彼の背中
8.
八月十日、私達は郊外にある劇場に来ていた。
去年も来たここで、様々な高校が集まる講習会が行われる。
劇場が三つ存在し、初めにその三つに各学校が振り分けられる。
携帯を確認すると佐伯から連絡が来ており、同じ劇場になったのだと知る。
前置きとして、講師としてきている人が舞台で話すのだが、私はどうも興味が持てずうとうとしてしまい、それを見付けた加奈美に起こされてはまた寝てを繰り返して、気付けば前置きの演説は終わっていた。
大雑把なグループ分けが行われ、私は瑞希と同じグループに決まり、二人で指定された場所へと移動した。
「今年は今井と一緒でよかったわ。去年一人で気まずかった」
瑞希はそうは言うものの、去年気まずそうな様子は一切見せず、グループに馴染んでいたように記憶している。
「A班はあそこやな。あ、佐伯斎やん」
Aと書かれた紙が貼られているその場所に、佐伯斎がおり、その隣には北高の、前回の舞台でヒロインを演じた女の子がいる。
なんて豪華な組み合わせだろう。
「今井さん、同じグループ?」
「みたいやね」
喫茶店でお茶をしてから一度も会っていない。
しかし、毎日のように連絡をやりとりしていた所為か、随分と知っている間柄のように感じてしまう。
「なになに、どういう関係?」
面白がる瑞希を放置して、私は集まった人たちに挨拶をした。
今年も去年と同様にいくつかある台本の中から一つを選び、それを発表するようだ。
今年も野村英雄の本がその中にあり、私と瑞希と佐伯の三人がそれをしたいと強く主張し、なんとか野村英雄を勝ち取る事が出来た。
北高の女の子の名前は志田綾美といい、こないだの舞台では高飛車な少女を演じていた彼女は実際は気品も華もあり、常ににこにことしている美少女であった。私が隣に並ぶとまるでお嬢様と召使いと言っても過言ではない程の人だ。
今回のお話は盗賊団のお話だ。
主役は全員の推薦で佐伯が演じ、ヒロインは志田さんだ。瑞希は佐伯の兄弟役で、私はヒロインの側にいる少女を演じる事になった。
読み合わせを一度すると、おそらく北高のやり方なのだろう、すぐに立ち稽古に入った。
佐伯と志田シーンは、最初の立ち稽古から出来上がっているかのようだった。
瑞希はそんな二人に自然と溶け込んで芝居をしている。
私は、この三人の邪魔になっていないだろうか。
私のせいでこの素晴らしい芝居を台無しにしてしまわないだろうか。
そんな負の感情に襲われた。
私の役は殆ど会話をしない。私の科白は殆どが客席に向けて話す言葉だ。
三人を観察しながら、自分の中で感情を膨らませていかなければならないのに、集中できずにいた。
私の役は何故ここにいるのか、どうしたいのか、その障害は、葛藤は何なのか。
考えるべき事、感じなければならない事は山ほどある。
それなのに下らない考えが頭を過ぎってしまう。
折角佐伯が褒めてくれたのに、失望させたくない。みっともない姿は見せたくない。
雑念だとは分かっている。
けれど、頭を過ぎってしまう下らない感情が、私を落ち着かせてくれない。
お昼の休憩に入った瞬間、芝居を集中してできていない自分が情けなくて、いち早くその場を離れた。
瑞希は私のそんな性格を熟知してくれている為、無言でいる時はそのままそっとしていてくれるのだ。
グループの皆は同じ場所に固まってお昼をとっている。
私はその中に入らず、一人で外に出た。
静かな木陰で、私は台本を広げた。
それを読みながら、買ってきたおにぎりを頬張る。
集中しよう。
「私はなんで、彼女の側におるんやろう。彼女は私にとって何?」
悩んだ時、私はいつも疑問を口に出し、その答えを口に出す事にしている。
心の中で思っているよりも、言葉にした方がしっくりくるのだ。
「恩がある、だから離れられない。でもそれより、好きだから。大好きで、構って欲しくて、守ってあげたくて。私は――ひとりぼっちの私は、そこから救い出してくれた彼女が孤独でさみしがり屋なのを知っているから、側に居続けるんだ。それが私にとって生きる意味になっている」
言葉にすると、悩んでいた事が馬鹿馬鹿しく感じられた。
私はただ、役を生きればいいんだという、至極簡単な事を見失いそうになっていた。
「今井さん」
