最悪の1日、と言ってもいいかもしれない。何が最悪って、今日はスタートからつまずいているような感じだ――朝から頭痛があった。それも、けっこうキツイ感じの。学校休んだほうがいいかなと思ったけど、頭痛だけで休むのもな、と思った。休み連絡入れて、昼間にならないうちに頭痛が引いたりなんかしたら、なんだかあまりにも馬鹿馬鹿しいと思う僕は、真面目人間だろうか。
なので結局、学校には行った。それでもって、授業も普通に最後までちゃんと受けた――そこまでは問題ない。だけど、放課後になって下校路を歩くには、気力が持たなかった。ここまでで、時間が経つごとに頭痛がひどくなってきていたせいだ。
結局、2日前と同じように保健室を訪ねる羽目になった。
「なんだい、またあんたかい。治ったんじゃなかったのかい?」
「……治ったり痛んだりします」
周期があるわけじゃないけど、時々急に痛くなったりするから、いよいよこれは何かの病気を疑ったほうがいいのかもしれない、とぼんやり思った。
一言二言会話をした後、おばさんからもらった薬を飲んで、ベッドに潜る。今日は誰もいない――宮月はなんともないのだろうか。心情的にはそうでもなさそうだけれど。どうしているか気になりはしたが、追及するどころじゃない――それにしても頭が痛い。
ベッドに入ったところで、すぐに眠気が来てくれるわけでもなく。むしろ頭痛が響くようにやってくるせいでそのたびに意識が覚醒してしまい、ひたすらごろごろしているだけになってしまう。薬は全然効いていないらしい。
いったいどうすれば治るのか――眠りに落ちるんじゃなくて、昨日みたいに気絶してしまうのは嫌だと思う一方で、頭痛から逃れられるならもうそれでもいいと思ったりもして。とにかくこれが落ち着かないと、まともにものを考えることもできやしないから――結局のところ、今日、その「まともにものを考える」機会なんてのは、僕にはなかった。
気がついたらまた、どこまでも白い空間の中に僕がただひとり。どうやってここに来たのだろう。なんだかんだ言って普通に眠れたのならまだいいけど、気絶だったらやだ。だいたい気絶だったら夢見もへったくれもないだろうとは思うけれど。
そう思いつつ、あたりをきょろきょろと見回した――こういう状況で何もないわけがない、という妙な確信がある。
相変わらず、何もない。誰もいない。何かが起こるという予感はあれど、実際に何が起こるか、その予測は全然できない――だから、起こったことに対して、僕はいつだってびっくりする。
どんっ、といきなり背中に衝撃を感じた。誰かがぶつかってきたみたいな。あまりに突然だったので受けきれず、僕は前のめりに倒れそうになった。四つんばいになって、どうにか地面とのキスは避けた。
「漂くんっ!?」
切羽詰った声が飛んでくる。夢の中のはずなのに、やけにリアルなその声。立ち上がって振り返ると、尻餅をついている宮月がいた――本当にこれは夢なんだろうか。そういう形をしたテレパスだったりするんだろうか。夢だと割り切りきれないリアリティが、感覚として体の中にある。
「……何なの、一体」
思わず呆れ気味の声を出しながら、助け起こそうと思って右手を差し伸べる。やや恥ずかしそうにしながら、宮月はその手を引っ張って立ち上がった。そうして、僕と宮月は正面立ち姿どうしで向き合った――と思ったら、すがりつくような形で宮月は寄り添ってきた。
「助けて」
端的に放たれた言葉。その意味を掴み損ねて、僕は怪訝な表情をしたことだろう。
「……何が、あった」
安心させようと思って、何気なしに抱きかかえながら。何があったのか――どういう状況なのか、何から助けなきゃいけないのか、どこまで切迫しているのかを訊いた。
返ってきた内容の大半は、懺悔のようなものだった。すべては自分の嫉妬から始まったのだと。続けてどういうことだって訊いたら、浩都の名前が出てきてまた驚く羽目になり。それにも構わず、宮月は自分を責めるように話し続けた。浩都に対する嫉妬から始まり、嫌がらせじみた気持ちであいつを連れ去り、そして最後にはこうして助けを求めなければならなくなっているのだと――あくまでも状況や経緯だけを見れば、確かに宮月が悪いのかもしれない。さらに言うなら、これらの行動には本人の悪意も見え隠れする。けれど、そんなことは本人が一番よくわかっているのだろう。一から十まで悪意だったなら許せないけれど、そんなのはほんの一部で、実際に彼女の心を占めていたのは、浩都がかつて抱えていたものに通じるような、孤独感だったのかもしれない――などと理由を考えてみたりもしたけれど、それこそ実際はどうでもよかった。なんにせよ、今のこの宮月を放っておくことはできなかったから。まして、彼女が助けてと訴えるのならば、浩都も同じ状況の中にいるということにもなるから。
動かなきゃいけなかった――けれど。
「……今、伝えられても。今、これ、夢でしょう――起きなきゃ」
自分でも変な言葉だと思う。目覚めればまず口走ることのない言葉。と、彼女はまたごめんなさいと言いたげな顔をした。
「頭、痛くなってない?」
どうしてそれを宮月が問うのか――なんとなくは理解できる。朝からの頭痛がこの夢の予兆だったと、今は思えないでもない。それに、初めて会った時に、確か彼女も頭痛があったと言っていた。
「……痛いけど」
「……ごめんなさい」
「謝られても。……これ以上の話は後まわしでいいでしょ」
