9.かわいい子供とよごれた自分

 数分に1回、真上から電車の通る音がする。そして、真正面には川がある。
 見覚えのない鉄道橋の下で、あたしは膝の上に浩都くんを抱えて座り込んでいた。



 最初からここを目指していたわけじゃない。ただ、この子をあたしの母さんや漂くんから引き離したくて。とにかく知らない遠くへ行こうと夢中になって、気がついたらここだった。



 鉄道橋の柱にもたれて座り込んで、逃がさないように後ろから彼を抱いたら、騒ぎ疲れたのか歩き疲れたのか、すぐに眠りこけてしまった。全体重を預かる形になってしまって、重い。






 せっかくいじめてやろうかと思ったのに、やることがなくなってしまった――気持ち良さそうに眠ってるから、起こしたらそれだけでいじめになるかなあと思ったけれど、そうしようとして寝顔を覗いた途端、その気が失せた。






 無垢、っていうんだろうか。かわいい、と思ってしまったのだろうか。とにかく、彼の寝顔を見た瞬間に、何か、ドキリとした。



 たったそれだけで、さっきまでの根暗な考えが全部どうでもいいことのように思えてきた。納得できてないのは、理性だけ。感情では、もうあたしはこの子を嫌ってはいないのかもしれない。












 けれど、それでも。彼が起きてきた時には、話さなければいけないことがあった。











 ******























 ふわふわしているような気分だった。
 白い世界の中を、本当にふわふわしているような。そんな感じ。






 ここはどこ。ていうか、ここは何。気持ちいいのはいいけど、ふだんの中にありそうな感じじゃない。



 どうしておれはここにいるんだろう。ていうか、何がどうなってこうなったのか。何もかもわかんない、わけわかんない。






 わかんないといえば、今のこの世界もわかんない。まわりはとにかく白い。どこを見ても白一色。おれだけが白くなくて、ふよふよとしているような。ほんとに何これ。



 どうしたらいいのかわかんない。どこから来るのかわかんない気持ちよさで、何もかもどうでもよくなってしまいそうなくらい、わかんない。






 あれなのかな。この気持ちよさって、いわゆる「あくまのささやき」ってやつなのかもしれない。ささやきのとおりにすれば気持ちはいいけど、まちがってるっていう。
 今はそうするんじゃなくて、たぶん、何かをさがすときなんだろうか。あいかわらず、どこも真っ白だけど――と思ったら。












 いつの間にか。さっきまで何もなかった真正面に、人がいた。
 すぐわかった。真っ白い中にあって、どんなに小さくてもすぐわかる、白くない色。



 その色が小さな点に見えるのは、遠くにあるからだった。
 近づこうとしてじたばたしてみると、それは少しずつ大きくなってくる。でもって、はっきり見えてくる。












 後ろ姿、だった。黒くて、背中をすっかりかくすほど長い髪のおかげで、色としても全体的に黒っぽい、誰かの後ろ姿。
 誰だろうって気になって、よけいにじたばたする。たぶん、プールで泳いでるみたいな感じで。



 するとその人の姿はどんどん大きくなる。けれどまだふり向かれない。気づいているのかいないのか。












 とうとう、とんっと髪にかくれた背中に当たった。あんまりいきおいは強くないけれど。そしたら、やっとその人はふり返った。おれも顔を上げた。






 草那おねえちゃんが、こまったようにほほえんでいた。どうしてそんな顔が向けられるのか、おれはわからなかった。ただ、初めて会ったときとイメージがものすごくちがうのは――たぶん、髪。ふだんはうしろにくくられてる髪が、くくられてないから。
 知ってる人とはまるで別人みたいな感じがしたけれど、それでも顔のほうには見覚えがあって。こまってるみたいだったけど、なんだかふわりとした笑いかたで――ほんとうは、きれいな人なのかもしれない。おれが今までそういう面を知らなかっただけで。






