最大素数さんからのメール
最大素数さんから、いろいろと貴重な情報をいただきました。私だけが読んでいるのはもったいないので、特別コーナーをオープンしました。最大素数さん、いつもどうもありがとうございます。
元の発言は、みなさんからのメールのNo.139です。その他にsimaさんからのメールに対して何通かいただいていますが、ここには掲載していません。
とっても(^O^)
2.お気に入りのページ
E−MAIL
3.血液型と性格の関係は?
どちらともいえない
4.メッセージ:
初めまして。
たいへん楽しく拝見しています。どのページも面白いと思いますが、やはり、メールのページがいろいろな意味で一番興味深いですね。
ところで、貴ホーム・ページのメール送信は、何度試してもERRORになってしまいます(^^; ので、こうして直接メールさせていただきます。
B型・男です。わたしのメールは匿名(血液型・性別・ハンドル<最大素数>)条件に公開可です。
「ABO FAN」に出会ってまだ(もう?)半年程度ですが、実に丁寧、と言いますか、"タフ"な造りに圧倒されています。
(能見)正比古氏を「血液型人間学」で知り、後に"三部作"となる続編を、それこそ千秋の想いで待ち、出ると即買い、熟読したものでした。
気質・性格についてはそのずっと以前から興味があり、特に高校生の頃はきっちりハマっていました。しかし、「性格」に関して心理学は案外に"脆弱"であるように感じていましたので、正比古氏の所見は非常に新鮮でした。が、結局のところ、血液型と性格(気質)の関係の真の解明には、どうしても心理学的方法論にたよらずを得ず、そう言う意味では(「性格学」の発達待ちということになり)まだまだ時間がかかるだろう、と、興味の中心から外れてしまっていました。
ただし、心理学者の反発が激しいらしいことはうすうす感じていました(例えば日大の大村教授の反論のTV番組のヒステリックなデタラメさかげんなど)。とはいえ、そのような"極論"は少数派で、"まとも"な学者は(少なくとも正面きって公には)否定していないと思い込んでいました。なぜかと言えば、体質と気質の関係は、かのクレッチマーの研究をもって嚆矢(?でしたっけ)とし、今でも「性格学」の基本の一つなのですから、血液型と体質が無関係ではない以上、血液型は気質・性格と関係ないなどという立場をとれる筈がないと確信していたからです。(今、この辺の事情については一体どんなことになっているんでしょう)
近年、インターネット遊びをするようになって、正比古氏の統計処理のインチキが暴かれたとか、脳には型物質が存在しないので型物質と脳の働き(による気質も)は関係がない、などという話しを耳にし、心理学が「性格学」を確立する前に、数学(統計学)や医学(生理学)によって血液型と性格の関係が否定されてしまったのか、などと思ってしまっていました。
でも、まぁ、なんかヘンだなぁと思い、すぐに、例えばここにたどり着いてそんなことでは全然ないのだということを知りました。そういう意味では本当にありがとうです、owadaさん。それにしても、情報の偏りって恐いですねえ。
大村教授の反論のTV番組について。(放送局・時間等、忘れてしまいました)「血液の型と性格がどう関係するというのですかっ。あんなのは全くのデタラメですっ」を基本に「人の性格が4種類なんて信じられますか?」など、言いたい放題のあと、そのいい加減さを実証しますと言って、学生を何十人か登場させて「実験」をしたんですね。
血液型による性格の特徴を書いた紙片をそれぞれ違う血液型の人に読ませ、自分にあっているかどうか判定させ、結果、誰にどれを提示してもそれぞれに思い当たるので、血液型と性格の関係といわれているものはウソである、としたわけです。
まず、被験者が自分の性格を正しく把握しているかどうかは問題だとおもうんですが、「性格」とはなにか、ということと循環論になりそうなのでおいときます。が、それをチャラにする方法もありまして、それは、クレッチマーの体質分類でも、YG検査でも、心理学で認められている性格分類を用いて、同じことをやってみせれば良かったはずなのです。と、いうより、そもそも、クレッチマー説や、YG検査の正当性はこのような検証に耐えて認知されたのでしょうか。さらに、そもそも、こうした方法自体の、「検査方法の検証能力」はどのように認められたのでしょうか。
・・・ 寡聞にしてわたしは知りません。
長々と書いてしまいました。この件についてはいろいろ思うことがあるもので、つい饒舌になってしまいます。末尾になりましたが、実は、わたしは血液型と性格の関係については『どちらとも言えない』立場です。今度はその辺に関して、少しづつ書きますので、暇つぶしのネタにでもしていただければ嬉しいです。
長文のメールをどうもありがとうございます。私は個人名を出しての批判は極力していませんが、基本的にはほぼ同感です。v(^^)
心理学者は、なぜ「関係ないのに関係あると思うのか」というがテーマなようですが、私は心理学者が「なぜ完全には否定できないのに否定できると思うのか」あるいは、「なぜ完全には否定できないのに一般の人に完全に否定できると思わせたいのか」というのがメインのテーマです。(^^;;
その私なりの答えが、この『ABO FAN』です。どうぞ楽しんでいってください。このHPは、インターネットと多くの方からの貴重な情報(感謝!!)で成り立っています。確かにインターネットはすごいですね。
ところで、「どちらともいえない」という根拠をぜひ知りたいですね。再度メールを出していただくなり、MLに入っていただくなり、ご自分でHPを立ち上げるなり、いろいろな方法があると思います。
これからを非常に楽しみにしています。(^^)
> 非常に楽しみにしています
などと言われて、調子にのってまた長くなってしまいました。(^^;;
まず、極論で考えてみます。『人は、ABO式血液型で4種類に分けられるが、割合は均等ではなく、AB型は全体の1割である』ということを知ったAB型の人が、「AB型の人は"選ばれし"民なのだ」とか「AB型の人は"オミソ"なのか」などといった『少数派意識』にとらわれて、それがなんらかの行動性向として観測できてしまったら、血液型と性格に「関係」が「ある」といえるのだろうか、ということです。これは勿論A型の『多数派意識』と言っても同じです。はたまた、この例で言えば、もし1割なのがA型だったらば、A型が『少数派意識』に基づく行動性向を示してしまうわけです。
この極論の例でいえば、血液型と性格に因果関係はなく、行動性向として観測できたからと言って「関係」があるとは言えないと思うんです。このサイトで初めて知りましたが、否定派心理学者の研究で、結果として「A型だけが年々"らしく"なる」と解釈できるデータがあります。これも、ひょっとすると、A型が『多数派』だからではないのか、という仮説があり得ると思っています(文末・補足)。つまり、もし、AB型が最多数派だったら、唯一"らしさ"をみせたのはAB型であった可能性は否定しきれない筈で、そういう仮説に基づいた検証が欲しいところです。そして、実は、その「方法論」こそ「心理学」のものではないかと考えています。
正比古氏の着眼は本当に素晴らしいのですが、どうしても、そのような再検証が不足しているように思います。勿論、それは正比古氏の責任ではなく、わたしは「心理学」の責任だと考えています。
とは言っても、『否定』すること、そのものに責任を求めているわけではありません。否定する論理が「心理学の方法論」とでもいったものではなく、借り物の論理(統計学とか医学)にばかり頼っているところが問題だと思っています。が、このことはこのことで別問題ではあります。
ともあれ、血液型による分類と、ある種の性格(というより気質と言いたいが)とが、「統計的」に関連を見せることは確かなようだが、「血液型」の違いそれ自体と「性格(気質)」の違いの関係かどうかは分からない、というあたりが現状の正確な表現かと思います。
ただ、まぁ、「A型だけが年々"らしく"なる」の例で言えば、「血液型と性格の関連の否定」にばかり気を取られ、「特定のグループ(A型だから?最多数派だから?あるいは他の?)だけが信念を強化される」という現象についての考察に至らなかったように見えるのですが、だとしたら、"研究者のプロ"として恥じてほしいですね。
最後になってしまいましたが、わたし自身の見解・立場を確認しておきます。
「気質・性格」が、脳にせよ他のなんにせよ、なんらかの"実体"に依存する("実体"を必要とする)ならば、その"実体"の質的な違いは「気質」の違いに反映することがあり得ると考えます。即ち、「"実体"の質」とは「体質」であり、「血液型」もその「体質」の要素の一つであるいじょう、「血液型と性格」になんらかの関係がある可能性は高いと思っています。
感覚的には、「関係が発見された」にせよ「(関係するという証明が全て覆された、とか、性格に決定的に作用する因子の発見、などにより)血液型と性格の関連は殆ど意味が無い」と否定されたにせよ、「ビックリ」しちゃいますね。(^^;; ま、後者の方が「ビックリ」感は大きいでしょう。
ただし、関係があるとしても、「体質」の、どんな「違い」も「気質」の「違い」として現れるわけではなく、また、"わずかな"「体質の違い」が"大きな"「気質の違い」となったり、その逆もあり得ることでしょう。これは、"言葉のアヤ"とかいうことではなく、「体質」と「気質」とでは、それぞれ「違い」の観測・計測手段、結果の評価方法が違うことによる必然的事実です。
また、仮に「関係」があるとしても、傍目にわかるほどはっきりした違いを生むかどうかはまた別の話しだとも思っています。
補・「最多数派だけが信念を強化される」仮説((C)わたし、ってホントか^^;)
この論文では、Bも"らしく"なる傾向あり、なのですが、日本人全体が"B化"の傾向ということですから、Bについてはここでは考えません。ただし、これは総理府主導の「ゆとり云々」キャンペーンの影響が考えられ、そうだとすると、「多数派になびく」傾向の傍証にはなりそうですが・・・ 。
各血液型の特徴として、正比古氏はかなり注意深く長/短所を公平に描写しようとしていますが、人はやはり自分の短所との対峙は苦手でありまして、どうしても「誉められ(長所)」たがってしまうのですね。(^^; そういうわけで、各血液型の人がそれぞれの長所だけをより強く意識するようになる可能性が高く、そうなると、多数派Aの長所(社会のルール尊重、など)を「良し」とする人が(全く当たり前のことに)一番多くなりますね。(^^; つまり、多数派であるが故に、社会的に認知されやすくなるわけです。すると、当然、例えば、社会のルールを尊重することを良し、とするAが増えると思うんです。つまり、本当にA型が「社会のルールを尊重する」かどうかとは別に、そうなろう、そうしよう、はたまた、そういう自分で良いのだ、とするAが増えるんじゃないでしょうか。「血液型人間学」の知識の無いO、B、ABの中にもそういう傾向を良しとする人はいるわけですが、血液型の特徴を知ることで「強化」されることはありません。
これは、勿論「最多数派だけが信念を強化される」理由の仮説であって、血液型と性格の関係そのものとは全く別の話しです。
そんな理由で"らしく"なってしまうのは「お調子モンのB」だけだろうって?(笑)
またまた長文のメールをどうもありがとうございます。m(._.)m
やはり、同じようなことを考える人はいるのだと感心してしまいました。これには血液型には関係ないのかな(笑)。
グループの人数によって性格傾向が影響されるということはありえます。実際にそういう研究結果も心理学者から発表されていますが、ここではあえて紹介しません。というのは、この研究方法はどうも信用がおけないからです(これ以上書くと悪口になるので自粛します…)。:-p
代わりと言ってはなんですが、No.138にも書いた、例の結婚したくないデータを掲げておきます。このデータは、佐藤達哉さんの論文、「プラットタイプ・ハラスメント」からです(『現代のエスプリ〜血液型と性格』 No.324 至文堂 H6)。
表3 各血液型のイメージ(%) N=318
A B O AB なし 隣には住みたくないタイプ
6 18 2 20 51 仲間として一緒のクラブに入りたくないタイプ 6 9 2 13 64 結婚したくないタイプ 10 12 3 22 50 自分には好きになれないタイプ 5 12 2 14 60
太字のA型とO型に注目してください。イメージがいいのは、O>A>B>ABの順ですから、明らかにA型とO型が逆転していることがわかります。つまり、必ずしもグループの人数だけで性格傾向が影響されるのではないのです。この手のデータは数が少ないですから、確定的な結論が得られていないことを付記しておきます。
次に、「『A型だけが年々"らしく"なる』と解釈できるデータ」というのはありません。この調査では、A型とB型以外には大きく差のあるあるデータは出てきません。たぶん、質問項目か質問方法に問題があるのではないかと思います。ですから、O型が年々O型らしくなる、といったデータも探せばあるはずです。面白いことに、このデータ(Fig.7)を見るとB型の平均線からの変動が大きい割にはA型の変動が少ないのです。この差は、A型の人数がB型より多いという統計的な違いだけでは説明不能(バラツキはサンプル数の平方根に比例するので、せいぜい1.4倍)です。つまり、B型は外部の環境に影響されやすいので変動が大きいが、A型はなかなか自分の考えを変えようとしないので差が少ないのかもしれないのです。もっとも、これだけでは単なる仮説にすぎません。いずれにせよ、非常に興味深いデータです。
次に、血液型と性格の知識のない人だけのデータもあります。このデータも非常に面白いです。どう見ても「関係ある」というデータなのですが、巧み(?)にそれを隠しているのです(私がそう思うだけ?)。隠し方も非常に巧みですが、私はなんとか「関係ある」という「状況証拠」だけはつかんだつもりでいます。この論文を書いた人は、能見さんと比べられるほどの天才に違いない、と私は信じています。しかし、執筆者は心理学者です。どうしても「関係ある」とは書けなかった。しかたないので、論文ではこのデータを隠すことにしました。隠し方も実に見事です。とにかく、この論文はすごい! 私にはそれしか言えません。
#お断りしておきますが、この結論は全く私の推測です。
なにしろ、この論文と同じ方法を使えば、たかだか100人程度のアンケートで明快に「関係ある」ことが証明できるのですから…。
次に、傍目にわかるほどはっきりした違いを生むかというと、これは確かに違いはあります。これもデータを見れば一目瞭然です。結論を述べると、ランダムサンプリングをやると見事に差が出ません。逆に、均質なサンプルなら見事にはっきりした差が出ます。考えてみれば当たり前で、実験をやるなら「純粋」な材料を使うのがいいに決まっています。ランダムサンプリングという「不純物」の入った材料でやったなら、当然出るべき差は出るはずがない。入手できた何種類かのデータでも、男女別のデータなら差が出るが、男女一緒にすると差が極端に減る傾向が明確に出ています。
いずれにせよ、いろいろなデータをじっくり見ていくと、能見さんの言ったことがほとんど証明できます。彼が天才だった証拠でしょう…。
最後に、時間的な関係で前回のメールでお答えできなかった点を2、3書いておきます。
>血液型と体質が無関係ではない以上、血液型は気質・性格と関係ないなどという立場をとれる筈がない
そのとおりです。血液型を否定する本にも、ヒポクラテスやクレッチマーの説は否定されずに掲載されています。
>正比古氏の統計処理のインチキが暴かれたとか、脳には型物質が存在しない
これも実に困った情報です。読者アンケートだから信頼性に疑問があるという情報が「統計処理のインチキが暴かれた」ことになり、ネイチャーの論文では「確定的な結論はない」のに「原著者が反論できなかった」ことになっているようです。ひどいのになると、「日本軍にはO型だけの特殊部隊」とか「脳には型物質がない」といった、全く事実と異なる情報が流布しています。レッキとした心理学者が(ウラも取らずに?)そう書いているのを見ると、私は猛烈に腹が立ちます(失礼!)。否定的情報を流すのは大いに結構なことなのですが、もう少し真偽をチェックしてからにしてほしいものです。それが、この「ABO FAN」を作った一つの理由にもなっています。
では。
今回は、(わたしにとっては)ナンダカヨクワカラナイ話し、をご紹介します。
「血液型人間学」が出版された頃、わたしは某社の新米で、電子機器メーカーの開発部で働いていました。(ちなみに未だ"マイコン"は生まれていませんでした)当時の直属上司の係長(A型)をはじめ、殆どみんな「血液型人間学」のファンでした。とはいえ、「うーん、この辺は思い当たるがこれは違うぞ。オレの場合トータルでは該当率3割だナ」「えーっ、半分以上当てはまってるよオ」「でもそういうお前はあんまり"らしく"ないな。お銚子モンてとこだけはピッタシだけど」という感じで、今振り返ってみると割と"健全"な楽しみ方をしていたように思います。
さて、そのA係長、特に肯定派ではないのですが、一つ、強固な考え(信念?)をもっていました。それは『グループ内にB型は一人に限る』というものでした。真偽のほどはともかく、なかなか面白い見解ですので(ま、わたし自身がB型ということもありまして気に掛かっているわけですが)紹介したいと思います。
この場合のグループとは、3〜7人ていどの仕事上の最小単位としての集団です。遊び仲間とか二桁人数以上のおおきなグループではありません(実務上はそうした大きなグループで動くことはなく、やはりもっと小さいグループに分けられますが)。
A係長によると、どんなグループでもBがいると、良くも悪くもそのBが「振り回す」というか「しきる」「リードする」のだそうです。そのBが立場上リーダーであれば勿論のこと、ただの平、下っ端であっても、そうなってしまうというのです。例えば陰気臭いBだったりすると、グループがなんとなく暗くて活気づかないし、凝り性のBで仕事に没頭するようだと、今日は定時で上がってちょっと一杯、という話がし難い雰囲気のグループになりがちだし、お祭りBだと、仕事中でも飲みに行く・行ったの話で盛り上がってしまうようになってしまう、というのです。で、そんなBが二人も三人もいたひにゃ大混乱で収拾がつかないってことで「一人」限定なのかというともう少し奥のある(?)話しなのです。Bが複数人いても、リード役になるのはその内のひとりで、他のBはそれに従い、混乱することはないらしいのです。どのBが主導権をとるかは上司・部下といった上下関係とは別の、A係長には理解できないナニカによって決まる、と言っていました。ともあれ、そのBの方向が、会社の利害と合致すれば問題ないのですが、やっぱりそれは多少なりともズレるわけで、その修正、場合によっては"押さえ込み"が必要でして、それがものすごく大変らしいのです。とはいっても、考えようによっては、そのBのコントロールでグループの性格をコントロールできるということでもあるので、対象を絞れる分、楽と言えばラクといえなくもないらしいのです。ところが、そのリード役Bの動向がかなりひどいということで押さえ込んだ場合、もうひとりBがいると、今度はそのBがリード役になってしまうと言うのです。A係長に言わせると、B二人の制御はとても無理、なんだとかで、よって『グループ内にB型は一人に限る』となるのでした。そういう意味で、全体の中でB型が2割(5人に1人)という割合は正に「天の」配分なのだそうです。
いかがですか。当人(?)のBとしては、折に触れ観察しているのですが、良く分かりません。グループの性格が、仕事の遂行と明らかに齟齬をきたすようならともかく、なにがどうでも殆ど気になりません。が、勿論、A係長には「それはお前がペースメーカー(予備軍)だからだ」と言われてしまうんでしょうけど。
社会通念として、集団の「まとまり具合」というのはかなり重要視されます。そういう価値観においてはこのような見方は結構支持されるのかなぁ、と思ったりします。
どうもありがとうございます。これに関しては、そういう経験がないのでなんともコメントできません。
当時の直属上司の係長(A型)をはじめ、殆どみんな「血液型人間学」のファンでした。とはいえ、「うーん、この辺は思い当たるがこれは違うぞ。オレの場合トータルでは該当率3割だナ」「えーっ、半分以上当てはまってるよオ」「でもそういうお前はあんまり"らしく"ないな。お銚子モンてとこだけはピッタシだけど」という感じで、今振り返ってみると割と"健全"な楽しみ方をしていたように思います。
いやぁ、懐かしいですね。確かにあのころはそうでした。最近は…以下自粛します。(^^;;
まず、なにはともあれ、勝手な長文メール一つひとつに丁寧なコメントをいただき、お礼申し上げます。その中で、よくわからない点やちょっと気になることがありましてメール差し上げることとしました。決して揚げ足取り等の意図はないのですが、書き方がまずかったりなど、そのように受け取られても仕方がないときもありますので、もし、そのように思われたなら、ご遠慮なくその旨(これは揚げ足取りだと思う、等)仰って下さい。
>「『A型だけが年々"らしく"なる』と解釈できるデータ」というのはありません
とのことですが、これは坂元さんの解釈、
- A型得点については、近年にいたるほどA型の人がA型得点が高くなっているという意味の交互作用が示された。
- A型以外ではこのような交互作用は、有意水準として15%を設定したものの、検出されなかった。
を、わたしなりにまとめたつもりの表現なのですが、その"まとめ方"が違うと、坂元さんはそういうことを言っているのではない、ということでしょうか?確かに坂元さん自身のまとめは「ステレオタイプの自己成就現象の可能性がある」という言い方ですから、「年々"らしく"なる」という言い方はちと乱暴かな、という気はしますが、マチガイというほどかけ離れてはいないのではないかと思うのですが・・・。
で、ひょっとすると、そういう意味ではなく、『[血液型と性格]の謎を推理する』で述べられている
>しかし、このデータでちょっと注意する必要があるのは、本当に「時間を追うごと
>に性格が血液型ステレオタイプに近づいてゆく」かどうかは証明されていないこと
>です。正確には、「時間を追うごとに質問の回答(性格そのものではありません)
>が血液型ステレオタイプに近づいてゆく」のです。(中略)
>この差は本当に「血液型ステレオタイプ」によるものかどうかは断定できない
というowadaさんの解釈に照らして、『A型だけが年々"らしく"なる』とは解釈できない、というコトなのでしょうか・・・ 。
原データは坂元さんの調査によることを尊重しまして、坂元さんの見解に沿うかたちで呼びたかっただけなのです。ですから、「補」でのタイトルはわたしの見解、「性格が変わっているかどうかはまた別。そう思い込んではいる」を反映させた(つもりの)「最多数派だけが信念を強化される」としてしまいました。ただし、「信念を強化される」という言い方はちとぎこちなく、誤解されそうでマズイかなあ、という(むしろこちらに)懸念はありましたが。
それとも、そういうことでは全然なくて、コメント中の
>O型が年々O型らしくなる、といったデータも探せばあるはず
というフレーズからすると、「『A型だけが年々"らしく"なる』と解釈できるデータ」だけが唯一正しいと認知されているのではありません、と言うような意味でしょうか。ですから、多数派がどうのといってもしょうがない、と。
であれば、(経過はともあれ)「観測された差の理由の仮説に基づく再検証が必要」というわたしの立場とあまり違いはないと思います。
それと、「平均線からの変動」については「人数の差」では説明できないとのことですが、質問項目や質問方法自体にも疑義を呈しているお立場からは「平均線からの変動」という結果も、評価の対象外になってしまいませんか?それはそれで別問題としても、バラツキをバラツキとして見てよいのかどうか、正直言ってわたしにはよくわかりません。
次に
>同じようなことを考える人はいるのだと感心してしまいました
についてです。ははあ、やっぱり(C)というわけではないのですね、って、まぁ当たり前ですけど。で、ちょっと気になったのが「同じよう」の内容です。
>グループの人数によって性格傾向が影響される
ということでしょうか?
わたしの見解はそれとは少々違うと思います。前段で述べましたように、「性格傾向」が影響されるかどうかは微妙だと思っていますので「グループの人数比によって性格傾向の検査結果に影響が出る」というほうがしっくりします。(実は「性格傾向」の意味内容が今一よく理解できません、すみません。ひょっとすると同じことでしょうか・・・)
ちょっと違和感を覚えるのは、この「内容」についての説明として、好感度の例を提示されて「必ずしもグループの人数によって性格傾向が影響されるのではない」と結んでおられるところです。(ただし、これは参考とのことのようですから、以下の文はひょっとすると"言いがかり"的なものになってしまうのか、大変不安ではあります)
原著書を持っていないので、もともとどのような意図でそのような質問項目が設定されたのか分からないのですが、「血液型による特徴は、単に"傾向"としてとらえられるのではなく、数が多い型の方が好感を持たれやすいのではないか、逆にいえば少数派の血液型の特徴はマイナスイメージを持たれやすい、つまり不当な扱いを受けているのではないか」といったあたりではないでしょうか・・・。つまり、もともと「型による数の差」が「型の印象」に影響しているかどうか、であって、この例では「型による数の差の影響」自体が"仮説"ではなかったのでしょうか。ですから「グループの人数によって性格傾向が影響されるのではない」ということは、「型による好き・嫌いの印象の偏り」は(「型による数の差」とは関係なく)正に血液型別の特徴それ自体が内包する「(印象の)良し・悪し」に依る、ということになってしまいませんか?
このサイトの一部でも読めばowadaさんがそんな考えではないことはよく分かりますので、わたしの推論がどこかで間違っているのですが、その間違いが初めに言った「ちょっと違和感」の原因ではないかと思うのです。
なんだかややこしいことになってしまいましたが、「この例」の第一「印象」は、O型の異常人気ですね。そして、まとめて言えば、「型による数の差」が「型の印象」に影響している傾向は窺えるが、A型は、有利に働く筈の「多数派」という立場を生かせない程嫌われているように見える、とでもなりましょうか。ま、"影響している傾向は窺える"って言い草はちとアヤシイですけど。
単なる勘違い・読み違いでしたら、そんなことで延々ページを占領するのは気が引けますので、公開する場合は適宜編集されても異議ないことを申し述べておきます。
たびたび、貴重なご意見をありがとうございます。
いやぁ、なかなか鋭いところを突いてきますね。(^^;; ご指摘の内容は、ほぼその通りと言っていいでしょう。
心配なさらないように最初に書いておきますが、この『ABO FAN』に来たメールは、特に指定がない限りそのまま掲載しています。ですから、内容についてどうこうといった心配は不要です。(^^) そんなことは気にせずに、どうか気楽に書いてくださいね。
#最近は、メールがかなり増えてきたたので、なかなか思うような返事が書けないのが悩みのタネなのですが…。
さて、
>「『A型だけが年々"らしく"なる』と解釈できるデータ」というのはありません
についてですが、これは私の説明が不十分でした。得点の計算方法は次のようになっています(太字は私)。
尺度の作成 「A型得点を例にとって」
JNNのデータにサンプルについて、「A型らしい」特徴があてはまると答えたなら100を与える、3つの特徴があてはまるので、それらの平均値を求める。「A型らしくない」特徴があてはまると答えたなら−100を与える。これも3つの項目があるので、平均値を算出する。両平均値を差をとれば、そのサンプルがどれくらいA型らしいか・A型らしくないかが算出される。これをA型得点と呼ぶことにする。
同様にして、B型得点、O型得点、AB型得点も計算する。
この「−100」があるために、(A型得点を見るとわかりますが)確かにA型はだんだんA型らしくなっています。他の血液型も同様です。しかし、尺度を一元化して見ると、どの血液型も(A型も含めて)だんだんB型らしくなっているのです。つまり、坂元さんの考察の、
A型の人以外は、年々非「A型」化している。また、全体的傾向としては人は非「A型」化している。これらの点の検討は、本研究の主眼ではないが興味深い。
のとおりです。
坂元さんには大変申し訳ないのですが、回答のついでに書いておくことにします。 血液型によってデータになんらかの差があり(極端な話、原因が「血液型と性格」でなくても何でもいいのです)、それが時代によってある方向に変わるとすると、回帰分析をすれば必ず「×型は年々×型らしくなる」という結果が得られます。ですから、これらの結果は当然なことで、不思議でもなんでもありません。従って、A型とB型しか差がないというのは、本当はおかしいのです。必ず全部の血液型に差が出るはずですから、O型とAB型の間にも差が出ないとヘンです。
といったものが考えられます。しかし、年齢・性別・地域別のデータは公開されていないので、チェックしようがありません。だから、本当の理由は不明なままです。 #ちなみに、大学生のデータを見てみると、A型とB型の差よりは、O型とAB型の方が差が大きく出ています。 結局、このデータは、日本人が年々B型的?(のんびり、自分らしく、趣味に生きる…)になっていくという傾向があり、それが血液型別に差があるので、必ず「×型は年々×型らしくなる」という結果が出ることになります。全然不思議でもなんでもありません。 [筆者注:上の説明には間違いがありますので、このページを最後までお読みください。m(._.)m] |
#実は、これは私が尊敬する坂元さんに反対する意見なので、少々遠慮して(?)書いていませんでした。(^^;;
>しかし、このデータでちょっと注意する必要があるのは、本当に「時間を追うごと
>に性格が血液型ステレオタイプに近づいてゆく」かどうかは証明されていないこと
>です。正確には、「時間を追うごとに質問の回答(性格そのものではありません)
>が血液型ステレオタイプに近づいてゆく」のです。(中略)
>この差は本当に「血液型ステレオタイプ」によるものかどうかは断定できない
ここは、はっきり言ってコジツケです。ただ、坂元さん以外の心理学者は(能見さんのデータに)そう言ってるので、単に皮肉ってるだけです。(^^;; 念のため書いておきますが、坂元さんにではなく他の心理学者にです。私は、坂元さんは尊敬していますから…。
>(経過はともあれ)「観測された差の理由の仮説に基づく再検証が必要」という
>わたしの立場とあまり違いはないと思います。
全く同感です。
>「平均線からの変動」については「人数の差」では説明できないとのことですが、
>質問項目や質問方法自体にも疑義を呈しているお立場からは「平均線からの変
>動」という結果も、評価の対象外になってしまいませんか?
