ようこそ!!否定派!!


ABO FAN


02.gif (288 バイト)ようこそ!!否定派!!

 このページは、「頑張れ!!否定派!!」ではなく「ようこそ!!否定派!!」です(笑)。ここは、今までの『ABO FAN』と同様、否定論者に反論することを主な目的としています。否定論者の方は、決して勘違いなさらないようお願いします、念のため!   -- H10.9.3

02.gif (288 バイト)議論は歓迎です

 最近、また反論が増えてきたようです。ネットサーフィンをしてみると、これは私のホームページに対して反論しているのかなあ?という内容をよく見かけます。非常に喜ばしいことですね。というのは、肯定・否定の意見をできるだけオープンにし、より議論を深めるというのが私の第一の目的だからです。現に、そうやってどんどん情報も集まってきましたし、議論のレベルもどんどん上がってきました。そういう意味では、否定論者の方も含めて大いに感謝しています。

 では、そういう意見に対してちょっと(?)疑問に感じたところを書いておきます。-- H10.9.3

02.gif (288 バイト)白米と脚気

 以下の反論の元となるホームページの文章のほとんどが(なぜか?)削除されてしまいました。
 今後の扱いをどうしようかと考えたのですが、@否定論者でも相手の文章が削除された場合でも反論はそのままの場合がある、Aこの部分だけ削除すると全体の意味が非常に分かりにくくなる、B文章は既に削除されたので相手は特定されない、という理由でとりあえずこのままにすることにしました。削除の理由もはっきりしないので、しばらく様子を見るつもりです。どうかご了承ください。   -- H10.9.15

 あるホームページに、「統計的に関係があったとしても科学的に関係が証明されたわけではない」というような文章が「白米と脚気の問題」と一緒に書いてありました。つまり、血液型と性格は「統計的に関係があったとしても科学的に関係が証明されたわけではない」から血液型と性格は科学的には「関係あるとはいえない」ということです。これは全くそのとおりです。私の言わんとすることを理解していただき大変ありがとうございます。m(._.)m

 ただ、私の書き方が悪かったのでしょう、文章はほぼ同じでも論理的には少々違うようです。なぜなら、否定論者の血液型と性格は「関係ない」という論理は、いろいろあって、だいたい次のようなものが主なものだからです。

  1. 統計(≒心理学の性格テスト)を使うことは「無意味」だ
  2. 統計的に「差はある」。しかし、それは「信念」によるもので本当は性格との関係はない
  3. 統計的に「差はない」。だから、血液型と性格の関係はない

 1、2、3が相互に矛盾することは説明不要でしょうから省略します(つまり、どれか1つしか選べません)。いうまでもありませんが、2と3については、統計的に(「信念」によるものではなく)本当に差があれば、血液型と性格は「関係がある」というのが前提です。
(確かに、私の一部のページでは、統計的に関係があった→血液型と性格は関係ある、という主張をしています。ただ、それは、2と3の論理に反論し、結果として「血液型と性格は関係ある」ということです。「統計的に関係があったとしても科学的に関係が証明されたわけではない」のは当然です! わかりにくいでしょうから念のため)
 この反論の論理構成を見てみると、1を選んだものと思います。しかし、2についても選びたいような…。正直、非常に判断に迷うところです。まさか1と2を両方同時に選ぶとも思えないのですが、仮に1を選んでみましょう。

 つまり、統計で差があっても「無意味」(=科学的な因果関係が証明されない限り血液型と性格は関係ない)なのですから、仮に統計上で差が出ても、そんなことはどうでもいいのです。しかし、その後の文章には、2とも取れる文章が続きます。つまり、「仮に統計で差があっても『信念』によるものである」ということです。仮に統計で差があってもそれは「関係ある」証明にはならないのですから、統計なんかはどうでもいい…いや、関係のあるなしを立証するには逆に「有害」であるといった方がいいでしょう(論理構成上そうならざるをえません)。私は結局どちらの論理なのかわかりませんでした。やっぱり、私の読解能力が足らないのでしょうか…(ここで、うなずかないでくださいね…笑)。

 しかも、上の論理は否定論者の主張とは矛盾しないそうですから、ますますわからなくなりました。はてはて?

#いうまでもありませんが、否定論者は人によって1〜3の論理のどれかを選んでいます。

 また、私のオリジナルの文章には「白米と脚気の問題」だけではなく「血液型と胃潰瘍の問題」も書いてあったのですが、なぜか見落とされています。理由は不明ですが、わざわざ両方を一度に引用してもらいたいので2行続けて書いてあったのですが…。書き方が悪かったのかな? そこで、少々長いのですが、関係部分を次に引用しておきます。

 それと、たまに見かけるのですが、「(仮に)統計的に証明できたとしても、血液型と性格は関係があるとはいえない」という主張もあります。なぜなら、

  1. (仮に)統計的に証明できたとしても、血液型と性格の因果関係が証明できたわけではない
  2. 科学的には血液型と性格の関係は証明されていない
  3. だから、血液型と性格は関係あるとはいえない

 私のホームページで統計的に証明できたと考えてもらっているなら大変うれしいのですが、ここではちょっと遠慮して、能見さんや前川さんが証明しているものと仮定しましょう。確かに、1〜3は論理的には何の問題もありません。だから、「血液型と性格は関係ない」といえるかというと、それはちょっと違います。