声が突然降ってきた・
声の主の方を見ると、佐伯斎が台本を持ってそこにいた。
独り言を聞かれただろうか。
「面白い役作りしてるんやな」
嗚呼、聞かれていたようだ。
恥ずかしくて「変な子ですもん」なんていう捻くれた発言をしてしまう。
そんな私の様子を彼はただ笑うばかりだ。
「調子悪そうって思ったけど、大丈夫そうやな。谷川さんには放っとけって言われたけど、ここにおっていい?」
「本読む邪魔せえへんねやったら、ええよ」
「ありがとう」
私の嫌味な発言などさらりとかわして、佐伯は私の隣に座った。
私達は黙々と本を読む。
一言も発さない。
沈黙が、苦痛じゃない。
暫く私達は黙ったまま、本を読み続けた。
まだまだ真夏の太陽が降り注いではいるが、鬱陶しさは感じない。
木陰は室内ほどの快適さはないものの、風で木々が揺れる音も風の感覚も気持ちがよく、私にとってこれ以上ないくらいの環境だ。
文字を追っているだけなのに、映像となってイメージが膨らむ。
それと同時に感情が流れ込んでくる。役作りが上手くいく時の感覚だ。
「なんか、できそうな気がしてきた」
「俺も。そろそろ戻ろっか」
「うん」
「おかえり。大丈夫そうやな」
迎えてくれた瑞希は私の表情一つで、スランプを抜け出せた事を気付いてくれた。
佐伯のように側に居て言葉はないけれど励ましてくれる存在もありがたいが、瑞希のようなただただ見守ってくれる存在のお陰で、不器用な私は上手く成り立っている。
「一度通してみませんか?」
志田の提案で、通し稽古をすることになった。
曲は既に決められているのだが、どのタイミングでどういった効果で流すかは任せられている。照明も位置やゼラは変えられないが、何をしてもいい事になっている。
音響と照明の人の為にも通し稽古はしておかなければならない。
主に話は佐伯、志田、瑞希の科白で進んでいく。
私はその三人の全てを知った上で寄り添い、救いのような破滅の手を差し伸べる。
通し稽古で私は、感覚を掴んだ気がした。
側に居る事の意味も、差し出す手の意味も、私の中で繋がったのだ。
通し稽古と部分稽古を繰り返し、発表の時間が訪れ、私達は劇場へと戻った。
「りぃちゃんと瑞希の班、やっぱり野村英雄?」
席に戻ると加奈美が既に座っていた。
「勿論!」
瑞希は楽しそうに答える。
「やっぱり。あれむずかしいし、うちは別のになったわ」
いつも一緒に芝居をしている加奈美が違う人たちと作る芝居というのは、とても興味深いものだ。
よく見知っている人と作る芝居と、初めましての人たちと作る芝居。
どちらもやる事は同じなのだが、雰囲気が違うのだ。
順番はグループの代表がじゃんけんをして決めるのだが、我が班は私がそのじゃんけんに加わる事となった。
やるなら最初がいい。
他に左右されてしまう事も、迷いが生じる事も怖いのだ。
じゃんけんを勝ち抜いた私は声高らかに叫んだ。
「一番で!」
グループの人たちからのブーイングが飛んできたが、私は素知らぬ顔で袖へと向かった。
講習会は夕方でお開きとなった。
私は、今日はやりきった感で満ちあふれ、心が躍っていた。
瑞希も加奈美も奈菜も、それぞれ何かを得たようで、皆の表情が明るい。
「今井、いつのまに佐伯斎と仲良くなったん。お昼も一緒やったみたいやし」
私に元気が戻った事を察知した瑞希が、からかうように口火を切った。
「懇親会サボって二人でどっか行ったん?」
瑞希の言葉に加奈美がのっかる。
やはりあの日二人があっさり引いたのは、佐伯と何事か話しているのを見たからなのだろう。懇親会の間二人で言いたい放題話していたに違いない。
「野村英雄の舞台誘ってもらってん。瑞希が話してくれたお陰」
「私キューピットやん」
「二十日サボるのってそれなんや? 仲良しやなあ」
瑞希も加奈美も好き放題言っている。
「なんか勘違いしてない? 役者としてお話してるだけやで」
「先輩の恋バナ聞けるとは思ってなかったです」
「話聞いてる? 違う言うてるやん」
奈菜までもがこの話に参戦し、私の抗議など無視して三人は盛り上がってしまっている。
誰も私の話など聞きやしない。
なんて思われようがどうでもよくなって、私は遠くを見た。
夕焼けが、びっくりするくらい美しかった。