夏休みが終わって、第二学期が始まった。
始業式に出て、その後教室で先生から話があって。それで今日の学校は終わりになるはずだったけれど。
クラスの人間が先に教室に戻って、しばらく思い思いに騒いでいる。僕はその中に混じらず、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
しばらくして先生がやってきて、みんな散るようにして自分の席に戻って。それでもざわつきは完全には止まなくて。話を切り出そうと、先生は咳払いを1つした。
「あー、話の前に。今日、ウチのクラスに転入してくる生徒がいる」
そこまで言葉が続くと、少しの間教室のざわつきが増したけれど、先生の声で再び静まって。それから先生は扉に向かって、入りなさいと声をかけた。
からからと、弱々しい音を立てて。ゆっくりと、扉が引き開けられて。 その向こうから、ひどくおどおどとした様子で、女子が1人入ってきた。艶のある黒髪で、前髪のほうにピンを差しているだけで、そんなに長くはない。それでいて、体はほっそりとしていて。これから同じこのクラスに所属するんだから同い年なんだろうけれど、見た目の印象からはとてもそうは思えなかった。なんというか、儚げで、いつも周りを恐れているような――何か、過去にひどいことがあったのかもしれない人間のそれだと、僕は見て思った。
ふらふらと、少しだけど覚束なさそうな足取りで歩いて、ようやく先生の隣に立って、僕らのほうを向いて。それでもその顔は俯き気味で、暗い印象があった。
「……東京、都立、天立(てんりつ)高校から来ました、細川、阿由(ほそかわ あゆ)と、言います。よろしくお願いします」
「こういう字だ、これから覚えとけ。それでもって、仲良くしろよー」
女の子がやっとの思いで自己紹介を終えると、その後を引き継ぐように、先生が彼女の名前を黒板に書いた。だけどクラスメイトの視線は書かれた漢字よりも女の子――細川のほうに集まっている。本人はそれを嫌がるように、顔を伏せるまではしなくとも、俯き気味にしてしまっていた。
「ほら、細川、緊張するのはわかるが、できるだけ前を見ろよ。あー、席は一番後ろの窓際だから」
促した先生にこくんと頷いて、それから僕らに向かって小さくよろしくお願いしますと言って頭を下げて、それからまたふらふらとした足取りで、細川は示された席に座った。
ちなみに僕の席は窓際から3列目の一番後ろだった。2列目だったら隣は細川だったけど、あいにくとそんなことはなく。だから結局、彼女が座った後で先生から少しばかり話があって、そうしてすぐ今日の学校は終わりになって。
教室の中で細川に声をかけることは、なかった。
午後にもならないうちに迎えた、放課後。
終わってすぐに家に帰ろうとすると校門が混んでいるので、その中に混じるのはなんとなく嫌で。
結局、僕は屋上に来て、何をするでもなく縁にもたれて座り、寝そべっていた。放課後にそうするのはもう習慣になっている。
僕が来てしばらくして、再び屋上のドアが開いて。女子が1人顔を出して、僕に視線を合わせて小走りで寄ってくる。
「漂くんやっぱりここにいたー。よく飽きないね?」
クラスは違うけど、すっかり見慣れた宮月の顔が、頭の上にあった。しばらく見下ろして微笑んでから、彼女はしゃがみこんで、僕の体に擦り寄ってきた。それもまた、いつものことで。
「……他にやることないもん」
「そうかな? 今日は始業式だから、浩都くんだって帰るの早いかもよ?」
そういえばそうだっけ。時間は早いけど、確かに浩都ももう家で待っているかもしれない。もっとも、最近は学校が楽しくて、友達も何人か出来たと言っていたから、そいつらと遊んでて、帰ってないかもしれない。
「……じゃ、もう少しここで時間潰してから帰る」
「ん。一緒にいていい?」
「いいよ」
言いながら、宮月の髪をそっと撫でた。ポニーテールにされたそれは、それでも掌の上をさらりと流れ、綺麗さを印象付ける。気持ちよかったのか、宮月はさらに体をくっつけようともぞもぞ動いた。特に抵抗はしない。
日差しは未だ強く、残暑を感じさせる。それでも僕と宮月は晴れ空の下の学校の屋上で、ぼんやりと寝そべっていた。
けれど、今日のその静かな時間は、あまり長くは続かなかった。宮月に続いて、また屋上のドアが開いたからだ。弱々しく、ゆっくりと。それに気づいて僕が体を起こし、続いて宮月が何かと思って僕が向けた視線の方向に振り返った。
