「拓く 福島泰蔵大尉正伝」(要約版)
前書き
 本書は私が15年間続けて来た感応と共振の福島大尉旅の到達点即ち福島大尉だと確信出来る、私にとって埋もれていた福島大尉の真実である。従って本書の理解をより深めて頂くため私の福島大尉旅を語りたい。
 歩兵第三一連隊の八甲田山雪中行軍から危機管理を学びたい、と私は青森を訪ね(平成一四年九月)、最悪事態である万一の露営に最初から備えた本気が心に響いた。その後二度目の青森旅をした(平成二〇年六月)。そこから福島大尉の直孫で諫早市在住の当時82歳であった倉永幸泰氏とのご縁が繋がり、同氏を訪ねた私は107年余門外不出として遺族の方々が守り続けた福島大尉の息遣い溢れる資料を目にし、知れば知る程知りたくなった。私の関心は福島大尉の人生全体へと移り、心の赴くまま『修親』への投稿を続けた。『修親』掲載記事を目にした陸上自衛隊幹部候補生学校関係者が関心を示し、私の仲立ちで、遺族から同校への遺品寄贈となり、(平成二四年四月一二日)同校資料館に福島大尉コーナーが設けられた。寄贈の動きに刺激を受け福島大尉が何を思いどう行動したかについて、その真実を探す多面的な思い巡らしのブログ旅を始めた(平成二三年八月)。頃合を感じ、研究や教育に活用して頂くため、冊子(三部)にして関係機関等に寄贈した(平成二七年五月)。程なくして、『第四木曜日の読書会』から発表のお誘いを受けた。発表(平成二八年六月、90回目)のためどう要約するか、もっと切り口はないかと模索した。その結果『困難を究めた男』をテーマに要約・発表した。これを機に探す旅に終止符を打った。そして今。福島大尉の『困難』は己が為すべきと信じることを断行する性向が招いた。従って『困難』を語る前に、この性向をまず語らなければならない。この為すべきは陸軍軍人になりその使命感の確立とともに義となり、日清戦争の悲惨な経験で兵を護らねばならないと地に足の着いたものになった。やがて弘前歩兵第三一連隊の中隊長となり為すべきところを得て、冬季作戦・戦術の研究調査を始めた。その一環として一連の演習・実験行軍を積み重ね、前人未到の八甲田山雪中行軍に挑み成功するが、青森歩兵第五連隊遭難に覆い隠される。
序章 立見師団長福島大尉戦死の地に立つ
 明治三八年一月二五日露軍第二軍10万5千は日本軍左翼を受け持つ秋山支隊を急襲した。不意を突かれた満州軍総司令部は予備であった第八師団に攻撃を命じた。一月二九日夕、黒溝台を奪還し、立見師団長は老橋西1000mの小丘埠に立ち静かに黙祷し、前日の決戦で最後に投入した山形歩兵第三二連隊一〇中隊長福島大尉の死を悼んだ。同時に福島大尉が自分の配下で、人生で為した四つのことを回想しつつ福島泰蔵碑撰文の想を練り始めた。
第一章 陸軍への道
泰蔵は慶應二(1866)年五月二三日福島泰七あさの長男として、群馬県新田郡世良田村(現伊勢崎市平塚)に生まれ、歴史の息吹に囲まれて裕福に育ち、英才教育を受けた。長じるに従い家業が衰退し、家業を手伝うか学問で身を立てるかに悩み、三度の挫折をする。その挫折を通じ、貧乏平民故の窮途に悩む。しかしこの窮途は困難に真正面から向き合う生き方を身につけさせた。この頃既にだれが何と言おうと己の信じることを断行し或いは大言する性向は顕著であった。明治一九年一一月末日陸軍教導団に入団した。成績優秀者に特に認められる陸軍士官学校受験推薦狙いであった。狙い通り入団8ヶ月で推薦を受け翌年一一月一日受験し合格したが入学は教導団を卒業し軍曹任官後との決まりで空しく永滞の思い、悲憤を感じて過ごす。明治二一年一二月に泰蔵は士官学校に歩兵に転科して入学した。主兵である歩兵にはもののふの心が流れているという思いも強かった。生徒時代に陸軍の使命をとことん考え抜き己の信じることは義へと進化した。明治二四年七月士官学校を卒業し、見習士官として高崎歩兵一五連隊へ復帰し、明治二五年三月二一日少尉に任官した。