 ほとんどの否定論者の心理学者は、統計的手法を使って「血液型と性格は関係ない」という証明をしています。もし、「統計的に証明できたとしても、血液型と性格は関係があるとはいえない」なら、わざわざそんな面倒なことをしなくともいいはずです。つまり、ほとんどの否定論者の心理学者は、統計的に証明された→血液型と性格は関係がある、と思っていることになります。これは、私が文献やメールで確認しているので間違いないでしょう、たぶん。
 ですから、統計的手法は無効だと思っている人は、そういう否定論者と対立することになります。その点についてどう考えているのかは、普通は書いてないので、なんとも判断できませんが…。

 では、1〜3は論理的には正しいはずなのに、なぜおかしいのでしょうか? 一言でいうと、2の因果関係が後日証明されることがある場合があるということなのです。たとえば、

  1. O型の人は胃潰瘍になりやすい
  2. 白米食だけだと脚気になる

 ちょっとだけ説明しておきましょう。まず1についてです。
 O型の人が胃潰瘍になりやすいことは、統計的には以前からわかっていたのです。しかし、反対論者からは「(仮に)統計的に証明できたとしても、血液型と胃潰瘍は関係があるとはいえない」といわれてきました(「血液型と性格」の否定論者もそういっていた人がいます)。しかし、つい最近、ある種の胃潰瘍を起こすメカニズムが解明され、やはりO型は胃潰瘍になりやすいことが証明されたのです。つまり、「(仮に)統計的に証明できたとしても、血液型と胃潰瘍は関係があるとはいえない」という説は間違っていたのです。
 若い人にはわからないかもしれないので、2についても説明しておきましょう。脚気は、その昔「江戸わずらい」ともいわれ、明治になってからも日本軍を悩ました病気です。日清戦争(う〜ん、古い!)の時は、戦闘による犠牲者よりも脚気による犠牲者の方が多かったとも言われています。しかし、陸軍では「(仮に)統計的に証明できたとしても、白米食と脚気は関係があるとはいえない」ということで白米食を続けた結果、日露戦争でも莫大な犠牲者を出し続けることになりました。これに対して、海軍では米食を麦食に切り替えて犠牲者を大幅に減らすことができたのです。その後、脚気はビタミンBの欠乏によることが分かり、「白米食と脚気は関係がある」ことが証明されたのです(吉村昭さんの『白い航跡』による)。

 う〜ん、やっぱり理由はわかりません…(^^;;

 また、この方はほとんどの環境ホルモンは「科学的に無害」と信じているようです(確認はしてませんが…)。なぜなら、全部の環境ホルモンが人体や環境への影響について統計的に証明できているわけではないし、仮に統計的な関係が証明されていたとしても、科学的に因果関係が証明されているものは少ないからです(正確には確認はしてませんが…)。ですから、この方は、(紙容器ではない)カップラーメンを毎日欠かさず食べているに違いありません。また、日清・日露戦争の兵士は白米を食べないといけなくなります。なぜなら、その時点では「白米食と脚気」は科学的に関係がないからです。
 私は小心者ですから、そんなことはしないでしょう、たぶん…(笑)。

 いずれにせよ、自分の主張を正確に相手に伝えるのは非常に難しいということがわかりました。ガッカリです。(*_*)   -- H10.9.3

02.gif (288 バイト)白米と脚気(続き)

 その後、そのホームページに再反論が掲載されました。議論は大歓迎なので、とてもうれしくなりました。ということで、早速私の反論を書かさせていただきます。

 この再反論を何回もじっくりと読んでみたのですが、かなりの誤解があるようです。この方がおっしゃるには、証明には2種類あり、

  1. (自然)科学的な証明
  2. 統計的な証明

 ということのようです。更に、私は2の解釈を取り「文系」、この方は1の解釈を取るから「理系」であり、この2つは立場の違いだから理解できないだろうという意味の文章が続きます。これは(場合によっては)かなりの誤解を生じる表現ではないかと思います。なぜなら、私は一応(?)「理系」ですし、その中でも一応(?)「工学系」だからです。
 工学系の人は、(自然)科学的な証明が場合によっては必ずしも必要ではなく、統計的証明で(とりあえずは)よいと考える場合が多いはずです。製造業の方なら了解していただける思いますが、製品の欠陥を少なくするには「(自然)科学的な証明」なんかしていたら、企業間競争に負けてしまいます。QCサークル活動をちょっとでも経験された方なら分かるはずですが、原因なんか二の次でまず統計データを取ること重要だと教育されることになっています(会社によって違うのかな?)。それによって製品の欠陥が少なくなれば、その場ですぐに「(自然)科学的な証明」が必要になるということはありません。

#もっとも、全く不要ということはないし、R&Dでは科学的な証明が必要な場合も多々あります。念のため。

 また、私には理解できなかったのは、この2つが単なる「立場の違い」だけかということです。もし、単なる「立場の違い」でよいということなら、「正しい」「良い」といった価値判断とは無縁ですから、どちらを主張しても全く問題ないはずです。したがって、私が血液型と性格は関係あると主張することは、相互主義の立場を取るとすれば「賛成」ということになります。そこまでは書いていなかったのでなんとも判断できませんが…