そろりと現れた顔が、僕らのほうを見るなり慌てたように引っ込みかけて、でも少し経つとまた顔が覗いて。そうして、おそるおそるドアを開けて屋上に出て、僕らとは離れた隅のほうに、ゆっくりと腰を下ろした――というよりは、体育座りで縮こまってしまった。
遠目なので姿はよくわからないが、その仕草になんとなく見覚えがあった。今日、ウチのクラスに転入してきたばかりの女子――細川、だろうか。
「……誰、あれ。漂くん、知ってるの?」
宮月が、振り向きながらそう訊いてきた。頷いて、簡単に彼女のことを説明する。宮月は興味なさそうに頷いたものの、ちらちらと片隅の女子に目をやっていた。
「……どうするの?」
「……話して、みようか」
問いかける宮月にそう返事して、体を起こそうとする。それまで僕にくっついていた宮月も、素直に離れる。そうして、2人で彼女に歩み寄ってみた。
けれど、近づいた途端、彼女――細川は身を固くして顔を伏せてしまい、僕らを見ようとしなかった。よく見ると、体が震えている。僕らに怯えているのかもしれない。
担任の先生は確か仲良くしろと言ったが、これじゃ無理じゃないかと思う。声をかけなくても、近づいた人間を彼女のほうから拒否してしまっている様子が、はっきりとわかってしまう。ただの人間嫌いじゃない。それにしては、怯える色がひどく濃い。
いったい、転入する前、細川にはいったい何があったんだろうか。そう思いながら、僕はなおも顔を上げない彼女の前にしゃがみこんだ。
「……どうしたの?」
できるだけ優しく、怯えさせないように意識して、声をかけた。
「……近づか、ないで」
顔を伏せて体全部を震えさせたまま、聞き逃しそうな弱々しい声で、そんな言葉が返ってきた。後ろで宮月がカチンときたみたいだけど、我慢してもらった。
「……どうして? ……せっかく、同じクラスなのに」
「怖いよ。怖いの」
早くも泣きそうな声になっていた。何かが怖いっていうのは、聞かなくても様子からよくわかる。
「……何が、怖いの?」
「近づかないで。……見ないで」
なおも細川は呟くように言った。その言葉で、なんとなく彼女が何を怖がっているのかがわかる――人に見られるのが、他人が近くに居るのが怖くて嫌、なんだろうか。
「……何も、しないよ。僕らは」
言っても無駄かもしれない。かえって不信感を煽るかもしれない。でも、言わずにはいられなかった。
「君が嫌がるようなこと、僕らはしたくないよ」
「っていうか、そんなんじゃ余計にいじめてくださいって言ってるようなものよ?」
と、いきなり宮月が割り込んできた。その口調には遠慮が感じられなくて、むしろとげとげしさを含んでいた。細川の体がびくりと強張る。
止めようと思って振り返ったが、宮月の表情を見て口をつぐんだ。からかったり罵ったりするつもりの顔じゃなく、あくまで宮月なりに真剣にものを言っているんだと思った――そう思ってから言葉の意味を考えてみたが、間違ってるとは思わなかった。
「そうやってずっと他人に怯えてたら、その他人だってあなたを見ていい気分しないわよ」
「……っ」
弾かれたように、細川は顔を上げた。泣きそうな表情だった。対して、視線の先の宮月は、ちっとも動じない。
「怖いからって、そうやってすれ違う人とか全部避けて通る気なわけ?」
「……あなたに、何が、わかるの」
「アンタの事情なんか知らないわよ。今さっきここで会ったばっかりでしょうが。漂くんとはクラスメイトらしいけどさ」
呼び方が変わった。宮月は口調を荒げているが、それでも表情は真剣なままだった。
「アンタが根っからそういう性格なら、どうしようもないって捨て置いてるところよ、あたしは……けど、多分そういうんじゃないんでしょ」
そこで宮月は視線を僕に向けた。言葉の確認を求めるみたいに。僕は頷きを1つ返した――細川のこういう態度は、少なくとももともと持っていたものじゃあないと思った。今はまだ直感でしかないけれど。
「……事情、わからないよ。僕らは。……どうして君が他の人を怖がるのか。……話せるなら、話してほしい」
どうして細川が今こうなのか、僕はどうしても知りたかった。だけど、遠まわしな訊き方が思い浮かばなくて。結局、直接的に話を切り出すしかできなかった。
「……怖いよ。怖いのよ。……誰かに見られるのが、怖いの」
細川はそれでも、小さく肩を震わせながら、怖いと繰り返した。視線も僕らのほうを見ていない――そんな風に怯えっぱなしではあったけれど、彼女はそれでも何かを言おうとしていた。
「……ごめん。ゆっくりでいいから。……時間なら、今いくらでもある」
気休めにもならないかもしれないけれど、それでも、少しでも落ち着いてくれればと思って、僕はそう声をかけた。細川にきちんと届いているかどうかはわからないけれど。
