから、「(←「言うだけ」との引っかけではあるまいな)」と述べたことを指しておられると思う。yudateさんは10/30更新時にそのページを削除されておられるが、とにかく申し訳ないことをした。該当個所は、謝罪の根拠を残すために追記部分を合わせて2週間ほど表示したのち、不適切表現として削除させていただくことにしたいと思う。ここであらためて深く陳謝します。
このローマ字読みの勘違いに気づいたことで、じつはKimio
Yudateさんが別に立派なHPを開設しておられることを知った。ぜひ「ゴールデン血液型倶楽部」から「表サイト」へのリンクを張っていただくようお願いしたいものだと思う。
もうお一方、ABO
FANの主宰者のshozo_owadaさんについても、この機会に合わせてgooで検索させていただいたところ、少なくとも同じお名前で開設されている別のページのあることが分かった。こちらのほうは、「リンクは大いに歓迎です」という表示があったので、あえて下に記す。
………………
念のためお断りしておくが、ABO FANのowadaさんと、上記の開設者のowadaさんが同一人物であるかどうかについては何の証拠も無い。単に同姓同名の方のページが存在したということをここでお伝えしているだけであることにご留意願いたい。また、もし上記サイトが「ABO
FAN」と同一の方の開設であったばあい、これまで私が主張してきた「匿名サイトの気軽さとはかなさ」議論は、少なくとも「ABO
FAN」には当てはまらないことになる。判明した場合には改めてowadaさんに謝罪したいと思っている。
(この間変更なし)
<10/31追記>Yudateさんの血液型ゴールデン劇場の中に「あなたのは実名だとは思えない。本名を名乗ったらどうですか」と、言われたことがあるんだ。もともと珍しい名字だとは承知しているから仕方ないんだけど、でも、勝手に実名ではないと決めつけて、それで本名を名乗れと 言われてもね。どう返事をしたらいいのか困ったよ。という記述があるが、少なくとも長谷川は、そういう差別的な意味で実名を名乗れと言ったことは無い。上にも書いたように、「実名を名乗れ」とは、社会的責任のある御発言をしていただくために必要な自己紹介をしていただきたいという意味。
■平成10年11月1日の変更
変更部分が多いので、全部掲載しておきます。
【旧版】
【思ったこと】 981101(日)[心理]ふたたび血液型性格判断(11):「血液型性格判断」についての考察は現代の心理学の諸問題を改善できるか 日曜日の昼に、血液型性格判断リンク集をチェックし、先日来、「匿名、実名」の件の「ネームハラスメント」でたいへんご迷惑をおかけしている弓達公雄さんの血液型ゴールデン劇場全4ページを読ませていただいた。 4ページ目に漢字表記の署名があったので、以後、ご本名で呼ばせていただくことにする。 この劇場の最後のページには 特に、血液型性格判断を擁護するつもりもないし、またその内容を考察する気もありません。血液型と性格の問題(血液型性格関連説)を通して、現代の心理学が抱えている諸問題を素人なりに考察していこうというのがこのHPの目的です。と明記されておられる。この点では、Shozoさんが「血液型性格判断」の普及に力を入れておられるのとは一線を画するものであると判断される。 ただ、「血液型性格判断」批判発言を批判することで、この崇高な目的が果たして達成できるものか、率直なところ疑わしいように思う。 そもそも心理学とか言ったって、いろんな立場がある。自然科学的な方法を認める人もいれば居ない人もいる。パーソナリティ研究が行動理解に役立つと考える人も居れば、あまり重視しない私のような者もいる。崇高な目的には敬意を表するけれど、結局は、一握りの心理学者たちの思い違いやちょっと勇み足の指摘に終始することになり、グローバルな視点での現代心理学の諸問題の改善には結びつかない気がする。 とは言え性格質問紙なんてくだらないという、11/1時点での最新の作文(10/26付、「作文」というのは弓達公雄さんご自身の独特の表現)は、多少誤解もあるけれど、一読に値する内容を含んでいる。じつは私自身も続編待ちの未完ながら、拙論にて、性格を知ることが必ずしも自己理解や他者理解に結びつかないことを指摘している。 ただ、念のため言っておくが、私は決して、性格検査全般がクダラナイとは思っていない。私が主張しているのは、「性格を知っても行動の原因を把握したことにはならない」ということ。行動傾向の特徴を簡潔に記述するための概念としては、性格はなお有効な情報であろうと考えている。 要するにこういうことだ。現在起こっている行動を特徴づける記述概念の形で「あなたは○○という性格です」と言明することは誤りではない。しかし、「○○という性格だから××をした」というような、行動の説明概念として性格を多用することには断固として反対するというのが私の立場である。 それから、私はかつて、長崎大学の公開講座「血液型と性格」を主宰しそこで得られたデータを紀要論文として発表したことがあるが、紀要論文の考察を読んでいただければおわかりのように、あの論文は「性格検査で差がなかったから、血液型と性格は関係の無いことが実証された」などと主張するものでは決して無かった。