暗い。
くらい。
クライ。
初めに思ったのは、そんなこと。
黒一色で塗りつぶされているように感じるほど、すべてが暗かった。
ここはどこだ。
僕はどうしてここにいる。
何がどうなって、こうなっているんだろう。
疑問が次々と沸き起こる。
答えはどこにも用意されてなくて、疑問は僕の中に次々と積もっていく。
ここはどこだ。
僕はどうしてここにいる。
何がどうなって、こうなっているんだろう。
すでに頭の中をよぎった疑問が、また繰り返されていく。
けれど、どれだけ繰り返しても、結局答えは見つからない。
この真っ暗な空間の中で、何かが変わるわけでもない。
暗い。
くらい。
クライ。
ただ、それだけ。
どうしたらいいのか、わからない。
何をするにも、あてがない。
自分の周りのどこを見ても、何もない。
けれど、わからない、あてがない、何もない――だからこそ、僕は歩き出していた。
なんでもいいからどうにかしたい、何かがあってほしい。そう思ったのかどうなのか。
明確に『何』を求めるでもなく『何か』を求めて、僕は暗闇の中をさまよい始めた。
漂う。
さまよう。
歩き続ける。
まっすぐ、まっすぐ。
さまようと言っても、右に左にふらふらとしたりはしない。なぜか、僕は前に向かってまっすぐと歩き続けている。
結局、もしこのまま、暗闇だけが続くのなら。右へ左へふらふらしようがまっすぐ歩こうが、同じだと思っていたのかもしれない。
どうせ同じなら、まっすぐ歩いているほうがいいと、無意識にでもそう思ったのかもしれない。
だから、僕はまっすぐとさまよい続けている。
何もない。
何もない。
本当に、何もない。
歩き続けても、何も見つからない。
どれほど歩いたかはわからないけれど、随分と長い間歩き続けていたような気もする。
そして、何も見つからないまま、それでも僕は歩き続けていた。
変化は、突然訪れた。
そうとしか言いようがない。前触れも、きっかけも、予感の類は一切なく。
突然、歩き続けている先に、何かが見え始めた。
とは言ってもその『突然』は、確かにいきなり現れたものではあったけど、強烈な印象があったというわけじゃない。いつの間にか見え始めて、後から僕がそれに気づいたという、そんな形の『突然』だった。少なくとも僕の感覚としては、だけど。
最初、それは白い点だった。
どこを見渡しても真っ暗な闇の中に、夜空の星のようにも見える小さな白い点が、僕の行く先にぽつりと浮かび上がっていた。
僕はまっすぐ歩き続けた。
すると少しずつ少しずつ、本当に少しずつ、その白い点は大きくなっていった。
近づくにつれて、それがただの点じゃなく、ちゃんとした形を持っていることがわかって。
そしてさらに近づくにつれて、どんな形をしているかが具体的にわかっていく。そのことが興味を引いて、僕の足の歩みは自然と速まっていく。
最初は『白い点』に見えたもの。
それがどんな形をしているのかがはっきりと見えるあたりまで近づいたところで、僕は足を止めた。
それは、白い服を着た『人』だった。
たった1人で、暗闇の中、座り込んでいる『人』だった。
しばらくの間、僕はその人をただ眺めていた。相手は、動くことなく、僕に背を向けて、ただ座っていた。
髪は短くて、うなじが見えそうで。白くて薄そうな服に覆われた背中は、どこか儚げで、そして無防備な感じがして。そんな後ろ姿に、触れがたいものを感じて、僕は見つめたまま動けなくなっていた。
僕に気づいたのか、ただの偶然か。
ふいに、その人はこっちに振り向いた。
目が合った。
どくん、と心臓の跳ねる音が聞こえた。
その人の顔を、僕は知っていた。
つい最近、知った顔。
初めて見た時から、何かに怯えていた顔。
そして今その人は、その時とまったく同じ表情で、僕を見ていた。
細川阿由。
それが、その人の名前。
どくん。
心臓が、また音を鳴らした。
普段ならば聴くことのないその音が、今はやけに耳障りだった。
鼓動音をかき消してしまおうとでも思ったのか。
見つめ続けている彼女の名を呼ぼうと、僕が口を開きかけた時。
僕より先に、彼女が唇を動かし、言葉を滑らせた。
見た瞬間、僕は手を伸ばしていた。
そうしなければいけないという思いが、一瞬のうちに体の中を駆けめぐり。
それまで動けなかったのが嘘のように、僕は彼女に向かって駆け出していた。
彼女が、手を伸ばした。
ひどくゆっくりとした動きで、右手が伸ばされた。
その右手に向かって、僕も自分の右手を精一杯伸ばして。
そして、掴んだ。
ぱさり。
一瞬、それがどういう音だったのか、理解できなかった。
彼女の右手を掴んだはずの僕の右手は、固く握りこまれていた――ありえない。
彼女の右手が僕の右手の中に無い――はっとして彼女を見ると、右手が付いていたはずの部分が、さらさらと崩れ落ちていくのが見えた。
彼女が悲鳴をあげた。
今までの、いつも何かに怯えていた印象からはまったく想像できなかった、空気を揺らす金切り声。
けれど、根本にあるものは変わらない。弱々しかろうが強かろうが、そこにあるのは、悪いものの拒絶。
崩壊は止まらなかった。
悲鳴が響く間も、彼女の体はさらさらと崩れていく。右手はもう、二の腕まで完全に無くなってしまっている。彼女の体を形作っていたものが、砂になって地面に落ちる。
