翌日になる前に、1つ、夢を見た。その中の光景は、今までに見たことのないものだった。
周りが全部真っ白で、僕の体以外何もない。はじめはこれが夢じゃなくて、眠りの中のまどろみだと思っていたくらいだ。
ぼんやりと、僕は突っ立っていた。
真っ白すぎて右も左も上も下もわからなかったけれど、それでも僕は立っていた。
どうやら、足の下は地面らしい。
周囲を見渡した末に見つけたのか。
それともそのまぼうっと前を見ていたのか。
さらには夢に入り込んでからどれくらい時間が経ったのか。
何もかもがわからなかったけれど。
そんな中、何もなかったはずの真っ白い空間の中で、僕は誰かの姿を見つけていた。
はっきり見えない。おぼろげでしかないイメージ。
だけどもなぜか、そのイメージは女の子だと確信する。
それも、まっすぐに僕を見つめながら、穏やかに微笑んでいる女の子だと。
なぜか、そんな情報が僕の頭の中に刻み付けられていた。
その女の子の後ろに隠れつつ様子をうかがうようにして、子供が1人、顔を覗かせた。
なぜか、そっちも誰だかすぐにわかった――昨日拾った子供。浩都だった。
なぜ、僕にとって誰だかわからない少女の後ろから顔を出すのか。そもそも少女は何者なのか。
どうして、僕がこんな夢を見るのか。
疑問ばかりが僕を満たし、問おうとした時。浩都を後ろに隠した少女が、何かをつぶやいた。
その日の朝は、はっきりとした目覚めに後から気がついた、そんな感じだった。
視線の先には白い天井と、明かりの点いていない輪っか状の蛍光灯。右手をのろのろと高く掲げると、白色しかなかった視界に自分の右手が加わる。ああ、目覚めているんだなという実感をようやく手に入れる。
けれど、まだ体を起こす気にはなれなかった。なぜか、頭がきんきんと痛む。何かが響くような。この痛みがもっとひどくなれば、頭が割れるんじゃないかと思わされるような。
何がおかしかったのか。少なくとも昨日は、こんな頭痛を感じるような不衛生なことをした覚えは無い。むしろそれで言うなら、雨ざらしになっていた浩都のほうが心配だ――と思っていたら。
「漂にーちゃん、起っきろー!!」
乱暴に開けられたドアの音と、子供特有の甲高い声が飛んできた。心配の必要もなく元気らしい。
「……起きてる……ちょっと待って……」
頭痛が治まってくれないので、そう返事した。どうしようもなくぐったりした声だと自分でもわかる――突然、お腹に重いものがどしっと乗っかった。苦しくて咳き込む。
「あーさーだーよー、起ーきーれーっ!!」
「ゲホッゲホッ、わ、わかったから、どいて……ッ!!」
浩都が僕のお腹に飛び乗ってきたらしい。小学5年生のボディプレスははっきり言って殺人級だ、とちょっと思った。ただでさえ頭が痛いのにと言いたかったが、なんでと返されると話がややこしくなりそうだったので、何でもないふりをして体を起こした。一瞬頭痛が強まったけど、それも無かったことにした。
「朝ごはんできてるよー。早くしないと冷めちゃうからねー」
きっぱりとそう言って、小走りで浩都はいなくなった。人んちなのに遠慮の無いやつ。それはいいことなんだけど。
頭痛は知らん顔して残っていたけれど、とりあえずはいつもと少し違う朝を迎えよう。
******
朝ごはんがすごくおいしかった。今までなんて食パン1枚だけだったのに、こっちの家だとチーズとベーコン乗せて焼いたやつに目玉焼き1コまるっと乗せたパンが出る。しかも野菜サラダと牛乳つき、よゆうがあったらヨーグルトも。漂にーちゃん、毎日こんな朝ごはん食ってたのかな。そう思うとすごくうらやましい。もっと言うと、漂にーちゃんは弁当つきだからよけいうらやましい。おれは給食だから。
食べたらちゃんと歯磨きしてねと観沙ねーちゃんが言った。実はどきっとした。全然じゃないけど、今までは寝る前くらいしか歯磨きなんてやってなかったから。しかも歯磨き粉使わないでてきとーに――ここの生活は、健康にはものすごくいいみたいな感じがした。
拾われてからまだ1日も経ってないのに、ここの生活はものすごく居心地いいなと思った。そう思えば思うほど、逆に学校には行きたくないなとも思ったりする。けど、漂にーちゃんも観沙ねーちゃんも学校に行くっていうから、そしたらこの家もうちみたいに誰もいなくなるし、おれだけ学校行かないなんてのもムリだった。
