3.君は誰

 そういえば。
 今は眠っている目の前の女の子の顔を見た時に、思い出したことが1つ――この子、確か夢に出てきたよな、と。
 なぜか、思い出し方はほとんどひらめきに近いものだったのに、思い出してからは、それが妙に当たり前に頭の中にあったかのような感覚だった。女の子の顔を見るまで、今日、夢のことなんかきれいさっぱり忘れていたはずなのに。
 それから――思い出すと、それまでずっと消えなかった、何かが響くような頭の痛みまでもが、いつのまにか完全に消え失せていた。これはこれでちょっと困る。この頭痛のせいで保健室に来ることになったのに、用事がなくなってしまった。
 いや、用事はなくなったのかというと実際はそうでもない。確かに頭痛からは回復したけれど、目の前の女の子の存在が気になった。夢のこともあるし、むしろ頭痛が引いたせいでよりいっそういろいろ考えたりもする。導き出されるのは、僕がこの女の子に興味を持ったということなのだろう。
 そういえば昨日もそうだった。雨ざらしの子供に僕のほうから興味を持って、近づいて。そして家に住んでもらうことになったんだった。
 浩都とはなんとなく長い付き合いになりそうな気がしたが、一方、まだ眠りから覚めず、声をかけてすらいないこの少女については、果たしてどうなのだろうか。











