彼の背中
4.
普段ならば朝は大の苦手なのだが、当日は早朝の六時前に目が覚めた。
すり切れてぼろぼろになったこの愛すべき台本を読むのは今日が最後だ。
ベッドの上で最初から最後まで目を通す。
余白は頂いただめ出しや、私のイメージなど、様々な書き込みで埋め尽くされている。
私の演じるコンは、加奈美の演じるキョウと双子だ。
私達は育った村を出てある場所に辿り着く。
そこで出会うのが瑞希の演じるライター。
彼には能力があり、彼の書いたものが現実を作る。
神様なのだと私は思っている。
その場所は彼の仕事場であり、彼は一人で仕事をすることを望んでいる。
だから、異物は排除しなければならない。
彼は過去、自身の意思に反して奈菜の演じる友人をその能力によって失っている。
だから、その二の舞にならないよう双子を追い出そうとするのだが、私達は出て行きたくない。
行く場所もない上に、ライターを気に入ってしまったのだ。
私達を追い出す前に事件は起きる。クーデターである。
革命家を気取るその女は、けいちゃん先輩の演じるライターの友人の恋人であり、ライターの友人でもある。
ライターは死の直前、私達に彼の仕事を譲る。
私達は本当の自由というものを求めて出て来た、縛られるのは本来ならばご免だ。
けれど、ライターは大切な友人であり、彼の望みを叶えてあげたい。私達はライターの本を受け取り、筆を執る。
サクエンは演出家を置かない。
このお話のイメージを脚本家であるけいちゃん先輩がはっきりと持っている。
けいちゃん先輩の思いをずっと聞いてきたからこそ、そのイメージを皆が共有することが出来た。
その結果、まるで演出家がいるのではないか、と思える仕上がりになっている。
瑞希がほぼ舞台に出ずっぱりなのも、一つの要因だとは思うけれど、けいちゃん先輩の本への思い入れの強さあってのものなのだろう。
本を置き、目を閉じる。
ライターと出会うその場所、温度、空気、色んなものを現実のものと思えるように想像する。
役者の仕事は想像から現実を創ることだと私は思っている。
今日は調子がいい。
今まで以上に私はコンをフルに生きる事が出来る、そんな自信が溢れてくる。
目を開くともうすでに一時間以上経っており、キッチンの方から物音が聞こえている。
「お父さん観に行かれへんから、劇場まで送ってくれるって。お母さんはおばあちゃんと観に行くから、頑張りや」
「うん、楽しみにしててな」
何でも無い夏休みのひととき。
けれど、いつものこのリビングが少し輝いて見える。
高揚感が日常の見慣れている風景を変えてしまうのだろう。
この瞬間、私は強く生きているのだと感じる。
「朝からお嬢様みたいな登場やな」
車から降り父にお礼を言って見送ると、加奈美と奈菜に出会した。
二人は気が合うのか、一緒に居ることが多い。
「遅刻魔が早く来るならいいんちゃう?」
その後ろから瑞希の登場である。
優しい言葉を掛けて朝の清々しい気持ちを……なんていう心遣いはないのだろうか。
「一応いつもギリギリセーフやもん」
「そうやっけ?」
瑞希とはいつもこんな感じだ。
五年も一緒に居れば、こんなことで心底腹が立つ事は無い。
正直なところ、瑞希のこういった憎まれ口には居心地のよさすら感じている。
四人で劇場の前に立つ。
「なに見てるんやろな。早よ行こ」
加奈美の鶴の一声で私達は劇場に入った。
夏フェスのスタッフが早くから来てくれているお陰で、古川先生を待つ事無く入る事が出来るのはとてもありがたい。
先輩たちもまだ来ていないようでホールはがらんとしている。
私達は早い者勝ちと言わんばかりに、楽屋の争奪戦を勝手に始め、各々荷物を広げ始め、ジャージに着替える。
私は本番前に必ず腹筋をする。これなくしてテンション上がらず。
一番にホールに駆け出し、ど真ん中を占領してストレッチを始める。