おっしゃるように、これは単なる私の仮説です。また、前述のように、質問項目や質問方法は(O型とAB型は別として)ほぼ妥当なものだと考えています。なぜなら、A型とB型については、他のデータとほぼ同じ傾向を示していますから…。ということで、このデータはA型らしいなぁと判断しています。もっとも、検証には更に別のデータが必要でしょう。
>前段で述べましたように、「性格傾向」が影響されるかどうかは微妙だと思っていま
>すので「グループの人数比によって性格傾向の検査結果に影響が出る」というほう
>がしっくりします。
これは確かに出ています。ただ、直接的にグループの人数によるものではありません。能見正比古さんの死後、「不正確」な情報が世の中に氾濫して、その結果としてB型とAB型にネガティブなイメージが付きました。これがデータに差が出た最大の理由です。
以前は、特定の血液型にネガティブなイメージがあるということはありませんでした。その証拠に、昭和60年に出版された森本毅郎さんの『血液型人間学のウソ』には、AB型と信じていて喜んでいたが、後日A型であることがわかって憤慨したという記述があります(だから否定的な番組を制作し、この本を出版しました)。最大素数さんも、この辺の事情はよくおわかりでしょう。
#言うまでもありませんが、数が多いA型やO型なら、ここまで血液型のイメージが悪化するはずはありません。
>実は「性格傾向」の意味内容が今一よく理解できません、すみません。ひょっとすると同じことでしょうか・・・
同じことです。
>ちょっと違和感を覚えるのは、この「内容」についての説明として、好感度の例を提示
>されて「必ずしもグループの人数によって性格傾向が影響されるのではない」と結んで
>おられるところです。
前述のとおりです。
>「型による好き・嫌いの印象の偏り」は(「型による数の差」とは関係なく)正に血液型別の
>特徴それ自体が内包する「(印象の)良し・悪し」に依る、ということになってしまいませんか?>「この例」の第一「印象」は、O型の異常人気ですね。そして、まとめて言えば、「型による
>数の差」が「型の印象」に影響している傾向は窺えるが、A型は、有利に働く筈の「多数派」
>という立場を生かせない程嫌われているように見える、
前述のように、両方の要因が働いています。詳しくは、血液型再検討の「血液型は難しい!?−性格特性の誤解とその結果」をご覧ください。ある思想が社会現象になり、それが変容していく姿は、分析していて非常に面白いです。(^^)
殆ど思いつきのヨタ話しかもしれないわたしのメールで『特別コーナー』など作ってしまって大丈夫ですか、owadaさん。(笑)ともあれ、大変恐縮しております。貴サイトのレベル・ダウンにならぬよう心がけますが、わたし、デマカセB(そんなのありましたっけ?)かも知れませんよ。ま、そのときはクール非情のAB(これも、そんなのいた?)として断固たる処置をとっていただけるものと期待、かつ安心しています。
さて、前便は、simaさんとのやり取りが一段落したようなので当方と遊んでもらえるかなーと、タイミングを見計らったつもりだったのですが、うぅむ、バッティングしてしまいましたね。かえってowadaさんにはお忙しい思いをさせてしまったようですみませんでした。
前便につきましても、またまた大変丁寧なご説明ありがとうございます。いろいろと貴重な情報があり、本当にありがとうございます。ただ、ちょっと理解し難いところがありますのでもう少し詳しく教えていただけませんでしょか。(ずうずうしいBです)
『血液型ステレオタイプによる自己成就現象』に対するowadaさんのご意見「全ての型で同様の現象がみられる筈のもの」はなかなか興味深い見解です。その根拠なのですが
>時代によってある方向に変わるとすると、回帰分析をすれば必ず
>「×型は年々×型らしくなる」という結果が得られます
という説明がよく分からないのです。ごめんなさい。
これは、「血液型と性格(傾向)には関係がある」という前提でのことでしょうか。そういうことですと、例えば、「県民性について言えば、×県人は年々×県人らしくなる」という風に援用できる、と考えて良いものなのででしょうか。或いは、
>極端な話、原因が「血液型と性格」なくても何でもいいのです
との注釈に頼れば、実際に関係が有ろうと無かろうと、その関係が認知されている場合にはそう言える、ということですか?とすると、例えば、星占いによる性格診断にも見られる筈の現象、と言ってもマチガイではないのでしょうか。いやいや、全然そういうことでは無くて、「ある変化を時系列で分析するときには常に付いてまわる現象」とでもいった、"一般的な"考察によるものなのでしょうか。もし、そういう理由でしたら浅学の身をご容赦下さい。おいおい勉強いたします。ただ、日本人全体のB型化傾向が血液型によって違いがある、ことと関係あるようにも受け取れますので、上記3点ことごとくハズレで、要するに相当基本的なところで(わたしの理解が)間違っているのでしょうか。
なんか、イチャモン風にとられそうで心配ですが、勿論そうではないのです。お話しからは「型による数の差の影響」がない検証法があることになりそうですから、それって結構"画期的"だと思うんですが、どうでしょう。わたし、これまで、特にA型或いはAB型にだけ顕著というようなデータではいつも「数の差の影響」が引っかかっていたので、owadaさんは割とサラッと説明されていますが、非常に気になっています。
それはそれとして、こうして「気質・性格(傾向)」を話題にするとき、いつも思うのは、あれこれ言っても、(仮説が提示されても)その根拠、その検証や判定の、基礎と言いますか、立脚点としての「知識体系」をわたし達は持っていない様だ、という歯がゆさです。つまり、「気質」とか「性格」というものの共通概念足りうる定義です。勿論、「心理学辞典」なり「それなりの専門書」にあたれば「説明」はあります。が、その「説明」を踏まえて、例えば「早合点の傾向」ってどのように解釈できるのでしょうか。「早合点」は「気質・性格」の問題、ということがその「説明」から理解できるのでしょうか。(YG検査法の考え方によれば「早合点の傾向」は「のんきさ」に関係するらしい!アクロバチックな論理展開が期待できそうで、是非知りたいものです)いまの話題、「ステレオタイプ」とか「自己成就」を解釈するとどうなるのでしょう。どだい、「気質・性格」が「自己成就する・しない」という問題として設定できるかどうかを、「心理学辞典」の「説明」によって決定できるのでしょうか。勿論、単なる素人が、ひょいひょいと参照すればとっとと分かる、ということを望んでいるのではありません、当たり前ですけど。
現象の考察の際に、まずあたらなければならない定義・定理、理論といったモノサシはないのか、ということです。そういうことがわからないと、質問項目の妥当性とか結果評価における代替仮説の立てドコロが見えない筈なのです。
例えば、「音」を語るときに「トランペットってすごーくもの悲しい音でるよねー」というテーマが提示されたとします。そして、「行進曲や突撃ラッパなど、勇壮な音の楽器って先入観があるからよけいそういう印象になるだけで、"もの悲しい"って言ったら、ヴァイオリンじゃあないの?」「うんうん、でもね、二人ともちょっと待って」というふうに話が進んだとき、この"もの悲しい"という評価は楽器音の評価基準としてどうなのでしょう。
そういう場合、「音」とはそもそも強弱・高低・音色からなり、それぞれ振幅・周波数・周波数成分(=波形)によってきまる、ということがわかっていれば、"もの悲しい"度合いは音色の問題であり、その波形の検討・考察によって、"もの悲しさ度"的なものを想定して検証しうる、てなことが言えたりするわけです。実現の可否はともかく、応用・実用の道具足りうる理論がある、ということが大事なのです。
ということで、この例でいえば、トランペットかヴァイオリンかという前に、"もの悲しい"音色とは何か、が論じられなければならないということになります。この、『「音」とはそもそも・・・ 』にあたる『「気質・性格」とはそもそも・・・』を「心理学」は持っていないのではないか、ということです。「早合点しやすい、しない」という議論は「トランペットかヴァイオリンか」レベルなのか周波数成分レベルの話題なのかがわからないじゃあないの、ということです。「自己成就」現象が「気質・性格」の考察においてどう関わるものなのか、その検証の拠り所が見えないということです。私達の議論がどういう意味を持っているのか、どういう位相にあるものなのか、検証できなければ、結局、命題が肯定されても否定されてもそれを踏まえてより高次の命題に進む、ということもできません。
ま、話しをもどして、楽器音の比較で言うと、日常の会話としてはトランペットかヴァイオリンかで言い合うほうが面白いですよねえ。ある意味では、周波数成分の解析等、実証の方法論はちゃんとあるということを知っていればこそ、安心して別の切り口を楽しめるわけです。そして、「楽器ではないけど仔猫の鳴き声ってのはどう?」などと言い出すヤツも出てくるだろうし(また、そういうヤツがいないと会話が面白くないわけだし)、そしてそしてやっかいなことに、案外そういうやりとりの中から思わぬ真実がこぼれ落ちたりするんですが、しつこく言えば、そのこぼれ落ちたモノが"真実"かどうかは『「音」とはそもそも・・・』が無ければ判定できないのです。
どうもありがとうございます。
実は、こういう話をしたくてしかたなかったのです(笑)。ですから、余計な心配は無用です。(^^)
>時代によってある方向に変わるとすると、回帰分析をすれば必ず
>「×型は年々×型らしくなる」という結果が得られます
という説明がよく分からないのです。ごめんなさい。
これは、私の説明が一部間違っていたので訂正します。大変申し訳ありませんでした。m(._.)m
坂元さんの場合には、必ずしも「×型は年々×型らしくなる」という結果にはなりません。というのは、×型得点は×型らしい項目の得点を加(減)算しているだからです。一般的に、(重)回帰分析を行うと、説明変数X1、X2…とその血液型得点は、加(減)算だけではなく乗(除)算も入り、
K0+K1*X1+K2*X2…
といった形で表されます。ここで、Knは定数です。こうしてしまうと、「×型は年々×型らしくなる」とか言った(説明者が好きな)任意の説明が可能になってしまいます。しかし、坂元さんはそんないい加減なことはしていません。さすがです。
なお、加(減)算だけというのは、
X1+X2…
といった形です。ですから、坂元さんのデータは、確かに「×型はだんだん×型らしくなる」と言えることになります。県民性についても同様です。
そこで、実際のデータを計算してみました。A型以外は「×型はだんだん×型らしくなる」とは言えないので省略し、A型のみの結果を書いておきます。おかしなことに、実際に計算してみると、必ずしも「A型はだんだんA型らしくなる」とは言えないようです…。はて? #データは松井豊さんの論文の論文2からですので、4年分しかありません。
これをグラフにしたのが下の図です。 A型は相変わらずA型的で、他の血液型は非A型的になっている、という記述の方が妥当のようですが…。 |
>極端な話、原因が「血液型と性格」なくても何でもいいのです
との注釈に頼れば、実際に関係が有ろうと無かろうと、その関
係が認知されている場合にはそう言える、ということですか?と
すると、例えば、星占いによる性格診断にも見られる筈の現象、
と言ってもマチガイではないのでしょうか。
前述のように、乗(除)算も入った場合にはそう言えます。加(減)算だけの場合は、そうは言えません。その(差の)原因は、(仮にあるとして)グループの大きさによる差、といったものでも構いません。
>「型による数の差の影響」がない検証法がある
これは私の説明がよくなかったようなので、再度説明しておきます。私が読んだ心理学者の論文は、グループの大きさの違いで「性格の差」が生ずるというものではなくて、「イメージの差」が生ずるというものです。この論文によると、人数が少ないAB型が「不当に差別」されることになるのだそうです。なぜなら、グループが小さくなると「イメージが悪くなる」からだそうで、「少数者差別」につながると…。実際には、こんなことはあり得ません!
なぜなら、実際のデータを見ると、圧倒的にO型のイメージがいいからです。これでは、この論文の説明は、さっぱり当てはまらないことになります(この論文には、「A型が一番よく評価されているわけではない理由は明確でない」とも書いてあります)。
ちなみに、架空の集団を作って評価してみると、集団の大きさが小さいほど否定的になるそうですが、AB型の評価については説明できますが、いずれにしろO型の評価がいいことは説明できません。また、森本毅郎さんのケースも説明できません。ということで、必ずしもグループの大きさによってイメージが悪くなるとは言えないと思います。
統計的には、「型による数の差の影響」は簡単に計算できますので、ここには書きません。お好きな統計学の教科書をご覧ください。
性格の定義の曖昧さについては、能見さんが著書の中でいろいろと書いていますから省略します。私は、分野別データや観察によって補うことは十分(?)に可能だと思っています。これについては、前川さんの『血液型人間学』に詳しい記述があります。
最後に、私の考えを書いておきます。下のグラフを見てみてください(坂元章さんの論文から)。
まず、仮に自己成就現象があったとしても、A型だけであることが証明できます。なぜなら、他の血液型のグラフを見るとわかりますが、1978年には他の血液型よりも「×型らしくない」からです。では、1978年には「血液型と性格」は流行していなかったのでしょうか? そんなことはありえません!
また、1988年のB型得点を見ると、O型は「B型よりもB型らしい」ことになります。つまり、O型はだんだんB型らしくなり、1986年以降は、ついには「B型以上にB型的」になっていることになります。そして、AB型は一貫してB型より「B型的」なのです。同様に、1978年にはB型はO型より「O型的」、A型は「AB型的」であることになります。
では、なぜこんなおかしな結論が得られてしまったのでしょう。それは、A型以外は明確な「×型らしい」というイメージがないからです(詳しくはこちら)。具体的なイメージがない血液型に、「自己成就現象」が起こるはずがありません! だから、坂元さんが主張するように、
- A型得点については、近年にいたるほどA型の人がA型得点が高くなっているという意味の交互作用が示された(p<0.005)。
- A型以外ではこのような交互作用は、有意水準として15%を設定したものの、検出されなかった。
ということになります。
ところで、A型がだんだんA型化するのは、本当に自己成就現象によるものでしょうか?
実は、これも自己成就現象以外でも説明できるのです。1978年と1988年では10年の時間が経過しています。では、人間の意識は10年間でどの程度変わるのでしょうか?
坂元さんの年齢別のデータでは、年齢が10歳違うと、「A−B」得点が平均して5〜6点程度上昇します(Fig.5)。これだけではあまり確定的なことは言えませんが、どうやら10年後の同じ年代(××歳台)も「A−B」得点が平均して5〜6点程度低下するようです。
ここで1978年と1988年の「A−B」得点のデータを見ると(Fig.7)、A型とB型では2〜3点だった差が8〜9点程度に広がったことがわかります。つまり、10年間の差の変化は5〜6点です。
A型は自分の考えを変えないのに対し、それ以外の血液型は環境に応じて自分の考えを変えるとすると、この5〜6点の差がうまく説明できます。
随分とまわりくどい説明だったので、かなりわかりにくかったかもしれません。
つまりこういうことです。A型は固定的なルールを重視して自分の考えを変えないのに対して、B型はケジメがない(失礼!)ので周囲に影響されやすい、ということがデータからもうまく説明できる…かもしれないのです。ただ、非常に残念なことに、この仮説の実証には年齢別データの再分析や、更に別のデータの分析が必要になります。これだけでは確定的な結論は出せません。念のため。(^^;;
ただ、A型の人の各血液型別の得点を見ると、どうも他の血液型より変化が少ないようです。ということは、やはりA型は時代の変化に関係なく自分の考えを変えないのかもしれません…。
>実は、こういう話をしたくてしかたなかったのです
ありがとうございます。なるほど、確かに丁寧な解説で、恐縮してしまいます。あれかこれかと並べ立てたことについてもひとつひとつ説明してくださって、統計学に関するわたしの無知がずいぶんお手間をかけさせてしまったようで申し訳ないです。
ご説明の内容を咀嚼し終えるには、ちと勉強が必要ですね。ただ、印象としては、やっぱり、「気質・性格(傾向)」の基本概念を(タタキ台としてさえも)持っていないことが、いろんな意味で障害になっているようです。それと『むしろ「A型だけが変わらずA型的で、他は非A型的になっている」という方が妥当のようです』という考察は大変興味深いですね。
今日はまた別の話しを致します。
『クレッチマーの想い出』
心理学にハマッた高校の頃、「性格学」でクレッチマー説を知りました。精神医学現場での知見をもとにした彼の性格類型は病前性格などとと言われていますが、各類型の名称は、『躁鬱質』『分裂質』『てんかん質』等、病名そのまんまで、これには本当にビックリし、また正直に言えば"魅了"されてしまいました。勿論、解説には、その病気自体とは関係無いと(印象としては汗だくで)説明が付いているのですが、いきなり「えー、性格検査の結果、あなたは『分裂質』ですね」などといわれたらこりゃ魂消ますよねぇ。体質でいうと、健康診断後「あなたの体質は『胃癌質』ですね」などと言われたようなもので、どうしますぅ?いえいえ、胃癌になるとか、なりやすいとかではなく、単に体質の名称です、なんていくら説明されても、なにはともあれ、ガン保険にはいっちゃうでしょう?心理学ってすっげえコト言うんだなあ、とビックリし、そして確かに人間心理の研究にいちいち「人の気持ち」なんか考慮できるかいっ、なのかもしれず、そういう「ココロを鷲掴みにしちゃうもんね」的迫力を感じ、すっかりマイッてしまったわけです。今振り返って見直すと、心理学が内包する"差別"がわたしの"差別意識"にぴったりしたってことのようで、いやはや、であります。
「性格学」についてはその用語の曖昧さ(正比古氏がよく引き合いに出していた「神経質」という言葉はその最たるもので、後年、『血液型人間学』で正比古氏に大いに共感した内容のひとつです)に嫌気がさし、クレッチマー説でいえばそれに対する無批判な迎合に疑問をもち、心理学全体に対する興味もしぼんでいきました。
クレッチマー説の統計的検証については当時全く目が向きませんでした。原データとしてのクレッチマーの採取数・項目等は一般向け解説書には載っていず、また、追試のことにもふれていなかったように思うのですが、ま、この辺の記憶はアテになりません。
当時の初心者レベルの感想としては、各類型の妥当性の検証がないことが最大の不満でした。例えば、肥満人は『躁鬱質』というのですが、その内容として「お人好しの傾向」なんてことを言うわけです。太っている、ということは食に困らぬという場合が多く、要するにお金持ちと殆ど同義、ケンカせずを実践してたらそら確かに「お人好しの傾向」には見えるわな、と、その辺の事情についてはどうなのかなんか説明が欲しいわけです。体型=体質についてもそれ自身の検証って疑問だったですねえ。後年、肥満は体型より体脂肪率で決めることになった(?これ、例えば学会レベルで決定したとかいうことがあるんでしょうか)と聞いたときはクレッチマー説の終焉か、などと思ったりもしたのですが、心理学会には馬耳東風のようだったみたいです。そんな例えは失礼だって?馬に・・・。
クレッチマー説との一番最近の遭遇はTV放送大学の「心理学」で、'98のことでした。受講しているわけではなく、興味本位でこの手の番組はよく見るので、この場合もタマタマでした。(ただし、放送大学では「心理学入門」「認知心理学」「社会心理学」など心理学関係の講義はたくさんあるらしいのですが、どの科目かは分かりません)
時間をかけて(確か30分目一杯)説明用のフリップ等も豊富でずいぶん丁寧な造りだったと思います。トータルの感想としては、30年前よりはずいぶん精密に「性格」が解明できるようになったモンなんだ、と、ついせせら笑ってしまいましたけど。
さてさて、臨床心理士simaさんのお話しではクレッチマー説は既に6年前に否定され、表舞台からの退場が始まったそうですね。(全くの余談ですが、この方のメールの出だし、「臨床心理士のsimaです」ってメチャ格好いいっすねえ。これ、どうも『サイコメトラーEIJI』のヒロイン、特技プロファイリングの女刑事「志摩」さんが想起され、TV版「志摩」さん、大塚寧々ちゃん迄連想が行ってしまうせいでもあるようですが・・・)にしてもその情報を「精神医学の教科書を読んでいたときその脚注で知った」ってのには驚きました。「知らない心理学者も多いのではないでしょうか?」って、おいおいホントかよォ。少なくとも「性格学」のセンセ達は知ってんだろうなあ。それって、スゴイ内容を孕んでいると思うのですがねえ。そんな、"脚注"って、あぁた・・・。お話しでは、クレッチマー説に取って代わるナニカが出てきたわけではなく、これで、「心理学」は「体質と気質の関連」を説明"しない"ことになったわけで、一体どんなことになるのか想像できません。だって、気質や性格は脳の働きによるわけでしょう(これは、これでいんですよね)。わたしのようなコンピュータ屋から見ると、人体に比べれば(というより比べようがない程)単純なシステムである現代のコンピュータでさえ、ハードウェア(脳組織)と切り離してソフトウェア(思考そのもの)の性能(傾向)を評価することはできないのだけどなあ、なんて思ってしまいます。
わたしの感想はどうでもいいのですが、今後、なんらかの知見により、「体質と気質の関連」が明らかにされてしまったら(ははは、別に"血液型と"には拘りませんけどね)、心理学はどう対応するのでしょう。クレッチマー説の再検証、などと一時的にせよ復活させる?ま、否定の理由が「統計的緻密さに欠ける」とのことですから「統計的緻密さに欠けるとしたのは検証の緻密さに欠けていた」とでも言えばアリなのかもしれませんが。そうでもしなければ、結局「心理学は対応しない」とでも言うほかないよねえ。え゛、対応しなかったら「性格学」も沈没しちゃうんじゃないかしらん・・・。
そうそう、否定の理由が「統計的緻密さに欠ける」って、本気のセリフでしょうか。発表から七十余年かけて今(と言っても6年前)漸くでた結論が「統計的緻密さに欠ける」・・・。
T大学のSさんのホームページの「血液型性格判断は疑似科学か?」という論文は「血液型性格関連説の主張者は、心理学者と、50年以上蓄積された知見を無視しているように思います。」と実にカッコ良く締めくくられていますが、「50年以上蓄積された知見」の成果のひとつが「クレッチマー説は統計的緻密さに欠ける」ってぇのォ!?恥ずかしい・・・。
チャチャはともかく、これはマジなツッコミ。血液型性格関連否定の心理学者達の殆どが振り上げている拳(というより棍棒だナ)のことについてです。「血液型と性格は関係ないのになぜ多くの人が関係あると思っているのか」これは「体格と性格は関係ないのになぜ性格心理学の専門家が関係あると思っていたのか」に変更して、「心理学会」で見解を確定させていただきたいですねえ。本当に真面目な意見です。「血液型と性格云々」は所詮素人さん相手、「〜に関する無知」をベースに展開すれば、ま、何を言っても当たらずとも遠からずに落ち着くわけで、心理学自体の底の浅さの傍証程度の意義しか持ち得ませんが、「体格と性格云々」は違います。何と言っても(心理学者)自分自身のことですから、専門の心理学のスキルを縦横無尽に使って「関係あると思っていた」根拠を全て解明できることが期待できます。しかもこの「性格学の専門家」は複数いますから、各人の考察を検討しあうことで更に解明が深まるものと思われます。なんたってなんたって、皆その道の専門家なのですから。
これ、例えば、わたしら「メーカー」レベルで言えば「欠陥品」の販売であって、即無条件リコールですよ。「ごめん、間違っちった」で済む話しではありません。
クレッチマー説が"表舞台"というか"現役"から完全に退くまでにはまだ時間がありそうですが、その終焉に立ち会うことになりそうで、非常に感慨深いものがあります・・・。
面白い話をどうもありがとうございます。simaさんからのメールにも掲載させてもらいました。
ご紹介の『サイコメトラーEIJI』を読んでみました。女刑事の「志摩」さん、カッコいいですね。(^^) 現在、『マガジン』で大人気のようです。TVは見ていないので、なんとも言えません。
さて、統計は、私はあまり好きでもないし、得意でもありません。でも、データの分析は大好きです。(^^)
クレッチマーの説は、確かに画期的でしょう。でも、否定されているとまでは思いませんでした。実は、ある否定論者からそういうウワサを聞いていたのですが、まさか本当だったとは…。とにかく、心理学会には不思議なことが多いようです。
こういう文章もあります。これは安藤寿康さんの文章です(心の遺伝をめぐる11の誤解−再び注目を集める『遺伝・環境』問題」 現代のエスプリ第372号 H10.3 至文堂 203ページ)。
心の遺伝について、このごろようやく「科学的に」語られるようになってきたようだ。
これまで心理的な形質の遺伝を問題とすることはほとんどタブーだった。心や行動の遺伝を研究しているというだけで、あの(!)優生論者だの社会的ダーウィニズムだのと騒ぎ立てられ、科学的な議論に至る前に頭から葬り去られることがほとんどだったのである。
心理学者と議論してわかったのは、自然科学的手法は全く通用しないということです。これはしみじみわかりました。性格のようなものは、結果が正しいかどうかがはっきりしないのですね。だから、自然科学のように0か1かで決まる、という手法はなじまないようです。
閑話休題。私の体験もちょっと書いておきましょう。
最初、私は、能見さんのデータがまともでありさえすること証明すれば、心理学者は納得するものと思い込んでいました。この方法では、すでに前川助教授が『血液型人間学』という本を書いています(興味があるならぜひ読んでみてください)。しかし、それは単なる私の思い込みにすぎませんでした。彼の本は心理学会からは完全に無視されたのです。本の内容に問題があるとは思いません。ただ、心理学会では都合が悪いので無視(?)しているようなのです。
松田薫さんの本『「血液型と性格」の社会史』もそうです。心理学者に割と好意的な第1版だけ紹介して、第2版は心理学者に都合が悪いので完全に無視している。第1版は著者の意志で絶版にしたのです。紹介するなら、著者の意志を汲んで第2版だけにするか、あるいは全く紹介しないかのどちらかにすればいいのです。それだったら私は何も言いません。
ところが、実際はどうか。調べるとわかりますが、心理学者に都合のいい第1版だけ紹介しているのです。これではあまりにもご都合主義と言わざる得ない。それも、ある心理学者の2、3年前の本は第2版を紹介していて、最近の本では逆に第1版しか紹介していない。あまりにもひどいので、これには少々憤慨しています。なんだかんだで、私が一部の心理学者を信用しないのは当然(失礼!)でしょう。
おっと、随分悪口を書いてしまいました。元に戻ります。(^^;;
以前、私は何人かの心理学者(否定側)と議論しましたが、彼らは能見さんのデータは絶対に認めようとしません。これで議論になりません。そこで、能見さんのデータが正しいと証明することは諦めました。私がいくら正しいと証明しても、彼らが認めなければ議論そのものが成立しないからです。議論にならないのでは、全く意味がありませんからね。ところで、彼らも(本当の信頼性は別として)心理学者のデータを使うのは一向に構わないわけです。当然のことながら、心理学者のデータを使うのなら、結論を否定するしかありません。
ということで、「関係がある」という条件を何かさんざん議論しました。これは、割と簡単に結論が出ました。「完全なランダムサンプリング」、「複数回安定した結果」、「大きなサンプル数」の3つです。松井さん、坂元さんのデータはこの条件を完全に満たしています。
ここで、私は一安心しました。なにしろ、相手が出した条件を全部満たしたのだからいいだろうと…。しかし、予想は完全に外れたのです。その後、彼らは完全に沈黙してしまったのでした。メールの返事も、以後は全く来なくなりました。これは完全に予想外でした。つまり、(一部の)心理学者には一般の「論理」は通用しないということです。
これでは、あまりにもおかしいというので、血液型は「タブー」であるという証明を始めたわけです。現在の時点では、私の論理構成はほぼ問題ないと考えています。次に必要なのは、「タブー」である「証明」です。「証明」には「サンプル」が必要です。
ところが、うまい具合(?)にある心理学者(私のHPのどこかにあります)が私への反論を始めてくれたので、これ幸いと乗っかったのが、どっかのページの議論です。これで「サンプル」は揃いました。つい最近、別な反論のメールも来たので、これも使わせてもらう予定です(ちょっと気の毒かもしれませんが…)。
おっと、つい力が入ってしまいました。(^^;;
>ある心理学者が私への反論を始めてくれた
O大学のH助教授のことでしょうか?
