9.醜状

 昨日と同じように、エレベーターで16階まで上がるのを待つ。階段を使うよりは断然早いし楽でいいんだが、こうやって中に突っ立って待っている時間にすら、妙なもどかしさを覚える。昨日こんなのあったっけ?

 考えているうちにエレベーターが止まり、扉が開く。開ききる前にもう俺は足を一歩踏み出して、そのまますたすたと1607号室を目指していた。そこまでの間には何もなく、誰ともすれ違わずに、俺は目的の場所にすぐにたどり着く。そしてとりあえずインターホンを押す。

 けれど、返ってきたのは機械音だけで、しばらく待っても家の中の誰かが応答する声は聞こえなかった。昨日は母親が出たってのに、今日はどうしたのか、留守なのか。とりあえずもう1回押してみたが、やっぱりというのか、反応はなかった――

 と思いかけた途端、がちゃりとドアのほうで音がした。はっとしてノブに目を向けて、それから回して引っ張ってみたが、ドアは開かなかった――ちょっと待て、なんで鍵がかけられるんだ。てことはさっきは開いてたのか鍵。

 様子がおかしいことがはっきりした。だけどそれを確かめようにも、ドアの向こうには行けなくなった。だからといって放っておくには、何か、あまりにもな不安を感じた。

 しょうがないので1階に戻ることにした。ここはマンションであってアパートじゃないから正直言ってかなり不安だったが、もしかしたら管理人がいて、マスターキーを持っているかもしれない。そのあたりは詳しくないし昨日確認もしなかったので、ほとんど賭けみたいなもんだけど、何もしないままじゃいられなかった。

 またエレベーターに乗って1階まで降りて、それから管理人室っぽいものを探そうと思ったら、俺が通ったマンション出入口の近くにそれらしいのがあった。そこのインターホンを押すと、今度はすぐに応答があった。

 そうして管理人さんを呼び出して、直接顔を合わせて事情をうんぬんかんぬんと伝える。俺のほうも情報がいまいち整理できてないし、管理人さんは俺のことを知らなかったり、どうしてその部屋の鍵がいるんだと、不審そうだったりしたが、最終的にはなんとか理解をもらって、鍵を借りるついでに管理人さんにも同行してもらうことにして、再び1607号室へと向かった。

 管理人さんはまずインターホンを押した。2回押して2回とも返事がないのを確認すると、今度は鍵の確認のためか、ドアノブを回して引っ張った――今度はすんなりと開いた。俺はさっき鍵かかってたじゃねえかと驚いてしまい、管理人さんは管理人さんでどうしたんだ細川さんとぶつぶつ言いながら、とりあえず家の中に入っていった。その後ろに俺も続く。

 家の中はしんとしていた。管理人さんがまっすぐと廊下の向こうのドアに向かうので、俺は引っ張られるようにその後をついていった――その先で、俺らは凄まじいものを見てしまった。



「ほ、細川さん! しっかりしろ、大丈夫か!!」



 大声で管理人さんが呼びかける。俺はというと、それを見て固まってしまい、何も言えなかった。
 細川の母親らしい、おばさんっぽい人が、頭から血を流して床に倒れ、カーペットを紅く染めていたのだ。管理人さんの呼びかけにも、おばさんは返事をしない。

「君、ボサッとするな!! わしは警察と救急車呼ぶから、君は他の部屋見てこい!!」

 渇のような声にはっと我に返り、はいっと思わず裏返った声で返事をして、俺は弾かれたように廊下側に反転した。そして廊下のドアの向こうの部屋をチェックしていって――



 向かって右側の部屋で、細川が力なく、仰向けに倒れていた。



「細川!? おい細川、しっかりしろ!!」

「ひ……あっ、ぁ……」



 体を抱き起こして軽く揺すってみたが、細川はだらしなく目と口を開けていて、引きつった声をもらしながら、ぴくぴく動くだけで脱力しきった状態のまま、俺に対しては何の反応も返さなかった。
 しかも、抱きかかえてよくよく見てから気づいたが、上半身は下着だけの姿にされていて、しかも露になってる肌のほうには、変な痕がいくつも残っていた。殴られたのか、別の何かをされたのか、とにかくその痕は何か気持ち悪いものに見えた。

