いつのまにか日が差して赤い夕焼け空の下の帰り道。たどってきた道を、自転車を押して歩いていた。その自転車のサドルには浩都がしがみつくように座っていて、傍らでは宮月が一緒に歩いている――2人とも自転車に乗せられれば早く帰れると思うけど、3人乗りは危ないだろう。僕はともかく、他の2人は全身びしょ濡れだから、さっさと家で着替えてもらいたいと思いはするものの、あの川までの道を知らないと言う。知っているのは僕だけだから、案内するしかない。
特に、何があったか知らないが、宮月のほうは落ち込み気味だから、今事情を訊くのもためらわれた。
結局、あの場所で男――藤浦直樹を追い払った後、僕らはとぼとぼと帰路を歩いていた。ただ、とぼとぼっていうかゆったりしていられるのは今だけで、帰り着けば少し忙しくなるだろうけれど。落ち着いた頃合を見て、どうしてこんなことになったのか訊いておきたいし。
もっとも、その内容がどんなものであれ、責めようとは思わなかったけれど。ただの直感も多分にあるけれど、それ以外の何らかの要素もある。それゆえに、宮月が悪い人間だとは思えなかったから。
夕焼け空にほんのり夜の色が混じり始めたころ、ようやく自分のマンションにたどり着いた。1階の入り口の手前で足を止める。
「宮月、悪いけど自転車頼む。置き場あっちだから、適当に戻しといて」
「え、あたしが?」
「僕、家戻って風呂の準備しとくから。入れよ。そのままじゃ風邪引くだろ。あ、315号室だから」
「え、あ、う、うん」
宮月は頷いて、言った通りに自転車を片付けにいってくれたけど、その前に一瞬くらいきょとんとされた。何かおかしいことを言っただろうか、僕は。
「……漂にーちゃん、人つれこむの好きなの?」
浩都がそんなことを訊いてきた。振り向いてみると、何か勘繰ってるみたいなじとっとした目とぶつかった。
「……変なこと言うな。てか、お前だって風呂入んなきゃ駄目なのは同じなんだから。ほら、行くぞ」
「あー、待って待って!!」
歩き出した僕に、小走りで浩都がついてくる。待ってと言われても、別に置いてけぼりを食わすほどの速度でもないつもりだったけど。
エレベーターに乗ろうかとも思ったけど、運動した後のせいか妙に体が軽く感じたのと、あいにくと最上階のランプが点いていて待っていると時間がかかると思ったのとで、今日は階段を使うことにした。3階までなので、走るように上がれば時間もそんなにかからない。浩都なんかは最大で何段飛ばして上がれるかなんてことを試して遊んだりもしていた。
家に着いて、ためしにドアノブを回してみるが、開かない。姉さんはまだ帰っていないらしい。鍵を差して、家に入る。先に浩都を洗面所まで案内する。バスタオルを渡しつつ服脱いどけと言っておくかたわら、僕は風呂の方でボタン操作をして湯沸かしの準備をする。
これであと20分待てば準備完了とは言うものの、待つだけだと結構長い時間だなと思ったところで、インターホンが鳴る。
「はーい?」
『入っていい?』
受話器を取って、一応別の人かもしれないのでよそ行き返事をしたが、返ってきたのは宮月の声。招き入れて、バスタオルを渡しつつ洗面所に誘導した。
その後、ふと思った。着替え、用意してやらないと駄目だよなと。浩都はともかく、宮月の分はどうしたものかと思った。女性物の服は姉さんの分があるけれど、個人的には姉さんの部屋っていうのはあまり入ろうとする気分にはなれない――となると、このあたりは姉さんに任せるしかないのだろうか。姉さんには宮月のことは話してないから、そこからスタートしなきゃならないけれど。
時計は6時過ぎを差していた。姉さんはどうしているだろう――まだ大学だろうか。それとも買い物中なのか。後ろだったらちょっとまずい。ご飯は3人分しか用意されないだろうから。
考えていても、時間はなかなか過ぎていってはくれなかった。しょうがないので、宮月の分の着替えを用意しなきゃと思って、姉さんの部屋に足を踏み入れる決意をしようと立ち上がった時――
「あ、別にあたしの服、気ぃ使わなくていーよー。漂くんの持ってるやつでいいからー」
洗面所からそんな声がかかって、思わず固まってしまった。行動を起こそうとしたところだったからタイミングがよかったのか、それともせっかくの決意がという意味でタイミングが悪かったのか、ひどく複雑な気分になった。