うぅむ、申し訳ありませんが、わたしには「議論」といえる程噛み合っているようには見えなくて、ちと物足りなかったのですが、owadaさんにとっては「サンプルは揃」った時点で意義はなくなったということだったのでしょうか。
実際にH助教授かどうかはともかく、ついでなので、『心理学者の発想』を確認して、最近owadaさんご執心の「心理学会のタブー」について私見を述べさせていただきます。
自称「臨床心理士」simaさんもそうなのですが、まず初めの噛みつきに、他人(ひと)の口を借りて、っていうのがもう、見るからに情けないです。owadaさん、H助教授への反論の冒頭で「議論の最初に他人の主張を持ってくるのは心理学界の慣習でもあるのか」風にイヤミを言ってましたが、simaさんも、自分の患者の他は(最初のメールから)「友人」の話しを引き合いにだして攻撃してたわけで、「イヤミ」ではなく、いきなり「本質」を突いてしまったようですね。(笑)
そうした"腰の引け具合"と、owadaさんが問題にしてらっしゃる「タブー」とは、実は同じ根っこではないのかしらと思っています。
H助教授の攻撃の主体は、1.本論に対する否定論の論破が本論の正当性の証明にはならない。
2.肯定の根拠の議論には、データ収集法やロジックの立て方が「帰無仮説」の立証として問題がある。の2点ですが、これ、どちらも「心理学の知見」ではないと思います。まずは、「心理学の知見」に基づいた批評をすべきでしょう。勿論、心理学が論理学や統計学とは関係無いとか、関係してはいけないとか関係する筈無いということではなく、だって、そんな考察なら「論理学」なり「統計学」の専門家にお出で頂いたほうが実り多いかもしれないわけで「心理学者」が出張って来るこたぁ無いじゃん、って思ってしまうのです。そういう議論なら「O大学心理学研究室のH助教授」ではなく、「○○在住のH生」みたいな匿名氏で始めて頂きたかったですねえ。
そしてsimaさん。メールを拝見している限りでは、この方は「本質」論が「苦手」のようです。最近は専ら「管理人様の論の立て方」に言及することが多いようで、多分それは職業がらということなのでしょうから、近いうちに管理人様にはなんらかの診断結果とその自宅療法のご指導があるものと、他人事ながら楽しみにしております。それはそれとして、つまり、simaさんには「血液型性格関連説」を「心理学」の立場から論ずる、という発想は全く見られません。(最初のメールでわたしがなにを問題視したか理解できていないと思っています)
実は、これはお二人に限ったことではなく、既に何度も書いているように、「心理学界」の問題なのではないかと思っています。
T大学のSさんのホームページには『「関係」とは』と題した「関係の検証の理論と応用」についてかなり高度な内容を実に解りやすく解説したコンテンツがあって、とても勉強になりました。お世辞でもなんでもなくSさんという方はかなり頭の良い方と思われます(オマエに誉められてるようじゃタカが知れてる、って?ま、いいからいいから)。がっ、そのSさんにして、「血液型性格関連説」を「心理学の知見」から否定するという、言ってみれば「王道」を通ってはいないのです。Sさんの力量からして、「心理学の知見」から「血液型性格関連説」を論ずることが不可能な筈はありません。別に皮肉でもナンでもないことは前記『「関係」とは』を読めば誰でも納得できると思います。ですから、理由はひとつ。「血液型性格関連説」を論じうるだけの「心理学の知見」の蓄積といったものは無い、のです。あのSさんが、「科学的方法」なる概念をもちだして「血液型性格判断は疑似科学か?」って、ふっておいて、データ収集法がどうのの統計談義、そして「血液型は○○○なので、性格に関係する」の○○○が抜けてる、って!?「体格は○○○なので、性格に関係する」の○○○抜きで「クレッチマー説」をふれ回った70年間はどうするおつもりか・・・。そもそも「心理学」が「科学」かどうか問われているんじゃあなかったかしらねぇ。
「血液型性格関連説」に切り込む「心理学の立脚点」は「体質と気質」の筈じゃあないのですか。思考や感情の性向のうち、先天的なものと後天的なものに関する考察を踏まえて、まずは、正比古氏の気質の理解・評価(良し悪しではなく、例えば、神経質の"程度"の「評価」ではなく、"対象"を「評価」すべし、という意味での「評価」)・分類を論じるべきではないでしょうか。
素人論議で言えば、「このような質問によって得られる回答は、被験者の先天的気質よりも思春期の異性との交友体験による対人性向に依る度合いが高い」とか、「この質問では、アノ気質傾向とコノ気質傾向による意識を分離できない」「この質問とこの質問の回答意識には同一気質傾向が反映するはずであるが、結果が相反しているのは検査方法に不備があったと思われる」などなど、「心理学の知見」によらなければできない検証はいくらでも有るはずだと思うのです。
体質との関連はともかく、気質・性格の研究成果のひとつに「こういう傾向・度合いは、こういう理由(理論)で、こうすることで知ることができる(或いは"知り得ない")」という知見が無いとしか思えないのです。(「クレッチマー説」への疑義・否定の理由が「統計的緻密さに欠ける」ってのもその有力な証拠ですね。・・・それにしても、ったく、とんでもない連中です)
というわけで、心理学者はどうしたって自分の土俵ではないところで否定論を述べるしかないわけで、"腰が引"けちゃうのも宜なるかなでありますし、また、「タブー」もなにも、心理学界は「心理学」として「血液型性格関連説」に「対応」できないだけだと思います。「心理学会」は「論理学会」ではないし「統計学会」「差別問題研究会」でもありません。「統計学会」(ところで、そんなのあるのでしょうか)で「性格類型」は論じないと思うし、それは「タブー」だからではないと思います。
私のHPでは、原則として名指しの批判はしないことにしていますが、一般論としては全くそのとおりです。
否定論者(≒心理学者)といろいろと議論をしてきましたが、どうやら心理学的な反論というのはないようです。統計的な議論なら、心理学者は別に専門家とは限りませんから、(心理学者には失礼ですが)私と立場はそれほど変わりません。
#肩書きを名乗るのは、その方が自分に有利だからと判断しているからでしょう。
#私が肩書きを名乗っても、何も有利になりませんから名乗っていません。(^^;;
どうもにも困るのは、統計学的には無茶苦茶にも関わらず、結論だけは「血液型と性格は全く関係ない」と結論づける人が(実に!)多いことです。血液型関係の論文を読めばわかりますが、「まとも」なのは数えるほどしかありません。これは、なにも私が指摘しているのではなく、亜細亜大の前川助教授が『血液型人間学』という立派な著書で既に行っています。心理学者でも、(遠慮がちに)指摘している人も何人かは存在します。でも、時々あまりにもいいかげんな論文を読むと、もう苦笑するしかないのですが…。そういうわけで、少しでも統計の心得がある人は、多くの心理学者の結論には(一部を除いて)うんざりしているしているはずです。MLでも、そういう意見をだいぶいただいています。
まぁ、どの世界でもいろいろな人がいますし、私だって大したHPを作っているわけではありませんから、人のことは言えた義理ではないのですが(苦笑)。
もっとも、否定論者でも最大素数さんや私の主張を理解できる人も(何人かは)存在します。そんな人は、私の質問に全く答えないか、私にメールの返事を出さない人です。そういう人からは、非常に丁重な内容のメールをいただいたこともあります(感謝!)。逆に、理解できない人は、「わかってない」ことが「わかってない」のですから、いくらでも反論してくるわけです。:-p
Web上で肯定・否定両方の情報をなるべく集めて公開しよう、というのがこの『ABO
FAN』の趣旨ですから、そういう人からの情報でもこの趣旨には沿っていることになりますが…。
私は、今まで肯定・否定双方の意見の交換がなかったのが一番よくない、と考えています。ですから、自分の主張だけでなく、資料や根拠、そして私に対する反論などをなるべくたくさん集めたいのです。そういう意味での「サンプル」です。
私のHPが皆さんの議論に少しでも役に立つなら、実にうれしい限りです。(^^)
前便で「(simaさんから)近いうちに管理人様にはなんらかの診断結果」が下されるのでは、と書いたら、同日の便で「内部完結型の破綻した論理」とまとめられてしまっていましたね(笑)。「自宅療法のご指導」は無いなあ、と思ったら、それこそ彼女の本当の「お仕事」、無料ってわけにはいきませんやね。が、はて、「レッテルを貼って理解したようなつもりになる」というのは「血液型性格関連説」に対する典型的な攻撃のひとつだったような・・・。しかも「偉い社会心理学の先生達」と、どこかの誰かを引き合いに出したりして、これでは、以前のご自身のお言葉「自分にとって都合のよい著名人の発言の上にさらに仮定の上に仮定を重ねても、何の証明にも論理的主張にもなりません」同様「自分にとって都合のよい偉い人の行動に仮定を重ねても、何の証明にも論理的主張にもなりません」ってことでしか無く、少なくともsimaさんには「内部完結」した論理を期待したいものです。
さて、今日の本論です。
owadaさんが、実名を出しての批判は行わない方針であることは理解しております。わたしのメールに関して言えば、内容が"誹謗中傷"にあたるとのご判断から匿名にする等の処置は管理人の編集権のひとつとして異議ありません。公開に伴う問題は勿論全てわたしの責であります。が、少なくともH助教授に関しては、まあ、何も起こらないでしょう。(^^;
だって彼は、まず第一に「匿名」は相手にしない、というか、どだい目を向けませんからね。
そして、もうひとつ、わたしの論法は彼に認めてもらえる筈だからです。
H助教授がこの『ABO FAN』に攻撃をし始めたとき、また、某サイト(現在閉鎖中です)を攻撃したとき、同じ論法を使ったのでした。初めは「この」サイト、「誰々」という人というように特定できる表現であれこれ言っておいて、言われた相手が「私の何がなんですって?」というスタンスで具体的な論議にはいろうとすると「何故問題にしたかというと、この問題には一般性が認められるからであって、個人をどうこう言うのではない」という言辞に固執して個別の議論をしないのですね。で、その一般性とやらについても議論するわけではなく、「問題を指摘しただけである」と、何故かエバッて、おしまい。それってどう見ても"問題のすり替え"ではないのかしらん。
勿論、上記の議論は個人の論法自体を問題にしたいのではなく、いきなり殴りつけて、「あなた個人を殴ったのではなく、あなたの行為に内在する"悪"を問題にしたかったのだ」という言い方はおかしくないか、という疑義に一般性があると判断したからなのです(って、ううぅ、イヤラシい論法ですこと)。
つまり、(前便で引用した)H助教授の反論は「心理学界の知見」に依らないという「専門家としての責任を全うしていない」のではないかという疑義に一般性があり、その指摘が「血液型性格関連説」の検証にとって意義があると考えたからです(ぐぐぐ、本音ではありますが、こういう論法にのせると、すっげー胡散臭くなってしまうよぉ)。
がっ、H助教授を侮ってはいけません。『H助教授のお仕事』の(多分)一端が、彼のホームページで読めます。
「スキナー以後の行動分析学(6)・行動随伴性に基づく自己理解(1)」わたし同様、殆ど「自己理解」を目的として「性格心理学」や正比古氏の「血液型人間学」に興味を持っている方にはお薦めです。マジメな意味でも、興味本位にからかう意図でも面白いですよお。これ、話題にするときの視点をいろいろ持てる、という意味で誉めている(メールその5「音の例」参照)のですが、正直にいうとちょっとだけお世辞まじりです。
基本スタンスが「自分が属する性格類型を知っても自己理解に繋がらない」ぞ、っと、ましてや「血液型による性格類型」なんぞという根拠薄弱な分類はなんの役にもたたないのであって、「自分の行動の動機を知ることこそ自己理解への道」である、なのです。ね、面白そうでしょ。(随伴性とは、個体と環境の関わりの中に原因を求めるという"姿勢・理念・概念"も含めた言葉のようで、"動機"と言ってしまうのは多分、正しくありません。より、なじみのある言葉に勝手に置き換えてしまいましたが、どうか)
わたし自身は、「自己理解」へ近づけるものならば、「血液型性格関連」に否定的な人の研究だろうと、卑怯な論法の使い手の教えだろうと気にしません(ちゃらんぽらんのBです)。いろいろ「?」はあるわけですが、ま、まだ(1)ですからね、この段階で"批評"するのはフェアではないでしょう。仮に、その批評に一般性があるとしても、ね(笑)。ですから、以下は、今後注目したい論点、ということであります。
ここまでの議論では「自分の行動の動機(随伴性)」の解析は自分で行うようですが、このままでは、いわゆる「質問紙法の問題」を内包してしまいます。つまり、自己を知らないと「自分の行動の動機」の解析ができない、という"循環地獄"にはまってしまいます。さてさて、この辺はどうクリアされるのか、非常に興味深いところです。
次に、ここで論じている「行動」は、これまでのところ、実際に身体が動く「行動」ですが、将来的には、「あるテーマに沿って考え、自分の考えを書く」というような「行動」も射程に入ってくるのでしょうか。わたしは、机上の空論を弄ぶことが趣味の中で結構大きな割合を占めているので、その辺も「自分の行動の動機を知ることこそ自己理解への道」に繋がっていると嬉しいのです。ただ、これまでのところ、H助教授はご自身の議論の進め方を自己理解の糧とされたようには窺えないので、ちょっと不安ではあります。つまり、傍目には「イヤラシイ論法を常套とする人」と見えてしまうのに、本人の自己理解はそうした他者の「評価」とは無関係に行われてしまうことになりそうなのですが、しかし、そのあたり、どう考え、処理して行くのかも大いに楽しみなのです。
しかししかし、それだけでは、彼のお仕事をこの『ABO FAN』のページで取り上げる意味はありません。行動の動機付け(随伴性)の解釈例として、「適性や嗜好で決めた職業なのに、家族の扶養等で義務化する過程で"イヤイヤ"している情況になってしまう」という随伴性の変化をあげて、「好きで始めたはずなのに最近気が進まないのはなんでか」ということが理解できる、というわけです。勿論、初回論文であって、研究目的の説明例ですから、解りやすくするために簡略化されていますので、この例自体に突っ込むのは反則です。がっ、もうowadaさんは気が付いてしまったでしょうか、「義務感」が行動を強化する人や、「義務感」が行動の動機として殆ど意味を持たない人、はたまた「義務感」の「対象」が決定的な意味を持ってしまう人がいることを既にわたし達は知っています(勿論正比古氏の示唆によって、ですね)。つまり、「義務化した」後の行動の随伴性に基づく理解によって、更なる自己理解へと考察が進むのか、その内容が分析されれば、これは、わたしが渇望している「心理学の知見による正比古説の検証」の第一歩たりうるのではないかと思っているのです!また、一方、研究が切り拓く地平は「行動性向と気質性向の相関」といった分野に続いているようにも思え、それはそれで、大いに参考になりそうで、ワクワクしてしまいます。今からあんまり具体的な展望を広げてはしゃぐのはバカみたいですから、ここまでにしておきますが、そういうワケで、H助教授のお仕事にものすごく期待しているのですよ。ま、本人は鬱陶しいでしょうが、そういう意味ではわたし、日本一のH助教授ファンかもしれません。(^^;
一部を仮名に変更しましたので、どうかご了承ください。
#仮名にしてもしなくても、あまり変わらないような気もしますが…。f(^^;;
前のご返事に書き忘れたのですが、私は特定の方法に固執しているつもりはありません。要するに、私の主張が正しいと認めてもらえるか、あるいは「まとも」な議論ができれば何でもいいわけです。「タブー」について議論するのは、そのための一手段にすぎません。
さて、お知らせいただいたページを読んだのですが、時間の関係でコメントは省略させていただきます。申し訳ありません。
#具体的なデータでもあれば面白かったのですが、そのページには何も書いていないようですし…。
>一部を仮名に変更しましたので、どうかご了承ください。
勿論、何の異議もありません。が、考えてみますと、お手を煩わせてしまったわけで、申し訳ありませんでした。今後は、ちと考えます。
>さて、お知らせいただいたページを読んだのですが、時間の関係でコメントは省略させていただきます。申し訳ありません。
わたしの話しを読んで下さっているだけで感謝しています。この手の話しは、直ぐに「で、血液型で性格は分かるの?分からないの?」と結論に走りがちで、じっくり話しできる機会に恵まれなかったので、本当に有り難く思っています。ですから、わたしが紹介したページまで目を通して頂いたのはそれだけで望外のことでして、コメントしないことで「申し訳ありません」などと謝られては、わたしの立つ瀬がなくなってしまいます。
>特定の方法に固執しているつもりはありません。要するに、私の主張が正しいと認めてもらえるか、
>あるいは「まとも」な議論ができれば何でもいいわけです。
これは、自分のメールを読み返してみましたら「わたしには「議論」といえる程噛み合っているようには見えなくて、・・・意義はなくなったということだったのでしょうか。」が、言葉が足りませんでした。それと、誤解もあったかも知れません。
あのやりとりの中で、H助教授は「Web上での議論のルール」てなことを言っておきながら、まともな議論をする気はなさそうでした。傍目には、owadaさんがそういうH助教授の姿勢に気付くと、議論に引き込もうという論調より、owadaさんの主張に対する回答要求、という論調に変えたように見えました。勿論そのことの良し悪しを言っているのではなく、心理学者に対しての不満が大きいわたしには、そもそもH助教授が何故攻撃してきたかも分からないうちに"回答要求"という展開になったので、あれれ、と感じたのです。誤解して欲しくないのは、もっと議論すべきだった、というような不満・要求の意は全く含んでいない、ということです。それが、先のメールのコメントから「議論に固執してもしょうがなさそうだ。が、主張に対する回答(しなければ"しなかった"というサンプルの意味にはなる)の要求だけはしておこう」というようなことだったのかなあ、と解釈したのです。が、この理解、違ってますか?「議論に固執してもしょうがなさそうだ」というのはわたし自身の印象でしたので、つい、それをowadaさんにも当てはめてしまって誤読した可能性はあります。
今後ともよろしくお願いいたします。
やはり、よくわかっていらっしゃるようですね(笑)。
ご承知のように、ご指摘の部分については「議論」ではなく「個人攻撃」にもなりかねないので、意図的に説明していませんでした。
#わかる人はわかるし、わからない人にはいくら私が説明してもわからないですから…。
仮名にしたのは、議論をやりやすくするためです。恐縮していただく必要は全くありません。『ABO FAN』は、おかげさまで当初予想したよりずっと多くの人に読まれているので、こう見えてもかなり気を使っているのです。f(^^;; また、議論に「勝った」と読者にしつこく同意を求めるのは、私の趣味ではありません(これについてだけは反論は拒否します(笑))。少なくとも、公開された議論については、読者である皆さんの判断に任せるのがルールというものでしょう。
いずれにせよ、なるべく多くの皆さんに活発な議論を楽しんでもらおう、という趣旨ですのでどうかご了承ください。
そこで、仮名にしたこともありますし、以下では従来の方針を変更して「まとも」な説明をしておくことにします。
ほとんどの血液型と性格についての論争は、ご指摘のように「血液型で性格は分かるの?分からないの?」といった二者択一(あるいは「神学論争」と言ってもいいのかもしれません)の不毛の論争が多かったのではないかと思います。これではいけない、というのが私の立場です。だから、なるべく多く(特に否定論者)の生の意見を集めたいのです。議論にならないならそれでいいのです。とにかく、なるべく生の意見を数多く公開しようと思っています。もちろん、判断は読者の皆さんにお任せします。私の意見はあくまでも参考ですから。
H助教授に対する私の反応については、全くおっしゃるとおりです。なにも、最初から「まとも」な議論にならなくてもいいのです。繰り返すようですが、なるべく多くの情報を公開して、皆さんに判断の材料を提供しようというのが私の目的ですから…。例えば、実質的な回答拒否(?)という情報が公開されれば、少なくとも次の議論へのステップにはなるはずですからね。残念ながら、今まではそういう情報さえもオープンにされていませんでした。日本人は議論下手とよく言われますが、それにしても…。
#私が知る限り、例外は能見正比古さんだけです。
現に、最大素数さんのようにわかっている人もいるのですから、そういう人が少なくないことを信じたいと思います。こういうメールが来れば、私の努力(?)も少しは報われるというものです。(^^)
ここでは、井沢元彦さん(B型)の主張を拝借して、全く遠慮しないで書いておきます(逆説のニッポン歴史観 「無能大臣」を跋扈させる大新聞・TVの提灯報道 SAPIO 平成11年2月24日号 78ページ []内は私)。
民間企業だったら、こんな経営をしていたらすぐ倒産してしまうことでしょう。こういう現状を打破するためには、「外圧」か「内部告発」しかないというのが経験が教えるところです。注意しなければならないのは、官僚は「優秀」で「現場を熟知」しているということです。しかし、残念ながらそれだけではダメなようです。 さて、話を血液型と性格に戻しましょう。実は、全く同じことが言えるのです。 これは、公開された議論やいくつかの論文に当たってみればわかるはずです。 そういうことが読みとれる(?)だけでも、情報を公開する意味はあると思います。(本当かな?) ん〜、これが私の本質かもしれません(苦笑)。やはりAB型のイヤミでしょうか? |
血液型と性格に関して相当の見識と知識をお持ちのowadaさんが、「おだてに弱いB」に対して
>よくわかっていらっしゃる
などと言うのは、ぎりぎり反則だと思いますがねぇ。ま、勿論「アマノジャクB」ってのも忘れていないですよね。(笑)
それはそれとして、「議論」は難しいですね。否定派との議論で一番見応えがあったのはメールNo.22のO氏(血液型不明)との論争でしょうか。検証の対象に「知的エージェント」があると自然科学の対象にならない、という主張はなかなか面白かったですね。それが、血液型性格関連の直接の否定に結びつくわけではないので、そこがもう一つ喰い足りませんでしたが、お互いの主張がそれなりに噛み合って、良かったと思います。simaさん、人格攻撃スレスレになりつつあって残念。ただ、ほかの心理学者との非公開の議論の中にはもっと面白いやりとりがあったんでしょうが・・・。
今回のコメントでもそうですが、これまで多くの心理学者と直接メールで意見交換してこられたowadaさんならではの複雑な「感慨」が窺われます。わたしのように「心理学者」で括ってしまう態度には異議ありと忖度いたしますが、その辺は「立場」の違い、ということで宜しくお願いします。(自分勝手のB、ですかね(^^;;)
>データを見る限り、血液型と性格は「関係ある」としか言えません
>しかし。・・・優秀な人だろうがなんだろうが、心理学者は全員が否定論者ということにならざるをえません
で、早速一絡げにしてしまうわけですが(笑)、率直に言って、(少なくとも日本の)心理学は、「統計」による解析を心理学に取り入れたとき、応用可能の根拠としての「原理・原則」よりも、「傾向」を数量的に検証できる、という「いかにも科学っぽい手法」に目を奪われて、「何故適用できるか」をお留守にしたため、今更「データの統計処理による証明」といわれても、その意味が理解できないのではないでしょうか。今更、というのは、いったん否定した筈の「血液型性格関連説」(これも正しくは古川説の否定というだけの筈ですね)を、またここで、という意味です。「タブー」に関しても言いましたが、わたしは、心理学者達が「心理学の領域の減少、権威の低下につながる」などというそこそこ「立派」なことを考えているとはとても思えないんですよ。一般的にいっても、頭も良いし真面目なのに、なんで「アンナモノ」でしかないの?という「人」って、めずらしくないと思うんですが。
基本的、というより"幼稚"な疑問なのかも知れませんが、そもそも、『質問に対する回答の内容を分類して「数値データ」とすることで「統計処理」によって「傾向」を数量的に検証できる』という考えは、心理学では、どのような原理・原則に基づいて、いつ頃から認知された考えなのかなあ、などと思ってしまうんです。データの偏りから「傾向」を決定できるには、観測対象が本来は「一様」なもの、という前提が必要な筈ですが、「性格」も、そういうものということでいいのかしらん、と。つまり、体質も環境も生育過程も全く同一ならば、同じ「性格」である(或いは、になる)、と「心理学」は言っているということでいいのかしらん、と。となると、「気質・性格」は「〜の傾向」というように「違い」として認識・定義されるもののようですが、その根拠として「人類共通の気質」といったものがあるということになるのか、そもそも心理学上の「人の定義」は・・・と泥沼状態になってしまいます。あ、これは、単にわたしの「疑問」であって「質問」ではありません。実はわたし自身でちゃんと「疑問」としてまとまっていなかったりします(^^;;。そういう意味では「寝言」レベルですかね。
>やはりAB型のイヤミでしょうか?
