心のふるさとを求めて

真宗大谷派(東本願寺)正 覚 寺


佛光照曜最大

光炎王佛となづけたり三塗の黒闇ひらくなり

大応供を帰命せ

       親鸞聖人和讃より

三塗の黒 第十四号(2000年6月)

 《現代語訳》

 阿弥陀佛の光は、あかあかと光り輝いて、諸佛中の第一位である。それゆえ、最大の光炎をもつ佛と呼ばれている。阿弥陀佛は、地獄・餓鬼・畜生の三悪道に苦しむ者を、迷いの世界から救ってくださる。「供養をうけるに値する偉大な方」と呼ばれる阿弥陀佛に帰依せよ。  

《私の意見》

 三塗とは、現代語訳にもありますが、地獄・餓鬼・畜生の三悪道をいいます。自分がなした悪業によって堕ちてゆく世界です。地獄は、猛火に焼かれる苦しみにあうところとしてご存知の方も多いと思います。餓鬼とは、貪りの心ばかり旺盛で、他人の迷惑をかえりみずに自分だけ得をしようとしたり、自分だけいい目をみようとする人が堕ちるところです。餓鬼というと、食欲を一番に想像されるかも知れませんが、金欲・物欲など、人がもっている欲すべてが含まれると思います。また畜生とは、本能のみで生きる世界です。私たちは、人として理性をもって生きているはずなのですが、時として周囲の迷惑や感情も考えないで行動してしまうことがあります。

 先日、僧侶の研修会に出席したのですが、そのとき講師の方が次のようなことを述べられました。「あなたたち坊さんは、三塗を超えたところに自分があると思っているかもしれないが、あなたたちも三塗の世界でうごめいている一人に過ぎない。高いところからものを見、話しかけても周囲の人には伝わらない。お釈迦様が立っておられる場所をよく見てほしい。お釈迦様は蓮華の上に立っていらっしゃるが、その蓮華は泥沼に咲く。この泥沼が我々の住んでいる娑婆世界、つまり濁れた世界なのではないか。このことをもう一度思い起こしてほしい。」

 法要の席などで、私も同じようなことをお話させていただくことがあるのですが、三塗の世界とは遠い世界のことではなく、私や私たちが現に今、そのような世界を作り出しているのだと思います。

 私自身の心が、鬼になったり、餓鬼になったり、畜生になったり、たまには「ほとけごころ」を出してみたりと、一日のうちでもめまぐるしく変化します。自分自身の中にある三塗に気がついていく、それが大切なことではないでしょうか。

 また、三塗に関連して、最近感じることが多いのは、様々な事件についてです。サリンによる大量無差別殺人事件以降に、特に顕著になったように思われるのですが、保険金、神戸の中学生、ストーカー、バスジャック・・・もうしばらく静かになるかと思ったら栃木の宝石店、次から次と本当に毎日のように、なんともいいようのない事件が報道されています。

 報道を見たり、聞いたりする側も、たとえば戦争の報道でも、ベトナム戦争以前の報道は「悲惨」というイメージを多くの人がもったと思うのですが、中東の湾岸戦争ではショーをみているような感覚で見ている方が多かったのではないかと思います。報道の姿勢などもあると思いますが、自分の身近で起こっていることに対しても、私たちはまるでテレビのドラマやショー番組を見ているような見方しかしていないのではないでしょうか。

 私が、このような事件の報道を見て、思いつく言葉に「問答無用」があります。時代劇などによく出てくる言葉なのですが、相手の気持ちや立場など関係なしにばっさり斬り捨ててしまう。テレビドラマでは、善人と悪人をはっきり区別するために、そのような設定をすることもまあ仕方ないのでしょうが、現実社会でそのようなことが起きているのかと思うと、腹がたってきます。

 それぞれの事件については、様々な論評があちこちで行われているのでここで触れることは避けますが、朝日新聞に劇作家の山崎哲さんが最近の少年の事件に関して次のように書いておられます。

「人間関係はほんらい双方向的なものだが、かれら少年の犯罪における人間関係は,いつも一方向的なのだ。なぜそうした傾向が生まれたか、まだうまく了解できない。ただ推測すれば、かれらはたぶん一方向的なコミュニケーションしか学んでこなかったのである。あるいは、自分がだれかにいつも一方的に暴力を受けてきたというぬぐいがたい思いがある。だからその暴力はいつも一方的に表現されるのだと思う。」

 少年の犯罪に限らず、私たち自身の問題としてもう一度考えなければいけないのが、人間関係は双方向的なものであるということだと思います。言葉を換えれば、「対話」ともいえるのでしょうか。会話や何らかの行動を起こすときでも、相手があるわけですから、相手の人格を認めなければいけない。話しかけるにしても、私には私の思いや考えがあるのと同じように、聞く方にもその人の思いや考えがある。お互いに相手の人格を認め合ったときに、対話が成立するのではないでしょうか。私たちは経験的にそのことを学んで、今こうして生活しているはずなのですが、どこかにそれを忘れてきたような気がします。

 親子の関係でもそうなのですが、生まれたばかりの赤ちゃんにもその人固有の人格があり、あたりまえなのですがこの世界で生きていく権利があります。ただ、生きていくための知識と経験は乏しいので、親や周囲の助けが必要なのです。なんでもかんでも親のいいなりを求めることもおかしいことですし、親の都合だけでこどものことを考えるのもまったくおかしなことだと思います。

 先日NHKで興味ある番組を放映していたのですが、アメリカでも学校になじめなくて、登校拒否になるこどもがたくさんおり、そういう子に対してホームスクールといって、家庭で家族がいっしょになって勉強するという内容でした。

 そこで、ある実験があったのですが、こどもたちをひとつの部屋に集め、ひとつは学校に通っているこどものグループ、もうひとつはホームスクールで勉強しているこどもたちのグループでした。そして、それぞれのグループごとにひとつの部屋で自由に遊ばせたのですが、学校のグループではみんなで遊ぶ子と、一人遊びをする子に別れ、ずっとそのままの状態で、一人遊びの子は最後まで一人の状態でした。それに対してホームスクールのこどもたちも、最初はみんなで遊ぶ子と、一人遊びの子に別れたのですが、途中である子が一人遊びをしていた子に声をかけ、徐々に一人遊びの子がみんなの輪の中に入っていきました。普通に考えると、学校に通っている子の方が協調性があり、団体での行動にも慣れているようですが、ここでは逆の結果が出ていました。ホームスクールのこどもたちは、親子の対話の中で、何かをいっしょにやるということを身に付けていったのではないでしょうか。

 問題が起きると、学校の責任・家庭の責任という責任のなすりあいみたい議論がでてきますが、大切なのはやはり対話であり、相手の人格を認め、相手の立場を理解することだと思います。それは、家庭でも、学校でも、会社でもどこでも、人としての基本だと思います。

 自分でも気がつかない間に、私たち自身が三塗の世界を作り上げているのではないかとそんなところからも感じます。


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