でも結局、姉さんの部屋に踏み込まなくてよくなったということで、気が楽になった。浩都の分と合わせてタンスの中から適当な服を引っ張り出して、洗面所に持っていった。
******
ドアが少しだけ開いて、あたしたちの分の着替えを抱えた手が1つだけ伸びてきて。その手はすぐに引っ込んだ――片手だけでよくバランス崩さなかったなーと思いつつ、顔を見せなかった漂くんにちょっと笑った。すぐさま閉まりそうになったドアを軽く引っ張りつつ、そこから顔だけを出すようにして漂くんを呼んだ。
「……なに」
それでも漂くんは意識してしまっているのか、目線を逸らしがちだったりするし、返ってきた声もそっけないけれど、話は聞いてくれるみたいだった。もっとも、この後言うことについて、平静でいてくれるかどうか。たぶん無理かも。
「……いっそ、浩都くんといっしょにお風呂入っちゃっていい? そのほうが面倒くさくないと思うんだけど」
真面目に考えた理由も添えて提案してみたけれど、案の定というか、漂くんは頬まで赤らめて慌てた。
「何考えてんだっ……!」
「別に普通だし? どうしてもって言うなら待ってもいいけど、あたしだって早くシャワー浴びたいのも本音だし。でも浩都くん後まわしにするわけにもいかないでしょ。あたしは手っ取り早い方法を言ってるだけだもん」
なんてことを言いながら、あたしは悪戯っぽくにやにやしていたに違いない。自分でもそういう表情をしているのがわかるし、何より漂くんの反応が面白かったからだ。反論したいのにできなくて、何を想像してるのかどんどん顔を赤くしていくのが。ていうか耳まで真っ赤。
「そういうわけだから。まあ、浩都くんに変な真似はしないし?」
「一緒に入るって時点で十分変だろっ……ああもう、勝手にしろっ」
そうして漂くんがぷいっとそっぽを向いたところで、お湯が沸いたことを告げる音がピーピーと鳴った。
言葉にはしなかったけど、ごめんなさいと頭を下げて苦笑してから、あたしは浩都くんをお風呂に誘った。
******
ざーっという音を聞きながら、おふろの中でおれはどきどきしていた。おれがかべとにらめっこしてる後ろで、草那おねえちゃんがシャワーしてる。もちろんはだか。見てしまうとすごくどきどきする。見てなくてもどきどきしてどうしようもない。なにこれなにこれ。
ていうか、別におれはおふろは1人でも済ませられるのに、いっしょに入ろうって言ってきたのはおねえちゃんのほうだった。てっとりばやいから、って。
そもそも、誰かといっしょにおふろにはいるっていうのが、長いことなかったことだった。小学校に上がる前に、1人で入ることがすっかり当たり前になっていた。しかも母ちゃんがまだ生きてた時だって、いっしょに入ってくれてたのは父ちゃんのほうだった。女の人といっしょだったことなんか、ほんとにぜんぜんないわけで――今、姿が見えないからといっていろいろ考えたりするけれど、なんかおれ、そう考えてどきどきしてるわけじゃないっぽい。
けっきょく、一番どきっとしたのはいつかって言われると、おねえちゃんのはだかをまぢかで見ちゃった時だと思う。見たいなんて思ってなかったし、おれだってほんとうはこういうのが「はれんち」なことだっていうのはわかっていた。けれど、そういうことをよそに、おれの目の前で、おねえちゃんは気にするそぶりなんてぜんぜん見せないで、服をぬいではだかになって、おふろの中に入っていってしまった。しかもあっさりおれをさそうし。
あまりにあまりなので、おれはけっきょく、おねえちゃんの姿をまともに見ることもできないでいた。しげきが強いって、こういうことをいうんだろうか。
「……そういう反応がまた可愛いんだよねぇ」
後ろからそんな声が飛んでくる。ていうかかわいいって何。おれ、男なのに。男はかっこよくなきゃいけないのに。なのにかわいいって。
「……子どもあつかいしないで。やだおれ、そんなの」
顔を向けないまま言った。向いたらやっぱり見えちゃうから。それとも、子どもじゃないって言うなら、ちゃんと向かい合って話したほうがいいのかな。でも見えちゃうからむり、ぜったいむりっ。