「血液型人間学」本が言っているほどに違いがあるのなら、その差は任意の集団に任意の性格テストを実施した場合にも現れるはずである。しかし実際には、そんなに顕著な差が現れなかった」という結果が得られたので、「少なくとも、実用レベルでは、「血液型人間学」のその時点での主張は有用な情報たりえず、むしろ無用な誤解や差別の元凶となる恐れがある」と主張したにすぎない。 なお、実際に行った性格検査は「YGテスト」と「PFスタディ」の2種類であった。ついでに言っておくが、「長谷川はYGテストの結果から血液型と性格の関係を否定した」などと言っている方があれば、それが著名な心理学者であろうが新聞記者であろうがすべて間違い。原著の考察部分をちゃんと読まずに早とちりしていることの証拠。 本筋がら外れるがもうひとつ言わせてもらおう。これはあくまで弓達公雄さんがロジックを分かり合える方であると思えばこその要望なんだが、実名入りのコンテンツをいったんネット上で公開され、後に削除や大幅な修正される場合には、何らかの断り書きを付していただきたいと思う。たとえば、先月中旬に公開されておられた「血液型別情緒曲線」という作文では、 ...実はこの説明を裏付けるプロの心理学者の研究がある。それを紹介しよう。それは日記猿人でおなじみ、はせぴ〜こと長谷川芳典氏(岡山大・助教授)がもっと若いころに地元の新聞に紹介された研究だ...として、私のデータを引用し、ご自分なりの解釈をしておられた。短期間であっても、こういう情報がネット上で不特定多数に流されれば、いや別に対話ページを作るつもりは無いんだが、私としても自分の名誉のために何らかの反論を用意せざるをえない。それがいつの間にか削除されてしまったのでは、私が反論のために要した努力は全くの無駄になってしまう。 ま、もう一個の「と学会本の事実誤認」という作文に10/20頃書かれてあって後にいつの間にか修正された: ....たとえば大村政男(岡山大教授)「血液型と性格」(福村出版)を読んだ形跡はない。また、松井豊(聖心女子大助教授)、長谷川芳典(岡山大教授)、原野広太郎(筑波大教授)、坂元章(お茶の水女子大講師)らの調査についても、何ひとつ知らないらしい。 .........【中途略】.....というくだりは、親しみを込めたユーモアとしていただいておきますが...。 |
【新版】
【思ったこと】 981101(日)[心理]ふたたび血液型性格判断(11):「血液型性格判断」についての考察は現代の心理学の諸問題を改善できるか 心理学者たちの血液型性格判断への態度を批判しているYさんのサイトの中で 特に、血液型性格判断を擁護するつもりもないし、またその内容を考察する気もありません。血液型と性格の問題(血液型性格関連説)を通して、現代の心理学が抱えている諸問題を素人なりに考察していこうというのがこのHPの目的です。という記述があることに気づいた。しかし、「血液型性格判断」批判発言を批判することで、この崇高な目的が果たして達成できるものか、率直なところ疑わしいように思う。 そもそも心理学とか言ったって、いろんな立場がある。自然科学的な方法を認める人もいれば居ない人もいる。パーソナリティ研究が行動理解に役立つと考える人も居れば、あまり重視しない私のような者もいる。崇高な目的には敬意を表するけれど、結局は、一握りの心理学者たちの思い違いやちょっと勇み足の指摘に終始することになり、グローバルな視点での現代心理学の諸問題の改善には結びつかない気がする。 とは言え、そのサイトの中の「性格質問紙なんてくだらない」という記述は、多少誤解もあるけれど、一読に値する内容を含んでいる。じつは私自身も続編待ちの未完ながら、拙論にて、性格を知ることが必ずしも自己理解や他者理解に結びつかないことを指摘している。 ただ、念のため言っておくが、私は決して、性格検査全般がクダラナイとは思っていない。私が主張しているのは、「性格を知っても行動の原因を把握したことにはならない」ということ。行動傾向の特徴を簡潔に記述するための概念としては、性格はなお有効な情報であろうと考えている。 要するにこういうことだ。現在起こっている行動を特徴づける記述概念の形で「あなたは○○という性格です」と言明することは誤りではない。しかし、「○○という性格だから××をした」というような、行動の説明概念として性格を多用することには断固として反対するというのが私の立場である。 それから、私はかつて、長崎大学の公開講座「血液型と性格」を主宰しそこで得られたデータを紀要論文として発表したことがあるが、紀要論文の考察を読んでいただければおわかりのように、あの論文は「性格検査で差がなかったから、血液型と性格は関係の無いことが実証された」などと主張するものでは決して無かった。「血液型人間学」本が言っているほどに違いがあるのなら、その差は任意の集団に任意の性格テストを実施した場合にも現れるはずである。