任官に当たり、忠孝両全の志を深化させる。奏任官になって見せる等の有言実行の成功体験を士官としての出発点にする。為すべきと信じることを義へと深化させる。困難をともにを覚悟する、の四つを誓った。初中級士官時の戦術課題で泰蔵は正攻法と持論主義で臨むが酷評を受ける。しかし自分の流儀を貫く。日清戦争(明治二七年八月動員~二八年五月二九日凱旋)の深刻な経験で泰蔵は冬季戦備や兵を護る施策を本気で行わなければならない。下士官及び兵の教育を本気で行わなければならない、と痛感し泰蔵の使命感、為すべきは具体的で地に足の着いたものへと深化した。台湾守備隊(明治二九年三月~九月)では特技「地理・地図」及び意見具申を積極的に行う若手将校として活躍し、立見軍務局長から一目置かれた。陸地測量部(明治三〇年七月~三一年一〇月)では参謀本部と同じ敷地内にある同本部に出入りし、露軍研究を深める。次からいよいよ弘前中隊長であるがそれは新編第八師団長に着任した立見中将の指名で実現し以後両者の心の?交流が続く。ここで立見師団長について二点語りたい。蛮族統治特にゲリラ活動に手を焼いた立見台湾総督府軍務局長は文武治蕃の統治に見るべきものがあり、意見具申も的確であった台頭地区の守備隊長福島中尉に注目した。師団長を拝命し自分の企図を真摯に具現してくれる問題意識が旺盛で意欲的な若手に思いきり活躍させ、それを師団全体に波及させよう、と考えていた。福島大尉は最も信頼するキ―マン、先駆けの一人であった。
第二章 八甲田山への歩み
 明治三一年一〇月 大尉に昇進し新編の第三一連隊第一大隊第二中隊長を拝命した。基礎固め後己のなすべき処を得た福島大尉は強い使命意識を持ち冬季行動標準提言を目指して冬季作戦研究とその一環としての一連の演習・実験行軍を行う。福島大尉は現行野外要務令には不備があり、是では戦えない、兵を守れない、という危機感を持っていた。この不備是正の発意を後押ししてくれる格好の理解者であり後ろ盾が立見師団長であった。一連の演習・実験行軍等を雪中行軍に行き詰まった場合を想定して雪中露営演習(明治三三年二月六日一五時~七日朝)から始めた。弘前西南方原野で行った同演習は大吹雪に加え夜半零下一二度に低下した。極限状況、未知の困難であった。中隊は吹雪下、各施設を構築、その後その施設で終夜、勤務・露営した。猛吹雪下では掩蔽よりも側屏が有効である等の実証を行った。次いで岩木山雪中強行軍(明治三四年二月八日~九日)を行い、教育中の下士候補生で二個部隊を編成し、大吹雪下の積雪路上強行軍(一〇〇?)と大吹雪・深雪下の岩木山越え(山地五〇?)を行った。いずれも極限状況、未知の困難であった。嚮導は必要との深刻な体験に加え、九名の昏倒者が発生したが翌日は回復した事実を分析し、原因は空腹・疲労であり、間食や休憩・休止を工夫すべし。睡眠と休養と労働のバランスに留意した行程とすべし等長途行軍の目処をつけ、現地の雪になれた下士の知恵を吸収すればより厳しい強行軍に耐えられるという確信を得た。夏季強行軍(明治三四年七月二六日~三〇日)を行い、下士候補生に夏季において要求し得る最大限の行軍力を試み、同時に弘前から五戸の間に横たわる十和田山脈の偵察と道路図を作成した。秘かに構想中の長途連続山岳通過雪中行軍の準備であった。東北の兵は冬も夏も精強である等の成果を得た。実施報告書の立見師団長の批評が八甲田山雪中行軍への扉を開いた。八甲田山での寒風吹きすさび吹雪常態の厳しさは想像外。そこに敢えて挑んだ。それには冬季大陸での酷寒の戦いというビジョンを具現する、予想外に挑み戦場の未知を減らす、露土戦争に於ける露軍のバルカン山越えに並び越えるという三つの動機があった。それらを満たすのが厳冬期の八甲田山や十和田山脈であった。