きっちり朝ごはん食べて、きっちり歯磨きして、きっちり顔洗って。それからランドセル背負ったら。
「いってきまーっす!」
母ちゃんが生きてた時からすごく久しぶりに、おれは声を出して言った。観沙ねーちゃんはあいそよく、漂にーちゃんはそっけなくだけど、「いってらっしゃい」って返してくれた――うれしかった。
そんな感じで、家は変わった。でも、学校は変わんなかった。
おれが教室に入ったら「変なやつが来た」みたいな目で見られるし、廊下歩いてても向かいから歩いてくるやつはおれをよけて通るし、体育の時間にサッカーやってもおれにボール回ってこないし、教室のそうじだと同じ班のやつはおれに押しつけて逃げるし。
同い年で話し相手になってくれるひとがいないから、学校っておもしろくない。先生が怒ってくれる時もあるけど、しばらくすると元に戻っちゃってて、意味がない。
ふつうの先生は相談相手にはなってくれるけど、話し相手っていう感じじゃない。学校でおれの話し相手になってくれるひとっていうのは、1人しかいなかった。
「みーやーつーきーせーんーせーっ」
ひまがあったら、おれは保健室に行く。今まではそこの先生とだけ、くだらないお話なんかができたりした。ちなみにこの人、名前を宮月麻耶(みやつき まや)っていう。
「あら、桜井君。今日もいらっしゃい」
おれが顔を出しても、いやな顔しないで笑いかけてくれる。笑った顔がすごく好き。
「せんせー、昨日なんでいなかったの?」
「ごめんね、出張だったのよ。寂しい思いさせちゃったかしら?」
「んー……さびしかったけどー。あ、でもねー。昨日、変なひといたー」
変な人と言ったあたりで先生、顔がちょっと怖くなった。心配してくれてる。ちょっとうれしい、でもごめんなさい。
「変な人? それで、桜井君はそこでどうしたの?」
「ううん、どうもしなかったー。話聞いたら、同じマンションの人だったからー」
「え、お話、したの? ……その後は?」
「そのままその人の家連れてってもらって、お風呂入れてもらったりごはんもらったり、いっしょに寝たりしたー。楽しかった!」
「まあ……」
先生はけっこうびっくりしたらしい。目をぱちぱちさせていた。
「せんせー?」
「あ……ごめんなさいね。先生、びっくりしちゃった」
「やっぱり?」
「桜井君、知らない人にはついていっちゃ駄目って、言われなかったの?」
「……ごめんなさい。あ、でもねでもね!」
たしかに知らない人だったけど、昨日話してて思ったのは、漂にーちゃんも観沙ねーちゃんも、たぶん底抜けにいいひとだから大丈夫だということ。それを言うと、先生はちょっとためいきをついてから、ゆるく笑った。
「桜井君がそこまで言うんなら、心配いらないかしらね? ……ところで、その漂君って、どこの高校の子?」
いきなり聞かれた。どこの高校って言われても、その高校の名前なんか聞いてない。
「えーっと……マンションからここ来るのと逆の道のほうって言ってた」
「あら……ということは私立川城(かわしろ)かしら? 奇遇ねぇ」
「きぐう? なんで?」
「娘もそこの高校に通ってるのよ。ひょっとしたら知り合いかもしれないわね?」
今度はおれがびっくりした。今このひと、娘って言った。
「……せんせー、子供いたんだ?」
こういう話ってしたことなかったから、初耳だったり。先生の家の話って、そういえば聞いたことがない。
「意外かしら? 旦那とは別れちゃったけどね、子供は預かってるのよ」
……なんだかこういう話って、たいてい、ミニクイだとかドロドロだとかアイゾウゲキだとか、そういうやつなんだっけ。
「なんで別れちゃったの?」
「旦那の言葉が我慢ならなかったのよ。子供のことを気味が悪いとかうっとうしいとか言いだしてね。せっかくの私とあの人の子供なのに、どうしてそんなことが言えるのかしら」
そう話す先生の顔は元気がなかった。やっぱり聞かないほうがよかったのかも。
「……ごめんなさい」
「桜井君が謝ることじゃないわよ。むしろ、こんな話を桜井君に聞かせるものじゃないわね」
