5.彼女と拾われっ子

 その日の目覚めは、昨日と違って普通だった。頭痛も無いし、何か夢を見たということもない。そしてその日の朝の流れはほとんど昨日と同じ。違うところと言えばテレビの内容と食卓上の会話と、僕に頭痛がなかったことくらいだった。
 でも朝だけじゃなく一日全体を見れば、頭痛が無いというのは昨日と今日ではずいぶんと大きな違いかもしれない。昨日は我慢している時間が長かったけど、今日はそんな必要なんてないのだから。
 そんなわけで、今日という日はわりとのんびりしていた。授業は普通に受けて、わからないところも特になかったし。さらに言うなら、昨日に続いて今日も空は晴れていて。おかげでおとといの雨の影響なんてほとんどもうどこにも残ってなくて――3日ぶりの校舎屋上。



 ウチの学校は屋上も開放されている。だから昼休みはここで弁当を食べに人が多くやってくるけど、放課後はそんなこともない。さっさと帰るか、部活に精を出すかのどっちかが大抵だ。逆に言えば僕みたいに、放課後にここにやってくる人間っていうのはまれ、ていうかほとんどの場合僕1人――だったんだけど、今日はまれな人間がもう1人いた。



「あ、いたっ」



 屋上の扉が開けられた後、飛んできたのは聞き覚えのある声のそんな言葉。むしろ昨日聞いたばかりで、忘れてたら若くして物忘れ激しいってことになる。
 まどろみかけていた顔を引き締めて、前に上げると。視線の先に、昨日話した女の子がいた。ポニーテールを揺らして、彼女はまっすぐ僕に向かってくる。連れはいないみたいだった。彼女ひとりがやってきて、僕の隣にちょこんと腰を下ろした。
「探したよ?」
「……探してたの?」
「うん。だって昨日、話の途中だったし。あと、気になったし」
 気になったっていうのは何でだろうと思いつつも、その時は訊かなかった。一応、僕を探してたって言うのには、それとは別にちゃんと理由があったから――話。
「……夢?」
「うん。覚えてたらでいいんだけど」
 昨日は確かにそんな話をしようとした。そして、話が出来た。覚えていたから。けれど今は――
「ごめん、無理。……覚えてない」
「そっか」
 彼女は特に残念そうな顔はしなかった。ふうんと鼻を鳴らしただけで。けれど続けて訊いてくる。
「……じゃあさ。今、具合はどう?」
 具合。多分、頭痛のことだ。そういえば昨日は僕も彼女も、頭痛を訴えて保健室に駆け込んだんだっけ。気にはなるか。
「大丈夫。そっちは?」
 とりあえず、家の中でまた痛んだということは伏せておいた。一方、彼女は。
「こっちも大丈夫だよ。帰ってからはぜーんぜん」
 そう言って微笑みかけてくる。その微笑みと返された言葉で、なんだかアンフェアな気がしてくる――僕みたいに本当じゃないのかもしれないけど、文句が言えたものでもないし、本当に大丈夫ならこっちはそれで全然構わないし。



 話題が尽きたのか、それからしばらく僕らは静かな時を過ごした。ただ、2人ともぼんやりと晴れ空を見上げているだけ。途中で宮月が僕の肩にこてんと頭を乗せてきたけれど、別に重いとかそういう風に気になったりはしない。むしろ心地いい。
 どれぐらいそうしているのか。時間だけがゆるゆると流れていく。2人とも何もしないから、多分ものすごく時間は遅く進んでる。実際どうなのか、僕は時計持ってないからわからないけど。
 そんな静けさは、どうアプローチしたって、破られるのは唐突に感じてしまうわけで。