明治三四年年九月一八日福島大尉は師団長に一連の実験を仕上げるために冬季山岳長途行軍が必要であると力説し、構想を具体化して後刻仰指に伺うこととなった。同年一二月某日、福島大尉は具体化した雪中行軍構想を立見師団長に報告した。目的は研究調査と下士の教育、時期は厳冬の一月中下旬、全行程は二三〇?余、九泊一〇日(弘前~十和田山脈越え~三本木~田代台~八甲田山麓越え~田茂木野~青森~梵珠山脈~弘前)、やむを得ず露営の場合も予期する。構想上の大問題は二つ。一に行軍に行き詰まり露営せざるを得ない場合がある。二に長丁場すぎ補給や休養が困難。一について難所を的確に見積もる。田代台は露営に本気で備える。雪中露営演習の成果を目処とする。二について村落に休養宿泊を依頼し、隊員を身軽にすると同時に睡眠と休養と労働のバランスを取った行程とする。共通的対策として、埋雪下の道筋を外さないため全経路部内・外の嚮導を使用する。雪国(現地)出身で能力の高い者を選抜し少数精鋭編成とする。計画準備の重点は危害予防【難所対策・落伍者防止】と研究調査計画である。立見師団長は「成功したら天皇陛下に上奏しよう」と語った。計画の要について、任務上、十和田山脈と八甲田山を夫々横断できるか否か、その難易を探討すべし。研究調査一三項目を見習士官及び医官全員に分担させ、他は班員を命じる。危険見積もり上、難所は十和田山(岩嶽森)、十和田湖岸道、犬吠峠、田代台、八甲田山の五個所。難所での安全対策、難所への馴致・準備・休養を重視した行程とし、衛生・危害上の注意を岩木山に比し格段に充実徹底する。
第三章 八甲田山雪中行軍
 一 十和田山脈越え
 第一日(一月二〇日)弘前屯営~小国、午前五時零下六℃、弘前屯営を出発し、唐竹迄四里は平地道路を、以降雪は深く(二㍍)、険しくなった山地坂路を行進したが初日故の疲労も加わった。午後三時二〇分小国に到着し村落に舎営した。
 第二日(二一日)小国~切明、明日の難所への馴致、一一時四〇分切明に着し舎営した。
 第三日(二二日)切明~十和田、午前六時三〇分切明を出発し午後三時十和田に到着し、舎営した。平均五㍍八二㌢の雪の連山地(多くの丘陵)を泳ぎながら、登上降下を繰り返した。最初の難所の岩嶽森は八㍍の積雪で行進長径も一三〇㍍と行軍に難渋した。
 第四日(二三日)十和田~宇樽部、午前七時十和田を出発し山地傾斜地上の湖岸断崖道を経て、午後四時三〇分宇樽部に到着し村落露営、全行程五里であった。「本行軍一番の難所とせし十和田湖畔断崖道の通過」で万一の備えを本気で行った。「無事通過し得たるは各自が注意深かりしためならん」。この日朝青森歩兵第五連隊第二大隊は屯営から田代への一泊行軍に出発したが未曽有の大寒波が襲来し鳴澤付近で露営、彷徨に陥った。
 第五日(二四日)宇樽部~戸来、午前六時三〇分宇樽部を出発し犬吠峠の険をよじ登り、山頂に立った。余りの寒さ(再下降気温は零下一六℃)に直ぐ下山し枯澤川で漸く午後零時三〇分昼食し、午後六時三〇分戸来に到着、舎営した。「嚮導は慎重に加えて方向及び地形を案じ」と方向の維持と同時にマブ等に隠れた断崖等を案じる嚮導の姿から地形と天候と時間が相乗する中で地形に最も困難を感じた危険の連鎖に始めて思い到った。
 第六日(二五日)戸来~三本木、舎営で全行程五里であった。
 二 八甲田山越え
 第七日(二六日)三本木~増澤、午前八時三本木を出発し平坦地を通り、午後二時四〇分増澤に到着した。村落宿営で全行程三里半、八甲田山越えの最終準備であった。
 第八日(二七日)田代台行軍(増澤~田代)、午前六時三〇分増澤を出発し大中台までは五㍍の深雪の谷間の峻坂を登った。台上に上って以降吹雪、西北方暴風を正面から終始受け、一面5㍍の雪で覆われた高原台地を泳ぎ、午後八時五〇分田代で露営した。最悪の露営へと一番恐れていた『目標の選定に殆ど窮す』事態に陥り、「嚮導の意思稍動き」露営に決す。暴風・大吹雪に堪え続け、雪に埋もれ続け彷徨の恐れと戦うという本行程の特徴から生じる危険の連鎖を犬吠峠越よりはるかに長時間実感した。