加奈美たちもホールにやって来て、発声をしたり科白や動きの確認をしている。
自分のモチベーションの上げ方を皆分かっているのだ。
「やる気を感じるな」
体が温まってきた頃、けいちゃん先輩とうさ先輩が劇場入りだ。
「古川先生、今トラックで向かってるって。もうすぐ着くらしい」
搬入には毎回古川先生の知り合いから借りたトラックを使わせて頂いている。
経費節減、とでも言うのだろうか。
「奈菜、ちゃんと軍手持ってきた?」
「はい、百均で買ってきました」
加奈美と奈菜はペアを組んで体をほぐしている。
瑞希は柔軟をしながら台本の最終チェックだ。
まもなく搬入作業が始まるのだろうと、私は鞄からガチ袋と軍手を取り出す。
このガチ袋は去年引退した、特に私が尊敬していた先輩から譲り受けたものだ。
これを持っていると上手くいくような気持ちになれる。私にとってのお守りだ。
「おはよう。うちの親から栄養ドリンクの差し入れ。冷蔵庫に入れてるから飲んで」
すでにジャージに着替えた美紀が現れる。一体、どこで着替えたのだろう。
美紀の父親はみーくんと呼ばれるほど、私達二年から愛されていて、差し入れを毎回くれるのである。
娘を溺愛する彼を私はマスコットのように思っている。
幽霊部員たちも続々と集まり始める。
本番まで八時間を切っている。
「古川先生が到着! 全員上がって。けいちゃんはここで指示。今井は上で指示。私は上と下を回るわ」
「はい」
うさ先輩のてきぱきとした指示がホールに響き渡る。私達は声をそろえると、一斉に階段を駆け上がった。
私達の気迫に、劇場が震える。
階段を上がると、古川先生がトラックの扉を開いて、どんと待ち構えていた。
私はトラックによじ登り、荷物を待つ部員に次々と渡していく。
声を掛け合い、無駄な動きを省いててきぱきと運んでいく。
今回はそれほど道具が多いわけではない。予定よりも早く終わる筈だ。
トラックの中は順調に空間が増えていく。今ここに居る人間に渡せば残りは段ボール一つが残るだけだ。
「美紀までで荷物終わりやな」
目の前に居るのは少し疲れた顔をしている瑞希だ。
「瑞希、階段で誰かに会ったら終わりって伝えて」
「はいよ」
「頑張れ」
瑞希はぐっと親指を立ててから、私から段ボールを受け取った。
美紀に段ボールを渡すと、最後の段ボールと共に私はトラックを降りた。
扉を閉めて、古川先生に終了を伝え、私は段ボールを抱えて、ホールへと続く階段を駆け下りた。
お昼が終わると、場当たりとゲネプロをし、そして本番である。
OGの一部の方が、ゲネプロを見に来てくれるらしく、妙に緊張してしまう。
ゲネプロとは本番通り全てを行う事なのだが、先生やOGが最後のだめ出しをしてくれるのがサクエンのお決まりだ。
だめ出しといっても、精神ダメージを伴うような批評はここでは行われない。見切れや声の大きさなど、劇場に来て初めて分かる事が主である。
場当たり中、けいちゃん先輩が客席側から確認する為、美紀が代役を務めた。何度か見た程度の筈なのに、美紀は動きも科白も完璧に再現して見せた。
「地区大、絶対美紀出すべきやな」
次回脚本を担当する事が決まっている加奈美が呟く。
私も大いに賛成だ。
ゲネプロも順調に終えた。
ガチ袋の本来の持ち主である去年卒業した山下先輩から激励の言葉を賜る事も出来、私は更にテンションを上げている。
山下先輩と演技をすると、いつも新鮮な気持ちになれた。
今井理沙という人間が稽古を何度繰り返したとしても、コンは全て初めて経験する事なのだ、先に何が起こるかなんて知らないのだ。
そんな当たり前の感覚を当たり前のように持たなければならない事を再確認する。
会場の十七時半。
サクエン全員が舞台に集合し、大きな円陣を組む。隣の人の肩に手を回し、上体を低くして頭を突き合わせる。
真剣な表情がぶつかるのだが、私はいつもこの瞬間、笑い出しそうになるのをこらえる事に必死だ。
