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参考歌集(萬葉集)

●大伴家持の歌

 安積親王の、左少弁藤原八束朝臣の家に宴せし日に、内舎人大伴宿祢家持の作れる歌一首6-1040「ひさかたの雨は降りしく思ふ子が宿に今夜(こよひ)は明かして行かむ」

 大意【1040:空をこめて雨は降りつぎます。それも一興、恋しい子の家に今夜は夜を明かしていきましょう。】

十六年甲申。春2月に、安積皇子の薨(かむさ)りましし時に、内舎人大伴宿祢家持の作れる歌六首

3-475「懸けまくも あやにかしこし 言はまくも ゆゆしきかも わご王(おおきみ) 皇子の命 万代(よろずよ)に 食(め)したまはしし 大日本(おおやまと) 久邇の京(みやこ)は うちなびく 春さりぬれば 山辺には 花咲ををり 河瀬には 年魚子(あゆこ)さ走り いや日異(け)に 栄ゆる時に 逆言(およづれ)の 狂言(たはごと)とかも 白栲(たえ)に 舎人装ひて 和豆香山 御輿立たして ひさかたの 天知らしぬれ こいまろび ひづち泣けども せむすべも無し」

反歌 476「わご王天知らさむと思はねば凡そに見ける和豆香そま山」 477「あしひきの山さへ光り咲く花の散りぬるごときわご王かも」

    右の三首は二月三日につくれるなり

3478「懸けまくも あやにかしこし わご王 皇子の命 もののふの八十伴の緒を 召し集へ 率(あとも)ひ賜ひ 朝猟(あさかり)に鹿猪(しし)ふみ起こし 暮猟(ゆふかり)に 鶉雉(とり)ふみ立て 大御馬(おおみま)の 口抑へ駐(と)め 御心を 見し明らめし 活道(いくじ)山 木立の繁に 咲く花も 移ろひにけり 世の中は かくのみならし 大夫(ますらを)の心振り起こし 剣刀(つるぎたち) 腰に取り佩き 梓弓 靫(ゆぎ)取り負ひて 天地と いや遠長に 万代に かくしもがもと 憑(たの)めりし 皇子の御門の五月蠅(さばへ)なす 騒く舎人は 白栲に 服(ころも)取り着て 常なりし 咲(ゑま)へ振舞(ふりま)ひ いや日異(け)に 変(かは)らふ見れば 悲しきろかも」

反歌 479「愛しきかも皇子の命のあり通(がよ)ひ見しし活道(いくじ)の路は荒れにけり」 480「大伴の名に負ふ靫(ゆぎ)負ひて万代(よろずよ)に憑(たの)みしこころ何処(いづこ)か寄せむ」

   右の三首は三月二十四日に作れる歌なり

 

大意【長歌475: 皇子の命の永久の統治を期待して、この大日本の久邇の都は、春には、山のほとりには花が咲き、川には若鮎が泳ぎ、日一日と栄えていた。ところが考えたくもないが皇子が亡くなられ、舎人たちは泣くばかりでどうしてよいかわからない。】

大意【長歌478: 前段:皇子が猟をされたり国見をされた活道山は今色あせている。はかないことだ。 後段:勇敢な武人の心をふるい立たせて、武人として永久にお仕えし万代迄とお頼みした皇子。その皇子の御殿に集まってにぎやかにしていた、今白い喪服を着ている舎人の笑顔や動作が日一日とかわって行く。それを見ると、何と悲しいことだろう。

「詔に応え高官に交じり詠んだ歌」  天平18(746年)家持(29歳)、正月大雪で朝賀の儀が取りやめとなり、元正上皇のご座所の雪掃きに参上した折に歌を詠めとの詔があり応えて詠んだ。

左大臣橘宿祢の、詔に応えたる歌 巻17-3922「降る雪の白髪(しらかみ)までに大君に仕へまつれば貴くもあるか」

紀朝臣清人の、詔に応えたる歌一首 巻17-3923「天の下すでに覆ひて降る雪の光を見れば貴くもあるか」

紀朝臣男梶の、詔に応えたる歌一首 巻17-3924「山の峡(かひ)其処とも見えず一昨日(おとつい)も今日(けふ)も雪の降れれば」

葛井連諸会の、詔に応えたる歌一首 巻17-3925「新しき年のはじめに豊の年しるすとならし雪の降れるは」

大伴宿祢家持の、詔に応えたる歌一首 巻17-3926「大宮の内にも外(と)にも光るまで降れる白雪見れど飽かぬかも」

 

 

陸奥の国に出金を賀す詔

天平21年(749年)41日聖武天皇は群臣を従え、皇后・皇太后はこれに侍し、造営中の東大寺盧舎那仏に北面し2つの詔を賜った。  始めに橘諸兄をして仏に対し賜った。

 【大意:国の弥栄のため仏教の教えが良いと思召され大仏を作らんとされたが金少なくて成らじやと慮られた時に陸奥の国に黄金を得た(註)。この天神地祇の恵みは民と共に喜ぶところであり、天平の年号に字を加えんとする。次に神宮諸社仏寺に奉幣し、或いは墾田を賜り、僧尼を敬し、新規に官寺となし、又代々の大臣の墓はよく顕彰せよ。】*次に石上乙麻呂をして諸王・諸臣に対し賜った。次に大津宮以来の遺詔として諸臣の忠誠を誡 め諭し、個々の貴族に詔あり、縣犬養橘代の代々に亘る忠勤と不比等薨去後の藤原を護った事を讃え、その孫等に叙位する。  

