7.ひとりひとりの今日

 この日は雨が降った。せっかくここ2日の晴天で道路とか乾ききったのが、台無し。気分もいまいち晴れないし、ナオキとの行為があったせいか、体もなんだかだるい。幸いというのか、母さんは昨日帰りが遅くて、今日はいつもどおり朝早くに家を出て行ったから、全然見られてないし、あたしのこの様子を無理に隠す必要もない。それでも、気だるいと感じるせいか、やることなすこと何もかもがだらだらとしてしまう。学校の授業だってどうでもよくなるし、休み時間にどこかに行こうという気にもなれない。
 それに、雨のせいで今日は屋上も使えない。晴れてる日にあそこに行けば、漂くんに会えるかもしれないのに。あそこが使えないと、あたしは彼に会うあてがない。どこのクラスなのか捜し回る余裕も、あたしには最初からない。
 時間の流れがとてもとても遅い、うつろな1日。気が遠くなりそうだった。
 こうなると、今日についてはほとんど考えるようなこともない。ましてや考えもつかないようなことが起こりそうもない、そんな中で考えてしまうのは結局、昨日のこと。
 昨日は、途中まではよかった。漂くんの家で、お互いの家の事情とか、漂くんの趣味とかを聞いたりして。多分、他愛ない会話ではあったけれど、それがすごく楽しくて、暖かくて。
 だけど、いきなり流れが変わってしまった。あの子を目にした、たったそれだけで。それでなんでああなってしまったのか、あたしにはわからない。わからないけど、何かの嫌な感情がはじけてしまった。そのせいで、漂くんにもあの子にも、嫌な思いをさせてしまった。しかも、そんな自分に対する嫌悪だけじゃなくて、未だにあの子自身に対する嫌悪があたしの中に残っている。そんな自分が嫌でたまらない。
 その後の行動は、ほとんど自暴自棄からくるものだったと思う。なんでもいいから気を紛らわしたかった。そういう時に限って、ナオキという人間はちょうどいい。あたしはただ彼を利用しているだけ。それ以外にはなんとも思っちゃいない、普段付きまとわれてもうっとうしいとさえ思っていた――嫌な人間だ、あたしは。考えれば考えるほど本気で自分が嫌になっていく。そして、それに歯止めをかける何かというのが、今日は何もなかった。
 だからこそ、少し後になって悪意を持つことにも、なんのためらいもなかったのかもしれない。






 結局、漂くんにもナオキにも会わないまま、あたしは1人で帰り道を歩いていた。
 歩くのも億劫で、家までの道はいつもより遠く思えた。傘を差して、とぼとぼと、ぼんやりとあたしは歩いていた。ざあざあ、ぴちゃぴちゃ。そんな音ですら、あたしにはうつろに聞こえた。
 だから、途中で通りかかった公園で、傘を差してぼうっと立っている子供の姿に、どうしてあたしが気づけたのかはよくわからない。でもとにかく気づいてしまった。さらに言うなら、普段のあたしだったら素通りしていたはずなのに、足が自然と公園のほうに向いていた。小走りになっていたかもしれない。
 ぴちゃぴちゃというなんだか無遠慮な足音に気づいたのか、傘が動いた。子供がこっちを振り向いた、と理解する前に――あたしの思考は一瞬、凍りついた。その子供は昨日、漂くんのところにいた彼だったから。顔を見て、あたしがどうしようもなく嫌な気分になってしまった彼だったから。
 その彼と、目が合った。あたしの姿を見て、彼は怯えたように見えた。あたしはというと、全身をざわりと何かがかけめぐったような感じがしたけど、昨日と違ってそれは予想されたことだったから、頭で無理矢理抑えつけて、できるだけ警戒心を抱かせないようにゆっくりと近づいていった。
「どうしたの、こんなところで」
 そう声を出すのにも、ひどく気を使う。多分、すごく疲れることだと思う。けれど昨日この子にやってしまったひどいことの穴埋めをするためには、大げさな言い方かもしれないけど、全力を尽くさないとならないだろう。
 彼は1歩か2歩後ずさって、不審なものを見る目をあたしに向けてくる。
「……なんなの、おねえちゃん」
 子供らしくない、冷たい声。知らない人に対するそれよりもっと冷たい、嫌悪の声。たった少しの言葉だけで、必死に理性で抑えこんでいる醜い感情が漏れ出しそうになる。あたしはどこまで耐えられる?
 無理矢理笑顔を作って、申し訳ないということを出来る限り態度に表したつもりで、あたしは言葉を告げる。