 なんだかすごくそうしたくなって、おれは草那おねえちゃんにきゅっとしがみついた。やわらかくて、あったかかった。



 すぐに、髪の毛がざわざわっとする。ゆっくりと、おれは頭をなでられていた。






「浩都くん」






 名前を呼ばれた。おれは顔を上げた。やっぱりおねえちゃんはこまった笑顔のまま。そして、続けて言った。












「戻らなきゃ、駄目よ」












 言葉の意味がわかんなくて、おれは目をぱちぱちさせた。



「もどるって、どこに?」






「ここは君のいるべき場所じゃないの。……来るのは自由だけどね。なにせ、これは君の見てる夢なんだから」






「おれの……夢?」



 わけわかんないような、でも逆にいろいろと納得できることのほうが多かった。






「草那おねえちゃん、だよね?」



 名前を呼んだ。おねえちゃんはまたこまったような顔をして、答えはすぐには返ってこなかった。



「そうなんだけど、そうじゃない……って、わかる? あたしは偽者なのよ」






「ニセモノ?」






「そう。今のあたしは、浩都くんの夢の中でしか存在しないから。まあ、別に浩都くんにとって都合のいいようになってるってわけじゃないけどね」



 くわしく言葉にはできないけど、なんとなくわかった気がした。この人、自分はニセモノだって言ってはいるけど、こっちの方が草那おねえちゃんのホントの姿なんじゃないかって思った。






「ホンモノは?」



「さあね。元の世界のあたしがそうだってこと以外は、ここのあたしにはわからないわ。……知りたいなら、ちゃんと本人と話してきなさい。あたしと話してたって、意味ないんだから」






「……そんなことないもん」



 意味ない、とは言えないんじゃないかと思う――ニセモノでも、この草那おねえちゃんはすごく好きかもしれない。
 たぶん、このやりとりがなかったら、おれは本人と話せてなかったかもしれないから。



 だからおれは、そんなことないって言った。声は弱かったかもしれないけど、きっぱりと。






 おねえちゃんは、少ししてからまた笑った。今度はこまってる風もなく。



「ありがと。……さ、もう戻りなさい。いつまでも寝てると風邪引くからね」



「どーいたしましてー。……それじゃーね」



 おれは草那おねえちゃんからはなれて、どこかに行こうとしたけれど。最後にちょっと、気になったことがあった。












「……また、会える?」



 ここにいるのはあくまでもニセモノだって本人は言う。けれど、おねえちゃんは好きだった――これっきりはいやだった。



 おねえちゃんはふわりと笑って、言った。












「わかんない。浩都くんが会いたいって願ったら、もしかすると、ね」












「……ん。わかったー。……こんどこそ、それじゃーね」



 おれは頭を下げた。ほんとうに会いたいと思うかどうかはわからないけれど。












 できたら、この人みたいに、ホンモノの草那おねえちゃんも好きになれますように。























 ******











 うっすらと目をあけたら、ぼんやりとせかいが映った。
 はっきりとは目を開けられなくて、手でこすろうと思って上げようとしたら、何かがひっかかった。
 なんだろうと思って目をやったら、誰かの腕がおれをかこんでいて。それだけじゃなくて、おれがもたれかかっているのは壁じゃなくて誰かの体だったりして。
 目が覚めてくればくるほど、いろんなことがはっきりしてきたり、何か思い出したりする。この場所は今までで見覚えがなかったりしたとか、いきなり誰かにひっぱられてこんなところに来たとか。おれ、つかれて寝こけちゃったんだな、とか。
 動くに動けなくて、しばらくそうやっていろいろ考えながらもぞもぞしていたら。



「……起きた?」



 すぐ後ろから。まちがいなく、おれを抱きかかえている人の、声。なんとか顔を見ようとして、首だけで後ろをふり返った。でも、よく見えない。と思ったら、まわりの腕の力がちょっとゆるんだ。体が少し自由になったから、横になってから向こうの顔を見上げた。
 こまったような笑い顔があった。その人のそれを見るのは、おれははじめてのはずなのに、なぜかぜんぜんそんな気がしなかった。



「……どうかしたの、おねえちゃん」



「怒ってない?」






「……わかんない」






 どうして怒らなきゃいけないんだろう、と思った。おねえちゃんからすれば、怒られる理由があるのかもしれない。けれどおれは思い出せなかった。それにたぶん、どうでもよかった。おねえちゃんが気にしているような「怒らなきゃいけないこと」よりも、こうしてるのが気持ちよかったから。



 それより。



「……ここ、どこ?」






「知らない。あたしもわかんない。……ごめんね」






「……なんであやまるの」












「あたしの汚い考えで、こんなことになったから」












 きたないかんがえ、ってなんだろう。こんなことってどんなこと。
 返ってきた言葉ぜんぶがわからないと思うのは、考えてないからだろうか。考えないといけないだろうか――おねえちゃんは別に悪くない、というか悪い人じゃないと思った。それでいいような気もする。