 第八日(二七日夜~二八日朝)田代露営、露営に移行後午前四時七分に出発したので大休止時間は七時間五七分であった。最下降気温は氷点下一一℃、積雪量は田代で五㍍一〇㌢、吹雪西北方暴風下の最悪事態の露営であった。露営は最悪の事態と当初から認識し、「雪中露営演習を標準尺度として」その「万一」に本気で取り組んだ。雪に埋もり疲労しきった体は凍傷や眠り寸前であった。体を停止させ暖を取れば眠りへ、眠れば凍死の極限の危険であり、油断すればいつ命を失っても可笑しくない局面が続いた。
 第九日(二八日)田代露営地~小垰、田代露営地を出発し、六時三分空き小舎着で一時間三七分休憩朝食をして、鳴沢、八甲田山麓傾斜地を経て、午後一一時五〇分小垰に着いた。合計実動時間一五時間五九分で全行程三里で、吹雪・西北方暴風下に深雪(五㍍)を不眠・疲労しきった身体で泳ぎ、道筋を探し続けた超難渋行軍であった。
 第一〇日(二九日)小垰~青森、午前零時小垰を出発し山麓道路を降り、午前七時二〇分青森市に着き、舎営した。合計実動時間は四時一〇分で全行程は三里半であった。途中二時一五分田茂木野で三時間休止し間食を摂った。吹雪・西北方暴風下に三㍍の雪(田茂木野)を泳ぐ昨日に続く超難渋行軍であった。両日の超難渋行軍の様相、鳴沢や平沢は雨や雪どけ水で深く抉られ険峻な崖となっている。福島大尉は埋雪路を外れ迷い込む危険を見積もり、馬立場へ続く稜線上で馬立場を見下ろせる地点迄上へ上へと登り、その稜線に沿って「鳴沢に達すれば青森までは降路なるを以て行進の困難は更に意とするに足らずとなし」と降りて行った。八甲田山脈通過は前人未到の厳しさであった。「其八甲田山脈の上方を通過するに当てわ北風樹木を吹き物凄く大雪行人を圧してこと危うし(略)行くに険あり依て互に相顧み相励まし注意を倍従して行く」と難渋しつつ道筋を探し続けて山麓道を降る。「田茂木野ならんと行くこと数町にして嚮導は一の雪路を発見」と最後の最後で道を発見した。田茂木野で「遂に翌二九日午前二時一四分田茂木野の民家を鼓き喫食を行ふ蓋し増澤出発以来の温食」とのみ福島大尉は記しているが重大な事実に遭遇している。この事は行軍終了まで話を進めてから述べる。「一月二九日風雪寒気強し田茂木野より夜行し払暁青森に達す増澤を発して青森に達するまで睡眠をなさざること二昼夜にして其時間は四八時五〇分なり」と睡眠為さざること『四八時五〇分なり』に万感の思いが籠っている。旅館に落ち着いて、福島大尉は無事安着・成功の喜びや五連隊哀悼の思いが湧いてきた。なかでも隊員や嚮導と共に成し遂げた「共動」の手ごたえと労い及び自ら挑んだ八甲田山雪中行軍は非常の困難であり、困難と共にの集大成であったと思った。
 極限の危険の連鎖、八甲田山越えは埋雪路の道筋を最も困難な天候下に探し続け、崖からの転落や彷徨の恐れと戦うという本行程の特徴から生じる極限の危険の連鎖であった。行き着くのが先か倒れるのが先か、いつ命を失っても可笑しくない局面の連続であった。
三 弘前へ
 第一一日(三〇日)青森市~浪岡村、梵珠山は取りやめ国道を浪岡へ、舎営であった。
 第一二日(三一日)浪岡村~弘前営戍地、午前七時半浪岡村を出発し国道を通り、午後二時五分弘前屯営に到着した。第五連隊遭難によって天皇奏上は吹っ飛び、その成果は埋もれたが秘かに目指した野外要務令綱領の体現は成し遂げた、と福島大尉は思った。
 立見師団長の関り、福島泰蔵碑撰文中の「未會傷一人」から福島大尉の感化力により全員が「共動」したという立見師団長の強い思いが伝わってくる。
