八尾テレマーク研究会

活動記録(最終シーズン)

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H20.8.9〜11 第87回研究会 「乗鞍越境ヒルクライムスキー(完結編)」

 ☆ 八尾テレマーク研究会と乗鞍岳との因縁は根深い。

 平成14年春 テレマーク・スキーで乗鞍岳(剣ヶ峰)の登頂と滑走に成功
 平成15年夏 夏の乗鞍大雪渓にてテレマーク・スキー
 平成16年夏 板を担いで乗鞍エコーラインをヒルクライム(MTB)して大雪渓にてスキー
 平成17年春 テレマーク・スキーで乗鞍岳(摩利支天岳)の登頂と滑走に成功
 平成18年春 テレマーク・スキーで乗鞍ピークを目指すも猛吹雪のため肩の小屋にて敗退
 平成18年夏 板を担いで乗鞍スカイラインをヒルクライム(MTB)して大雪渓にてスキー
 平成19年春 岐阜県(平湯スキー場)から徒歩とスキーで長野県へ越境しようとして失敗

 そして平成20年夏。乗鞍岳最後の挑戦が始まった!

 今回の企画は、平成19年の春に乗鞍岳越境スキーが失敗に終わり、自転車だったら乗鞍を越境出来るだろうという事から始まりました。
 当然、ヒルクライムとくれば途中の大雪渓にてスキーをするのは外せない(なぜ?)ため、どちらかの登りはスキー板を担がなければなりません。こうなると「勾配の緩やかな岐阜県側からスカイラインを登って、大雪渓にてスキーをし、スキーを置いてエコーラインを長野県に越境して、次の日に逆経路を登り返す」という計画にならざるをえませんでした。(だからなぜ?)

 こんな無謀な計画にもかかわらず、恒例のキムチ氏(28號)とスノボーの梅ちゃんが参加してくださり、総勢4人で乗鞍越境ヒルクライム・スキーを完結することができました。スキーならともかくスノーボードを担いで乗鞍をヒルクライムした人は、記録上もほとんどいないのではないでしょうか?

正直ヒルクライムスキーはこれで最後にしたい
 ヒルクライムスキーも3回目ともなれば、ほぼ計画通りに事は進み、大雪渓にて史上初となるスノーボーダーへのTOCが認定されました。

 今度は長野側から越境するとか、往復すべて板を担ぐとか、両側から登って大雪渓で合流するとか、パターンはいろいろあって、どんどん過激な方向に事態が進んでいるので、正直もうこれ以上はやりたくないのですが、すべては教祖様のご意志ですので、あとは運命に黙って従うしかありません。
 しかし、ヒルクライムスキーは一応「完結編」とし、これからはもっと楽しい研究会を企画していく予定です。皆様の参加をお待ちしております。

 詳細な記録は「えびちゃんの山行記録SS」において報告しております。

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H20.11.24 第88回研究会 「私はテレになりたい」

 暖冬が予想される中、いつになく早い寒波の到来により、今シーズン初めての研究会は人工雪ではなく、天然雪もたっぷりのスキー場にておこなうことが出来ました。
 場所は鷲ヶ岳スキー場からちょっと車で走るだけで、ゲレンデ混雑が減少する「ホワイトピアたかす」です。 (2年前からのお気に入りスキー場)

 教祖様から「ゲレンデの状態が良いので細板と革靴を持っていく」と前日に連絡がありましたが、シーズン初めだし、教祖様の言うとおりにして良いことはあまりないので、プラ靴で行ったところ、確かに細板・革靴でも楽しめそうな状態でした。こんなこともあるんですね。

 前日まで出張で十分な準備ができず、気がつくとデジタル・カメラも持ってくるのを忘れていたので、写真は携帯電話の荒い画像のみでよく分からないのですが・・・

絶滅危惧種を発見
 う〜ん、その荒い画像ではよく分からないかもしれませんが、写っているのは紛れもなく幻の細板・革靴のテレマーク野郎です。それも2人も・・・一人は間違いなく教祖さまですが・・・もう一人はどうやら新種のようです!まさにイエティを発見したかのような衝撃です。
 掲示板から察するに「しのさん」という方であると思われますが、テレマークな皆さん、細革人は非常に貴重な存在ですので決して捕らえたり、エサを与えたりしないようにお願いします。

 「雪山を行くのならスキーがいゝ。いやスキーだと歩くのが大変だ。そうだ踵が固定されていないスキーがいゝ、テレマークなら歩くのも滑るのも自由で、何の心配もありません。どうしても雪山を行くのなら私はテレになりたい」

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H20.12.27〜28 第89回研究会 「君はローテイションを見たか?」