ついで大伴・佐伯両氏に詔を賜る。

【大意;大伴佐伯の宿祢は 常も云ふ如く 天皇朝守仕奉事(天皇が治める世を守るつかさを奉ること) 顧なき人等にあれば 汝たちの祖どもの云ふ来らく 海行かば水漬く屍 山行かば草生す屍 王(おおきみ)の邊にこそ 死なめ 和(のど)には死なじと云ひくる人どもとなも聞し召す 是を以て 遠天皇(とおすめろぎ)の御世を始めて今朕(いまわが)御代に當りても 内兵(うちのいくさ)とおもほしめしてことはなも遣(つかは)す かれこヽを以て 子は祖の心なすいし子にはあるべし 此の心失はずして 明き浄き心を持ちて仕え奉れとしてなも 男女合わせて一二治賜(ひとりふたりおさめたま)ふ」  

註:21年(749年)2月 陸奥の国から黄金を献上

  

 

「陸奥の国に金(くがね)を出す詔書を賀(ほ)く 歌一首幷びに短歌」(天平21年(749年)5月12日)

18-4094「葦原の 瑞穂の国を 天下り 知らしめしける 天皇(すめらぎ)の 神の命の 御代重ね 天の日嗣(ひつぎ)と 知らし来る 君の御代御代 敷きませる 四方の国には 山川を 広み厚みと 奉る 御調(みつぎ)宝は 数へ得ず 尽くしもかねつ 然れども わご大君の 諸人を 誘ひたまひ 良き事を 始めたまひて 金(くがね)かも たしけくあらむと 思ほして 下悩ますに とりがなく 東の国の 陸奥の 小田なる山に 金ありと 申したまへれ み心を 明らめたまひ 天地の 神相珍(あいうづな)ひ 皇祖(すめらぎ)の 御霊助けて 遠き世に かかりしことを 朕(わ)が御代に 顕はしてあれば 食(は)す国は栄えむものと 神ながら 思ほしめして もののふの 八十伴の緒を まつろへの 向けのまにまに 老人も 女童(おみなわらは)も 其(し)が願ふ 心足らひに 撫でたまひ 治めたまへば ここをしも あやに貴(たふと)み 嬉しけく いよよ思ひて 大伴の 遠つ神祖(かむおや)の その名をば 大来目主と負ひ持ちて 仕へし官(つかさ) 海行かば 水漬(みず)く屍 山行かば 草生(む)す屍 大君の 辺にこそ死なめ かヘリ見は せじと言立て ますらおの 清きその名を 古よ 今の現(をつつ)に 流さへる 親の子どもをそ 大伴と佐伯の氏は 人の祖の 立つる言立て 人の子は 親の名絶たず 大君に まつろうふものと 言ひ継げる 言の官(つかさ)そ 梓弓 手に取り持ちて 剣太刀 腰に取り佩(は)き 朝守り 夕の守りに 大君の 御門の守り 我をおきて 人はあらじと いや立て 思ひし増さる 大君の 命(みこと)の幸(さち)の聞けば貴み 」 

  反歌三首 4095「ますらをの 心思ほゆ 大君の 命(みこと)の幸(さち)を 聞けば貴み」、 4096「大伴の 遠つ神祖(かむおや)の 奥つ城(き)は 著(しる)く標(しめ)立て 人の知るべく」、 4097「天皇(すめらぎ)の 御代栄へむと 東なる 陸奥山(みちのくやま)に 金(くがね)咲く

天平感宝元年(749年)五月一二日に越中国守の館にして 大伴宿祢家持作る

4094大意:第1段で天日の位を継ぐ天皇の神のような統治が御代を重ね行われているので「四方の国には 山川を 広み厚みと 奉る 御調(みつぎ)宝は 数へ得ず 尽くしもかねつ」と大君を讃え国柄(くにから、註)を愛でている。第2段で 自らの篤い思いの東大寺建立という大事に金が産出した奇瑞を繁栄のしるしと喜び、この喜びを多くの者と分かち、廷臣をふるい立たせ、民の安寧を図られた現天皇の神のような統治を「ここをしも あやに貴(たふと)み 嬉しけく いよよ思ひて」と心から貴び、大君と臣・民が相和する国柄(くにがら、註)を愛でている。第3段で大君に仕えて来た大伴の祖の「海行かば 水漬(みず)く屍 山行かば 草生(む)す屍 大君の 辺にこそ死なめ かヘリ見は せじ」という言立てを今の大伴は「親の名絶たず 大君に まつろうふものと 言ひ継げる」 言の官(つかさ)という志を宣言している。第4段でもともと天皇の身辺を護ってきたのは大伴であると「大君の 御門の守り 我をおきて 人はあらじ」と家持の覚悟を表明し、最後に詔を聞いて感激したのでこの歌を詠んだと結んでいる。】

独り幄(とばり)の裏(うち)に居りて 遥かに霍公鳥(ほととぎす)の啼くを聞きて作る歌一首幷に短歌 (天平感宝元年(749年)510日)