 四 極限に強いリーダーシップ、非常に困難な局面で福島大尉はリーダーとしての真価を発揮した。田代台行軍において引き返しを勧める嚮導に対し揺るがない。田代露営間におけるリーダーシップ(決断後迅速な露営へ移行を可能とした3つの力、一人たりとも眠らさない指導、誰よりも先を見据えた捜索隊の派遣及び零下12℃になるか否かの関心)。八甲田山越えにおけるリーダーシップ(今を戦い次に備える、率先陣頭、終始冷静毅然)。
 五 第五連隊遭難・雪中行軍手記の公表と沈黙、田茂木野で状況を把握して福島大尉は好むと好まざるとにかかわらず第五連隊遭難の陰に隠される運命にあり、自隊が遭難を際立たせる皮肉な立場にある、と悟る。帰営後、収束のため陸軍挙げて取り組んでいる時に軽はずみな言動を避けなければ、と理解しつつも、書きたい強い思いを消すことは出来なかった。児玉陸軍大臣は下士制度・徴兵制度全般に深刻な影響を与える陸軍の問題、下士のなり手がない、にも関わらず、下士の多くを失った。三一連隊は地元青森の若者が入営するが、五連隊は岩手、宮城の若者が入営していた。岩手、宮城の徴兵隊区変更の希望を激化させる恐れがあるという二つを深刻に認識していた。興味本位な報道の弊もあり、こういう時だからこそ国難日露戦に備え非常の困難を究めた精鋭の真姿を書かねばならないと福島大尉は帰営後、己の為すべきと信じる公表を模索した。決め手は遭難事故取り調べ間の途中情報であった。それは一つに予測不可能な天災である。二つに第五連隊の時は非常の悪天候で第三一連隊はそうでも無かった。三つに大隊長の指導で兵に小倉服(夏服のこと)を着せ、嚮導を使わなかった等であった。従って一からは収束の大まかな方向が見えてきた。二からは条件が違うので公表は構わないはずと判断出来た。三からは福島大尉が不可欠と考えた嚮導及び全員冬服(ラシャ服)が五連隊には嚮導なし及び兵士は小倉服(夏服)と欠落している。福島隊の成功の原因が五連隊の失敗の原因と両極端であることに気づき、小倉服や嚮導について触れなければ構わないはず、と判断した。かくして公表への堀は埋まったが、嚮導の表現を絞る。服装は書かない。非常の困難に備えた準備をその場面に応じて簡潔に記述する、と三つの配慮をして、公表した。
 第四章 予想外の旅団副官勤務
 明治三五年三月第四旅団副官を命ぜられた。福島大尉に、参謀本部に新設された戦史室への誘いが内々にあった。福島大尉は願ってもないことと希望した。しかし叶わなかった。福島大尉を取り巻く状況はとても本人の希望を許すような生易しいものではなかった。福島大尉は手放せない、と立見師団長は強く思った。弘前の旧家である成田寅之助の妹きえ二一才と結婚した。弘前偕行社で明治三五年一〇月一三日に挙式し、披露の宴は成田家の大広間で挙げた。式には父泰七と妹りくが出席した。年齢は三八才であった。八甲田山雪中行軍を終えて、生き方を見直す余裕が結婚へと向かわせた。こともあろうにT旅団長を極諌し、抜き差しならない事態を招いた。度重なる旅団長への諌めで、堪忍袋の緒が切れた。T旅団長は現役から予備役に編入され、広島に引退、ついで後備役に編入された。福島大尉は何等咎を受けることなく立見師団長配下の山形歩兵第三二連隊中隊長に転属することになった。福島大尉には一点の非もないことがはっきりした。福島大尉の為すべきと信じ断行する"義"には混じり気がない。立見師団長はその"義"に鬼神のにおいを感じ、どうしても連れてゆきたい男であった。立見師団長は自分の手元でその冬季戦術・行動に係る高い見識と実行力を如何なく発揮させようとした。明治三六年一〇月 同一〇中隊長に転属した。この時きえは身重の身体であった。早々に官舎を後にして山形へ向った。 
第五章 論文・降雪積雪の戦術上に及ぼす影響