「おい、ローテイションてなんのことだかもう一遍云って見ろ」
 男は不意打の横びんたに夢から覚めたような顔をした。(中略)
「やい云って見ろ・・・・・」
「ローテイションというのは回転方向に上体をふり込んでいく走法です」
 男はややもつれる口調で塚村に答えた。
「ようし、それでいい、その言葉を口の中で念仏のように繰り返して歩くんだ」
    新田次郎「遭難者」から抜粋

 89回目の研究会は12月一杯はリフト1日券が1000円であるという理由だけで、御岳の最深部にある「チャオ御岳」に決定されました。ただ、朝5時に伊勢を出発したにもかかわらず、チャオに到着したのは昼前で、腹を空かした教祖様のご指導により滑走前に昼食ということになり、日帰りでは決して来てはいけないスキー場だということを思い知りました。
 おまけに途中までにぎやかだった案内板も、御岳マイアを過ぎたあたりからチャオ・オンリーとなり寂しい道中でした。車の数も激減・・・
 ただ、御岳の北斜面と云うことで標高も高く雪質は限りなく良かったです。

乗鞍でなにかが起こる?
 踏みつけるとキュッキュッと鳴く雪は革靴との愛称も抜群で、非常に楽しく滑れたのですが、教祖様はここでも一歩先を歩まれていました。なんと靴が布・・・だったのです!

「これからは布(ぬの)の時代っすよ・・・」
 と、いつもの訳の分からない理論を話し始めたのですが、あんな靴で普通に滑っている姿を目撃した私は教祖様は既に最終解脱を完了されていることを理解いたしました。常人は決して真似をしてはいけません(忠告)。
 ただし、転び方も半端ではなく、寒風を切り裂くような豪快な前転ひねりは近づくことも躊躇われるようなオーラを発していました。
 そして、新たに何かを悟ったのか、歯を食いしばるように一言
「八尾テレ・メソッドその1は『ローテイション』である」
 教祖様の結論は出たようです。ただ一町民の私には理解が不能でした。詳しい話は掲示板に教祖様が打ち込んで下さっているので、それを確認して下さい。

 今回の移動は教祖様のブルーノア号と呼ばれるホンダ・バモス(ターボなしAT)のため、高速道路での移動は忍耐を強いられましたが、車中泊では最適で快適な夜を過ごしました。
 場所はと言うと木曽福島スキー場の駐車場であり、必然的に研究会2日目はスキー・オンリースキー場として有名?な「きそふく」となりました。

2日目はスキーオンリーゲレンデ
 夜はしみじみと雪が降ったので朝一番のゲレンデは気持ちよかったのですが、標高が下がったためか雪の劣化が激しく、昼以降は混雑したせいもあって、いくらスキー・オンリーと言っても快適に滑ることは出来ませんでした。
 この日は「蛍の光」を聞くこともなく退散し、ここに平成20年(踵開放歴10年)の滑り納め研究会は見事に幕を閉じたのでありました。

 執筆活動をする気持ちの余裕がなく、この記録も曖昧なものになってしまいましたが、きそふくではスキーオンリーゲレンデということで、かなりのテレマーカーさんをお見受けしたように記憶しております。

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H21.1.24 第90回研究会(その1) 「長生きはするもの・・・」

 バモス車中泊スキー(通称:ブルーノア計画)第2弾として、教祖様出生の地に近い長野県南部のスキー場で研究会を行うことになりました。次の日は「東の守り」である茶臼山高原に進出する予定です。
 あららぎ高原スキー場は規模は小さいながら、メインの緩斜面ゲレンデの奥に急斜面ゲレンデがあるので、練習に来るには適したスキー場であると思いました。
 ただ「積雪があるのは標高が高いから」というこの地方は、太平洋性気候のためか朝からハードなバーンで、昼頃の急斜面はギラギラのアイスになって、たまらずプラ靴に換装したのですが、アイスバーンの厳しさを思い知る事になりました。

それぞれの目的をもって・・・
 教祖様に至っては、こんなバーンにもかかわらず布靴で挑んだため、急斜面エリアでは猛烈なダメージを受けていたようです。長生きはするもんです。。。。(目撃者談)

 教祖様が布靴を履いていたのは別の理由があったのかもしれません。
 第76回研究会の続きで22號のテレマーク・レッスンをしていたのです。

ついに22號も真のテレマーカーに!
 22號は言わずと知れたスキー初心者から細板革靴セットでテレマーク・スキーをはじめた冒険者であり、壮絶な転倒シーンは細革挺身隊随一のようでしたが、なんとテレマークターン(第一段階)が完成していました。テレマーク特有のスライディング転けもマスターし、遠くからでもテレマーカーのようでした。
 ほんとテレマーク進化の過程が見れるなんて、長生きはするもんです。。。。

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H21.1.25 第90回研究会(その2) 「東部戦線異状なし」