 ******











 あたしは今、眠っている。





 頭痛がすると言って保健室に行ったら、薬を渡され、落ち着くまで寝てなさいとおばさんに言われた。










 実際にその通りにしたおかげなのか、それとも眠ってるから今は何も感じないというだけなのか。




 妙に落ち着いた――というか、ふわふわした気分だった。




 気分だけじゃなく、実際に体までふわふわしているような感覚。これは多分、さっき考えた2つよりももっと当たり前の原因からきている。










 夢を見ている。










 これって理由として簡単な上に、結構広い範囲で通用しちゃうから、楽ではある。



 逆に楽だからこそ安易にそっちに流れたくないと思ったりするけれど。









 とにかく、今のあたしは夢を見ている、それ以外に考えようがないみたいだった。




















 だって、夢を見ているんじゃないとしたら、どうして今のあたしの視界は『真っ白』なんだろうか。




 普通、目を閉じたら目の前は暗いはず。




 電灯を真正面に見て目をつぶれば一部分だけ白くなるかもしれないけど、全部白いなんておかしいと思う。










 さらに変なのは、目の前じゃなくどこを見回しても――夢の中で『見回す』なんて変かもしれないけど――ただ真っ白。




 本当にどこもかしこも白一色、それ以外に何も見当たらない。



















 果てしなく白い空間の中に、あたしがひとりぼっち――だと思った瞬間。




 それまでどこを見渡しても誰もいなかったはずの白い空間の中に。









 まるで最初からいたみたいな印象をあたしに与える、誰かの後ろ姿があった。




















 その人は振り向かない。




 だから顔はあたしには見えない。









 あたしはその人を追おうとして、走り出していた。










 その人は別に走っちゃいない。どころか歩いてもいない、その場から動いてもいない。









 けれど、あたしは走っているはずなのに、距離が縮まらなかった。




 早くしないと、あの人はどこかに去ってしまうかもしれないのに。





 早く、早く。近づけなくても、気づいてほしい。










 ねえ。





























「あなた、誰なの?」





























 いきなりそんな声をかけられた。
 とりあえずまだ頭痛が残っているふりをして、ベッドの上で仰向けになってぼーっとしていたら、隣のベッドから声が飛んできたのだ。
 仰向けのまま顔を向けると、ついさっきまですやすやと眠っていたはずの女の子と、目が合った。彼女はそれでも目を逸らさないで、じっと僕を見つめている。ということは、さっきの声はやはり僕に向けられたものなのだろうか。
「誰……って、言われても。何か、僕に用?」
 夢に出てきた、ということがある。けれどそれはこっちの中のことでしかないし、この女の子と僕は今まさに初対面のはずで。たまたま似たようなタイミングで頭痛を訴えて保健室にやってきたというだけで。それ以上に何があるというのだろうか。
「用……なのかな。わかんない、あたしも」
 口調は困惑気味だった。彼女のほうにも、何か引っかかるところがあるのだろうか。しかしそれでも目は僕を見つめたままだ。
「君は?」
 とりあえず訊いた。先に質問したのはあっちで、僕は答えていないけれど。別にその気がないわけじゃない。ただ、お互いにまだ手探り状態なだけで。
「あたし? 宮月草那(みやつき くさな)。あなたは?」
「咲良漂。……頭痛、大丈夫?」
「どうして知ってるの?」
「おばさんから聞いた」
「ふうん。じゃあ、漂くんはどうしてここに?」
「頭痛」
「……おんなじ?」
 頷く。初対面で名乗ったばかりなのに下の名前で呼ばれたけれど、特に気にはならなかった。



「……じゃあ、さ。最近、変な夢見なかった?」



「夢?」



 どうしてそんなことを、と思った次の瞬間にすぐ気づいた。彼女も何か夢を見たのだろうか。
「……見た」
「どんな夢だった?」
 そう訊かれたので口を開こうとした途端、引き戸のノックの音が響いた。






「失礼しまーす」






 ぶっきらぼうな口調でそんな声が響いて、引き戸が開けられた。
「なんだい、今日は多いねぇ。あんたもどこか具合悪いのかい?」
「いえ、ダチが具合悪いっつうんで、様子見に来ました。さっき掃除終わったんで」
 おばさんと誰かの会話。その最中、僕の向かいにいる宮月の顔が、複雑そうなものになっていた。
「知り合い?」
「うん、中学が同じってだけなんだけどね……藤浦直樹(ふじうら なおき)って言うんだけど。あーあ、お話、途中だったのに」
「おー、いたいた。大丈夫かー? そいつ誰だー?」
 ぼそぼそと会話していた後ろから響いた声は、能天気なものだった。病人の心配をしてる声じゃない――実際、僕も宮月も今は別に病人じゃないんだけど。
 ちなみに、後ろからっていうのは宮月の視点で。つまり僕から見れば真っ向からってことで。そいつはやや大柄で、髪が茶色く、まただらしのない風に長かった。根元は黒いから、染めているのだろう。
 などと考えているうちに、宮月は体を起こしてそいつに向き直っていた。
「大丈夫よ、落ち着いた。ていうか、わざわざ見にきてくれなくてもよかったのに」
「なんだよ、せっかく心配してやったのによー。だいたい、珍しいなお前、病気なんてよ」
「そんな大げさなものじゃないわよ。もう治ったわ」
 男――藤浦のほうは能天気なのか気づいていないみたいだけど、宮月の口調には微妙に不満の色が混じっていた。とは言っても、それはどうしてだろうか。途中だったのにと言ったけれど、ひょっとして話の邪魔をされたことに不快感があるとでも言うのだろうか。
 それでも話がこれ以上続くことはないらしい。彼女はベッドから降りた。そしてこっちに振り向いて、言った。
「またね?」
 そして、微笑んだ――綺麗な笑顔だ、と見とれてしまった。
 すぐに踵を返し、彼女は藤浦と一緒に保健室を去っていった。僕はというと、その去っていったほうをしばらくぼんやりと見つめていた。
「青春かい?」
 横からいかにも可笑しそうな声が飛んできた。振り向くと、おばさんが微妙ににやにやしながらこっちを見ている。僕と宮月は今まさに初対面だったというのに、一体どこにそういう風に見える様子があったのか。
「……違いますから」
 一言で否定して、僕はおばさんに背を向けた。頭痛はなくなったけれど、もう少し寝ていようと思った。











 ******











「で、あいつ誰?」
 校舎を出たところで、ナオキが訊いてきた。誰って言われても、まだ名前しか聞いてない。もっと話そうとしたところで邪魔入れたのはアンタじゃないの。
 で、とりあえず名前だけ教えた。やっぱり知らないらしくて、ナオキはふうんと鼻を鳴らしただけだった。
「珍しいねー。オマエが他人に興味持つなんてよ」
「別に無いわけじゃないわよ。理由だって一応あったし」
「何ソレ?」
「教えない」
「えー、なんだよそれよー」
 ナオキは不満そうな声を出したけど、どうでもいい。あたしは歩幅を広げた。ナオキは慌てたように小走りでついてきた。別についてこなくてもいいのに。これが漂くんだったりしたら、また違った気持ちになっていたのかもしれないけれど。
 話の続きは、また明日。たぶん。









