えびちゃんの山行記録 セカンドステージ 0


敬三先生の足跡をたどって(立山、御山谷)
雷鳥沢からの眺め
雷鳥沢から室堂方向を眺める

日 付
 平成16年5月6日(木)〜8日(土)
ルート
 1日目: 室堂〜ミクリガ池〜雷鳥沢幕営地〜雷鳥荘の斜面滑走
 2日目: 雷鳥沢幕営地〜御山谷滑走〜雷鳥沢滑走〜幕営地
 3日目: 幕営地〜雷鳥沢滑走〜雪上車道〜室堂
天 候
 奇跡的にほとんど晴れ!
同行者
 ジョニー、キムチ(八尾テレ研)

初めに
 八尾テレマーク研究会のシーズンの終わりに、近畿圏外の山にバックカントリースキーに行くことは一つのルーティンとして定着し、第1回は「御嶽山」、第2回は「富士山」、第3回は「乗鞍岳」、第4回は「加賀白山(単独)」に挑んで滑走に成功!それぞれ大きな成果を得てきたわけであるが、第5シーズンの節目となる研究会は満を持して「立山連峰」に挑むことになった。
 立山研究会は教祖の古い友人である「キムチ氏」にも参加いただき、その3人分の搭載能力を生かして雷鳥沢の幕営地でテント泊をすることにより、初めて2泊3日の研究会としたが、立山連峰といえばシーズン初めの初滑りから、シーズン終了のバックカントリースキーまで「山岳スキーの聖地」と呼ばれる山々であり、そのスケールはこれまで経験したことのないものであったから、到底その全容を知ることは出来なかったと思う。
 またGWの終わりに実施された立山研究会は、GW中に登った地元の「建部山」「青葉山」の山行記録作成に追われ、「八尾テレの活動記録」として報告されたのみで、その詳細な記録が作成されることはなかった。当時は記録作成よりもビデオ撮影や、滑走を楽しむことに焦点が移っていた時期であったことも、先延ばしにされた理由だろう。そして八尾テレ2004ビデオの完成により、記録作成のエネルギーは完全に費えてしまったと思われる。

 令和3年4月の今、改めて当時の写真やGPS軌跡を見返すと、その圧倒的な情報量に、盛り上がっていた山行記録作成のモチベーションが吹き飛んでしまうほどの衝撃を受けた。これをどうやってまとめていけば良いのか?あのとき「八尾テレの活動記録」を作成した段階で、山行記録に取り掛かることなく、心が折れてしまったのも頷けるというものだ。
 今回、初めて明らかにされる山行ルートは以下のとおりである。

立山移動ルート〜クリックして拡大〜

 あれから17年の時を経て、この研究会の記録を作成するにあたり、ある記録映像を視聴した。
 NHKの「あの人に会いたい」プロスキーヤー三浦敬三(1904〜2006)である。
 *おそらく「にんげんドキュメント 96歳の大滑降(2000.6.22)」からの抜粋だと思う
 敬三先生がシーズンの締めくくりとして立山の御山谷でバックカントリースキーをされていたのは有名だが、先生の言葉がこの年になって聞くと秀逸である。「90歳を越えてから(スキーが)上手になっている。上達する要素があるんです」と先生は言っているのだ。だったら私なんかまだまだヒヨッ子である。思わず涙が出た。あのころのNHKは「プロジェクトX」もそうだったが、日本人に誇りを抱かせるような番組をまだ作ってくれていた。視聴率なんか関係なく日本人の心を奮い立たせ、国を愛する心を育てる番組を制作するのが公共放送局としての役目ではないか?そうすれば近年「N国党」なんて生まれなかった(と思う)。悲しい限りである。
 それにしても2004年か、まだ先生は存命であった。会いたかった・・・。

第1日目
 立山(室堂)に至るルートは、東京方面からだと黒部ダムなんかを越えてくるので、かなり高額の費用が必要らしく、「関西方面からだと富山からケーブルカーとバスで安く行けるので羨ましいね」なんて言われたことがあるが、実際に計画してみると、それでもこれまでの研究会に比べると費用は倍ぐらいかかってしまうことが分かる。これが教祖様が立山へ積極的に行こうとしなかった最大の理由であるらしいのだが、5年目の節目として、ついに教祖様を連れて伊勢から富山まで進出することが叶ったわけである。
 移動間の記憶は定かではないが、11時半にはケーブルカー立山駅付近において八尾テレの目撃情報があったようだ。

