CRAZY GIRL

I wish I wrote wonderful novels.
So I love to write storys.

彼の背中

3.

 稽古は順調に進んでいた。
 今年は私の体調も順調で、夏バテの様相を見せるものは誰一人としていない。
 明日はついに本番という事もあり、午前中に最後の通し稽古をし、搬入作業も無事終え、皆で古川先生の奢りで学校近くのファミレスに来ている。
 今日ばかりは、普段は幽霊部員に徹している面々も顔を出していたのだが、搬入作業が終わると同時にほとんどの幽霊たちは姿を消した。
 同輩の幽霊、木村美紀は私と瑞希に両脇を固められ、渋々といった様子ではあるがここへと連れ出されている。
 美紀は手先が器用で、大道具や小道具を担ってくれている。
 彼女の仕事は細部までに拘り尽くされており、完璧という言葉を与えてもいいようなものを仕上げてくれる。
 雑な私が過去一度手伝おうとした事があるのだが、叩き出されてしまっている。
「明日は十時から搬入。十二時からお昼を取って、十三時から場当たり、十五時からゲネをする。搬入さくさくしたら皆、体と顔を作って、お昼もだらけないように」
「せんせ、それ、さっきも聞きました」
 けいちゃん先輩がくすりと笑っている。心優しいけいちゃん先輩につっこみを言われてしまい、古川先生の頬はほんのり赤くなっている。
「明日本番かあ」
 瑞希が誰にともなく呟いた。
「せやで、本番! 一年は初舞台、三年は引退。思いっきり楽しもう。では、グラス出してー。乾杯!」
 けいちゃん先輩のかけ声で私達はジュースの入ったグラスをかちんと合わせた。
 先輩はいつもそうだ。
 どんな空気でも一瞬に持って行ってしまえる。
 誰もが何でも無い振りを装っているけれど、やはり緊張せずにはいられないのである。
 もちろん、この緊張は嫌なものではない。
 この緊張は、心臓をぎゅうっと掴んだようなそんな感覚を私に与える。
 私はこの感覚が好きだ。
 私の心を鷲掴みにするこの感覚。これがあるからこそいいものを作れるのだと思う。
「明日は私達が呼んだ人以外には、先輩方、他校も来てくれるらしい。明明後日が本番の北高も来てくれるみたいやから、本番二日後北高の舞台観に行くで」
 うさ先輩は一気にグラスをからにすると、ジュースサーバーの方へと歩き出す。それを追いかけるようにしてけいちゃん先輩も席を立った。
「今井、良かったな」
「へ?」
 唐突すぎる瑞希の言葉は、全くもって意味不明である。
「北高来てくれるやん」
 瑞希のその言葉の多くを悪意が占めている事に私は気づき、眉を顰める。
「なんや今井、北高に友達おったんか」
 何も知らない古川先生に罪はない。罪はないのだが、あまり話を膨らませたくない私は愛想笑いをしてこの場をしのごうと決めた。
「佐伯斎に一目惚れしたらしいんですよ」
「瑞希! あんたいい加減な事言わんといて」
「でもある意味そうやな」
「加奈美まで!」
 こんな事で熱くなってしまう自分が愚かだとは思う。しかし、あんな嫌な奴に一目惚れしたなどと冗談でも言われたくないのだ。
「佐伯君か。彼はほんまにすごいわ。去年北高全国に行ったやろ? 優勝は東京に持って行かれたけど、最優秀主演賞は彼が手にしてる」
 私の心境など露知らず、古川先生は語る。
 佐伯斎、彼はあの時思ったように、やはり天才なのだろう。
 彼を取り巻くあの空気、どうすればあんな存在感を出す事が出来るのだろうか。
 悔しいけれど、足下にも及ばない。
「私、先輩方のお芝居ほんまに好きで、尊敬してます。私からしたら先輩方の方がずっとずっとすごいです!」
「山中、発声が出来てるのは分かったから。でも迷惑」
 興奮して立ち上がった奈菜に、美紀が冷静に注意をする。
 奈菜は蒸気を噴き出さんばかりに顔を真っ赤に染めて「ジュース入れてきます」と言い残し、まだ山盛りジュースの入ったグラスをテーブルに置いたままサーバーの方へと走って行ってしまった。
「今井が惚れたのは演技やろ。今井が男にキャッキャ言ってるとか、嫌やわ」
 静かにホットコーヒーに口を付け、美紀は淡々と話す。
「美紀、大好き!」
 ちらりと美紀がこちらに視線をよこす。
 その目は楽しそうで、そして優しくて、私は彼女に救われたような気持ちになった。
「北高は確かにすごい。けど俺は、サクエンも負けんくらいいい芝居してると思ってる」 古川先生はあまり私達部員を褒めない。
 ずたぼろになるまでの彼の批評に何度泣かされた事だろう。
 しかし、こうやって時折私達の気分を盛り立ててくれるのだ。
 サクエンこと桜女子高等学校演劇部は、なんだかんだ彼あってのサクエンなのだ。
「じゃあ、お金はうさに渡しとくから、遅くならんように帰るんやで」
 うさ先輩は少し離れた席に、けいちゃん先輩と、そしていつの間にか二人に捕まったのであろう挙動不審な奈菜が座っている。
 古川先生は歩き出し三歩目でぴたりと止まり、顔だけこちらを振り返った。
「今期は二年が要や。歴代一期待してる 」
 それだけ言うと、まるで何もなかったかのようにうさ先輩目指して歩き始める。
 私達はお互いの顔を見合わせると、古川先生の方へと一斉に顔を向けた。
「古川先生、大好き」
 黄色い私達の声は間違いなく届いたはずだ。
 振り返らず歩き続ける先生の顔はきっと茹で蛸のようで、だけれど満更でもない表情をしているに違いない。
 私達は再び顔を突き合わせて笑い合った。