 偕行社記事第三〇八号(明治三六年二月)に懸賞課題論文「降雪及び積雪の戦術上に及ぼす影響」が募集された。福島大尉は直ちに応募を決めた。福島大尉にはわが国の野外要務令は温暖下のもので寒冷下のものとしては露国に大きく遅れをとっており、露国に習い、早く並び越えなければならない、という焦慮があった。このため、この機会を最大限に活かして、冬季戦研究の成果を"仕上げねば"という強い前向きの思いと八甲田山で究めた何時命を失っても可笑しくない非常に困難な体験を基にして冬季戦の困難を語ろうとした。 偕行社記事三一八号の懸賞論文披露の中で応募者二一名の労作の講評があり、福島大尉に関しては福島大尉が八甲田山雪中行軍等の成功体験について何ら触れていないことに疑問に近い反応を示している。一方、福島大尉は沈黙が最も相応しい行動と認識して応募した。結論に書いてある二つのことから山地と夜間戦の原則に似ていることに着目した雪中戦闘の理念とその応用方略及び倍加する困難とその克捷方略の二つが福島大尉が一番言いたかったことである。倍加する困難に関しては自己の成功体験を"下敷きにした沈黙"である。又補遺の項を設け、最重要の視点として兵の保護を挙げている。従来から持ち続けた兵を護り兵に役立つ視点を貫き、実際的方略を提言している。ここでも八甲田山雪中行軍の厳しい体験を踏まえているが、"下敷き"である。困難を克服せんとする露軍に学ぶ、を述べている点に参謀本部は注目し対露開戦後、偕行社記事への論文寄稿を要請した。立見師団長は福島泰蔵碑に碑文の中で論文「影響」について、「嘗拠偕行社課題総裁閑院宮賞之賜軍刀一口君究之於平生者熟乎故臨事能栄功也」と撰文している。立見師団長は熟者《作戦・戦術の熟練者》である、だからことを良く成す。しかも平生《普段の部隊における軍務の間》に於て之を究めたのが凄い、と激賞している。平生に於いて之を究めた、に立見師団長の何かのこだわりを感じる。
第六章 山形歩兵第三二連隊中隊長
 転属した福島大尉は二度目の中隊長勤務をフルパワーで再始動した。自分の為すべきと信じる処を断行する、指導者及び管理者としての従前同様の姿があった。下士教育は福島大尉が最も重視した。下士は単に自己の職責を果たし、部下を訓導し得るだけではなく、直上官に代わって職責を支障なく果たせなければならない、との信念で、学・術科の教育を自ら担当し、隊付将校に一部を分担させた。明治三六年一一月一一日付で第一〇中隊長福島大尉は第三二連隊長森川 武中佐宛てに、団隊長会議資料を進達している。全一二項目あり、短期伍長を一年半ずつ延長する提案と雪靴試験の演習費の増額要望の提案に見られるように実際性、合理性や隊員保護と陸軍が抱える大問題解決の観点から為されている。この頃福島大尉には目標喪失感が漂っていた。極諫の極度の緊張から解放された安堵感といくら正義とはいえT旅団長を後備役に追いやった後ろめたさようなものがあり生気充満という気分ではなかった。又論文「降雪・積雪の戦術上の及ぼす影響」を書き上げた達成感の反面新たに事を為す意欲の空白の状態にあった。それを払拭し、新たな意気込みを持つに到る二つの出来事があった。一つに初めての子、長女操の誕生。二つにロシアに対する開戦決定(明治三七年二月四日)とそれに伴う論文提出要請であった。
第七章 論文・露国に対する冬期作戦上の一慮
 表記は二月頃に要請を受け、三月~四月の「兵馬倥惚の際材料の収集に乏しく唯記憶に存する所を思い出つるに随って記述したるに過ぎず」に作成し、師団の動員開始前に、間に合うよう完成し提出された。見習士官以来の学びの宝庫としての露軍戦史研究から国難日露戦争の現実化に伴い越える・勝つ対象としての露軍研究、一連の実験行軍や演習に並行しての研究へと深化させた。露軍に学び、越え、勝つ視点で、最も意を尽くして調査研究したのは露土戦役の厳冬期バルカン山越えと露国野外要務令である。前者は冬季酷寒に於ける戦いを学び露軍を知る意味で、後者は冬期行動のお手本とした。従って、構成の土台に前二者を据え、論じている。加えて冬季戦の倍加する困難に克って、露軍に勝つ方略を提言した。全体を通じ、兵を護り、兵に役立つ福島大尉ならではの実際的な記述である。