 「茶臼山」 それは愛知県唯一のスキー場で八尾テレ東の守り・・・カチカチのブルーアイス山を防衛するのは半端な覚悟では不可能らしく、八尾テレの中でも濃いいメンバーがそろうのが「茶臼山守備隊」。そういえば極右翼である「細革挺身隊」や少年部隊「茶臼山ユーゲント」もここで誕生したという。
 茶臼山はまさに東部の阻止限界線。こんな重要な拠点であるにもかかわらず、今まで一度もレポートがなかったのは、凶暴な嵐が吹き荒れるそのあまりにも劣悪な滑走環境のため、これまで取材が不可能であると言われてきたからである。
 しかし今回我々取材班は長野県南部スキー場地区からの潜入に成功し、その恐るべき実態を解明することに成功した!!ただし、そこには想像を絶する死と隣り合わせの世界があった(涙)!

 早朝2時頃、既に取材車(バモス)の車内は零下8度を記録しており、夏用シュラフにくるまる従軍記者エヴィンは生死の境目を彷徨っていた。「神はなぜ私にこのような試練をお与えになるのだろうか?」<それはすべてインチキ教祖が悪いのですよ♪ by神様

 そうなのである、車中泊するといってもスキー場近傍の風の吹かない駐車場(たとえば道の駅など)に車を止めれば、ここまで寒くなかったはず。しかし、そんな疑問を一切許さない教祖様は、わざわざ茶臼山最上部まで車を走らせ、駐車場の中でも雪が積もって凍っている所に車を止めたのである。周辺にはアスファルトが見えている地域があったにもかかわらずである。
 「どうやら私は教祖様にはめられたらしい。」と気がついたのは教祖様が暖かそうなシュラフの中で気持ちよさそうに眠っているのに気がついてからである。

 朝は更に冷え込み、太陽の光を拝んだ時には命があったことを神に感謝したわけであるが、明るくなってその全容を現わした茶臼山高原は想像していたよりも広大で、コンディションも良好であった。

思いがけず晴天・微風の茶臼山高原
 なんと隊長である蛮人堂さん(32號)の「茶臼山守備隊集合!」の号令のもと、大阪「堺」(なぜ八尾でない?)に移駐していた「神の子」ナガオッチ(25號)氏も参加されて(させられて?)いたからである。
 ナガオッチ氏参加による晴天率の高さは第83回研究会においても実証されており、「一緒に行くなら、教祖様よりナガオッチ」と言うぐらい確かなものである。

 高速回転により見えなくなるという風速計もその姿を消すことはなく、カチカチのブルーアイスになるというゲレンデも革靴で対処出来る程度で、こんな状態では「茶臼山恐るるに足らず」という結論を出さざるを得ないのだが、守備隊メンバーの悔しそうな顔を見るに、本来は想像を絶するような厳しさである・・・ということなのだろう。

 今回、ナガオッチ氏とキムチ氏も細革で果敢に滑っておられて、心熱いものを感じたのであるが、更に(古川ユースの)極細板で滑っておられるAさん?には深い感銘を受けた。ただリフトおじさんに好評であったくまおやじさん(26號)やスナフキンさん(37號)の一本杖が、いつのまにか姿を消してしまっていたのは残念なことであった。という私も一本杖は難しすぎて使用しなくなって久しいのだが・・・・

 すべてが終わり、帰りに「補給処モンちゃん」に立ち寄ったところ、そのバーゲン状態に思わず1號は細板、2號は革靴とプラ靴、22號は禁断(初めて)のプラ靴を入手してしまい、人類の底知れぬ物欲エネルギーに恐怖したのであった。

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H21.2.8 第91回研究会 「奥伊吹四天王現る!」

 2月とは思えないような暖かい日が続き、近くのスキー場はほぼ全滅という状態で、1度は行く予定だった国見岳スキー場からは「国見はもう春です(^^;」という便りが届いたことから、関西テレマーカー最後の聖地と呼ばれる(<八尾テレで勝手に呼んでいるだけですが・・・)奥伊吹スキー場へ今年も行くことになりました。
 経路間に積雪はなく、本当に滑ることができるのか不安になりながらの道中でしたが、スキー場にはなんとか滑走出来るだけの雪は積もっていました。「さすがに聖地である」と感心した訳ですが、過去の記録を見る限り、3月下旬の閉鎖直前の積雪量です。

 モチベーションが上がらないまま、前回の研究会で入手したプラ靴で聖地に挑みましたが、オーバースペックの装備で瀕死のゲレンデを攻めるのは胸が痛むというもので、午後からは革靴に換装してグニャグニャ・スキー を楽しむ事にしました。

 はっきり言うと伊吹山の神は死んでしまい、最後の聖地も今となっては廃墟と化して、よもやテレマーカーに遭遇できるなんて「これっぽっち」も信じていませんでした。

伊吹の神は死んでいなかった!!!!
 しかし、ここに宣言しましょう。伊吹は死んでいないと!