 もう一つの疑問は、環境ホルモンは「有害」か「無害」かということです。何回も読みなおしたのですが、結局どちらなのかわかりませんでした。私が推測するに、科学的にどちらとも判断できないものは「ノーコメント」ということなのでしょうか? はて?
 そこで、もう1つの疑問を出しておきます。ある人がひどい下痢をしており、O−157に感染している疑いがあるとします(既に別のO−157感染者がいると仮定します)。この場合は、この人を他の人から隔離する必要があるでしょうか? O−157に感染しているかどうかわかるのは、検便をしてから何日かかかります。つまり、疑いがかかった数日は、O−157に感染しているかどうかは「科学的には証明できない」のです。もし、「科学的に証明できない」から他の人から隔離をしないということであれば、更に別の二次感染者が発生するかもしれません。普通の場合は、「科学的に証明できない」にしても、二次感染を防ぐために隔離を行うでしょう。
 つまり、この場合は「科学的な証明」は無効で、ひどい下痢→O−157に感染している可能性、という「統計的な証明」が「科学的な証明」よりも有効なわけです。

 直接の関係はないのですが、私の立場はどうなのか?という疑問もあるのでちょっと書いておきましょう。私は、(紙容器でない)カップラーメンの容器からある種の環境ホルモンが排出されているどうかは全くわかりません。
 ただし、企業の営業政策上は、紙容器を使わないという方針は(現状では)あまり得策とは思えません。現に、紙容器を使わないことによって、カップラーメンの売上が少し落ちました(現在はどうなったのでしょうか?)。ですから、この傾向が続くとすると、「科学的な証明」とは別に(少々コスト高になっても宣伝費と考えて)消費者の安全を考えているというPRをした方がいいことになります。実は、こういう例は過去にもたくさんあるのです。
 もちろん、将来的に(紙容器でない)カップラーメンの安全性が証明されるかもしれません。しかし、一般の消費者は「科学的な証明」だけではなく、人間の安全を考えてくれそうだという企業の「信頼性」を買っているわけです。

 いうまでもなく、上の解釈はあくまで私の判断です。間違っている可能性も大きいので、あまり信用しないようにお願いします(笑)。また、私はカップラーメンの会社とはなんの関係もありません。

#私は、(紙容器でない)カップラーメンは毎週食べていたりします(笑)。でも、次回はどうしようかなぁ。

 しつこいようですが、別な疑問も書いておきましょう。前にも書きましたが、この方の立場は心理学者とは矛盾していないとのことです。
 しかし、性格心理学者には大変失礼な話ですが、「理系」の人からは心理学で定義する性格なんていうのは、「科学的な証明」なんて(全く?)ないから信用できないというような意味のことをしばしば聞きました(私がそう思っているのではありません、念のため)。確かに、性格テストには経験的な根拠はありますが、いわゆる「科学的な証明」はありません。

これを裏付けるかのように、脳と意識の研究は最近まで、心理学では「タブー」だったという記述があります。

 ところが、やがて心理学者に不幸な出来事が起こった。心理学者のなかに、意識を概念として取り上げることに利点を認めない動きが出てきたのだ。その根拠となったのは、自己分析の実験では出口がどこにも見えなかったこと、いま1つは、実験者が明瞭に観察できる行動(特に動物の行動)を研究する方が、心理学をより科学的なものにすると思われるようになったからだ。これがいわゆる行動主義の台頭である。精神的な事柄を語るのはタブーとなった。すべての行動は、刺激と反応によって説明されなければならなくなったのだ。
 行動主義は、特にアメリカで勢力を得た。アメリカの行動主義は、第1次世界大戦以前にジョン・B・ワトソンたちによって始められ、1930年代から40年代にかけて盛んになっていった。アメリカの行動主義の象徴的存在となったのが、B・F・スキナーである。
 ヨーロッパには、行動主義と別のゲシュタルト学派のような一派が存在していた。しかし、少なくともアメリカでは、1950年代後半から60年代にかけて認知心理学が台頭するまで、心理学者の間で精神的な事柄を語ることははばかられた。
 認知心理学が登場すると、例えば視覚を用いた研究などが可能となり、また、コンピュータの演算概念を用いて、人間のさまざまな心の営みに対するモデルが設定できるようになった。
 こうした時代がきても、意識について触れられることは滅多になく、脳における意識と無意識の違いを調べる実験や研究もほとんどなされていなかった。
 同様なことが動物の脳の研究にも当てはまった。(以下省略)

F・クリック 『DNAに魂はあるか』 〜驚異の仮説〜 31〜32ページ (講談社 H7.11)
→クリックは、DNAの2重螺旋構造を解明してノーベル賞を受賞しました。 

 「立場の違い」というには、少々違いが大きすぎるような気がするのですが…。はて?

 その後、下の反論の元となる文章が(なぜか?)削除されてしまいました。どうしようかと思ったのですが、なくなった理由がわからないので、とりあえずこのまま残しておいて様子を見ることにしようと思います。

 この方にはもう一つの反論があるようです。それは私が「(苦笑)」といったような「人をバ○にしたような」文章を書いているというのです。確かに私の文章は決してうまいとは言えませんし、「(苦笑)」といったような「人をバ○にしたような」を全く使ってないかというと、残念ながら否定することはできません(ただし、少なくともこのページの「(苦笑)」は私自身に対してのもののはずですが…)。意図してはいないつもりですが、思わず感情的になって書いた文章もたくさんあります。それは率直に認めます。m(._.)m ですから、今後は注意しようと思いますし、このページからは「(苦笑)」という表現を全部削除しました。これでいいのでしょうか?
 しかし、次から理解できない文章が続きます。まず、私が議論したいなら、「(苦笑)」を削除すべきだということですが、この方の文章には「(苦笑)」という表現がいくつも続きます。となると、この方は私と議論したくないのか、「(苦笑)」といったような「人をバ○にしたような」表現を使いたいのかのいずれかということになります。あるいは、私の「(苦笑)」は「人をバ○にしたような」表現ですが、この方の「(苦笑)」は「議論をしたい」表現ということなのでしょうか? はて?
 更に続いて、私が今までのような文章を続けるとすると相手にする人が少なくなるということですが、これには残念ながら「科学的な証明」がありません。現に、「(苦笑)」といったような「人をバ○にしたような」表現でも、アクセス(=相手にする人)は増えています。もっとも、アクセスというのは「統計的な証明」だから、「科学的な証明」ではありせん。となると、やはりこの方の言うことは正しいのかなあ?   え? やっぱり?(笑)