結構気にしてます?「イヤミのAB」(笑)。他のページでも何ヶ所か見たような・・・。
「イヤミ」は他の血液型も勿論言うのですが、やはり一番「イヤミ」らしいのはAB型かもしれませんね。Aは小言っぽいし、Bはどうしてもからかう感じだし、Oはもっと鋭くグサッと悪口マンマになっちゃうように感じます。そして、面白いと思うのは、それぞれが、相手のセリフの「悪意(というほどのものではないのですが)」を、やっぱり自分の「色」で受け取るように見えることです。つまり、AB型の人って、Aの小言を、Bのからかいを、Oの悪口を、軽く受け流すことができずに怒るときって、「それ、イヤミかっ」って言って怒るような気がするんです。
ABがAにイヤミを言う、度を超してAが怒る、というとき、Aは「言い過ぎだっ、イヤミとは言えないっ」と怒るのではなく、「ガタガタうるせえっ」って感じで怒りません?もっとも、そんな度を超したイヤミをいうABという設定が無理ありますか?そういう意味ではBは直ぐに度を超しちゃいますから、からかいが過ぎて怒らしてしまうなんてのはめずらしくないので、結構相手の反応の違いが見えるような気がします。そういう意味では、軽いノリのからかいの筈なのにそれに怒ったOは怖いです。もろに悪意の中傷、って受け取りで怒りますから。半分ジョークだってば、なんていうのは火に油っす。
ははは、ほんの印象記です。失礼しました。
やはり、よ〜くわかっていらっしゃるようです(爆)。
前のメールとは反対の内容になってしまうかもしれませんが、「議論」そのものは難しいとは思っていません。現に、最大素数さんとはこうして「議論」が成立しているわけです。
ただ、私に対する反論は、構えたものが非常に多いのです。ですから、どうしても「議論」ではなく「誹謗中傷」や「悪口」になってしまう傾向があります(自戒の念を込めて…)。それだけだったらまだいいのですが、私がデータを示しても全く認めないのケースがほとんどです。お互いの前提が違ってしまったのでは「議論」にはならないでしょう。前提のすり合わせだけでほとんどの労力を使ってしまう、というケースが大半です。
#ほかにもいろいろありますが、あまり書くのはルール違反なので遠慮しておきます。(^^;;
そして、やっと「議論」になると安心したとたん、相手は完全に沈黙する、あるいは実質的に「回答拒否」というケースも多いのです。実例はわざわざ書かなくともおわかりでしょう…。(^^;; ということで、今回のように公開可能というのは非常にラッキーなことだと思っています。(^^) 肯定・否定それぞれの判断材料にはなるわけですから…。
No.22の内容については、いろいろと考えさせられるものがあります。この人はアメリカ在住のようですが、アメリカでは「血液型と性格」はタブーでもなんでもありません(もっとも、ほとんど関心を持たれていないのは事実です)。だから、この人は明らかに日本の心理学者の影響を受けていることになります。もう少しつっこんだ内容を議論したかったので残念です。
ところで、「性格」については、いまだに心理学的に正確な定義はありません。ウソのような本当の話です。ですから、百家争乱で決定的な結論は出ていないと言っていいでしょう。性格尺度の数も、最近になって5つだけ(「ビッグ・ファイブ」と言うらしいです)で大丈夫という説もあるかとも思えば、もっと必要だという説もあり、はては性格なんて意味がないとか、いやそうではなくて随伴性だとか…。あるいは、性格は環境だけで決まる、いや遺伝でも決まるのだ(ただし、なぜか血液型では決まらないらしいです)とか諸説紛々で、私のような素人には何がなんだかさっぱりわかりません。(^^;;
性格の測定については、いろいろとタブーがあるようです。これは、心理学を(無理に?)自然科学に近づけようとしたためではないかと思います。
これを裏付けるかのように、脳と意識の研究は最近まで、心理学では「タブー」だったという記述があります。
F・クリック 『DNAに魂はあるか』 〜驚異の仮説〜
31〜32ページ (講談社 H7.11) |
それから、血液型以外の「タブー」もあるようです。例えば、ご存じのページ(!)に書いた、社会心理学者の松井豊さんの『恋ごころの科学』のケースです。
この本によると、男性・女性とも、相手を選択する条件としては「身体的魅力」が70%以上の比率だそうです(元々はアメリカの心理学者のデータです)。しかし、実際に長期間交際している相手を調べところ、「身体的魅力が同程度のパートナーを交際相手として選択する」という結果が得られました。不思議なことに、この理由についてはほとんど何も書かれていません。これは、考えるまでもまでもなく、男性・女性の両方が「可能な限り身体的魅力が最大の相手を選択する」というルールで行動する、と仮定するとうまく説明できます。動物行動学、遺伝子学、実際の経験等々からしても全く妥当な理由でしょう(アメリカではどう説明しているのでしょうか?)。
しかし、誰にでもわかる(?)この単純な理由については全く触れられていないのです。そして、「身体的魅力」で「損」をするケースについて多くのページが割かれています。彼が私でもわかるような理由を知らないはずがありません。ということは、公序良俗(?)に反するこういう理由は、どうやら社会心理学的には無視しないといけないようです。血液型も同様です。要するに「怪しげ」と判断されたことは否定・無視しないといけないことになります。それが、社会心理学者の使命ということなのでしょうか?
#私が正しいというのではなく、この理由について全く触れられていないのが実に不思議なのです。
血液型についてはもう少し複雑です。まず、能見正比古さんの生存中は、彼にバンバン叩かれるのが目に見えているので特に反論はしなかったようです。これはいろいろな(状況)証拠から明らかです(反論した人も何人かいますが、いずれも心理学者ではありません)。ところが、能見正比古さんの死を幸いと(失礼!)NHKと組んで反論を放映したところ、肯定側からは何の反論もなかった。そこで、否定側の論文がじゃんじゃん書かれて「非科学的」というレッテルが貼られ、血液型は「占い」へと変質します。この時期には、反論はほとんど心理学者からものです。
#これらの論文は、信頼性が低いものが非常に多いのです。
心理学者の反論には、多分に嫉妬心が働いているようです。つまり、「在野」の能見さんが「アカデミック」な心理学の領域を侵すとはケシカランということです。能見さんの著書が爆発的に売れたことも嫉妬心を増大させたようです。そして、ついには反論を封じるために「差別」だという「レッテル」を貼ることに成功します。
#この傾向は現在まで続いています。
ついでに書いておくと、心理学者には奇妙な優越感と劣等感が同居しているようです。 最初に論文を読んで気になるのは、自然科学に対する劣等感です。再現性があるのが自然科学の特徴ですから、常識的に考えて、心理学は自然科学のはずがありません(「社会科学」か「人文科学」ですよね)。だから、質問紙法による性格テストが「自然科学的」に正しいとは誰も思っていないでしょう。性格テストはあくまでも「経験的」に正しいのです。 #「科学」なら再現性に基づいたデータで批判しないとおかしいのですが、現状では信頼性のあるデータや論文はほとんどありません。 どちらについても「科学」の名で批判しているのですが、実際には心理学は自然科学ではありえません。勢い、「科学」の名を借りた「感情的」で「権威主義的」な批判(失礼!)になっているようです。私に対する反論やメールの返事にも、こういう傾向が感じられます。 もう一つ書いておくと、心理学者にはどうも議論が嫌いな人が多いような感じがしています。だから、能見正比古さんとの直接対決はしなかったのでしょう。雰囲気でわかると思いますが、私のような「素人」でさえ嫌がられている(?)ようです。私は、科学とは定説を覆すものであると信じていますので、議論は当然だと思うのですが…。理系の文系の違いなのでしょうか? それとも、最大素数さんがおっしゃるように、心理学的な批判は不可能だからでしょうか? #私が正しいと主張しているのではありません、念のため。 心理学者だったら、何かしら心理学的な手法による反論があってしかるべきでしょう。しかし、実際の「反論」は、「感情的」で「権威主義的」としか感じられませんでした(失礼!)。これでは、AB型の私ではならずとも、少々うんざりするのではないでしょうか? |
ところで、心理学的には、科学的な説明よりも自分で納得したものの方を信頼することが示されています。つまり、心理学者がいくら「科学的」に否定しようが、自分で血液型で性格に差があると思えば、普通の人は自分の判断の方を信用するのです。これもデータにはっきり現れています。ただ、自分で「科学的」だと思っている「アカデミック」な人は、自分の観察よりも「科学的」な説明を信用するようです。:-p
ま、ここまでの説明はいいでしょう。問題なのは、「血液型と性格」については、ちゃんとしたデータのチェックが行われなかったことです。心理学者がやらないのは当然として、肯定側の誰もやらなかったのは不思議としか言えません。私のような心理学・統計学の素人でもできるのですから、実に不思議です。というのは、私と同じ考えの人は決して少なくないからです。心理学者の否定論を苦々しく思っている人は、たくさんいるようですから…。「血液型と性格」という誰にでも簡単に観察できるものだからこそ、意外な盲点だったのかもしれませんね。いや、私のようにHPを立ち上げるといった物好きな人(?)がいなかっただけなのかもしれません(苦笑)。
#古川説が能見さんに再発見されるまで30年以上あったのですから、別に不思議ではないのかも…。
これで歴史については、ほぼ説明ができました。
話を戻します。心理学者をタイプ分けすると、隠れ肯定タイプ、絶対否定タイプに分かれます。絶対否定タイプには2種類あり、何が何でも否定するタイプと、データで攻めると沈黙するタイプに分かれます(誰がどのタイプかはここには書きません)。とにかく、私のような「素人」相手の議論に感情的になるというのは、一体なんなんだろうなぁとは思います。専門家としての自覚があるなら、正々堂々とデータなり心理学的手法に基づいて議論をすればいいのです。感情的になる必要は全くありません。こんなことなら、「専門家」という肩書きは使ってほしくない、というのが私の正直な気持ちです。
もっとも、心理学者にもいろいろな人がいます。ただ、主流は血液型に否定的らしいので、やはり肯定的な論文は書きにくいようです。実際に論文を読んでみると、そんな印象を受けます。
もちろん、非常に親切な心理学者の方も多くいます。全員が上のような人ばかりではありません、念のため。そういう方には、この場を借りて感謝申し上げます。
おっと、長くなりました。
最後に、「イヤミのAB」というのは、ほとんどはユーモアとして使っています。これで、少しは読んで面白いかなぁと…(笑)。
では。
前川輝光さんの『血液型人間学−運命との対話』には、心理学者たちの事情が次のように記述されています(560〜561ページ 下線は私)。 心理学者たちに、性格検査で「権威主義的」その他、社会的に評判の悪い評価が与えられることはあまりありそうにない。なぜなら、彼らは、そうした性格検査の内容、仕組みについてよく知っているからである。ひとにその検査の結果を公表することになっている時には、意識的無意識的に、芳しくない結果を与える回答を避けるであろう。多少誇張して言えば、心理学者たちは、少なくともそのうちの反省心に乏しい者たちは、ひとを裁き支配する道具としてのみ性格検査、あるいは自らの奉じる心理学体系を用いていると言える。彼らはそれらによって裁かれることはない。
つけ加えておくと、医者は、個々には、性格についての傑出したディレッタントたり得るが、総体的には、もちろん、性格の「専門家」などではない。 |
>私に対する反論は、構えたものが非常に多いのです
もう、ハナっから「なんとしても論破、否定してやる」で凝り固まっているからなのでしょうね。ま、それにしても工夫が無さ過ぎではあります。「心理」学者というくらいですから、相手の考えを先取りして優位に立つ、なんちゅうテクに長けていそうですが、実情は全然違うようですね。実はちとガッカリです。論破を目的とする場合、常套手段といってもよいのですが、「済みません、よく分からないので教えて下さい」というスタンスで、主に相手に話させ、ほころびができるのを待つ、という手がありますけどね。特に、性格心理学は「分からない」コトだらけですから、「専門家」がそう言っても不自然ではない、という「利点」がある筈なのですが、ま、学者「センセ」にとっては「教えて下さい」ってのは抵抗強すぎるでしょうな。
simaさんも、メールの動機として
>一番の目的は血液型性格診断を強く肯定する方達に、「血液型で結婚や恋愛が左右
>されることはない」と言っていただいてそれを私のクライアントに見せたかったか
>らです。(メール;その8)
という「明確」な「目的」があったのなら、そう「言わせ」て見せて欲しかったです。owadaさんの考えはこのサイトのあちこち(というより全て)に反映されているのですから資料は豊富、「内部完結した論理」に切り込んで、「言わせ」て、後で「実はそう言って頂くことが目的で、いろいろ失礼なことを申し上げてしまいました。お陰様で、クライエントはすっかり立ち直ることができました」とでも吹いてくれればカッコ良かったのにねえ。
simaさん、といえば、メール(その16)なんですけど・・・。「本質的な議論が苦手」と以前メール(その7)で書いた覚えはありますが、わたしは「心理学者」ではありません(^^。がっ、わたしが心理学者を無能呼ばわりしていることを踏まえての「心理学者」呼ばわりなのだとしたら、うふふ、結構言えるじゃぁないですか、少しは「心理学者」を見直そうかしらん。そういう返しは好みですので、ご褒美にひとつ教えてあげましょう。ローマ字変換入力では「出張」は「SHUCCHOU」とタイプすると「しゅっちょう」になる筈ですよ(^^。うぅむ、ここまで読み返してみると結構わたしもイヤミっぽいでしょうか。・・・移ったとか。(爆)
>自然科学に対する劣等感
確かに、「ディジタル指向のせいか、1か0かと割り切りたがるが、現実はそんな単純ではない」などという知ったような物言いは劣等感丸出しで、ちょっと恥ずかしいです。ハード的には「1か0か」の判断技術の発達こそがコンピュータの進歩のメインであることを知っている人達は、「単純」のアナロジーに「1か0か」を持ち出すなんてことは思いもつきません。そもそも二者択一を言うときは「マルバツ」とか「白黒」と言ったもので、「1か0か」になぞらえるところに「劣等感」がチラチラしちゃうのですね。また、「1足す1は2と決まっている数学/自然科学と違って」ってのも同工で、マジに小バカにした風に言えば「例えば、コンピュータで使われている計算は1+1=1という数学であり、1+1=10と数えていきます。1+1=2はどこにも出て来ません」というところでしょうか。前段の論旨に沿っていえば、「専門家」としての「心理学者」はわたし(や、"自称素人"owadaさん)のような(心理学の)素人の言い分に対して、同じくらい小バカにした風の「解説」をして欲しいのですがねぇ。
ともあれ、いわゆる「文系」の学問には、おしなべてそういう傾向があるようです。多分、無いのは、自然科学の対極に位置づけられがちな「芸術」くらいなものでしょう。経済学にもそういう意識は顕著で、『経済学とは何だろうか』(岩波新書)という解説本は第一章「経済学は<科学>たりうるか」から始まっているくらいです。(ここで経済学者まで相手にする予定はありませんので内容については言及しません。・・・って、をいをい)
わたしも、理系ですが、ま、「現場技術屋」的発想の傾向が強いかもしれません。
電気屋の(設計・製造)「現場」は「理論(理想状態・原理)」と「現物(ワースト値)」の折り合い(というより、せめぎ合い?)が殆ど全てですから、「原理」をおいといて「現象」を語ることがどうにも落ち着きませんのです。「専門性」という意味では、例えば不具合対策の場合でも、機構的な症状だからといってメカ屋さんに任せっきりにせず、こちらはこちらで電気まわりをチェックする(放熱不足による高温で仕切り板が反ったことによる異音、なんてことがあったりします)、という風に、「まずは手前の足元を」意識がありますね。
わたしは、心理学者の否定の根拠(殆どWeb上での知見です)や、最近話題のクレッチマー説の取扱いから、心理学(少なくとも性格心理学)は「科学」以前の問題として、「学問」足り得ていないのではないかと考えています。
社会心理学の「タブー」話しとして
>「身体的魅力が同程度のパートナーを交際相手として選択する」
との話題、事実ならばowadaさんの解釈が正解でしょうね。他に理由は思いあたりません。
が、その調査結果、本当でしょうか。乏しい見聞と偏見によれば、「身体的魅力がアンバランスなカップル」のほうが多いような気がしますが・・・。ともあれ「身体的魅力」という"尺度"が決められる、という発想はスゴイですね。その「"尺度"を決めた意識」は差別意識そのものに他なりません。さすがにアメリカは「人種差別」という差別の本道とでもいうべき「差別」の本場、心理学者もこんなにはっきりした差別意識を無自覚・無防備のまま露呈しちゃうんですねえ。(かつてsimaさん、メールその5でこの研究に言及していましたが、この差別性には無頓着でした。授業時にもそういう指摘はなかったようで、全くもって、心理学が差別について語るなんざちゃんちゃら可笑しいこってす)
ほぼ同感ですが、私の意見とちょっと違うところもあるようですね。
世の中の現象は、自然科学だけで説明できるのは思ったより少ないのです。そういう意味で、「社会科学」や「人文科学」が必要になるのでしょう。それには、自然科学とはひと味違ったアプローチがあるはずです。それを自然科学的手法だけ(?)を適用しよとするから、妙な劣等感や優越感を持ったりしてしまうのではないでしょうか?
だいたい、自然科学的手法だけを使うのなら、どう頑張っても自然科学自体を超えることは不可能ですからね。だから、私のような心理学の素人が付け入るスキ(失礼!)が出てきてしまうのです。:-p
次に、「身体的魅力が同程度のパートナーを交際相手として選択する」というデータをもう少し詳しく書いておきます。下の表は、松井豊さんの『恋ごごろの科学』からの引用です(24ページ)。元の論文は、ウォルスターらによって1966年に発表されているそうです。
表6 コンピュータデート実験におけるダンスパートナーへの好意度との相関係数
男性 女性 成績の相対的位置
-.18 -.07 学業テスト(MSAT)
.04 -.05 社会関係性(SR)
-.11 -.18 性度(Mf)
-.12 -.10 社会的内向性(SI)
-.10
-.03
自己受容性(Berg)
.14 .03 外見的魅力
.36 .44
太字は5%水準で有意、赤太字は1%水準で有意
実験は次のようにして行われたと書いてあります。
ミネソタ大学の新入生歓迎のイベントで、ダンスパーティではコンピュータが参加者にふさわしい相手を決めると宣伝されました(最大素数さんだったら、ここに「コンピュータ」と書いてあるだけで爆笑してしまうことでしょう。コンピュータが「ふさわしい相手」を決められるなら世の中苦労しませんから…)。実際には、男性が女性より身長が高くなるという条件で、ランダムにカップルの組み合わせを決めたそうです。このときに、MMPIという性格テストで参加者の性格を調べ、質問紙に記入している間に4人の実験協力者が「外見的魅力」を判断します。その結果が上の表です。
イベントが終了した後に質問紙が配られ、相手の魅力、デートの希望などを調べます。また、6か月後には実際にデートしたかどうか調査します。その結果、やはり「外見的魅力」がもっとも影響力があることが確認されたそうです。
ここで興味深いのは、日本でこの実験を行うのは間違いなく不可能なのではないかということです。仮に可能だとしても、担当者は「公序良俗」に反する実験の責任を追求されることでしょう(苦笑)。そういう意味では、国民性の違いが出ていて面白いと思います。
とは言っても、別の方法で日本でも追試は行われています。なぜか、もっと極端な数字が出ています(同書42ページ図6から表を作成、太字は私)。
女性の印象と好意度との関係
女性の印象
自信度の
高い男性自信度の
低い男性受容の可能性
.08 .19 家庭的
.25 .15 美しさ
.72 .69 活発さ
.10 .04 しっかりさ
-.07
.09
数字は標準偏回帰係数、相関係数(R2)は自信度高が.63、自信度低が.68。
「身体的魅力がアンバランスなカップル」も存在するのは、このデータを見れば誰も納得することでしょう。それは、血液型だけで性格が決まらない、というのと全く同じことですから(笑)。
「身体的魅力が同程度のパートナーを交際相手として選択する」とは、そういうことだったのですね!どうもありがとうございました。
>最大素数さんだったら、ここに「コンピュータ」と書いてあるだけで爆笑してしまうことでしょう
ははは。マジで憤慨した時期もありましたね、若い頃は。
表の見方なのですが、異性を見るとき(というより、はっきり言えば評価するとき)一に外見的魅力、二,三がなくて四に自己受容性(自分を好きになってくれること、という意味ですか?)を問題にする、という理解で良いのでしょうか?日本での調査で「自信度の高い・低い」という分類はなんかスゴクて笑っちゃいますね。一位「美しさ」のあとの順位の違い加減が、微笑ましいというか、物悲しいというか、うーん、これはこれでスゴイですねえ。日本の心理学者も負けていませんねえ、差別意識丸出しですねえ。ま、身分差別なら日本は欧州にも負けないくらいのしっかりした差別構造を持っていますからね、「底力」ってやつですね。いやー、面白いです。
さて、「自然科学に対する劣等感」と題して
>>心理学(少なくとも性格心理学)は「科学」以前の問題として、「学問」足り得ていないの
>>ではないかと考えています。
と、締めたのでは、たしかに「自然科学」が一番エラクて、「社会科学」や「人文科学」がその下、そして心理学はそれ「以下」、という文脈で捉えられても仕方ありませんね。
補足させて下さい。
ある知的分野が「学問」となる、「学問」であるには、その分野の「対象」の「評価」の拠り所となりうる知識「体系」を持っていて、その研究(知識体系それ自身でも、その対象でも、また、研究方法自体でも)が一定の「成果」を挙げ得なければならない、と考えています。そして、その研究の「方法論」を持っていることが「科学」足りうる必要条件ではないか、というのがわたしの「科学」の理解です。(とはいえ、それほど明確に意識・把握しているわけではないです。説明がぎこちないのは、わたしの文章力不足だけでなく、そういうことでもあります。ですので、ここのところは、「博物学」はどうなんだ、とかつっこまないでほしいです。)
「自然科学」、「社会科学」、「人文科学」の違いは「研究対象」や「方法論」が違うだけであって、そこに優劣はありません。勿論、同じ対象の研究において、通用する「方法論」やしない「方法論」があったり、同じ「方法論」で通用する「対象」、しない「対象」があることも、優劣とは関係ありません。
そういうわけで、心理学(性格心理学)が「自然科学」なり「社会科学」「人文科学」なり、なんにせよ「科学」を標榜したいとしても、その前に「学問」と言えるのか?というようなつもりだったのです。
それと、心理学者が、なんで知りもしない「自然科学」を引き合いに出すのか、それも気にくわないのですね。ははは。
>世の中の現象は、自然科学だけで説明できるのは思ったより少ないのです。
owadaさん、サラっと仰っていますが、この文言、理系と文系とでは、その意味・背景がまるっきり違うんですよねえ。owadaさんは理系とのことですから、わたしは、なんの疑いもなく「全くその通りです」と賛成してしまいますが、文系に言われたときは、まず、こう言います。「少ないけれど、自然科学だけで説明できることがあることは認めているんだよね。どんなことでもいいから、何かを自然科学だけで説明してみせてくれない?」ある意味相当意地悪な質問なわけですが、説明できた人はいません。追い打ちには何通りかありまして、「科学のことは分からないから、というなら、例えばコンピュータを非科学的に説明してみせてよ」或いは「じゃあ、1+1=2というのは自然科学で説明できることだと思う?どういう説明なら自然科学的なの?」とか、「空気より重い飛行機が空を飛べるのは、推力を浮力に変換しているから、という説明は科学的に説明したことになると思う?」・・・ま、そこまでいったら"論争"では済まなくなってしまいますが。ともあれ(文系がそう言うときは)説明や解明の労を放棄して、「だってそう思うんだモン」と言い募るための前兆であることが多いのです。と、これは余計なことでしたね。
全ての世の中の現象は、「自然科学」の方法論で「アプローチ」することは可能だと思っており、結果として説明・解明できなくても、「何故失敗したか」がわかることが「自然科学」の方法論の優れたところだと考えています。そういう意味で、「学問の社会還元」ということで言えば、「自然科学」の方法論を身につけた人は、その立場でアプローチし(見事に轟沈することも含めて)それなりの「成果」を示さなければならない筈なのです。わたしが「自然科学」の方法論を踏まえて発言するのは、「自然科学」が一番、と思っているからではなく、「社会科学や「人文科学」についてはよく知らないから、というだけです。
勿論「社会科学」や「人文科学」はそれぞれの「方法論」に依った「言い分」がある筈でして、それはそれぞれの立場の判断でしょう。立場を替えて言えば、「コンピュータ」の有りようは「社会科学」の知見からも考察されるべきだし、「コンピュータと人」の関わりに「人文科学」はもっと積極的でなければならない筈なのです(特に、パソコンと人の精神世界との関わりについて心理学の知見からの発言がもっともっとあるべきだと思います)。更に言えば、原子物理学のことは何も知らなくても「社会科学」や「人文科学」の立場から原子力発電に口出しして良いのです。もっと言えば、「XX科学」の立場とは全く関係ないところで発言したっていいわけです。勿論、相手にされるかどうかは、また全然別の話しです。
ここで「科学談義」もどうかとは思いますが(^^;;
>だいたい、自然科学的手法だけを使うのなら、どう頑張っても自然科学自体を超えることは不可能ですからね。