「……本当に私の気のせいだったと、しても……1人になっても、誰かに見られてるって思ってしまうの。……人が大勢いたら、みんな嫌らしく私を見てるんじゃないかって、思って、しまう」
声を震わせながらも、ゆっくりと彼女はそう話した。まだ根本的な原因はつかめないけれど、人の視線を意識しすぎてしまって、常にそれに怯えているらしい。
「……ねえ。ちょっといい?」
ふと何かを思った表情で、宮月が割り込んだ。なんだろうと思いつつ、僕は彼女に頷いた。
「……本当にさ、すれ違う人がみんなあなたを見てるってことは、さすがに無いと思う、けど……でも、それってさ」
そこで言葉が切れた。また、宮月の表情はその先が言いにくそうだと言っているようなものだった。一方、細川な泣きそうな表情ながらも、宮月を見ていた。
一度呼吸を整えてから、宮月が口を開く。
「……本当に、誰か、あたしたちからは見えない誰かがさ、あなたのことを、ずーっと見てる……そういう感じ、しない?」
腫れ物に触るような慎重さ、というやつだろうか。宮月の口調にはそんなものがこもっているように思えた。そして、言葉を聞いてか、細川の表情が強張った。
しばらく、3人とも口を開かなくなる。それぞれが、気持ちを落ち着けようとしているのか――少なくとも、僕はこの沈黙はそのためのものだと思っていた。
やがて再び、僕らから視線を外して体育座りで俯いた姿勢で、細川が口を開いた。
「……ストーカー、が、いたの」
ぼそりと呟かれたその言葉に、僕と宮月は揃って眉をひそめた。宮月はおうむ返しで確認していたが、細川は小さく頷き返していた。
「電話、何回も、切ったそばからかけてくるし……私が家で何やってるか、全部知ってるって言って……盗聴器も、家の中にいっぱい仕掛けられてたし……」
「……電話さ、なんて言われたの?」
また言いにくそうな表情をしながらも、整えた口調で宮月が訪ねた。ストーカーがいるのは事実らしい。そいつは細川に、いったいどんな言葉を吐いたというのか。
「……っ。……いつ誘拐されるか、わかんなかったっ……」
激しく首を振って、細川は声を荒げた。言いたくないと全身で主張している。それを見て、宮月は苦しげに表情をゆがめた。
「……ごめんね。ありがと」
そう声をかけつつ、慰めようと、宮月は細川の髪に手を伸ばしかけたが、途中でためらって手を止めて、結局そのまま出した手を下ろしてしまった。
またしばらくの間、僕ら3人は何も言わなかった。細川が落ち着くのを、僕と宮月はただただ黙って待っているだけだった。何か声をかけることも、彼女に触れることも、ためらわれて。
やがて、彼女がゆるゆると顔を上げて、僕ら2人を見た。それから何か表情を変えようとしては、上手くいかないともどかしそうにしている。
「……こっち、こそ。ごめん、なさい。……えっと」
結局なんだか微妙な表情のまま、細川はぼそぼそとそう言った。その後の言が揺れるのを、宮月はやや苦笑気味に聞いていた。
「あたしは宮月草那っていうの。こっちの人は咲良漂。……謝らないでいいのに。むしろ最初キツくしてごめんねってあたしが謝りたいわ」
調子を軽くして、宮月はひらひらと手を振った。それに少しだけ表情を緩めた風を見せながら、彼女も自分の名前を僕らに名乗った。
それから宮月は、それまで聞き手に回っていた僕に顔を向ける。
「にしても、嫌なものが出てきちゃったわね、ホントに」
「……そうだね。……あのさ、僕らで力になれることがあったら、何でも言って」
「って、ちょ、ちょっと漂くん!? うわ、すごい安請け合い……」
なぜか宮月に目をぱちくりされた。細川はというと、こっちはなぜかうろんな目になっていた。そんな彼女に、宮月がまた苦笑を浮かべる。
「ごめんね。彼、本気でこういうこと言う人だから……あ、そうだ」
苦笑から一転、宮月は何かを思いついたような顔になる。なんだかよく表情変わるなあ、とぼんやり思う。
「ね、細川さん……じゃなくてさ。阿由ちゃんって呼んでいい?」
何の気負いもない、何の慎重さもない、軽い声だった。親しみを込めて、というやつだろうか。その声を向けられた細川は、そこで初めて、少しだけとはいえ表情を緩ませた。そして、小さく頷いた。
「……よろしく、ね。宮月さん。それに、咲良くん」
一緒に名前を呼ばれて、なぜかどきりとした。認められた、と思っていいのだろうか。
「……うん。よろしく」
表情を緩めながら、僕は言った。すると、そこで細川は微かにだけど微笑んだ。彼女の中にあった緊張が、やっと解けたんだなと感じるような笑顔だった。