露軍に学ぶべきものとして露国野外要務令との差異(露軍にあって日本軍にない規定)と露土戦役の教訓から学ぶべきものを一連の演習・実験行軍や八甲田山雪中行軍の厳しい体験をもとに抽出している。しかしその体験は語らないで下敷きに留めている。露軍に勝つポイントとして露土戦役から露軍は甚だしい困難で弱点を呈す。準備不十分で作戦を決行し、大損害を蒙るの弊あり。不慮の故障による過失を生じる弱点有りと露軍に勝つ(付け入る)、の三っを挙げ評論している。立見師団長は提出を受け、下敷きと露軍見識から福島大尉を塾者であると再確認すると共に論文を陸軍の未知を拓く、極めて有用なものと評価して賞詞を与え労うと共に碑撰文で極めて有用であり諸軍に配布したとの意を述べている。論文「影響」でも論文「一慮」でも"下敷き"は一貫した。八甲田山雪中行軍はすべての仕上げであり、そこに至る事前の成功体験は切り離せない一体のもの、即ちすべてが八甲田山雪中行軍を語ることになる、と福島大尉は考えていた。遭難直後にあった新たな危機に波及する恐れはなくなったが遭難を悼み、関係者や第五連隊をそっとしておくべきと考えていた。靖国神社合祀はされなかった。ならば自分流の弔意を貫こう。それは成功体験に触れないことであった。自分の得意を封じ、沈黙をする。論文の説得力を翳らせてでも思いやりを掛けるべき、として"下敷き"とした。福島大尉ならではのもののふの情(なさけ)であった。  
第八章 黒溝台会戦
 山形第三二連隊に動員が下令されたのは六月七日、九月二日に山形を出発した。一〇月一四日正午大連湾の柳樹屯に上陸した。第八師団は一〇月六日から大連に上陸を開始したが第三軍の旅順攻撃が失敗し総軍予備のままであった。戦に臨み一度も戦わず、総予備として待機し続ける間の心模様を弟甚八への小言の手紙、郷友に寄す(詩集:韜略余音より)、論文掲載を父へ報せる、進栄退辱を要望、から拾う。特に郷友に寄すは没後も記憶にとどめてくれ、転じて碑を建ててくれ、そこで自分が行ったように訪れてくれるものを静かに待ち、語り合い酒を酌み交わしたいとの意である。福島泰蔵碑建碑の契機となる詩であった。論文掲載を父へ報せるでは、一二月一日付で東京偕行社編纂部から偕行社臨時増刊第一号に論文『一慮』が掲載された旨の通知と共に同増刊号が送られてきた。早速これを父泰七に知らせた。この時福島大尉は挫折を乗り越えた歩みと到達した新境地について本懐を遂げた、と感慨ひとしおであった。一月二五日未明、突如露国第二軍団一〇万五千百が日本軍の左翼、騎兵旅団主体の秋山支隊に襲いかかった。同日正午第八師団は黒溝台方面の敵攻撃を命ぜられた。同師団は急行し、二六日朝から二個旅団並列で攻撃したが降りしきる雪と酷寒下、甚大な損害を出しながら死闘を続けたが、次々に増派される露第二軍に圧倒され、至る所で戦線崩壊の危機に瀕した。ことの重大さに気づいた総司令部は他の正面から二個師団を引き抜き、ようやく二八日午前一一時頃に両翼を固め、総攻撃で黒溝台を奪回する態勢が整った。第八師団は二七日払暁、三個旅団並列攻撃に改めた。予備は第一六旅団三二連隊三大隊(長湯浅少佐、九、一〇中隊、即ち在福島中隊)を含む二個大隊となった。翌二八日午後二時三五分、最後の予備第三二連隊三大隊(湯浅大隊)は右翼隊岡見旅団に配属されることとなった。戦場への移動に先立ち、福島大尉は立見師団長のもとを訪れた。師団長は足がかりの出来た老橋正面の小丘阜の重要性に鑑み、ここまで温存した湯浅大隊(福島中隊)投入の腹を固めた。この戦いの焦点に、最後まで温存した総予備福島が居る。福島なら、この苦境を打開する勢いを必ず着けてくれる。と立見師団長は秘かに思っていた。一方福島大尉は大命の為一身を捧げるは将校の大本懐である。