雨に降られると、基本的には困る。
その一番の理由としては、大抵、傘でかばいきれない部分、ズボンの裾とかが濡れるのが困る。
雨水の染みた衣服は、肌に直接貼りついてきて、これが結構気持ち悪い。
しかも帰りだけなら家で脱げるからまだいいけれど、朝から雨模様だと、登校する間に服は濡れ、しかも自然乾燥待ちだから、その気持ち悪い感覚を持ったまま授業とかに臨むことになる。
そうそう。雨に降られると、屋上が使えなくなる。これも僕にとっては困る話。
屋上は時間つぶしには結構気に入った場所だけど、雨の影響を思いっきり受ける場所だから。
別に雨に濡れてまで屋上でのんびり過ごしたいなんて、僕はこれっぽっちも思わない。体にも悪いし。
……そう、雨に濡れると体に悪いんだ。
体が冷えて、そのおかげで体温上がって熱出すし。風邪引くし。
ひどいときは肺炎こじらせて死ぬことだってある。
なのに。
知らなかったのか、知っていてあえてそうしていたのか。やつの様子からすると後者だったんだろう。
その日は雨が降っていた。僕はその中を、普通に傘をさして下校してる途中だった。
その中で、そいつを見た。
通り道の公園の中で、傘もささずに、ぼんやりと雨雲を見上げている子供。
短めのつんつん頭で、雨に濡れても逆立ち状態のままあまり変化していない。
様子からして、何を考えてそうしているのか、さっぱり読めない子供。
昨日、そんな子供は見かけただろうか。あるいはおととい見かけただろうか。
記憶をたぐってみたが、思い浮かばない。以前にそんな子供がいたのを見た覚えはなかった。
けど、なんにせよ、放っておくわけにはいかなかった。子供が雨ざらしでいいわけがない。
むしろ子供は病気に対する抵抗力が弱いから、なおさらだ。
「どうしたの?」
近づきながら、声をかけてみる――子供は反応しなかった。
聞こえなかったのか、表情を変えずに雨雲を見上げている。
目ごと雨に打たれて、やたらとまばたきをする顔――無愛想なイメージの顔。
声をかけて反応がなかったので、今度は肩を軽く叩いてみた。
すると微動だにしない様子から一転、子供は慌ててこっちを振り向いた。
「な、なんだよあんた……っ」
「それ、こっちの台詞。なんでこんなとこ突っ立ってるの。風邪引くぞ」
――言いながら、なんだよという言葉に対して考えてみる。多分、この構図って僕の方が怪しいのかな、などとくだらないことを。
子供は慌てた様子をひそめ、また表情のない顔でうつむいた。
「……別に。にーちゃんに関係ないだろ」
「そうだけどね……だからって、君みたいなのは放っておけないね」
今時こういうことを言う人間というのは、珍しい部類に入るんだろうか。けれど単純に、その子供にはいろいろとひっかかるところがある。この子供は困ってないつもりなんだろうけど、平気で雨に濡れてる、なんてのがそもそもおかしい。ランドセルだって背負ってるし、傘も買えないほど貧乏な風には見えない。
「……なんだよ。いい人ぶって」
疑われた。この子供の中では、人間というのは『いい人』じゃないやつの方が多いらしい。僕は溜息をついて、言った。
「どう思おうと勝手だけどね……君を放っておくのは気分が悪いんだよ。個人的に」
「そんなのおれの知ったことじゃないもん」
むっとした様子で言い返してきたが、構わず僕はその子供の手を取った。
「っわ! な、なにすんだよ、はなせー!!」
子供はわめいて手を振り回したが、僕は子供の右手首に力を込めて離さなかった。
明らかな誘拐シーン。とりあえず人に見られなくて済んだのは幸運だっただろうか。
そのまま、うちのマンションまで子供を連れてくる。
それまで腕を振り回していた子供は、僕がマンションに向かうとわかると、大人しくマンションを見上げていた。
「……ここ、にーちゃんの家?」
「そう。ここの3階の315号室」