18-4089「高御座(たかみくら) 天の日継と 天皇(すめろき)の 神の命(みこと)の 聞こし食(を)す 国のまほろに 山をしも さはに多みと 百鳥の 来居て鳴く声 春されば 聞きのかなしも いづれをか 別(わ)きてしのはむ うのはなの 咲く月立てば めづらしく 鳴くほととすぐす あやめぐさ 玉貫くまでに 昼暮らし 夜渡し聞けど 聞くごとに 心つごきて うち嘆き あはれの鳥と 言はぬときなし」 反歌 4090「行方なくあり渡るともほととぎす鳴きし渡らばかくやしのはむ」 4091「卯の花のともしに鳴けばほととぎすいやめずらしも名告(の)り鳴く名へ」 4091「ほととぎすいとねたけくは橘の花散る時に来鳴き響(とよ)むる」

    右の四首は、十日に大伴宿祢家持作れる

4019大意:(国柄「くにから」を愛でる心) お日様の貴い御位を引き継ぐ天皇が治める国は神のような統治が行き渡り、すぐれた国だ。だからこの国には山や海、平野や川など自然が豊かで四季の移ろいがあり、(人々は実り豊かに暮らし御調(みつぎ)宝は 数へ得ず 尽くしもかねつ)、多くの鳥や花を愛でる。鳥でいえば、3月に鳴きだす鳥はどれも素晴らしいが、菜の花の咲く4月から菖蒲草で薬玉を作る5月の間のウグイスの鳴き声は昼聞いても夜聞いても飽きない程愛らしい。】

 芳野の離宮(とつみや)に幸行(いでま)さむ時の為に 儲(ま)けて作る歌一首幷短歌 (天平感宝元年(749年)513日?)

18-4098 「高御座(たかみくら) 天の日嗣(ひつぎ)と 天の下 知らしめしける 皇祖(すめろき)の 神の命の 畏(かしこ)くも 始め給ひて 貴(たふと)くも 定め給へる み吉野の この大宮に あり通ひ 見し給ふらし 物部(もののふ)の 八十伴の緒も 己(おの) 負へる 己が名負ふ負ふ 大君の 任(まけ)の任(ま)く任(ま)く この川の 絶ゆることなく この山の いやつぎつぎに かくしこそ 仕へ奉(まつ)らめ いや遠永(とおなが)に」

 短歌4099「古(いにしへ)を思ほすらしもわご大君吉野の宮をあり通ひ見す」 短歌4100「物部(もののふ)の八十氏人も吉野川絶ゆることなく仕へつつ見む」

 4098大意:第1段(主題は国柄(くにがら)を愛でる心、~見し給ふらし)で、天の日のような御位を受け継ぐ遠祖の天皇がお定めになり、神のように統治されたみ吉野の大宮に大君が行幸され、風景をご覧になるだろう。と大君の行幸を想像し、遠祖の天皇以来の吉野(宮)とのご縁と行幸を思い、その時の天皇の御製歌や随行者の歌を思い、大君が見られる風景を随行する廷臣も共有し御製歌に唱和したいという君臣相和する国柄(くにがら)への願いを歌っている。第2段(主題は臣の道、~いや遠永に)で、多くの廷臣たちもそれぞれの氏の名に背かないよう大君の任命に応じ続け、川が絶えないよう、山が重なるように、お仕え申し上げよう。永遠に。】

史生(舎人出身で地方書記官として赴任)尾張少昨に教え諭す歌(18-1406)(天平感宝元年515日)

七出の例に云はく、ただ一条を犯さば、即ち出すべし。七出無くして容易く棄つる者は、徒1年半なりといふ。

三不去に云はく、七出を犯すとも棄つるべからず。違へる者は杖1百なり。ただ、姦を犯せると悪疾とは棄つるを得といふ。

両妻の例に云はく、妻有りて更に娶る者は、徒1年なり。女家は杖1百にして離てと云ふ。

詔書に云はく、義父節婦を憐み賜ぶと云ふ。

謹みて案ずるに、先の件の数条は、法を建つる基、道に化くる源なり。然らば則ち義父の道は、情の別なきことに在り、一家は財を同じくす。豈旧きを忘れ新しきを愛づる志あらめや。所以に数行の歌を綴り作し、旧きを棄つる惑を悔いしむ。その詞に曰はく、

18-4106「大汝少彦名の 神代より 言ひ継ぎけらく 父母を 見れば尊く 妻子めこ」見れば 愛(かな)しくめぐし うつせみの 世の理(ことわり)と かく様に 言ひけるものを 世の人の 立つる言立て ちさの花 咲ける盛りに はしきよし その妻の児と 朝夕に 笑みみ笑まずも うち嘆き 語りけまくは 永久に かくしもあらめや 天地の 神言寄せて 春花の 盛りもあらむと 待たしけむ 時の盛りそ 離れ居て 嘆かす妹が 何時しかも 使のこむと 待たすらむ 心さぶしく 南風(みなみ)吹き 雪消まさりて 射水川 流る水泡(みなわ)の 寄辺(よるへ)なみ 左夫流その児に 紐の緒の いつがり合ひて にほ鳥の 二人並びゐ 奈吾の海の 沖を深めて さどはせる 君が心の 術(すべ)も術なさ[左夫流といふは、遊行女婦の字なり]

4106大意:神代以来父母は尊く妻子は可愛く愛おしい、と言い伝えられてきたのに、ちさの花の盛りの妻と朝夕に喜びや悲しみを分かちつついつまでもこう貧しくはないだろう。春の花のように栄える時も来よう、と誓った。その日が今ではないか。遠く離れた都でまちわびている妻は待ち焦がれていることでしょう。その気持ちを寂しくさせて、左夫流児とあなたは紐のように親しみ合い、にほ鳥のように連れ立ち、奈吾の海の沖に心深く迷ってしまっている。その気持ちがせんないことよ】