この時のために己が為すべきと信じることを断行して"義勇"の修行を積んできた。思い残すことはないと心中深く期すところがあった。福島大尉は二八日午後一時頃、部下に訓示した後古城子を出発している。午後三時二〇分到着と共に、直ちに黒溝台前面の老橋西方一〇〇〇㍍の小丘阜付近に展開した。同大隊も熾烈な銃砲火を浴び、湯浅大隊長を始めとして多くの死傷者をだした。この中、軍刀国安を振りかざし先頭に立ち、進んでいた福島大尉は胸を撃ち抜かれ壮絶な戦死をした。午後四時頃であった、という。二八日夜、福島大尉亡き後の一〇中隊は左第一線として夜襲を行い、敵前三〇〇㍍に損害を受けることなく近迫し突撃を敢行した。黒溝台東北による敵を駆逐し午後一〇時五〇分同地を略取し、敵の反復攻撃を跳ね除け固守した。全軍で始めて黒溝台に取りつき、終に黒溝台の一角をこじあけた。二九日朝敵影をみず、全正面で前進開始、一〇中隊は土台子に進出し最前線で敵の黒溝台奪回に備えた。立見師団長は福島大尉及び一〇中隊の働きを賞して福島泰蔵碑撰文で事実に即して表現している。
終章 立見師団長「不覚」の回顧
 最後は撰文の想から覚めた立見師団長の語らない胸の内のつぶやきで締めくくりたい。私が感じた立見師団長の不覚の思いとは第五連隊の遭難と黒溝台会戦での大苦戦の二つであった。「未会傷一人」は第五連隊遭難について自分の隷下で起きた二一〇名全員遭難!不覚との思いを籠めた。雪中行軍では倍加する困難に加えて不測の事態が多々起こり、部隊の指揮官として計画準備及び実施について用意周到でなければならない。この点に於いて、抜かりや軽挙があり、不測の災禍に遭遇した。一方で黒溝台会戦では「究之於平生者熟」の「平生」には陸軍大学校のような高等教育をうけていないのに、という響きを感じる。黒溝台を放棄し敵を誘致して撃破する由比幕僚長の意見具申を即断で容れ決心したが戦線崩壊の危機に瀕した。二個師団の助けを借りる大苦戦は不敗の軍人人生における唯一の不覚であった。由比幕僚長は陸大七期主席卒業のエリートであった。
 遭難した第五連隊長及び二大隊長は兵を軽んじ自己を過信した。由比幕僚長も自己を過信し戦術策案を弄んだ。普段の軍務を通じ研鑽した福島は常に兵を護り、兵に役立つ実際的な訓練とその方策案出を誠心誠意行った。福島は兵を厳しく鍛え、兵を護り兵に役立つ施策をするという兵への真の愛があった。八甲田山雪中行軍では厳冬期山岳通過、大陸での冬季酷寒での行動、露土戦争に於ける露軍のバルカン山越えに並び越えるという画期的な指標を創り出し、福島亡き後の一〇中隊は黒溝台をこじあけ、同地を奪回した。福島と隊員は共に大事を為すという高い意識を持った「共動」で国難日露戦争勝利への道を切り拓いた。福島の歩みはいずれ日の目を見させなければならない。そのため撰文は私が書く。本当の手向けは日が当たり訪れる人と福島が心おきなく語らい酒を酌み交わす時だ。立見が不覚の思いで見る福島は篤く、功績評価は高く、悼む心は深かった。
後書き
  前書き冒頭で「埋もれていた福島大尉の真実」と書いた。後書きでは二点補足したい。一点目は「埋もれた福島大尉の真実」とは「福島泰蔵大尉が為すべきと信じて為(成)したありのまま」である。二点目は「埋もれた」と感じた私の思いは一つに福島大尉の雪中行軍の成果は第五連隊遭難に覆い隠され、日露戦争後は顧みられず、大東亜戦争・敗戦により忘却の彼方へとおし流された。二つに福島大尉は沈黙したまま三年後の国難日露戦争での黒溝台会戦で戦死し、彼の残した資料は遺族が何時か日の目を見る日まで門外不出と一一五年余守り抜いて来た。"沈黙"と"門外不出"は福島大尉資料抜きで福島大尉及び雪中行軍を語ることとなった。三つに貴重な資料ではあるが軍事用語や漢文調の用語等が取り付き難く好んで読む人は限られる。

拓く福島泰蔵大尉正伝(要約版)-福島大尉から武人の心探求記念館