「なんだー。おれんち、ここの8階だよ」
苦笑した。引っ張ってこなくても、行き先は同じだったってことだ。もっとも、引きずりでもしなきゃ、一緒に帰るなんてことはなかっただろうけど。
「……名前、なんて言うの? ……あ、僕は咲良漂(さくら ひょう)って言うんだけど」
「さくら……あ、1コすくなーい。おれ、桜井浩都(さくらい こうと)ってゆーの」
またそれまでの嫌がりっぷりとは一転、笑顔さえ見せながら子供は答えた。表情のよく変わる子供。基本的には明るそうな子供――そんな子供が、なぜ自分から雨ざらしになっていたのだろう。
「……そういや、なんでこんな日にあんなとこにいたんだよ。親、心配するんじゃないの」
浩都は表情を曇らせた。それから、ぼそりと言った。
「……おれ、かーちゃんもとーちゃんも家いないもん」
子供の口から聞くにはあまりに重い言葉。嫌な感じに間が空いた。
「……いない、って……どういうこと?」
「……そのまんまだよ。家にいないの。かーちゃん死んじゃったし、とーちゃんは忙しいし」
しょんぼりしてはいるが、それでもすらっとそんなことを言う。ますます放っておけない感じがした。
「……悪いけど、うちで話聞かせてもらえないかな」
家に帰っても誰もいないのなら、うちで預かった方がいいだろう。浩都の体も温めてやらないといけない。
それまでの拒絶の様子が嘘みたいなおとなしさで、浩都は小さく頷いた。
ドアを開ける。家の廊下は暗い。夕方は、うちにはまだ誰もいないから、当たり前だけど。
「……にーちゃんちも誰もいないの?」
「どっちの親も単身赴任でね。てか、話は後。風呂沸かすから……体拭きなよ」
そう言って洗面所に向かう。浩都はランドセルをしょったまま後をついてくる。
先に浩都にバスタオルを渡してやってから、風呂の中にお湯を張る――スイッチ1つで全自動。うちのマンションには完備されている。親の収入だけは多いから、マンションと言ってもうちは結構広い。普段、姉さんと2人で住むにはちょっと広すぎるくらいだった。狭いよりはいいけど。
浴室から戻って、無造作に全身をぐしゃぐしゃと拭いている浩都を横目に、かたわらに下ろされたランドセルの中を覗いてみる。
「……あーあ。中身も濡れて……明日も学校だろ。どーすんだよ」
「別に、乾かしたら使えるからいい。ノートだって新しいの買えば済むもん」
そっけない答えだった。が、少し引っかかる。
「……お父さんしかいないんだろ。あんまり無駄遣いするもんじゃない」
「うっさいなー。あんたに関係ないじゃん、そんなこと。世話してくれたってなんも出ないよ」
つっけんどん。だけど口でそういうことを言う子供っていうのは、本人の言葉とは裏腹に、放っておけないものがある。
「……もう少し自分のこと大事にしなよ。多分、そっちがどうにかなったら、少なくとも僕は気分悪い」
知り合ってまだ1時間と経っていないけれど。浩都は露骨に嫌そうな顔をした。
「変なの。おれとにーちゃん、他人じゃん。なんでそんなに気にすんの?」
なんでと言われても、特にちゃんとした理由というのはない。
「別に。何かの縁ってことでもいいと思うけど。どうせ同じマンションなんだし」
そう言ったところで、お湯張り完了を知らせる音がピーピーと響いた。
浩都はバスタオルを適当に放り投げ、さっさと浴室の方に入ってしまった。
口ではああだこうだと疑りながらも、しっかり世話になる気満々らしい。さっそくシャワーの音が聞こえてきた――なんとなく、長い付き合いになりそうな気がした。
姉さんが帰ってきたのは、浩都が風呂に入った少し後だった。僕があいつの着替えを用意してやってる最中だった。
「誰か、来てるの?」
廊下で声をかけられた。頷く。
「雨の中でぼーっと立ってた子供いたから、連れてきた」
普通だったらここで怪訝な顔をされるのかもしれない。けれど姉さんはふうんと頷いただけだ。