「ね、漂くん」



「何?」






「家、どこ?」






 顔を向けず、僕は目を瞬かせた。けれどそれだけで、驚きとしては大したものじゃない。
「訊いて、どうするの」
「わかんない。でも、知りたい。訊いてから考えようかな」
 宮月も僕の肩に頭を乗せたまま、こっちを見ないでそんなことを言う。
「教えない。ていうか、口で説明するよりか、案内したほうがわかりやすいかもね」
「いいの?」
「どうせ暇」
 家に迎えるのを断る理由はない――んだけど、おとといに続いてまた変な拾い物をした気分だった。なんだろうか、この2件をきっかけに、僕は人の拾い物なんてのを今後増やしたりする羽目になるのだろうか。
「そっちはどうなの。暇?」
「うん、暇。あたしんち、誰もいないし」
 また目を瞬かせてしまった――彼女もか。浩都もそうだった。そして僕もそうだ。家に帰っても、誰もいなくて暇なだけ。



「……行こうか」



「うん」



 まるでそれが当たり前であるように、僕は促して、宮月は頷いた。その流れに乗って、この日は宮月草那という女の子を連れて下校した。











 ******











 とくになにかあったわけじゃないけれど、今日はいつもより長くここにいようと思った。今までだって今日みたいそうすることはできたけれど、しなかった。これもとくになにかがあるわけじゃない。
 よーするに、気分の問題ってやつで。べつに、何かするのにいちいち理由がいるなんて思わない。
 まあ、そんなこんなで。今日はいつもより長く、おれは小学校の保健室にいる。
「今日はまだ帰らないの?」
 いつもとちがうってことがちょっとひっかかったのか、先生がそう聞いてきた。うん、とおれは首を下に振った。
「たまにはいーでしょ? おれ、せんせー好きだもん」
 まあ、と先生はうれしそうに笑った。それを見ると、ああ、おれって好かれてるんだなーって気持ちになる。浮かれてるかもしんないけど。でもたぶん、きらいな人から好きって言われてあんな笑顔はできないような気がする。
「でも、いいの? あんまり遅くなると、子供1人だと危ないわよ?」
「じゃーせんせー送ってくれる?」
「こーら、あんまりわがまま言わないで。先生、忙しいんだから」
 やっぱりだめだった。実際、先生が帰り道でいっしょだとうれしいのに。いそがしいのはしょうがないけど。おれはわざとしょんぼりしてみた。
「ごめんね? 本当は桜井君の言うことなら先生、聞いてあげたいんだけど」
 そういう声はちょっともうしわけなさそうな感じだった――て、これって悪いのはどう考えてもおれなのに。わがまま言ってるってわかってなかったわけじゃない。むしろわざと言ったりした。先生がどういう風になるかなーと思って。
「ううん。せんせー、あやまらなくてもー。おれこそごめんなさい」
 頭を下げた。ちゃんと考えて、自分が悪いと思った時にあやまる。これって大事だなーと思う。
「うーん……可愛いわねぇ……」
 変な声が飛んできた。なんだかぼんやりしてるっぽく。頭を上げて先生を見ると、先生のうっとりした目とおれの目が合った。ちょっとぎくりとした。その「ぎくり」に気がついたのか、先生ははっとしたような顔をして、それからちょっとあわてた。
「え、えっと。なんでもないわよ? なんでもないからっ」
「えー。なんでもなくないよせんせー」
 たぶん、じとーっとした目つきになっていた。その目でおれは、変にあわてる先生をながめた――急におかしくなってきて、思わずおれは笑い出してしまった。
「あは、あはははっ」
「なんなの? 笑わないでよ、もう!」
「ご、ごめんなさ……でも、だってー。おもしろいんだもー!」
 先生はよけいに恥ずかしそうにしているのでまたあやまったけど、でも本音も隠せない。おれは笑えるだけ笑った。そしたら、先生もやれやれって感じでため息をついてから、ゆるく笑った。
「意地悪ねえ、もう。大人をからかうものじゃないわよ」
「からかってるなんてー。先に変だったのはせんせーでしょ」
 そうなんだけど、と先生は笑顔のまま息をもらした。
「さ、もう遅いわ。暗くならないうちに帰りなさい。迎えてくれる人がいるんでしょう?」
 やさしくそう言われ、すごくふわっとした、あったかい気持ちになった。たしかに、今のおれには家に帰ったらむかえてくれる人がいる。ひとりじゃない。
「うん。……せんせー、今日もありがとうございましたー」
「どういたしまして。気をつけて帰るのよ?」
 もう1回先生が笑った。少しだけ、まっすぐそれを見つめてから、おれは頭を下げて、保健室を出ていった。