多分、その辺の感じ方は「ちょっと違う」ところでしょうね。『ビッグ・バン仮説』とか『ひも理論』なんてのを読むと、「こりゃあ"自然科学"というより"哲学"ではないのけ?"自然科学"に拘るあまり、"自然科学"からはみ出てしまった(超えた?)のではないの?」という感じがしたものです。
「科学観」ということで補足しますと、理系で「科学」万能を信じている人って本当にいるのかわたし自身は疑問です。("商売"上、信じているフリをしている人は知っています)むしろ、何故万能足り得ないかを理解できるのが理系、ということでしょう。『今日通用している「自然科学の法則」が明日も通用するかどうかは分からない』ということを真に「理解」できるのは「自然科学」の知見によってのみ可能でありまして、それは「自然科学」の「誇り」ではないかと思っています。
どうもありがとうございました。まず、『恋こごろの科学』についてです。
女性の印象と好意度との関係については、好意度とデートの関係のデータがありません。また、相関係数と偏回帰係数についても、原論文には当たっていませんので、あくまでも傾向としてとらえたもらった方がいいのではないかと思います。
最大素数さんもおっしゃるように、このHPで科学談義はどうかなぁと思いますので、ちょっとだけ…。
私が心理学者に望みたいのは、統計学をキチンと勉強してほしいということです。統計がいい加減では「自然科学」とは言えません。心理学って、統計の専門家だと思っていたのですが、私が読んだ論文では(実に!)いい加減なものが多いのです。うち、何人かはメールで質問してみたのですが、前にも書いたように黙ってしまう人が多い傾向があります(中には親切な人もいますけど)。非常に困ったことだと思っているのですが…。
メールNo.154は続編があったのですね、気が付きませんでした。
Bの話題で盛り上がっているようですが、当Bとしてちょっと口出しを失礼させていただけば、Bのメールが多いのは「不用心」の故ではないでしょうか。(^^; 「好奇心が旺盛」といえば聞こえはよいですが、単にネットサーフィンで覗き回るだけでなく、見ず知らずの相手に平気で話しかけてしまう(=メールを出す)というのは(まぁ、"我ながら"ではありますが)「不用心」だよなー、と思ってしまいます。
それにしてもBってサカナにされやすいですねぇ。「計画とか、共同作業が全然だめ」とか「もともと適当なB」など好き勝手言われてます(笑)。simaさん登場時の話題にもされたフジTV『どーなってるの?』も昨年末頃「B型亭主〜」シリーズで思いっきりBで遊んでましたモン。でもでも、Bってあんな扱いされても怒らないんですよね。わたしも全然腹立たなかったし、番組に対してBからの抗議は殆どなかったようです、というより、無いので、シリーズとして続けられたのでしょうね。製作者に、Bはサカナにしても大丈夫という読み(確信?)があったようで、多分、そいつはBです。そういう意味では、この企画自体がB型性という血液型による気質特性に支えられているわけで、血液型と性格の関連の傍証になると思うんですがねぇ。これ、例えばAをターゲットにしてあれこれ言いたい放題やらかしたら大騒ぎになっちゃうような気がします。あ、そうそう、No.154のメールでも、AやOには反発する人がいそうですが、これで怒るBって(わたしも含めて)いないでしょうね。メールの書き方から想像するに、多分eukさんも、Bにだけは直接「共同作業が全然だめねえ!」とか「ほんっと、適当なんだからっ」と言っているんじゃないでしょうか。(^^
さて、この機会に申し上げておきたいことがあります。以下、公表に不都合な箇所があれば、適宜非公開として下さい。
このサイトへのメールについてはABも多い(確か率では一番?)のですよね。これは、少数派であることによる世間との違和感や、誤解が解消されることで感激してしまうからではないかと思っています。正比古氏の著作に対する反応(読者アンケートの返送など)でもABが圧倒的に多かったようです。カイ二乗検定などという前に、圧倒的に多いですよね。これ、そのまま、血液型による気質特性の反映で、しかも、「このサイトへのメール」データは「正比古氏の著作に対する反応」データの追試になりえているのではないかと考えているのですが、当事者のowadaさんは如何お考えですか?ABやBからのメールが多いということには触れてもそれ以上踏み込んだ説明等はしていないので、「追試」評価に十分なサンプル数に届かないうち(それとも、最後まで?)はバイアスがかかりそうな内情は黙っている、ということなのかなあ、などとも思っています。もし、そういうことで、公開に不都合でしたら、「黙って」いることに致します。
同じ人からメールをいただいた場合には、原則としてその2、その3というように追加して紹介しています。この場合は、うっかりしてその2を新着情報に書くのを忘れてしまいました。(^^;; ご容赦ください。
#少し日数が開いた場合には、新しい番号にするようにしています。
B型は、確かに血液型が好きな人が多いようです。AB型も負けずに好きだと思うのですが、B型の方が数が多いですから(笑)。それに、B型は血液型に関する興味を隠そうとしないので、やはり番組が一番作りやすいのではないかと思います。もっとも、これは制作担当者に聞いたわけじゃないので、あくまでも推測ですが…。
公開、非公開の基準ですが、原則としてメールいただいた方の指定通りにしています。ただし、『ABO FAN』は特定の個人を批判しないというのを原則としていますので、一部を仮名にしたり、内容を変更したりする場合も(たまに)あります。こういう場合は、特に基準はありませんので、ケース・バイ・ケースで行っています。
>「このサイトへのメール」データは「正比古氏の著作に対する反応」データの追試になりえているのではないかと考えているのです
確かにそれはあるかもしれません。もっとも、考察にまでは至っていませんが…。危険率は、以前に計算した時に0.1%以下でしたから、有意差は十分にあります。実は、血液型の偏りについては、英語版の方がはるかに極端です。来るメールのほとんどがB型かAB型なのです。数も少ないので、まだなんとも言えませんが…。
・精神科医、香山リカさんのHP<http://www.so-net.ne.jp/stress/menu.html>心理学関係のサイトのサーフィンで見つけました。中に「ご相談辞典」<http://www.so-net.ne.jp/stress/rika/soudan/index.html>というページがあって、血液型関連では一つだけ「AB型の妻とA型の私。血液型占いで相性の合わない私たちは不幸な夫婦でしょうか?!(恐怖症)」というのがあるんです。勿論本物の相談かどうかは疑問ですが、香山さんが必ずしも「否定派」ではなく、「無責任な私はB型なんです」なんて言ってたりして(おお、お仲間Bだ)面白いです。しかも、結論も、いかにも「曖昧さを厭わないB」的で、多分相談者A型氏(実在ならば)、かえってストレスを溜め込んだんじゃないかと思われ、かなり可笑しいです。(もしかすると、ご存知でしょうか)
相談は
>買った雑誌の血液型特集には”A型はAB型に迷惑をかけ、それに気づかない”とありました。
>私の妻はAB型、同じ部署にも分かっているだけで3人います。
>今まで妻や同僚に迷惑かけていたのかと、ひどく気になって、(中略)毎日なんだか苦しい。
で、「どうすればいいでしょう」ってわけで、simaさん大喜びしそうな内容なんですが、回答は全然違うんですね。
>血液型と性格や病気の関係も、もっと医学的に研究されてもいいのにね。医者だってナンパのときは”君、何型?”というんだから。
てなことを言ってみたりして、結論(?)は
>問題はA型vsAB型にあるというより、血液型のことを考えるだけで胸苦しくて落ち着かない、
>という”血液型へのとらわれ”にあるようですね。血液型恐怖といってもよいでしょう。
これじゃあ、解決にはなりません(笑)。
しかしまあ、なんで「相性」なんてものを決定論的に深刻にとらえるのか不思議でなりません。(simaさんの例の「鬱病患者」氏にも感じるのですが)基本的なところで「人間関係」の理解を間違えているとしか思えず、その矯正が先ではないか、などと考えてしまいます。そういう意味でも、「血液型差別」などと騒ぐよりは、「とらわれ」からの解放というセンの方が正しいと思われます。
とは言え、香山センセの「見立て」は少々的外れではあります。正比古氏によれば「A夫とAB妻」は「夫が妻を"リード"」し「妻が夫を"おもり"」するという、(伝統的な夫婦観では)ムリの無い組合せの一つで、上手くいったときは典型的な「おしどり夫婦」になりうるんじゃあなかったでしたっけ?「買った雑誌」の記述は分かりませんが、記事の書き手か、相談者A型氏かが「リード・おもり」を誤解した結果と思われますので、まずはその説明からしてあげれば、それだけで症状はずいぶん改善されるでしょう。但し、そこで終わりにしては、このA型氏、星占いだか姓名判断だかで同じような騒ぎを起こすにきまっていますから、後は、徐々にでも、相性の良し悪しなんて決まっているものではないのだ、ということを分からせることですね(これも正比古氏の著作に書いてありますがね)。
それはそれとしても、このA型氏、いかノもA型風であって、妙な"実在感"を覚えてしまいます(笑)。公平に言って、Bって結構Aに迷惑かけているような気がしますが(大笑)、それで悩むBって考えにくいです(爆)から、相談者がB型だったら全然リアリティが無かったと思います。
それと、「心理学」という言葉が全く出て来ないのですね。どうも、香山さん、血液型と性格の問題は、心理学ではなく医学の問題と思っているようです。あと、ちらっと触れられている『生まれ月と精神疾患の頻度』ってのにものすごく興味をそそられます(香山さん、クレッチマー説が念頭にあって、体質と精神疾患の関係あたりに、血液型と性格の関連の説明を求めているのでは、と思いました)。ついでに『生まれ月と疾病の頻度』てな研究があれば(聞いたような気がしないでもない)それについても興味がありますが、この手の資料の入手は相当たいへんで、特に門外漢には殆ど不可能だったりしますね。そういう文献が、Web上で簡単に参照できるようになるといいんですけどねぇ。
早速見てみました。面白いですね。
#このサイトの内容は、彼女の『リカちゃんのサイコのお部屋』や『ココロのクスリ』とほぼ同じ内容のようです。
#そこで、引用部分も問題ないと判断してそのまま掲載しました。
以下は、『リカちゃんのサイコのお部屋』から、該当部分を引用させていただきました(76〜78ページ)。この本は面白いので、買ってもソンはありまん。(^^) Q18 恐怖症 AB型の妻とA型の私。血液型占いで相性の合わない私たちは不幸な夫婦でしょうか?! 先生は医者だから、血液型の性格占いなんか信じないですか? 私は典型的なA型人間。会社でも家でも決められたことを決められた通りにしかできない、つまらない男です。天才肌の友人などを見ると、強くひけ目を覚えてしまいますが、まあ会社向き人間、とでもいうのか、上司のうけは良く、信用される存在のようでもあります(自分で言うのもなんですが)。 A きゃー、A型はAB型の天敵なんですね。無責任な私はB型なんですけど、何型に気をつければいいんですか?! |
香山リカさん(B型)は能見さんの血液型の本に出ていたぐらいだから、たぶん肯定的なのでしょう(笑)。ABO−chat MLからの情報によると、香山リカさんは「SFマガジン」にも連載コラム(1ページ)を持っているそうで、これもなかなか面白いとのことです。なお、血液型の話は今のところないそうです…。
彼女はB型らしいし、相談者もいかにもA型らしいくて、失礼とは思いつつ笑いがら読んでしまいました。(^^)
以下は、能見俊賢さんの『血液型教科書』(85ページ)からです。この本には、香山リカさんが写真入りで紹介されています。
香山リカさん(精神科医)
B型。診療のかたわら、執筆など多彩なジャンルで活躍中。著書に『リカちゃんのサイコのお部屋』(ちくま文庫)ほか。
関係部分を引用しておきます(同書から)。
押しつけられた相性で、お付き合いを判断するのは?
巷では心理ゲーム本が売れたり、雑誌の占い特集が話題を呼んでいます。あなたはそれらの情報の中に、相手が自分に好意を持ってくれているとか、相性がよいか悪いかというキーワードを探し出し、簡単に他人との関係を決めていませんか?
「デジタル式、選択肢式の思考に慣れているから答えが最初から用意されているものと思いがちなのではないですか」と、現代社会のメディア環境の中で起こりやすい精神の病に詳しい、精神科医の香山リカさんは分析します。
「答えがあるなら早く知りたいと思うのは、当然の心理ですが、人との付き合いに答えを求めるのは間違っているのでは……」
たとえば、リアルな日常生活の中で、他人から言われたり、雑誌に「相性が悪い」と出ていただけで、深く付き合うのをやめてしまったとか、極端な場合、その人を避けることがあるようです。そんなふうにするのは、楽なことかもしれませんが、本来、人と人との関係とは、実際に付き合ってみて分かるものなのではないでしょうか。「つまり、人の数だけお付き合いの数もあるのです。付き合うかどうかは最初から決まっているものではないはずです。相性の結果だけで決めてしまうのはもったいないことですし、正しい方法ではありません」
お付き合いは情報に振り回されるのではなく、あなたが情報を上手に使っていくものなのです。
・香山リカさんの本について
『リカちゃんのサイコのお部屋』(ちくま文庫)からの関連部分の引用、ありがとうございました。ちゃんと言うことは言っているのですね。
相性に関連して、これを機会に、B型に言っておきたいことがあります。(AB型にも参考になるかも知れません)
『B型カップルに告ぐ!』
「B型同士は友達感覚が強く、恋愛感情が起きにくい」というのは、確かに正比古氏の著作の一節ですが、どうもこれだけが一人歩きしているようで気になって仕方ありません。
B型同士にも、勿論「好き」という感情は芽生えますし、全く当たり前に「いつも一緒にいたい」に発展することだってあります。その「気持ち」はA型やO型の「いつも一緒にいたい」気持ちとは違う部分があるのかも知れませんが、それが「B型の恋愛感情」なのだ、と理解しましょうよ。巷間謂われる「恋愛感情」は、多数派のA型やO型にとっての「恋愛感情」にすぎないト、「B型(とAB型も?)の恋愛感情」の有りようはまた別の話しだト、考えませんか。
B型カップルが恋愛映画を観る、「私達とはずいぶん違うみたい」と思う、が、それを「B型同士は恋愛感情が起きにくい」から、とは考えないでほしいのです。
実を言うと、わたし達夫婦はB型同士です(ついでに娘2人もB型です)。弟夫婦もB型同士です。他にもB型カップルを知っています。一応、皆、かわらずずっと「仲良し夫婦」です。正比古氏は「初め悪く、後良し」と言っていますが、私見では、「初めから後までずーっと、ちょこちょこ良し・悪し」で、面白いことに、血液型情緒曲線のB型に似て、ずっと同じようにフラフラしている感じがしています。この辺、傍目には、「新婚時とあまり変わらぬノリ」に見え、「友達型」などという表現になってしまったりするのかなあ、などと思ってしまうのですが。
ともあれ、「B型なので同じB型に対しては恋愛感情が起きにくいよう」などと「理由付け」する前に、「いつも一緒にいたい」と思っているのかどうか、自分の気持ちを大事にしてほしいのです。
「お互いマイ・ペース同士なので、ペースが落ち着くまでは大変ですが、それを越えれば良い友達カップル」なんていうのもあんまりあてにはなりません。どちらかにペースの主導権は直ぐ決まります。これはどの血液型の組合せの場合も多分同じで、要は、そこでは血液型による違いより、「好き合って結ばれた」という共通事由が優先するようです。とはいえ、その後、この「主導権」はいろんな意味で揺らぎます。場面場面で、また、それぞれの役割で、主導権が分かれます。が、その主導権が案外落ち着かず、ちょっとしたことで一方に移ったりします。これは、別に普段から主導権奪取を狙っていた、というようなことではなく、成り行きで自然にそうなってしまうことが多いようです。取られまいとしてもめる、とか、不都合が誘発する、とかいうことも無く、また戻ったりもするしで、逆説的に言えば「そういう曖昧なカタチに"ペースが落ち着く"」と言うことかも知れません(^^;;。勿論、好き嫌い、生活技術上の得手不得手などから、主導権が固定する部分も結構ありますが、なんとなく「フラフラしている感じ」があるわけです。が、そこは良くしたもので、そうした「落ち着かぬ」感じは、B型にとって全然苦になりません!
閑話休題。「Bはマイ・ペース」=「主導権をとりたがる/勝手気まま」といったイメージばかり先行しているように思います。実情としては、「周囲の雰囲気に鈍感」=「相手のペースがよく分からない」=「だから無関心/惑わされない」という、むしろ消極的な意味で「マイ・ペース」している場合の方が多いような気がしています。
B型諸君、異性をみるときには「血液型」を忘れなさい。カップルの相手がB型(AB型も?)と分かったら、世の恋愛とは違う恋愛に生きるのだ、と「後付け」で納得しましょう。少ない実例ですが、多分「気を使わぬ」という意味では一番かもしれません。「根に持たぬ。諍いが尾を引かない」というのが正比古説通り、B型性によるものならば、B型はB型とくっつくのがベストだよっ、と、言い切っちゃおかなー。
最大素数さんって、B型家族だったのですか、なるほど…。私はAB型なので、今回のコメントは省略させていただきます(笑)。
・B型家族
はははは、そうなんです。
だからといって特にどうということはないと思っております(笑)。
そうですね、この辺は"B型的"ってことなのかなあ、と感じているのは、食卓で席が決まっていないこと(おおよその目安はありますが)、食器やカップなども誰のモノ、という所属というか、持ち主が曖昧なこと、でしょうか。
食卓の席は、その時のTV番組を一番見たがっている人が、一番見易い席に座って良い、というあたりが暗黙の最低限の決まり(と言うほどのものではありませんが)で、基本的には誰も席にはなんにも関心ありません。
飯茶碗、汁碗は、かつては同じモノを区別無く使っていましたが、一つ壊れる度に、どうせ買い足すならもう少し小さいのが欲しいという風に各人の好みが反映し、結果的に今はそれぞれ専用になっています。が、朝の慌ただしいときに取り違えたりしても、そのまま平気で使ってしまいます。今のわたしの飯茶碗は、じつは客用のセットの内のひとつです。壊れて間に合わせの筈が案外使い心地がよく、そのまま使っています。マグ・カップやタンブラーの類はまるっきりフリーです。気に入って買ってきても、買った当人ではなく「あ、これ、いいね」で別の者が愛用していたりして、買った当人がそれ見て「ねっねっ、いいでしょう」などと言ってニコニコしていたりします。どうも、基本的に皆、そういうモノに執着心があまり無いようです。
これって"B型的"でしょうか?(笑)
> ・B型家族
私には信じられません(笑)。ここは公開していいでしょうか?
> これって"B型的"でしょうか?(笑)
もちろん!(笑)
>> ・B型家族
> 私には信じられません(笑)。ここは公開していいでしょうか?
え!?"信じられない"とか"公開していいでしょうか?"などと言われてしまうようなことですか!?公開には一考を要した方がいいですか?「食卓の席」の話題ですか?・・・そんなスゴイ話しのつもりはなかったのですが。
わたしの実家は両親、弟と4人中母だけOの3Bです。わたしが育った家はもうとっくに建て替えられていて無いのですが、食卓でのわたしの定位置の記憶が全くありません。母は台所に一番近い席、父がTVの正面・・・だったかなあという程度のかすかな記憶はあるのですが、わたし自身と弟の「位置」に関して何も憶えていません。後になって、TVドラマなどで、このウチは家族それぞれに「決まった席」があるのか、・・・いやいや、なんかそういう家庭の方が多そうだ、・・・というより、それがフツー?というように"学習"したと言うべきかもしれません。では、今わたしの家庭がこうなのはウチがそうだったからでしょうか。
妻はそういう意味では"フツー"に育てられたのですが、今、一番席を動いているのは、実はその妻なんです。3ポジションを座り分け(?って言うかな)ています。
ですから、どうもこの傾向は、「環境」よりは「気質」のせいで、そうなると"B型的"ってことなのかなぁ、なんて思っていました。同じBの子供らもなんにも不都合無さそうだし・・・。
だって、どの席でも味は一緒なわけですし、アナタは此処、って決まっちゃってるのって窮屈な感じがしません?どこでも好きなとこに座って良いんだよ、っていうほうが気楽だし、家族の共有空間である"居間(リビング)"の機能を踏まえてあえて言えば"健全"だと思います(きっぱり)。owadaさんの"過剰反応"にびっくりしていろいろ考えてしまいましたが、家庭で席が固定しているというのは、儒教的封建的家父長制の名残りなのではありませんか?と、一応「理論武装」を済ませたところで、公開"可"とします(爆)。
>> これって"B型的"でしょうか?(笑)
> もちろん!(笑)
うぅむ、そんな力強く言わなくても・・・。でも、やっぱりそうなのかなあ・・・。
えー、念のための確認追加です。
食器類が交錯してしまうのは、それはそれで"B型的"なのかも知れませんが、「信じられません」というほどのことではないですよねぇ。この食器(茶碗、汁碗、カップ、タンブラー等々)は私の!ってきっちり決まっていて、ほかの家族には使わせないとか使われるのを厭がる、ってのは"フツー"ではないでしょう?例えば、ご飯は食べないつもりだったのが、筍ご飯だったりすると人につられて一口二口食べたくなったりするじゃあないですか、そういうときってそのままお茶碗借り受けてちょっとよそって食べる、ってよくあることじゃあないですか。
それに、例えばカレー・ライスの時の皿とか、麺類などの丼って、これはもう決まっているウチが珍しいでしょう。ちなみにウチでは、そういうときの器はバラバラです。気分と食べる量と食器戸棚からの取り易さ(と言うか、目についたモノが想定していたサイズに合えばそれで済ます)でそれぞれ見繕って使います。煮物用の中鉢でカレー食べてたりします。パン食のスープも、早く冷ましたい人は口が広く
て浅いスープ皿、片手で飲めるマグカップ、ちょっと小振りのスープ碗、気分や情況次第です。結構"正しい"ありかただと思っていますが・・・。
特にカップ類は大小形状図柄など必要と好みに応じて各人が購入してくるので、ともあれ、絶対数が多いわけです。それぞれがお気に入りを幾つも持っていて、それがダブル場合がある、というだけの話しですよ。自分が気に入ったものを他の家族も気に入ってくれたら、それって結構嬉しいじゃないですか。カップ側から見れば、複数の人に愛用されているカップと1対1のつき合いしかしていないカップがいるわけで、説明しながら考えるに、これはごくフツーの情況だと思います。
非公開についての質問は、そこまでの意味はありません(笑)。
この部分は公開可能とは思っていましたが、明文の公開可・不可の指定がなかったので、単に私個人宛のメールなのか確認しただけですから…。
でも、やはり私には信じられません(爆)。
そこで、井沢元彦さんの『穢れと茶碗』から引用しておきます(75〜77ページ)。
まず、「割り箸を使う唯一の国」なのは日本だけだという説明があります。箸を使うのは東アジアの伝統ですが、中国、韓国、台湾、香港ではそういう習慣はないそうです。割り箸の歴史は、実に古代まで遡れるそうで、当時は日本が世界の最貧国ですから、これは経済的な理由ではないというのが井沢さんの結論です。そして、その根本にある思想とは何か、ということで茶碗についての考察があります。
なぜ、自分の茶碗しか使わないのか
ここで、まず身近な物から考えてみたいと思います。一般的な日本の家庭では、食事の 時に各人の使う箸と茶碗が決まっています。夫婦二人きりの家庭でも、あるいは子どもがたくさんいる家庭でも、箸と茶碗は個人の物が決まっているのが普通です。この黒いのはパパの、赤いのはママの、マンガの描いてあるのはボクの、といった具合です。
ところが、たとえばヨーロッパでは、こんなことは絶対にありません。ナイフにせよフォークにせよ皿にせよ、みな同じ物を使います。形も同じだし、色も同じです。大人用と子ども用の違いはあっても、では大人や子ども同士でそれぞれの食器が決まっているかというと、けっしてそうではありません。
ここで、欧米は個人主義的だが、日本は集団主義的なはずだが、食器については話はまった逆であり、きわめて異常な現象だと彼は指摘します。引用を続けます。
ところがさらによく観察してみますと、日本の家庭において個人の食器を決めているのは、いわゆる和食器だけです。洋食器、つまりカレーライスの皿やスープの皿については、欧米と同じで、個人ごとに特定していないことに気がつきます。これはまったく変な話です。どうして和食器に限り、個人の食器を決めなければいけないんでしょう。
たとえばこういうケースを考えてみます。たまたま娘の前に父親の茶碗が置かれたとします。では娘は、そのままその茶碗でご飯を食べようとするでしょうか。まずしません。
では仮に、娘に対してその親が、その茶碗で食べるように命令したとしたらどうでしょう。よほど従順な娘ででもないかぎり、その命令は拒否するでしょう。
その場面をちょっと思い浮かべてください。その理由は何でしょう。どうして嫌なんだと親が尋ねたら、娘はどう答えるでしょう。
多分、こう答えるのではないですか。「汚(きた)ないから」。
この返事を、奇妙だと思う人は、あまりいないはずです。おそらくそういう答え方をする人が、多いと思います。しかしこれは、考えてみれば親の茶碗なんです。親の茶碗を汚ないとは何ごとだと、中国あたりなら怒るかもしれませんが、日本ではそのような人はいません。もし仮に、そうした親がいたとして、では今度は私が自分の茶碗を出して、「これは私が10年間使っている茶碗です。ぜひこれでご飯を召し上がってください」と言えば、拒否すると思います。無理強(じ)いすれば、怒りだすでしょう。つまりその人もまた、実は自分以外の食器は汚ないと思っているわけです。
私は、この記述を読んでも特に違和感はなく、当然のことだと思っていました。井沢さんも、あまりにも当然のことと思っているからこういう書き方になったのでしょう。ところが、井沢さんはB型なのです(笑)。
#この「穢れ」を感じる理由は何でしょうか? 知りたい方は、ぜひ『穢れと茶碗』を読んでください!