「どこの子?」
「ここのマンションの8階の、桜井ってとこだってさ」
「知らないわね……でも、それだけ近所なら大丈夫かしらね。面倒はしっかり見てあげなさいよ?」
それくらいわかってる。言い方悪いけど、自分で拾ってきたんだから。僕は頷いた。
「お買い物行ってくるわね。今夜は3人分でいいわね?」
当たり前のように姉さんは言う。僕はもう1回頷いた。
それでこっちでは話がついてしまった。あとはあっち側――浩都の父親に話を通してみるだけだ。
けど、いつ家に帰ってくるのかわからない。浩都に確認取ってみないと、わからない――あいつが風呂から上がってくるまで、わからない。
浩都の着替えを用意してから、僕はすることがなくなった。買い物袋をさげた姉さんの後ろ姿を見送ってから、僕は自分の部屋で寝転んだ。
待っている間、いろいろと考えごとをしてみる。
なぜ浩都は雨の中で突っ立っていたんだろう――特に意味があるようには思えない。
なんとなく思うのは、浩都本人はあまり自分を大事にしていないみたいだった――母親が死んでしまって、父親も遅くまで帰ってこないと言った。
自分は親に大事にされていないと思ってるんだろうか。そういう風に僕には見える。そして1度そう見えてしまうと、全部が全部とは言わないまでも、昔の自分を見ているみたいになる。自分を大事にしていなさそうなところが、特に。
浩都の歳よりもっと前くらいの頃、僕はいじめに遭っていた。手足を押さえつけられ、顔とか腹とか背中とか、いろんなところを殴られた。サンドバッグみたいに――今も、結構いろんなところにそのあざは残っている。そんなのが毎日続いていて、しかも姉さん以外に誰も助けてくれなくて。姉さんは姉さんで、僕がらみのことで嫌なことがいろいろあった。
誰かの玩具だったりして、姉さんにとって負担でしかなくて。そんな自分なんかいらない、消えてしまいたいと思ってた時期があった――そんな思いをする人間は、僕の周りには僕以外にいてほしくない。多分、そう思うのは傲慢なことかもしれないけれど。
浴室の戸が開く音が聞こえた。浩都が上がってきたんだろうか。
様子を見に行ってみると、浩都はバスタオルをぐしゃぐしゃと使い、頭を拭いているところだった。
「湯加減、どうだった? 熱くなかった?」
訊いてみてから、浩都が入る前に確かめとけばよかったなと思った。湯加減。しかし浩都はにかっと笑って言う。
「うん、ちょーどよかったー」
少しほっとした。全自動とはいえ、いつもは姉さんがやることだったから。僕がお湯を入れるなんてめったにないことだ。
「今、姉さんが買い物行ってるから。そっちの分もあるから、食べていきなよ」
と言うと、浩都は目を丸くして驚いた。
「なんで? なんかにーちゃん、優しすぎてこわいよ」
「別に何しようってわけじゃないし。……どうせ家に帰ったってろくなもん食べないだろ」
ちょっとためらった。浩都の家庭状況を突っつくような言葉。
「……ほっといてよ。どーせたしかにインスタントラーメンだけどさ」
「そんなのより姉さんの料理の方が百倍ぐらい美味しいから。悪いこと言わないから、食べていきなって」
今度は怪訝そうな視線が返ってきた――何か変なこと言ったっけ。そう思ったすぐ後に浩都が言う。
「……百倍って。いまどきそんな表現なんか普通しないよ」
「嘘は言ってない」
「早っ……てか、にーちゃんって、その、おねーちゃんのこと好きなの?」
「当たり前のこと訊くな」
「また早っ。……んー、そこまで言うんだったら食べてくー。インスタント飽きてたしー」
こっちの誘いには頷いてくれたものの、別の意味で怪訝な視線を向けられた――何か、おかしなこと言ったっけ。僕は。
「ただいまー」
玄関のドアの音。その後に姉さんのおっとりした声。先に浩都が飛び出していった。どたどたと――結構うるさい。