 一番最後にちょっと気になったことを一言。私は、「立場の違い」があるから相手のことを理解できないというつもりはありません。ただ、「立場の違い」についての疑問を、自分自身が納得できるようにいろいろと質問させていただいたつもりなのですが、それられ対する回答はいただいていないと感じているということです(血液型と胃潰瘍の関係など)。そういう意味では、「理解できない」ことは確かでしょう。
 まだまだ議論したいことはあるのですが、その後の議論は歓迎していないような印象も受けたので(いや違う、今後ともどんどん議論しようということであれば、ご自分のホームページで私への反論を展開していただければ非常にありがたいです)、とりあえずこの項目は終わりにしたいと思います。お忙しい中、どうもありがとうございました>議論させていただいた方   -- H10.9.13

02.gif (288 バイト)リンクはお好き?

 否定論者のリンク集は(どういうわけか?)否定論者だけの場合が多いようです。しかし、肯定論者や中間派にも納得させるには、肯定論者へのリンクがあった方がいいのです。というのは、否定論者だけのリンクだけでは、一方的な論理だという印象を読む人に強く与えてしまうからです。これはどう考えても得策とはいえません。

 まあ、こんなことは大した問題ではないのですが、多くの否定論者のページは、

  1. 統計(≒心理学の性格テスト)を使うことは「無意味」だ
  2. 統計的に「差はある」。しかし、それは「信念」によるもので本当は性格との関係はない
  3. 統計的に「差はない」。だから、血液型と性格の関係はない

 の相互に矛盾する3つの論理を主張する人のホームページのうち、しばしば全部にリンクを張っています(そう思えます)。それとも、単に私の読解能力が不足しているのでしょうか? う〜ん、そうかもしれませんねぇ。(^^;;

 その後、肯定論者も否定論者のホームページへのリンクはないのだから同じではないか?との指摘を受けたので、少し説明しておきます。
 否定論者のリンク集などに紹介してあるホームページの数が1つや2つなら、私もこんなことはいいません(私を除く肯定論者や、一部の否定論者はそうです)。それらのリンクは、あくまでも参考資料扱いであって、作者自身の主張と違っていても問題ないでしょう。ましてや、肯定・否定の両方を紹介しているなら、作者の主張と違っているのは当然です。
 しかし、(肯定・否定の片方の情報だけ)5つも6つのホームページがずら〜っと並んで(仲間であることを示すかのように)紹介されていたり、詳しい解説があったり、バナーが張られていたりした場合はどうでしょう。常識的に考えて、こういう場合は単なる参考資料扱いではなく、作者自身の主張と密接に関係があると判断するのが妥当だと思えます。

 そこで、サンプルに偏りはありますが、『ABO FAN』自身、『ABO FAN』のリンク集、Yahoo!JAPANについて分析したのが次の表です(なるべく同一条件にするため、企業・団体・日本以外のもの、紹介のみでリンクがないものは除きました)。これでだいたいの傾向はわかると思います。私のリンク集は、肯定・否定ともなるべく代表的な(?)ページを選ぶようにしているつもりですから。

ホームページ

否定側あり 肯定側あり 否定/肯定 否定延リンク数 肯定延リンク数 否定/肯定

備     考

否定論者…7 2(4) 3.50 95(98) 4(6) 23.75
肯定論者…3 1(2) 2(3) 0.50 7(10?) 3(7) 2.33 『ABO FAN』自身含む
Yahoo!JAPAN…5 0.67

 肯定・否定論者ともに否定側の数が多いのは、否定論者のホームページの方が数が多いのですから当然です。しかし、ある否定論者のホームページには、数十以上のリンクはすべて否定側で、肯定側は1つもありません(いくらなんでも、これは極端でしょう)。また、別のホームページでは、否定側しかリンクを張らないとも意味がとれる表現があります(私がそう思っているだけかもしれませんが…)。念のため、外国のサイトと紹介のみの場合を含めた数字を( )内に書いておきます。

 次に、上の7つの否定論者のホームページのうち、「相互に矛盾する3つの論理を主張するホームページ」に(一部でも)リンクを張っているのはいくつか数えてみました。実に全部です(失礼なので何がどれかは書きませんから、自分で探してくださいね)。これ以上の説明は不要でしょう。
 いや、サンプルに偏りがあるのでは?という人も多いと思います。しかし、私が確認した限り、他の否定論者もどうやら同じ傾向のようです。皆さんはどう思いますか? -- H10.9.4

02.gif (288 バイト)電話はお好き?