ここで私の論理を否定されると、他のページの内容にも波及してきますので、なるべくお手やわらかにお願いします(笑)。
ははぁ、そういう展開ですか。(^^
本のタイトルが『穢れと茶碗』ですから、ここに引用された内容だけでアレコレ言ってはいけないのかも知れませんが、ちと私見を述べてみます。
と言っても、ここで井沢氏と論争ってわけにはいきませんから、一方的に言いっぱなしということになってしまったらごめんなさい。
・「My茶碗」について
>日本の家庭において個人の食器を決めているのは、いわゆる和食器だけです。
という表現は(引用外での言及があるのかもしれませんが)正しくありません。煮物用小鉢、焼き魚用の皿等々、「いわゆる和食器」は通常殆ど共有です。更に、汁碗なら共用がありそうですし、家族全員同じではなくとも、子供2人はおなじ汁碗を隔て無く使っている、ということはもっとありそうです。即ち、引用部分では何故か「いわゆる和食器」として括っていますが、論議の対象は本のタイトルに従って「茶碗(飯茶碗)」とするのが良いかと思います。
さて、そうすると、欧米には「茶碗」はありません。即ち「茶碗の無い日本の食卓」状態、共有可能の食器だけであって特にかわりは無いことになります。引用の範囲では「きわめて異常な現象」というほどのことではないように思いますが。
そうなると、「茶碗」の"特性"が問題になるわけでして、どうも"主食"が盛られる食器であることがポイントのように思われます。そう考えると欧米での主食はパン、特に「食器」は必要ではありませんから、欧米・洋食器との比較はあまり実を結びそうにありません。
米を主食とする他のアジア諸国での事情には詳しくありませんが、日本ほど米を「神聖視」していないのではないかと思います。弁当箱の蓋についた米粒を一つづつ摘んできれいにたべる人はまだ珍しい存在にはなっていません。つまり、「神聖」な「主食」である米=ご飯を盛る器であるので「茶碗」にもある種の「神聖性」が認められ、だから「穢れ」が問題になる、ということなのでしょうか。
引用の範囲内では、「穢れ」が問題になるので「専用」化が進んだというふうに読めますが、その辺、案外微妙な気もします。と、いうのは、山籠もりにしても托鉢にしても、修行僧は自分の食器(飯椀・汁碗・箸)を持ち歩いていることを考えると、食事用具は個人所有、という発想は元々はそうした宗教的なところからきているんじゃないかとも思うわけです。ま、そうは言っても「茶碗の専有化」がいつ頃始まったのか知らないんですけどね。主食としての米の神聖性は、それに関わるモノに伝播し、かまどにも"神が宿る"ということにされ(ま、日本ではナンにでも宿っていますがネ)たようですし、主婦連のシンボルがおしゃもじであることはそれなりに意味があってのことらしい(つまり、象徴として"選ばせた"のは主食=米がもつ特別な意味である、ト)し、「専用」化と直截的な繋がりはなかったりするのではないかとも思います。
・「穢れ」ているから「拒否」、か。
なにはともあれ、では、そうした「特別」の「専用」器だから「穢れ」が問題になるのでしょうか。そうした意識が全く無いことはないのでしょうが、内実はもう少し複雑かと思います。(^^
少々汚い例えを持ち出しますと、ごく普通の食器ですが、(知人でも他人でも)誰かがオシッコをしたとします。煮沸消毒等、あなたの眼前で完璧にキレイにしたとして、その食器を飲食に使えますか?少なくともわたしはダメです。(出典は忘れましたが)殆どの人が拒否するそうです。この場合は「特別な食物用の食器」だからとか「マイ・食器(専用)」だからなどは関係ありませんね。ひとつの説明は、それを受け入れることは「相手に対して屈服したことを認める」という意識が働くからだそうです。敗北感、屈辱感、が拒否させる、ということで、これは納得できます(こうした意識を下地に考えると、「契りの杯」等の意味も分かるような気がします)。引用の例で言えば、わたしにとって、井沢氏が10年来愛用した茶碗を使用することは相当軽い意味で見積もっても「井沢氏の弟分になる」ことを承認することと同等です。故に拒否します。
また、引用文では「娘に対してその親が」要求した場合をあげていますが、そこで娘さんが拒否するのは「穢れ」という意識より、案外"親の支配"に対する拒否で「反抗期」なり「乳離れ」の意識のほうが強いのではないでしょうか。そういうコは父より後の風呂には入らなかったりしそうです、はははは。「汚(きた)ないから」という「返事を、奇妙だと」は思いませんが、字義通りに汚いと思って言っているのではないと思ってしまいます(^^;。(先の便に補足しておきますが、「朝の慌ただしいときに取り違えたりしても、そのまま平気で使ってしま」うとは言っても、わたしのと間違えることはありません。わたしのだけ、一回り以上大きいもので)
ごく限られた範囲の引用ですのですのでツッコミが過ぎるかもしれませんが、もう少し。
「"親の支配"に対する拒否」という仮説は揚げ足取りのつもりではありません。引用外での言及があるのか、井沢氏にとっては自明の理の前提なのか分かりませんが、ここでの父と娘の例は「娘が思春期(或いはその近傍)」というかなり限定された情況で、これでは「穢れ」の例として不適切であって、ひょっとすると総意としての「穢れと茶碗」の主題の検証足り得ないのでは無いかと危惧する次第です。父と娘、80歳と50歳だったら娘が拒否する可能性はあまり無いと思われます(35歳と5歳ならまず間違いなく拒否されませんがこれはなんにも考えてないからですね(笑)。
実は先の井沢氏10年来愛用の茶碗の例も「穢れ・汚い」の例としてはピンと来ません(^^;。正直に言えば、(当然それはきれいに洗ってあるのでしょうから)「汚い」という感覚はあまりありません。もしアインシュタインが30年間愛用した茶碗が存在したとして、わたしがそれを使う気になれなかったとしたら、それは「畏れ多くも勿体ない」からであって「穢れ」ているからでも「汚い」からでもありません(^^。ま、わたしの場合、もしそういうものが手に入ったなら、生涯それを愛用すると思います(^^;;。
ついでに付け加えると、父が娘の茶碗を使っても、娘は「汚い」と言いそうですよね。そして、この場合は「穢された」という意識が分かりやすいように思いますが・・・(^^;。
・「穢れ」と「茶碗」の結びつき
わたし自身、「神聖」という概念に対する感受性が不足気味であることは自覚しております(^^;。「(My)茶碗」に限らず、具体的な事物と「神聖」とか「穢れ」といった概念との関わりにはあまり「共感」を覚えません。かつて、柳田邦男の著作を読んだときにそう痛感しました。彼の本は一応一通り(確か新潮文庫だけで二十冊以上あったような)読みましたが、そうした「信仰」とか「宗教」が絡んでくると興味が薄らいでしまったものでした。
小料理屋の昼時の定食では、ちょっとしゃれて、丼ではなく飯茶碗にご飯をつけてくれたりします。どこの誰が使ったか分からない茶碗、「神聖」な米を食するには「穢れ」ている、「汚い」と感じる人は居るのでしょうか。
「穢れ」不感症と相まって、井沢氏の『穢れと茶碗』論には「違和感」がありそうです(^^;;。
ところで
> ここで私の論理を否定されると、他のページの内容にも波及
というのはなんだか良く分かりません(笑)。「私(=owadaさん)の論理」との関係が分からないので、わたしの議論がそれを否定しているのか、いえ、関係しているのかさえも分かりません。
「神聖」とか「穢れ」といった概念を否定しませんし、「(My)茶碗」の存在にもなにも異議はありません。
最後に、井沢氏は「割り箸」の起源を枕にしての議論であるようですので、全体の文脈に照らすと、基本的なところで誤読・誤解しているかも知れません。もし、不都合がある場合は、『穢れと茶碗』の当該箇所のページのみでご指摘下さい。引用・転載の労は申し訳ありませんので。
なるほど、そういう考えもあるのですね。正しい結論を得るためには、血液型じゃありませんが、やはりランダムサンプリングが必要なようです。(^^;;
ただ、私自身の実感では、井沢さんの説明の方がピッタリきます。母親がA型だからでしょうか…。和食器については、「穢れ」には直接触れるのはまずいので、飯茶碗だけでなく、湯飲み茶碗や箸もダメなことになるはずです。逆に、その他の食器については「穢れ」に直接触れないので、さほどのタブーはないことになります。
#ところで、来客用の茶碗はどうなるのでしょうか?
さて、『穢れと茶碗』では、茶碗の説明に先立って割り箸の説明があります(74〜75ページ)。茶碗の説明は75〜77ページです。なお、『穢れと茶碗』には新書版と文庫版がありますが、調べたところ、どちらも同じページでした。
#と言いつつも、頼まれるとイヤと言えないAB型ですので、該当部分を引用しておきます(笑)。
割(わ)り箸(ばし)を使う唯一の国
割り箸という物があります。世界で割り箸、つまり一回で使い捨てる箸(はし)を使う国は、実は日本以外にはありません。箸文化圏というのがありまして、たとえば中国、韓国、あるいは台湾、香港。同じ箸文化圏であるはずなのに、ここらは一般的には洗い箸を使います。中国に旅行に行かれた方はよくご存じだと思いますが、一度使った箸をもう一度洗って、そしてまたきれいな袋などに入れて出すわけです。
もちろん最近では日本人系、あるいは日本の資本との合弁レストランも増えていますので、そういうところでは割り箸を出すところもあります。しかしそれは、あくまでその国の習慣が割り箸であるというのではなくて、日本人がそれを喜ぶからサービスとして出しているわけです。彼らの文明の中では、けっして割り箸という物は使いません。
割り箸というのは、一時、日本人のぜいたくの象徴のように言われました。環境破壊だ、こんな物を使うから、世界の森林資源がなくなるんだと。これは実は嘘です。なぜなら、割り箸というのはそもそも余材で作られるものであって、少なくともこれまでは、そのために森林資源を圧迫したりはしていないからです。
そしてこれはさらに重大なことですが、日本人がぜいたくになったから、割り箸を使うようになったのではない、ということです。
歴史的に見て、日本人が割り箸を使う習慣は、古代まで遡(さかのぼ)ります。ですから、経済の豊かさという視点では説明がつきません。つまり使い捨ては、日本人の物質的豊かさが生み出した浪費癖ではなくて、他の理由に基づくものなのです。
日本が今よりはるかに貧しかった時代。中国はもとより、朝鮮半島に比べてもどうしようもなく貧しかった時代から、日本人は使い捨てをしてきたのです。
したがって、今後割り箸の使い捨てをなくしたいと考えるなら、まず歴史を遡って、われわれがどうして使い捨てをするのか、その根底にある思想を把握して解明しなければだめなのです。解明もせずに、ただ使い捨ては浪費だからやめようと呼びかけても、なくなるはずはないのです。日本人の使い捨ては浪費ではない。いや、実態は浪費なんですけれども、日本人はそれを絶対に浪費(経済的なぜいたく)とは思っていないのです。ではその根底にある思想は、いったい何なのでしょうか。
>具体的な事物と「神聖」とか「穢れ」といった概念との関わりにはあまり「共感」を覚えません。
これはB型だからでしょう(笑)。私も別に共感はしませんが、全く気にならないと言えばウソになります。その実感をうまく説明できるのが井沢さんなのです。普通(?)の日本人は、「神聖」とか「穢れ」といったものは宗教的なものだから非科学的であり、故に否定しなければならない、と思っているわけです。実は、私もそうでした。しかし、井沢さん(と山本七平さん…A型)によると、これは明治的啓蒙主義の「非科学的」な思想であり、真に「科学的」でありたいならば、なぜそう感じるのか科学的に説明しなければならないとのことです。具体例として、幽霊や人骨について説明していますが、ここで書くとますます脱線することになるので止めておきます(笑)。詳しくは六曜と血液型のページをどうぞ!
>>ここで私の論理を否定されると、他のページの内容にも波及
>というのはなんだか良く分かりません(笑)。
少々説明不足だったようですね。(^^;;
ご承知のとおり、私は、心理学者にとって「血液型と性格」は「タブー」であると主張しています。この場合、「タブー」というのは「穢れ」とだいたい同じ意味であることはおわかりでしょう。つまり、井沢さんの論理をそのまま心理学者に適用しているわけです。だから、「穢れ」についての私の論理が否定されると、「血液型と性格」にまで影響してくることになります(笑)。
ところで、能見さんかどうか忘れましたが、柳田国男はA型的、南方熊楠はB型的だと言っていたような気がします。となると、最大素数さんは熊楠の方に峡間を覚えるのでしょうか…。
さて、血液型と性格の話題にまた戻ります。心理学者にとっては「血液型と性格」は「タブー」や「穢れ」ですから、私と議論すると「穢れ」に触れることになり、非常に良くないことになります。勝ち負けよりも、議論や研究すること自体が「穢れ」に触れるから良くないのです。言うまでもなく、誰かさんのメールやHPを読むと、全くそのとおりであることが見事に証明できます(笑)。つまり、心理学者が「血液型と性格」に対してとっている態度を説明するためには、「宗教的」や「神道的」によるものの方が他の説明より妥当であり「科学的」であることになる…はずです。
これで、能見さんの本を全く読まないだけでなく、心理学者の他の研究も読まない理由も、実に明快に説明できます。なぜデータをさっぱり集めないのかも…。そして、肯定論者は「穢れた者」なのですから、どんな差別的なことを言おうがなんだろうが、「正義」の名の下にできることになるわけです。
ここらへんが井沢さんのすごいところだと思っているのですが…。
・「タブー」
> 私は、心理学者にとって「血液型と性格」は「タブー」であると主張
はははは、分かりました。わたしはメール(その7)で言明したとおり 心理学界は「心理学」として「血液型性格関連説」に「対応」できないだけと考えています(simaさんとのやりとりで殆ど"確信"しました(^^;)。しかし、ま、ここで「なぜ心理学者はまともに対応しないのか」というテーマで議論するのは滑稽というものですね。
多分、この違いは「学問としての心理学の知見」の評価の違いのような気がします。わたし、今や、少なくとも「性格心理学」については相当バカにしてますもん。
尤も、「対応」できる「能力」が無いので、「触れてはイケナイ」こと、「タブー」にしてしまった、という図式もあり得ますかねぇ。
・博物学
>柳田国男はA型的、南方熊楠はB型的だと言っていたような気がします。となると、最大素数さんは熊楠の方に峡間(共感?)を覚えるのでしょうか…。
以前のメール(その12);「科学」のことなど
(H11.3.4)の、科学とは、学問とはについての能書きで、「博物学」については留保したように、わたし自身判断しかねている部分があります。現象や事物を、なにはともあれ集めまくって「どうよ!」って言うのが「学問」か、という気がする一方、生物学をはじめ、それが基本になっている「学問」「科学」はいくつもあるし(生物学鉱物学などの総称として用いることもありますね)、また逆にそうした博物学的手法と無縁な学問は「(純粋)数学」ぐらいのものではないかとも思うわけです。
一般的な認知度としても「博物学」を項目にたてていない国語辞典もまだあるようですし、「博物館」は、そうした事物を「系統」立てて、「意味づけ」、「解釈」等の「評価」を付与する「機能」を求められており、まんま「博物学」の反映ではないのですね。
ただし、「博物学」はかなり「面白い」ことは確かです(^^。例えば国立博物館に行くと、それはそれはいろいろなものが案外無造作に所狭しと並べられていて、もう、それだけで、「学問足りうるか否か」などという考えは吹っ飛んでしまいます。考古学上の資料のコーナーには、土器石器から銅鐸や埴輪、銅鏡、と、かつて教科書の写真で見たものがなんとも何気なくぞろぞろ置いてあって、「ありゃー、オマエ此処に居たのォ」的感動の連続です。柳田国男(前便では別人"邦男"氏になってしまっていました!)は「民族学」、熊楠の場合は「博物学」と呼ばれていますが、どちらも同じように面白いし、同じように今一食い足りない感じはあります(^^。
ただ、たしか『血液型人間学〜運命との対話』で著者の前川さん(B)は、正比古氏(B)の手法を「博物学的」と評しておられましたが、実はわたし(B)も同じ様な印象を持った覚えがあり、なんだか「博物学」ってB型の「生理」に合っているんでしょうか・・・。
>心理学界は「心理学」として「血液型性格関連説」に「対応」できない
これは、頭からバカにして分析しない人、能見さんのデータが恐ろしくて追試しない人、うまい研究分野を見つけたと喜んでいる人など、いろいろいます(苦笑)。ただ、最大の理由は、その「差別的」な思考方法なのだと私は思います。つまり、能見さんのような「在野」の人が「アカデミック」な心理学の分野に口出しするとはケシカランということです。ましてや、心理学が間違っているなどと主張する輩(やから)なんかとんでもない、ということになります。能見さんがあまりにも有名になったので、嫉妬心も少し入っているのかもしれません…。
もちろん、こういった反応は全員のものではなく、地道にデータを分析している心理学者も少なくありません。しかし、残念なことに、影響力が大きな人はあまりいないようです…。
性格心理学については、統計的に考えただけでも、いくら基準を甘くしても「科学的」ではありえません! もっとも、どの業界でも同じで、業界内の常識は世の中の非常識なのですから…。そんなのはどこでも当然で、わざわざ最大素数さんや私が指摘するまでもないことなのでしょうね(苦笑)。
#ただ、大学教養レベルの統計学さえ理解できない心理学者がいるのは実に困ったものです。
#いや、理解できないフリをしているだけなのかもしれません。:-p
私はまだ博物学には興味がありません。やはりB型でないからでしょうか(笑)。
「集まり」の"仕切り"具合、ということで血液型別に印象をまとめてみました(^^;;。
きちんとやるA型:日時、場所の決定までが慎重(くどい?笑)、というイメージ。それでいいよ、といっているのに「〜でいいよね」と何度も念を押してくる。時々、からかいゴコロが頭を持ち上げて、「ひょっとするとダメかも知れない」などと言ってしまうイケナイわたし、ものすごくあわてるA。って、んなことするから、次回はもっとしつこくなっちゃうのでしょうか(^^;;。
やらないA型その1:本人は絶対認めませんが明らかに「できない」。何人かの希望・都合を「調整」する、ということを考えるだけでパニクってしまう印象。
やらないA型その2:不手際続きで、結局「できない」型だったのかと思っていると、後で聞いたら別の事情と重なっていたことが分かり、しかも、その事情は、幹事役が決まったときには既に発生していて、そんなことなら、無理強いしたわけじゃねーんだからことわれよおっ、と言いたいタイプ(A特有!秘かに「無責任な責任感」と呼んでいます)。先の「その1」で"明らかに"「できない」と強調したのはこのタイプと区別したかったからです(^^。
きちんとやるO型:字句通り「きちんとやる」感じですね。「再確認」は必ず直前に一回あります。ただし、なにかで「私が仕切った」という特色を出したがるように思います。それがハマると名幹事、外すと自己中(心的)とか強引ということになります(^^;;。「きちんとやる」に拘るあまり、時間延長等の変化を嫌う傾向あり。これ、A型に多そうですが、Aは(内心は相当嫌でも)気を使う面がでてしまって、自分から「延長した方がいいかなぁ」などと言い出してしまったりします。また、酔いにまかせて、自己規制を外してしまうAもいますね。そういう、変更をしたくないAは、はなから言い出させない雰囲気を持っています(笑)。
A型が計画段階で「くどい」のに比べ、O型は実行段階で「くどい(あれこれと一々うるさい)」印象です。
やらないO型:計画倒れです。意気込みはすごく、あれもこれもになりがちで、結局グズグズ、「なにやってんだオマエ」になってしまいます。その「あれもこれも」が程良くおさまって、計画通りに進んだのが前記の「きちんとやる」イメージの名幹事なわけです。
きちんとやるB型:結局の所、できる範囲でしかやらない、という感じです。メンバーの希望・都合の調整も、「自分からの距離」でまとめようとします、というより、そういうマトメ方しかできません(^^;;。ははは、こういう解説、B型は納得と思いますが、他の人にはよく解らないでしょうね。例えば、メンバーの大半が、メインの飲み会は座敷でゆっくり、と言っても、本人がカラオケ指向だと、座敷タイプのカラオケ・ルームに設定してしまう、なんてことをしかねません。ブーイングがあるのははっきりしていても、一度はそういう案を打診したりします。
さて、注意していただきたいのは、割と重要な事項が抜けていることがあることです。決まり次第知らせてくれるのか、などとほっておくと、直前になっても連絡はなく、電話しても捕まらず、「これ、どうなっているんだ!」などとメンバー間で大騒ぎになったりします。「決めたと思ってた」とか「知らせたつもりだが」、ひどいときには「ああ、それ、決めなきゃいけないね」などとヌカしたりします。無責任なヤツだなあ、という評価が定着してしまったりします(^^;。
やらないB型:「なんかやる気になんなくてさァ」などとほざいたりします(多分Bだけ)。さすがに同じBでもその言い分は信じられません(笑)。引き受けてはみたものの、勝手・要領が飲み込めず放り出した、というあたりが真相です。調整の基準たるべき「自分」のスタンスが定まっていないため、考えがまとまらないわけです。この手のBはふだんからちゃらんぽらんの印象がある場合が多いので、実害を被る確率は低いのが救い、か?
AB型は身近にいないので、印象ではなく「想像」です(^^;;。
きちんとやるAB型:計画時に、不測の事態への対応に凝るような気がします。Aは、何はともあれソツのないように、Oはどこかに特色を出したいと、Bは自分の好みをできるだけ反映させようと心を砕くのに比べて、ABは天気をはじめあれこれ変化を想定して対案をこねるのが好きそうですがどうでしょうか(笑)。結果、A、O、Bに比べて「会合の印象」が一番薄くなりがちのような気がします。が、多分、A型には抜群にウケが良さそうです。
やらないAB型:A、O、Bが無責任というイメージを伴うのに比べ、「怠け者」という印象を与えそうに思います。多分「不測の事態への対応」がまとまらないので、先へ進めず、間近になってせっつかれてもあわて"られ"ない、ということで「ぐずぐず」していてできない、ということになるように思うのですが・・・。
他の血液型のところは、楽しく読ませていただきました。もっとも、私はさほど「実害」に会ったことはないので、実感はそれほどありません。AB型については、私自身が「やらないAB型」ですので、コメントは省略させていただきます(笑)。
・否定派心理学者
「在野」に対する反発と嫉妬は確かに相当なものがあるのでしょうね。一部の心理学者(特にO村さん、ってこれで仮名か!?笑)はそういう気持ち丸出しで、こちらが恥ずかしいくらいです。
最近のメールNo.172 「トーラス」さんのお話しでは
>血液型による分類が従来の性格類型の侮れない商売敵だということを心理学者自身
(うすうす、もしくははっきりと)気づいているから・・・ということらしいですし、そう言えば、前川輝光さんの『血液型人間学〜運命との対話』にも>既存の性格心理学関係の本はずいぶん売れなくなったのではなかろうかとのくだりがあり、実情は縄張り争いのノリで、心理学界は「オメーラ、他人(ひと)のシマで勝手してんじゃねーよ」ってあたりなんでしょうか(笑)。あ、だから「sima」さん!?(爆)。
情けない、って言や情け無いですが、ある意味ほっとした部分はあります。つまり、それなりに「評価」はされている、度合いはともあれ内容が理解され、一定の価値を認められている、ということですよねえ。そーかぁ、「無能」や「怠け者」だけじゃないんだ、よかったなあ、という感慨はちと楽天的に過ぎるでしょうか。
・「キメツケ派」に関して
TV番組『ウンナンのホントのところ』4/14放送は「血液型のホントのところ」とかいうタイトルだったようですが、ご覧になりましたか?わたしは見ていません。「首相にはO型が多いということはO型が一番優秀ということ」というような内容だったらしいです。「結論としてO型は権力志向」などといったことでは無く、首相=優秀というノリから推し量るに、お笑い番組の作りだったようですが、「血液型で遊ぶ」という意味ではちと高度で、マジに反応しちゃう人も出ちゃうと思われます。
O型自身はこういう"誉められ方"ってどう感じるのでしょうね。何はともあれ誉められればうれしい「軽薄B」ですが、「単細胞O」おぉやっぱり、って喜ぶような気がします(笑)。"首相=優秀というノリ"に目が行かず、そんなことで優秀であるなどとキメツケてはいけない、などととりあえず結論づけてしまいそうな「石頭A」というあたりか(爆)。ウンナンって確かどちらか(両方?)がABだと思いましたが、だとすると、ABは、このイヤミには思わず"共感"しちゃったりしますでしょうか?(^^;;
ところで、「理解力に欠ける」タイプのAB型は「解りの悪いAB」でしたっけ?
・否定派心理学者について
現在の心理学は「相当いきづまっている」のだそうです。別に、私が心理学にケチをつけようとして言ってるのではありません。次は、『オール・ザット・血液型』(佐藤さん・渡邊さんの共著)からの引用です(165ページ)。
実は、ぼくらの心理学はいろんな意味で相当いきづまっていて、なんか、もっと自由な、もっと面白いテーマはないか、ってみんなで探していた。そこで、血液型やオカルトっていう、それまでタブーっぽかったテーマがぼくらをひきつけたというわけ。まあ心理学のいきづまりに気づかない人は今でもたくさんいて、昔どおりにやってるけどね。
佐藤さんは、心理学の権威である詫摩さんの教え子ですから、普通の人が言うのとは重みが違います。(^^;;
実際のデータを見ても、心理学専攻の学生の(少なくとも)半数程度は、血液型性格関連説は正しいと思っているようです。これでは無視できないのは当然でしょう。血液型を否定する授業をすると、肯定する割合は多少は低くなりますが、ゼロになるなんてことはありません!