「こんにちはー!」
やけに元気の良い挨拶。姉さんのおっとりとした返事が聞こえる。
「ええと……お名前、なんて言うの?」
「さくらいこーとって言います! おねーちゃん、よろしくー!」
……元気良すぎ。一目見て気に入ってしまったのかもしれない。
「浩都くんね。よろしく。もうちょっと待っててね、今から作るから」
浩都ににっこり微笑みかけてから、姉さんは袋を下げて台所に向かっていった。浩都がそれを追いかけながら言う。
「なに作るのー?」
「今日はお客様がいるから、オムライスにしようと思って。一番自信あるから、期待してくれていいわよ?」
姉さんが言った。すると浩都の大はしゃぎする声が家の中に響く――なんだか僕のときと全然態度が違う。姉さんには甘え倒す気か。現金なやつ。
浩都の様子が気になるので、晩ご飯ができるまで、僕もリビングで待つことにした。
卵の焼ける音がよく聞こえる。良い感じに匂いも漂う。
浩都はソファの背にあごを乗せ、足をばたつかせながら待っている。ものすごく楽しみにしているのがよくわかる。
で、姉さんはなんだか今日は気合が入っているっていうか――オムライスは姉さんが一番得意な料理で、味も絶品だったりする。店のオムライスが食べられなくなるくらい。でも、姉さんをその気にさせたのは浩都だった。僕じゃなくて――別にそれはそれでいいと思いたいのに、なんだかやけにもやもやする。ていうかいらいら。
「……にーちゃん、なんでそんなこわい顔してんの」
いつの間にか浩都が動きを止めてこっちを見ていた。また怪訝そうな視線。愛想の悪い視線。
「……なんでもない」
「なんでもないのになんでこわい顔なのー。それともそれがふつー?」
突っ込まれても困る。だいたい自分が怖い顔をしてるっていう自覚がなかったのに。今。
「できたわよー」
言いながら、姉さんはすでに3人分のご飯を並べ始めている。大きなオムライスと野菜サラダと味噌汁。セットで3人分。
浩都は表情を輝かせてはしゃぎながら食卓のいすに駆けこんだ。そして元気な声で言う。
「いっただっきまーっす!」
――食べる前から美味しそうにしている。素早い手でケチャップを取ってオムライスにかける。ソースも同じく。で、いざ食べ始めると――味わってるのかどうか疑わしい早さで、浩都は目の前の食事を掻き込んでいってる。表情だけはやたらと美味しそうだけど。
ちらと見て、やんわりと笑みを浮かべた後、姉さんが言う。
「そういえば……親のかたには連絡しなきゃいけないわよね」
――忘れてた。風呂から上がったら聞こうと思ってたのに。父親は夜中遅い浩都が言っていたせいか、スルーしていた。
浩都はいったん食べる手を止めて、顔を上げて言う――ケチャップとソースと卵と油で、口の周りが汚いことになってる。
「今は別にいーよー。うちのとーちゃん、夜遅くになんないと帰ってこないもん」
「……お父さん、携帯持ってないの?」
訊ねると、浩都は首を横に振ってから、言葉を続けた。
「持ってたと思うけど、ケータイは仕事用だからかけるなって言われてるー」
「そう……じゃあ、いきなりうちからかけたら大変なことになるかしらね」
「んーとねー。だいたいの時間になったらおれが電話するー。電話貸してねー」
そうするのが一番確実だろうか。姉さんは苦笑しつつも頷いた。僕も頷いた。
僕らが納得したのを見ると、浩都は再びご飯を掻きこみはじめた――もっと落ち着いて食べればいいのにと思ったけれど、表情がいきいきしていたので突っ込む気になれなかった。
浩都はどう思っているか知らないけど、のんびり食べていると、オムライスは相変わらず美味しかった。
実際に浩都が電話をかけたのは、夜中の11時ごろだった――何回か訊いてみたが首を振り、11時になると自発的に電話に行った。
「もしもしー? とーちゃん?」