 「頑張れ!!否定派!!」で、なぜ否定論者は血液型による「差別」が問題となっている企業に電話一本もしないのでしょうか?と書いたところ、いや、そんなことをしても(本当のことは教えてくれるはずがないから)意味がないというような反論がありました。

 この反論はよくわかりません。なぜなら、特定の血液型によってプロジェクトチームを作るといったような「事実」がその会社にとって不都合だということが前提になっているからです(なぜこんなことが断定できるのでしょう?)。もし、都合がいいのだったら、電話したら誰にでも親切に教えてくれるに決まっています。しかし、教えてくれないのですから、どんな理由かわかりませんが都合が悪いのでしょう、たぶん。
 では、効果があっても「差別」だったから都合が悪いのか、それとも全く効果がないから都合が悪いのでしょうか。これは結論が出ています。能見さんも効果がないというのだから、まず間違いなく特定の血液型だけのプロジェクトチームは「効果がない」のです。

#現に、古川さんも同様な結果を得ています。
#血液型に限らず、特定の傾向を持つ人だけを集めたプロジェクトチームは(普通は)うまくいかないでしょう。

 ということは、本当のことを教えてくれないのではなくて、少しは(?)本当のことを教えてくれた(=特定の血液型だけのプロジェクトチームは効果がない)ことになります。結局、特定の血液型だけのプロジェクトチームは「効果がない」のだから、「事実がなかったことにした」可能性が高いということだけです。たった1本の電話でこの程度のことがわかるのです。それでもなぜ電話しないのでしょうか?

#当然のことながら、上の結論は全くの推測です。念のため。

 まあ、こんなことは大したことではありません。問題なのは、(科学の基本である)事実の確認を重要視しない(?)ということです。この方は、他の事実の確認はきちんとやっているのだと想像します。なぜ、血液型に関してはやらなくていいのでしょうか? それは、アプリオリに「関係がない」ということだからでしょうか? 「定説」に反することは事実確認は不要なのでしょうか?  やはり「血液型と性格」には謎が多いようですね。 私にはさっぱりわかりません(笑)。   -- H10.9.4

02.gif (288 バイト)3つのタイプ

 「リンクはお好き?」には、こんな反論がありました。否定論者のホームページで、「相互に矛盾する3つの論理を主張するホームページ」にリンクを張っているのものなんてないというものです。確かに、実名やデータを出していないのですから、この疑問はもっともです。

#でも、自分で資料に当たってみれば、こんな疑問は湧いてこないと思うのですが…たぶん。

 そこで、この項目だけは『ABO FAN』の、特定の個人・団体をなるべく批判しないという方針を少し変更して、ある人を批判させていただきます(え、既にほかの項目でやっているだろうって?…いやぁ、それは f(^^;;)。そうでないと、どうしても信用してもらえそうもないので…。他意はありませんのでどうかご了承ください。m(._.)m また、引用についても、正確を期すため、極力長く引用することにしました。かなり読みにくくなってしまいましたが…。

 では、スタート!

 上にも書いたように、否定論者の血液型と性格は「関係ない」という論理は、いろいろあって、だいたい次のようなものが主なものです(その中での細かいバリエーションはあります)。

  1. 統計(≒心理学の性格テスト)を使うことは「無意味」だ
  2. 統計的に「差はある」。しかし、それは「信念」によるもので本当は性格との関係はない
  3. 統計的に「差はない」。だから、血液型と性格の関係はない

 1、2、3が相互に矛盾することは説明不要でしょうから省略します(つまり、どれか1つしか選べません)。
 まずは1番目の方に登場していただきます。否定論者であるSさんの記事「<自分の性格>をめぐる8つの疑問」からの引用です。少々長いのですが、正確を期して「心理テストで性格は測れる?」という項目を全部引用しておきます。なお、この記事は、Sさんが直接執筆しているのではなく、Sさんへのインタビューという形式を取っています(別冊宝島335『性格がわかる・変えられる!』−<自分探しから自分づくりへ>性格診断テストコレクション!− 264〜265ページ 宝島社 H9.10)。

Q7 心理テストで性格は測れる?

 測るということを一定の基準で数値を割り付けるという意味にとれば、心は測れるということになるでしょう。しかし、心はそもそもアイマイで相対的なものですから、絶対的な測定はありえないと言えるでしょう。
 ではなぜ、心理テストがあるのかというと、心は暖昧なものだから、私たちも言葉や行動といったものを手がかりにして理解せざるをえないからなんです。そのためにテストというものを指針にしているんです。
 心というものは、何かを投げつけてその跳ね返り方を見るようなもので何かがないと見えにくいものですから、そのはね返りの仕方にあらかじめ枠をはめて解釈をするわけです。それによって何か役立つことはないか、というのが、心理テストの基本的な考え方です。
 これまで私は心理テストには否定的で、役に立つとはあまり考えませんでした。そんなもので心は測れませんからね。でも、ちょっと考えてみると役立つ点もあるんですよ。
 多くの人にとっては、心は漠然としているし、そんななかで私たちは勝手に不安に思ったりしているんですが、テストによって得た結果をちゃんと見せてもらい説明してもらえるならばいいかもしれません。前世がこうだからと言われてかなりのお金を払うよりはずいぶんいいような気がします。
 いままでは心理テストを行なっても、結果を教えてくれないことがありました。それをちゃんと公表して本人にフィードバックする機能があればいいんです。そうすれば暖昧な心という概念を、多少なりとも実感として捉えることができるでしょうし、そのためのメディアとして心理テストは有用かもしれません。

 素直に文章を読んでみると、Sさんはあまり性格テストに肯定的とは思えません。この本は性格テスト集ですし、記事をインタビュアーが書いたことをを考慮しても、やはりSさんは性格テストに否定的と考えるのが自然です。否定論者のWさんとの共著『性格は変わる、変えられる−多面性格と性格変容の心理学』(自由国民社 H8)にも同じような記述があったはずですし、Sさんの別の本ではもっと否定的だったようなという話もあります(これについては未確認)。残念ながら、どちらも現在は手元にないので正確な確認はできません。
 ところで、『現代のエスプリ〜血液型と性格』にはWさんも執筆しています(188〜191ページ 『性格心理学は血液型性格関連説を否定できるか〜性格心理学から見た血液型と性格の関係への疑義』)。

