平成27年9月

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◆黄色が休みです◆

- 稲作について -


第三章 川と魚と、山の山菜について

和食膳 (ライスフィールドメニュー)

 私は、趣味と実益を兼ねて、釣り・山菜取りに行くことが結構あります。生活している場所が舟形山系に近いという地の利を活かして、山の深くに山菜取りに出かけたり、渓流釣に行き、その収穫物でレストラン「ライスフィールド」のお客様をもてなすわけです。
  私の趣味と実益が故郷の産物となり、それがお客様に喜んでいただける。考えてみれば、とても自然な流れの中で、より豊かな自分の人生を歩めるわけですから、我ながら幸せ者であると自然に感謝するわけですが、子供の頃から釣りによく行き、釣れないときは山菜やきのこを取りに行ったものでした。   自分で採った山菜や魚の味は格別で、それを誰かにもわけてあげたい。そんな気持ちが高じたのもレストランを始めるきっかけの一つになったのかもしれません。

  もう昔の話になりますが、釣りで秋田に行ったことがあります。たまたま行ったキャンプ場が気に入り、そこに通うようになったら、管理人さんとも親しくなりました。そして交流も深まっていったのですが、その管理人さんは釣りや山菜、またきのこ採りにも詳しくて、いろいろノウハウも教えていただきました。例えば:○○の川には○○魚がいる、そんな感じですね。

釣り仲間

 で、川で釣った魚は天然ものなのですが、それはまさに「天然もの」であって新鮮で精悍な姿をしています。魚の姿が養殖のものとちがうのですね。例えば、魚の尾鰭ですが、天然ものは角が立っている。しかし養殖ものは角が取れて丸くなっています。これは養殖ものが大量飼育するので魚同士で尾鰭がぶつかってしまい、角が取れてしまうからです。天然ものは広い水面の中で自由に生きていますから、角が取れることはないのです。

 そして全体的な姿も天然も水を切って泳ぐ、天然ものそういった姿をしています。しかし養殖ものは、プクッとしている。天然ものは、いつも命の危険にさらされ、そして生命力を高め、自己責任で生きていますが、平和な生け簀でゆったりして育つ魚は緊張感のない環境で育つので、、その違いが現れているのかもしれません。

  さらに魚をさばいてみると、天然ものと養殖ものの違いがはっきりします。それは腸の質が違う。川で釣った魚をさばいて、腸を水で流すと、きれいに洗い流せます。しかし、これが養殖ものになると、不自然に油が付いていて、きれいに洗えない。たぶん餌の違いが原因しているのだと思います。

山で採った山菜を天日にさらす

 このような違いは山菜についても同じような傾向があります。例えば山菜の「うど」ですが、天然ものは少しずつ成長していきます。そして収穫できる程度の太さ、それでも親指より少し太いくらいですが、そこまで成長するのに5~6年くらいかかります。また良いうどが成長できる場所も限られようで、斜面の日当たりの良い場所で良質なものを多く見ることができます。
  ところが畑で栽培するうどは肥料が与えられ、1~2年で急速に成長させられます。育つ場所も人為の力により出現した「畑」であって、これは特にうどが好んで選んだ場所でもありません。つまり、天然もののうどは「自ら育った」わけですが、畑のものは「育てられた」わけです。
  天然に「育った」うどは、「あく」も強いのですが、味・香り・歯触りともバランスが良くて、自然に育ったためか無理のない、素直で美味しい味がします。ところが、「育てた」うどは、生育環境の不足を人がなんとかして育てるのですが、やっばり生育環境のどっかに見落としがあり、そして天然であれば6年もかけて育つものを2年で育てるわけですから、うど全体に無理がかかります。その味覚もアンバランスで貧弱なところがあります。


  このように、魚、山菜とも、天然のものは、全体的にバランスがよく、つまり自然の環境の中で、合理的に成長してきたわけですが、養殖ものや畑のものはアンバランスなところがあります。
  それでもなんとかバランスを保って成長するわけですが、人がバランスを支えるのを少し誤ると、すぐに病気に罹ってしまうようです。
  ところが天然ものは人がなにもしないでも、バランスを崩すわけがなく、その生命力は養殖ものと比較すべくもない。そしてその生命力の違いが、味覚にも現れてくるのかなと、そんな印象をもっています。
  考えてみれば自然というのは、幾万もある様々な要素、それぞれがバランスを保ちながら存在しているわけで、人智の及ばない存在であるとも言えます。それを人が畑や生け簀で再現しようとしたところで、やはり人の知恵や力には限界があるわけです。それを考えれば味覚についても、天然もののほうがバランスがとれているは、当然の道理なのかもしれませんね。

  私は、釣りや山菜取りをし、それを料理しながら、なんとはなしにそんなことを考えることがしばしばありました。で、その考えが稲作にもつながっていったわけです。
農薬使うのをやめてみたらどうか?化学肥料を使うのをやめてみたらどうか?有機肥料さえつかわず無肥料にしてみたら?苗の消毒もやめ、ビニールハウスを止めて、苗代にしてみたら?そんな感じで、少しずつ人智の力を省いていき、より自然に近づく栽培をしてみたわけです。
  人が様々な手を加え稲に良い環境を作っていく、そういった考えが通常の稲作だと思います。これはこれで長い歴史の中で人の知恵が積み重ねられてきたわけですから、尊い歴史であり、人智の詰まった敬意を払うべきものと考えています。しかし、私は川を歩き、そして山菜をみつめながら、思い切ってもっと稲を自然にさらしてみよう、そう思い、私なりの稲作を続けてきました。

(写真提供:「人と自然の仲立ち米」)遠藤

 ちょっと話題は変わるのですが、私の知り合いに剣道の先生がおります。剣道についても最初はちょっと不自然な立ち方や足の運び方、動作を繰り返す基本動作を習得するのですが、これを今度は段々と自然な動きに錬成していくのが、稽古の流れだと聞いたことがあります。
  また空手にも同じようなところがあって、やはり最終的には自然な動きに錬成していくそうです。こう考えると武道と言うものは人為の手を加えながら最終的には「自然」なものに昇華させるという、一見すれば不思議な過程を経ていくようで、稲作ももしかしたらこれと同じ流れの中にあるのではないかと考えさせられます。



ライスフィールドのお米 目次 序章 一章 二章 三章 四章 五章


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