しかし実際には、そんなに顕著な差が現れなかった」という結果が得られたので、「少なくとも、実用レベルでは、「血液型人間学」のその時点での主張は有用な情報たりえず、むしろ無用な誤解や差別の元凶となる恐れがある」と主張したにすぎない。 なお、実際に行った性格検査は「YGテスト」と「PFスタディ」の2種類であった。ついでに言っておくが、「長谷川はYGテストの結果から血液型と性格の関係を否定した」などと言っている方があれば、それが著名な心理学者であろうが新聞記者であろうがすべて間違い。原著の考察部分をちゃんと読まずに早とちりしていることの証拠。 本筋がら外れるがもうひとつ言わせてもらおう。これはあくまでYさんがロジックを分かり合える方であると思えばこその要望なんだが、実名入りのコンテンツをいったんネット上で公開され、後に削除や大幅な修正される場合には、何らかの断り書きを付していただきたいと思う。たとえば、先月中旬に公開されておられた「血液型別情緒曲線」という作文では、 ...実はこの説明を裏付けるプロの心理学者の研究がある。それを紹介しよう。それは日記猿人でおなじみ、はせぴ〜こと長谷川芳典氏(岡山大・助教授)がもっと若いころに地元の新聞に紹介された研究だ...として、私のデータを引用し、ご自分なりの解釈をしておられた。短期間であっても、こういう情報がネット上で不特定多数に流されれば、いや別に対話ページを作るつもりは無いんだが、私としても自分の名誉のために何らかの反論を用意せざるをえない。それがいつの間にか削除されてしまったのでは、私が反論のために要した努力は全くの無駄になってしまう。 |
■平成10年12月24日の変更…特に変更なし
■平成10年12月25日の変更…特に変更なし
■平成10年12月27日の変更…特に変更なし
このことでちょっと思い出すのは、血液型性格判断をめぐる論争だ。肯定論であれ、否定論であれ、相手方の信憑性の無さを指摘しただけでは自説を証明したことにはならない。現在刊行されている血液型人間学関連の書物をいくら否定したとしても「血液型と性格とはゼッタイに関係が無い」とは言えないし、逆に、血液型人間学等に反論する心理学者の見解をいくら攻撃したところで既存の血液型性格判断が正しいという証明にはならない。今年の「心の科学」の授業(第2回)でも話をしたように、既存の血液型性格判断を否定するのは、ゼッタイに関係が無いことを主張するためではない。
まず「関係が無い」という作業仮説から出発し、それが明確に否定された時に、その対象に限って具体的にどういう関係があるのかを論じ、体系的に知識を積み重ねていく姿勢。
を強調しているにすぎず、あとは、理論に対する要請の強さや有効性、有用性によって決まってくる問題であるという点を忘れてはなるまい
「血液型性格判断」関連ビデオを上映。「当たっている」と思われる背景について解説。さらに、ノートパソコン画面を利用して、連続幼女殺人事件や神戸の小学生殺傷事件、「お受験殺人」、「ストーカー殺人」などを例に挙げながら、犯人逮捕前の予測と逮捕後の事後的こじつけのギャップを例示した。
補足として、長谷川さんのその後の意見を参考までに掲載しておきます。
#リンクだけでもいいのですが、以前のように削除されても困るので…。(^^;;
■じぶん更新日記(長谷川さん)
このことでちょっと思い出すのは、血液型性格判断をめぐる論争だ。肯定論であれ、否定論であれ、相手方の信憑性の無さを指摘しただけでは自説を証明したことにはならない。現在刊行されている血液型人間学関連の書物をいくら否定したとしても「血液型と性格とはゼッタイに関係が無い」とは言えないし、逆に、血液型人間学等に反論する心理学者の見解をいくら攻撃したところで既存の血液型性格判断が正しいという証明にはならない。今年の「心の科学」の授業(第2回)でも話をしたように、既存の血液型性格判断を否定するのは、ゼッタイに関係が無いことを主張するためではない。
まず「関係が無い」という作業仮説から出発し、それが明確に否定された時に、その対象に限って具体的にどういう関係があるのかを論じ、体系的に知識を積み重ねていく姿勢。を強調しているにすぎず、あとは、理論に対する要請の強さや有効性、有用性によって決まってくる問題であるという点を忘れてはなるまい。
まず、「肯定論であれ、否定論であれ、相手方の信憑性の無さを指摘しただけでは自説を証明したことにはならない」とのことですが、これには驚きました。というのは、(長谷川さん自身も含めて)心理学者の反論は、「相手方の信憑性の無さを指摘しただけ」のものが大部分だからです。皆さんもぜひ確認してみてください。
次にわからないのは、「血液型人間学等に反論する心理学者の見解をいくら攻撃したところで既存の血液型性格判断が正しいという証明にはならない」という表現です。この表現は、「血液型人間学等に反論する心理学者の見解」が間違っているということが前提になるはずだからです。もともとの「攻撃」の内容が間違っているなら、こんな表現になるはずがありません(少なくとも私は絶対こうは書きません)。となると、やはり「攻撃」の内容自体は正しいということになるのでしょうか?