「橘の歌」(18-4111)併せて「短歌」(18-4112)(天平感宝元年閏523日)

18-4111「かけまくも あやに恐(かしこ)し 皇神祖(すめらき)の 神の大御代に 田道間(たじま)守  常世(とこよ)に渡り 八矛持ち 参出来し時 時じくの 香の木の実を恐(かしこ)くも 遺したまへれ 国も狭に 生ひ立ち栄 春されば 孫枝(ひこえ)萌いつつ ほととぎす 鳴く五月には 初花を 枝に手折りて 少女らに つとにも遣りみ 白たへの 袖にも扱入(こき)れ かぐはしみ 置きて枯らしみ あゆる実は 玉に貫(ぬ)きつつ 手に巻きて 見れども飽かず 秋づけば 時雨の雨降り あしひきの 山の木末(こぬれ)は 紅に にほひ散れども 橘の 成れるその実は 直照(ひたて)りに いや見が欲しく み雪降る 冬に到れば 霜置けども その葉も枯れず 常盤(ときは)なす いや栄映えに 然れこそ 神の御代より 宜しなへ この橘を 時じくの 香の木の実と 名づけけらしも」

短歌18-4112「橘は花にも実にも見つれどもいや時じく(永遠に)になほ見が欲し)」

【4111大意:遠い昔に田道間(たじま)守が常世(とこよ)国に行き 八矛(たくさんの苗)を持ち返った時に、橘を伝えたので今では国中に生育し、春には若枝を伸ばし、5月には花が咲き、秋には実がなりつやつや輝く、冬には橘の葉だけは枯れない。何時までも一層栄輝き、そのゆえにこそ神代の昔からなるほどこの橘を時じく(永遠)の香の木の実と名付けたらしいよ。】

京に向かふ路の上にして、興に依りてかねて作れる侍宴応詔の歌一首併せて短歌

(天平勝宝3(7518月)

19-4254「秋津(あきづ)島 大和の国を 天雲に 磐船(いはふね)浮かべ 艫(とも)に舳(へ)に 真櫂(かい)繁貫(しじぬ)き い漕ぎつつ 国見し為(せ)して 天降(あまも)り座(ま)し 掃(はら)ひ言向け 千代累(かさ)ね いや嗣継(つぎつぎ)に 知らしける 天の日嗣(ひつぎ)と 神ながら わご大君の 天の下 治め賜へば 物部(もののふ)の 八十伴の緒を 撫で賜ひ 斉(ととの)へ賜ひ 食(をす)国の 四方の人をも 遺(あぶさ)はず 惠み賜へば 古昔(いにしへ)ゆ 無かりし瑞(しるし) 度まねく 申(まを)し給ひぬ 手拱(てむだ)きて 事無き御代と 天地 日月と共に 万世(よろずよ)に 記し続(つ)がむそ やすみしし わご大君 秋の空 しが色々に 見(め)し賜ひ 明らめ賜ひ 酒宴(さかづき) 咲かゆる今日の あやに貴(たふと)さ」 反歌一首 4255「秋の花 種々(くさくさ)にありと色毎に見(め)し明らむる今日(けふ)の貴(たふと)さ」

 4254大意: 前段(主題は国柄(くにがら)を思う)は大和の国を次々と平定されてきた天皇が神のような統治をされ、廷臣を慈しみ、国を整え、人々をお恵みなさるので、昔からなかった瑞祥が度々奏上される。大君の神のような統治のもと君臣相和する国柄(くにがら)なので瑞祥例えば出金等があると讃えている。 後段(主題はひそやかな自負心)は「手拱(てむだ)きて 事無き御代」を現出された大君が秋の花を愛で心を晴らされる今日という日の貴いこと、と大君の御製歌と自分の歌による君臣唱和を願い、古くからおそば近くで天皇を護ってきた武人の血筋を受け継ぐものの視点から、武人が何も為すことがない世の中の貴さとそれを支え・護る武人(臣)のひそやかな自負を覗かせている。】

詔に応へむ為に儲(ま)けて作る歌一首幷短歌(天平勝宝4年閏3月~11)

 20-4266「あしひきの 八つ峰(を)の上の つがのきの いや継ぎ継ぎに 松が根の 絶ゆることなく あをによし 奈良の都に 万代(よろづよ)に 国知らさむと やすみしし 我が大君の 神ながら 思ほしめして 豊の宴(あかり) 見す今日の日は もののふの 八十伴の緒の 島山に 赤るたちばな うずに刺し 紐解き放(さ)けて 千年寿き 寿きとよもし ゑらゑらに 仕へ奉るを 見るが貴さ」

反歌一首 4267「天皇(すめろき)の 御代万代に かくしこそ 見し明らめめ 立つ年のはに」

右の二首、大伴宿祢家持作る

4266大意:神のような天皇を心から尊崇し、この御代が永遠に続き、この御代では君臣相和す国柄(くにがら)が尊ばれ、天皇を囲んだ宴では笑い合ってお仕えできるような年が毎年続くことを願っている。】

族(やから)に諭(さと)せる歌一首幷短歌 (天平勝宝8年(756年)617日)