「昨日は……ごめんね?」



 彼の雰囲気は変わらない。あたしが歩み寄ると、彼はつつっと距離を離す。ちょうど、あたしが近づいたのと同じ分だけ。
 自分のやったことは、ひどいこと。それは最初からわかっていたつもりだった。けれど彼にこうして拒絶され、あたしは改めてそのひどさっていうのを痛感していた。ああいう態度を取らせてしまうほどに、あたしはこの子をひどく傷つけてしまったのだと。 近づこうとすれば、遠ざかっていく。その繰り返しにあたしは根負けして、足を止めてしまった。ぼんやりと突っ立ったまま、求めても届かない子供の姿を見つめる。
 どのくらい時間が経ったのか。早かったのか遅かったのか、わからないけれど。あたしも彼も、ずっと何も言わないまま、しばらく時間が流れた。
 それに耐え切れなくなったのは、彼だった。それまであたしの目と結ばれていた視線をふいに俯かせたかと思うと、逃げるように公園から走り去っていってしまった。後を追うことはしない。なぜなら、そこであたしも限界だったから。
 彼の走り去っていく後ろ姿を見えなくなるまで眺めると、また感情がせりあがってきた。どうして話を聞いてくれないの。あたしは何をやってるんだろう。そしてあと1つ、正体不明の嫌悪感。3つの負の感情がごちゃまぜになっていた。
 それはあまりにも苦しくて、あたしはその場で自分を抱きしめようとした。あたしの中から何かが溢れそうで。抑えこまなきゃいけないと必死で思って。
 あたしはしばらく、その場から動くことができなかった。











 ******











 伝えたいことが、いっぱいあった。それを言わなくちゃいけない相手に会った。
 だけど、一言も伝えられなかった。あのおねえちゃんに対するいやな感じ、こわい感じが先に立ってしまって、おれは逃げだしていた。
 あのおねえちゃんが、どうしておれをきらいなのかはわからない。少なくとも、きらわれるようなことは、おれは何もやっちゃいない。そう、力いっぱい言うつもりだった。
 たぶん、おねえちゃんのほうも悪かったんだと思ってくれている。なんだかぎこちなかったけれど。おねえちゃんのほうでもなんだかわからない何かがあるんだろう。それをおさえて、できるかぎりおれにやさしくしようとしていた。
 おれは悪くない、と言うつもりだった。けれど言えなかった。それどころか、おねえちゃんだって何も言えなくなってしまった。そうなったのは、おれが悪いんだと思う。おれが、今こうして逃げてしまったから。
 次に会う時は、悪くないなんてことは言えない。今日のことをあやまらないといけない。ほんとはできるかどうかわからないけど、やろうって思わなくちゃはじめから台なしになってしまう。
 逃げるように公園から遠ざかって、マンションにもどるのにはそんなに時間はかからなかった。そこで後ろをふり返る。誰も追ってきてない。ほっとした気持ちとにがい気持ちが変にごちゃごちゃしたような。ちくりと胸のなかが痛んだ。
 まだ漂にーちゃんは帰ってきていないみたいだった。家にカギかかってたから。開けて入ることもできたけれど、今日はすぐにそうする気にはなれなかった。



 エレベーターに乗って、さらに上の階に向かう。もともとのおれの家がある8階。とぼとぼと歩いて、目的の部屋にはすぐにたどり着く。漂にーちゃんのとこ以上に誰もいるわけないから、とうぜんカギはしまってる。それを開けて、中に入って、またカギしめる。
 今日は雨だけど、まだ外は明るいほう。なのに、この家はびっくりするほど暗い。ここ最近はこの家に帰ってくるのが父ちゃんだけだから、カーテンとか開ける必要もないんだろう――たぶん、がんばってるんだと思う。けれどそういえば父ちゃんとは全然会ってない。元気かな、とちょっと心配になった。
 ぼふ、としばらく使ってなかった自分のベッドに飛び乗った。ぎしぎしっていう音がやけにはっきりと聞こえる。なんだか、思っている以上にしずかなこの家。考えごとをするのに、じゃまになるものが何もなくて、今はそれがすごくいいと思った――ちょっと前までは、こういうしずけさなんてつまらない、いらないって思ってたのに。
 今は、1人で考えたかった。漂にーちゃんに聞いてもらっていてもよかったかもしれないけれど――なんていうか、あのおねえちゃんはおれと会うのに準備をしてきたんだと思う。だったらおれも準備したほうがいい、と思った。
 考えごととはぜんぜんかんけーないけど、せっかくこの家にもどったんだから、父ちゃんの顔も見たいなと思った。……漂にーちゃんちにはもどれないけど、たまにはいいよね。
 ひかりのある場所は、気持ちいい。けれど、ずっとそればかりっていうのじゃなくて、たまには暗がりにもぐりこんでみたくもなる。どっちかしかないとだめになるっていうか、あきるっていうか。
 おれはしばらく、ひかりのささない自分の家の中で、ぼんやりしながら動かないでいた。