おれがそんなこと考えてるのなんかどうでもいいみたいに、草那おねえちゃんはくすくすと笑いをもらしていた。そんなにおかしいんだろうか。笑うなーって言ったらよけいに笑われて、どうしようもない。
けれど、その笑い声が止まったのは突然だった。前ぶれらしいものは何もなくて。
「……ね、浩都くん。……はいかいいえでだけ答えてくれればいいんだけど」
さっきとちがう、やさしい感じの声が聞こえてきた。その後にどういう言葉が続くんだろう。何を聞かれるんだろうかって、おれはちょっとみがまえた。今、おねえちゃんはまじめだから、おれもまじめに答えなきゃいけないと思って。
「あたしのこと、好き?」
続いた言葉は、それだった。好きかきらいか、かんたんな問題。だけど答えはむずかしいかもしれない問題だった。
おれは考えた。おれが草那おねえちゃんをどう思っているか、考えた。好きなのか、きらいなのか――きらい、なことはない。おねえちゃんのほうはおれをきらいだったことがあったかもしれないけれど、あとになって、おねえちゃんはそんな自分をきらってたみたいなふうになった。
そういう考えのめぐり方の中には、まちがいなくおれがいた。おねえちゃんも、形はどうでも、おれのことを考えていてくれた人だった。それを思うと、きらいになんてなれない。
「……、好きっ」
はいかいいえかだけ、っておねえちゃんは言った。そういう聞かれ方でなら、おれはまちがいなくこのおねえちゃんが好きだと思う。どんな風に好きかまでは、まだわからないけれど。たぶん、この人とは今日っきりじゃないと思うから、いっしょにいるとそのうちわかってくる気もする――ただ、おれはこのおねえちゃんが好きだけど。おねえちゃんのほうが本当に好きな人は、おれじゃない。たぶん。
おれはゆっくりと、後ろをふり向いた。なんだか、顔見て話さないのがだめなことみたいに思えてきた。おねえちゃんのはだかにまっ正面からぶつかるけど、今そんなこと気にしてどうするって、自分に言い聞かせた。
ほほえんだ草那おねえちゃんの顔が、そこにあった。こっちまでうれしくなるような感じの笑顔で、なんで今まで顔そむけてたんだろうと後悔してしまったりするような。ずっと見ていたくなるような、そんな顔だった。
そのまま、くちびるが少しだけ動いた。
「ありがとうね」
今まででいちばんやさしい声だった。おれはというと、そんな声を聞いたとたんに体がすごくあつくなってきて、なんだかはずかしくてうつむいてしまった。だから、何も返事できなかった。
そんなことをおねえちゃんは気にしたふうもなく、さぁーってっとっ、とか元気のいい声を出した。
「体、きれいにしなきゃねー。浩都くん、あがんなさい。背中洗ってあげるからー」
ねこみたいな声だった。おれがおそるおそる顔を上げると、さっきとはちがって、ものっすごくさわやかににこにこして、自分で言ったことが楽しみでしょうがないって言わんばかりの、草那おねえちゃんの顔があった。
子どもあつかいしないでってまた言おうと思ったけど、おねえちゃんのその顔におれは勝てなかった。しぶしぶ言うとおりにおふろからあがって、草那おねえちゃんに背中を向けておれはすわった。
「うふふー、素直で嬉しいなー。たぶん、こんな機会って2度とないわよ?」
いやに楽しそうにおねえちゃんが言う。2度とないって言われれば、たしかにそうかもしれない。女の人といっしょに、むしろ女の人のほうからさそわれておふろに入るなんて――ていうか、やっぱりおれにはしげきが強い気がするので、これからもあんまりこういうのはないほうがいいなー、と思った。
だけどけっきょく、この時は草那おねえちゃんがおれの体をあらってくれて。いっぽうでおれも、おねえちゃんの体をあらう手伝いをしたりして。と言ってもおれがやったのはおねえちゃんの背中だけだったけど。やっぱりそれ以上のことは、おれはできなかったけれど。
それでも、2人で体のあらいっこっていうのは、すごく気持ちがよかった。もっともっと小さいころ、母ちゃんが生きてたときのことを、ちょっと思い出した。
それは、おれにとって楽しい記憶だった。それ自体はもうもどらないけれど、強く思い出して、すごく気持ちよくなるようなこの時間を、おれはせいいっぱい楽しんだ。
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