讒言により一族の長老であり氏上であった大伴古慈斐(こしび)(62歳)が512日出雲の守を解任されたことを受けう詠んだ歌。 

21-4465「ひさかたの 天の門開き 高千穂の 岳に天降(あも)りし 皇祖(すめろき)の 神の御代より はじ弓を 手握り持たし 真鹿児矢を 手挟み添へて 大久米の ますら武男を 先に立て 靫(ゆぎ)取り負ほせ 山川を 岩根さくみて 踏み通り 国まぎしつつ ちはやぶる 神を言向け まつろはぬ 人をも和(やは)し 掃き清め 仕え奉りて あきづしま 大和の国の 橿原の 畝傍の宮に 宮柱 太知りたてて 天の下 知らしめしける 天皇(すめらぎ)の 天の日嗣と 継ぎて来る 君の御代御代 隠さはぬ 赤き心を 皇辺(すめらへ)に 極め尽くして 仕え来る 祖(おや)の職(つかさ) と 言立てて 授けたまへる 子孫(うみのこ)の いや継ぎ継ぎに 見る人の 語り次てて 聞く人の 鑑(かがみ)にせむを あたらしき 清きその名そ おぼろかに 心思ひて 空言(むなごと)も 祖の名絶つな 大伴の 氏と名に負へる ますらをの伴(とも)」

短歌 4466「しきしまの 大和の国に 明らけき 名に負ふ伴の緒 心務めよ」 4467「剣太刀 いよよ磨ぐべし 古(いにしへ)ゆ さやけく負ひて 来にしその名を」 

右は淡海真人三船の讒言に縁りて 出雲守大伴古慈斐宿祢任を解かゆ 是(ここ)を以ちて 家持この歌を作れり 

【大意:天孫降臨以来、天皇の始祖神の昔からわが一族は勇猛心を発揮して、地形や気象を克服して国土を拡げつつ、勢い盛んな敵を平定し、反抗する人々を従わせ、邪悪なものを一掃して大君にお仕えしてきた。又神武天皇の即位以降代々の天皇には隠しへだてなく、赤心を極め尽くして、お仕えしてきた。そうした祖先代々の役目として大君が言葉にあげて官をお授けになる我々子孫は清らかなその名を貴び、大伴という名を惜しまぬよう励まなければならない。祖先の名を絶やしてはならない。】

家持の防人を詠む歌(天平勝宝7(735)

(第1回目の作歌:28日)追ひて、防人の別れを悲しぶる心を痛みて作れる歌1首併せて短歌

4331 「天皇(おおきみ)の 遠の朝廷と しらぬひ筑紫の国は 敵(あた)守る 鎮(おさえ)の城(き)そと 聞し食(あ)す 四方の国には 人多(さは)に 満ちてはあれど 鶏が鳴く 東男は出で向かひ 顧みせずに 勇みたる 猛(たけ)き軍卒(いくさ)と 労(ね)ぎ給ひ 任(まけ)のまにまに たらちねの 母が目離れて 若草の妻をも枕(ま)かず あらたまの 月日数(よ)みつつ 葦(あし)が散る 難波の御津に大船に 真櫂(かい)繁貫(しじぬ)き 朝凪に 水手(かこ)整へ 夕潮に 楫(かじ)引き撓(を)り 率(あども)ひて 漕ぎゆく君は 波の間を い行きさぐくみ 真幸(さき)くも 早く到りて 大王の 命(みこと)のまにま 大夫(ますらを)の 心を持ちて あり廻り 事し終らば 障(つつ)まはず 帰り来ませと 斎 瓮 (いはひべ)を 床辺(とこべ)にすゑて 白妙の 袖折り返し ぬばたまの 黒髪敷きて 長き日を 待ちかも恋ひぬ 愛(あ)しき妻らは」

短歌 4332「大夫(ますらを)の靫 (ゆき)とり負ひて出でて行けば 別れを惜しみ嘆きけむ妻」 4333「鶏が鳴く 東男の妻別れ 悲しくありけむ 年の緒長み」

  右は28日、兵部使少輔大伴宿祢家持

4331大意: 防人の使命と天皇の仁慈を説き、防人の出発から帰宅までの行程を歌い、「任(まけ)のまにまに」辛い家族との別れを振り切って旅立ちし、山・海越えて、難波津では大船に乗り、危険と隣り合わせの海原に出てゆく。任地に着き 「早く到りて 大王の 命(みこと)のまにま 大夫(ますらを)の 心を持ちて あり廻り」長い務めが終われば帰ってくる。妻は支障なく帰ってきて欲しい と願いを込め斎(いわい)や祈りの所作をして無事の帰りを待つ。】

*行程の終止を通じ防人は任に赴きこれを果たす強い心と妻や父母子との別れを悲しむ心という弱い心がせめぎ合う。妻の切ない心を加えることでこの葛藤を浮き彫りにする。家持は防人のありのまま、人間の自然の情であるが防人としては弱い心となる悲別に向き合い、その痛みを直視し続け、回を重ねる毎に思いを深化させて行く。

 家持は29日に短歌3首を詠む。 4334「海原を 遠く渡りて 年経(ふ)とも児らが結べる紐解くなゆめ」 4335「今替る新防人が船出する海原のうへに波な吹きそね」 4336「防人の堀江 漕ぎ出る伊豆手舟楫取る間なく恋は繁けむ」

     右は9日に、大伴宿祢家持作れり

*上記は第1回目の作歌の翌日である。家持は代表例4330「難波津に 装ひ装ひて 今日の日や 出でて罷らむ 見る母なしに」で難波津について歌っている。これは同内容の防人の歌が10首あり、刺激を受けていた家持は第2回目の作歌のテーマを難波津、難波の宮の回想とした。その伏線として上記3首を詠んだ。  