 ******











「あ、このマンションなんだ」
 ついてきていた宮月が、何気なしにつぶやいた。
「……そういえば、宮月って家どこなの」
「あたしはこの道もうちょっと先行ったところ。なんだ、そんなに離れてなかったんだ」
 そう言って彼女は笑った。普通に嬉しそうだ。
 そうやって会話をしながら、エレベーターに乗るなどして僕の家に近づいていく。3階だから、時間はそんなにかからない。ていうかこう言ってる間にもうドアは目の前。
 誰もいないはずなので、鍵を差して回す。カチャっと鍵が開く音。そしてドアが開く。
「何もないけど、ね」
 言いつつ先に中に入って、続いて宮月を招き入れた。妙にへこへこしたような格好で彼女は続いた。とりあえず、自分の部屋のドアだけ開けて、鞄を放り出してまた閉める。人連れてきてるし、着替えるのも面倒だった。どうせ半袖カッターシャツだし。
 と、リビングでくつろごうかと思ったのに、宮月はついてこないで、勝手に僕の部屋のドアを開けて中に入ってしまった。
「って、何やってんの、ちょっと待てって!」
「えー、だって興味あるしー。ていうか先着替えたらー? 嫌なら見ないからー」
 聞く耳持たずっぽい。着替えるの面倒だと思ったんだけど、よりによって宮月に促されたというのがあるせいで、なんだかそうせざるを得ないような気分になった。
 結局、家着に着替える。制服のままでもいいとは思ったものの、やっぱりそっちよりも家着のほうが動きやすくていい感じ。そういう服をこっちで選んでるんだから、当たり前だけど。
 と、宮月は僕の家着姿を見ると、また興味がありそうな感じでふうんと鼻を鳴らした。
「漂くん、暗い系の色が好きなのねー」
「暗い系?」
「だってそうでしょ? 上が紺色で下が黒いもん。黒なんて夏大変なのにねー」
 指摘されて、改めて見つめなおしてみると、確かにそういう色合いの服だった。別に意識したつもりはないけれど――無意識でこういう色が好きなんだろうか、僕は。
「……あんまり考えたことなかった」
「そうなの? けど、散らかってる服にもそういう色多いし……片付け、しないの?」
「……面倒だし。今片付けたら、何がどこにあるかわかんなくなりそうだし」
 確かに僕の部屋というのは散らかっている。が、それほどひどい状態じゃないと自分では思う。足の踏み場がないわけじゃない。もっと言うなら、床に寝転がれるスペースがないとかいう状態でもない。
「おうちゃくものー」
「いいだろ別に。不自由はしてない」
「そういう問題じゃないのー。人連れてくるんだったら片付けときなよー」
「無理言うな、急な話だったんだから」
「来客なんていつ来るかわからないよー?」
「嘘だ。来客とかだったら事前に連絡とかあるだろ。ていうか客かよ」
「そーよ。丁重におもてなしなさーい」
 そう言って妙に威張った態度を取る。けれど図々しいのかっていうとそうでもない。本当にそうしろというよりは、単なるノリってやつのほうが意味合い強いから。多分――昨日会って、今日こうして。顔を合わせている時間はまだ全然多くないのに、可笑しくて笑えてしまうくらい、僕らは打ち解けていた。
 とりあえずは「おもてなし」とやらをしてやろうと思って、一旦部屋を出た。冷蔵庫をあさって、2リットルペットボトルのオレンジジュースを出してきて、2人分のコップに注いで持っていく。
「オレンジジュースって好きなの?」
「とりあえず、よく飲んだりはする」
「って、なんでまたそう遠まわしなの?」
「食べ物飲み物で好き嫌いってあんまりないから」
 ふうん、と鼻を鳴らしながら宮月はオレンジジュースを一口こくんと飲んだ。よく冷えていたのが良かったか、すっきりした顔を覗かせた。
「好き嫌いないんだ? いいなー。あたし、辛いのがちょっとダメなのよねー」
「辛いの? わさびとか?」
「あ、うん、それなんかもうすっごいダメ。舌が痛くてたまんないの。だからお寿司はわさび抜き」
「あんまり感じないけどな……普通にわさび入りのお寿司とか食べるし」
「……味覚障害なんじゃないの? それって」
「そんなことない。別に感じないわけじゃないし。辛いの甘いの苦いのすっぱいの。でも結局、それでもおいしいものはおいしいし。あんまり不味いって感じるもの食べたことない」
「……いーなー。それって、食にはすごく恵まれてるってこと?」
「そうかもね。……姉さんの料理、すごくおいしいから」
「え、お姉さんが……作ってるんだ? ……親の人は?」
「ここにはいない。父さんも母さんも遠くで働いてる。お金は銀行振り込みで入ってくるけどね」
「……そうなんだ……」
 と、そこでなんだか空気がしんみりした。オレンジジュースを飲みかけのまま横に置いて、宮月はやや顔をうつむかせていた。
「……、そっちは、どうなの?」
 本当は今聞いてはいけないのかもしれない。けれど、自分の事情を話したからか、気になってしまった。幸い、宮月は特に拒絶を示すようなこともなく、口を開いてくれた。
「……うちはね、中学の時に両親が離婚して。今は母さんと2人暮らし、なんだけどね。母さん、生活費稼ぐために仕事してて、遅くまで帰ってこないから」
「……そうなんだ。……寂しいの?」
 家に帰っても誰もいないって言って、僕と一緒にいることを求めたこの少女は、やっぱり寂しいのだろうかと考える。
 答えるかわりに、宮月はゆっくりと僕に寄り添ってきた。体が触れる。何も考えず、僕は右手だけで彼女をゆるく抱き寄せた。