 未だにぐったりした細川の体を抱きかかえながら、俺は猛烈に悔しい思いに駆られていた。これはもしかしなくても、展開としてはかなり最悪に近いんじゃねえか、と。一人が頭から血を流して意識失って倒れてて、一人がこうして自分を見失うほど悲惨な目に遭わされて、そして当の犯人はまんまとこの場から逃げ出して。



 結局、俺が手を出せたのは、何もかもが踏みにじられた後になってから――無残な結果を見せつけられただけだった。

******

 昨日に続いて今日もやたらと歩き続けて、両足が筋肉痛を訴える。止まっちゃいけないから、なおのこと疲労の蓄積度は高くなる。それでも俺はマンションを目指して歩き続けていた。

 やがてマンションが遠目に見えてくるあたりまで来たところで、道の真正面に人影が見えた――格好を見て、思わず俺は足を止めてしまった。

 まだ残暑も厳しく、俺ら高校生にすればまだまだ始業式過ぎの夏休み気分という時期に、その人影とやらは随分と奇妙な格好をしていた。黒のズボンに黒い革のジャケットという姿。長袖長ズボンってだけでも暑苦しそうなのに、わざわざ熱を吸収するらしい黒という色の服に身を包んでいる。

 しかも立ち止まって凝視する俺にすら目もくれず、そいつは早足でどんどん距離を詰めてきたかと思うと、そのまま俺の横を通り過ぎていってしまった。何をそんなに急いでるのか。



「あー、ちょっとちょっと。ちょっとそこの人、ちょーっと待ってくれませんかー?」



 小走りに追って、そう声をかけた。が、相手は歩みを緩める様子もなく、

「急いでるんだ。邪魔するな」

 反射的にムカッと来るほどそっけない言葉を吐き捨てるように言って、さらに歩みを速めた。



「そーんなこと言わずにー。ちょっとだけッスから」
「うるさい」

 聞く耳持たずってのはこのことか。まったく取り合おうとせずに、相手――男はさらに歩みを速めた。俺にはそれが、まるで一刻も早くこの場所から立ち去りたがってるように見えた。
 そしてそう見えた時、なぜか俺は思わずにやりと笑みを浮かべながら、思った。






 悪いが、どうやらアンタを逃がすわけにはいかないみたいだねェ。






 そう思うや否や、俺は男に向かって全速で走り、背後から跳び蹴りを食らわせていた。

「ぬわっ!?」

 まさか蹴られるなどとは思ってもなかったようで、男はまともに食らって前のめりに倒れこんだ。すかさず背中の上に乗って相手の自由を奪う。相手はわけのわからないわめき声を上げながら後ろ手をがむしゃらに振り回すが、落ち着いてさばきつつ俺は相手の髪を右手で引っつかんだ。痛いだろうに、だらしない叫び声があがる。

「待てって言ったのに待たないからこーなるんだよ、アンタ」

 言って、髪を引っつかんだままの手を強く押し付け、相手の頭をアスファルトに叩きつける。ごつっと鈍い音がして、また悲鳴が甲高くあがる。

「何、俺みたいなアカの他人に呼び止められて逃げなきゃなんないほど、アンタ、後ろめたいことでもあったわけ? なァ」

 そう訊ねる自分の口調が、いやに楽しげに響く。圧倒的優位から来る優越感ってやつだろうか、これは。

「こ、こんなことして、ただで済むと思ってるのか、君はっ!?」
「思わねェよ。こっちも腹くくってんだ、じゃなきゃこんなことしないし、それに」

 言葉を切って、また頭を叩きつけてやる。合わせて醜い悲鳴。そのあとにまた言葉を告げる。



「覚悟決めたんだから、とことんまでやらせてもらうよ。多分殺しゃしねえから」



「や、やめろ、やめっ」

 言葉とともにじたばたともがく男に、またアスファルトとキスさせる。いよいよ赤黒い染みがアスファルトに付き始めた。



「さて、質問があるんスけど、答えてもらいますよ?」



 そう告げる俺の声は、一層楽しげな雰囲気を濃くしていた。例えるなら、人を殺すむごたらしさを知らない、無邪気な子供のように。

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