(第2回目の作歌:213日)私(ひそか)に拙き懐(おもひ)を陳(の)べ1併せて短歌4360「天皇(すめろき)の 遠き御代にも 押し照る 難波の国に 天の下 知らしめしきと 今の緒に 絶えず言ひつつ 懸けまくも あやに畏(かしこ)し 神ながら わご大王の うちなびく 春の初は 八千種(やちぐさ)に花咲きにおひ 山見れば 見のともしく 川みれば 見の清)さや)けく ものごとに 栄ゆる時と 見し給ひ 明らめ給ひ 敷きませる 難波の宮は 聞こし食(は)す 四方の国より 奉る 貢の舟は 堀江より 水脈引きしつつ 朝凪に 楫引き泝り 夕潮に 棹さしくだり あじ群の 騒ぎ競ひて 浜に出て 海原見れば 白波の 八重折るが上に 海人(あま)小船 はららに浮きて 大御食(おおみけ)に 仕え奉(まつ)ると遠近(おとこち)に 漁(いざ)り釣りけり そきだくも おぎろなきかも こきばくも ゆたけきかも ここ見れば うべし神代ゆ 始めけらしも」

4361 4362短歌(略)

4360大意:そして神のような統治をする天皇の御代は(仁徳天皇が難波津を拓き)ここ難波に宮を置いた遠い昔が始まりだという。この船の行き交う賑わいや花の咲き誇る春の景色、盛んな漁の光景などもっともだと思う。】

*仁徳天皇(高津宮)、孝徳天皇(難波長柄豊崎宮)、聖武天皇(難波宮)の皇居があったころ(万葉集巻1-64の題詞による)で代々の天皇の御代の賛歌であると共に武人家持としては難波津に集まった防人が国司の手を離れ、以降神のごとき統治者である大王の直接指揮下に入り行動する、というけじめの地という自覚で本歌を歌った。難波の津は別名大伴の津という、万葉集にも歌われ、巻1-63「去来(いざ)子ども 早く日本へ 大伴(註1)の 三津の浜(註2)松 待ち恋ひぬらし」(山上臣憶良、大唐(もろこし)に在る時に、本郷(もとつくに)を憶ひて作れる歌)、巻1-66「大伴の 高師の浜(註3)の まつが根を 枕く寝(ぬ)れど 家し偲はゆ」(置始 東人)。

1:大阪市一帯の地で、大伴氏の領地があったらしい。 註2:御津、良港の意で、大阪湾をさす。 註3:高師の浜とは大阪府高石市高師の浜。大伴氏は全盛期には代々、難波の住吉に邸宅を構え領地もあった、であろう。家持は自己の回想のなかで、難波の津と大伴氏の輝きを重ねて大伴の言立て【志・覚悟】や誇りを再認識した。

(第3回目の作歌:219日)防人の情(こころ)となりて思を陳べて作れる歌一首併せて短歌」

4398「大君の 命(みこと)畏み 妻別れ 悲しくはあれど 大夫(ますらお)の 情(こころ)振り起し とり装ひ 門出をすれば たらちねの 母かき撫で 若草の 妻は取り付き 平けく われは斎(いは)はむ 好去(まさき)くて 早還(かへ)り来と 真袖持ち 涙をのごひ むせひつつ 言問(ことど)ひすれば 群鳥の出で立ちかてに 滞り 顧みしつつ いや遠に 国を来離れ いや高に 山を越え過ぎ 蘆が散る 難波に来居て 夕潮に 船を浮据ゑ 朝凪に 舳向け漕がむと さもらふと わが居る時に 春霞 島廻(しまみ)に立ちて 鶴(たづ)が音の 悲しく鳴けば 遥遥(はるばる)に 家を思ひ出 負征矢(おひそや)のそよと鳴るまで 嘆きつるかも」

4399 4400短歌(略)

4398大意:防人の情(こころ)となりて思を陳べ、防人の出発から難波津までの行程とその時の情(心)を歌っている。旅立ちでは妻との別れを悲しむ心を振り切った強さが難波の津では古代の人の悲しさの感受性を表す霞と鶴の鳴き声で振り切れない程切ないものとなった。】

(第4回目の作歌: 223日)防人の別を悲しぶる情(こころ)を陳べたる歌一首併せて短歌」

4408「大王の 任(まけ)のまにまに 島守に わが立ち来れば ははそ葉(ば)の 母の命(みこと)は 御裳(みも)の裾(すそ) つみ挙げかき撫で ちちの実の 父の命は  拷 綱(たくづな)の 白鬚(しらひげ)の上ゆ  涙垂り 嘆き宣(の)たばく 鹿児じもの ただ独りして 朝戸での 愛(かな)しき わが子 あらたまの 年の緒長く あひ見ずは 恋しくあるべし 今日だにも 言問(ことどひ)せむと 惜しみつつ 悲しび座(ま)せ 若草の 妻も子どもも 遠近(をちこち)に 多(さは)に囲み居 春鳥の 声の吟(さまよひ)白妙の 袖泣き濡らし 携はり 別れかてにと 引き留め 慕ひしものを 天皇の 命畏み 玉桙(たまほこ)の 道に出で立ち 岡の崎 い廻(た)むるごとに 万度(よろづたび) 顧みしつつ 遙遙(はるばる)に 別れし来れば 思ふそら 安くもあらず 恋ふるそら 苦しきものを うつせみの 世の人ならば たまきはる 命も知らず 海原の 畏き道を 島伝ひ い漕ぎ渡りて あり廻り わが来るまでに 平けく 親はいまさね 障(つつみ)なく 妻は待たせ兎住吉(すみのえ)の あが皇神(すめかみ)に 幣奉(ぬきまつ)り 祈り申(まを)して 難波津に 船を浮け据ゑ 八十楫(やそか)貫(ぬ)き 水手(かこ)整へて 朝開き わは漕ぎ出ぬと 家に告げこそ」