「気にしなくていーと思う」



「……どうして?」






「おれは気にしてないよ?」






 ていうか、おねえちゃんが何を気にしてるのかわかんないけど、おれは今が気持ちいいから、それでいいって思ってた。それこそ、何もかもがどうでもよくなりそうなくらい。



 ため息が聞こえた。
「……気楽でいいわねぇ。人がこーんなに悩んでるのに」
 なんだかしみじみっていうか、そんな感じで声がした。そう思った途端、いきなりぎゅーっとされた。横になってた姿勢がむりやり前向きになっちゃうくらいに。でもって、息がしづらいくらい苦しかった。思わずぺぺんっとおねえちゃんの腕を叩いた。
「あ、ごめん。だいじょうぶ?」
 だいじょうぶじゃないやいと言いたかったけど、せきが出て言葉にならなかった。でも、おねえちゃんもそう言いながら、腕の力はゆるめてくれた。
 息を落ち着かせるのに少し時間かかってから、前向き姿勢のままでおれは聞いた。



「……なやんでるって、何?」











 ******











 ある意味、今となっては悩みとも言えないような悩みだな、と思った。そんなことよりも、こうして力を抜いて座り込んで、彼とじゃれあっているのが、ごく普通に楽しいことだったから。
 それでも、話さないままではいられない。それはやっぱり、この子に対してひどいことだとあたしは思う。本人は構わないって言ってても、あたしが構う――すべての悪いことは、あたしの一方的な思いから来るものだから。



「……君にね、嫉妬してたんだと思う」



「しっと?」
 切り出すと、おうむ返しが飛んでくる。子供っぽい、というか子供らしい疑問の追及のやり方なんだろうか。その相手をしながら、あたしは悩んでいたことを全部話した。
 漂くんのこと、母さんのこと。あたしが2人を彼に取られたと勝手に思って、引き離そうとして、嫌がらせをしたいと思って引っ張りまわして、あたしたちは今ここにいるんだ、ってことを。
 実際は、浩都くんは何も悪くない。彼の事情は知らないけれど、こうやっていると、そんな意地悪をするような子だと思えないし、ただ単に誰かに甘えていたかっただけなんだろう。
 自分が情けなくなったけれど、ここで落ち込むと逆に彼に怒られそうな気がしたりしたので、少し気を張ってから、あらためて彼の頭を眺めた。
「……おねえちゃん」
「何?」
 呼ばれて、なぜかちょっとドキリとした。彼にしては神妙な声だったからなのか。それとも――その声のまま、彼は訊いてきた。



「……悪い人、じゃ、ないよね。そうだよね」



 まずあたしは苦笑した。悪い人じゃないよねって聞かれれば、普通でもそうですって答えるだろう。否定する人はいないだろう、と。
 けれど、今のあたしはどうだろう。勝手に嫉妬なんてした上に、半ば誘拐みたいなことをしている。だから、いい人ですとも答えかねてしまう。
「……どうだろうねー。おまわりさんに見つかったら、捕まるかも」
 今はまだそんなに空も暗くないけれど、補導の可能性は結構あると思う。ましてや――実はあたし、狙ってここに来たわけじゃない。ぜんっぜん知らない場所だったりする。ただ彼を漂くんとかから引き離したい一心で、こんなところに来てしまった。帰り方がわからない。ほんとにこれからどうしようか。
 いろいろ考え出してちょっと上の空になりかけたあたしを、彼の声が呼び戻す。
「……おねえちゃん、すなおじゃないね」
 また複雑な気持ちになる言葉だった。どうしてこんな子供にそう言われなきゃなんないのって、とげつきの言葉を返したくなる――けれど実際には返せない。当たってると思う。今のやりとりを思い出したら、素直じゃないって思われてもしょうがないかもしれない。
「別にー。成長したらだんだんひねくれてくるものなのよ。浩都くんもこうなるかもね?」
「えー、やだー」
 再び顔をこっちに向けて、浩都くんはぷくっと頬を膨らませた。あ、やばい――可愛い。
 あたしがそうやって一瞬くらっと来た、まさにその時。






「オイよー、なんでそんなガキといい雰囲気なんだよ」






 いきなり飛んできた、あまりにも場違いな声。それこそ、何か嫉妬じみたものがこもった、嫌らしい声。それでいて、別に聞きたくもないのに日常でよく聞く声。



 声のした方に振り向いた。その時のあたしの顔は、多分引きつったりなんかしていたに違いない。少なくとも、変な力が顔に入ってるのが、感覚でわかった。



 そして、振り向いた先に見えたのは、ぶらりぶらりと無遠慮に歩いてくる、イライラしたような顔のナオキの姿だった。






 嫌なことが起こりそうだ。あたしはしたくない覚悟をした。













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