彼の背中
6.
朝九時に携帯が鳴る音に珍しく気付き目を覚ました。
送り主は加奈美で、十二時頃に来いとの指令である。
今日の部活は十三時からだ。
何事かと思い、恒例の二度寝を諦め、だらだらと過ごした後に学校へと向かった。
「ごめんな。次の本、プロットだけやけど見て欲しくて。配役に悩んでもうてな。瑞希と奈菜は決まったんやけど」
加奈美の小さな文字が敷き詰められたノートを受け取る。
主人公充がモテモテ、というお話だ。
ユウと充は幼馴染みで仲は良いのだが喧嘩が絶えない。
クラスのマドンナの鈴が充に恋をし、クラス一の地味女子マリアも同様に充に恋をする。
恋をして可愛くなっていくマリアに学校一の金持ち男子桜小路が恋をし、二人は上手くいく。
鈴は充に告白するが、充はユウが大切な存在と気づき、鈴を振ってユウと上手くいく。
充役を瑞希、桜小路役を奈菜と考えているようである。
「桜小路さ、美紀とかどうかな。マリア役を奈菜にして」
奈菜は正統派を演じるのが得意である。
桜小路はどうしてもコメディ要素が強くなるような気がしてならないのだ。
「確かに、それいいな。奈菜、顔は可愛いし、そうしよ! あとはうちとりぃちゃん」
「個人的に鈴やりたいな。楽しそう」
「りぃちゃんはヒロインのライバルって感じやし、鈴を演じてもらいたいなって思ってるんやけど、うちに脚本も主演も両方できるんか不安やねん」
「できるやろ、加奈美なら。手伝える事は手伝うし」
照れたように加奈美は笑った。
十月に文化祭があり、そして十一月には地区大会が控えている。
夏休みが終われば三年生は完全に引退する。
部長はおそらく加奈美で決定だろう。
部長で脚本も主演もこなさなければならないとなれば、忙しいのは火を見るより明らかだ。
しかし、加奈美なら全て完璧にやってみせてしまうと私は確信している。
サクエンは地区大会を勝ち上がり、府大会へ行った事がここ十年の間に一度も無い。
私は今のこのメンバーで行けないわけがないと思っている。全国ですら夢ではないと思えて仕方が無いのだ。
加奈美とは稽古日程や、どういう風に作品を創っていくかを熱く語り合った。
彼女との時間はあっという間に過ぎてしまう。
言葉以上の物が伝わってくるような感覚があり、沈黙すら心地よい。
そんな親友と呼べる人は、人生でどれくらい見付ける事が出来るものなのだろうか。
一時間はあっという間に過ぎてしまい、部員が集まる。
「まずはお疲れ様。今日はビデオを鑑賞して、部長を決めたら、北高の舞台を観に行く」
今日は稽古を全くしないのか。
語り合った所為か、芝居をしたい衝動に駆られていた。
鑑賞会はいつもの事ながら、古川先生からの差し入れのジュースとお菓子がてんこ盛りに積み上げられ、きゃっきゃ言いながら、まるでパーティのようであった。
汗臭い 我々も、こうしていると、花の女子高生なのだ。
毎度の事ながら、反省すべき点を山ほど発見してしまう。
私は自分の演技をこうして見る事が好きだ。
基本的に私は自分が大好きで楽観主義者である。
反省点を見付けたなら、後悔せず、次にいかせればそれでいいと、簡単に自分の中で決着を付ける事ができる。
ストレスフリーで単純な人間だ。
部長は果たして加奈美に満場一致で決定した。
私と瑞希は一応進学クラスの為来年の四月公演を最後に引退が決まっている。
来年の夏フェスは簡単なお手伝い程度しか関わる事が出来ない。
しっかり者で面倒見のいい加奈美の事だ。
きっとなんとかなるに違いない。
四時過ぎに私はぞろぞろと学校を出た。
北高は桜女子と同様に中高一貫校である。サクエンと違い、北高の演劇部は中学生から入る事が出来る。
大所帯で、レベルも高い。
サクエンが創作の台本なのに対し、北高は既成の台本を採用している。
演出をつけ、きっと稽古も統率の取れたものなのだろう。
谷町九丁目からの道のりはなんだか懐かしい心地にさせる。
たった二日前に通った筈なのに、ずっと昔の事のように思える。
ほぼ会場の十七時半に劇場に着いた。
前から三列目のセンターに私はどかりと座る。
脚本は私の大好きな野村英雄の作品ということもあり、楽しみなのである。
主演は佐伯斎。
毎回オーディションで配役を決める北高で、毎回主役を張る彼は本当にすごいのだと思う。
私なんぞが北高にいたら、三年間コロスで終わりなんて事もあり得る。
北高の作るパンフレットはいかにも高校生らしい楽しげな写真や文章が集まったもので、開演まで飽きさせない。
その写真の中に佐伯斎の姿を見付ける。
ぶっきらぼうで私にとって印象は最悪なのだが、ここに写る彼はどれも沢山の人に囲まれて楽しげだ。
「真剣に見てどうしたん?」
加奈美が私の手の中をのぞき込む。
「こういうの作っても楽しそうやなあって」
真顔で嘘を吐く。
「せやな、今度作ろっか。美紀こういうの得意やし」
加奈美はその嘘を真に受けて、未来を語る。
ちくりと心が痛んだが、佐伯斎の事は話すべきではないと思った。
音が大きくなり、照明が落ちていく。
本番開始を告げるこの演出は、自分が舞台に立つわけでもないのに、妙に緊張し高揚してしまう。
沢山のコロス、迫力のある演出、役者個人個人のレベルの高さに、私はのめり込む。
佐伯斎を取り巻く空気が別次元のようで、一挙一動から目が離せずにいる。
科白がない時ですら、彼の存在感は絶大だ。
まるで主役をする為に生まれてきたようで、同じ高校生と思えない。
この芝居のラストは死にゆくヒロインに主人公が想いを語るものである。
あの日、誰も居ないここで彼を見付けた日、彼がここで言っていた科白だ。
涙が頬を伝う。
拭う事すらできない。
体が動かないのだ。
静まり返る客席のあちらこちらから、多くの人が泣いているのを感じる。
誰もが彼の全てを見ているのだ。
この男は天才だ。
カーテンコールは拍手が鳴り止まなかった。
「号泣やったな」
終演後にアンケートを書いていると、冷やかすように瑞希に声を掛けられた。
「流石北高。佐伯斎、あいつほんますごいな。今井、アンケートくらいさくさく書きや」
瑞希に急かされ、無難な言葉だけを並べたアンケートを手に立ち上がる。
受付周辺は混み合っている。
アンケートを手渡し、私達は外へ出た。
劇場の前で私達は目立たないように小さな円陣を組み、明日の時間や報告事項などを告げられ、その日はそのまま解散した。