この「嫉妬」の感情は、最近の「心理テスト」のブームに対する反応にも表れています。普通の心理学者の主張は、心理学の「性格テスト」だけが科学的で、いわゆる「心理テスト」はインチキで非科学的だ、というものです。しかし、私から言わせれば、それは程度の差であって、心理学だけが100%科学的だとは(統計的に)考えられません。もちろん、いわゆる「心理テスト」が正しいというのではありません、念のため。
・「キメツケ派」に関して
幸い、この番組は見ることができました。ビデオにも録ってあります。確かに、最初に「首相にはO型が多いということはO型が一番優秀ということ」といった解説がありました。が、まさか本当にそう「信じる」人がいるとは私には信じられません(笑)。群馬県では戦後に3人の首相(福田、中曽根、小渕各首相)が出たから優秀だ、とは当の群馬県人でも信じていないでしょう(笑)。
しかし、お笑い番組とは言っても、内容はなかなか真面目です。ちゃんとデータを取って勝負していますから。最近ではいちばん「まとも」ではないでしょうか? となると、データフリークでAB型のスタッフでもいるのでしょうか(笑)。以下は、私がMLに書いたものです。
21:15〜21:35ぐらいまでやってました。 いやぁ、面白かったです。最初に総理大臣の血液型のデータ、次に長者番付の血液型のデータを出して説明していました。単なるバラエティと思っていたのですが、正統的な分析なので喜んでしまいました。 毎日新聞といいTBSといい、血液型が好きな人が多いようです(笑)。 ゲストに異常にAB型が多いのには大笑いです。で、AB型だけのグループができたのですが、なんとも迫力がないグループで、やっぱりAB型でした(爆)。 なお、ウンナンはどちらもAB型です。(^^) #もっとも、説明はいくつか間違いがありましたけどね。:-p |
この番組のスタッフが『ABO FAN』を見ているとも思えませんが、最近はデータに基づいた正統的な番組が増えてきてうれしい限りです。v(^^)
・「会合の仕切り」
>AB型については、私自身が「やらないAB型」ですので、コメントは省略させていただきます(笑)
あ、ずるいなあ(笑)。イヤミはお得意でも、「逃げ方」はあまり上手ではないようですね、と(とりあえず)言っておきましょう(笑)。
・否定派心理学者/つづき
>実は、ぼくらの心理学はいろんな意味で相当いきづまっていて(『オール・ザット・血液型』)
彼等(心理学者)には彼等なりに自覚はあるものの、"分かっ"てはいないようですね(^^。
"行き詰まって"いるのは心理学ではなく、心理学「者」でしょう。いえいえ、正確に言えば"行き詰ま"るには少なくとも"行き"出すことが必要なわけですが、そもそも心理学「者」は"行"き始めているのでしょうか・・・。
「血液型性格関連説」の否定の仕方、差別に対する姿勢、そして最近(simaさんメール)の、クレッチマー説の取扱い・・・。信じがたいことばかりです。
"クレッチマー説の取扱い"に関して、念のため申し添えておきますが、わたしがあきれているのは「心理学がそれを否定した」ことについてではありません。「否定の理由」について、です。
実は、どうにも納得できず、simaさんのメールを読み返したりしていたのですが、それによっておぼろげながら見えて来たような気がします(^^;。正確な表現として素直に読みますと、
>医師国家試験出題基準の「特に留意すべき述語」から除外されました
ということであって、これは「心理学」界・会とは関係ないことなのですね! そして、simaさんがこのことを知ったのは「精神医学の教科書」(の脚注)であってやはり「心理学」界・会とは無関係です。しかし、結論では、
>心理学や精神医学の領域ではクレッチマー説は否定され淘汰される考え方になっています
と、いきなり心理学が出てきます。・・・どうも、心理学は精神医学におんぶにだっこ、(少なくともクレッチマー説については)その知見を無批判に受け入れている、と言うことに他なりません。これ揚げ足取りではなく、simaさん、その辺は正確に表現してくれたのだと思います(^^。
"医学"の分野ならば「統計的緻密さに欠ける」という批判はあり得ることです。実際に「医学」会・界が「統計的な検証」をしたかどうかはともかく、「クレッチマー説」に関して「心理学」が「統計」上の見地からのアプローチが可能とは思えません。「クレッチマー説」の構造において心理学が扱えるのは「"特定の精神病における共通の気質傾向"を特定できるか?」である筈です。が、そういう検討・検証がおこなわれた形跡はありませんねえ。
差別についても、simaさんと議論が進めばおいおい言及するつもりでいたのですが(機会を得られませんでした)、その理解は全くおそまつとしか言いようがありません。
>特定の血液型に悪いイメージが付与されそのイメージが一般に広がっているから「差別的」というのです。(simaさんその14)
本当にこんな単細胞的理解しかしていないのでしょうか・・・。
ま、また機会があれば詳しく述べますが、差別の構造はそんな単純なものではないのです。
simaさんのメールや、否定派心理学者のサイトの主張からうかがえるのは、はっきり言って「人間心理」に対する感受性の(著しい)欠如です。
「心理学」が行き詰まっているのではありません、心理学「者」が"踏み出"せていないのです。
さて、
>普通の心理学者の主張は、心理学の「性格テスト」だけが科学的で、いわゆる「心理テスト」はインチキで非科学的だ、というものです。
というのは本当なのですか?TV番組等で見る"いわゆる「心理テスト」"では、監修とか解説と称して心理学者(よく見かけるのはT田さん(^^;;)がウロチョロしていますが、彼等、学会内では顰蹙モンだったりしているのでしょうか(笑)。それにしても、「インチキで非科学的」というのなら、もっときちんと批判してほしいですねぇ。所詮"占い"扱いの「血液型性格診断」なんかよりはるかに罪深いような気がします(笑)。
・ウンナンのホントのところ
> まさか本当にそう「信じる」人がいるとは私には信じられません(笑)
「O型ではないので優秀ではない、と悩んで鬱病が悪化」したりする方が出ないことを祈るばかりです(爆)。
・否定派心理学者/つづき について
なるほど、心理学ではなく精神医学によって否定されているのですね。私は気が付きませんでしたが、確かにsimaさんのメールにではそうなっていますね。
心理テストについては、血液型に否定的な心理学者(複数)は「インチキで非科学的」という趣旨の意見を主張しています。そのHPを見た限りでは、反対する心理学者もいなかったようなので、私には少数派とは思えませんでしたが…。もっとも、サンプルが少ないので、これだけで断定するのは無理かもしれません。
4/14放送のTV番組『ウンナンのホントのところ』を見る機会がありました(^^。
確かに「歴代総理大臣にO型の人が多いということはO型が一番優秀であるということ」てな話題もありましたが、小耳にはさんだ断片から想像していた内容とはちょっと違っていました。
出演者の内、O型は一人、それがH野K治では、失礼ながら「O型が一番優秀」の反証にしかなっていませんでしたね(笑)。「総理大臣=優秀」のネタはそういうかたちのオチョクリだったわけでした。一方、高額納税者やタレント人気投票的項目、野球選手成績などで順位が低く、唯一の一番(優秀?項目)が「お笑いコンビのボケ役」という、結局は"番組のボケ役"のAB型が(ウンナン二人を含めて)半数を占める、というなかなか凝った構成でした。AやBの出演者も、通説とはズレた(多分意図的に"ズラした")人選で、オモシロかったです。
ウンナンのデビュー時のネタに"受験モノ"とでも言うべきものがあり、これが結構マニアックでそれ以後、ちと気にかけていました(^^。
今でも憶えているのが"英語ネタ・諺の英訳"のうちの一つで、「覆水盆に返らず」を「Mr. FUKUSUI dose'nt return in BON」と訳したヤツです。「フクスイさんはお盆休みなのに帰郷しません、ト、世の中にはお仕事で忙しい人もいるんだ、ト」というような展開になるわけです。会場大受け爆笑盛り上がりなんですが、おそらく、観客の殆どを占める若モンの大部分は原典の「覆水盆に返らず」を知らなかったと思います(思うに、文系大学生で正答率3割ぐらいかと・・・)。笑うために来ている連中ですから"可笑しいことを言っていそうだ"という雰囲気だけで充分笑えるのでしょうから、ま、それはそれでいいのですが、わたしが注目したのは、どうも、ウンナンその辺は分かっていたような気がしたからです。ウンナンとしては、このネタ出来が良く気に入っているが、多分客は原典を知らない、でもやりたい、もっと知られている諺で前振りしてネタの構造を理解させておけば後は演じ方で笑いをとれるだろう・・・とでもいった確信犯だったように思っています。
5/18『万物創世記』はどんな切り口を見せてくれるか楽しみです。この番組、結構「真っ向勝負」的ですから、そのセンで突っ込んで欲しいと思っています。
『ウンナンのホントのトコロ』は、なかなか楽しめたと思います。(^^)
バラエティとしては、私もなかなかよくできた内容だと思っています。
「覆水盆に返らず」の正解率が3割と言うのは初耳です。センター入試に諺ってないんでしたっけ?(笑) 私は、完全なランダムサンプリング、多数のサンプル、複数回安定したデータでなければ信用しません(大笑)。
『万物創世記』は、どんな内容になるのかわかりませんが、放送が楽しみです。最近は、「まとも」な血液型関係の番組が増えているようで、喜ばしいかぎりです。
「性格−あなたの知らない本当の自分」
録画しておいたものをやっと見ることができました。
わはははは。これはまた、いろんな意味で興味津々の番組でありました。
まずは、ひととおり通して見た印象。
この番組、実は久しぶりに見たのですが、番組自体の"性格"がずいぶん変わったように思います。今回の”作り(構成の基本的概念)"、まず「結論」があって、その結論の内容を"見せる(解説・説明)"ものでしたが、以前はそうした「結論」が如何にして得られたかを見せる番組だったと思うのですが・・・?だからこその「創世記」の筈ではかったでしょうか。尤も、これは今回に限ったことかもしれませんが。
もうひとつ、番組監修者の埼玉大学教授清水弘司さんがところどころで出演して"ご託宣"風に「まとめ」られるのですが、その間、TV画面の正面を向かず(視聴者と目をあわさない)、画面外の誰かに語りかけるような格好なのです。胡散臭いと言うか、やましいことでもあるのかと言いたくなるような、イヤな感じがしました。
視線を逸らせて話すと信用度合いが落ちるからね、と、新人の頃いわれたものですが、心理学の専門家はそうした(ステレオタイプ?の)「効果」をどう「計算」したのでしょうね。
次に、気になったところを重点的に見たのですが、血液型性格診断関係で意外な可能性が垣間見え、(TV番組としてはつまらなかったのですが)そのあたりはけっこう面白い見せ物になっています。そういう意味でも、当サイトのスタンスを尊重する意味でも(笑)「血液型」を中心に話しを進めましょう。
「血液型性格診断は当たるか=日常生活(行動の特徴)から血液型が判るか」と題して、"実験台"役の大学生二人が登場。きちんと整理整頓された部屋と乱雑な部屋という対称的な夫々の住まいを映し出し、血液型を訊いてみると、コレはビックリ実はどちらもO型なのでした、血液型で性格は判らない、というのが最初の場面でした。
かくも杜撰な作りに(スタッフの)誰もなにも頓着しないというのはスゴイことです。映された部屋が本当に彼らの住まいかどうかの検証は何も無く、勿論それはプライバシーの問題で限界があるのですから、だったら、これは「例」としては不適当ということになる筈だと思うんですがねぇ。更に、肝心の血液型の確認が本人に訊いただけ・・・。どうせ血液型性格診断なんてウソなんだからどうでもいい、という姿勢なんでしょうか、それとも・・・(笑)。
そのいい加減さといいますか、うそっぽいのが、「乱雑」と紹介された部屋のコギレイさです(笑)。ビデオに撮った方はぜひもう一度ご覧になって下さい。あの程度で「ゴミや洗濯物で足の踏み場も無い」とは恐れ入りました。番組関係者はかなりのきれい好きが揃っていたようです。皮肉でもイヤミでもありません。「乱雑」な学生の部屋がどんなものか、知らないのでしょうか。尤も最近の学生さんは、乱雑といってもあんなものなんでしょうかねぇ。わたしのような「おっちょこちょいB」が見ると、O型は清潔好き!などと言ってしまうかも(笑)。ってのは勿論冗談です、わたしが知っている一番ヒドイ部屋の住人はO型でした。ついでに言っておけば、一番片付いていたのはわたしBの部屋でしたが、"キレイ"なわけではありません。埃や汚れは気にならないのですが、片付いてないのはイヤなのです。番組は散らかっているのも汚いのもいっしょくたにしたいい加減な描写でしたが、ま、その辺は番組自体の作りの安易さによりますかね。
ともあれ、この二人、ベッドに寝てテレビを見る習慣は無い(ベッドとTVの位置関係による)、とか、壁にポスター等を貼る趣味は無い(少くともベッド回りの壁はまっさら)など、日常生活の特徴として共通点が多いように見えました。え?その共通性から同じO型だからという方へもっていくのかとおっしゃいますか?はははは、いえいえ。わたしの疑義は、この部屋、"セット"じゃあないの、所謂"ヤラセ"と違うか、ってことです。いくら血液型が同じでも、こんな似たような特徴ってのはヘンだと思うがなあ。
さて、そんなわたしの印象とは関係無く(当たり前だ)、「A型は几帳面」「B型は大雑把」の筈なのにどちらでもない、とナレーションは続きます。おお、出ました「血液型ステレオタイプ」!否定派得意の決めつけ!能見正比古はそんなこと言ってない!と、こちらも負けずに"ステレオタイプ"反応してしまいそう(笑)ですが、ここではそうは言いません。実は、こうして長い「感想」を書く気になったのは、「フウン、そこそこ考えてはいるんだ・・・」と思ったからなのです。血液型のコーナーの締めくくり「血液型性格診断はアテにならないのか・・・」のナレーションの映像は血液型性格診断関係の本32冊(確認分)を並べた背表紙(但し、本のタイトル以外はぼかしてありました)なんですが、この中に能見正比古氏の著作は無いのです!!(俊賢氏の本はあるようです)そして画面に登場した番組監修者、埼玉大学教授・清水弘司氏の第一声が「血液型で全ての性格が決定できるということはまず有り得ない」ですと!!
いかがですか?能見正比古氏の著作が入っていないのはとても偶然とは思えません。しかも、関連性の否定が「"全ての"性格」だの「"まず"有り得ない」、などとという奇妙な限定付き、好意的に解釈すれば、清水さん、正比古氏の隠れ支持者なのではないでしょうか(笑)。そして「今まで、心理学会で血液型によって差があるという報告はない」と続くのですが、そのことについての清水さん自身の見解はありません。というより、この二番目のフレーズ、なぜかシドロモドロで、なんか動揺しているんですよねぇ。勿論、別の面から解釈すれば、正比古説相手は分が悪いと見て、巧妙に逃げをうっておいた、ということになりますが。
さてそうなると、前に指摘した番組の杜撰さも、実は本気で否定するつもりではなかったから、という可能性があるのでしょうか(笑)。
うふふ、面白いですねえ、いいですねぇ。清水さん、案外"曲者"かも知れませんねえ、否定派面をして肯定派にも言い訳が効くように立ち回っていますねぇ。見たところまだお若い(五十路前?)のに"教授"ですからね、ただ者ではないのでしょうねぇ。
最後のナレーションも「血液型性格診断はまだ科学的に実証されたものではない。
血液型に振り回されてはいけないのだ」とは、「否定派」にしてはなかなか考えたセリフではありませんか。
その後、この"実験台"の二人、YG性格検査を受け、それによると性格に差が出た(一人は協調性に富み、もう一人は自己中心的)とし、それの"実証"ということで、出前で頼んだものと違うものが届いたときの対応の比較とやらをするのですが、カメラワークからして、もう「お芝居」そのもの、結論に合わせた映像作りであることを隠そうともしません。それはそれとして、違っても(チャーシュー麺の筈がただのラーメンを持ってきたが、ま、似たものでもあることだし、と)受取るのは「協調性あり」で、頼んだものを届け直させるのは「自己中心的」、というのは、そういうことで良いのでしょうか・・・。口に入ればナンでも良いというのが多いのはO型なら、チャーシュー麺を食べると決めたからにはあくまでチャーシュー麺、と目的遂行に燃えるのもO型。つまり、間違えた出前という局面への対応・判断に一つの物差し(目盛りの一方の端が「協調性」で他方が「自己中心」という物差し)でいいのかなあ、とちょっと疑問。
続いて、筆跡鑑定による性格診断の専門家として慶應義塾大学名誉教授・槙田仁氏が登場。「性格」の違いを"鑑定"してみせ、またまた"実証"とやらで、今度は自由に1万円使わせました。一人はゲーム代と宝くじ購入で使い果たしましたが、一方は、気に入った洋服購入のために捜し回るも見つけられず結局貯金、という"対称的"な使い方を"確認"しました。がっ、どちらもお金の使用「目的」に拘るサマは実にO型的、こんなにきっちりハマるもんでしょうか、って、まさか"ヤラセ"じゃあ・・・(笑)。
この後の、生まれ順(兄弟関係)によって形成される「性格」のコーナーでもそうなんですが、番組を見た限りでは清水さん、どんな基準にせよ、あるグループの人の性格はこれこれ、というような"キメツケ"がお好きなようです。テレビ的見せ物としては、そういうやり方が「見せやすい」のかも知れませんのでその分割引くとしても、少なくとも"決めつける"ことに「抵抗はない」ようです。血液型と性格の関連の否定でも、その基本的発想は「○型は□□」という"キメツケ"ができるかどうか、というあたりに思えるんですねぇ。
生まれ順による性格の差は認めているようですが、長男次男三男一人っ子の性格を、あんな断定的に表現してもいいのかなあ・・・。心理学会は「生まれ順(兄弟関係)による性格類型のステレオタイプ化計画」でも始めたかのように見えてしまいます。
ん?「学者としての矜持」?ははは、そんな言葉もありましたねぇ。
わたしが度々懸念を表明している「差別に鈍感な心理学者」がここでも露呈しているようで、全くこまったもんです。
「テレビ的見せ物」ということで、ちょっと補足しておきます。
性格が変わる、という話題で採り上げていたのが、「制服」による「性格の変化」でした。
この番組では、性格を「その人らしい行動や反応の特徴」と定義(これっていわゆる「行動主義」でしょうか?)しているので、ま、性格が変わった、ということになるのでしょうけど、シロートの発想としては、本質とか気質、といったより根元的な部分はどうなんだ、と思ってしまいます。それなのに、その辺、「実は目に見えない大きな"無意識"の部分があるのだ(と氷山!?の痰ヲはなんて貧困な発想!!)」で片づけられては、結局根拠のないヨタ話しかい!とずっこけてしまうじゃありませんか。
「見せ物」的面白さからも、「結論に至る過程」を楽しむという観点からも、この「制服効果」をメイン・テーマとすべきだったように思います。
「制服」といっても勿論「制服」自体に効果があるのではなく、その「制服」が喚起するイメージが影響しているのは明らかです。例えば、制服ではなくても、女装した男性は(趣味嗜好とは関係なく)女性的な仕草言葉遣いになりがちです。また、おばちゃんに女子学生の制服である今時のセーラー服を着せても、いわゆるコギャル的にはならず、自分の学生の頃のノリになってしまうと思います。但し、(当時は無かった)ルーズソックスを穿かせるとちょっと違うかもしれません、とは言え、見たい絵柄ではありませんね、これは(笑)。
米スタンフォード大学での囚人と看守の演者が次第に役にはまってゆく実験を映していましたが、制服効果の考察という意味で、看守役に囚人服を、囚人に看守の制服を着せて演じさせるとどうなるのか程度の追試をやってほしかったなぁ。
また、だれも知らない制服(創作で可)を、某国の警察/消防の制服とか下水掃除用作業服、等々違う説明をして着せるとどうか、といった実験も「見せ物」としても面白そうだと思うんですが。
「制服(衣裳)が喚起するイメージの効果」という視点から、仕事着と普段着の精神的影響など、「見せ場」はいくらでもあるように思います。例えば、制服着用時と寝間着着用時での作業効率の比較ということで、おねいチャン達に制服着用とネグリジェ/パジャマ着用でクレペリン検査するとかね。勿論おにいチャンも揃えないとセクハラになってしまいます(笑)。これ、どちらかの方が成績が良かった、と差が出ても、結局変わらなくても、結果は面白いと思います(ホントか・笑)。
具体的な絵作りはともあれ、そうした「制服・衣裳との関わり具合」から「性格」を検証する、というスタンスのほうが、「好奇心に応える」という意味での「面白さ」が出たと思います。
率直に言って退屈でした。ウラの『学校へ行こう!』や『踊る!さんま御殿!!』のほうがずっと好きです(笑)。
そういえば、データ等の実証性は全くなかったこの番組、owadaさんにはなんら見るべきものがなかったのではありませんか(笑)。
1回は見たのですが、最大素数さんからのメールが来たので、再度見直しました(笑)。
まずは、出演者の血液型です。
鈴木さんは不明ですが、A型らしいような気もします。本当はどうなのでしょうか?
#外してたら困るなぁ(笑)。
さて、本題に入りましょう。この番組を見たのは今回が初めてなのですが、私は、番組の意図するところか理解できませんでした(失礼!)。この番組の趣旨は、私の印象では、単なるバラエティではなく、科学的な検証をしようということなのだと思われます。なぜなら、人格(性格)心理学専門の大学教授が実名で監修をしているからです(最後のテロップ)。しかし、最大素数さんも書いているように、データが何もないようです。
検証らしきものと言えば、最初に出演した2人のO型大学生と4人の出演者をサンプルにしたものだけです。どう考えてもこれでは検証になり得ない! なぜなら、否定論者の心理学者が言う、完全なランダムサンプリング、多数のサンプル、複数回安定したデータのいずれにも当てはまらないのですから…。監修が心理学者なら、もう少しアカデミックな方法もあったと思います。もっとも、番組の性格からして、バラエティ番組に近いということでしょうから、文句を言うつもりはありません。ただ、それなら、別なやり方もあったのに惜しまれます。
例えば、ビデオによる実証後、出演者に「やっぱり血液型性格診断は正しくない」とでも言ってもらって、「やっぱりそうだ」「いや違う」とか議論百出して、結論として「やっぱり正しくない」とまとめることは十分可能なわけです。あるいは、断定はしなくとも、最後に否定的な雰囲気でまとめてもいいわけです(「特命リサーチ200X」など)。この方が面白いはずなのですが…。
というのは、物事を否定する場合には、否定側の一方的な意見だけではなく、多少は肯定的な意見も入れた方が効果がある、ということが心理学的に証明されているからです(アメリカの実験かなんかであったはずですが、出典は忘れてしまいました…)。だから、心理学的に見ると、あの構成ではどうもよくないわけです。心理学者が監修しているのに、なぜあんな構成にしたのかは、私には大きな謎として残りました。
その後、清水教授の著書『男と女の心理学』(サンマーク出版
H4)からこの部分を見つけることができました。28〜29ページの「まず、けなしてからほめよう」から引用しておきます。
もっとも、これは人に対する評価ですから、番組の場合にはあてはまらないのかもしれません…。 なお、この本では、血液型と性格については明確に否定はしていません。血液型に関するのは次の記述だけです(「相性のいいカップルとは?」 179ページ)。
この後には、西洋占星術や占いの話題が続きますが、明確に否定している記述は見あたりません。さりとて、積極的に肯定しているわけでもありません…。 -- H11.5.25 |
次に、実際の内容についてです。まずO型の特徴として、「親分肌」「おおらか」「気分屋」「自立心旺盛」「親しみやすい」「自分勝手」とのことですが、これらの出典が不明です。ついでに、A型が「几帳面」、B型は「大雑把」なのだそうです。確かなのは、この性格特性については、能見さんの本はほとんど参考にしていないということです。私も最大素数さんも、こんな「血液型性格診断」なら、清水教授の「血液型によって差があるとは言えない」という意見には大賛成でしょう(笑)。
さて、清水教授の言葉ですが、血液型については、次の2つだけです。
1.「血液型で全ての性格が決定できるということはまず有り得ない」
2.「今まで心理学界で報告された結果を見ましても、血液型によって差があるとは言えないという結果が報告されています」
1.は当然すぎるほど当然です! 2.については、「差があるとは言えない」とのことですが、これは一体何についてなのでしょうか? データ的には差があることは既にいくつか報告されています(坂元さん、渡邊さんなど)。つまり、データ的に「差があるとは言えない」という意見なら、明らかに間違いです。坂元さんの論文を読んでいないというのは信じられないので、血液型が性格に影響を与えるとは言えない、という意味なのだと解釈するしかありません。本当はどうなのでしょうか? はて?
いずれにせよ、アカデミックでもなく、かといって視聴者受けしようということでもなさそうだし、私には理解不能です。(^^;;
ついでに書いておくと、同じ方法で「きょうだい型人間学」を否定するのも簡単です。長子(末子)らしい長子(末子)とそうでない人を対比して、だから「きょうだい型人間学」は間違っているという結論も簡単に導けるのですから…。
#この調子で、あらゆることを否定することが可能です。
性差についての説明も同様です。番組で説明していたように、ある民族の男性は「女性的」で女性は「男性的」というのも全く同じ方法ですね。
性別による性格の違いについては、性別でホルモンバランスが違い、例えば男性は攻撃的ということが、ある程度説明できるようです。これと心理学での解釈も説明してもらえば面白かったのですが、番組中では(なぜか?)何の説明がありませんでした。
もう一つの問題は、心理学の性格テスト(あるいは、番組中のいわゆる「心理テスト」)がなぜ正しいかという説明がなかったことです。上に説明したように、数人のサンプルでは何の意味もありません。TVで見栄えがするかどうかという点を差し引いても、あまり感心できる方法ではないと思います。それこそ、心理学者のコメントがあった方がよかったのではないかと思うのですが…。
ところで…、
>能見正比古氏の著作が入っていないのはとても偶然とは思えません。
最大素数さんは、随分と細かく見ているようですね。本については、確かに能見正比古さんのものはないようです。意図的に外したのか、たまたま昔の本だからなのかはなんとも言えません。ただ、能見俊賢さんの最近の本(正比古さんとの共著)もないのは、少々不自然のような気がします。
閑話休題。
その後、彼の最近の著書を見つけることができました。サイエンス社の「ライブラリ心の世界を学ぶ3 はじめてふれる性格心理学」(1,800円)という本です。本の紹介から引用しておくと、
本書は性格心理学のテキストです.しかし,無味乾燥なテキスト然としたテキストではなく,初めて心理学に接する学生を「学問の世界にひきつける」ことを第一目的に,やさしくまとめてあります.大学生のみならず,高校生や一般の方にも読んで楽しい内容になっています.血液型,男と女のちがいなど,興味深い身近な話題から入りながら,心理学のさまざまな知見に触れられるように構成されています.
とのことです。他の資料も見ると、清水さんの専門は、「血液型」よりは「男と女のちがい」のようです。だから、番組でも男女差のことが出てきたのでしょう。ところが、清水さんが血液型について書いた論文は1つも発見できませんでした。もっとも、この本には書いてあるのでしょうが…。
#面白そうなので、取り寄せて読んでみようと思います。
彼の著書や論文も検索してみましたが、血液型についての著書・論文は1つもなく、他の全部は「男女差」に関するものです。つまり、彼は血液型の専門家ではないようなのです。これで、やっと彼の言葉が理解できました! 繰り返しになりますが、
1.「血液型で全ての性格が決定できるということはまず有り得ない」
2.「今まで心理学界で報告された結果を見ましても、血液型によって差があるとは言えないという結果が報告されています」
自分の専門でないのだから、そういう意味では正直な言葉なのでしょう。だから「血液型と性格は関係ない」とは言っていませんし、「結果が報告されています」とのことで、「関係はない」という断定はしていません。と言うことは、この番組では、血液型に関しては、何ら否定はしていない(?)ということになるのでしょうか?
となると、なぜこの番組で血液型を否定しないといけないのか、私にはさっぱりわからないのですが…。はて?
その後、清水さんの書いた心理学の入門書を入手しました。まず、クレッチマー説についてはどうか?(清水弘司=著 ライブラリ
心の世界を学ぶ・3
はじめてふれる性格心理学 サイエンス社 H10.12 114ページ)
わざわざ解説するまでもなく、全面的に肯定していることがわかります。つまり、simaさんによると、全く「非科学的」なことを教えていることになるようです。 次に、血液型と性格についてです(同書 7〜9ページ)。少々長いのですが、正確を期すために、関係部分を全文引用させていただきます。
残念ながら、特に新しい情報はないようです…。 -- H11.6.6 |
simaさんからのメールが絶えてもう2ヶ月以上になりました。お忙しいと1ヶ月ぐらいは「帰宅してもそのまま寝てしまう日々が続(メールその23)」くらしいのでものすごくお忙しいのでしょう。
最近読み返してみたのですが、結局のところ、simaさんはなにを言いたかったのだろう、とか、「sima」という"匿名"なのに「臨床心理士」という"実名性"に拘ったことの意味、など、いろいろ考えてしまいました。
コンセプトとしては「血液型性格関連説の否定」だったようですが、論を(自称)実例を揚げてまで「差別」問題から起こした理由がよく解りません。現役の臨床心理士として直接のクライア(エ?・笑)ントを引き合いに出したのはどんな思惑があったのでしょうか。
何人かから疑義が提示され、結局のところ
>クライエントのプライバシーのためにできるだけリアリティーを伝えないように
という私の意図は成功だったと思う反面、このような情報を流して少し軽率だったかとも思い反省しています。(メールその5)では、一体なんのつもりだったのと思ってしまいます。
後の、「一流大学云々」の議論(メールその23)から垣間見える「権威主義」の匂いから勘ぐれば、「専門家」が「実例」をもって説き起こせば、皆「ヘヘーッ」となってしまうだろう、とでも思ったのかしらん。って、ま、それは冗談(としておこうね)ですが、少なくとも、専門的な話題には躊躇するであろう程度の期待はあったのかもしれません。
しかし、結果的には、「臨床心理士」を名乗ったことでずいぶん窮屈な思いをしてしまったように思います。特に「クレッチマー説」関連の話題では、専門家を称した以上知らぬでは済まされぬとでも思ったのか、ずいぶん"無理"してしまったようでした。
とうことで、臨床心理士(実名"性")sima(匿名)さんに絡めて「匿名」と「実名」について考えたことを述べてみます。
匿名の悪口罵詈雑言メール等については論議以前の問題として、ここでは考えません。BBSや公開メール、場合によってはTV番組・出版物等、「不特定多数に"も"公開・発信された"発言"」について考えます。
・「匿名」の"無責任性"〜責任をとる、とは?
