4.寂しいと頭痛がする

「ただいまぁ」



 いちおう、家に帰った時はちゃんとそう言う。おかえり、なんて誰も言ってくれないけど。午後の4時、太陽はまだまだ明るい。母さんはまだ小学校のほうにいるんだろう。多分、今頃は桜井っていう子とのんきにお喋りでもしているんだろう。それでお金をもらっているって言うから、母さんもずいぶん楽な仕事してるなってイメージがある。
 お金がないと生活できないし、この家の収入源はその母さんの「楽な仕事」と、家を出て行った父さんが銀行に入れてるお金でなんとか普通のレベルを維持してるから、実際あたしに文句を言う権利なんてないけれど。
 でも母さんは、日が暮れかかるくらいの時間にならないと帰ってこない。もっと遅い時は空が真っ暗になってからようやくってこともある。どうしてそんなに遅いのか。
「楽な仕事」っていうのはあくまでもあたしのイメージでしかないし、本当はもっと忙しいのかもしれない。でもここ数年、母さんが過ごす時間の中には、大抵あたしが全然会ったこともない子供と他愛ないおしゃべりをしている時間が含まれている。それがなくなれば、母さんはもっと早く家に帰ってくるかもしれないのに。



 最近、思うこと。ていうか、疑っていること。母さんはあたしなんか大して大事に思っていないんじゃないか。父さんがあたしをうっとうしいと言った時は、その父さんに真っ向から反発して、あたしを受け入れてくれたけど。今はもう、違うんだろうか。どうでもよくなってきたのか。あたしよりも、毎日保健室に押しかけてくるっていう男の子のほうが大事なんだろうか。



 今、あたしは自分の家の中でひとりぼっちで、あまりにも暇で。それでもって、考えているうちにどんどん気が滅入ってしまって。おかげで、何かをする気力までなくした。
 さっきも学校の保健室で眠ってたけど、今からもう1回寝ようと思った。眠っちゃえば、これ以上考えなくて済むから。
 制服を脱いで、いちおう母さんの目に触れても恥ずかしくないように、適当に放り出していたTシャツとハーフパンツを着けて、あたしはベッドに倒れこんだ。











 ******











「あっ」



 反射的にそんな声を出しつつ、自分の額を右の指で押さえる。また、頭がきぃんと痛んだ。
「? にーちゃん、どったの?」
 きょとんとした顔で浩都が訊いてきた。朝は表に出さなかったけど、今は仕草を思いっきり見せてしまったので、言い訳が面倒になった。



「ちょっと、ね……偏頭痛、かな」
 ちなみにいきなり痛み出してから少し経った今に至るまで、頭痛は引いてはくれず、がんがんと鳴り響いていた――面倒くさがらず、病院で診てもらったほうがいいのだろうか、これは。



「へんずつー? にーちゃん、病気?」
「どうだろうね……昨日まで全然無かったんだけど、今日急にだから、やばいかもね」
 苦笑しながら言った――一瞬くらい、「大丈夫だから」とどっちを言おうか迷ったけれど、大丈夫じゃないかもしれないのに大丈夫って言って安心させてしまうのは、なんとなく罪悪感を感じた。
 やばいという言葉のあたりで、浩都は途端に焦ったような顔をしてしがみついてきた。
「やだっ、漂にーちゃんがやばいのなんて、おれやだっ!!」
 切羽詰まった響きの声。本当に、心底から不安だと言わんばかり。それで僕は少し後悔したけれど、会って間もない僕にこれだけの感情を向けてくれることが、嬉しくもあった。
 浩都は力の限りしがみついているという感じで、離れてくれそうにない。むしろ今は僕だって離したくはない。右手で浩都を抱きかかえ、左手で頭を撫でた。はねっかえりが強く、子供らしい元気さを象徴しているような髪触りだった。