「けいちゃん」
部長であるうさ先輩が、彼女の隣にいるけいちゃん先輩を促す。
けいちゃん先輩は一度大きく息を吸い、少し間を置いた。
「今回で三年は引退です。この本はこのメンバーでしか絶対に出来ない。このメンバーだから出来る最高の舞台にする為に、今日は、思いっきり楽しもう!」
「はい!」
心が一つになる、なんていう言葉は恥ずかしくて口にはなかなか出せないけれど、きっと誰もが今この瞬間思っているに違いない。
「行くぞ、サクエン!」
「おー」
うさ先輩のかけ声に続いて、自分でもなんて言っているのかよく分からない雄叫びを上げる。
女子校とは思えないこの叫び声をシスターなどが聞けば、卒倒するかも知れない。
「開場するで」
古川先生は一言残し、そのまま受付へと消えていった。
私達もいそいそとその場を後にした。
楽屋に戻り、お水を飲む。
音響がブースに入ったのだろう、客入りの曲が流れ始めたのを皮切りに、客席に一人二人と人が入ってくる気配が感じられる。
美紀は幕の介錯をする為にこちら側にいてくれる。
緊張でかちこちに固まっている奈菜の気を紛らわせる為に加奈美が何か話しかけている。瑞希は最後の最後だと言わんばかりに台本と睨めっこしている。
急に緊張が私を襲った。
「私、袖におるわ。本番、よろしくお願いします」
楽屋を一人出て、袖へと向かう。
舞台上は一筋だけ明かりが差し、私と反対側に置かれたロスコにより幻想的な演出が施されている。
舞台と客席の間に仕切る物は何もない。
曲も照明もスモークも全てけいちゃん先輩の世界観だ。
開演はまだだが、この世界はもう既に始まっている。
現在うっすらとホリゾントは深い青が差しているが徐々に赤に変わる。
袖で、私は今朝したように、目を閉じて精神集中をする。
流れるクラッシックの曲が心地よい。
コンの経歴や服装、踏みしめる地面の感覚、風景、ありとあらゆるものを感じる。
私は途方もなく凡人だ。才能なんて欠片も無い。
こうして毎回集中しなければ納得できる物が出来ないのだ。
今日は不思議な感覚だ。
いつもよりも、リアリティを感じる。
風と言えば、冷房くらいのものなのだが、荒野に吹く乾いたそれを感じる。
抑圧された好奇心。渇望した自由。
遠くから古川先生の前説が聞こえる。
始まりまであと僅か。
キャストが続々とこちらに集まってくる気配を感じる。
朝直感した「できる」という感覚をもう一度感じ私は目を開く。
曲がどんどん大きくなっていくと共に、舞台の照明がフェードアウトしていく。
加奈美の手が私に触れる。
完全暗転になった瞬間、加奈美の手に引かれて私達は真っ暗な舞台へと向かう。
私と加奈美は雛壇の上に立つ。
その下に居るライターにぽつりとサスが指した。
「鳥は……自由に大空を羽ばたいていると云うけれど、誰がいつどこで何を根拠に定義づけたのだろう――」
瑞希の声のトーンがいつもと違う。
けれど、それはいつもよりもこの劇場の空気に合っているような気がした。
加奈美の手をぎゅっと握る。それに呼応して加奈美も力を加えてくれる。
照明がぽつりぽつり付き
「だから僕は、唯一の絶対なんだ」
ライターが全てを言い終えた瞬間に全ての照明が付き、色が出来上がった。
隣の加奈美の息を吸うのを私は感じるだけでいい、合わせるだけでいいのだ。
「私は、出て来ました!」
私と加奈美の声が重なる。
私と加奈美はここで漸く手を離し、派手に雛壇から飛び降り、ライターを取り囲んだ。
ライターは満足そうな表情を浮かべて倒れている。
私はそこから離れられずにいる。
引き継いで欲しいと遺言を残して、彼は、勝手に逝ってしまったのだ。
胸が苦しい。心臓を鷲掴みにされたようで、上手く呼吸が出来ない。
「コン。私、決めたわ。……引き継ぐのよ」
「キョウ?」
ぼんやりとキョウを見上げる。