電話が繋がったらしい。声が聞こえる。邪魔しちゃいけないと思い、僕は今、自分の部屋にいる。なので浩都の声しか聞こえない。
「あ、えっとー。今さくらさんちー。同じマンションの3階のー。お世話になってんのー」
話す調子は妙に軽く、姉さんといたときより淡白な感じだった。
「うん、あのねー、今日こっち泊まるー……え、明日の時間割? あー、じゃあいったん戻るー……けど、持ち込んでいーい?」
持ち込み。小学校で使う教科書類とか、全部だろうか。今から。……泊めるのに問題はないし、浩都の父親にも会っておきたい。僕も手伝った方が良さそうだ。
「え、代わってほしーの? ちょっと待ってー」
そんな言葉が聞こえてきたところで、僕は腰を浮かした。浩都は続けて言った。
「観沙ねーちゃーん、とーちゃんが代わってほしーってー」
「え? はーい」
………………。先に姉さんかよ。僕は半端に腰を浮かせた状態のまま、固まってしまった。
「はい、お電話代わりました……あ、はい、私は咲良観沙と言いますが……はい……」
姉さんが応じている――大人の口調だ、とどうでもいいことを考える。
「申し訳ありませんが……保護したっていうのはうちの弟なんです。詳しい話は弟が知っていると思いますので、代わりますね」
姉さんの応対は短かった。今度こそと、僕は自分の部屋を出て電話に向かった。
「あ、漂。悪いけど説明お願いね」
わかってる。浩都を拾ったのは僕なのだ。受話器を受け取る。
「もしもし、お電話代わりました」
『もしもし……息子が世話になっているようですが』
丁寧だけれど、低い声――それでも、疲れた様子が少しだけにじみ出てるような声。
「はい……雨の中でぼんやりと立ってたんで、勝手ながら保護させていただきました。あ、僕は漂と言います。先ほど電話に出た観沙の弟です」
『そうですか……ありがとうございます。私は桜井塔介(さくらい とうすけ)と申します。おわかりかと思いますが、浩都の父親です。息子から聞いたかもしれませんが、忙しい身で、構ってやれなくて……お恥ずかしい限りです』
それは塔介さんが悪いんじゃない、と思ってみたりする。
仕事があるから遅いのであって、もし誰が悪いかを決めるとするならば、そんなにも仕事を課す会社の方じゃないだろうか。
「いえ……気にしない方がいいと思います。それで……浩都くんが泊まりたいと仰っているのですが、もし良ければ、お預かりしても構わないでしょうか?」
何気なく言ってみたけど、これって結構とんでもないことかもしれない。ただ預かるんじゃない。いつまでの期間かわからないけれど、必要ならばうちで養っていくつもりだった。
少し間があってから、塔介さんの声が返ってくる。
『……お言葉に甘えましょうかね。その方が、息子にいい生活をさせてやれそうだ。こちらの都合だけで申し訳ないが』
思っていたよりあっさりと話は決まったらしい。僕は了解の返事を伝えた。
「じゃあ、そういうことで……浩都くんが教科書を取りに行きたいと仰っているので、これから伺いたいのですが」
『わかりました。夜分遅くですみません。うちは814号室です』
「はい、では今から浩都くんと一緒に伺います。よろしくお願いします」
『いえ、こちらこそ』
そうして電話を切った後、教科書類を運びやすいようにビニール袋をいくつか持って、浩都を連れて僕は家を出た。
6月になっても、夜の空気はまだ冷たかった。今日は雨が降っていたというのもあるかもしれない。
「こんばんわ」
814号室の前に、男の人が1人立っていた。夜と言えどもマンションの通路は電灯が灯っていて明るく、相手の全身もはっきりと見える。
「とーちゃん、おかえりー」
「ただいま。また遅くてごめんなあ」
駆け寄った浩都の頭を、優しい手つきで撫でている――優しそうな微笑みを浮かべているが、仕事の疲労の色が残っている顔だった。