「……いなくはならないよ。僕も、姉さんも。心配すんな」



 撫で続けながら、そう声をかけた。それで感情の変化があったかどうか――安心したのか不安なままだったのかはわからない。浩都はなおも僕を離そうとはしなかったから。それならそれで、しばらくはこうしていよう。浩都の好きにさせてやろう。こっちの頭痛くらい、いくらでも我慢してやろう。
 そのまましばらく、僕と浩都はずっと抱き合っていた。おそらく浩都は、誰かが傍にいることを、全力で、全身で感じたくて。そして僕は、そんな浩都を少しでも安心させてやりたくて。











 ******











 眠れない。
 ベッドに仰向けになって、目を閉じて、頭で寝よう寝ようと思っても、全然ダメだった。
 やっぱり保健室で寝てたというのがあるから、今は眠気が来ないんだろうか――なぜか、いやそれは違うという確信めいた思いが、あたしの中にはあった。
 だって、なんでかわかんないけど、家に帰ってきたばかりの時より、妙に気分がイライラするんだもの。
 どういう風にイライラするのか――感覚的なことって、普通は多分、説明するのは難しい。はっきりしたものがなかなかないから。曖昧なことがほとんどだから。
 けれど、今のこれに関しては、説明がつけられそうな気がした。どうしてイライラしているのか――あたしはただ1人、他に誰もいない場所に、ぽつんと取り残されているのだ。
 家にあたしひとりっていう状況から、わざわざ思うまでもないことのはずだった。でも、頭でわかっていて、それだけのことのはずなのに。その状況に対する大きな嫌悪感がせり上がってくる。なぜか。
 誰がどこで何をしているかなんて、わからない。あたしは何も知らない――なのに、あたしはひとりぼっちで。ただひとりぼっちなだけじゃなくて、好きな人を横取りされて捨てられたみたいな感覚。すごく嫌な感覚。
 どうしてこんな思いをしなきゃいけないのか。たった1つの手段、眠ることで逃げようとしたけれど、それもできなくて。考えるのを止めても、感情は止まらなくて。悶え苦しむっていうのは、今のあたしのことを言うんだろうか。
 どうしようもなく苦しくて、涙まで出そうになった、ちょうどその時。



「ただいまー」



 玄関から、母さんの声がした。もう少しで本当に涙が出そうになって、でもギリギリのところで出なかった、そんなタイミング。ものすごく中途半端っていうか、気持ち的に微妙な状態。どうせなら泣いてしまいたかったと思うくらい――今日は何もかも間が悪い気がする。
 出迎える前に、部屋の時計を確認する。デジタル表示で18時30分。もうそんな時間。あたしは気づいてなかった。ともかく、何もなかった風にしてベッドを降りて、細い廊下に顔を出して。
「おかえりー」
 母さんの顔に向かって言う。母さんは右肩に鞄を、両手に買い物袋を提げていた。重そうだ。
「ごめんね、今日も遅くなっちゃった」
「ていうか、買い物くらい一旦家帰ってからでもいいって言ってるでしょ。荷物持ちくらい手伝うのにー」
「そうかしら。家からスーパーって遠いでしょ。時間節約よ」
 母さんは苦笑して言いつつ、よたよたと台所のほうに歩いていく。こんな時でも荷物は全部自分で持っちゃう。
「今日のご飯、何?」
「今日はクリームシチューやろうかなって。すぐ準備するから待っててね」
 ぱたぱたと台所を駆け回りつつ、そう言いながら母さんはにこりと微笑みかけた。たったそれだけで、さっきまで疑ったりとかひとりぼっちだとか気分の悪いこと考えてたのがまるっきりの嘘だったみたいに、すごく救われたような気持ちになった。
 この人があたしをどう思っているかは、訊いてみないとわからない。けれどあたしのほうは、少なくともこの人がいないとダメそうだ。時々さっきみたいに疑ってしまうけれど、いてくれるのならそれでいい。
「待つだけじゃ暇だもん。手伝うよ」
 母さんの背にそう言って、あたしも台所に入った。母さんが使わないかわりに、あたしはエプロンを身につけた。