 ******











 きぃこ、きぃこ。きぃこ、きぃこ。
 誰もいない公園のブランコに乗って、そんな音を立ててみたりする。昨日の雨のせいで土はぬかるんでたし、ブランコもぬれていたけれど、気にしない。
 学校の保健室から出てくると、おれにはやることがない。家帰っても誰もいないし、学校行っても誰も相手してくれないし。宮月先生のところにずっといようかなとも思うけど、遅くまでそうしてるのもいけないし。
 どうしようもなくひまだから、帰り道のとちゅうの公園で時間をつぶす。さすがに台風とか大雨とかの日にはやんないけど、ちょっとくらいの雨の日なら別にどうってことない。風邪引いたことはあるけれど、それは別に大したことじゃない――昨日まではそうだったんだけど、今日からはやめようと思った。たぶん、雨ざらしなんて言ったらそれだけで、漂にーちゃんは変に心配するにちがいないのだ。現にそれで昨日さらわれたんだから。
 でもそれはともかく、とりあえず今日は晴れている。たぶん、まだ漂にーちゃんは家に帰ってないだろうし、することがないのは今日も変わらない。



 きぃこ、きぃこ。きぃこ、きぃこ。



「……誰か来ないかなー」



 つぶやいてみる。本当は誰か来て、しかも話しかけられたりしたら、すごく危ないんだけど。それはおれもわかっていた。でも、わかってはいても、なぜか誰かに来てほしいかもって思ったりした。思いながら、きぃこきぃことなんとなくブランコをゆらしていた。
 でも、空が赤くなるまで待ってみたけど、結局今日は誰も来なかった。昨日みたいなことって、やっぱり珍しいのかな。
 珍しいのかなと思って、その次に。こんなこと考えるおれってやっぱり変なのかな、とも思ったりした。知らない誰かに拾ってもらいたい、なんて――だって、おれは今までほとんど、ひとりだったから。別にものすごくほしいってわけじゃないけれど、誰にも手をさしのべてもらえないことを、たぶん、さびしく思ってた。さびしい思いをなくしてくれるものがほしかったけれど、今日はもう手に入らないかもしれない――そんなことを考えてたら。



「……何やってんの」



 今、帰りだったんだろうか、漂にーちゃんが通りがかった。見つかって、声をかけられた。
「何もー。だってひまなんだもんー」
 言いながらおれは走って、漂にーちゃんに体当たりした。にーちゃんはおれの体を軽く受け止める。
「にしたって……どこに変な人いるかわかんないんだから、早く家に帰ってたほうがよかったのに」
 にーちゃんはしょうがないなって風に笑った。おれがそれを嫌がってるってことを、この人は知らない。だっておれが話してないんだから。話す気もない。
「ねえ」
 にーちゃんの顔を見上げた。にーちゃんはおれの顔を見下ろした。何?って返すような顔だった。
「いっしょに、いてくれるんだよね?」
 おれは聞いた。聞いたっていうか、そうであってほしいと思って言った言葉だった。少ししずかになって、それから漂にーちゃんは少し笑って、おれの頭をちょっとだけなでた。
「一緒に、いるよ。そっちが望む限りは、できるだけ」
 それは、せいいっぱいの言葉だったんだろう。すごく感じた。そういうのをおれに向けてくれたことが、すごくうれしくて。
「ありがとっ」
 おれも、せいいっぱい笑顔を作って答えた。きゅっと、軽く体を抱きしめられた。そしてすぐ離れた。
「じゃあ、帰ろうか」
「うんっ」



 そうして、おれは今日、漂にーちゃんと手をつないで家に帰ったのだった。













PREV NEXT
         10 11 12 13 14
BACK NOVELTOP SITETOP