 これまで何人かの心理学者が、 血液型と性格との関連を実証的方法で反証し、血液型性格関連説を否定しようとしてきた。ここで注目されるのは、彼らが血液型性格関連説を「科学的方法によって反証可能な理論」、すなわち科学的理論とみなしていることである。この点でそれを「非科学的な迷信」とみなして無視した従来の心理学者とは異なる。
 しかし、論文を一読すればわかるように、彼らの多くは「血液型性格関連説は間違っている」というアプリオリな立場を持っており、それを実証するために研究を行なっていることもまた確かである。
 心理学者が血液型性格関連説に対して行う反証は二つのタイプに分かれる。一つは「性格検査」など「性格」を測定しているとされる外的基準と血液型との間に関連がないことをデータで示して、血液型と性格には関係がないと結論するものである。たとえば長谷川は、YG性格検査の類型分布が血液型によって変化しないことを示しているし、その他にもEPPS、SPIなどどの関係を調べた多くの研究が、それらの検査結果と血液型とに関係がないことを示して、血液型と性格との関係を否定している。性格検査の妥当性を前提とする限り、こうした論理は正当なものに思える。
 しかし、多くの性格検査はそれぞれ人の性格のごく一部を測っているにすぎず、ある検査と血液型とに関係がなくても、他の検査とは関係しているかもしれない。実際、性格検査の得点と血液型との関連が、ごくわずかとはいえ統計的に有意なかたちで見出されたという報告もある。
 また、すべての性格検査について検討して血液型と関係するものがひとつもなかったとしても、人の性格というのは非常に複雑なものであるから、これまでどの検査でも測られていない非常に重要な要素が存在して、それが血液型と関連している可能性が残る。

 大村の論理は説得力があるが、ある面で両刃の剣でもある。自分たち心理学者が製作し、正当であるとしている「性格検査」による性格判断も、血液型性格関連説上同じ土俵で批判されてしまうのである。たとえば、作られてからかなりの年月が経つが現在もよく使われている性格検査の中には、現在の統計的基準から見るどその安当性の根拠となるデータやその解釈がかなり怪しいものはいくつもある。古川竹二のデータ解釈が誤っているのはあくまでも現在の目から見てであり、同程度に誤ったデーダ解釈は過去の「科学的」心理学にもよく見られる。また、「心理学的性格検査による性格判断が当る」という経験的事実が「FBI効果」による錯覚でないと言い切ることもでさないだろう。
 たとえばYG性格検査の類型ごとに性格特徴を記述している文章などはかなり「フリーサイズ」なものであり、大村と同じ手続さで類型とその説明文をデタラメに入れ替えて被験者に示しても、多くの場合自分に当てはまっていると思うのではないか。
 また、検査結果が他者の性格についての判断をバイアスしたり、自分自身の行動を検査に合わせて変容したりすることも十分に考えられる。これでは「心理学も血液型もうさんくさい」ということになるだけで、心理学者からの批判が大衆にあまり強い印象を与えないのは当然である。…

 血液型性格関連説に反論する心理学的研究のもうひこつの問題点は、それらが批判しているのはあくまでも血液型性格関連説の「データ」であって、理論そのものではないことである。心理学者がもし血液型性格関連説を否定するのならば、そのデータを批判するだけでなく、より根本的に「性格に関する心理学的理論によれば、これこれの理由で血液型と性格には関係がないと考えられる」と主張すべさであるのに、それがほとんどみられない。そのため、どうしても心理学者の血液型批判は表面的なものに見えがちである。
 これには、データ一辺倒で理論的考察を軽視する戦後の心理学の風潮が大きく影響していることも確かだが、より根本的な部分で、従来の性格心理学と血液型性格関連説が基本的に似た論理構造を持っていることも関係しているように思える。
 性格心理学における伝統的定義では、性格(パーソナリティ)は人の内部にあって、外部の環境や状況上は独立に行動に影響を及ぼし、その人独特の行動パターンを生み出しているとされる。そのため、性格の規定因として環境要因よりも個人の内的要因を重視することが多かった。クレッチマーの類型論に見られるように、古くは体質などの遺伝的要因が非常に重視されたし、最近ては「認知システムの個人差」といったことがよく話題になる。いずれにせよ、性格心理学者が性格の規定因を考える時に、環境の影響を豊けにくい生理的要因などの 「ハード」な要因に依存しやすいことは、今も昔も変わらない。
 つまり、生理的要因と性格とに関係があるというアイデア自体は心理学も共有しているものであって、その点で血液型性格関連説の論理自体を批判することは従来の性格心理学にとっては難しかったのてある。
 したがって、戦後になって、心理学者たちが血液型性格関連説を「非科学的」とか「迷信」とか批判してきた理由はその理論的立場よりも、むしろそれが「ジャーナリスティック」な話題であり、大学のアカデミズムから遠い「通俗的心理学」であるという点であったと考
えた方がよいだろう。
 実際には、従来の性格心理学と血液型性格関連説は基本的に同じ基盤に立つ仮説同士という関係にあり、そのため心理学はその基盤自体を明確に攻撃せずに、データによって相手の仮説を反証する以上のことはできなかったのである。「迷信」と否定しながら実際には科学的仮説と認めざるを得なかったわけで、皮肉なことである。

 では、2番目に行きます。同じくSさんとWさんの共著『オール・ザット・血液型』(コスモの本 H8.4)から「思い込むとほんとにそうなる!」という項目についての引用です(208〜210ページ)。

思い込むとほんとにそうなる!