 ******











 また、きぃんと音が響いた気がして。その次の瞬間、頭痛が引いてしまった。
 反射的に怪訝そうな顔にでもなっていたのだろうか、きょとんとした顔で浩都が僕を見上げていた。
「……にーちゃん、まだ痛いの?」
 心配そうな視線になった。怪訝な顔っていうのは、頭痛持ちの印象なんかが取れるわけがない、むしろ増幅させるかもしれない――事実はまったくの逆だ。
「いや……むしろ、治っちゃった」
 自分でもよくわからないけれど、治ったものは治ったのだ。とりあえず浩都を心配させてしまうようなものはなくなった。だから僕は笑顔を作ってそう言った。
「ほんとっ!?」
 途端に浩都の表情がぱあっと輝いたように爽やかなものになった――さっきも『途端に』泣きそうな顔になってた。ころころと表情の変わる子供だ。
「うん。もう大丈夫だから」
 大丈夫と言いつつ、僕は苦笑した。急に痛んだり、急に引いたり。あまりにも不定期なものだから、またいつ再発するかわからない――けれどせっかく今は治ってるのに、そんなことを言ったって不安にさせるだけだ。
 安心したように息をつきながら、また浩都は抱きつく力を強めた。きゅっと。僕はもう1度浩都の頭を撫でたりした。
 と、その時。玄関でドアの音。姉さんが帰ってきたらしい。そう思うより早く、ぱっと浩都は僕から離れて玄関に駆けて行った。
「ねーちゃん、おっかえりー!!」
 相変わらず、姉さんに対しては元気2割増ぐらいによく響く声。ああいうのは僕にはなかなか向けてくれない。そんなに姉さんが好きなのか浩都のやつ。今目の前にいないのをいいことに、こっそりと溜息をついてから、僕も姉さんを出迎えようと部屋から顔を出す。
「おかえり」
「ただいま。ご飯、すぐ準備するわね」
 重そうな買い物袋を両手に提げたままそう言って、姉さんはつかつかと廊下を進む。買い物袋だけじゃなくて大学用の鞄も肩に提げているっていうのに、歩みには乱れがない。地味だけどこの辺、実はすごいんじゃないかと思う。さすがは剣道2段、なんだろうか。
 後ろを浩都がついていく。小走りっぽいんだけど、それでも重そうな袋を提げた姉さんに抱きついたりはしていない。そんなことしてたらさすがに僕が叩くし。
「ねーちゃん、今日はご飯なにー?」
 けれど、そう訊ねる声はものすごくうきうきしているのがよくわかる。昨日のオムライスで相当味をしめたらしい。気持ちはわかる。
「今日は煮魚にしようと思って」
「っえー、魚!? おれそれきらーい」
 元気そうなテンションは変わらないまま、露骨に不満そうな声が飛んできた。
「こら、わがまま言うなって。それに姉さんが作るんだから美味しいに決まってるだろ」
「そんなん言われてもー!」
 叫び返された。それを見ていた姉さん、もう買ってきちゃったからねと苦笑した。浩都はしぶしぶと観念して、ちょっとしょんぼりしつつも大人しくご飯を待っていた。
 けれど実際に食事の時間になると、浩都は最初こそ魚を嫌そうに口にしたものの、そのあときょとんとした顔でおいしいと呟いて、それから顔を輝かせては、結局昨日と同じように味わっているのかわからない勢いでぱくぱくと食べ始めた。そら見たことか。姉さんの料理なんだから、美味しくないわけがないんだ。
 今日という日も、終わりは和やかに締めくくられそうだった。ご飯のあとは3人で適当にテレビつけて、番組の内容を見ているのか見ていないのかわかんないようなことを話題にしながら、のんびりと過ごしたのだった。













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