短歌4409「家人(いへびと)の斎(いは)へにかあらむ平けく船出はしぬと親に申さね」 4410「も空行く雲も使と人はいへど家裏(いへづと)(土産やことづて)遣(や)らむ たづき知らずも」 4411「家裏に貝そ拾(ひり)へる浜波はいやしくしくに高く寄すれど」 4412「島蔭にわが船泊(は)てて告げやらむ使を無みや恋ひつつ行くかむ」

4408大意:第3回を受け、23日に4回目の作歌で、「別れを悲しむ」に焦点を絞り、情景を詳述する。旅立ちでは妻父母子それぞれに切ない情を示し、別れ難い、と訴えた。それでも振り切って旅立った防人は心が残り何度も顧みしつつ、遥かに遠くへ来たので上のそらの苦しみが続いた。先がどうなるかわからないので帰ってくるまで父母は無事で妻は支障ないようにと住吉の神様にお祈りなどして難波津から準備を整えて漕ぎ出す。最後に「そうであった、と家に告げてほしい。(と結ぶ)。」

*この家に告げるという結びには重大な意味がある。当時、旅人は別れという悲しみや不安から逃れるため家に繋がろうとしていた。防人には更に戦いで命を失う不安があったので家に告げる思いは一段と強い、との意を家持は込めていた。この意味は反歌44094412に明らかである。

天平宝字三年(759年)春正月一日、因幡国庁にして 饗(あへ)を国郡の司等に賜ふ宴の歌一首

20-4516(巻尾)「新しき 年の始めの 初春の 今日降る雪の いや重(し)け 吉事(よごと)」

 ●柿本人麻呂の関連歌

 「近江の荒れたる都を過ぎし時に、柿本朝臣人麻呂の作れる歌

1-29「玉たすき 畝傍の山の 橿原の 日知(ひじ)りの 御世ゆ 生(あ)れましし 神のことごと 樛(つが)の木の いや継ぎ継ぎに 天の下 知らしめししを そらにみつ 大和を置きて あおによし 奈良山を越へ いかさまに 思ほしめせか 天離(あまざか)る 鄙(ひな)にはあれど 石走(いはばし)る 近江の国の 楽浪(さざなみ)の 大津の宮に 天の下 知らしめしけむ 天皇(すめろき)の 神の命の 大宮は ここと聞けども 大殿は ここと言へども 春草の 繁く生(お)ひたる 霞立ち 春日の霧(き)れる ももしきの 大宮どころ 見れば悲しも」    

反歌 30「楽浪(さざなみ)の 志賀の唐崎幸(さき)くあれど 大宮人の舟待ちかねつ」、31「楽浪の志賀の 大わだ淀むとも昔の人にまたも逢わめやも」

【29大意:柿本人麻呂は天智天皇所縁の崇福寺に詣でたおり、近江京の廃墟に立ったのであろう。そしてかっての大宮人を心から敬い・懐かしみ、ただ慟哭し、そのことによって深い鎮魂の意を表した。】

*廃墟の都を歌題として初めて歌い、長歌の形式を確立し、そこにいた人を彷彿させるという叙情手法で、読む人の心の奥底を揺らした。その感動の広がりが壬申の乱を鎮る社会意識として拡がった。

「高市皇子尊の城上の殯宮の時に、柿本朝臣人麻呂の作れる歌」

 *柿本人麻呂は長編雄大な長歌(149句)を詠み、その中で壬申の乱の指揮ぶりとその後の治世を歌っている。本歌の狙いは高市皇子(朱鳥10(696年)没)の鎮魂と天武天皇の崇敬及び乱後25年にして初めて乱そのものを歌い、壬申の乱の鎮めを意図した。

