心のふるさとを求めて
真宗大谷派(東本願寺)正 覚 寺
私たちの闇 第二十一号(2003年12月) |
大 漁 朝焼小焼だ 大漁だ 大羽鰮(いわし)の 大漁だ 浜は祭りの ようだけど 海のなかでは 何万の 鰮(いわし)のとむらい するだろう 金子みすず
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私は最近まで金子みすずさんがどういう人か知りませんでした。名前から想像して、最近の若い方かなと思っていたのですが、明治三十六年生まれで、大正時代の末期に多くの作品を発表され、二十六歳で亡くなっています。
一般的にはやさしい詩作で知られているようですが、この詩からは、「ウッ」と考えさせられることがたくさんあります。
まず、私たちは人間中心のものの考え方をしがちだということです。人間あるいは自分にとって役に立つこと、都合のよいことは良いことであり、害になること、不都合なことは悪いこととして排除したり、避けようとしたりします。
この詩の鰮(いわし)にしても、何も人間の役に立とうとか、食用になろうとして生まれてきたわけではありません。鰮(いわし)としての生をまっとうしようとして、この世にあるわけです。私たち人間が、役に立つもの、食用と自分たちで決めて漁をしているだけなのです。
食べるということから、食材とか栄養という言葉が浮かびますが、そこにはなんとなく無機質な「物」としての存在が考えられます。しかし、私たちが食べているものは、ほとんどが生きているもの、「生物」なのです。
私たち人間も、他の生物と同じように、栄養分をなんらかの形で取り入れないと生きていけません。つまり、食べるということは、多くの「生」をいただいているということになるでしょうか。
何千、何万という多くの生きる力をいただいて、私の「生」があるのです。私たちは、そのことに感謝しなければならないと思います。
ものが豊富にあるようになり、また文明の発達とともに流通量も増えて、食への不安が無くなり、同時に食べられることの有難さもわからなくなってしまいそうな時代です。しかし、「食べる」ということの本質のところはいつの時代でも変わらないわけですから、私は感謝の心を忘れないようにしたいと思います。
話は変わりますが、金子みすずさんの生きられた明治・大正・昭和初期がどのような時代だったのか詳しいことは私にはわかりません。ただ、今のように食料事情がよくなかったのではないかと思います。だから、魚が大漁であること、農作物が豊作であることは、うれしいことであり、詩にもあるようにお祭りだったのでしょうか。
それはそれで理解できることなのですが、この詩にもあるように対比的な表現をすれば、大漁だと思った人間は勝者であり、魚は敗者です。
私たちにあるのは、常に勝者の論理であり、また敗者の立場や心情などは理解しようともしません。また、自分が敗者になるなんてことは思ってもみません。勝者の論理とは、他者に対して自分を有利な立場におき、そこで物事を考えようということです。
明治の富国強兵や戦後の経済成長も、常に追いつき追い越せの競争原理であり、また受験戦争、出世競争と言われるように、勝敗にいつもこだわってきました。
競争そのものは悪いことではないのでしょうが、そのために手段を選ばなかったり、周囲に対する配慮が欠けていたりすると大きな問題となってしまいます。
「勝つ」ことだけが良とされる社会では、その周囲の見えないところで大きな犠牲が払われていることを、私たちは見落としてはならないと思います。
「海のなかでは何万の鰮(いわし)のとむらいするだろう。」たとえ頭の中では理解できても、自分自身の声としては、なかなか出てこない言葉ではないでしょうか。
またこの時代までは、自然の資源は無尽蔵にあると考えられていたと思います。言葉を変えれば、海にある自然の恵みのほんの一部を、私たち人間がおすそわけしていただいている、という感覚だったかもしれません。そして、大漁だといっても、それはその周辺の地域で消費できる量だったのでしょう。
現代は、大量生産・大量消費の時代です。この原理が、農業や漁業にも求められています。しかし、そのことが大きな矛盾を起こします。昨年だったと思うのですが、こんな報道がありました。「今年は秋刀魚(さんま)が豊漁です。しかし、獲れすぎて卸値が下がり、これでは漁師は採算がとれないと言っています。」
「何をばかな。」と、思わずいってしまいそうな報道でした。私の素人考えですが、必要以上に獲ってしまうからこんなおかしなことになるのではないか。普通に考えれば、毎年の消費量は、数年の傾向をみればわかるのではないでしょうか。
自然のおすそわけをいただいているのではなく、そこにあるものを根こそぎ獲ってしまっているのです。
こんなおかしなことが、あちこちで起こっています。
必要以上に物を作り、必要以上に獲ってしまう、いわゆる乱獲、乱伐による環境破壊がどんどん進んでいます。鰮(いわし)のとむらいなんて発想は、大量生産・大量消費からは出てこないのではないでしょうか。いったい、なぜこうなったのか、私たち一人一人が今考えなければいけない時代になっていると思います。これは、絶対なんとかのせいとか言えるような他人の話ではなく、私たち一人一人の問題なのではないでしょうか。
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