 これまで説明してきたのは、「ほんとは関係ないのに関係あるように見えるしくみ」だったけど、こんどのはすこし違う。血液型を信じているとほんとに性格と関係ができてくる、というちょっと怖いお話。
 ある心理学者が別の仕事で、とある調査のデータを調べていた。その調査はある放送局が若者の意識と生活について10年ほど前から毎年行なっているものなんだけど、よく見ると不思議なことが起こっている。
 この調査にはたまたま、アンケートを受けた人の血液型を聞く項目と自分の性格について答える項目が含まれていた。この心理学者は血液型にも興味があったので、半分冗談でこのデータにおける血液型と性格の関係を分析してみた。
 調査開始のころのデータでは案の定なんの関係もなかったんだけど、おどろいたことに、年々血液型と性格との関係が強くなっている、 という結果が出た。だんだん血液型で性格がわかるようになってきている、ということだ。
 
血液型論者がいうように、血液型と性格にもともと関係があるなら、こんな結果が出るはずない。もともとなかったのに、だんだん関係あるようになっているわけ。これは最近の血液型ブームと無関係とは考えにくいよね。
 こんなことがおきる理由はいろいろ考えられるけど、血液型と性格に関係がある」「血液型で性格が決まる」と信じこんだ結果、本当にそういう性格になってしまう、ということが十分に考えられる。
 血液型性格判断を信じていろいろ読んでいると、血液型ごとの性格が心の中にだんだんインプットされていく。そして、「自分の血液型の性格」に自分の性格を合わせようという傾向が出てくる。
 血液型信者の「自己概念」(自分の性格のイメージのこと)には血液型性格判断の内容が焼きついているから、もし自分がそれにあわない性格をもっていたり、それに合わない行動をしたりして自己概念とずれると不快になる。これで自己概念の方を変えるならいいのだけれど、性格や行動の方を変えちゃう人がいるんだ。
 理不尽なようだけど、信じていることと自分の性格が合わなかったらアセルよ。「自分はB型で、自分の意思を通してわがままに生きていくはずなのに、いまの自分は引っ込みじあんで人の顔色ばかり見ている。これって異常ですよね?」と大学の学生相談室にカウンセリングを受けにきた学生がいるくらいで、やっぱり自分の性格の方がおかしいって思う人が多いみたい。
 つまり、血液型を信じているとそれが心の中に刷り込まれて、もともとは関係なかった性格が、どんどん血液型性格判断の内容に近くなっていくわけ。これを大村は「Iの効果」とよんでいる。IはImprinting(刷り込み)」のIだ。
 これはすごく怖いよね。このまま信じ続けていくと、日本人の性格は4種類しかなくなってしまうかも。こうなるとちょっと問題だよね。血液型で性格がわかる、なんていってるうちは愛矯だけど、血液型に性格が影響されちゃうとなると、ちょっと酒落にならない。血液型にとらわれて生きるのなんか嫌だ!
 心理学者が不粋だとか、オトナ気ないとかいわれながらも血液型批判をやめないのは、さすがにこうなるとほっとけないからなのです。

 ここで説明されている心理学者の論文はこちらです。

 では3番目に…。同じ『オール・ザット・血液型』(187〜188ページ)では、「ほんとは血液型と性格は関係ない」として、次のような記述があります。

ほんとは血液型と性格は関係ない

 血液型と性格に関係がないと考えてる、といっても、昔の人たちみたいに最初から「非科学的だー」 なんて頭ごなしに否定するだけじゃ科学じゃない。心理学は科学なんだから、関係がないっていう証拠を集めなきゃ。まず、血液型とは別に性格をとらえる方法を何か使って、その結果と血液型とに関係があるか調べてみた。
 性格をとらえる、といったら性格テストだ。心理学者が作ってる性格テストは、いちおう正確に性格を測れるというお墨つきがついている。もし血液型と正確に関係があるなら、血液型によって性格テストの結果が違うはず。
 これが、ぜんぜん違わない。
何人もの学者が何十種類もの性格テストを使って調べたけれど、血液型によって差が出たという結果はほとんどない。たしかに血液型で差が出た場合もごくすこしはあるけど、それは血液型性格判断の説と矛盾してたり(O型が神経質でB型が臆病とか……)、テストによって一貫してなかったり(あるテストではA型は神経質と出たけど、あるテストではA型はおおらかと出たとか……)で、ぜんぜんあてにならない。
 性格テストだけでなく、性格の自己評価とか、他人からどう見えるかとか、性格のいろんな基準と血液型との関係を調べてみても、 いまのところ意味のあるような関係は発見されてない。

 話は違いますが、『オール・ザット・血液型』は、血液型グッズや本など、資料が豊富で読んでいて面白いです。肯定論者もなかなか楽しめる本ですから、買ってもソンはないでしょう。私も持っていますし(笑)。
 なお、ほとんどの否定論者の心理学者はこの3番目の解釈を取っています(たまに、2番目と3番目を両方というタイプもいます)。普通の否定論者のホームページは、1番目だけのタイプ、2番目と3番目を両方というタイプが多いようです。
 書いてしまってから考えたのですが、やっぱり「4つのタイプ」にした方がよかったかなぁ。だって、ABO式血液型と同じ数ですからね(笑)。3つだとMN型とは同じですが…。   -- H10.9.5

02.gif (288 バイト)X型らしいY型?