もう一つ可能性として考えられるのは、「攻撃」の内容が正しいかどうかは別として、「攻撃」すること自体がいけないということです。心理学者の間では、相手の主張に反論するのはマナー違反だ(それは大問題でしょう!)ということなのでしょうか?
あるいは、「攻撃」をされると否定側が不利になるということなのでしょうか?
それとも全く別の理由なのでしょうか? はて?
それと、「理論に対する要請の強さや有効性、有用性」ということですが、これはかなり高いようです。ちょっとデータを出しておきましょう。上瀬由美子さんの論文からです。
Table 1 血液型ステレオタイプに対する態度の因子分析(Varimax回転後) →因子分析のデータは省略 →太字は50%以上
変数名
肯定率(%) 血液型によって性格は異なる
* 血液型性格判断は信用できる
37.5 血液型性格判断は当たっている
53.8 血液型性格判断は楽しい
83.6 血液型性格判断が好き
61.5 コミュニケーションに役立つ
40.4 初対面時に役立つ
26.0 血液型を考えてから対人行動 5.8 血液型によって行動を変える
4.9 他者行動の理解に役立つ
14.4 血液型でまず相性を考える
26.7 血液型に関する記事をよく読む
57.7 自分を知るのに役立つ 26.0 知らない自分がわかる
12.5 自己について新しい発見をする
16.4 自分を客観的に見られる
26.0 A型の人はきらい 5.8 B型の人はきらい 10.6 O型の人はきらい 1.0 AB型の人はきらい 10.6
* 本回答のみ、回答は以下の5件法で求めている。
「血液型によって性格は非常に異なる」(0%)、「かなり異なる」(10.5%)、「やや異なる」(61.1%)、「あまり異ならない」(16.8%)、「全く関係ない」(11.6%)
◆第2回(_00424)「血液型性格判断」関連ビデオを上映。「当たっている」と思われる背景について解説。さらに、ノートパソコン画面を利用して、連続幼女殺人事件や神戸の小学生殺傷事件、「お受験殺人」、「ストーカー殺人」などを例に挙げながら、犯人逮捕前の予測と逮捕後の事後的こじつけのギャップを例示した。
- 血液型性格判断については、なぜ当たっているように思われるのかという問題と、本当のところはどうなのか、という問題に分けて考える必要がある。
- 前者に関しては、曖昧で誰にでもあてはまるような正確[注:性格の誤りでしょう…]表現、思いこませる効果、少数サンプルの中から都合の良い偏りだけを取り出して事後的にこじつけるトリックなどが使われている。
- 後者に関しては、最初から「血液型と性格はゼッタイに関係が無い」と決めつけるのは誤り。
- その一方、「ゼッタイに関係が無いとは言えない」ということを理由に、市販本を無批判に受け入れるのも誤り。
- まず「関係が無い」という作業仮説から出発し、それが明確に否定された時に、その対象に限って具体的にどういう関係があるのかを論じ、体系的に知識を積み重ねていく姿勢が必要。
- 現実には、そのような形で体系化された「血液型人間学」なるものはいっこうに構築されていない。
- 血液型性格判断についての資料はこちらからどうぞ。
血液型の関連部分だけ引用させていただきました。
一部に、「じぶん更新日記」と同じ記述がありますので、あわせて書いておきます。
いずれにせよ、一年以上たっても質問の返事がいただけなかったことは確かです。忙しいのだからしょうがないのでしょうが、残念というしかありません…。