 教祖様の祈りが通じたのか、今は既に幻と消えた「アストロ四天王」にかわる「奥伊吹四天王」が現れたのです。四天王の装備はダークサイドなもので、傍らを滑る教祖様のへなちょこスキーとは対照的でしたが、神と悪魔は紙一重です!
 そればかりか四天王の加護のもと?細革テレマーカーやら達人テレマーカーやらがゾロゾロ出現し、奥伊吹ではテレマークは決してマイナーではありませんでした。多分・・・・

 勇気を与えられ、ついに我々は奥伊吹スキー場での「蛍の光」を聞くことに成功したのでした。異様なモチベーションの持続です。あのリフト稼働システムで最後までスキー場に残れたことを誇りに思い、帰りの途につきました。(おわり)

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H21.2.11 第92回研究会 「県営スキー場」

 三重県のスキー場と言えば「御在所スキー場」が唯一無二の存在であることが定説ですが、永劫の昔に三重県営スキー場として「藤原岳スキー場」が存在したことを知っている人は、かなりのマニアであると言わざるをえません。
 今となってはその存在を示すのは、太古の古地図に記されていることと、今でも三重県のスキー連盟が草刈りに訪れているという噂を聞くくらいであり、本当に科学文明が発達した21世紀においても滑走が可能であるかは全くの不明でした。

 しかし関西テレマーク自由連盟の設立を目指す八尾テレマーク研究会の「スキー場跡地巡りプロジェクト第1弾」として、藤原岳はついにそのベールを脱ぐことになったのです。はたして幻の藤原岳スキー場は八尾テレマーク研究会のホームゲレンデとなることが出来たのでしょうか?

最盛期だったらかなりのゲレンデになったであろう。。。
 結論から言うと、「昔の人は偉かった!」といことでしょう。登山口からハイスピードで登って約2時間ちょっと、雪深い時なら3時間はハイクアップに必要でしょう。アイゼンが無いとちょっとまずいです。
 積雪が十分だったら100mくらいの滑走は可能かもしれませんが、今回は30mちょっとくらいのイメージで、滑るのが楽しいというよりは「こんな所でも滑れる自分を褒めてあげたい」という感じでしょうか?

 大雪であれば、山頂の避難小屋で泊まって新雪滑走合宿なんてのも楽しいかもしれませんが、地球の高温化が進む現在、そんな夢が叶う日が来るのでしょうか?
 そういえば教祖様はこの企画を、跡地めぐり「シーズン1」と呼んでましたが、もともと藤原岳スキー場にはリフトなどなく、昔も今も変わらないと思われるので跡地と呼んでいいのかは微妙なところです。

* 藤原岳: 三重県と滋賀県の境界にある山。標高1,144m。鈴鹿山脈の北端に位置し「鈴鹿セブンマウンテン」の一つに数えられている。

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H21.3.16 ナンバー研究会が終了した日(令和3年4月加筆修正)

 2009年3月16日、日本の元号でいうと平成21年の3月16日、ちなみに旧暦では2月20日であり、八尾テレとしては「節目となる第10シーズンの終わり頃」そして、踵解放軍的には「踵解放歴10年」のこの日を弐号エヴィンは一生忘れないでしょう。

 関東移住を間近に控え仕事も絶好調だったこの日、敵対勢力が差し向けたと思われる外人特殊工作員に襲われた私は、瀕死の重傷を負って入院生活を余儀なくされ、今シーズンどころか来シーズンまで活動停止状態に陥ってしまったのです。(簡単に言うとバイクで通勤中に、外国人が運転する車検切れの車にひかれました)

 起こってしまったことは仕方ありませんが、教祖様のご指導を仰ぎつつ復活にむけた活動を実施したところ、数ヶ月後にはなんとか仕事に復帰することは叶いましたが、当初の予定を修正しテレマーク・スキーセットは放棄して関東に引っ越してしまったのです。

 折れてしまったエヴィンに比して、教祖ジョニーはますます意気盛んですので、これからも八尾テレマーク研究会をよろしくお願いします!

 と言いたいところですが、果たして廃人と化した従軍記者に、これからの八尾テレの活動記録を報告することが出来るのでしょうか?・・・
 「できませんでした。すみません」ということで、この「第10シーズン」がホームページ上では<八尾テレマーク研究会のナンバーを冠した最後の研究会>となってしまい、「最終シーズン」に改題して現在に至っております。本当に長らくのご利用ありがとうございました。

 何事も終わるときはあっけないものです。(旧題:第10シーズン強制終了)

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