 そのまま僕も宮月も、何も言わなくなり、時が止まったかのような錯覚に陥った。その錯覚は、ほんの少ししか続かなかったけど――というのも。



 抱き合ってからほんの少しして、いきなり玄関のドアが思い切りよく開閉される音がして。






「たーだーいーまーっ」






 響いてきたのは、浩都の声だった。迎えにいかなきゃ、と言って宮月を離し、玄関に向かう。宮月はやっぱりついてくる。
「遅かったじゃないか。何やってたの」
「んーん、ちょっとおそくまで学校いたー」
 そう言って浩都は満足そうににへらーっと笑う。こっちまでつられて笑ってしまいそうな、かわいい笑顔ってやつだろうか。



 しかし、その笑顔はすぐに消えた。というか、浩都の顔がすぐさま怪訝そうなものに変わったのだ。その視線の先は僕じゃなかった――宮月に向けられているようだ。



「ねー、漂にーちゃん」



「どうした?」






「そこのこわい顔したおねーちゃん、だれ?」






 浩都の指摘にハッとして宮月のほうを見ると――確かに彼女は怖い顔、というか、なんとなくではあるが浩都のことを嫌がっているような顔で、うろんげな視線で浩都を睨んでいた。










 後で意味を考えれば、こういう形での邂逅は、当たり前のことだったのだ。
 それを知るのはすべてが終わってから。





 すなわちこの時の僕は宮月と浩都の間のことなど、知る由もなかったのだった。













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