 ******











 この日、家に帰るまでは本当に何もなかった。
 雨が降ってるから屋上が使えない。宮月はどこのクラスかわからない。だから単に授業を受けただけで、暇。
 そういえばもうすぐ期末テストだったかもしれない。まあ多分、なんとかなるだろうと思う。少なくとも授業の内容でわからないところはないのだから――と思ってるとテストで痛い目に遭うのかなあ、と考えが派生したり。
 あまりにも暇で、頭の中に浮かぶのは個人的にはどうでもいいことで。そのどうでもいいことを、適当に粘土のように好き勝手こねくりまわすくらいしか、暇つぶしの手段がない。



 で、帰り道。そこでも本当に何もなくて。最初の日みたいに、公園で浩都が突っ立っていたということもない。少なくとも僕が通りかかった時、公園には誰もいなかった。だからそのまま通り過ぎて、今日はまっすぐ家に帰った――公園とマンションの途中の道でも、浩都とはすれ違わずだった。あいつはもう家に帰っているかもしれないか、公園に来るとしてもまだ学校にいるか、今まさに向かっているところなのかもしれない。
 とにかく、誰にも会わないまま家に帰り着いた。しかし家には鍵がかかっている。浩都が帰ってきていないことが、これでわかる。とりあえず鍵を開けて家の中に入る。鞄を放り出して、制服も脱ぎ捨て、家着に着替える。それからベッドの上にどさっと寝転んだ。



 どうしたものか。今から迎えに行っても、もう学校にはいないかもしれない。かと言って公園はどうだろう。さっきはいなかったけど、今はいるのか。一緒に過ごしている時は元気のいい子供だと思うけれど、雨の日に雨ざらしでぼうっと突っ立っていたことがあるのを考えると、どうも油断ができないような気がする。
 公園のほうに迎えに行こうか、と。倒れこんで間もなかったベッドの上から立ち上がろうとした時、電話が鳴った。リビングに置いてあるから、遠い。小走りで音の鳴るほうへと足を運ぶ。



「はい、咲良です」



『あ、漂にーちゃん? おれー』



 浩都の声だった。どうして家に戻ってこないで、こうして電話がかかってくるのかと反射的に疑問が浮かんだ時。
『今ねー、おれんちからかけてんのー。もどんないと思うー』
 問うまでもなく答えてくれた。何があったかは知らないが、もともとの自分の家にいるということか。同じマンションの中だから、大して心配はいらないのだろう。
「……なんでまた」
『んっとねー……考えごとー。あと、父ちゃんの顔見たくなったからー』
 父ちゃん。塔介さんのことか。そういえば浩都はあまり塔介さんとは顔を合わせてないんだっけ、とぼんやり思い出した。
「わかった。……晩ご飯、どうする?」
『んー。さっきも言ったけど、もどんないかもー。……どうしてほしー?』
「……一旦こっちに戻って食べるの、駄目?」
『あ、そっか。じゃーそーするー。……ごめーん』
「気にすんな。……わがままでいいって昨日言ったろ」
『ううん、ありがとー。じゃ、切るねー』
「あ、姉さんが帰ってきたら連絡入れるから、そしたら戻ってこい」
『わかったー。じゃーねー』
 こっちが受話器を置く前に、ツーツーと音がした。なんとなく、ため息が出た。






 結局この日、僕には何事も起こらなかったし、何が起こったかなんて知る由もなかった。
 浩都と、今日一切姿を見なかった宮月の間では、話が進んでいたというのに。
 僕自身は退屈さえ覚えながら、今日という一日を過ごしたのだった。













PREV NEXT
         10 11 12 13 14
BACK NOVELTOP SITETOP