心のふるさとを求めて

真宗大谷派(東本願寺)正 覚 寺


ともに学び、ともに歩む 第十七号(2001年3月)

 

人のわろき事は、

能く能くみゆるなり。

わがみのわろき事は、

おぼえざるものなり。  

蓮如上人御一代記聞書より

 現代は、一億総評論家の時代といわれております。テレビでも、毎日のように「・・評論家」が登場します。

 物事を客観的にみるという姿勢では、それも一見正しいように思われますが、たとえば何かの事件の報道があったとき、どこのチャンネルを見ても同じような内容であり、そこに登場する評論家も、顔ぶれは変わっても同じような発言しかしていないように思われます。もう少し、多方面からの分析ができないものなのか、と感じることがよくあります。

 物事すべてが、表層的にしかとらえられていないという風潮があるように思いますし、また、○か×の判断しかなされていないことが多いようです。

一人一人の生活の中でも、自分の利になること、自分の考えにあうものは○として受け入れ、自分の不利益になること、自分の考えにあわないことは×として切り捨てているのではないでしょうか。神社や仏閣にお賽銭をあげて、自分に都合の良いことばかりお願いしてくるのも、その一つでしょう。

 また、他の人のことを批判的におっしゃる方がいますが、それも自分の利にならない、自分の考えにあわないだけということの方が多いようです。

 それと、他人を批判すればするほど、非難すればするほど、それは自分の問題としてもはね返ってきているはずなのですが、そこの部分は棚上げになりがちです。それでは、ものをいっしょに考える、共同で何かをするという姿勢が最初からない様な気がします。

 良くても悪くても、他人のことはよく見えるのですが、自分の足元がなんにも見えていない私たちがいます。

私たちは、仏教の教えからも、「ともに学び、ともに歩んでいく」ことを大切にしていたはずなのですが、そのことを忘れてしまいがちなのではないでしょうか。  


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