心のふるさとを求めて

真宗大谷派(東本願寺)正 覚 寺


老いる 第二十三号(2005年3月)

 朝、八時三十分くらいに幼稚園の送迎バスが列を作って走っていることがあります。家の前がちょうど巡回コースになっているようで、あちこちの幼稚園のバスが通ります。幼稚園の送迎バスは、花や動物が描いてあったりでカラフルです。中からも元気な声が聞こえてきます。

 それが一段落した頃、今度はおとしよりのディサービスなどの送迎用のワゴン車がやはり列を作って走ることがあります。介護保険ができてからは、町のあちこちでよく見かけるワゴン車です。

 午後も三時頃になると、幼稚園のバスが走り、ディサービスのワゴン車が通り過ぎていきます。

 ただそれだけの風景なのですが、毎日見ていると、なんとなく幼稚園のバスは楽しそうだし、にぎやかです。

 それと対照的に、ディサービスのワゴン車はボディも白色しか見ませんし、静かです。

ほぼ定員いっぱいに乗せているのでしょうか、後部座席のおとしよりは窮屈そうに肩をくっつけて乗っているのがわかります。

 見ていて、こちらの気持ちがだんだん寂しくなってきます。

 色気のない車に乗せられて、じっと座っている人たちを見ると、ほとんど無表情で、どこかの収容所に送られていくような感じさえしてしまいます。

 介護保険制度ができて、関連施設も増え、今まで家から出られなかった方が、外へ出られるようになったという意味では少しは良くなったのかも知れません。

 でも、私がそういう状態になったときに、喜んであの車に乗りたいかというと、乗りたくはありません。

 せめて、もうちょっと車くらい夢のある色にしてほしいと思います。

 また、なんていうのか、自分の老後までベルトコンベアーに乗せられているような気がしてしまいます。

 ずっと以前に、家でけんかになったことがあったのですが、簡単にいうと、老人ホームなどでどんなサービスを受けたいか。どのように対応してもらいたいか、というような話でした。

私はそれ以前に、老人ホームに入りたいか、入りたくないのかというそれぞれの気持ちがあると思っていますし、それに加えて、「私は絶対に入りたくない」と思っていますから意見がかみ合いませんでした。

自分が今元気だからそういうことを言えるのでしょうが、童謡を歌わされたり、「犬のおまわりさん」みたいな音楽にあわせてボール遊びをさせられるなんて、気持ちとして耐えられません。

自分が好んで老いていくわけでもないし、自分から進んで病気になったり、体力が衰えていくわけでもありません。

いつまでも元気でいたい、自分の思うままに生活したいと、誰もが思っていることではないのでしょうか。

 ご近所で月に一回食事会を開いている方がいらっしゃるのですが、それにある方が出席しようとしたら、家の人から、「次の日はディサービスがあるから、食事会に出たら疲れるでしょう。食事会はやめたら。」といわれたそうです。

 私には、とても寂しい話に聞こえてきました。ディサービスの役割を否定するつもりはありませんが、自分の気持ちでああしたい、と思う心を押さえつけられているような気がします。

 以前にある医師が講演会で、「自分や自分の家族が病気になったときに、こういうふうにしてほしいという医療を心がけている。」とお話されているのを聞いて、私もそのことがずっと心に残っています。

 そろそろ、自分がそのようなサービスを受けなければならない年齢に近づいてくるにつれ、どうにかならないのかな、という気持ちでいっぱいです。

お釈迦様が人間の根源的な苦は、生老病死の四苦である、とおっしゃってから、長い年月が過ぎてきています。文明や文化は進歩しても、私たちがもともとかかえている苦は、やはりずっと私たちのそばにあります。

現代では、病むことや死が自分自身の切実な問題として考えるという機会が少なくなってきているようですが、老いるということも他人事になってきているような気がします。


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