出発前の準備
 おそらく、道中にてピックアップしたと思われるキムチ氏と立山駅の駐車場で細部の打ち合わせをする。まだキムチ氏の実力はベールに隠されているが、キラリと光るT2を履いているところを見ると、革靴の2人よりは戦闘力がありそうだ。
ケーブルカーにて
 ケーブルカーが引っ張る台車に板とザックを載せて、ケーブルカーに乗り込む。終点の美女平まではあっという間だが、一気に高度を稼いで、そこからは尾根道(立山有料道路)を観光バスで室堂ターミナルまで向かう。
 事前の情報は無かったのだが、美女平から室堂へ向かうバスに、スキー板や大きなザックを載せる際には追加料金が発生し、やはりここは観光地なんだな〜と実感する。(乗鞍だったら無料なのにね〜)
 で、立山アルペンルートの見どころと言えば、バスの屋根より高い積雪であろう。よくニュースや絵葉書なんかでもお目にかかる光景だが、登れど登れど道路脇の雪壁は低いままだ。「もしかして今年は雪が少なかったのか?」とも思ったが、そうではなく超絶高い道路脇の雪壁は室堂ターミナル(終点)の辺りだけらしい。「ええ〜これだけ?」想像と実物がこんなに違うのは、北海道(札幌)の時計台以来かもしれない。あまり期待しすぎると肩透かしをくらう良い例である。
バスから眺める雪壁
 確かに、数メートルの雪壁は凄いが・・・バスの窓から写真を撮っただけで、現場に行っても雪壁に落書きなんかしてあって、あまり感動もなく、写真も撮っていない。ただターミナル到着が13時半頃だったので、一番下の駐車場から2時間足らずで立山連峰の中心部に到着できるのだから、文句を言ってはいけないのだろう。
室堂にて
 室堂ターミナルの中は、普通の観光客の皆さんでごった返していて、周辺案内図で雷鳥沢キャンプ場(幕営地)の場所を確認すると、早々に出発する。
 雷鳥沢幕営地までは、大型テントや食材を満載したザックを分担し、自分の装備に追加して担ぐことになるが、下り基調なので特に問題はなかった。
みくりが池を経由して幕営地へ
 GPSの電源を途中から入れたので、移動経路はハッキリしないが当時の記録を見ると「みくりが池」を経由して幕営地へ移動したものと思う。(14:35に幕営地到着)
雷鳥沢幕営地
 キャンプ場には、今回持ってきた大き目のテントにちょうどよい高台があったので、そこにテントを張り、太陽が沈む前に南側の雷鳥荘がある丘に登って、足慣らしをすることにした。
 夕焼けが迫る中、素晴らしい景色を見ながら気持ちの良い斜面を滑走し、テンションが上がってしまったのだろう。ここでキムチ氏は
 「フリーヒーラー28號として踵(かかと)解放戦線に身を投じること」
 を教祖様の前で高らかに宣言したのでありました(やっちまった訳ですよ)。なお滑走などの状況は「八尾テレ2004ビデオ」を参照してもらいたい。
28號襲名の儀
 あまりにも厳かな空気が立ちこめていたため、28號襲名の儀は涙で曇って良く見えなかった。
 (実はレンズに雪が付着しており、ボヤけていた模様)

<幕営地にて>
 夕闇が迫る中、夕食準備。「今日はみんなが大好きなレトルト・カレーです。なので失敗はありません。」という計画だったが、標高2300メートルで炊くごはんには芯が残るんです・・・。

晩御飯失敗!
 地元では「ごっちんご飯」と呼ぶように登山家にとっては常識なんです。そして焦げてるんです。美味しくないんです。ということで、疲れておなか空いているはずなのに、ごはん残すなんて、農家の人が泣くぞ〜!

 夜は物凄い風が吹いたと思われる。記憶に残っているのはなんで高台にテントを設営したの?普通は風の影響を受けないように低いところに設営するよねって話しあったような・・・
 「強風のため、テント内に吊るしてあった、ろうそくランタンが傾いて溶けたろうが顔面を直撃し、お二人が大笑いしていたのを思い出します。あの時のろうがついこの間まで私の寝袋からポロポロ出てきてました(泣)」(教祖談)

良い例・悪い例
 結論:テントをお城のように設置するのは間違いです!

 真面目な教祖様は幕営管理所へ行って、幕営料をしっかりと払ってきていた(こういうとこはマメなんです)。値段は忘れたが、その証明として「雷鳥沢キャンプ場」のキーホルダーをもらう。
 「あのキーホルダー、探したらまだ手元にあったよ。」

第2日目
 いよいよ立山研究会のクライマックスとなる「敬三先生が愛した御山谷」へアタックする時がやって来た。

一ノ越へ向け出発
 パンで朝食をとって8時過ぎに一ノ越を目指して出発する。ゆっくり2時間ほどかかって一ノ越山荘に到着。途中、雷鳥から何度も声援を受けた。
一ノ越
 よく覚えていないが結構しんどく、山小屋で暖かいココアを飲んで生き返ったような気がする。