高市皇子尊の城の上の殯宮の時に、柿本朝臣人麻呂の作れる歌一首幷短歌

1-199「かけまくも ゆゆしきかも 言はまくも あやに恐(かしこ)き 明日香の 真神の原に ひさかたの 天つみ門を 恐(かしこ)くも 定めたまひて 神さぶと 岩隠(いわがく)ります やすみしし 我が大君の 聞こしめす 背面(せとも)の国の 真木立つ 不破山越えて こまつるぎ 和射見が原の 行宮(かりみや)に 天降りいまして 天の下 治めたまひ 食国(おすくに)を 定めたまふと とりがなく 東の国の み軍士(いくさ)を召したまひて ちはやぶる 人を和(やわ)と、まつろはぬ 国を治めと 皇子ながら 任(ま)けたまへば おほみ身に 太刀取佩く(は)かし おほみ身に 弓取り持たし み軍士(いくさ)を あどもひたまひ 整ふる 鼓の音は 雷(いかづち)の声と聞くまで 吹き鳴せる 小角(くだ)の音も あたみたる 虎か吼ゆると 諸人の おびゆるまでに ささげたる 旗のなびきは ふゆごもり 春さり来れば 野毎に つきてある火の 風のむた なびかふごとく 取り持てる弓弭(ゆはず)の騒ぎ み雪降る 冬の林に つむじかも い巻き渡ると 思ふまで 聞くの恐く 引き放つ 矢のしげけく おほゆきの 乱れて来れ まつろはず 立ち向かひしも つゆしもの 消なば消ぬべく ゆくとりの 争ふはしに 渡会の 斎宮(いつきのみや)ゆ 神風にい吹き惑はし 天雲を 日の目も見せず 常闇に 覆ひたまひて 定めてし水穂の国を 神ながら 太敷きまして やすみしし 我が大君の 天の下奏(まを)したまへば 万代に 然しもあらむと ゆふはなの 栄ゆる時に 我が大君 皇子のみ門を 神宮に 装(よそ)ひまつりて 使はしし み門の人も しろたへの 麻衣着て 埴安(はにやす)の み門の原に あかねさす 日のことごと ししじもの い這ひ伏しつつ ぬばたまの 夕に至れば 大殿を 振り放(さ)け見つつ うづらなす い這ひもとほり 侍(さむら)へど 侍ひえねば はるとりの さまよひぬれば 嘆きも いまだ過ぎぬに 思ひも いまだ尽きねば ことさへく 百済の原ゆ 神葬(かみはぶ)り 葬りいませて あさもよし 城の上の宮を 常宮と 高くしたてて 神ながら しづまりましぬ 然れども 我が大君の 万代と 思ほしめして 作らしし 香具山の宮 万代に 過ぎむと思へや 天のごと  振り放(さ)け見つつ たまだすき かけて思はむ 恐くありとも」

短歌2 200「ひさかたの 天知らしぬる 君故に 日月もしらず 恋ひ渡るかも」、201「埴安の 池の堤の 隠(こも)り沼(ぬ)の 行くへを知らに 舎人は惑ふ」

*高市皇子が亡くなられ、葬送迄安置されている間に読まれた歌。高市皇子は天武天皇長子で壬申の乱当時19歳、大海人皇子から戦いの指揮を任され、見事に勝利に導いた。天武即位後天皇親政下に皇親政治の一翼を担い、中央集権・律令制国家建設に実を挙げ、持統朝下では太政大臣として天武偉業の完成並びに軽皇子の即位に貢献した。長子でありながら母の出自から皇位継承順位は草壁・大津皇子に次いで3番目であった。大津皇子自殺、草壁皇子も夭折という事態が生じ、高市皇子は未だ幼い草壁王の子軽皇子を皇位継承者にするという持統天皇の意に沿い、臣として尽くした。その鎮魂は持統天皇にとって絶対に必要で柿本人麻呂はその意を十分に体した。又持統天皇にとって亡き天武の遺志を継いで律令制の中央集権国家という新しい国作りを完成させることこそが壬申の乱によってゆらいだ大王の権威をより価値の高い「天皇」の権威として確立することに繋がると考え専心した。柿本人麻呂は宮廷歌人としてその意を十分に体するだけでなく神のような境地を歌い、後の世の人の心に、草莽の社会意識として壬申の乱の鎮めとともに天武天皇や高市皇子への尊崇、単なる賛歌ではなく、の意を生じさせた。 高市皇子については皇子の大功である壬申の乱勝利と乱後25年の治世への貢献を歌っている。

199大意:「ちはやぶる 人を和せと 服従はぬ 国を治めと 皇子ながら 任したまえば」と暴威を振るう人々を和せ、服従しない国を治めよ、と大海人皇子は(若干18歳の)高市皇子に任された、皇子はその信に応え良く指揮を執った、と大軍の指揮・統率の器量を尊崇し、又乱後の治世においては「我が大君の 天の下奏(まを)したまへば 万代に 然しもあらむと ゆふはなの 栄ゆる時」と、(天武天皇に)お仕えして天下のことを奏上なさるとその見識・力量を尊崇している。  天武天皇については壬申の乱において「渡会の 斎宮(いつきのみや)ゆ 神風にい吹き惑はし 天雲を 日の目も見せず 常闇に 覆ひたまひて」の中で二つのことを歌っている。①神風という神佑天助があった。これはやるべきを尽くしたから伊勢のご加護があった。このようなやるべきを尽くしたという神のような業を尊崇している。又②常闇は天の岩戸伝説と同じ危機回生の折り目に現れる状況との解説もあり、神風が作った常闇に吹き迷わされた賊軍は惑い散り、わが軍も又大きな試練を与えられたが大勝利を得た、試練を与えられ、それを克服した、とその力を尊崇している。乱後の治世において「瑞穂の国を 神ながら 太敷きまして やすみしし 」と、(天武天皇は)神さながらにご支配なされていることを尊崇している。ここの神ながらには単なる天皇賛歌、宮廷儀礼で持統の意に応える、以上に深い思いが込められている。  壬申の乱の鎮めについては神風という伊勢の神様の御加護があり常闇という岩戸以来の試練を克服した、という勝敗を超越したものがことを決した、と歌い、また最大の懸案、中央集権・律令制の新しい国作りを讃える意で神のような治世を歌うことで壬申の乱の鎮めをした。

*以上の二つの歌に関し柿本人麻呂は宮廷歌人として、壬申の乱でゆらいだ大王の権威を立て直し、新たな日本の天皇としての権威確立を意図した持統天皇の御心に沿うのは勿論であるが、それ以上に天武や持統が先頭に立って、新しい国を作り、護ろうとする根底の精神に深く感動し歌った。そこの部分を、後にこれを詠む人々は、壬申の乱の鎮め以上のもの即ち上からの指導ではない、草莽の国史の精神として感じ取った。

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