先生は笑った。でもそれは最初とちがってちょっと無理してるっぽかった。聞いたのはおれなのに。
なんだかそうしなきゃいけない気がしたので、おれは先生のほうに体をくっつけた。先生の体は、やわらかくてあったかかった。
「……ありがとうね、いつも」
先生はそう言って、おれをゆっくりと抱きしめてくれた。あったかさが、すごく近くなった。
******
前日のじめじめした雨模様が嘘だったみたいに、今日は晴れ空が広がっていた。雲は多かったけれど、今日中は雨が降ることは無いだろう。
だけど空が晴れていても、それとは別に心は曇り気味だった。困ったことに、朝からの頭痛がずっと続いている。何とか授業のほうはきっちり受けられたし、教師陣に指摘されることも無かったものの、明らかに何かがおかしかった。
仕方がないので放課後、高校生になって初めて保健室に顔を出した。
「失礼します」
ノックの後、向こうに聞こえるようになるべく大きな声でそう言ってから、引き戸を左に引く。声を出したところで、また頭がきぃんと痛んだ。どうにかなるのかどうか。
「いらっしゃい。初顔だね、あんた」
そんな声に出迎えられた。視界の正面に、恰幅が良い感じのおばさんが座ってる姿があった。本当にいかにもおばさん風の雰囲気だったけど、白衣は似合っている。
「どうしたんだい。まあ、そこ座りなさい」
おばさんは向かいの椅子を指し示した。言われたとおりにそこに腰を下ろし、おばさんと向き合う。
「……ちょっと、朝から頭痛がするんです。きんきんと痛むような感じで」
「なんだ、あんたもかい」
どことなく呆れたような口調ながら、あまりに素早くそんな切り返しをされたので、僕は面食らう羽目になった。それを見たのか、おばさんは苦笑してから言葉を続けた。
「あんたの前にも、おんなじように頭痛を訴えてきた子がいるんだよ。今、そこで寝てるけどね」
おばさんが指し示した先に、確かにベッドの上で寝てる女の子の背中があった。熟睡しているようで、僕らの話し声には気づいていない。
「……あんたもかって言われても、偶然だとしか言いようがないですけど」
「まあ、そうだろうねえ。で、言ったとおりだと偏頭痛だね。他に悪いところは? それと、心当たりはないかい?」
くつくつと笑いながらおばさんは訊ねてきた。あまりいい気分もしなかったけど、笑っていることには突っ込まないようにして、僕は質問に答える。
「熱とか咳とかは無いです。あと、心当たりも無いです」
心当たりについては無いとは言うものの、それは自覚として無いだけで、つまり原因に僕が気づいてないだけなのかもしれないけれど。それでも他に答えようもない。
「ふーん……頭痛の程度はどうだい?」
「……我慢できないものじゃあないです。授業にもあまり差し障りはありませんでしたし」
「うーん、あんまり無理はするもんじゃないんだけどねえ……まあいいか。とりあえず薬出しとくから、落ち着くまでそこで寝てるといい。あと、気になるようだったらちゃんと病院行くんだよ。とまあ、こういうことはそこの子にも言ったんだけどねえ」
最後、言い終わってからまたおかしそうにおばさんは笑う。むっとしたところをすぐさま見られ、
「ああ、ごめんごめん。あんまりにも状況が似通ってるからねえ」
悪びれずにまたそんなことを言う。そうなると、なんだかむっとしているのが馬鹿馬鹿しくなってくる。溜息をつき、僕はおばさんの出した薬を飲んでから、女の子が寝ているほうよりさらに奥のベッドに足を向けた。
スリッパを脱ぎ、靴下も脱いでスリッパの中に突っ込んで。そうやってベッドに上がったところで、初めて僕は女の子の顔を見た。
本当に頭痛持ちだったんだろうかと疑ってしまうほど気持ち良さそうに、微笑んでいるような寝顔で、すうすうと寝息を立てて女の子は寝ていた。なんとなく、どこがどうとは言えないけれど、妙に綺麗な寝顔だと思った。
その寝顔の綺麗な女の子に対して、僕が奇妙な縁を感じることになるのは、もうほんの少し先、この女の子が目覚めてからのことだった。
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