心のふるさとを求めて

真宗大谷派(東本願寺)正 覚 寺


心の痛み 第十八号(2001年11月)

 

朝起きて、「あっ、今日はいい気分だな」と思える日は、物事がスムーズに進んだり、逆に「今日は気分が乗らないな」と思える日は、すごく簡単なことでも時間がかかってしまったり、うまくいかなかったりすることがあると思います。同じことをしているようにみえても、自分自身の気持ちの持ち方によって、かなりさまざまな変化があります。

また、誰かと話していても、その時の自分の気持ちによって反応が異なります。同じことを言われたとしても、相手によって反応が異なったり、また、喜んでみたり、悲しんでみたり、卑屈になってみたりとさまざまです。

私たちは、そんな自分の気持ちや感じ方は大切にするのですが、他に対してはどうでしょう。「今日は気分がよくない、今日は体調が悪い」、そんな自分は他人にわかってもらいたいと思うのですが、逆に周囲の人たちの心の動きには無頓着でいる私たちがいるように思います。

他人の心の痛みは、なかなかわからないし、わかろうともしません。私たち団塊の世代は、自己主張の世代とも言われますが、特にその傾向が強いのかもしれません。自分のことは主張するのですが、私が主張するのと同じように他の人も主張していることに理解を示そうとしないということです。

また、外見的な傷や障害は、周囲の人にもすぐわかりますが、内蔵疾患や心の痛みは、はっきり見えてこないということもあります。最初から、そんなことに気づくことはまれなのでしょうが、でも自分が今相対している人の中に、そのような心の痛みが感じられたら、多少でも心づかいをしたいものだと思います。

しかし現代の風潮は、それとは逆に自分より弱いものにあたるという傾向があります。また、武力や経済力など、力関係のものさしだけで物事を判断するようなところもあるようです。

児童虐待、保険金殺人、無差別殺人など、なんとも言えないような事件が続いていますが、それは事件を起こしたその人固有の問題と、そのような行動を起こすきっかけとなる社会的な問題があると私は考えています。

ボランティアなどでも、何か特別なことをするのが大切なのではなく、周囲の人の心の痛みがわかる、少しは共感できる、そんな気持ちを持ち続けることが大切です。ちょっとした心づかいが、周囲の人を助けていることがたくさんあると思います。

ただ、気をつけなければいけないのは、自分自身のことで考えればわかりやすいのですが、心の痛みはわかってほしいが、同情はしてほしくないということがあります。「かわいそう」とか、「やってあげる」という気持ちでは、受け手は「みじめな自分」であり、「やってもらった」という気持ちになってしまいます。

そうではなくて、初めに必要なのは、いっしょに考える、また時にはいっしょに行動するという姿勢です。

 自分の家族や周囲の人に、自分がどういう態度で接しているのか、あらためて私も考え直してみたいと思います。

 

◇自己を振り返る

先日、横浜の親鸞教室に出席しましたが、そのとき講師の方が次のようなことを述べられました。
 「私は九州の出身なのですが、今まで郷里に帰るときには電車や船を乗り継いでかなりの時間がかかっていました。それが最近、郷里の近くに空港ができて、神奈川からでも簡単に行けるようになりました。それはそれで便利で良いことのなのですけど、ちょっと気持ちにひっかかることがありました。何なのかよくわからなかったのですが、今あらためて考えてみると、私はその時間の中で自分を振り返っていたのだと思います。世の中が便利になって時間が節約できるようになったのはいいけれど、先に先にと進むことばかり考えて、自分を振り返る時間をなくしてしまっている私たちがいるのではないか。」

効率優先主義の現代では、後戻りすることは時間的な無駄としか考えられないのかも知れませんけど、私たちは何のために働いているか、何のために生活しているのか、目先の目標だけにとらわれて自分を見失っているときが多いのかもしれません。「忙しい忙しい」といいながら、自分もどこかにおいてきているのではないでしょうか。


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