地面に座り込んだままの私と違い、キョウは一人立ち上がっている。
「彼の後を継ぐのは私達しかいない、だってそうでしょ、彼が唯一の友人だと認めてくれたのだもの。他に理由が必要?」
キョウが差し出してくれるその手に私は救いを求めるような心地だ。
「そうだね」
ゆっくりと立ち上がる。強く、強く地面を踏みしめる。
「引き継ごう、キョウ、私達が。私達にしか創れない、自由で面白いもの。あいつが驚くくらいに、全うしてみせよう」
キョウが筆を執ると、人々が集まってくる。
これは初めて彼と出会った時と全く同じ光景。
人々は晴天の許どこへ行こうか相談していた。
彼は私達にどうなるのかと問うた。
私達はピクニックにでも行くんじゃないかと詰まらない返事をしたのだが、彼は豪雨を降らせて解散させてしまった。
「ねえ、この後どうなると思う?」
キョウは天を見上げている。
筆を持つ手が、震えていた。
私はキョウの手から本と筆を奪い、つらつらと書いた。
「解散!」
人々が、散っていく。
彼と見た風景と何一つ変わらない。
いや、変わった事が一つある、もう彼がいないという事だ。
「私達もきっと何も変えられないかも知れない」
「だけど見ていて。この使命、やり遂げてみせるから」
音が大きくなる。
ふと涙がこぼれた。
おかしいな、いつも笑って終われるのに。
腕を少し上げて胸のあたりで私は本を見つめた。
笑おう、笑わなくちゃいけない。
正面を見て、笑顔を作る。眩しくて目を細めたくなるけど、今は笑わなくちゃいけない。
照明がフェードアウトして暗転した。
拍手が耳を割るように響いている。
照明が再び着くと、私と加奈美の間には瑞希がいて、全員が集合している。
終わったのだ。
ふわふわとした、地に足が着かないような心持ちで、周りに合わせるようにして一礼してハケた。
我先にと皆が受付へと向かったお陰で、楽屋はがらんとしている。
今までに感じた事のない、不思議な感覚がまだ抜けきっていない。
「今井」
「はい!」
けいちゃん先輩の声で、私の意識は急速に現実へと引き戻された。
「実は、コンはライターの事が好きっていう裏設定があってん」
「なんで今言うんですか!」
そんな重要な設定、本番が終わってから言われるのは困る。
「最後、変えたやろ? 袖で見てて泣いてもうた。裏設定、気付いてくれたんやなあって」
泣いた理由が分からなかった。
もやもやとした意味不明な感情を、けいちゃん先輩によって私は漸く理解した。
自分がどう演じているのかすら、私は理解できていなかったようである。
「客出し、行くで」
けいちゃん先輩に引っ張られて、私も皆と同じように外へと向かった。
受付は人で溢れていた。
母と祖母の姿を見付け、人の間を縫うようにして進む。
「腰痛になるわ」
「やろうね。ありがとう」
「よかったで」
シュークリームの差し入れを私に渡すと、母はさくさくと帰ってしまった。
「今井! 写真撮ろう」
瑞希の周りにクラスメイトがいる。
「今行く!」
人混みをかき分けてそちらに向かう途中、人にぶつかってしまった。
謝ろうと顔を上げたその先にいたのは、なんと佐伯斎であった。
「桜女子っぽくない」
「……」
こいつは、一体何なんだ。
どこまで嫌な奴なんだろう。
「そうですか。わざわざ観に来て下さってどうもありがとうございました」
事務的に一息で言い切ると、ぺこりと頭を下げて彼の脇を通り過ぎた。
「めっちゃよかった」
通り越したところで、彼は小さく、しかし耳にまっすぐ届く声で呟いた。
振り返ったが、彼は既に人混みにかき消されていた。
私が黙っていれば、彼は感想を、よかったという思いを伝えていてくれたのだろうか。
私は……なんて嫌な奴なんだ。
後悔の念が押し寄せる。
「今井! なにしてんねん!」
瑞希の大きな声が私を呼ぶ。
私は気持ちを切り替えて、瑞希に手を振り、そちらへと再び歩を進めた。