 ある否定論者の反論に、「X型らしいY型」という言葉をよく聞くので、血液型性格関連説は当てにならないという主張がありました。なるほど、これには一理あります。しかし、こんな場合はどうでしょうか?

 こういう言葉はよく聞きます。しかし、同じ理由で、国民性、県民性、年齢による差はないのでしょうか? いや、そう思っている人は少ないでしょう。ですから、「X型らしいY型」があってもおかしくないのです。具体的には、

 ということだからです。具体的なデータについては、坂本章さんの論文のところを読んでみてください。

 これだけでは納得しない人もいるでしょうから、データで説明してみましょう。下の表は、女子大生318人のアンケート結果です(上瀬由美子さんの論文)。

Table 1 血液型ステレオタイプに対する態度の因子分析(Varimax回転後)
 →因子分析のデータは省略 →太字は50%以上

変数名

肯定率(%)

血液型によって性格は異なる

*

血液型性格判断は信用できる

37.5

血液型性格判断は当たっている

53.8

血液型性格判断は楽しい

83.6

血液型性格判断が好き

61.5

コミュニケーションに役立つ

40.4

初対面時に役立つ

26.0
血液型を考えてから対人行動 5.8

血液型によって行動を変える

4.9

他者行動の理解に役立つ

14.4

血液型でまず相性を考える

26.7

血液型に関する記事をよく読む

57.7
自分を知るのに役立つ 26.0

知らない自分がわかる

12.5

自己について新しい発見をする

16.4

自分を客観的に見られる

26.0
A型の人はきらい 5.8
B型の人はきらい 10.6
O型の人はきらい 1.0
AB型の人はきらい 10.6

* 本回答のみ、回答は以下の5件法で求めている。
「血液型によって性格は非常に異なる」(0%)、「かなり異なる」(10.5%)、「やや異なる」(61.1%)、「あまり異ならない」(16.8%)、「全く関係ない」(11.6%)

 70%以上が「血液型で性格が異なる」と回答していることがわかります。

 この項目の説明には直接の関係はありませんが、血液型による「弊害」に、「△型の人がきらい」という「偏見」を植え付けるからいけないというのがあります(表の最後の4行)。しかし、これは少しおかしいのです。
 なぜなら、心理学の「性格テスト」についても、特定の性格(ネ○ラなど)がきらいと答える人はいるはずだからです。直接的に比較するデータはありませんが、常識的に考えて特定の血液型がきらいという率(10%程度以下)より大きいに違いありません。では、性格テストを行うのはいけないのでしょうか? 性格テストは、自分で公表しなければわからないというなら、血液型も自分から公表しなければわからないはずです。
 また、収入や学歴についても血液型以上の偏見があるでしょう。先天的なものなら、容姿や身長はどうなのでしょうか? これらも血液型以上に「偏見」があるはずです。これらもいけないが血液型もいけないというなら理解できるのですが、私が否定論者に質問をしたら全員(なぜか?)黙ってしまいました。ですから、未だに血液型だけが悪いという理由は分かりません…。

 次に、別なデータを見てみましょう。もちろん、アンケートの対象は同じです。

Table 4 血液型ステレオタイプを肯定・否定する理由の因子分析(バリマックス回転後の負荷量)
 →因子分析のデータは省略 →太字は50%以上

項目名

肯定率(%)*1

1. 血液型性格判断は科学的だと思う

11.6

2. 血液中の成分が異なれば性格にも影響を与えるはずだ

26.4

3. 血液型性格判断は雑誌によく載っているので本当だと思う

15.3

4. 自分の周りの人は血液型性格判断の結果がよくあてはまる

54.4

5. 他人の血液型がなんとなくわかる

55.3

6. 自分と同じ血液型の人は、自分と性格が似ている

45.9

7. 性格は血液型よりも環境によって作られると思う

93.1
8. 人の性格は血液型による4タイプには分けられないと思う 93.1

9. 人の性格は血液型で判断できるほど単純ではない

92.5

10. 同じ血液型でも違う性格の人がいる

98.1

11. 自分の身の回りには血液型性格判断のあてはまらない人がいる

78.3

12. 血液型性格判断の内容は自分には当てはまらない

21.3

注: *1 肯定率は、その項目に「そう思う」「ややそう思う」と回答した者の割合。

 このデータは、そのほとんが納得できる結果といっていいでしょう。血液型が性格に与える影響というのは、それほど大きいものではありませんから、これは当然の結果ですね。ちなみに、肯定率が90%以上の項目は、

 ということですが、既に書いたとおり70%以上の人が血液型と性格は関係あると考えているのです。

 「自分の身の回りには血液型性格判断のあてはまらない人がいる」の肯定率も78.3%と割合に高いのですが、このデータはちょっと問題があります。というのは、血液型による性格の違いを正確に知っている人というのは割と少ないからです(せいぜい40%程度)。だから、「あてはまらない」のではなくて、「正確には知らない」のかもれません。

#残念なのは、「血液型性格判断は科学的だと思う」の肯定率が非常に低いことです。う〜ん。

 以上のことから、「血液型によって性格は異なる」ことと「性格は血液型よりも環境によって作られると思う」「人の性格は血液型による4タイプには分けられないと思う」「人の性格は血液型で判断できるほど単純ではない」「同じ血液型でも違う性格の人がいる」というのは別に矛盾しないことがわかると思います。   -- H10.9.22


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最終更新日:平成10年9月22日