呆然と、僕はそれを眺めていることしかできなかった。
始まった崩壊は、容赦なく、瞬く間に進んでいってしまう。
彼女の悲鳴が、暗闇の中に響き渡っては消えてゆく。彼女の体は、音もなく、急速に形を崩していってしまう。
そんなものを目の前にして、僕はまた動けなくなってしまっていた。なぜこんなことが起こるのか、まったく理解できないまま。
やがて、彼女のすべてが砂となった。
悲鳴も消え去り、また暗闇は静かになった。
なおも僕は呆然としてしまっていた。
しばらくそうしていて、そしてようやく、彼女を掴んだと思った右手を、おそるおそる開いた。
掌には、わずかな量の砂があった。
というより、灰だった。灰色で、気持ち悪いくらいにさらさらとした感触の、ただの灰だった。
おそるおそる、左手を伸ばした。
その手で、目の前に積もった、彼女を形作っていたものの一部を、一掴みする。
ぱさぱさとした感触が、左手の中にあった。
灰の感触しか、左手の中にはなかった。
彼女が、目の前で灰になった。
その実感は、心をひどくゆっくりと締め付けるように、僕を覆い始めた。
その実感が強くなるにつれ、どうしようもなく自分に嫌悪感を覚えた。
彼女の崩壊を、ただ呆然と見ていただけの自分が、呪わしかった。
何もしなかった自分が、腹立たしかった。
彼女は言った。『助けて』と。
声は聞こえなかったけれど、動いた唇は確かにそう言っていた。
なのに、僕は。
彼女が灰になって崩れていくのを、ただ見つめていただけ。
動けずに、凝視していただけ。
助けを求める呼び声に対して何もしなかったことが、重大な罪のように思えた。
助けてと言われても、動くことすら出来なかった自分に、存在価値なんてありえない、と思ってしまった。
なんのために、僕はここにいたのだろうか。
今はもう灰になってしまった彼女を救うために、僕はこの暗闇の中にいたんじゃないんだろうか。
最初は何もかもわからなかった暗闇の中で、ようやく自分が存在する意味を見つけた時には、もう遅かった。
彼女は、崩壊した。
悲鳴をあげ、崩壊を拒んだけれど、最後は抵抗のしようもなく飲み込まれた。
そして僕は、何をすることもなく、ただ見ていただけだった。
どれだけ願っても、どれだけ力を込めて両手の灰を握り締めても、彼女が元に戻る気配は一向に感じられなかった。
彼女にとって、あまりにも残酷な結末だとしか、僕には思えず。
そしてそれは、僕にとっても残酷なことだった。
救いを求めた人がいたのに、救えなかった。
崩壊をただ見ていることしかできなかった。
最も見たくなかったものを目の前で見せつけられて、何もできないまま呆然としていた。
なぜ、僕は呆然としていたのだろう。
なぜ、僕は動けなかったのだろう。
なぜ、僕は彼女を救えなかったのだろう。
なぜ。
なぜ。
なぜ。
自問という形を取った自分への呪いが、瞬く間に心の中に積もっていった。
突然、呼ばれた気がして、暗闇の中を見回した。
誰の姿もなかった。
あるのは僕自身と、かつては人の形をしていた灰だけ。それ以外は何もない、相変わらずの暗闇だった。
なのに、なぜ不意に、呼ばれたと思ったんだろうか。
声が、したのだろうか。
それとも、勝手に僕がそう感じただけなのか。
けれど、それでも呼ばれた気がしてならなかった。
誰かが僕を呼んでいると、強く、強く感じた。
なぜ、呼ばれたのだろう。
疑問がまた1つ、積み重なる。なぜ僕は呼ばれたのだろう、と。
思ううちに、また呼ばれた――今度は、声がはっきりと聞こえた。
相変わらず、どこからの声なのかはわからないけれど。それでも、言葉が聞こえた。
戻ってきて、と。
その声に対して、僕は戸惑った。
どこへ戻ればいいのだろうか。どこに向かって歩けばいいのだろうか。
暗闇は、最初と変わりなく、周囲を覆いつくしている。目の前は、ただただ黒い。
まして、どこかへ行かなければならないというのなら、『彼女』を置いていかなければならないのだろうか。
自分の視線が、下に落ちる。そこだけは、黒以外の色があった。もとは『彼女』だったもの。今はただの灰となってしまったもの。
見た途端に、また自分の無力さや罪深さを感じて、自分を呪わしく思う。
声は言う。戻ってきて、と。
切実な響きがこもるその声に、どうしたらいいかがわからなくなる。
本当に、戻るべきなのか。
『彼女』を置いて、戻ってしまっていいのだろうか。
力も無く、何もしないまま、のうのうと僕だけが戻るというのか。
けれど、それでも声は言う。切実さをさらに強めて、響く。
戻ってきて、と。
僕に、いったい何を求めているのか。
無力さ、弱さ、罪深さばかりを思い知らされているというのに、僕に何を望んでいるのか。
聞きたくないとまで思ってしまい、耳を塞いだ。
それでも、声は響いた。戻ってきて、と。
『彼女』をこのまま放っておきたくなくて。
けれども、戻ってきてという願いの声に、ひどく急かされて。
僕はどちらも選べないまま、ここから動き出すことを拒み続けていた。
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