匿名が否定的に捉えられがちなのは、その"無責任性"によるようです。都合が悪くなれば別名に乗り換えて全く違う人格・立場を装うことができる、即ち自分の発言に「責任」を持たなくて良い、ということです。が、そういう場合の「責任」って何なんでしょうか。"都合が悪くなったこと"の"決着(オトシマエ)"ということかしらん。「私が間違っておりました。ご迷惑をお掛けしてしまいました。与えてしまった損害につきましては、各々の方法で償います」とでもいった後始末のことでしょうか。そういう意味では、匿名氏は責任をとれません(実名を明らかにして謝罪する等、とろうとすれば方法はありますが、厳密には「匿名」の特定ができないわけです)。しかししかし、一方、実際問題としては、「実名」氏は、まず、責任を「とりません」。正確に言えば、都合が悪くなったこと(誤謬・論戦での敗北等々)を「認めない」のです(^^。もし、匿名ならば、さっさと尻尾をまいて(論戦を一方的に整理・終結して)とっとと消えることができただろうにト、ならばどちらもこんなに傷つくことはなかったのではなかろうかト、そういう議論って結構あります。
(匿名の無責任性に乗っかってムチャクチャ言う方も時ワ見かけますが、そういう輩は"誰からも相手にされない"という「敗北の宣告」を受けることになります。匿名の"罵詈"に匿名の"雑言”で応じる奴が出てくると掲示板なり会議室が"荒れ"るわけですが、勿論その手も論外とします)
・「匿名」のきつさ
ただし、「匿名」が"無責任性"と切り離せないということは、一回毎の発言(投稿)の中で主張の明確性と論理的整合性がなければ取り合ってもらえない、ということでもあるのです。つまり匿名氏は常に"無責任性"に対する"反証"を示して居なければならないのです。「実名」氏がときとして"肩書き"や"所属"を「利用」したり、はたまた「"この"私が言うんだからマチガイ無いっ」的に振り回してウヤムヤにしたり(おー、いる居るそういう奴)する場合がないわけではなく、「テキトーに誤魔化せる」"逃げ道"がある、とも言えるわけです。
また、実名が常に明らかならば、論議の足りないところは違う時期場所に発表した分を援用できるわけです(尤も、以前の発言を逆手に取られて立ち往生してしまうおマヌケ氏もいるかも知れませんが、勿論そんな手合は論外であります)。
とは言え、主張の内容とか論理的整合、文章の"クセ"の相違、などなど、「実名」ならば"人格"を疑われて相手にされなくなってしまいますが、「匿名」ならば"複数"?というエクスキューズ込みで相手にしてもらえることもあるわけですが(笑)。
・「実名」の無責任性〜臨床心理士の限界
simaさん、あくまで臨床心理士を主張したことで、話しの発端である「鬱病患者」氏には(自分自身が)言及できなくなってしまいました。同じ理由で"各論"・"現場論"にも踏み込めなくなってしまったのかもしれません。折角の"専門家"の筈が、守秘義務によって「効果的な実例」を用いることができず、不自由な議論を強いられることになってしまったのではないでしょうか。しかししかし、これは実はある局面では好都合なことでもあるのです。論戦が不利になったら、「その主張に対する決定的な反証を持っているが立場上言えないので、ここは一旦引いておくことにしよう」という言い訳に使えるのです!特に、"各論"・"現場論"が不得手な人には有力な"武器"足り得るのです。が、勿論、もっと気楽に「(実名で書いているので)差し障りがある方がおられるとまずいので」と思わせぶりにヨタを飛ばしたり、煙にまいたりすることもできるわけです。
・「匿名」による議論
ここ『ABO FAN』のコンセプト、「データの統計学上の評価」という"科学的検証"や、わたしがつい力を入れてしまう「差別意識」に関する"本質論"は論者の"実在性"と無関係になし得るものと考えています。なにが正しくてなにが間違っていたのか明らかになればよいことですし、本質に少しでも迫れる知見が得られればそれで充分ではないか、というのがわたしのスタンスです。科学的検証や本質論に於いては、ヘンな先入観に囚われない分、むしろ匿名での議論の方が"良い"のではないかとさえ思っています。
更に、最近は、"現場論"でも匿名のほうが良い場合があるように感じています。
否定派心理学者はすぐに「血液型差別」の「例」とやらをあげてこんなことが許されていいのか風に息巻くのですが、その「例」が「例外」なく中途半端なんですねぇ。最近も某HPの「メール」紹介のページに、「B型と知られると差別されるのでA型と偽っている」人のメールが載せられましたが、その差別の"実体"が全然明らかではないのですね。差別があった勤務先・上司、学校・教師の「実名」まで公表してこそ「実名」サイトの"責任性"が全うできるのではないかなどと思ったりしてしまいます。逆にその辺が「実名」サイトの"限界"ならば、「匿名」(というより「覆面」?)サイトで書き飛ばしてしまうほうが現実的と言えるかも知れません。
・「実名」は「正々堂々」か
実名と正々堂々はセットで使われることも屡々です。曰く「正々堂々と実名を公表してナンタラカンタラ」。何の注釈もなく言い切ってしまう方がいるとすると、常に"強者"サイドに身をおいていたに違いありません(笑)。「XXの◯◯と言う者です」のXXが"その筋"だったり"某警察署"だったりしたら(少なくともわたしは)ビビルし(笑)、それなりの覚悟(笑)をして臨むことになるでしょうからねぇ。ま、そんな極端ではなくても、たとえば"大学教官"だって、「ウチの若いモン(学生)の中には無鉄砲な(犯罪紛いのハッキングが得意な)バカ(実行してしまうヤツ)も混じってましてねぇ」的"威嚇"に使うことは可能ですからね。
あくまでも「議論」のつもりなら正々堂々と無名の一個人「匿名」で挑んでほしいものです。
「実名」の理由
あれこれ述べてまいりましたが「実名」に拘りたい理由を"想定"出来ないわけではないのです。
議論の勝ち負けに拘り、しかも"勝てる(少ネくとも負けない)"自信がある人にとっては、負かした相手が何者なのか判らないのでは「勝った」喜びも半減(以下?)してしまい、我慢ならないに違いありません。その手の人達にとっては、「実名を明かすこと」=「強者側としての威嚇効果」は、むしろ"正々堂々"の御旗で隠蔽された好都合な情況であるわけです。
「実名」と「正体」
さて、ここまで、割と慎重に(おおっ、非B的側面!^^)「正体」という言葉を避けてまいりました。「実名の公表」=「正体を明かす」ではないという基本的な認識の故です。
わたしにとって、例えば「sima」さんの「正体」は、臨床心理士であるか否か、とか本名は、といったことではありません。
わたしのsimaさん宛の最初のメールで書いたように、この方の「差別意識の有り様」を顕在化させることでした。実際に臨床心理士であるならば、医師が患者に対して、また教師が生徒に対して持ちがちな、「優越感・優位感」と同質の差別意識をクライアントに対して持っているように感じたこと、臨床心理士ではないならば、臨床心理士を装うことで「鬱病患者」氏をそうした差別意識のもとに扱える筈、という(差別意識丸出しの)発想に基づいたのではないか、という疑義を明らかにしたかったのです。ま、学歴差別意識も旺盛で、しかも、ご自分の劣等感の断片までご披露頂いてしまい、わたしとしましては望外の「正体披瀝」でありました。
学歴差別についての補足。実は、管理人の学歴に関して単に大学院云々とか一流大学と言ったことだけを採り上げているのではありません(あまりに開けっぴろげなんで初めの内は"ワナ"かと思い込んでいました)。「一流」大学であって「超一流」大学と言わなかったところにsimaさんの強烈な差別意識が輝いているのです。文脈上としてはここは揶揄・皮肉の意味なんですから、実際にどこの大学であろうと「超一流大学」と言うべきなんです、「超」の有無を区別する場面ではないのです。simaさん、「超一流」大学なんでしょうねぇ。多分幼少のみぎりより神童の誉れ高く、期待を一身に担っての「超一流」大学合格!母校だけが「超」に値するのら!!凄まじい"プライド"ですよねぇ。正直に言えば、不覚にもちと"感動"してしまいました、あのとき。で、まあ、そのあとのメールで「超」一流大学のご出身?とちゃちゃを入れてみましたが、ははは、「本物」の迫力に貫禄負け、といったところでありました。
・「実名」の「責任」
ところで、「実名」氏は本当に「責任」をとれるものなのか、"疑問"を表明しておきましょう。
今年5月18日TV放送『たけしの万物創世記』〜性格は変えられるの"監修者"埼玉大学教授清水弘司さんは番組の内容について「責任」をとれる(とらねばならぬ?)立場にあるものなのでしょうか。
この番組、見返すほどに"ふざけた"作りなのですが、内容の訂正云々ということ以前に、疑義に答える程度の「責任」はある筈だと思うのですがどうなんでしょう。
不特定多数を対象に発信されたものですから、疑義の提唱者は1/(不特定多数)で差し支え無いはずです。
とりあえず、わたしの疑義は『血液型性格関連説の否定理由の一つが「今まで、心理学会で血液型によって差があるという報告はない」ということのようですが、生まれ順と性格の関連については「今まで、心理学会で生まれ順によって差があるという報告がある」のでしょうか』ということです。(正直に言えば、何らかのデータがあるんじゃないかという気はしてますので、ぜひ公開してほしいものです)
・「sima」さんへ
否定の根拠を"苦手"な統計談義や差別に求めず、是非ご自分の得意分野に立脚して論じていただきたく思います。その節は、「臨床心理士」などという、どの道無責任でしかあり得ない肩書きなどにこだわらず、「血液型と性格は関連ないとしか思えないhima」さんとでも名乗られればよろしいかと存じます。
ははは、フォローのメールをどうもありがとうございます。
ご存じのように、某サイトでは最近また「匿名」について問題にしています。よほどこだわらないといけない理由があるのでしょう(笑)。この理由についてはほぼ予想できますが、あえてここには公開しないでおきます…。
この人がsimaさんのメールを見たらなんと言うのでしょうね? しかも知り合いだったりしたら…。
ところで、「匿名」の議論で面白いのは、井沢さんが指摘しているとおりになっていることです。日本人が相手を否定する場合は、内容はともかく、まず相手の立場を問題とするようです(以下は、井沢元彦さん(B型)の『言霊(ことだま)』からの引用)。
「不愉快な」予測に対する日本人的反応
いま手元に「バイウォーター太平洋戦争と其(その)批判」(大正15年、文明協会刊)という訳本がある。これは、小説仕立てになっているバイウォーターの原著を全訳したうえで、「そんなことは有り得ない」と長文の批判を訳者(海軍少佐・石丸藤太)が付け加え、一冊の本にして刊行したものである。この訳者序を読むと、なかなか面白い。こういう「不愉快な」予測をぶつけられた場合の日本人の、典型的な反応がよく出ているからだ。要約して紹介しよう。
まず内容に対する反論に入る前に、石丸はバイウォーターの国籍を問題にしている。すなわち著者はイギリス人であるがゆえに、「排日的言動を弄し、米国の民衆に向いて排日熱を扇動し、日米の離間を策しつつ、英国をして漁夫の利を占めんとせしむる」(原文は旧かな)と決めつけている。
まさにそのとおりなので、思わず吹き出してしまいました。 この人は、このページや井沢さんの本を読んだのかどうか、ちょっと気になります(笑)。→詳しくはこちら
話は変わりますが、ふと思いついて心理学専攻のカリキュラムを調べてみたところ、数学の授業が少なすぎることが分かりました。だから、確率・統計・多変量解析は基礎を少しやってすぐ応用になり、驚くべきこと論理学についてはゼロです。「血液型」と性格について議論するのに、これではかなり問題でしょう。
もう少し詳しく調べたところ、社会心理学はそれでもまだマシですが、その他(性格心理学、認知心理学、カウンセリング…)では到底まともな授業が行われているとは言えません。で、心理学者の議論を振り返ってみるとお分かりのように、論理自体が破綻しているケースが非常に多いのです(苦笑)。データ解析についても、基礎が全くなっていないので、妙な結論になっているケースが非常に多い…。少々あきれたので、ここらへんについては、別のページで書くつもりです。[→詳しくはこちら
H11.7.16]
学部生ならまだわかるのですが、大学院生、講師、助教授・教授クラスでもおかしな場合が少なくありません。となると、今までは意図的に曲解していると信じていたのですが、どうやら本当に分かっていないようです。なるほど、とカリキュラムを調べてみて納得しました。実に困ったものです。:-p
#ところで、simaさんはどうなのでしょうか?
余談になりますが、心理学の性格テストは、ちょっとでも多変量解析を知っていれば、あまり信用できなくなります(苦笑)。信用しているということは、あまり多変量解析を知っていないためなのでしょうか…。
このHPでもお馴染みの行動分析学助教授(以下、助教授とのみ表記)が最近ご自分のWEB日記で、いわゆる「血液型性格判断肯定論(者)」に関して、なかなか興味深い論評をなさっています。
論じているサイト、「肯定論者」を特定していないので、当「ABO FAN」も相手にしてもらえているかどうか定かではなく、内容を吟味してみると「ABO FAN」やowadaさんにあてはまる部分はむしろ少ないので、ここで話題にするのはどうかと思ったのですが、一部とはいえ関係ありそうですし、ここでとりあげることで標的にされたサイト、「肯定論者」からアクセスがあればそれはそれで面白いかと考えなおして(公開前提で)メール差し上げます。
以下順次取り上げます。
最初のポイントは、自説に都合のいいデータだけを「つまみ食い」している、という指摘です。
ま、確かにそういう方はいらっしゃるようです(笑)。
owadaさんが「この有意差についてはどう思われますか?」(原文は、なんかお品に欠ける言い方です・笑)と迫ったのは、元は心理学者のデータでしたよねぇ。実は原文では、「雑多なデータの中から」と書いてありまして、同業者のデータを「雑多なデータ」と言い放つとはちと考え難いので、これは他の誰かのことであろうと判断しました。
その方は、owadaさんのように、「心理学者が指摘する、十分なサンプル数と(たまたまの"ある時"ではなく)ある程度以上の時間にわたって安定的に得られたデータ」という選び方はなさらなかったようです。それにしても大胆な仰りようではありまして、ちょっと感動してしまいました。
ただし、実は助教授の仰る「つまみ食い」の内実はよくわかりません。行動分析学に出てくる実例はなんか都合の良いものばかりを「つまみ食い」しているように感じていたのですが、当の助教授ご本人が、他人を、引用文のように批判なさっているトコロから見て、どうもわたしの"感じ"は(多分)的外れだったのでしょう。助教授、すまんかった。
次に、具体的に「どういう関係があるのか」を主張することが必要、との主張に関して。
この批判は、owadaさんも該当するように思います。owadaさん、進学しますぅ?笑。
この主張には、大きな二つの疑義があります。
一つ目は、"ガタガタ言ってないで自分でやれ"的な発想に対してです。「人の属性と気質・性格傾向の関係の研究」というのは心理学者(勿論全員ではなく、性格心理学者。の全員とは言いませんが)の「仕事」であります。そういうことに関する"プロ"です、ということの筈です。そのプロが「自分でやれ」とは、ある意味"噴飯"モノであります。しかし、そう言いつつも一方、わたし自身の事情を踏まえると、実は助教授のご意見は"有り難く"もあるのです(笑)。わたしどもの業界では、「こういう操作でこうならないのは設計が悪いんじゃないの」などという輩が結構います。客ならまだしも、そうでない無関係の者まで、ンなことを言ったりしてくれやがります。助教授のように、"ガタガタ言ってないで自分でやれ"的発言が通用する相手が増えることは、それなりに"ラク"になるような気がしますので、ま、"有り難くも"あるわけです。但し、勿論そんなセリフを(例えご理解ある助教授に対してさえも)吐いてしまったら、わたしら"プロ"としては失格だナ、とは思っておりま[この部分文字化け]一つは、「どういう関係があるのか」を「具体的」に主張する、とはどういうことか、が「具体的」に見えてこない、ということです。
「ABO FAN」における「血液型と性格」の関連についての主張は、データの統計学的検証を主眼としています。ですから「ABO FAN」における"「具体的」な主張"は統計処理の正誤に集約されると思います。助教授の指摘が「統計学的検証は無意味」ということではないのでしたら、「具体的に」とはどういうことなのか、「具体的に」示してほしいわけです。「具体的に」などという言葉自体がなんと"曖昧"なことでしょう。「具体的に」という言葉をそんな"便利"に使われてはたまりません。
そのあと、50種類の職業について調べたら東京都知事という職業だけはAB型が飛び抜けて多かったということをとりあげて肯定の根拠とした人がいるらしくて、思考停止しまったらイカンだろと叱っておられました。
50種類もの職業を調べながら「AB型が飛び抜けて多かった」職業を一種類しか発見出来なかったおマヌケ肯定論者、って誰だ?(笑)しかも、そいつはAB型が"多い"ことにしか目が行かず、O型なりA型B型への"偏り"は問題にしなかったようですが、これでは助教授に突っ込まれても仕方ありません。そいつが特定できたら、わたしも叱ってしまうかもしれません(笑)。
ただ、文を読み進んでいる最中は、「50種類の職業」から「AB型が飛び抜けて多かった」例を「つまみ食い」したって話しの蒸し返しかと思ってしまいました(笑)。この「思考停止」氏は「つまみ食い」は下手なようです。
さらに、肯定論を展開するときは遊び半分で、否定論を否定する時には厳格になる、と批判が続きます。
こう批判された人は、先の「つまみ食い」氏や「思考停止してしまった」氏とはどういう関係(同一人物?それらとはまた別人?)なのかなあ、なーんてね、ちょっとね。
「否定論を否定」とはまたご苦労なことです。owadaさんのように、「否定論の不備を指摘」する程度に留めておけば良いのにと思いますが、あ、ひょっとすると「指摘」を「否定」と受け取ったのかしらん。そう言えば、最近、某HPで、表現について疑義ありと書き込んだら、「削除すれば文句ねーだろ」的"過剰"対応をされて戸惑ったことがありましたが、あの方も(社会)心理学者でしたなぁ(笑)。勿論"削除"は思いとどまって頂きましたが、・・・ホントにそれで良かったのかどうかは、ね。(大笑)
それはさておき。「一つの結果に対して相対する結論が二つあるのはどう言うことなのでしょうか?」との「指摘」を「(否定論の)否定」と解釈するのはある意味"正直"な見解かなあ、とおもわないでもありません(笑)。
続いて、心理学者が集めたデータだけを攻撃している人がいることを訝っておられます。
助教授の文から考えるに、どうも「自分たちの集めたデータしか信用しない」と「言った」心理学者がいたらしいですねえっ!owadaさんのページを読めば、"能見父子のデータは集め方からして信用できない"ので自分たちでデータを集めたということなら、それをowadaさんも納得すれば、少なくとも"集め方"では互いに異論の無い"心理学者の集めたデータ"について議論をしましょう、というowadaさんのスタンスを、助教授が取り上げた「いわゆる「肯定」論者の中」の誰かも見習って欲しかったと思うのはわたしだけではない筈です。って、どこかの誰かに説教垂れても仕方ありませんが(笑)。
そんなことより吃驚したのは助教授のツッコミです。
わたしの最初の印象は「自分たちの集めたデータしか信用しない」などと言うタワゴトを"誰が"言ったのだろう、そんなバカなこと言うヤツがいるのかぁ?でした。助教授の疑義は「いつ心理学者がそんなことを言ったのだろう」だけであって、これって、そう言ってしまうヤツがいる(かも知れない)ことには疑問は無いのですねえっ!ははは、案外、助教授には心当たりがあったりして・・・。
そして、締めのお言葉です。
心理学者批判にエネルギーを注ぐ暇に、自分自身、信頼のおけるデータ集めをすべきであろう、というようなお話しです。
能見俊賢氏攻撃に続いて書いてありますが、[一部省略]他の誰かだと思うんですけど、さて、誰でしょう。ま、誰にしても、「心理学者批判にエネルギーを注ぐヒマ」で「データ集め」なんかできっこありません。勿論、心理学者批判に必要な「エネルギー」は相応のモノではありますが、反論が貧弱、というか殆ど無いので、持続させる「エネルギー」はほんの少々で足りてしまいます(笑)。「ひとくちで言えば、遊びながら」の再反論で十分で、とてもじゃありませんが「信頼のおけるデータ集め」に必要な「エネルギー」は桁が違います。
と、ここまでが○日分です。
「owadaさんのサイトのことでは無いのだがなあ」と言う助教授の高笑いが聞こえそうでありますが、ここまでの検討の通り、そんなことは勿論分かってますとも(笑)。
わたし個人的には、助教授の最後のお言葉、 この一年間の努力はどうなっておるのか的チョーお節介発言に感動しております。そっかー、そういう言い方アリなんですねぇ、助教授的には!いやあ、楽しい予感です。「採点」でもされちゃってるんでしょうか、一方的に。
はっはっはっは。まさしく「先生」ならでは!一種の職業病ですよねえ。
と、言うことで、後編(×日)については、この余韻を楽しんでからと致します。
メールをどうもありがとうございます。とりあえず、私はノーコメントとさせていただきます…。
こんにちわ。最大素数です。公開メールは久しぶりです。
こちらのHPのトップで、
> 4月5日(木) 19:00〜 『回復!スパスパ人間学』春スペシャル(TBS) 「性格」 [メインコーナーは血液型と性格]
と大きく扱っておりますが、最新のTV情報誌『TV_Bros.』や『ぴあ』を見る限り血液型の話題がどれくらい出るのか、ちと首を傾げざるを得ません。
ひょっとすると、「製作サイドのお眼鏡」にかなう出演者が揃わなかった、ってあたりで(笑)、これはもうはっきり言って企画の失敗ではないかしらん。
血液型"性格判断"なるものを信じている輩を集めて、アノ大センセ(大笑)と、信じてその気になっていたら実は血液型検査違いでそれ以来信じられなくなったという半径50cm経験主義のMC氏が小馬鹿にしつつ頭ごなしに叱りつけてやろうという貧困極まる構図がミエミエで、ま、ぽしゃってしまうのも当たり前ではあります。
それでも、多分、一コーナーとしてなんかやるんでしょうが、冒険的に断言しておくと、肯定派側の連中は、「やらせ」です(ははは。言い切ったネ)。
しどろもどろで幼稚な主張をして失笑を買う役と、一見きちんとしている風でトンチンカンな意見をくどくど喋ってバカにされるいかにも頭悪そうな役、「だって本当にあたるんですよっ!」などと喚き散らして「ここは話し合いの場なんだから」とたしなめられる役、の方達がそれぞれにちゃんと働くことでしょう。
さて、わたしが制作者で、否定的にまとめようとするならば、"心理学者と同様の手法による"統計処理で有意差が見られる、とかFBI効果は疑問だらけとか、性格の捉え方で(血液型との)関係があったり無かったりするかも、などなどマトモなことを言う役を一人おいて進行役を担わせ、その一つ一つに心理学者とMC氏が否定意見を述べ、再反論は前記のおバカ役がおマヌケをまき散らしてウヤムヤにして次の話題、という風にしてみます。
さてさてどうなりますか、わたしの愚見共々ご笑味下さいませ(笑)。
どうもどうもお久しぶりです。あはは、なるほどねぇ。本当はどうなんでしょうねぇ? 私も知りたいです。
こんにちわ。最大素数です。録画しておいたビデオをやっと見ることができました。
ははあ、これはなんなんでしょ。
論評できるような内容は見受けられませんでした。
特に血液型のコーナーは、肯定論も否定論も「論」と呼べるようなものでは無く、ま、酷いものでしたが、所詮娯楽番組、こんなもんすかねえ。
まずなにはともあれ、ちゃんと"演技"のできる「肯定派」を「仕込む」時間がなかったのですね。
> 一見きちんとしている風でトンチンカンな意見をくどくど喋ってバカにされるいかにも頭悪そうな役
と、
> 「だって本当にあたるんですよっ!」などと
「喚き散ら」してはいませんでしたが(笑)そう言う役ぐらいしか集められなかったのですね。
で、
「マトモなことを言う役」は録画の能見親子にしちゃったのね。
脳内の血液型物質についての議論(というわけでは無かったけど)も、「脳内にあるから当然性格と関係ある(浅尾さん)」「脳内には血液型はない、血液型は血液にしかない(高田さん)」「あろうが無かろうがそんなことに興味はない(中原さん)」と、対立する論をそれぞれ録画で流してそれっきりって、なんだかなあ。
それぞれに根拠があって、そこからの議論の筈でしょうが、ばっさり終了。
あと、大村さんお約束の血液型別の特徴を読ませて自己判断させ、当たりませんねえ、ってやつ・・・。
なんですが、この結果の感想を求められた大村さん、
「面白いですねえ。いえね、この問題はね、あの、歴史的に考えるとね、あの、デタラメなんですよ」
とお答えになったのですが、「で、でたらめえ!?」と爆笑問題の大田さんが引き取って、そこまで、って、そりゃひどいよ。"歴史的に考えると"、"デタラメ"って聞きたかったなあ。
が、しかし、この血液型コーナーの失敗は、番組製作者の読みの甘さが最大の原因のように見受けられます。
関係あるか無いか、両論公平にとりあげるようなフリして否定的にまとめる、なんて簡単にできると思っていたフシが窺えます。
そう考える主な理由は山梨大学の尾見さん(助教授になられたんですね、おめでとうございます)の参加です。尾見さんは行動主義に属し、「フィールドワークの視点」から現場心理学を提唱・実践しており、この番組の冒頭での説明のような、中心に生まれつきの気質があってそのまわりに後天的な性格表現がある、というような性格観には否定的な立場の方です。そういう「生まれつきの気質」を重視する考えが血液型性格判断に付け入られるスキを生むのだ、という「否定派」なのです。
多分、単純に「否定派」というだけで、その内容を吟味せずに頭かずだけ集めたのでしょう。
ですから、「このあと、入り乱れての大激論」とナレーションだけあってカットされてしまった部分というのは、肯定派同士の性格論議だったに違いありません。
そうなのです。血液型で決まるの決まらないの判るの判らないのという以前に、性格とはなにか、ということが判っていないことが問題なわけで、そういう意味ではカットされた部分こそが番組のコンセプトに最も沿ったものであったはずです。あー、見たかったなあ。
恐らく尾見さんが、「"いわゆる"性格」は血液型と(少なくとも統計的には)関係がある、と言い出して、そして、それは「"いわゆる"性格」の捉え方が間違っているからだ、と主張して、他の否定派と激論になったのではないでしょうか。あーあ、そっちの方が面白そうだよなあ。
ま、今回は大ハズレ、ということでした。
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