その人――塔介さんは、見た目は結構老けている感じだった。白髪混じりの頭、しわの多い顔。それでもってちょっと痩せ気味の体。50行ってそうに見える。
浩都がまだ小学生だと言うから、実際の年齢は多分30代後半から40代後半の間くらいかなと思うけど。
「初めまして」
「いえ……息子が世話を焼かせているようで、すみません」
丁寧な敬語の後、丁寧なお辞儀――僕みたいなヤツにまで、必要以上に礼儀正しいように思えた。
「構いませんよ――ゆっくりお話したいんですけど、浩都くんにはもう遅い時間ですし」
本当は僕が寝たい。けど、それ以上に浩都をさっさと寝かせてやりたかった。
「えー、気遣わなくていーよー。おれまだ元気ー」
「こら、静かにしなって。ホントにもう遅いんだから」
「今日は彼の言うとおりにしなさい。……君が、漂くんかな?」
「あ、はい。よろしくお願いします……失礼します」
紹介もそこそこに僕が言うと、塔介さんは家の中に招き入れてくれた。
「ねえ、教科書ってどこ置いてるの?」
「おれの部屋ー。ついてきてー」
そう言って浩都は1つの部屋に入っていく。遅れて僕が中に入ったとき、浩都はもう教科書をビニール袋に入れ始めていた。
早く終わらせようと思い、僕もすぐ手伝いに入る。教科書やノートがどれだけあるのかわからないが、小学校の分だからそんなに多くないだろう。
そう思ったとおり、教科書類をまとめるのに時間はかからなかった。いちおう袋は4つ持ってきてたけど、2つで済んだ。
「僕が持つから、先帰ってな。で、今日はもう寝てて」
「わかったー」
元気のいい返事を返した後、浩都はまた元気よく走り去っていった。見送りつつ、苦笑する――ホントに元気なヤツ。
「浩都くん、いつもあんな感じなんですか?」
訊ねてみると、塔介さんは苦笑を浮かべた。
「すみませんね……自分の息子のことなのに、わからないんですよ。しかし、君が言っていた話は気になりますが、元気そうなので、少し安心しました」
確かに。わりと元気。でも健康状態がいいとは言えないだろうから、今後、その辺はしっかりさせてやんなきゃならない。
「あ、何かあったらお電話お願いします……すみません、紙とペン、ないですか」
そう言うと、塔介さんはすぐに持ってきてくれた。そこにうちの電話番号をメモして、塔介さんに渡す。
「ありがとうございます……ろくにお礼ができないのがつらいところですが」
「いえ……気にしなくても結構です。それじゃ、失礼しました。おやすみなさい」
塔介さんにそう挨拶してお辞儀をした。すると向こうはまた丁寧なお辞儀を返してきた――なんだかむずがゆい。そういうことをされるような人間じゃないと、自分では思っているだけに。
その後塔介さんと別れ、僕は家に戻った。
「ごめんなさいね、狭いところで」
「んーん。ねーちゃんとくっつけるからいーの!」
家に戻るなり、姉さんの部屋からそんな会話が聞こえてきた――先に帰すんじゃなかった、と軽く後悔した。
浩都を引きずり出したい気分になったが、時間が時間なのでそれもためらわれた。
うんざりしながら僕は自分の部屋に戻り、とりあえず浩都の教科書を邪魔にならないような場所に置いた。その後はさっさとパジャマに着替え、布団を被る。壁2枚と布団を隔ててもなお、姉さんと浩都の会話が聞こえてくる。なんだか、姉さんを取られたみたいな感じで、憂鬱な気分だった。なので、さっさと眠って何も感じないようになりたかった。
実際に少し疲れていたのもあって、この日の僕はあっさり眠り込んだ。
だから結局この日、実際に浩都が何時に寝たのかはわからなかった――小学生のうちから夜更かし慣れしてるのはよくないだろう、とも思った。
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