そう、後まわしでいい。今は、彼女を助けることがすべてだから。疑問に思うこと自体はないわけじゃない、むしろたくさんあるけれど。今までの内容からして、アプローチをかけてきたのは明らかに宮月のほうからだけど、どうしてそんなことができるのかっていうことについては、追及のしようもない。原理を聞いたところで理解できやしないだろうし――今の僕にはどうでもいいことだ。
行かなきゃならない。だから、目覚めなければならない。
「待ってるから」
その言葉が、夢の終わり際、耳に残った。
始めに思ったのは、夢と現実が切り替わる瞬間ってどこにあるんだろう、みたいなことだった。その瞬間に気づかないまま、僕はベッドの上から保健室の天井を見上げていた。
意識はまだはっきりしていない。全部の感覚がぼんやりとしている感じだった。目は開いてるけれど、眠いのか眠くないのかすらよくわからないような。開いているといっても、蛍光灯がまぶしくて、うっすらとでしかなかった。
光をさえぎりたくて、また感覚を確かめたくて、のろのろと右手をかざしてみる――ゆっくりだけど、ちゃんと動いてるのがわかる。
上がるだけの高さまで右手を持っていったら、そこでいきなり力を抜いてみる。かくんっと肘を曲げて、自分の顔の上に落とす。
ぱちんという音がはっきりと聞こえた。鼻っ柱と両目の周りに、痛みが走った。一緒に、ようやく意識がはっきりする。
けれど体はまだ重い。意識だけはっきりしても、目覚めたての体は簡単には言うことを聞いてくれない。だから、起こすには絶対的な意志が必要になる――うつ伏せになって、両腕を使って、ようやく上半身を起こし、そのままベッドの上であぐらをかいた。
それでもまだ、感覚は戻りきっていないような気がする。肩を回したり、首を回したり。……いっそ、柔軟体操でもやったほうがいいかもしれない。
「お目覚めかい?」
声がかかった。ほとんど惰性に任せるような感じで振り向いた。おばさんがいた。とりあえずこくんと頷いた。
「……寝ぼけてんじゃないだろうね。とりあえず顔でも洗ったらどうだい」
そう見えるだろうか。寝ぼけてるかどうかはわからないけれど、そのかわりに体全体が気だるいのはわかりきっている。顔を洗えば少しはすっきりするだろうか。またこくんと頷いて、のろのろと洗面台に歩み寄る。出てきた水は程よい冷たさで、気持ちいい。しゃきっとする――まだ水道水のぬるくなる時期じゃあないみたいだった。
気が済むまで顔を洗ったあと、背中で腕を組み、思いっきり天井に向かって伸ばす。全身の一部から、こきこきっと骨の鳴る音がする――健康の面でこれはどうなんだろうか、気にしなくてもいいのだろうか。
そこまでしてようやく、体がいつもの感覚を取り戻す。はっきりした意識で、改めておばさんの方を僕は見た。
「今、何時ですか?」
どれくらい眠っていたのか。ベッドに入ったのは放課後になってすぐだから、だいたい3時半くらいのはず。
「今? あーっと。5時ちょっと前だね。結構寝てたよ、あんた。……頭はもういいのかい?」
言われてはっと気づいた。頭痛はもうなくなっている。あんなにきつかったのに、少し寝たらけろりと治っている。ただの頭痛かそうじゃないのか、よくわかんない。今度これが起きたら病院行こう、とひそかに思った。
「……結構遅いですね」
「ま、いいんじゃないのかい? 学校閉まるまではまだ時間あるしねぇ」
この時期だと、確か完全下校は6時だってどこかにあったっけ。とはいえ、もともと帰宅部の僕に完全下校時刻なんて本来関係はないけれど。5時、という時間は僕からすれば遅すぎるものだった。
「ありがとうございました。行ってきます」
「……帰る、の間違いじゃないのかい?」
おばさんは怪訝そうな顔を向けてきた。けれど、僕にしてみれば帰るっていうのは間違いで。これからの僕は、別に家に直行で帰ろうとしてるわけじゃない。とはいえ説明するのも面倒で、結局おばさんからすれば疑問が解決されることはないのだけれど。
僕が踵を返すと、ため息が聞こえた。
「ま、いいか。私は関係ないようだしねぇ。いってらっしゃい。頑張ってきな?」
「行ってきます」
背を向けているからこそ、はっきり聞こえるように大きめに声を出して返事をしてから、僕は早足で保健室を去っていった。
学校を出る時間は遅かったけど、マンションに着くまでは早かった。そのままエレベーターで3階まで上がって、家に直行する。とは言っても帰るわけじゃなくて、必要なものを1つ取りに行っただけ。着替えもせず、自分の部屋から自転車の鍵を持っていって、かわりに鞄を放り出して。制服姿のまま、再び僕は家を出た。
自転車置き場に向かう。1つ1つが誰のものか、さっぱりわからない。自分のものが1つ紛れているはずだけど、並び方は雑然としていて、探し出すのにちょっと苦労した。見つけたら見つけたで、今度は引っ張り出すのに苦労する。どうしてちゃんと整理されてないんだろうとか、使わないんだったら持つなよなとか、自分のことを棚にあげて思ったりした――僕だって普段は自転車なんてあまり使わないけれど、今日は必要だった。
ようやく道路まで引っ張り出した自転車に鍵を差しこみ、サドルにまたがって、力いっぱいこぎ始める。
そういえばどこを目指すのか。ふと頭にそんな疑問が浮かんだけれど、それをよそに足は躊躇なくペダルを踏み込んでいく――目的地は体が知っている、ということになるんだろうか。
だったらと、考えるのはやめにした。体が目指す目的地に、心も向けることにした。ふだん滅多に出さない全力で、僕は自転車をこぎにこいでいった。
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