 そして、いよいよ御山谷の滑走だ。御山谷は立山連峰の南斜面、晴れていれば雪質が悪いわけがない。斜度も均一で、なぜ先生が愛したのかは滑ってみたらすぐに理解できた。

御山谷を滑る
 そう、気が付くと
  声がでます 「ひゃっふぉ〜い!」
   手が上がります 「ばぁんざぁ〜い!」
    と・に・か・く 「さ・い・こぉ〜で〜す!」
     そして、最後に 「前転だ!それ〜ゴロゴロ〜〜」

敬三先生が愛した御山谷
 御山谷を滑ったという充実感が、そのあとの登り返しが非情であり、向かい風できつかったことも何もかも許してくれた。詳細はビデオにて・・・

<空飛ぶ雷鳥>
 立山連峰の雷鳥は元気です。いたるところでグェッグゥェ!と鳴いたり、元気に空を飛んだり(おそらく滑空)していて、乗鞍のチョコチョコ歩く可愛らしい雷鳥とはちょっと種類が違うのかもしれないとさえ感じた。雷鳥の飛行シーンをビデオに記録することに成功し、異様に興奮したことも覚えている。詳細はビデオにて・・・(しつこい)

<雷鳥沢で・・・>
 好事魔多し。少し早く幕営地に戻ってきたので、今度は北側の剣御前小屋がある峰の斜面(雷鳥沢)を滑ることになった。登れるところまで登って滑るだけという、お気楽な滑走だったのだが・・・。

 実は、御山谷からの帰りは絶好調だった。板はほど良く滑りショートターンやロングターンが思いのまま。「ザックを担いだときのカルフ10thマウンテンは神板だな!」と思ったのはその前兆だったのか?
 空身(何も持たない状態)で登った雷鳥沢。下りで思いっきりターンしたら、板が外れてズッコケてしまった。こんなこともあるよねって板を付けなおそうと思ったら板にビンディングが無い。。。何処へ行った?見渡しても何もない。もしかして・・・もしかして・・・右足を見ると、つま先にビンディング「ハイテックケーブル412」がぁ・・・・付いていた。
 「今ここで、Tの悲劇かよ・・・」

Tの悲劇
 プラブーツだと、3本のビスで取り付けるビンディングはネジと板への負担が大きく、Tの悲劇が起こりやすのだが、革靴でしか滑ったことはないので負担は大きく無かったはず。そこで板のビス穴を見ると、木が腐っていた・・・。長年の使用で水が入りこんで腐ったのだろう。山での性能はピカ一だったけど、あぁ本体は弱かったんだよね。まるで沖田総司(新選組)のように。
 合掌m(_ _)m
 御嶽山から、ほとんどの山々において苦楽を共にしてきたこの板は、新たなビンディングを付けて、コレクションとして永久保管しています。

第3日目
 夜のうちに、なんとかカルフをを復活させようとしたが、木が腐るという想定はしていなかったためどうにもならず、3日目は教祖様が雷鳥沢を滑る(キムチ氏の行動は不明)のをビデオに収めたのち、室堂ターミナルへ雪上車用の道を通って戻ることになった。片足だけスキーを履いての移動は辛かったと思う。

手に持っているのはビンディング
 室堂ターミナルに無事到着し、左手に、もげたビンディングを持って嘆いている姿

 たった3日間だったが数えきれないほどの思い出が詰まっているあの立山連峰に、叶うことならもう1度行って滑りたい。90歳を過ぎても敬三先生はシーズンの終わりに御山谷を滑り、自分の足で登り返していた。
 「山岳スキーは、普通の状態のスキー場では味わうことのできない深さがあるんです。ですからそれを追い求めると、どこまで行っても限りがない。雪質の変化で技術を変えていかなくちゃいけないということも興味の対象じゃないか」(敬三先生談)
 我々は間違いなく敬三先生の足跡をたどっていると思う。

第54研究会を終えて微笑む
 立山連峰は、まさに山岳スキーの聖地でした。

終わりに
 当時、この山行記録を作っていれば、もっと詳細なものができたと思うが、もしかしたらもっといい加減なものになっていたかもしれない。写真やビデオ、GPSの軌跡や教祖様との思い出話から、勘違いもたくさんあると思われるが、なんとか記憶をサルベージすることができたのはある意味<奇跡>である。
 もしかすると、十数年前の記録を今(令和3年4月末)作成することに大きな意味があったのかもしれない。(当時は「Tの悲劇」の概念もなかった)

 そしてこの記録をFH28號、キムチ氏に捧げようと思う。彼にこの記録を読んでもらったとき、真の意味でこの物語は完結することになるからだ。彼は立山研究会の3ヶ月後、乗鞍ヒルクライム・スキー研究会において更なる地獄を見ることになったのは周知の通りである。
 その状況はビデオにて・・・(いい加減にしつこい!)

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