その日、僕と宮月は下校路を細川と一緒に歩いた。とりあえず、彼女の家がどこなのかを知っておきたくて。屋上で話を聞いた時点で、どんな時もあまり彼女を1人にしておきたくはなくて――この心配が取り越し苦労であればいいんだけど、今はそれでも心配せずにはいられない。
途中で、話の続きを少し聞いた。前にいた場所でストーカーが出て、嫌がらせが手に余るもので。だから警察には訴えたものの、警戒しておいてくださいとの注意があっただけで、犯人を特定する証拠がなくて、どうしようもなかったらしい。
結局、人知れず引越しをして、転校もして。それ以後、今のところ向こうからの接触はなくなっているらしい――けれど、結局相手の素性はわからないままだし、完全に相手からの接触が断てたという確証も無いらしく。細川が他人に怯えてしまうのも、この状況では無理もないことなんだろう。
根が深そうだった。細川をそんな状態にまで陥れた奴を、放っておきたくはなくて。今そいつを捕まえて警察に突き出したところで、すべてが解決するわけではないんだろう――それですぐ元に戻るほど、人の心の傷は軽くはないのだから。
だけどそれでも、許せないものは許せない。せめて、陥れた人間には制裁を下したかった。いや、下さなければならなかった。追い詰められた人間がどれほど苦しいのか、思い知らせてやらなければ、気が済みそうもない――不毛かもしれないけれど。だけど、自分がされて嫌だと思うことは人にするな、という言葉がある。それは、その身に思い知らせてやらなければ、理解されることなんてないと、僕は思う。
そんなことを考えたり、またいろいろ話をしたりしているうちに、細川の家のある場所にたどり着いた――僕が住んでいるところよりさらに高く、大きなマンションだった。ここの1607号室だと細川が言って、僕と宮月は頷いた。とりあえず、これで彼女の住所はわかったわけで。マンションの入り口で、僕らは細川と別れた――彼女が無事にその1607号室の中に戻るまでついていこうかと思ったけど、今日が初対面なのにそこまで行くのもどうかと思ったので、やめておいた。
入り口の向こうに消える細川を見送った後、宮月が1つ溜息をつきながら、言った。
「……あたしたちと逆方向ね、帰り道。学校までならまだいいけど、遠いわねー」
愚痴のような響きだった。それもそれで無理もないかもしれない――実は、僕と宮月は帰る時に校門を出てすぐ左に曲がって、僕の家までが歩いて10分、宮月はもう2〜3分ほどかかるらしい。対して細川の家の場合、校門を出てすぐ右に曲がり、そこから歩いて15分程度のところにあった。道自体は宮月の家から細川の家までほとんどまっすぐなものの、時間計算で実に30分近くの距離になる。
「……ごめん、付き合わせて」
「ていうか、漂くんほんっとに安請け合いなんだから……明日以降も阿由ちゃん送ってってあげる気なんでしょう」
「……うん」
あっさり看破された。わかりやすすぎるんだろうか。何か言おうとする前に、宮月は言葉を続けてくる。
「阿由ちゃんも大変だろうけどさ、これからあたしたちも大変よ? 送ってくのも含めて家帰るだけで何十分とかかるんだから」
「……嫌なら付き合わなくていいけど」
「……あのね、付き合わないなんて言ってないじゃない」
やれやれとばかりに、また溜息をつかれた。
「今回のこと自体に文句があるわけじゃないけど……漂くん、人のこと気遣うのはいいけど、自分のこともちゃんと気遣ってほしいのよ」
「は?」
「さっきから言ってるでしょ、安請け合いだって。……人のことに頑張るのはいいけど、自分のことはどうする気なの?」
「自分の……こと?」
そう言われて、なぜか答えに詰まった。もしここで、人が苦しんでるのが嫌だからなどと言ってみたとして、それは宮月が望む答えではない気がした。
即答できなかったせいか、3度目の溜息をつかれる。
「……考えてよ。今わからないなら、わかるまで考えて。漂くん自身がこの先どうしたいのか、ね」
宿題を出す教師のような口調で、宮月はそう言った。その言葉にも、僕は何も言えなかった。
僕がどうしたいのか。宮月はそう問いかけた。けれど、それでも人が苦しんでいるのは嫌だ。だから僕は動くだろう。
そうやって生きていくことに、どこか悪いところがあるのだろうか――どこに答えがあるんだろう。
いつもより時間のかかる帰り道の中で、とりあえず考えてみたけれど。その中では、納得のいく答えを考え出すことはできなかった。
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